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(6/26のつづき)琉球紘道館を中心に、ディベート道(究論道)を広げていこうと思っている。私は久高島の小・中学生にユイマール・ディベートを指導しようと思っている。沖縄は貧乏な島だ。しかし、自然環境的にはrichだ。人間をhuman capitalとすれば、アイヌから逆影響をされている北海道の人たちに匹敵する。(つづく)
2011年06月29日
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(6/22のつづき)ディベート術からディベート道にまで思考を進化させた私は、今やサッカー・ディベートを世界に広めようとしている。西洋と東洋のロジック・ギャップを埋める原点をゴールとすべき「空」にしてから、私にとりディベート道がライフ・ワークとなった。(つづく)
2011年06月26日
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(6/18のつづき)キリスト教的な愛で私を鍛えて下さった故西山千先生に対し、國弘正雄先生は、仏教的な慈悲の心で私を導いて下さった。共に人生の師(メンター)である。 思えば日本の英語教育も遠くへきたものだ。戦後の巨人・松本亨博士の「英語で考える」から、同時通訳者の眼から見た、文化人類学に手を染められた巨人・國弘正雄先生、そして末席ながら、大先輩の諸説の流れを汲んで、ORにまでたどりついた。たかがOR、されどORだ。このORには、IFが入るからだ。日本民族にとり苦手で避けたいのが、このORとIF思考だ。(つづく)
2011年06月22日
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(6/16のつづき)スピーチの好きな人は、多分ディベートが嫌いだろうなあ、と知っていても、こちらからは距離を置くことはしない。それがディベーターの腹だ。勝って喜ぶのはアタマ、負けて更に喜ぶのはハラだ。音読派の國弘先生が、たちばな出版の私の近著「ひといき英語――音読編」の推薦文を書いて下さった。國弘大先輩の発想は、ディベートはagree to disagreeであると述べられる。しかも、either A or Bではなく、both A and Bであるべきだと日頃から述べられている。(つづく)
2011年06月18日
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(6/14のつづき)道友とはディベートのできる仲間のこと。意見が違ってお互い口がきけなくなることを恐れ、ディベートを避ける仲間は術友であって、道友ではない。今日、私があるのは、道友を選んできたからだ。私はディベートを恐れない。ディベートを否定する人をも恐れない。(つづく)
2011年06月16日
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(6/9のつづき)私は「ドラゴン桜」のファンだ。三田紀房がドラゴン桜を目指すなら、私は「ドラゴン松」に賭ける。咲くから、そして散るから美しい。それが桜を武士道に結びつける。松は、咲かないから、散らず、そのために強い。これも武士道。桜か松か、とORで考えるのは、思考訓練になるが、そのディベートの目的は、中庸(バランス)を求めることである。「桜 and 松」だ。だから三田氏とはディベートができると信じている。(つづく)
2011年06月14日
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(6/8のつづき)日本は東京という大都会をピラミッドの頂点として成り立つ経済大国だ。そして学歴社会。それは島を捨てて、陸へ向うことだ。しかし、東日本大震災が起こり、陸も島や村であることを知った。人はマスコミによる風評被害で翻弄されている。いまや大都会はシステミック・エラーで機能不全。地震、津波までは天災、原発危機となると人災。その人災はエリートにより、もたらされる。学歴とはお金のことだ。高ければ高いほどマネーに不自由しない。天下りはなくならない。エリートはお金で買収される。お金の誘惑に勝つ術を知らない。エリートは脆いのだ。(つづく)
2011年06月09日
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(6/6のつづき)ORで考えるには、ロジック(この基はA or B)が必要でわかりやすい。ビジネスに結びつきやすい。そこに落し穴がある。ディベートはロジカル・シンキングを鍛えることだけが目的となると、新たな問題が生じる。相手を論破し、自説を守るという物騒な大陸的思考は、日本という島国国家のエトスには馴染まない。ましてや、沖縄を中心とする琉球の人たちの思考訓練にはむかない。(つづく)
2011年06月08日
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(6/3のつづき)対立を超越するThe Way of Debate(究論道)は人間力と切り離せない。ディベートの技術の向上だけを目指すディベート術派が世に多い。英語力を伸ばすことは、人間力と関係ないという派(英語術派)が多数を占める現実から判断すれば、ディベートは術であって道でないという流派(ディベートは西洋のものと考える人に多い)が多数を占めるのと同じ理屈だ。(つづく)
2011年06月06日
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(6/2のつづき)英語は黙って読む(黙読は速読に結びつく)か、or、声を出して朗(音)読するかという論争は、その意図が建設的ならdebate。破壊のための私闘ならargument(口論=けんか)となる。私はどんな人が一番好きかと問われると、debater(議論して感情的にならない人)、そして一番きらいな人はarguers(議論に勝つことが目的とする論争好きな人)だ。世に、ディベートが好きという人に、arguers(自説を相手に押し込める人)が多い――とくに日本人の中に。その人たちの共通点は、ディベートよりスピーチ、そして交渉(戦争)より妥協を好む。(つづく)
2011年06月03日
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(6/1のつづき)今は、英語も日本語もどちらも難しい言語だと言える。Both A and Bという思考だ。ところが、英語で考えるとは、Either A or Bなのだ。そう、「英語で考える」とはORで考えることだ。だから、英語そのものが、英語民族そのものが、ディベートなのだ。ORなき英会話は、それこそワサビのない寿司。ワサビ抜きの好きな人もいるが、それは例外。一般的にspiceが必要という人のためにブログを書いている。(つづく)
2011年06月02日
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(5/27のつづき)「英語で考える」とは何か。最近、英語が見えてきた。70歳から、英語の正体がわかってきた。そして、その頃から、日本語の正体もわかってきた。再び、日本語の言霊、そして音霊の研究に入り始めた。北海道のアイヌと沖縄が、「音霊」で結びついた。英語をやってよかった。I've come a long way. 日本語しかやらなかったら、「英語が世界一美しくて、世界一難しい言語だ」と己惚れていたかもしれない。今は、英語も日本語もどちらも難しい言語だと言える。(つづく)
2011年06月01日
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