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顕正会の折伏については以前も取り上げたと思いますが、折伏理論解説書等に書かれている、「折伏は慈悲を以て柔和に順々と仏法の話を相手に説き聞かせるべきである」ということと、現場の会員の実際の折伏活動が一致していない現状があります。 確かに「柔和に順々と説き聞かせるべき」ですが、現状は「入信しない相手の胸倉を掴んだり、帰ろうとする相手の手を掴んで帰さなかったり、罰が出るぞの一点張り」であることは現場に身を置く会員なら誰もが知っているはずです。さらに自宅拠点等で入信を迫る場合は、違う部屋に幹部が待機していて、後輩が論に詰まったら出てきて説得するというパターンもあります。かくいう私の組織もそうであり、後輩が連れてきた対象者が帰ろうとしたら、自分と同じ部屋にいた上長が出て行って、引き止めて入信せしめたということがありました。それ自体は悪いことではないかもしれませんが、その内容によっては、「監禁、入信強要」と取られ、結果、ニュースで取り上げられる事態を引き起こしてしまうのです。 さらには、自宅拠点が無い地方の会員は御本尊様を奉持して車の中やカラオケボックスで入信勤行という、まさに数を追うだけの活動に追われています。後輩に対しても、折伏の約束が取れないと、般若のような形相になり、言動も荒くなる上長もいました。自分もあまりの上長の変わり様に、涙を流しながら約束を取り続け、生き地獄にも似た体験をしたこと、昨日のように思い出されます。ホームレス折伏も話題に上り、まさに縦横無尽でありました。 顕正会の皆さんに言いたいのは、「大聖人様お示しの折伏とはそんなちゃちなものではないよ」ということです。もし顕正会が正しい団体なら、そのような「折伏」活動が展開されるはずはありません。いくら日本に危機が迫っているといっても、身近にいる後輩一人に正しい折伏も教えてやれない、後輩を追い詰めている団体に果たして日本は救えるのでしょうか? それもこれも、すべて顕正会の本尊と教義に起因するのです。日寛上人は「境能く智を発し、智また行を導く乃至、発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳なお多し」と仰せられています。顕正会の教義と本尊が正しければ、どうして折伏活動をして後輩を追い詰めるでしょうか?どうして般若のような顔をして約束取りを「監視」するでしょうか?どうしてそこらにみだりに御本尊様を奉持して入信勤行などできましょうか?どうして縦横無尽に縁のない人に声をかけて、恐れ気も無く入信を迫ることが出来ましょうか? これら折伏活動一つの中にも顕正会の教義と本尊が誤りであることが暗示されているのです。もし御本尊が正しければ、例え信心の無いような者にさえ信心を起こさしめるのである。もし本尊が正しくなければ、純粋な信心のある者さえ、その行動と方向性が狂って行ってしまう、と日寛上人は仰せです。顕正会も日寛上人を賛嘆しているのですから、この御金言を深く拝すべきです。 ニセ本尊、あるいは血脈の通っていない本尊を拝むと、それによって邪心が深まり、感覚はマヒし、信心しているつもりでもその考えも方向性も狂って行ってしまうのです。その反面、本当に正しい存在を誹謗するようになる。創価学会も正信会も同じです。 顕正会員は早く本当の本尊と信心活動ができる環境を求めるべきです。
2008.11.27
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御加護をいただくためには、もちろん仏様の仰せのとおりに信心しなければいけません。そうすることによって、仏様の御化導を助け参らせる諸天善神が仏前で立てた誓いを遂行するゆえに、正法の行者は守られ、以て成仏の果報を賜ることが出来るのです。 しかし、いまや世界中に誤った思想・宗教は蔓延し、諸天の働きも全世界的に弱まっている状態と言えます。この諸天の働きを失ってしまえばいかなる個人・国家も衰退していくのです。では、諸天をそのまま崇めれば御加護はあるのか?といえば、ありません。天照大神や八幡大菩薩等の善神を祭っている神社は多数あるといえども、神社などで祭られている善神の実体は単なる「紙」に過ぎません。その「紙」は正法の行者による祈祷や正法を護持される御法主上人による開眼供養も当然、施されておらず、そのようなただの「紙」に善神が住まわれる訳がありません。そこには逆に人を不幸にする悪鬼が住みついており、国土と個人を汚す働きをしてしまうのです。さらに付言すれば、神社で言うところの善神は上で書いたように、あくまで仏様の御化導を助け参らせる存在であるのですから、本来崇めるべき仏様を脇に置いて善神を主に祭っても、仏様も善神も喜ばれる訳が無いのです。「神は非礼を受け給わず」とある通りです。 さらに、諸天の中でも有名な帝釈天等を祭るところもありますが、これも善神と同様に諸天を主に祭っても詮無いのです。 このように、いま現在は一国がこぞって正法を汚している状態ですから、そこに個人と国家の衰退がますます加速度をつけて行っているのです。年始の神社仏閣参詣には今年も様々な場所にたくさんの参拝者が訪れることになるでしょうが、本当の幸せを願うのだったら宗教の正邪と影響力をもっと深く考え、正しい法のある場所に参詣すべきなのです。あたら不浄な法によって年始から自身の生命を汚し、年々不幸の根本原因を積んでいるのが世間の人たちであり、個人の衰退が個人で成り立っている国家の衰退にもつながり、日本には凶悪犯罪や不祥事などが相次いでいくのです。また、人心と天地の間にはお互いが影響し合うという働きがありますから、人の心が汚れていけば行くほど、天災等も相次いで起ってしまうようになるのです。 いわゆる、神仏の「御加護」を信じている他宗派や一般の方はかかる事実を認識せられ、改めて神仏や御加護という事を考えていただければ幸いです。
2008.11.26
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顕正会員は必ず、「今の大石寺に参詣すると逆に罪を作るから参詣しない」と言います。逆にお聞きしたいのですが、どうして罪を作るのでしょうか? 本宗信徒に限って参詣を許されることは変わり無いし、御開扉料だって昔と変わりません。また、浅井会長が「付け願いという、お金さえ出せば登山したことになる制度が出来ました。こんなのは金儲けです」みたいなことを述べていますが、登山したくてもどうしても出来ない方のための特別な計らいであり、日常的に誰に対しても行われているわけではありません。宗門側の慈悲を誤解させるような指導はすべきでは無いでしょう。 「御遺命を破壊したから、そんな状態でお目通りしても功徳は無い」というのが顕正会の結論だと思いますが、国立戒壇という言葉を言わなくなっただけで実際の本門戒壇建立の御遺命は宗内から消えてはいません。 純粋な会員はぜひとも真実を確かめていただきたいと思います。御開扉の形式は昔と何ら変わっていないのです。
2008.11.18
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今日、自宅近くの茶店で「創価学会のことを聞かせてください」という人二人と話をしてきました。彼らは「学会が今、色々と世間に影響を及ぼすことをしているけど、土底浜さんの視点から学会をどう思われますか?」と尋ねられたので、日蓮正宗で学ばせていただいていることを基に、こちらの学会観を伝えました。 私は世間の情勢に疎く、逆に向こうから教わることもありましたが、教義的な面ではしっかりと学会の脱線を伝えることができたと思います。向こうも前もってこちらがお渡しした本をしっかりと読んで下さっていて、「学会が脱線したことは、正本堂という建物も関連しているんですね」、「二代会長の頃までは学会も正しかったんですね」等の所見を聞かせていただきました。 さらに学会葬についても話が出たので、「僧侶不在の法要など本来は有り得ない。僧侶に来ていただいて故人を霊山浄土に送る儀式をしていただかなければ、故人は成仏できない」と伝えました。今の学会は(顕正会もそうですが)「僧侶がいないので在家だけで法要をせざるを得ない」という現状にあり、会員も無茶を承知で借り出されているのでしょうが、大聖人様は「仏宝、法宝は必ず僧によりて住す」と仰せのように、法要一つ取ってみても、僧侶同席の下に執り行うことにより、仏法の生きた姿が顕れるのですから、在家葬などはあってはならないことなのです。 池田会長の各所での言動についても話が出る中で、「池田会長はこんな発言をしているのに、学会員はおかしいと思わないのでしょうか?」と聞かれたので、「内部にいると分からないものです。」とだけ答えました。自分も顕正会時代は会に誤りがあるなど、気づこうともしなかったし、認めたくない心理が働いていたので、学会員もきっと同じ気持ちなんだろうなと感じる部分がありました。 「そちらの近所の学会員と会う機会があったら、私も同席させてください。こちらは教義的な部分で、そちらは世法的な部分で学会員を正しい道に戻し、救っていきましょう」と伝え、別れました。今日、お会いした二人は正しい信心を教えてくれという理由で来たのではないから、いきなり入信を勧める展開にはなりませんでしたが、「信心での正邪が一切の正邪を左右します」ということは伝え、「正しい宗教と信仰」を渡し、信仰そのものにも興味を持って頂けるように伝えましたので、これから「同じ信心をする同志」としてお付き合いできる日が来るように、祈りたいと思います。 ともかく、顕正会のように「今日中に入信まで持って行かなきゃ」などという、脅迫観念を抱かずにすっきりした時間を過ごせたので有り難かったです。また、次につながるご縁を頂いて無上の喜びでした。 ここで顕正会の皆さんにも伝えたいんですが、日蓮正宗の折伏は有り難いですよ。上にも書いたみたいに「折伏締切日」なんてものも無いし、自然に出来たご縁を大切に出来る折伏です。顔も知らない人に電話をかけて無理やり入信させること等はしません。日曜や祭日だからと言って、仕事を休んでまで活動を強いられることもありませんし、愚痴にもなりません。自画自賛ではありませんが、これぞ仏様の御意に叶った折伏だと思いました。 せっかくご縁が出来た大事な対象者を一回きりの折伏で「あいつは入信しないから捨て置け。次の対象者を当たろう」みたいな無慈悲な決め付けをし、対象者に勝手に見切りをつけ、そうやって誰からも孤立していくのが顕正会の活動の実態です。正しい折伏をしていれば完全に孤立するはずがありません。法華経にも「変化の人を遣わす」とあるように、怨嫉を受ける中でも本当に自身の向上のためになる人のみが自身の周りに現れるようになるのです。 顕正会員の方、このブログをいま見て下さっているあなたはいかがですか?ご自身に当てはまりませんか? 孤立していくことによって、居場所を同じ顕正会内に求めてしまう人もいますが、日蓮正宗にご縁できれば、そんな心配も無くなります。 勇気を出して法華講員と接触してみてください。すべてご自身のために・・・。
2008.11.14
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