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■1979年(昭和54年)今から29年前、中国・浙江省を訪れた時、知人から3株の蘭を頂いた。■それこそが、彼の有名な中国[浙江省春蘭]だった。その時は、それ程の物とも知らずにいたのだが、やがて花が咲き、その薫りに感動。■丹精をこらし29年、一輪の花が居間いっぱいに醸す!春蘭の薫り!。■今や、20株を越える蘭鉢17個までに繁殖。我が家の、宝物の筆頭だ。■日本にも、多く春蘭があり、秋田にもある、しかし薫りの発する春蘭を目にしたことがない。■写真は、今盛り居間に咲き、優雅な薫りを漂わせる、浙江省しゅんらんの可憐な姿。
2008.02.28
■去年の今頃は、雪も無く野球の練習だけでなく、試合をやっていた。■それにしても今年は寒い。こんな時は、意識して暖かい地方、暖かい時の思い出を追憶する。■写真は、1989年2月会社の旅行。香港、マカオへ行った時だ、楽しかった。■寒い所からの脱出、暖かい所からの突入、何でもない事のようだが、私には私の年輪を刻み込む、最大の意識なのです。■北国の人の強さが、このあたりが原点なのかも。
2008.02.27
■少年の頃、良く馬に乗ったものだ、その頃は乗馬などとは言わなかった。■鞍は無く、薄いむしろ1枚敷くだけ、あの滑る背中で、只バランスだけ。■未舗装の県道を走らせ、棚田の様な起伏の畔上(あぜ)を障害物競技と云いながら。■1989年タイに旅した時、[お客さん!象に乗ると、いい事いっぱい、病気はしない、お金いっぱい貯まる]よ・・・と客引き案内人。■早速乗ってみた、テレビでも動物園でも見た事ない程、大きな象だった。■ハシゴで登った背中は、まるで二階の窓から見る景色。早足で歩かれるものなら、背中のかごから、振り落とされそう。■興味はあったのだが、馬の歩行とは全く違う。関節のない、クッションのない乗りものだ。■しかし、しかしだ!客引きに誘われた時の約束、幸運に恵まれ、長生きすると言う・・・・・。この約束皆に薦めたい、象には絶対乗るべき。わざわざタイに行っても。■ただ、お金だけは貯まりません。
2008.02.26
■1992年、次男が北京へ留学していた時に、仕事で女房殿と香港、タイに出掛けた。■出発直前、おそらくタイまでは、来れないだろうと思い、自宅からその旅の日程を話した中に、○日にバンコク市内シャングリラホテルに宿泊、と教えた。■あの時ほど、今の若者はと絶句した!、旅の途中はその事は忘れていた。人の多い混乱の街、ガイド付きでもやっとの思いで着いたホテルに、何とそれが居た。■薄汚れたジャケット、ふうてんの寅を細身したような次男が。あんなにびっくりした事はなかった、あの雑踏のロビーで偶然のような出会い、親子を感じたよ(笑)。■あの時のコースは、どんなであったか知るすべはないが、あの感性には、しこたまご馳走し、称賛したものだった。■シャングリラホテルの海鮮バイキング、市内のキックボクシング試合。■帰りは、香港まで一緒し、北京へは列車で帰ったらしい。■若い時の冒険とは、あんなものなんであろう。■タイ民族舞踊の踊り子達と。
2008.02.25
■長男の卒業後、間もない1992年次男が留学した。 ■当時会社では、中国天津大学を卒業した女性の先生を迎え、中国語の勉強会を主宰していた。 ■そこで学んでいた、生徒さんが自ら計画し、北京市旅游局所属・北京第二外国語学院を訪問、懇談を重ねる。 ■価値観の全く違う、人との接点は、日本のような島国一国の価値観とは、およそ想像を越える処にある。 ■急がず日中友好が、世界の平和に必ず貢献する。。私は信じる。 ■長老館岡さん、博士夫人吉村さん、母が訪問。
2008.02.23
■今季ASカガブくんチームが、最も必要とする長距離ヒッターのフォームだ。■小学2年生でこのスイング、今更ながら右撃ちに迷い、打撃不振のスランプに陥るとは。■カガブくんチームの主将も、かっては名門城東中のレギュラーセカンド。何時の日か、このスイングを思い出し、チームを優勝に導いてくれるであろう。■その名門城東中が、全国大会優勝し、日本一になった時の選手が、現カガブくんチームには、二人いる。■な何と!、その名は佐々木克己選手と関谷直人選手だ。因みに、両選手はカガブくん主将の4学年先輩だ。■30年前の、あのコーチが時あたかも再来、同じ歳同じ条件、同じ場所。ピッチングを優先し、やがて30年後に、皆と再会したいものだ。【PR】しじみ味噌汁プレゼント中♪
2008.02.23
■玉を捕ることの上手さよりも、先ず玉を投げる要領の良さを先行させた我が家の指導。■現ASカガブくんチーム主将、小学2年生の時の、ピッチングフォームだ。 フォームが固定すると、なかなかいい球が来る。■3年生時は、野球部がなくサッカー部で体を鍛え、4年生で念願の野球部へ。■いきなりピッチャーに登用される程の投球術を持っていた。野球への本当の興味は、この頃からだった。■幼少時、自分の投げた球が、思った所に投げれて、相手に褒められる。■その喜びと快感が、古希を迎えた今にしても、衰える処か日に日に、熱い情熱として少年に戻る。■孫に伝えたい、正しい投球フォームを・・・・・。それこそが、生涯生きる為のフォームとなるからだ。
2008.02.22
■私は、倅達の留学には、特に課題を特定しなかった。 それは、幼少の頃から、親の仕事を見聞きし、中国催事も数多くのぞき、会社に来る中国人との 接点も多かった。■中国の広い空、いくら走っても際限のない地平線、秋田にはない匂いの空気、、飲む水食べる料理 の僅かな違い。■そんな中から、自分が自分の為に、何を求め何を得るか。 指示して出来る程、二十歳そこそこの、わがまま少年が暮らし続けられるに甘くはない。■勉強もそこそこに、自称北京市内の6大学野球(軟式)には、ずいぶん真面目だったらしい、一面 人生の一部を掛けたったらしい。■写真は、会社の中国語勉強会グループが、北京の次男を激励に訪ねた時の母子。
2008.02.21
■親の中国交流を、生まれた時から見続けて来た、次男が今度は中国留学をしたいと言う。■兄の入学に立ち会い、中国のその愉快で面白い部分を思えば、納得も出来た。■これで私も決心する事となる。 長男の留学までは、親父+長男。 それに次男が留学し、加わる事は 親父×長男×次男と、たし算ではなく、相乗効果(掛け算)。■祖父の時代からの、中国との関わり、父の代に残した汚点。 二十一世紀は、どんな事があろうと、隣人の好みを強くし、深い信頼関係に有るべき。 その為には、それにふさわしい後継者の育成が急がれる。■一族四代の試練だ。 写真は北京から凱旋の、長男に励まされ、恐々北京への出発前壮行会の次男。
2008.02.20
■女は弱し、母は強し。それまでは、東京の街は苦手、仙台はどうもなどと、ほざいていた女房殿が、な何と何と。■長男の陣中見舞い、とか何とか言い出して、一人では行った事のない、秋田空港、羽田、成田、北京空港まで。あツと言う間の出来事だった。■一人では絶対出来ないと思う事も、倅への気持ちがそうさせたのだろう。以来女房殿が怖くなりました。■そればかりか、北京でぶらぶらしてる内に、天津市のジュータン工場から、高級ジュータンが到着。何かの間違いかな?。■な何と、天津の工場から一人で送ったと言う。あきれ果てた、子連れ母親の勇気勇敢を垣間見る。■母、子の北京の街はいかばかりか?・・・・・。
2008.02.19
■1986年頃は、秋田のみならず地方に於いては、中国留学などは寝ぼけ話しと思われた。■ある時などは、道でばったり出会った親戚に、倅を中国にやるってが!、おめぇー共産党が・・・と言われたものだ。■やがて長男の壮行会が、当人の力量を遥かに越えて、県議や市議、恩師先生友人親戚。大盛況には頭が下がった。■そんな中にあっても、親戚の少しは有力と思っていた1人に、オイ中国のペキン市と言う所は、なに!県だ・・・真顔だったに、びっくり。■次は俺かと思うてか、なかなかいい挨拶をしていた次男。[写真]■この頃から、急速に進む日中交流。兄の留学に感化されたか、[遊学]に希望を見いだしたか、6年後の1992年、長男と同じ学校への留学となる。■次代に生きる者への、バトンを渡しただけだが、これからどんな走り方で、どんな速度で社会貢献出来るものやら。
2008.02.18
■私は今、威張れるのは唯一倅達にだけだ、その倅達はそれを親父の空威張りだと言う。■しかし、俺は本気で威張っているのだ、親父というのは、子供に対しては絶対なのだ。■子どもは、育つ頃の自分を知らないばかりか、親への恩返しの約束手形を振り出しているのだ。■写真は丁度その頃です、四つ違いの次男が幼稚園の年中組かな。■この兄弟が100才なっても、私は親父だ。■渾身の力と、思いと、期待に関わった親父は、只只無闇に威張りたいのです。
2008.02.16
■1974年に、中国との関わりを始めて、16年経過した1986年に長男を留学、尚その6年後の1992年次男が留学。■祖父が日清日露戦争に従軍、父が太平洋戦争中国に参戦。■親子三代に戦争があってなるものか、三代を3で割った平和な幸せを獲得するには、三代の掛け算をしよう。■この事が、中国を目指し、日中友好を目指す事となる。身の丈以上の言葉とすれば、極東アジアの安定こそが、アジア全域の平和につながる。と■忌まわしい戦争が、二代にも続いた不幸な時代の次は、その事を理解し反省し目を逸らさず、真の握手こそが世界の平和につながるものと思う。■両留学生よ、私の親二代の悪夢から解放された。君たち二代あるいは三代の未来は、それにも増して謳歌ならん事を祈りたい。■写真は北京市・頤和園(いわえん)、長男の入学式に、次男(6年後に留学・まだ少年だね)共々訪中。
2008.02.14
■古いアルバムの中に、NHK秋田放送局から、合唱曲放送記念の写真が出て来た。 昭和25年8月5日とある。■私が小学5年生、総員19名(6年・男6人、5年男5人)(女子8人)。 当時の5年、6学年生徒、総数約200人(すこーし威張っているな・・・(笑))■当時、終戦間もなく、打ち拉がれている頃、地方からの元気をと、企画されたもの。 何しろ、あの頃の全国放送なんだから。大したもんだべ(笑)■全国民に、元気と希望を与えるんだと、あの真夏の熱い夏休みを、休まず登校し練習した、辛かった。■そのかいもあって、あの日から日本は元気を取り戻した(笑)。みんながそういっていた。■当時の放送室は、畳10畳程、薄暗くもの音を吸い込む不気味さ、真ん中に大きなマイクだけ。 練習もなく、録音もなく、とにかく1本勝負。■歌の曲名は忘れたが、5~6曲を夢中で歌った。■あの頃、歌手を目指していたら、東海林太郎の時代かしら(笑)(笑)(笑)大笑い。
2008.02.12
(写真、右、国貿促会長・藤山愛一郎、中、中国副主席・李先念、左、小生)。■米ニクソン大統領とキッシンジャー氏が、日本の頭越しに中国との関係改善。 その直後、我が代表、田中角栄総理が電光石火、日中国交回復(1972年)。■ここぞと小生(祖父、日清、日露戦争参戦・父、太平洋戦争召集)。 日中友好こそ、自分への天命と思い上がる(笑)。■矢も盾もたまらず訪中(1974年)、第一歩は広東省・広州交易会(春交)。■その年の11月~12月、北京市で日本農薬技術展覧会(1ケ月半)、これは戦後保証の色合い濃いものだった。■その翌年も、同時期、同期間に日本工業展と二年連続参加。■当時、毛澤東主席健在、四人組健在、中国文化大革命最中。激動のど真ん中。■会場には中国をはじめ、世界各国から日本の先進技術習得のため、連日会場は立錐の余地もない、1ケ月間であった。■日本側代表、国貿促・藤山愛一郎会長。受け入れ側代表、李先念・国家副主席(後主席)。■李先念副主席とは、サイレージについて、篤と話し込む。わざわざ日本からの、お出ましに特段の謝意を頂いた、感激の極め。■小生にとってそれは、人生観、生き方の大転換の舞台でもあった。
2008.02.09
■8000メートル上空から、富士山大沢崩れを望む。 手を伸ばせば、届く程の距離に見えた。■頂上、御釜の底が見える、その縁の断崖絶壁に、しがみつく山小屋。 尾根を歩く、獣の姿が見えそうだ。■感動のあまり、足が震え、吐く息が乱れ、カメラが動く。 やっとの思いで、カメラを窓に押し付け連写。 あッと云う間の一瞬であった。■だ!誰れが、この、ちゃ!チャンスを与えてくれたのか・・・・。■太陽か、雲か、神か、仏か・・・。カメラと窓際と翼のない座席、それすら自分で選べない。■やっぱり奇跡だ、いや神様の仕業だ。
2008.02.08
■雪にまみれて4戦4勝、3年目にしてやっと勝っちゃいました、優勝ですよ。■今、秋田の少子高齢化と人口減少の進む中。 ASカガブくんに所属する、若者達のはつらつさは、表彰に値する。■雪国秋田ならではのルールが、とても素晴らしい。 相手との戦い、自然の脅威との戦い、増してやそれらを通して、有難い自然と戯れる。■今時、これ程の身も心もリフレッシュする競技はなかろう。■雪とのご縁が薄い、南の人達にも呼び掛け、全国大会をやったらいい。 この季節、秋田の美味しい美味しい、鍋料理を準備して。 グランドやホテルに、事欠く事はあるまいに。■この大会に、一度参加したら、一生涯忘れる事は出来まいに(笑)。
2008.02.07
■この季節になると、思い出すのは、19年前の1月中国ハルピン市に出張した時の、広大な公園いっぱいに繰り広げられた、氷の彫刻。 後日知ることと成るのだが、当祭典は、氷の芸術祭としては世界一だったらしい。 各国からの観光客でゴッタ返ししていたっけナ。■日中でも気温マイナス15度前後、夜にはマイナス20~30は日常的、水晶のような透明感の氷は、今まで見た事がなかっか。■ライトアップした夜の輝きは、一時手足のしびれをも忘れて、感動に浸ったものだった。■あの極寒ハルピンの、生活の知恵、大地下街が素晴らしかった、広くなんでも売っていた。■約1週間の滞在で、骨の髄まで冷えた。 先ず3日程で、頭が小さくなるのを感じる。 5日程で体が、2割位小さくなるのを感じた。■それらを克服する為に、毎晩58度のマオタイを、二人で飲み干した。■秋田に帰ってからも、マオタイの匂いと、骨の髄の冷えは、1ケ月も取れなかった。■あの大陸の!寒さ!に当たり、お陰様で現在の[頭脳明晰]が確立されたものと、ハルピンの冬に感謝を申し上げております。(笑)
2008.02.06
■縁起を担ぐ品々は、身の回りにいっぱいある中、写真は中国切り絵です。■独特な切り方、色彩の鮮やかさ中国ならではのもの。■目にするだけで、幸運に恵まれる。!寿老人!は、七福神の一人。
2008.02.05
■30年~34年ほど前の昔、北京への度々の出張時に見た[京劇・紅楼夢(こうろうむ)]がなつかしい。■今から、100~400年ほど前の、清代に作られた、長編小説。大貴族の家庭崩壊・悲恋を中心に多彩な人間模様を描く。■その切り絵、グッツを多く買い求めて来たものだった。写真はその一部、これを見ると当時の北京市内、悠久中国の歴史、人々の温かな気づかいが昨日のようだ。■昨今の中国には、一言申し上げたい、[そんなに急ぐな、何をそんなに急ぐのか]・・・・・と。
2008.02.03
■寒い日は時々、ご近所の食堂へ行く。それは、この薪ストーブの熱を吸収するためだ。■エアコンや温風ストーブが何個あっても、この熱と熱量を体感することは出来ない。■一般家庭では、取り付け出来ない大型ストーブだ。何よりも、使用する薪の大きさが違う、長さ35センチ直径20センチだ。■ストーブの上には、20リットル・ヤカン、2個だ。■体の芯まで温まる、と言うことは、この事だ。衣服が焦げるほどの熱さでも、顔がヒリヒリするほどの熱さでも、頭の中心部が以外なほど、穏やかで冷静沈着だ。■昔の極寒に耐えれた、秘訣を今かみしめる。
2008.02.02
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