全17件 (17件中 1-17件目)
1

ロバート・フリップも協力したことで知られるキース・ティペットのビッグバンド企画、センチピード。 Youtube上には以前から70年代半ばの再結成映像はありましたが、この映像は初めてです。Centipede - Keith Tippett Big Band (1970) フィルムで撮影されてるのでステージ上が暗いですが、とても貴重な映像ですね。ジュリーさん踊りまくってますしw 飛行機移動や衣装やコーラスの顔ぶれで見る限り1970年11月のフランス・ボルドー、アルハンブラ・シアターでのステージではないかと思われます。裸ドラマーはワイアットらしいですね。 ただライトを浴びたがらないフリップが見つかりません。。。 この演奏時はまだボズ・バレルはセンチピードのヴォーカル隊に参加してないみたいですね。映像を見る限りジュリー、マイク・パトゥ、ひげのズート・マネー、あと一人背中だけ見える女性ヴォーカルはマギー・ニコルでしょうか?ボズのクリムゾン加入が何月か不明なのでこのステージにはいなかっただけかもしれませんが。 ボズが90年代に残したインタビューによると、このセンチピードに参加したことでフリップに紹介されたそうです。キース・ティペットが仲介とか意外ですね。 ボズ自身が1966年、ティペットグループを組む以前のマーク・チャリグとサイドワインダーズで短期間活動を共にしましたし、そもそも彼自身がジャズ好きなのも手伝ったのでしょうか。 センチピードに関わったのは1/3がロック系、1/3がジャズ系、1/3がクラシック系という風な表現でボズはこのプロジェクトを語っていましたが、その多くが1970年当時ロンドンのマーキー・クラブへの出演で既に顔見知りだったと言うのがありますね。このプロジェクトが後に様々な分野へ発展した人材交流の場になったと考えられるのも新たな視点だなと感じました。人をかき集めたキース本人は大変だったみたいですがw■2015年4月4日追記■ センチピードのコンサート活動は、1970年11月15日Lyceum ライシアムでデビューイベントを行ないましたが、ボズはその前月の14日にはまだ自身のバンド、ミラーズでマーキーに出演していました。この11月にMirrorsは解散したと言う事なので、その後以前のバンド仲間で旧知のマーク・チャリグあたりからプロジェクト参加を呼びかけられたのかもしれませんね。 キース・ティペットが50人規模の大プロジェクトをやるに際し、あちこちに声を掛けていたので、そういう中での合流だと考えられるでしょう。ティペットグループもマーキー常連でしたしね。 この上記センチピード映像はフランス・ボルドーでの2日間、20日か21日のいずれかだと思われます。 その後12月、ティペットはシンビオシスで活動し、翌1971年1月からセンチピードでのコンサートを再開しましたので、その間のリハなどでボズが顔合わせをしていた可能性があります。 センチピードの71年コンサート記録は以下の通りとなってます。1971年1月30日、ランチェスター・アーツ・フェスティバル3月7日、ブリストル大学6月16日から19日、アルバムレコーディング10月14日ロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール(フリップの代役でオリー・ハルソールがギター)12月19日ロンドン・レインボウ・シアター キング・クリムゾンのアルバム、アイランズのセッションが、この間7月8月に行われていました。 今回もややこしい記事にお付き合いいただきありがとうございます。頭がこんがらがって何度か修正をしております。余談: この当時を振り返ってボズは「キング・クリムゾンがどんな音楽をやってるか知らないで参加した。」等と話していました。「逆にイアン・ウォーレスはよく知ってて参加した。」ともw 音楽性も知らないで参加というのも無茶な人ですねw■2015年4月6日追記■オリー・ハルソールが1971年10月センチピードのロイヤル・アルバート・ホール公演に参加した事について語っているメロディーメーカー71年11月6日記事です。http://www.pattofan.com/OllieHallsall/mm11-6-71.htm関連記事:Boz Burrellが60年代に在籍したTea Time Four等バンド活動についてhttp://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201410020000/
Mar 29, 2015
コメント(0)

こんばんは!このところ長文でアレコレ書くブログが続いてて、自分で読んでても病んでるなぁと感じましてw ここらでスカッと1974年イタリアのテレビ番組に出演したソツフ・・・間違えた!ソフツでもみてみようと思いました♪それではどうぞっwSoft Machine live on RAI 1974 画像はモノクロですが、良い感じですね。アップされたのは2009年だそうですから、私が単に今まで取りこぼしていただけなのでしょうwあとはライフタイム時代のアランも見たいものですねー。ところでソツフってなんやねん?
Mar 29, 2015
コメント(0)
先だって当ブログでは、ゴードン・ハスケル氏ご本人にIt is and It isn't制作時期についての質問をした件を書きましたが、結局覚えてないという返答でその後考え込んでしまいました。 ジョン・ウェットン研究では日本において飛びぬけた存在でいらっしゃるJapanese JOHN WETTON fan site様の情報でもココらへんは不明と言うことで、色々と情報を照らし合わせ、英国で二週間行われたハスケル2NDアルバム収録時期を推測してみようと思います。いわゆる本丸からではなく外堀を埋めようと言うわけですw まず、ルネッサンスにおいてウェットンの前にベースで参加していたフランク・ファレルが抜けたのが71年6月で、その後数回のギグにウェットンが参加。ジョンウェットンファンサイト様の情報ではその後Jadeのツアーへジョン・ミラーのつてで6週間参加したと書かれていました。ジョン・ミラーといえばハスケルのセカンドアルバム制作のきっかけとなった、アーメット・アーティガンの宿泊先ホテルを紹介した人物。 その後のウェットンは、ハスケルのセッション参加した後にファミリーに加入しましたが、これについては「UKプログレッシヴ・ロックの70年代」に収録されたジョン・ウェットンへのインタビューで本人から明確に「ファミリーに参加したのは71年9月から72年9月くらい」と語られていました。 アルバムにギターで参加したアラン・バリーにしてもこの年の後半にはフィールズに参加しているわけで、秋以降の収録とは考え難いと言うのもあります。 そもそもこのセッションは、当初ヴィネガー・ジョーというバンドの為に予定されたスタジオ、プロデューサー(アリフ・マーディン)で収録されました。その前の契約時、アーティガンからどの位制作に時間が必要かと尋ねられ、ハスケルは一週間と応えていましたが、実際は2週間ロンドンで作業が行われました。ロンドンでのセッションが二箇所になってるのは収録に思いのほか時間が掛かり、スタジオブッキングの問題からそうなったのではないかと考えています。 ロンドン・レコーディングが終わるとマーディンは米国にテープを持ち帰りニューヨークでいくつか追加のレコーディング作業を行いました。これにはハスケル本人は同行せず、後に「あの頃はそういう事情に疎かった。」と述べています。 以上の事からもロンドンでのスタジオ・セッションがすっぽり収まる期間は、1971年の8月ではないかと推測するに至りました。 ハスケルセカンドソロLP発売に合わせたコンサート出演が1971年11月12-13日。アラン・バリーが加入したフィールズのアルバムの一面広告が掲載されたのは71年11月13日メロディ・メーカー紙面、ハスケルがレインボウシアターのコンサートに出演した二日目にあたります。フィールズのアルバム発売が11月であった可能性もありますね。多額の広告費かけての全面広告ですから11月13日がフィールズの英国発売日だった可能性もかなり高いのでしょう。ハスケルもコンサートに出演してレコードが出ないとは考え難いので両者は割りと近いリリース日だったのかもしれません。米国ATCO盤は12月リリースなのだそうですが、英国アトランティック盤はもう少し発売日が早かったのかもしれません。 ハスケルのアルバムにあわせたツアー参加者がどんなラインナップだったのかは不明です。まさかソロで弾き語り? そこら辺は今のところ不明です。レコーディング参加者でこの時期、ハスケルのツアーでバック演奏に参加できそうなのはビル・アトキンソンしか残っていません。ココらへんは折を見てまたご本人にたずねる機会があったら質問してみようと思います。答えが出る保障はありませんがw■追記■ ツイッターにジョン・ウェットン先生が丁度いらしたので、思い切って質問してみました。(ハスケルのセッションは1971年の8月でしたか?)そのお答えは、「今ツアー中で確認できないし判らないのだけど、たぶんそれが正しいように思うよ。」とのことでした。余談:このハスケルのセッションの後に当時人気を得ていたバンド、ファミリーに加入したウェットンは、フリップからクリムゾンへの参加打診の電話を貰っていたと上記のインタビュー記事で応えてました。丁度アイランズ期メンバーとの確執で孤立を深めていたフリップは味方が欲しかったんじゃないかという感じで。ファミリーで上手くいっていたのでこの時は断ったと言っています。どうせやるなら政治的な理由じゃなく音楽で組みたいと言う思いが彼の加入時期を一年後にさせたようですね。
Mar 28, 2015
コメント(0)
1963年というとまだキースがオルガンを手に入れるだいぶ前の時代。時代はビートルズ旋風が世界を駆け巡り始めた頃ですねー。そんな時代にキースが組んでいたピアノトリオで、4枚のアセテート盤を作ったのだそうです。まだデモ録音をそうやって保存していた時代なんですね。3枚はメンバーに、後一枚は彼らのコンサートのプロモートに使われたそうです。 この後キースは二年ほど食うや食わずの極貧生活をしながら必死にお金を貯めて最初のハモンドオルガンを手に入れるわけですが、そんなジャズピアニスト時代の彼の幻の録音が、750枚限定で復刻販売されることになったそうです。ニュースソース:amassキース・エマーソン 63年録音の幻のジャズ・レコードが限定復刻レコードが欲しいよーという方はコチラで予約を出来ます。Record CollectorKEITH EMERSON TRIO Rare Vinyl 10"http://shop.recordcollectormag.com/product/VINKEITH/buy-keith-emerson-trio-rare-vinyl-lp世界中のキースファンが買えるように、送料コミで価格が表示されます。日本からの購入には「£34.29 REST OD WORLD」を選んでください。現在のレートで約6080円(送料含む)。複数枚の注文も出来るようですので、欲しい方はお早めに♪
Mar 27, 2015
コメント(0)

昨年2014年10月に書いたブログ記事にて、1960年代におけるボズ・バレルの足跡を取り上げましたが、その最後に70年に入ってからのミラーズについてもチョロっとだけ触れましたw 70年のいつ頃、どんな活動だったのか皆目わからなかったのですが、そういやマーキークラブの出演にあったような、、、とうろ覚えで放置してきました。 アンディ・マカロックのクリムゾン加入がセカンドアルバムで叶わなかった原因でもあった、当時演奏参加していたジェイコブス・ラダーのスケジュールが詰まってて抜けられなかったと言う点を以前から探してきたのですが、そこでミラーズの出演予定が出てきました。 ボズが当時いたミラーズは、この画像だと1970年10月14日マーキーに出演したようですね。 一番下に小さくバンド名が載っていますね。この70年に、BOZらMirrorsがMarquee Clubに出演したのは、6月22日、8月24日、10月14日。そのどれもがクライマックス・シカゴ・ブルース・バンドとの共演なので、マネージメントが同じだったのかもしれません。音楽性も似てたのかな?どうでしょうw マーキーのような老舗クラブだと、年毎の出演者一覧表をまとめたサイトがあるのですが、いかんせん前座バンドまでは網羅されて無いので、昔の広告やフライヤーが頼りになるのですね。余談:70年代以来長いこと気に掛けてきてますが、相変わらずアンディ・マカロックの参加したバンド、ジェイコブス・ラダーの痕跡は出てこないです。69年から活動し、ロンドンでも演奏していた米国オレゴン出身バンドがまさにその名もずばりJacob's Ladderなのですが、バンド立ち上げ時の三名以外のドラムスでアンディが70年ロンドン公演に参加したのかどうか、まだ何も確証が得られていません。 本当はアンディ自身に聞くのが一番なのでしょうけれど、まあ昔の話を今尋ねても答えてはもらえないでしょうね。。。何か彼の参加を示す画像なり活動記録が見つかったらいいのですが。 アンディが1968-69年に在籍したShy limbsは1970年3月29日のロンドン・ビクトリア・ガーデンで行なわれたフリー・イースター・フェスティバルに告知当初参加予定バンドとなっていたそうです。ただこのイベントは告知されていたジョン・レノンなど多くが出演キャンセルしたらしく、実際の出演バンドに彼らの名はありませんでした。Shy Limbsのセカンドシングル発売が69年11月だったのでその頃予定が組まれたのかもしれません。 70年2月の時点でまだクリムゾンに属していたグレッグが「今度のドラマーは以前一緒にやってた」とマカロックの参戦を仄めかす発言をしていたそうですが、その後のポセイドン制作にマカロックは参加できてませんでした。Jacob's Ladderでの活動はそこら辺の時期、70年の年明けから春頃と見ていいのでしょうね。
Mar 26, 2015
コメント(0)

「King Crimsonのリード・ヴォーカルの座に就き損なった歌い手」と言えば、バンド初期に何人かいましたね。 250ポンドでポセイドンでの歌入れセッションが内定しつつも、クリムゾンの所属事務所EGのマーク・フェンウィックが用意したアルバムを聞いたフリップが「スタイルがクリムゾンじゃない(彼の決め台詞のひとつらしいw)」と決断した事であっさり却下されたエルトン・ジョンを思い浮かべる方もいらっしゃることでしょう。後あったのはブライアン・フェリーでしたねー。 あともう一人、シド・スミスさんによるクリムゾン伝記本で書かれていた人がいましたね。ミュージカル「ヘアー」のオリジナルキャストだった「ピーター・ストレイカー」。せっかく契約交渉も進んでいたのに、相手方の所属プロダクションが提示した額が余りに高額だったので話にならなかったというアレですw このストレイカーさん、1943年生まれのジャマイカ人歌手/俳優。丁度この頃売り出してた新鋭の一人だったのでしょうね。だからこそ事務所も強気だったのでしょうか?この後に舞台版のロックオペラ「トミー」に出たり、アラン・パーソンズ・プロジェクト作品に参加など、映画やテレビ・舞台で活動された人だったようです。所属してる代理人が吹っかけたのでしょうから彼本人には罪はないと思いますがw最近のお姿だとイメージが違うでしょうから、1969年に唄ってる映像を探してみました♪Peter Straker - Aquarius (live in London, 1969) こちらは1972年のソロアルバムからPeter Straker - Before I've Said A Word (1972) かなりパワフルな歌いぷりですね。ただ彼がポセイドンのめざめで唄ってるイメージはちょっと湧かないと言うか何と言うか。もし彼が参加していたら、ハスケルにフリップがクリムゾン加入を口説いてた際うっかり口走った「リズムセクションを黒人で固める」路線に・・・いや、さすがにその前に「それはクリムゾンじゃない」とフリップが言うでしょうけれどもw ■3月28日追記■ 資料を漁っていたら1969年8月8-10日にプランプトンで行なわれた第9回ナショナル・ジャズ・ブルース・アンド・ポップ・ミュージック・フェスティバルにクリムゾン、ナイス、ピンク・フロイド、ソフツなどのバンドに混じって、ヘアーのロンドンオリジナルキャストによるショーもあったようです。そういう意味でもストレイカーさんは当時かなり注目を浴びていた人物だったといえるのでしょうね。 ■3月31日追記■ 重ねての追記、見辛くなりどうもすみません。ツイッターでストレイカー氏の件をココモJP様から「ストレイカーをマネージメントしていたMAMは当時トム・ジョーンズやギルバート・オサリバンを抱える有力な会社だったので、クリムゾンに強気の金額提示したのでは」とご指摘をいただきました。 調べるとMAMは1970年当時最も成功した会社の一つだったようで、正式にはマネ-ジメント・エージェンシー・アンド・ミュージック・リミテッドという音楽代理店だったようです。レコードレーベルも所有し活動しましたが、後にRCAに吸収され、クリサリスに移され、現在カタログの所有権はEMIにあるようです。1970年はビッグビジネスに成長した音楽業界でミュージシャンを巻き込んだ訴訟が相次いだ時代でしたから、クリムゾンはこのややこしい権利関係に巻き込まれなかっただけある意味幸運だったかもしれないですね。 情報ありがとうございました。余談:今回の調査でピーター・ストレイカーの次作1977年セカンドアルバムに、77年当時ゴードン・ハスケルとビーチェンパレスの地下レストランで一緒に歌っていたマイク・アリソンが楽曲提供しており、その音楽出版クレジットがシャドウズのブルース・ウェルチ音楽出版と判明。 そもそもハスケルとトリオを組んでいたマイク・アリソンが一緒に作ったデモテープをウェルチに持ち込んで採用され、77年(たぶん夏から秋)にハスケルがクリフ・リチャードのツアーでバック演奏をするきっかけとなったわけです。映像は77年10月24日オランダ、ロッテルダム、デ・ドーレンというホールでの公演。ストレイカーというとどうしても往年の特撮ドラマ「謎の円盤UFO」のストレイカー指令を思い浮かべちゃいました。だからどーした。な、なんでもありません。。。======== もうひとりのなり損ねたひと ======== 最初にクリムゾンのヴォーカルになり損ねた中にブライアン・フェリーの名も書きましたが、彼の場合はゴードン・ハスケル離脱後、つまりリザード後の内紛時の候補の一人でした。この時期クリムゾンは散々オーディションを行い、メンバーは有象無象の参加者相手に相当疲弊をしたそうですが、その候補には彼らの所属事務所EGの2代表の片割れ、ジョン・ゲイドンも含まれていたことについて以前少しだけ取り上げました。(ゲイドンと言えばクリムゾン、ELP、Tレックス、ロキシー・ニュージックを売り出した立役者でしたね。EGが業界に顔が利いたというのは彼の手腕も大きかったのでしょうね。) ジョン・ゲイドンがクリムゾンのマネージメント業に付く以前、60年代半ばにマイク・ダボらと共に組んでいたバンドが、ア・バンド・オブ・エンジェルスで、シングル盤も数枚出していたそうです。この時のジョン・クリスチャン・ゲイドンの担当はギターとヴォーカル。 中でも1964年、ジョン・アンダーソンやイアン・ウォーレスの「ウォリアーズ」も出演した音楽映画「Just for you」には彼らエンジェルスも出演していました。 Youtubeには1965年にゲイドンがギターを弾いてコーラスで唄ってた当時の映像がありました。A Band of Angels - Not True As Yet (1965) John Christian Gaydon (vocals, rhythm guitar) 当時のゾンビーズっぽいイメージを感じる演奏ですが、やはりクリムゾンのフロントマンという感じでは無いのでしょう。彼の起用も却下されたわけですw 最後に、2012年にアップされたEG創始者ジョン・ゲイドン氏がキング・クリムゾンを語る動画です。John Gaydon and EG Management sign their first kings EGからは70年代に離れてしまったゲイドン氏が話をしているのが興味深いですね。
Mar 25, 2015
コメント(0)

こんばんはっ! 新しい事には滅法弱くなったことを自覚しましたwえ?何がって・・・奥様、あーた。フィールズのセカンド・アルバムが出るんですよっ。何興奮してるのかって、これが興奮せずにいられましょうかw(もう知ってる方はごめんなさい・・・) グラハム・フィールドがインタビューで当時セカンドアルバム制作を仄めかしていたのもありましたし、彼のサイトでバリーに代わってファレルが演奏している画像も公開されたし、音があったらなぁとも考えつつも期待はしてませんでした。 ところが伊達に組んじゃいなかったんですねー。発掘マカロック音源がまた出てきてファンとしちゃこんなうれしいこたぁ早々ございませんですね。 正直、今回の件は「King Crimson和訳集様」で知りました。お世話になっております。Fields / Contrasts – From Urban Roar to Country Peace (1972 unrelease)released March 30 2015.(日本国内盤仕様はディスクユニオンから4月22日発売予定。(解説:赤岩 和美さん。)1. LET HER SLEEP2. WEDDING BELLS 3. SOMEONE TO TRUST4. WONDER WHY 5. MUSIC WAS THEIR GAME 6. THE OLD CANAL 7. PUT OUT TO GRASS8. STORM BONUS TRACKS9. SET YOURSELF FREE 10. THE RIVER 11. SPRING A REMASTERED PREVIOUSLY UNRELEASED ALBUM FROM 1972. REMASTERED FROM THE ORIGINAL MASTER TAPES. ILLUSTRATED BOOKLET WITH NEW ESSAY BY SID SMITH & INTERVIEW WITH GRAHAM FIELD. 発売元はESOTERIC RECORDING。もう絶対買います♪AMAZONや楽天でも既に販売予約開始みたいですね。【メール便送料無料】FIELDS / CONTRASTS-URBAN ROAR TO COUNTRY PEACE[CD]【K2015/4/15発売】価格:2,592円(税込、送料別) ライナーはシド・スミスさんだそうですね。シドさんといえばクリムゾン伝記本を書かれた世界一のクリムゾン研究家でもある御仁で有名でらっしゃいますね。 以前ツイッターでアンディの連絡先をお知らせした所、「今度連絡してみるよ」とお返事して頂きましたが、果たしてアンディのレスポンスがこのCDになんか載ってるかどうか、ココら辺もなんとなく期待しちゃいます。ああ、もう今買う、すぐ予約するw(自爆)おまけ:勢いでフィールズのファミリーツリーをザックリと作りました。相変わらず判らない部分はアンノウンですが、各メンバーのバンド変遷を追っております。Fields(1971 - 1972) Family Tree (2015年5月2日修正加筆)Jpeg画像(いつものように馬鹿でかいですw)http://livedoor.blogimg.jp/chop100-0000/imgs/2/3/23e758f7.jpgFlash版(右クリックのサブメニューで拡大してご覧くださいまし)http://chop100.doorblog.jp/Fields.swf
Mar 24, 2015
コメント(0)

デヴィッド・リンドレーと当時納豆食い仲間だったイアン・ウォーレスが、エル・ラーヨ・エクスの一員として叩いているライブ映像です。(確かプレイヤー誌かなにかで2人共ゲラゲラ笑いながら答えてましたねw)。結構見ごたえあります。David Lindley & El Rayo X live at Loreley 1982
Mar 23, 2015
コメント(0)
何気にツイート検索していたら見つけて驚きました♪https://twitter.com/BrynHaworth
Mar 22, 2015
コメント(0)

スティーヴ・ハリス氏による83年11月29日名古屋国際ホテルでのインタビュー音声なのだそうです。39分。Asia interview 1983 - Greg Lake and the "Asia in Asia" thingこの来日では本番前に確か合歓の里の練習施設で、ひと月ほどリハーサルしていたんでしたよね?
Mar 21, 2015
コメント(0)

新年にお返事を頂きながらも家族と私個人が相次いでインフルエンザに罹り、簡単な謝辞も出来なかった非礼をお詫びすると共に、いくつかの質問を致しました。そのどれもが非常に古い話なので、お答えをあまり期待せずおりましたが、本日ご丁寧な返信がありましたので、かいつまんで翻訳いたします。(私個人のハスケル氏作品との出会いとか感想は訳してもしょうもないので割愛してますw) ― 随分長い手紙を貰ったけど答えますよ。(お元気でいらっしゃいますか?) ― OKありがとう。これと言って何も起きてないね。新曲もラジオに掛からないし。君の体調がよくなるよう願ってるよ。(フィンランド人とのデュエットソングについて) ― レコード会社に頼まれ現地盤Look Outに入れる為録音したけど、あまり好きじゃなかった。(昔のインタビュー記事を引き合いに、セカンドアルバム It is and it isn't 英国での録音時期は?と質問) ― 申し訳ないけど、思い出せないなぁ。(アルバム後のUSツアーについて、その時期はいつ?) ― 米国ツアーについてはオファーを得られなかったんだ。(日本の一部ネットで60年代前半リーグ・オブ・ジェントルメンに、フリップの後釜としてジョン・ウェットンが入っていたと書かれていることについて) ― それは事実じゃないね。私がウェットンと最初に会ったのは1970年のロンドンでしたよ。(イングランドの限定CDガーデン・シェッドに「ゴードン・ハスケルのヘルプ」と書かれていたが) ー 私は関与してないんだよ。 (新作の状況について) ― シングルにお金をたくさん使ったのでアルバムまで手が回らなくなっている。ニューアルバムは来年1月までお金を貯め改めて取り組むと思う。 以上です。 今回の質問の肝であった。セカンドアルバム時期の質問。 1991年インタビュー記事では、少しだけあったツアーについても語っていましたが、やはり上手く行かなかった点も含めいい思い出が無いのか、具体的な内容については語られませんでした。 自伝によるとレインボウでの大規模コンサートから始まり、スタクリッジ他とツアーしたそうですから、英国国内だけ廻っていたという事かも知れないですね。 今回、私はあまりに質問を書きすぎて要点が絞りきれていなかったというのが反省点として残りました。自分が答える側としての想像してみればわかりそうなことでしたが、ついついあれやこれや聞きたくなってしまいまして(汗)。 しかしながら、今回も体裁を繕わず、真摯に正直にお答えをしていただきました。 イングランドCDでの謝辞については何でだろうと不思議な感じが残りました。謎がまた深まると言うオチで申し訳ございません。 オチがあんまりなので、セカンドアルバム It is and it isn't 発表直前ゴードン・ハスケル名義で最初に彼が出演したビッグショーThe Rainbow Theatre in Londonのポスターとプログラム画像。1971年11月12日と13日に開催され出演は、ウィッシュボーン・アッシュとマウンテン、そしてゴードン・ハスケル。(14日はポール・ロジャースのピース、モット・ザ・フープル。) 今回色々調べた結果、ハッキリしていなかったセカンドアルバムの米国ATCO盤発売月が判明。1971年12月13日で英国アトランティック盤と発売時期の差は不明です。11月のコンサート時には英国盤が出ていた可能性もあります。 よく海外オークションでも72年作とか書かれて出品されてしまっているのは、発売が年末だったのが影響しているのでしょうね。購入した本人が翌年に買ったからとかそんな理由でw こうなるともうハスケル氏のセカンドアルバム発売後、スタクリッジやオーディエンスと行なったツアーにウェットンが関わった可能性は、時期的にもゼロに等しいのではないかと推測されますね。いつもややこしいブログになりすみません。 ■2015年3月24日追記■ ・ハスケルのセカンドアルバム It is and it isn'tの英国での収録時期を尋ねた件について。 既にご存知の方もいらっしゃるでしょうが、実はこの作品、英国で二週間ほど制作された後、米国で追加録音が施されています(LPにもアディショナル・レコーディングと記されてますね)。 デヴィッド・スピノザなど米国人ミュージシャンが参加しているのがそれで、ハスケル本人は米国での録音に行ってないと過去のインタビューで述べていました。 それゆえ、今回の質問で「英国での録音時期」を尋ねたと言うわけです。ハスケルの活動時期を知りたかったのもありますが、ウェットンの参加時期も知りたくて、コレで明快な回答が出てきたら色んな疑問解決に繋がると期待していたのですが。まあ、なにせ44年も前の話ですし、フリップのように豆に日記でもつける習慣でも無いと覚えてる物ではないですね。 個人的な話ですが、私も80年代持ち歩いていたカレンダー式のメモ帳などを見ると当時の行動や記憶が思いの他蘇ってくるきっかけを与えてくれます。今はそのほとんどを廃棄したので、当時自分がどんな現場で誰の仕事をしたのかほとんど記憶も無く、ハスケル氏のことをあーだこーだ言えないなぁと思えてしまうわけですw最後に・・・「ゴードン・ハスケル氏の来日、どちらかのプロモーションで是非実現をお願い致します。」最近往年のバンドやミュージシャンの来日も多いのですし、彼にも是非来てもらえるといいですね。そう願います。
Mar 20, 2015
コメント(0)

先ほどTonyLevin Club JAPAN様のツイートで知りましたが、YoutubeのDGM Liveチャンネルでロバート・フリップのエクスポージャー、プロモビデオが公式公開されたそうです。PROMO FILM - Exposure, Robert Fripp (1979) いかんせん36年も前のフィルムなので青が飛び気味で全体的に退色があり、オレンジがかって見えますが、当時はもっと青い映像に見えていたような記憶がうっすらありますw しかし、さすが公式なのでクリアさは格別ですね。
Mar 19, 2015
コメント(0)

1970年頃解散前後のボンゾ・ドッグ・バンドに助っ人参戦してたIan Wallace。 その流れのままメンバーだったヴィヴィアン・スタンシャルの企画バンドに参加していた事は以前よりちょいちょい書いてきましたが、当時演奏してた曲をダイジェスト風にアレンジしたテレビ出演映像がYoutubeに公開されていましたね。 これでした。Vivian Stanshall's Big Grunt - 11 Mustachioed Daughters 久々に動画検索したら、彼らVivian Stanshall's Big Gruntが1970年3月16日にBBC Radio 1のジョン・ピールがホストをした番組、PEEL SESSIONSに出演した音声の完全版がYoutubeにアップされてました。Vivian Stanshall's Big Grunt - Complete BBC Session march 1970 = TRACKLIST = Cyborg Signal Blind Date Eleven Moustachioed Daughters The Strain = LINE UP = Viv Stanshall (Vocals) Roger Ruskin Spear (Saxophone) Dennis Cowan (Bass) Ian Wallace (Drums) Bubs White (Guitar) レコードはシングルをたった一枚しか残してない企画でバンドも短命でしたが、コレだけの演奏ですからほんとはアルバムまで出したかったんじゃないかと思っちゃいますね。結構面白いです。 シングルにはザ・フーのキース・ムーンもともに演奏していた事が知られていましたが、何かしら続けられない理由があったのでしょうね。 ラジオ音源は以前から存在が知られておりましたが、中々いい状態で残っているのはファンにとって大変ありがたいものです。 ちなみに、イアン・ウォーレスはこのバンドが終わった後、同じくボンゾ・ドッグ出身のニール・イネスのバンド「ザ・ワールド」に参加しましたが、そのシングルが出されたのが半年後の9月25日でした。 シド・スミスさんのクリムゾン伝記本でも、当時食うのに苦労してたウォーレスの発言が出ていたので、この時期キース・エマーソン邸に一緒に下宿しながらイアンとアンディ・マカロックはどんな夢を共に描いていたのか気になるところです。 イアンが他界し、アンディも業界を去り音楽とは縁を切った為、今は当時の事をうかがい知る事もできません。 エマーソンの自伝には奥さんが留守時、子供のオムツ替えでウォーレスと2人掛りでキースが悪戦苦闘した面白おかしい逸話(?)が出ていましたが、きっと楽しい下宿生活だったのでしょうね♪
Mar 18, 2015
コメント(0)

King Crimson脱退後のIan Mcdonaldは、マクドナルド・アンド・ジャイルズのレコーディングに手間隙をかけていましたが、その後ゲイとテリーのウッズ夫妻のプロデュースに取り掛かりました。 しかしその後、マクドナルド・アンド・ジャイルズのジャケット内側のペイントを手掛け、ジャケットでも共に写っていた恋人シャーロット・ベイツとの別離から全ての作業を投げ出してアメリカに渡ってしまいました(参照文献:クリムゾンキングの宮殿 シド・スミス著)。(アメリカで数ヶ月間セラピーを受けた彼は帰国後EGマネージメントの勧めで現場復帰。T.Rexの大ヒットシングルGet It Onのレコーディングセッションに参加し、アルトサックス2本とバリトンサックスを吹き込んでいます。シングルの発売がLPに先駆け71年7月2日となっているので、彼の復帰は春から初夏にかけた時期だったのでしょう。) この当時、ウッズ夫妻との活動もあって一時ウッズ・バンドのアルバムにはマクドナルドが参加しているという噂が70年代にあったわけですが、そのセッションのマクドナルドの演奏を聴く事は今まで出来なかったのでした。 現在Youtubeに1970年に放送されたBBCラジオ番組トップギアで流されたセッション音源が唐突に公開されました。いつ無くなるか判らない貴重な音源なので、イアン・マクドナルドのファンからしてみると物凄いお宝登場!ってな感じでしょうか。もちろんドラムスはマイケル・ジャイルズ先生。こちらも要注目ですね♪Gay & Terry Woods, Ian McDonald, Michael Giles - 1970-11-03 - BBC, Top Gear sessionGay & Terry Woods1970-11-03 London, England Top Gear BBC Studios1. January Snows2. I Feel Concerned3. A Nobleman's Fair Daughter Gay Woods - VocalsTerry Woods - Concertina, Electric GuitarIan McDonald - FluteMike Giles - Drums 私自身もモーガル・スラッシュの出演したBBCトランスクリプションLPを所有していますが、色々検証した結果マクドナルト+ジャイルズの参加したウッズ夫妻出演の「トップ・オブ・ポップス」放送用LPの型番は Top of pops BBC Transcription Services #365 (1971)であると推測しました。 トランスクリプション・ディスク自体が番組を欧州など様々なラジオ局に番組販売する為のLPである為、枚数自体が一回につき50枚程度しかプレスされてないので、中々表に出てくる事がありません。また市場に出回ってるにしても貴重な音源の場合非常に高価です。 クリムゾンのアムステルダムライブのBBCトランスクリプションLP自体、程度が悪いものですら5万円以上で取引されてたことがありました。それ以前に所有コレクターが果たして放出するかどうかという問題もありますね。 LP自体のつくりが非常に丁寧で、音質も極上なので、動画でのダビングコピーを重ねたような粗悪さは無いと思いますが、何せこの回の物は現物も画像もみたことも無いですしね。ちなみにLPには番組内容のタイピングされたキューシートが付属しています。楽曲などのデータも当然載っているでしょうね。肝心のMcdonald and Giles自身のアルバム制作が延び延びで、LP発売が1970年11月21日になったのもあり、このラジオ出演70年秋当時にクリムゾンファンは彼らの動静に驚いた事でしょうね。■2015年3月26日追記■ このセッションの後、レコーディングプロジェクトであったマクドナルド・アンド・ジャイルズはコンビが自然消滅的に解消し、互いに別々の道に進むことになったのはファンの皆さんがご存知の通り。 故北村昌士氏が1981年に発表された名著「キング・クリムゾン 至高の音宇宙を求めて」では、マイケル・ジャイルズがその後アンディ・パウエルやロビン・トンプソンと共にカム・トゥ・ジ・エッジというバンドを組んだがひと月ほどで抜けたと記されていました。 81年当時と違い現在はネットで情報が見られる時代ですので、この件をサーチしたところ、マイケルが70年代彼らと組んでいたのはテリー・リードのスタジオで彼らと行なったリハーサルのみだったようです。 1970年8月にジョン・レノンのレコーディングにアラン・ホワイトが呼ばれ、ワイト等フェスに出演するテリー・リードのバックバンドに欠員が出てしまい、ドラマーとして急遽マイケル・ジャイルズが叩いたのが縁で呼ばれたのかもしれませんね。パウエルらのカム・トゥ・ジ・エッジはその後数人ドラマーをオーディンションしたとパウエル氏のサイトに書かれていました。
Mar 9, 2015
コメント(0)

写真を使ったアニメがおかしいですw トニーさんご出演Tony Levin - King Crimson Barbershop 2012
Mar 4, 2015
コメント(0)

NAMMショーでのトニーさん2015年インタビュー
Mar 4, 2015
コメント(0)

えー!と思いつつも案外合ってるナイスカバーソング♪Caballero Reynaldo - Frame By Frame (King Crimson) 2015年の作品だそうです。
Mar 4, 2015
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1

![]()
