2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全3件 (3件中 1-3件目)
1
殺意が生まれたとして、それを実行しないということ。巷のニュースで、私はそれを実行にうつした人の話を聞く。つねに、いつも、繰り返し。そして、それを実際にすることとしないことの間には、どれだけの距離があるのかと考える。私は幸いにも実行したことがない。実行したことがないから、その間の距離がどのくらいのものなのか、わからないままだ。その間にあるのは、小さなせせらぎのような川の流れだろうか。あるいは到底渡ることができそうもない濁流のようなものだろうか。一方で、それでは実行したからと言って、わかることだろうか。「私」の固有の経験は、普遍化することはきっとできない。喩えはあんまりだけれど、ひとつの失恋が、次の失恋の教訓になるとは限らないのだから。ある人は言う。川を渡って向こう側に行った人に思い入れるのはよしたほうがいい。それは無駄なことだ。それを知ってなんになる? 大切なことは、川の縁に立ち、そこでわなわなと震え、そうして渡ることを思いとどまることだ。当然のことながら、向こう側に行くことをやめ、戻ってきた人のほうが多いのだ。どうして行ってしまったかを考えることより、まがりなりにも自らの力で戻ってきた人を大切に考えなければならない。そうしたひとりひとりの断念を愛おしく思いたい。そうではないか?それはそうかも知れない。私は立ち止まる。それはそうかも知れない。私の思考は停まる。それからあるイメージが浮かぶ。上陸船「ダイハツ」は兵士を満載にして川を渡る。向こう岸からは銃弾が容赦なく降り注ぐ。上陸船はがつんと浅瀬に乗り上げ、兵士は次々にくずれ落ちるようにして浅瀬に足を踏み入れる。そうしている間にも銃弾は容赦なく飛んでくる。それでも残った者たちは、なんとか体勢を整えると、遮二無二突撃を開始する。そこに個人の逡巡も断念も存在するだろうか。存在するとしても塵のように霧散してしまうのだろうか。生きているのにすでにどこかで自分を殺してしまっているのだろうか。やがて上陸船はもどってくる。そこには激しく疲労し、傷ついた数人の兵士しか乗ってはいない。幸運な兵士の幾人かはこうして帰還する。戦争が終わり、帰還した兵士は、やがて「平和」な町に戻ってくる。そこで気に入った娘をみつけ、運が良ければ結婚することになる。そうして何年か後には子どもを抱き上げるのだ。その手は昔、川の向こうで血まみれの赤子を投げ捨てた手かもしれない。しかしともかくも、誇らしく愛おしく、わが子を高く高く抱き上げる。私は覚えている。そのようにして抱き上げられた子どもが私なのだ。私の思考はそこでもう一度停まる。
2006.08.31
コメント(0)
という言葉が降りてきて、タイトルにしようと思った。けれど続かない。美しい暮らしがしたいものである。例えばイラクで、あるいはレバノンで、あるいは世界のどこかで、虫けらみたいに人々がなぎ倒されているとしても。朝は庭の草をむしる。心地よい汗をかいたならシャワーを浴びよう。それから子どもたちにあいさつをし、軽い朝食をとり、仕事に出かける。電車は少し混むけれど、そのくらいはがまんしよう。会社に入れば、同僚の女性にさわやかに声をかけよう。どうにも気にくわない上司にだって、挨拶くらいはしておこう。仕事は楽しい。いや、楽しいことばかりではないけれど、はじまったものはたいていの場合、それなりに手を尽くせばやがて動き出す。そうして終わっていくものだと信じよう。例えば世界は争いにみち、環境破壊は人々の良心をあざ笑うようにして取り返しがつかなくなっていたとしても、あるいは人間の何ともしれない未来はどのように考えても希望がもてないとしても、あるいは友人が病に倒れようとも。美しい暮らしがしたいものである。残業などはさっさと拒否し、帰りの電車に乗り込めば、西に太陽が沈んでいくのを眺めることができる。駅前商店街は、なぜだか昔みたいに人々が忙しそうに行き来している。こどもの手を引いて銭湯へと向かう家族連れの姿だってある。立ち並ぶ商店の店の奥は、道路からも簡単に見渡すことができる。お店は開けているけれど、それぞれの家族は夕餉のときだ。居間には必ずテレビがついていて、きっと巨人戦を見ているのだ。私たちは美しい暮らしをしてきたのだろうか。もちろんそんなものは、どの時代のどこを探したってない。私たちの多くは善良で、そうして無関心なのだ。無関心はやがて暴力装置の一部となって、私たちはその代償を支払うことになる。無辜なる民などどこにも存在せず、存在するとすれば、それはどこまでも相対的なものにすぎない(つまりそれは存在しないということだ)。美しい暮らしなどいらない。それは一瞬の間につかみとることができるかもしれない。だがまた一瞬の間に腐敗するものである。美しさは、傲慢で、いかがわしいものでもあるからだ。そんなことはみんなわかっている。いまさらだよね。私は駅のホームで佇む私を見ている。その見ている私を私は見ている。その見ている私を私は見ていて…
2006.08.28
コメント(4)
4日目にして復活、のはずが体が重い。えーっ、こんなことあったっけ、というくらいどんどんどんっと気持ちが沈んで体を持ち上げることができない。そのうち気がつくとまたウトウトとしてしまう。あと一日でもこんな調子だと、自分を憐れんで愛してしまいそうでこわくなる。きのうになって、久しぶりにフルタイムで働いてみる。自分を褒めてあげたい。いいこいいこ。これはいいぞと復活の手応えを感じていたら、肩が痛い。翼が思うように広げられない。そのうちあっという間に翼をまっすぐに伸ばすことさえできなくなった。ひゃあ、なんだか満身創痍じゃん、かっこいい。中坊のかなみちゃんがこちらをのぞき込んで冷やかす。かなみちゃんは最近めっきり女らしくなったので、おじさんは落ち着かない。かなみちゃんは顔を傾けるとおじさんの瞳をじっとのぞき込む。そんなことをされると絶対にこちらから目をそらしてしまう。するとかなみちゃんは勝ち誇ったように、にやりと笑うのだ。おじさん、ほほがこけて不精ひげがセクシー。前よりかっこよくなった。抱かれてもいいよ。かなみちゃんは認めたくないが美人である。なにが美人かわからないけれど、まあ10羽のカラスがいたとしたら、9羽がかなみちゃんを美人だと言うだろう。まず顔が小さい。足首がきゅっと締まっている。顔から下と足首から上はどのようになっているか残念ながらよくわからないけれど、羽根に覆われた体をひねったりすると、ときどき胸の筋肉がすっと盛り上がるのがわかる。鍛えられている。どきっとする。かなみちゃんはそういう自分の魅力をちゃんと知っているからやりにくい。け、小便臭いガキがなに言ってやがる、とでも言い返したいところだが、こちらはそういうキャラじゃない。信じられない俊敏さでかなみちゃんのお尻をすっと撫でていく強者もいるけれど、そういうのでも、もちろんない。そう思うとなんだか悲しくて、ただただ足踏みするしかない。なんてたって、空を飛ぶことだっていまはできないのだから。もともとはかなみちゃんのオヤジさんが友だちだった。だからかなみちゃんのことは、まだ羽根が生えそろわない頃から知っている。かなみちゃんのオヤジさんが到底信じられないような痛ましい事故で死んでからは、面倒だってみてきたのだ。そんなおじさんも昔だったらとうに寿命がきてるくらいに年老いた。いまは栄養状態がいいから生きてはいるけれど、先行きはそんなには長くないだろう。実際のところ、もうかなみちゃんにしてあげられることなんて、なにもないのだ。かなみちゃんがこちらを見ている。おじさんはますます落ち着かない。だからなんなんだ、かなみちゃん、いまはおじさんをひとりにしておいてくれ。あのね、おじさん。かなみ、おじさんと結婚してもいいよ、ううん、そうしたいと思っている。(つづく)
2006.08.05
コメント(4)
全3件 (3件中 1-3件目)
1