全30件 (30件中 1-30件目)
1
【萩原葉子/蕁麻の家】◆萩原朔太郎を父に持つ子の波乱の人生ゴシップ好きの私はこれまでにあまたの私小説を愛読して来た。誰もがそうだと思うが、リアリティーを感じた時、その小説に深い共鳴を覚えるからだ。 主人公と共に泣き、共に考え、共に笑う。それほどどっぷりと浸かった読書が、果たしてまっとうなものなのかは自分だと判断できないが、少なくともそこから得られたカタルシスは上質なものであると信じている。『蕁麻の家』についての感想を言う前に、この私小説の背景をざっと紹介しておきたい。 主人公の「私」は、著名な詩人である萩原朔太郎の長女である。物語は、その父を洋之介という名前で話をすすめる。母は、子どもたちを置き去りにし、若い男と駆け落ちしてしまった。「私」には、知的障害者の妹が一人と、虐待をくり返す祖母・勝がいた。この背景を知っただけで、私などはすでに救いようのない憂鬱さを感じてしまった。一般的に孫の存在というものは、息子・娘より可愛く、手放しで甘やかしてしまうというのはよく聞く。ところが「私」の祖母は、孫に対する虐待は日常茶飯事で、それを知っているはずの父・洋之介も知らんぷりなのだ。もちろん娘をかばうことなど一切しない。とにかく「私」に対して無関心なのだ。もしかしたら執筆に余念がなく、我が子を顧みる間もなかったのかもしれない。それにしても、、、それにしても父親としての意味、存在意義があまりにも希薄ではないか。そんな背景をふまえつつ、あらすじも紹介しよう。「私」はいつも孤独を感じ、話相手のいない寂しさを抱えていた。家では祖母に虐待され、知的障害を持った妹とは意思の疎通がかみ合わず、度々やって来る麗子(叔母)から悪口や厭味を言われ、日々は暗澹として暮れてゆく。そんな時、氏素性の知れない年の離れた岡という男に声をかけられ、初めて人間らしい会話を交わしてもらえたことで、「私」は体を許してしまう。その後、「私」は岡の子を妊娠。ところが「私」の一族は岡との結婚はもちろん、出産には猛反対。(この時、父・洋之介の反応はない。無関心である。)岡は、どこで知り得たのか「私」の父が著名人であることをかぎつけ、脅迫して来る。(岡は博打で、年中、金に不自由していたらしい)「私」は祖母たちから堕胎を迫られるものの、産婆によるとすでにその時期を過ぎているため、堕ろせないとのこと。「私」は覚悟して出産に望むのだが、結局、死産であった。いろんな私小説があるけれど、これほどまでに凄惨な展開の自伝があっただろうか?とにかく救いようのない少女時代である。どんなにうがった見方をしても、脚色したものとは思えず、全て著者の冷静で客観的な視点から語られたものとしか捉えようがない。苦悩、苦悩そしてまた苦悩。この小説に感じるのは暗く、憂鬱な青春期と、家族に対する不信感である。それなのに最後の数ページで「私」は初めて父の存在により救われる。始終、凄絶な苦闘のくり返しなのかと思いきや、最後の最後に来て一条の光が射し込むのを見る。考えてみれば、父・洋之介も不幸な人である。詩人としては成功したけれども、私生活では、、、まず、妻が若い男と駆け落ち同然で逃げてしまう。さらには、長男でありながら母親に頭が上がらず、やりたいほうだい勝手ほうだいをさせていた。(一家の実権は、完全に洋之介の母が握っていた)二人いる娘のうち下の娘は知的障害者で、当時としてはどうにも手の施しようがなく、成り行きを見守るしかない。そうかと思えば今度は上の娘がどこの馬の骨とも知れないゴロツキの子を宿し、しまいにはその男から金の無心までされてしまう。これまで無関心を装って来たさすがの洋之介もこれにはホトホト参ってしまい、体調を崩し、死の淵を彷徨う。「見よ! 人生は過失なり」(萩原朔太郎『新年』より)さすがは詩人。己の絶望でさえ詩に託すのだから。それはともかく、萩原葉子の硬質でメリハリの利いた文章に、やはり父親のDNAを感じないではいられない。涙なしには読了できないほどに、過酷な人生の記録である。『蕁麻の家』萩原葉子・著☆次回(読書案内No.102)は俵万智の「トリアングル」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.11.30
コメント(0)
とこしへに同じ枝には住みがたき身となりぬらしおちばと落葉 与謝野晶子落葉が見事だ。禅刹では雲水が淡々と落葉をはき集めていた。その姿は風景のひとつであった。落ちる葉と、はき集める僧が、「空」という相の中で一体となっているように見えた。森閑とした禅刹らしい風景に引き込まれ、私はしばし時を忘れたのだ。しかしだ、「空」なる落葉もいいが、しっとりした「艶」なる落葉もまた一興だ。晶子さんは「空」の反対側で燦然と輝くのだ。この歌は、色っぽいなぁ、と思わないではいられない。ゾクゾクとする。そして『おちばと落葉』、こういう技法は歌の中では風景のひとつになり、自然とため息が出てしまう。晶子さんの境地や、もはや禅刹の雲水と同じなのだ。晶子さんもう一首。落葉憂し生きたる苔にはばまれて石の質なる霜におされて晶子さんご本人は、何に「はばまれ」ても成し遂げられた。そこが素晴らしくも凄いところであり、こうやって後世まで名を残す所以なのである。ときに我が友人は「落葉といえば奥村チヨでしょ!終着駅が最高だね。」また別の友人曰く「落葉なら、O・ヘンリーの最後の一葉だと思う。」古刹の落葉、おちばと落葉、そしてカラオケの落葉に最後の落葉と落葉にもいろいろあるようだ。週末は里山で本年最後の落葉三昧に興じてみようか。
2013.11.29
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】紅白(こうはく)歌合戦の出場者が決まると、つい、「知ってる歌手探(さが)し」をしてしまう。最初は知らない歌手を数えていたのだが、とっくに逆になった。 名前や顔どころか、読み方の分からない出演者までいる。泉谷(いずみや)しげるさんは知っているが、なぜ今ごろ初出場なのか、さっぱり分からない。どんどん時代に置いていかれるのか、それともはやり歌の世界がせわしなさ過ぎるのか。 かつては視聴率(しちょうりつ)80%、「国民的行事」といわれた歌番組である。もう、そんな言い方はなじまない。歌合戦に対する熱気(ねっき)は薄(うす)れたが、それでもこの国は「国民的」が好きである。国会では特定秘密保護(とくていひみつほご)法案を巡っても、盛んにその言葉が飛(と)び交(か)った。 賛成派は、法案は「国民的」理解を得たと主張する。反対派は「国民的」議論がまだ必要だと反論する。ダシに使われる方は、たまったものではない。まるで、どっちの主張にも賛成する、いい加減な「国民」だらけだというのだろうか。 自分たちの主張を、都合よく「国民的」と言い換(か)える悪い癖(くせ)なのだろう。世から世、人から人へ、心を打つ流行歌も、心を腐(くさ)らせる詭弁(きべん)も受け継がれていく。(11月26日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~実に妙である!連日の北國新聞なのだ。時鐘氏のコラムは冴えが増す。まるでこの冬一番の寒気に沿うようだ。正論であることはもとより、紅白歌合戦から国会にもってゆく妙は第一級である。眼目はここだ。『自分たちの主張を、都合よく「国民的」と言い換える悪い癖なのだ』正鵠を射る。まさにこの一文のためにあるのではないだろうか。ちなみに、社論を世論に摩り替えるのはA新聞の常套手段なのだが、それをして時鐘氏は『心を腐らせる詭弁』と言ったのであろうか。ひとつ聞いて見たいところだ。ご参考まで、同日のA新聞のコラムにこうある。『安倍政権の本来の性格がはっきり出てきた』激烈に断じるわけなのだが、『本来の性格』というのは『自分たちの主張』に他ならない。そしてそれこそA新聞の『本来の性格』であり、それを自ら『はっきり出』してしまったことになるのだが・・さらにご参考まで、A新聞は第一次安倍内閣の時に『安倍内閣の葬儀はうちで出す』と言い放ったそうだ。だとすると、それがA新聞の『本来の性格』である。ともかくも、『国民的』と言われた多くの人々は、『ダシに使われる方は、たまったものではない。』そう思っているのだ。そしてここからが時鐘氏の面目躍如なのだ。氏の大人たる所以はここでわかる。ただしわかる人にだけだ。泉谷しげる。あたりかまわず人目はばからず言いたいことを言いまくる、この悪口はなはだしい初老のおっさんは、きっと時鐘氏と同年代のはずだ。されば時鐘氏、泉谷のおっさんにホンネを託し読者にそれを伝えたかった、私はそう思うのだ。『たまったものではない』きっと泉谷のおっさんなら『バカヤロー、クソ食らえ!』そう言ったはずだ。時鐘氏が泉谷のおっさんに託したホンネであり、時鐘氏の第一級の大人たる所以である。このごろの新聞には辟易した人も多いことであろう。『いい加減な「国民」だらけだ』新聞のそういう見下す姿勢を「国民」はちゃんと見て取るのだ。侮ってはいけない。そして特定秘密保護法より新聞の行く末を案じてやまないのは私だけであろうか。私にとって時鐘氏は最後の番人であり、新聞の未来を託せるただ一人である。時鐘氏には北陸の北風に立ち向かうがごとく、常に気炎万丈でいてほしい。ますますのペンが冴え渡ることを願ってやまない次第である。頑張れ北國新聞、時鐘!
2013.11.28
コメント(0)
【北國新聞 時鐘】断じて、お世辞(せじ)でも皮肉(ひにく)でもない。ケネディ新駐日米大使の顔のしわに、飾(かざ)らない自然な美しさを覚(おぼ)える。 女性の化粧術(けしょうじゅつ)には不案内だが、巧みな「修復法(しゅうふくほう)」は山ほどあって、それに金を惜(お)しまぬセレブも結構いるそうな。だが、もとより、年齢を重ねてしわを刻(きざ)むことは、しくじりでも恥(はじ)でもない。隠さない方が自然だし、本物である。 しわを取り上げるなど、女性に対して失礼なのかもしれないが、大切な自然な美しさを教えてくれる人もいる。意志の強さを目尻に刻んだサッチャー英元首相のしわも、そうだった。 加賀藩3代藩主の前田利常(まえだとしつね)は「鼻毛(はなげ)の殿様(とのさま)」として有名である。鼻毛を伸ばして「バカ殿」を装(よそお)い、幕府(ばくふ)を油断(ゆだん)させたというが、本当だろうか。鼻毛の手入れを忘れるほど政務(せいむ)に励(はげ)んだ人、鼻毛ごときで百万石(ひゃくまんごく)の威信(いしん)は揺(ゆ)るがないという信念(しんねん)の人だったようにも思える。幕府にしても、鼻毛1本で警戒を解(と)くほど、甘いはずはない。 人目をはばからず化粧する女性の姿をよく見る。美しく装うつもりで、情けないことに逆のことをしている。新駐日米大使の目に止まらないことを願いたい。(11月25日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~このごろは下火になったが名門ホテルや一流百貨店、或いはレストランでの食材偽装が話題となった。件数の多さや法的に抵触しないこと、何より他の事故や事件が数多あり、意外なほどあっけない結末となった。すでに遠い過去の話である。そのさなかにずっと思っていた事がある。昨今流行のアンチエイジングやカツラも「偽装」ではないのだろうか。四十五歳のご婦人が二十五、六に化けるの年齢詐称ではないのか。年齢を重ねて薄くなった頭髪をカツラで覆うのは粉飾ではないのか。愚にもならないとは思いつつも、そんなことを考えていた。そんな折に時鐘氏はコラムで喝破してくれた。我が意得たりの気分で膝を打った次第だ。『年齢を重ねてしわを刻むことは、しくじりでも恥でもない。隠さない方が自然だし、本物である。』そうだ、その通り!だから、『ケネディ新駐日米大使の顔のしわに、飾らない自然な美しさを覚える。』全くその通りで、痛快な気分を覚える。ときに彼女は着任早々の25日、東北の被災地を訪問したという。画像はその時の様子だ。※Sankei Photoより初日はグレーのスーツ、二日目は黒のスーツに身を包んでいた。そして「顔のしわ」である。間違いなく多くの国民が彼女に好感を抱いたことであろう。だがしかし、である。そうなると話は別なのだ。(話題が変わります!)唐突だが、時代劇ならさしずめこういうセリフが出てくるほずだ。「親分、ありゃぁ食ぇねぇアマですぜ!」もしくは「親分、あのアマぁ、ソウトウなもんですぜ!」忘れてはならないのは、それは単なる「見た目」でり眼前の表層の一部にすぎないのだ。彼女の内側である人格や職務たる任務の内容について、我々はその本質を何も知らないのだ。つまり、我々はそう思い込んでいる、ということなのだ。別に彼女を疑っているわけではなく、現実と感想を分離したまでのことだ。問題を最初に戻す。これはレストランの食材偽装と同じではないのか。有名な産地から直送した食材を使ったカタカナ名の料理は見目麗しい。だから我々は信じて疑わなかったはずである。もう一度いう。我々はそう思い込んでいる、そういうわけだ。大切なの事は、今我々が目にしているものは本質とは限らない、ということだ。それから己が身を省みるとき明白になるはずだが、人は大いなる多面性をおびた生き物なのだ。個人的な次元でもそうなのだから、そこに社会的な役割(仕事や立場など)が加われば、その多面的なことは言わずもがなである。ある一面を見てすべてを判断することは、とても大きな危険をはらんでいるということを忘れてはならない。加えてその判断は、感想や思い込みに過ぎないということだ。そしてもうひとつ。これも忘却の彼方かもしれないが、彼の国による盗聴事件はつい先日の事である。私は間諜の必要性を認めるし、国家の平和を維持していくためには盗聴は間諜における必要欠くべからざる戦術だと思っている。故に私は彼の国に敬意を表し、それについて異を唱える方々を平和ボケと断じる。しかしながら、アメリカ合衆国がそれを粛々と実行する国家である、という事実も忘れることはない。同盟国たる彼の国は、そういう国家だということなのだ。さて、26日の産経新聞で目についた「タイトル」がある。『憲法守って国滅ぶ』これは核心をついた。本質である。何はともあれ、食材偽装も駐日米大使も、その本質を見なければならないということだ。それが見えないときは、感想や思い込みで判断するのは避けたほうがいい、そういうことである。それにしても寒さが増して時鐘氏のペンは日々冴える。冬場が強いのは北陸の面目躍如であろう。ますますのご活躍を期待したい。
2013.11.27
コメント(0)
~篁牛人(たかむらぎゅうじん)、観音を描くまずもって篁牛人(たかむらぎゅうじん)については以前の記事をご覧いただきたい。渇筆画で知られた(かな?)牛人センセイではあるが、これはさにあらず。センセイ題して「観音様」という。あえて福田美蘭を並べてみた(笑)『家庭生活の営みを知らず、エゴイズムを丸出しにして、一つのことに賭け、それを押し通した男』牛人子は父をこう述懐している。この画はまさに上記を象徴している。そしてセンセイの不逞老人ぶりが限りなく凝縮するものである。画を見る限り健全さが持つ心地よい香りは微塵も漂うことがない。『家庭の営み』からは程遠い。『一つのこと』にとことん拘泥し『それを押し通した』牛人が画を通して見えてくるのだ。さて、『一つのこと』とは、とどのつまり篁牛人のフェチシズムに他ならない。それは豊満な女性へのただならぬ恋慕、つまり常ならざる肉への憧憬であり常軌を逸した執著であろう。私は「観音様」を前にして、まずはその足に目がいった。これは『富美子の足』ではないか。美術館で私はそう叫ぶところであった。『富美子の足』とは言わずと知れた谷崎潤一郎が描くところの小説である。テーマは即ち老人のフェチシズムである。盛り上がった肉付きよい足を見て私は確信した。小説では富美子の踵に踏まれながら昇天するご隠居がいる。※余談だが、「昇天」とはまさにこのためにある言葉だと三十年前に感得した。『死んでいく隠居には、顔の上にある美しいお富美さんの足が、自分の霊魂を迎える為に空から天降った紫雲とも見えたでしょう』不逞老人 篁牛人もそれを望んでいたに違いない。「観音様」の豊満な足に、この画の眼目をみとめ、私はそう確信したのだ。そうなると、この画に描かれたご婦人はどなたなのか。そして牛人との関係や如何に。めくるめく想像をかきたてられるのだ。ただ、そうはいっても牛人センセイは、実際のところ小説の隠居のように昇天することはかなわなかった。紫雲のごとき足からは程遠い老死だったようだ。ともかくも、篁牛人は筆を執る間は枯れてはいなかった。不逞老人というに相応しい御仁なののだ。そしてそれこそが氏の最大の魅力たる所以であろう。北陸新幹線は再来年の開通だ。篁牛人が脚光を浴びるかもしれない(はずないか・汗)。まずは再来年までは篁牛人を忘れないでいて欲しい。美術館で求めたポストカードを眺めながら、そう願うのであった。
2013.11.26
コメント(0)
一葉落ちて天下の秋を知る 淮南子落ちた葉もさることながら、残った葉にこそ天下の秋を知る今日この頃である。最後に残った一枚が木から離れる時、その長い人生を想うかその瞬間を想うか。或いは、逞しさと見るか潔さと見るか。人それぞれの人生観であり歴史観であり宗教観であろう。ときに「最後の一葉」といえばオーヘンリーの小説が有名だ。(太田裕美の名曲を挙げる方も人もいるか!)ふと思った。三島由紀夫が「最後の一葉」をテーマに書いたとしたら、それはオーヘンリーとはまったく異なった作品であったはずだと。きっと日本的な解釈の「最後の一葉」になり、さぞや傑作であっただろう・・・今日は三島由紀夫の命日である。三島の死を世間ではいまだに「衝撃的」というのだが、私はリアルタイムでそれに接し(もちろん報道で知ったのであるが)、そして思い続け、それは極めて「劇的」な死であったと解釈している。最後の一葉を眺め、私は三島への尽きないを想いを巡らすのだ。そして、我が身はどうしたものよ、と行く末を考える初冬の日なのであった。それはそれとして、落葉は石段までも覆いつくし、神社への道のりを別世界に変えていた。寒い冬が近いのに木はだんだんはだかになるああわかった葉を根に着せるのだ 香月泰男冬が来ると、人はだんだんと厚着になってゆく。反して木は葉を落としだんだん裸になってゆく。でも、人も木も同じ地球上の生き物なのだ。何とはなしに可笑しくなり、私は無人の境内で高笑いした。
2013.11.25
コメント(0)
【クロッシング】「聖ミカエル、戦う私をお守りください。悪魔の計略に勝たせてください。神が悪魔を退けますよう伏して願います。天軍の総帥、神の力によって、悪魔と悪霊を地獄に閉じ込めてください。魂が損なわれませんように」本作「クロッシング」の見どころは、何と言ってもイーサン・ホークの際立つ演技力にあると思う。無論、リチャード・ギアの淡々とした二枚目的演技や、ドン・チードルの生真面目で真摯な演技もなかなかだが、イーサン・ホークのとり憑かれたような迫真の演技は、他の役者さんたちを完全に食ってしまっている。それは見事で、目を見張るものがあった。作品は、リチャード・ギア、イーサン・ホーク、ドン・チードルたち3人が演じる警官の、三者三様の生き様が、ある時、成り行きで交叉するところまでを描いている。その3つのストーリーに、一体どんな意味があるのかは視聴者があれこれ想像を膨らませるものだが、興味深いのは、イーサン・ホーク演じる麻薬捜査官サルの人間性であろう。サルは、子だくさんで、妻はまた妊娠している。だが公務員の安月給では、妻子たちになかなか思うような良い環境を与えてやることができない。金さえあれば・・・と、サルの苦悩は、家族を愛するが故に追い詰められてゆく。敬虔なクリスチャンでもあるサルは、懺悔を繰り返しながらも、金のために、犯してはならない一線を越えてゆくことになる。サルの金に対する激しい欲望と、家族に対する優しい愛情との二面性、このギャップの描き方はお見事。舞台はN.Y.のブルックリン。スラム街で警官による強盗殺人事件が発生する。ニューヨーク市警は、マスコミを恐れて犯罪多発地区の見回りを強化する。定年退職を一週間後に控えたエディは、あまりの事件の多さと己の無力感からか、全てに事勿れ主義を押し通していた。そんな中、エディは危険地帯の見回りと新人警官の研修教育も任されるのだった。一方、麻薬捜査官のサルは、重いぜん息を持病に持つ妻と、子どもたちを抱えていた。 家族のために、庭付きの広い新居への引っ越しを考えてはいるが、サルの安い給料ではどうにもならなかった。また、黒人の潜入捜査官であるタンゴは、ストリート犯罪者の中に紛れ込み、内偵するという過酷なおとり捜査に従事していた。そのため、結婚生活は破綻し、心身ともに疲れ切ってしまうのだった。本作のメガホンを取ったのは、アントワーン・フークァ監督だが、代表作に「トレーニング・デイ」などがあり、イーサン・ホークも同作品に出演している。この監督の得意とするジャンルなのだと思われるが、正義の側に立つはずの警察組織の、暗い闇の部分を抉り出そうとしているのかもしれない。あるいは、警官と言えども人間であることの赤裸々な露出を試みようとしているのかもしれない。いずれにしても、全体的にトーンの低い犯罪サスペンスなのだ。2009年(米)、2010年(日)公開【監督】アントワーン・フークァ【出演】リチャード・ギア、イーサン・ホーク、ドン・チードル
2013.11.24
コメント(0)
【呉智英/現代人の論語】◆忙しい現代人必見!論語のアンチョコ本私は物事の概略を捉えることが先決だと考える派である。だから、旧約聖書や新約聖書などは聖書物語を読んで大筋を捉えれば良いと思う。中国の古典である『三国志』も、正史なんか読んだらチンプンカンプンだし、飽きてしまうので、岩波少年文庫から出ている『三国志』で充分楽しめると思うわけだ。何でもそうだが、物事はいきなり本質を見抜けるものではない。まずは外堀を埋めてから徐々に本丸へ乗り込むのが戦法というものであろう。つまり、概略を掴むことから始まるのだ。そこで、日本で最も親しまれている『論語』も、とくに面白いというか、興味深いところをダイジェストに扱った入門で、おおよそのところを捉えていれば良いのではなかろうか?本格的に学問として追究するというならいざ知らず、まずは案内書として呉智英の『現代人の論語』を一読することをお勧めしたい。もし、この入門を読了して益々興味を持ったという方には、吉川幸次郎、宮崎市定、貝塚茂樹らの訳した論語全編を攻めていくというのはどうだろうか? 呉智英によれば、学者によって微妙に解釈が違っていたりするので、その辺は自分の好みで好きな訳者の論語を読めば良いのでは?私が呉智英を知ったのは15年ぐらい前になるだろうか? 宮崎学の『突破者』を読んでいたら、登場した人物なのだ。呉智英は宮崎学と同じ早大法学部であり、マルクス主義の洗礼を受け、それは他に類のない博識だったとのこと。しかも「堂々たる美男子だった」と。呉智英の見事な発想と爽やかな弁舌に、かの宮崎学も一目置いているような節に、とても興味を持った。私は、そんな呉智英の著書を何冊か読んでみた。驚いたのはその読み易さと面白さだ。 今まで遠ざかっていたジャンルの読書が、格段に広がった。スゴイぞ呉智英、、、みたいな感覚である。呉智英は、今やマルクス主義ではない。孔子主義である。そしてその解釈は、私のような凡人にも噛んで含むように分かり易いものだ。そもそも論語というものは、「しばしば体制変革期にその拠りどころとなった」とのこと。つまり、クーデターを起こす際のバイブルとなったものなのだ。これは論語を知ることで、憑き物が落ちたように納得できることである。また、孔子は現世利益に関してとても合理的に考える。「もしもあなたが豊かで地位が高かったとしても、べつに恥じることではない」と言う。これが仏教だったらどうだ。「世俗の価値などみな空虚でとるに足らないものだ」と言うし、キリスト教なら「地上に宝を貯えてはならない」と言う。これらを比較してみると、一目瞭然。いかに孔子の思想が現実主義であるかが分かると、著者は言う。孔子の教えが一番、素直に受け入れられる生き方のスタイルではないか、と日本人ならほとんどの方々が思うに違いない。かの親鸞でさえ、論語からの思想を自分なりに解釈して民衆に教え、広めているのだから。余談だが、孔子の弟子の中に子路という人物がいるのだが、私はこの人物が大好きだ。 中島敦の『弟子』に登場するあれだ。この子路は内乱に巻き込まれて結局、非業の死を遂げるのだが、最期のセリフがカッコイイ。「見よ! 君子は、冠を、正しうして、死ぬものだぞ!」その後、子路の屍は塩漬けにされた。これを伝え聞いた孔子は、家じゅうの塩漬け肉の一切合切を捨てさせた、、、というくだりに、師の並々ならぬ悲哀と憤りを感じる。とにかく、呉智英の『現代人の論語』には知っておきたい論語の中のあれやこれやがギュッと凝縮されていて、ありがたい。この一冊を決して侮るなかれ! 知識と教養の宝庫なのだ。『現代人の論語』呉智英・著☆次回(読書案内No.101)は萩原葉子の「蕁麻の家」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』第2段はコチラから
2013.11.23
コメント(0)
【福井新聞 越山若水】戦前戦後の少年たちが「赤バットの川上」とあこがれ、その大打者ぶりから「打撃の神様」と尊敬されたプロ野球元巨人の川上哲治さんが先月93歳で亡くなった。 数々の名セリフの中で最も有名なのは「球が止まって見える」だろう。投手の投げたボールが目の前でピタリと止まる。だからいとも簡単に打ち返せたという。 そんなことが本当にあるのか、誰もが首をひねる。しかし不可能ではないらしい。中国文学者、高島俊男さんの「お言葉ですが…第11巻」(連合出版)で教わった。 科学者の寺田寅彦は「空中殺人法」という文章で、練習次第で1秒の時間をうんと長くできると書いている。現に、かつての水上武術で達人ともなると、船から水面に落ちる間に敵を仕留めたそうだ。 自身も同じ経験をしたという。天文観測を始めたころは、望遠鏡の星はすぐに視界から消えて行った。しかし慣れるに従って星が段々ゆっくり見えて来たと寺田は述懐する。 高島さんは、ゾウとネズミの寿命の長短について実は双方の時計が違うだけという説を紹介。動物と同じく人によって1秒の長さも異なると推理する。 本人が慣れていることを他人がやると「ひどくのろく見える」のは、自分の1秒が他人の3秒に匹敵するからだと納得する。「球が止まって見える」かどうかはともかく、何事も習練が大切なのは間違いなさそうだ。(11月20日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~真理が説かれた。大上段でなく、サラッと書かれたことが有り難い。『本人が慣れていることを他人がやると「ひどくのろく見える」のは、自分の1秒が他人の3秒に匹敵するからだ』年齢を積み重ねるほどにこなれて傾聴する姿勢も(多少は)身についた。そうなると周りは真理の山だと理解した。1秒の違いの所以は『双方の時計が違うだけ』たったそれだけの事である。その真理がわからずに、目くじらを立て文句を言いまくってきたわけだ。これ即ち徳薄重垢という。この道理もまさに真理であり、我が身を持って真理に浸っている、嗚呼。それはそれとして、テレビで加治屋さんの作業を見た。コラム氏の言う『習練』であり、その世界では『鍛錬』という。余談に曰く、鉄は熱いうちに打て。またまた曰く、ヤキを入れる。徳薄重垢の身が最近学んだことがある。『久修業所得』偈(経典)の一言にこうある。書き下し文はこうだ。『久しく業を修して得る所なり。』そして和訳はこうだ。『過去に行をおこなって獲得したのである。』※中村元先生による。仏様とはいえ行を積まれた。いわんや凡夫をや、と言うことなのである。コラム氏はいみじくも結べり。『何事も習練が大切なのは間違いなさそうだ。』人を見て一喜一憂するのは虚しい。そして人との比較は不毛だ。自分がどうなのか、ただそれのみを考えていたい。自分は努力を惜しむことはなかったか、繰り返しそれを問いながら進んでいこう。
2013.11.22
コメント(0)
【日本経済新聞 春秋】おばあさんの皺(しわ)のよりかたにもいろいろあるらしい。縦の皺なら唐傘。縦横なら縮緬(ちりめん)。そしてもっぱら横だと提灯(ちょうちん)ばあさんと言うんだという。昭和の名人古今亭志ん生なら「そんなこたあ学校で教えてくれませんな」とやりそうだが、最近聞いた落語のなかの話である。 金を無心にきたと勘違いされた若い衆が「金貸してくれの提灯のってわけじゃねえ」と啖呵(たんか)を切るのも落語で耳にした。こうなるともうなぜ提灯なのかも判然としない。ともかくも、提灯が暮らしの身近にあった名残である。いま、飲み屋の赤提灯と並んで気を吐くのが、東京・浅草寺雷門の大提灯ということになろうか。 一昨日お披露目されたのが6代目。高さ3・9メートル、直径3・3メートルの巨体をつくったのは京都の老舗、京都・丹波の竹や福井県の和紙を材料にした工芸品でもある。「提灯に釣り鐘」といえば、重さが違いすぎることから縁談などが釣り合わないときに使うたとえだが、700キロというのは提灯としては破格の重量であろう。 病気快癒のお礼に松下幸之助が寄進したことに始まるというこの大提灯、今回もパナソニックが奉納した。ただ、はめ込まれた銘板にはこれまで通り旧社名の「松下電器」とある。どちらでもいいようでも、「松下」のほうが由来が分かるし、和風だし宣伝臭さがない。提灯を持ちたくはないが、持たなくてもそう分かる。(11月20日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~パナソニックもオツなことをする。浅草には「松下電器」の方が似合っている。それにしても日経も粋ではないか。コラム氏の熟れたペンが冴え渡る。こういうコラムを目にすると実に清々しい。そしてまた新聞コラムの結びについておおいに考えさせられた。提灯を持ちたくはないが、持たなくてもそう分かる。これは一流だ。よくあるのが、時流時分の話題を上手に引いて、結びで政治を綴るやり方だ。あれは野暮で興ざめ。ペテンまがいの文章は三流というものだ。コラム氏は話題をたとえ話として使うのであろうが、そういう方法は読者を馬鹿にしている。たとえなど引かなくともわかるのだ。言いたいことはストレートに言ってほしい。最初から読まないから(笑)ときに提灯、落語とくれば五代目 柳家小さん師の十八番に『提灯屋』がある。登場人物が多く、場面も入れ替わりするため、表現を得意とする小さん師にはもってこいの演目なのだ。掛け値なしに面白い。そしてこのサゲは愉快だ。いわゆる「とんち落ち」である。ややあって、なるほど、とうならせ高笑いを誘うという次第だ。サゲは文章でいえば結び、つまりは落語もコラムもサゲが命、そういうことなのである。秋の夜長に書物を置いて落語に興じてみてはいかが?秋夜の落語は値千金、かもよ。
2013.11.21
コメント(0)
【秋田魁新報 北斗星】男鹿市で撮影されたJR東日本のCMで、吉永小百合さんは「なまはげは鬼でなく、神様だった」と語った。佐竹敬久氏に当てはめれば「知事であり、殿様だった」となろうか。先ごろ全国放映が始まった「龍角散」のCMのことだ。 殿様役の佐竹知事が、香川照之さん扮(ふん)する医師の作ったのど飴(あめ)で快癒し、褒美に薬草畑を与える内容。香川さんは同社が生薬栽培の協定を結んでいる八峰町でロケを行った。美郷町と協定を結んでいることも字幕で説明される。 知事は佐竹北家の21代当主。同社社長の祖先は佐竹氏の藩医を務め、現在の美郷町に住んでいた。八峰町出身で同社元役員の加賀亮司さん(67)=千葉市=が知事出演に一役買うなど、藩政期の縁、県人の縁が栽培連携やCM制作に結び付いた。 映像ではこんな背景は伝わらないから「なぜ秋田の知事が?」という声も多いだろう。知事の企業CM出演に対する意見はいろいろありそうだが、いまのところ話題性が先行しているようだ。 ともあれCMで「水の国」とされた本県の水の清らかさをPRできるのはありがたい。生薬栽培に意欲を示す県外自治体も多いが、加賀さんは本県での一層の栽培振興に努めてくれるというから心強い。 さて褒美を与えた殿様には、生薬の産地確立に向けた振興策を引き続き打ち出してほしい。八峰町で育つ生薬カミツレの花言葉は「逆境に負けない強さ」。マイナスの指標が多い本県に、いま最も欲しい植物ではないか。(11月19日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~何はさておき秋田県知事に謹んで敬意を表したい。コラム氏の書くが如く、初めてCMを見た時は「なぜ秋田の知事が?」そう思った。CMでナニかしらのテロップはわかったが内容までは把握できなかった。しかしCM自体はインパクトがあった。製作者の思考やインテリジェンスが伝わった。そして品のよさを感じ、大人気のある作品に好感を抱いた。余談であるが老父はさっそく龍角散を買い求めていた。「ゴホンといえば龍角散、冬はこれに限る。」ということだ。効果覿面である。CMの所以はそういうことか。コラムによりこうして判明すると、胸のつかえが降りたようで晴れがましい。そして勇気ある知事に「サスガは秋田県」という想いを抱かないではいられない。何よりそういう風土たる秋田に畏敬の念を抱くのだ。そして羨んでいる。後世畏るべし。それにしても秋田は凄いのだ。何が凄いのかは初夏の記事(コチラ)と初秋の記事(コチラ)をご覧いただきたい。そして今回はさらに凄さが加わった。世が世なら秋田知事はやんごとなきお家の主というではないか。こういうのを大人の洒落として使わないほうはないのだ。経緯はわからないが、そこに加わったのは知事の英断だと思う。他所の人間は間違いなくそれを「勢い」と見る。仏語に「いま為すべき事を為せ」とあるが、私は知事の為すべき事だと確信する。アベノミクスは2014年中には成熟のピークをむかえることであろう。秋田はきっと高笑いしているはずだ。もちろんCMの件だけではない。秋田がいままで粛々と描いてきた図面は、大画として世に出ることは間違いない。コラムを読んで確信した。その所以は秋田が「逆境に負けない強さ」それを常に持ち続けているからではないか、コラムを読み秋田県民の心胆はここにある気がしたのだ。比較するつもりはないが、我が住むところの知事に期待することは何もない。コチラが望まなければアチラも何もしない、だから波風は起きずそこそこの人気はある。これを平和と独りごちても空しいばかりだ。だからなおのこと秋田が羨ましく知事の人物を想はないではいられないのだ。願わくは・・・いわゆる抵抗勢力やなんでも反対団体は必ずいる。よく見る「世論調査」でも、その手の輩が5%程度はいるはずだ。知事はそういう輩に負けないでほしい。それを願いつつ、遠地より秋田県民と秋田県知事にエールを送りたいと思う。
2013.11.20
コメント(0)
【適菜収の賢者に学ぶ】~「正しい歴史認識」とは何か?~韓国大統領の朴槿恵が、就任以来日本に対し「正しい歴史認識を持つべきだ」との要求を続けている。国連事務総長の潘基文も、日本と中韓の対立について「政治指導者は正しい歴史認識を持ってこそ、他国から尊敬と信頼を受けられる」などと述べている。それでは「正しい歴史認識」とは何か?歴史家のエドワード・ハレット・カー(1892~1982年)は、歴史とは「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』)であると述べている。「事実はみずから語る、という言い慣わしがあります。もちろん、それは嘘です。事実というのは、歴史家が事実に呼びかけたときだけ語るものなのです」(同上)シーザーがルビコン河を渡ったのは歴史的事実とされている。しかし、それは歴史家が厖大(ぼうだい)な「事実」の中から恣意(しい)的に選び出し、脚色したものである。それ以前にも、それ以後にも、ルビコン河を渡った人間は星の数ほど存在したはずだが、彼らについての資料は存在せず、誰の関心を惹(ひ)くこともない。歴史家の選択や解釈から独立した「歴史的事実」など存在しないとカーは言う。都合のよい事実を選択し配列すれば「正しい歴史認識」などいくらでもつくることができる。つまり、「正しい歴史認識」なるものが存在するというのは、あまりにナイーブな、もっと言えば子供じみた考え方なのだ。 カーは、ベネデット・クローチェ(1866~1952年)の「すべての歴史は『現代史』である」との言葉を引く。歴史は現在の眼を通して過去を見ることで成り立つものであり、「歴史的事実」は歴史家の評価によって決まる。そしてその歴史家もまた、社会状況や時代に縛り付けられている。つまり、歴史家という存在自体が中立ではありえないのだ。過去の優れた歴史家たちを分析し、ここまで論じた上でカーは次のステップに進む。歴史の一切を解釈と考えれば、「歴史家は全くプラグマティック(実利的)な事実観に陥り、正しい解釈の基準は現在のある目的にとっての適合性であるという主張になってしまう」(同上)。そこでカーは歴史家の義務を規定した。それは一切の事実を描き出す努力を続けること。そしてもう一つ大事なのは、歴史家自体を研究することである。歴史家の判断を生み出した社会的、時代的背景を明らかにするわけだ。歴史を「事実の客観的編纂(へんさん)」と考えるのも「解釈する人間の主観的産物」と決めつけるのも一面的である。歴史家の仕事は、この「二つの難所の間を危なく航行する」ことであり、主観による「事実」の屈折を自覚することである。ましてや歴史の専門家ではない政治家は過去に対し謙虚になるべきだろう。最後にクローチェの言葉を。「歴史の物語をするという口実で、裁判官のように一方に向っては罪を問い、他方に向っては無罪を言い渡して騒ぎ廻り、これこそ歴史の使命であると考えている人たちは……一般に歴史感覚のないものと認められている」(同上)より正しい「歴史認識」のためには、殊更に「正しい歴史認識」を言い立てる人間の背景を研究する必要がある。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~『適菜収の賢者に学ぶ』は産経新聞のコラムだ。適菜氏のペンは正鵠を射る。何より「賢者に学ぶ」というタイトルが示す通り、筆者お仕着せのコラムでないのがありがたい。このごろの新聞各紙は片寄った思想が丸出しだ。根底にあるのは「私の考え」が即ち「正論である」という筆者の傲慢と読者軽視が読んで取れる。そうしたコラムに辟易するとき、「賢者がこう言う」だから「私はこう考える」、或いは「私の考えはこうだ」それは「賢者がこう言うからだ」という適菜氏のスタイルには安心でき、おおいに納得するのだ。多くの新聞は「正しい歴史認識」を書き立てている。「そうだその通り!」と同調するのは簡単だ。ただ我々はその前に適菜氏の導き出した論理に従って考えてみた方がいい。『「正しい歴史認識」を言い立てる人間の背景を研究する必要がある。』どす黒くいびつに歪んだ新聞の宿痾が見えるかもしれない。さて適菜氏の博覧強記ぶりを以前のコラムからご紹介する。『もっとくちをつぐもう』では流行の市民運動についてキルケゴールを引く。「弱い人間がいくら結合したところで、子供同士が結婚すると同じように醜く、かつ有害なものとなるだけのことだろう」そして氏はこう喝破するのだ。『意見を持たないことも教養の一つである。知らないことには口をつぐまなければならない。それは発言の価値を確保するためである。「たとえ素人であっても声を上げることが必要だ」という歪んだ考え方が社会に蔓延した結果、傍観者が退屈凌ぎに社会を動かすようになった。』関連して『群れることの危険性』ではこう言っている。『右派だろうが左派だろうが、市民運動的なものは劣化していく傾向をもつ。』引くのはル・ポンだ。『孤立していたときには、恐らく教養のある人であっても、群集に加わると、本能的な人間、従って野蛮人と化してしまう』(趣意)適菜氏の孤高なペンに敬意を表する次第だ。そして今後のご活躍を願ってやまない。
2013.11.19
コメント(0)
こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ 石川啄木せつないなぁ・・久しぶりに啄木を紐解いた。若い頃に求めた一冊である。かつては空で読めるほど、啄木には親しんだはずなのに、とんとご無沙汰であった。その背表紙は、書架の目の届くところにあるのだが、手にする機会が激減したというわけだ。本を開き、若い頃に好きだった歌を拾った。三つ四つと進め、そして私は本を閉じたのだ。せつない、そしてやりきれない。読むに耐えられないのだ。もちろん文学的評価でなく、啄木の鬱積したエネルギーへの私の感情の問題である。青春の頃はそれこそに共感を覚え、何度も口ずさんだ啄木である。思えば我が青春の頃、青年啄木は苦悩を生きる先輩であった。そして人生を斜に生きる事を教えてくれたアニキであった。だが今や私は啄木の倍以上を生きる年齢にある。啄木の懊悩に比例し、その鬱積したエネルギーは混濁の度を深め、内へ内へと堆積されていった。堆積物が限界点に達したとき、石川啄木の生も限界に達したのかもしれない。青春のとき、それは「劇的な生涯」に映り、当時流行った自主映画の一篇を見ているようであった。そしてまた、堆積物の限界点は啄木文学の限界なのだ。中年に至り、それが劇的な生涯でもなく映画の一篇でもないことがわかってしまった。そして啄木文学の限界も見えた。全うに生きてくれば人は皆、角は削がれる。だから多少は意に反したことでも「そういうものだ」と理解できるくらいに大人になるのだ。或いは口角泡を飛ばす輩に対しては「そんなもんじゃないよ」と言って聞かせるほどの余裕は出てくる。何より、すべてを社会や他人のせいにしないだけの人間としての節度と成熟は見られるわけなのだ。だから、今となっては啄木の歌はせつな過ぎてやりきれないのである。おそらくこのせつなさに触れ、また啄木から遠ざかることになろう。秋の日に、若くして逝った啄木の限界を思ったことである。南無阿弥陀仏、合掌。
2013.11.18
コメント(0)
【評決】「あれは医者が殺したんだ・・・医者の過失だ。麻酔のミスで患者はおう吐物を詰まらせ窒息した」「担当医の名をご存じですか?」「マークスとタウラーだろ?」「有名医です」「君は彼らの弁護士かね?」私の古い友人が司法試験に合格し、もっか司法修習生として頑張っている。近い将来、弁護士として一人立ちをし、生活していかなくてはならないのだが、この『評決』を見ると、弁護士という聖職もピンキリであることが分かる。日本なら弁護士という肩書きだけで、大手を振って歩けそうだが、場所が変わると(たとえばアメリカとか)、新聞の訃報欄を片っ端からチェックして、葬儀場に出向いては、「相談にのります」と言って名刺を渡して歩くのも、いかがなものかと思う。そのぐらいにしなければ、弁護士として食べてはいけないということなのだろうか。この『評決』では、そんな落ちぶれた弁護士が病院で起きた医療事故について争うのだが、とてもデリケートな部分に触れていて、公開時はかなり反響があったようだ。まず、医療事故が起きたのがカトリック教会の病院であること。公正であるはずの判事も病院側の弁護士に偏っているし、有名ベテラン医師が自分の医療ミスを隠蔽するため、カルテの改ざんまでしてしまうのだ。こんなこと現実にはあってはならないことだが、映画化されたことにより、教会関係者や医療現場ではかなりのイメージ・ダウンにつながったであろう。フランクはもともと優秀な弁護士だったが、ワケあって落ちぶれていた。昼間から酒を飲み、仕事探しのため新聞の訃報欄をチェックしては、葬儀場に出向いていた。そんな中、ビジネス・パートナーであるミッキーが、仕事を見つけて来た。それは出産のため聖キャサリン病院に入院した妊婦が、麻酔時のミスにより植物状態となってしまったという医療事故だった。フランクは状況を把握するため、また示談金をつり上げるために、廃人同様となった患者の姿をポラロイドカメラで撮影した。だがそこで目の当たりにした患者の哀れな姿を前に、フランクの弁護士としての使命が蘇るのだった。主人公フランク役に扮したのは、ハリウッド・スターであるポール・ニューマンだ。代表作に『スティング』や『ハスラー』などがある。オハイオ大学を出た後は、イェール大学の大学院に進学するなどインテリ俳優でもある。 『評決』においては、ポール・ニューマンの迫真の演技が光っている。例えばアル中という設定のフランクを、だらしないだけの男に終わらせず、苦悩を抱え、過去を持つ弁護士として好演。一度は失いかけた法律家としての情熱を、再び取り戻していく様子がジワジワと引き出されている。またラストもすごく良い。電話の呼び鈴が幾度となくコールされる中、その相手がローラであることも知っていながら、フランクは受話器を取ろうとしない。男の意地にも見えるし、贖罪にも見える。80年代の作品はやっぱりいい! 万人におすすめしたい作品だ。1982年(米)、1983年(日)公開 【監督】シドニー・ルメット【出演】ポール・ニューマン
2013.11.17
コメント(0)
【落合恵子/母に歌う子守唄~わたしの介護日誌~】◆親一人子一人の環境が直面する介護記録これからますます高齢化社会に拍車をかける世の中へと突入していくわけだが、その中で“介護”という問題は切実な課題として人々の肩に重くのしかかっていくのは間違いない。皆が皆、元気で長生き、臨終はポックリ、、、という具合ならまだしも、そんなのはほんの、ほんの一握りだ。大多数のお年寄りが何らかの病気を患い、医療機関の世話になり、そのうち寝たきりになって要介護者となる。そして、本人が望んでも望まなくても長く生命を維持され、やっとあの世からお迎えが来た時には、介護生活に疲労困憊の家族らが安堵の胸を撫でおろすという始末なのだ。巷には壮絶な介護体験記や、ご本人による闘病記などが五万と出版されている。そんな中、人権問題、ジェンダー問題に取り組んで来たフェミの論客である落合恵子のエッセイは、ひときわ優れていることに気付いた。私の周囲を見回した時、高齢の片親とシングルの子という図が意外に多いのだ。つまり、“親一人子一人”という形態である。兄弟姉妹がいないから、たった一人きりの子に全ての責任がのしかかる計算になる。その子が結婚していたら、また状況が違うかもしれない。あるいは、子がおらず、天涯孤独の身だったらまた違うだろう。問題は、片親とたった一人きりの結婚していない子の環境である。落合恵子はシングルである。しかも一人っ子である。そんな彼女がたった一人で背負った介護ドキュメントを、興味本位だとしても覗いてみる価値はあるのではなかろうか?多発性脳梗塞、パーキンソン病、一方の腎臓の機能不全、、、その後、サード・オピニオンを別の病院で求めたことで、アルツハイマー病であることが発覚したという経緯。3年間もパーキンソン病だと思って通院、入院をして来たことで、アルツハイマー病の治療を遅らせてしまったのだ。(周知の通り、アルツハイマー病は、手遅れになると薬剤が全く効かない)この時の落合恵子の憤りやら無念さを想像すると、胸が痛くてたまらない。また、我々が認識しているはずの「医療はサービス業である」ということについても、医師は「そのことを忘れている、あるいは覚えている風を装いながら権威にしがみついている」と、落合恵子は糾弾する。そのとおり!母親が二度目に入院した時、担当したのは研修医だったとのこと。おそらく、この時のセカンド・オピニオンに納得がいかなかったのであろう。ふんまんやるかたないと言った感情の矛先が、文章に表れている。その中の一部を引用しておく。〔彼の言うことをただ黙って聞いているときは機嫌よく、極めて饒舌で穏やかな口調だが、少しでも質問をすると(自分が嫌になるほど、そんなときのわたしの口調は卑屈になっている)、彼は反射的に身構え、攻撃に転じ、びっくりするほど怒り出す。〕※ここでの「彼」は、研修医のことをさす。私はこの文章を読んだ時、思わずこの研修医に対して激しい憎悪を覚えた。患者を人質に取られ、思うことの半分も言えないでいる家族の立場を考えたことがあるのか?!医者という立場にあぐらをかいて、ストレス解消の弱い者いじめに過ぎないではないか!無論、世の中には立派なドクターはたくさんいると思う。だが、そうは言っても中にはこんな権威主義の研修医が現実には医師となって一人立ちしていくのだから、手に負えない。もうどうしようもない絶望的な気持ちになる。落合恵子は、読者に問うている。医療と向かい合った時、そこに不安や不信や疑問を見つけてしまった時、皆はどのように乗り越えていくのかと。「ほどほど」であきらめるしかないのだろうか?落合恵子だからこそ発信することのできる医療の実状、介護の現場をこのエッセイから読み取ることができるのは、大変ありがたい。苦悩を抱える多くの人々を代弁し、根本的な国の福祉の見直しと、医療のありかたの検証を呼びかけるところで結ばれている。さすがは落合恵子。お涙ちょうだいでは終わらない。介護者、必読の書である。『母に歌う子守唄~わたしの介護日誌~』落合恵子・著☆次回(読書案内No.100)は呉智英の「現代人の論語」を予定しています。コチラ
2013.11.16
コメント(0)
【西日本新聞 春秋】〈偽物食材世にあふれ/だますが勝ちの三国志/偽(魏(ぎ))だの誤(呉(ご))だのがのさばれば/食(蜀(しょく))の大義は滅びゆく/オッペケペッポーペッポッポー〉。もう一丁。〈一流ホテルもデパートも/老舗の看板信じちゃならぬ/「シニセ」の中には「ニセ」があり/オッペケペッポーペッポッポー〉。止めどを知らぬ食材偽装問題。明治の演劇人、川上音二郎が平成の世にあれば、こんな「オッペケペー節」が聞けたかも。きのうは音二郎忌。墓所の承天寺(福岡市)で法要があった。1864年、博多に生まれた音二郎は上京後、自由民権運動に傾倒。政治を風刺したオッペケペー節で人気を博した。権力を笑い飛ばす批判精神は、今も十分通用する。音二郎の詞を引きつつ、現代風にアレンジしてみた。()内は筆者。〈権利幸福嫌いな人に/自由湯(じゆうとう)をば飲ましたい/(お国の秘密は保護すれど/守る気のない知る権利)/うわべの飾りは立派だが/政治の思想が欠乏だ/心に自由の種をまけ/オッペケペッポーペッポッポー〉。〈洋語なろうて開化ぶり/パン食うばかりが改良でない/(国内産業どう守る/交渉ヤマ場だTPP)/自由の権利を拡張し/国威を張るのが急務だよ/知識と知識の競(くら)べ合い/オッペケペッポーペッポッポー〉。きのう、音二郎の墓に参って引用の許しを請うた。木々を揺らす風の音が「オッペケペッポー、オッケー」と聞こえた。(11月12日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~うまい!思わず膝をたたきうなってしまった。だがしかし・・・上等な話だ。彼岸の音二郎は引用は許しくれるだろうが、しかし『権力を笑い飛ばす批判精神は、今も十分通用する』これは現実に通用するかどうか疑問だね、音二郎はそう言うのではないか。なるほど、本当の批判(不満にあらず、昨今の紙面は不満の嵐に他ならない!)と諧謔を現代人が理解できるかどうか。そしてそれを楽しむだけの文化は以前と異なっており、何より楽しむだけの基礎知識を持ち合わせているかどうか。現実は難しい問題だと思う。コラム氏には「オッペケペッポー」が『木々を揺らす風の音』に聞こえるようだ。私には「そんなこッたァ~知らねぇよォ♪」そう歌う音二郎のホンネに聞こえる。そして考えた。なるほど、川上の音さんも新聞も何を言おうが『そんなこッたァ~知らねぇよォ♪』というわけだ。だいいち責任もないし伝家の宝刀「取材の自由と知る権利」を振りかざせばすべてが事すむ仕掛けなのだ。好き勝手をして後はどうするの?と問われたならばそんなこッたァ~知らねぇよォ♪だがこのお気楽こそに平和の真髄を見ることも事実。お互い様というか、バランスの上に微妙に成り立った関係なのである。
2013.11.15
コメント(0)
散紅葉人なつかしく重なりて 中村草田男見事に敷き詰められた落葉を目にして、自ずと笑みがこぼれます。乾いた落葉は、踏み入ると、カサカサという軽い音が響きます。夢中になって、落葉をすくっては歩きすくっては歩きしていると、そこはかとない幸福感に包まれました。幸いほかに人は見当たらず、午後の陽射しを背に受け落葉に身を投げ出しました。文字通り落葉に包まれながら、木漏れ日を眺めていると、むしょうに来し方が思い出され、心地のよい郷愁に浸りました。そしてまた、世情に惑わされ憂いている自分が、かくも小さくくだらない者に思え、落葉の上で猛省のひと時を過ごしました、とさ(笑)
2013.11.14
コメント(0)
落葉聴く豊頬陶土観世音 水原秋櫻子葉は色づきそして散る。まさに諸行無常なのである。そんな中で、私たちはなぜに「我欲」の執著から逃れられないのであろうか。自然の摂理からしみじみと感じる秋の日であった。南無観世音菩薩、合掌。それはそうと、ファイルを整理していて昨年のコラムが目にとまった。人間の行いがいかに罪深く、そして災いの元となっているか、その事実を真剣に考えなければならないと思うのだ。~~~~~~~~~■同胞の危機 かつてアフリカに、ゴリラという動物がいてね―。それが遠い未来でない会話になるかも。密林にすむ長毛の怪物。謎の存在が科学的に認知されてから1世紀半。ゴリラはいまや、最も絶滅の危険度が高い霊長類となってしまった。ゴリラにとどまらない。アジアのオランウータンが、南米のオマキザルが、マダガスカルのキツネザル類が。世界中で霊長類の激減が続いている。先日、絶滅の恐れがある保護対象種を、国際自然保護連合などが発表した。霊長類の生活基盤の脆弱(ぜいじゃく)さは生物としての歴史に由来する。中生代末期に恐竜が絶滅した後、それまで未開拓だった森林で独自に進化した、新参の特殊哺乳類だ。森という空間がかれらの生活の拠点。しかし、生存の前提である森は次々に地球上から消える。農地開発や違法伐採。バイオ燃料の原料として栽培されるアブラヤシに広大な熱帯雨林が駆逐される。さて、かれらの居場所がどこにあろう。もう悟らねばなるまい。森の破壊は天につばする行為だと。共存へかじを切らねばならないと。ただ、ゴリラが伝説の存在になってしまうまで、残された時間はわずかだ。愛媛新聞「地軸」 2012年11月20日掲載~~~~~~~~~一年前に我々は『もう悟らねばなるまい。』と気が付いたのだが、はたしてこの一年で何か進歩したのであろうか。たしかに産業における技術革新や医学は飛躍的な前進を遂げたかもしれない。だが、ゴリラのために、そして未来の子孫のために、また人類を育んでくれる地球のために、我々はこの一年で何か前進できたのであろうか。省みると空しくなるばかりだ。そう思い、再び手を合わせては南無観世音菩薩ととなえてみたが、本当のところ、人間が少しでも我欲の執著から開放され、人間らしく生きるためには宗教者と哲学者のリーダーシップ以外にはないのではないか。もしくは人間は行き着くところまで行き着くのか。一年後、我々はゴリラのために、そして未来の子孫のために、また人類を育んでくれる地球のために、一歩でも前進していたい。必ず!
2013.11.13
コメント(0)
~篁牛人(たかむらぎゅうじん)の渇筆画(かつひつが)を見る~秋の日、前田普羅に思いを馳せながら富山の街をそぞろ歩いた。※前回分はコチラから。しみじみと日を吸ふ柿の静かな秋風の吹きくる方に帰るなり 普羅歩くほどにしみじみと普羅が偲ばれ、この街をこよなく愛した普羅の気持ちを理解した。そして翌日はかねて希望の篁牛人(たかむらぎゅうじん)記念美術館に出かけた。篁牛人の渇筆画(かつひつが)は、三年前に池内紀センセイの『二列目の人生』で知ってからずっと見たいと思っていた。まず渇筆画とはこうである。『極端に細い線で一気に形をとり、それから渇墨で隈どっていく。一説によると、弘法大師にはじまる筆法だそうだ。水墨画の技法ながら、鋭い線描と淡い陰影は西洋のマチエールを思わせる。』池内紀著「二列目の人生」~篁牛人~ときに篁牛人という御仁は一筋縄のお方ではない。『家庭生活の営みを知らず、エゴイズムを丸出しにして、一つのことに賭け、それを押し通した男』そう語るのは篁柳兒さんで牛人のご子息である。(二列目の人生/父の思い出)いまだ見たことのない渇筆画もさることながら、私はこの一文にしびれた。そして牛人を思慕したのである。私はこの手の御仁にたまらない魅力を感じ、一方ならぬ思慕の情に捉われてしまうようだ。敬愛の二人、噺家古今亭志ん生そして俳人種田山頭火がそうである。並みの常識では量り知れない言動が、私を魅了してやまないのだ。ご参考まで、古今亭志ん生師の長男で落語家の金原亭馬生氏は、『うちの親父さんというのは自我の強い、実に突拍子もない人です。しかし、この「突拍子もない」というのは、芸人としてではなく、親としてみればこんな弱った親はないですね。』「父・志ん生の人と芸」でそう綴っている。牛人のご子息も同じだ。牛人も志ん生も山頭火も本来はこうであるべきだ。『仮にも一家の大黒柱として家族の面倒を見なければならない立場にある人間』志ん生のいる風景/矢野誠一しかし彼らは皆、そういう立場にありながら、社会における我が身を省みることなく、家族を犠牲にして好き勝手に振舞い自由奔放に生きていたのだ。もちろん、政治的思想などは微塵もない。あくまでも個人の域において破綻者なのである。それが私にはたまらない。ホンネを言うと私は画家としての篁牛人より破綻者としての篁牛人に興味があった、のかもしれない。さて、肝心の渇筆画である。まずもって、渇筆画は「画」といわず「筆」というようだ。(不見識で申し訳ないが、一般にいう水墨画も「筆」というのであろうか。)作品は概ねが牛人、齢六十を過ぎてからのものであった。まず感じたこと。このおっさん、枯れてない。六十過ぎといえば枯れのペースも中盤に入るころのはずである。ところが、六十四歳の画を見てもまったく枯れを感じさせないのだ。このおっさん、いい歳して頬をテカらせていたのであろうか。これが人非人の所以なのか。普羅が苦吟しながら彷徨した富山の街を、このおっさんはテカテカしながら闊歩したに違いない!私は牛人の渇筆画を見ながらそう確信し、完全に牛人の虜となったのだ。そして一通り「筆」を見てまわり思った。池内センセイのいう『二列目の人生』とは誠に言い得て妙である。こういう破綻者の画(筆)は一列目に掲げられることはないであろう。だがしかし、見る人によってそれは一列目に成り得るのだ。特別な感情、そうとしか表しようのない感情が、その筆をして見る人を虜囚ならしめるのである。あたかも美酒に酔い恍惚となったように。とどのつまり、私もその一人である。まあ、私の場合は牛人の芸術そのものもさることながら、オヒレハヒレに心を奪われたのであるが。私は去り難い気持ちを断ち切るように篁牛人記念美術館を後にした。手元には美術館で求めたポストカードがある。今これを眺めながら思った。魅力の虜囚だ、と。
2013.11.12
コメント(0)
~島倉千代子さん逝く~【朝日新聞 天声人語】新しい表現を求めて脱皮を繰り返すアーティストがいる。画家でいえばピカソ、音楽でいえばジャズのマイルス・デイビスがすぐに思い浮かぶ。彼らほどの大きな振れ幅ではないにしても、島倉千代子さんの歌も時代によって変わった。 87年の「人生いろいろ」を初めて聴いたときの驚きは忘れない。かつての「泣き節」からは遠い軽快な曲調。♪女だっていろいろ 咲き乱れるの……という歌詞は、自身の波乱多き人生がモデルだった。 出場を一度辞退していた紅白歌合戦に、この曲で復帰。若いファンも増えて、「私にはデビュー曲が二つある」と語っていた。小泉元首相が答弁で引いて話題になったのも、曲の強い印象があればこそだ。 右肩上がりの高度成長時代をスターとして駆け抜けた。田舎の母を娘が呼んで名所見物をする「東京だョおっ母さん」は、当時の世相を象徴的に映す一曲だろう。そして結婚生活に終止符を打った年に、やはり転機となるヒットが出た。 ♪この世に神様が 本当にいるなら……と始まる68年の「愛のさざなみ」は、浜口庫之助(くらのすけ)の流麗なメロディーが不思議な魅力を放った。それまで無縁だった日本レコード大賞の特別賞に。後の「人生いろいろ」とともに島倉さんの思いの深い曲となる。 借金を背負い、病気にもなったが、いつまでも小料理屋の気さくな女将(おかみ)さんのような風情の人だった。享年75。還暦を超えても「いつも恋をしていたい」といっていた。天国で新たな恋をつかまえるだろうか。(11月9日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~また昭和を代表する人の訃報が届いた。今度はお千代さんこと島倉千代子さんである。このごろはお見かけしないとは思ったのだが、まさかの訃報に驚きそして深い悲しみを感じている。天声人語氏はオツなことを言う。『小料理屋の気さくな女将(おかみ)さんのような風情の人だった。』昔見た紅白歌合戦を思い出す。もう何十年も前の話である。家族全員でコタツを囲み、ミカンと落花生をつまみながら紅白歌合戦に見入ったものだ。昭和三十年から四十年は、それが大晦日の正調であり、そういう昭和を象徴するような風景に、お千代さんは誰よりも馴染んでいたた。決して饒舌というのではないが、出演歌手の応援でひと言ふた言を話した。少し照れくさそうにゆっくりと話すお千代さんは、子供にも印象的でその姿は今でも記憶に残っている。どんな人?と問われたら、それはまさに『風情の人』であった。新聞各社とも、コラム氏は昭和を引きずっている方々のようで、筆にも力がこもったようだ。それぞれの紙面に「書かないではいられない!」そういうコラム氏の湧き上がる気持ちを感じ、時間のたつのも忘れて読み耽った次第である。以下に目についた紙の結びを載せる。■ものに憑かれたような迫力があった。戦争の悲惨。戦後の痛苦。昭和の日本人の情念を託せる歌い手が去った。日本経済新聞/春秋■今、演歌歌手の王道を見事に渡り終え、終生「お姉さん」と仰いだ美空ひばりさんの待つ天国へ旅立った。毎日新聞/余禄■澄み切っていて、どこかはかなげで…。秋の青空のような声で、島倉さんは人生を歌いきり、天に召された。中日新聞/中日春秋■「岸壁の母」の二葉百合子さんと双璧を成す、戦争を引きずっていた歌手が舞台を去り、昭和がまた遠くなった。神奈川新聞/照明灯■喜びも悲しみも歌と共にある。昭和歌謡の真骨頂を体現した歌い手が静かにマイクを置いた。徳島新聞/鳴潮■75年の人生、お疲れさまでしたとつづりたい。年末の紅白で、もうあの泣き節は聴けないのか。神戸新聞/正平調■天のお千代さんに歌の題にちなむ句を贈ろう。正直に咲いてこぼれて鳳仙花遠藤梧逸)。中国新聞/天風録■いろんな人が自分を重ね、それぞれの応援歌にした。佐賀新聞/有明抄■華やかな着物でスポットライトを浴びていても「いじらしい」「奥ゆかしい」という言葉が似合う人だった。昭和がまた遠くなった。静岡新聞/大自在■儚(はかな)くも美しい、そして実は強かった。あこがれの人はステージを降りるが、歌は残る。熊本日日新聞/新生面■あちらでは、ひばりさんと「鍋焼きうどん」後の話に花が咲くに違いない。「人生いろいろ」だったわねえと。産経新聞/産経抄私も人生を半世紀以上過ぎ、『人生いろいろ』という意味が少しだけわかるようになった。島倉千代子という女性の一生を想像するに、その『人生いろいろ』は含蓄が海のように深く広い。そして達観だ。ただ、そこはお千代さんである。とどのつまり後悔したり悩んだりしても、でも『人生いろいろ』なのだ。禅問答のようだが簡単で簡潔、つまりは「そういうものよ」ということであろう。だからお千代さん(の歌)は、ソメソしている人に寄り添って甘い言葉をかけているのものではない。お千代さんの達観は潔くも厳しいのだ。人生いろいろなのだからそれはあなたの人生。だからあなたが自分でしっかりするしかないのよ、がんばりなさい。そう力強く叱咤激励するのだと私は思う。なぜなら人生とは「そういうもの」なのだから。最後に産経抄氏のコラムを載せる。不覚にも落涙を禁じえなかった。昭和の日本人の情念を託せる歌い手が逝き、昭和がまた遠くなった。寒気到来で雪マークが目立つ。今宵はアツアツの鍋焼きうどんをすすりながら、しんみりとお千代さんを偲びたいと思う。もちろんBGMは「人生いろいろ」である。早雪や 昭和は遠く なりにけり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~【産経新聞 産経抄】昭和62年4月、島倉千代子さんは福岡の病院に緊急入院した美空ひばりさんを見舞った。会ってもらえるか不安だったが「とにかく行かなきゃ」と、かけつけたのだという。案に相違して、ひばりさんは「お千代よく来たわね」と明るく迎えてくれた。その上、島倉さんの好きな鍋焼きうどんの出前を取り、二人ですすったのだという。島倉さん自身がテレビ番組などで明かしていた話である。日本を代表する大歌手同士が、病室でうどんを食べながら話し込んでいる。想像しただけでうれしく、泣けてもくる。島倉さんは昭和13年、ひばりさんは12年の生まれだった。年が近いうえ、二人とも数知れぬヒット曲を出し歌唱力も抜群である。世間は二人をライバルと見なし、ファンもひばり派とお千代派に分かれていた。だが島倉さんによれば「とんでもないこと」だった。昭和30年「この世の花」でデビューしたとき、ひばりさんはもう、大スターになっていた。「追っかけ」をしていたほどのひばりファンで、デビュー後も恐れ多くて口もきけなかった。ひばりさんが亡くなったときは、その自宅で3日間も寄り添ったという。そういえば、長嶋茂雄さんらの国民栄誉賞授与式で、王貞治さんはわがことのように喜び長嶋さんに花束を渡していた。大相撲柏戸の富樫剛さんと大鵬の納谷幸喜さんも引退後は肝胆(かんたん)相照らす仲だったという。相手を認める謙虚さや寛容さが「ライバル」を超越させるのだろう。そんな謙虚さと寛容さを持ってほしい人は内外に多いが、それはともかくお千代さん、75歳であわただしく旅立っていった。あちらでは、ひばりさんと「鍋焼きうどん」後の話に花が咲くに違いない。「人生いろいろ」だったわねえと。(11月10日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~島倉千代子さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます、衷心より合掌。
2013.11.11
コメント(0)
【シリアナ】「彼らは卑怯だ。信心深いイスラム教徒を過激派に仕立て上げる。彼らは言う、“紛争の目的は資源獲得と軍事支配だ”と。そんな言葉を信じたら思うつぼだ。後悔するのは我々だぞ。ありえない! 人間の本質的な欲求を自由貿易による現代生活で満たすなど・・・。宗教と国家はひとつ。コーランでは・・・2つは切り離せない。コーランでは王の統制も奴隷の服従もコーランにはない」この作品はちょっと難しい。ここへ来てにわかに自分の教養不足が情けなくなる思いだ。 あらましはなんとなく分かるような、分からないような・・・。どなたか中東問題に詳しい方に、解説を願いたい。もともとは『CIAは何をしていた?』という原作があり、それをベースに制作されたものらしい。(ウィキペディア参照)この元CIA諜報員が告発する内容によれば、あれだけの組織力と実力を持ち合わせるCIAが、何故9.11を阻止できなかったかという点にスポットが当てられている。翻ってこの映画に関して言えば、中東の石油利権をめぐる駆け引きの舞台に、CIA、弁護士、王族、石油会社の幹部らが登場する。そのCIA諜報員バーンズ役をジョージ・クルーニーが好演。腕利きであるはずのバーンズが、工作活動に失敗し、CIAそのものからその身を抹殺される崖っぷちに立たされてしまうというものだ。さてタイトルの『シリアナ』だが、これは架空の国名となっている。だが、実際はCIAが中東再建プロジェクトを指す時の専門用語とな。(真偽は不明)中東の石油産出国のナシール王子は、石油事業の運営をアメリカだけに依存しない政策を推し進めていた。一方、ナシール王子の弟・メシャール準王子は、アメリカ企業と結託し、ナシール王子の失脚を目論んでいた。CIAは、ナシール王子一派を反米組織と見なし、暗殺を計画。メシャール準王子を王位に即けることでアメリカ企業の安泰を図ろうと画策するのだった。この作品を見ていて、分からないなりにも衝撃的だったのは、パキスタンから出稼ぎに来ている若者が、イスラム神学校に集い、徐々に洗脳されていく場面だ。食事や教育などを提供されるボランティア組織などと思ったら大間違い!イスラム原理主義を説教される場所なのだ。つまり、過激派テロリストとして生まれ変わる教育機関というわけだ。こういうくだりは、以前見た戦争映画にも出て来るので、それほどの新しさはない。だが、現在進行形の中東問題を抱える世界にとって、こういう生々しい現状は、たとえ映画と言えどもショックは隠せない。CIA諜報員役のジョージ・クルーニーの陰惨な最後を見届けるだけでも、この映画の価値はあるのではなかろうか?業界アナリスト、ウッドマンの役であるマット・デイモンが、全てを失って最後には家族のもとへ帰る姿も見逃せない。この作品は、見る人を選ぶタイプのものかもしれない。2005年(米)、2006年(日)公開【監督】スティーヴン・ギャガン【出演】ジョージ・クルーニー、マット・デイモン
2013.11.10
コメント(0)
【夏樹静子/蒸発】◆時刻表を穴の開くほど凝視せよ!鉄道系サスペンスの先駆け「“蒸発”って言葉はもう死語だよね?」という友人の意見を検証しようと、試しに高校生の息子に訊いてみた。「蒸発って知ってる?」「知ってるよ。水とかが気体になることじゃん」「うん、そういう意味の他にもう一つあるんだけど」「知らん」そうなのだ。もう平成世代には“蒸発”が通じないのである。人知れずこつ然と姿を消すことを“蒸発する”というのだと説明して、やっと納得してもらえる始末なのだ。驚くほどのことではないかもしれないが、こうやって言葉はいにしえの(?)言語となっていくのかと痛感した。そう言えば、職場で「○○さんまだシングルなんだって」という噂話になった時のこと。すかさず「独身貴族ですね」と話に加わったらゲラゲラ笑われてしまった。もちろん笑ったのは私より年上の先輩ばかりで、若い子はノーリアクション。“独身貴族”という言葉も、いまや死語である。話が逸れてしまい、恐縮。さて、夏樹静子の『蒸発』について。この作品はかなり古い。40年ぐらい前に発表されたものだ。今読むと、ある意味ノスタルジーで昭和を感じる。時代性は否めないが、その分、一人一人の熱っぽさ、つまり人間味をたっぷりと感じさせてくれる小説なのだ。言うまでもなくミステリー小説だが、半分は不倫小説だ。単なる浮気などではなく、本気の不倫だから読者もついつい主人公に肩入れしたくなってしまう。とはいえ、くどいようだが不倫は不倫だ。話はこうだ。ある日、札幌行きの飛行機で不思議なことが起こった。東京を出発する時は間違いなく満席だったはずなのに、12-C席だけ乗客がいなくなっているのだ。そこには確かに女性が乗っていた。スチュワーデスらは慌ててあちこちを探し回るが、結局、トイレにも入っておらず、現代の怪談として片付けられてしまった。一方、ジャーナリストの冬木は、妻子のいる身でありながら朝岡美那子と不倫関係にあった。美那子も、銀行に勤務する夫と6歳になる息子のいる立場だった。ところが冬木は仕事でベトナムへ行くこととなり、前線での取材中、銃撃を受けて重傷を負った。情報の錯綜する中、日本には冬木がほぼ絶望的なように報じられた。その後、奇跡的に回復した冬木は野戦病院を退院し、自分の生還を伝える一報を東京へと打電した。東京で妻子との再会を果たす冬木だったが、心のひだに刻み込まれたのは美那子の面影だった。そこで自分の本当の気持ちに気付くと、どんなことがあっても美那子と一緒になりたいと思うのだった。ところが美那子は、どこへ消えてしまったのか冬木の前から蒸発してしまった。美那子の夫も息子の手を引きあちこち探し回るものの、何の手がかりもなく時だけが過ぎてゆく。そして美那子の蒸発は、いよいよ事件へと発展していく。ミステリー小説としてのおもしろさを味わえるのは、何と言っても列車のトリックであろう。時刻表などを熟読する方々にはワクワクするようなアリバイ崩しの瞬間ではなかろうか?現在では、鉄道系サスペンスを得意とする西村京太郎に持って行かれた感があるけれど、40年前は斬新なトリックだったのだ。さらには、おいそれとハッピーエンドでは終わらないラストにも好感が持てる。著者である夏樹静子が、当時の社会風潮としてのウーマンリブを皮肉った点も同感。『「母性離脱」を叫んでいたシュプレヒコールが、なぜかもの悲しい響きを伴って、彼の耳底に蘇った』という一文にグッと来た。こういう推理小説を書ける人が、最近はあまりいないような気がするので、よけいに勧めたくなってしまう。1970年代を知る風俗史的な役割も担っている、社会派推理小説である。『蒸発』夏樹静子・著☆次回(読書案内No.99)は落合恵子の「母に歌う子守唄~わたしの介護日誌~」を予定しています。コチラ
2013.11.09
コメント(0)
~映画「ソルト」と秘密保護法案~想像はしていたが、「日本版NSC(国家安全保障会議)」は思った以上にはかどらない。その前提となる「秘密保護法案」がいよいよ審議入りなのだが、左右取り混ぜもう一度原点にかえってほしい。映画「ソルト」は二重スパイを扱った作品である。話題になったのでご覧の方も多いはずだ。はたして「ソルト」は飛躍の話であろうか?これは我々に発せられた警笛ではないのか、私はそう受け止めている。事実(現実)と虚構(映画)をゴッチャにするなというお叱りは甘んじて受けつつも、事実を歴史から学び希望や願望とは別に論じなければならい、と返したい。度々あげている「孫子の兵法」である。現代においても為政者と軍の士官以上で「孫子の兵法」を学んでいないものはいないはずだ。つまり国家運営の思考と行動の規範となっていると考えて間違いはない。先日、用間篇のあらましについて記した。コチラをご覧いただきたい。これは間諜(間者、スパイ)について具体的に示している。(※水野実先生の「孫子の兵法」より引く)『間を用うるに五有り。因間有り、内間有り、反間有り、死間有り、生間有り。』「間者を用いる法は五種類ある。それは因間、内間、反間、死間、生間である。」それぞれについて水野先生はこう説明する。1.因間:敵地の民を自国の間者に使用する。2.内間:敵国の官吏を自国の間者に使用する。3.反間:敵国の間者を自国の間者に使用する。4.死間:敵国に虚偽の情報を持ち込み、敵国を罠にはめる手引きをし、最終的に敵国に殺される。5.生間:敵国に潜入して諜報活動を行い、それを自国に報告する。そして注目すべきは孫子がこう説いていることだ。『五間倶(とも)に起こりて、其の道を知る無し。』「五種類の間者が一斉に活動していても、その活動経路を互いに知ることはない。」薄識をもってしても、古今の戦が間者を無くして語れないことはわかる。近くは先の戦で日本が負けたのも、そしてその前の日露戦争の勝利も、因の元は間者にありといって過言ではなかろう。そして映画「ソルト」は用間篇・五間を彷彿させるものである。私ははじめて「ソルト」を見たとき、五間を思わないではいられなかった。原点に戻る。我々はこの平和を維持しなければならない。国家も国民も平和維持の為に責任をはたさなければならないのだ。すべては平和維持の為に。すべては平和維持に通ず。だから憲法も法律も目的は平和維持であり、そのための存在なのだ。それを忘れてはならない。くれぐれも、目的は「平和維持」にある。だから、まずは皆で平和について現実に即しながら論じなければならないと思うのだ。現代における平和とは何か。理想と現実のギャップはどこにあるか。世界はどうなのか。どうやったら平和を維持できるのか。等そして、我々は平和維持の為に今なにをなすべきなのかを、よくよく考えるべきだ。肝心なのは想像力である。そしてそれを構築するのは人生観であり歴史観であり、また宗教観(宗教論や宗旨論にあらず)である。つまりその人の人格と学問と見識を総動員したものが想像力である。だから想像力をもって平和を論じるとは、とりもなおさず論じる人の生きてきた証しであり、その成果を問うことに他ならないというわけなのだ。私は今こそ、想像力をもって平和維持の為に我々が何をなすべきかを考えなければならない、そう思う次第だ。それはそうと、マスコミは「国民の知る権利」をかざす。だがそれはマスコミの「私たちの知る権利」ではないのか?私は恣意的な誤謬にほかならないと思うのだが・・もしくは一流の偽善か?ともかくも、我々の目的は「平和維持」にある、そのことだけはゆめゆめお忘れなきように!
2013.11.08
コメント(0)
立つても見坐りても見る秋の山 高浜虚子清々しい一句で、晴れやかな秋の山が目の前に広がるようだ。度々触れているのだが、大叔父が虚子門下(シッポである!)だったこともあり、我が身を「虚子山脈に連なる者」と称している(笑)。景色を見入る虚子センセイの姿を想像するのは楽しい。のんびり美観を堪能していることであろう。「立つても」「坐りても」飽くことはないのだ。それにしても、こういう句を目にすると子規の影響をおおいに感じる。子規門の所以というか、正岡子規の偉大さというか。色づく紅葉を眺めながら、明治の俳壇に想いを馳せた日であった。
2013.11.07
コメント(0)
観念の耳の底なり秋の声 正岡子規子規、明治24年の一句である。血気盛んで、何かにつけて漱石と気炎をあげていた頃である。野球に熱中した。「法官」を「幇間」と訳した。みな武勇伝に残る。そして試験のカンニングも。有名になるとカンニングまでもが後世に知られるわけで、しかもオヒレハヒレがついてまわる。子規もご苦労な限りだ。さて句。秋の風景を子規は「観念」と詠む。しかも「耳の底」とは彼方の出来事のよう。青春の血気は秋の情緒を嫌ったのか。斜の構えが魅力の子規ではあるが、青春の思考は直截的なのであった。秋の日の子規の俳句で日は暮れぬ 吟遊映人
2013.11.06
コメント(0)
【祝:文化勲章受章 高倉健さん】『日本人に生まれて本当に良かったと、きょう思いました。』感動で身体が震えた。高倉健さんの、記者会見のコメントである。健さんは文化勲章の親授式を終え、宮内庁で記者会見に臨まれたという。『日本人に生まれて本当に良かったと、きょう思いました。(映画では)ほとんどは前科者をやりました。そういう役が多かったのにこんな勲章をいただいて、一生懸命やっていると、ちゃんと見ててもらえるんだなと素直に思いました。』健さんをして国民的俳優といわれる所以を、私はここに見た気がする。そしてコメント自体もさることながら、そこに健さんの慎み深さも醸しだされ、とても涼やかなのだ。誠にありがたい限りである。日本の美風はここにあり、だ。また、健さんは親授式に先立ち「平成二十五年度 文化勲章受章に際して」というコメントを寄せており、そこには以下の一文がある。『今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。』実は親授式のコメント以前に、こちらの一文に接し、私はすでに感涙を禁じ得ないでいた。これほど素直で謙虚な文書を目にしたのは久しい気がする。このごろは、昭和を代表する重鎮が立て続けに逝かれた。喪失感に打ちひしがれた昭和の人間は数多いよう。シッポの世代だが私もその一人である。だからわかるのだ。その人たちにとって、健さんのこのコメントがどれほど爽やかで清々しかったか、そして内から湧き上がる篤い力を感じたか、ということを。健さん、文化勲章を受賞されおめでとうございます。心からお祝いの言葉を申し上げます。本当に、本当におめでとうございます。国民の誰もが「この国に生まれて良かった」と思えるような演技を、これからもどうぞお見せください。健さん、いつまでもお元気でご活躍ください。皆、祈っております。秋は読書、という短絡で夜長を本と一緒に過ごしていたが、しばらくは健さんのDVDを見てみよう。まず、今夜は『鉄道員(ぽっぽや)』。そして明日は『ホタル』がいいな。追:昨日の天皇陛下主催の茶会に、健さんは風邪を召して欠席されたという。よくせきの事と拝察される。無念の思いに暮れる健さんの、一刻も早いご快癒を祈念申し上げる。11月6日記す
2013.11.05
コメント(0)
【佐賀新聞 有明抄】~スパイ天国~暗黙の了解が表沙汰になっては、ほうっておけないのだろう。米国家安全保障局(NSA)による盗聴疑惑で、ドイツのメルケル首相がオバマ米大統領に電話で猛抗議したと外電は伝えている。 NSAは暗号解読、通信傍受、スパイ防止が任務で、メリーランド州アナポリスの陸軍基地内にある。電話やメールなど通信網に「関門」を設けて監視してきた。今回、同盟国首脳の携帯電話や大使館も対象にしていたことが露見し、スキャンダルに発展している。 グーグルが公開している衛星写真で見ると、広大な駐車場に囲まれた建物はモダン。そばにはハイウエーが通っており、辺りには銀行やハンバーガー店も見える。国立暗号博物館もある。スパイ組織の本部をネット上で見られるのも奇妙な感じである。 実際に行ってみると、遠いところから接近禁止の立て札に阻まれるという。存在そのものが機密扱いされた歴史があるそうだ(浅井信雄著『アメリカ50州を読む地図』新潮文庫)。日本では国家安全保障会議の創設準備が進められている。 事務局となるのは同じ名前の国家安全保障局。偶然ではなく、与党内には諜報(ちょうほう)機関が必要との意見もあるとか。スパイ活動はどこの国もやっており、敵味方を問わない活動は国際社会の常識らしい。それでも米国流のスパイ天国は不信を広げている。(宇)(10月31日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~メルケルさんの携帯電話盗聴事件は、どうも新たな展開となりそうな気配だ。合衆国を糾弾した国々も盗聴を準備中だったとか。さもありなん。そう考えたほうが穿った見方ではないか。というか・・・新聞がこぞって「盗聴は信じられない」という報道をすることに違和感を覚え「マジかよ!」と茶番を見ているような気がして鼻白むのだ。新聞がもし本当に「ありえねぇ~」と思っているなら見識不足を批判されるべきだ。そしてあえて現実逃避しているのか、そういう立ち位置にいるのなら、もはや報道の意味をなしてはいない。論客が「平和ボケ」と言うのをよく耳にするが、今回の一件でそれを痛感した。そういった面では報道もある意味で一定の価値はあろうが、それではあまりに情けない。マジかよ!はっきり申し上げて、歴史を学びその上にたち実社会を見渡したとしたら、今回の盗聴事件に際しての論調は「首相の携帯を盗聴される組織(国家)が悪い」というのが穿った見方になるはずだ。『孫子の兵法』をひく。(水野実著「孫子の兵法」参考)『盟主賢将の動きて人に勝ち、成功の衆に出づる所以の者は、先知なり。』聡明な君主、智謀の将軍が、軍事行動を起して敵に勝ち、人並みはずれた成功を収める要因は「先知」にこそある。『爵禄百金を愛(お)しんで敵情を知らざる者は、不仁の至りなり。』爵位・俸禄・賞金を惜しみ敵情を探知しない者は民を憐れまない人でなしの極みである。いずれも『用間篇』であり、字の如く「間を用う」心得が綴られているのだが、まずもって『孫子の兵法』は世界各国において必読の書である。少なくとも、為政者や軍の将校以上で読んでいない者などありえない。なおかつ、遥か昔の夢物語ではなく、政治のそして軍の礎として扱われているのだ。そして着目しなければならないのは『孫子の兵法』は、いまや決して戦争の指南書ではなく、戦わずして勝つといういわば平和をどうやって維持していくかという思考の書であるということだ。『兵は詭道なり』つまり相手を知らずに、そして知ろうともしないで、ただボッとしているだけで均衡を保てるはずはないのである。そして、『兵は詭道なり』の真髄は手の内をみせないことにこそある。そこに最大限の勢力を集中させ、恒常的な努力を注ぐことは、為政者や軍の第一義なのである。それをもってメルケルさんの携帯電話盗聴事件を考えると、ドイツの不手際こそ論じられるべきであり、報道各社が間諜を放った合衆国を糾弾するのは本質を論じていないといわざるを得ないのである。先に「平和ボケ」と書いたが、そういう風潮が蔓延してる我が国において、いわんや日本をや、は必定であろう。報道の有様も見るに誠に恐ろしい限りである。ときにマスコミは「国民の知る権利」を煽り政権への確執を深めているが、それは「間諜に情報を垂れ流す」という側面も報じてもらいたいものである。まず大切なことは、平和とは何か、平和をどうやって守っていくのか、それを皆で等しく真剣に考え、そしておおいに論じていく、そのことであろう。日々深まりゆく秋に諸行無常を観じ、国家の行く末を憂いた次第である。
2013.11.04
コメント(0)
【ライフ・オブ・デビッド・ゲイル】「これはオフレコだけど」「いいわ。オフレコで」「ルーマニアの秘密警察の手口だ。手錠をかけ鍵を呑ませ、口にテープ、ビニール袋で窒息死させる。口を割らない者へのやり方だ。死んでいく者に悟らせるんだ。“自由への鍵は、結局、自分自身の中にあった”ってことをね」 今さら言うまでもないことだが、この作品は死刑制度に反対している監督が、「冤罪での死刑はありうるのだから、死刑は廃止するべきだ」とする立場で製作したものだ。日本のような小さな島国と違って、アメリカは多民族で形成された国家である。しかもキリスト教主義が根底にあるので、宗教上からも死刑の存廃については、大きな影響があるに違いない。まかり間違って無実の人が死刑を宣告を受けることなどあってはならないが、そういうことがありうるのだから死刑制度なんて即撤廃、という結論は早計のような気がする。ただ、昨今の警察官の汚職やわいせつ行為、さらには捜査能力への不信感を考えると、やはり人間のやることに完璧なものなどないのだと、改めて痛感せざるを得ない。とすると、あるいは死刑囚の中に冤罪で命を落とすことになる者もいるのではないかという疑問も生じてしまう。そんな中、死刑制度の存続に賛成する人たちに、一石を投じた作品となっている。死刑判決の下されたデビッド・ゲイルは、多額の報酬と引き換えに独占インタビューに応えることになった。ゲイルは、女性敏腕記者のビッツィーを指名し、無実の罪であることを主張する。罪状は、ゴウカン殺人だが、ゲイルには身に覚えがないとのこと。元大学教授で、死刑廃止運動に携わっていたため、死刑賛成派の過激派が仕掛けた罠ではないかと訴える。最初は半信半疑でゲイルの話を訊いていたビッツィーだが、しだいにゲイルは冤罪なのではと疑問を抱き始めるのだった。主人公のデビッド・ゲイル役に扮したケヴィン・スペイシーは、とにかくカッコイイ。 インテリでクールで、その甘い声も役者として効果的だ。今回のデビッド・ゲイルという複雑なキャラクターも、見事なハマリ役で申し分ない。 女性敏腕記者ビッツィー役のケイト・ウィンスレットも、女性らしさを失わず、それでいて芯の強い熱血ジャーナリストを演じていた。内容としては、賛否両論あるところだが、どこまでも冷静さを失わないケヴィン・スペイシーと、熱く勢いのあるケイト・ウィンスレットの対比が面白い。思想的なものに捉われず、社会派サスペンスとして鑑賞するのがおすすめだ。2003年公開【監督】アラン・パーカー【出演】ケヴィン・スペイシー、ケイト・ウィンスレット
2013.11.03
コメント(0)
【酒井順子/負け犬の遠吠え】◆高学歴・高収入・独身女性の抱える苦悩と開き直り“負け犬”という流行語まで生み出した話題の本を、今ごろになって読んでみた。この本がベストセラーになったのはすでに10年も前のことである。今さらだがここで言う“負け犬”の定義とは、「30代以上・未婚・子ナシ」の女性のことだ。(オスの負け犬についての記述もあり)心当たりのある方は、居心地の悪い思いをされるかもしれない。でも大丈夫。この本はそういう方々を非難するものではなく、「負け犬ですけど、何か?」と、むしろ開き直ってみせるエッセイなのだ。『負け犬の遠吠え』の著者が視野に入れている“負け犬”というのは、高学歴・高収入で、しかも見た目もなかなかという女性である。実際、都会に行けば行くほどそういうインテリ美人は多いはずだ。私のようなド素人がちょっと考えただけでも「それは難しいなー」と思うのは、自分の力で生活できて、異性に対する依存から解放されている女性がわざわざ結婚というイバラの道を選ぶわけがないと思うからだ。(イバラの道というのはちょっとオーバーな言い回しだが)「私は結婚なんてしないわ」という何らかの思想とか信念によるものではなく、結婚したいと思う相手が見つからないからたまたましないだけでいる負け犬の方々に、「理想が高すぎるせい」だとか「完璧主義だから」だなどと決め付けるのは余りに酷な話だと思うわけだ。だから、著者の発信する一つ一つの事柄や事象に、素直に肯かずにはいられない。例えば、「“私は貧乏な主婦だけど、でもとりあえず現時点で結婚はしている。負け犬ではないのだ”ってところを心の拠り所にして、頑張っている」という記述があったが、これはそのものズバリだと思った。考えてみると私の周囲にいる負け犬の友人は、とても真面目で真摯に生きている。決して贅沢な暮らしはしていないが、知的だし、質の高い自分磨きに余念がない。反って、自営業のカレと結婚して二児の母親となった友人の方が、姑との関係悪化と子育ての悩みなどを抱えていて、何やら切実に思えてしまう。まぁ、実際のところそれぞれに良い面、悪い面があって、甲乙つけがたいけれど、それでも30代以上・未婚・子ナシの友人を“負け犬”と呼ぶのは抵抗があるぐらい充実した生活ぶりだ。著者・酒井順子の言うように、そんな負け犬は現代日本において、家庭を持たないことはまだまだ罪悪なのだ。だから結婚もせず、子どもを産み育てていないような女性はずっと自分で自分を正当化しつつ生きていかなくてはならないらしい。実際は、お金も時間も自分の自由にできる負け犬らは、どこかで勝ち犬らに遠慮し、気を使いながら、「すみませんねぇ、私、負け犬なんで」と、あくまで下でに出て、相手を立てることを忘れない。先々のことを考えると、やっぱり寂しい独身女は同情される対象になりやすいようだが、いくら結婚していても老後になって嫁にいびり倒され、孤独で虚しい晩年を過ごす勝ち犬(?)も少なくはないことを知ると、「どっちもどっちだなー」とつくづく思ってしまう。大切なのは、どちらの生き方もお互いに尊重し合うということだろうか?読み易い文体と現代社会に即した内容は、読者を選ばないので、とりあえずの一読をすすめたいエッセイである。『負け犬の遠吠え』酒井順子・著☆次回(読書案内No.98)は夏樹静子の「蒸発」を予定しています。コチラ
2013.11.02
コメント(0)
秋山や 人が放てる 笑ひ声 前田普羅 普羅を思慕し秋の富山に来ている。もうひとつ、池内紀センセイが「二列目の人生」で書かれている篁牛人(たかむらぎゅうじん)の渇筆画を見るためだ。 普羅は虚子門弟四天王の筆頭格だ。我が大叔父も、末席とはいえ虚子門下なので、普羅には親近感を抱くのだ。ましてや句風が私好みである。昨日は普羅が愛した富山の街並みをそぞろ歩いた。今日は牛人の渇筆画を心行くまで満喫したいと思う。秋の富山は徘徊(俳諧)が似合う(笑) 朝、立山連峰を臨みつつ記す。
2013.11.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1