親鸞の研究をされている山崎龍明さんのお話です。
生きるという事は、そんなに簡単にはいきません。
まさに、山あり谷あり、禍福はあざなえる縄のごとしです。
親鸞さんは、人間が生きていく世界を「難度海」 (なんどかい 渡りきることが極めて難しい大きな海)といいました。
自己をどこまでも信じ、自己の能力、力量をたのみとして、人生設計をたて、その道をひたすら生きる。
なんとたくましい、立派な生き方でしょう。このような人をずいぶんとみてきました。
でも、そのような生き方には、どこか「力み」があります。
大切なところで大事なことを見失うような、おごりと危うさを感じます。
「自力を捨てる」と言う事は、自分を捨てることではありません。自我を捨てるということです。
自力のはからい(とらわれ)を捨てるということです。
いや、自我中心に生きている、その誤りに気づくことであるといってもいいでしょう。
そこには何の「力み」も「気負い」もなく、他を認める開かれた世界があります。
「自力をすてる」ことは、 「仏の真理」に気づくことでもありました。
それは、学歴、知識、社会的地位、金銭、他人を人生の拠り所とはしない、ということなのです。
(親鸞!感動の人生学 山崎龍明 中経出版 174ページより引用)
森田理論に通じるところがありますので、私の感想を書いてみます。
親鸞さんは「自力の思想」ではなく、「他力の思想」であると言われます。
自力の思想は、人間の生き方や処世術を学問・書物や世の中の常識などから学んでいきます。
それらを統合して人生観や処世術を確立した人のことを言うのではないかと思います。
努力精進して確固たる人生観や現在の地位を確立したわけですから、立派なことだと思います。
高学歴を持ち、社会的地位を獲得し、お金を儲けて物質的豊かな生活を築いた人たちです。
しかし、そういう人たちの中には、欲望が暴走し、制御不能に陥っている人もおられます。
自己中心的で、 自分の利益のことばかり考えて、他人を自分の意のままに支配しているような人です。
自力の思想の人は、そういうおごりや危うい面があるわけです。
どうしてそのようなことになるかと言うと、自分の考えていることや行動は間違いないという過信があるからです。
森田理論で言うと、 「かくあるべし」思想で世の中のことに立ち向かっているわけです。
親鸞さんが言われている「他力の思想」は、 「自力の思想」のおごりや危うさを指摘されているのだと思います。自分の立ち位置が思想や完全・完璧の状態の側にあるのはまずいいと言われているのです。
「他力の思想」は、森田理論で言うと、 「かくあるべし」思考を少なくして、できるだけ事実本位・物事本位の生活態度に改めていくことだと思います。
山崎さんは「自力をすてる」ことは、 「仏の真理」に気づくことであると言われています。
これは私たちの場合で言うと、森田理論の学習をして、症状を克服し、神経質者としての人生観を確立するという事ではないかと思います。
森田先生は、 「教育の弊は、人をして実際を離れていたずらに抽象的ならしむるにあり」と言われています。この言葉は、森田全集第5巻の最初に掲げてある言葉です。
森田先生は、神経症に陥って苦しんでいる人は、思想の矛盾を抱えている人であると言われています。
つまり、 「かくあるべし」でがんじがらめになって、金縛りにあっているようなものです。
ここに焦点を当てて、学習・実践に取り組まないと、いつまでも生きづらさは解消できないものと思われます。
神経症が治るということ その3 2025.11.04
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