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昨日、4日ぶりに東京に出る。東京は暖かくて、総武線、秋葉原から飯田橋までの乗車区間、外堀通りぞいの若い桜が、もう花開いているのが車窓から見渡せた。相変わらず、本が読み通せない。新たにつまみ食いしているのが『源氏物語 物語空間を読む』(三田村雅子 ちくま新書、1997)。ここのところ仕事がらみでこの人の文章を読むことがあって、手をのばした。「源氏物語」をさまざまな角度から分析しているのだが、その手際が興味深い。けれども文章はやや読みにくい。難解というのではなくて、同じような語尾が繰り返されるている。癖のようなものだ。もったいない。読み終わったら、なんか書きつけておこう。それにしても、いったいどれだけの長い時間、そしてどれだけの人々が、この物語に魅せられてきたことか。さきの五島美術館の『源氏物語絵巻』の復元絵の企画展も、大盛況だったらしい。自分も今頃になってこの物語が気になり始めている。自分にとっての興味の核心をまだ捉えきれていないのだが。今日は朝から風が吹き荒れる。仕事場の窓から見渡せる光景は砂埃でうす黄色にくすんでいる。電車のダイヤも強風のために大きく乱れている。
2006.03.29
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久しぶりにblogに戻ってみると、トラックバックがにぎやかだ。笑
2006.03.27
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仕事場4階より、北方を見渡すと住宅地の遠く向こうに大きな煙があがっている。灰色がかった黒、相当量の煙だ。西方にも同じようにいくつか煙が上がっているのが見える。今日は野焼きの日。毎年この季節、広大な遊水池に原生する葦の原が焼かれる。そうして焼かれた湿原からは、また新たな芽が吹き出してくる。夏になれば大人の背丈をこえて、うっそうと生い茂る。秋にもなれば夕陽に黄金色に輝いて、まるで海原のように葦はゆったりと揺れる。仕事場にこもって、もう30時間になる。もう少しでここへ出る。約束があって北へ向かう。小さな美術館を訪ねる。昨日は友人から映画に誘われる。東京は今日、1日だけの上映。韓国のドキュメンタリー映画『土方』。韓国語で「ノガダ」というらしい。日本の植民地時代に日本語の「土方」が、そのまま韓国語として残った。残ったのは言葉だけではなく、手配師やら、中間搾取のシステムまで生き残って、韓国の復興と経済成長を末端で支えた。不況ともなれば真っ先に仕事を失う。その構造も変わらない。日雇労働者であった父をもつ女性監督の作品らしい。今日の上映会には監督のトークショーもあるという。今回は行くことができない。映画はこのあと名古屋、大阪へと巡回する。まだはじめたばかりで訪れてくれる人も少ないブログだけれど、ささやかに宣伝しておく。
2006.03.25
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さて、男系の遺伝子が受け継がれていくことに、どれほどの意味があるだろう。人が子孫を残し、人類がそのようにつながって続いていくことも、どれほどの意味があるのかはわからない。でもまあいい。それには意味があるとしよう。だが固有の誰かの遺伝子が受け継がれていくことにさほどの意味はない。ましてや、それが男系であろうがなかろうが、どちらでもいいことだ。さらに「家」の継続に価値を見いだすのも私にはまったくどうでもいいことのように思える。例えば困窮のうちに子どもを生み育てることができなくとも、それはその人の価値を貶めることになるとも思えない。あるいは望んで子をなすことのなかった人がそのことで悲しむことがあったとしても非難されることではない。千年を越えて受け継がれてきたとしたならば、それはある種の「力」があったのだろう。なにがしかの政治的な力だ。けれどもそれは評価されることなのだろうか。それは伝統として尊ぶような「力」だろうか。そのような「力」はなにものかを抑圧しなければ成立してこなかった。そんなものをこの時代、敬ったりあがめたりすることに、私はまったく意味を見いだすことができない。それこそ悪い冗談のような気がしてならない。まことしやかに、額にしわ寄せて議論するようなこととも思えない。哄笑である。さて、3月20日である。もういいか。
2006.03.23
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読みかけの本が散乱している。入澤美時、保坂和志、小熊英二、アントニオ・ネグリ、グレアム・スウィフトとか。どれも一筋縄ではいかないので、そうそう進まない。そのうち気になる本が現れて、また目移りする。こんなときはどれか、とにかく一冊読み込む。それができたなら、リズムが生まれる。リズムが生まれて、まあ、1995年3月20日、まだ報道は混乱し、被害の全体像を捉えきれなかった頃、先の印刷所の人は、いちはやくオウムの犯罪だと断言した。後になって、いやぁ、ひまなときに週刊誌をめくっていただけだよ、と言った。この人は98年頃だったか、突然、仕事をたたむことになる。いや、突然と感じたのはこちら側のことで、彼には予定の行動だったのだろう。山陰地方に住む老母がいよいよ一人暮らしも覚束なくなったので、郷里に戻ろうと思うんだ。東京の土地は借りたいと言ってくれる人がいるので、残していく。だからまたこちらにくる機会もあるだろう。彼だってそのときすでに60を越えていた。いったい製造年はいつだったのか、黒光りするハイデルベルクのオフセット単色機はいつも丁寧に磨き上げられていた。2006年3月20日。校正室を後にして、地下鉄の駅まで歩く。ヤドランカのライブを見に行くために。山陰地方に戻っていった印刷所の親爺さんの会社はそこからすぐ近く。今では、凸版印刷の巨大な高層ビルがそびえる、そのすぐ際の路地をいっぽん入ったところ。でも、その路地に入ることはない。けっして忘れることはないのだが、不在を確認したところでそれがなんになるだろう。2006年3月20日。高速道路高架下の神田川。巨大な鯉がぬめりと水面近くにあらわれる。
2006.03.22
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3月20日はイラク戦争の開戦から3年、ということだった。けれども「イラク戦争」という呼称もなんだかひっかかる。あまりに一方的に攻め込んで、これは戦争なのだろうか、「侵略」ではなかったか。3年前、自分は印刷所さんに詰めていた。そこでこの報を聞き、友人に携帯からメールを送ったのだった。印刷所の近所の飯屋で定食をとり、その店の壁に取り付けられていたテレビで、夜の空爆の映像を見た。神田川沿いの小さな定食屋で、昼時、近くのサラリーマンなどで満席になっていた。その店の孫なのか、ただいまあ、と言って幼稚園児なのだろう、水色の制服を着た子どもが店に入ってきたりした。感傷的になることでもない。けれどこの日、なんともやりきれない、落ち着かない気分だった。それを覚えておこうと思った。でも、本当のところ、おおかたは忘れてしまったのだ。というようなことを2006年のこの日、自分はやはり3年前と同じ印刷所の校正室にいて思っている。3月20日のことは後でもう少し書いておこう。●1995年の3月20日。私はその時間、JRローカル線で東京方面に向かっていた。会社に入ったのはたぶん午前9時30分頃、それから15分後には、その当時、同じ部署に入社したばかりの後輩を車に乗せて、会社を出た。車はすぐに昭和通りを出る。ところがそこかしこに、消防車、そしてパトカーの姿をみかけることになる。だが不思議と渋滞していた記憶がない。なにか大きな事故が起きたに違いない。そうして車のラジオをつける。報道もまだこの時間、混乱している。いったいいつどこで何が起きたのか、これではまるでわからない。いくつかの地下鉄でほとんど同時に事故が起きている。有毒ガスが発生した? 誰がなんのために? 車は昭和通りを離れ、私たちはこの日、やはり印刷所を訪ねたのだ。前述の印刷所のすぐ近く、たったひとりで印刷機を回す、たったひとりの株式会社。私たちが引き戸をあけると開口一番、この人は言う。「○○さん、これはオウムの仕業だよ」2006年の3月20日。私が印刷所の校正室からメールを送った友人は、夜になって、南青山曼荼羅の入り口でチケットを売っている。この日はやはり3年ぶりになる、ヤドランカと鬼怒無月のライブがある。ヤドランカはとある契約のために、しばらくライブハウスでの活動をしていなかった。その契約が切れた。会場は熱気にあふれている。やがてヤドランカ独特の旋律が流れてくる。友人が売ろうとしているのは、この4月16日のライブのチケットだ。海ノ向コウデ戦争ガ始マッタネ私はそんなふうにメールを打つ。そんなことは言ってもしかたがないことだ。声は虚空に吸い込まれて消えていく。どこまでも意味がない。しかしどこまでも意味のない電波は発信され、やがて友人の携帯はこれを受信することになる。友人からの返信はどんな内容だったか。思い出すことができない。●
2006.03.21
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陸が太陽によって暖められる。地面に近い暖められた空気は上昇する。かわりにそこに入り込むようにして、風は吹き下ろしてくる。よく晴れた日に強風が吹きやすいのはそういうわけなのだろうか。太陽が沈むと大気の温度はしだいに冷えていく。吹き下ろすように地面をたたいていた風は、そのため高空を過ぎていく。昼間の強風が嘘のように、夜になるとしんとした静けさがやってくることがある。そんなときも風は、上空高く吹き抜けているのだろうか。そのことをイメージすることがある。なんの音もしないような、すべてが眠っているような夜も、上空では風が吹き荒れている。この沈黙の夜も、自分は今体験することがない、想像するほかない高空の夜の嵐も、同じように世界の一部なのだ、というように。昨日から今日にかけては、夜になっても風が吹き付けてくる。朝方、子どもたちは不安がり、何度も目を覚ます。仕事部屋のここは建物が堅牢で、密閉性が高いのか、めったに風を意識することはない。時折微かに車が通りすぎていく音が聞こえるだけだ。午前中に5キロメートルを走った。走り込んでいない体は、限りなく重い。体はぎくしゃくとしていて、下半身が上半身という荷物を、しかたなく運んでいるような感覚だ。この日はこの時間、まだ風はさほどでもなかった。体は重いはずなのに、わずかの風で体が左右にぶれてしまう。走り込んでいた時期の感覚がこんなとき、いつもやってくる。そしていまここにある自分とのギャップに、人ごとのように驚いてしまうのだ。
2006.03.20
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たくさんのブログでこのことは取り上げられているのだと思うけれど、「文藝春秋」06年4月号の、村上春樹の文章を読んだ。タイトルは「ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」とある。この日記に記録しておこうと思い、あらためて読み直してみようと考えたのだが、なんだか元気がでない。安原顯が亡くなって、村上春樹は安原顯のことについて、なにかしらまとめて書いておきたいと考えていたのだが、結局そのことをしなかった。だが「あること」が起きて、村上春樹は安原顯との出会いからこれまでのことを書き起こすことにした。「あること」とは、村上春樹の生原稿が流出し、それが売買されていることがわかったからだ。その出所は安原顯であることも明らかになった。さて、そこで村上春樹は「あること」は最後に語ることにして、安原顯について書く。村上春樹が作家となる前に出会っていたこと、編集者としての安原顯のこと、そして村上春樹は彼を数少ない「友人」と考えていたが、あるときを境として、村上春樹にとっては不可解としか言いようがない、安原顯からの一方的な攻撃にさらされること。村上春樹は編集者としての安原顯について書く。そしてあわせて、安原顯の屈折についても言及する。雑ぱくにまとめると、村上の分析として「作家になりたかった編集者」としての安原顯について語る。本人の承諾を得ていない生原稿の流出について、村上春樹は強く抗議する。これは反論の余地がないことだと思う。だが、この文章全体の前半部、そしてほとんどそのことが分量としても多くを占めるのだが、安原顯とその関係についての記述が、私にはある種の後味の悪さとして残る。村上春樹は、フェアであろうとしている。だが前述「作家になりたかった編集者」としての安原顯についての記述は、どう考えても「書きすぎ」のように感じた。生原稿の流出と、安原顯の屈折は、どのようにつながってあるのだろうか。ここには何か特権的なものがある。そして全体を通して驚くほどの凡庸さを感じるのだ。
2006.03.18
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