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DGM LIVE!においても日本公演の告知がシド・スミス氏により掲載されています。King Crimson To Tour Japanhttps://www.dgmlive.com/news.htm?entry=5186東京BUNKAMURAオーチャードホール12月7,8,9,10日大阪フェスティバルホール12月12,13日名古屋国際会議場センチュリーホール12月21日うむ?日程がなんか微妙なのは追加公演見越してなのかどうかw各会場とも15000円也・・・クリムゾンが生で見られるのもこれが最後かどうか。一時期フリップ師は「もう機材持って海外まで行く気力も無い」とか言ってたのに着てくれるわけですから、こりゃファンのチケット争奪戦も凄そうですね。
Jun 30, 2015
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亡くなられたYESのベーシスト、クリスに対し、ビルさんがご自身のフェイスブックにコメントを出されておられたので、毎度の意訳で恐縮ですが、翻訳しご紹介させていただきます。 私の古きバンド仲間、クリス・スクワイアの死を聞かされ心底悲しんでおります。これからも愛情をこめて彼を思い出すことでしょう。 二つのバンドからイエスを創設して以来、リッケンバッカーを携え、全てのツアーに関わり続けた唯一のメンバー。 彼と私はそれぞれの相違の上に仕事上の関係を構築していました。それでも、創造的な緊張関係だったからこそ奇妙にもあの時代に成果を残せたのでしょう。 彼のアプローチには幾分かの単純さと鋭さが対比しており、今日不動のベースパートとなってます。メロディーへのカウンター旋律の構造は彼自身が織り成す独特の芸術であり、彼のラインは重要でした。 Close to the Edge 6分4秒からのオーバードライブ気味に歪んだ筋っぽいスタッカート、その二分後8分からのチューバのような彼の音を私はいつも思い起こしてしまう。 彼がプレイは完成するまで暫し時間を必要としていたが、それは常に待つ価値のあるものでした。そして、その上に彼は難しいハーモニーパートをも受け持っていた訳です。 それはまだ音楽界に個性を発揮する事が許されてた時代で可能であった主体性の確立で、クリスは保守的だったベースプレイの時代を大胆に押し広げていった、ベースマスターであり大立者でした。 私は彼が彼の音楽で無数の人々に喜びを分け与えていたのを、彼自身充分判っていたと思いますし、彼がそういう人生を歩めたのは幸運にも恵まれていたと思っています。彼のご家族に対し心からの哀悼の意を捧げるものです。アディオス、相棒へ ビル写真は1971年、イタリアのどこかで、左からスティーヴ・ハウ、ジョン・アンダーソン、ビル、クリス■7月2日追記:Tony Levin Club JAPANさまにおかれても、ビルさんとトニーさんの追悼コメントを深谷様の翻訳により現在掲載されておられます。当方のずんどこ意訳より読み易いと思いますので、こちらも是非ご覧ください。http://www.ient.or.jp/tlclub/※この記事を書いたあとも続々と様々なミュージシャンがクリスへのコメントを発信していますが、その中に暫く音沙汰の無かったグレッグ・レイクさんもフェイスブックで追悼コメントを出しておられました。以下要約で。「古くから友人で尊敬するクリスの訃報を非常に悲しんでいます。 余り知られていませんが70年代の初め同じアパートメントに入居していて非常に親しくなりました。 彼は気の利く人懐っこい男で、言葉に言い表せない程偉大なミュージシャンでした。」
Jun 29, 2015
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Chris Squire R.I.P. - uDiscoverhttp://www.udiscovermusic.com/chris-squire-r-i-pクリス・スクワイアさんが亡くなられたようです。お元気になられる事を願っておりましたが、大変残念です。 謹んでお悔やみ申し上げます。
Jun 28, 2015
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クリムゾンメンバーが60年代のいつ頃出演してたのか?ちょっと探してみましたw3 August 1967 – Sharon Tandy & Les Fleur De Lys(Gハスケル)27 August 1967 – Fairport Convention(Jダイブル)29 February 1968 – Sharon Tandy & The Fleur De Lys(ハスケル)27 February 1969 – Yes(Bブルーフォード)9 April 1969 – King Crimson30 May 1969 – King Crimson
Jun 28, 2015
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大げさなタイトルはマイティジャック風と言う事でwさて、モーガル・スラッシュが活動していた1970年代初頭、彼らが数回に渡りBBCラジオ番組に出演していた件について今回判ってる事だけ、書き出してみようと思います。 まず、TOP OF THE POPS 第325回 1971年1月27日出演分コチラではモーガル・スラッシュのシングル曲A/B両面が演奏されています。BBCトランスクリプション・サービスの放送用LP付属のプログラム表には番組で流された順番に楽曲が乗っていますが、楽天ブログの画像サイズ表記が小さいので、キューシート全体とモーガル・スラッシュの出演部分だけ寄せ集めた画像で紹介させていただきます。全体出演部分この放送回で流されたのは2曲のみとなっていました。 スウェーデンのフラウド・ジェムスから出されたリマスターCDではボーナズトラックに上記に曲と同じく1971年1月分として「I Can't Live Without You」が収録されていました。この曲がTOTPの別放送回で流された可能性はまだ確認できてません。もしかすると収録しておきながら本放送では流されなかったのかもしれません。※2019年3月9日追記、I Can't Live Without Youは第330回で放送された事を確認しました。 次は、TOP OF THE POPS 第337回 1971年4月21日出演分この放送回では未発表曲が二曲演奏されてました。(こちらもFLAWED GEMから出たCDにボートラ収録されてますが、なぜか放送LPと違い、ナレーションが曲にかぶさっていません。)全体出演部分 そしてもう一回4月にBBCでライブが放送された回が1971年4月25日のラジオ番組「John Peel Concert」で、この放送回のものが一部でブートとして出回ってる放送の物でした。番組では前半に5曲メデシン・ヘッドのライブが流され、番組後半にモーガル・スラッシュがロンドン・パレス・シアターで行ったライブ演奏が流されたようです。John Peel Concert ”MOGUL THRASH”in Paris Theatre, London; 1971. (BBC Radio One 1971-04-25) 1. Elegy2. Coscience3. What is This I Hear モーガル・スラッシュのラジオ音源については、大体このようなものが流通していると見ていますが、まだ他にもあるのかどうかは判りません。
Jun 21, 2015
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Patricia Fripp & Robert Fripp: What does it mean to be a hero? ロバート・フリップ氏と姉のパトリシアさんによる講演会映像です。アップロードはお姉さまご本人。なにを仰ってるのかは確認してませんw
Jun 21, 2015
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AndesProg - Interview Pat Mastelotto King Crimson 20分超のインタビューです。
Jun 21, 2015
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Bill Bruford - Burning For Buddy - Willowcrest バディ・リッチのトリビュートアルバムCDのメイキング映像DVDに収録されているようです。参加ドラマーは以下を参照してください1. Cotton Tail ( drs Neil Peart )2. Ya Gotta Try ( drs Marvin Smith )3. Mercy, Mercy, Mercy ( drs Dave Weckl )4. Straight No Chaser ( drs Kenny Aronoff )5. Shawnee ( drs Ed Shaughessy )6. Love For Sale ( drs Steve Gadd )7. Lingo ( drs Bill Bruford )8. Machine ( drs Rod Morgenstein )9. Slo-Funk ( drs Omar Hakin )10. Drumorello ( drs Joe Morello )11. Nutville ( drs Steve Smith )12. Beulah Witch ( drs Matt Sorum )13. Dancing Men ( drs Simon Phillips )14. Milestones ( drs Billy Cobham )15. Pick Up the Pieces ( drs Steve Ferrone )16. One O'Clock Jump ( drs Neil Peart )17. Moment's Notice ( drs Steve Smith )18. Willowcrest ( drs Bill Bruford )19. Take The A Train ( drs Joe Morello )20. Big Swing Face ( drs Kenny Aronoff )21. Basically Blues ( drs Steve Gadd )22. Standing Up In A Hammock ( drs Marvin Smith )23. Groovin' Hard ( drs David Garibaldi )24. Goodbye Yesterday ( drs Simon Philips )25. In A Mellow Tone ( drs Gregg Bissonette )26. Time Check ( drs Dave Weckl )楽天でも扱いがあるようですが、アマゾンなどでもありました。スティーヴ・ガッド他/Burning for Buddy Rich [US輸入2DVD]バディ・リッチあす楽価格:4,500円(税込、送料別)
Jun 21, 2015
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VIX and Robin George LovePower and Peace EURO MIX メル・コリンズが参加したチャリティCDから、いつものメルのサックスが聴こえますね♪Robin George proudly presents the LovePower and Peace CDのサイトでは、参加ミュージシャン一覧が掲載されており、ジョン・ウェットンの名もありますね。http://www.robingeorge.co.uk/sharing.htm売り上げはガン基金に寄付されるようです。楽天では商品検索でヒットしませんが、アマゾンでは見つかりましたwLovepower & Peace/Robin Love Power Georgeshttp://www.amazon.co.jp/Lovepower-Peace-Robin-Power-Georges/dp/B004LGEQMM/
Jun 21, 2015
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ゴードン・ハスケル氏がご自身のフェイスブックにおいて、過去音源にコメントを付けて紹介してます。ここではその一部を毎度のナンチャッテ意訳でその雰囲気だけでもお届けしようと思いますwLES FLEUR DE LYS - Circles(1966)「私の最初のレコードを制作したのは、イーグルスやストーンズなど沢山のアーチストを手掛けたグリン・ジョンズ。 A/B両面共わずか3時間ですっかり完成させられ、その7日後にはショップに並び、良い評価も紙面で貰い、エキサイティングな時を過ごした。懐かしい思い出である。我々を宣伝したのがグレタガルボのPR会社だったのが不運な選択だった事を除けばだが。」Cupids Inspiration - Yesterday Has Gone(1968)「今日思い出したのが1968年のクリスマスイヴ。 私たちミュージシャン4人はフォードのトランジットA1(バン)で押し合いへしあい、煙を外にはたきながら緩い勾配の雪道にいた時分、この曲はまだチャートにいた。 週給は全員10ポンドずつだった。そして私たちの狂気が絡み合った嗜好と笑い声を思い出す。物語に出てくる様な大げさで馬鹿げた詐欺師のマネージャーが偉そうにこう言った『お前らが来るって信じてたよ』私たちはいつも同じユーモアを共有してて、そうでもしなきゃやってられなかった。 バンの後ろに貼られた宣伝ポスターはこういっていたYesterday has gone(昨日は行っちまった)。」Tony and Tandy with The Fleur-De-Lys "Two Can Make It Together"(1969)「このレコードは私がFDLを離れた後にキース・ガスターとブリン・ハワースとトニー・ヘッドが二週間ほどで造り作り上げた。彼らはこの歌ででトップオブポップスを得た(出演?)。 その頃、私はぶっ壊れたフォード・トランジットA1を押していた。天罰を受けたかの様に! 私たちFDLが天才と呼んでいたジョン・レノンの才能を抱えるアップルからのレコードオファーを興味なく断った時ほど程馬鹿じゃないけれどw しかしそれでも私は最愛の友人キースとブリンの作品を面白いと思っている。『貴方は自分自身に問わねばならない』とサイモン・コールウェル(オーディション番組で出場者をこき下ろす事で知られる辛口審査員)になり切って自問するならば『私たちはなにを失ったのか?』ボーイズたちの偉大なレコード。」Fleur De Lys - Hammerhead (1968)「ベースギターをリードギターの様に使っている。私たちを猛烈に売りだそうとしてた頃の実験。上手くいった部類なので、ここに並べておきます。」Joe - How Can I Resist(1977)「素晴らしいブラスアレンジは加藤ヒロシでメル・コリンズがフューチャーされてます。」
Jun 17, 2015
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当ブログでは以前から1960年代後半のゴードン・ハスケルやシャロン・タンディについて度々取り上げてまいりました。その中で度々登場していたのが、当時彼らのマネージャーであり所属事務所代表でもあったフランク・フェンター氏。 彼の辣腕で、まだ若輩だったハスケルもデビュー直後という立場なのに、楽曲提供や数々のレコーディングセッション等で当時の新人としては良い部類の収入を得ていたというのがありました。セッションで稼ぐとフェンターの元に制作費が入り込み、そこからハスケルらメンバーは15ポンドのギャランティを受け取っていたようです。キース・エマーソンが65年にマーキーの音楽部門とマネージメント契約した時は週給20ポンドとコレも新人として破格の扱いを受けましたが、当時のロンドンでハモンド奏者は貴重な戦力だったので納得できる部分もありました。田舎から出てきたばかりの青年ベースプレイヤーだったハスケルが在籍していたフルール・ド・リス(FDL)が、それだけフェンターにとっても"使える手駒"だったという事なのでしょう。 フェンターの生い立ちを追ってみると彼がどうやってスィンギングロンドンでのし上がっていったのか、その一端が垣間見えるのではと思い、いくつか情報を収集してみました。 フランク・フェンター (1936年2月25日- 1983年7月21日)南アフリカヨハネスブルグ出身。1958年22歳で渡英しロンドンへ出た際には、役者志望の若者だった。その俳優活動には1962年BBCで放送されたSFドラマTVシリーズ「ザ・ビッグ・プル(フェンターのウィキペディアには63年と書かれているが実際の放送データは62年6月からの全6回)」への出演歴が残されており、米ソ両軍が協力し宇宙人に対抗する物語においてソ連軍?少佐マイク・シコロスキーという役を演じていたようです。 1964年にはフェンター・ミュージックを設立、南アフリカの音楽映画「アフリカ・シェイクス」を制作し、脚本も共同執筆。南アフリカにおける最初のロック・ムービーでビル・キンバー・アンド・クォリアーズがフューチャーされていた。このクォリアーズ関連において60年代前半シャロン・タンディは南アでレコードデビューを果たしていたようです。 またこの作品は人種隔離政策アパルトヘイト下での初めての異人種共演作品ともなっていました。 南アの人種隔離政策の激しさ深刻さは、人種で職業・賃金・住居地域・労使協定・婚姻や恋愛までありとあらゆる分野で徹底的に格差が差別化されたものだったので、その垣根を60年代前半に乗り越える映画を製作していたという事にフェンターの意外な側面を見るようで驚かされました。 60年代初め頃のフェンターは、俳優業をパートタイム的にこなす傍ら、ロンドン周辺バンドを発掘する仕事もしており、この当時フェンターがブッキングした新人バンドの中には、ローリング・ストーンズ、ジ・アニマルズ、マンフレッド・マン等後年成功を収める新鋭がおり、未契約バンドも多かったそうです。彼らとの関わりからフェンター・ミュージックはチャンスを掴み、チャペル音楽出版と合併。60年代後半に彼はリバティ・インペリアルレコード出版のトップにまで登りつめたと言うことです(後にARC・チェス・ミュージックとなった会社)。(リバティー、インペリアル両社とも1950年代設立のポップス系レコード会社だったが、リッキー・ネルソンに多くの収益を依存していたインペリアルは、63年にネルソンがデッカに移籍した事で業績が低迷し、リバティーに吸収されてました。) 1966年アトランティック・レコードのトルコ人プロデューサーのネスヒ・アーティガン(弟はアトランティック創設者アーメット・アーティガン)にその辣腕を買われ英国でのヘッドを任じられるとアトランティックの欧州全ての業務を担当。アーメット・アーティガンは当時のフェンターを「アトランティックの欧州展開ではフランク・フェンターの加入が大きな貢献をした」と後年彼の業績を称えています。画像左でカメラ目線なのがフェンター、画面右でグラスを持っている紳士がネスヒ。 ハスケルらFDLがフェンターの子飼いになったのは、時期的にこの頃と見ていいのでしょう。セカンドシングル「サークル」を出した後、イミディエイトからあっさりバンドはアトランティックにレコード会社を乗り換えていますね。またゴードン・ハスケルが9ヶ月間ジミ・ヘンドリクスと共にアニマルズがこの当時所有していた西ケンジントンの邸宅に下宿していたのも、フェンターがアニマルズと昔なじみだった関係からなのではないかと推測が出来ます。実際、FDLの自伝本においてこのケンジントンの家でくつろぐフェンターやアメリカの黒人ソウルシンガー、ドニー・エルバートの写真が載せられていました。 この当時フェンターが制作においてセッションで起用していたのは、FDLのメンバーのほかにもジョン・ブロムリーやグラハム・ディー、そしてアレンジャーのイアン・グリーンやゲイリー・シュリー等もブレーンとして参画してました。そして録音されたメディアは行方不明ですが、ジミ・ヘンドリクスもオーバーダブでセッション参加したこともあったようです。 ハスケルによるとこの時期、アトランティックの顔役フェンターに付いていくと大抵は顔パスが利いたそうで、ハッピーなセッションワークでもあったと語られています。クリスマスには彼ら配下を従えて南フランスで豪華な休日を楽しんだ事もあったそうです。 ハスケルのインタビューによると、フェンターの力で当時注目バンドだったヴァニラ・ファッジとのセッションをヴァニラファッジのスタジオで行ってますが、この録音テープはフェンターに「ゴミ」と言われてお蔵入りとなってしまいました。ハスケルのインタビューでは、このときFDLの新しい可能性が広がったのにと惜しんでいますので、その部分だけ読むと豪腕で独断する人物という印象がしてしまいます。しかし日々無数のバンドや歌手のマネージメント業務に持病の薬を飲みながらあたっていたフェンターの現実的でシビアな判断力は、間違いを犯せない立場ゆえのリアルさを伴っていたからなのでしょうね。とはいえ、そのセッションテープがドコからか発見されないものかと思ってしまいますが。 フェンターは、オーティス・レディングやサム・アンド・デイヴ、そしてアレサ・フランクリンなど当時のビッグスターの英国でのマネージメント業務も行いましたが、同時に多くの若手バンドの発掘にも勤しんでいたようです。アトランティックがその後飛躍的に成長する際に活躍したアーチストとの契約を取り付けたのもその後のフェンターの再評価になっているようです。 アトランティック・レコード創始者アーメット・アーティガンは「アトランティックの欧州展開では、フランク・フェンターの加入が大きな貢献をした。レッド・ツェッペリンの発見やプログレッシヴ・ロックの礎となるキング・クリムゾンやイエスとの契約がその代表例」と称していました。画面左の眼鏡をかけているのがアーメット、画面右で笑っているのがフェンター 1969年にはカプリコーン・レコードを設立し副代表として運営。キャプテン・ビヨンドをデビューさせた後は、アメリカのサザンロックの発展に貢献。オールマン・ブラザースバンド、マーシャルタッカーバンド、エルヴィンビショップ、ウェットウィリー、シーレヴェル、デキシードレグスら多くの才能を世に送り出しました。 パンク/ニューウェーブの台頭もあり1979年にカプリコーンレコードが経営悪化の末破産すると83年にはレーベル再構築での経営再起を目指し、契約交渉をしている最中、ジョージア州マコンにあったカプリコーンのオフィスで心臓発作を起こし、この世を去りました。この時フェンターは47歳だったそうです。 死後、彼の業績が再評価され、ジョージアの音楽殿堂入りを果たしているそうです。
Jun 15, 2015
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40年の時を経て復活したハンター・マスケット、その後も思い出したようにライブを行ってるようですね。と言う事で最近YOUTUBEにアップされた彼等のライブ映像から。Hunter Muskett - That Was Then This Is NowHunter Muskett | Santa Rosa Hunter Muskett-The Scarecrow しみますwHunter Muskett オフィシャルサイトはコチラhttp://huntermuskett.com/
Jun 13, 2015
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ブログの40万アクセス記念という事で日頃の感謝をかねて、何か無いかなと思ったら、放り出してたマカロック氏インタビューがそのまんまでした。と言う事で毎度のズンドコ意訳でございますが、アンドリュー・マカロック1975年頃のインタビューです。グリーンスレイドのベースがマーティン・ブライリーに代わった時期のものです。 ではどうぞ。 今や、英国の最高のドラマーの一人として評価されるアンドリュー・マカロックは完全に独学で得た信じがたいほどの素晴らしい技術を披露してます。 細心さと飛びぬけたパワフルさ、アンドリューは思考型のロックドラマーでもあり、彼の仕事はグリーンスレイドの音楽性を支える基礎になっており、彼独特の魅力を魅せてくれます。 ドラムキッドの印象的な配列の背後をサタニックな肖像が静かに埋めつくし、アンドリューの力強さを象徴しています。 彼は羨望の的である完成されたドラムスタイルとサウンドをクリエイトします。それは1970年のキングクリムゾンなど彼の様々な成果が示しています。 アーサーブラウンのキングダム・カム、その後のフィールズ。グリーンスレイドが新たに生まれるとその新たなコンセプトが雄雄しく飛翔し、彼は頼れる男だと証明しました。- ここ数年バンドを渡り歩いてきましたが、今どう感じてますか?「まあ私たちのファーストアルバムはステージ演奏されてなかった作品だったから、レコーディングしてからそのままステージでやるハメになったんだ。だから最初のうちはちょっと恐怖感もあったよ。だってスタジオばっかりで、暫くステージから遠ざかっていたからね。 組んでから非ギター系のラインナップでの 自分らの利点と弱点が何であるかが露呈してきたんだ。だから当初は問題がたくさんあったよ。バンドが始まった時はギタリストをいれるつもりもあったんだ。しかしギタリスト無しでたくさんプレイしたお陰で今のままでもいけると確信したのさ。その後はステージ用により良くなる様にアレンジもして。」- キーボードバンドのドラマーとして働く現在の状況から何か特別な問題が出たりしませんか?「私は様々なキーボードプレイヤーと働いてきたし、上手くやれてきたと思う。だからグリーンスレイドで馴染むのにもそんなに掛からなかった。ただ、自分専用のモニターを開発してもらっててね、それが使えるようになるのを心待ちにしてる所さ。」- アンドリューさんはグリーンスレイドがバンドとして始まった時、その潜在能力への自信や手ごたえを感じてましたか? キング・クリムゾンや他の時と比較してですが。「私の気持ちの中にそんな疑問は起きないな。人々はそういう過去との答えを欲しがるだろうけど、そういう人らの希望には添えないし、君も話を続けたいならばそういう話は引っ込めないとね。 今が音楽的には最高だよ。しかしこれからも我々は注目される演奏をしないとならない。それはスタッフがステージを(音響や照明等)ケーブルで張り巡らせて始まり、そこで私たちは共に夢中になって演奏する、一々評判を案じたりしないでね。だから誇大広告のバンドとして見掛け倒しにならない様、音楽面以外でも改善するんだ。」- このバンドでやるようになってアンドリューさんのプレイは何か変わりましたか?「ああ、トニー・リーヴスは私にとって良いセラピーになったよ。なぜなら彼はたくさんプレイしたがるからね。仮に私達が共に暴走したら、ドコにも辿り着けない。そのためにも良いトレーニングになったよ。私たちは互いにより良くなる為に抑制している。ギターもいないんだし、はるかに強力なリズムセクションになる必要がある。 このバンドは私に多くを与えてくれる。今まで懸念ばかり抱えてドラマーをしてきたけれど、今が最高の演奏環境じゃないかな。」- そもそもどの様なドラマーになりたいと思って演奏を初めたのですか?「明言できる事で本当に憧れたのは、パワフルで美しい、エインズレー・ダンバーだよ。なぜなら彼は相反するテクニックを兼ね備えてるからね。彼は大変な緻密さを保ちながらもたくさんのドライヴ感を与えられる。 彼にはたくさんの修練で成し得たドラムスの可能性とロックの自由な精神性を感じるんだ。普通は両方を目指しても教則的に偏ったり、チャランポランになりがちだが、彼は本当にその流れがいいんだ。彼はその二面性を合致できる一人なんだろうね。」=============== 以上です。 そもそもインタビューがほとんど無いアンディの事です。どこまで自分を語ってるのかと思ってましたが、結構話していたのですね。マスコミはぶしつけなので、この質問者だった音楽ライターとして著名なクリス・ウェルチもキング・クリムゾン時代の話題をふってアンディに注意を受けてますw ドラマー専用モニターを開発というくだりは、まだステージ用サウンドモニターに多くの種類も無かった70年代中期を如実に語っていますね。スタンド設置の小型モニタースピーカー等が登場するのは80年辺りだったと思いますが。キーボードとのシンコペーションを細かく合わせるスタイルの曲で、モニターの必要性を痛感してたんじゃないでしょうか? ドラム・フォークなど手数の多い曲がグリースレイドには多いわけでしてw エインズレー・ダンバーの名前がアンディの口から出ていたとは、これも驚きました。私も個人的にダンバーのブルーホエールのLPを昔所有してましたが、アンディの証言でまた聞きなおしたくなってきました。クリムゾンからポロポロメンバーが抜けた後、ロバート・フリップが勧誘したドラマーの一人がダンバーでしたからね。 フィールズのCDにおいて、グラハムは「アンディはマイケル・ジャイルズの大ファンだった」と記述してました。確かにアンディのプレイスタイルには、ジャイルズの影響もありますが、それだけでは説明不能な部分がありました。なるほど、もう一人取って置きのお気に入りがいたんですね♪関連記事:フィールズのレコードデビュー直前インタビューよりhttp://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201409120000/
Jun 7, 2015
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少し前に当ブログで紹介したジョン・アンダーソンとイアン・ウォーレスがザ・ウォリアーズ時代の1964年に出演したイギリス音楽映画「ジャスト・フォー・ユー」のリマスターDVD。 本日ようやく到着しました。DVDパッケージ 表DVDパッケージ 裏 PAL方式DVDの為日本国内仕様のDVDプレイヤーでは見られませんが、PCをお持ちならばフリーソフトのDVDプレイヤーLight Alloy等で再生可能ですし、海外版DVDが再生可能なDVDプレイヤーをお持ちならば何の問題もなく美しい映像で51年前の音楽映像が見られます。 映画は主人公のおじさんがベッドの脇に巨大な映像再生装置を置いて次々と当時の歌手の映像やダンスをジュークボックス風にセレクトしてみるという形で、様々なバンドの演奏が展開していきます。合間のポリネシアンダンスがなんだかシュールですがwDVDパッケージに曲目が出てないので前回ブログに記した登場順のアーチストを再び書いておきます。Faye Craig: ‘Bongo Baby’The Applejacks: ‘Tell Me When’(女性ベーシストが目立ってるバンド)Al Saxon: ‘Mine All Mine’A Band of Angels: ‘Hide ‘n’ Seek’(EGレコード創始者ジョン・ゲイドンがギターで参加していたバンド)The Orchids: ‘Mr Scrooge’The Bachelors: ‘The Fox’Doug Sheldon: ‘Night Time’Caroline Lee, Roy Sone and Judy Jason: ‘Teenage Valentino’Peter and Gordon: ‘Leave Me Alone’Freddie and the Dreamers: ‘You Were Made for Me’Millie Small: ‘Sugar Dandy’Jackie and the Raindrops: ‘Loco-motion’Mark Wynter: ‘I Wish you Everything’Johnny B. Great: ‘If I had a Hammer’Peter and Gordon: ‘Soft as the Dawn’Faye Craig: ‘Voodoo’The Warriors: ‘Don’t Make Me Blue’(ジョン・アンダーソンとイアン・ウォーレスが最初にデビューしたバンド)Louise Cordet: ‘It’s So Hard to be Good’The Merseybeats: ‘Milk’(ジョン・ガスタフソンがベースを弾いています)The Bachelors: ‘Low the Valley’Freddie and the Dreamers: ‘Just for You’ 60年代物が好きな人にはたまらないDVDといえます。価格も安いので海外のアマゾンやebay等で購入しても充分お買い得ですね。以下キャプチャーを一部紹介しておきます。購入のご参考に。演奏者がわかりやすいようにトリミングしてあります。ア・バンド・オブ・エンジェルス(どれがジョン・ゲイドンかちょっと判りませんがw)ザ・ウォリアーズからジョン・アンダーソン同じくウォリアーズからイアン・ウォーレスマージービーツからジョン・ガスタフソン
Jun 5, 2015
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3年前にキース・エマーソン幻のセッションはいずこにでセッション費用が払われなかったためにお蔵入りとなった曲についてミック・ジャガーがテープを持ってるんじゃないかというロッド・スチュワートの話を取り上げましたが、ふとYoutubeで見てみたら公開されてましたw しかもCDでも出てたようで(苦笑)前回ブログで書いたとき、動画までチェックしてなかったんですね。失礼しました。Come Home Baby, Rod Stewart & P.P. Arnold 参加者はヴォーカルがロッド・スチュワート、PPアーノルドギターとベースでキース・リチャーズドラムスでミック・ウォーラーキーボードがニッキー・ホプキンスとキース・エマーソンブラスは、ジョージ・フェイム・ブラス・セクションプロデューサーはミック・ジャガー録音はIBCスタジオで1966年8月16日ナイスの正式デビュー前なんですね音的にはキーボードがよく判んないですねーなんにしても存在が確認出来てよかった良かった。3年前の記事ではロッドがジェフベックグループ脱退後と書いておりましたが、何の事はない、それよりもずっと前のセッションですね。古い話なのでロッドも勘違いしたのかもしれませんね。
Jun 2, 2015
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とは言うものの、昨年行われたトリビュートライブから演奏ではなくオーケストラや観客全員がお誕生日おめでとうと祝うシーンですwハモンドオルガンを月賦で購入する為、父親に頭金を少し助けてもらい、最初に組んだバンド、ジョン・ブラウンズ・ボディーズから50年。丸の中にいるのががキースwどうかこれからもお元気でご活躍願いたいものですね♪
Jun 2, 2015
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