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・2、27、木視覚支援学校の理療科を訪問し、受験希望に際しての説明を受け、そこで僕にとっての最大の壁が二つそこにあることを知る。まず一つは、学校卒業時の国家試験受験が墨字もしくは点字しか許されていない、ということである。墨字とは一般に使われている文字のことである。僕は今の世の中、パソコンやワードの持込は可能であると勝手に考えていた。国家試験がそうなので、必然理療科入学試験もパソコンは不可であるという。視力が低下して以来10年、僕は文字の読み書きはすべてパソコンで用を足して来ていた。点字は全くだめ。しかし墨字が使えない今、点字で受験するしかない。受験日まで残り半年。これはとても無理だ、と肩を落とした。二つ目に、学校入学試験が存在する。これは簡単な適正検査だけだとこれも勝手に想像していたのだが、何の大阪府教育委員会が指定するちゃんとした一般教養のテストがあると知った。試験内容は、まず40分間の小論文。90分での50問五教科一般教養。それに面接と適性検査であるという。僕の肩はいっそう落ちた。高校卒業のとき、ようやくこの一般学問からおさらばできると生成したあの五教科が、この年になって再び重く圧し掛かって来る。今さら連立方程式や二次方程式、元素記号や電圧と電流、それに平清盛やサラエボ事件など、ああ、どこをどう掘り帰しても頭に蘇えらない。合格ラインは60点だという。うなだれて帰宅し、考えた。何かをやると決めて、それを手に入れるためにはこのぐらいの壁は覚悟のいることなのだろうと。自分がどこまで出来るか全く予測が付かなかったが、兎に角やり始めてみるしかない。浪人覚悟で、とにあえず2月8日の受験に向けて取り組んでみる決心をした。しかし浪人といっても、僕の年齢がネックであった。これ以上先送りにしてはどんどん鍼灸師としての歩き出しは遠のき、働ける年数がどんどん短くなる。何としてもこの2月の試験にパスせねばならないが、自信はゼロであった。そこからまず点字のレッスンを受けるべくライトハウスに相談し、マンツーマンの授業を受けた。普通20回ほどのレッスンを、8回で詰め込んだ。詰め込んだと言ってもただ存在する点字を一通り習ったに過ぎず、実用には程遠い。そこから毎週別の点字教室に通い、兎に角読み、書いた。点字は読む方向と書く方向が裏向けになるため頭がこんがらがり、それに指先の感覚も急には発達しないので、本当にたどたどしいものである。それに加えて、一般教養を勉強するため教えてくれる人のところに通うことにした。日曜日はそれですべて潰れ、仕事の後に先生の家に行くこともあった。兎に角箸にも棒にも掛からないのが数学である。数十年ぶりに見るXやYを含んだ数字を見ると、蕁麻疹が出そうであった。つづく
2014.02.27
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・2、25、火僕は約10年ほど前に、ある鍼灸師に出会った。それはステージ本番に向けて、体調を整えるために探し当てたある流派であった。そのことは再々この日記でも紹介したが、周りからは「その鍼灸師に洗脳されている」とか「鍼中毒にかかっている」など罵倒されたものであった。世の中の人には、他人がやろうとすることに対して必ず一度は戒めを与えないと気がすまない者がいるのだ。これはどういう心理から来るのか想像してみることがある。こういう戒めを垂れる者は、必ず自分では何も行動を起こさない人である。普段の慣れ親しんだ生き方に、異物を投げ込むことを極端に嫌うことから来るのだろうと想像する。隣で極端な行動に出る者を恐れ、または妬み、あたかも心配しているという風を装って戒めの杭を打ち込む。僕にはそのようなところは全くないので、隣人が革命家であろうが、ホモセクシャルであろうが、ファシストであろうが、熱烈な宗教家であろうが、僕に火の粉が飛んでこない限り全く意に返さない。人には其々の生き方とやり方があり、自分の物差しでは計りきれないものだと思っているし、それだからこそ面白いのだ。話を元に戻すと、僕はその流派の鍼治療方法の持つ深さ、可能性、西洋医学とは全く違う観点からの治療に対する考え方に強く引かれたのだ。僕もそれまで鍼治療と言えば、肩こり治療や捻挫の時に用いるものという認識しかなかった。ところが古来中国の文化で発展した鍼は、様々な能力を備えたものであることを知る。しかしまさか自分がその分野の勉強をしようとは思わなかった。余りにかけ離れた世界だし、何と言っても医学だから、自分の頭で付いて行ける世界ではないと諦めていた。僕にも生活があり、毎日午後、夜と行うレッスンと各合唱団があった。鍼灸をやるには国家試験に通る必要があり、そのためには三年間その受験資格を得るために学校に通わねばならない。どう考えても無理だ。数年経ち、その鍼灸師は大阪を去ることになり、僕は新たにまた治療院を探すことになった。ネットを駆使して探せば、きっと同じ流派が見付かると高を括っていたが、いくら探しても探し当てることは出来ない。一年ほど経ち諦めかけたころ、知人のお姉さんが鍼治療に通われていると聞き、あちこちでそうしているように治療内容を尋ねてみた。するとどうやら探し続けていたその流派の治療方法にとても似ている。場所を教えてもらい、早速治療を受けに赴いた。確かに全く同じ治療である。鍼灸師の語ることまでそっくり。後で分かったことだが、そこは僕が初めに出会った鍼灸師の師匠の治療院であった。日本ではほんの数人しか継承者はいない。よくまあ辿り付けたものだ。今度はそこに通うようになり、何人かの鍼灸師とも仲良くなりいろんな話を聞いているうち、やはりどうしても勉強してみたい衝動に駆られる。僕も歳を重ねるうち、今やりたいことに勇気を出して踏み入らねば、きっとこのままずるずると年月が過ぎてしまうに違いない。やるなら今が最後のチャンスだ、と思うようになり、去年の夏に学校入学試験に望む決心をした。入学試験は2月8日で、半年ほどしか時間がない。早速その学校、大阪府視覚支援学校理療科に出向き、意向を話して相談に乗ってもらった。そこで自分の前に二つの大きな壁が立ちはだかっていることを知る。 つづく
2014.02.25
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・2、18、火今親鸞聖人の伝記を読んでいるが、現在36歳、流罪として越後に流されて、そこで布教活動に殉じている。少し遡り、親鸞が松若丸の幼名であったころ、1180年前後のころの話である。1179年を皮切りに数年を置いて三度も大地震(阪神淡路大震災級)があり、家は崩壊し、町全体が火に包まれ、そのため飢饉が起こり人々は餓死して行った。京都という町は死体に溢れ、死臭と疫病が町を覆い、取り締まる者もないため盗賊が毎晩のように屋敷を襲う日々。天皇に力が全くなく、僧兵と武士が内乱を繰り返し、その都度市民は逃げ惑い、町は荒れ果てていた。政治というものは存在せず、人々は飢えと疫病のために次々死に絶え、鴨川は夥しい死体で水が流れなくなっていたという。都が京都に移ったころ、西暦800年前後にすでに京都は疫病が蔓延し、無政治な状態であり、その中疫病を鎮めるために祇園祭が始まったということになる。何故に京都に疫病が蔓延するかという理由は、まず都ということで仕事を求めて多くの人々が移り住んで来る。当時町屋には便所というものがなく、皆おもてで用を足す。排泄物はそのまま放置され、不衛生極まりない。人々は下水施設というものは考え付きもしないのだ。もう一つの理由は、元々鴨川は今よりもずっと西を流れていたという。京都に都が移り、貴族の都合で人間の手で川の流れを東に変えたという。しかし当時の工事技術でそんなことがうまく行く訳もなく、川は度々氾濫し、鴨川よりも西側に水が溢れ、水はけの悪い土地柄もあって、年中じゅくじゅくと湿っていた。そこに先ほどの排泄物である。疫病は当然のこと蔓延することになったらしい。チフス、赤痢、ペストのような多数の疫病が同時に人々を襲っていたと想像されている。何百年の間、京都は恐ろしく不運な町であった。都を築く時に、中国の唐を真似して風水にもとずいて区画整理した。メイン通りである朱雀大路の南に巨大な門を築き、西には羅生門。聖徳太子が建立した六角堂は、風水通り道を通すために15メートル南に移転させた。雅な京の都と憧れられたのは、ずっと後のことなのだ。自分の生まれ育った故郷が、1000年前にはそのように死体と乞食に溢れた町であったことを最近まで知らなかった。芥川龍之介の「中盗」で初めて知ったことであった。武力を持つ者が武器を持たない市民を甚振り翻弄する時代だったのだ。平安時代をもっと遡る時代に建てられた寺院などは、そんな京都の不運と栄華を見てきているのだ。親鸞が叡山から下り、100日こもった六角堂もその一つ。先日京都に行ったついでに訪れてみた。京都に生まれ育ったにも関わらず、初めての訪問であった。この寺は聖徳太子が建立したので、平安時代よりまだ数百年前のものだ。そう思うと恐ろしい町である。夥しい人々の営みと、生と死を見てきたのだ。六角堂の狭い敷地には今も多くの参拝者が訪れ、寺の右には池坊、左にはビルが建ち、若者たちや観光客の行き交う中、慎み深くひっそりと建っていた。
2014.02.19
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・2、19、水親鸞の伝記の中で、自力ではなく他力に任せることが大事であるという考えが出て来る。川に溺れる時、もし天からロープがするすると下りてくれば誰でも苦しさのあまりそれにすがり付く。しかしこのすがり付くという行為が自力であるという。溺れるがまま運命を仏に委ね、他力に身を任せる。自分の運命はすべて仏がお決めになる、というのである。確かに死に対する恐怖を取り去るという意味では、こういう考え方は必要かもしれない。今と違い医学のない時代では、病気になればただ死を受け入れて行くしかないのだ。兎に角仏教とは「必ず我が身に襲う死という恐怖を取り去る」という作業が原点であるようだ。ここのところがどうも僕には奥行きのない作り物を感じさせるところである。そしてやはり親鸞も、仏教をもっと生きた教えにしたいという強い思いにかられて布教活動に殉じたようだ。もちろん人々は皆死に対して恐怖がある。それは昔も今も同じであろう。医学も、充分な栄養もない当時は毎日の生活に密着した問題であった。若くても明日はどうなるか分からないのだから。しかし死後に極楽浄土に行くことができることだけを夢見て念仏を唱え、仏教に希恵することは、現代の我々には何処か疑念が生じる。それは一生下人として馬車馬のようにこき使われ、何の喜びも快楽もなく年を取り息絶える人生が決定されていたり、身を売るしか食べる手段のない女の人生というようなものが我々の周囲にないからかもしれない。生まれ落ちたところによって、希望の根を摘み取られた人間がすがり付くことのできるもの、それは死後の極楽にしかないのだ。仏教が地位の高い者たちの極楽行きの特権であったり、強要であったりしたところから、教育を受けたこともなく、字の読めない貧しい庶民のところに下ろすことに初めて成功したのが法然であり、そういう仏教を親鸞や日蓮が受け継いだということになるのかもしれない。時間の壁を通り抜け1000年後の今を見てみれば、彼らの残した教えしか現在の我々に伝わっていないではないか。宗教でも音楽でも芸術でも、煩悩に蠢く庶民の生活に浸透しなければ歴史の壁は越えられない、ということだろう。ここで本当に言いたいことから横道にかなり反れた。さて現代の我々にとって、仏教で言われる他力に意味があるか、ということだ。「運命は自分の手で開くもの」とは僕も思えない。ギリシャ悲劇では「われが運命を選ぶのではなく、運命がわれを選ぶ」としている。しかしそこでは自力までが運命に選ばれたもの、いわゆる他力なのではないだろうか。現代の我々は何かを求め、何かを欲さねばならない。しかしそれが今は難しくなっている。なぜなら誰もが教育を受けられ、誰もが腹一杯食べ酒を飲むことが出来、労働基準法により休日が約束されているからかもしれない。僕は常に欲したいと思う。僕の自力が運命の意思であるために。それを仏教では煩悩と呼ぶ。そこで、あえて僕は僕自身の人生に大きな転換期を齎すことにする。 つづく
2014.02.19
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・2、11、火今 親鸞聖人の伝記を読んでいる。これは丹羽文雄が、小説風に親鸞の5歳のころから入滅するまでを描いた大長編作品である。今 親鸞は30歳半ば。後鳥羽上皇の本願念仏宗弾圧にあって、越後に流罪となったところである。法然、親鸞の生き方を見ていると、何だかばかばかしいようにも思うし、またよく思索してみるととても深い哲学のようにも思える。法然に言わせれば、何につけても「念仏を唱えなさい。念仏さえ唱えればどんな罪深い者でも仏は極楽浄土へとお救い下さる」という。それ一辺倒である。しかし「南無阿弥陀仏の一言だけでよい、あとのことはすべて捨ててしまえ」というところに行き着いた法然の教えには、それまでに何十年という迷いと思索と苦悩があり、万人を平等に救いたいという強い信念があるようだ。そんな話を帰路の電車の中でリンクポケット(読書機)で聞いて、それらのことを僕自身も思索しながら河内長野の改札を出て階段を下り、バス停へと向かった。いつもの時間である。バス停に辿りつくとそこに一人の男が立っていて、僕は彼の何処かにちょっと腕が擦れたようだ。確かに、当たったというより擦れたという感じだった。すると男は突然わめき始めた。「おいおまえ、危ないだろ、気を付けろよ!おい、反省してるのか、何とか言え!どういうつもりだ!」僕は「ああ、またこの手合いか」と思い、彼に背を向け黙って立っていた。男は僕の背に向かって続け様に毒突いた。こういうことは時々あるのだ。見えない者などに絡んで憂さを晴らそうとする輩である。でも頭のおかしな者にいちいち相手になっていては大変なので、たいがいは無視して過ごす。しかし男の言った何かの一言に僕は激した。その一言は今となっては思い出せない。今日僕は別に虫の居所は悪くはなかった。むしろエネルギーが余っていたのかもしれない。僕は黙ってゆっくり男に近づき「おい、もう一度言ってみろ」と低い声で脅した。「人に当たっておいて、その態度は何だ!」と男が喚いたので「これが見えないのか」と言って僕は白杖を男の顔に押し当てた。「それがお前の思い上がりだ!」と彼がその白杖を握って怒鳴った。僕はその言葉に再び色をなした。男はただの与太者や酔っ払いとは違い、何処か弁の立つところがある。年は僕と同じぐらいか、少し上ぐらいに感じる。確かに彼の言うとおり、僕は彼に向かって「ごめん」の一言も口にしていないのだ。だがぶつかってもいないのにどうしてこんな輩に謝らねばならないのか、という気でいた。そこで僕の口から突いて出た一言に、自分自身深い自己嫌悪を感じることになる。「貴様障害者に手を出して、それでただで済むと思うのか!」自分自身、救いようもない情けない一言だ。自分の口から出た一言とは信じられなかった。すると男は言った。「俺も障害者だ、お前こそただでは済まんぞ!」それまで気が付かなかったが、男は片手に杖を持ち、足を引き摺っている。「お前のそれが思いあがりだというのだ!」と男は何度もわめき続けたので、腹立ち紛れにおもいっきり彼の手から白杖を奪い取った。その反動で男は歩道の上に仰向けにひっくり返った。「ああ!」という男の声と、彼の杖の転がる音が響いた。僕はそれも無視して彼に背を向けてバスが来る方向に立った。男はゆっくり立ち上がり、まだ僕の背中に向かって毒突き始めた。「このまま後ろからブスリとやられるかもしれないな」などと考えていた。それでも余りひどいので、再び男ににじり寄ると、わめきながらも男は後ずさりした。どうやらこちらの殺気に恐怖を感じているようだ。「これ以上激する自分を抑えられないと、傷害事件になるかもしれないな」と頭のどこかで考えていた。今僕は犯罪者になる訳にはいかない。男が訴えれば、今でも暴力を奮ったことになるのかもしれなかった。男から離れてベンチに戻ると「ここ、空いていますよ」と席を譲る若い女性の声が聞こえた。「大変な災難でしたね、お気の毒です」という感じが伝わって来た。しかし僕はその災難よりも、自分が思わず発した一言に深く落胆し、打ちひしがれる思いだった。僕は自分の障害を喧嘩の道具に使い、それで人を脅そうとしたのだ。最も軽蔑に値する行為だった。法然の前にひれ伏し、愚かな我を懺悔せねばならない。仏に救いを求めるべき、いや、仏に救われるべき愚者である気がした。でも法然も親鸞も言うだろう。「凡庸にまみれ、欲に打ち勝てず苦しみ惑うのが人間であり、それを隠す必要はない。だからこそ念仏を唱え、仏の救いを得るのだ」と。そして僕は今、あえて恥ずべき今日の行為をここに記す。
2014.02.11
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