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(1/29のつづき)もう四半世紀になるか、断食行を始めて。人生の節目には、必ず断食をする。3月6日に有楽町の外人記者クラブでスズムシになって、天に向かい両翅を広げる。その前に私は蛹になる。再生の儀式だ。だれかにいわれたからではない。自然にそうなるのだ。「身を隠せ」と内なる声が聴こえると、足がおのずから信貴山の断食道場へ向う。ぜいたくな私の遊び心だ。(つづく)
2010年01月30日
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(1/28のつづき)「我以外皆師」。この私の好きな言葉を座右の銘にした、有名作家がいた。『宮本武蔵』を書いた吉川英治だ。そんな人に極真カラテの大山倍達がぞっこん惚れ込んだ。小学校しか出ていない、そんな小説家に。池波正太郎も松本清張もすべて学歴不足なのに、いや、だからこそあんな鬼才に化けることができたのであろう。紘道館に集まる塾生の中には、秀才が多いが、それでも満足せず天才を目指すものが多い。虚ではない、実を求めているからだ。(つづく)
2010年01月29日
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(1/27のつづき)かつて、「同時通訳日本一になります」と書式にして、故西山千名人に、誓ったことがある。今はその道のプロではない私も、松井君が紘道館に顔を出し、私の横で同時通訳をつとめるときは、内容チェックもしなければならないから、ナチュラル・スピードで喋るのでラクなのに、それゆえに緊張するのだ。紘道館のメンバーには嫉妬という言葉はない。みんなが自分より実力上の道友を求めるところだからだ。単位も卒業証書もない、この私塾では、生身の人間がぶつかり合うところだ。足のひっぱり合いはない。教授は要らない。全員が学ぶ学徒だからだ。「我以外皆師」。一番、真面目な生徒は私かもしれない。(つづく)
2010年01月28日
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年賀状は独得な味わいがある。印刷された活字は冷たいが、一言でも「その後、いかがですか」という肉筆の温もりがあれば、来年も語りかけようという気になる。ブログとEメールの時代になった今でも、年賀状は嬉しい。紘道館の誉れ・松井健治(プロ通訳者)がICEEで公式初段と認定された。Once an interpreter, always an interpreter. と肉筆で書かれていた。字も心も踊っている。通訳の道を歩み続けるのも極道かあ――しびれる。(つづく)
2010年01月27日
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(1/25のつづき)私は速筆家だ。私の書く戦略はワイン方式だ。私の頭脳という樽の中には、常時30本ぐらいのボトルが眠っている。5年ものもあり、10年ものもあり、30年ものという古酒(クース)もある。今年3月6日に引き出物として配る『同時通訳--西山千の風姿』(角川学芸文庫)は、40年ものだ。着想40年といえば、grape pickingを40年前に始めた逸品ということだ。書くのは簡単。なにしろ13歳から毎日当用日記を書いているのだから、書くことは全く負担ではない。摘み取ったブドウを足で踏みつぶすように、思考を幾度も練り直すプロセスが楽しいのだ。
2010年01月26日
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(1/23のつづき)正月は今年の構想を練る。そのために、昨年末の出来事を回顧しているのだ。信貴山で十日間の断食の「行」を始めるころは、すでに未来思考に切りかわっているはずだ。3月6日に、天を翔けめぐる前の、再生の儀式は、臨戦態勢に等しい。だれとも会わない、語りたくはない。もう縄文時代から続いた、マタギ(狩人)の狩の前夜の心境だ。その獲物とは何か。「新武士道(ネオ・ブシドウ)」執筆のための構想だ。(つづく)
2010年01月25日
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(1/22のつづき)なぜ、女・紘道館が産まれたのか。沖縄の"母力"に期待。琉球は強いのだ。被害意識をもってもらっては困る。大学は人に"教" えても、人を"育"てるところではない。有為の人材は、電池(バッテリー)ではなく、磁石(マグネット)であるべきだ。究論は人を育てる。サッカー・ディベートは、ユイマール・ディベートでもある。イーマールは大学を目ざすが、ユイマールは、私塾を目ざす。大陸は父の論理、海洋国家は母の論理で動く。琉球はアイウだけの国だ。ア(come)とイ(go)の間にウが産まれる。ウーンウーンと呻きながら、産むことが教育なのだ。教育とは育むこと。これは久高島が教えてくれた。琉球紘道館のシンボルは風車だ。風に逆らわずくるくると回る。しかし芯棒(ミチ)はびくともしない。日本は海洋国家だ。琉球が元気になれば、日本という本島も元気になる。(つづく)
2010年01月23日
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(1/21のつづき)琉球紘道館誕生! 「沖縄を教育県にするWAVEを起こそう」というその朝考えたテーマで話す。そのために見せ太刀として、同時通訳と即興ディベートを披露。これも沖縄戦のうち。だからこの緒戦は早目にすませる。幸いカレン・ルパーダス博士(沖縄国際大学の言語学博士)とのコラボが巧くいったから、講演がやりやすかった。サッカー・ディベートも大成功。英語のレベルも高い。いずれ沖縄でローカル・ICEEができそうだ。55名もの英語の使い手が集まったから、その熱気のすごいこと。さて、私のレクチャーの趣旨は次の通り。英語道は武士道の延長。海の武士道に注目しよう。(つづく)
2010年01月22日
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(1/20のつづき)脱皮を済ませたカニがそのままの姿で、岩にこびりついていた。二匹もいた。形が崩れないように、箱に入れた。再び健康を崩さないように、イラブうなぎ(海蛇)を食べて精をつけた。明日の沖縄戦に備えて、気を充実させた。ここで沖縄の人のハートを掴めば、来年(今年)は明るい。失敗は許されない。翌朝の絵日記に、カニをデッサンした。その直後、目の前でカニがバラバラと崩れ、姿を消した。久高島のものは、いっさい俗界へ持ち帰ってはならないのだ。不思議な神の島だ。12年に一度というイザイホーはなんとしても復活させたい。琉球は女が男を守ってくれる列島だ。私も死を恐れず、いったん身を沈めば、再生できるのだという実感を得た。(つづく)
2010年01月21日
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(1/19のつづき)心身とも回復し、沖縄は快晴が続いた。しかし紘道館創立の根回しはまだ終っていない。初めての久高島詣である。これまで近づけなかった、神の島だ。これも比嘉君の根回しの賜物だ。快晴。海は穏やかだった。沖縄の神々が先生を迎えていますよ、という。縁起をかつぐ人はこの地に多い。私塾の雄である私が、憂国の士となって、この聖地を船で渡った。折口信夫が一句詠んだ。 目を閉じて 時と所を忘るれば 神代に近き 声ぞ聞くゆる 私も一句浮んだ。 かにが脱ぎ われも身をそぐ 久高島 (つづく)
2010年01月20日
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(1/18のつづき)初めて恵氏に会ったときの夕食の宴に同席したのは、伊藤陽夫というサムライ宮司(沖縄護国神社)、サムライ・ジャーナリスト宮本雅史(産経新聞那覇市局長)、そして沖縄政財界に顔の利く、渕辺美紀女史(国際ディベート学会公認くのいちトレーナー)、そしてICEEチャンピオンのマチックス千里(女・紘道館)。光宣君も兄と共に裏に回り、「琉球の風が吹きますね、きっと」と鼓舞してくれるなど、すこぶる上機嫌だった。(つづく)
2010年01月19日
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(1/16のつづき)One for three. Three for one. (同期の桜)との掛け声で塾頭を立てる。この光宣君(紘道館本部で鍛えられているマツモト・ガイ、a made guyだ)は、車椅子の父を立てる。 父が健在な頃から、「光宣、お前は恵氏を松本先生に紹介するのだぞ」と仰っていたという。恵隆之介氏とは初めて会ったとは思えない。3月6日(私の古希)の氏の講演「海の武士道」を楽しみにしていただきたい。
2010年01月18日
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(1/15のつづき)12月21日になっても、琉球紘道館設立(比嘉光宣塾頭)の根回しが続く。リーダーたるもの、後釜の育成に力を入れるべきだ。比嘉君は、すでにそのリスク管理まで怠っていない。自分なんかよりも、と必ず仲間の顔を立てる。兄そして父を立てる。この比嘉一族の結束。そんな家族の絆は、松本家にはなかった(とくに母の死後は)。この塾頭は、仲間のお陰だと、岸本薫(英語は抜群に巧い犯罪捜査官。横山カズがライバル)と屋嘉比健(渉外官)の二人を立てる。まるで琉球紘道館は、海兵隊の三銃士が死守してみせるといった、構えだ。(つづく)
2010年01月16日
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(1/14のつづき)直属の上司よりも、イエス・キリストひとりにしか忠誠を示さないというキリスト教の信者が、なぜかくも武士道に魅せられるのか。愛とは何か、その正体は?今の私はこの謎に挑戦している。 新しい武士道は、愛か憎しみか、そんなものではあるまい。そんなときに出会ったのが、「海の武士道」を書いた恵隆之介。病に伏せたままこの本を読破した私は、この人物に運命的なものを感じた。キリスト教を超える愛の力を感じた。それは、海の、そして「母の無償の愛」のパワーだ。恵(めぐみ)氏を私に引き合わせたのも、比嘉君だ。これだけの縁を結んでくれただけで、昨年のマン・オブ・ザ・イヤーになる。(つづく)
2010年01月15日
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(1/13のつづき)考えることは楽しい。これなら病床でもできる。夢の中でもセルフ・ディベートをする。クリスチャンの新渡戸稲造がなぜ「武士道」を書いたのか、内村鑑三もクリスチャン。 「武士道」を著した李登輝もクリスチャン。しかし、ローマを滅亡に導いた一因もキリスト教(塩野七生説)。私をAIUには不適格な教授だと告訴し、影で私を失脚させようとした、金髪の女学生も、クリスチャンであった。このあたりは、私の当用日記に英語で書き続けたい――信貴山の断食道場で怨念を鎮めながら。(つづく)
2010年01月14日
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(1/12のつづき)この与那国の「ヨ」という母音が気になる。東はアガリ。西はイリと発音する西表島はイリオモテの島。アとイの母音が琉球では、出と没なのだ。太陽からみればア(out)とイ(in)があればよい。 その二つのエネルギーが交接すると、ウが産まれる。琉球にはアとイとウがあればいいのだ。この「思い」は、沖縄ではウムイになる。オモイがウムイ。そう、オがウだから、エもオも要らない。アイウだけでよい国だ。それなのに、ヨナグニはヨから始まる。シャーロック・ホームズは、熱にうなされながらも演繹推理を働かせている。聞くと、ユウナ(黄色い花)の国でヨウナグニと呼ばれていたということを知る。米作が始まったから、稲(イナ)の国とも。いずれにせよ、ユかイが訛ったものだった。(つづく)
2010年01月13日
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(1/11のつづき)Yes, I can. とはいうものの、やはり不安だ。Yes, I could.(やれないことはない)と言えば弱気過ぎる。 12月19日にアヤミハビル館で、初めてヨナグニサン(世界最大の蛾)と会見した。成虫の雄の命は、わずか4、5日だという。しかし、前バネの末端には蛇の模様があり、巧みな擬態(カムフラージュ)で、身を守っている。思わざる 病となりぬ 与那の国 命短し ますらおの蛾この保身術。スズムシも顔負けだ。その日の熱に勝てず、食欲がなく早めに旅館「阿檀」に戻った。しかし、シャーロック・ホームズの帽子をつけている私は、病床に伏していても推理だけは働かせている。(つづく)
2010年01月12日
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(1/9のつづき)その頃、私は期せずして倒れた。今年初めてひいた風邪だ。肉体的疲労に加えて、精神的負担が重なったのだろう。大学か私塾か? その日の夜は、旅の女将と比嘉君の看護を受けた。水ばかり飲んだ。泡盛の卵酒は、飲みづらかった。夜中、一時間ごとに目覚めた。容赦なく攻めてくる尿意に往生した。この歳(69)になると、トイレが近くなる。しかし、一時間毎にトイレ通いとは、情けなくなる。これでも来年の誕生日には「公」になる宣言をするのだ。蛹から蝶になるのだ。できるのか。Yes, I can. (つづく)
2010年01月11日
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(1/8のつづき)さて、日本の最西端の地である与那国に飛んだ。3日間、独りで調査するつもりだった。この琉球列島の最端の島が気になっていた。国の防衛は大丈夫か。この黒潮文化の行方が気になる。「私」の心ではない。「公」の心で来たのだ。高い自費を払って、Dr.コトーの島(ロケのためだから虚である)を観光で来たのではない――ヨナクニサン(世界最大の蛾)には興味があったが。福岡から那覇、そこから石垣島経由で与那国まで飛んだ。秋田から長い旅だった。そんなムチャな独り旅を憂慮して、比嘉光宣君が、飛んできてくれた。付き添いのない私から目が離せないと思ったのだろう。(つづく)
2010年01月09日
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(1/7のつづき)表の人は、It's a matter of principle. というが、裏の人間は「これは意地だ」と訳す。裏訳だ。考えれば、私の仕事は面子ビジネスだ、と述べてきた。意地っぱりな人間で、英語教育も「行」であり、英語をマスターする術は科学というより「芸」であり「道」である、と主張し続けてきた。ところが、その英語力も科学的に管理される時代になった。「人間力」さえ省けば、英語力が数字で管理できるのだ。それが単位、学位、そして資格となり、実社会で役立つ権威づけになる。It just doesn't seem right. ほんまに、これでええのか。(つづく)
2010年01月08日
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(1/6のつづき)どうもすっきりしない。It doesn't seem right. 大学と私塾では、差があり過ぎる。その中間はないのか。相乗効果を期待していたのに。公と私の両バネを摩擦することにより、音楽を生ずることはできないのか。この一年は、「大学の私塾化」の年になりそうだ。もし、これに失敗すれば「私塾の大学化」を図らなければならない。そのためには、私塾紘道館の私がより公である証明がいる。これをディベート用語で、立証責任(burden of proof)と呼ぶ。(つづく)
2010年01月07日
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正月にいろいろ考えた。年末の追憶から始まる。AIUの最後の授業のあと、今から憧れの与那国へ向う。あいにく雪でANAは欠航となり、新幹線で10時間がかりで新大阪についた。久しぶりに車中で悲しき酒を飲んだ。 どうしても不合格にしたい外国人留学生を解放してしまった。スズムシ判決に従って、汝の敵を愛してしまった。これでよかったのか、スズムシ君。スズムシ日記を書き終えたあと、スズムシ判決に疑問をもった。どうも心が晴れないのだ。(つづく)
2010年01月06日
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(1/4のつづき)その間、『オバマの本棚』企画と、スズムシとの出会いがあったからだ。そして、西山千流派が「術」の面では、カマキリと述べたが、「道」(生きざま)の面ではスズムシである、ことが発見できたからである。今年もスズムシ哲学のお世話になりそうだ。 「声はすれども、姿は見えず」この透明人間に音楽が加わった。西山千師匠の同時通訳の術と道(行)が甦った。同時通訳とディベート(究論)が一体化した。だから、白洲次郎と西山千が、私の人生には両翼としてインプリントされることになった。ハビック・真由香の主人のロバート、浜岡、そして私は、英語道とICEEのスローガンとスピリットをGrow younger together. に統一しようと決めた。ナニワ英語道に花が咲いた。今年は琉球とナニワにも紘道館が発足する。今年の私の古希の祝パーティー(3月6日)が待ち遠しい。
2010年01月05日
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再び「同時通訳――西山千の風姿」(仮題)の企画が復活した。角川学芸出版は、本気なのだ。最終ゲラをチェックしながら、ふと考えた。 同時通訳の師匠・西山千と同通のブースでご一緒させて頂いた期間は、僅か1年半と短かったが、氏は私の大学生活4年間以上のインパクトを私の人生に与えてくれた恩人だ。西山千は大学ではない。教授でもない。いわんや校舎ではない。ふつうの人だった。そのふつうの人が私を男にしてくれた。単位をもらったわけではない。しかし男になった気がする。西山親分は私を教えて育ててくれた。『同時通訳』企画が3年以上もかかって、一時はギヴアップしようとしたが、ふりかえってみれば、延ばしてよかった。なぜか。(つづく)
2010年01月04日
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(1/1のつづき)とにかく、今年の3月6日で、私は大きく変る。それまで、年初といえども「残心」(relaxed alertness)を怠らない。蝶も成虫になる前の蛹の期間はcriticalなのだ。とにかく甦る。My life begins at seventy. 女・紘道館のハビック真由香が、薩摩男浜岡勤(ICEE代表)と手を結んで、私を「公」に変えてくれる。私は日本の教育を変えたいのだ。英語力やディベート力よりもっと大切なものがある。それが"人間力"。大学を私塾化するのだ。こんな狂人の私でも「私」に徹すれば「公」になるような気がする。
2010年01月02日
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(12/31のつづき)新年おめでとう。本年もお互いに頑張ろう。さっそくだが、年末のおさらいに入ろう。日本語のチャンスを英訳すれば、ほとんどの場合はopportunity。しかし、チャンスがchanceと同じ意味で使われることもある。 ここまで述べないと、目ざとい読者に私を攻撃するスキ(opportunity)を与えることになる。opportunityの訳がスキ(隙)?こんな英訳は、学校や予備校では学べない。私塾紘道館ぐらいだ。薩摩の郷中教育には、これに似た"詮議"(debate)があった。(つづく)
2010年01月01日
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