25歳の時である。入学試験はなかった。
高等学校を卒業することで大学への入学資格を得られれば志望のコースに進めたのである。
ところで、森田正馬先生は、高校生の頃から脚気と心悸亢進発作で苦しんでいた。
森田正馬は我々と同じように神経症の経験者だったのだ。
大学入学後も心悸亢進発作をたびたび起こしている。
病気と不安神経症のため勉強が進まないことに悩んでいた。
当初は神経症と身体疾患を抱えているために勉強ができないのだと本気で思っていた。
それを覆すような出来事があった。
これがのちに森田療法を生みだしたエピソードとして知られている。
お父さんが養蚕の仕事が忙しくて2か月も送金がなかったのである。
森田正馬は人を恨み、身をかこち、やるせない憤怒の極み、自暴自棄になったという。
よしー父母に対する面当てに死んで見せようと決心した。
後で考えれば、きわめて馬鹿げたことであるけれども、自分自身のその時にとっては真剣である。
薬も治療も一切拒否した。夜も寝ずに勉強した。まもなく試験も済んだ。
ここが我々と違うところだ。自暴自棄になって何もかも放り投げなかったことがすごい。
成績が思ったときよりも上出来であった時には、いつの間にか、脚気も神経衰弱も気にならなくなっていた。国元からの送金もあった。養蚕が忙しくて、送金することを忘れていたとのことである。
私の今までの神経衰弱は、実は仮想的のものであった。もとより脚気でもなかった。
これは後の人間森田正馬の研究により事実と合わないことが分かっている。
しかし事実を偽っていても、森田療法(森田先生自身は神経症に対する特殊療法といわれている)誕生に大きなヒントを得たということは間違いない事実である。
神経症は、病気のようであるが器質的な病気ではない。
誰にでもある不安や恐怖。違和感、不快感にことさら意識や注意を向けて精神交互作用によりあたかも重大な病気であるように錯覚しているのである。
神経症は認識の誤りにより、時として実際の器質的な疾患よりも重い障害を呈する。
精神交互作用の打破と思想の矛盾の打破が神経症の克服には必要であることがはっきりと分かったのである。このエピソードが森田療法誕生に一役買っていることは間違いないようである。
森田正馬は1902年の年末に東京帝国大学を卒業している。
1898年に入学してから1901年まで脚気と神経症で苦しんできたが、この年を最後に心悸亢進発作は一度も起こしていない。神経症発症のメカニズムがはっきりと分かったのであろう。
これから様々な経験を積んで1919年ついに世界に誇る森田療法を完成させたのであった。
その間約18年の歳月を費やしている。その後は自宅に入院生を受けいれて本格的な指導が行われている。
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