鐘が鳴るかや 撞木 (
しゅもく )
が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る。
51年前の慈恵医大で私の精神科講義の森田教授の第一声がこれであった。
あざやかに今日も私はその日の光景が目の前に彷彿としてくる。
私は一瞬面喰って一瞬茫然としたが、この最初の一言が私の一生を支配したようで、なんとも忘れられず、意味もよくわからないまま、私の内的生活を育んできたごとくである。 (
形外先生言行録 御津磯夫 62ページより引用 )
この部分はどう理解すればよいのか難しいところです。
ただ鐘と撞木がそれぞれに激しく動いただけでは鐘は鳴らない。
鐘と撞木の両方がぶつかり合うときに鳴るということです。
つまり相互作用によってはじめて鐘が鳴るのです。
これに関して森田先生は次のように説明されている。
宇宙の現象は、すべて唯、発動力と制止力とが、常に平行状態にある時にのみ、調和が保たれている。
天体にも、物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、興奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。
吾人の精神現象も、決してこの法則から離れることはできない。
余は特にこれを 精神拮抗作用
と名づけてある。
欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐戒・悪怖という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。
この衝動と抑制とが、よく調和を保つときに、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、その抑制の剛健な人が、益々大なる人格者である。
(森田全集第7巻437ページ)
神経症的な不安に対してはその裏に欲望があります。
ですから神経症的な不安に対して、ことさら不安だけを取り上げて対処しても仕方がない。
不安の裏にある生の欲望の発揮のほうに焦点を当てることが大事になります。
不安は欲望が暴走しないように制御する役割を果しています。
これは自動車の運転を考えるとよく分かります。
自動車にはアクセルとブレーキがあります。
目的地に行くためにはアクセルを吹かして車を前進させなければなりません。
またカーブや坂道、赤信号ではブレーキを活用してスビートを制御しなければいけません。運転する人は誰でもアクセルとブレーキを適宜上手に操作しています。
ところが感情の取り扱いになると、ブレーキばかり踏み込んでアクセルを踏み込むことを忘れている。
これではいつまで経っても目的地に到達することはできません。
森田理論の「欲望と不安」の単元を学習するとそのことがよく分かるようになります。生の欲望の発揮はまず日常茶飯事に丁寧に取り組むことから始めたいものです。
「なりきる」は2つの意味があります 2024.06.19
コントロールできることとできないことを… 2024.06.14
☆不安の立場から不安を観察する 2024.05.27
PR
Keyword Search
Calendar
Comments
Category