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「神秘学概論」読解23 土星紀3:神秘学概論」概観 - 土星紀の進化過程 - 1 シュタイナーは、霊的世界の宇宙進化の経緯には、高次の霊存在が深く関わっているという。霊的諸存在の階層組織をシュタイナーはどのように体験し解析したのであろうか。但し、彼が「神秘学概論」を合理的思考をもって解析出来得るとしたために彼自身の体験の経過は語られないが、それを基底に語っていることは間違いない。それ故、土星紀の進化段階を念頭に順を追う。 土星進化の全過程は、「意志霊」から流出したものに、「叡智霊、運動霊、形態霊」などが働きかけたことの結果である。そしてそのようにして、これらの霊たち自身も、進化を遂げた。たとえば「叡智霊」は、その活動を土星からの反映を通して意識化することができ、そのあと、以前とは異なる段階に立つことができた。作用と受容の行為の成果が、彼らの存在そのものの能力を高めた。(P178) 土星紀の進化は、熱として自己を顕わし、次いで光のドラマが、さらに味覚と音響のドラマがこれに加わる。そして最後には、土星の内部に向けて嗅覚の知覚を伴い、外へ向けては機械のように作用する人間自我が現われる。(P174-175) 土星紀における肉体の萌芽をつくりだしたのは、「意志の霊」の働きだとはいえるが、すべてに「意志霊」だけが働きかけたわけではない。叡智霊、運動霊、形態霊、人格の霊、火の霊、さらに生命の子がそれぞれの進化段階に応じた働きかけをしていきながら、それらの霊存在もともに進化していった。哲学・思想ランキング
2023年01月31日
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「神秘学概論」読解22 土星紀2 熱状態以前「霊人(アートマン)」への最初の萌芽」 土星生命が大規模に示しているものを、この段階における人間は小規模に示している。そしてそれと共に、現在の人間においてもまだ萌芽的にしか存在していないもの、つまり「霊人」(アートマン)への最初の萌芽が与えられた。超感覚的な認識能力にとって、この暗い人間意志は、土星の内部へ向けては「嗅覚」と比較されるような作用となって現われるが、その同じ作用が外なる天空へ向けられると、まるでひとつの人格のような現れ方をする。しかしその人格は、内なる「自我」によって導かれているのではなく、機械のように、外から制御されている。そしてその制御の主体が「意志霊」なのである。(P174) 意志霊によって制御されていたとはいえ、人間は其処ではじめて「個体」として存在しはじめるようになり、それによって「時間」が生まれた。そしてそれ以前の「持続」としての「永遠の今」を現在、そして未来の人間においては「内なる自我」からのものとしてとらえることが可能性として開かれるようになったといえるのかもしれない。 記:シュタイナーが言う「霊人」を記者はここでは「アートマン≒ブラフマン」と解釈する。アートマン(Atman/注:Aにマクロンを付した文字)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。 インド哲学の様々な学派における中心的な概念であり、アートマン、個人の自己、至高の自己、究極の現実の関係について学派によって異なる見解を持っている。ブラフマン(Brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと同一(等価)であるとされる(梵我一如)。(*ウィキペディアから引用)バラモン思想の主流となるヴェーダーンタ思想は、梵我一如の思想を発展させたものである。また、大宇宙(梵)と小宇宙(我)の融合合一という考えは、その後の神秘主義思想にくりかえしあらわれる。たとえば、仏教でも密教の大日如来の観想による即身成仏には、同じ発想がみられる。哲学・思想ランキング
2023年01月30日
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「神秘学概論」読解21 土星紀2 熱状態以前「持続と今」記; シュタイナーのいう熱状態以前の「持続」というのは、時間に対してどのようなものなのか解いてみる。では熱状態以前の「持続」というのはいったいどういう状態なのだろう。「もはや事物も事象もその由来をそれ以前の何かによってではなく、自分自身によって説明しうるような領域」であるということは、ある意味では、「永遠の今」若しくは「絶対精神」を昭容するのにも通じているのかもしれない。ちなみに、西田幾多郎は、時の中心は現在であって、その現在の意味を尋ねれば自我とはなにかがわかる。そして現在が我の中心であると言っている。「現在の自己限定が即ち我の自己限定」で、個体というのは、全体から定まるのではなく、それは「我」によって定まる、自我の限定によって個物が可能になるというのである。そして、「永遠の今」について次のように述べている。真の時は連続線と考えられている。しかしそれは空間化された時にすぎない。真の時は各瞬間に於て消え各瞬間に於て始まるのである。各瞬間に於てすべての過去を消し、すべての未来を始め得る。プラトンが著書『パルメニデス』で説くように、瞬間は時の外にあり、そこに於て運動は静止に変じ静止は運動に転ずるのである。時は実にかかる瞬間の自己限定としてきまるのである。従って時は消えて生ずるものの連続であり、点から点へ瞬間から瞬間への飛躍的な連続である。時は矛盾に於て成立する。時は弁証法的である。時は無限に変じつつ、無限に変じない。すべての時は絶対の無に於て消えて絶対の無に於て生まれるのである。絶対の無は変じない。そこに永遠の今がある。「時は止まる」と言われる所以である。現在が現在を限定する時に、限定するものなくして現在が限定されるのである。無にして現在が限定されるのである。そこに無数の時が可能になる。その無数の時をもつものが即ち「永遠の今」なのである。かかる永遠の今のいずれの点に於ても時は消えて又新たに生まれる。かくて時は常に新しくどこからでも始まる。その無数の時が表から見られた時、それは一つの点に収まるとも考えられる。その一点がすべての運動をつつむのである。その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。それ故に種々なる時は場所の意味をもち、空間的な意味をもつ。ここに場所である時間(Ortzeit)が認められる所以がある。「生と実在と論理」(昭和7年、京大における講演) シュタイナーの此の「神秘学概論」では、熱状態において人間の肉体の萌芽が生まれ、それとともに、現在の人間でもまだ萌芽としてしか存在していない「霊人」への最初の萌芽が与えれたとも述べられる。 意志霊の影響を受けて、人間幻像そのののが、この上なく単純で、暗いものながら、意識形態をとって現われるようになる。この意識形態を理解するには、夢のない眠りよりもさらに暗い意識形態を考える必要がある。現在の地球の状態においては、鉱物がこのような意識をもっている。(*此の言はシュタイナーの神秘学的体験だが、日本にも巨岩信仰等々があることから憶測できよう。)それは内的な存在を外なる物質世界と完全に一体化させる意識である。土星紀には「意志霊」がこの一体化を統御している。そしてその結果から人間は、土星生命そのものの複製であるかのように現われる。哲学・思想ランキング
2023年01月29日
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「神秘学概論」読解20 土星紀2 熱状態「時間と意識」記; シュタイナーがいう持続と時間と、ベルクソンなどが定義する持続と時間とには相違が見られる。 理学博士の東晃史の理論では、意識が時間を空間化するというが、この「時間と自己」という視点からすれば、意識そのもののもつ時間性、意識即時間によって現れる「空間」が異なっているともいえるだろう。以下、時間の感覚には4つの形態がある。「反復」、「円環」、「線分」、「直線」であるろ述べています。。1:反復的な時間は、「可逆的」であり、かつ「質」としての時間であり、それは原始的共同体にみられる時間の感覚である。2:円環的な時間は、「可逆的」であり、かつ「量」としての時間であり、それはヘレニズムにみられる時間の感覚である。3:線分的な時間は、「不可逆的」であり、かつ「質」としての時間であり、それはヘブライズムにみられる時間の感覚である。 4:直線的な時間は、「不可逆的」であり、かつ「量」としての時間であり、それは近代社会にみられる時間の感覚である。 更には「意識」は「生き物」である「時間」によってできているという。「意識」が「時間」を「空間」に変換するというのである。従来の物理学では、時間と空間は同等に扱えないものとしているが、それに対して、東論では、「意識」=「時間を空間に変える変換装置」、つまり、「意識」を「時間」の「空間」への変換の関数としている。 さて、このことを参考にしながら、熱状態の出現とともに時間が発生したということはいったい何を意味するのか。それは意識が原初的なかたちであれそこに生じたということによって、時間が発生したということがいえるのではないだろううか。 人間は土星紀において昏睡意識(シュタイナーによれば鉱物の意識)を獲得したと述べているが、その意識の誕生が「時間」を発生させたということがいえる。即ち、意識の在りようによって、「時間」そのものが異なってくるということでもある。 本川達雄著「ゾウの時間 ネズミの時間」(中公文庫)には、動物には動物のサイズによって変わるそれぞれの時計があるということが述べられているが、サイズよりも意識の違いというのが、決定的に時間の性質そのものの違いともなって顕われる。人間の時間、動物の時間、植物の時間、鉱物(*意識は度外視)の時間と大きくわけると、それぞれの時間には大きな違いがあることがわかる。哲学・思想ランキング
2023年01月28日
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「神秘学概論」読解19 土星紀2 熱状態以前「持続」-2 土星の熱の出現と共に、われわれの進化は、内面生活から、純粋の霊性から、外に顕現する存在の中へはじめて入っていく。このことを受け容れるのは、現代人の意識にとって特別難しいことだが、「時間」と呼ばれるものが土星の熱状態と共にはじめて顕われるということも、ここで述べておかねばならない。それ以前の諸状態は、まったく時間の経過をもたなかった。それらの状態は、霊学が「持続」と呼ぶ領域に属している。それゆえ、本書が「持続の領域」内の諸状態について述べる場合、時間に関わる表現はすべて、もっぱら理解を容易にするために用いられている、と考えねばならない。(省略…) 知的な態度だけからすれば、どんな起源に対しても、さらにその「起源の起源」を問い続けることも当然可能である。けれども、事実そのものに立脚しようとすれば、そうできなくなる。(省略…) 本当に正確な見方をしようとすれば、「どこから」についてのすべての問いが、上述した土星紀最初の状態以上には遡りえないことを、観取できる筈である。なぜなら、もはや事物も事象もその由来をそれ以前の何かによってではなく、自分自身によって説明しうるような領域に至ったのだからである。(P175-177)哲学・思想ランキング
2023年01月27日
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2023年01月26日
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「神秘学概論」読解19 土星紀2 熱状態以前「持続」-1 霊的太陽系の土星紀の中期は「熱状態」で、それが肉体の萌芽を齎したのだが、それ以前はどのようにシュタイナーは述べているのだろう。シュタイナーは、土星の熱状態とともにはじめて「時間」が現われ、そして「それ以前」は「持続」と呼ぶ状態だったといっている。「持続」は「それ以前」というのが成立しないというのである。期:世界大百科事典内の持続の言及【ベルグソン】より…真の実在とは何か。彼は,概念や言葉の空転を退けて内省に専念するとき,そこに意識の直接与件として現前する内的持続は,その疑いの余地なき明証性ゆえに,真実在,少なくともその一部とみなさるべきであるとする。そして,この内的持続への永い時間をかけた注意深い参入は意識にとって可能なのであるから,当時流行のカント・新カント哲学に抗して,実在認識は可能としなければならないと考えた。…詰まるところ、人間の外感覚からの人間の内精神の持続意識の無いところには流れそのものはあっても時間は顕れないということをシュタイナーは述べている。 熱の状態以前の土星進化は、どのような状態にあったのだろうか。その進化は、外的な感覚が知覚できるような何かとは、全然比較できない。現在の人間の内面世界においてしか体験できないような状態だけが、この熱の状態に先行していた。外からの印象をすべて排除して、魂そのものの中で形成されるイメージだけに没頭する人は、肉体の感覚器官ではなく、霊的直観によって知覚できるような何かを自分の中に見出す。超感覚的な知覚のみに開示されるような諸状態が土星の熱状態に先行している。 そのような状態を三つあげることができる。外から知覚できない純粋に魂的な熱、外からは闇でしかない純粋に霊的な光、そして最後に、自分自身において完成しているので、自分を意識するのに外の存在を必要としない霊的本質存在の三つである。純粋に内的な熱は「運動霊」の現われを伴う。純粋に霊的な光は「叡智霊」の現われを伴う。純粋な内存在は「意志霊」の最初の流出と結びついている。(P175)哲学・思想ランキング
2023年01月26日
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「神秘学概論」読解18 土星紀 ー1 熱状態 - 2 先ずもって、われわれは霊的な知覚器官を、この土星物体化の発端でも終末でもなく、その中期に向けてみよう。そうすると、そこには主要な部分においては、専ら「熱」だけから成る土星の状態を観取することができる。気体も液体も、まして固体も、その構成部分のどこにも見出せない。気体、液体、固体の状態はすべて、後の物体化の過程の中ではじめて顕れてくる。(P162) 物質的な感覚の世界での熱は、固体、液体、気体の状態である。しかしこの状態は、熱の外側もしくは熱の作用でしかない。外なる物体から受け取る熱の作用をすべて排除して、もっぱら、たとえば「暖かく感じる」とか「冷たく感じる」とかい場合の内なる体験だけを、心の中に蘇らせる努力をしてみる。そのような内的体験だけが、霊的進化の宇宙中期の土星紀についての観念を与えてくれる。(P163) 上記原文で表記される「熱」というのは、原文で表記されるのは独語;Waermeで、英語のwarmthのように「暖かさ」という意味もあるが、熱エネルギー、熱容量というような物理学上で「熱」と訳される言葉でもある。心象するのは難しいところがあるが、この「熱」の体験は土星紀を理解する上では非常に重要となる。更には、それを外からくる作用としてとらえるのではなく、内的な魂の体験としての「熱」としてとらえる必要がある。シュタイナーのいう「十二感覚」にも「熱感覚」があり、「嗅覚・味覚・視覚」魂とともに魂的な感覚とされている。因みに、触覚・生命感覚・運動感覚・平衡感覚が肉体的感覚であり、自我感覚・思考感覚・言語感覚・聴覚が霊的感覚とされている。肉体の萌芽として、最初にそういった魂的な感覚でとらえられる「熱」状態があって、その後の進化期を経て、現在のような肉体が形成されたということをとらえておく。そうすることで、いわゆる唯物的な肉体表象から脱することができるだろうから。ここで「肉体」について語るとき、われわれは現在の人間が担っている物質的な身体を思い浮かべたりしないようにしなければならない。肉体と鉱物体とを、慎重に区別しなければならない。「肉体」というのは、現在は鉱物界の中に観察されるような、物質法則に支配されている体のことである。現在の人間の肉体は、このような物質法則に支配されているだけではない。その上になお、鉱物の素材にも貫かれている。そのような物質的=鉱物的な体は、土星紀にはまだ問題になりえない。そこには、物質法則に支配されている物質的な身体だけが存在している。しかしその物質法則は、専ら熱の作用として表現されている。この物質体は精妙で希薄でエーテル的な「熱形体」なのである。そして土星全体はこのような諸熱形体から成り立っている。これらの熱形体は現在の物質的=鉱物的な人体の最初の萌芽なのである。(P164)哲学・思想ランキング
2023年01月25日
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「神秘学概論」読解18 土星紀 ー1 熱状態 - 1 「鉱物界、植物界、動物界の事物や生物は、後の進化期になって初めて形成された。今日の地球に見出される物質存在の中では、人間だけが当時存在しており、その人間の中でも、霊的段階においては肉体だけが存在していた。けれども現在、地球には鉱物界、植物界、動物界、人間界の存在だけが見出されるのではない。物質形態を持たぬ存在たちもまた見出せる。そのような霊的本性たちは、土星紀にも現存していた。そして彼らが土星の舞台で活動したからこそ、人間のその後の進化が可能となったのである。(P161) 土星紀には、人間の肉体の萌芽が形成された。そこには、まだ鉱物界、植物界、動物界は存在していなかった。物質存在としては人間だけがそこに存在していた。鉱物も、植物も、動物もそこにはまだ存在していなかった。もちろん物質存在ではない高次の霊的存在は存在していて、それが働きかけることによってはじめて人間の進化が可能になった。(*土星紀において働く霊的諸存在については、後にとりあげることにしたい。) エーテル体の萌芽ができたのが太陽紀、アストラル体の萌芽ができたのが月紀、そしてこの地球紀には自我が生まれることになったが、人間の肉体は、土星紀に萌芽として生まれ、その後、太陽紀、月紀、地球紀というように進化期を経るごとに成長完成していったととらえる必要がある。もちろん、肉体といっても、現在のようなイメージでとらえることはできない。その肉体の萌芽は「熱状態」であったといわれる。 しかしその「熱状態」というのは、土星紀の中期のこと。土星紀だけではなく、太陽紀・月紀・地球紀(*太陽と月を惑星と扱っていることに注目)も、惑星紀は没形態的霊的状態の時期、形態的霊的状態の時期、アストラル状態の時期、物質状態の時期、そして再びアストラル状態の時期、形態的霊的状態の時期、没形態的霊的状態の時期という七つの時期(周と呼ばれる)を通過するが、その第4段階の物質状態の時期である。哲学・思想ランキング
2023年01月24日
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「神秘学概論」読解17 霊的諸存在の階層的構造 霊的宇宙進化期の名称の恒星、惑星(*遊星)及び衛星が霊的太陽系として掲げられたあとは、夫々に位置する人類以外の霊的諸存在が人間の霊的存在に働きかける天使が登場します。「神秘学概論」に総てが登場するとは云えないが神秘学的に登場する天使の位階を知ることも神秘学的諸本の読解には有効に働くものと思われ一応整理しておきます。 第1階層:セラフィム=愛の霊 熾天使、ケルビム=調和の霊 智天使、トローネ=意志の霊 座天使 第2階層:キュリオテテス=叡智の霊 主天使、デュナメイス=動きの霊 力天使、エクスシアイ=形態の霊 能天使 第3階層:アルヒャイ=人格の霊(時代霊) 権天使、アルヒアンゲロイ=火の霊(民族霊) 大天使、アンゲロイ=生命の子、黎明の子 天使、 *そして加えること位階の定まらぬ自由霊としての人間の霊的存在 高次存在は高次の構成要素と関係しているように表象されるが、シュタイナーの「人智学指導原則」にも述べられているように高きものは低くされることもあるようだ。第1階層は、この地上において、専ら物質的なものに働きかけ、第2階層はもっぱらアストラル的なものに働きかけている。更に、第3階層は、専らアストラル的なものに働きかけている。 記:注目すべきは、シュタイナーは、人間の霊的存在が月期に登場する堕天使ルシフェルを想わせる霊から「精神の自由と知恵」を授かる文言が記載されていることです。サタンの誘惑から知恵の実の林檎を食したために楽園を追放されたアダムとエバの旧約聖書の別解としては非常に興味が湧くところです。
2023年01月23日
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「神秘学概論」読解16 霊的宇宙進化期の名称 - 2 シュタイナーの霊的宇宙進化論で必ず登場する土星紀、太陽紀、月紀という名称の土星・太陽・月は、通常我々が知っている天文学でいう惑星名の土星・太陽・月とどのような関係のあるのかについて、よく承知していないと、後々腑に落ちないところがあることになる。先の「遊星状態と中間状態」の章で「われわれの遊星(*惑星ではないことに注意)」も人間の転生のようなプロセスで物質化された状態と霊化された状態を繰り返しながら進化発展し、そこにさまざまな霊的存在が関わっているているということを述べたが、太陽系惑星と呼ばれているもののそれぞれを惑星進化段階及びそれに対応している霊的存在の居住地であるというふうに理解することができる。(記:因みに、「遊星」はPlanetの高橋巌訳)そういう意味で捉えれば、現在の地球というのは、私たち人間という進化段階にある存在が居住するために適した段階の惑星進化段階にある存在であるといえる。ところで、天王星、海王星、(*冥王星)関しては、「神秘学概論」を読む限り人間の霊的世界には関与していないのか登場しません。哲学・思想ランキング
2023年01月22日
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「神秘学概論」読解16 霊的宇宙進化期の名称 - 1 本書「神秘学概論」の個々の章の中で、人間の世界と人間自身とが、土星紀、太陽紀、月紀、地球紀、木星紀、金世紀、ブルカン星紀の初段階を通っていくと述べられている。また、土星、木星、火星などと呼ばれる諸天体が人間の進化とどう関係しているかが示唆されている。これら地球外の諸天体も、進化を遂げる。それらの天体が現在達している段階では、その物質部分が天文学で言う土星、木星、火星などとして顕れている。 さて、霊学の意味で現在の土星を考察すると、それは古い土星の再生した姿である。それは、太陽と地球との分離以前に、特定の本性たちが存在していたゆえに、生じた。この本性たちは、太陽の特性を発展させる場所に留まることが出来ず、土星紀に相応しい特性を多く組み込まれていたので、太陽と地球の分離を共にすることができなかった。しかし現在の木星は、未来の木星紀に発達させることのできる特性を持った本性達がすでにいたことによって、生じた。その存在たちのために、この見たいの進化をすでに先取りできる居住地が生じたのである。火星は、月紀の進化を遂げたにもかかわらず、地球紀の更なる進化が遂げられずにいる本性たちの居住する天体である。この星は、高次の段階における古月紀の再生である。現在の水星は、地球紀よりも進化している存在たちの居住地である。この存在たちは特定の地球紀の特徴を、地上で生じうるよりも高次の仕で育成しようとしている。地球紀に先行する諸状態と、地球紀の後に続く諸状態は、現在それらを代表している星の名にちなんで呼ばれているが、この呼び名の由来は、以上に述べたところから理解できる。超感覚的に直観された土星、太陽の他の霊的状態と、同じ名を持つ物質上の天体との対応関係を、外的な仕方で自然を観察する知性に従って判断する人は、以上に述べたことに対して、いろいろ反対するに違いない。しかし、数学の立場から、太陽系を時空間上の出来事としてイメージできるように、超感覚的な認識は、この数学的なイメージを魂の内容と結びつけることができる。そしてその場合には、上に述べた対応関係が認められねばならない。魂の内容とこの結びつきは、厳密な自然科学の考察方式と矛盾するものであってはならない。もちろん、自然科学の考察方式は、現在のところ、太陽系と地球との相互関係を、純粋に数学的、機械的な概念に従って求める。この考察方式がこのようなやり方をする一方で、未来の自然科学は、機械的なものを魂的なものにまで拡大する考え方をするようになるであろう。(P448-450/著者註より)哲学・思想ランキング
2023年01月21日
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「神秘学概論」読解15 地球の遊星状態と中間状態 - 2 物質体としての地球、エーテル体としての地球、アストラル体としての地球、自我としての地球、そして何より、それよりも高次の存在としての地球、このような霊学研究の意味で、地球進化の過程を過去へ向かって果てしなく遡っていくと、われわれの遊星の霊化された状態にまでいきつく。将亦、更にそれ以上にこの探究の道を遡っていくと、その霊的状態も、それ以前には、すでに一種の物質化の過程を経ていたことが見い出される。つまり、遙か遠い過去に物質化された遊星状態にあったが、それが次いで霊的な状態に変化し、そのあと再び物質的な素材に変じて、時を経て我々が在するような地球になったのだということがわかる。しかしこの生命を醸す地球は、こうして、ある太古の遊星の再物体化の姿を示している。しかし霊学は、それ以上にまで、遙かな過去を遡ることができ得る。そうすると、このような物質化の過程が、二度も繰り返されていたのを知る。つまり、霊学的観相によるわれわれの地球は、これまで三度も遊星状態を通過してきた。そして遊星状態と遊星状態との間には、常に霊化された中間状態が見られる。もちろんその物体化の状態は、過去を遠く遡れば遡るほど、ますます精妙な性質をあらわしている。(P150要項) 地球は、土星紀、太陽紀、月紀、そしてこの地球紀という進化期を経てきているということであるが、おそらく、この進化期は、心的・霊的にも想い描くのには困難が付き纏う。土星紀には人間の肉体の萌芽が、太陽紀にはエーテル体の萌芽が、月紀にはアストラル体の萌芽が形成され、そしてこの地球紀にはこうして自我の萌芽が形成されているわけなのだけれども、推測するに、それぞれの進化期は、それぞれにあっての萌芽の形成と過去に生まれたものの成長に適した在り方を準備するものといえる。それをどのようなイメージで理解するか。その解決には人間の転生を自己の持つ靈性感能力(悟性・理性)でとらえるべきであろう。「物質化された遊星状態」を生まれてから死ぬまでの状態と捉え、「霊化された状態」を死んでから再び生まれるまでの状態として捉える。詳細は神秘体験したものには容易かもしれないが、シュタイナーは「われわれの遊星(霊学主観)」も人間の転生のような時間・空間的経緯のなかで、物質化された状態と霊化された状態を繰り返し、希望的観測によれば進化、若しくは、劣悪化していることも有り得る。全ては現代に存する人間の理知と理性に期待されるが、過去の人類史は其の希望を砕くこと何度あったか。現代に身をもって存する人間の行動は予測が付きません。21世紀の現代では物理学的実験哲学に期待が寄せられる状態は豈図らんことではありません。哲学・思想ランキング
2023年01月20日
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「神秘学概論」読解15 地球の遊星状態と中間状態 - 1記:神秘体験から霊学研究に携わるシュタイナーの地球の捉え方は現代の実験物理科学に染まる世界からは突飛に思えるかもしれないが、人類史を見ても古代から何らかの大地の精霊に感応するのは歴史的事実であり、且つまた、我々が自身の身をもって海に潜り山頂を目指すのも自己の霊的精神感応の顕れともいえます。その人類を産み出した大地の母である地球は全くの物質の死に体なのでしょうか。そうではあるまいとシュタイナーは述べます。この地球において、少なくとも、物質体としての地球、エーテル体としての地球、アストラル体としての地球、自我としての地球、そして何より、それよりも高次の存在としての地球、更にはこれから形成されるであろう構成体としての地球、そうした進化プロセスを踏まえた存在としての地球を捉えて地球によって生み出された生命、とりわけ、人間の精神存在は地球の深奥にある疑問に挑戦すべきでしょう。哲学・思想ランキング
2023年01月19日
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2023年01月18日
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「神秘学概論」読解14 今この私のプロセスを自己認識 - 2 アストラル体が誕生し、自我が熟成すれば本來の自我に目覚め、その「自我」が誕生した後、人間は社会の中で人間関係を学ぶようになる。感覚魂、悟性魂、意識魂という、自我に浸透された魂が、その時の人間の生き方を規定する。次いでエーテル体が退化し始める。七歳から発展を遂げてきたエーテル体が再び元へ戻っていく。アストラル体も、これまで誕生時の素質を発展させ、「自我」の誕生後は外界を体験しつつ、自らを充実させてきたが、ある時点からエーテル体を霊的な糧として、エーテル体を食い潰していく。人間がさらに年をとると、エーテル体もまた肉体を食い潰すようになる。そして老年を迎え、肉体が衰えていく。このように、人間の一生は三つの時期に分かれる。肉体とエーテル体が発達する時期、アストラル体と「自我」が発達する時期、第三にエーテル体と肉体が再び衰えていく時期である。(P436-437/「霊学で用いられる諸概念」より) 何も子供についてだけではなく、こうした人間の段階的成長プロセスは、自分がこれから死に至るまでのさまざまな変化を理解していく際にも重要だと思われるし、自分より高齢のプロセスを迎えている人に対する認識を得るためにもかなり示唆的である。あれそれを踏まえて人間の構成要素の生成プロセスそのものとして惑星進化のことを理解すると、土星紀、太陽期、月紀、地球紀という進化期が理解しやすくなる。此のことは人間の成長や構成要素だけではなく、この地球上にある鉱物や植物、動物などのなど様々な要素「地・水・風・火の四大元素/四大精霊(しだいせいれい)として霊的存在を賦与されることも在る。」の質と形相に至るまで理解することでもある。逆にいえば、そうしたプロセスを内包するものとして、人間を、そしてこの地球をとらえていかなければ、何も理解し得ない。今ここに在るということは、今ここにだけということではなく、宇宙のあらゆるプロセスが今ここに照らし出されているということでしょう。ホワイトヘッドの『プロセス哲学(神学)』の「現成」を想起させます。シュタイナーは実のところ何処までを神秘体験したのでしょうか。シュタイナーは合理的・理性的・論理的世界観でもって神秘学を理解することを可能だとしますが、我々にはビッグバン以前の宇宙の始元を理解するのと同じく異相に想え、実証・認識は不可能にして、仮に光速無視の「現成」そのものを俯瞰できる人間ことあらば、人間は漸くにして真実を捉え得るとしますが妄想に終わる事無きにしも非ず。哲学・宗教・科学、神秘学を加えての単一宇宙であるユニバースを超えたマルチバース宇宙を包含した根源的世界を知りたいのは人間に与えられた「人間原理論」に見られる本性なのかもしれません。哲学・思想ランキング
2023年01月16日
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「神秘学概論」読解14 今この私のプロセスを自己認識 - 1 霊学の分野で正しい判断を下そうとする人が、現代をその霊的作用も含めて、十分深く観察することができ得るならば、進化の現在の完成段階と並んで、ちょうど同時性をもって五十歳の人と並んで一歳の幼児がいるのと同じように、過去の進化の諸状態もまた存在し続けていることを洞察するであろう。現在の地球の出来事の中に、太古の出来事を観て取ることは可能である。但しそのためには、それぞれ異なる進化状態の前後関係が相互にはっきりと区別できなければならない。霊魂段階の世界では、たしかに地球紀の人間と並んで、土星紀の人間、太陽紀の人間、月紀の人間が五十歳の大人のかたわらの三歳児のように、走り回ったりはしていない。しかしひとりの地球人の内部に、以前の人間の諸状態が、超感覚的に知覚される。それを認識するためには、吾々の生活状態に応じた識別能力をもっていさえすればよい。五十歳の人間と並んで三歳の子供子がいるように、生活する目覚めた人間と並んで、死に体、眠っている人間、夢を見ている人間が存在する。そして人間存在のこれらの異なる現象形式は、かつての異なる進化期の状態をそのまま表現してはいなくても、事実に即した眼は、そのような現象形式の中に、進化の諸段階を観るのである。(P151-152,P156) 今ここにいるということの重要性は、今ここに在るということが、あらゆる事が進む経過を内包しているということを意味している。此のプロセスが要らないというふうに捉えるとするならば、寧ろ今ここに在ることさえ否定してしまうことになる。言葉を換えていえば、自己認識がそこでは欠落してしまっている。今この地球紀において人間をやっているということは、そこには土星紀、太陽紀、月紀のプロセスが内包されている。樹木の年輪を見てもわかるように、その樹木の現在というのは育ってきた季節の積み重ねが現在の年輪のなかに顕れているといえる。その経緯から、その樹木の生い立ちを知ることも可能である。たとえば時期に応じ、年輪の育ち方にも違いがあったりもする。今ここに、私がいる、ということは、ここまでに至ったプロセスがそこに表現されているということである。いきなりこの地上に今の状態で現われたわけではなく、生まれ育ってきたプロセスがそこには内包されていて、それらの結果今の私がいるのであり、またこれからもさらにプロセスを積み重ねることによって、これからの私が存在することになる。従って、今この私ということを自己認識するにあたっては、子どもの頃の自分のことどもをも、今この私のなかにあるものとしてとらえていく必要がある。よくあることに、子どもと大人との違いというか、大人が子どもを見て過剰に驚くような現象があるが、その多くは、自分のなかの子どもを見ることができないが故にそうなってしまうことも多い。そういう意味で、子供という存在を捉えようとするときには、まず自分のなかの子供であったときのプロセスを自己認識しようとすることが欠かせない。そこにはシュタイナーが繰り返し人間の成長プロセスに関する示唆がある。 誕生から死に至るまでの人生の諸経過は、感覚的、物質的な肉体の変化だけでなく、超感覚的な存在部分の変化をも考察しなければ、完全に理解することができない。この変化は、次のような仕方で見ることができる。肉体の誕生は、母親の胎内からの離脱である。胎児が生まれる以前に母体と共有していた諸力は、誕生後は、子どもの中で独立した力となって働く。しかし、のちになると、誕生時の肉体の出生と似た経過が、超感覚的に生じる。すなわち、それまでエーテル体を覆っていたエーテルの覆いとが、六歳か七歳の歯の生え替わる時期に離れ落ち、そしてエーテル体が誕生する。しかしその時の人間は、まだアストラルの覆いに包まれているが、この覆いもまた、十二歳から十六歳にかけての思春期に離れ落ち、そしてアストラル体が誕生する。もっと後になると、本来の「自我」も誕生する。以上の超感覚的な諸経過は教育のために役立てることができる。哲学・思想ランキング
2023年01月15日
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「神秘学概論」読解13 思考・自由・精神科学 - 2 最初に「神秘学の性格」を押し出したことで「神秘学概論」では、科学が通常の対象としているものを対象とはしていないが故に、殊更に、「神秘学概論」では取り上げる精神科学が、如何に科学的かということが強調されているきらいがあります。否寧ろ、通常の科学的営為における認識が、素朴実在論的であって、その認識そのものの在り方が真に検討されることがあまりにも少ないということも示唆し、「神秘学概論」では取り上げる精神科学を強調しています。其の様なことから、シュタイナーがまずその精神科学の基礎として強調しておく必要があったのが、彼の取り上げた思考、つまりは「直観的思考」なのです。その前提として彼の精神科学における「自由の哲学」や「哲学の謎」などの著作の重要性が常に示唆されていた訳ともいえます。彼の著作「自由の哲学」の1918年の新版のための補遺の2に、彼の「直観的思考」に関する考えが示唆されているます。 思考の中には人間が現実の中へ精神的に参入することのできる要素がある。しけれども他方また、本書の精神全体から、知覚要素が思考によって把握されたときに初めて現実の内容となり得るという立場が明らかになる。思考の外には、現実と呼べるものは存在しない。したがって感覚的知覚だけが現実を保証する、と考えてはならない。知覚内容として生じるものを、人間は人生の途上で期待し続ける。しかし次のように問うことが出来得る。「直観的に体験される思考の観点からみて、人間が感覚的なもの以外に精神的なものを知覚できると期待してもいいのか」。このことを期待していい筈である。なぜなら直観的に体験される思考は確かに人間の精神活動ではあるが、同時にそれは感覚器官なしでも把握できる精神的な知覚内容だからである。それは知覚する人自身がそこで活動しているところの知覚内容であり、自己活動が同時に自己知覚されているのである。直観の中で体験される思考においては、知覚する人間 が精神界へ移されている。われわれは知覚としての世界の内部で、自分の思考が産み出す世界を、精神的知覚世界として認識する。この知覚世界と思考との関係は、感覚的知覚世界と感覚との関係に似ている。それを体験する人間にとって、精神的知覚世界にはどこにも未知の部分が存在しない。何故なら人間は直観的な思考の中で、既に純精神的な性格を持った体験をしているからである。このような精神的知覚世界については本書が出版された後で出版された数多くの私の書物が取り上げている。 「自由の哲学」はそのような後期の著作のための哲学的な基礎づけでる。なぜなら本書は正しく理解された思考=体験がすでに精神=体験であることを示そうと試みているからである。(イザラ書房・高橋巌訳より/P284-285) シュタイナーが、数学のような現物質のみに対象を縛られない思考を重要視していることも、それはここで述べられているような「直観的思考」と深く関係している。この「対象のない思考」が可能でないかぎり、人間は「自由」であることはでき得ない。人間は多く外的に対象のある様々なものからの反射的な動き「類型的な行為である反応行動」をもっていて、「彼岸的なもの」から行動してしまうのもそれとは無関係ではない。「天国や地獄」のイメージも外的世界の類推思考としてでてくるようにです。そういう意味で、神秘学の内容を理解しようとすれば、たとえば多く理解困難が指摘されるよう「神秘学概論」に登場する土星紀、太陽紀、月紀、地球紀などのような進化期の理解にしても、「外感覚的には対象のない思考」が必要となってくる。日常的な外的対象を知覚するようにすることでは、おそらくそれらを理解することはかなり困難だからである。そのための最初の入口として、また「対象のない思考」「直観的思考」を育成するためのひとつの訓練としても、また、「神秘学概論」の長文の序文として「自由の哲学」を読み込むことも重要です。哲学・思想ランキング
2023年01月14日
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「神秘学概論」読解13 思考・自由・精神科学 - 1 超感覚的な認識が語る事柄の中へ、純粋な思考を通して参入する人は、未だ見たことのない物質現象についての話をきく人と同じ事情にあるとは決していえない。この点はまったく明らかである。なぜなら、純粋な思考は、それ自身がすでに超感覚的な活動だからである。感覚的なものは、それ自身によっては超感覚的な事象にいたることはできない。しかしこの思考が、超感覚的な直観を通して物語られた、超感覚的な経過に向けられるならば、その思考の力は、自分自身によって、超感覚的な世界の中にまで成長していく。そもそも超感覚的な認識について述べられた内容を、思考を通して把握しつつ、高次の世界へ参入することは、超感覚的な領域の知覚能力を獲得するための最上の道のひとつなのである。このような道を進むことは、思考の明晰さと結びついている。それゆえ、霊学研究の特定の方向は、この思考を、すべての霊学的な修行のもっとも堅実な第一段階であると見做している。(P148-149) シュタイナーの主な著作といえば、「自由の哲学」・「神智学」・「いかにしてより高次の世界の認識を得るか」・「神秘学概論」が挙げられることが多いが、なかでも「自由の哲学」の位置付けはシュタイナーの精神科学のなかでは重要だと思われる。著作「自由の哲学」では、思考の重要性が説かれているのだけれども、それは、知覚内容と概念を結びつける直観的な思考体験によって真の現実を認識することができるということである。思考は、主観的でも客観的でもなく、現実の両側面を包括する原理であって、それによって、私たちは云わば彼岸的なものから行動するのではなく、自分の道徳的発想・想像力が与える自分の目的に従うことができる。つまりは、神的権威だとか、共通一般的倫理道徳だとか、そういうことからではなく、自分の意志で行動することである。其のこと故に、人間は自由であり得るのだということがいえる。 人間は「思考」によって自由な存在となる可能性を有している。そうでなければ、精神科学は自由を持ち得ない啓示宗教のようになってしまう。但し、スピノザ哲学は人間精神の精神自由の奔放性は否定していますが、何れにしても、ここでいう「思考」は、容易に誤解される。シュタイナーのいう「思考」はスピノザと相違し、寧ろ自由の根拠となっている。シュタイナーの精神科学が実のところ「神秘主義」ではないのではないかというのも、そこが大きな鍵となっている。シュタイナーの精神科学は、決して過去へ向かうものではなく、現代、そして未来において、その認識方法がいかに重要であるかということにも注目される。記:シュタイナーの究学論理と西洋哲学を日本独自に導入融和させた西田幾多郎の「善の研究」に或る種共通性があるのは何故なのだろう。其の共通性は「直観的思考」にあります。哲学・思想ランキング
2023年01月13日
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「神秘学概論」読解12 霊的認識への門出 仮に或る場面で誰かが手を上げる場合、この行為に対しては、二通りの考察の仕方が可能である。腕そのものの他の器官の機械的な構造を調べて、純物理的なその経過を記述することができる。しかし人間の魂の内部で、手を上げさせようとしているものに、霊的な眼差しを向けることもできる。霊的な知覚によって訓練された研究者は、後者のような仕方で、すべての感覚的即ち物質的な経過の背後に、霊的な経過を見ている。地球という「遊星(*敢えて惑星と表現していないことに要注意。現宇宙の太陽系惑星世界と霊的認識における太陽系をシュタイナーは同一視していない。)」のすべての素材における変化が、その研究者にとっては、素材の背後に存する霊的諸力の開示なのである。(P143-144) 私が水の入ったコップに手をのばす。その行為の「純物理的」な経過の記述をすることでは、何故にコップに手をのばしたのかということはわからない。喉が渇いていて水が飲みたかった、誰かに「そのコップの水とって」と頼まれたということを語ることはできるが、それを物質的な経過として述べることは困難である。そうしたかったらそうした。そんなにあたりまえのように思えることでも、本当のところは当たり前のことではないことに気付くことか神秘学は始まるのかもしれない。 将亦、何かが存在するということを証明することさえも困難である。事実そのものに対しては、単なる論理的根拠からだけでは、何ものをも反駁できない。このことは、わざわざ強調するまでもないであろう。鯨が物質界に存在するか否かを、論理的に証明することはまったくでき得ない。それには、眼に見なければならない。(P148)記:現代宇宙物理科学は宇宙の組成を4%の通常の物質・22%の暗黒物質・74%のダーク(暗黒)エネルギーであることを明かしている。此の暗黒と名付けられるのは人間の視聴及び外感覚にては確認不可能でありブラックホールそのものが黒色ではないのと同様です。それ故に現代宇宙物理科学は世界最大の水チェレンコフ宇宙素粒子観測装置スーパーカミオカンデの観測装置や大型ハドロン衝突型加速器(LHC)による素粒子衝突実験等を使用して宇宙の始原を再現することにより其の存在を明かそうと試みています。 眼に見えるということさえも、存在証明にはならないのはもちろんである。そして、この私が存在しているということさえも、論理的にそれを行なおうとしても徒労に終わる。論理においてできることとできないことがあるということがそれでわかる。其れ以上にまして、私がなぜ存在しているのかなどという問いはそう問うことそのものが多くの場合、意味を持ち得ないことである。倫理を論理化しようとする試みなども、交通安全のために設けられた交通信号や標識の意味を説明することを超えない。それはある目的のために決められたルール集でしかなく、そのルールは、ただそのように決めてあるというだけのことにすぎない。 現在、遺伝子操作や臓器移植などが、「生命の尊重」などの美名の仮面をかぶった科学者の好奇心のために、形式上は兎も角も、事実上では推進されているが、そこでなされている「純物理的」な操作に対して、そこで論義されている「倫理」のなんと稚拙で無力なことだろうか不安そのものである。哲学・思想ランキング
2023年01月12日
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「神秘学概論」読解11 - 2 物質界と霊界との相互作用 人間は霊界から物質界の状況に働きかけているだけではなく、逆に物質界での活動を通して霊界に働きかけている。人間と霊界相互の霊的な絆は、単に物質界のためだけにではなく、霊界のためにも織られる。人間の物質界において霊的な働きによって織られたものは、霊界においても存在し続ける。この世で深く結ばれ合った友人たちは、霊界においても、その結びつきを継続する。そして人体から離脱したあとは、物質界での生活におけるよりも、はるかに深く結びつく。なぜなら、すでに述べたように、霊的存在が他の霊的存在に、その存在の内部を通してみずからを顕わすように、霊となった友人同士も、互に相手の内部を通して結びつきを顕わすからである。そして、二人の間で織られた絆は、次の人生においてもその二人を再び結びつける。それゆえ、言葉の真の意味で、人間は死後においても再会を果たすことができる。(P124-125要項) 人間と霊界相互の霊的な絆を伴う永遠の友情関係というのも、非常に喜ばしい。人生を生まれ変わり、関係を変させながら、相互が共に手を携えていけるというのは我々が生きていく上で非常な希望ともなる。救世主たるイエスを「友なるイエス」と呼ぶことがあるように、「友」であるということには永遠の価値がある。神秘学を学んでいくことによって、死者のイメージが根本的に変わるとともに、地上的に形式化されてしまった関係性ではなく、霊的な意味で「友である」ような関係の永遠性は人間人生の宝石となり得る。哲学・思想ランキング
2023年01月11日
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「神秘学概論」読解11 - 1 物質界と霊界との相互作用 人間が新たに(*新ためて)地上に生まれ出てくるとき、「地球」が前の人生におけるときと同じ姿をしていることは決してない。人間が死後、地球から離れている間に、地球上ではあらゆる可能な変化が生じている。地球上のこの変化には、隠された諸力もまた働いている。その諸力は、死後の人間のいる世界から働きかけている。そして死後の人間もまた、地球のこの改造に協力して働いている。人間が生命霊と霊人とを生み出し、霊的なものとその物質的表現との関連が意識できるようになるまで、人間は高次の本性たちの指導の下でその働きを行なっている。人間は地球の状況を変化させるために、死から新たな誕生にいたる期間にも高次の本性たちと共に働き、地球を改造し、自分自身の進化にふさわしい状況を用意しているのである。ある時代の地上と、その後の長い時代を経てすっかり変化した地上との違いを生じさせたのは、死者たちの働きである。死から新たな誕生に至る間、死者は地球とも結びついているのである。 超感覚的な認識は、すべての物質存在の中に、隠された霊的なものの開示を見る。肉眼で観察する場合、太陽の光や気候の変化などが、地球を変化させている。超感覚的に観察する場合、太陽から植物に降り注ぐ陽光の中に、死者たちの力が働いている。人間の魂が植物の周囲を漂(ただよ)い、地上を変化させている。死後の人間は、自分自身の来たるべき地上生活のための準備をしているだけではない。地上の人間が物質的に働くように、死後の人間は、外界に対して霊的に働いているのである。(P123-124) 神秘学を学んでいると、死者のイメージがかなり変わってくる。ひとつには、死そのものを、「全て終わり」というような否定的に捉えることがなくなる。実際のところ、霊界からみれば、死のほうがむしろ誕生なのだから。それから、死んでは、けっこう長い間迷っている人がいるにしても、(*生前同様)死後から再誕までの間の人間もいろいろに忙しく、この地上世界とも深く関係しているということがわかってくる。ここに述べられているように、死者は新たな誕生までの間、地上に働きかけ続けている。死者は(*生者に劣らず)とっても創造的で独創的なのだ。寧ろ地上でこうして生きているほうが、ともすれば亡霊のような存在にもなりかねない。然し乍ら、そういった視点だけだと、地上世界はいわゆる物質と霊の二元論に特徴がある「グノーシス」、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想とらえられてしまう。やはり、この地上で生きる意味をしっかり認識する必要がある。(注:シュタイナーの説く「神秘概念」はシュタイナー説くところの方法論理で実相が掴めるとし、其処には、実相があり、信仰を強制する「絶対存在」は見え隠れはするものの其の存在は不確定と言わざるを得ません。) 実際のところ、この地上における認識がいかに深まるかに応じて、霊的世界での在り方が変わってくる。生きている間にわからないことが、死後わかってくるということは認識的には基本的に望めないということでもある。そういう意味でも、こうして生きている間に、霊界でできなかったことの種を蒔きできるだけ成長させておくということが非常な課題となる。地上は霊的存在が創造的進化を遂げるための反射板のような働きをしているともいえるのだ。そしてその反射板はただ反射するだけではなく、「自由」に反射の在り方を創造することも可能なのである。記:旧約モーゼは神の降臨、ナザレのイエスは父なる神との交流、マホメットは大なる天使のお告げ、仏教の世祖シッダールタは悟り。ではシュタイナー説くところの神秘学は何れに近似するのでしょうか。全ては人間の体験と認識であり、何れが正当だとも云えません。何れにしろ、其れ其れ皆が或る種の法則性を持ちます。現代物理科学は其れ等をも超える理論物理学に挑戦しています。哲学・思想ランキング
2023年01月10日
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「神秘学概論」読解10 眠りについて - 4 アストラル体の振る舞い ふつうなぜ人は眠るのかといえば、起きていると疲れてしまうから、その疲れをとるためだというふうに説明されたりするが、あまり説得力のあるものではない。この「疲労」に関して、シュタイナーは巻末の「註」で、詳細に分析している。 眠りと疲労の関係については、たいていの場合、事実に基づいた考察がなされていないので、眠りは疲労の結果おとずれると考えられている。しかしそう考えるのでは単純すぎる。興味のない話を聞かされたような場合、全然疲れていなくても眠ってしまう。そういうときこそ疲れるのだと言う人は、真剣に認識しようとしないで、そう語っているにすぎない。目覚めと眠りは、振り子が左右に振れるときのようにリズミカルな仕方で、魂と体との関わり方を変化させている。このことを先入見(類語:先入観)を持たずに観察すれば、魂が外界の印象を十分に受け取ったとき、自分の身体を十分に味わうために、別の状態へ移りたいと欲していることがわかる。外界の印象にふけることと自分の身体にひたること、魂はこの二つの状態を繰り返している。前者の状態にいる魂は、もちろん無意識に後者の状態を欲するようになる。そして後者の場合は、もちろん無意識に経過する。自分の身体を味わいたいと欲することのあらわれは疲労である。したがって、眠りたいから疲れを感じるのであって、疲れを感じるから眠りたくなるのではない。 人間の魂は、通常の生活習慣において必ずおとずれるこの二つの状態を、自分の恣意に従って呼び起こすこともできるから、外からの印象を受け取らなくても、自分の身体を味わいたいと願うことができる。つまり、魂の内なる状態が求めるのではない場合にも、眠ってしまうことがありうる。(P447-448) たしかに、疲れたから眠るというのは説明にかなっていなかったりする。たとえば物質的に疲労の物質がたまるからといってそれが眠る原因であるということにはならない。寧ろ、疲れすぎていると眠れなくなることさえある。シュタイナーは、「振り子が左右に振れるときのようにリズミカルな仕方」という説明をいろんなところで用いているのだけれども、の目覚めと眠りについても、そういうリズムとしてとらえるときに、はじめてシュタイナーの云うところの宇宙的な意味が理解されるのではないだろうか。 さて、眠っているときの肉体とエーテル体には、自我とアストラル体が存在していないのだろうかという疑問についてであるが、シュタイナーはどう捉えているのであろうか。つまり、眠っているときに、人が肉体とエーテル体だけの存在になっているのだとしたら、まさに植物とまったく同じであるということになるが、それだけではなさそうだというのはだれでも直感的に感じる。勿論のこと、シュタイナーに従えば自己のアストラル体と自我は、肉体とエーテル体を抜け出てしまうのだけれども、その代わりをするものがあることが想定される。そうでなければ新睡眠状態の人間は文字通り植物人間と化してしまう。 参照:「シュタイナー医学原論」を翻訳されたゲーテ・シュタイナー研究家である佐藤公俊氏はそのあたりについて、「薔薇十字の秘教」の第3講「人の性質と存在」のなかで触れておられる。 夜眠っている人は、謂わば、昼の植物のレベルに降下しているのです。人は2層存在になります。物質体とエーテル体は寝床にあり、アストラル体と自我は外にあります。皆さんは、それでは眠っている人は植物であると言えるのだろうかと、お尋ねになるかも知れません。そうではありません。しかし、その時人と植物は同じ体の組成で出ているのです。地上で物質体とエーテル体だけを持つ存在は植物です。アストラル体と自我が存在すると、物質体とエーテル体は変化を受けます。植物には神経網は存在しません。暖かい血があるのは、自我を持つ物質体だけです。高等動物は、原人間の退化した形態と見做さなされねばなりません。物質体で自我は血液に表出します。アストラル体は神経に、エーテル体は腺組織に、人の物質的性格はその体に、表出します。ですから、もしアストラル体が神経組織の創造者なら、事実そうなのですが、この神経組織は悲痛な状況にあります。睡眠中にそれはその創造者に見捨てられているからです。腺組織の場合は事情が違います。エーテル体はそれとともに留どまるからです。しかし物質体とエーテル体の血液組織は、夜、無慈悲に自我に見捨てられます。物質体は自分自身で存在出来ます。なぜなら物質的性質は同じままだからです。それは腺組織の場合も同じです。エーテル体は睡眠中も物質体の中に留どまるからです。ところが、神経組織はその主に見捨てられます。霊視意識に、その時、何が物質体に起きているのか、聞いてみましょう。人のアストラル体が夜に物質体とエーテル体から出て行く、ちょうどそれと同じ度合いだけ、「神的で霊的」アストラル体が寝床に横たわっている体に移行するのです。同じ事が血液組織にも当て嵌まります。神的ー霊的自我がその中に入り、その維持をします。夜にも、人は4層存在なのですが、高次の存在たちが寝床に残る二つの体を所有するのです。朝になって人のアストラル体と自我がエーテル体と物質体に帰って来ますと、彼自身のアストラル体は偉大な力の存在を追放します。同じ事が血液組織の場合にも生じます。人の自我は、夜の間、血液組織を維持してくれた神的ー霊的自我を駆逐します。神的ー霊的存在たちはいつも私たちの周囲に存在しています。昼間彼らは退かねばなりません。ちょうど私たち自身が夜には退出しなければならないのと同じです。こうした神的ー霊的存在たちは昼間は眠ります。一方人間存在たちは夜に眠ります。夜に神的ー霊的自我と神的ー霊的アストラル体は、寝床に眠る人の物質体とエーテル体の中に入り、朝にこれらの体を去って行きます。人の過程は正反対です。夕べに人は体を見捨てて、朝にそれらの所有を回復します。様々な宗教に、神々は昼間眠るという感情がまだ残っています。神々が一番深い眠りに落ちているといって正午に教会を閉める国もあるのです。(ルドルフ・シュタイナー『薔薇十字の秘教』第3講「人の性質と存在」1909年7月5日 ブダペストより/佐藤公俊訳)哲学・思想ランキング
2023年01月09日
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「神秘学概論」読解10 眠りについて - 3 アストラル体の振る舞い 生命と眠りは其の受け取り方によってはヒドラはもとより植物相まで含めるむきもあるが、如何なものであろう。「睡眠(すいみん)とは、幅広い脊椎動物にみられる、自発的に生じる静的状態であるとするのが一般定義でしょう。睡眠は動物、しかも多くの脊椎動物に限るとシュタイナーも想定しているように想えます。学術的には「睡眠(すいみん)とは、幅広い脊椎動物にみられる、自発的に生じる静的状態である。睡眠中は刺激に対する反応がほとんどなくなり、移動や外界の注視などの様々な活動も低下する。一般的には、閉眼し意味のある精神活動は停止した状態となるが、適切な刺激によって容易に覚醒する。このため睡眠と意識障害とはまったく異なるものである。 またヒトをはじめとする大脳の発達したいくつかの動物では、睡眠中に夢と呼ばれるある種の幻覚を体験することがある。」。この意味で睡眠は植物に意識があるとはいえない以上、寝ると表現されることがあるが、科学的には適当でないことになります。動物全般に於いても被捕食者は眠るとはいっても半覚醒であり、腹を見せて眠るのは最強捕食者にしか見られない行動といえます。其の点を鑑みれば人間も仰向けで眠る以上は最強捕食者になります。ただし、人間には他の動物には見られない精神活動として自我が備わります。 シュタイナーは問います。では、人はなぜ眠るのだろうか。眠らなければ生きていけないのだろうか。人体の形姿は人間のエーテル体によって維持されている。しかしエーテル体は、その人体の形姿を維持するのに必要な力を、アストラル体から受け取る。エーテル体は肉体の彫刻家であり、建築家であるが、その形成の仕方をアストラル体から受け取るのでなければ、正しい形成は行なわれない。アストラル体の中には、エーテル体が肉体を形成する際の手本が存在している。ところが、覚醒時のアストラル体には、人体を形成するのに必要なこの手本が、完全には備わっておらず、それがあったとしても、ある程度までにすぎない。なぜなら、覚醒時の魂は、そのような手本を提供する代わりに、自分自身の中に現われる模像を提供しているからである。感覚を働かせて周囲を知覚している人は、その知覚活動を通して、自分のこころの中に周囲の世界の模造を形成している。その模像は、肉体を維持するためにエーテル体が必要とする形象を妨害する働きをしている。もしも人間が、エーテル体のために役立つ形姿を、アストラル体に生じさせることができたとしたら、そのような妨害は存在しなくなるだろう。 (P89-90) アストラル体は、眠りの間に、アストラル界から「エーテル体が肉体を形成する際の手本」を受け取り、目が醒めて後、エーテル体にその「手本」を渡す。従って、眠らないとその人体の形姿を維持することができなくなるのである。哲学・思想ランキング
2023年01月08日
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「神秘学概論」読解10 眠りについて - 2 アストラル体の振る舞い アストラル体は本来アストラル界に属しているというのは、肉体が物質的世界に属していて、その世界から切り離されては存在し得ないので、シュタイナーはそれを「指が人体の一部であるのに似ている。指を手から切り離してしまえば、指は指であうことができ得ず、干乾びてしまうと表現しています。記:「睡眠の起源がどこにあるのか?」という問いをきっかけとしてシュタイナーの言うアストラル体の振る舞いの仕様が解りやすくなります。其の分かりやすい例として刺胞動物のヒドラをモデルとした実験に興味深いものがあります。Wikipediaによれば、ヒドラ (Hydra) とは、刺胞動物のうちヒドロ虫綱花クラゲ目ヒドラ科に属する淡水産の無脊椎動物の総称である。特徴としてヒドラ科 (Hydraceae) の動物は、細長い体に長い触手を持つ、目立たない動物である。これらは淡水産で群体を作らず、浅い池の水草の上などに生息している。体は細い棒状で、一方の端は細くなって小さい足盤があり、これで基質に付着する。他方の端には口があり、その周囲は狭い円錐形の口盤となり、その周囲から6 - 8本程度の長い触手が生えている。体長は約1cm。触手はその数倍に伸びる。ただし刺激を受けると小さく縮む。触手には刺胞という毒針を持ち、ミジンコなどが触手に触れると麻痺させて食べてしまう。全身は透明がかった褐色からやや赤みを帯びるが、体内に緑藻を共生させ、全身が緑色になるものもある。暖かな季節には親の体から子供が出芽することによって増える。栄養状態が良ければ、円筒形の体の中程から横に小さな突起ができ、その先端の周辺に触手ができて、それらが次第に成長し、本体より一回り小さな姿になったとき、基部ではずれて独り立ちする。場合によっては成長段階の異なる数個の子を持っている場合もあり、これが複数の頭を持つと見えることから、その名の元となったギリシア神話のヒュドラを想像させたものと思われる。また、強力な再生能力をもち、体をいくつかに切っても、それぞれが完全なヒドラとして再生するとあります。また、ヒドラの睡眠研究としては、同じ刺胞動物のサカサクラゲに睡眠がある可能性が報告されており「睡眠が脳を獲得するよりも先に存在していた」との可能性が示唆されています。睡眠の起源が脳よりも先にあること、さらにはそのメカニズムも私たちの睡眠と共通していることを明らかにすることができたとの報告もあります。興味深いことに、ヒドラは脳だけでなく、睡眠の概日周期性を制御する時計遺伝子もありません。つまり、ヒドラは明るいときに起き、暗いときに寝るというとてもシンプルな睡眠・覚醒を示します。脳と時計遺伝子の両方を欠いた動物にすら睡眠が存在するということは、興味深いことですが、いずれにしろ、睡眠とは人間固有の習性ではなくエーテル体はまだしも、アストラル体を保持する筈もありません。そこには、人間の睡眠と他の生物の睡眠とは顕著な異相があります。哲学・思想ランキング
2023年01月07日
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「神秘学概論」読解10 眠りについて - 1記:此の章でシュタイナーが扱う「睡り」は、現代医学で云うところの一定周期で交互に訪れる「ノンレム睡眠:眠りが深い状態」と「レム睡眠:脳が活動している状態」を想定していないので、どちらとも言い難いが、シュタイナーが印度の「瞑想」にも知悉していたことを鑑みると、シュタイナーが扱う「睡り」は「ノンレム睡眠:眠りが深い状態」を指すと見られます。現代医学の研究によれば、定期的に瞑想する人は、徐波睡眠やレム睡眠が増えることが分かっているからです。 人間が眠りに陥ると、その本性部分の関連に変化が生じる。眠っているとき、ベッドに横たわっている人間は、肉体とエーテル体を含んでいるが、アストラル体と自我とを含んではいない。睡眠中は、エーテル体が肉体と結びついているおかげで、生命が活動し続ける。肉体は、もしも単独で存在するようになったら、その瞬間に崩壊し始めるであろう。けれども睡眠中は、思考内容も、快と苦も、喜びも悲しみも、意識して意志を行使する能力も、消えてしまう。これらすべての担い手は、アストラル体なのだが、あらゆる快と苦、あらゆる思考世界と意志世界を伴ったアストラル体が、睡眠中は破壊されている、とは誰も考えない。アストラル体は、ただ、別の状態において存在している。人間の自我とアストラル体とは、快と苦その他のすべてを担っているが、そのことを意識するためには、アストラル体が肉体、エーテル体と結びついていなければならない。覚醒時のアストラル体は、そのような在り方をしており、睡眠中のアストラル体は、そのような在り方をしていない。アストラル体は、肉体、エーテル体から抜けているとき、肉体、エーテル体に結びついているときとは異なる在り方をしている。(P87-88) 眠るというのは、自我とアストラル体が肉体、エーテル体から抜け出るということであり、その際、意識が失われてしまうのは、現段階の人間が、物質的器官によって知覚するしかないからである。我々の通常の覚醒意識というのは、アストラル体が肉体、エーテル体に結びつくことによって可能になる。死の際には、生命体とも呼ばれるエーテル体が肉体から抜け出てしまい、肉体の崩壊が始まることになる。では、眠っているときに肉体、エーテル体から抜け出たアストラル体はいったいどこに行っているのだろうか。 肉体が物質世界に組み込まれているように、アストラル体はアストラル界に従属している。ただ覚醒時の生活におけるアストラル体は、アストラル界から切り離されている。その事情は、次のような類比によって暗示できる。水の入っている容器を考えてみよう。その水中の一滴は単独では存在していない。けれども海綿を手にして、その水の中から、一滴の水をそれに浸み込ませることはできる。人間のアストラル体も、目覚めるときに、同じ様な経過を示している。睡眠中のアストラル体は、自分と同質の世界の中にいる。目覚めるとき、肉体とエーテル体がアストラル体を吸い込み、みずからをアストラル体で充たす。それらはアストラル体のために、外界を知覚する諸器官を提供する。しかし、アストラル体は、外界を知覚するために、自分の世界から切り離されねばならない。ただ、自分の世界からは、エーテル体のために必要となる手本だけを受け取る。 (P91-92)哲学・思想ランキング
2023年01月06日
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「神秘学概論」読解9 「眠りと死」の章より - 3 神秘学的な意味での眠りや死への直接的なアプローチ方式で唯物論的なアプローチの問題点は、ごく簡略化して云えば、この我々人間が存する宇宙が偶然によって偶々に存在していると考えることそのものが孕んでいる矛盾ということでもある。*参照:人間原理(anthropic principle)とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。 史的唯物論において述べられるような歴史の展開のようなものも、その理念がどこからきたのかを問わざるをえなくなる筈なのに、そこだけは見て見ない振りを装うわなければならない場所になる。抑々が「唯物論」という「考え方」そのものが意味を持たなくなる。且つまた、「べき論(為すべきことを為せ)」、ドイツ語でいえばsollenということは単に、人間関係の調整論以外の何者でもなくなってしまい、たとえば「人を殺してはならない」というのも、人間関係を円滑にするためにそれに対して罰則を設けるという以外のなにものでもなくなる。極論すれば他者にばれなければなにをしてもいいということになる。此のような状況からの影響で、いわゆる理論と実践の乖離というか、そういった二分法がつくられてしまうことになる。目にみえることをしないと実践ではないということにされ、それがなくては成立しない筈の「思考内容」がなおざりにされた儘になってしまうことになる。しかし、実際のところ、そうした「実践」と名づけられた場所では固定化されているがゆえに、それが人を縛ることになってしまうような、問い直してはならない「思考内容」が無意識のうちに働くことになる。 神秘学的なアプローチは、そのような無意識のうちに働く思考内容、それとは気づかずに自分を縛っているものの多くを気づかせてくれる。生と死・覚醒と眠り・夢といった切り離されたままになってしまっているものを、その根底から問い直そうとする。哲学・思想ランキング
2023年01月05日
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「神秘学概論」読解9 「眠りと死」の章より - 2 神秘学的な意味での眠りや死への直接的なアプローチではないが、フロイト以降の「無意識」の探究というのは、少なくとも今自分が見えているものだけ、意識できるものだけを世界のすべてであるとすることをなくする意味では多少はそうしたアプローチの出発点とはなり得るかもしれない。然し乍ら、いわゆる深層心理学的な探究方法によって、生と死を貫く世界の秘密に迫るには、その限定された領域と方法論ゆえに、かなりの無理があるようにも思える。中途半端に正しい部分をもっているがゆえに、それ以外の部分への錯誤が生まれ易なってしまう可能性が無きにしもあらず、そうした錯誤にはかなり注意が肝要である。それはさて置き、「眠りと死」の章の引用にあるように「人間の創造行為は、この世の人生に没頭することに基づいている」と捉える仕方の意味とその限界とは、本章「眠りと死」にあるつぎのような二つの例えで理解することもできる。 家を建てるには、レンガをひとつずつ積み重ねていかなければならない。だから出来上がった家の形態や構造を、純機械的な法則に従って説明しても一向に構わない。人がそう説明するのなら、超感覚的な認識も亦それをすべて承認する。しかし家を建てるには、建築家 がそれを設計しなければならないが、物質的な法則だけをいくら調べても、その設計思想はどこにも見出せない。(P93)*魂の建築家アントニ・ガウディ(Antoni Gaudí i Cornet /1852年 - 1926年) ある人物の人格が遺伝的特質から生じる、という主張は、時計の金属部分が自ずと集まって時計になるという主張と同じようなものである。けれども、時計の金属部分がおのずと集まって、時計の針を先へ進めることなど出来ない。針が進むのは、霊的な何かがそこに仂いていているからに他ならない。其れというのと似た仕方で、霊界について語る人が多い。そのような言い方よりも、時計の針を先へ進める神秘的存在のことなどには全然興味がない、時計の針を先へ進める機械的な仕組みを知ることで十分だという人の方が、はるかに説得力がある。時計のような機械の背後に霊的存在(時計屋)が存在するということが大切なのではなく、時計屋の精神の中にあらかじ時計について思考内容が存在していなければ、時計は造れないということが大切なのである。そしてその思考内容は、機械そのものを通して確認できるものでなければならない。(P130)哲学・思想ランキング
2023年01月04日
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「神秘学概論」読解9 「眠りと死」の章より - 1 人間の目覚めの状態における覚醒意識の本質を解明するには、人間の睡眠状態がどのようなものかを観察できなければならない。そして人生の意味の謎を解くためには、死を考察できなければならない。超感覚的な認識の意味が分からない人は、眠りと死をどう考察するにしても、其の認識を如何わしいものと思うであろう。超感覚的認識は、如何わしいと思われる理由を認めるのに吝(やぶさ)かではない。なぜなら、人間は充実した人生を積極的にすごすために存在しており、人間の創造行為は、この世の人生に没頭することに基づいているという言い方も理解できなくはないのである。(P85) なぜ生のこともまだわからないのに死について語ることができるだろうかというのは尤もなことであるし、生をなおざりにするために情緒的に死に近づくよりは、生に積極的なぶんだけいいだろうというのも納得できないことはないのだけれど、今自分が見えているものだけ、意識できるものだけを世界のすべてであるかのようにとらえてしまうとするならば、その生さえも断片的なものでしかなくなってしまうのも確かである。 記:此のことは古今東西、人間の科学志向の方向性の技術発展が見得る世界を物理的に発展させ、認識世界の更なる拡充と見直しが図られています。今尚、人間の感覚認識を超えた世界(暗黒物質・暗黒エネルギー)に目を向けている現代物理科学世界を知れば容易に理解ります。 死を考察しないがゆえに、多くの人は死に際して、「死」に直面するには、一人称における「私の死」、二人称における身近な人の死、そして三人称における一般的な死があるが、現代はすでに真実その意味もわからなくなっている形式的な儀式に機械的に対応する以外にすべがなくなっているようにも想える。少しでも葬儀やその後の墓という形式に疑問を持つならば、死んですべてが終わると考える場合、それらはすべてがまったくの茶番でしかないし、死後の真のプロセスを理解しようとする場合でも、俗世間上で行なわれている宗教慣習というか儀礼や風習も、ときにはあまりにも滑稽なものとせざるをえないように思えることもある。記:神社神道では、亡くなった方は、火葬・埋骨された後もその霊魂は祖先の霊とともに家に留まり、遺族の守り神になるとされます。仏教では、高潔な方で亡くなった場合は来世で仏弟子として生まれ変わるとされますが。哲学・思想ランキング
2023年01月03日
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「神秘学概論」読解8 肉体を覆う三重のヴェール - 2 自我がアストラル体に働きかけて霊我が、エーテル体に働きかけて生命霊が、そして肉体に働きかけて霊人が生じる、というときに注意が必要なのは、「人間存在の一人ひとりに於いて、アストラル体は二層である」といわれているように、アストラル体、エーテル体、肉体は其れ其れが「ヴェールに覆われている」ということである。しかも、そのヴェールは、アストラル体においては一重であるが、エーテル体においては二重であり、肉体においては三重であるということ。そのヴェールに覆われているということは、「神秘学概論」の後の章の「宇宙の進化と人間」に詳述されているように、肉体が土星紀、太陽紀、月紀を経、エーテル体が太陽紀、月紀を経、アストラル体が月紀を経ているということに関係している。そして、変容はアストラル体、エーテル体、肉体の、ヴェールに隠されたものにおいて起こる。霊的な事象を素朴、素直ととも云える態度で捉えて考え過ぎる人は、唯物論的態度ではいけないというように、物質的なものが低次で霊的なものが高次であるというふうに捉えがちであり、物質的なものを軽視しそれに対する認識を深めることがなおざりにされる傾向もあるようにも思われるが「現在の人間の四つの構成部分の中では、肉体がもっとも古い部分である。肉体はまた、最高の完全さに達した構成部分でもある」(P156)とあるように、肉体に関する認識を深めていくことは、また「人間のもっとも高次な作業に属する」と思われる。 第一ヒエラルキア(「階層/hierarchie)が物質レベルに、第二ヒエラルキアがエーテルレベルに、第三ヒエラルキアがアストラルレベルに働きかけるというのも、物質レベルがもっとも古い歴史を経ていて、それゆえに何重ものヴェールに覆われているということ。”キリストの復活”ということに関しても、まさにその肉体レベルでの変容に関わるものであるように思われる。シュタイナーは、その最晩年において、物質に関わる事象についての講義を急いだような印象があるが、それがもっとも認識の困難なものだからのように思われる。いわゆる「心の教え」的な内容に関しては、人智学でなくてもさまざまな示唆には事欠かないところがあるが、そうした物質に関わるところまでふくめたかたちでトータルな認識を提示しようとしたことにおいて、人智学の独自性とその現代性があるのではないだろうか。逆にいえば、物質の認識に関わる観点の欠如した人智学はその存在意味として、IT技術発展に伴う認証物理科学の現代性は持ち難いのも事実である。哲学・思想ランキング
2023年01月02日
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「神秘学概論」読解8 肉体を覆う三重のヴェール - 1 人間は、自我による魂への働きかけによって、開示されている魂の中から、隠された魂を現出させることができる。人間は、アストラル体にまで自己の働きかけを拡大することができる。そして自我がアストラル体を支配し、みずからをアストラル体の隠された本性とひとつに結びつける。そのようにして自我に支配され、変化させられたアストラル体は、「霊我」と呼ばれる。 人間はアストラル体の背後に存する、隠された諸力にまで踏み込むことによって、アストラル体を支配するようになるが、同じことが魂の進化の過程で、エーテル体についても生じる。しかしエーテル体への働きかけは、アストラル体への働きかけよりも、もっと高い集中度を必要とする。なぜなら、エーテル体の中に隠されているものは、二つのヴェールに覆われているのに、アストラル体の中に隠されているものは、ひとつのヴェールに覆われているだけなのだからである。人間がもっぱら快と苦、喜びと痛みに左右されている限り、自我がアストラル体に働きかけているとは言えない。魂の諸特性を変化させるときにのみ、そう言えるのである。そして自我の働きが、さらに性格や気質をも変化させようとするとき、その働きは、エーテル体にまで及んでいる。どんな人の自我も、それを意識しているかどうかに関わりなく、エーテル体を変化させようと働いている。この分肢は、霊の第二の本性として、「生命霊」と呼ばれる。しかし自我の働きは、アストラル体、エーテル体への作用に尽きるのではなく、肉体へもその作用は及んでいる。肉体への自我の影響は、たとえばある種の体験の結果、顔が紅潮したり、蒼白になったりするときにも認められる。その場合、自我が肉体の中に変化を惹き起こしている。肉体に変化を生じさせる自我の働きは、肉体の隠された力と、肉体の諸経過を惹き起こす隠された力と結びついている。こういう言い方を誤解して、この隠された働きを物質的なものと考えてはならない。物質的なものとなって肉体に現われるのは、肉体の中の開示された部分にすぎない。この開示された部分の背後に、隠された力が働いている。その力は、霊的な種類の力である。肉体となって現われている物質的なものへの働きかけが、この場合問題なのではなく、肉体を生じさせ、そして崩壊させる、眼に見えない諸力への霊的な働きかけが問題なのである。通常の生活においては、肉体への自我の働きは、極く曖昧な形でしか意識されることがない。明瞭に意識されるのは、超感覚的認識を通してこの働きを意識化する時のみである。そしてその時には、人間の中に第三の霊的本性が存在していることが明らかになる。それは、肉体の対極にあるものとして、「霊人」と呼ばれる。肉体の中に人間のもっとも低次の分肢しか見ようとしない人には、 霊人を誤解してしまうであろう。そして、肉体への働きかけが人間本性の最高の分肢を生じさせるとは、とても思えないであろう。けれども肉体が、そこに働く霊を三重のヴェール(物事の真相や本当の姿がわかりにくくなっている要因、中東などでは宗教上の理由や日差しを避けるために日常的に用いられれ、かつては悪魔などから身を守る効果があるともされた。)で覆い隠しているからこそ、自我と肉体の隠された霊とをひとつに結びつけることは、人間のもっとも高次な作業に属するのである。(P76-81)哲学・思想ランキング
2023年01月01日
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