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放送中のTBS「ぶっこみジャパニーズ 世界中のニセジャパン年末一斉大掃除SP」、海外での日本好きが高じて自らナンチャッテでたらめ寿司屋やラーメン店がインチキ日本食を提供しているのを正していくというバラエティ番組。 国や文化が違うとその捉え方が異様な変化を遂げてしまう事もあるものですね。とは言え日本にも古来から海外からの様々な文化が入ってきては、それが日本独自の進化を遂げた物も多いわけですから、そういう模倣が悪いとは思いませんがw ただ、近代のポピュラー音楽史では、日本から海外への進出にしても、海外からの流入にしても、現地での進行形の物がそのまま伝わるわけでもないのは皆さんもご存知の通り。入ってくるものも出て行くものも本国でのエッセンスの一部のみが伝わるわけで、それ以外を掘り進めるのはマニアの領域となります。 昔と違い、今やネットでの情報がごく当たり前の時代ですから、多くの情報に触れる機会も増え、探そうと思えばあらゆる情報に手が届きます。 昭和の時代、マニアが情報発信を試みようとするなら、音楽同人誌に関わったり、研究会を立ち上げてみたり、その手段は限られていました。 今は思いついたらすぐにブログやSNSで情報を個人で発信できるようになり、その莫大な情報量がもたらす集合知としての能力も飛躍的に増大してきました。 そうなると、ファン一人ひとりの立場や捉え方や解釈がより鮮明に発信側の個性として出てくるのでしょう。今年の年末のキング・クリムゾン来日公演についての解釈や批評はまさにその典型ともいえるんじゃないでしょうか。 主に雑誌が情報源の主体だった70年代はライナーや記事の情報が非常に重みを持っていた時代で、誤った情報が載るとファンを惑わせる事もあったわけですが、今はアーチストが誤情報を修正したり、否定する事も即座に可能になってます。 しかし聞き手の熱意は、少ない情報をかき集めていた昭和の時代も、今の21世紀もそう変わることはないはずです。そこに聞き手からアーチストや楽曲に対する思い入れや個人的な解釈が入る事で同じ音楽でもファンによって多種多様な捉え方が存在するわけですし、作品への評価も時代により移り変わりも生じてきます。ムーブメントをリアルタイムに埋もれて見ている時と、後々俯瞰でその時代丸ごと評価するのでは全く角度が変わってきます。 当サイトも当初は、自分の通過してきた音楽について、自分の経験をモトに、思いつくままただダラダラ書き散らかす傾向が多かったと思います。その後、作品の持つ謎について、多くのアーチストご本人や関係者に質問をぶつけ返信をもらったり、またツイートなどで様々な方々のご助言を頂き、作品は一つといえどもその解釈には受け取る側、演奏する側に色んな真実の側面があるという事を深く思うようになりました。まあ素人サイトなので切込みが甘いのは私の熱意にムラッケがあるせいですがw 私個人も70年代におよそ3000枚のレコードを売ったり買ったりしていた時代がありました。とにかくプログレに関わる物には手当たり次第。毎月山のようなレコードを買い込んでいて、ある日ふと思いました。「自分は何をしてるんだろう?」と。80年代に音響の仕事を始めると自宅に戻ってまで音楽を聴こうという気分が無くなっていたのも影響し、82年以降はほとんどプログレを楽しむという時間を失ってしまいました。その後再び心に楽しむ余裕ができたのは90年代のCDでの過去作品再発リリースラッシュを迎えてからです。 CD再発の恩恵は埋もれていた幻の作品に光をあてる契機となり、多くの人々に恩恵を与え、新たなファン層を生み出しました。プログレへの捉え方も時代を経て、爆発的な広がりと共に様々な方々が色んな分野の研究をなさられています。80年代に、プログレッシヴロック自体が、過去の遺物になってしまうかと危惧していた頃がウソのように、今じゃシッカリと現役バンドや後進ミュージシャンらが艶やかな文化をファンと共に咲かせています。 私が行ってきたのは、そのホンの一部の、端っこの気になる部分を穿っては、気まぐれに紹介してきただけなのですが、今後もこのスタイルはおそらく変わりません。別に評論家気取ろうとか、専門家ぶるわけでもなく、一ファンとしてあーでもないこーでもないとあちこちにスコップ立てて気ままに思いつくまま許される限り穴ぼこをほじっていると思います。たまに誰かに手を差し伸べられて自分で落ちた穴から助け出されながらw 今年一年、拙いブログにお付き合い頂き、誠にありがとうございました。どうぞ良い年をお迎えください。
Dec 29, 2015
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さて・・・このレコーディング風景はなんなんだろう?新譜?Będzie płyta - Piotr Salata. Gość specjalny - Gordon Haskell.
Dec 27, 2015
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来日ツアーの成功への感謝としてDGMに公開された、大阪公演映像。Peace Osaka
Dec 25, 2015
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高松公演も成功に終わり、残りは明日21日の最終公演を残すのみとなったキング・クリムゾンご一行様。彼らが東京公演の際に公開したメッセージ動画です。さて明日の名古屋の当日券が現時点でまだ残されてるのかどうかわかりませんが、行ける方は大変うらやましいですw また着てくれますよう切に願いたいですね。KingCrimson video message to Japanese fans
Dec 20, 2015
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ブリンさんの最新の動画からもう一曲Just A Closer Walk - Bryn Haworth ブリン・ハワースの新譜REBEL MANは。アマゾンUKで購入可能です。日本だと入荷が判らないwhttp://www.amazon.co.uk/Rebel-Man-Bryn-Haworth/dp/B00YNHX0OO
Dec 16, 2015
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音響を仕事にしてた時代、明大や早大やらいろんな大学のイベントも少し絡みましたが、大学のジャズ研がこんな事してた時代もあったんですねー。全然存じませんでしたが、今聞いてもなかなかの演奏です。歌は無いけれどw 楽曲ラストの混沌としたカオスまでもが再現されてます。こういう演奏にすると宮殿もOGUN人脈でティペットさんがジャズロックにアレンジして演奏なんてのもありかもなんて考えちゃいマス♪1972年早大ハイソ慶大ライトジョイントコンサート
Dec 12, 2015
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12月に久々の来日を果たしたキング・クリムゾンが現在日本公演を繰り広げていますね。以下の写真は丁度34年前の1981年12月9日、日本において初めてコンサートを行った渋谷公会堂での本番前フォトセッションから、今までスキャンしてなかった分です。とにかく時間が短くて首から提げたカメラでひたすらシャッターを押し続けるだけで何も余裕がなかったので構図も適当です。楽しんでいただけたなら幸いです。
Dec 8, 2015
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彼が存命だったらおそらく翌81年に来日しただろうと考えるとやはり残念でならない。John Lennon - Instant Karma英語日本語歌詞
Dec 8, 2015
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だいたい毎回ネタは事実を元に作っています♪ 全部じゃないけどw
Dec 7, 2015
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と言っても演奏じゃなく、芝浦スタジオでくつろいでる風の映像ですがw公開しているのはメンバーのパット・マステロット氏で彼のフェイスブック動画。Tokyo rehearsal day 1 / Pat Mastelotto (Official)https://www.facebook.com/PatMastelottoOfficial/videos/1102559663089224/DGM LIVEチャンネルでも別の動画が公開されてますThe Team In Tokyo The Talking Drum In Tokyo King Crimson's Tokyo Blues
Dec 5, 2015
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12月になり来日したキング・クリムゾンメンバーは現在リハーサル中のようですね♪と言う事で、その昔、初来日時のクリムゾンが初日のリハで新曲マンハッタン(ニューロティカの当時の呼び名)をプレイしたときの様子を当時の写真を元に4コマで再現してみました。ではまた♪
Dec 5, 2015
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下記リンクで、キング・クリムゾン楽曲のツイッター上で行われた人気投票の最終結果が見られます。 また、推しメン人気投票もw クリムゾンファンの方は是非ともご覧ください。【オールタイムベスト】 #ATBキングクリムゾン 【投票企画】http://togetter.com/li/904092「私は何位かな?」
Dec 3, 2015
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今までFleur De Lys(以下FDL)関連記事を書く度に、メンバー入れ替わりのややこしさを感じてきたので時系列でまとめてみる。少し前にキース・ガスター氏のインタビューを訳した中で「90年代に出たFDLのCDリフレクションズは、勝手に出された海賊盤だと認識している。ライナー文も滅茶苦茶だった。」というのがありましたが、改めてあのCDをみると、メンバーの一人ダニー・チャーチルがゲイリー・チャーチルと表記されていたりw そりゃガスターさんも困惑した事でしょう。 以前King Harryファミリーツリーの中にFDLのメンバー変遷を織り込んでたので、そこから大雑把にその移り変わりをカットし転載。 1964年夏、FDLが結成される前、元々バンドは4ヒッツアンドミスというローカルバンドだった。1962年にリズムギターのテリー・コ-リアーが弟のドラマー、マルコムらと結成。クラスメイトのキース・ガスター(当時16歳)に「バンド練習に参加しないか?」と声をかけ、結果ガスターが後任ドラマーに。その後ベースもダニー・チャーチルに替わり、バンドは地元の様々なイベントに出演した。 当時の画像で、左からキース・ガスター、ダニー・チャーチル、テリー・コーリアー、ニッキー・ジェイムス、ジョン・ラングフォード。ジャイルズ兄弟のいたダウランズがメインアクトのサウザンプトンでのステージで前座出演記録が残っている。 マネージャーには当時ソウル・エージェンツを手掛けていたデイヴ・ジェイが就任(彼の担当は初期FDLがレコードを出した頃まで、その後フェンターが担当するまで間はニッキー・ジェイムスが短期間FDLのマネージャーだった)。 女性ヴォーカルのニッキーが降板するとガスターとチャーチルも新バンド結成の為脱退。(残されたコーリアーらは女性歌手を入れ替えつつ4ヒッツを継続。) ビリー・ヒューリーやシャドウズのコピーバンド、マーク・トウェイン・アンド・サクソンズからギター/ヴォーカルのフランク・スミスが加入。。18歳と年長だったフランクはリッケンバッカーやストラトキャスターを使うリードギタリストで加入後すぐにリーダー格になった。 そして4ヒッツ時代共演の多かったミッシング・リンクスからハモンド奏者のアレックス・チェンバレンが参加。ミッシング・リンクス、右端がチェンバレン。 新バンドはLes Fleur De Lysとなり1964年9月18日、ロムジーのクロスフィールドホールでデビューコンサートを行った。画像上がフランク・スミス、下段左からキース・ガスター、ダニー・チャーチル、アレックス・チェンバレン。 様々なイベントに出演し徐々に知名度上げたFDLはレコードのオファーをいくつか受け、1965年イミディエイトと契約。デビューシングル「ムーンドリームス」をレコード会社の指示で録音。ガスター氏インタビュー記事でも語られた様に、メンバー全員がこの曲が嫌いだった上に、せっかくB面用にオリジナル曲を録音したのに、ジミー・ペイジ氏に勝手に曲を入れ替えられてしまい、FDLメンバーは打ちひしがれてしまった。結果11月にフランク・スミスが電撃離脱。バンドはギグの為に地元で知られてたギタリスト、コリン・ウィルシャーを一晩だけ雇い入れた。 程なくフランクをバンドに引き戻したFDLだが、フランク同様デビューシングルでの扱いを悲観したベースのダニー・チャーチルが脱退。急遽FDLはベーシストを募集した。 1965年秋リーグ・オブ・ジェントルメンが解散、年末にダウランズのツアーでベースを弾いていたゴードン・ハスケルは観客から「FDLがベーシストを探してる」と聞き、FDLに加入。明けて1966年1月ドイツでひと月の演奏旅行に参加した。 写真左から、ゴードン・ハスケル、キース・ガスター、女性2人を挟んでアレックス・チェンバレン、フランク・スミス。 丁度この時ドイツに居た元チェインズのフィル・ソーヤーがFDLのステージに参加し始める。チェインズ。右端がピーター・バーデンス、すぐ後ろでギターを弾いているのがフィル・ソーヤー。 ドイツから戻るとハモンド奏者のチェンバレンはFDLを脱退しモッズバンドThe Quikへ移籍。 その後FDLはセカンドシングル「サークル」を出すが、メンバー間の相違から今度はフランク・スミスが脱退、コリン・ウィルシャーの白人ソウルバンド、ジョン・ドレバーズ・エクスプレッションズへ移籍。 新ヴォーカリストとして、クリス・アンドリュースがFDLに加入。 左からキース・ガスター、フィル・ソーヤー、クリス・アンドリュース、ゴードン・ハスケル。すぐ後にキーボードのピート・シアーズが加入。5人組FDLとして知られる画像のラインナップとなった。 左から、ゴードン・ハスケル、ピート・シアーズ、クリス・アンドリュース、フィル・ソーヤー、キース・ガスター。三枚目シングルMud In Your Eye/I've Been Trying発売。 この時期デモ録音されつつ未発表だった曲がCD:You've Got To Earn Itに収録された表題曲。 1966年末、フィル・ソーヤーがチェインズ時代の旧友ピーター・バーデンスのショットガン・エクスプレスへ移籍。バンドは新ギタリストにムスタングスのブリン・ハワースを迎え入れた。 FDLは各地をどさ回りし続けたが、ある日故障がちだったピート・シアーズのエレピが、開演直後バラバラに砕け散ってしまい、怒ったバンドから解雇されてしまった。FDLを去ったシアーズはサム・ゴパルズ・ドリームを経た後ジェファーソン・エアプレインに加入。 青い影の大ヒットに便乗した曲リフレクションズ・オブ・チャールズ・ブラウンを吹き込みたかったプロデューサーのハワード・コンドルは、制作にFDLを利用しようとキース・ガスターの両親経由でバンドに接触。B面曲が無かった為急遽ブリンとゴードンがスタジオでホールド・オンを作詞作曲。演奏はFDLとオルガンのピート・ソリー。企画バンド「ルパーツ・ピープル」名義でシングルは発売されヒット、クリス・アンドリュースがルパーツ・ピープルへ移籍。 下段センターがクリス。 コレと同時にFDLはマネージャー、フランク・フェンターの元妻シャロン・タンディのシングルB面でもホールド・オンのシャロン・ヴァージョンを収録。この後、FDLはセッションワークが増えると同時に、バンドとしては同じ下宿で暮らしていたシャロン・タンディと活動を共にする事が増えていった。 3人組となったFDL。ブリン、キース、ゴードン。FDLはシングルI Can See The Light/Prodigal SonTick Tock/Hoe Down (Shyster名義)Gong With The Luminous Nose/Hammer Headを発表。 同時期にシャロン・タンディの出す数々のシングルでもFDLがバック演奏。シャロン・タンディ広告にFDLも併記されていた。 マネージャーのフェンターがアトランティックの欧州代表だった事もあり、様々なレコーディングやデモにFDLはハウスバンドとして参加、スタックスのUKツアーでもバックバンドとして参加。 なお、CDリフレクションズに収録のウェイグッド・エリス楽曲は制作したグラハム・ディーによると「FDLは参加して無い」との事。 ハスケルはこの当時元リーグ・オブ・ジェントルメンのヴォーカリスト、トニー・ヘッド(以前デイブ・アンソニー名義でジャイルズ兄弟やフリップ/ハスケルらとは活動していた。)をFDL及びフェンターに紹介している。トニー・サイモン名義シングル盤ではFDLとタンディがバックを勤めている。 1968年、3ヶ月のジョン・ブロムリーのアルバム用セッションが終わると春にゴードン・ハスケルはフラワーポットメンに移籍。(その後キューピッズ・インスピレーションに12週間参加し、翌年初ソロアルバムを制作。) ハスケルに去られたFDLはヴォーカルにトニーヘッド、オーディションで新ベーシスト、タゴ・ベイヤーを採用。 左からブリン・ハワース、タゴ・ベイヤー、トニー・ヘッド、キース・ガスター。このラインナップでもシングルを発表Stop Crossing The Bridge/Brick By BrickButchers And Bakers/I Forgive You (Chocolate Frog名義)You're just A Liar/One Girl City トニー・ヘッドとシャロン・タンディ名義で出したシングル「トゥー・キャン・メイク・イット・トゥゲザー」がチャート20位とヒットも、病気治療に大量の薬物摂取を繰り返してたタンディが活動不能に。タンディとの別離もあったブリン・ハワースがFDLを脱退し、渡米。メンバー補充をするもFDLは程なく解散した。関連記事キース・ガスターの語るYOU'VE GOT TO EARN ITの時代背景 1http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201511160000/キース・ガスターの語るYOU'VE GOT TO EARN ITの時代背景 2http://plaza.rakuten.co.jp/chop100/diary/201511160001/
Dec 3, 2015
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