引き続き帚木蓬生氏の講演で心に残った話を紹介しよう。
病気の人は、健康な人のふりをすることが大事だ。
病気のことは病気に任せる。
病気を人にさとられるようではいけない。
これによると、例えば腰痛になって周囲の人に「腰が痛い」と言って、自分の痛みを公表するのはよくない。痛みを公表すると、周囲の人に自分の腰痛が知られてしまう。
そうするとますます弾みがついて、痛みを口に出すようになる。
それを理由にして、日常茶飯事を避けるようになる。
周囲の人は、たびたび愚痴を聞かされるようになる。
一応いたわりの言葉はかけるが、そのうち次第に嫌気がさしてくる。
本人は注意や意識が腰痛のことだけに集中して、実際の痛み以上に腰痛が悪化するように感じる。
だから、あくまで基本的には、病気になっても、 「人に言わない、見せない、さとられない」ことが大切なのです。
いくら苦しくても、痛くても、ある程度は我慢して、さりげなく日々の生活を続けていた方が、苦しみも痛みも減ってきます。
いわば、泣きながらの前進です。苦しくない、痛くない、
平気な顔して目の前の実生活に全力を注ぐのです。
心は行動のあとについてくる。そう考えた方が事実に近いのではないでしょうか。
心にはクモの巣が張ったまま、埃が積もったままでも構わないのです。
外相さえ整え、日々の生活の大切な部分に着手していくうちに、クモの巣も埃もどこかに消えてしまいます。心には、はいはい、さようでございますと馬耳東風の態度で臨むのが1番です。
言うなれば全面降伏です。降伏したのですから、心と戦う必要はありません。
内相を、心の旗印にすると生活に雑音が入りだします。
早い話が、 「生きる意味」とは何か、これを突き詰めて考えた挙句、生きるための錦の御旗を手に入れたとしても、すぐにつまずきが待っています。
心が「生きる意味」の御旗を高々と掲げて、体がついていけば、話は簡単です。
実際には外相、つまり行動はなかなか伴ないません。心に方向性がないので、旗が上がってもついて行きようがないのです。それより、外相を整えた方が、 「生きる意味」などはすぐに見つかります。
困った人を助ける、人に親切にする、親孝行、日々の家事、日常の仕事を黙々とこなす外相の方が、内相より整いやすいのです。整えているうちに、 「生きる意味」も明確になってくるでしょう。
文化勲章や芸術院会員を辞退し、無名の一陶工として生きようとした河井寛次郎氏が残した言葉に、 「手考足思」があります。陶芸家は、瞑想して作品の想を練るのではありません。
足でろくろを回し、手で粘土をこねているうちに、想が形を成してきます。
これは人間の実生活の真理です。頭で思考するよりも、手足を動かして思考した方が、人間の生活には最も適しているのです。
(生きる力~森田正馬の15の提言 帚木蓬生 朝日新聞出版 51ページから62ページより要旨引用)
生活リズムや体内リズムを大事にする 2025.11.21
観察するということ 2025.10.31
「ともかくも手を出す」ということ 2025.10.08
PR
Keyword Search
楽天星no1さん
メルトスライム25さんCategory
Comments
Calendar