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くるくるらせんかんかんひでりまわるまわるおちていくそうして●思わぬ休暇。発熱三日目。案外と長引く。日曜日にはたくさんの知人と電話で話をして少し疲れる。それでも心強い。みな「彼」のことを思っている。共振。これってやはりすごい。そのうちのひとり、九州の女友達は、今朝になって、電話してくる。あのさ、すぐにも行こうと思ったんだけれど、それだと1日くらいしかいられないしね、それで8月20日から9月3日まであけたから、東京行くわ。寝泊まりは○○さんのアパートでいいしね。役に立たないかもしれないけれど、少しは何かできるでしょう。ま、役に立たなくてもとにかく行くからさ、そう伝えておいてくれる?笑うところではないのだけれど、なんだか少し笑ってしまう。恐るべき行動力。酔うと説教癖のあるやつだったが、いつだって言うだけのことはするやつだった。変わらないね。頼もしい。なんだかしあわせだ。まずは自分、はやく熱を下げよう。
2006.07.31
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土曜日、午前中に腰がとても重くなる。まるで鎧を身につけているようで(身につけたことなんてないけれど)、下半身ごと脱ぎ捨てたくなる。それでも約束なのでこどもたちをスイミングのスクールに連れて行く。プールをガラス越しに見下ろすようにして、保護者が待機するスペースがある。そこのベンチに座っているのがつらくなり、車に戻る。友人から携帯に電話がはいる。それは共通の友人の病気についてであり、昨夜、当の友人からきたメールのことを説明する。ここのところ、懐かしい友人たちと話す機会が多くなっている。話題は当然、入院している「彼」についてだ。話すことがなくなると、私たちはおたがいの近況について話したりする。仕事はどうなの? まあ、なんとかね。こどもは幾つになった? とか。車を離れて、プールのある施設にもどる。そのころには気温も上がっていて、炎天下、駐車場を歩いているとなんだかめまいがする。この腰の痛みと、ふわふわした感じは、まるで熱があがっているときみたいだと思う。でも風邪の自覚症状はない。スクールを終えた子どもたちを車に乗せて帰宅する。それから耐えきれなくなって横になる。検温する。38.0℃という表示が出る。そっか、だから腰が痛いんだ。なんだか納得して、こんこんと眠る。しばらくして電話がなる。入院している彼の友人だという女性から電話がはいる。話には聞いているけれど私たちは会ったことがない。彼の再検査のときに彼女は車で病院まで送っていて、そのときの様子を話してくれる。電波のためか、聞き取りにくい声を一心に聞く。こんどは缶ビールをもっていって有明の海岸でちょっとのんびりしましょう、なんてメールをくれるんですよ。そう言って彼女は笑う。それは私のよく知っている「彼」なので、私もつられて笑ってしまう。横になって、窓の外の電線にとまるツバメを見ている。1、2、…8羽。じっとしていたり、羽づくろいをしていたり。どのツバメも同じ方向に(つまりこちら向きに)とまるのは何故だろう。数羽が飛び立ち、また別のツバメがやってくる。まあ、月並みだけれど、生き死にということを考える。ツバメは生きてするべきことをして、死んでいく。もちろん軒先で死んでいた雛のように、成鳥となることのないツバメも多いだろう。そうしたことを折り込み済みでツバメは複数の卵を産み育てる。毎年、毎年。そうして夏の終わりになれば気の遠くなるような距離を飛んで東南アジアまで行き、冬を過ごす。そうして春になれば、こちらにまた帰ってくる。その繰り返し。私たちはどうだろう。個ではなく種として考えれば、私たちひとりひとりが死んだところでどうということもないだろう。私たちは生命の繰り返しのなかで生き、死んでいくだけだ、本来は。それなのにこの寂寥はどうしたことだ。身体から震えるように湧いてくるものはなんだろう。悪寒が走る。発汗する。(それは熱が出ているからね)
2006.07.29
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ケイはその日、午後4時を過ぎ、車に乗り込む。エンジンをかけると、そのまま国道×号を南へと向かう。途中、国道×××号との交差点を通過すると100メートルほどで架空線に行き当たる。道路脇には「架空線注意」の立て看板が置かれている。無事、架空線を越えることができれば、そこからは架空の世界だ。ようこそ、架空の世界へ。けれど注意が必要なのは本当はここからなのだ。ケイの友人のカオルは、この線を越えて以来、もどってきていない。携帯もつながらない。最近はカオルについての記憶が途切れがちになっている。誰もカオルが消えてしまったことを不思議に思わない。でも、カオルは確かにいたのだ。なんたって携帯に受信記録だってあるのだから。じゃーねー これから行ってきますーヽ(^0^)ノケイの運転するRVは、国道×号を南下している。道路沿いにはホンダクリオだってあるし、宇佐見のGSだってある。表示されているガソリンのリッター価格も上がっていないし、ふだんと変わっていることなんて何もない。ケイはなんだかがっかりする。がっかりする? 気配がしてケイはゆっくりと助手席のほうに顔を向けてみる。声にならない声が出る。シーザーが助手席でまるくなっている。もうずいぶん前にお別れをした愛犬だ。シーザーはいつもみたいに口を半開きにして舌を出し、はあはあと息をしている。そういうこと? ケイは前方に視線を戻す。それから決心して恐る恐る助手席に片手を伸ばす。シーザーの毛並みの感触を確かめる。シーザー、それはあの頃のまんまだ。まだやせ細っていなくて、大食漢だった頃。あたたかく、なめらかなシーザー。そういうこと? それからシーザーのしっぽがゆっくりと左右に揺れるのが視界の片隅に入ってくる。ケイは自分が泣いていることに気づく。車をそのまま走らせる。ていうか他に私に何ができるというのだろう。もうすぐ橋を渡る。その橋が見えてきて、道路はゆっくりと上り坂になっていく。停まることなんてもうできない。このまま進むしかないのだ。そうして私はこれから誰に会うことになるのだろう。シーザーだってもう手放したくない。ケイは両手でハンドルを握りしめる。そしてゆっくりとアクセルを踏み込んでいく。
2006.07.28
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いろいろなことがあった。それはそうだね●相模原、座間あたりを案内されて歩いた。米軍基地やら飛行場を外側から眺めながら、そこからでしか気がつかないことがあった。あったように思う。かの国のミサイル発射のことも考えた。引き比べて、どちらが深刻な事態なのか、ということも。いったい誰が何を守っているのか、ということも。●それから海にも出かけた。まだ7月なのに、私と子どものふたりはクラゲに刺された。水族館ではそのクラゲもみた。これほど完成度の高いフォルムはないのじゃないか、とにかくひたすら美しく静謐としている。私たちよりもはるかに高度に進化した生物のようだ。転じてイルカも見事である。しかし囲い込まれての宙返りは美しくも哀しい。それからプールの向こう側から見た世界はどうだろうとも考えた。様々な衣装にくるまれて、家族連れやらカップルやら、そんな私たちを、イルカはどのように見ているだろう。●友人は再検査に臨むことになった。たぶん身近な人間に諭されたのだろう。今度は私のところにもメールが来た。それから共通の友人から電話が入った。中間報告の結果は安心できないものだった。いずれ友人たちは集まることになるだろう。もちろん徹底して無力ということだけれど。●4つのツバメの卵は4羽の雛になり、順調に育っているようにみえた。羽根も生えそろい、ようやく親鳥に近い姿になった頃、気づくと3羽になり、間もなく2羽になった。いなくなった2羽はどうしたのか。3羽から2羽となった翌日、巣からさほど遠くない場所に雛の死骸を見つけた。なにがあったのかわからない。今日になって残りの2羽が飛び立った。●荻窪で飲み会に誘われる。日本のドキュメンタリーの製作者として多くの現場にいたF氏、このインターネットの時代にかたくなにミニコミ誌を出し続け、50号で休止宣言をしたH氏、山形ドキュメンタリー映画祭で重要な役割を担い続けてきたFA氏。みな気持ちのよい人たちだ。これまでのこと、これからのことのいくつか。「それでカエルさんはどうするの?」。ほんと、どうするんだろう。なんとかしなくちゃね。9月より「山形in東京2006」開催。●憲法学者の話をうかがう機会あり。日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるところの天皇、そんなところから。話をうかがいながら、思考は今日も流れていく。そもそも国民統合の象徴というものが必要なのだろうか。天皇に対する考え方はともかくとして、統合の象徴なんていらない、と私は思う。機能としての国家。物語もいらない。本来なくてもいいのだが、必要だからしかたなくそこにある。愛するものでもなく憎悪するものでもない、ただの機能。そんなことを夢想する。●e-Mac緊急入院。5年保障になっていたので、車に乗せ秋葉原に持って行く。現役のうちの1台だったので、かわりに1台を必ず調達しなければならない。というわけでいろいろ物色したのだが、当然ながら売り場はほとんどIntel搭載機ばかり。結局、中古でiBook G4を買ってくる。とりあえずのつなぎだけれど、案外使い勝手がよさそう。そしてちょっとかわいい。●いまごろだけれどトールキンが気になっている。「指輪物語」をぽつぽつと読み始める。DVDで映画を見たのだけれど、原作の持っているだろう世界観のようなものが気になった。トールキンはふたつの大戦を経験した。そのことを考えた。それからサリンジャーのことを考えたりした。「指輪物語」を理解するには、古英語の世界とか、キリスト教的世界観とか、キリスト教以前の神話とか、そんなことに造詣があればいいのだろうが、当然ながら、ない。気にしてもしかたがない。同時代小説として読み、ただ感じることを記憶にとどめたいと思う。●「空高く」を書いたチャンネ・リーという人の前作「最後の場所で」を読む。自分には重要な作品だと思う。これまたぽつぽつと読み返したりしている。●町内の祭りが近い。御輿の御仮屋を毎年組み立てている。今年もこれに参加して、久々にひらかれた懇親会で、昼間からしこたま飲まされる。この日は暑さが戻り、信じられないことにメンバー中、ほとんど最年少の自分は、氷を買ってくることを理由に炎天下、宴会を逃れて自転車をこぐ。ひたすらこぐ。さらに酔いがまわっていくのがわかる。気持ち悪い、快い。白昼夢みたいにふらふらと、この時間、病院にいる友人を思う。
2006.07.27
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小説の中には、これは圧倒的に力があると確信するものがある。打ちのめされて、そのことでかえって自分の中にゆっくりと力が漲ってくる、あるいは笑うしかない、そんなふうに感じられる作品だ。そうではなくて、これはどのように評価されるのかわからない。またそれが、どのよう評価であったとしてもあまり関心がない(まったく関心がない、というと嘘になるのでこのように書きつけておく)。しかし自分にとってははっきりと重要だと信じられる作品。それは公にするのは少しはばかられて、まあ中年男が言うのもなんだけれど、そっと密かに抱きしめたくなるような作品だ。それはどうしてか。その作品には、少なくとも自分が個人的に抱えてきてしまったテーマのようなものに触れるものがあるからだ。あるいはそれを思いもよらないやり方で、ぐっと手づかみされたような衝撃を受けるからだ。そしてそれらは大抵、人にはうまく伝えることができない。いや、できるだけ客観的に、その作品を相対化する作業をしてさりげなく差し出せばいいことなのだけれど、個人的な事情が絡んでくるので案外とそれも難しい。まあ、いいや。そんなことはどうでもいいことなのだった。とにかくちょっとびっくりした(ほんとはかなり驚いている)。そういう小説を読んだということなのだった。だからなに? というようなメモ(それだけかよ)。
2006.07.23
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低体温でいこう。どーせユーモアのセンスはないし。残念だ。仕方がない。「残念だ、仕方がない」。うむ(うむかよ 野沢菜々子さん風)、人生にはこのフレーズがよく似合う。でも考え方次第だろうか。考え方で人生が変わるなら、相田みつをかもしれない。だけどさ、考え方で病気がなおるかよ。まてよ、例えば「ラッキー!」これだって人生によく似合う。要するにそのときの気分だな、そんなことをしみじみと意味もなく、深まることもなく、ただただ転がしてみる今日この頃である。(「今日この頃である」これもなあ、高校時代、大嫌いだった国語教師が「今日この頃である」なんて使ってくる作文は、もうその時点でアウトだって言ってたっけ。悔しかったけれど、それは正しい)閑話休題。20代のたくさんの時間をともに過ごした友人が入院した。いや、正確にはともに過ごしたとも言えない。ただただ具体的に一緒にいたというだけだ。そして一緒にいたほとんどの時間、たぶんまったく別のことを考えていた。ほとんど議論なし、会話もなし。ただそこにいるのである。たいていの時間、彼は庄野潤三を読んでいるかスポーツ新聞を熟読している。それか卵料理をつくっている。ビールをちびりちびりと飲んでいる。まあ、そんなことを降りしきる雨の中、JR中野駅北口を出て、本当に久しぶりにバスに乗って思い出していた。バスの窓ガラスにはたくさんの水滴がついている。水滴はゆがんでいたり、のびきっていて、それらはひとつひとつがレンズのようにして風景を捉えている。そういうわけで全体の風景は不安なような、それでいて懐かしいような、ここではないどこかのようなものなのである。こんなふうに新井薬師やら哲学堂やら、江古田へ向けて走っていたことがあったっけ。昔つきあっていた人がこのあたりに住んでいた。いやいやそんなことは関係ない。今、考えたいのは友人のことだ。考えたところでしかたがないにしてもだ。でもあいつは江古田の彼女のことも知っていた。あいつはちょっと小金が手にはいると、だれかれとなく、よくおごってくれたっけ。そしておいしい店をよく知っていた。それで彼女もよく食べるやつだから、それを本当に喜んでいた。彼女がものを食べる表情は絶品だった。いや、性的な意味でなく(それでもいいのだけれど)、彼女の場合、ほんとうにひたすら嬉しそうに食べるのだ。ほら、ちょうど『のだめカンタービレ』ののだめみたいに。思考はずれる。バスは江古田に向かっている。俺は結局、あいつのなんだったんだろう。ふいに思って、心の中で赤面する。なんだよ、この自問。そんなこと自問するなよって話だ。問題は俺にとってのあいつだろう。トモダチ? ていうか、その自問もなんだか情けないにつきる。せこいなあ、せこすぎる。そんなこと、どうだっていいだろう。動揺している。俺はあいつをただ見よう。ただ感じよう。歩き回ろう。それが「みまい」というものだ。そうだ、俺は見舞いに行く途中なのだ。停車ボタンに手を伸ばす。誰かが先にボタンを押す。ブザーがなる。バスはゆっくりと停車する。
2006.07.19
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夢をみて、目が覚めた。昨夜は仕事場で泊まり込みになり、午前をまわって仮眠をとった。窓のブラインドは巻き上げたままなので、午前4時くらいには、室内はもううすぼんやりと明るい。目が覚めると体はこわばっていて、頭のなかは何かが詰め込まれたみたいに重く痺れている。どうしてこんな夢をみなければいけないのか、「私」はたぶんその理由を知っている。夢の中の子どもたちは、「私」や自分たちの荷物を積み上げて、ベンチに座っている。そうして「私」が戻ってくるのを待っている。どこかの大きなホールのロビーような場所だ。はやく子どもたちのところへ戻らなければならない。「私」は知っている人を見つけた。その人もこちらの存在に気づいていた。夢の中でその人はあきらかに傷ついている。その人は「私」が「しなかったこと」を知っている。そして「なさなかったこと」をもって、怒り哀しんでいる。「私」はそのことに気づいている。というかわざと「見て見ぬふり」をしたのだ。その人がいたはずの場所に、その人はもういない。会場は次の演目を待つ人々で埋まり始めている。「私」は途方に暮れる。そうしてロビーにもどる。しかしベンチには子どもたちの姿も荷物もない。●昼近く、気温はぐおんと上がった。ここのところ記憶にないような、強い日差しがやってきた。空には積乱雲だ。昼下がり、誰もいない駅で友人を待っている。電車がやってきてやがて去っていく。嘘みたいだけれど、ほどなくして駅の階段を(優雅に)降りてくるのは、彼女一人だ。たったひとり。●第三令(というらしい)の幼虫だったカブトムシ三匹は、数日前ついに、いっせいに成虫となる。夜になるとときおりズザザザザと羽音をたてる。●ここからだ。選択肢は限られている。それでもできることはある。
2006.07.14
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『空高く』(原題はAloft)という翻訳小説を読んだ。作家は韓国系アメリカ人、1965年生まれ、チャンネ・リーという人だ。主人公はイタリア系のアメリカ人で60歳を目前とした男。父の仕事であった造園業の会社経営を息子に譲り、現在は、週何日かの旅行代理店での仕事と、中古で手に入れたセスナ機を自ら操縦するのをささやかな楽しみにしている。彼には死んだ妻があり、先の息子ともうひとり娘がいる。長年付き合い、子育ても手伝ってもらった恋人とは、別れたばかりだ。物語は彼のひとり語りで進行する。彼の現在の人生観は過去のいくつかの事件で形作られ、そうして現在進行するさまざまな出来事によって揺さぶられる。どこかで避けてきたことが、今につながっている。予想もしないことが立て続けに起こり(それが人生だけれど)、彼はその対処に迫られる。だが、そのひとつひとつにどのように参加するかが、その人間に微かな変化をもたらす。そのようにして、彼は生きる。語り口は饒舌だ。語りは過去と物語上の現在を往来する。やがて、彼の性向と彼を取り囲むもののありようが浮かび上がる。彼の俗物性、自己愛、考えることとなす事の矛盾、そして利己的でありながらそれでも不器用に示される愛情の形。読者はこの饒舌な語りに辟易とすることがあるかもしれない。だが、この男が、結局のところできる限りのことをして、今、老年に入ろうとしていることに(たぶん)納得させられる。語りは自分を愛してはいるけれど、そんな自分を突き放して笑うほどには知的である。駄目さ加減もわかっている。彼を取り囲む世界へのどきっとするような批評も紛れ込まして、油断できない。総じてなかなか見事で魅力的である。また、彼の語りの確かさは、家族らの肖像を描き出すことにも発揮される。彼の父親、死んだ妻、元恋人、そして息子とその妻、娘とその恋人。彼らの造形はくっきりと鮮やかで、この小説が同時代アメリカの、ひとつの家族の形を鮮烈に示している、ともとれる。というわけで、オーソドックスと言えばオーソドックスなこの小説を、私は楽しく(ときに切実に)読んだ。ひとつは主人公の年齢である。自分にとって遠い先ではない、その年齢のことを思って読んでいた。今も迷っている。けれども恐らくこの主人公のように、その年齢になっても、自分もまた迷い続けているだろう。歳をとれば選択の幅は狭まる。そのとき起きていることは、過去の無数の選択と深く関連している。だからこそ多くの場合、取り返しがつかない。しかしそれでも、いくらかはできることがある。この主人公のように、そのいくらかでも試みることはできるだろうか。自分の非を認めて素直に他者に向き合うことができるだろうか。ほんの少しの勇気を奮い立たせることはできるだろうか。まあ、そんなことを考える。
2006.07.12
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ラミスさんの話を聞きながら、失望するというのではないのだが、しだいに声が遠のいていくような感覚を持った。軍備増強は果たして現実主義的な解決だろうか。そうではないことは歴史が証明している、とラミスさんはいう。その通りだ。だが戦力放棄が結果的に平和を導いたろうか、それも歴史は証明していない。局地的には証明できることもあるだろう。しかしそれを言えば、同じく局地的には、戦力を投入したことで戦闘が止む事例もこと欠かない。それが最終的な解決ではなかったとしても。最終的な解決ではなかったとしても。そうだ、しかしまず今、目の前で戦闘が繰り広げられていたら、あるいは包囲されていたら、どのような理想よりも、最終的な解決が遠のこうが、その戦闘をどのような手段をもってしても終わらせる手だてをとるだろうし、願うだろう。それだって切実な現実だ。理想は高く掲げなければならない(と思う)。それを表明するべきかどうかは別にして。しかし現実には、増強と縮小の合間を縫うようにして進むことしかできないのだ。もっとも「現実」もくせ者だ。それはどのようにも捉えることが可能なのだから。
2006.07.10
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再び座骨神経痛がやってきて、ぼんやりとした休日である。鈴木治療院でマッサージを受ける。診療を待つのは70代から80代のじいさんばあさんたちだ。老人たちは最近起きた近所の火事のうわさ話をしている。その街の、今ではすっかりさびれてしまった目抜き通りにある洋品店は、60代の姉妹が二人で店を切り盛りしていた。客は少ない。それはこの店に限ったことではないのだけれど。その日、深夜、近所の人は大きな声で目を覚ました。声はその洋品店から聞こえてくる。住まいになっている二階から言い争う女性の声が響き、何かが引きずられているような音がする。それからあわてふためいた様子で、その店の姉が駆けだしてくる。店の奥では妹が、「死んでやる」と叫んでいる。間もなく姉は駅前交番に駆け込み、警察官とともに戻ってくる。店からはすでに煙が溢れ出している。誰かが消防署に連絡をとったのだろう、サイレンの音が近づいてくる。突然、窓ガラスが内側から破られ、さらに煙が吹き出す。嘲笑うように、その窓からは火がその舌を出す。妹の声はもう聞こえない。姉は叫ぶようにして妹の名を呼ぶと、警察官の制止を振り切って店の中に走り込んでいく。「そうして二人とも死んじゃったんだからなあ、あっけないね」「金比羅さんも焼けちゃったってね」「全部じゃないけどね、焼けちゃった」ここではゆったりと時間が流れている。どのような個人の不幸も大きな音を立てるわけではない。池に小石が投げ込まれる。波紋が起きる。しかしやがて振動は吸収されて、水面はただ風に吹かれて微かに揺らぐだけだ。●ほんとうに? そう見えるだけかもしれない
2006.07.09
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ヤスクニは椅子に座っていたのだが、腰がどうにも重いのでゆっくりと立ち上がり、それからいつも仕事の途中で横になるスペースに横たわってみた。するとなんだか身体は床に貼りついたようになり、もちろん動けることは動けるのだが、もう少しこのままでいようと決めたのだ。空はしだいに暗くなり、窓から流れてくる風は重く湿っている。もうじきお決まりの夕立がくるだろう。仕事のファックスは送っておいた。他にもやることは山ほどあるけれど、それでもピークは越していて、床に転がっている翻訳小説に手をのばした。心配事だってちゃんとある。出かけに干してきた洗濯物はどうやら夕立に間に合うように取り込むことができそうにない。今日の夕食の献立がフィックスしない。数泊の予定で入院した母親を明日には迎えに行かなくてはならない。なにが苦痛って母親といる数時間が苦痛なのだ、とか。いやはや身辺のことばかりだな、シンペンと言えばシンタイで、ようするに運動不足で、少しの量の食事でもじわりと太っていくような今日この頃なのだ。いいかげん走り始めるか、さほど遠くないトレーニングセンターにせめて見学に行くことにしよう、いっこうに腰がよくならないのだから、と考えてそろそろ一か月になる。シンペンと言えば関係ないけれど、ミサイル発射もあった。ちょうどワールドカップを見ていたときに速報が流れた。あれはイタリア戦、それともフランス戦だったろうか。そんなことももうぼんやりとしている。イタリア戦といえば、本戦に入ってから、なぜか自分はイタリアに肩入れをしてきた。いくらも見ていないのだが、それでもこれまで見てきたチームとひと味違う。攻守のバランスがとてもよくとれていて、見ていて端的に快い。とりわけ守備は見事で、まず穴が空くことはない。動揺して陣形が乱れるということもなくて、それでも相手の攻撃に切り裂かれることはあるわけだが、その際にも最後まであきらめない。「献身的な」と形容してもいいようなタックルを普通のことのようにやっている。守備が美しいなんて、サッカーにさほどくわしくない自分が言ってどうなるものでもないけれど、本当にあるんだとはじめて思った。そういうわけで、ヤスクニは決勝でもイタリアに肩入れして見るつもりになっている。ミサイル発射はそのうちに、どのチャンネルに変えてみても大騒ぎになっている。それはそうだろうと思いながら、どうしていわゆる軍事系評論家とかアナリストというのは、どこか得意げになってしまって人間的な魅力にとぼしいのだろう。それからこれはかの国の独裁者と某国タカ派のおぼっちゃまくんAなんかをかつぐ勢力とが、実はウラでは結託していての謀略なんじゃないかと想像してみる。最近はさすがのA君もシンペンに怪しいことが見えてきて、輝かしい(らしい)将来に翳りがみえてきた。それもこれも今度のことでぶっとぶに違いない。ばかばかしいなあ。でも現実だってばかばかしいのだ。そうこうしているうちにニュースはどこまでも伸びていって、ついには「純情きらり」までとばしてしまった。ヤスクニはここにきて自分への不利益を自覚するのだが、それはあまりに怠惰というものかもしれない。それにしても達彦君は生きて帰ってこられるだろうか。そこで電話が鳴る。こちらからしたのだっけ。空はいよいよ暗くなってくる。「だけども問題は傘がない」だ。なんとも古すぎるけれど、あまりに今の状況にぴったりなので口すさんでみる。
2006.07.06
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君が心配している。心配されているほうは、それどころではないのか、君のことを顧みない。もちろん本当のところはわからない。君のことは気にかけているのだが、自分の状況を考えれば、経過を伝えることができなかった。もう少し落ち着いたところで君に話したかったのかもしれない。それは一種の自己嫌悪かもしれない。もしかして相手が君だからこそ、どうみても成り行きにしかみえない今の状況を話しにくかったのかもしれない。ブブブ…君は君で、友人に心を寄せているのは、それは自分がそうしたいからしているに過ぎない、と思っている。だから「何故知らせてくれなかったの?」と胸ぐらをつかんでこちらを向かせることなんてできない。君はかつてふたりの間にあったものに思いを馳せる。それはどれだけのものだったのだろう。今は否応なく離れてしまった。おたがい大事にしたいものも、抱えているものも違う。逆にそれでも繋がっているものがあるとしたら、それはいったいなんなのだろうと思う。これは感傷なのだろうか。友人は一度、あることで君に助けを求めてきたことがある。それはしかしひどく繊細な問題だった。友人にとっては切実なものだったとも思う。だが君にとっては、そのまま受け取ることができない種類のことだった。なぜなら、いったんその求めに応じれば、ふたりの関係は変質してしまう、そのように確信したからだ。断じて拒否しなければならない。けれど、いま当の本人が求めていることに応えないとしたことは事実だ。それもまたふたりの関係を変えてしまったできごとなのかもしれない。結局自分の身勝手なのか、君は堂々巡りする。君の選択は、そうするしかできないことだった。だがその決断には血も流れている。何故そうした選択をつきつけるようなことをするのか、友人の苦境に思いを寄せながら、怒りもわいてくる。突きつけてきたのは友人だ。どうして私に選択を迫るのか。そのことに恨みがましい思いもわく。ブブブ…私はと言えば、ときどき、そういう君の周りを飛んでいる。私の立場ははっきりしていて、君に心を寄せている。大抵のことを自分に引きつけて受け止めようとして揺らぐ君のことが、気になってならない。だから、君の友人の振る舞いがとても無神経なものに感じている。確実なものはなにもない。さまざまな思いが錯綜し絡み合う。あるいはちりぢりに離れている。一瞬近づいたかと思うと、瞬く間に見えなくなる。それらは微細な電波のように、この空中を飛び交っている。声は大きくなったり小さくなる。途切れる。ノイズがやってくる。聞こえない声を聞こうとする。そしてときには耳を塞ぐ。信号が揺らいで感情が震える。私がたてる羽音は、君にとってそんなノイズと変わらないのかもしれない。私はそうした世界を飛んでいる。微細な電波が飛び交い、ひしめき合う世界。混沌として猥雑な世界。相対化するのであればなんでもできる。無意味と言えばすべてはその通りだ。さあ、気をつけないと私の羽根も絡みとられてしまう。それに寿命もさほど長くない。けれど嘆くことはない。私は飛びたいのだ。自己陶酔でもいい。(それが迷惑にならなければね)。この羽音くらいはゆるしてもらおう。
2006.07.04
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満月の夜、森の奥深く、キツネは夜空を見上げる。満月はうすくもやがかかるようにして、それでも天空にある。こんな夜にはクラバヤシが降りてくる。キツネはとくにすることもない。自分はやっぱりクラバヤシを待っているのだろう。キツネは人間全般がさほど好きではない。それでもクラバヤシが降りてくることは、いつの間にか抵抗がなくなった。クラバヤシは物静かな青年だし、少しのことであわてふためくこともない。なにより自分の話をしない。揺れ動く感情をそのままキツネにぶつけたり、どうでもいいような(最初から答えが出ているような)相談を持ちかけることもない。それはクラバヤシがもう生きているのではないからだろうか。キツネにはよくわからない。キツネは生きていたころのクラバヤシを知らないのだから。その夜もクラバヤシは静かに降りてきて、キツネの身体におさまった。そうしてクラバヤシはおずおずとその感覚をひらく。キツネの身体をとおして、森のにおいを嗅ぎ、森の音に耳を澄ます。そして暗闇に目をならす。そんなときのクラバヤシは、物静かではあっても微かに震えるようになる。それは新しく生まれたものが世界に触れる驚きのようにも感じて、キツネは少しだけ嬉しくなった。やがてキツネは歩き出す。その日は間もなくして、人間に出会うことになる。耳慣れない物音が聞こえ、森のにおいではない、人間の放つにおいが鼻につく。キツネは少しだけ迷って、それでも確かめるようにして、人の気配のするほうへと近づいた。しばらく歩いていくと、キツネは一本のクヌギの老木によじ登るようにしてうごめいている人間を認めた。まだ若い男だ。クヌギは根っこの部分に祠のような空洞をもっていて、その部分の幹が大きく膨らんでいる。青年はそこに足をかけ、手を高く伸ばして枝にロープをかけていた。ロープの先は輪のように丸い形をしていたので、これからなにが始まるのかは、キツネの目にも明らかだった。青年は荒い息をしていて、冷え込む夜でもあったのに、たくさんの汗をかいていた。キツネは不快だった。キツネは人間のにおいのことをある程度知っていたが、それでもこの青年が発しているにおいはこれまで嗅いだこともない種類のものだった。キツネは自分のお気に入りの森が汚されるようにも感じていたが、青年に関わる理由もなかった。そこで引き返そうとしたのだが、そのとき、クラバヤシの声を聞いたように感じた。これは恐怖のにおいなんだ。クラバヤシはそのように言って、キツネの身体ごと、青年のほうを振り返った。その動きで、青年はキツネがすぐ近くにいるのを認めた。青年の動きはとまり、キツネと目を合わせた。キツネは不本意だったが、青年の次の行動を待とうと決めた。それは逃げるように思われるのが嫌だったのかもしれないし、クラバヤシの意志のようなものだったのかもしれない。とにかくキツネはその場を動かなかった。どのくらいの時間が経ったのか、先に動いたのは青年だった。青年は突然奇声を張り上げると、クヌギの幹から飛び降り、近くの落葉や枝切れをキツネに向かって投げつけてきた。それはがむしゃらな行動で、およそ威嚇にもなっていなかった。もとよりキツネには恐れる理由もない。わずかに身構えたのも本能的なもので、ただただその青年の行動が奇異なもののように感じたからだ。キツネは青年からいくぶん距離をとり、それでも青年から目を離さなかった。やがて青年は、地べたに座り込み、しばらくするとすすり泣き始めた。その頃になるとキツネには、少しずつ、いつもの森の音やにおいがもどってくるように感じた。もうこの場を離れようというように、キツネはクラバヤシの気配を感じようとしたが、クラバヤシは動かなかった。最初に青年を見かけたとき、キツネはクラバヤシの感覚がさざ波のように揺れたのを感じた。だが今はそれもない。クラバヤシ、おまえはどうしたいんだ。キツネは問いかけてみた。ふだんはしないことだ。する必要もなかった。これまでキツネもクラバヤシも、たがいに何かを確認しあうことがなかった。そのことにキツネはこのときはじめて気がついた。いまでは青年は、ほとんど泣きやんでいた。クヌギの根元に横たわるようにして、枝枝の間にわずかに見ることのできる月をぼんゆりとながめているようにみえた。キツネはしばらく辛抱強く待った。そうして青年の呼吸が眠りに落ちるようにゆったりとしたのを感じると、突然ひと声吠えた。青年はびくりとして身を起こし、キツネを見つめた。それは信じられないという表情のようであり、先ほどとは別種の恐怖が浮かんでいるようにもみえた。キツネはもうひとつ吠えた。それは威嚇だった。青年は機敏に立ち上がり、それでもキツネから目を離さなかった。わずかな時間、睨み合いが続いた。やがて青年の身体から緊張が去り、ゆっくりと首を左右に振った。それから確かな足取りとは言い難いが、とにかく青年は歩き出した。キツネは青年との距離を詰めず、しばらくその後を追った。青年はしかし道を知らなかった。キツネは、ため息をつき、時折青年の前に出て、振り向いた。当てずっぽうに歩く青年が沢に落ちるのも面倒なことだとキツネは思った。この頃になると、青年はキツネの意図のようなものを感じるようになっていた。それは信じがたいことのように思ったが、青年は深く物事を捉えるには疲れすぎていた。とにかく従うしかない、そのようにして歩き続けた。数時間後、突然、視界がひらけたかと思うと、そこはアスファルトで舗装された道路だった。青年は疲れ果てていて、道路に座り込んだ。アスファルトは昼間の太陽光線からの熱をその内部にため込んでいるようで、青年は手のひらにじんわりとその熱を感じた。数十メートル先には街灯が点っているのが見える。戻ってきたんだ、青年はそんなふうにつぶやいた。それから突然思い出したように、森を眺めやった。目をこらしたが、そこにはもうなんの気配も感じられなかった。キツネは森を歩いていた。そろそろ夜が明ける。クラバヤシは帰って行くだろう。認めたくはないが、キツネも少しばかり疲れていた。体力の消耗というより、慣れないことをしている、という感覚のせいだ。それにこれだけのことに、いったいどれだけの意味があったというのだろう。キツネははじめて自分から、クラバヤシに向けて話しかけてみたいと思った。いや、今夜はもう二度目になるわけだ。クラバヤシ、おまえもあのような青年だったのか。そして…クラバヤシは答えない。身体からはクラバヤシの気配がしだいに遠のいていく。まあいいさ、問いかけたところで、なにがどうなるものでもない。だがそれにしても、人間はなんとやっかいな動物なのだろう。人間は自分で自分の問題をわざわざややこしくしているようにも思える。他者も見えず、無駄にあがいたかと思えば、あるときは成算もなく他者に手をさしのべる。キツネはひとり笑ってみる。それからひと声吠えてみる。声は森の奥に微かに共鳴するように響き、やがて消えていく。そうしてキツネはおもむろに走り出し、しだいにスピードを上げる。
2006.07.02
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まともに見られているのは数試合。しかしそれでも痛切な印象がそれぞれ残っている。ひたむきに攻め守る、切なくなるような時間。時折降りてくる奇跡のような瞬間。そうか、これが本気サッカーの魅力なんだ。それはそれとして。私が子ども時代を過ごした街はサッカーが盛んだった。サッカーをやっていた同級の友人の何人かは、少年団とか、やがては中学、高校で、全国優勝を経験していくメンバーだった。というわけで少年時代、学校の校庭で遊びのサッカーが始まると、いわゆる正選手クラスの友人とともにプレイするわけだ。それがどういうことかというと、とにかくボールに触れない。彼らがボールを支配していたら、それが奪えない。すぐそこにあるボールがするりと消えていく。さらにはようやく自分の前に転がり出たボールを少しも維持することができない。展開しようとすればすぐに奪われる。やってきたボールを必死でけり出すのが精一杯だ。かくしてわれわれその他大勢チームは、休み時間の間、ほとんどただひたすら走り続けるだけなのだった。正選手の顔は、自信に満ちている。いま、自分がこの時間を支配している、そういう確信がある。それは実力が拮抗しているなかで感じる緊張と歓喜とはまったく別物で、ボールと戯れていることがただただ楽しいというような素朴な喜びなのである。日本対ブラジル戦、特に後半に入ってのブラジル選手の表情を追いながら、子ども時代の友人たちの顔、跳躍、それらを鮮明に思い出した。て、そのくらいの実力差だったのか。もちろん、ことはそれほど単純ではない。このくらいのレベルになるとさまざまな要素が絡まって、そこに試合が立ち現れる。実力とは何か、そんなことを寝ぼけ頭で考えながら起き出す。テレビをつける。フランスが勝っている。本当に? 残り時間5分。ブラジルが攻めきれない。キーパーが大きくボールを蹴り出し、そうして試合が終了する。
2006.07.02
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