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Web日記サービスに書いていた頃の過去データが何処かへいってしまいました。データはCD-ROMに焼いたと思うけど、そのCD-ROMはどれ?状態です。(^^;;一枚一枚チェックする、のは、もういいか…という気になりました。もう過去は振り返らなくていい、ということかもしれません。ダンシャリですね。とは言え、時に、記憶の奥から浮上することがあります。今回は「二重にかかった虹」の話です。-----------------------時は、私が20代前半。姉が運転する車に、姉の子ども二人、私と母親が乗っている。沈黙。私「あっ、虹が二重にかかっている。」母「そんなことあるはずないやろ!」(バカにした感じで。)沈黙。姉「あっホントや。見てみ~。」子どもたち、ワイワイ。母(孫にこびるように)「あ~ほんとやね」-----------------------幼い頃から、私が子どもで未熟で上手く伝えられないから、わかってもらえないのだと考えていました。あがきながらも翻弄されていました。本で知識を得てようやく、心の揺れをおさえて、心理的に母親を観察することができた瞬間でした。母の一言で「ウソツキ」にされる次女という立場を、哀しいながらも確認した瞬間でした。母の言葉にうろたえずに言い返す力があれば、また別の展開になったかもしれません。でもその力は"親への愛情"です。私の親への愛情は、扉はたたけば開くと信じた20年近くの徒労の果てに、枯渇してしまったんですね。まぁ、それは私の中で済んだ話であります。それで今回は何かと言うと、その母親の意識ってどういうのだったのかな?と思ったわけです。「次女の発言は、確認せずに、否定してもよい。」「なぜなら私は親なのだから。」という、無意識の定義を持っていたとする。それで、彼女(母親)が得られるものは何か。「否定する」ということは、そのモノより上の立場であることを確認できる行為、なのかもしれません。「優越感」を感じることができる。「快」を感じることができる。日々の生活の中で、貴重な「快」。周囲の人に対してはそんなことはできない。自分より下のモノ。子どもたち。長子は、最初の子。いざという時頼りする長女。長男は、大事な男の子。次男は、かわいい末っ子。次女は、ちょっとぐらい憂さ晴らししてもよいよね。なにせ、親は大変なんだから。「あんたはまったくもう!」と見下ろしたい。気持がいい。なにせ私は親だから。まあ、あのこは、頑固だし、多少のことじゃへこたれないだろうし。小さいな「快」にふりまわされる彼女(母親)。かわいそうね。小さな次女は、もう私ががっちり守っているから大丈夫!
2013年08月28日
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あな吉さんの手帳術につづき、ゆるりまいさんの「わたしのウチには、 なんにもない」にゆっくりぼちぼち影響を受けています。「わたしのウチには、 なんにもない」の中で印象深かったのは、震災での体験です。家の中が片付いていないと、家にあるモノが凶器になる。家の中が片付いていないと、必要なモノが取り出せない。先月、親の家に行く機会がありました。今までと変わらず、親の家は、モノであふれています。今までと変わらず、老いた父はモノの中で寝ていました。変わったのは「家にあるモノが凶器になる。」という私の視点です。担架も運び込めない、かもしれません。親の家はまさに非常時に凶器になる家だ、と思いました。でも、私は何も言わずに親の家を後にしました。何か言う権利があるのは、親の家の前に住む弟夫婦です。小姑が口をはさむことではない。はさんだとしても、親が家をリフォームするときに(その時同居していたのですが)蚊帳の外だった私の意見など一顧もされないのは火を見るより明らか。きっと、たぶん、最期まで反面教師でいてくれるのでしょう。
2013年08月01日
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