全21件 (21件中 1-21件目)
1
【伊藤比呂美/とげ抜き新巣鴨地蔵縁起】◆両親の介護と娘の拒食症と我が身の不甲斐なさ世の中には私小説というものを認めたがらない人がいる。だがそれは好みの問題にもなるので、仕方がない。不思議なことに、私小説は認めなくてもエッセイなら好きだと言う人がいる。同じように自分のことを語るにしても、エッセイの方が軽いからだろうか?ちなみに私は私小説が好きだ。実体験から生じる苦悩とか、あけすけな本音など、ぜひとも垣間見たい分野でもあるし、半分は興味本位もある。伊藤比呂美の肩書きはあくまでも詩人だが、エッセイや小説も書いている。『とげ抜き』はエッセイとも受取れるが、私小説としても充分読み応えがある。いずれにしても、著者の赤裸々な生き様に圧倒される。文章にリズムを感じる小説というのは少ない。漢詩のような男性的で力強い文体にはリズムがあるけれど、伊藤比呂美の文章には、詩人の発するリズミカルな旋律が聴こえて来るような錯覚すらある。『とげ抜き』で大きな主題となっているのは、一人娘である著者が、カリフォルニアの自宅と実家のある熊本を年間に何度となく往復し、精も根も尽き果てながら両親の介護に向き合う点だ。というのも、母親が脳梗塞やら機能障害で入院し、父親も以前胃ガンを除去してから足腰がめっきり弱くなり、耳も遠く、とうてい母の面倒を押し付けることができない状態となっていたのだ。もともと熊本は伊藤比呂美の前夫の赴任地であり、その縁に引かれて著者の両親は引っ越して来たのであり、身寄りはいなかった。その後、著者は当時の夫と離婚し、今はイギリス人と再婚し、アメリカに渡っているため、両親は熊本で老いてゆくほかない。頼れる家族は一人娘である著者だけなのに、熊本にはいない状況なのだった。1~2ヶ月にいっぺん熊本に帰って来る娘を待ち焦がれる父親は、電話口で「つらい。さびしい。くるしい。くらい」を繰り返す。そして入院中の母親は、手足が動かず、寝返りもうてず、排泄もできず、食事も摂れず、家には帰れず、もうどうしようもない状況である。だがそうは言っても著者にも家族があり、生活がある。さらに追い討ちをかけるのが、著者の前夫との間にできた娘が、アメリカの大学に通っているのだが、深刻な拒食症に陥ってしまうのだ。「冷蔵庫から出したてのゴボウの束のようなものでありました。ものを食べず、しゃべるときも口をひらかず、終始うつむいてにこりともしませんでした」著者は意を決して娘をつれて帰ろうとする、だが当の娘は「おかーさんのところには帰りたい、でも帰れない」と言う。それもそのはず、母親には再婚相手のイギリス人亭主と、その二人から生まれた可愛いハーフの娘がいる。部外者の自分が入る余地などないのだと思っているのだ。ああ、せつない。読んでいる側としては、胸がズキズキと痛くなるような場面だ。著者は次から次へと噴出する艱難辛苦を、ジタバタとムダにもがきながら受け入れていく。解決策などとうの昔に放棄しているようだ。なるようになるさと、あきらめの境地さえ窺える。そして、ところどころで自分の若かりし頃を振り返り、その業の深さを真っ向から受けとめている。「自立とは、若者が親から離れてセックスをするためのただの方便だったのではあるまいか。そのとーり、親離れして、わたしはさんざんセックスいたしました。子も産みました、そして今、いつのまにかわたしは自立し、家事をし、育児し、金も稼ぎ、父が為しえなかった縦の物を横にすることもちゃんとしてます」言葉に虚飾はなく、むしろ生々しい。これ以上の真実はないのではと思うほど核心を突いている。そして、そんな波乱の中に生きる著者がたどり着いたのが、信じることの宗教心(?)だ。とげ抜き地蔵の「みがわり」を信じて、認識するのだ。「自分は、この巨大な存在とひとつになり、ちらばった、みぢんの存在である」苦悩を抱えて日々を生きる女性の方々、どうか手に取ってこの本を読んでいただきたい。自己の解放感に浸れるかもしれない。『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』伊藤比呂美・著 〔紫式部文学賞、萩原朔太郎賞ダブル受賞作〕☆次回(読書案内No.56)は芦原すなおの『青春デンデケデケデケ』を予定しています。コチラ
2013.03.30
コメント(0)
【山陽新聞 滴一滴】「科学者を目指すというが、ばかげた考えだ」15歳のジョン君は通知表でこう酷評された。少年は後にノーベル医学生理学賞を受ける。iPS細胞研究で、山中伸弥京大教授と同時受賞した英国のガードン博士である。当時、ジョン少年の生物学の成績は250人の中で最下位だった。「教師の言うことを聞かない」「本人にとっても教える側にとっても時間の無駄」手厳しい評価が並ぶ通知表は額に入れられ、今も博士の研究室に飾られているという。通知表にまつわる逸話をもう一つ。20歳の時、高校までの通知表を焼き捨てた青年がいる。自分の過去を断ち切り、猛勉強を始めたのは後の数学者、秋山仁さんだ。中学で勉強についていけなくなり、やけっぱちで将来の夢を「不良」と書いたこともある。高校受験も失敗し、補欠募集で別の高校に滑り込んだ。高校の同窓会に出ると必ず誰かに言われたそうだ。「数学のできなかったおまえがなぜ数学者になれたんだ?」。そのたびに心の中でつぶやいた。「15や18の時の学力がなんぼのもんじゃい」この春、志望校の合格発表で悔し涙を流した人もいよう。今週は多くの小中学校で修了式があり、通知表に泣きたくなる子もいるだろう。ジョン少年や秋山青年を思えば落胆することはない。顔を上げ、前へ進もう。(3月24日付)
2013.03.28
コメント(0)
【三上延/『ビブリア古書堂の事件手帖』~栞子さんと奇妙な客人たち~】◆古書の知識は超人的、ビブリアの美人店主元図書館司書という職場の同僚が、50歳の自分が読んでも充分に面白いと絶賛していたのが、『ビブリア古書堂の事件手帖』だ。記念すべき第一巻は、~栞子さんと奇妙な客人たち~という副題が付いている。ジャンルとしては、ライトノベルとかジュブナイルと呼ばれる系統だと思うが、これは充分に角川文庫や集英社文庫に入っても見劣りしない代物だ。(いやべつにメディアワークス文庫というのが二流だというわけではないが・・・)もちろん、職場の同僚が絶賛していたことで多少はその先入観もあって、自分も何となく気に入ってしまったということも考えられる。だとしても、つい二巻まで手が伸びて読んでしまうというのは、やっぱりそれだけ面白いという証拠なのだ。一体、何がそんなに良いのだろうか? あれこれ考えてみた。一つに、舞台設定が鎌倉であるという点があるかも。これがもし埼玉とか静岡とかだったら、またちょっと雰囲気が変わって来ると思うのだ。(両県の皆様、気分を害してしまわぬよう、なにとぞご容赦を)二つめに、主人公の五浦大輔(23歳)は、大学卒業後も定職はなく、就職浪人の立場であるということ。出身大学もどうやらうだつのあがらない三流大学(?)のようで、必死の就活も虚しく、いまだ企業から採用通知が届かない、という世間ではありがちな等身大のキャラクター。三つ目に、ビブリア古書堂の店主がとびっきりの美人で、しかもインテリジェンスに溢れている。なのに普段は人見知りで大人しい。むさ苦しいオヤジが、店内を塵払いでパタパタやっているような光景はどこにもない。話は一話ごとにまとめられているが、主な登場人物は満遍なくどこの章にも登場するから、一話に出たきりであとは登場しない、ということはない。美人店主の栞子が、本に関する様々な謎を解き明かしていくというごく単純なお話のような気もするが、そこで取り上げられているテキストがどれも素晴らしい!第一話 夏目漱石 『漱石全集・新書版』第二話 小山清 『落穂拾い・聖アンデルセン』第三話 ヴィノグラードフ クジミン 『論理学入門』第四話 太宰治 『晩年』この目次を見ただけでもスゴイと思うが、これらを題材にストーリーを展開するという三上延という著者にも、優れた才能を感じる。例えば、太宰治『晩年』(砂子屋書房)の希少価値の高いアンカット本についての記述がある。この本の見返しに太宰自筆で「自信モテ 生キヨ 生キトシ生クルモノ スベテ コレ 罪ノ子ナレバ」とあるのに対し、「きっと知り合いを励ますつもりで、一文を書き添えて本を贈ったのでしょう。同じ文章の書かれた署名本は、他にも見つかっています・・・『罪の子』という言い回しに、思い入れがあったのかもしれませんね。この本には収録されていませんが、『?』という短編にも出てきます」というセリフ。これにはシビレた。読書人の知識とか教養をくすぐるではないか。思うに、やっぱり小説はおもしろくなくちゃ! 読者に存分の娯楽を供給してくれるものこそ、真のエンターテインメント小説なのだから。『ビブリア古書堂の事件手帖』~栞子さんと奇妙な客人たち~ 三上延・著☆次回(読書案内No.55)は伊藤比呂美の『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』を予定しています。コチラ
2013.03.27
コメント(0)
思わず手にした植草甚一!恥ずかしながらすでに忘却の彼方にあった「植草甚一」の名前を毎日新聞のコラム「余録」で目にしました。いや~懐かしい(^^)まずはご一読ください。懐かしくて思わず手にした人も多かろう。映画・ジャズの評論や欧米文学の紹介で知られる植草甚一(じんいち)さんのコラム集「ぼくは散歩と雑学がすき」が初めて文庫(筑摩書房)になった。行きつけの東京・神田神保町(じんぼうちょう)の書店では文庫部門で先週売り上げ1位だった。単行本が出たのは1970年。後に「サブカルチャーの元祖」と呼ばれることになる植草さんは既に還暦を過ぎていたが、「ぼくは目をまるくしてしまったんだ」といった軽妙な文体は今読み返しても新鮮だ。紹介しているのはスタンリー・クブリック監督(植草さんはこう表記した)の映画「2001年宇宙の旅」やフィリップ・ロスの新作小説など。「(最近は)金には不自由しないニューヨークのインテリ・クラスが、マリファナ・パーティーをやるようになった」等々の情報も満載だ。世界を結ぶネット社会が来るとは想像もできなかった時代。この明治生まれの不思議なおじさんを通じて若者たちはまだ遠かったアメリカを知った。「政治の季節」が終わり始めるころの空気を今の若者が知るのにも格好の本だろう。同書出版から9年後、植草さんは亡くなった。財はなさなかったが、集めた4000枚ものレコードをタモリさんが買い取ったという「ちょっといい話」も残る。終戦直後、東京・渋谷に「恋文(こいぶみ)横丁」という一角があり、植草さんは洋書を求めて横丁の書店によく通ったそうだ。渋谷はその後「サブカル」の拠点となり、今また再開発が進む。今日は日曜。渋谷の街を久々に散歩してみようか。「最近の若造は」とか説教はたれず、植草さんのように新しい何かを探しに。そういうことで早速、本屋で文庫を手にしました♪正確に言うと「邂逅」ではないでの『思わず手にした』のではありません(汗)それでも、何か突き上げるような衝動で、知ってはいても思わず手にしてしまいましたからぁ(笑)そしてページをめくるうちに、お世話になった恩師にふたたび薫陶をいただいているような気分になり、満たされた気持ちで胸がいっぱいになりました。それにつけても、こういうコラムを書かせたら毎日新聞はピカイチですねぇ~往時を思わせるところは、やっぱり毎日のDNAが受け継がれているのでしょうか(^^)おおいに心意気を感じさせるコラムなのでありました。そしてまた筑摩書房も出版社の気概を感じますよねぇ~売れる売れないは別にして、残さなくてはいけないものをちゃんと心得ていらっしゃいますね!本当に立派だと思います。両社の、高い志に謹んで敬意を表します。出版不況や新聞不読を言われますが、こういう志をもったところがあるかぎり、心配御無用でしょう(^^)一冊の文庫を手にして思いました。J・J氏(植草甚一)のような発信できる人がいて、それを形にするところ(出版社)があり、そしてまたそれを巷に伝えるところ(新聞社)があり、そうやって文化は出来上がってゆくのでしょうね。J・J氏と毎日新聞と筑摩書房に感謝(^人^)
2013.03.26
コメント(0)
また一枚ぬぎすてる旅から旅 山頭火
2013.03.25
コメント(0)
【遥かなる山の呼び声】「橋の下に首をつってぶら下がってる父さんを下ろして、リヤカーに乗せて、菰をかぶせて、兄さんと二人で引っ張って帰るんだけど、町の人がいっぱい見に来てな・・・おじさん悲しくて泣き出しそうになるんだけど、兄さんが小さな声で『泣くな、みっともないから泣くな』、そう言うんだ。だからおじさん必死になって我慢して、歯をくいしばって、涙こらえて歩いたんだ」「ほんとに泣かなかったの?」「ああ、泣かなかった。男が生きていくには・・・我慢しなくちゃならないことがいっぱいあるんだ」この映画の魅力の一つとして、牧場を切り盛りする母と小学生の男児の健気な姿を描いているところだ。今で言う“シングル・マザー”だが、いやもう倍賞千恵子と吉岡秀隆のコンビネーションが絶妙なのだ。まるで本物の親子だ。夫を病気で亡くし、女手一つで息子を育て上げねばという気負いや、他人様に舐められてたまるかという意地のようなものが、演技の一つ一つに感じられる。一方、小学生の息子も、北海道の大自然を背景にすくすくと育っていて、母を助けてあげたいという健気な姿勢がやんわりと伝わって来るのだ。また、注目したいのは、罪を犯して警察に追われている主人公が、母子と知り合い、少しずつ閉ざされた心を開いていくプロセスだ。人は誰しも、一生懸命暮らしている姿に、心を動かされない者はいないのだ。『遥かなる山の呼び声』のストーリーはこうだ。北海道東部にある酪農の町が舞台。風見民子は夫に先立たれ、まだ小学生の武志を育てながら牧場を切り盛りしている。ある春の嵐の晩、見知らぬ男が民子の家を訪れた。どうやら道に迷って難儀しているらしく、雨風しのぎに軒下でも貸して欲しいと言う。 民子は警戒しながらも、納屋を提供し、晩御飯を出してやるのだった。その晩遅く、牛のお産があり、男はまめまめしく手伝う。翌朝、男は礼を言って立ち去るが、夏になると再び男が現れ、働かせて欲しいと頭を下げる。民子は貧乏で、大して賃金を支払える立場ではなかったが、男手が不足しているため、思い切って雇うことにした。こうして田島耕作と名乗る男を納屋に寝泊りさせ、どうにかこうにか牧場を切り盛りしていくのだった。この作品に出演している役者さんの顔ぶれと言ったらスゴイ。チョイ役だが、渥美清とか武田鉄矢、それにムツゴロウさん(畑正憲)まで登場する。邦画の良さは、ハリウッド物にはない、滲むような味わいがある。それは、気骨のある役者の演技だったり、あからさまではない心に残るセリフだったり、ゆっくりと流れる時間だったり、いろいろだ。こういう作品をたくさん鑑賞して、改めて自分が日本人であることに感謝するのも良いし、しみじみ感慨に耽るのも良いだろう。きっと豊饒なひとときを過ごせるに違いない。1980年公開【監督】山田洋次【出演】高倉健、倍賞千恵子
2013.03.24
コメント(0)
【尾崎翠/無風帯から】◆奇異で幻想的で、独特な世界観の広がる少女小説少女小説と言えば、明るくポップで読後は爽やかな気分をもたらすものだと思っていた。 私が中学生のころは、主に、氷室冴子、新井素子、久美沙織あたりが女子たちに愛読されていたような記憶がある。海外小説にどっぷり浸かっていたような私でも、『赤毛のアン』とか『若草物語』に胸を躍らせていたものだ。年を経て、大正とか昭和初期の少女小説に興味を抱き、手に取ったのが尾崎翠だった。これが少女小説なのかと思って読むと、痛い目を見る。何なんだろう、この渇いた感触は。兄と妹と兄の友人が主な登場人物だが、その関係性に極めて淡白な感情しか見受けられない。テンションがずっと同じで、盛り上がりがない代わりに盛り下がりもなく、始終淡々と話が進んでいく。尾崎翠の他の作品もあれこれ読んでみた。と言っても、生涯に残した作品が少ないので、数は知れているが。どことなく感じられるのは、ドイツ文学の影響だ。さしあたりホフマンなど愛読したのではなかろうか?(幻想作家として名高いホフマンの小説は、岩波文庫から出ている。池内紀・訳)さらに興味ついでに尾崎翠の健康状態も調べてみた。年譜によると、若いころから頭痛持ちで、鎮静剤の飲みすぎで体調を壊している。幻覚症状も現れたりして、ちょっと精神に異常も来していたようだ。そんな尾崎翠ではあるが、『こおろぎ嬢』という摩訶不思議な作品に太宰治が激賞している。幻覚症状に苛まれながらの執筆だったと思われるが、読む人が読めば、その鬼才ぶりに圧巻なのだろう。『無風帯から』の話はこうだ。光子の兄が友人Mにつらつらと書いた手紙形式になっている。光子とは兄妹の関係でありながら、なんと異母妹であることに少なからずショックを受ける。光子は、兄が高熱と右肩関節の激痛で身体が思うようにならない時も、甲斐甲斐しく介護してくれる優しい妹である。そんな中、見舞いに来てくれた兄の友人Mに対して、光子はどうやら好意を持っているようだ。兄として、不憫な光子には幸せになってもらいたいから、Mの光子に対する気持ちもあるかとは思うが、受け入れてやって欲しい、という内容になっている。こんなふうに端折ってあらすじを書くと、何やら兄妹の固い絆を見せつけられるような想像を巡らせてしまうかもしれない。だが全然違う。もっと夢想的で、非現実的だ。そして分からないなりに文学として惹きつけられるのだ。この『無風帯から』は、当時「新潮」に掲載されたのだが、そのことにより在学していた日本女子大学から問題視され、結果、退学となってしまう。尾崎翠の作品の多くに共通するのは病気の影だが、そのわりに暗いばかりにはなっていない。幻想的で、現実と非現実をゆるやかに交錯した独特の世界観が広がる。晩年は尾崎翠ブームで、にわかに脚光を浴びるのだが、決して表舞台に立つことはなく、再びペンを執ることもなかった。『無風帯から』尾崎翠・著☆次回(読書案内No.54)は三上延の『ビブリア古書堂の事件手帖』を予定しています。コチラ
2013.03.23
コメント(0)
書を捨てよ、旅に出よう 吟遊映人泉下の寺山修司氏にお許しを願い一時(一字)変更しました(^^)v一定の年齢以上の方には、あまりにも有名な一文です。書を捨てよ、町に出よう 寺山修司あらためて見ても、このアジテーション味を帯びたスローガンには震えを覚えます(笑)それにしてもこの一文をもって、かつて青年は書物に耽ったことがわかります。翻って昨今の風潮は「活字離れ」。青年が読書に勤しんでいた頃は、その言葉も概念も存在しなかったような気がします。とはいえ、今日は寺山兄ではなく「旅」についてです。季節柄か旅がテーマのコラム二つを目にしました、ご覧あれ♪■京都新聞 凡語汽車旅の楽しさ春の行楽シーズンが到来し、旅にいざなう広告をよく見かける。格安航空会社の参入も相次ぎ、飛行機のスピードは捨てがたい。でも、やはり旅は列車に限る気がする。作家の出久根達郎さんが編んだ「むかしの汽車旅」(河出文庫)を手にしてみた。漱石や鴎外など30人の作家の汽車の旅についての随筆集である。永井荷風には路面電車にふらりと乗り込む妙な習慣があったようだ。「別に何処(どこ)へ行くという当(あて)もない。船でも車でも、動いているものに乗って、身体を揺(ゆす)られるのが、自分には一種の快感を起させる」と記し、車内で乗客の会話に耳を澄ます。他の多くの文人も夜汽車で、二等車で、三等車で乗り合わせた人々の人間模様に関心を寄せる。全員が進行方向を向く今の新幹線では、乗客同士が顔を合わさず、こうはいかない。4人掛けの列車でこそ可能な細部にわたる人間観察は、作家の小説取材でもあったのだ。停車駅では駅弁を買い求め、時に駅頭に降り立って土地の名産品を求める。食事は長い時間をかけ食堂車でとる。車窓を流れ去る風景をさかなに、ゆったりと杯を傾ける。先を急がない先人たちの旅がうらやましい。そういえば、昭和の初めに文庫本が創刊されたのは、電車内で読書する人が増えたためという説がある。文庫本をポケットに入れ、この春は列車の旅に出掛けようか。■北國新聞 時鐘3月は鉄道ニュースの季節である。東北新幹線(とうほくしんかんせん)が時速320キロを記録。旧型(きゅうがた)の上越(じょうえつ)新幹線が引退(いんたい)。首都圏(しゅとけん)の私鉄と地下鉄の乗り入れもあった。記念のホームは鉄道ファンで埋(う)め尽(つ)くされ押し合いへし合い罵声(ばせい)が飛ぶ。携帯(けいたい)やデジカメが林立(りんりつ)する。一種異様(いっしゅいよう)な光景(こうけい)だ。遠ざかる列車と静かに別れるなどという情緒(じょうちょ)とはほど遠い。学生のころの思い出がある。東北本線に乗っていた。ある駅で、まだ幼顔(おさながお)の残る少年が横に座った。当時の客車は窓(まど)が開(ひら)いた。ホームに見送りの母親がいた。就職(しゅうしょく)で上京(じょうきょう)すると言い、どこのだれかもわからない旅(たび)の学生に「東京までよろしくお願いします」というのだった。昨日の本紙「レトロ写真館(しゃしんかん)」は1964年の集団(しゅうだん)就職の一枚だった。中学を卒業した子どもたちの不安(ふあん)と夢(ゆめ)がホームを埋(う)め尽(つ)くしていた。同世代の一人として「あゝ上野駅(うえのえき)」は今も切(せつ)ない。二十歳(はたち)過(す)ぎても親のすねをかじっていた後(うし)ろめたさが胸をよぎる。上京する列車の窓から見た景色に初めてふるさとを意識したと詠(よ)んだ詩人(しじん)もいた。春3月の鉄道から「切なさ」が消えたのはいつのころからだろう。青春の日、目にした一行半句に触発され、気ままな旅を謳歌した者にはどうにもムシが疼くコラムです。しかしながら今となっては、書はいくらでも捨てられるのですが(笑)、自分ひとりでは捨てるに捨てられない世のしがらみで、出たくとも、なかなか出られない旅なのであります。しかしそれを恨んでみてもせんない事。ならば青年には自分の分まで旅を謳歌して欲しいもよと思う次第なのであります(^^)宮本常一氏のご尊父は、子息の上京に十の垂訓をされました。その一つを旅の心得として青年に贈ります♪『汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。駅へ着いたら人の乗り降りに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置き場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。』 それにつけても、青年よ。まずは音楽のイヤホンを外し、そしてスマホから目を上げてください。自ずから見て、聞いておおいに刺激を受けて欲しいものです。すべからく青春の旅は素晴らしいものなのですが、人生を過ごした後に、それこそが実学であったと必ずや理解されるときがくるでしょう。宮本父の訓も、後に必ずやその含蓄の深さをおわかりいただけることと思います。さあ青年よ、イヤホンを外し、スマホから目を離し、そして旅に出よう!
2013.03.21
コメント(0)
【遠藤周作/深い河】◆神は存在というより働き、愛の働く塊なのだこの小説は平成5年に出版されたものであるが、70代に突入した作家の作風とは思えないほどの瑞々しさ、ごく自然なドラマ性を感じさせる。小説の構成は、様々な苦悩を背負った人々が、たまたま同じツアー旅行に参加することとなり、その各人ごとに物語が展開していくものだ。その旅行先というのも、インド仏跡巡りというのだから、作者の何らかの意図を感じないではいられない。要となるのは、大津という人物。美津子が学生時代に誘惑したカトリック信者である。 話はこうだ。ミッション系の大学へ通っていた美津子は、周囲からけしかけられて、真面目なカトリック信者でもある男子学生の大津を誘惑する。大津は不器用ながら純粋な愛を傾けるが、美津子にしてみれば、ウブな大津を弄んでみたくなっただけのことで、じきに飽きた。その後、美津子は見合いで裕福な青年実業家と結婚するが、その生活に何一つ満たされることはなかった。一方、大津は美津子からボロ雑巾のように捨てられた後、救いを求めてフランスのリヨンに渡った。そこにある古い修道院で、数年の間、神学の勉強をしていたのだ。ところがその後、美津子が同窓会で大津の噂を偶然耳にすると、大津はインドで修行しているとのこと。そんなこともあって、美津子はインドツアー旅行に参加するのだった。『深い河』の作中に登場する美津子と大津の会話は興味深い。何とかして神への信仰を中断させようとする側と、必死で神への迷いを断ち切り、救いを求める側。これは、あるいは遠藤周作自身の自問自答だったかもしれない。高校で多少の世界史をかじった方なら誰でも知っていることだが、キリスト教が布教の名を借りて多くの土地を奪い、それこそたくさんの人命を奪ったという事実。だがどうしてキリスト教がなくならないのか。神の存在を否定しないのか。そう、信仰とは理屈なんかではない。ただひたすらに信じることなのだから。著者は、大津の言葉を借りて次のように言う。「日本人の心にあう基督教を考えたいんです」ヨーロッパでは、唯一絶対と考えられている神の存在だが、東洋人にはその宗教観を受け入れるのが難しい。大津の考えとして、「神は色々な顔を持っておられる。ヨーロッパの教会やチャペルだけでなく、ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はいる」と。これは正に、遠藤周作が人生を懸けて問い続けて来た宗教観であろう。神は存在というより、働きなのだと。時に、情報の氾濫した世知辛い世の中で、私は秘かに神を信じてみたくなる。なぜなら、何を信じたら良いのか分からず、途方に暮れてしまう日々だからだ。『深い河』は、迷い続ける人に優しく働きかける霊的な小説と成り得るかもしれない。 『深い河』遠藤周作・著☆次回(読書案内No.53)は尾崎翠の『無風帯から』を予定しています。コチラ
2013.03.20
コメント(0)
【ゴールデンスランバー 】「人間の最大の武器は何だか分かるか?」「さぁ・・・」「習慣と信頼だ」「習慣と信頼・・・」ド派手なアクションと、完成度の高いCGの施されたハリウッド映画を見慣れてしまっている方々には、邦画なんてヤワでチャチな代物に思えるだろう。だがそんな邦画の世界でも、驚愕するような脚本の出来栄えと、出演者の見事な演技合戦で秀作は生まれるのだ。原作は伊坂幸太郎だが、このサスペンス小説は他の犯罪・推理モノとは一線を画す。本作に登場する警察庁警備局総合情報課というのは、いわゆる公安のことで、国家を揺るがす陰謀やテロ行為に立ち向かう組織である。作中、あまりクローズアップされなかったのは、なぜ、金田首相が暗殺されたのか、ということだ。考えられるのは、国民から絶大な人気を得る金田首相が、思想的に左寄りだったのではなかろうか、それゆえ公安が秘密裏に動いた、という推理である。これに近い発想を探していくと、ケネディ大統領の暗殺犯とされているオズワルド、いわゆるオズワルド事件にたどり着く。ケネディ大統領というのは、周知の通り、思想的にも反戦主義者で、かねてよりCIAから目をつけられていた、という噂がある。そこでCIAは、オズワルドという一青年を犯人に仕立てあげ、ケネディ大統領の暗殺を謀ったというものだ。オズワルドはその後、ジャック・ルビーによって射殺されるが、このジャック・ルビーも獄中、不審な言動を繰り返し、最終的には病死という顛末でこの事件は幕を閉じられてしまった。※ジャック・ルビーはCIAと接触があったという一部報道もある。つまり、「ゴールデンスランバー」という物語は、公安による首相暗殺計画のために、一般市民が利用され抹殺されようとしているプロセスを描いている、と思われる。吟遊映人が評価するのは、このプロットを考えた著者は、おそらく公安やアメリカのCIAについてかなり深いところまで勉強したであろうことがうかがえる点である。安易な犯罪・スパイ小説に小さくまとまらず、これだけのおもしろい作品に仕上げたのは、著者の実力に他ならない。舞台は宮城県仙台市。宅配便のドライバーをしている青柳雅春は、学生時代からの友人・森田から久しぶりに釣りに誘われた。ところが森田は、再会を喜ぶ節も見られず、いぶかしく思う青柳。二人は路駐した車内でジャンクフードを食べているが、同時刻、仙台出身の金田総理大臣のパレードが盛大に行なわれていた。そんな中、森田は自嘲気味に自分のことを話し出す。自分が社会人になってすぐに結婚し、子どもを儲けたこと。妻がパチンコにハマってしまい、多額の負債を抱え込んでしまったこと。さらに、怪しげな人物から、青柳を現在地まで連れ出すように指示されたことも、打ち明けるのだった。作中、副首相の存在も何やら公安の動きに一枚かんでいるような節もあったが、この辺りは視聴者がそれぞれに想像をめぐらして推理を楽しめば良いだろう。参考にすべきは、キルオのセリフにもあったように、我々の何気ない電話は、誰かによって盗聴されているのは間違いない。それが公安か何かは、分からない。ただ、プライバシーなんてあってないようなものなので、それを踏まえた上で、あまり過敏にならず生活していこうではないか。本作は、ベールに包まれた向こう側を、ほんの少しだけシルエットで垣間見たような、圧倒的ファンタジーに彩られた作品であった。2010年公開【監督】中村義洋【出演】堺雅人、竹内結子、吉岡秀隆、劇団ひとり※ただいま公開中の『ひまわりと子犬の7日間』では堺雅人の好演が話題(^o^)この役者、これからも目が離せない存在である!
2013.03.19
コメント(0)
『安岡正篤先生訓』恋愛いかなる異性を恋するかは自己人格と密接に関係する。すなわち自己の人物相応に恋する。故に人は恋愛によって自己を露呈するのである。すでに我が身は恋愛とは無関係ですが(笑)、対象を友人知人の類に置きかえ考えてみると、おおいに合点がいくのであります。まずは己を知り自己研鑽に努力(つと)めましょう、そういうことです!
2013.03.18
コメント(0)
【城山三郎/男子の本懐】◆軍縮と金解禁に命を賭す男たちのドラマ一般的に政治や経済を扱った小説というのは、堅苦しくて読みづらいものだ。松本清張の描く政治家の派閥抗争の確執とか、永田町の保守政界のからくりだとか、代議士の陰に暗躍する不気味な存在など、それはそれで興味深いものだが、読了するのにかなりの労力を強いられる。その点、城山三郎の小説というのは、社会派と謳われた松本清張とは異なり、政治家の汚職や不正を糾弾する目的はなく、むしろ人物伝に近く、明快だ。『男子の本懐』は、第一次世界大戦後の非常事態下で、慢性的な通貨不安に陥っていた状況を克服するため、金解禁を遂行した浜口雄幸と井上準之助の政策について書かれている。この二人のゴールデン・コンビネーションが命を懸けて実現した金本位制復帰までのプロセスを、緊迫感のうちに伝えている。いやそれがもう潔くてカッコイイ。簡単なあらすじを言ってしまうと、こうだ。保守派の政友会内閣が総辞職し、野党第一党の民政党総裁である浜口が総理となり、その内閣が発足。浜口内閣の最大の課題は金解禁と、そして軍縮にあった。組閣の焦点は蔵相の人選にあるのだが、浜口にはすでに意中の人がいた。とにかく日本銀行出身の井上でなければこの政策を成し遂げることなど出来ない。井上の他にはいない、という不動の信念に基づき、三顧の礼を尽くす。やがて井上は、浜口と運命を共にすることを決意するのだ。井上は金解禁の実現に向け、徹底的に軍事費の削減に取り組む。この緊張財政は、軍部から激しく抵抗を受けることになるのだが、怯まない。なぜなら浜口の全面的な信頼を持って、共に果敢に立ち向かうからだ。私はもともと、ロンドン仕込みのスタイリッシュでクールな井上準之助が大好きだった。 仕事に対する美学とでも言うのか、着るものは常に清潔を心がけ、髪には絶えず櫛を入れるという気の使い方に惚れ惚れしてしまうのだ。西欧的合理主義の実践も徹底したもので、当時、仕事さえちゃんとこなせば三時に帰って良いと言って憚らなかった。いやむしろ早く帰るのを勧めたぐらいだ。井上の前任というのが、朝は重役出勤、夕方は八時過ぎまで居残るという典型的な日本のサラリーマンだった。これに対し井上は、早朝出勤し、テキパキと仕事をこなすと三時過ぎまでだらだら職場に居残ることはなかった。部下たちには早く帰って「大いに勉強せよ」という立場を貫いたわけだ。そんな井上の天才的手腕を誰よりも買っていた浜口というのも凄い。最近の私は、無口でほとんど交友関係がなく、おもしろみに欠ける浜口の方が好きになりつつある。浜口は近代化が進む中、ずいぶんと遅くまで人力車を利用していた。愛用の稲毛屋の人力車に乗ってどこにでも出かけたのだ。この稲毛屋は十年もの長い間、大柄な浜口を乗せ続けた。そして浜口がいよいよ公人となり、公用車の使用が義務付けられた時、あらためて稲毛屋をねぎらい、別れを惜しんだ。この稲毛屋は、もはや浜口以外の客に仕える気持ちを失くし、そのわずか一年後には乾物商に転じている。浜口雄幸という人物は、一見、とっつきにくい寡黙な政治家には違いないが、人情に篤く義理堅い性質だ。混迷する現代日本において、浜口のような私利私欲のない潔癖な政治を推進する政治家が、果たして一人でもいるのだろうか?願わくば、政治家という肩書きを持つ諸先生方には、ぜひともこの『男子の本懐』をお読みいただきたい。浜口と、その盟友井上が凶弾に撃たれたことで、それまでの軍縮政策が翻り、軍部の台頭、抜き差しならない圧力によって暗黒時代が始まる。そして第二次世界大戦へ突入したことを考えれば、いかに右傾化が危険なものであるか、自ずと分かるからだ。軍縮と金解禁にその身を捧げた浜口と井上の、壮絶な政治姿勢を参考にしていただき、今後の日本経済の立て直しにご尽力願うものだ。『男子の本懐』城山三郎・著☆次回(読書案内No.52)は遠藤周作の『深い河』を予定しています。コチラ
2013.03.16
コメント(0)
死ねば死にきり。自然は水際立つてゐる。 高村光太郎明日、三月十六日は吉本隆明氏の命日です。氏は遺書のかわりに光太郎の詩「死ねば死にきり」をあげました。う~ん、わかったようなわからないような(汗)氏の肩書きや、「日本の思想家」「詩人」「評論家」「東京工業大学世界文明センター特任教授」とな。(Wikipediaから)なるほどな、と妙に納得してしまいました(笑)死してなお、私の中で氏は、わかったようなわからないような、そんな存在なのであります。途中まで読んだ論文を手にしてみましたが、「またこんど、もう少し季節が良くなってから」そう思い、また途中にしましたぁ(笑)死ねば死にきり。自然は水際立つてゐる。吉本隆明氏に、合掌(^人^)
2013.03.15
コメント(0)
【藤沢周平/蝉しぐれ】◆若き藩士の成長過程を鮮やかに描く亡くなった母が時代劇の好きな人で、それはもう毎週欠かさず見ていた番組がある。それは、NHKで放送されていたのだが、『三屋清左衛門残日録』という時代劇だ。とある武家のご隠居さんのつれづれを物語にした番組で、主演を仲代達矢が好演。脇を固める役者さんも錚々たる顔ぶれだったような気がする。母といっしょになって見ていた私も、時代劇でありながらその枠に囚われず、舅と嫁のささいな気の使い合いやら竹馬の友とのざっくばらんなお喋り、老いたりといえども胸をときめかすご婦人との出会いなど、充分に楽しめる内容だった。そんな『三屋清左衛門残日録』の原作は、他でもない藤沢周平であり、『蝉しぐれ』の著者でもある。『蝉しぐれ』は映画化もされているが、個人的には小説の中の世界観の方が、圧倒的に好きだ。『蝉しぐれ』の何がそんなに魅力的なのか考えてみたところ、時代劇なのに青春小説でもあるところかもしれない。殺伐とした緊迫感というより、爽やかな友情、淡い恋、若き藩士の成長過程を、それは見事な筆致で鮮やかに描写しているのだ。物語はこうだ。海坂藩普請組の城下組屋敷は、三十石以下の軽輩が固まっている。その一角に住む牧文四郎は15歳。隣家の娘・ふくは、まだ12歳。最近、どうもふくがよそよそしいので気になって仕方がない。親友の小和田逸平に話したところ、「娘が色気づいたのよ」と断定する。もう一人の親友、島崎与之助はまだ色気づくという言葉の意味が分からないので、文四郎と逸平が大汗をかきながら説明してやる。仲良し3人組は、昼前は居駒塾で経書を学び、昼過ぎからは石栗道場で剣術の稽古に励む。3人組の一人、島崎与之助は剣術はからっきしダメだったが、学問に秀で、後に江戸遊学に旅立つ。また、文四郎が秘かに気にかけていたふくは、後に、江戸屋敷に奉公に上がり、殿様のお手つきとなったのだ。山場となるのは二箇所ある。一つは、文四郎の父がやむをえない事情で切腹となるシーン。文四郎はその亡骸を荷車に乗せ、炎天下の中したたる汗をものともせず、唇をかみしめて車を曳くのだが、私はもう涙なしには読めなかった。そしてもう一つの山場が、“ふく”が“お福”となり、藩主の子を授かったことで派閥抗争に巻き込まれるくだりだ。お福とその赤子の命が狙われるのだが、文四郎が身を挺して二人を守り抜くのだ。私は、この小説のラストに深い感動を覚えた。皆が皆、己の道を歩み、精一杯生きている。それは、精進というに相応しい生き様だ。 15歳の若き藩士が父の死を乗り越え、様々な試練と忍耐とつかの間の喜びをかみしめて、やがて大人へと成長する。その過程は、名状しがたい味わいで読者を感動の渦に巻き込むのだ。『蝉しぐれ』藤沢周平・著※DVD映画鑑賞『蝉しぐれ』の記事はコチラまで♪ ☆次回(読書案内No.51)は城山三郎の『男子の本懐』を予定しています。コチラ
2013.03.13
コメント(0)
菊池寛の命日を、東奥日報「天地人」で知ったことは先日の記事に記しましたが(コチラをご覧あれ♪)、今日は続編で坂口安吾のお話です(^^)vまずはこれをご一読ください。『作家坂口安吾の仕事部屋はすごかった。褒めているのではない。戦後まもなく、写真家が撮った部屋の写真を見ると、雑誌や原稿用紙が机に向かう安吾の周りを埋め尽くしている。だから、探し物をして見つけたときは、こう叫んだのではないかと推測する。「あった、あった」。 さて、探すといえば、先ごろの県立高校入試制度見直しに関する会議でのこと。中学校側から高校側へ提出する受験生の調査書について、委員の一人が次のようなことを言った。「調査書とは中学校の先生にとって、いわば一つの芸術作品」。学級活動や生徒会活動、部活動などについて書く欄には、中学校側のたくさんの思いが詰まっている。子どもたちを合格させたいという思いである。 この委員によれば、「中学校の先生が調査書を書くとき、すぐにいいところについて書ける子」という子がいる。でも、そういう子ばかりでもない。それぞれの子どものいいところを探して、先生方は一生懸命、調査書を書くのだという。 世には目立つ花あり、目立たぬ花もあり。人も同じことか。安吾の部屋ではないけれど、埋もれたり、隠れたいいところを見つけ出すのは簡単なことではない。子どもとじっくり向き合って「あった、あった」と、いいところを見つけて伸ばす。それが先生の仕事。 春は「あった、あった」の季節である。あす11日は県立高校入試前期試験の合格発表の日。「番号があった」。子どもの努力、中学校の先生方の苦労が歓声に変わることを願う。』おそらくこの写真でしょう(^^)まさに「堕落論」を地で行くような一枚ではありませんか!堕ち切るまで堕ちよ安吾の叫びが聞こえるようです。このごろは暴走老人という巷のレッテルに、すっかり慣れ親しんでしまった感のある石原慎太郎氏ですが、氏の「実在への指標」という安吾論は明快です。「坂口安吾の文学の魅力は、あの得もいえぬ痛烈さであり、その痛烈さとは、文明や文化の粉飾への毅然とした拒否に他ならない。」伝統や貫禄ではなく、実質だこの強烈な個性(安吾臭)が、一部の人にはたまらない魅力なのだろうと思います(ということは安吾匂か・笑)。ちなみにこの写真は銀座のルパンでの一枚で、安吾はこれが気に入り「この一枚をもって私の写真の決定版にする」といったそうです。さて東奥日報。「堕落論」の安吾を引いて合格発表にもっていくあたりはサスガですねぇ~!見事なコラムに謹んで敬意を表します。きっと太宰のご当地ですから、何かDNAのようなものを受け継いでいるのかもしれませんね。おかげさまで、久々に安吾を紐解く機会をいただきました、東奥日報に感謝(^人^)
2013.03.11
コメント(0)
【幸福の黄色いハンカチ】「渡辺さん、いろいろとありがとうございました」「まぁ、あれだな。辛いこともあるんだろうけど、辛抱してやれや。一生懸命辛抱してやってりゃ、きっといいことあるよ」「はい。渡辺さんもお元気で」何度見ても飽きない映画がある。いつも同じ場面で涙が出て来てしまう。役者の演技だと分かっていても、ついもらい泣きだ。どうしてこんなに好きなのか、理屈では答えられない映画、それがこの『幸福の黄色いハンカチ』だ。主演の高倉健、それに倍賞千恵子というゴールデン・コンビネーションも然ることながら、三枚目に徹する武田鉄也の、必死で一生懸命な演技にも心を動かされる。もともとミュージシャンである武田鉄也にとっては、これが映画初出演とのことだが、山田洋次監督のシゴキもあって好演。桃井かおりを相手にピッタリ息の合った演技を見せてくれた。今年、山田洋次監督の新作『東京家族』が公開された際、その記念番組に武田鉄也が出演。当時を思い出して語っている。それによると、あれだけ自然体な会話なのに、アドリブが一つもないのだとか。全て脚本に忠実なセリフを言っているらしい。さらに、武田鉄也演じる花田欽也が黄色いハンカチを見つけて感動の涙を流すシーンの、山田監督の演出はこうだ。「川崎で肉体労働をしている兄ちゃんが風俗に行って、遊んだ女の感想を友達と話して別れる。下宿への帰り道、街頭もない真っ暗な道をとぼとぼ歩きながらつぶやく。『あんなのは愛じゃねぇよ。俺はこんな人間だけど、いつか本当の愛をさ』と涙がこぼれる。実は真面目な愛を探していた。それがあの旗(ハンカチ)さ」【シネマトゥデイ映画ニュースより】さすがは映画界の巨匠、山田洋次の演出だ。こんな演出、ちょっと頭の中でこしらえたぐらいじゃ発想できない代物だ。思うに、人は皆、純愛を求めているのだ。だが時代の風潮なのか、軽いノリが良しとされ、真面目で一途なのはダサイこととして疎まれて来た。あるいは若さゆえの照れもあるかもしれない。そんな中、純愛はすでに古典的な感情として扱われている。作中にあるように、罪を犯して刑に服した夫を、今も昔も変わらぬ愛情で待ち続ける妻というのは、一見キレイゴトにも思えてしまう。だが、不器用で不完全な人間にとって、純愛こそが何ものにも代えがたい心の糧であり、支えなのだ。『幸福の黄色いハンカチ』は、男女問わず、年齢問わず、純粋な愛を注ぐに相応しい相手を見つけ、一度しかない人生を大切に生きよと教えてくれているような気がしてならない。心をこめて人を愛することは、自分もまた誰かに愛されることなのだと気づかせてくれる。『幸福の黄色いハンカチ』は、1970年代を代表する邦画の傑作だ。1977年公開 【監督】山田洋次【出演】高倉健、倍賞千恵子、桃井かおり、武田鉄也
2013.03.10
コメント(0)
【天童荒太/永遠の仔】◆虐待から逃れるためには、親を殺すか己が死ぬか最近は目が疲れやすくなって小さい字を追うのが面倒になりつつある。だからよっぽど惹きつけられる小説でなければ、長編を読了するのは本当にしんどい。高村薫の『レディ・ジョーカー』は、上下巻2冊の長編だったが、一気呵成に読了した。それだけ著者の技巧が優れているということだろう。読者を飽きさせない見事な筆致。今回は『永遠の仔』、天童荒太の書き下ろしだ。天童荒太の代表作といえば『家族狩り』で、山本周五郎賞を受賞している。読後は何とも言えない重苦しさに喘いだような記憶がある。それがどうだ、『永遠の仔』の方がさらに輪をかけた如く息苦しさに見舞われた。なんなんだ、この閉塞感は?!限りなく結末の見えないラストに苛立つし、絶望的なまでの孤独感に襲われる。あらゆる意味でドラマチックで、読後は放心状態になってしまう。いや本当に。まず念頭に置きたいのが、幼い子どもらに向けられる虐待がいかなるものか、その辺をきちんと整理しながら読み進めないと、単なる小説の中の絵空事で終わってしまう。現実に性的虐待などで心身ともに病んでしまった子どもたちを収容する施設と、養護学校が存在することを踏まえた上で、主人公ら3人の壮絶な成長を追っていくのが望ましい。話はこうだ。舞台は愛媛県のとある田舎町。双海小児総合病院は、様々な理由で精神状態の落ち着かない子どもたちを受け入れていた。優希もその一人で、ある事情から外界を遮断するスイッチを持つようになった。そんな新入りの優希に興味を持ったのは、ジラフ(キリンの意)とモウル(モグラの意)と呼ばれる二人の少年たちだった。ジラフは母親からタバコを体じゅうに押し付けられたせいで、丸い火傷の痕がキリンの模様のように付いていた。それは大切な性器や尻に至るまで、まるで悪ふざけのように火傷痕が残っていた。モウルは、母親が知らない男を連れて帰る度に暗い押入れの中に閉じ込められ、男が帰るまでトイレにも行けず、自分の性器をちぎれるほど握りしめて堪えなくてはならない状況下にあった。そのせいで、灯りのない場所に極度の恐怖と不安を覚えるようになり、おまけに男性としての機能が全く働かない身体となってしまったのだ。そして優希は、なんと、実の父親から性的虐待を受けていたのだった。物語は、17年後の現在、優希が看護士、ジラフが刑事、モウルが弁護士となった今と、17年前の小児精神科の治療を受けていたころと、交互に進んでいく。3人の辛く哀しい過去が現在まで尾を引き、様々な形で事件につながっていく。どうしようもない過去から目を背けて生きて来たところ、3人が再会することで、否が応でも打ち消すことの出来ない記憶を辿らなくてはならない。背負うものが余りにも重過ぎて、苦しさから逃れられない。このどうしようもない絶望的な嘆きの前に、神も仏もなく、ただ傷口を舐め合う仔犬のようにうずくまるのだ。ラストは、読者各々が感覚として捉えた輪郭をなぞるものだと思う。それは形がなく、曖昧で、無性に孤独を促す結末かもしれないが、寝る間も惜しむほどに引き摺りこまれる作品だった。『永遠の仔』天童荒太・著☆次回(読書案内No.50)は藤沢周平の『蝉しぐれ』を予定しています。コチラ
2013.03.09
コメント(0)
【菊池寛 男気なり!】閉門即是深山読書随処浄土 菊池寛三月六日は菊池寛の六十五回目の命日でした。東奥日報のコラム「天地人」で知りました。まずはそれをご一読ください。小説家の菊池寛は親友の芥川龍之介が死んだ時、その枕元で泣いた。直木三十五が死んだ時は東大病院で号泣したという。よほど無念だったのだろう。二人の名前にちなんで芥川賞と直木賞を創設した。「(二つとも)あの涙から生まれたような気がする」と、小説家の川口松太郎が書いている。小説家の織田作之助が発病して宿屋で寝ているのを菊池が見舞った時は、織田の方がおいおい泣いたという話もある。いま「競争だ」「合理化だ」と世間の風は世知辛い。そんな人間味のない風に当てられているせいか、菊池にまつわる話は心にしみる。旧制一高(東大教養学部の前身)時代、菊池は窃盗事件で友人の罪をかぶり退学した。「文教関係に勤める父が職にいられなくなる」。友人がそう言って泣くので、菊池は罪を認めさせようという気になれなかったのだ。新渡戸稲造校長が後で真相を知り、寛大に計らおうとした。が、菊池は「前言を翻すのは卑怯」と、最後まで罪をかぶる。そんな男気もあった。とはいえ、金もなく行く当てもない。そこを金持ちの同級生に救われるのだから、世の中は面白い。同級生の親が経済的な面倒を見てくれたため、菊池は京大に進むことができた。文藝春秋の社長でいた頃、食えない作家がやってくると、ポケットから五円札、十円札を取り出し、無造作に与えたという。少年時代に受けた恩を忘れず、世間に返し続けていたのだ。まるで人情物語のような人生だ。菊池は65年前のきょう59歳で亡くなった。補足を致しますと、上記の窃盗事件とは文壇では有名な「マント事件」です。菊池寛が知人の部屋からマントを盗みそれを質入したというのです。真相はというと、犯人は佐野某。彼は質屋から得た金で倉田百三の妹とデートしていたといいますから落語話のようです(^^)余談で恐縮ですが、五代目古今亭志ん生師には、高座をつとめるために師匠から借りた羽織を質入して飲んでしまった、という武勇伝があります。結果はというと、志ん生師曰く「師匠ぉをしくじってしまいましてね」とな(笑)それにしても新渡戸稲造の尽力に「前言を翻すのは卑怯」と通したのはサスガは菊池寛、男気の人だと思います。苦し紛れの末に「方便」とこたえひんしゅくと軽蔑を買った御仁に、氏の爪の垢でも煎じて飲ませてあげたいものです。ときに菊池寛は読書によって青春の蹉跌を抜けました。上野図書館や麹町の大橋図書館、日比谷図書館を馴染みにしたそうです。彼のあくなき知的欲求を図書館での読書が満たしてくれたというわけです。閉門即是深山 読書随処浄土なるほど、含蓄に深いものを感じますねぇ活字離れや本の電子化で、図書館の存在そのものが危ぶまれる昨今、ここは菊池寛を偲び、週末には図書館に出かけてみたいと思います。それはそうと、東奥日報のコラムは秀逸です!現状批判ばかりが多いコラムの中で、新聞のコラムの役割をちゃんと心得ていらっしゃると思います。東奥日報 天地人に感謝(^人^)
2013.03.08
コメント(0)
【深沢七郎/東北の神武たち】◆東北の貧しい農村地帯での因習を赤裸々に描写バブル期以降、お洒落な小説というのが一定の人気を誇っている。例えば主人公の男がBMWに乗っていたり、デートにジャズの聴けるバーでサラダとワインを口にするシーンがあったり、個性的な脇役たちのユニークな(?)行為に、主人公が「やれやれ」と言ったりなど、それはもう日本であって日本ではないお洒落なムードに包まれている。それに対し、深沢七郎の作品は正に対極に位置する内容だ。近代日本に存在したであろう事実を赤裸々に描き、そこには容赦のない客観的な視線が冷酷なまでに注がれている。代表作に『楢山節考』などがあり、深沢作品は当時の文壇に大きな衝撃を与えた。文庫本の解説によると、深沢七郎は今川焼屋をやったり流しのギター弾きなどをやっていた経歴があるそうだ。そういう背景のある作家だからこそ、作品には微塵の虚飾も感じられず、胸にズンズンと響いて来るような重みがある。『東北の神武たち』は、そんな深沢七郎が書いたに相応しい作品だ。ストーリーは暗く、因果な風習に驚きを隠せない。昔、東北の貧しい農村地帯では長男だけが嫁を貰うことが許され、次男三男は明神様の怒りを買ってしまうから嫁は貰えないという習わしがあった。そんな次男三男は、皆から“ヤッコ”と呼ばれた。ある時、村で久吉が亡くなった。久吉は今わの際で嫁に言い残した。それは昔、ヤッコが毎晩久吉の飼い犬(メス)を慰みにしていたので、その犬を殺してしまったこと。さらには久吉の父がまだ生きている時、娘(久吉の妹)を孕ませにヤッコが毎晩忍び込んで来るので、怒った父がヤッコを撲殺してしまったことだった。久吉は、自分の病がそんなヤッコ達の怨霊による祟りだと言うのだ。だからその怨霊を鎮めるために、久吉が亡き後、嫁が毎晩順番に村のヤッコたちを回って慰みものになるようにという遺言だった。嫁は、「心配するごたねぇ。きっと、罪亡ぼしをするから」と言ってそれを聞き入れるのだ。いや驚いた。なんという退廃的な因習があることか。これと言った娯楽のない貧しい農村地帯では、男女の交わりこそが究極の快楽だったのか。作中、自分の順番が回って来るのを今日か明日かと待ちわびるヤッコの姿が描かれているのだが、ちょっとおぞましい。お洒落な小説には付き物の愛とか恋とか、そんな抽象的な感情は存在しない。あるのは女と交わることへの興味と欲望のみだ。さらに、隣人が不必要な“水っ子”を田んぼに捨てて、「あんなとこへ捨てて、困るじゃねぇか」と怒る田んぼの持ち主。どちらも“水っ子”の人権など考えやしない、良くて田んぼの肥やし、悪くて腐ったゴミ扱いだ。昔は避妊という観念がなく、生まれてからの処分だったようだが、この“間引き”は余りにも陰惨で絶望的な感情を伴う。現代を生きる我々にとっては、とうてい考えられない行為だが、もう言葉としての感情は出ない。とはいえ、深沢七郎の小説にはとやかく言うほど悲壮感はない。男女の交わりも何てことはなく通り過ぎていくし、間引きも当然のように描かれている。我々人間は、ヒトである前に動物だったことを思い出させる衝撃の逸作としか言いようがない。『深沢七郎コレクション』より「東北の神武たち」深沢七郎・著☆次回(読書案内No.49)は天童荒太の『永遠の仔』を予定しています。コチラ
2013.03.06
コメント(0)
【群ようこ/三人暮らし】◆独身女性3人がシェアして暮らす生活群ようこのエッセイは本当におもしろい。どれを取ってもハズレのないエッセイを書き続けるエッセイストは珍しい。初期のころのものだが、『鞄に本だけつめこんで』などブックガイドになっていて、とても参考になった。私はこの群ようこのエッセイを読んで、川端の『山の音』を読んだり、谷崎の『瘋癲老人日記』を読むきっかけを与えられたのだから、それはもう感謝の一冊となっている。他にも、『無印良女』や『財布のつぶやき』などどれも最高にして傑作のエッセイばかりだ。そんな群ようこは小説も書いているのだが、エッセイストとしての看板を背負った彼女が好きなので、どうも小説の方は敬遠していた。それでもと思って読んでみたのが『三人暮らし』だ。うん、なかなかいい。様々な人生を背負った独身女性が3人集まって、シェアして暮らすという物語だ。女性のパターンはいろいろで、例えば78歳同い年の3人の老女だったり、母とリストラされた娘2人だったり、職場の同期入社のOL3人だったりする。そういういろんなパターンの女性3人の物語が短編で、10篇収められているのだ。現代社会では、共白髪になるまで夫婦睦まじく老後を過ごすという考えが揺らぎ始めている。一生シングルを貫き通す人もいれば、夫のリタイアと同時に熟年離婚という例もあり、老後のライフスタイルは多様化している。そんな中、どんな生活形態がベストなのか、まだまだ未知数だし、結果として本人が満足ならばそれで構わないという状況である。『三人暮らし』の中に「三人で一人分」という作品がある。78歳の女性ら3人がマンションを購入して一緒に暮らすというお話だが、ものすごく前向きで愉快だ。もともと3人は戦後タイピストとして働いて来た職業婦人だ。いわば女性たちの憧れの的で、一線で活躍して来たものの、寄る年波には勝てず、今は体力やトイレを気にして旅行にも出かけられないし、美容院も節約と称して行かなくなってしまった。だがこのままではいけない、まだ足腰の立つうちにと、旅行の計画を立て始めるのだった。私が好感を持ったのは、いくつになっても女性は女性で、美容院で髪をセットしてもらい、お化粧を施してもらうと、パッと華やぐシーンだ。奮発してデパートで洋服や靴を購入するところなども、読んでいて自分のことみたいに気持ちが明るくなってしまう。さて旅行に出かける日の朝、「尿漏れバッド、持ちましたね」と確認し合う3人の女性の会話が可愛い。こういうほのぼのとした物語は、下手な恋愛小説よりよっぽど魅力的だ。さすがは群ようこだ。エッセイの中に感じていた格調高く優雅なムードは、小説の中にも爽やかに感じられる。厭味がなく優しいお話がたっぷり詰まった小説だ。『三人暮らし』群ようこ・著☆次回(読書案内No.48)は深沢七郎の『東北の神武たち』を予定しています。~読書案内~ その他■No. 1取り替え子/大江健三郎 伊丹十三の自死の真相を突き止めよ■No. 2複雑な彼/三島由紀夫 正統派、青春恋愛小説!■No. 3雁の寺/水上勉 犯人の出自が殺人の動機?!■No. 4完璧な病室/小川洋子 本物の孤独は精神世界へ到達する■No. 5青春の蹉跌/石川達三 他人は皆敵だ、人生の勝利者になるのだ■No. 6しろばんば/井上靖 一途な愛情が文豪を育てる■No. 7白河夜船/吉本ばなな 孤独な闇が人々を癒す■No. 8ミステリーの系譜/松本清張 人は気付かぬうちに誰かを傷つけている■No. 9女生徒/太宰治 新感覚でヴィヴィッドな小説■No.10或る女/有島武郎 国木田独歩の最初の妻がモデル■No.11東京奇譚集/村上春樹 どんな形であれ、あなたにもきっと不思議な体験があるはず■No.12お目出たき人/武者小路実篤 片思いが片思いでない人■No.13レディ・ジョーカー/高村薫 この社会に、本当の平等は存在するのか?■No.14山の音/川端康成 戦後日本の中流家庭を描く■No.15佐藤春夫/この三つのもの細君譲渡事件の真相が語られる■No.16角田光代/幸福な遊戯 男二人と女一人の奇妙な同居生活を描く■No.17室生犀星/杏っ子 愛娘に対する限りない情愛■No.18織田作之助/夫婦善哉 大阪を舞台にした男と女の人情話■No.19谷崎潤一郎/痴人の愛 この人物の右に出る者なし。日本の誇る最高の文士。■No.20車谷長吉/赤目四十八瀧心中未遂 生への執着は、性への執着でもあるのか■No.21松尾スズキ/クワイエットルームにようこそ 平成に新しい文学が登場■No.22川上弘美/神様 現代における女性版カフカ?!■No.23丸谷才一/鈍感な青年 男女の営みは滑稽なもの■No.24宮本輝/流転の海 第一部 戦後の混乱期を生きる日本人の底力を見よ!■No.25岩井志麻子/ぼっけぇ、きょうてぇ 女郎が寝物語に話す、身の上話■No.26柳美里/水辺のゆりかご 包み隠さず書くのは勇気なのか、それとも・・・?■No.27宮尾登美子/櫂 妻は黙って亭主に傅くのみ。殴られても蹴られても耐えるべし■No.28向田邦子/阿修羅のごとく いくつもの顔を持ち合わせているのが女なのだ■No.29樋口一葉/にごりえ 明治の娼妓のコイバナ、そして人情沙汰■No.30南木佳士/阿弥陀堂だより 信州の自然美に触れて生き返る■No.31東川篤哉/謎解きはディナーのあとで エンターテインメント性重視、ポップでライトなミステリー小説■No.32辻仁成/ピアニシモ 25歳ぐらいまでに読んでおきたい青春小説■No.33田口ランディ/コンセント 引きこもりをテーマにした社会派小説をねらうも、結果オカルト小説■No.34沢木耕太郎/無名 最愛の父を看取るまでを淡々と語る■No.35浅田次郎/月のしずく エンターテインメント性バツグン! ドラマチックなラブ・ストーリー■No.36有吉佐和子/香華 花柳界に生きた母娘の愛憎劇■No.37田山花袋/蒲団 男の嫉妬、男の哀しさを赤裸々に描く■No.38連城三紀彦/恋文 嘆きとせつなさは、恋愛小説の醍醐味■No.39重松清/エイジ もしもクラスメイトが通り魔だったら・・・?■No.40大崎善生/パイロットフィッシュ おしゃれで、どこか老成した主人公「僕」の語り口調■No.41小川糸/食堂かたつむり 癒しを求めて何となく手に取る小説■No.42中島敦/山月記 声に出して読みたい小説■No.43瀬戸内晴美(寂聴)/美は乱調にあり まともな死に方しないと言い放つ女■No.44渡辺淳一/君も雛罌粟われも雛罌粟 夫に恋い焦がれてパリまで向かう■No.45有川浩/阪急電車 列車内でくり広げられる一期一会■No.46綿矢りさ/蹴りたい背中 自意識過剰な女子高生を冷静に見つめる
2013.03.02
コメント(0)
【天使のくれた時間】「ジャージーに家が(あるんだ)。子供はアニーとジョシュ。アニーはバイオリンを習ってる。ませてるけどそれは頭のいい証拠だ。笑うと・・・ジョシュの目は君にソックリだ。まだ話さないけど、絶対に利口だ。目をパッチリ開け、じっと見てる。顔に出てるんだ。新しい何かを勉強してることが。奇跡を見てるのさ。家は汚いけど僕らのものだ。あと122回でローン終了。君は・・・無料の弁護士、そうだ、完全に非営利でやってる。でも君は平気だ。(僕らは)愛し合ってる。」やっぱりこういうラブ・ファンタジーな作品はアメリカ映画に限る。こんなパラレルワールドが現実にあったらなぁと思わせるテクニックは一流だ。ニコラス・ケイジもこういう役どころを楽しんで演じているのがありありと感じられる。 洗練された都会のビジネスマンと郊外に家を持ち、妻と二人の子供に恵まれた平凡な家庭人を見事に演じていた。一心に愛を語るシーンと、本当に大切なものは何かに気付いたニコラス・ケイジの表情に注目。胸が熱くなるような切なさが滲んでいるのだ。ニューヨークのウォール街で、大企業の社長として悠々自適の生活を送るジャック。クリスマスイブだというのに遅くまで仕事をこなし、帰路につくが、途中スーパーにエッグノックを買いに立ち寄ったところ、黒人青年が店員ともめている現場に遭遇。黒人青年は、当たり宝くじ券を換金してもらえない苛立ちからついに拳銃を取り出す。 そこでジャックは、店に代わってその当たり宝くじ券を買い取ることにする。本作では、不思議な黒人青年が“天使”の役割をしている。イブの夜に与えたジャックの施し、やさしさへの恩返しという形を取っている。ジャックは地位も名誉も手に入れ、これ以上欲しいものなどないはずであった。だが、それは心のどこかで感じていた寂しさや孤独から逃れるため、無理にそこから目を背けていたに過ぎない。表面的には二者択一が物語のテーマになっているかのように思われるかもしれない。しかし、それは違う。愛する人を手放してはいけないという忠告だ。莫大な財産も、社会的な地位も、夢を分かち合う相手があってこそのものではないか。 愛する人がいなければ、我々は孤独の闇に埋没してしまうに違いないのだから。2000年公開【監督】ブレット・ラトナー【出演】ニコラス・ケイジ、ティア・レオーニ
2013.03.01
コメント(0)
全21件 (21件中 1-21件目)
1