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『戦争が遺したもの』は3日間に及ぶ鼎談の記録となっている。対談集は、その日ごとに章立てがなされていて、章末にはそれぞれ、「雑談」として、番外編のような会話がおかれている。鼎談会場を離れ、食事している間の雑談をおさめたもの、といった様子である。そのなかでの小さな話。1922年生まれの鶴見俊輔は、15歳で渡米、それまで、満足に学校に行っていなかった。その後、紆余曲折を経て、ハーヴァード大学に入学。一転して猛勉強をする時期を持つ。ある一定の成績を収めた学生に与えられる優等賞もとっている。専門はプラグマティズム。留置場で書いた論文で卒業を認められ、41年の日米交換船で帰国する。鶴見はしかし、日本語で書くことにひどく苦労したという。49年に桑原武夫から京都大学の助教授に迎えられるが、日本語とは苦闘を続けていた。見かねた桑原は志賀直哉に相談した。すると志賀は「その人は日本語の名文を手本にしてはいけない」と言った。名文と言えば志賀直哉、ともいわれていた頃のことである。志賀は続けた。「その人は、英語と日本語の間の溝に落ちて、もがくべきだ。もがきつづけることによって、自分の文体ができる」桑原はそのことばを鶴見に伝えた。それは鶴見にとってひとつの目標になった。という話。ちょうどアゴタ・クリストフのことを考えていた。母語ではなく、亡命先のスイスにおいて、外国語であったフランス語を学び、そのことばで小説を書くと言うこと。
2006.04.30
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ツバメの卵。3個のときにはじめて観察。その日より毎日1個ずつ。今日は6個になっていた。親ツバメの巣在宅時間も増えている様子。
2006.04.29
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『僕はマゼランと旅した』をぽつぽつと読んでいる。翻訳で言えば前作の『シカゴ育ち』よりも散漫な印象を受けている。しかし散漫な印象を与えながら、つまり様々なイメージを喚起させつつ、不協和音を響かせつつそれは物語として秩序立っている。作者の介入の跡を感じさせずに物語が自立していたとしたら(そんなことはありえないけれど、そのようにあるとしたら)、それはすごいことだ。『シカゴ育ち』への信頼が自分にはあるので、そんなふうに感じ始めている。そんなことを考えながら駅までたどり着くと、本を忘れてきたことに気がついた。『日米交換船』からの流れで、やはり対談集である『戦争が遺したもの』を読んでいた。小熊英二の企画で、鶴見俊輔に、上野千鶴子と小熊英二が聞き手となって鶴見の経験と思考の足跡を問う、という内容だ。これも面白い。なかには自分にとって切実な問いがあって、身につまされる。再読になる。上野千鶴子の書いたものには、どこまで理解できているかは心許ないけれど励まされた経験がある。正直に言って、論文には途中で投げ出してしまっているものもある。けれども折々のこの人の発言には一貫性があるように思えて注目している。ぶれない芯のようなものがある。しかし一方でしなやかさも持っていて、それは自らの誤りはそれを認めて謝罪もし、説明もするところだ。当たり前のことかもしれないけれど、それができる人はさほど多くないと思う。もうひとつある。それは理論と現実の狭間で苦闘する人に対してのまなざしが驚くほどやわらかいということだ。学者がなんぼのもんだとも思っている、そんなふうに感じられることもあった。なにを書いているのか。そうだ、本を忘れてきたことに気がついた。そこで駅前の書店に駆け込んだのだった。時間がない。それで岩波新書の『日本宗教史』を購入することになる。どこでそういう選択になるのか自分でもよくわからない。冒頭、丸山真男の「古層論」に触れている。それは近代主義者である丸山が批判的に日本の歴史にアプローチしながら、伝統的な思考の根強さにお手上げになった(と思われる)ことが紹介されている。だが、と著者の末木文美士(すえきふみひこ)はいう。「古層」は超歴史的だったり不変的なものではない。そうではなくて「古層」は歴史的につくられてきたのだ、という。そしてそれがどのように形成されてきたかを検証することができれば、私たちが「古層」のなにを継承し、改めることができるのか、見通すことができるのではないか。恐らくそれが「古層」と格闘した丸山の問題提起を、私たちが継承することのできる可能性ではないか、と続けている。恐らくそこに共感している。そんなことをぼんやり考えた。
2006.04.28
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今朝のツバメの巣。親のいない隙にちょっと失礼してキティちゃんの手鏡使用で、撮影。4つの卵!昨日の朝は3つの卵。1日1つの卵を産んで、3から5個、産み終わってから本格的あたために入るというのはどうもほんとうのようだ。巣の上部、乾いた泥が厚くかぶさっているように見えるところが、この春に補修した部分。巣のなかをよーく見ると羽根が少し敷かれていて、あたたかそう。どきどきしました。
2006.04.27
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高田馬場近く、線路が隆起したあたりを電車がちょうど徐行して通過していた頃、空がにわかに暗くなった。そのうち雨が横殴りに落ちてきて、列車の車窓をななめにうちはじめた。新宿が近づくにつれ、もう開き直るしかないと考えた。こんな打ち合わせはいつ以来だろう。用意すべきものができていなくて打ち合わせをするなんて。新南口にあがると、雷の音が鳴った。雨は激しく落ちているのに、雷は大きな乾いた音をたてた。先方が、大丈夫ですかと電話をくれる。もう、ぜったいどこかに落ちたよね、いまの。誰かの声が通り過ぎていく。雨がふりこんできてウッドデッキは到底歩けそうもないので、高島屋のなかを歩いて移動する。東急ハンズで傘を買う。紀伊國屋書店で、こんなときにもかかわらず目当ての本を買おうと思う。仕事しろよと自分に突っ込みをいれてみる。ダイベック『僕はマゼランと旅した』を手に取る。久しぶりのダイベックだ。憂鬱の虫がざわざわと足下から這い上がってくるけれど、ダイベックだ。まだそのくらいの元気はあるんだ。それから代々木に向かって歩いていく。昨夜は久しぶりに友人と電話で話したのだった。彼女は病気の話をした。それは重たい固まりとなって自分のなかに残った。いまは会うことが稀になっているけれど、ある時間をともに生きたわけだ、だから友人なのだし。ともにというのは大げさか、ちょっとは近くにいた? ほんとうに? 友人は少ない。友だちは多い、なんて言う奴は信用できない。ほんとうにそうだ。友だちは少ない。ざわざわと這い上がってくるものの正体ははっきりしない。けれども原因はわかっている。なんとかできるものは、それは、なんとかするのだ。いままでだって、ずっとそうしてきたのだから。だが、どうすることもできないものは?美容室の話をする。いまのうちに思い切り短くしておきたいの、びっくりされる前にね、と彼女はいう。オレニツイテコイというのは、私はだめ。イッショニ闘イマショウというのもね、どうかな。でもそのほうがいいかな、闘うのは苦手だけど。結局、つきあい続けるしかないようなのね、生きている間は。いつ死んでもいいんだけど、こどもがもう少し大きくなるまでは、できることはしようかなって、ごめんね、こんな話で。それでさ、元気?代々木駅に着く頃には、空が明るくなっている。気まぐれみたいに晴れ間が見えて、雨は風に流されるようにしてはらはらと落ちてくる。ガード下をくぐる。待ち合わせ場所に急ぐ。
2006.04.26
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ぼたんさんの日記を読んでちょっと思い出したこと。ちなみに上記の日記、必読です。熱血風雲録、あ、違った、「熱海 風雲文庫」シリーズ。こちらは全然たいした話ではありません。横浜トリエンナーレ2001のときのことです。横浜市での第1回現代美術展、そのメイン会場に都築響一氏の出品作品がありました。それは、なぜか温泉地とか観光地に見受けられる「秘宝館」のようなものを会場内に作り上げ、なかに入ると、まさに秘宝館的なえげつないやら哀しいやら空恐ろしいやらの性具とか、使えそうもない性的マシーンとか、SMの女王様のマネキンとか、宇宙船の中で女の人が宇宙生命体に犯されているとか、そんなオブジェがおかれています。確か、廃墟となったいくつかの秘宝館からもらってきたか、預かったかしたのではなかったか、とにかくこうしたこと全体が「作品」として提示されていたのです。なんというか、パワフルにしてチープにしてバッドテイストといいますか。このトリエンナーレ、期間中、たくさんのお客さんが入っていました。そのメイン会場はひたすら広く、数え切れないほどのブースがありました。それこそA-23、B-15とかそれぞれの住所が記されていて、まあ、現代アートの巨大な見本市のようなものです。そうしたブースにそれぞれ押し込まれて、アーティストとしてはもちろん全力を尽くしていると思うのですが、全体として受け取ると、なんというか悲惨なものがある(私の主観ですが)。微かな声に耳を澄ますような作品や、繊細で鋭利なものをつきつけてくる作品なんて、ほとんど見向きもされないというような。こうした全体こそ同時代的ということかも知れないし、高度資本主義社会のなかでの表現の分断と圧殺みたいなことをよく表している、なんてことも言えるのかもしれない。でも、いくらなんでもこれはないだろう、としだいに憂鬱な気分がやってきました。そこへ都築響一氏の「作品」です(笑)。異彩を放っている。笑うしかない。はなから自意識なんて脇へ置き、オリジナリティを捨てている。でももしかしたら、この場所が、こうした無惨なことになることを知っていて、この作品をもってきたのかも知れない。この「作品」は、そこにある空気をばりばりと裏返しにしてめくりあげるようなパワーを確かにもっている、そんなふうにも感じたのでした。まあ、それだけなんですけれど。それで思い出したけれど、どこからともなく繰り返しやってくるTBの数々も、どこかでつながっているのかもしれない。この時代の欲望の、リアルなノイズなんだろうと 笑 さびしいような
2006.04.25
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Said the straight man to the late man,Where have you beenI’ve been here andI’ve been there andI’ve been in between.『日米交換船』の冒頭、「国と国のあいだで」というタイトルで加藤典洋がまえがきを寄せています。そのはじめに、この言葉が引用されている。加藤典洋は数年前に知った60年代のイギリスの歌として、これを紹介しています。○○さん、これってあれですよね。お会いしたときにこの本の話をし、そしてこの人たちの音楽について喋ったのに、この話をするのをすっかり忘れました。懐かしかったです。●『日米交換船』の話とはまったく違いますが、いただいた「中島美嘉 BEST」、とても面白かったです。歌うという才能を持たされた人だと思いました。まつわりつくような湿り気と、突き放すかのような乾きとを両方持っている。そんな感じを受けます。ときどき本当にびっくりします。でも、なかにはどうしてこんな歌、歌わされてしまうんだろう、と思う曲もありました。なにより編曲が恥ずかしいというか、方向性が定まらないというか。それでいて、どんな歌でもいい、そこに歌があれば歌う、そんな突き抜けた強さがこの人にはあるようにも思いました。きちんとお礼を言っていませんでした。ありがとうございました。●ところで、どこに行ってたの?ここに行ってたしあそこに行ってたしそれにこことそこのあいだに…
2006.04.24
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友人Aから友人Bの病気についてメールがあった。3人で会おう、そういって日にちまで設定していたのだが、当日誰かだったかの都合でお流れになった(たぶんBの都合だ)。それが1年ほど前になる。友人Aとはたびたび会うのだがBに会ったのはいつだったか、恐らく3年ほど前だ。それ以来、会っていない。ぼくらはもう何年も一緒に仕事をしていない。けれども関連仕事の翻訳とかでBの名前をみて、ああ元気にやっているのだな、と思う。何回か、やはり企画がらみのレセプションで彼女が通訳でやってきたりするのに会う。おたがい手を振る。そしてこんどまたね、と言い合って別れる。きみはいま、どんな本を読んでいるのかな。アメリカ文学をよく読んでいた。オースターが接点だった。ぼくらの好みは重なっているところが多くて、彼女からずいぶんいろんなことを教わった。そんな話から企画が生まれて、ぼくらは柴田さんに会いに行った。それが考えてみれば柴田さんとの出会いだった。彼女はあるとき大手銀行の国際部から転職してきて、ぼくらの職場にやってきた。彼女は目鼻立ちをはっきりさせる化粧を施していて、体の線を際だたせる服を着ていた。ぼくらは度肝を抜かれた。英語の能力は群を抜いていて、発音も信じられないくらいきれいだった。文章もかっちりとしたものを書く。そう言えば、彼女の書いた小説がどこかの文芸誌の新人賞の最終選考まで残ったこともあった。けれども日本語を喋るとなると不思議と間延びした話し方になった。「だからー、ていうかー」みたいなやつだ。そして突然沈黙したかと思うと、まったく別のことを話しはじめたりした。彼女の面倒をみることになった先輩はよく言っていた。「あいつはバカなのかリコウなのか、ちっともわからん」。ぼくらは深く納得し、笑った。そんなふうにして彼女は愛されていた、と思う。彼女はそれから数年でその職場を離れた。Bの大学時代の友人に話を聞いたことがある。「徹子の部屋」という番組名にちなんで、彼女に突然の沈黙が訪れると、友人たちは、あ、「○○子の部屋」に入った、と言い合った。彼女にいったん沈黙が訪れると、それはわずかな時間だけれど、誰が話しかけても答えない。遮断されている。そしてこちら側にかえってきたかと思うと、彼女はすでに「更新」されているみたいに、もう別のことを考えている。それからこちらを初めて見るようにしてまじまじと見つめる。そして「何の話だったっけ」あるいは「私、へん?」という。その彼女から、昨日、突然、携帯にメールがはいる。「これ、ウラガエルのアドレスだっけ。話したいことがあるんだけれど、夜電話していい?」というようなことが書いてある。時間まで指定してある。その時間なら落ち着いて話ができるので、了解のメールを返信する。夜になると彼女からまたメールが入って、「何時までに電話で話したいけれど、それが無理なようならまた月曜日に連絡します。日曜日は1日出ているので」とある。それは指定の時間よりずいぶん前なので、こちらはばたばたしていて対応できない。笑ってしまう。おまえが指定したんだろ、なんだかちぐはぐしている。彼女らしいといえば彼女らしい。そういうわけで、宙ぶらりんである。そういうわけで、つい彼女のことを考える。友人Aから聞いた、彼女の病気のことも頭から去らない。
2006.04.23
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夜が明けていく。今朝はフジヤマが見渡せる。朝焼けでオレンジ色に微かに発光しているように見える。ずいぶんと麓まで、雪をかぶっている。山肌に朝日が反射して、起伏が鮮明に浮き上がってくる。そうしてやがてきらきらと、仕事部屋にも朝日が差し込んでくる。ほんとうのことはぼんやりとしている。誰かが病気になったとか、そうして亡くなったとか。自分もそう遠くないうちに、そんなふうに連なって死んでいくのだろう。
2006.04.22
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友人からのメールを開くと共通の友人が病気になったという知らせが入っていた。“伝えるべきなのかどうか迷ったけれど、ウラガエルがいなかったら私たち知り合っていなかったしね。私の場合は悪性ではなかったけれど、きついね”。そうだった。あれは何年前だったか。4月だった。それは覚えている。当の友人が倒れて大学病院に運ばれた。そのことは後になって知った。彼女が退院するちょうどその頃、やはり共通の友人が連絡をくれたのだった。“彼女と今いっしょにいるの。これから実家に彼女を送っていく。大丈夫よ、5月になったら帰ってくるよ”。それから数日後、私は仕事で地方に行く。その帰りに、彼女の実家のある地方都市を電車に乗って通過する。大きな町で、町の灯りがせわしなく車窓を流れていく。やがて家々の灯りもわずかになる。車窓に映るのは車内の蛍光灯の光だけになる。実家にいるであろう彼女に携帯からメールを送る。「いま、あなたの街を通り過ぎたところ」。そこで手が止まる。伝える言葉なんてない。「それだけだけど」。夜の電車は走り続ける。ほどなくしてメールの着信音が鳴る。それから私たちは5月のある晴れた日に、水天宮から人形町まで歩いている。行李をつくっているお店をのぞいたりする。彼女はゆっくりと歩く。顔色はまだもどらない。それでも笑っている。当たり前のことだけれど、いま自分のそばにいてくれる人が、いつまでもそうしてくれるわけではない。そんなことは誰にもわからない。やがて感傷がおりてきて彼女に触れたいと思う。けれども思い直す。こんなふうにして、もうずっとずっとやってきたのだから。彼女が笑っている。そうしてつられて私も笑う。
2006.04.20
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思考は拡散し、焦点はまとまらない。「国」は「民」を守るだろうか。それは「国」が必要としたときのみ、守ろうとする。「民」が求めるからそうするのではない。そもそも「民」は自分たちを守るために「国」をつくる。というのが本当のところのはずだが、実際はそうではない。そうではなかった。「国」はできあがった途端、それを存続、発展(?)させるために自走する。そのためには簡単に「民」を切り捨てる。歴史上、それらの事例をあげれば枚挙にいとまがない。なにも大きな事件を想起するまでもない。ここでは、「民」が「国」を愛することはまったく関係がない。愛するのは勝手だが、そのことはあなたを守らない。自分の慣れ親しんだ風土を愛することと「国」を愛することは同じではない。このようにしてあたかも「国」に人格があるかのような表現を連ねるのも落とし穴がある。だが、近代国家にあっては、そのようにして成り立っていることも事実なのでしかたがない。軽蔑することは愛することより簡単なことのように思える。これも人によるだろうか、理に合わない言い逃れ、強弁がまかり通ってしまうのを見れば、軽蔑をおさえるのはむしろむずかしい。だが軽蔑するだけでは恐らくなんの力にもならない。「民」にできることがあるとしたら、自分たちが選んだはずの「国」の暴走を監視することだけだ。それを続けること。必要なのは愛することではない。だが、監視することもどれだけの力があるかといえば、無力感が先に立つ。しかし、一方で愚直に監視する人がいて、声をあげる人がいて、異議申し立てをする人がいて、時計の針を少しだけもどすということがある。そのことを知ってもいるので、絶望してみせるのも恥ずかしいことのように思える。目を覚ましていろ、と自分にいう。少なくとも酔うようにして「国」に同一化するようなことはしたくない。というのもなんだかな。
2006.04.18
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カナダ大使館のサイトには、ハーバード・ノーマンについて、次のように記されている。●歴史家・外交官、E・ハーバート・ノーマンは、1909年9月1日、カナダ人宣教師の第3子として長野県の軽井沢で誕生。トロント大学、ケンブリッジ大学、コロンビア大学、ハーバード大学で学び、1939年カナダ外務省に入省。第二次大戦後、米国の要請によりカナダ外務省からGHQ (連合国総司令部) に出向し、占領下の日本の民主化・改革に携わった。1946年8月、駐日カナダ代表部主席に就任。1951年9月、サンフランシスコ対日講和会議のカナダ代表主席随員。1953年、駐ニュージーランド高等弁務官に就任。1956年、駐エジプト大使兼レバノン公使に就任。1956年、スエズ動乱勃発に際し、平和維持と監視のための国際緊急軍導入に功績を残した。しかし、冷戦下の狂信的なマッカーシズムの嵐に巻き込まれ、1957年4月4日、任地カイロで自死を遂げる。(引用終わり)●第二次世界大戦開戦時、カナダ公使館の三等書記官として、ノーマンは日本にいた。ノーマンはその後、日本からアメリカへの交換船に乗り込むことになる。交換船に乗った人々が交換される地、東アフリカのロレンソ・マルケスで、たがいの船を下りて、乗り換える際、ノーマンは旧知の都留重人と出会う。そこでの立ち話が、ノーマンへの査問の遠因ともなったと考えられている。ノーマンは1944年「日本の将来」という文章の中で、バジル・ホール・チェンバレンが1912年に書いた『日本博物誌』の次の一節を引用している。「(天皇制は)無知蒙昧な人々をコントロールするための政治的方便として保持されている、敬虔な詐欺である」ノーマンは敗戦後の日本を見据えて、この時点で次のように警告している。「天皇制の維持は、日本の優越性と帝国主義のシンボルがそのまま残された以上、日本は本当に敗北したのではない、という証拠として日本国民の前に掲げられるだろう。要するに、日本を非武装化しても天皇制が残されているかぎり、日本は世界全体にとって解決されない危険な難題として残ることだろう」
2006.04.17
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名古屋で会ったその人は、名古屋の人ではなかった。名古屋にはもう30年近く住んでいるに違いないのだが、その人は異邦人のようにして佇んでいた。会うのは初めてだ。その人が東北で生まれ育ったことは知っていた。実際にお会いしてみると、私が知っている東北の人独特のうすい皮膚をまとっている、そんなふうに見えた。その人と歩き出す。微かに鼻歌を歌っている。なにを歌っているのだろう。繊細にこちらを気遣っているようにも感じられる。それでいて、こんなことはなにほどのこともないのだ、というようなそぶりでもある。気を遣うことに疲れているか、また気を遣っていると相手に感づかれたら、相手を緊張させてしまう、そのことを恐れているからなのか、茫洋として歩いていく。そうして熱田神宮の玉砂利を二人して音を立てて、私たちはなにも喋らず、どこかに向かっている。この人はしかし、どこにいても異邦人のようでもあるのかもしれない。そんなふうにも思う。もしかしたらどこにいても、ふわふわとあたかも痕跡を残さぬよう、歩いていく。スイッチをいれれば、それこそ世界のノイズが洪水のように押し寄せてくる。きっと彼にはほとんどの人より、たくさんの音を、微細な信号を、感受することができる。だがそれは生きやすいことではない。だからアンテナをたたむ。そうして感度を下げる。そんなふうにして、歩いていく。なにかの歌を口ずさみながら。その日、名古屋は蒸し暑いほどの気候だ。
2006.04.14
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鶴見俊輔が大河内光孝と出会ったフォート・ミード収容所には、1924年排日移民法以前にアメリカに入っていた労働者もたくさんいた。アラスカ久三郎こと斎藤久三郎もその一人だった。小学校を出て米国に渡り、第一次世界大戦の頃にはアラスカで米兵となって警備についていたという。そのときの話をよくするので、ミドルネームを付して「斎藤アラスカ久三郎」と呼ばれていた。彼は洗濯をするにも、ゆっくりと自分で手順を考えながらやるというたちで、英語もうまくなかったが、言葉を確実に使って議論した。あるときこんなことがあった。アラスカ久三郎は、そのとき抑留者のリーダーとなって立ち働く人物を評して「じつにインターナショナルな人だ」と言った。それを聞いた、会社員として米国に来ていた男が、「インターナショナルってどういうこと? 斎藤さん」と、ややからかい気味に尋ねた。彼は臆さず、このように答えた。「胸はばの広い人っていうことだな。世界のことをゆっくりと見渡して考えられる人のことだ」彼は交換船に乗ることを選ばなかった。その理由まではこの本では触れられていない。●このところあわただしい。天気は数日不安定で、雨がよく降った。補修中だったツバメの巣は、夜には羽根を休める二羽の重みで、ちょうど補修したばかりの部分が崩壊した。そうかと思うと今朝の数時間のあいだに巣は再び元通りになっていた。補修した部分はまだ湿った泥の色をしている。昨日は名古屋にいた。同行した女性の写真家は25歳ということだった。まだ幼いような風貌だけれど、ゆっりと話す人で、少しだけ写真の話をしてくれた。彼女は写真の学校を出て、それからは結局誰に師事することもなく、仕事をはじめることになる。ちょうど学校を卒業するころに、とあるコンクールでグランプリをとる。過去に川内倫子、野口里佳なども受賞したその賞を、彼女は最年少で受賞した。現場では、ほとんど存在しないかのようにして写真をとっていた。写真家が立ち働く姿はいつもなにかしら印象に残る。この人もそうだ。この人の場合、とりわけ静かだ。しかしその身のこなしはどこか確信に満ちている。
2006.04.13
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4月3日に発見したツバメが、2日ほど前から夜になると巣に戻っていて、いつのまにかパートナーと休んでいる。もっとも個体識別ができているわけではないので断定はできない。いろいろな可能性が考えられるかもしれないけれど、まあパートナーと考えるのがふつうだろう。もう見つけたのか、それとも前からの知り合い? あるいは巣が修復可能と判断して妻を呼び寄せたとか。結局なにもわからないのだが、気長に観察することとする。●さて『日米交換船』の続き。大河内光孝のこと。鶴見は1942年春、東ボストンの移民局の留置場にいたとき、ある人から「素晴らしい日本人がいる」と聞かされた。それが後に知り合う大河内光孝のことだった。大河内は子爵の妾腹の息子だった。学習院の小学校にいたとき、買い食いをしていたので飴玉を持っていて、学校で二、三歳年下の少年に飴玉をくれてやった。少年は喜んで食べたが、この少年が皇太子、後の昭和天皇だったので大問題になった。当時の院長は乃木希典だった。両親は、このことが元で光孝を町の学校に転校させる。光孝はぐれて、また正系の息子との跡目争いに巻き込まれるのを嫌って、アメリカに渡る。アメリカでは当時の世界最大のサーカスに入団している。そこではアメリカ巡業にきていた常陸山一門からドロップアウトした元力士と組んで「柔道芝居」を考案し、サーカスの幕間で演じたりした。大河内の妻演じる女性が大男(元力士)に襲われる。そのときに大河内がさっそうと登場して柔道の技を使って大男を投げつける。大河内は、河原の軽石を拾ってきて、水に入れれば泡が出る軽石を、熱帯魚を元気にする石だ、といって店に売りつける、そんなちょっとしたインチキもしていたらしい。鶴見は同42年、留置場からメリーランド州の収容所に移送される。そこで鶴見は噂の日本人、大河内に出会う。大河内は鶴見の20歳ほどの年上だったけれど、最初からウマがあった。交換船の中でも得意の手品などをしてみなを楽しませた。鶴見はそうしたつきあいのなかで、大河内はヤクザな人間だけれど、心の底に一つの倫理を持っている、と感じた。「彼はこう言うんだ。山のなかで、自分と若い人が二人で迷ってしまって、食べるものが一つしかないとする。そういうとき、自分はすでに年をとっていて長生きができない、若いおまえにぜんぶくれてやろう、パンを食って生き延びてくれ、そう言うことができるのが、人間の根本だと。お話の形で自分のなかに入っているんだ」「こういう人が戦時の日本に投げ出されるとどうなるか」。鶴見はそう書き付けてもいる。鶴見は交換船が日本に着いて、彼と別れることになる。そして戦争が終わる直前、偶然出会う。そのとき大河内は牢屋から出てきたばかりだと言った。激しい拷問を受けていた。しかし大河内はなぜ自分が連行されたのか、まったくわかっていなかった。戦後もかなり経って、鶴見はある書物からその理由を偶然知ることになる。それは雑誌「中央公論」や「改造」を足がかりに共産党再建を計画していたとして多くの人が逮捕された「横浜事件」に連座してのことだった。鶴見は言う。「大河内なんて、『中央公論』や『改造』を読める人じゃないんだよ。英語だってよく読めないんだから。大河内夫人だって、日系二世なんだから読まない」本書の後段で、鶴見はあらためてこの人物について触れている。もとより大河内は思想犯ではなかった。後に大河内の周辺の人物に取材もしている。思い当たるふしがあるとしたら、ただはっきりとものを言う、その態度だった。そもそも「横浜事件」そのものがでっち上げなのだから。「大河内夫妻の人柄から言って、あの事件は確実に、まったくのでっち上げだということが私にはわかる。(中略)この嘘を日本は、ひきずって歩くと思う」これは「天皇に飴玉をやった人が、天皇の名で拷問を受けるという現代の寓話である」
2006.04.09
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電車の中で『日米交換船』を読み始める。持ち歩くには少し重い本だけれど。眠たいのだが引き込まれる。鶴見俊輔の記憶を、黒川創、加藤典洋が引き出す形の鼎談が冒頭におかれているのだが、膨大な資料にあたっていると思われる黒川の質問が、鶴見の眠っていた(あるいは蓋をしていた)記憶を揺り動かす。鶴見俊輔は個人的な体験がどのような「世界」と繋がっているかに自覚的な人だから、語り出す言葉が些末なことでも広がりを持っている。鶴見はリラックスしているが弛緩していない。少し興奮を覚えている。これはなかなかすごい本だ、と感じている。歴史をどのように記述するか、ということでもあり、それは「世界」をどう描き出すかということにもなるだろう。この本にはそうしたヒントが詰め込まれている。そんなふうに感じられるのだ。鶴見の話のなかで、交換船に同乗することとなった大河内正孝という人が出てくる。とても興味深い話なので、後日この日記にも書きつけておきたい。今日も神田川のほとりを歩いている。江戸川橋から大曲のあたりは、川の流れも感じないほどで、水はどんよりと濁っている。それでも川面は光線の加減かいくらか輝いていて、桜の花びらが一面を覆っている。印刷所に行く。出張校正室が空いていなくて、制作室の一室の応接デスクで仕事をする。出張校正室というのは、印刷所で組み上がった校正刷を、印刷所で校正するための部屋だ。時間の関係で、そこでチェックした原稿をすぐに現場に戻していく必要がある場合などに使用される。制作室の人たちの会話がもれ聞こえてくる。この日はやめていくスタッフの送別会が午後8時からあるらしい。その前に仕事を終えなくては。かつての同僚だった女性が顔を出す。この人はこの印刷所の営業マンと結婚していまは社長夫人となっている。この会社でも重要な役回りを担うようになっていて、いざというときは頼りになる存在だ。今日は出版社時代、その女性と私の共通の上司だった人が当の出版社を退職し、そのあいさつに上京する日ということだった。会いたいね、でも今日はそうそうに帰るらしい。私たちはとうの昔にその会社を退職しているので送別会があったとしても、そこに同席するというのでもない。かつての上司は体をこわしているので無理に押しかけるわけにもいかないだろう。そういうわけで、なんとなく、まあ今日は無理だけれど、そんな機会が持てたらね、みたいな曖昧な話になっていく。帰りの道すがら、かつての上司に電話を入れてみる。いま新宿だけれど、今日はちょっと人に会ってこのまま帰るよ、新宿は人が多いなあ、久しぶりで疲れるよ、と笑う。お疲れ様でした、ずいぶんとお世話になりました、できの悪い後輩ですいません、などと自分は言っている。そんなことを言うから、こみ上げてくるものがある。ほんとうにできの悪い後輩だったのである。ここのところ、何かが繋がっている。昨日は私の後輩から、「○○さんと出会った年齢になってしまいました」とメールが入ってくる。彼は確か私より12歳年下になる。会社に残って苦闘している。彼の年齢のころには、私はまだまだお気楽だった。いや、いまのほうがお気楽だ。どんなに忙しくとも背負っているものなどないのだから。今日はまとまらない。
2006.04.07
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夜中になって、この日の朝日新聞朝刊をめくっていたら、『日米交換船』(新潮社)刊行の記事が掲載されていた。 その記事から、借用しつつ簡単にまとめると、次のような概要となる。「日米開戦半年後の42年6月。ニューヨークと横浜から出た船には日米の外交官、会社員、学生らおよそ1500人ずつが乗っていた。鶴見俊輔は留学生としてそのなかにいた。船は途中、東アフリカで乗員を同数交換する。交換船は最終的にアメリカから約6000人、イギリスから約4000人を帰国させることとなる。この本は加藤典洋、黒川創が聞き手となって、鶴見の証言を引き出す。あわせて黒川創が担当し、1万ページにおよぶという当時の外交文書から航海の全容をよみがえらせた」 刊行を期して、ささやかな記者会見が行われたのだろう、新聞記事には鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創の3人が横並び、談笑しているような写真もあわせて掲載されている。ちなみに鶴見は1922年生まれ、加藤は48年、黒川は61年。戦後はもうここまでやってきたのだった。 鶴見は、当時、乗船するか否か、選択を突きつけられた。アメリカに残ることも可能だった。それぞれの立場、あるいは階級でその後の処遇が様々であったとしても。だが鶴見は「乗る」と即答した。その理由は「愛国心なんてものじゃない。負けるときには負ける側にいたいというぼんやりした考えだった」。これには、鶴見の幼少時代、そして留学時代に抱えてきた独特の屈折がある。そこに鶴見の独自性があるのだが、今は書かない。と、こんなことを書いているのは、ちょうどこの日、ネットで注文していたこの本が手元に届いたからだった。人に誇ることはできないが、自分なりに細々と本を読み続けてきた。そのようにしていれば、何人かの書き手や、いくつかの本そのものが、自分の人生にひっかかって残っていることを自覚することになる。それらは反発や否定も含む。この3人と彼らのいくつかの書物は、そんなふうにして、自分の中に存在する。まあ、そんな感慨を持って、500ページほどの本の重量を手に持ってたしかめてみる。とにかく読んでみることにする。
2006.04.06
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久方ぶりに昔の同僚と電話で話す。声を聞くのは1年ぶりくらいになるだろうか。互いの近況。近々、取引会社のイベントがあるので、そこで会おうかという話。そうそう、○○さんのところが会社を閉じるんですよ。えっ、そうなの。そうか、社長はたぶん50代後半になる。父親の代からの印刷所経営だった。訪ねてくると、よくぼやく人だった。泣き言を言い、笑いをとる。ひととおり話し終えると唐突に立ち上がり、仕事を小脇に抱え、まあ、元気そうに去っていく。ちっとも強そうに見えないのだが、剣道5段。誘われて、剣道の昇段試験につきあったこともあった。学生時代から体育館やら武道館でのスポーツにはおよそ縁がなかったので、どんなものかとのぞきに行った。確か足立区立の体育館だったか、体育館のコートは6つの試合場として区切られていて、そこではすでに試合が始まっていた。面をつけているので本人を見つけるのに難儀した。そんなことはどうでもいいのだけれど。もうひとりの同僚と電話をかわる。これで4社目だものね、会社がなくなっちゃって、と彼女はいう。1社は印刷からデータベースを扱うような会社に変わった。残りの二つは完全に会社を閉じた。私が知っている印刷業界はほんの一部でしかないけれど、少なくとも出版に関わる分野は相当な苦戦を強いられているはずだ。大手以外は。そんなこともあって、この日記、3月20日頃に少し書いた、凸版印刷の高層ビル際に印刷所を持っていたおやじさんの声を無性に聞きたくなった。山陰地方に住むUさん。とぎれとぎれに懐かしい声が聞こえる。どんなときもゆったりと話す人だ。そちらは雨でしょう。こちらはやっと上がったところ。元気にしてますか。こちらに来て3年になるけれど、仕事仲間がその間にあの界隈でばたばた亡くなってね。そんなに歳をとっていなくてもね。気をつけてくださいよ。まだお子さん、小さいんだから。とか。思わず目頭が熱くなって自分でもびっくりする。
2006.04.05
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生活のリズムがへんなことになっていて、ここのところ午前中がひどく眠い。仕事場はビルの4階、東南の角部屋になっていて、近くに障害物がないものだから、晴れた日には太陽の光が降り注ぐ。そうしてさらに眠くなる。というわけで思い切って11時頃に仮眠をとることがあるのだが、これほど気持ちのよいことはない。不思議とこの時間の睡眠は、過去に引きずり込まれるような夢をみることがない。熟睡できる。悲しみや悔恨にまみれたような夢にとらわれるのは、きまって朝方だ。というのはどうでもいいことだけれど、昼になってあわてて電車に乗る。仕事は予定のところまで進まなかったが、いたしかたない。仕事場をあとにするときに、ほとんど考えなしに読みかけの本から急いで一冊選ぶ。今日は『対話の回路』(小熊英二対談集 新曜社 2005年)だった。あきれたことにまだ眠い。気がつくと意識を失っていてアナウンスで目が覚めたのだが、電車が停車している。ここから二つ先の駅付近で人身事故があり、ただいまキュウシュツチュウでございます、という。最初、何を言っているのかわからなかった。キュウシュツチュウとは救出中ということだ。ようやく何度目かのアナウンスでそのことに気がつく。小熊英二については、いくつかの文章を読んだことはあるけれど、その大部の本を1年ほど前まで読んでいなかった。それで『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社 2005年)を読んだのだが、これは本当におもしろかった。この人の対象に向かう態度というのはどこかで一貫している。ある思想は、どのように生まれたか、それはどのように受容され、今に至るのか。しかし、小熊は現在の地点で、その思想を軽々しく断罪しない。その思想のかかえる欠点も誤りも、それが書かれた時代の制約と無関係ではない。自分がその時代に生きていれば、どのように世界と向き合える可能性があったのかを、常に試しているように思える。それこそ膨大な資料を渉猟しつつ、その時代を可能な限り再現する。そうして現在と往還しながら、今との連続性において考える。正確な言葉は忘れたけれど、こんなことも言っていたと思う。戦後思想の最低の部分を批判するのは簡単だ。しかしそれよりも当時のリアリティを再現し、戦後思想の最高の部分を描き出したうえで、それを乗り越える作業をしたい。この人の対談集はけして手を抜かない。電車は動き出している。人身事故があったという駅も通り過ぎていく。いつもよりプラットホームに人が溢れているように思えるが、それも知らされなければわからないほどだ。電車はスピードをあげる。救出中だった人がその後どうなったのか、わからない。
2006.04.04
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なんともやりきれない事件だ。メディアからくりかえしやってくる、溢れ出すかのような情報が、世界を揺るがす。そうして何かが少し軋み、歪む。それが起きる前の世界と起きた後の世界は、同じではない。だが揺るがしているのは犯罪そのものだろうか、それとも報道だろうか。「世界」とはいま、定義することのできないもので、自分なりのことばの選び方にすぎない。自分を取り囲むもの、といった程度のイメージだ。自分の生きている場所。それはいまここにあるのは間違いがないけれど、いまここにいる自分はただひとりだけれど、厳密には固有に存在しているとも言い切れないような気がする。様々な情報の海にゆらゆらと揺れていて、自分の輪郭もさだかでなくなるような感覚が、一方のリアルとしてある。というような感覚を抱きつつ、「社会」に生きる自分は、「社会的責任」とやらを果たそうともがいていたりする。毎日毎日毎日。どのようにして壊れていったのか。そうしてそれが他者の破壊へと、どのようにしてつながっていくのか。その解明に力を尽くすことは徒労のようにも思える。被害者はもどることはない。たとえ生き残ったとしても、それがやってくる前に戻ることはないのだから。そして起きることの全体を理解することは不可能なことかもしれない。だが、少しでも知ることができれば、私は学習することができるかもしれない。どうして私ではなく彼だったのか。容疑者を逮捕した当該警察の担当課長のコメントとして「受け答えははっきりしており、責任能力はあると思う」と、新聞は書く。その通りの発言だったとして、私には違和感がある。責任能力のあるなしが、いまこのときにどれほど問題だろうか。しかしある人のブログでは、このような犯罪に責任能力を問うのは意味がない。どうであれ処罰されなければならない。そうでなければ、多くの犯罪予備軍が、処罰を逃れるためにあらかじめ神経科の病院で診察を受けようとするだろう。そのように書く。私は、そこから自分が飛び降りたいと考えたことがあったとしても、人を投げ落とそうと思ったことはない。少なくとも今までのところは。私は私を手放さない。しかしそれはいつまで可能か。私にできることはなにか。
2006.04.03
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先週は3日続けて強風が吹き荒れた。そして今日も砂埃が舞っている。朝方、今年初めてツバメを見た。ここ数年、毎年軒先の巣にツバメがやってくる。そのツバメが去年もやってきたツバメなのか、その家族なのか、あるいはまったく関係のないツバメなのか、皆目わからないのだが、とにかくやってくる。不在の間痛んでしまった巣のあちこちを泥と藁で補修して、毎年産卵する。去年は春先と夏に二度ツバメがやってきてそれぞれ産卵し、飛び立っていったのだった。その春のツバメと夏のツバメも関係があるのかないのかわからない。考えてみればわからないことばかり。いや、考えなくても。とにかく今年もツバメがやってきた。玄関のドアの上、ひさしにとまって、こちらが動き出すまでじっとしている。巣が使えるかどうか検討中、といった様子。そして飛び立つ。いきなり横なぐりの強風にあおられるけれど、すぐに体勢を立て直し、あっという間に見えなくなった。
2006.04.03
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