《櫻井ジャーナル》

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2010.06.25
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 60年前の6月25日、朝鮮半島で戦争が始まった。言うまでもなく「朝鮮戦争」である。切っ掛けは、朝鮮軍が北緯38度線を越えて韓国に軍事侵攻したことにあるとされているのだが、東アジアにおけるアメリカの戦争はすでに始まっていた。その相手は中国。コミュニスト政権の樹立を阻止するため、アメリカは国民党を支援していた。

 当初、この計画は簡単に達成できると思われたのだが、徐々にコミュニストの勢力が拡大、1949年5月に蒋介石は台湾に逃れ、同年10月には中華人民共和国が成立してしまった。アメリカが秘密裏に創設していた「テロ組織」のOPCはこの年、拠点を中国の上海から日本の厚木基地などに移動させている。

 アメリカも手をこまねいていたわけではない。1949年1月に人民解放軍(コミュニスト軍)が北京へ無血入城しているが、同軍の首脳部全員を暗殺し、混乱に乗じて陳誠(蒋介石の片腕)が率いる国民党軍と傅作義軍を蜂起させ、一気に形勢を逆転しようと計画していた。

 つまり、人民解放軍が北京入りして民衆の前に姿を現した時に首脳部を暗殺し、偽装帰順していた傅作義の軍隊と済南に待機していた陳誠の率いる国民党軍が武装蜂起し、人民解放軍を殲滅するというシナリオだ。

 この計画をアメリカ政府は否定しているが、元特務機関員で、朝鮮戦争の当時はCIAのエージェントとして活動していた人物は、実際にあった計画だと断言している。この計画は、遅くとも1948年の夏には始動していた。

 言うまでもなく、この計画は実行されていない。途中で計画が中国側に漏れていることに気づいたアメリカは1950年の2月頃、計画の中止を決断したのだ。そした始まったのが朝鮮半島での攪乱工作。朝鮮側を挑発して軍事的な緊張を高めることが目的だった。

 当時、アメリカ政府は「民意」に基づく朝鮮半島の統一を嫌っていた。アメリカが望んでいたのは、自分たちの傀儡政権にすぎない。李承晩とならぶ右派の大物だった金九も自分たちの意志に基づく朝鮮半島の統一を目指して活動したいた人物だが、1949年に暗殺されている。

 1950年になると、OPCは中国南部へ侵攻する作戦を立て、ラオスにいた国民党軍を再編成、同年3月までに約1万5000名の国民党軍がビルマのチェンタン市とタチレクの間を占領している。その先には中国への軍事侵攻が計画されていた

 朝鮮半島でOPCが挑発工作を始めた頃、すでに朝鮮半島では軍事的な緊張が高まりつつあり、一日に何回も南北両軍が衝突していた。そうした中、ジョン・フォスター・ダレスが東アジアを訪問、6月22日、つまり朝鮮戦争が勃発する3日前にニューズウィーク誌の東京支局長だったコンプトン・パケナムの邸宅で夕食会を開いている。その会に出席していた日本人は、渡辺武元子爵、松平康昌元侯爵、外務省の沢田廉三、国家地方警察企画課長の海原治だ。



 第2次世界大戦後の流れを寸断して考えるべきではない。中国に対する秘密工作から朝鮮戦争、さらに先までを一連の流れでとらえるべきであり、中国はそう考えた。そして「義勇軍」が送り込まれてくる。

 1951年4月、国民党軍の兵士2000名がCIA(1950年10月、OPCはCIAの内部に潜り込んだ)の軍事顧問団とともに国境を越えて中国領内に侵入し、片馬(ケンマ)を占領、人民解放軍の反撃にあって追い返されている。1952年8月にも国民党軍は中国に侵入して約100キロメートルほど進んだが、やはり中国側の反撃で撃退されてしまった。

 朝鮮戦争は1953年7月に停戦、板門店で休戦協定が結ばれている。1953年1月にドワイト・アイゼンハワーが大統領に就任しているが、同政権で国務長官となったジョン・フォスター・ダレスは翌年の1月、NSC(国家安全保障会議)でベトナムにおけるゲリラ戦の準備を提案している。アメリカの対中国戦はまだ終わっていなかった。





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最終更新日  2010.06.25 20:08:09


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