トランクルーム貝塚のオヤジ奮戦記
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昨日は関空前のスターゲートホテルで、大阪宅建協会泉州支部の新年互礼会でした。所謂、泉州の不動産屋の社長が一堂に会した新年会です。「泉州の不動産屋」というとガラが悪そうですが、全然そんな事はありません・・・(笑)。18区と19区の国会議員、府議会議員、市長が勢揃いです。その中で、二階自民党幹事長の二階派所属の神谷衆議院議員、日本維新の会副代表の今井府議会議員、大阪府内人口増加率第1位の和泉市辻市長の3人が特に元気ヨカッタですねェ・・・神谷さんの公設第一秘書が高校の同級生だったり、今井さんは同じ貝塚の同級生で共通の友人も多く、辻さんは高校の3つ後輩で元ウインドサーファーだったのです・・・不思議と3人ともチョッと縁がありますねェ・・・しかし早いもので、新年互礼会は今回で9回目です。1回目から見ると、泉州支部の会員さんも相当代わっています・・・(驚)。私が繊維業界から全く異業種の不動産業界に来たという事で仲良くさせて頂いた不動産屋さん達も、既にこの9年の間に何十人もこの業界から去っています。10年で80%が倒産廃業する業界ですから・・・それでもおよそ同数の若い経営者が起業されているので、大阪南部の織物業界の過去50年で98%減に比べれれば、業界としてのダイナミズムはまだまだ失われていません。私も淘汰されないように一生懸命頑張らねば・・・今回同じテーブルの隣に居合わせた方は、ナント84歳の女性です。ちょうど、私の母親と同じ年です。私の母はケアハウスに入居し老後ライフを楽しんでいますが、この方は現役バリバリの不動産営業ウーマンだったのです・・・(驚)。普通84歳ともなれば、家の周りを歩くのさえ億劫になるものです。それが、家から遠い互礼会会場までわざわざ来られるパワーは驚異としか言いようがありません。どうやったら?そんなモチベーションを維持できるのか興味津々でした・・・そして、イロイロとお話を伺いました・・・若い頃は元銀行員で、何処にも修行に行かずに独立開業されたと。宅建主任者の資格を取ったのも、業者免許を取得したのもおそらく泉州で最も早かったようです。泉州支部で70代の方が未だ沢山活躍されていますが、年齢的にも内容的にも彼女が一番ガンバッテいると感じました・・・ショックでしたねェ・・・世間には、まだまだ私の知らないところで素晴らしい人が一杯いるのだと・・・フタ回りも若い自分が恥ずかしくなりました・・・(涙)。イロイロ話されていた中で、「ワンストップサービス」「オリジナル」「コンサルティング」・・・という3つのキーワードを長年追究されているのが印象に残りました。普通、不動産屋で独立開業するパターンは、同業者の不動産屋にスキルに自信が出来るまで勤務してからというのが多いですが、銀行員からいきなり独立されています。「切り口」が普通と違うのです。銀行時代に培った人脈と緻密な計算と真面目な気質の3つ経験が、独立後の実務経験に大いに役立ったのだろうと想像します。所謂、社会人としての基礎の基礎が20代のうちに確立されていたのです。どちらかと言うと、不動産業界は業者間取引も大事なファクターで一般的には人脈頼りに走りがちですが、彼女の場合は真逆のエンドユーザー直で両手狙いの法律や税会計や地理学といった基礎の部分を固めた手法で、着々と地元の顧客の信頼を勝ち取って行ったようです・・・何でも基礎がなければ、その上にいくら経験を積んでも砂上の楼閣です。盤石の基礎があったからこそ、その上に5,60年の実務経験を積むことによって、相当な実績が積みあがったのでしょう・・・そりゃ、人間関係があるだけでポッと簡単に商売(客付け=片手)が出来るという他力本願的な事が出来るのもこの業界の特徴のひとつかもしれませんが、普通に考えればそれもオカシナ話で、「自分で1から商売を作っていく(両手狙い)」という本来のビジネスの基本からチョッと外れているような気がします。かつて30年前までの繊維業界では、実需に直結したユニクロのようなSPA(製造小売り)がまだまだマイナーだった時代は、仮需と称して需要の何十倍もある商社や問屋間取引である「仲間取引」が幅を利かせていた時代でした。親父の時代までは、そんなオッパ商品(相場商品)を商社の言われるままに追いかけているだけで織物業が成り立っていたのです。ところが、その後グローバル化の波によってSPAが主流になる時代がやってくると、大阪本町の繊維業界だけでなく泉州の繊維業界も含めた日本の各地の繊維産地もその波に飲み込まれて業者の廃業倒産が相次ぎ崩壊してしまいました・・・繊維業界に上手く生き残ったのは早くからグローバル化を察知して「転身」を図ったSPAや総合商社でした。この正味20年の織物業を通じて、グローバル化で激変するビジネス環境の中にある「自分のポジション(織布業)」を、如何に客観的に分析するかだと悟ったのでした・・・世の中は常に動いているんやと・・・まァ正に、繊維業界で生き残った会社やこのオバチャンのように格言通りの「人の行く裏に道あり」を実践し、何も奇策や起死回生策など必要で無く、本質を見極めながらも真面目に基本を長年コツコツと積み重ねれば必ず実るという証明でしょう・・・付け加えて言うなら、これまで自分1人でビッグビジネスにも立ち向かい、近年はファミリーだけでFP手法的なコンサルティングや測量といった周辺ビジネスも取り組んでいるようです。まァ、とてもマネが出来ませんし、恐ろしいくらいのスペシャリストです。私と次元が全く違うのです。全く異業種からチョッと宅建の勉強をしたくらいで「不動産屋です」なんて言う私なんか、穴があったら逃げ込みたい心境でした・・・(涙)。トランクルームと不動産とスタジオの3つを適当にヤッテいる自分が恥ずかしくなりました・・・自分の「甘さ」加減に大反省・・・確かに織物時代に比べたら、今の仕事は感覚的に肉体的にも精神的にも「10分の1」くらいの仕事量です。それだけ今の仕事が「楽」で、気付かないうちにサボっているんでしょうねェ・・・まァ、こんなショックを受けたのは久々です。キャピタルゲイン主体とインカムゲイン主体と経営スタイルは違いますが、根本的な仕事に対する考え方を再考するキッカケになったという意味で、素晴らしい出会いだったように思います。もちろん彼女とは、年齢も経歴もあらゆる属性が違いますが、「生き方」という意味で大いに参考になります。生き方というより、生き様か・・・もし向上心というのがあれば、やはり人間というのは「外向き」に出て行って、イロンナ人と喋らないとダメですねェ・・・「内向き」で既存の友人や会社だけのネットワークだけでは、年を取れば友人はどんどん亡くなってくるし、定年になればそれまで長年勤めていた会社の人間関係がゼロになります。定年で既にネットワークを築いている奥さんにプライベートな友達が一人もいない御主人が張り付いて、奥さんがノイローゼになるパターンが社会問題になっています。同級生との付き合いだけでなく年上や年下、仕事や地域と全く関係の無い趣味の世界とのネットワークを、現役時代に時間をかけて築けば人生はもっと豊かになっていたでしょう・・・現実問題、3,40代の仕事が多忙を極める現役時代になかなか趣味に時間を取れるものではありませんが、それをマメにできる極々少数派だけが老後の充実した人生を勝ち取れるのです・・・まァ、自分と価値観や人生観の違った人と喋って・・・刺激を受けてナンボ・・・みたいな。人間というのはいくつになっても人に感化されるというのを信じて、これからの自分に期待したいですねェ・・・しかし84歳まで現役で働き続けるというのは、一般サラリーマンが60歳から年収が急減するのと比較すると、相当な生涯収入が得られるでしょう・・・ウン?百(千)万 × 24年(60歳~84歳まで)・・・人生、金が全てではありませんし金で何でも買える訳ではありませんが、サラリーマンでも「60歳を単なる通過点」として捉えて3,40代から準備して60歳以降の年収急落に備えれば、人生が相当変わったモノになるでしょう・・・私も49歳で家業の将来性に不安を感じて転業しましたが、サラリーマンなら自分の将来が見えてきて体力と気力の衰えを感じ始める50歳辺りが「準備スタート」としてジャストタイミングかもしれません・・・いつも感じるのですが、サラリーマンで60歳定年と言ってもまだまだ体力も気力もあるのに、現役の第一線を退くなんて勿体な過ぎます・・・それまで長年築き上げたネットワークやノウハウを活かさない手はありません。もちろん、それを活かすための一般社会の仕組みや会社の枠組みの不備や欠点というのもありますが、そんな改善を待ってられないのが現実ですが・・・いずれにしても49歳の転業の時点で、「これまでのような働き方(肉体労働中心)ではダメだ(長続きしない)・・・」「下請けではなく、自ら頭を使った従業員を雇わないビジネスモデルを考え出さねば・・・」というこの2点に焦点を絞って考え抜いて辿り着いた結果がトランクルームだったのです・・・そう言えば、私も子供の頃から親父から仕事の「基礎の基礎」を学んだ様な気がします。大学生の頃は朝の5時から3時間機織りをするのが日課でした。「家業は継がない!」と親父に宣言した建築金物建材メーカーのサラリーマン営業時代も、最初の2年間は5時から2時間機織りしてから出社していた自分に驚きます・・・(笑)。機織りは織物業の基本です。機織りをしながら、湿気具合を見てベルトの掃除で織機のスピードを調整したり、シャットル(杼)の飛走状況でオイルバッファーの交換時期を見たり、シャットルの衝撃音でピッカーやステッキの経たり具合を感じたり・・・夏休みともなると、機織りの後に毎日60台あった織機周辺の風綿の掃除をするのです。40℃90%を超える真夏の過酷な織物現場で、経糸が切れないようにしゃがんで2時間もホーキで風綿の掃除をすると、汗が噴き出ます・・・それでも当時は、熱中症にならなかったのが不思議です。それが済むと、油さしです。1台1台、糸と風綿をかき分け、注油するのです。この作業のお蔭で身体に油の臭いが付いて爪が黒くなり、デートの時はそれを隠すのに苦労しました・・・(笑)。朝の5時から機織り、掃除、注油・・・昼の12時になるともうクタクタです。それでも昼食で1時間休憩してから、荷作り、検反、棒運び・・・と5時まで肉体労働が続きました。夕方5時に解放されて、ウインドサーフィンを軽トラックに積んで近くの脇の浜の漁港(今のパークタウン辺り)まで行くのが唯一の楽しみでした。日曜日は樽井浜で泉南フリートというクラブで大勢の仲間とウインドサーフィンをしていたのですが、夏休みの間は平日に別のビーチで自主練していたのです・・・(笑)。当時は夕方になると、毎日オンショアのサーマルが吹き、疲れた身体でも心地よいプレーニングが癒してくれました・・・まァ、学校の勉強はダメで自分も諦めていましたが、メシの種である家業の織屋の仕事で、徹底的に親父に「基礎の機織り、掃除、注油」を仕込まれました。もちろん家業なので、文句ひとつ言える状況ではなく、黙々と仕事をこなしていました。若かったので「同級生らが大学生活を謳歌してるのに、何で?俺が綿ぼこりと油にまみれなアカンのや?」と心の中で葛藤していたのは言うまでもありません。しかし、これが逆にヨカッタのでしょう・・・これで相当、肉体的にも精神的にも忍耐力がついたように思います・・・(笑)。ありきたりですが、「若い時は買ってでも苦労せよ」なんていう言葉も、今の若い人にとってナンセンスなんでしょうか・・・その後工場設備更新をした際、20年間355日24時間稼働できたのも、この子供の頃から20代前半までの経験があったからこそだと思います。逃げ出そうと思えば逃げ出せる学校やサラリーマンではなく、「命が掛っている家業」だからこそデキたのです。物心ついた幼稚園児くらいから、織物工場で働く両親の姿をこの目で見てきましたし、毎日工場で遊んでいましたので、公私ともドップリ織物以外の世界は眼中になく、知らず知らずの内に「家業」として身体の中に浸透しDNAとして組み込まれていったのでしょう・・・上はトヨタも含め、オーナー企業というのはイイも悪い意味も含めて、そうやって長年の蓄積によって後継者を育てていくのでしょう・・・子供の頃に「絶対逃げだせないんだろうな・・・」という「覚悟」が形成されるのです。これはピンチヒッターであるサラリーマン社長にとって絶対理解できない事です。そういう覚悟があったからこそ、10代の早い時期から学校の勉強でも遊びでも「今やっている事が将来役に立つのか?」という覚めた視点(ロングスパン)でモノを考えることも出来たのだろうと思います・・・そして、「苦労するかもしれんけど、チョッとやったろか・・・」と考え、ウインドサーフィンも個人で楽しむだけでよかったのに、わざわざ大学に学連加盟のクラブを創ったり、サラリーマン時代もわざわざ繊維とは違う業界(建築金物)に飛び込んだのでしょう・・・という事で、昨夜の互礼会の2次会は54階のバーで、素晴らしい夜景見ながら楽しい仲間と飲みました・・・そして昨日お会いした「素晴らしい大先輩」を少しでも見習い、80歳までの「これからの現役20年」を実りのある充実した人生を歩みたいと思うのでした・・・それにしても「84歳で現役!」・・・素晴らしい、素晴らしすぎます・・・ 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2017.01.11
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