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閑話休題:ディドロの自然科学の解釈4 物質観-1:唯物論の限界 ディドロによれば、生命とは性格には感性と刺激性の合致である。そして感性も刺激も運動である。特に生きた感性は生物の特殊な運動形態である。そして生物とって感性は、条件反射等により自分と其の環境との諸関係について、予め知るという意義を持っていると述べる。更には、魂の問題に関しても、ディドロは魂は生物(動物)の発展段階ととも一緒に成長し、身体とともに老い、そして生きた感性は死んだ感性に移行即ち死を迎える。魂は生物(動物)の統合であり、その全体の産物である。魂は脳髄において顕われるが、脳髄は特殊な組織であって、感官が外部から受けた印象を保存し記憶しておく。思考はそれらの印象を相互に連結し結合することから生じる。思考はそれらの印象を相互に連結し結合することから生じる。この思考において、自分が最初に反省を始めた時から現在に至るまで、それ自身であったという、自我であるといわれるものだと解きます。ディドロの生命観は、死んだものから生きているものへ、そして同時に生きているものから死んだものへという相互移行、或いは循環の思考背景があります。彼の分子論に、人間身体を構成する細胞を当て嵌めれば「細胞」には同質的なものはなく、まさに、遺伝子の活動の基盤であり、これ等の結合と分離によってあらゆる現象が起こる。詰まるところ、人間原理については必ずしも進化論を予期しています。世に云うマルクス・エンゲルスが確立した20世紀を席捲した哲学である「マルクス主義」は、現代でも多大な勢力を誇ります。但し、自然哲学として物理科学的な価値は今は薄れ、社会科学的思想としては未だに価値ある思想でしょう。何故なら、唯物主観・史観は宇宙の究極の起源因に関して無関心であり、社会科学に関心を置くものだからです。然し乍ら、人間は世界の存在因、及び、身に精神を生ぜしめた根本因を知りたい欲求を抱えています。哲学・思想ランキング
2023年03月31日
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閑話休題:ディドロの自然科学の解釈3 物質観-1:物質と運動-5 ディドロの言に従いて現代物理に宇宙・天文・物理科学をみれば、此の宇宙には運動しつつあるもののなかにあるどころか、静止しつつあるものにもあるとしているので、まさに量子論の不確定性原理の世界に運動が在することになる。更に、物質である限りは現在物理科学では最小とされる物質、四つの力に代表される素粒子間に働く相互作用「強い力、弱い力、電磁気力および重力」のそれぞれに既に運動が組み込まれていることになります。其れ故に世界における時空間には静止はなく運動のみが存在することになります。 更に驚嘆すべきは、ディドロは物質には感性があるといいます。感性とは事故の外世界である物事を感覚的に受け止める力です。ディドロは無機物の感性を死んだ感性とか、受動的な感性といい、これに対して有機物に備わる感性を生きている感性、能動的な感性という。だから、此の見地に立つと、例えば人間は絶対的な意味での生から死へ移ることは無くなる。そこに行われているのは、生から一時的な死へ、死から一時的な生へ移ることだけである。ディドロは、死んだ感性から生きている感性への移行を、つまり、感性を生物において突然生じる性質とはみないで、無機物の運動の状態が変化し発展したものであるという考えに移行していきます。此の思考からは人間を含む生命の生死には創生・滅亡は無く運動の変化しかないことになります。仮に運動なるものが須藤靖理学博士の述べる「マルチな世界」観に適応すれば、究極の存在が運動であり、其の運動はある種の力の顕れなのか、其れを問うべきは、今はもはや象牙の塔に籠もった哲学ではなく先端物理科学に期待する時代なのでしょうか。哲学・思想ランキング
2023年03月30日
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閑話休題:ディドロの自然科学の解釈3 物質観-1:物質と運動-4 ディドロの物質観を述べた時代の物理科学では精々が分子レベルの解析程度で、漸く単一性質としての、其れも全てが同一性を持った原子が理論上に登場したばかりです。其れ等の組み合わせにより分子が構成されていると考えられていました。其れ故に、彼の言による物体にはその内部に「作用と力」が充ちている。つまり、物体が静止しているときでもその内部には絶えず運動がある「分子」があるのであって、その運動によって物体は変化しつつあるのである。と述べています。此のディドロの分子の解析を現代物理科学の最前線である量子重力理論に見立てて見ましょう。超弦理論とは、この世界を構成する粒子=素粒子は点ではなく、弦(ひも状のもの)であると考える理論である。素粒子には、中間子や陽子、電子などのクォーク、電子やニュートリノなどのレプトンが発見されており、いずれも物質を構成する素粒子である。また、先に述べた4つの力を媒介するゲージ粒子、質量を与えるヒッグス粒子などが実験などによって存在することが明らかになっている。しかし、これらの素粒子をそのまま用いるだけでは、場の統一理論を導くことができない。そのため、素粒子を1つの弦(ひも)の状態であると仮定し、その弦が、閉じていたり、開いていたり、振動することにより様々な波形をつくることで、その性質を理論化しようという試みがなされている。つまりは、ディドロの物質観の「分子」を「原子」どころか「素粒子レベル」においても「作用と力」が充ちていることになる。但し、現代物理科学理論の素粒子レベルは更に一歩遡及できてマルチバースを組み込んだ宇宙創生の動作因、自ら運動する限りなく大いさが無に近づき運動量が無限の運動する作用因を持ったものが予想される。哲学・思想ランキング
2023年03月29日
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閑話休題:ディドロの自然科学の解釈3 物質観-1:物質と運動-3 ディドロの時代の物質観、先ず最初に運動のない物質があり、此の物質が外部から動かされてはじめて運動するのだとすれば、その外部の物質は運動しない物質であり、しかも運動せしめる物質となり、自らは動かず不動であり、他者を動作させることになり「動作因」そのものの定義に矛盾を持ち込みます。「作用因」には何かしらの運動要因が本質に込められている筈ですから。此のことは宇宙が静止状態にあるとした、かのアインシュタインさえ宇宙の静止状態の維持には宇宙項なる運動要因を持ち込んだことからも解かる通り、現宇宙には不動なものは無いとするのが妥当でしょう。須藤靖の理学博士の世界観を思考方法に取り入れれば、世界はある原理に従いて運動している。その世界とは原理的に見れば「多元宇宙(マルチバース)を組み込んだ世界原理→我々人間が在する世界の単一宇宙(ユニバース)としての原理→単一宇宙内におけるあらゆる組成存在の原理→現時点では世界内存在として宇宙を認識し得る「意識」即ち人間原理を持った人類が観想されます。何れにしろディドロの物質観、自然あるいは物質の全てものの基礎は運動であり、その源泉だとする主張は現代においても正当だと云えることには驚きを隠せません。哲学・思想ランキング
2023年03月28日
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いっぷ句-80春一番ミニスカよりもマキシ丈 愚通にほんブログ村
2023年03月27日
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閑話休題:ディドロの自然科学の解釈2 物質観-1:物質と運動-2 ディドロの時代の物質観は最初には運動のない物質があり、此の物質が外部から動かされはじめて運動するのだと考えられていた。此の考えでは現に運動して作用しあっている物質も、結局は外部の関係においても作用が連動しているに過ぎず、運動物体であればその先の先、最初の静止した物体に作用したものの存在が浮上し、恐らく其れは観念的なものとなろう。ディドロは此の古い物質観あるいは運動感に反対する。 記:此れ以降は、ディドロの在世中には相対性理論は勿論のこと量子理論は理論すらなく、ましてや、量子重量理論の超弦理論は仮想さえ覚束ない精々が「分子」が観測されようの時代であることには目をつぶり、その物質世界観を「分子」を超弦理論(超ひも理論)に読み替えてみれば、その物質観には脱帽せざるをえない。ディドロによれば、物体には作用と力が満ち満ちている。つまり、物体が静止しているときでもその内部には絶えず運動している「分子(*現代量子物理科学が観測物理科学で示す素粒子を超える「振動する弦」に置き換え)があるのであって、その運動によって物体(*世界像であり須藤靖理学博士による人間原理やマルチバースを組み込んだ世界)が、限りなく小さいが「運動する未だに仮想することさえでき得ないエネルギー体」から生じたことを示唆しているのです。哲学・思想ランキング
2023年03月27日
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閑話休題:ディドロの自然科学の解釈2 物質観-1:物質と運動-1 ディドロは、全ての唯物論者と同様に、自然あるいは物質が総てのものの基礎であり源泉だと主張します。即ち、世界、此処では須藤靖(すとう・やすし/1958年 - )理学博士、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻教授における「世界」の定義の物理科学的世界観を借りて「世界」を眺めます。須藤博士の世界観に拠れば我々が通常表象するところの世界は人間が在するところのユニバースとしての単一宇宙の世界像であり、彼の思考するところの世界は現代宇宙論における4種のマルチバース宇宙を想定したものが「世界」であり「世界」は現代観測物理科学ではマルチバース不可視であるところのものを取り込んでいます。それ故に、世界>現時の観測可能世界として人間に内在する宇宙観を含有する宇宙となります。此処には主観的観念論は入り込む余地はなく唯物論的科学態度が見て取れます。さすがに、ディドロのフランス革命の啓蒙思想的準備者としての彼の時代には観測宇宙科学・実験物理科学は拙いものであったが、彼の物質観は現代物理科学の量子重力理論を予期させるものでした。須藤博士にしろディドロにせよ世界に「絶対存在・絶対意志・絶対意識」の世界における他者を否定することには変わりありません。ディドロによれば、①物質は永遠に運動しており、②しかも此の運動は、外部から物質に強制されたものではなく、物質の内部にある原因によって行われる。③従って、物質と運動とは互いに引き剥がすことができない。従来は物質あるいは物体はそれ自身では運動もしないし、作用しないものと考えられていた。あるいは、現に感覚には運動した作用しているようにみえる物質(物体)でも、徹底的に分析していくと、不動な静止した物質に還元されてしまうと考えられていた。哲学・思想ランキング
2023年03月26日
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閑話休題:ディドロの自然科学の解釈1 百科全書の父 ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot/1713年 - 1784年)は、フランスの哲学者、美術批評家であり作家。主に美学、芸術の研究で知られるが、18世紀の啓蒙思想時代にあって、ジャン・ル・ロン・ダランベールと組んで百科全書を編纂した、所謂、百科全書派の中心人物であり、多様な哲学者と交流したことでも有名。徹底した唯物論者であり、神について初期は理神論の立場に立ったが後に無神論へ転向した。ポール=アンリ・ティリ・ドルバックなどとともに、近代の哲学者としては最も早い時期に無神論を唱えた思想家の一人とされるが、近年の目覚ましい量子物理科学の理論と検証とともにその思考の解析方法が注目を浴びています。たとえば、閉じた世界から無限なる宇宙に従って,中世から近代への考え方の転換を、キリスト教的秩序、即ち、閉じた世界から、無秩序の秩序への転換として捉え、18世紀啓蒙思想をその延長線上に位置付ける。但し、当時は無秩序の秩序を表現するためにディドロが鍛えた諸概念は合理的または経験的正当化を越えたものであり、単なる推測に留まるものとされていましたが。シェルドン・グラショー(Sheldon Lee Glashow/1932年12月5日 ー)は、アメリカ合衆国の物理学者。ボストン大学の、数学と物理学の教授である。そのグラショウによるウロボロスの蛇は宇宙組成の創造を明かす方法論さえも可能としました。その後も、自然物理科学の展開は凄まじく理論物理科学にとどまらず宇宙観測物理・実験物理科学は相対性理論と素粒子理論との矛盾性を克服せんと量子重力理論の時代となります。此れは如何にも突然に現れた思考方法かと云えばそうでもありません。ドゥニ・ディドロの著作の自然物理の思考方法が当に(まさに)量子重力理論の到来を予期しているのです。哲学・思想ランキング
2023年03月25日
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「神秘学」解析 :シュタイナー 神智学協会の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーキリスト神学とイエス2 ルツィフェルとアーリマン「ブラヴァツキー夫人とシュタイナーの相違」 神智学協会の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーが作った神智学の機関紙も、シュタイナーが作った人智学の機関紙も、そのタイトルは「ルシファー(ルツィフェル)」でした。両者は、共に堕天使に関しては独特の解釈をしており、それを重視しています。「アフラ・マズダ」は、シュタイナーにとっては「太陽ロゴス」ですが、ブラヴァツキー夫人では高級自我となった「モナド」です。シュタイナーの人智学はマズダ教に従い、神智学はより古いミトラ教に従っています。「ルツィフェル」と「アーリマン」は、人智学では2つの対照的な霊ですが、神智学では「アーリマン」は「低級マナス=メンタル体」であり、「ルシファー」は「マフラ・マズダ」同様に「高級自我」です。両者の「アーリマン」は働きとしては似ていますが、シュタイナーでは実体を持つ霊的存在であるのに対して、ブラヴァツキー夫人においては、敢くまでも、ある事柄をほかの事柄におきかえて表現する比喩的表現です。シュタイナーの「ルツィフェル」は、反逆して自由を獲得した点では、神智学の、レムリア期に人間に受肉することを拒否した「アグニシュバッタ(アスラ)」に相当します。また、人類史の転換点は、ブラヴァツキー夫人にとっては、レムリア期に金星からサナート・クマーラ達が地球に来訪して「世界主」になり、人間の「メンタル体」を準備したことです。シュタイナーにとっては、キリストがイエスに受肉して、ゴルゴダの秘跡で地球霊になったことです。「天使の堕天」は、ブラヴァツキー夫人にとっては、人間に受肉したマナスが、アストラル体に染まって分裂したことですが、シュタイナーにとっては、月紀、ルツィフェルが進化から取り残された存在になったことであり、次に、ミカエル達がアーリマン達を地上に投げ落としたことでしょう。旧約では楽園で言葉巧みにエヴァをして知恵の実「林檎若しくは無花果」を食べさせ陥穽(かんせい)したとされる蛇(*蛇の正体は人間を嫉妬したサタン若しくはルシファーと表現される。)、但し、此処で蛇と表現されるのには無理があります。何故なら此の事件故にルシファーは其の罪故に地を這うものに成り果てるからです。何れにしろ、人間は「永遠の生命が保てる楽園」と引き換えに、自ら思考する自由というものを手中にした訳ですが、例えば、あなたがサバンナのアフリカ象であって、動物園では4倍長生き出来るとして何方を選択するかは興味津々です。記:サルトルの言葉「自由であるとは、自由であるべく呪われていることである。」「人間は自由の刑に処せられている」哲学・思想ランキング
2023年03月24日
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「神秘学」解析 :シュタイナーの霊学自由大学の秘教講義の中からキリスト神学とイエス1 ルツィフェルとアーリマン「ミカエルの時代(近代神智学・人智学)」 ルドルフ・シュタイナーは、二つの対照的な悪魔的存在として、「ルツィフェル」と「アーリマン」について語ります。ところが我々が通常聞き及ぶところによる旧約・新約聖書で受ける印象とはあい相違して、シュタイナーの神秘学は、「ルツィフェル」と「アーリマン」の両者いずれも絶対的な悪ではなく、本来は宇宙的な使命に従がって働き、進化においては一応の役割を果たす存在です。然し乍ら、教会権威にとっては時と場合によっては悪そのものと決めつけられています。シュタイナーは、「キリスト」的なものは「ルツィフェル」と「アーリマン」の均衡を取ると言います。人間の中で両者の均衡が崩れた時、彼らは「悪」になるのです。シュタイナーは、現在が「ミカエルの時代」であり、「ミカエル」と「アーリマン」の戦いが続いているとも語っています。そして、「ミカエル」は「ルツィフェル」の誤謬と「アーリマン」の誘惑に対して人間に正しい位置を示すのです。また、シュタイナーは、マニが、悪の中に入って悪を解放、克服すると考えたことを評価しています。これらの悪魔的存在と天使のテーマは、シュタイナーの人智学にとって核心的なテーマであり、神智学協会とは異なる点で興味深いものがあります。記:「ルツィフェル」と「アーリマン」などの悪魔的存在、そして、「ミカエルの時代」についての概略◎「ルツィフェルとアーリマン」 シュタイナーによれば、「ルツィフェル(ルシファー)」は、人間の魂を高揚させて、幻想に閉じこめます。人間を物質界から遠ざける側面と、感覚世界に降ろす側面があります。片や「アーリマン(*サタン、メフィストフェレス、マモン等の呼称される)」は、人間に物質界を志向させ、唯物論を信じ込ませます。そして、小さな党派に分裂させて争わせます。記:正教会が如何に唯物論を敵視していたかの証明であり、自然哲学に対応することに教会の救世主「聖トマス・アクイナス」のアリストテレスのフィロソフィアの取り込みまで苦渋の時代を想起させます。肉体的には、「ルツィフェル」は軟化させ若返らせますが、「アーリマン」は硬化させ、老化させます。魂においては、「ルツィフェル」は、神秘主義や芸術を志向させ、「アーリマン」は、俗物主義や科学を志向させます。精神においては、「ルツィフェル」は眠りを誘い、「アーリマン」は覚醒を促します。人間が物質界・感覚界との関係において自由でいられるのは、「ルツィフェル」的な力を通して自分の魂の一部が霊的領域に留まることができるからです。グノーシス主義は「ルシファー」的な力から衝動を受け取っていました。一方、すべての自然認識は「アーリマン」的な活動によって可能となります。また、「アーリマン」は「死」を霊界から合法則的にコントロールする使命を果たす、感覚界における「死と消滅の主」です。ですが、「死」には「意識魂」を育てる役割があります。人間はこの二つの力の均衡を取ることで、高次な存在段階へ進化していくことができます。「キリスト」的なものは、この均衡を取らせる原理です。二つの力は、時代の経過の中で、交代で優位を占めてきました。「ルツィフェル」は、太陽紀から月紀にかけての「天上の戦い」で、「妨害の神々」となった「運動霊」の誘いに乗り、その後、月から分離した太陽の影響に反抗して自由になった存在です。「ルツィフェル」は、レムリア時代に人間の「感覚魂(アストラル体)」の中に住み着いて、自由と感覚的欲望を与え、感覚的世界へと引きずり下しました。「ルツィフェル」のせいで人間は予定よりや早く物質界に降り、自然の背後の霊的世界を見えなくなりました。「原罪」の本当の意味は、この出来事なのです。ちなみに、ブラヴァツキー夫人にとっては、「原罪」は、レムリア期からアトランティス期に人間が「メンタル体」の知性を持つようになったとのことです。 片や一方の「アーリマン」は、アトランティス時代に人間の「悟性魂」の中に住み着いて、物質的なものへの志向を与えました。そして、人間に霊的世界の認識をできなくしました。また、「ルツィフェル」は、後アトランティス時代の第3カルデア・エジプト文化期に、中国の人間の中に受肉しました。一方の「アーリマン」は、第5ゲルマン文化期の15世紀以降に強力になってきました。そして、1841年に、ミカエル達と「アーリマン」達の戦いが始まり、1879年に、ミカエル達が「アーリマン」達を地上に投げ落とした結果、「アーリマン」は人間の一人一人の中に侵入するようになりました。其の結果は19世紀は唯物論が自然科学・社会科学・史的歴史学への流れとなります。哲学・思想ランキング
2023年03月23日
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「神秘学概論」読解51 :シュタイナーの霊的神秘学関連文献◎「自己認識への道」の「まえがき」より 拙著「神智学」と「神秘学概論」で展開した私の努力・試みは、観察が霊的なものにまで高まった時に、看取られたままに物事を述べることにあった。これらの二つの著作の表現方法は描写的であり、その方向は対象そのものから導き出された法則に従って決定された。本書「自己認識への道」では、異なる表現方法を採っている。ここでは、ある方法で霊性に至る道を歩み始めた魂が経験し得る事柄を扱っている。従って、この書物は魂が経験した事柄の報告と思ってよい。もっとも、このようは方法で得られる体験は、個々の魂に応じて個人的な形式を採らざるを得ないということを了解しておく必要がある。私は、この事実に忠実であろうと努めてきた。その結果、本書の記述内容は、まさに述べられているが如く、ある一 魂によって確かに体験されたのであると想像することもできる。(それ故、本書は「自己認識への道」と名付けられたのである。)以上の理由から、本書は、他の人々の魂がその記述の内容を生き、かつそれぞれの記述に応じた諸目標に到達するための一助となる目的を持つ。また、拙著「いかにしてより高次な世界の認識を獲得するか」を敷衍(*趣旨や意味を押し広げて詳しく説明すること。)するための一冊でもある。(人智学出版社/P7-8)◎「霊界の境域」の緒言 本書は感覚界と霊界とを分かつ境界を越える時に霊的認識に映ずる宇宙と人間の本質を叙述するものである。昨年出版された「自己認識への道」と同じく、本書は私の他の著作を補ひ、敷衍するものであるとはいへ、他の著作の知識なしにも本書は独立したものとして読まれ得る。 真に霊学の認識に参入しようと思ふ者は、人生の霊的領域を常に新たな側面から考察することを学ばねばならない。どのやうな個々の叙述も一面性を免れる(まぬがれる)ことはできない。このことは、感覚界よりも霊界の描写に際して一層よく当て嵌まる。それ故、真摯(*真面目でひたむき)に霊的認識を探究する者は一個の叙述に満足すべきではない。本書はそのやうな真摯な霊界の認識の探求のために、暗示的な文体を用ゐて書かれた。かつてある観点から叙述した霊的事象を、私は常に別の観点からもう一度叙述し直すように試みている。ちょうど、ある人物や事件の経過を様々な角度から写しとることによつて全体像が明らかになつてゆくやうに、本書に於いても霊的事象の真の姿をより完全に把握できるように、様々な観点からの描写がなされている。そのような描写によつて、他の観点からは記述することのできない認識を表現することができた。本書はまた、霊的修行の道を歩まうとする者に、瞑想の素材への手掛かりを提供するものである。魂的生活の探究者は本書の中に瞑想の根拠を見出すことができる筈である。(「霊界の境域」書肆風の薔薇(しょしかぜのばら)」P13-14)◎「霊的認識の階梯」第一章「霊的認識の階梯」より 境域の守護霊」及び「境域の大守護霊」との出会ひに至るまでの霊的認識の道は著「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するかに記された。本書に於いては、魂が一連の認識の階梯を昇って行く時に、物質界、魂界、霊界に対してどのやうな関係に立つかを論述しようと思ふ。それ故、本書に於いて扱はれる内容は「神秘学の認識論」と呼ぶことができる。(「霊界の境域」書肆風の薔薇/P109-110)哲学・思想ランキング
2023年03月22日
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「神秘学概論」読解50 :5つの魂の能力-4 高次の諸世界へ至ろうとする人が、魂制御ための修行する5つの魂の能力の最後、「5・生活態度における公平さ」の「行」についての記述。 これまで体験したことによって、新しい体験の自由な受容が邪魔されないようにする必要がある。霊的修行者は、そんな話は聞いたことがない。とても信じられないと考えてはならない。どんな機会にも、どんな事象からも、新しいメッセージを受けとろうとする時間を持たねばならない。その時間内に、これまでにない新しい見方をしてみるなら、どんな風のそよぎからも、どんな木の葉からも、幼児のどんな呟き(つぶやき)からも、何かを学ぶことができる。(P348) 人間ある年齢30歳ともなると感性の柔軟さが失われ「何からでも学べる」という基本コンセプトが失われる。かの天才アインシュタインさえそれには逆らえなかった。「嫌いでも理解」の態度である。流石に彼は自己修正を成すのだけれども通常人には難しい。このことは人間思考の向上にはとても重要で「世界理解における積極性」は絶えず意識することが重要です。「何からでも学べる」という姿勢でないと現在の自分の思い込みで構築された世界がすべてになってしまう。それ故、その世界にないものは「そんな話はあり得ないし聞いたことがない。とても信じられない」となる。シュタイナーの神秘学にしても理解しようなどとは思わず、「霊」とか「キリスト」とかやっぱり受け入れられないとなる。確かに疑問を持たずに受け入れる(*:此れは信仰)必要はないけれど、理解する必要があるということ態度は貴重で公正なものであろう。つまり、世界理解に対してもあるがままの「公平さ」を著しく欠いて誤謬に陥りやすい。以上の5つの魂の能力については霊的修行云々を別としても、誰もが日頃から意識しておくようにしたいものである。哲学・思想ランキング
2023年03月21日
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「神秘学概論」読解50 :5つの魂の能力-3 高次の諸世界へ至ろうとする人が、魂制御ための修行する5つの魂の能力、思考と感情を結びつけるための「4・世界理解における積極性」の「行」では、「神秘学概論」は有名なイエス・キリストの美しい物語とされる意外なエピソードが紹介される。何とイエスが弟子たちと死んだ犬のそばを通りかかったとき、ほかの人たちは顔を背けたのだけれどども、イエス・キリストは「なんと美しい歯をしているのだろう」と賞賛したのである。 この物語が述べている魂の在りようで世界に向き合うとき、ひとつの修行の道がひらける。誤謬、悪、醜があるからといって、真、善、美をそこに見出そうとする態度を諦めてはならない。この肯定的な態度を、無批判的な態度と混同してはならない。悪や偽や、人の不幸に対して安易に目を閉ざすことを求めているのではない。死んだ動物の「美しい歯」を賞賛する人は、腐敗したその死骸をも見ている。しかし死骸が美しい歯をみる妨げになってはいない。悪を善と見、偽を真と見ることは許されない。しかし善と真を見る眼を悪と偽によって曇らされてはならない。(P347-348) この「世界理解における積極性」への大切さはいくら強調しても強調しすぎることはないだろう。ともすれば、悪や偽の前で、人はあまりに感情的に拒否反応が強くなって、そこに思考は働かなくなってしまう。逆にいえば、真、善、美を正しく見ることができるということは誤謬、悪、醜に対してもしっかりと眼を開いていなければならないということである。先の感情の行にもあったが、自分自身をよく観察するということがそこでも非常に重要になってくる。魂の「行」には「事実に即した態度」も必要となる。そうでなければ、真、善、美を理解するどころか誤謬が待ち受ける。哲学・思想ランキング
2023年03月20日
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「神秘学概論」読解50 :5つの魂の能力-2 高次の諸世界へ至ろうとする人が、魂制御ための修行する5つの魂の能力の「2・意志衝動の統御」では、自分みずからが下す命令に、厳格に従う習慣を身につけなければらない。それを「神秘学概論」では一例が紹介されている。 なかでも、一つの秀(すぐ)れた行は、数カ月間毎日きまった時間のために、自分に命じる。今日、「この時間に」お前は「このこと」を実行するようにと。そうすると次第に、実行する時間と実行する内容を、その内容がまったく正確に成され得るように、命じることが出来るようになる。こうして、実行できるかどうかを考えずに、ああしたいこうしたいと願う悪習慣から解放される。(P344-345) 確かに此れは耳が痛いと思うが、自分で自分に命じて正確に実行する習慣はなかなか身に付かず、「ああだ、こうだ」と自分に言い訳しながら過ごしてしまうことが多い。 続いて、感情に対する制御ための修行する5つの魂の能力の「3・快苦に対する平静さ」である。心情に落ち着きを与えるためには、快と不快などに対する「表現」を統御できるようにしなけれなならない。喜びや悲しみなどに対して鈍感になれというのではなく、あくまでもその表現に対する統御である。感じたことを意思せず思わず外に顕してしまわないようにする。此れは寧ろそのことによって、以前よりも周囲の喜び、悲しみのすべてに対して、鈍感になるどころか一層感じやすくなる。一見感情が豊かにみえている人は実際はそうではなく、自分の感情に対しても、他者の感情に対しても、むしろ鈍感なのだとも云える。心情に落ち着きを与えるためには、長期間にわたって、自分自身をよく観察しなければならない。逆にいえば自分自身をよく観察していれば快・不快のなかに自分を無自覚に放置しておくことはできなくなる。哲学・思想ランキング
2023年03月19日
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「神秘学概論」読解50 :5つの魂の能力-1 高次の諸世界へ至ろうとする人は、修行を通して、以下の諸特性を身につけなければならない。特に必要なのは、魂が思考と意志と感情を支配することである。魂のこの支配能力を行によって獲得する方法は、二つの目標に向けられている。第一に、第二の自我が魂の中に生じたときにも、不動心、信頼感、公平さを失わぬように、これらの特性を魂にしっかりと刻みおくこと。第二の目標は、この第二の自我に強さと内なる支えを賦与することである。(342) 第二の自我は最初はまだ萌芽のようなものなので、それをしっかりと育てていく必要がある。そのためにも第一の自我が思考と意志と感情の手綱をしっかりと絞りしごくことが必須である。逆にいえば、自分の思考、感情、意志が暴れ馬のようになって、どこにいくかわからない状態では、その馬車は暴走してしまってどこに行くか危うくわからない。 その制御ための5つの魂の能力:1・思考過程の制御、2・意志衝動の統御、3・快苦に対する平静さ、4・世界理解における積極性、5・生活態度における公平さが要求される。最初の3つは思考、意志、感情に対する行、4つめの「世界理解における積極性」は、思考と感情を結びつける行、5つめの「生活態度における公平さ」は、思考と意志を結びつける行である。 まず、1・思考過程の制御のためには、「事実に即した態度」が求められる。つまり、内的な堅固さを持ち、対象にしっかりと留まり続ける態度を、思考は身につけることができなければならない」。この物質的、感覚的な世界には外的な対象があってそれらがおのずと私たちを規定するところがあるが、霊的世界においてはそういった意味での外的な対象は存在しない。従って、思考は自分で自分の軌道を修正しなければならない。思考は「自分で自分に方向と目標を与える」ことが要求される。そのための「思考の行」として、身近で単純な対象を選んで、数ヶ月の間、少なくとも毎日5分間は、その「対象にしっかり留まり続ける」例が紹介されている。そのとき必要なのは「内なる力によって具体的に思考すること」である。みずからの思考が「自分で自分に方向と目標を与える」ためには「対象にしっかり留まり続ける」というのは言うは易く行なうは難しでかなりな訓練になる。哲学・思想ランキング
2023年03月18日
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「神秘学概論」読解49 :第二の自己-2 物質的な外界、外感覚的世界から自由になれるだけの内的世界に魂の力を育て、身体に反射するかたちではない内的本性を体験できるようになると、そこには通常の自我ではなくて、「第二の自我」とも呼べるようなものが育ってくる。この「第二の自我」が「高次の自己」である。 霊的な修行の過程においては、二つの魂的な体験が重要になる。外なる物質界が与える印象のすべてを無視して、自分の内面を見つめるとき、その内面は、どんな活動も消えてしまっているのではなく、感覚や悟性(*論理的な思考力。特に理性と区別して、経験界に関する知性。)の与える印象からでは何も知りえない世界の中で、自身がみずからを意識している内面なのである。第一の体験では、そのような内面を見る。この時、魂は、自分の中に新たに魂の核心が生み出されたと感じる。それは、これまで魂の中の「自我」であったものの外に、自己としての自分を感じている。どう考えてみても、自分には二つの「自我」があるかのように思える。一方の自我は、これまでも知っていた自我であり、もう一方の自我は、新たに生まれて、第一の自我の上に立っている。そしてこの第一の自我は、第二の自我に対して、一定の独立性を獲得している。ちょうど人体としての肉体が、第一の自我に対して独立しているように。(P336-337) 新しく生まれた第二の自我は、霊界を知覚するようになる。この自我の中で、感覚的、物質的な世界にとっての感覚器官に相当するもの、つまり霊的な感覚器官が発達する。この器官が必要な程度にまで発達できたとき、人は自分を新しく生まれた自我であるうと感じるだけでなく、ちょうど感覚器官によって物質界を知覚するように、自分の周囲に霊的な本性を知覚する。そしてこれが第三の重要な体験になる。(P337) 但し、第二の自我が知覚されたときには要注意事項がある。そうした修行の際には、「自己愛」が限りなく強まっていくということである。従って、通常の自我においてもそれを克服できていないとすれば、その「自己愛」による陥穽が待ちかまえているということになる。それ故、霊的修行のこの段階を確かな足取りで進むためには、通常の魂の生活ではまったく経験したことのないくらいの自己愛、自己感情が、魂の力が強まるに応じて、現われてくることを、十分に意識していなければならない。 霊的な修行は体的な行為であって、魂の道徳的な進歩とは無関係であるとよく信じられているが、今述べた自己感情の克服に必要な道徳的な力は、魂の道徳的な水準が相応しい(ふさわしい)段階にまで高められなければ、獲得され得ない。霊的な修行の進歩は、同時に道徳の進歩がなければ、考えられない。前述した自己感情の克服は、道徳的な力(*イマヌエル・カント:道徳的法則にもとづいて意志を規定する理性。)がなければ、不可能である。(P337-338) 禅には魔境があるとかいわれるが、霊的修行とかさまざまな研究会や道場とかを通じて「高次元の自分自身」にめざめたとか悟りを得たとかいっても、ともすればそれは「自己愛」の陥穽に片足を突っ込んでいるというふうにとらえたほうが肝要適切なのかもしれない。「自己愛」を克服するためには、自己犠牲が必要になる。もちろん自己犠牲は自己放棄ではない。放棄しなければならないのは自己愛のほうであって自己はまさに高められなければならないのである。その際の極めて重要なことはやはり「思考」である。 自分の中にまだ思考法則も判断力も十分に育成していない人が、その状態のままで高次の自我を生み出そうとすると、その人は、これまでに育成した思考能力だけしか通常の自我にゆだねることができない。秩序だった思考を働かせることができないと、独立した通常の自我の中に、無秩序な、混乱した思考や判断力が現われる。そのような人の場合、新しく生まれた自我がまだ弱いものでしかないので、超感覚的に見ると、混乱した低次の自我が支配権を獲得する。超感覚的なものを観察するにも、的確な判断を下すことができない。論理的な思考力を十分に育成していたならば、通常の自我を安心して独立させておくことができた筈なのである。とはいえ、ここに述べる霊的修行の場合には、思考生活をあらかじめ育成することができるので、以上に述べた誤謬の危険に陥ることはあり えない。思考の育成は、そのために必要な内的体験のすべてを生じさせる。しかも魂は、有害な幻想や錯覚を伴わずに修行を続けることができる。この思考の育成がなければ、どんな霊的な体験も魂に不確かな印象を呼び起こす。(P340-341) 論理的な思考力を十分に育成することのないままに、非常に不安定な魂のままで高次の自我を生み出そうとすると、通常の自我の混乱のなかでまるで嵐のなかを漕ぎ入れる小舟のようになってしまう。安全な航海のためには、通常の自我の段階においても、その魂の海を極めて穏やかに、禅道の云う「不惑の状態」にしておく必要がある。高次の自我は最初は小さな小舟で、ちょっとした波風にも簡単に転覆してしまいかねないのである。魂の海を穏やかにしておくのは「思考としての悟性」の役割でもあり、またそのことによって視界を良好なものにしておくことで波風が引き起こすさまざまな「有害な幻想や錯覚」から自由で距離を置くことに繋がる。哲学・思想ランキング
2023年03月17日
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「神秘学概論」読解49 :第二の自己-1記:シュタイナーはたとえば呼吸法を用いた「行法」等を批判的に述べていたりするが、そうした在り方は身体と結びついた感覚的知覚等に依存しているため、精神修養及び身体養生の実践と「霊的現実」の実相体験とを取り違えてしまう恐れがあるからであると理解する。たとえば断食行や苦行等によって身体そのものの機能をできるだけ働かせないようにして身体から意識をもったまま離れる「心身離脱の行」というような行にしても現代人の在り方にとっては誰にも推薦できるものではない。ともすれば、精神学情、心理学的に危いものが潜んでいるかもしれない。たとえ、そうすることで「低次の自己」を克服することができたとしても、自分をただ「高次の」現実において存在させることだけを目的としてしまい、この生そのもの営みをさまざまな仕方で深めていくことにはならないだろう。 シュタイナーの示唆している行は、現代及び現代人の意識状態にふさわしいものであるということができる。ちなみに、シュタイナーはそうした「」行に関して、たとえば著書「神智学の門前にて」等において、東洋の行法やキリスト教の行法などについても説明しているが、シュタイナーの示唆している行法は薔薇十字的な行法である。薔薇十字的な修行の本質は、「真の自己認識」であるとの言がそれを示す。(『神智学の門前にて』イザラ書房/P178) 然し乍ら、その「真の自己認識」においては、日常的に自分だと思い込んでいる「低次の自己意識」を克服する必要がある。自分を見つめる必要があるといっても、日常的な「低次の自己」をいくら見つめたところで見えるものは身体に結びついた低次の自己意識以外のなにものでもない。重要なのは高次の自己認識なのである。 高次の自己認識は、「日常の自我のなかには、高次の自我は存在しない、高次の自我は、外なる世界すべてのなかにある。星、太陽、月、石、動物のなかに存在するのである。あらゆるところに、私たちのなかにあるものが存在する」というときに始まる。もし仮に、誰かが「私は、わたしの高次の自己を育成したい、私は隠棲したい。わたしは物質のことなど、なにも知りたくない」というなら、その人は、その人自身の高次の自己が外界のいたるところにあり、自分の高次の自己は外界にある大きな自己の一部に過ぎないということを知らないのである。「霊的」な治療法は、この過ちを犯しており、往々にして命取りになる。物質的なものは存在しないのだから、病気も存在しないという考えを、病人に教えるのである。これは、誤った自己認識にもとづいた、非常に危険な考えである。(同上/P181) 「低次の自己認識」の自覚のないままに、容易にそれを克服したと思い込み、ただ「高次の自己認識」を求めるという在り方は「真の霊的現実」をゆがめた 幻影・幻想・錯覚・幻覚をそこにつくりだしてしまうことになるだろう。重要なのは、確実な仕方で「真の霊的現実」へと向かうことのできる魂の力を育てていくことなのである。このことを踏まえた上でシュタイナーの霊的修行を見る。哲学・思想ランキング
2023年03月16日
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「神秘学概論」読解48 :魂の力を育てること シュタイナーの「行」では「対象認識」から「対象のない認識」へというように、物質的な外界から自由になれるだけの魂の力を育てることに関しては瞑想が取り上げられる。その瞑想の実践については瞑想と睡眠の比較によって其の内容が明かされる。 瞑想は一種の睡眠であるということもできるのだが、日常的な意識に比べて、高次の覚醒状態を示しているのである。その高次の覚醒状態をにおいては、日常的な魂の力よりもより強い魂の力が必要とされる。そのためにたとえば象徴像を用いた修行がなされる。 そうした高次の覚醒状態が睡眠と異なっているのは、魂は睡眠と同じく身体から離れるにもかかわらず、睡眠時のように意識を失って(*ほぼ失ってが妥当かも)しまうのではなく、「これまで体験したことのなかった世界を体験する」。睡眠時における体験が意識化できないのは、そうした日常的意識のレベルでの魂は、身体を通じてというかそれに反射させるかたちで意識を働かせているので、睡眠時のように身体を離れてしまうと、その映し出すスクリーンがなくなってしまうがゆえに意識を保つことができなくなってしまうわけである。記;現代医学及び心理学では識閾を上下する夢を制御する方法が探られている。 日常の覚醒状態での魂は、みずからの力を十分に発揮しないで、身体の助けを借りて意識を働かせているので、みずからを体験するのではなく、鏡の像のように身体もしくは身体の諸経過が映し出す像の中に、自分自身を見ているにすぎない。(P331) シュタイナーの言うところの「行」は、物質的な外界から自由になることで、肉体の助けを借りないでも「みずからの真に独自な内的本性を体験」できるように魂の力を育てていくためのものであるということができる。しかし尚、その行によって創り出される象徴像は未だ「霊界の現実」と結びついているということはできない。それは感覚的知覚並びに知性を働かせる脳組織から人間の魂を分離させるためにのみ役立つのみである。このことを理解しておかないと、そこで創り出される象徴像を霊的現実だという思い込んでしまいそれに囚われてしまうことになる。 感覚的な知覚や通常の知的な思考が働かないときでも、私の意識は失われずにいる。私は身体から離れて、それまで私であった存在の傍らにいる自分を感じることができる。(P331)記:些かドッペルガンガー(独: Doppelgänger)的ではあるがシュタイナーは体験しているかもしれないと想わせる。 魂が身体から離れた状態でも意識を失わないでいられるように魂の力を育てていくということは「これまで組織化されていなかった魂的、霊的な本性の中から魂的、霊的な諸器官を作り上げる」ということなのだが、先ず最初にそこで知覚されるものは「自ら造り上げたものの働き」であり、それは「自己知覚」であるということを意識しておく必要がある。 形象は、新しい世界の中で、生きているように現われるが、しかし魂は、その形象が修行によって強化された自分自身の反映にすぎないことを、よく認識していなければならない。そしてこのことを正当に判断するだけではなく、いつでもこの形象を再び意識から遠ざけ、消し去ることができ得るように、意志を育成しなければならない。魂は形象の内部で、完全に自由に、完全な自意識をもって働くことができなければならない。このことは、この時点での正しい霊的修行のひとつである。(P332) 要は象徴像としての形象そのものが重要なのではなく、新たに獲得され育成された魂の働きそのものが重要なのだと強調しています。哲学・思想ランキング
2023年03月15日
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「神秘学概論」読解47 :霊的構造体の霊視認識-2 シュタイナーの著作が読み読み辛く講義などでは多くの場合に記憶に残り難くときに眠くなってしまうと云われる。其の因には表象される具体的個物の認識ではなく「対象のない認識」が必要と目されることが多いからである。たとえば「土星紀」の熱といわれてもそれを通常の物質的な外界における表象で理解することは困難である。更には、初期の講義等では比較的には物語な要素があるが後期になるととくにその要素は少なくなり、その内容についての表象を形成することが困難になってくる。勿論繰り返し読み込むことで少しずつ理解することはできるのですが、なかなか其の内容に引きずり込まれない。それはシュタイナー自身が述べるように著作や講義はそれを読むことそのものが行のひとつともなっているからです。従いて、シュタイナーを理解するために、いくら図式的な解説書や用語集などを読んでみたところで、それを認識するための自己の精神(魂)の能力を育成することは甚だ困難です。 自己の精神(魂)の能力を育成するにシュタイナーは「行(ぎょう)」の行程のあらましを「神秘学概論」の本文や其の著「いかにしてより高次の世界の認識を得るか」で説いています。ここでは、行のために使われる「象徴像」について概観をする。 象徴像に沈潜している間は、準備に用いた思考内容をすべて、魂の中に呼び入れないようにする。そして像だけが生き生きと心の中に漂うのでなければならない。準備に用いた思考作業の結果として生じたあの感情だけが、共振しているのでなければならない。このように、象徴像とは感情体験を伴う図像のことなのである。魂がこの体験の中に留まり続けるとき、効力が現われる。妨害となる他の表象内容を混入させずに、この体験の中に留まり続ければ続けるほど、その経過全体が有効な働きをするようになる。(P325) 象徴像をつくった思考内容さえそこに働かせてはならないように、その象徴像は物質的な外界から自由でなければならない。その象徴像は「夢幻的な思考」や「恣意的な想像力」から作りだされている(*創り:即ち純粋無垢な発想の創りではない)のではないかという非難についてもシュタイナーは次のように答え、その非難は当て嵌まらないと述べている。 この場合の象徴像は、外なる感覚的な現実に関わりを持たないように選ばれており、外界から一切の注意を転じ、感覚的な印象をすべて抑え、外からの刺激に応じた思考内容をまったく排除するときにも、その象徴像が魂に働きかけられるように配慮するかたであり、そのような働きかけだけに価値を置いているからである。(P330) あらためて付け加えておけば、その象徴像に沈潜することで魂の中に呼び起こされるうした霊視的認識において重要なのは、その内容が重要なのではなく、その修行によって育成されていく魂の力であるということである。そのことを忘れたときに別の陥穽がそこには生じてくるのではないかと思われる。霊視的な内容は、感覚的な知覚内容が現実的であるのとは異なる意味において、現実的である。この現実にとって大切なのは、霊視体験へ導くイメージの内容なのではなく、そのための修行によって形成される魂の能力なのである。(P329-330)哲学・思想ランキング
2023年03月14日
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「神秘学概論」読解47 :霊的構造体の霊視認識-1 最初に高次の認識段階として、創造的な構成力(イマジネーション /imagination)としての霊視認識へと通じる行がとりあげられている。 私たちの通常の認識は「対象的認識」と呼ばれるものだが、これは感覚的な知覚及びそれに結びついた知性とによる認識である。しかし霊視的認識においてはその外感覚的対象認識から自由になることが求められる。覚醒時の意識活動は、外的な事物を再現するという課題をもっている。この課題が真に果たされれば果たされるほど、当の意識内容は真実になる。この意味で真であることが、この意識内容の課題である。然し乍ら、霊的修行の目標のために魂が没頭すべき形象は、そのような課題をもっはていない。この形象は外なるものを映し出すのではなく、魂に対して覚醒的に働きかけることのできる特性をもたねばならない。そのための最上の形象は、象徴的な形象である。しかし別の形象を用いることもできる。なぜなら、大切なのは、形象が何を意味しているかではなく、当の形象以外の何ものも意識の中に含ませないように全力を尽くすことなのだからである。通常の魂の営みの中では、その魂の力が多くの事柄に向けて分散されており、意識内容が急速に交替するが、一方、霊的修行にあっては、魂のいとなみ全体が一つの形象に集中させられる。形象は自由な意志を通して、意識の中心点に置かれねばならない。それゆえ、象徴的な形象の方が、外的な対象もしくは外的な経過の再現である形象よりも適している。何故なら、後者の象徴的な形象は、外界に拠り処をもっているので、魂が自分自身で創り出す象徴的な形象よりも、形象だけに意識を集中しにくいからである。何をイメージするのかが大切なのではなく、イメージする仕方を通して、魂を物質から完全に解放することが大切なのである。(P320-321) シュタイナーは講義などにおいても随所で「対象のない認識」がいかに重要かを示唆している。それは通常は物質的な外界から自由になれるだけの魂の力を育てていく必要があるからである。たとえば、人間には数学を学ぶことが可能であるということを理解することが、高次の諸世界の認識のための修行の出発点になることが述べられるが、それは外界に依存しない認識のためには不可欠だからである。しかし私たちは通常、外界に依存した形で認識をしており、外的な刺激がなければ意識を覚醒したかたちのままでいることが難しい。これはたとえば感覚遮断実験などによっても確かめられていて、人は五感を外界から遮断されてしまうと眠り込んでしまうかそうでなければある種の幻覚や幻聴などの状態になってしまう。もちろんシュタイナーのこの「行」は幻影を見るためのものではない。「行」のために使われる象徴図形にしても、その象徴図形の形態そのものや意味等は一切意味をもたない。必要なのは、象徴図形を通じて、物質的な外界から魂を解放することなのである。哲学・思想ランキング
2023年03月13日
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「神秘学概論」読解46 :霊的修行の前提 本書の意味での超感覚的な認識のための修行にとって大切なのは、当然生じるべきいくつかの誤解を予め(あらかじめ)解いておくことである。そのような誤解の一つは、修行が人生を別のものにしてしまうと思うことである。しかし行(ぎょう)は、一般的な生き方の指針を与えようとするのではなく、それを実行すれば、超感覚的なものを観察する可能性を与えてくれるような、魂のいとなみについて語ろうとする。超感覚的なものの観察に関係のないような生活のいとなみに対して、この修行はどんな直接的な影響も及ぼさない。人はこれまでの人生の営みに加えて、超感覚的な観察力を身につける。この観察活動は、ちょうど目覚めと眠りの状態のように、人生の通常の営みから区別される。決して一方が他方を妨げはしない。第二の誤解は、超感覚的な認識へ導く魂の在りようは、身体の組織変化を問題にしていると思い込むときに生じる。そのような魂のありようは、生理学その他の自然認識の問題とは全く以て何の関係をも持っていない。それは健全な思考や知覚そのものと同様に、一切の物質的な在りようからまったく離れた、純粋に霊的、魂的な経過なのである。このいとなみによって生じる魂の有り様(よう)は、健全な表象や判断によって生じるものとまったく変わりはない。健全な思考が身体と関係しているのと同じ程度に、超感覚的な認識のための真の修行の諸経過は、身体と関係しているのである。そうでない仕方で人間に関わっているすべては、真の霊的修行ではなく、修行の誇張や歪曲の表象にすぎない。(P318-319) シュタイナーの示唆している修行は、基本的に現代人にとってだれにでも適用できる方法であって、それによって「出家」することが求められたり、超越的なパワーを身につけようとしたりするのではなく、将亦、そのために山にこもったり水にもぐったりするような超人養成的な修行とはまったく異なっている。あくまでも物質世界を対象とした通常の認識の射程範囲に「加えて」、そこから離れた「霊的、魂的な経過」によって育成される能力があるということなのである。然し乍ら、プラトンは数学の基礎を学んでない者はその自ら創立したアカデメイアへの入学が許さなかったように神秘学を学ぼうとすれば、思考の訓練は少なくとも必要になる。シュタイナーは著「神智学と心理学」のなかで、プラトンが要求した条件というのは、数学を学ばなければならないというのではなく、「人間には数学を学ぶことが可能である」ということを理解していることが重要なのだと述べている。 思考の訓練をしない者、自己観察をなしとげることのできない者には、たんなる観察だけではもっとも簡単な数学の定理さえ得られないということがわかりません。自然のなかにはほんとうの円、ほんとうの直線、ほんとうの楕円はどこにも存在しません。そして、内面から得られた世界を、わたしたちは外界に適用するのです。この事実をじっくり考えることなしには、心魂の本質をほんとうに観照することはできません。(P20) シュタイナーの示唆している「高次の諸世界の認識」のための修行も、そのように「人間には数学を学ぶことが可能である」ということを理解するということがその出発点にあると思われる。哲学・思想ランキング
2023年03月12日
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「神秘学概論」読解45 :意識と無意識 人間は睡眠と覚醒の外に、なおもう一つ第三の魂的な状態を獲得できたとき、高次の諸世界の認識に至る。睡眠時の深い眠りの中で、感覚の印象が遮断されている場合、それにもかかわらず魂が意識を保つようになれるだろうか。そのような場合、日中の体験の記憶は存在しない。一体、魂は無の中にいるだけで、どんな体験をも持ち得ないのだろうか.この問いに答えるには、ひとつの状態を実際に作り出すことができなければならない。それは、感覚の働きやその働きの記憶が存在しないときにも、魂が何事かを体験することのできる状態、もしくはそれと似ている状態である。そのような場合の魂は、通常の外界に関しては睡眠時と同様の状態にあるが、しかし眠っていないで、覚醒時に現実の世界と向き合っているときのようであろう。(P311-312) 「神秘学概論」の「高次の諸世界の認識」の章では、人の意識は通常は、起きているときの意識、眠っているときに夢を見ている意識、夢を見ないで眠っているときの意識、という3つの意識に区別できるが、夢を見ないで眠っているときの意識はまったく存在してないのだろうか。 シュタイナーは、人間は肉体、エーテル体、アストラル体、自我で構成されていて、眠っているときには、アストラル体と自我が肉体とエーテル体から離れているという。死に際しては、エーテル体、アストラル体、自我が肉体から離れる。エーテル体は生命体でもあるので、まさに生命が離れていくのであると述べる。精神分析などで「無意識」といわれる意識の状態があるが、それはとても曖昧模糊として明快にはされていないし、そもそも意識というのが何なのかについても断言されてはいない、シュタイナーの意識についての説明は一応は精神科学的な世界観において一貫した形で位置づけられている。その「無意識」をとらえるために、超感覚的世界の認識を得る「行」が必要とされるという。「行」から神秘体験を得なければことなのだけれど、人間の肉体、エーテル体、アストラル体、自我で構成それ自体について理解できないというのではなく、「神秘学概論」の第十六版から第二十版までの序章にもあるように、「見霊能力がなくても、前提にとらわれぬ意識を持つ者にとって、見霊者の思考形式を通して表現された霊視内容は、完全に理解可能なのである。画家でない人が、画家の完成した作品を理解するのと同じように、理解できるのである。しかも霊界の理解は、芸術作品のように、芸術的、感情的な理解を必要とするのではなく、自然認識の場合と同じように、もっぱら思考の働きによってなされる。」。然し乍ら、それでも「神秘学の性格」の章にも述べられているように、「可視的な世界の背後には、隠された世界など存在しない」という人や、そういう世界を人間は認識できないという人もいてというか現代においてはそうした人であるや否やは夢想家とされよう。仏教などでは世界はマーヤ(幻)であるとかいわれるのだが、それがなぜそうなのかということ21世紀のIT時代の現代は我々の信じる実世界が仮想か実相かさえ疑う物理科学理論さえ生まれる今日、ただのナンセンス(nonsense)ではなくなっている。おそらく世界がマーヤなのであるというよりも、世界をとらえようとする意識がマーヤであるがゆえに、世界がマーヤとして立ち現われてくるということなのだろう。荘子は人が蝶になった夢を見ているのか、むしろ蝶が人になった夢を見ているのかわからないいう魅力的な寓話を残しているが、この意識というのはそれそのものが神秘そのものである。 シュタイナーの意識についての説明は現在の覚醒意識を絶対化するものではもちろんなく、無意識を神秘めかして説明するものでももちろんない。意識する主体のありかたを問い直し変容を促すことによって、みずからが世界をより確かに生きたかたちで認識できるよう方向づけるものとなっている。哲学・思想ランキング
2023年03月11日
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「神秘学概論」読解44 :地球紀10 人種・民族-2資料1:ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(Helena Petrovna Blavatsky、1831年8月12日 – 1891年5月8日)は、近代神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者のひとりである。生誕は現ウクライナのドニプロペトロウシで彼女の生涯は多くの謎があり、特に1874年にアメリカで活動を始めるまでの前半生は全く分かっておらず、多くの神話に彩られている人物。彼女は現人類の進化について、著「シークレット・ドクトリン」の「人類創世記」で「根源人種」として展開されているとする。ブラヴァツキーは、現人類の進化については7つの「根源人種(根幹人種、根人種とも)」がある筈であるとし、根源人種をさらに7つの亜人種に、亜人種をさらに7つの分種(または族種)に分けた。また、ブラヴァツキーは、すべての物は「7つの組」になっており、すべての天体も6つの天体を伴っているとし、地球にも6つの精妙な相棒が存在しているとした。それは意識状態に対応した6つの物質状態に分かれ、地球と合体しており、1から4番まで密度が増すと同時に霊性が減少し、4から7番では精妙さと霊性を取り戻し、最初の状態に戻るという。この天球進化に7つの段階を経て進化するモナド(一種の生命素)の概念を重ね合わせたものが、「周期若しくは回期・循環期)」という宇宙暦である。現在の地球は、地球連鎖の第4周期、第4天球期という最も物質的な期間であるという。モナドは各周期ごとに第4天球期に「人間」の形になり、現在の人類のモナドは、前の3周期で鉱物界、植物界、動物界を巡ってきたのだという。資料2:ブラヴァツキーの神智学における人種・民族 第一根源人種 - 地球が太陽神に知恵を持つ霊的生命体を授けてくれるよう願い、太陽神が七大天使に命じて創らせた。肉体を持たないアストラル体の存在で、出芽によって増え、全周期を通じて存在する永遠の大陸、不可視の非物質的領域である「不滅の聖地」に存在。 第二根源人種 - 肉体を持たずエーテル体の存在で、分裂で増え、北極地方にあったハイパーボリア大陸[† 28]に存在し、その痕跡がグリーンランドにあるという。 第三根源人種 - 猿のような姿で両性具有・卵生・四本の手と頭部の後ろに目が一つある人種。レムリア大陸に存在[159]。初めて肉体を持つようになり性が分化したことで、性の快楽におぼれて獣とも交わって半獣半人を生み、これにより「堕落」と「楽園追放」が起こったという。 第四根源人種 - 現代人より体が大きく知能の高い優れた人間。レムリア大陸は7千年ほど前に崩壊し、その後大西洋に隆起したアトランティス大陸に生まれた。 第五根源人種 - アトランティス王国の生き残りであるマハトマ、「聖なる教師」たちが選んで進化させ、導いて文明を築かせた、現代の文明を主導する支配人種「アーリア人」。いずれ天変地異が相次ぎ、アメリカ大陸が陥没して滅亡する。 第六根源人種 - パーターラ人。北アメリカ大陸で生まれつつあり、いずれ誕生する大陸で進化する。 第七根源人種 - 完全な霊性の時代に移行し、進化が終了する。以上詰まるところは現代ではアーリア人こそ「霊的進化」の頂点に立つということである。また、この第5期においてもっとも偉大な人物は、秘儀伝授を受けたブッダであり、現代の人間を永遠の真理である「神智」に立ち戻らせるためにやってきたとし、彼は発達した心理能力、すべての前世の知識、限りない善意と叡智など第6期の人間の資質を備えているとした。ブラヴァツキーの神智学の人間の歴史観は、「霊的進化」と「物質的進化」という二種類の進化のラインの交錯が繰り返されるという霊性進化論であり、霊的進化に従えば神的存在に近づき、物質進化に導かれれば、悪魔や怪物を含む動物的存在に堕ちていくと解説している。霊的進化の導き手が「大師」「大霊」「天使」といった高級霊で、これに対し物質進化をもくろみ高級霊たちを邪魔する悪しき低級霊である「悪魔」「動物霊」と呼ばれた存在あると述べている。記:シュタイナーは1905年(44歳)5月7日に神智学協会の創始者ヘレナ・P・ブラヴァツキーについて「霊的使命を持った人物は人々から生涯の外的側面によって判断されるため必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗を受けざるを得ない」という旨を述べる。それよりも何も、シュタイナーの神秘体験はやはりインド人はもとよりアーリア人を筆頭にしておりアジアやアフリカが背向されていることには一抹の不満足感を味わいます。哲学・思想ランキング
2023年03月10日
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「神秘学概論」読解44 :地球紀10 人種・民族-1 太陽の分離の直接的影響により、神智学文献において第三根源人種、レムリア人と呼ばれる人間の祖先の第三の根元的な状態が生み出された。ここでも、進化におけるこの状態に対して「人種」という呼称は、特に望ましいものではない。というのも、真の意味においては、当時の人間の祖先は、今日「人種」と呼ばれるものとは比較しえないからである。遠い過去や、同時に未来の諸進化形態は、今日のそれとはあまりにも完全に異なっているので、我々の今日の名称がただ代用品としてしか役立たず、そしてこれらの遠い時代との関係においては事実上すべての意味を失うということを、我々は完全に明確にしておかなければならない。実際、先に確認された第三根源的状態(レムリア)の進化が、後半三分の二頃に立ち至った時に初めて、「人種」ということを語り始めることができる。その時初めて、今日「人種」と呼ばれるものが形成されたのである。この「人種的特質」は、第四の根源的状態、アトランティスの進化期に、そしてさらに我々の第五の根源的状態に入っても保持される。しかし早くも我々の第五の最後において、「人種」という言葉は再びすべての意味を失うことになる。未来において人類は、「人種」と呼ぶことが不可能であるような諸要素に分割されることになるのである。(『アーカーシャ年代記より』人智学出版社/P191-192) レムリア時代になって人類が地上に受肉するにいたった事情はすでに述べた。そのとき以来、人間は、さまざまな本性を担うようになった。さまざまな本性が他の宇宙領界からやってきて、太古のレムリア以来の人体に受肉してきた。この事実のひとつの結果が、人種の相違を生み出した。そして再び受肉してきた魂たちは、それぞれの「業(カルマ)」に応じて、あらゆる種類の異なった生活要求をもつようになった。このようなことが続く限りは、「普遍人類」の理想など存在する余地がない。人類はひとつの統一体として出発したけれども、これまでの地球紀の進化は、分裂を重ねてきたのである。キリストを心に受け入れることができたとき初めて、一切の分裂に歯止めをかけるような、ひとつの理想が与えられた。なぜなら「キリスト」という名を名乗った人間の中には、崇高な太陽存在の作用力が生きており、どの人間の自我もこの力の中に自分のもっとも根源的な根拠を見出すことができたからである。イスラエルの民でさえ、まだ自分を民と感じ、個人をこの民の一分肢と感じていた。(神秘学概論/P304) レムリア時代において、「人種」が形成された。そして、これからふたたび「人種」が意味をもたなくなってくる時代へと向かっている。何故、「人種」が形成されることになったのだろうか。おそらくそれは「民族魂の使命」とも関係してくるのだろう。そしてこれから「普遍人類」へと向かい、「人種」「民族」という「分断」がなくなってゆく。しかしそれはすべての人間が同じような「顔」になるというのではもちろんなく、自分を「民」というふうに集合的なものの一分肢としてではなく自らを個としての自我をもった存在として位置づけるということである。つまり、これまで「人種」「民族」といった単位であったものが、「個」が単位となるようにシフトするということ。集合自我が個的な自我になるということ。同じ民族だから同じような「顔」というのではなく、個々の人間がそれぞれの個性をもった「顔」になるということである。「キリスト」の意味もそこにおいて見出すことができる。みずからのなかに太陽存在という中心の働きを自覚するということにおいて、個的な自我の働きが高次の意味での統一性をもって可能になるということである。性別ができたのも、レムリア期であるというが、そうした性別や人種などといった、いわば「類」的な差異を通じてしか育てていくことが可能ではなかったものがあり、個的な自我が育ってくるにつれて、今度はそうした「類」としての差異ではなく、「個」としての差異が重要になってくるということなのだろう。その意味でも「自由の哲学」が重要になってくる。哲学・思想ランキング
2023年03月09日
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「神秘学概論」読解43 :地球紀9 後アトランティス文化期 人間の持ち前の能力には、脳を使用することで、一方的に物質生活のために仂く(はたらく)部分がある。その能力は、遂には、現代の科学、技術等を可能にするところまできた。この物質文化の起源は、ヨーロッパの諸民族の下(もと)でのみ見出すことができたなぜなら、これらの民族は、物質的=感覚的な世界に対する関心を熟成させ、有効な能力にまで育成したところのアトランティス人の後裔なのだから。彼らは、この能力をそれまでは微睡み(まどろみ)の状態に置き、アトランティス見霊能力の遺産やその秘儀参入者の言い伝えの中で生きてきたが、精神文化がもっぱら秘儀参入者たちの影響の下にあったとき、その一方でゆっくりと、物質界を支配しようとする力が内部から育っていったのである。けれども現在は、すでに第六後アトランティス文化期の夜明けをむかえている。人類の進化は、それがはっきりと現われてくる前から、ゆっくりと成熟を遂げていく。現在すでに始まりつつあるのは、人間の胸中にある二つの側面、すなわち物質文化と霊界での営みとを結ぶ糸を見つけだすことなのである。このために今必要とされるのは、一方では霊的な直観を体験することであり、他方では感性界を観察し、それにはたらきかけを行ないつつ、そこに霊の啓示を認識することである。(P308)記:此処で我々アジア人がアトランティスの末裔でないから蔑ろにされていると憤ることもあるまい。旧教民族守護神であったユダヤ教の血もとに生まれたナザレのイエスの例がある。 アトランティス時代の後には7つの文化期、ひとつの文化期は2160年間の時代が続く。インド文化期、ペルシア文化期、エジプト文化期、ギリシア文化期、そして1413年から始まった現在の第五文化期である。この後、第六文化期、第七文化期と続くことになる。後アトランティス文化期の課題は、古い見霊能力を去り、感覚界、物質界へと関心を向け、そこに働きかけるということであるということができる。たとえば、アトランティスの居住地を去った後、アジア内陸部へ向かっていった秘儀参入者について次のように述べられている。キリスト秘儀参入者の弟子たちは、高度に発達した悟性を身につけたが、当時の人間のなかでは、超感覚的体験を持つことが最も少なかった。彼らとともに、この秘儀参入者自身も、西方から東方へ、アジア内陸部のある地域にまで移動していった。彼はその弟子たちのために、できる限り、意識の進化においておくれている人たちとは接触させないように配慮した。後アトランティス文化期のが進展していくなかで、超感覚的な古い見霊能力が次第に失われていかなければならなかったことがわかる。「意識の進化」を進めるためには、無意識的な霊能力を去って、感覚界、物質界のほうへ向かう必要があった。明るい思考力や感覚界を観察することのできる力を育てるためには、遺伝的に継承されていた古い見霊能力を失う必要があったのである。現代の唯物論的な世界観が、そのエジプト文化期のミイラづくりへの情熱とカルマ的にむすびついているともいうエジプト文化期のところでもその課題について次のように示唆されている。(現在の第五文化期は、7つの文化期の中心にくるギリシア文化期を中心にして、その直前のエジプト文化期を反映している)そもそも後アトランティス期の課題は、人間が感覚界を観察し、その中に深く入り込み、それを作り変えることができるような、目覚めた思考力や心情の働きを育てることにあった。その能力は、直接霊界から刺激を受けて獲得されるものではなかった。この能力によって感覚界、物質界を征服することが後アトランティス時代の使命だった。(P292) 後アトランティス時代の使命の結果は、まさに現在の第五文化期においては、感覚界、物質界以外は存在しないとまでされるようになってきてしまっている。しかし第六文化期に向かおうとしている現代においては、いわば感覚界、物質界を深く認識することによって、まさにそれを貫いていくことによって、そこに働いている霊的なありようを見ていく必要があるのだといえる。霊的なものに目を向けるといっても、それはあくまでも、感覚界、物質界から目を背けるというのではなく、それらを深く認識しようとすることによってこそ、霊的なものの認識へと向かっていかなけれならないだろう。哲学・思想ランキング
2023年03月08日
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「神秘学概論」読解42 :地球紀8 自己意識の獲得のための肉体 地球紀において人間は自我を得ることになったのだが、そのことは同時に地上的になるということ。つまりは肉体の中に閉じ込められる度合いが強くなるということでもあった。地上においてもっとも進化した人間であるともいえる「キリスト秘儀参入者」こそがもっとも早く、いわば肉体的になったのである。それまではエーテル体は肉体から比較的自由であったのが、その両者が非常に強く結びつくようになった。そのことで、無限の「記憶力≒神の延長力」は消え、思考力としてあらわれてくるようになった。キリスト秘儀参入者の指導者は、ある期間、ごくわずかの弟子たちとともに、孤立していたが、この弟子達に宇宙の秘密を、ごく限られた範囲内でしか伝えることができなかった。なぜならこの弟子たちは、生まれつき肉体と生命体がとを分離させることが最も少ない人間たちだったからである。そのような人たちが、その頃には、人類のそれからの進化にとって最上の人材だった。このように肉体とエーテル体との結びつきが人類のなかに次第にあらわれたが、それはアトランティスの居住地のみならず、地球全体に生じた変化の結果であった。人間の肉体は、生命体とますます重なり合うようになった。そしてその結果、これまでの無限ともいえる記憶力が消えてしまい、その代わり思考力が新たに育ちはじめた。肉体と結びついた生命体部分は、頭脳を本来の思考器官にかえた。このようにしてはじめて、人間は肉体のなかで己れの「自我」を感じるようになった。この自己意識の目覚めは、はじめはごく僅かな人びと、特にキリスト神託の指導者の弟子たちのなかでのみ生じた。(P279-280) 人間が「自我」、「自己意識」をもつためには自分を成立させるものが肉体の中にいるということが必要となる。それは、霊的進化が逆進化に対応しているということでもある。高次のものを得ていくということは、それまでより低次の有り様を身に纏うということにもなる。進化するということは、どんどん高次の様態になっていくことであるかのように理解している人々があるとすればそれは大きな錯誤であるといえる。たとえば、第一ヒエラルキーこそが物質的なものに働きかけることができる。それに対して、第二ヒエラルキーは主にエーテル体に、第三ヒエラルキーは主にアストラル体に働きかけるのである。 カント以後19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想ドイツ観念論とロマン主義の立場に立つ哲学者シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling/1775~1854)は、精神的霊的なものと正反対のものを予め徹底的に認識した人にしてはじめて、精神的なものに目を向けることができるのであって、それは必然的なものと自分の活動の条件を知る者のみが、自由な人間の名に値するのと同じです。自由もこの世界では必然性の暗がりのなかから身を成長してはじめて人間は自由に至るのであり、その経緯の中から或る種解放されたものが擡げ上がってき、その最後の現われにおいてのみ、説明のできない神的なもの、永遠の稲妻として輝き出るのである。その稲妻はこの世の暗闇を照らしますが、活動しつつもまたすぐに暗闇に呑み込まれてしまうのです。とその著作「クララとの対話」で述べています。 今日のアカデミア(academia)哲学の主流マルクス・エンゲルスの唯物主義・史観とは異なり、ドイツ観念論の思考を踏まえたルドルフ・シュタイナーの神秘学は、高次の在り方を認識するということは、逆にこの地上的なさまざなにこそ目を向ける必要があるのだろう。勿論のこと、それは地上的なものに埋没するということではなく、物質がいかに本来霊的なものであるかをより深く認識するということなのです。哲学・思想ランキング
2023年03月07日
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「神秘学概論」読解41 :地球紀7 祖先と転生 言語は、人間が物質的な素材の中にまで濃縮し、そして生命体の一部分が分離したことによって、人間に与えられた(此の「言語」とは古史ギリシァ哲学の基本的には、論理や理性、言葉といった意味を表す語「ロゴス」を意味すると思われる。)。月が分離したあと、人間は、初期には肉体上の祖先と集合自我を通して結びつけられていると感じた。けれども、子孫と祖先を結ぶこの共通意識は、世代の移りゆく中で、次第に失われていった。次第に子孫たちは、あまり遠くない祖先に対してしか、この内的記憶を保持しなくなった。もはや、昔の祖先にまで帰って行くことができなくなった。睡眠に似た特殊な状態の中で、人間は霊界と接触することができたが、この状態のもとでのみ、さまざまな祖先への思い出も生じた。そのとき人間は、自分を祖先と一つであると見なし、祖先が自分たちの中に再び現われたと信じた。これは輪廻転生の誤った考え方であった。この考え方は、特にアトランティスの末期に生じた。輪廻転生の真の教えは、秘儀参入者の学堂内でのみ学ぶことがでいた。秘儀参入者は、肉体から離れた状態の中で、人間の魂がどのようにして転生を続けていくかを見た。(P243-274) 現代に生きる人間は基本的には肉体上では祖先に遺伝的につながっているものの、魂及び霊においてはそれぞれ独立した存在としてとらえる必要に迫られる。シュタイナーはどこかで7歳までは遺伝的影響があるものの、それ以降はその影響からはなれて独立して成長していくことができるとする。それは自身が親に似ようとして似ているのであって、似ようと思わなければ似る必要はないということでもある。似ているというのは、親を模倣することで似てくる、若しくは、遺伝の力に余りにも影響を受けすぎていて、それに負けているということでもある。親に似ないですむというのは、希望の原理であろうか。親に似ているとしても、それが自分の自由な選択の結果であるとすれば、結果は親のせいではなくなる。記:所謂、通俗の人間は先祖の遺骨のの納められた墓とかに拘りを持つ。シュタイナーは人間が火葬にせよ土葬にせよ、死体が地球にとりこまれ地球の成分の一部になることが鉱物界にとっても植物界にとっても、もちろん地球にとっても非常に重要な意味をもっているということがを「教育の基礎としての一般人間学」の第三講でも述べているが、それは祖先を祀るということではない。もっと人間精神の内奥における問題だとする。儒教では祖先からの人間血肉の継承を重要視するわけだけれど、そういう在り方は、古代から伝えられてしまった「輪廻転生の誤った考え方」が今に残っているものなのかもしれない。祖先を大事にするという慣習を身につけているとしても、そこにきちんとした霊魂的な認識があるかどうかが問いなおされないとしたら、その慣習をカルト的な在り方と分けることは基本的にできなくなるとシュタイナーの神秘体験は囁く。哲学・思想ランキング
2023年03月06日
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「神秘学概論」読解40 :地球紀6 神託-2記:バルカン星(Vulcan)、水星、金星の神託における秘儀参入者が、自分自身の思考形式で秘密知識」受け取ったのに対して、土星、木星、火星の神託における秘儀参入者は、「上からの啓示として、あるいは完成された状態において」受け取っていたというその両者の違いを踏まえることで、「キリスト」の啓示を認識するためには、前述した意味で、太陽人にならなければならなかった人たちは、太陽神託、またはキリスト神託と呼ばれる特別の聖域での認識を得るための儀式やその秘密知識を大切に護っていた秘儀参入者がその両者のあり方を仲介するものであるということが理解できるようになる。そしてそれを踏まえながら、やがて「キリスト事件」が起こることになる。かつては「神託」として告げられて秘儀が、人類全体の前に公開されたのである。 「神託(oracle) 」というと通常は神のお告げ、神意を他に託すことをいう。目に見える現象の背後に、なんらかの秩序ありと仮定するとき、そこに「運命」の支配というものを考え、その秩序を支配するものとしての超自然的な神の存在を想定するとき「摂理」が出てくる。その運命や摂理を予知したいという人間の切実な希求は、(1)それを自然現象のなかに読み取るなり、(2)人為的な所為によってそれをうかがい知ろうとし、あるいは(3)人間自身が人格変換(神憑り)をおこして神のお告げを直接聞き取ろうとしてきた。広義には占い全般を含むことにもなるが、狭義には、ある特定の場所(神殿・寺院など)でそこにいます神によって未来のことが知らされる場合を託宣(たくせん)(神託)と いう。(1)の場合としては、月桂樹(げっけいじゅ)が風にそよぐささやきに神意をうかがい、聖なる泉の水の音、鳥の飛び方、流星、食(日・月食)によって占いをたてることがある。(2)のケースとしては、犠牲にした動物の内臓、あるいはおみくじを引く、「賽(さい)」を投げるといった人工的な手段もある。ある意味で科学的な実験に先だつ神験ともいえるもので、わが国の神前での綱引き・相撲(すもう)もそれにあたる。あるいは吉備津(きびつ)神社の「釜(かま)鳴り」などもそれである。 ギリシアでは全土に250以上の神託所があったといわれ、そのなかでもよく知られているのはデロスやデルフォイでのアポロの神託、エピダウロスの医神アスクレピオス、ドドナのゼウスなどである。しかもその最古のものはドドナのもので、神官は風にそよぐオークの木のさらさらという音の解釈によって神託を受けたといわれる。デルフォイでは、先だつ儀礼のあと、ピュテイアの名で知られる巫女(みこ)が三角台の上に座して神がかりになって質問者に答えた。通常その神託は詩形(六歩格)をとった。エクスタシーの状態では、リズミカルな発声を伴い、わが国では七五調になる。こうした神託の形はシベリアのシャーマニズムにその名残(なごり)をみる。また、デルフォイの神託は政治問題にも及び、植民地獲得の方向づけも得た。近代的な用語では霊媒(ミーディアム)がこうした役を果たすようになる。[小野泰博氏から引用]哲学・思想ランキング
2023年03月05日
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「神秘学概論」読解40 :地球紀6 神託-1 タレスは、ソクラテス以前の哲学者の一人で、西洋哲学において、古代ギリシァの記録に残る最古の自然・唯物論哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖であるギギリシァ七賢人の一人とされるが何と言っても、哲学(フィロソフィー/philosophy)とは、原義的には「愛知」を意味する学問の祖といえばソクラテスでしょう。其のソクラテスですが全くの無神論者であったかと云えば、神託事件で知られるように「ソクラテスの弁明」においてソクラテスは、自らの思想によってアテナイの青年たちを堕落させ、国家が認める神々を認めず、新たなダイモーン(神霊)を信じているという不敬神の罪を犯しているとして告発され、アテナイ市民の手によってアテナイの民衆法廷の場で裁判にかけられることになるのですが、この点において神秘学上ではやはり注目しておく必要がある。「神秘学概論」には、神託については、バルカン星・水星・金星・土星・木星・火星、そして太陽(*キリスト)の神託があったことについて説かれています。アトランティス地域での進化は、土星人、太陽人、木星人並びに火星人への分化を意味していた。(P268)。以前、「キリスト」の啓示を認識するためには、前述した意味で、太陽人にならなければならなかった。そのような人たちは、太陽神託、またはキリスト神託と呼ばれる特別の聖域での認識を得るための儀式やその秘密知識を大切に護っていた。神託とは霊的な存在の意図を聞き取る場所という意味である。別の神託が、土星人、火星人および木星人によって産み出された。それらの神託の秘儀参入者たちは、「高次の自我」となって生命体の内部に現われる本性たちを霊視し、そのようにして、土星叡智、木星叡智、火星叡智の信奉者たちが生じた。これらの秘儀参入者の方法以外にも、ルツィフェル的な存在たちからあまりのも多くの影響を受けた人たちのための方法も存在していた。その人たちは、生命体の大部分を、ちょうど太陽人と同じくらい、肉体から分離させたが、そのアストラル体は、太陽人の場合以上に、肉体の中の生命体に拘束されていた。彼らは、今述べた状態によって、予言的にキリストを啓示するまでには至らなかった。太陽の分離に際して地球を去った存在たちのある部分は、太陽の進化を共にし続けることができなくなり、太陽と地球が分離したあとに、太陽から別の居住性、つまり金星を分離させた。この存在たちの指導霊は、前述した秘儀参入者やその信奉者たちの「高次の自我」となった。水星の指導霊は、別の人たちの「高次の自我」となった。こうして金星神託と水星神託が生じたルツィフェルの影響を最も多く受けた人たちにとっての「高次の自我」は、もっとも早くから太陽の進化を共にできなくなってしまった存在である。この存在は、特別の居住性を宇宙空間の中に持つことはせず、太陽から離れたのち、再び地球と結びついて、地球の周辺で生き続けた。この存在が高次の自我となって啓示を与えたのは、バルカン星神託の信奉者と呼ばれる人たちである。この人たちの眼は他の秘儀参入者たちの場合よりも、地上の現象に向けられていた。彼らは、のちに人類の科学や芸術となったものの最初の基礎づけを行なった。これに反して、水星秘儀に参入した人たちは、より超感覚的な事物から知識を獲得した。同じことを、より高次な段階において、金星秘儀の参入者たちも行なった。バルカン星、水星、金星の秘儀参入者と、土星、木星、火星の秘儀参入者との相違は、後者の場合、その秘密をむしろ上からの啓示として、あるいは完成された状態において、受け取ったのに対して、前者は、すでに自分自身の思考形式で秘密知識を受け取っていたことにある。この両者の中央には、キリスト秘儀の参入者たちが立っていた。彼らは、直接、啓示を得たが、それ以外にも人間の概念形式でその啓示の秘密をまとわせる能力をもっていた。土星、木星、火星の秘儀参入者たちは。むしろ比喩の中で語らねばならなかった。キリスト、金星、水星及びヴルカン星の秘儀参入者たちは、むしろ観念で伝達を行なうことができた。(P270-273)哲学・思想ランキング
2023年03月04日
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「神秘学概論」読解39 :地球紀5 悪と自由-2 月紀の段階に停滞するこの霊的な存在(ルツィフェル的な霊たち)が人間に及ぼした作用は、人間に二重の結果を生じさせた。第一に、これによって、宇宙の姿だけを映し出す(*魔法の鏡以外に鏡には自由がない。)という人間の意識の特徴が失われた。なぜなら、人間のアストラル体に意識像を制御し、支配する可能性が与えられたからである。人間は、自分の認識行為の主体になったのである。第二に、人間が主体的に認識する際、その出発点は正にアストラル体であったので、アストラル体の上位に位置する「自我」は、それによって、常にアストラル体に依存し続けるようになった。したがって人間は、それ以降、人間本性の低次の要素をたえず受け続ける。人間生活は、地球紀の月の存在が宇宙進化の中で位置づけてくれた水準からは脱落してしまった。そして、この不規則な進化を遂げた月の存在たちの影響を、人間の本性はたえず受け続けた。この月の存在たち、つまり地球の月から働きかけて人間の意識を宇宙の鏡に変え、それによって、人間に自由な意を附与しなかった霊的存在たちと対立するものは、ルツィフェル的な霊たちと呼ぶことができる。ルツィフェル的な霊たちは、人間の意識の中に自由な活動を呼び起こしたが、それと同時に誤謬と悪の可能性をも人間に与えたのである。(P256-267) 「鏡」となっていたとすれば、人間はさまざまな問題に対して正答のみ得ることができていただろうが、それはまるで四択問題の解答番号そのものような存在だともいえる。そこに問いを見出しそれに答えようとするプロセスが欠如している。正解だけを答えるマシーンのような存在、此れが人間性の本質だとしたら、人間としてのあなたは何方を選択しますか。人間は「鏡」としての「解答集」を見ることをルツィフェル的な霊たちに妨害され続けているのだが、寧ろそのことで「認識の主体」であること、つまり「自由」の可能性を与えられたことになる。解答を見ることができないが故に、自分でそれを導き出そうとしなければならない。本来は全てが満点しかとり得なかった超優等生が其の事変から、或る意味、酷い(ひどい)劣等生になってしまうことに貶められたともいえるが、反面、人間は自分で考える精神の自由を持つ存在にもなり得たのである。 自分で考えるということは、間違うかもしれないということでもあり、間違うということは「悪」の可能性でもある。「善」であるための手順や手続きが決まった定型はそこでは存在しえない。それは「自由」によって選び取られるものでなくてはならない。「自由」であることと「悪」とはコインの両面のようなものなのである。「悪」の可能性がないということは、まるで自動的に機能しているように見える、あるいは普通の感覚や感情を欠いていることにより、機械に似ている「善」のロボット(robot)人間であるということでもある。悪を犯すことが予めプログラムされたロボット。しかしそのときの「善」のなんと深奥・陰影に欠けていることだろうか。その意味では、この地上世界はなんと陰影の深い世界だろうか。地球紀の意味もそこに見出すことができる。 この「悪」について、キリスト者共同体の代表者でもあったフリードリヒ・リッテルマイヤーは、次のように印象深く述べている。私たちの世界理解が大いなる事柄に対して目覚めると、「悪が妨げられることなく最高の段階にまで発展できるような世界が誕生せねばならなかった」という宇宙的思考の計り知れぬ偉大さにますます驚くようになる。「悪がこのようになすがままにさせられているのには、どのような意味があるのか?」。「悪は何のためにこの世界に存在しているのか?」。私たちが正しい精神をもって悪と戦おうとするならば、これらのことをはっきりと知らねばならない。悪が野放しにされている世界の中で生きると、人間の思考、感情、意志にとって非常に偉大なものが獲得されるのは明らかである。私たちの思考はどうだろうか。神の神聖さとは何であるかは、そこに影としての悪がない限り決して認識できない。別な分野から例をとろう。誰がいちばん印象的に太陽を表現するかというコンテストを画家達がやったとすれば、賞を獲得するのはたぶん、画面の上に明るさだけを表現した画家ではなく、影の中で、深く重い影の中で太陽がいかに明るく強く輝くかを体験させてくれる画家であろう。神の神聖さだけではない。神の善もまた、自分に対立する者にさえ慈悲深く救いを与えつつ頭を下げるときにのみ、その最高の深さを明らかにできる。悪が存在する世界では感情もまた別なものになる。悪事を行なうことから来る全き絶望と空虚、悪意をもつことで内奥の魂の死が体験されるような世界では、人間の魂の最高のものである神的善への愛は全く違った性格をもつようになる。それはずっと意識的で、また特別に深いものになるのである。さて最後に私たちの意志はどうだろうか。神に反する決意が許され、妨げられることとなく、また明らかに一見したところ罰もなくその決意を生きられるような場所、つまり自由がある場所でのみ、意志による意識的で自由な神のための決意が可能になる。これこそ高みにいる霊たち全てが地上の人類に望んでいることなのだ。彼らにはそれこそが人間の霊的高さである。これこそが人間を天界に連れていくものである。(フリードリヒ・リッテルマイヤー著「我らが父よ」キリスト者共同体の会刊 1997年12月/P159-162)哲学・思想ランキング
2023年03月03日
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「神秘学概論」読解39 :地球紀5 悪と自由-1記:シュタイナーは、既存の哲学的立場を、一元論 と二元論に大別する。一元論は、唯物論他 、フィヒテを極とする心霊主義、そしてデモクリトスを始めとする原子論の思想であり、二元論は、カントやE、vハルトマンに代表される立場です。シュタイナー自身は、(カント、ハルトマンを強く意識して)自らの立場を一元論とする。ただし、この一元論は、シュタイナー自身の立ち位置は当時の既存の一元論でなく、二元論を克服したとされる一元論である。シュタイナーは語る。入間は、転生輪廻する存在である。それによって、私たちほ、個体的理念として永遠である。しかし、夫々人間の今生においても、その直観においては人間は、転生輪廻する存在としてのその本来的な自己である。そして、この直観は、信仰及び神秘的体験の形式を持つ。信仰においても人間は自由であり、自由において、人間は愛を成す。人間の個人的課題 と普遍的課題が交差している今生において、如何に、自らの本来の自己と共に生き、より大きな愛を実現していくかが、私たち一人一人に課せられた使命である。これこそが、哲学の源点に立つソクラテスから流れる諸々の哲人たちも求め生きた道ではなかっただろうか。シュタイナーは人間は「自由の霊」であるとするが、何ものにその根拠を置くのだろうか。月を地球から分離させ、自らは月から人間に働きかけた存在たちは人間を宇宙を写し出す認識の鏡としようとしたのだが、それを妨害しようとした霊たちがいた。ルツィフェル的な霊たちである。ルツィフェル的な霊たちは人間のアストラル体を独立させ、それに働きかけ、人間が「認識の鏡」であることを妨害したのである。その妨害がなかったとすれば、人間は「宇宙を形象として映し出す」ことのできる「認識の鏡」となっていただろうが、もしそうなっていたとしたら人間には「自由」はなかった。認識の「主体」であることはできなかった。ただ宇宙の形象を映し出す自動的な装置としかなり得なかったのである。 月を地球から分離させ、自分も月と結びつき、地球紀の月の存在となった霊的本性たちは、月から特定の力を地球上に放射しつつ、人体組織に特定の形態を与えた。その働きは、人間によって獲得された「自我」にも及んだ。その作用はアストラル体、エーテル体ならびに肉体と、この「自我」との相互作用となって現われた。そして、その結果、叡智に充ちた宇宙の形成過程が、意識の内部に映し出されるようになった。それは認識の鏡とでもいえるような現れ方をした。すでに述べたように、月紀における人間は、分離することによって、独立し、太陽存在から直接得た意識よりももっと自由な意識を獲得することができた。そして今述べた地球紀の時代にも、当時の月紀の遺産である、この自由で独立した意識が再び現われる。しかし、正にこの意識が、前に述べた地球紀の月の存在たちの影響を通して、再び宇宙と調和させられ、宇宙の模像にされた。仮にもし何も影響がなかったとすれば、実際そうなり得た筈であった。もしも他の影響がなけば、自然必然性の中で、つまり自由なる働きかけによるのではなしに、認識生活の中で、宇宙を形象として映し出すことができ得た筈であったが、実際はそうならなかった。丁度、この月の分離期に、人間の進化にある種の霊的本性たちが働きかけてきた。この本性たちは自分の中に月紀の性質をあまりにも保ち続けてきたので、太陽が地球から分離したとき、それに参加することができなかった。彼らはまた、地球紀の月から地球に向けて働きかけた存在たちの活動に加わることもできなかった。かつての月紀の性質を保ちつづけるこの霊たちは、地球紀にいわば太陽霊に反抗した時の衝動が生き続けていた。月紀の当時には、この衝動は、人間を自由な独立した意識状態に導いた点で、祝福でさえあった。しかし地球紀になって、この存在たちが独自の進化の過程を辿るようになると、彼らは、月から働きかけて人間の意識を宇宙の必然的な認識の鏡にしようと望んだ霊的な存在たちの敵にならざるを得なくなった。月紀においては、人間がより高次の状態に至るために役立つったのに、地球紀の状況においては、人類の妨害者とならざるをえなかった。この妨害勢力の月紀の性質の中には、人間のアストラル体に働きかける力が含まれていた。その力が、前述したような意味で、人間のアストラル体を独立させた。彼らはこの力を行使して、アストラル体に独立性を、この地球紀においても与えた。それは地球紀の月紀の本性たちが生ぜしめた人間の必然的な、自由ではない意識状態に対してなされたのである。(P254-255)記:ルシフェル若しくはサタンと呼称される存在は、人間に知恵の実を与えた。其の意味するところは何であろう。人間は精神自由を得た代わりに、楽園追放を余儀なくされます。貴方は何方(いずれ)を選択しますか。哲学・思想ランキング
2023年03月02日
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「神秘学概論」読解38 :地球紀4 分離した人間様態の合一-2 シュタイナー教育とは、20世紀はじめのオーストリアの哲学者・神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが提唱した「教育芸術」としての教育思想および実践であるヴァルドルフ教育を、日本で紹介する際に名付けられた呼称のひとつであるが、その最も基礎となる講義、「教育の基礎としての一般人間学」の最初の講義においても、人間は「二つの部分から構成された存在」であって、生まれてくるときに「霊的三統一体」(霊人・生命霊・霊我)が「体的統一体」(アストラル体・エーテル体・肉体)と結びつくということ、そしてその結びつきをいかにサポートしていくかが教育の重要な目的であることが示唆されている。 人間が二つの部分から構成された存在であることを意識しなけばなりません。人間がこの地上の世界に足を踏み入れる以前、霊と魂とは一つに結びついておりました。霊の物質界における働きは今日まだまったく隠されていますが、霊とは霊学で霊人、生命霊、霊我と言われている部分です。人間のこの三つの本質部分は、超感覚的世界、つまり私たちが今それに橋を架けようとしている超越界の中に存在している人間部分です。そして死後から新たに生まれ変わるまでの間、すでに私たち人間はこの霊人・生命霊・霊我と一定の関係に立っていたのです。そしてこの霊的三統一体から流れてくる力が、人間の魂的存在に浸透していたのです。つまり意識魂、悟性魂(あるいは心情魂)ならびに感覚魂がこの力の働きを受けていたのです。そして死後から新しく誕生するまでの期間を通り過ぎ、再び物質世界に生き始めると、今述べた霊的存在は魂的存在としっかり結びつくようになります。人間はいわば霊的魂、あるいは魂的霊として、高次の領域から地上の領域へ降りてくるのです。そして地上存在の衣裳をまといます。霊魂と結びつくこの地上の存在部分は、肉体の遺伝的経過を通して生じます。そのようにして霊的魂、あるいは魂的霊には身体部分が結びつきます。つまり第三の体的統一体が結びつくのです。霊魂の場合、霊人・生命霊・霊我という霊的三統一体と、意識魂・悟性魂(あるいは心情魂)・感覚魂という魂的三統一体とが結びついていましたが、その霊魂が物質界の中に降りてくる場合には、感覚魂(あるいはアストラル体)とエーテル体と肉体という第三の霊的三統一体に結びつくのです。けれども、これらのアストラル体・エーテル体・肉体はまず母親の胎内で、次いで物質界の中で、地上の三統一体、すなわち鉱物界と植物界と動物界とも結びついています。ですから、ここでも三統一体が互いに結びついているのです。(シュタイナー「教育の基礎としての一般人間学」筑摩書房/P10-11) ここでもうひとつ重要なのは、霊・魂・体という三統一体。霊においては、霊人・生命霊・霊我、魂においては、意識魂・悟性魂(あるいは心情魂)・感覚魂、体においては肉体・エーテル体・アストラル体というふうに三つ組みとして進化プロセスが生じていることである。人間の身体も、精神活動にかかわる頭部系(神経・感覚組織)、物質活動にかかわる肢体系(代謝・運動組織)、両者を相互に調和的に結び付ける胸部系(呼吸・循環組織)の三つに三分節化され、それぞれの組織に、思考、意志、感情という三つの魂の力を実現するという目標があるとされ、またこれと同じように、「社会有機体」においても、、精神活動にかかわる精神生活、物質活動にかかわる経済生活、両者を相互に調和的に結び付ける国家=法=生活という三分節化された働きがあって、この三つの生活形式には、自由、友愛、平等という三つの目標が与えられているとされている。 ここでも、「合一」のプロセスの重要な様態として「三統一体」が現われてくる。これを「三位一体」との関係性において眺めて見ることも一理あるものと捉えます。哲学・思想ランキング
2023年03月01日
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