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★スタ-リング・サン・ジャーク (vm=a) Sterling Saint-Jacques本名レイモンド・セント・ジャッカス(Raymond Saint Jacues) 1957年10月12日、米国カリフォルニア州ロサンゼルス生、1984米国ニューヨーク州ニューヨーク没、歌手、俳優、モデル、ダンサー。芸名表記はサンレモ音楽祭出場当時の歌手活動はフランスのレコード会社との契約だったためスタ-リング・サン・ジャークとしています。 活動期間:1980 – 1984年所属レコード会社:Yona Music (France)、Dig-It International、Papillon、Airportサンレモ音楽祭出場1回:1981年入賞サンレモ音楽祭出品 曲:公式ホームページ 誕生名はスターリング・コルター (Sterling Colter)で米国ユタ州ソルトレークシティ (Salt Lake City)出身(誕生はロサンゼルスとも言われている)、母の再婚でスターリング・トーマス(Sterling Thomas)とし60年代後半にニューヨークへ引越しています。 70年本邦劇場未公開映画「ダイナ(Dinah East)」の頃から映画出演をするようになり、72年映画「ハーレム愚連隊(Come Back, Charleston Blue)」に出演した時に、映画「ロールスロイスに銀の銃(Cotton Comes To Harlem)」などで知られるアフリカ系アメリカ人俳優レイモン・サン・ジャック(Raymond St. Jacques) {本名ジェイムズ・アーサー・ジョンソン(James Arthur Johnson)}に認められ、養子となって彼の芸名を本名として受継いでいます。 70年代は映画出演もしていますが、男性トップモデルとしてニューヨークの社交界を賑わす存在となっていました。 その後アメリカとヨーロッパを往復する仕事をしていましたが、70年代末ヨーロッパに拠点を移し、パリでヨナ・ミュージック(Yona Music)と契約し歌手活動も始めました。 そして「青い目のニガー(Il Negro Dagli Occhi Azzurri)」として知られるようになりました。実は目の色は灰色で青いカラー・コンタクトを使っていました。アメリカでもトップの男性モデルであって、歌唱力は二の次で、テレビ映えする彼の存在はヨーロッパでも群を抜いていたようです。 またダンサーとしても有名でパートナーはアフリカ系アメリカ人ではスーパー・モデルの草分けパット・クリーブランド(Pat Cleveland.)でした。 これらのブログを書く主な資料にしているのはウィキペディアとディスコグスを見ていますが、これですべてという確証は有りませんがイタリア・デヒューは”Again”ではないかと思います。何しろ本職の歌手でないため、この辺のところの記述があいまいです。 DG-1201 (1980 年 Dig-It International – EMI Italiana) Again/I'm A StarDG-1201 PL-3023PL-3023 (1980年 Dig-It International – EMI Italiana) Sterling Saint Jacques1.Again2.Turn Me On3.Muscle Man4.I Wish You Welcome5.Black Man White Man6.I'm A Star7.Get Off My Back 同年アルバム「Sterling Saint Jacques」が発売されます。これはフランスで発売された「I Wish You Welcome」と同じものです。 こうして81年サンレモ音楽祭にスタ-リング・サン・ジャークは出場、入賞します。歌唱力は二の次、三の次。You-Tubeにも当日の映像がアップされていますので、探して見てください。 DG-1205 (1981年 Dig-It International – EMI Italiana) Tutto è Blu (Blue)/Turn On Me DG-1205 83年、彼はパピヨンレコードに代わってファンキーミュージックとディスコミュージックのミックスである“Comin'、Into Love”を発売し、いくつかの夏の音楽祭に参加しました。 MR・NP-14002 (1983年 Papillon Records) Comin, Into Love (Vocal)/Comin, Into Love (Instrumental)MR・NP-14002 MRP-4002MRP-4002 (1983年 Papillon Records) 12" Maxi Comin, Into Love (Vocal)/Comin, Into Love (Instrumental)/Comin, Into Love (Overdubs-Acapella) イタリアで最後のマキシ・シングルは” Mister Moonlight”でした。 ITF-362 (1984年Airport – Interfonia) 12" Maxi Mister Moonlight (Vocal Version)/Mister Moonlight (Instrumental Version) ITF-362 同年スタ-リング・サン・ジャークはニューヨークでエイズにより亡くなったと言われています。 スタ-リング・サン・ジャークの国内盤はありません、スタ-リング・サン・ジャークは以上です。 ★カルメン & トンプソン (duo=sz) Carmen and Thompson カナダ生まれの二人の歌手、フィリカルメン(Phil Carmen)とマイク・トンプソン(Mike Thompson)がスイスで結成したデュエット・チーム。 活動期間:1979– 1982年所属レコード会社:BB Records{Switzerland)},F1 Team[Italy]サンレモ音楽祭出場1回:1981年入賞サンレモ音楽祭出品 曲:公式ホームページ メンバー構成・フィル・カルメン(Phil Carmen)ウィキペディア(以下Wikiと略)では本名ハーバート・ホフマン(Herbert Hofmann) 1953年2月14日スイスのルツェルン(Lucerne)生私の持っているサンレモ本(以下LSRと略)では1953年7月14日、カナダのモントリオール(Montreal)生の二説ある。歌手、ミュージシャン、プロデューサー。 ・マイク・トンプソン(Mike Thompson)Wikiではマルセル・カルッツィ(Marcel Caluzzi)生。※この地名はどこの国か不明。私の持っているLSRでは1951年10月29日モントリオール(Montreal)生、歌手、ミュージシャン。※サンレモ本=Eddy Anselmi:Frstival di Sanremo – Almanacco illustrato della Canone Italiana [PANINI: S.p.A.2009] Wikiではカルメンはドイツのフランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)とスイスのルツェルンで暮らしました。ルツェルンでは、彼は音楽院に行きましたが、後に簿記を学びました。1975年に、彼は音楽に将来を託す決心しました。. そしてベーシストのマイク・トンプソンとデュオ「カルメン&トンプソン」を結成し、特にカントリーミュージックを演奏しました。 LSRではフィルはギターとピアノを弾き、マイクはモントリオール音楽院を卒業した後、ベースを弾いていました。二人はスタジオミュージシャンとしてさまざまな経験を積んだ後、スイスのルツェルンに移り、そこでレコーディングスタジオを開きました。 79年にアルバム「Time Moves On」でスイスの音楽シーンにデビューし、80年そこからアルバムからシングル・カットしたが“Time Moves On”がヒットしスイス、ドイツ、イタリア(80年年間ヒット・ランク96位)で注目を浴びるようになります。 IH・201008-35 (1979年 BB Records – BB Records, Switzerland) Carmen & Thompson – Time Moves OnLP-3320 (1980年 F1 Team – Panarecord) Carmen & Thompson – Time Moves On1.I Meet You At Midnight2.It Will Set You Free3.Time Moves On4.Natalie 5.Night Sight Of The City6.The Music Lies Waiting7.I'm Not The One8.We'll Do It9.Don't Ask The Wind10.Winter LoverIH・201008-35 LP-3320 IH・1010-102B (1980年 BB Records – BB Records, Switzerland) Maggie/Back AgainIH・1010-102B IH・1010-33IH・1010-33 (1980年 BB Records – BB Records, Switzerland) I Meet You At Midnight/The Music Lies Waiting IH・1010-35 (1980年 BB Records – BB Records, Switzerland) Time Moves On/NatalieIH・1010-35 P- 549P- 549 (1980年 F1 Team – Panarecord) Time Moves On/Natalie このヒットにより80年の”Follow Me”でサンレモ音楽祭の出場権を得ました。結果は入賞、年間ヒット・ランクには入りませんでしたが、週間ヒット・ランクで最高位39位、在位11週の地味ながらヒットをしました。 P- 561 (1981年 F1 Team – Panarecord) Follow Me/No Chance RomanceP- 561 LP-3326LP-3326 (1980年 F1 Team – Panarecord) Carmen & Thompson – No Chance Romance1.No Chance Romance2.The Sun Goes Down3.Q Minor Seven4.Goin' West5.Follow Me6.Back Again7.Wake Up8.What Is In A Song9.Waitin' For A Sign10.Indian Queens サンレモ音楽祭の入賞で、イタリアで販売権を持つF1チームからアルバム「Carmen & Thompson – No Chance Romance」が発売されました。 F1チームからシングル盤“Five More Days”が発売されます。どうやらこの盤がカルメン & トンプソン最後のレコードになったようです。 P- 599 (1981年 F1 Team – Panarecord) Five More Days/PhrasesP- 599 104-363104-363 (1982年 Ariola – Ariola Group Of Companies,Germany) Five More Days/ Not Guilty カルメン & トンプソンは解散しそれぞれソロ歌手の道を歩みだします。 カルメンは7年間のステージ経験の後、82年スイスのシュタイン・アム・ライン(Stein am Rhein)にピカール・スタジオ(the Picar Studios))を設立し、ソロ歌手として活動開始しました。 F1チームで出した“Five More Days”をソロ歌手としでドイツのアリオラでシングル盤を制作します。 82年F1チームで“Loving You”を発売し、この曲をB面としてスイスのシュノウツ・レコードで“Sin-City”を制作しました。 P- 649 (1982年F1 Team – Panarecord) Loving You/Sometime P- 649 6028-0976028-097 (1982年 Schnoutz Records – PolyGram Records,Switzerland) Sin-City (Shivering Rain)/Lovin' You 同年シュノウツでソロのファースト・アルバム「Backfire」を制作、イタリアのF1も同アルバムを発売しています。 6367-040 (1982年 Schnoutz Records – PolyGram Records,Switzerland) Phil Carmen – BackfireLP-3373 (1982年F1 Team – Panarecord) Phil Carmen – Backfire1.Loving You2.Not Guilty3.Road To Freedom4.Still On My Mind5.Risin' Up New Mornin'6.Sometimes7.Backfire8.Hobo Joe9.But Marianne10.Five More Days11.Requiem For A Neighbour6367-040 LP-3373 翌83年セカンド・アルバム「Phrases, Patterns An' Shades」を制作、イタリアでF1から同アルバムを発売しますが、これがイタリアで最後の新譜となったようです。 814-552・1 (1983年 Schnoutz Records – PolyGram Records,Switzerland) Phil Carmen – Phrases, Patterns An' ShadesLP-33605 (1984年F1 Team – Panarecord) Phil Carmen – Phrases, Patterns An' Shades1.Sing Happy Birthday (An' The Candle Burns Down)2.Walkin' On Air3.So Lonely4.Seduction5.Where Are We Goin'6.Phrases, Patterns An' Shades7.Panatlantic Writin' Man8.Dreamer Dream On9.Time To Go814-552・1 LP-33605 同年一方のマイク・トンプソンもソロ・アルバム「Waiting For Winter」をドイツのテルデックから出しますが、その後の消息は聞かなくなりました。 66-23334 (1983年 TELDEC – TELDEC Schallplatten,Germany) Michael Thompson – Waiting For Winter1.Child Of Light2.Wings Of Sand3.Winter Wind4.In Flight5.Storm Of Desire6.Holding On To The Light7.Heart And Mind8.Not Yet Departed9.Gypsy´s Shawl10.High On Your Way 66-23334 CD時代に入りスイスで編集ベスト盤「Phil Carmen, Mike Thompson – Greatest Hits」が発売されました。 200-001 (1987年 EUREX – EUREX-Handels, Switzerland) Phil Carmen, Mike Thompson – Greatest Hits600-001 (1987年 EUREX – EUREX-Handels, Switzerland) CD Phil Carmen, Mike Thompson – Greatest Hits1018-2099・2 (1993年 Music Mirror – Selected Sound Carrier, Switzerland) CD Phil Carmen, Mike Thompson – Greatest Hits [7 61992 91028 2 0]1.I Meet You At Midnight2.Time Moves On3.Natalie4.Night Sight Of The City5.Q Minor Seven6.No Chance Romance7.The Sun Goes Down8.I'm Not The One9.Follow Me10.Indian Queens 200-001 600-001 1018-2099・2 カルメン & トンプソンの国内盤は有りません、カルメン & トンプソンは以上です。
2023.02.21
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★セバスティアーノ・オッキーノ (vm) Sebastiano Occhino1951年4月1日シチリア島中央部の中都市エンナ(Enna)生、自作自演歌手、作曲家、アコーディオン奏者兼ピアニスト。 活動期間:1978年-現在所属レコード会社: Ricordi, Ariston Musicサンレモ音楽祭出場1回:1981年参加サンレモ音楽祭出品1曲:1981年(自己歌唱曲)公式ホームページ:https://sebastianoocchino.com/ セバスティアーノは幼い頃に音楽と出会い、6才でアコーディオンを、その後オルガン、クラシック・ギターを学びました。 学校では地質学を専攻し、卒業後1970年から77年にかけて音楽の勉強と経験を積んでいきます。彼はロック・バンド(Gli Aedi)に参加して歌手、オルガニスト、アレンジャーとして地元や全国レベルの様々なコンテストで優勝します。 77年にはパンク・ロック・バンド、アエディ(Gli Aedi)でポリドールからシングル盤”Fratelli D'Italia”を出すことが出来ました。 2060-157 (1977年 Polydor – Polygram Dischi) Fratelli D'Italia/La Bomba Atomica 2060-157 その後ソロ歌手として活動を始め、78年にアリストンに移籍したオルネラ・ヴァノーニ(Ornella Vanoni)を一層スケールの大きな歌手に飛躍する手助けをし、ヌメロ・ウーノ時代にはルーチョ・バッティスティも担当した女性プロデューサー、マラ・マイオンキ(Mara Maionchi)の目にとまりました。 マラはリコルディで広報担当支配人の仕事をしており、同社にオッキーノを入社させました。ただし歌手でなく作家および作曲家でした。 次に86年ロレッタ・ゴッジ(Loretta Goggi)が出したアルバム「C'È Poesia」のプロデュースとマネージメントをしたジュスタ・スポッティ(Giusta Spotti)に見出され、アリストンと歌手契約を結ぶことが出来ました。 セバスティアーノは女性プロデューサーに贔屓してもらえる魅力を持っているのでしょうか? こうして81年サンレモ音楽祭に”Bianca Stella”でただ一度の出場し、参加曲となりました。一方マラ・マイオンキがプロデュースする初出場のエドゥアルド・デ・クレッシェンツォ (Eduardo De Crescenzo)は入賞、特別審査員賞を受賞し81年年間ヒット・ランク42位に入る大成功をしています。これもプロデューサーの力の違いなのでしょう。 AR-00909 (1981年Ariston - Dischi Ricordi) Bianca Stella/Che Solitudine, Che Noia AR-00909 この後セバスティアーノ・オッキーノは元の作家および作曲家の道を選択します。91年まで、作家および作曲家として、イタリアおよびヨーロッパの主要なレコード会社と多くのレコード契約を結んでいました。 95年彼は未発表曲を含む宗教音楽のCDとMCアルバム「Sentirmi Libero (Andromeda Spettacoli)」をバンダ音楽出版で制作し、アーティストとしての地位を再提示しました。このアルバムは、ナターレ・マッサーラ(Natale Massara)とセバスティアーノのジュジー・オッキーノ(Giusi Occhino)が指揮するミラノ交響楽団(L’Orchestra Sinfonica di Milano)によって作成されました。 (1995年 Padana Edizioni) CD Sentirmi Libero (Andromeda Spettacoli) 1.Sentirmi libero2.La preghiera e la mia musica3.Mamma mia4.Padre Nostro5.Ave Maria6.Fermati un po'7.Grazie Signore8.Il peccato originale9.Io ti ho cercato10.Nel cielo 同年、彼はビデオ・ミュージカル作品「Enna、le Immagini e la mia Musica」のサウンドトラックを、ビデオ製作者のサンドロ・ベロモ(Sandro Bellomo)と共同で作成しました。 97年、彼はターゲット・ディ・エンナ(la TARGET di Enna)によってプロデュースされた中世音楽のアルバム「Alla Corte di Federico」を発売しました。 彼の芸術性はサウンドトラックの構成に向けた重要な芸術的進化を開始します。翌98年今までの活動を踏まえ、大きな転換点を迎えます。 セバスティアーノ・オッキーノが住む故郷の町エンナで、彼自身が考案した絵画と音楽の仮想展示で構成される「ミュージカル・アート」を通じてシチリアの芸術を宣伝した博物館「ミュージカル・アート・ミュージアム(Museo Musical Art)」の構想とオープンが続きます。 2000年以来、彼は権威ある公的機関による数え切れないほどのショー・ベント「ミュージカル・アート」を作成していきました。 セバスティアーノ・オッキーノの国内盤はありません、セバスティアーノ・オッキーノは以上です。 ★フランコ・ファザ-ノ (vm) Franco Fasano本名ジャンフランコ・トンマーゾ・ファザーノ(Gianfranco Tommaso Fasano) 1961年6月30日サンレモの北東30kmリヴィエラ沿岸にある小都市アルベンガ(Albenga)生、自作自演歌手、作曲家。 作曲の場合ジャンフランコ・ファザーノのペンネームも使います。 活動期間:1978年-現在所属レコード会社:Skorpion、Durium、CBS(Columbia)、Iperspazio、RTI、Nikto、NARサンレモ音楽祭出場4回:1981年参加、89年、新人部門第3位、90年新人部門第2位、92年7位(フリヴィア・フォルトゥナートとデュエット)サンレモ音楽祭出品16曲:1981年参加曲(自己歌唱曲)、82年入賞曲、参加曲、84年8位、85年9位、87年4位、88年5位、1989優勝曲、23位、新人部門第3位(自己歌唱曲)、90年第2位(自己歌唱曲)、92年7位(自己歌唱曲)、92年13位、2005年参加曲、09年入賞曲、参加曲、アルバム:6(スタジオ5);編集ベスト盤1公式ホームページ: ジャンフランコは生まれたアルベンガの隣町アラッシオ(Alassio)で育ち、サンレモでマエストロのピッポ・バルジッツァ(Pippo Barzizza)の下で音楽を学びました。 1978年マイナー・レーベルのスコーピオン(Skorpion)からジャンフランコ・ファザーノの名前でシングル盤を出します。 SK-3・214 (1978年 Skorpion – Alpharecord) Splash!/Candid Love (La Porta Dei Sogni) (come Gianfranco Fasano) SK-3・214 2年後の80年ドゥリウムから正式に”Mi Piaci Tu”メジャー・デビューをしました。(多くの男性歌手がそうであったように)ジャンニ・モランディ系の歌手でした。 Ld・AI-8083 (1980年 Durium - Durium) Mi Piaci Tu/Sarai Mia Ld・AI-8083 Ld・Al-8102 Ld・Al-8102 (1981年 Durium - Durium) Un'Isola Alle Hawaii/Amarti メジャー2枚目のシングルが81年サンレモ音楽祭出場曲”Un'Isola Alle Hawaii”でした。自作で曲自体そう特徴もなかったのですが、ともかく歌う曲順が初日の1番目ということで、緊張しまくって上手く声も出てない様でした。 3枚目が”Chewing Gum”という、バブルガム・サウンドよりもっと古い20年前のツィストが流行った頃の曲でした。これは意図して狙ったのか?Ld・Al-8119 (1981年 Durium - Durium) Chewing Gum/Esami Di Maturità Ld・Al-8119 この後音楽の世界の裏方のソングライターの仕事に徹します。 82年サンレモ音楽祭にデスパ(Despa)とピヌッチョ・ピラッツォーリ(Pinuccio Piarazzoli)と3人で組んで2曲の楽曲を提供しています。1曲はベルギーのバンド、プラスティック・バートランド (Plastic Bertrand)が歌った“ピン・ポン(Ping pong)”と参加曲止まりですがサンレモ音楽祭出場がレコード・デビューだったフィオルダリーゾ(Fiordaliso)の“Una Sporca Poesia”でした。 これらの曲は何れもドゥリウムからのサンレモ出場曲でしたので、フランコ・ファザ-ノはドゥリウムで働きだしたと言う事でしょう。 84年のサンレモ音楽祭にはWEAイタリアーナから出場したドゥルピ(Drupi)に”君の微笑(Regalami Un Sorriso)”を提供し8位(年間ヒット・ランク94位)に、翌85年サンレモ音楽祭には82年に一緒に仕事をした関係なのか、デスパと共に出場歌手でもあるペピーノ・ディ・カプリ (Peppino Di Capri)とチームを組んで“エ・モ・エ・モ(E Mo’ E Mo’)“を作り8位入賞となりました。 これらの曲がフランコ・ファザ-ノにとって、ヒット曲ライターとして注目される機会となりました。 87年好機の前触れのような曲作りに参加します。サンレモ音楽祭にファウスト・レアーリ (Fausto Leali)自身とトト・クトゥーニョ(Toto Cutugno),というスーパー・カンタウトゥーリ・チームの”イオ・アモ(Io Amo)”が4位入賞、87年年間ヒット・ランク15位となる特大ヒットになりました。 続いて88年サンレモ音楽祭にナポリの作詞家ファブリツィオ・ベルリンチョーニ(Fabrizio Berlincioni)と組んでファウスト・レアーリに歌う“あやまち(Mi Mianchi)”を提供しました。ヒットは前年ほどではありませんが、同年年間ヒット・ランク66位に入っています。それより後年アンドレアボチェッリ(Andrea Bocelli)が”ミ・・マンキ”としてカヴァーし、日本での知名度はぐんと上がりました。 こうしてレア-リと良好な関係を築く中、89年フランコ・ファザ-ノは8年ぶりのサンレモ音楽祭の出場権を得て歌手復帰となりますが、アンナ・オクサ(Anna Oxa)とファウスト・レア-リがデュエットした“あなたを残して (Ti Lascerò)”が優勝、さらにもう1曲、ジジ・サバーニ (Gigi Sabani)に提供した“世界の終り(La Fine Del Mondo)”23位になりました。 彼にとって人生最良になった年の話は989年サンレモ音楽祭の後になります。 フランコ・ファザ-ノの国内盤は有りません、フランコ・ファザ-ノ2は1989年サンレモ音楽祭の後に続きます
2023.02.16
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★ステファ-ノ・ト-シ (vm) Stefano Tosi本名ステアーノ・トーシ・イノチェンティ(Steano Tosi Innocenti)1959年1月3日フィレンツェの北西20kmにある中都市ピストイア(Pistoia)生、自作自演歌手。 活動期間:1979?-83年所属レコード会社:Carosello, Duriumサンレモ音楽祭出場1回:1981年入賞サンレモ音楽祭出品1曲:1981年入賞(自己歌唱曲) 1970年代半ばからトスカーナの音楽シーンでソング・ライターとしての活動を始め、同じくソング・ライターのカルロ・ダプルッツォ(Carlo D'Apruzzo)と出会うまで"La Ruga"、"Il Fango"、"N'connetto Più"などの珍しいタイトルの特定逆説的な味わいある曲の作者、異様でシュールなキャバレーアーティストでした。 ダプルッツォは80年代初頭の若き音楽ディレクターとして頭角を現すフェルナンド・カペッキ(Fernando Capecchi)のヴェガ・スター・エージェンシー(L'Agenzia Vega Star)を通じてジリオラ・チンクェッティがデビューしたことで知られているジャンニ・ラヴェラ(Gianni Ravera)主催の80年カストロ・カーロ新人コンテスト(Il Concorso “Voci Nuove” di Castrocaro)に出場できるように手配しました。その年はモデナ(Modena)のピウマッツォの「キウイ」(Il“Kiwi” di Piumazzo)で開催されました。 この年の新人コンテストの優勝は81年サンレモ音楽祭に出場し、”略奪されたロ-マ (Roma spogliata)”を歌って入賞(実質4位)になったルカ・バルバロッサ (Luca Barbarossa)でしたが、ダプルッツォは歌手としてまたその年に出場した他の新しいパフォーマーの作家として参加し、一般の人々やレコード業界の代表者の間で、バルバロッサと共にサンレモ音楽祭への出場の推薦を得ることが出来ました。 サンレモ音楽祭は新曲コンテストで未発表曲のみが出場権を得ます。過去には他の歌手がレコードを発売してしまったり、出場歌手が不用意に放送で歌って失格になっています。その後でも96年音楽祭開催直前にオルネラ・ヴァノーニ(Ornella Vanoni)が出場予定曲“Bello Amore”をラジオで口ずさんでしまい、即失格になりました。彼女の曲は良い出来でしたので関係者はショックだったようです。 これほど厳しい規則なのですが、カストロ・カーロの主催であり、サンレモ音楽祭のオーガナイザーのジャンニ・ラヴェラは超法規的措置で公表済みの“イオ・ミ”での彼の81年サンレモ音楽祭出場を認めてしまいました。 元は明るい軽快な曲調ですが、音楽祭で発表された曲は重々しく深刻なトーンに変えられており、トーシの内面そのものが露わなものに変わっていました。 CI-20492 (1981 年Carosello – Dischi Ricordi) Io Mi... (イオ・ミ)/ Uh TivvùCI-20492 Ld・AI-8210 Ld・AI-8210 (1984年Durium – Durium) Gente D'Europa/Gente D'Europa (Strumentale) 彼はカロセッロとレコード制作契約結んでいますが、親会社のクルチ音楽出版(Le Edizioni Curci)とも契約しています。作詞家ミルコ・フィリストルッキ(Mirco Filistrucchi)と共に主なオーディションを受け様々な理由で断られました。クルチ音楽との関係も悪化し、カロセッロで録音された物もお蔵入りとなります。 83年ドゥリウムに移籍し、良心的兵役拒否を支持する曲“Gente D'Europa”を制作、商業ルート以外の方法で販売します。彼の最後のレコードとなります。 音楽活動を放棄、後にステファーノ・サーニ(Stefano Sani)、クレーム・キャラメル(Creme Caramel)、ホモ・サピエンスのマウリツィオ・ヌーティ(Maurizio Nuti degli Homo Sapiens)との散発的なコラボレーションしか行いませんでした。 ステファ-ノ・ト-シの国内盤はありません、ステファ-ノ・ト-シは以上です。 ★オリエッタ・ベルティ (vf) Orietta Berti本名オリエッタ・ガリバルティ(Orietta Galimberti)1945年6月1日パルマとモデナの中間にある小さな山中の町カヴリアーゴ(Cavriago)生、歌手。 OB-84 所属レコード会社:Karim, Polydor, Cinevox, CGD, GAPP Mus.サンレモ音楽祭出場11回:1966年6位、67年5位、69年10位、70年8位、74年3位、76年11位、81年入賞、82年参加、86年6位、92年参加(ジョルジョ・ファレッティとデュエット)、2021年9位公式サイト:http://www.oriettaberti.it/home.htm 1976年、前年に生まれた長男の名前がタイトルの出場曲“オマール”でサンレモ音楽祭に6回目の出場し11位になります。この頃には人気が急下降します。 息子オマールへの愛情か79年フィリップスでTVシリーズ「バーバパパ」の幼児向けサウンドトラック・レコードを出しました。 続いて80年メジャーデビューをしたフォノグラムから、次男オーティスの妊娠を機に日本では映画音楽で知られるチネヴォックスに移籍、子供向けヴァラエティ番組「Fuori Due」のテーマソング“La Balena”を移籍第一弾シングル盤として発売しました。 SC-1150 (1980年 Cinevox - Dischi Ricordi) La Balena/Settimo GiornoSC-1150 SC-1154SC-1154 (1981年2月 Cinevox - Dischi Ricordi) La Barca Non Va Più (行き先のない船)/ Devi Chiederlo A Papà オリエッタは出産休業明けの仕事として、81年サンレモ音楽祭に子供の捧げる歌“行き先のない船”で7回目の出場を果たしました。結果は入賞でしたが、その後のレコード・セールスでは年間ヒット・ランク80位になり成功を収めました。両面共ピッポ・カルーソ(Pippo Caruso)とカンタウトゥーリ、ブルーノ・ラウツィ(Bruno Lauzi)の作です。 SC-1157 (1982年 Cinevox - Dischi Ricordi) America In (アメリカ・イン)/Trippy SC-1157 前年の”行き先のない船”の成功をうけ”アメリカ・イン”で翌82年サンレモ音楽祭に連続出場をしました。コラード・コンティ(Corrado Conti)、ダニエレ・パーチェ(Daniele Pace)、マリオ・パンゼリ(Mario Panzeri)のトリオが両面作りました。これにジャンニ・アルジェニオ(Gianni Argenio)が加わればジリオラ・チンクェッティ(Gigliora Cinquetti)の大ヒット曲”雨(La pioggia)”の作曲チームとなります。B面”Trippy”は子供向けの曲として作られました。 出版系でクルチ出版「ヒットパレード・インターナショナル」シリーズからは編集ベスト盤が発行されています。 HP-22 (1982年 Hit Parade International –Armando Curcio Editore) Orietta Berti1.Il Ritmo Della Pioggia2.Dove Non So (何処かであなたと - ララのテーマ)3.Ritornerà Da Me4.Dominique(ドミニク)5.Alla Fine Della Strada (恋の終り (ラヴ・ミー・トゥナイト))6.Non Ti Scordar Di Me (忘れな草)7.Non Illuderti Mai (夢のかなたに)8.Ritorna Amore (恋人よ還れ)9.L'Amoroso10.L'Amore È Blu (恋はみずいろ[伊])11.Eternamente (ライムライト)12.Non È Più Casa MiaHP-22 2449-028 2449-028 (1983年 Polydor – Polygram Dischi) Successo Orietta Berti - Le Più Belle Canzoni Popolari Italiane Vol21.Teresina Imbriacuna (L'Uva Fogarina)2.Addio Morettin Ti Lascio3.La Monferrina4.La Bevanda Sonnifera5.Martino E Marianna6.Bella Campagnola7.La Rugiada La Si Alza8.Meglio Sarebbe9.La Marianna10.E La Violeta11.El Grill E La Formiga12.La Bella La Va Al Fosso13.Amore Mio Non Piangere14.La Gigia L'È Malada15.Il Cucù (È Ritornato Maggio)16.L'Apetit De La Sposa17.Maremma (マレンマ)18.Volea Baciar Rosetta19.Bela Bergera20.La Vendemmia21.On Occhin, On Occun, On'Ochetta22.E L'Allegrie23.E Picchia Picchia La Porticella24.Spunta Il Sol 83年、80年に出た北イタリアの民謡を集めた「Le Più Belle Canzoni Popolari Italiane」の第2集の廉価盤が発売されました。 同年小さなレコード会社G&Gから日曜午後の人気ヴァラエティTV番組「Domenica In」の料理コーナーのテーマソングとして作られた”Tagliatelle”を出しました。これで子供向けの曲の終了とします。 GG-0033 (1983年 G&G - Dischi Ricordi) Tagliatelle/Stella di mare GG-0033 この時すでにチネヴォックスとの契約は終了し、これ以降自らプロデュースする自分の為の制作会社ベルティ(BERTI)を設立、音源を大手レコード会社に提供する方法を取っていきます。 その第1回作品はウンベルト・バルサモ。プロデュースのアルバム「Le Mie Nuove Canzoni」で大きな転換点となりました。その重要な要素にカンタウトゥーリ・作曲家、ウンベルト・バルサモ(Umberto Balsamo)と、バルサモの大ヒット曲”ナタリー(NATALI)”やイヴァ・ザニッキ(Iva Zanicchi)が74年サンレモ音楽祭で歌った優勝曲”さよならも言わずに (Ciao Cara, Come Stai?)”、ザニッキの代表作”心遥かに (Testarda Io (La Mia Solitudine))”、ミーナ (Mina)の”愛の火は燃えて (おわりが大切) (L’Importante E' Finire)”のカンタウトゥーリ・作詞家のクリスティアーノマ・ルジョリオ(Cristiano Malgioglio)とのコラボレーションを開始し、アルバムの1,4,7曲目はバルサモの作です。 OB-84 (1984年 Ricord i– Dischi Ricordi) Orietta Berti – Le Mie Nuove Canzoni ※ジャケット写真は顔写真画像をご参照1.Dimmi2.Siamo Così3.L'Estate4.Un Minuto Ancora5.Se Domani6.Hey7.In Viaggio8.Cantare 同年旧籍のポリドールからファースト・アルバム「Canta Suor Sorriso」の復刻盤が廉価盤で発売されました。ブログを書いた当時、この再発盤の事を知りませんでした。改めてオリジナルのファースト・アルバムと共に紹介いたします。 817-399・1 (1984年 Polydor – Polygram Dischi) Successo Orietta Berti - Canta Suor SorrisoLPHM-46997 (1965年 Polydor - Phonogram) 30cm LP Orietta Berti canta Suor Sorriso1.Alleluia 2.Mi Vestirò Di Blu 3.Ho Incontrato Il Signor 4.La Mia Musa 5.Io Vorrei 6.Fior Di Cactus 7.Dominique(ドミニク) 8.Guarda Quelle Stelle 9.Ogni Strada 10.Fior Di Bambù 11.Basta Un Fior 12.Con Te817-399・1 LPHM-46997 オリエッタ・ベルティの国内盤は「サンレモの歌手たち 444 オリエッタ・ベルティ 4」で終了しました オリエッタ・ベルティ 7は1986年サンレモ音楽祭の後に続きます
2023.02.11
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★ジョ-・キアレッロ (vf) Jo Chiarello本名マリア・コンセッタ・キアレッロ (Maria Concetta Chiarello)、1963年5月14日シチリア最大の都市であり州都のパレルモ (Palermo)生、1980年代、90年代の歌手。芸名ジョ・キアレッロ(Giò Chiarello)、キアレッロを使った時期もある。 元ストラーナ・ソチェタ (La Strana Società)、ヌオヴィ・アンジェリ(I Nuovi Angeli)のドラムス、ヴァレリオ・リボーニ (Valerio Liboni)は夫。 91年サンレモ音楽祭でサブリナ (Sabrina Salerno)と〝ふたりは女 (Siamo Donne)”をデュエットしたジョ-・スクィッロ (Jo Squillo)は別人。 活動期間:1981 – 1998年所属レコード会社: Lupus, F1 Team, Disc Organization/ Babalú Records, Pipol , Yep, PKM, D.V. Moreサンレモ音楽祭出品5回:1981参加、89年新人部門第2位サンレモ音楽祭出品0曲:アルバム:2 (スタジオ2);編集ベスト盤1公式ホームページ: 1980年二十才以下を対象としたイタリアのミス・コン「ミス・ティーンエイジャー(Miss Teenager」に出場し17才で優勝しました。この時作詞家でプロデューサーのフランコ・カリファーノ(Franco Califano)が見出します。 フランコ・カリファーノは早速彼女を男に満足しない時「鞭打つような女」のアンナ・オクサ(Anna Oxa)を超えるパンクのイメージに仕立て上げ、翌81年のサンレモ音楽祭に出場させました。結果は参加曲止まりでした。 LUN-4916 (1981年 Lupus - Dischi Ricordi) Che Brutto Affare!/Io Ti Farò Impazzire LUN-4916 同時期に、彼女はトニーノ・プルチ(Tonino Pulci)監督、フランコ・カリファーノとアントネッラ・ステニ(Antonella Steni)主演の劇場コメディー「Non toccate Frankie & Tony」に出演しました。 82年(おそらくテレビの歌番組と思われる)「エスターテ・ディスコ(Estate Disco)」で発表された”In Bianco”がシングル盤として発売されました。 LUN-4929 (1982年 Lupus - Dischi Ricordi) In Bianco/SignorinLUN-4929 LUN-4949 LUN-4949 (1983年 Lupus - Dischi Ricordi) Che Ora Sarà/E Intanto Stasera... 83年もう一枚シングル盤” Che Ora Sarà”を出しますが、カリファーノがプロデュースしようとする音楽性と意見が合わず望む成功を得られませんでした。余りにもミス・ティーンエイジャー優勝者のイメージにとらわれ、若者に受入れられる曲を目指し過ぎたのか敗因だったと思われます。 彼女は複数のレコード会社、複数のルックス、1つの音楽スタイルの変更を強いられることになります。 84年に移った新レコード会社はパナレコードのF1チーム・レーベルでした。会社自体は若者向けのディスコ音楽から出発しています。移籍第一弾の”Lei No”はテクノ・ポップ調といってよいのかもしれません。将来結婚するヴァレリオ・リボーニが曲を作っています。 P-7348 (1984年 F1 Team – Panarecord) Lei No/L'Ultimo MetroP-7348 P-7355 P-7355 (1985年 F1 Team – Panarecord) Ma Io Vi Mollo E Vado Al Mare/Stai Con Me 移籍第二弾と言うか最後のシングル盤” Ma Io Vi Mollo E Vado Al Mare”は夏のヒット・シーズン向けのポップな曲調でした。プロデュースはリボーニがいています。 86年今度はイタロ・ディスコ・ミュージック専門レーベルに移籍して” Over Me”を出しました。 MD-31059 (1986年 Mr. Disc Organization – CGD Messaggerie Musicali) Over Me/Over Me (Instrumental Version) (pubblicato come Chiarello)MD-31059 BBL-010 BBL-010 (1986年 Babalú Records – CGD Messaggerie Musicali) 12”Maxi Over Me/Over Me (Short Version)/Over Me (Instrumental Version) 87年ピポル(Pipol) という小さなレーベルと契約します。調べてみると82年から88年まで活動し、フルヴィア・フォルトゥナート(Flavia Fortunato)も一時所属していました。どうも作詞・作曲家のエリオプ(Eliop)のレーベルのようです。 彼は74年に設立されたばかりのイェップ(Yep)・レコードのプロデューサーで共同経営者でもあるエリオ・パスカーレ・パルンボ(Elio Pasquale Palumbo)その人です。 ジョ-・キアレッロは歌唱を変えます。声を張り上げるとデビュー当時からの甲高い高音ですが、落ち着いたバラード系の曲を歌う歌手に変身します。87年夏のディスク・フェスティヴァル新人の部に出場しました。 PNP-00668 (1987年 Pipol – Dischi Ricordi) Ma Che Bella Storia D'Amore/ l FuturoPNP-00668 YNP-00996 YNP-00996 (1988年 Yep – Dischi Ricordi) Come Nasce Un Nuovo Amore/Poesie Di Un Attimo 88年ピポルが活動停止した事が原因を思いますが、親元の会社イェップに移籍し“Come Nasce Un Nuovo Amore”を出しました。 翌89年二度目のサンレモ音楽祭に出場を” Io E Il Cielo”というバラード曲を歌い新人部門第2位となる好成績を残しました。(9年目の再出場で新人部門というのも少々辛い気もしますが) YNP-00997 (1989年 Yep – Dischi Ricordi) Io E Il Cielo/Come Nasce Un Nuovo AmoreYNP-00997 YLP- 12 YLP- 12 (1989年 Yep – Dischi Ricordi) Jo Chiarello – Io E Il Cielo1.Fammi Toccare2.Io E Il Cielo3.In Viaggio Verso Te4.Ma Che Bella Storia D'Amore5.Come Nasce Un Nuovo Amore6.Poesie Di Un Attimo7.Il Futuro8.Mezze Stagioni サンレモ音楽祭二度目の出場で初めてのアルバム「Io E Il Cielo」が制作され、ピポルで出した2曲も収録されます。 このサンレモ音楽祭に出場以降4年間の空白期間があります。きっとヴァレリオ・リボーニとの結婚で休業期間に入ったのではないでしょうか。 93年シチリアのロックバンドをバックにCDアルバム「Prima Le Donne E I Bambini」を出しました。前年92年に同名のアフリカ医療支援チャリティーコンサートが催されたようで、その一環で制作されたのかもしれません。 復帰に当たっては芸名のジョー(Jo)をジョ(Giò)に変えています。 CDPKM-1 (1993年 PKM – Dischi Ricordi) CD Giò Chiarello – Prima Le Donne E I Bambini1.Maria2.Granelli Di Sabbia3.Prima Le Donne E I Bambini4.Il Frutto5.Piangi6.Maledetta7.Mille Uomini8.La Fonte Intelligente Delle Nostre Idee9.Sono Ancora Io10.Lo Scialle. Nuove CondizioniCDPKM-1 CDDV-6204 CDDV-6204 (1998年年 D.V. More – D.V. More/Disco Più) CD Jo Chiarello1.In Viaggio Verso di Te*2.Ma Che Bella Storia D'amore3.Il Futuro4.Mezze Stagioni5.Fammi Toccare6.Io E Il Cielo7.Ma Io Vi Mollo E Vado Al Mare8.L'Ultima Metro9.Lei è Stanca*10.Non Mio Soltanto Tuo*11.Nonostante Tutto*12.Andiamo Via*13.Stai Con Me [*]未発表曲 5年後の98年、アーティスト復活ベスト盤業者DVモアからCDアルバム「Jo Chiarello」を出しました。未発表曲(新曲?)も含まれているので、過去の曲をもセルフ・カヴァーした新録音ではないかと思っています。 ジョ-・キアレッロの国内盤は有りません、ジョ-・キアレッロは以上です。 ★ボビー・ソロ (vm) Bobby Solo本名ロベルト サッティ、1945年3月18日ローマ生、自作自演歌手。1980年代後半から90年代初めに、ロザンナ・フラテルロ(ROSANNA FRATELLO)、ボビー・ソロ(BOBY SOLO)とリトル・トニー(LITTLE TONY)の三人でロボット(RO.BO.T.)というユニットを組み、活動する。 3C・006-18535 所属レコード会社:Dischi Ricordi, CGD, EMI Italiana, Five Record, Pull, Sifare Edizioni Musicaliサンレモ音楽祭出場12回:1964年選考対象外、65年優勝、66年参加、67年参加、69年優勝、70年6位、72年参加、80年10位、81年入賞、82年入賞、84年12位、2003年16位(リトル・トニーとデュエット) 前年1980年、8年ぶりのサンレモ音楽祭に出場を果たしたボビー・ソロの歌った“ジェロシア”は入賞20曲中真ん中の実質10位、ジャンニ・モランディの“マリウ(Mariù)”は表彰の第三位に入りませんでしたが、入賞実質4位で大成功でした。 しかしサンレモ音楽祭の怖いところは、終わった後のレコード・セールス状況です。ボビー・ソロは80年年間ヒット・ランク43位となり、大ヒットと言える成績でしたが、モランディは年間ヒット・ランク100どころか週間ランキングにもランク・インもしない大惨敗に終わりました。 この余勢で81年サンレモ音楽祭に” Non Posso Perderti”で2年連続出場を果たします。日本でサンレモ音楽祭の年次コンピレーションが出なくなると、優勝するかレコードが発売されないと邦題が公表されなくなりました。 結果は入賞でも10位以下で実質順位も公表されませんでしたが、前年と同様いやそれ以上のレコード・セールスの結果となります。優勝曲アリーチェ(Alice)の”エリーザのために (Per Elisa)”が年間ヒット・ランク22位ですが、ボビー・ソロの入賞曲は39位になりました。 3C・006-18535 (1981年EMI - EMI Italiana) Non Posso Perderti/Attenti Al Cuore, Attenti A Lei ※ジャケット写真は顔写真画像をご参照 3C・064-18565 (1981年 EMI - EMI Italiana) Solo...Elvis ※このLPについて、現時点で存在確認ができません。イタリア版ウィキペディアのボビー・ソロ、EMIイタリアーナの項目にも掲載されていすが、ジャケット画像、トラックリストを確認できる資料がりません。ネット検索もこのレコード番号で的中しますが、何れもウィキペディアの引用と推定できるものばかりです。 アルバム・タイトル「Solo...Elvis」で存在するのは86年ファイヴレコード(Five Record)が出したFM-13565、同社が91年に出した再発盤FM・LP-20012のみです。 勢いに乗ったボビー・ソロは翌年82年のサンレモ音楽祭に3連続出場を果たします。 ボビー・ソロの国内盤(1981年)K18P- 9114~5 (1981年10月21日 SEVEN SEAS - キング) 2LP 豪華決定盤カンツォーネ (CANZONE/DOUBLE GOLD SUPERDISC)1-4.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)1-8.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO) K18P- 9114~5 ボビー・ソロ11は1982年サンレモ音楽祭の後に続きます
2023.02.06
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★エドゥアルド・デ・クレッシェンツォ (vm) Eduardo De Crescenzo1951年2月8日 ナポリ生、自作自演歌手、アコーディオン奏者。 ナポリターナの名曲“ルナ・ロッサ (LUNA ROSSA)”や“秋のメランコリー (MALINCONICO AUTUNNO)”などを作詩したヴィンチェンツォ・デ・クレシェンツォ(Vincenzo De Crescenzo)の甥、レンツォ・アルボレ・オーケストラ・イタリアーナ (Renzo Arbore L'Orchestra Italiana)にも所属していたヴィンチェンツォの息子エディ・ナポリ(Eddy Napoli)とはいとこ。 SRL-11・090 活動期間:1967年–現在所属レコード会社:Ambassador's, Ricordi, Fonit Cetra, Giungla, B&G Entertainment, Lucky Planets, Cinque e Trenta, La Nave Di Teseo +サンレモ音楽祭出品5回:1981年入賞、85年14位、87年15位、89年15位、91年15位フィル・マンザネラ (Phil Manzanera) をパートナーとしてサンレモ音楽祭出品3曲:1987年,89年,91年自己出場曲公式ホームページ:eduardodecrescenzo.it 1989年エドゥアルド・デ・クレッシェンツォは4回目のサンレモ音楽祭出場をします。詞作曲マリエラ・ナーヴァ(Mariella Nava)との共作ですが、初めて自作の“望み”を歌いました。 SRL-11・090 (1989年 Ricordi – Dischi Ricordi) Come Mi Vuoi (望み)/Vola ※ジャケット画像は顔写真画像をご参照 アルバムも4曲目”Dalla Nave”以外は作曲に加わっておりいよいよ自作自演の方向が定まってきます。 STVL-6364 (1989年 Ricordi – Dischi Ricordi) Eduardo De Crescenzo – C'È Il SoleCDMRL- 6402 (1989年 Ricordi – Dischi Ricordi) CD Eduardo De Crescenzo – C'È Il Sol74321-62546・2 (1998年 Ricordi – BMG Ricordi) CD Eduardo De Crescenzo – C'È Il Sole [0 74321 62546 2 0]1.C'È Il Sole 2.Mercati Mercati 3.Questo Amore 4.Dalla Nave 5.Come Mi Vuoi (望み) 6.Vola 7.Il Racconto Della Sera 8.Sono Fatti Miei 9.Canzone Nuova STVL-6364 CDMRL- 6402 74321-62546・2※バックにジャズ・マン、ダニエレ・セーペ(Daniele Sepe)がサックスで参加しています。 91年で通算5回目の出場で“そして音楽は流れる”を歌いました。この第41回は記念大会で久々に外人歌手をパートナーにダブル・キャスト制が復活しました。 デ・クレッシェンツォのパートナーはイギリスのフィル・マンザネラ (Phil Manzanera)が英語で“And The Beat Goes On”として歌っています。60年代の頃のようにイタリア語で歌う規制はなかったようです。 85年以来2年に一度サンレモ音楽祭出場をしていすが、サンレモ音楽祭出場はこれが最後と思われます。(今年2023年2月7日から開催の第73回サンレモ音楽祭の出場予定もありません。)ただ18年に83才で本選に出場したオルネラ・ヴァノーニ(Ornella Vanoni)の例もあるので、まだ最後と言い切れません。 同年出場曲を収録したアルバム「Cante Jondo」を出します。これは全曲フランコ・デル・プレーテ(Franco Del Prete)作詞、エドゥアルド・デ・クレッシェンツォ作曲です。 SRL-11・115 (1991年 Ricordi – Dischi Ricordi) E La Musica Va (そして音楽は流れる)/Cerca Quella ChiaveSRL-11・115 SMRL-6430 SMRL-6430 (1991年 Ricordi – Dischi Ricordi) Eduardo De Crescenzo – Cante JondoCDMRL-6430 (1991年 Ricordi –Dischi Ricordi) CD Eduardo De Crescenzo – Cante Jondo [8 00361 403093 9]74321-98851・2 (2003年Ricordi – BMG Ricordi) CD Eduardo De Crescenzo – Cante Jondo [74321 988512 8] 74321 98851 2 81.E La Musica Va (そして音楽は流れる)2.Sarà Così3.Cante Jondo4.Batte L'Onda5.Benedetta Mama Creola6.Occhi Di Marzo7.Van Gogh8.Cerca Quella Chiave9.NainèCDMRL-6430 74321-98851・2 93年、アルバム「Danza Danza」を制作しました。ただレコード会社がリコルディ傘下に入ったフォニット・チェトラから出ています。87年以降新しい音楽への挑戦をし、アコーディオンの弾き語りが顕著になってきます。 TCDL- 353 74321-31050・2 TCDL- 353 (1993年 Fonit Cetra – Dischi Ricordi) CD Eduardo De Crescenzo – Danza Danza [8 003927 127432]74321-31050・2 (1995年 Giungla Records – BMG Ricordi) CD Eduardo De Crescenzo – Danza Danza [0 74321 31050 2 4]DFR-023・CD (1996年 Giungla Records – Flying Records) CD Eduardo De Crescenzo – Danza Danza [8 013744 262322]LKP- 543 (2005年 Lucky Planets – Lucky Planets) CD Eduardo De Crescenzo – Danza Danza [8 031274 00543 1]1.Danza Danza2.Stelle Senza Patria3.Sul Battello Per Macondo4.Cuore5.A Sud6.Buon Viaggio7.Che Senso Ha8.Zingaro ( A Camaron De La Isla )9.Dalle RadiciDFR-023・CD LKP- 543 95年5月3日RAIオウディトリウム・ナポリ(Auditorium Rai di Napoli)で開催された慈善コンサートの模様を初めてライヴ盤として出しました。その中に未発表曲“Cielo Su Cielo”を収録しています。 DFR-022・CD (1996年 Giungla Records – Flying Records) CD Eduardo De Crescenzo – Live300230・2 (2002年 MBO Music – Universal) CD Eduardo De Crescenzo – Live [325913 002300 2 2]1.Cielo Su Cielo2.Foglia Di Thè3.Cante Jondo4.Stelle Senza Patria5.Danza Danza6.Cuore7.La Strada Mia8.Van Gogh9.Che Senso Ha10.E La Musica Va (そして音楽は流れる)11.C'è Il Sole12.Ancora (アンコーラ)13.Il Treno14.Amico Che Voli15.ManiDFR-022・CD 300230・2 ライヴ盤以降、スタジオ録音の新アルバムの制作は2002年まで約10年間行われませんが、イタリア中南部でのコンサート活動が続けられ、編集ベスト盤(アンソロジー)が発売されました。 74321-38326・2 (1996年 Ricordi – BMG Ricordi) CD All The Best Eduardo De Crescenzo [0 743213 8326 2 3]88697-74878・2 (2010年7月 BMG – Sony BMG Music Entertainment) CD All The Best Eduardo De Crescenzo [88697 7878 2 8]1.Uomini Semplici2.Al Piano Bar Di Susy3.Ancora (アンコーラ)4.Quando L'Amore Se Ne Va5.Mani6.Amico Che Voli7.Metropolitana8.Quantu Tiempo Ce Vo'9.Dove C'È Il Mare10.Via Con Me (僕と一緒)11.Foglia Di The12.L'Odore Del Mare (海の芳り)13.Nudi Nudi14.Il Racconto Della Sera15.Mercati Mercati16.C'è Il Sole17.E La Musica Va (そして音楽は流れる)18.Occhi Di Marzo19.Cante Jondo74321-38326・2 88697-74878・2 74321-41470・4 (1996年 Ricordi – BMG Ricordi) Cass Eduardo De Crescenzo Superbest [74321 41470 4 7]1.Cantero'2.Ancora (アンコーラ)3.Via Con Me (僕と一緒)4.Chitarra Mia5.Chi Ha Avuto Ha Avuto6.Sara' Cosi'7.Uomini Semplici8.Quando L'Amore Se Ne Va9.Chiammame10.I Ragazzi Della Ferrovia11.Questo Amore12La Vita E' Questa Vita13.Ajere74321-41470・4 74321-51233・2 74321-51233・2 (1997年 Ricordi – BMG Ricordi) CD Eduardo De Crescenzo – Dove Musica C'È [0 74321 51233 2 3]1.Ancora (アンコーラ) 2.Mani 3.Quantu Tiempo Ce Vo' 4.Al Piano Bar di Susy 5.Metropolitana 6.Via Con Me (僕と一緒) 7.Quando L'Amore Se Ne Va 8.Nudi Nudi 9.Dove C'È il Mare 10.L'Odore Del Mare (海の芳り) 74321-77870・2 (2000年 Ricordi – BMG Ricordi) CD I Miti Musica – Eduardo De Crescenzo [0 74321 77870 2 8]1.Ancora (アンコーラ)2.Quando L'Amore Se Ne Va3.Come Mi Vuoi (望み)4.Mani5.L'Odore Del Mare (海の芳り)6.Camminando7.Dove C'È Il Mare8.Vieni Con Me9.Nudi, Nudi10.E La Musica Va (そして音楽は流れる)74321-77870・2 BG-7502・CD BG-7502・CD (2002年B&G Entertainment – SELF Distribuzione) CD Eduardo De Crescenzo – La Vita E' Un'Altra [8 019991 240113]1.La Vita E' Un'Altra2.Se Rimani3.Naviganti4.Ma Quale Amore5.Tirami Fuori6.Vivo7.Quello Che C'è8.Non Ci Sei Più9.Di Lei10.Parole Nuove11.Fammi Sognare1.2.No Missing 02年久々の新アルバム「La Vita E' Un'Altra」を出し、「ナポリの『声の楽器』」ツアーを国内で展開しました。 05年の夏、彼は新しい連帯プロジェクト「Le Mani」の構想の下に新ツアー実施し、故郷ナポリ中心部に最初の「救済センター」を開設しました。 LKP- 579 (2005年Lucky Planets – Lucky Planets) CD Eduardo De Crescenzo - Le Mani [8 031274005790] 1.Ragazzi Della Ferrovia2.Ma Quale Amore3.Naviganti4.La Vita E' Un'Altra5.E La Musica Va (そして音楽は流れる)6.L'Odore Del Mare (海の芳り)7.Amico Che Voli8.Cante Jondo9.Io Ce Credo10.Il Racconto Della Sera11.Danza Danza12.Ancora (アンコーラ)13.Cerca Quella Chiave14.Dalla Nave15.Il Treno16.ManiLKP- 579 88697-11550・2 88697-11550・2 (2007年 Ricordi – Sony BMG Music Entertainment) CD Le Più Belle Di... Eduardo De Crescenzo [0 88697 11550 2 0]1. La Solitudine2.Senza Parole3.Ancora (アンコーラ)4.Il Treno5.Al Piano Bar Di Susy6.Uomini Semplici7.Amico Che Voli8.Mani9.Io Ce Credo10.L'Odore Del Mare (海の芳り)11.La Qualità12.Nudi Nudi13.Il Racconto Della Sera14.Dalla Nave15.C'è Il Sole16.E La Musica Va (そして音楽は流れる)17.Cerca Quella Chiave18.Cante Jondo 新プロジェクトのコンサート・ツアーを続け、新アルバムが発売されない間、多くの編集ベスト盤が出ています。 88697-83407・2 (2011年 Ricordi – Sony BMG Music Entertainment) 3CD I Miei Successi Eduardo De Crescenzo [0 886978 34072 6]1-1.Ancora (アンコーラ)1-2.Mani1-3.C'è Il Sole1-4.Al Piano Bar Di Susy1-5.Nudi Nudi1-6.Quando L'Amore Se Ne Va1-7.Amico Che Voli1-8.Uomini Semplici1-9.L'Odore Del Mare (海の芳り)1-10.Quantu Tiempo Ce Vò1-11.Come Mi Vuoi (望み)1-12.Camminando2-1.E La Musica Và2-2.Via Con Me (僕と一緒)2-3.Metropolitana2-4.Mercati Mercati2-5.Cante Jondo2-6.Occhi Di Marzo2-7.La Solitudine2-8.Il Treno2-9.Cerca Quella Chiave2-10.Il Racconto Della Sera2-11.Io Ce Credo2-12.La Qualità3-1.Canterò3-2.Manchi Tu3-3.Giorni Difficili3-4.Sarà Così3-5.Vola3-6.Foglia Di The3-7.La Vita È Questa Vita3-8.Canzone Nuova3-9.Sapessi Com'è3-10.Un Fatto Di Mentalità3-11.Incomprensibile3-12.Senza Parole88697-83407・2 ERM-036 ERM-036 (2011年 Errepi Media – Azzaro Distribuzione) CD Le Più Belle Di Sempre Ancora De Crescenzo1.Ancora (アンコーラ)2.Al Piano Bar Di Susy3.Come Mi Vuoi (望み)4.Dove C'È Il Mare5.E La Musica Va (そして音楽は流れる)6.Uomini Semplici7.Mani8.Amico Che Voli9.Via Con Me (僕と一緒)10.C'È Il Sole11.Metropolitana12.Nudi Nudi13.Il Treno14.Quando L'Amore Se Ne Va15.L'Odore Del Mare (海の芳り) 08年10月に行った最後のコンサート「Essenze Jazz」を12年春から再開し、7年ぶりに新アルバム「Essenze Jazz」を出しました。 602537591145 (2013年11月 Cinque e Trenta) CD Eduardo De Crescenzo – Essenze Jazz [602537591145]1.Non tardare2.Quando L'Amore Se Ne Va3.Dove C'È Il Mare4.Il racconto della sera5.Foglia di the6.Dove7.Naviganti8.La vita è un’altra9.Parole nuove10.Il Treno11.Ancora (アンコーラ)12.L'Odore Del Mare (海の芳り)13.E La Musica Va (そして音楽は流れる)14.Sarà così15.Dalle radici16.La vita è questa vita602537591145 88765-43892・2 88765-43892・2 (2013年 BMG - Sony Music) CD Un'ora con Eduardo De Crescenzo [0 88765 43892 2 0]1.Ancora (アンコーラ)2.Mani3.E la musica và4.L'Odore Del Mare (海の芳り)5.C'e il sole6.Nudi nudi7.Sara' cosi'8.Vola9.Io Ce Credo10.Cante jondo11.Al Piano Bar Di Susy12.Quantu Tiempo Ce Vò13.Quando L'Amore Se Ne Va14.Amico che voli 978-8893951326 (2022年5月 La nave di Teseo + ) CD+LIBRO Avvenne a Napoli1.Fenesta Vascia (下の窓)2.Luna Nova (新月)3.Era De Maggio (五月だった)4.Marechiare (マレキアーレ)5.’A Vucchella (かわいい口もと)6.Serenata Napulitana (ナポリのセレナード)7.I’ Te Vurria Vasa’ (あなたのくちづけを)8.Maria Mari’ (マリア・マリ)9.Santa Lucia Luntana (遥かなるサンタ・ルチア)10.Silenzio Cantatore (静けさに歌う)11.Uocchie Ch’Arraggiunate12.’O Marenariello (舟人の歌)13.Te Voglio Bene Assaje (激しく愛す)14.Scétate (恋人よ眠らずに)15.Canzona Appassiunata (情熱の歌)16.Passione (情熱)17.Voce ‘E Notte (夜の声)18.Che T’Aggia Di’ (ケ・タッジャ・ディ)19.Munasterio ‘E Santa Chiara (サンタ・キアーラ寺院)20.Luna Rossa. (ルナ・ロッサ) 978-8893951326 新コロナ蔓延で「エッセンシャル・ジャズ」ツアーの中断を余儀なくされます。しかし彼は新プロジェクトの準備に入りました。19~20初頭のナポリターナへのオマージュ・プログラム「Avvenne a Napoli」です。 22年ピアニスト、ジュリアン・オリバー・マッツァリエッロ(Julian Oliver Mazzariello)の伴奏で20曲を録音し、書籍と共に発売しました。 エドゥアルド・デ・クレッシェンツォは以上です。
2023.02.01
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