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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「アート」でしょうか♪<市立図書館>・私の息子はサルだった・愛国者の条件<大学図書館>・H・R・ギーガー・日本、家の列島図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【私の息子はサルだった】佐野洋子著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より私は疑いもなく子供を愛しているが、その愛が充分で、適切であるかどうか、うろたえる。誰が見てもいい子ではない。学校で一日五回も立たされる。ただ、大人になった時、愛する者を見守り、心に寄りそってやって欲しいと思うー。『シズコさん』で母を描いた著者は、子供のことも描いていた。感涙必至の物語エッセイ。<読む前の大使寸評>先日『シズコさん』を読んだ勢いでこの本を借りたのであるが・・・さてどんなかな♪rakuten私の息子はサルだった************************************************************【愛国者の条件】半藤一利×戸高一成著、ダイヤモンド社、2006年刊<「BOOK」データベース>より教育が変われば、国も変わる。その覚悟はできているのか。日本人よ、気分に流されるな。「国のため」より立身出世、能力主義より官僚主義、国際感覚より「栄光ある孤立」、国民との約束よりも外圧…純粋な愛国心を歪め、国家を危うくするものの正体。【目次】巻頭対談 愛国心を教えることは可能なのか/第1章 愛国を論じる前に/第2章 「美しい国」づくりに必要なこと/第3章 日本海軍の人づくりに学ぶ/第4章 国家の命運を握る先見性/第5章 国家と軍が誤る時/第6章 なぜ昭和の海軍は破綻したのか/第7章 再軍備を語る前に知っておくべきこと/第8章 日本は歴史から何を学ぶか<読む前の大使寸評>この本の副題が「昭和の失策とナショナリズムの本質を問う」となっているように・・・安倍さんの危うさを問う意味でも、時宜を得た本ではないかと思うわけです。rakuten愛国者の条件************************************************************【H・R・ギーガー】H・R・ギーガー著、タッシェン・ジャパン、2004年刊<商品の説明>よりH.R. Giger is a painter, Oscar award winner and cult figure for the international artistic community for which his aesthetics of the apocalypse represent inspiration and spiritual healing. This book explores the inner hidden world within Giger's pictures.<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、ほぼ全ページが画像というビジュアル本である。それから文字のページは、同じ文章を英文、仏文、和文で載せているのが異色というかインタナショナルでおます♪amazonH・R・ギーガー************************************************************【日本、家の列島】ヴェロニック・ウルス, ジェレミ・ステラ著、鹿島出版会、2017年刊<「BOOK」データベース>より建築家が個人住宅を手がけるー近代以降の日本の社会に根づいた慣習にフランス人建築家は驚きを隠せない。「彼らのクライアントはなぜ建築家に建ててもらうことにしたのか?」ただひとつの疑問を胸に訪ね歩きまとめた、歴史的な名作から近年の秀作まで70軒を総覧する住宅図鑑。パリを皮切りに欧州各地で話題を呼んだ展覧会の日本開催公式図録。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten日本、家の列島************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き226
2017.06.30
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図書館で『建築のすべてがわかる本』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、画像満載の、これぞビジュアル本である。文字ばっかりの小説に疲れてくると、ついビジュアル本に手が出るのです。【建築のすべてがわかる本】藤谷陽悦著、成美堂出版、2006年刊<「BOOK」データベース>より古代建築から寝殿造、数寄屋造、超高層ビルまで、60のテーマをイラストと写真でわかりやすく解説。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、画像満載の、これぞビジュアル本である。文字ばっかりの小説に疲れてくると、ついビジュアル本に手が出るのです。amazon建築のすべてがわかる本「軍艦島」を、見てみましょう。p34~35<初の鉄筋コンクリート造集合住宅の島「軍艦島」> 江戸時代以来の炭鉱の島「端島」は、第一次世界大戦を機に活況を呈した。防波堤を巡らせ、鉄筋コンクリート造集合住宅が林立する様は、さながら海に浮かぶ軍艦であった。■日本の重要な基幹産業 軍艦島は長崎県の長崎半島の西4・8kmの海上に浮かぶ孤島である。正式名を端島と言い、現在は長崎市に属する。1810年ごろ石炭が発見され、最初は佐賀県が小規模に採掘していたが、1890年(明治23)に三菱が全島の採掘権を掌握してから大躍進を遂げることになる。海底に良質な石炭が眠っていたからである。■最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅 大正期には第一次世界大戦の戦災で、ヨーロッパは荒廃する。日本は思わぬ漁夫の利を得て、大戦景気の波に乗った。 端島では新たな炭鉱脈が発見され、深層部の炭鉱開発も始まり、採炭量が著しく増加した。島内の人口は増え、活気にあふれた。商店街のほか、役場・派出所・郵便局・公民館・老人クラブなどの公共施設が設けられた。居酒屋・食堂・宿泊所はもちろん、共同浴場・映画館・パチンコ店・マージャン店・玉突場・卓球場・体育館・テニスコート・海水プールなどの娯楽施設が出現し、殷賑を極めた。 炭鉱の発展とともに、「炭鉱住宅」も次々と新設された。なかでも一躍脚光を浴びたのは、日本最初の鉄筋コンクリート造集合住宅が建設されたことであった。■海上に浮かぶ軍艦に似た景観 最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅は、1916(大正5)年に建設された30号館であった。これは、ロ型の住宅配置を持つ7階建て家族持ちの労働者用住宅で、設計者が英国人トーマス・ブレーク・グラバーであったことから、「グラバーハウス」と呼ばした。しかし、この住宅は納屋制度から社宅制度への移行期に建設されたため、1世帯が1部屋という狭さで、あまり水準の高いものではなかった。 その2年後に建設された日給住宅(16~20号館)は、当時の欧米の集合住宅と比較しても遜色のない内容であった。建物は半地下式に掘り込み、傾斜した岩盤に逆セットバックで建ち、その上に地上3~4階分がのるもので地上9階建ての高さがあった。室内は2室で構成され、台所の土間も30号館より広かった。 共用空間の廊下は住民が立ち話をするのに十分な広さがあって、社員同士の良好なコミュニティが形成されていた。端島の景観は、これを機に大きく変わった。当時の「長崎日々新聞」は、山の稜線と竪鉱・集合住宅が林立する様が軍艦に似ているとして、これを「軍艦島」と報じている。 日本の企業の多くは社員のために社宅を整え、経営基盤を発展させてきた。ここから「」という特殊な都市形態が生まれる。軍艦島は、その先駆けとして日本の近代史に欠かせない存在である。国のエネルギー政策の転換に伴い、1974(昭和49)年1月に操業を停止し、軍艦島は今では無人の廃墟と化している。軍艦島といえば、世界遺産登録をめぐって日韓対立がありましたね。2015-07-05軍艦島など、世界遺産に決定 「明治日本の産業革命遺産」めぐる日韓対立が終結より 長崎県の端島(軍艦島)など全国23施設の「明治日本の産業革命遺産」が、世界文化遺産に登録されることになった。ドイツ・ボンで開催中のユネスコ(国連教育科学文化機関)世界遺産委員会が、日本時間の7月5日午後10時から始まった審議で、全会一致で決めた。NHKニュースなどが報じた。 登録が決まった「明治日本の産業革命遺産」は、福岡県の八幡製鐵所や長崎県の三菱長崎造船所など、九州の5つの県と、山口、岩手、静岡の3県にある計23施設で構成されている。西洋で起きた産業化が非西洋国家の日本に伝わり、初めて成功した例として歴史的な価値が認められた。 世界遺産委員会は当初、日本時間7月4日の審議で「産業革命遺産」を扱う予定だった。日韓の対立で調整が続いた影響で、審議が先送りされていた。■朝鮮半島からの「徴用工」めぐって調整が難航 韓国は当初、産業革命遺産について「戦時中、朝鮮人が強制徴用された施設がある」として登録に反対していた。6月21日の日韓外相会談で、互いの推薦案件の登録に向け相互協力することで合意したが、徴用を具体的にどう説明するかをめぐって、日韓間の協議が長引いていた。『建築のすべてがわかる本』1:プレハブ住宅のルーツ『建築のすべてがわかる本』2:京都の町家建築『建築のすべてがわかる本』3:琵琶湖疎水
2017.06.30
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図書館で『建築のすべてがわかる本』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、画像満載の、これぞビジュアル本である。文字ばっかりの小説に疲れてくると、ついビジュアル本に手が出るのです。【建築のすべてがわかる本】藤谷陽悦著、成美堂出版、2006年刊<「BOOK」データベース>より古代建築から寝殿造、数寄屋造、超高層ビルまで、60のテーマをイラストと写真でわかりやすく解説。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、画像満載の、これぞビジュアル本である。文字ばっかりの小説に疲れてくると、ついビジュアル本に手が出るのです。amazon建築のすべてがわかる本京都の町家建築を、見てみましょう。p78~79<通気と採光のための庭の成立> 豊臣秀吉の京の町並み再編により、間口が狭く奥行きの長い町家の敷地が形成される。夏暑く、冬寒い京の気候風土に合わせて、町家ではさまざまな工夫がこらされてきた。 町家では、限られた空間の中で庭が重要な役割を果している。建物に沿って「通り庭」と呼ばれる細長い土間があり、「見世庭」「玄関庭」「走り庭」と名称を変えながら表から奥へと続いている。この庭によって風通しと室内への採光を良くしているのである。通り庭 隣家と軒を接する町家では、表から裏へ土足のまま通り抜けられ、荷物の出し入れもスムーズに行うことができる。 さらに土間の途中には植物を植え、手水鉢を備えた「坪庭」が設けられている。これも、景観だけが目的ではなく、通気や採光の役割を果している。夏には植栽が木陰を作り、手水鉢を吹き渡る風は冷気をもたらしてきた。土壁の町家の2階に空けられた虫籠状の格子窓は、この通気と採光の効果を一層高めている。 鴨川沿いの下川原町・祇園界隈では、今でも町家が軒を連ねて見事な景観を作っている。ここは、近世初期に祇園社・八坂の塔・清水寺への参拝客で、賑わった場所である。つまり、町家建築は、限られた居住空間を最大限に利用し、京都の気候風土に合わせて極めて合理的な構造となっている。『建築のすべてがわかる本』1
2017.06.29
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図書館で『建築のすべてがわかる本』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、画像満載の、これぞビジュアル本である。文字ばっかりの小説に疲れてくると、ついビジュアル本に手が出るのです。【建築のすべてがわかる本】藤谷陽悦著、成美堂出版、2006年刊<「BOOK」データベース>より古代建築から寝殿造、数寄屋造、超高層ビルまで、60のテーマをイラストと写真でわかりやすく解説。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、画像満載の、これぞビジュアル本である。文字ばっかりの小説に疲れてくると、ついビジュアル本に手が出るのです。amazon建築のすべてがわかる本阪神・淡路大震災直後に注文住宅を建てた大使であるが、震災に懲りた大使のチョイスは鉄骨系プレハブ住宅であった。・・・で、プレハブ住宅のルーツを、見てみましょう。p110~112<パネル式組立住宅>1937年に始まる日中戦争中の住宅不足を機に、日本でもプレハブ工法の開発が進んだ。しかし、プレハブ住宅が本格的に量産されるのは、1960年に入ってからである。 日本の伝統木造建築の美しさは、屋根と「木と土」で構成される軸組で決まる。日本の木造技術は幕末に完成し、明治時代初期には最高水準に達していたが、唯一の欠点は施行から完成まで時間がかかりすぎることであった。特に土壁は下塗・中塗・上塗を繰り返すため、工事長期化の原因となり、完成までに半年以上も要するのが、普通であった。こうした工期の短縮をめざす工法がプレハブである。 プレハブとは、英語のプレファブリケーションの略である。工場で製造した屋根・床・壁などの部品を建築現場に持ち込み、その場で組み立てる工法をいう。その歴史的経緯は鉄骨系・木質系・コンクリート系などの材料で異なるが、日本では1930年代から普及し始めた。 モダニズム建築家土浦亀城は、ドイツで開発された「」を「乾式工法」として紹介した。漆喰・土壁を使わずに、乾燥した木質パネルだけで組み立てる工法で、それは日本における合理主義建築の先駆けともなった。 プレハブ住宅が脚光を浴びたのは1937(昭和12)年、前田進が木造移動式組立住宅を発表してからである。日中戦争下の日本では極端な住宅不足に陥り、住宅営団が政府に代わって住宅供給を行っていた。営団では前田を研究部に加え、プレハブ住宅の開発に乗り出した。積載荷重実験・耐風強度実験などで科学的数値を求め、1942年にパネル式組立住宅1~4号を発表した。しかし、太平洋戦争の戦況悪化で建築資材を確保できず、わずかに応急用工員住宅、緊急簡易宿舎などが日の目を見ただけであった。<戦後復興と住宅の工業化> パネル式住宅の課題は、戦後に持ち越された。空襲で甚大な被害を受けた日本では、政府の試算で住宅不足が420万戸に達し、空襲被災者や引揚者向けに応急住宅30万戸を建設することが閣議決定された。 また、有識者の間では住宅工業化の試みとして「木造住宅規格」が提案され、1946年11月には工業生産住宅協会が組織された。このころ、企業と建築家のプレハブ共同開発も盛んになる。 1947(昭和24)年には「プレコン」と呼ばれるコンクリート・ブロック式のプレハブ工法が登場。これによって組立鉄筋コンクリート構造という新しいプレハブ方式が公営・県営などの共同住宅に採用された。(中略)<住宅メーカーと工業生産> 1960年代には日本の重化学工業が著しい発展を遂げ、これによって木造プレハブ住宅の本格的な工業化が進んだ。軽量鉄骨・石膏ボード・合板類・プラスチック板などを使ったパネル・システムが主流となり、住宅市場にはハウス・メーカーと呼ばれるプレハブ住宅会社が登場した。豊富で良質な建材が生産できるようになり、高度経済成長によって人々の生活にゆとりが生じたことが、プレハブ住宅発展の大きな理由であった。 1960年代のプレハブ住宅の大きな特色は、軸組に軽量鉄骨が採用されたことである。その先駆けとなったのが、1958年に大和ハウスが発表した10m2足らずの箱型住宅「ミゼットハウス」である。「3時間で建つ勉強部屋」というキャッチ・フレーズが当たって爆発的な売れ行きを見せ、翌年には積水ハウスでも同タイプの「セキスイハウスA型」を販売した。 1962年からはパネルではなく、箱型の立体ユニットを積み上げたプレハブ住宅が登場した。積水ハウスの「サキスイキャビンC型」(1962年)、ナショナル住宅建材の「キャラバン」(1966年)などである。 このころから各住宅メーカーの住宅販売競争が始まり、プレハブ住宅はテレビ・コマーシャルに登場し、電化製品と同じ手軽さで買い求められるようになる。
2017.06.29
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図書館で『ロゴスの市』という小説を、手にしたのです。翻訳家と同時通訳の言語学的な愛の形ってか・・・・大使のツボがうずくのでおます。【ロゴスの市】乙川優三郎著、徳間書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より言語の海を漂う男と女ー翻訳家と同時通訳の宿命的な旅路。静謐な熱情で女を見守る男。女は確かなものしか追わない。切なく美しく狂おしい“意表をつく愛の形!”<読む前の大使寸評>翻訳家と同時通訳の言語学的な愛の形ってか・・・・大使のツボがうずくのでおます。rakutenロゴスの市この小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。向田邦子の死が出てくるあたりですp61~65 次の日は朝から雨が降りしきり、ごろ寝と雑談を繰り返して過ごした。昼食は女性たちがこしらえたおにぎりを分け合い、それなりに愉しい時間が終ると、それぞれの部屋から恨めしい景色を眺めた。午後も雨が上がる気配はなく、ゲームにも飽きたころ、 「成川君、ちょっといいかしら」 と悠子が男たちの部屋を覗いた。弘之が立ってゆくと、彼女は笑んでみせたが、小刻みに震えているのが分かった。 「さっきからラジオが繰り返しているんだけど、台湾で飛行機が墜落して、日本人の乗客の中にケイ・ムコウダがいるの。たぶん彼女だと思う」 それだけ言うのにも悠子の唇は震えた。 「どうしよう」 「どうするって、ここでは話せない、雨だが外へ出よう」 彼はなんのあてもなくそう言った。向田の不運も悠子の動揺ぶりも予期しないことであった。傘を差して促すと、彼女は腑抜けのようにもたれてきた。 民宿から一足のところに瀟洒なリゾートホテルが見えて、海に向かってテラスが張り出している。 雨水の流れるアスファルトの路を歩いてゆくと、低い階段を設けたホテルのエントランスはどこよりも明るく、その先に待つロビーは最も安全な場所に思われた。 悠子を先に入れてからカーペットの床に立つと、そこは海側の壁一面がガラス張りの空間で、レセプションから離れた奥の方がティーラウンジであった。そろそろチェックインの時間であったが、キャンセルが出たのかロビーはすいていて、悠子はガラスの方を向いたまま棒のように立っていた。 「コーヒーを飲みたいのですが」 さりげなく歩み寄ってきたホテルの人に言うと、レストランは準備中というので、彼らは人のいないラウンジの片隅で温かいコーヒーをもらった。晴れていれば贅沢なオーシャンビューであろうが、ガラス越しに迫る海は荒れて、すぐそこに波頭が見えていた。 「素敵なホテルね、お蔭で今日という日の記憶が鮮明になる」 悠子が言ったが、目の前のテーブルしか見ていなかった。外が暗く、空調で涼しいせいか、秋の夕暮れに放り出されたような物憂さであった。わけの分からない不安の中から彼は言葉を絞り出した。 「ラジオの放送は間違いないのか、ケイは邦子ではないかもしれない、同姓同名ということもよくある」 「未確認情報と断っていたけど、確認がなければあんなに繰り返さない」 「それにしても君がこれほど衝撃を受けるとはね、なにか深いわけでもあるのか」 そう言ってしまったあとで、人の死を哀しんでいる女に理由を訊くほど愚かなこともないと気づくと、情けなく、溜息が出た。悠子は黙っていたが、しばらくして唇を開いた。 「なんと言えばいいのか、会ったこともない人なのに、父が死んだときより哀しい、父には悪いけど本当よ」 「お父さんのときはまだ子供だったからさ」 「今だって子供よ、あのときからずっと人の死について考えているのに何も見つからないのだから、父も向田も生き切ったとは言えないし、運命や宿命という言葉では片付けられない何かがある。いつか彼女が私の探し物を書いてくれるような気がしていたの」 「分かるような気がする」 「うそ」 彼女は涙を溜めていた。 向田より悠子の精神構造に興味があって弘之も短篇集を読んでみたが、男には幾分気味の悪い話が多く、それでいてはっとさせられる冷徹な視線を感じた。窮屈な現実と向き合う女はこれに酔うのだろうと思った。 女性にそこまで見透かされているのかという男の怖れとともに、凡庸な人間がかすめて通り過ぎている穴ぼこだらけの人生も見えてくる。恐ろしく小さな世界を掘り下げながら、美と醜を絡めて、ちょっと見には明るい日常の闇を照らしてみせるのが向田邦子ではないのか。それが彼の印象であったが、日常の瑣末な時間ほど人間らしさの表れる舞台もないのであった。 悠子が身近なものとして受けとめているのは死を前提にした生かもしれないという気がした。知っている人の物語を読んでいるようだと話したことがあったが、父親の死と無縁ではないだろう。しかし彼女の若さで死を念頭に置いて生きていくのはむずかしい、というより重すぎる。向田の小説があるから、彼女はいっとき安心するのかもしれなかった。 弘之の耳に、ラウンジに流れている静かな音楽が聞えてきたのはしばらくしてからである。ギターのボサノバであったが、外の雨と波音が美しい旋律を濁して残酷な音にも聞える。 「私ね、中途半端に死ぬのが怖いの、いつか死ぬのは仕方がないけど、思い切り生きてからにしたい」 彼女はうちに燻るものを吐き出した。 「きっと向田もそう思っていたはずよ、だから自分のことのように恐ろしい」『ロゴスの市』1
2017.06.28
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図書館で『ロゴスの市』という小説を、手にしたのです。翻訳家と同時通訳の言語学的な愛の形ってか・・・・大使のツボがうずくのでおます。【ロゴスの市】乙川優三郎著、徳間書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より言語の海を漂う男と女ー翻訳家と同時通訳の宿命的な旅路。静謐な熱情で女を見守る男。女は確かなものしか追わない。切なく美しく狂おしい“意表をつく愛の形!”<読む前の大使寸評>翻訳家と同時通訳の言語学的な愛の形ってか・・・・大使のツボがうずくのでおます。rakutenロゴスの市この小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。翻訳と同時通訳の違いなどが出てくるあたりですp4~7 言葉という音を耳から入れて即座に口から訳し出す同時通訳に対し、文字言語を目から入れてペン先に訳し出す翻訳は再考のできる仕事で、弘之の慎重な性分に合っていた。同じ人間のまったく異なる言葉を母国語に替えながら、原作者の思考回路を辿り、作中人物の精神構造を読み、時代と風土を捉え、文学的な表現にふさわしい日本語を見つける。時間がかかるし、絶対的な作家に仕える部分も多い。他言語の文学を日本という世に出す醍醐味とそのための苦難は表裏にあって、意気込み通り望ましい訳文が生まれれるとは限らない。 この数年を振り返るだけでも彼は随分悩みもしたし、挑戦もしたが、成果は乏しく、わずか数行の芸術的な訳文を物したのみであった。原文がすばらしいほど訳文は稚拙にみえるもので、文章家としての力不足を思い知るときもある。逆に原文が稚拙でも勝手に凌駕することは許されない。このジレンマが常につきまとって、思い切った翻訳ができなくなることがよくある。結局、翻訳とは原作者に仕えながら日本語に淫し、その狭間でもがくことかもしれない。 翻訳家としてそれなりに名を得ながら、評判ほど実力のない作家も粗雑な文章も知る彼はこのところアメリカ文学を見る目が厳しくなっていた。作品との出会いもあるが、書評が絶賛する恐るべき新人の文章も、短篇の女王のトリッキーな仕掛けもときめきの外にあって、英文学の低迷すら感じる。好きになれない小説を訳すことほどつまらないこともなく、目の覚めるような一文や新鮮な描写とも縁遠くなってしまった。自ずと集中力も萎える。そうして自分が読者なら再読しないと思うものを訳し続けるうちに、仕事だから訳すという作業が苦痛になって依頼を断ることもあった。 「贅沢な悩みね」 話し手も話題も場所も選べない悠子が聞いたら、皮肉をこめて笑うに違いなかった。そういうときの彼女はありったけの語彙を動員して、いかに取るに足りない悩みであるかを方程式を解くように証してみせる。弘之は魔法を使う女の頭脳に即応できないが、あといなって尊い気持ちを知るのであった。同じ理屈で、人生の待ち合わせにも時差が生じた。 「せっかちとのんびりですもの」 あるとき彼女が言い、弘之はうなずくかわりに渚の波を蹴ってあるいた。今と同じ海であった。好きで選んだ一生の仕事に疲れてしまう意気地のなさを、彼はつい原作の質のせいにしてきたが、この特別な海に臨むと気力がよみがえるから不思議であった。周囲にヤシの木が点在する浜辺は早朝から日が暮れるまで眺めがよい。 横浜の自宅の書斎では変えようのない気分が、そこではみるみる解放されてゆく。コーヒーの味が違うし、空気も違って、ふつうに息ができる。期限の差し迫った仕事や冗長な文章に苛つくかわりに、彼はよい仕事をしようとしていた。家族を守る責任もあるが、幻の砂漠の前ではそれも忘れた。名声も過去の仕事も忘れた。そうして言葉と闘うひとりの人間に還るのであった。 軽い朝食のあと、彼はテーブルにノートや筆記道具を広げた。部屋ではパソコンで仕事をするが、この便利で無愛想な機器が生まれなければ本当は手書きがよかった。悪筆の悠子もそうして仕事の準備をしていたし、指を嘗めて辞書をめくる世代であった。 今思うと、二人の手元には常に辞書と本があり、二言語と格闘していた。学生のころは会えば覚えたての英語の名詞を出し合い、カードの勝負のように語彙の蓄積を競い合ったものである。一行の英文を持ち寄り、訳文の表現力を競うこともあった。 「次は形容詞にしよう」 負けると、弘之は言った。 「その前にランチを奢る約束よね」 「もう十日も奢っている、たまにはわざと負けたらどうかな、可愛げがない」 「女は負けないものよ」 彼女が通訳を意識し、弘之が漠然と翻訳家を志したのは大学二年のときで、20歳の二人は昭和55年を生きていた。弘之は商社マンの父と服飾デザイナーの母を持ち、悠子の家は不動産屋であった。
2017.06.28
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図書館で『シズコさん』という本を、手にしたのです。佐野洋子のエッセイは大概読んできているが・・・この本は手付かずだったので、満を持して借りたわけでおます♪【シズコさん】佐野洋子著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>よりあの頃、私は母さんがいつかおばあさんになるなんて、思いもしなかった。ずっと母さんを好きでなかった娘が、はじめて書いた母との愛憎。<読む前の大使寸評>佐野洋子のエッセイは大概読んできているが・・・この本は手付かずだったので、満を持して借りたわけでおます♪rakutenシズコさん老人ホームへの入所あたり(第19章)を、見てみましょう。p182~186<19> 下の妹が、小姑のように重箱の隅をつまようじでつっついただけではなかった。私も疲れたのだった。妹が目を光らせたのは私の母さんへの冷淡さだったと思う。 もうすっかり自信を失ってしまって、あの頃は呆けも始まって、おとなしいただのおどおどしたおばあさんだったのに。 完全な人は居ない。立居ふるまいの乱暴なお手伝いさんは明るかった。静かで優しいお手伝いさんは倹約家過ぎた。東北から出稼ぎに来ているお手伝いさんは料理が下手だった。私はそれが当然だと思っていた。 完全な人はいない。私はお手伝いさんとうまくやっていた。 呆けても母は本能的に身を守った。おとなしいお手伝いさんにはもとの地が出る人になった。「こんなお母さんに育てられたお子さんは可哀相だと思います」といって自分からやめていった人も居た。 まだ私は仕事をやめる気がなかった。仕事が好きだったのではない、母の為に仕事を捨てる気が全くないのだった。 妹は老人ホームに母を入れる事に同意した。 私は美貌のないスカーレット・オハラ、才能のない美空ひばりになった。長女だからである。山のような資料を取り寄せ、見学に行った。 静かで環境のよい所は遠かった。しかし安かった。バブルの最中で、入所金が非常に高かった。見舞いに行くのに近くて環境のいい所は高かった。最後に二つ候補を見つけた。 奈良の妹は、特養に入れたらと云ったが、その頃の特養はひどかった。私が、老人になったら絶対に入りたくない所だった。私は自分も居たくない所にいくら好きでなくても母を入れる気にならなかった。私は金をかき集めた。 同居人が、「妹夫婦がアメリカから帰って来るから」と嘘の宣言をしてくれた時の母の身の縮め方が、今思い出しても哀れに思う。 小金井公園を裏にした小さな老人ホームは、見舞いの家族の車がベンツだったり、ジャガーだったりしたが、私はボロボロのシビックで平気だった。 月々のかかりが35万円位だったが母は年金が12万円あった。残りは私が出した。 私はますます才能のない美空ひばりになっていった。 静かな新しい感じのいい所で、すってんてんになっても、惜しくはなかった。 私はあまり面会にいかなかった。 そこでも私は態度のでかい冷淡な姉、妹は1週に1度、花と菓子を持って、愛想のいい優しい娘にすぐさまなった。 月々のかかりは自由の代償だと思えば、働く方がずっと楽だった。 たまに行くと母は腹の中の百ワットの電球がついたようにパアッーと嬉しげな表情になった。それでも私は無愛想で自分の無愛想に自分で傷ついていた。(中略) 母がその老人ホームに12年も居続けるとは誰も思わなかった。 最後のお手伝いさんは、度々母を見舞ってくれた。大柄でほがらかで働き者で情が深い在日韓国人だった。実家は名古屋のパチンコ王だそうだ。 ものすごい豪邸の前で彼女が写っている写真を見て、「この家どこ?」ときくと「アハハ、私の家ですよ。家の中はもっとすごいんですよ、もうマンガみたい。シャンデリアなんか、ブンラブンラいくつさがっているかわかんないだから」「何で家にかえらないの」「もううちの父大変なんですよ。うちの母6番目の妻なんですよ」 彼女は19で母と弟を連れて家を出てずっと同じ仕事をしていると云った。 「手に職がない女が一番高給とれるのは住み込みのお手伝いなんですよ」彼女は弟を医科大学に入れ母親のめんどうも見ていた。(中略) あとで韓流ドラマを見るようになって、あの国の人の情の深さが民族的なものなのだろうかと思う様になったが、私が、「あんた、そんなに働かないでよ、体こわすよ」と云う程大きな体で、アハハアハハと笑いながらくるくるとよく働いてくれた。『シズコさん』1『シズコさん』2
2017.06.27
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図書館で『シズコさん』という本を、手にしたのです。佐野洋子のエッセイは大概読んできているが・・・この本は手付かずだったので、満を持して借りたわけでおます♪【シズコさん】佐野洋子著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>よりあの頃、私は母さんがいつかおばあさんになるなんて、思いもしなかった。ずっと母さんを好きでなかった娘が、はじめて書いた母との愛憎。<読む前の大使寸評>佐野洋子のエッセイは大概読んできているが・・・この本は手付かずだったので、満を持して借りたわけでおます♪rakutenシズコさん冒頭の第1章を、見てみましょう。p3~5<1> 部屋にはいると母さんはベッドで向こうむきに眠っていた。のぞき込んでも目をさまさずに口をもぐもぐしていた。もぐもぐしている口は歯が1本もないので小さな穴にうすい布を押し込んだようなしわが出来ていた。ずっともぐもぐしている。いつも寝ているが、時には焦点の定まらない目を少しも動かさずにいることもある。 「母さん」と云うとビクッとして急にその目が恐怖をたたえて私を見る。「洋子だよ」と云うとしばらくして、目をきょろきょろさせてもう一度「洋子だよ」と云とじいーっと私を見る。そして、「洋子なの。あらーっ」と云い、身をよじって、もう一回「あらーっ」と云うと私はもう洋子ではなくなる。私は誰でもなくなる。 機嫌がいいと持っていったものを見せて「これ食べる?」と聞くと「食べる」とはっきり云う。皿まで食おうとしたこともあった。寝ていても気配で目を覚ますことがあったが、今日はただ口をもぐもぐさせて眠っているだけなので、ただ立って見ていた。(中略) 母さんがあのまんま私の家にいたらこんなこざっぱりとしたばあさんにはなれなかった。食べ物だってここで、すりつぶしたり、何種類ものおかずやデザートまで食うわけにはいかなかっただろうと思うが、思った瞬間から私は母さんを捨てたんだとかならず思う。 このまま帰った方がいいと思ったが、母さんのベッドにもぐり込んだ。もぐり込んでも母さんは目を覚まさず体も動かさずに口だけもぐもぐしている。母さんの手を持って握ったりさすったりしたけど目をさまさなかった。母さんの爪を見てびっくりした。透明できれいな形をしていた。母さんは肉厚で短い指も太かった。 私は母さんがこんなに呆けてしまうまで、手にさわった事がない。4歳位の時、手をつなごうと思って母さんの手に入れた瞬間、チッと舌打ちして私の手をふりはらった。私はその時、二度と手をつながないと決意した。その時から私と母さんのきつい関係が始まった。 これが、ほとんど凶暴とさえ云えるふりはらい方をした手か。がっしりと太く肉厚で私には赤黒く見えた手だった。母さんの体の中で爪だけがしわがないのだと、手をさすりながら思った。うすべったくなった手は骨に皮がひっついて、さすると皮が自由自在に移動するが、移動する皮というよりしわが自在にどこへでも行く。何のようだろうと例えをさがしたが、見つからなかった。太かった腕も棒のようで棒に皮がひっついていて、それも皮というよりしわで、しわにくっついて青い静脈が走っていた。 かわいそうな母さん。この手で、途中ですげかえたりしないで、まるのままこの手で生きてきたんだね。こんなになるまで。『シズコさん』1
2017.06.27
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図書館で『シズコさん』という本を、手にしたのです。佐野洋子のエッセイは大概読んできているが・・・この本は手付かずだったので、満を持して借りたわけでおます♪【シズコさん】佐野洋子著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>よりあの頃、私は母さんがいつかおばあさんになるなんて、思いもしなかった。ずっと母さんを好きでなかった娘が、はじめて書いた母との愛憎。<読む前の大使寸評>佐野洋子のエッセイは大概読んできているが・・・この本は手付かずだったので、満を持して借りたわけでおます♪rakutenシズコさん料理上手のシズコさん(9章)を、見てみましょう。p81~83<9> 69歳の友達のサトウ君が今でも時々「洋子さんのお母さんの餃子もう1回食いたいなあ」と云う。 私の進路は父が決めた。私は芸大のデザイン科に行き、デザイナーというものにならねばならないらしかった。 父の同僚に彫刻家がいた。そこは静岡の芸大受験の予備校のようで、先生のアトリエに静校の生徒がデッサンをするために集まって来ていた。そこにいたサトウ君は中学の時の1年上のクラスで、私は前から知っていた。 サトウ君は1年目は失敗して上京し、予備校の課題を週1回必ずハガキで1年間知らせてくれた。並の人間には出来ないことだと思う。私のすさまじい反抗はさすがに少しはおさまっていたのだろうか。 父か母の提案だったのか、サトウ君とその友達のタミヤ君の二人を食事に招いた。 家の餃子は水餃子で、家ではチャオズと云って、皮から母が作った。ひどく手間がかかるものだった。座敷に二人の男と私と父が同席して、大きなどんぶりを次から次へと母が運んで来たが、二人は父が居るものだからコチコチだった。父は察したのか「ごおゆっくり」と云って中座した時、部屋の空気はサーッととけて、それがわかって三人で笑った。母の餃子は本場仕込みで、家では水餃子以外は作らなかった。今のようにどこにでも餃子がある時代ではなかった。 私は今でも母の水餃子はほんとうにうまかったと思う。 サトウ君は「洋子さんのお母さん若いねェー」といった。母は一生お若いですねェーと云われていたと思う。叔母は母のお姉さんですかと云われて、「えーえーそうですよ」と笑っていた。 母も親切で優しいサトウ君がすっかり気に入って、「私1日でいいからサトウ君みたいな人と結婚したい」と度々云った。父にない如才なさと暖かさにひかれたのかも知れない。サトウ君や私が結婚して家族ぐるみで、清水の家にも何度か来て、来るたびに云った。50年たってもサトウ君は母の餃子を覚えている。 母が料理上手だという事に私は無自覚だった。 大人になって叔母の家に下宿した時、どこがどうというのではないが、気がついた。私は小学生の時から夕食の手伝いをしていた。私も嫌いではなかったのだろう。 母が留守の時客が来た。 小学校6年生の私は玉子からマヨネーズを作りポテトサラダを父のお客に出したことがある。酒のサカナにポテトサラダを出すのだから子供だったなあと思う。 母は、父の友人で気が張るような人の時は、つき出しから順々に手ぎわよく料理を運んだ。物が不自由な時、金もないのによくやった、偉いと思う。
2017.06.27
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図書館で『ひょうごの田舎暮らし』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、写真が多くてビジュアルな本である。この歳で田舎暮らしをする気はないのだが・・・兵庫県内の成功事例を(うらやましく)見るのも、いいではないかと思った次第です。【ひょうごの田舎暮らし】神戸新聞総合出版センター編、神戸新聞総合出版センター、2010年刊<「BOOK」データベース>よりスローライフから定年後の夢まで、30人の楽しみ方。田舎暮らしのお値段は?家購入の相談先は?支援制度は?農業を始めたい、成功の秘けつ…etc。田舎暮らし便利帳。<読む前の大使寸評>この歳で田舎暮らしをする気はないのだが・・・兵庫県内の成功事例を(うらやましく)見るのも、いいではないかと思った次第です。rakutenひょうごの田舎暮らし故郷にJターンした田中さんを、見てみましょう。p62~64<展望180度、露天風呂も>【田中武資さん(64歳)美方町村岡区】 大手建設会社の設計部に定年まで勤め、平成18年大阪から夫婦で移住した。6歳まで但馬にいたというから、いわゆるJターン。圧倒的な自然の中で、畑作り、果樹作り、キノコ作りと自由生活を満喫。180度展望の中での露天風呂は自慢の作だ。 もちろん晴れた日であれば、の話だが、その180度の展望には、訪れた人はほとんど、その素晴らしさに呆然とする。 但馬を貫くメーン道路、国道9号線の村岡から兎和野高原方面へ入って4キロ、さらにその先を分け入った小高い台地に田中さんの山荘がある。 「ここしかない」と思い定め、10年以上前から移住の準備を進めてきた。かすかに思い出はあった。小学1年生まで、山の下の集落にいたのである。古い話だが、太平洋戦争から復員した父親が体調をそこね、農業に耐えられず、親類をたよって大阪へ出た。 そして60年。高校は建築科に進み、大手建設会社で設計一筋。現場は常に移動し、山の中の仕事が多かったが、瞼の故郷の「匂い」になかなか出会わなかった。 平成11年、奇蹟のような出来事に出会った。何かの用事で但馬に戻り、話のついでに遠い親戚が、兎和野高原に「お前のとこの山まだ残ってるで」と伝えてくれた。 「へえっ」と言いながら見に行ったら、草と雑木で地面が見えないほど荒れていたが、ふ確かにあった「あの匂いが!」草いきれ、稲の発酵したような「6歳の記憶が甦ってきた」。 「よし、定年後はここに住もう」。 土地の所有と再生の手続きを終え、週末、連休ごとの但馬詣でが始まった。ミニ油圧ショベルを買って、造成と田畑作り。家も、設計は自分でできるが、大工仕事は地元の本職に依頼した。 幹子夫人は町育ち。最初はビックリしたようだが、助走期間が長かったため、徐々に慣れ、野草作り、花作りに親しんでいる。でも冬場の買い物にはちょっと閉口。国道からの4キロは県道なので、除雪車が来てくれる。そこから先は個人でやる事になるが、大雪だとまず無理。車を県道脇に止め、歩行で家に。次の買い物は、スコップを持って家を出て、まず車を掘り出すところから始める事になる。 でも武資さんは「不便さも今のところ想定内です」と落ち着いたもの。とくに平成18年に移住してきてからは畑作りに加えて、植えた果樹も10種類は超えた。いまはキノコを育成栽培中。やる事がいっぱいで楽しくて仕方がない様子。 サラリーマン現役時代から、スポーツ好き。中でもテニス、ゴルフは熱心にやった。(中略)この夏、勧めてくれる人がいて、神鍋でハンググライダーに挑戦する事になっているが、「どこまで燃えられるかどうかちょっと不安」。なにしろハンググライダーで飛ばなくても自宅前に立てば目の高さに、但馬の明峰蘇武岳、妙見山がそびえ、パノラマ状態で迫ってくるのだ。 蘇武岳は冒険家、植村直己氏が少年時代から何度も登り、こよなく愛した山。6歳の時から忘れられないあの匂い。「そうか蘇武、妙見の匂いだったのか」。故郷を離れても、但馬人ならずっと持ち続ける「自然の匂いへの郷愁が自分にもあったのだ」と、この眺めを目にして納得できたのもうれしかった。 パノラマを楽しむため、庭に露天風呂を作った。夕刻、作業を終えて、湯に浸かりながら、懐かしい風景にひたる・・・。そのワイルドな老後にめぐり合えた事に幸せを感じている。 誰もいない。夫婦以外1日中、人と口を利くことも無い。静寂すぎるほどの静寂、風が樹々を揺らす音だけ。『ひょうごの田舎暮らし』1
2017.06.26
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図書館で『ひょうごの田舎暮らし』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、写真が多くてビジュアルな本である。この歳で田舎暮らしをする気はないのだが・・・兵庫県内の成功事例を(うらやましく)見るのも、いいではないかと思った次第です。【ひょうごの田舎暮らし】神戸新聞総合出版センター編、神戸新聞総合出版センター、2010年刊<「BOOK」データベース>よりスローライフから定年後の夢まで、30人の楽しみ方。田舎暮らしのお値段は?家購入の相談先は?支援制度は?農業を始めたい、成功の秘けつ…etc。田舎暮らし便利帳。<読む前の大使寸評>この歳で田舎暮らしをする気はないのだが・・・兵庫県内の成功事例を(うらやましく)見るのも、いいではないかと思った次第です。rakutenひょうごの田舎暮らし木材コーディネーターの能口さんを、見てみましょう。p43~45<森の可能性を極める>【能口秀一さん(45歳)丹波市氷上町】 平成6年、写真スタジオ勤務から「自然にかかわることに興味がわいて・・・」丹波へやってきて製材所工員に。転職を機に木材や、さらに森のありように深く思いをはせて、「木材コーディネーター」を目指す。 出された名刺に「木材コーディネーター」とあった。「どんな仕事?ってみんな聞くんですよ」。普通、製材業といえば、工務店や設計事務所から、家を建てるにあたって、木材の仕入れを請負い、最適の価格、ボリュームをそろえる仕事・・・。しかし、この人の視点はもう少しスケールが大きく、軸足が森林にある。 森の樹木の一本一本を情報化し、どんな建物のどんな所に使うのがいいかを考え、最適の使途に合わせるようにする。「昔は地域ごとに普通に行われていた事かもしれませんね」。 建物が木を選ぶ。それがいつの頃からか、市場優先の社会に変わり、「何ぼで売るか」「何ぼで売れるか」の経済社会になり、外国材に押しやられたり、単価が安いから、むやみに切りすぎたりして「みんなの関心が離れていく。そんなところから災害に弱い山になったりするんですよ」。 理屈は分かるが、業界全体の理解がついているのか・・・。「一本調子には行きません。だってこの肩書、日本中で唯一、僕だけですもん」と澄ましたもの。 石川県生まれで宝塚育ち。大学では地理を学んだが、あまり専攻とは関係の無い写真撮影、スタジオに勤めた。 仕事と進路に疑問を感じたのは、社会に出て10年目ぐらいだったろうか。「疑問というほど具体的ではなかったのですが、何かこう、自然に関わった事に興味が動いて」。 「丹波に行こうと決めてたわけではないんです」。求人誌でたまたま見つけたのが、旧氷上町の「製材所工員」。行きたいとなると、矢も盾もたまらず、女房と生まれたばかりの長女を連れてやってきた。平成6年だった。 来る日も来る日も木を切って、削って木材にしながら、今度はとめどなく疑問を感じ始めた。「おかしな話、製材所に勤めて初めて週休2日の生活をしたんです。2日の休みに、いろいろ考えるじゃないですか。つまりね、製材の行程は一瞬だが、切られる木には30年、50年の歴史があるわけですよ。歴史があれば、個性もある。その個性を生かす製材所ビジネスがあってもいいじゃないか、とね」。 「高く買って、高く売る、でもいいし、最初に手間をかけ、あとで手間を省く、でもいい」。そんなビジネスモデルを考えていた。 製材所のノウハウを習得したところで、いきなり独立。(有)「ウッズ」を一級建築士の共同経営者と一緒に設立した。 木を貴重に扱う、それが設立理念の根底にあった。共鳴してくれた設計スタッフ4人、製材職人2人、社長を入れて7人の陣容。 最初のうちは、顧客や工務店も能口さんの主張がよく分からなかったようだが、この5,6年でぼちぼちではあるが浸透、まずまずの仕事量を確保できるようになった。 「丹波だけでなく、県下さらには近畿の木のルーツを示す森林マップを作りたい」と抱負をもつ。「森林の価値が分かると、今度はそれを使う伝統建築、木材工芸品などが甦り、匠の技を復活させるかも知れませんよ」と夢もふくらむ。 「僕のビジネスなんて、その流れの中では小さな行動。儲かろうが損しようがたいしたことじゃないんです。でも森を見つめ直す行動が定着すれば素晴らしいと思うんですね」。目を輝かせて語る中年を久しぶりに見た。青春の想いがそのまま停止していると言う感じ。 丹波の自然の中でノビノビと育った子ども5人の7人家族。「丹波はいいところだなあ」と感じる人を増やしたい。そういう思いが「ふるさと丹波市定住促進会議」のリーダーを引き受けた理由。 「あれもこれもの思いは旺盛」。この人のIターン人生はまだ始まったばかりだ。
2017.06.26
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図書館で『鳥の話』という本を、手にしたのです。このところ『にっぽんスズメしぐさ』や『鳥のいる空』など、鳥の本をよく読んでいるので、この本もその勢いで借りたのです。【鳥の話】細川博昭著、SBクリエイティブ、2017年刊<「BOOK」データベース>よりたくさんの人が行きかう街から赤道直下の密林、南極の氷原まで、さまざまな場所に鳥はいます。上空1万メートルを軽々と渡る鳥もいれば、体に毒をたくわえる鳥もいます。一方で、「概念」を理解して人間と話す鳥、最大4000ヵ所の位置を記憶する鳥、凝った構造物をつくる鳥も。そんなすごい鳥の秘密としくみ、身近にいる鳥の意外な事実をつめこんだのが本書です。美しく楽しげで、少し怖い、鳥の世界をご案内。<読む前の大使寸評>このところ『にっぽんスズメしぐさ』や『鳥のいる空』など、鳥の本をよく読んでいるので、この本もその勢いで借りたのです。rakuten鳥の話ハトの高い能力を、見てみましょう。p90~92■高い繁殖力 ハト類の多くは種子や果実などの植物系のものを主食にしながら、必要時にはミミズや昆虫なども食べる雑食性です。強力な筋胃をもち、消化を進めるための小石も飲み込んでいるため、硬いトウモロコシや豆類なども、なんなく飲み込み、しっかり消化することができます。食べられるものの幅が広いということもまた、ハト類の特徴といえるでしょう。 また、2章でも触れたように、ハトの仲間は「ピジョンミルク」で子育てをします。ヒナに合わせたエサを調達する必要がないため、親が食べられるエサが十分にあれば、時期を選ばずにヒナを育てることが可能です。そのため、ドバトなど人間に寄り添って生きるハトは、1年に何度でも育雛することが可能です。こうした食性や特性が、ハトの高い繁殖力を維持しています。 ただし、世界のすべてのハトが高い繁殖力をもつわけではありません。いなくなったりしないと過信して乱獲した結果、「50億羽」という、当時の世界人口をはるかに超える数がいたリョコウバトが、わずか30年ほどで絶滅しまった例もあります。現在、リョコウバトはきわめて繁殖力が弱く、大きな群れをつくらないと数が維持できない鳥だったことが判明しています。 ■場所を記憶する能力 こうした特徴に加えてハトは、場所や飛行ルートをおぼえられる高い空間記憶能力ももっています。人間の場合と同様に、大脳の中にある発達した「海馬」が、その能力の支えになっていました。なお、鳥の海馬は人間とはちがい、頭蓋骨頭頂部のすぐ真下に位置しています。 離れた場所からも自分の巣に戻ろうとする「帰巣本能」をもったカワラバトを飼育、品種改良して伝書鳩がつくられ、飼育されていたカワラバトが再野生化して現在のドバトが生まれました。 彼らは太陽の位置や角度、磁気も感じて正確な飛行ルートを選び、もといた場所に戻ろうとしますが、その際、巣のある土地や、行ったことのある土地の「空気の匂いの記憶」も帰巣するのに利用していることがわかっています。 脊椎動物の大脳の先端、鼻先側に、鼻から入った匂いの情報を処理する「嗅球」という組織があります。肉食の哺乳類のほか、ティラノサウルスなどの肉食恐竜、鳥類では匂いをもとにエサを探す習性のあるキーウィなどが嗅球を発達させていますが、ハトの嗅球もよく発達していました。 植物が繁っている場所には、その植生由来の匂い成分があり、人間の町にも町特有の匂いがあります。鉱山や海のそばなどにも、独特な匂いがあります。そうした土地ごとの匂いをハトは感じ取って記憶し、場所の特定に役立てながら飛行しています。ハトは町特有の匂いを記憶しているのか・・・すごいやんけ♪『鳥の話』1
2017.06.25
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図書館で『鳥の話』という本を、手にしたのです。このところ『にっぽんスズメしぐさ』や『鳥のいる空』など、鳥の本をよく読んでいるので、この本もその勢いで借りたのです。【鳥の話】細川博昭著、SBクリエイティブ、2017年刊<「BOOK」データベース>よりたくさんの人が行きかう街から赤道直下の密林、南極の氷原まで、さまざまな場所に鳥はいます。上空1万メートルを軽々と渡る鳥もいれば、体に毒をたくわえる鳥もいます。一方で、「概念」を理解して人間と話す鳥、最大4000ヵ所の位置を記憶する鳥、凝った構造物をつくる鳥も。そんなすごい鳥の秘密としくみ、身近にいる鳥の意外な事実をつめこんだのが本書です。美しく楽しげで、少し怖い、鳥の世界をご案内。<読む前の大使寸評>このところ『にっぽんスズメしぐさ』や『鳥のいる空』など、鳥の本をよく読んでいるので、この本もその勢いで借りたのです。rakuten鳥の話ツバメの子殺しなど生々しい話を、見てみましょう。p174~175<自分の遺伝子を残すためにここまでやる!?> なにがなんでも自分の遺伝子を残したい鳥がいます。 多くの場合、相手を選べる立場にいるのはメスであることから、焦った行動に出るのは、大概オス。そしてそんなオスは、いい相手が目の前に現れるまで待つという悠長なことはしません。 安手の愛憎ドラマのように、すでに関係が成立し、繁殖に入っているつがいのあいだに強引に割り込み、別れさせることでメスを手に入れようとするケースも実際にあります。 そんな強引な相手がまわりにいなかったとしても、オスは100%安心してはいられません。つがいの相手が知らないうちに、知らないだれかと交尾してしまうかもしれないからです。 4章でも触れたように、メスの体内には受け取ったオスの精子を生きた状態で長期間貯めておく貯精嚢があります。そのため、本来、あまりひんぱんに交尾する必要はないにもかかわらず、巣づくりの最中も、盛んに交尾を繰り返す種がいます。愛情によるものというより、これには、ほかのオスを近づかせないようにするためとか、メスがこっそり浮気するのを防ぐための「拘束」という意味合いが強く含まれていると考えられています。 また、メスが多くのオスと交尾する種の中には、絶対に自分の精子で受精してもらうために、先に交尾してメスが体内に取り込んだほかのオスの精子をそこから掻きだしてから交尾をするようなケースもあります。 鳥のあいだでも、私たちの見えないところで、さまざまなドラマチックな愛憎劇が繰り返されているようです。<相手を離婚させて夫の座に座る鳥> まだ幼いツバメのヒナが巣から落ちていることがあります。 巣自体は壊されず、きれいなままで、ヒナだけが落ちていたとしたら、それはカラスなどの外敵のしわざではなく、その巣の持ち主ではない若いオスのツバメがやってきて、「子殺し」をする目的で落としたかもしれません。 ツバメの場合、育雛中のヒナが全滅してしまうと、つがいの関係は解消され、時期が十分に早ければメスは新たなオスを探して再度の育雛にかかります。それゆえに、繁殖相手を見つけられなかった若いオスは、カップルを破局させる目的で、ときどきこうした強行手段に打ってでることがあるのです。ウーム ツバメの愛憎劇がすごいではないか・・・テレビドラマなんか裸足で逃げだしそうやで♪
2017.06.25
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朝日デジタルの書評が『あなたの人生の物語』というSF小説を、とりあげているが・・・5月19日から公開された『メッセージ』というSF映画の原作ということ、著者が中国系作家であることが興味深いのです。・・・で、早速、この本を図書館に借出し予約したのです。【あなたの人生の物語】テッド・チャン著、早川書房、2003年刊<「BOOK」データベース>より地球を訪れたエイリアンとのコンタクトを担当した言語学者ルイーズは、まったく異なる言語を理解するにつれ、驚くべき運命にまきこまれていく…ネビュラ賞を受賞した感動の表題作はじめ、天使の降臨とともにもたらされる災厄と奇跡を描くヒューゴー賞受賞作「地獄とは神の不在なり」、天まで届く塔を建設する驚天動地の物語ーネビュラ賞を受賞したデビュー作「バビロンの塔」ほか、本邦初訳を含む八篇を収録する傑作集。<読む前の大使寸評>ケン・リュウ著『紙の動物園』は、中国系作家にしては詩情あふれるSFで、良かった。だけど、その二番煎じに食いつくような大使ではない。 さてどんなかな?<図書館予約:(6/23予約済み、副本5、予約65)>rakutenあなたの人生の物語あなたの人生の物語by阿部嘉昭(評論家・北海道大学准教授)以前に読んだ『紙の動物園』を紹介します。「BOOK」データベースの説明によれば、テッド・チャンがケン・リュウより先に世に出たようですね。【紙の動物園】ケン・リュウ著、早川書房 、2015年刊<「BOOK」データベース>よりぼくの母さんは中国人だった。母さんがクリスマス・ギフトの包装紙をつかって作ってくれる折り紙の虎や水牛は、みな命を吹きこまれて生き生きと動いていた…。ヒューゴー賞/ネビュラ賞/世界幻想文学大賞という史上初の3冠に輝いた表題作ほか、地球へと小惑星が迫り来る日々を宇宙船の日本人乗組員が穏やかに回顧するヒューゴー賞受賞作「もののあはれ」、中国の片隅の村で出会った妖狐の娘と妖怪退治師のぼくとの触れあいを描く「良い狩りを」など、怜悧な知性と優しい眼差しが交差する全15篇を収録した、テッド・チャンに続く現代アメリカSFの新鋭がおくる日本オリジナル短篇集。<読む前の大使寸評>中国人の著わしたSFを初めて読むことになるのだが・・・・3冠に輝いた現代アメリカSFの新鋭ということで、期待できそうやでぇ♪<図書館予約:(9/27予約、4/12受取)>rakuten紙の動物園『紙の動物園』byドングリ公開初日に観に行った『メッセージ』という映画をくだんのフォームで紹介します。人民解放軍の将軍が出てきて、重要な役どころを演じたが・・・なるほど原作の著者が中国系作家であれば、そうなるんでしょうね。【メッセージ】ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2016年、米制作<Movie Walker作品情報>よりSFファンから絶大な支持を受けるテッド・チャンの短編小説を映画化し、第89回アカデミー賞で8部門にノミネートされ、音響編集賞に輝いたSFドラマ。突然、地球に襲来した異星人との交流を通して言語学者が娘の喪失から立ち直っていく姿が描かれる。主人公の言語学者をアカデミー賞では常連の演技派エイミー・アダムスが演じる。<観るまえの大使寸評>言語学とSF映画という大使のツボが二つかぶると・・・期待はいや増すのでおます♪Movie Walkerメッセージ『メッセージ』を公開初日に観たbyドングリ
2017.06.25
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「ビジュアル本」でしょうか♪<市立図書館>・シズコさん・ひょうごの田舎暮らし<大学図書館>・鳥の話・建築のすべてがわかる本図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【シズコさん】佐野洋子著、新潮社、2008年刊<「BOOK」データベース>よりあの頃、私は母さんがいつかおばあさんになるなんて、思いもしなかった。ずっと母さんを好きでなかった娘が、はじめて書いた母との愛憎。<読む前の大使寸評>佐野洋子のエッセイは大概読んできているが・・・この本は手付かずだったので、満を持して借りたわけでおます♪rakutenシズコさん************************************************************【ひょうごの田舎暮らし】神戸新聞総合出版センター編、神戸新聞総合出版センター、2010年刊<「BOOK」データベース>よりスローライフから定年後の夢まで、30人の楽しみ方。田舎暮らしのお値段は?家購入の相談先は?支援制度は?農業を始めたい、成功の秘けつ…etc。田舎暮らし便利帳。<読む前の大使寸評>この歳で田舎暮らしをする気はないのだが・・・兵庫県内の成功事例を(うらやましく)見るのも、いいではないかと思った次第です。rakutenひょうごの田舎暮らし************************************************************【鳥の話】細川博昭著、SBクリエイティブ、2017年刊<「BOOK」データベース>よりたくさんの人が行きかう街から赤道直下の密林、南極の氷原まで、さまざまな場所に鳥はいます。上空1万メートルを軽々と渡る鳥もいれば、体に毒をたくわえる鳥もいます。一方で、「概念」を理解して人間と話す鳥、最大4000か所の位置を記憶する鳥、凝った構造物をつくる鳥も。そんなすごい鳥の秘密としくみ、身近にいる鳥の意外な事実をつめこんだのが本書です。美しく楽しげで、少し怖い、鳥の世界をご案内。<読む前の大使寸評>このところ『にっぽんスズメしぐさ』や『鳥のいる空』など、鳥の本をよく読んでいるので、この本もその勢いで借りたのです。rakuten鳥の話************************************************************【建築のすべてがわかる本】藤谷陽悦著、成美堂出版、2006年刊<「BOOK」データベース>より古代建築から寝殿造、数寄屋造、超高層ビルまで、60のテーマをイラストと写真でわかりやすく解説。<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載の・・・見て楽しく、建築雑学が得られる本である。amazon建築のすべてがわかる本************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き225
2017.06.24
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図書館で『センサが一番わかる』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、画像を多用してセンサの仕組みを物理法則、科学法則に則って説明しています。元エンジニアとしての興味を惹く、なかなか優れた本だと思ったのです。【センサが一番わかる】松本光春著、技術評論社、2012年刊<商品説明>より一口にセンサといっても物理的なもの、電気的もの、あるいは化学的なものと、多くの種類があります。感応物質を利用した単純なものから、複数のセンサや高度な電子回路を内蔵した複雑なものまで、理論から応用事例も千差万別です。本書はセンサ全般を理解するために、各センサの特長とその理論を説明し、どんな分野でどんな用途に利用されているか、その応用例をわかりやすく紹介します。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、画像を多用してセンサの仕組みを物理法則、科学法則に則って説明しています。元エンジニアとしての興味を惹く、なかなか優れた本だと思ったのです。rakutenセンサが一番わかる大使にとって文明の利器と思うのは、何といっても電子レンジである。・・・で、電子レンジの原理と装着しているセンサを、見てみましょう。p60~61<電子レンジ>●電子レンジにおけるセンサ 電子レンジとは電磁波の作用を利用して、食品などを加熱するための調理器具です。電子レンジに設置されているセンサは、温度センサ、湿度センサ、重量センサなどがあります。このうち、温度センサは、電子レンジ内の食品の温度を検知するために、湿度センサは、電子レンジ内の湿度を検知するためにそれぞれ用いられます。重量センサは、食品の重さを用いられ、静電容量型の圧力センサが用いられます。●電子レンジの原理 図に電子レンジの原理を示します。電子レンジは図にあるマグネトロンと呼ばれる発信器によって電波を発生します。この電波は1秒間に数十億回という、非常に高い周期で振動しているマイクロ波とよばれる電波であり、このこの周期でプラスとマイナスの電極が入れ替わります。 発生した電波が食品の中の水にあたると、水の分子が振動し、水を含んだ食品が温められることになります。これは、水の分子がプラスとマイナスが分子内で隔たりを持った極性分子とよばれる分子であることに原因があり、電波によって、水分子がゆさぶられるためです。このように電磁波を使って誘電体を温める方法を誘電加熱といい、電子レンジのようにマイクロ波を使った加熱を特にマイクロ波加熱ということもあります。 上記のように電子レンジは水の振動によって加熱を行うため、食品を温めることはできても焼くことはできません。(中略) 図のように重量センサは電子レンジ内におかれたターンテーブルの下に置かれ、食品が調理中の重量変化から調理がどの程度進んだのかを検知することなどに用いられます。一方、温度センサや湿度センサはレンジ内におかれ、レンジ内の温度湿度を測定します。これらのセンサから得られる情報は電子レンジ内のマイコンにフィードバックされ、発生する電波の量が調整されます。
2017.06.24
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昨夜(23日)のNHKスペシャル『サイバー攻撃に挑む』再放送を観たのだが、興味深い内容であった。 毎年の夏、国家行事と前後するように人民解放軍のハッカー達が日本の省庁や重要インフラのパソコンに大量のマルウェアを送り込んでくる・・・・それに対して不屈のトップガンが戦いを挑む。2015.9.14サイバー攻撃に挑むより■攻撃者に、なりきる サイバーセキュリティー技術者の中でも最高の技術を持つ“トップガン”と称され、日本のみならず世界からも注目を集める、名和利男(44)。その仕事の大きな柱の1つは、サイバー攻撃を受けた可能性のある国や企業から依頼を受け、その実情を正しく捉えることにある。例えば、データを破壊したり盗みとったりするマルウェア(悪意のあるソフトウェアの意)が紛れ込んでいるかどうか、また紛れ込んでいる場合、どのような悪さをするものなのか、その対応は一刻を争う。 しかし年々巧妙化し、かつ悪質化しているサイバー攻撃において、攻撃の実態を正確に把握することは難しくなっている。そこで名和は、こうした緊急対応のとき、つねに「攻撃者になりきる」ことを心得に作業にあたる。 時に何万行にも及ぶ膨大なプログラムの中から、通常あり得ない、異常な文字列を見つけ出すこの作業。文字や数字の羅列からいち早く異常な文字列を見つけるためには、たとえば、「金」や「個人情報」など、攻撃者はどの情報を狙っているのか、想像力を働かせながら探すことが重要だと名和は考える。■敵の、先を行く 名和の仕事のもう1つの大きな柱は、攻撃者を特定する追跡作業だ。名和は、攻撃者が情報交換などを行っているコミュニティサイトに入りこみ、公開されている攻撃者の写真や住所などの情報を入手していく。そして、攻撃の事実とその人物が特定されたとき、身元がばれていることを相手に突きつける。 身元が判明している事実に、相手は攻撃する意欲を失うのだ。また、攻撃者はほかで成功した攻撃手法を使い回したり、みずから開発したマルウェアをベースとして設計変更をすることが多い。その動向を把握出来ていれば、事前に対策も打ちやすくなる。「増加の一途をたどるサイバー攻撃に対しては、守るだけでは、十分ではない」――名和は、攻撃を根絶させたいと挑み続けている。ウーム 人民解放軍の伝統的な戦法・人海戦術に対抗するには、明らかに戦力不足は否めないのである。・・・初回放送から2年近く経っているが状況は良くなっているか?この記事もサイバーリテラシー8に収めるものとします。
2017.06.23
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図書館に予約していた『ぼくがいま、死について思うこと』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。この本は、先日読んだ『孫物語』でシーナが言及していたので、即、図書館に借出し予約していたものです。【ぼくがいま、死について思うこと】椎名誠著、新潮社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりぼくはあといくつこういう場に立ち合えるのだろうか。そしていつ自分がこういう場でみんなにおくられるのだろうか。それは、わからない。ぼくにも、そして誰にもわからない。<読む前の大使寸評>この本は、先日読んだ『孫物語』でシーナが言及していたので、即、図書館に借出し予約していたものです。<図書館予約:(6/14予約、6/18受取)>amazonぼくがいま、死について思うこと五体投地拝礼偽巡礼の実相が面白いので、見てみましょう。p48~51偽巡礼 なかには20代半ばぐらいの若い娘が五体投地拝礼で巡礼旅をしているのを目にしたりする。スターバックスあたりで幼児声をだして楽ちんにつるんでいる日本の娘と同じくらいの歳で、よくこんな荒行を、としばし息をのんでしまうこともある。 でも、こういう教えもある。 「五体投地拝礼でカイラスにむかっていく苦行の巡礼ほど、そのことによる御利益が大きい」 同時にそのような苦行ができる健康な体力と経済的な能力が備わっている、ということが荒行巡礼の充足感につながってもいるように思えた。 五体投地拝礼は単独ではなかなか難しい。ルートを見てその日の移動距離は大体計算できるから、1人の巡礼に1人か2人のサポートがついていて、その人が夜具や食料などをもって先に行ってテントを張り、夕食の支度などをして待っている。大地を這ってきた巡礼は1日の行程が終ると、そのサポーターらとお茶を飲み楽しく談笑する。 テレビドキュメンタリーはそこまでは映さないことが多いから、何も説明なしに五体投地拝礼のありさまだけ見せられると、とにかく人智、体力を超越した凄絶な巡礼行として驚愕的に感心するしかない。 ぼくは四輪駆動車で行くのだから多少ダートな場所も迂回したりしてどんどん行ける。満員状態でやってくる団体巡礼の、性能が悪く古いトラックがときどきスタックし、長いこと動けない様子のところを走っていくことがよくあった。なにかたいへん申し訳ないような気持だ。でも何事にもタフな巡礼者は、そういうときはみんなで歌をうたい踊って時間をつぶしたりしている。 そういう風景を見ながら崖道に入っていったとき、ぼくの偽巡礼者のおごりと油断が見破られたのか、極端な曲がり角でクルマがいきなり転覆した。最初は何がおきたのかわからないような状態だった。しかし四輪駆動車は完全にサカサになっていた。同乗者はみな屈強だったので誰も怪我人はいなかったが、クルマは車軸が折れてもう使いものにならなくなっていた。そしてもっと恐ろしかったのは2回転してなんとかとまった場所からあと2メートルぐらいが崖の縁だったことだ。もう1回転したら確実に死んでいただろう。(中略) カイラスは標高6650メートルで、仏教、ヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教の聖山である。だから途中、ネパールから入ってくる道との合流点からはインド人の巡礼がまじってくる。インドのマハラジャレベルの巡礼は、その昔は大勢の配下の者を連れた大集団でやってきて、マハラジャは興に乗っていたというから1、2年はかかる巡礼旅だったのだろう。 チベット人の五体投地拝礼の巡礼も、聞いてみると故郷を出てからもうかれこれ2年半ぐらいです、などと平気な顔で答える人がけっこういた。カイラス巡礼は昔も今も「生死」をかけた旅でもあったのだ。偽巡礼も、あの転覆事故でいかにも「偽者」にふさわしい「死」の危機を経てきたわけであるが。 歩いてきたり五体投地拝礼でやってくる巡礼者の中には、旅の途中で路銀を使いはたし、聖山から帰れなくなって、カイラスの麓の巡礼たちの待機場がいつのまにか村のようになってしまったタルチェンというところで荷物運びや物乞いなどをして余生を過ごす者もいると聞いた。ウーム 巡礼に対する根性が日本人とは違うなあ・・・世界はそれだけ広いということか♪『ぼくがいま、死について思うこと』1:飲み屋での「刷り込み」『ぼくがいま、死について思うこと』2:楽しい老化、大きな嘘の約束『ぼくがいま、死について思うこと』3:親友、そして自分はどう死にたいか
2017.06.23
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近畿大学教授の有路昌彦さんがオピニオン欄で「持続可能性、消費者も考えて」と説いているので、紹介します。つまるところ、中国人にいかにして持続可能性を理解してもらえるかにかかっていると思うんだけど。(有路さんのオピニオンを6/21デジタル朝日から転記しました)店で売られている魚が、昔にくらべて割高になったと感じることはありませんか。日本の漁獲量は、ピーク時の3分の1に減りました。世界では魚を食べる人が増え、輸入ものを確実に買えるとも限りません。水産資源を守るために、打つ手はあるのでしょうか。■《解く》持続可能性、消費者も考えて 有路昌彦さん(近畿大学世界経済研究所教授) 今後もずっと魚を食べ続けられるかというと、見通しは全く甘くありません。世界の需要の伸びは日本の人口減よりも速い。すでに世界中で魚を獲りまくっていて、これから天然の魚は確実に減る。水産資源はぼろぼろです。研究者や国際機関の間では、だれもが知っていることです。 資源管理の適切な方法に、唯一の答えがあるわけではありません。漁法や魚が泳ぎ回る範囲などを考慮して、最適なものを組み合わせていく必要があります。沿岸の漁業者が共同体として昔から続けてきた管理のしくみは、適切に評価すべきです。大量に魚を獲るまき網などは、しっかり船単位で漁獲量を決めないといけません。 まき網漁業は、消費者に安く魚を供給してきました。ただ、十分な利益が得られないなら、外国人を雇ってまで続ける必要があるのか、といった議論も避けては通れません。ハードルは高いですが、短期的な漁獲量に左右されないように経営を支える資金繰りのしくみや、政府が買い上げて船を減らしていく「バイバック」などの手法も含め、長期的な視点で業界を守るのに適したあり方を考えていく必要があります。 * 需要と供給は車の両輪ですから、消費する側にも責任があります。どんな未来を選ぶのかを決めるのは、消費者です。国が主導して供給側を規制しようとしても、消費者の認識がともなわないと、だれも味方しません。 端的な例が、絶滅危惧種のウナギです。規制の実効性が上がらないのは、結局、あればあるだけ食べ続けているからです。この先も獲り続けられる資源なのかを認識して、選んでほしい。消費者の理解不足によって、せっかくの規制も無意味になってしまいます。 限られた資源を管理しながら水産業を続けていくためには、消費者に魚のことをもっと知ってもらう方法を、真剣に考えないといけません。 世界の需要を踏まえれば、魚の供給が不足して、値段は上がるでしょう。しかも、消費者の多くは自分で調理しないので、その手間賃が上乗せされれば、さらに割高になります。より安い鶏肉や豚肉に流れ、魚の消費が落ち込んでいく連鎖を断ち切るには、小売りから変わる必要があります。 まず、食べ方や調理の仕方を、積極的に提案していくことが必要です。店頭で「いまが旬!」と売るだけでは不十分です。春の産卵期前のアサリなら、「殻が薄くて割れやすい。でも、肉がパンパンになっていて一番おいしい。ぜひ酒蒸しやバター焼きで」と説明をすれば、消費者も「なるほど」となります。ところが、殻が割れているのは悪いアサリだと思って、買わない人もいます。 売り場のポップや外食のメニュー表に何を書くかによって、消費者の認識に大きく影響します。多くの店では、魚売り場より肉売り場のほうが試食も多く、新しい料理法の提案もされています。もともと肉をあまり食べなかった日本人が変わったのは、肉業界の不断の努力があったからです。 * 漁業者も一緒になって、どんな漁法で獲ったのかや、どんな育て方をしたのかを消費者に伝えていく取り組みも大切です。 私が手がける養殖のブリは、低価格競争をしているわけではありません。ステーキといった、新しい食べ方に合うようにえさを工夫する分は割高になりますが、お客さんは理解して買ってくれます。持続可能な獲り方をした魚を消費者が見分けられるように、マークを付けて選べるようにするのも一案でしょう。メッセージ性を高めることで消費者の認識が変わり、資源の管理にもつながります。(聞き手・山村哲史) ◇有路昌彦:1975年生まれ。専門は水産・食料戦略。近畿大の支援のもとに養殖魚を加工・販売する会社の社長も務める。(ニッポンの宿題)魚、食べ続けるために有路昌彦2017.6.21この記事も 朝日のインタビュー記事スクラップR2に収めておきます。
2017.06.22
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図書館で『にっぽんスズメしぐさ』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、スズメの写真が、可愛いいやんけ♪昨今は駅前広場のハトやスズメを親しく眺めているが・・・典型的な老人風景を呈しています。【にっぽんスズメしぐさ】中野さとる著、カンゼン、2017年刊<「BOOK」データベース>より一羽で、仲間たちとースズメたちの毎日を凝縮!スズメたちの愛らしい姿がもっと楽しめる!大好評のスズメ写真集シリーズ第2弾が登場!『きょうのスー』マツダユカさん描きおろし作も収録!<読む前の大使寸評>おお スズメの写真が、可愛いいやんけ♪昨今は駅前広場のハトやスズメを親しく眺めているが・・・典型的な老人風景を呈しています。rakutenにっぽんスズメしぐさまずアクション編を、見てみましょう。p30~31<歩く・跳ぶ・走る!> 足を揃えてピョンピョン跳ねるように移動するスズメの姿はなんともかわいいもの。肉眼ではなかなかわかりにくいですが、写真のようにスタスタ歩いたり、なぜか横っ飛びしたり、タッタカ走ったり。スズメにとって飛ぶのと走るのではどちらがラクなんでしょうね。p52~53<羽づくろい> すきあらば羽づくろいに勤しむという感じのスズメたち。でもそれは当たり前。いつ何時迫り来るかわからない危険から救ってくれるのは、すぐ飛びたてるきれいな羽だけ。尾羽の付け根にある「尾脂線」から出る脂をくちばしでとって羽につけると、防水能力が高まるのだそう。お次に、ポーズ編です。p74~75<見つめる先には> 見つめる先にはなにがあるのか・・・。人には見えないものが見えている。そんな顔つきのスズメたち。その視線の先を追ってもなにもわからないけれど、哲学者のような佇まい、表情は、こちらのただの思い入れだとしてもやはり気になってしまうのです。
2017.06.22
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図書館で『鳥のいる空』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、博物誌のように野鳥や草花の名前がでてくるわけで・・・ええでぇ♪【鳥のいる空】沢野ひとし著、集英社、2001年刊<「BOOK」データベース>より多摩丘陵の一角に住み着いて20数年結婚して25年が過ぎたが、ともかく別れないで今日まできたのが、夫婦というものなのだろうか。ワニ眼画伯が休日に、妻と散歩に出かけたとき、ふと心をよぎる、いくつもの感慨…。山あり、川あり、街角あり、妻あり、息子娘のことあり。旅の思い出あり、天然ユーモアのエッセイ集。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、博物誌のように野鳥や草花の名前がでてくるわけで・・・ええでぇ♪rakuten鳥のいる空バード・ウォッチングに興味があるので、その情景を見てみましょう。p34~37<八王子の浅川にて> 今年の浅川は昨年の台風の影響のせいか、河川敷のかなりの草が根こそぎ流されてしまい、場所によっては川床も砂だらけの表面を見せている。例年ではアシが河川敷を埋め尽くしているのに、今年は少なく、植物群の復活を期待するしかない。それでも冬から春にかけて、セキレイ、モズ、ジョウビタキ、ツグミ、シジュウカラ、メジロ、ホオジロといった、いつも見られる野鳥は元気に飛びまわっている。 3月の終わりの暖かな1日、双眼鏡とカメラ、図鑑、スケッチブックといった野鳥グッズを肩にいつも行く浅川の場所より上流に散歩に出かけた。もう少しすると南の地方より夏鳥が渡ってくる。ツバメ、オオヨシキリ、セッカ、サシバと浅川の川辺もにぎやかになってくる。 私は鳥に詳しい知人からアオバヅクの来る場所を教えてもらった。アオバヅクは若葉が出はじめた頃に、毎年同じ社寺境内や大木の多い場所にやってくるという。老木の穴などに巣をつくり、フクロウと同じ仲間なので、ホーホー、ホーホーとふた声ずつ鳴くのだ。夜になると活発に行動をはじめる夜行性の鳥である。 浅川の上流に古いお寺があり、そこのベンチに私はじっと座っていたが、やはり季節が早いせいかアオバヅクの姿は見られなかった。 ふたたび河原へ下りてみると、数人の釣り人が糸をたらしていた。私がスケッチブックを開き河原の風景を鉛筆で描いていると、ふと後ろに人の気配があり、なにげなく振り返ると小さな子どもが立っていた。まだやっとふらふらと歩きはじめたような女の子であった。あたりには親の姿が見当たらなかった。私が「お母さんと来たの?」と声をかけると「あっち」と子どもは指さした。青い長グツをはき、吊りズボンはころんだのか土で汚れていた。 「あそこにお母さんがいるの?」とたずねると子どもは、林の方を指さし、「あっち」と同じことを口にした。この子は親と散歩に来て迷子になってしまったのかもしれない。すべって川に落ちたら危険なので、私は子どもの手をつなぎ、「あっち」と指さす樹々が多い土手の方に歩きだした。名前をたずねると子どもはただ首をふるばかりであった。 細い木の下に男の人がポツネンと座っていた。子どもの顔を見ると心配する様子もなく、「どこに行っていた」と無愛想な声を出した。私が「迷子になっていたようで」と曖昧な声を出すと、「そうですか」と言ったきり、じっと川の方を見つめていた。髪を長くたらした若い男性は赤いジャンパーに両手をつっこみ子どもを抱き上げることもなかった。 私の首から下げた双眼鏡に興味があるのか、「ちょっとのぞかせてください」と言った。手渡しすると、「すごくハッキリ見えますね」と釣りをしている人に焦点を合わせていた。「たまにこうして野鳥を見ているのですよ」と私が言うと、「鳥ですか。鳥を見てなにかいいことがあるのですか」と言った。どう返事をしていいのかわからずしばらく黙っていると、男は両手を広げ今にもころびそうな娘の姿を見つけ小さく笑っていた。 「退屈な時に鳥を見ているんですよ」そう私がつぶやくと、「たしかに人生は退屈の連続ですからね」と妙に哲学的な返事が返ってきた。ウーム 著者はヘタウマのイラストで特徴的な椎名誠の仲間であるが・・・・このエッセイもなんかヘタウマ系なのかと(笑)、思ったりする♪著者のイラストを1枚。
2017.06.22
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「バード・ウオッチング」でしょうか♪<市立図書館>・鳥のいる空・ロゴスの市<大学図書館>・にっぽんスズメしぐさ・センサが一番わかる図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【鳥のいる空】沢野ひとし著、集英社、2001年刊<「BOOK」データベース>より多摩丘陵の一角に住み着いて20数年結婚して25年が過ぎたが、ともかく別れないで今日まできたのが、夫婦というものなのだろうか。ワニ眼画伯が休日に、妻と散歩に出かけたとき、ふと心をよぎる、いくつもの感慨…。山あり、川あり、街角あり、妻あり、息子娘のことあり。旅の思い出あり、天然ユーモアのエッセイ集。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、博物誌のように野鳥や草花の名前がでてくるわけで・・・ええでぇ♪rakuten鳥のいる空************************************************************【ロゴスの市】乙川優三郎著、徳間書店、2015年刊<「BOOK」データベース>より言語の海を漂う男と女ー翻訳家と同時通訳の宿命的な旅路。静謐な熱情で女を見守る男。女は確かなものしか追わない。切なく美しく狂おしい“意表をつく愛の形!”<読む前の大使寸評>翻訳家と同時通訳の言語学的な愛の形ってか・・・・大使のツボがうずくのでおます。rakutenロゴスの市************************************************************【にっぽんスズメしぐさ】中野さとる著、カンゼン、2017年刊<「BOOK」データベース>より一羽で、仲間たちとースズメたちの毎日を凝縮!スズメたちの愛らしい姿がもっと楽しめる!大好評のスズメ写真集シリーズ第2弾が登場!『きょうのスー』マツダユカさん描きおろし作も収録!<読む前の大使寸評>おお スズメの写真が、可愛いいやんけ♪昨今は駅前広場のハトやスズメを親しく眺めているが・・・典型的な老人風景を呈しています。rakutenにっぽんスズメしぐさ************************************************************【センサが一番わかる】松本光春著、技術評論社、2012年刊<商品説明>より一口にセンサといっても物理的なもの、電気的もの、あるいは化学的なものと、多くの種類があります。感応物質を利用した単純なものから、複数のセンサや高度な電子回路を内蔵した複雑なものまで、理論から応用事例も千差万別です。本書はセンサ全般を理解するために、各センサの特長とその理論を説明し、どんな分野でどんな用途に利用されているか、その応用例をわかりやすく紹介します。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、画像を多用してセンサの仕組みを物理法則、科学法則に則って説明しています。元エンジニアとしての興味を惹く、なかなか優れた本だと思ったのです。rakutenセンサが一番わかる************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き224
2017.06.21
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図書館に予約していた『ぼくがいま、死について思うこと』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。この本は、先日読んだ『孫物語』でシーナが言及していたので、即、図書館に借出し予約していたものです。【ぼくがいま、死について思うこと】椎名誠著、新潮社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりぼくはあといくつこういう場に立ち合えるのだろうか。そしていつ自分がこういう場でみんなにおくられるのだろうか。それは、わからない。ぼくにも、そして誰にもわからない。<読む前の大使寸評>この本は、先日読んだ『孫物語』でシーナが言及していたので、即、図書館に借出し予約していたものです。<図書館予約:(6/14予約、6/18受取)>amazonぼくがいま、死について思うことシーナのイクジイぶりを、見てみましょう。p164~168■楽しい老化 歳をとっていくのをネガティブに考える風潮があるが、これは誰もが歩む過程であり、考え方や、その変化とのつきあいかたで、いくらでもポジティブな思考方向へ進めるような気がする。 ぼくの場合、とても大きかったのは、世間でもよく言われるように「孫の力」だった。アメリカで暮らしている息子に二人の子供ができた。男の子と女の子で、当初はアメリカ(サンフランシスコ)まで、時間を見つけては会いにいっていたが、三人目の子供ができて、医療問題そのほかの理由でその子は日本で産むことになった。そうして無事出産したのだが、ゼロ歳ではまだ飛行機に乗せられない。2歳になってからまたアメリカに戻ろう、という計画だったが、その2歳のときに福島の原発事故がおきた。 そこで大きく考え方が変わっていき、結論からいうと、かれらはそのまま日本で暮らすことになった。この世の中、これから何が起きるかわからない、という日本人全員が抱いた不安に同じように苛まれた結果だった。あとで書くが、彼らの戻る予定のサンフランシスコのカストロという街にも大きな問題があった。 まあとにかく結果的にぼくの生活範囲のごく身近なところに三人のチビがいっぺんに登場し、ぼくの生活に濃厚にからまるようになったのである。あたらしい小さな命の力は想像以上に大きなものだった。 上の二人は英語社会から日本語の社会になじむため、それなりに努力を強いられ、当初はギクシャクしていたが、小さな子の対応力は驚異的だ。かれらはたちまち日本の生活になじみ、同時にぼくの格好の遊び相手になり、かわいらしい刺激のかたまりになった。 父親は日本の会社に就職したが、外国を含めて別の都市に長期滞在する仕事だった。三人の子供を抱えた母親の日常はなかなか大変なので、一番上の男の子が幼稚園にいくようになると、しばしばぼくがその子を連れて登園することになった。 草や花に興味のある男の子で、登園途中でいろんな家の庭の草花などを見て、話をしながらいく。これはぼくにとってピカピカ輝くような「あたらしい朝」の出現だった。 そんなおり、近くの小学校の父母会から「講演」の依頼があった。まあ気分としては講演などというしかつめらしいシロモノではなく、ご近所の人に挨拶にいく、というような気持でその依頼を受けた。 都内の新宿に近いところだけれど、都会の過疎化がはじまっていて、小学校は各学年1クラスしかない。そこの小さな体育館で話をした。近所の人がたくさん集まっていて、なごやかな雰囲気だった。 質問の時間になって、何人目かの中年婦人が、いつもお孫さんと手をつないで幼稚園にいく姿を物干し台から微笑ましく見ているんですよ、などという話があって「ありゃ見られているんだな」ということを知った。 「おじいちゃんがとっても嬉しそうな顔をしているのを見ると気持ちがよくて」 その女性はそんなステキなことを言ってくれた。きっと本当にそうだったのだろう。■大きな嘘の約束 彼らがまだアメリカにいる頃、その男の子の孫からよく電話がかかってきた。なにげない日常の話である。時差の関係で先方の夕食時、日本の午前11時頃が多かった。日本語の勉強でもあるからぼくはゆっくり話をする。孫はサンフランシスコと正確にはいえず「サンコンカン」と言った。サンコンカンの「ゴールデンゲートブリブリッジ」と、「ブリ」を二回続けるのも面白く楽しい会話時間だった。 しかし彼らの住んでいる町はヒスパニックと黒人のヤクザ者が対立している「ウォー・タウン」と呼ばれている危険なところで、ぼくが息子家族の住むアパートに泊まっていると、夜などいきなり拳銃の音が聞えてきたこともある。 あるとき、彼らがレストランで食事しているとそういう町なかの抗争があって、まだ十代とおぼしきヒスパニックの青年が逃げ込んできて、レストランの中で拳銃で撃たれ、死亡した。そのありさまをまのあたりにした孫は当然ながら「ヒトの死」を生まれてはじめて見てしまったわけだ。 翌日の電話で孫は「おにいちゃんが死んじゃったんだ」と、その話をそのまま教えてくれた。そして彼は言った。 「じいじいも死ぬの?」 じいじいとはぼくのことだ。 少し考えてぼくは嘘をついた。 「じいじいは死なないんだよ」 「ふーん。よかった」 4歳の小さな男の子はそう言った。大きな嘘の約束だったけれど、いまはできるだけその嘘をつらぬきたいと思っている。 歳をとるとあらゆることが辛く変化していくというけれど、でもその変化がすべて辛いわけではないかもしれないぞ、とぼくはいま柔軟にそう思っている。『ぼくがいま、死について思うこと』1:飲み屋での「刷り込み」
2017.06.21
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図書館で『日本を知る105章』という本を、手にしたのです。全篇にわたって、英文、日本文、画像がセットになった構成であるが・・・何と言っても、日本文の書き手が、荒俣宏、佐高信、橋本治、鶴見俊輔等、蒼々たるメンバーで、かなり読ませるわけです。英語力アップにつながれば、おつりのようなものでおます♪【日本を知る105章】コロナ・ブックス編集部、平凡社、2001年刊<「MARC」データベース>より生け花、法隆寺、わび・さび、能、マンガ、忠臣蔵など105のキーワードを、日本を代表する41人の作家・文化人が簡潔明瞭に解説。全文英語訳付。95年刊「日本を知る101章」に、新たに4章を加えたもの。<読む前の大使寸評>全篇にわたって、英文、日本文、画像がセットになった構成であるが・・・何と言っても、日本文の書き手が、荒俣宏、佐高信、橋本治、鶴見俊輔等、蒼々たるメンバーで、かなり読ませるわけです。英語力アップにつながれば、おつりのようなものでおます♪amazon日本を知る105章人類学者の著者が木を語っているので、見てみましょう。p256<木:河合雅雄> 日本は木の文化が幸う国だという。老木や巨樹があれば、人々は神としてあるいは神の依り代として畏敬し、しめ縄を張って崇める。日本のアニミズム心性を示す事象としてよく取り上げられるが、このことは日本人の独自性ではない。北村昌美氏らの調査によると、ヨーロッパの人が巨樹に対して神秘性や霊的なものを感じる率は日本人と変わらない。こうした性向は、人間性に宿るかなり普遍的なものなのだろう。 木の文化と称されるのは、なんといっても木造の家と洗練された木工品を日常に使っていることだろう。庭つきの木造の家を持ちたい、日本人の誰しもがもつ夢である。できれば風呂も檜作りにし、かぐわしい木の香りに包まれて暮らしたいと思う。花の香りに埋もれてという願いをもつ民族は多いが、木の香りに浸るよろこびを大切にする民族は少ないのではないか。 木造の家に住むということは、われわれの精神や宗教とどうかかわるのか。 日本では、少し前はたいていの家に仏壇があった。つまり、人々はいつも死者たちと一緒に暮らしていたのだ。そういえば、木造の家は成り立ちから、生者を死者が支えている構造をもっている、ということなのだ。 西アフリカの熱帯多雨林の中を歩いているとき、私は奇妙な感懐に襲われた。林冠まで40メートルもある鬱蒼とした原生林、地球上の生態系の中で最大のエネルギー循環がなされている森の中に佇み、巨木から発するすさまじい生命の放射に圧倒されそうになった。 われわれ人間のいのちはたかだか数十年にすぎないが、周りに林立する巨木はみな数百年も生きながらえてきたものなのだ。木という生物には、本来死がない。動物は病魔に冒されなくても、やがて老衰し死を迎える運命をもつ。だが、木は病気や天災に見舞われなければ、永遠に存在する生命体なのだ。 木部の中で生きている部分は、木部の周囲の形成層だけである。幹の大部分を占める心材は、死滅した細胞の集積なのだ。木は自らの死体を中核にして、みずみずしい葉を茂らせ、あでやかな花を飾り、豊潤な果実を実らせる。木造の家は、それらの生きた部分を全て切り捨て、木の死骸だけで造りあげたものなのだ。数十年から数百年の間、生を支えてきた木の肌の美しい紋様と静謐をにじみ出す輝きは、人の心をなごませ安息へ導いてくれる。祖霊と木魂に守られて、日本の人々は暮らしてきたのである。 日本は木の文化が幸う国だった。だが、藁葺きや萱葺きの家は寂々たるものになり、鉄柱やコンクリートの壁にアルミサッシの家が多くなった。わずかな木と土への郷愁から、合板で柱を覆い、木目を描いたビニール製の壁紙で装い、木造建築のコピーに住むようになった。木椀や膳は日常から姿を消し、ようやく箸だけが木の文化を残存している。 それも緑を守るための割り箸追放という愚挙によって、プラスチックにおびやかされつつある。家から死者が追い出され、老人や木が織りなす深い陰影が消し去られて、核家族のただ明るいだけの人工世界がとって代わった。 照葉樹の原生林に佇んでみよう。もの悲しく憂鬱な気分が深沈と心をうつ。わび、さび、幽邃といった心性は、深い照葉樹林の属性が古代人の心に熟成させたものではないか。だが、照葉樹の原生林はもうわずかしか残存していない。経済有用林がそれにとって代わり、そのために今や花粉病に涙し、くしゃみし、のどをぜいぜい鳴らして、明るく影のない世紀末をわびしくさびしく憂衰のうちに迎えるのである。 日本の家屋がなぜ西欧のように石造りでないのか。木が多いからというのがその理由とされるが、実は石材が得られないからだ。藤田和夫氏の日本列島砂山論というユニークな説によれば、日本列島は太平洋プレートとフィリピンプレートに押され、岩石に細かくひびがいき、3メートル四方の完全な石材を取ることも難しいという。 その現象はまた、日本の山が全て緑に覆われている原因となっている。つまり日本を象徴する豊かな木々の緑は、がっしりした岩盤の山に茂っているのではなく、いつ崩れるともわからぬ砂礫の山に栄えるもろい美しさの反映なのだ。もののあわれや無常感を発生させる地質的象徴と見るのはうがちすぎだろうか。ウン 著者のやや癖のある推論や語彙が気になるが・・・それをさておいても、樹木や木造家屋に対する想いが、ええでぇ♪『日本を知る105章』1:団体旅行:鶴見俊輔『日本を知る105章』2:パチンコ:竹内宏『日本を知る105章』3:マンガ:橋本治
2017.06.21
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図書館で『地平線の彼方から』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、砂漠や駱駝の写真が見えて、大使のツボがうずくのです。写真家の著者の紀行文もなかなかのようです。【地平線の彼方から】野町和嘉著、クレヴィス、2015年刊<「BOOK」データベース>よりサハラ砂漠からアンデス高地まで、地球上の荒々しい自然の中で生き抜く人々に魅せられた記録。40余年に渡るドキュメントより代表作から最新作まで、写真96年、エッセイ28編収。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、砂漠や駱駝の写真が見えて、大使のツボがうずくのです。写真家の著者の紀行文もなかなかのようです。rakuten地平線の彼方からインド側に避難したチベット難民が語られているので、見てみましょう。p99~100<雪山獅子旗>ラダック インド 2009 2009年7月6日。標高4500メートル、中国(チベット)国境まで50キロのインド領チベット高原。 眼下に、コバルトブルーの湖を抱くようにひらけた、高原砂漠の真っ只中。臨時に設けた祭壇に掲げられたダライ・ラマ肖像と向き合って、チベットの国歌が高らかに歌われている。そして頭上には、たった今ポールに上ったばかりの真新しい国旗「雪山獅子旗」が、抜けるような天空に鮮やかに映えわたる。 失われてしまった雪の国「観音菩薩の浄土」を讃えて歌っているのは、300人ほどのチベット難民たちだ。遊牧を生業としながら、この近くの谷あいに集落をなしている。この人たちは国境に間近いチベット側で遊牧で暮らしていたのだという。1951年、人民解放軍が迫っているとの噂を聞いて、家畜を追ってインド側に避難したところ国境が閉ざされてしまい、以来、帰るに帰れなくなった難民なのである。 全員が起立し、帰ることのできなくなった故国を間近に臨みながら、観音菩薩の化身、ダライ・ラマ14世の74回目の誕生日を、彼らはこうして厳かに祝っているのである。 中国の強権支配下にあるチベットでは、チベット国旗の掲揚は重罪に相当する。そのうえ現在では、ダライ・ラマの肖像写真を所持しているだけで犯罪者扱いである。チベットを広く歩き、深くて終わりのないその苦悩を知る一人として、ここがインド領であるとはいえ、まぎれもないチベット高原に、禁断の「雪山獅子旗」が堂々とはためく様は胸に迫りくるものがあった。 俗に”小チベット”と呼ばれている北インドのラダックを訪れたのは、。私がこの地を訪れた目的は、伝統的に受け継がれてきたラダックのチベット仏教圏を見てみようと思ったからだ。歴代ダライ・ラマによって統治されてきた仏教国チベットが、1949年以来中国の侵攻を受け、仏教への弾圧が強まるなか、1959年にダライ・ラマがインドに亡命して、チベット国が消滅したことは広く知られている。その後吹き荒れた文化大革命によって、仏教社会は完膚なまでに破壊されてしまった。1980年代以降、弾圧は緩和されて信仰も自由になったが、あくまでも中国共産党による監視下という括弧付きであり、自由な信仰を求める多くのチベット人が、ヒマラヤを越え、ダライ・ラマを慕って亡命してきた。 私がチベット本土を広範囲に歩いたのは20年近く前のことだ。2000年以降東チベットにも行っているが、とくにこの10年来、流入した多くの漢人による、大規模開発により、仏教信仰を軸とした伝統チベット文化は激変を遂げてしまった。 チベットはユニークな土地だ。極限高地の厳しい風土に培われた生命観を核心とするチベットの仏教文化は、物欲という麻薬に汚染されてしまった混迷の現代世界を映してみる格好の鏡であると私は考える。決して滅ぼしてはならない、かけがえのない人類の知恵なのである。中国支配地域の外にあって自由に息づいているチベット文化を見てみようと思ったのである。 国を失ったダライ・ラマにとって、熱烈な仏教信仰の地であるラダックは、重要な橋頭堡となっている。『地平線の彼方から』1
2017.06.20
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図書館で『地平線の彼方から』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、砂漠や駱駝の写真が見えて、大使のツボがうずくのです。写真家の著者の紀行文もなかなかのようです。【地平線の彼方から】野町和嘉著、クレヴィス、2015年刊<「BOOK」データベース>よりサハラ砂漠からアンデス高地まで、地球上の荒々しい自然の中で生き抜く人々に魅せられた記録。40余年に渡るドキュメントより代表作から最新作まで、写真96年、エッセイ28編収。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、砂漠や駱駝の写真が見えて、大使のツボがうずくのです。写真家の著者の紀行文もなかなかのようです。rakuten地平線の彼方からまずラクダのキャラバンを、見てみましょう。p52~55<塩のキャラバン> エチオピア東北部、ダナキル砂漠海面下120メートルに広がる塩の原野を、陽炎に揺らめきながらラクダキャラバンが行く。その数およそ400頭。1頭につき100キロ近い塩の板を載せられ、長蛇の列をないひたすらエチオピア高原をめざすのは、いずれも屈強な牡ラクダばかりだ。 高原に運ばれた塩の板は、原価の10倍前後で取引され、かつては貨幣替わりに流通していた。強烈な西日が落す長い影を引きながらしばらく進むと、前方地平線にもう1隊のキャラバンが現れ、砂煙を上げながらこちらに向かってくる。明日塩を運ぶための空荷のキャラバンで、採掘地をめざして交差してゆく。ラクダ引きのティグレ族の男たちは、互いに顔見知りを見つけても声を掛け合うだけですぐにすれ違ってゆく。一定のリズムで進むキャラバンの歩調を乱すわけにはいかないからだ。 塩のキャラバンが活動するダナキル砂漠北部地域。私がエチオピアを頻繁に訪れていた1997年まで、もっとも危険な地域とされ立ち入ることが出来なかった。民族融和が進んで外国人にも開放された今、これだけは観ておかなくてはと熱望していたキャラバンが、今の時代に、これほどのスケールで動いていることに圧倒される思いだった。 2011年の暮れから約2ヶ月、エチオピアに行ってきた。1月7日に聖地ラリベラで祝われるクリスマス巡礼を撮り終えると、翌日にはティグレ州のメケレに移動し、キッチン・カーと呼んでいるコック付きのもう1台の車と合流して、ダナキル砂漠に向かった。 塩の採掘地であるダロル周辺にはホテルも飲み水もないため、周到な準備なしでは旅行は不可能である。標高差2000メートルの山道を一挙に降るにしたがい、快適な高原の冷気が、肌にまとわりつく熱風に変わっていった。そして警護のために、武装した警官3人が途中の町から乗り込んできた。 ダロル一帯は、太古の時代に紅海の海水を閉じ込めたまま隆起した土地で、激しい乾燥のために乾上った塩の層が地表を覆い尽くしている。塩の切り出しに従事する男たちは、ハマデラという集落で寝起きし、未明に起き出し1時間ほど歩いて現場に行く。その数100人ほぢ、体力に自信のある若い男たちは、地獄の釜の底が、耐え難い熱気に揺らめきだす前に仕事を終えようと、汗だくになりながら懸命にツルハシを振るっている。 2,3人が1組になり、まず塩原の表面を覆った塩の板を、割れ目に沿って棒くいを差し込んで起こす。そして鋭利な鍬を使って30センチ四方ほどの大きさに揃えて、ラクダキャラバンの男に引き渡すのである。 ハマデラの草小屋で寝起きしながら、連日、未明に起き出して採掘現場に行き、キャラバンを日没まで追う。熱風と砂埃のなかで、体力を振り絞った撮影行は、すでに還暦を過ぎた体にはさすがにこたえた。それでも、こんな仕事をいまだに続けていられることに無上の喜びを感じながらシャッターを押し続けた。ウン サウジの現場で熱風と砂埃のなか、文句を垂れながら働いてきた大使には、著者の気持がよくわかるのでおます♪この記事も砂漠への憧れ3-R4に収めておきます。
2017.06.20
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図書館に予約していた『ぼくがいま、死について思うこと』という本を、待つこと4日でゲットしたのです。この本は、先日読んだ『孫物語』でシーナが言及していたので、即、図書館に借出し予約していたものです。【ぼくがいま、死について思うこと】椎名誠著、新潮社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりぼくはあといくつこういう場に立ち合えるのだろうか。そしていつ自分がこういう場でみんなにおくられるのだろうか。それは、わからない。ぼくにも、そして誰にもわからない。<読む前の大使寸評>この本は、先日読んだ『孫物語』でシーナが言及していたので、即、図書館に借出し予約していたものです。<図書館予約:(6/14予約、6/18受取)>amazonぼくがいま、死について思うことまず、冒頭のエッセイを、見てみましょう。p7~11<飲み屋での「刷り込み」> 「死」につて考えることにした。 きっかけは「結婚」だった。2年に1度、1泊2日で人間ドックに入る。大きな近代的な病院なので、MRIで頭の中を輪切りにし、ファイバースコープで食道、胃、大腸まで克明に調べる。嫌だが仕方がない。孫ができて、しきりに可愛がっていると「健康で生きていくことに責任を持つ歳になったのだから」と妻はぼくは言い、彼女に連れられて強制的に人間ドックに行かされるようになったのだ。妻に牽かれて人間ドック。 1人で生きていて、孫などもいなかったら、そんなふうに自分の健康チェックなどに関心は持たなかっただろう。 「健康で生きることが責任」という思考がやや鬱陶しかった。 しかし妻のいうことが正しいのだろう。 人間ドックは3回目だが検査の結果は前と同じようなものだった。肝臓のγ-GTRの値がやや高い。毎日酒を飲んでいるのだからこれは当然だと思う。 尿酸値が高い。毎日飲んでいる酒の90%がビールだからこれも当然だろう。この2点である。脳の中にところどころ小さな出血の跡があった。だいぶ過去のものらしい。21歳の頃、自動車事故で頭を打ち、脳内出血で40日間入院した。そのカケラ跡なのだろうと勝手に解釈した。 食道から肛門まで異常はなかった。ガンの兆候、前立腺の異常もない。高校生の頃から青年期まで柔道とボクシングをやっていたので筋肉質だ。今でも毎日軽い床運動を続けているのでその成果あってか体脂肪の値はシングルだった。(中略) この成績表を主治医(精神科医)のところに持っていってみてもらったところ「日頃の生活を見ていると、この程度の生活習慣病で済んでいるのが信じられない」と悔しそうに言った。 さらに主治医は言った。 「あなたは自分の死について真剣に考えたことはこれまでに一度もないでしょう」 図星だった。 この歳(67歳=2年前)で、自分の死について真剣に考えたことがないのはバカである、と言われているような気がした。 「そう思って言ったでしょう」 とぼくは主治医に言った。この先生とは35年のつきあいだ。何でも言える。 「そうだね」 医師もぼくに何でも言う、 でも、それとは別にぼくは自分がこの歳までちゃんと生きている、ということが不思議な気がしている。そんなに長く生きると思っていなかったのだ。(中略) 日中共同による「楼蘭探検隊」の一員としてタクラマカン砂漠への長い旅に出たおり、途中から中国政府が無線でいろいろ干渉してきた。政府の許可を得ている探検隊だったが、自由に動けるエリアをかなり制約してきた。理由が分からなかった。それが福島原発に端を発したいろいろな関連報道であきらかになった。 中国政府は、新疆ウイグル自治区の東に位置する楼蘭遺跡のすぐ近くで核実験を、その頃も含めて30年間にわたって行っていたのだ。タクラマカン砂漠のそのあたりは数千年にわたって南東からの風が吹いている。 秘密にされていたがウイグル人を中心に20万人が被爆死したらしい。 我々はたった1ヵ月のあいだだけだったが、この放射能風にむかって進んでいたのだ。 『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』という本がむかし出たが、アメリカの俳優にガンによる死が増えており、経緯を調べると砂漠の同じような場所での長期ロケをしている。その砂漠ではアメリカ政府が秘密裏に核実験をしていたことが判明したのだ。 そんなようなアレコレがあって、ぼくは40代で死んでもおかしくない行動をしていたのだ。しかししぶとく生き残った。 そして「死」についてまじめに考える時間をここに得た。ばくは「早死に」の「刷り込み」からいつのまにか解放されていたのだ。これまでの精神のどこか奥のほうにその「刷り込み」があったらしく、ぼくはなんでもがむしゃらに人生をやってきたような気がする。
2017.06.20
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図書館に予約していた『南方マンダラ』という本を、待つこと1ヵ月でゲットしたのです。ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪【南方マンダラ】南方熊楠, 中沢新一著、河出書房新社、1991年刊<商品の説明>より世紀を超えてなお知の巨大な風貌をとどめる南方熊楠。日本人の可能性の極限を拓いた巨人の中心思想=南方マンダラを解き明かす。中沢新一の書き下ろし解題を手がかりに熊楠の奥深い森に分け入る。<読む前の大使寸評>ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪<図書館予約:(5/12予約、6/16受取)>amazon南方マンダラこの本の冒頭を、見てみましょう。p9~12<解題 南方マンダラ> 南方熊楠によって、彼の「南方曼荼羅」に明確なかたちがあたえられるまでには、十年近い歳月がついやされている。もちろんその間、ずっと熊楠がこの問題を考えぬいていたというわけではない。彼はいちどきに、さまざまな問題を同時に思考するタイプだったので、ひとつのものごとを考えていても、そこに別のことを思考しなければならない必要がでてくると、前の思考は途中で中断したままにしておき、ずいぶんと時間がたってから、前の思考を再開続行するということが、よくあった。だが、「南方曼荼羅」の場合は、それを考えぬく熊楠の持続力には、ふつうでないものがある。 ロンドンから熊野へ。彼はその間も、驚くほどの精力と時間をついやして、粘菌をはじめとする隠花植物の採集と研究をおこなっていた。人類学や民俗学や宗教にかんするおびただしい書物を読破し、抜き書きをおこない、大事なことはそのまま記憶するという作業も、あいかわらず続けていた。 しかしその間も、彼は自分の考える新しい学問に、一貫性をもった思想のみちすじをあたえたい、と考えつづけていた。そして、そのたびに彼の頭脳には「南方曼荼羅」についてのアイデアが、とりとめもなくわきあがってきた。たくさんの思想の萌芽が、つぎつぎにわきあがってきた。しかし、マンダラと呼ぶにふさわしい統一をそこにあたえることは、さすがの彼にもなかなかできなかった。十年目に、ようやくそれにひとつの明確なかたちがあたえられるようになった。明治36年から翌年にかけて、緑濃い那智の山中で「南方曼荼羅」の思想は生まれた。熊楠はそのとき、37歳。日本人は、まだ彼の存在を知らなかった。 その当時、この「南方曼荼羅」の誕生を見届けていたのは、熊楠のほかあには、たったひとりの真言僧しかいなかった。土宜法竜である。彼にうながされて、南方熊楠はこの巨大なテーマに取り組みはじめた。そして熊楠が、自分の思索の成果を報告したのも、彼ひとりにあててだった。熊楠はそののちも、それについて他人に語ることがなかった。そのために、土宜法竜と南方熊楠の往復書簡が発表されるまで、「南方曼荼羅」の思想は、まったく知られることがなかったのだ。 彼の身近にいた人たちのほとんども、そんなものが存在しているという事実さえ、知らなかった。熊楠の奔放自在な学問や行動の根底に、ひとつの深遠な一貫性をもったマンダラの思想が横たわっていたことに気がついている人も、ほとんどいなかった。またそれがどんな可能性を内蔵したものであるかを、じゅうぶんに解き明かした人もいなかった。つまり、「南方曼荼羅」の思想は、ごく最近にいたるまで、日本人にとっても、ほとんど未知のものだったのである。 しかし、20世紀末を生きる私たちには、いまやはっきりとそれが見える。かつて日本人によって考えだされた、もっともユニークで、もっとも深遠で、もっとも未来的な可能性を秘めた学問論、表現論、科学論が、ここにある。これを解読する努力の中から、きっと私たちの未来を開く、思想の鍵が取り出されてくるに違いない。「南方曼荼羅」がうまれてから、すでに90年近い歳月が流れた。それは、20世紀末の人間による解読を待ちながら、いまも生まれたときと同じ、熊野の森のほの暗く、深い緑を呼吸しつづけている。
2017.06.19
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図書館で『日本を知る105章』という本を、手にしたのです。全篇にわたって、英文、日本文、画像がセットになった構成であるが・・・何と言っても、日本文の書き手が、荒俣宏、佐高信、橋本治、鶴見俊輔等、蒼々たるメンバーで、かなり読ませるわけです。英語力アップにつながれば、おつりのようなものでおます♪【日本を知る105章】コロナ・ブックス編集部、平凡社、2001年刊<「MARC」データベース>より生け花、法隆寺、わび・さび、能、マンガ、忠臣蔵など105のキーワードを、日本を代表する41人の作家・文化人が簡潔明瞭に解説。全文英語訳付。95年刊「日本を知る101章」に、新たに4章を加えたもの。<読む前の大使寸評>全篇にわたって、英文、日本文、画像がセットになった構成であるが・・・何と言っても、日本文の書き手が、荒俣宏、佐高信、橋本治、鶴見俊輔等、蒼々たるメンバーで、かなり読ませるわけです。英語力アップにつながれば、おつりのようなものでおます♪amazon日本を知る105章昨今は、大阪湾の埋立地に賭博施設(カジノ)誘致の動きがあるが・・・知ってる人は知っているパチンコの賭博性を、見てみましょう。p31<パチンコ:竹内宏> パチンコは、日本最大のレジャーであり、その市場規模は、17兆5千億円に達している。それは、住宅産業や自動車工業に匹敵する大きさである。 パチンコ店は、1万7000店に達し、パチンコの台数は400万台であって十世帯に1台以上の割合になる。 パチンコは、日本だけで発達している娯楽だ。欧米人は、パチンコのように細かい技術を必要としたり、また騒音の激しいゲームを好まないようだ。アジアでは、賭博を禁止している国が多い。最近、台湾で許可になったが、あまり広がっていない。 パチンコが、日本だけで繁栄している理由の第一は、手軽な賭博ということだ。日本は、建て前の国であるから、世論はどんな賭博行動に対しても厳しく反対している。そのためカジノはないし、スポーツのトトカルチョもない。そこで多くの人は、自ら賭博のチャンスをつくり出し、賭けゴルフ、賭け碁、賭け麻雀を密かにやっている。時に、スポーツ界や芸能界の大物が、大型賭博で逮捕される。 パチンコの景品の90%は、現金に交換されている。パチンコは表面的には、景品をとるゲームであるが実質的には、賭博だ。日本では、建て前を守っているために賭博の供給力が不足しているので、好きな人はパチンコに熱中している。 公安当局は、パチンコの賭博性が高まらないように、監視している。あまりにも賭博性の高いゲーム機は許可されない。当局は、パチンコホールが許認可の条件を逸脱した経営を続けているときには、現金交換を取り締まるという脅しをかけて是正させることもできる。 パチンコの中心的な客層は、一時は中年のサラリーマンや年金生活者だった。最近では、ラスベガスの一流カジノ場のような豪華な大ホールが続々と建設され、若い女性ファンが急増している。東京の中心部には、とくに豪華なホールがある。 パチンコの歴史は古く、大正時代の後半から、露天商が、シンプルなパチンコ台で、子供相手に商売していた。パチンコ台は、町の発明家が考え出し、ほうぼうの町の発明家が改良を加えてきた。 金沢の竹内、岐阜の正村、桐生の清水等の各氏が、画期的な発明をした人々だ。何れも、故人になっているが、エジソンのような発明狂だった。正村さんは、釘をブロックにうつ有名な正村ゲージの開発者である。彼は、岐阜の貧しい農家の出身だった。 現在では、パチンコ台には、工場で自動装置によって大量生産されている。パチンコ台には、早くから半導体が組み込まれていた。パチンコ台は、特許の固まりのようなものだ。パチンコ機械製造業では、開発競争が激しく、メーカーの栄枯盛衰がある。現在は平和工業がトップメーカーであり、株式を上場している。 パチンコ店の60%以上は、在日韓国人、朝鮮人によって経営され、10%位が在日華僑だ。彼らは、どんなに優れた頭脳をもっていても、かつては中央官庁や、一流企業には就職できなかったので、この道を選び、見事に成功した。現在では、一流企業の参入が目立っている。『日本を知る105章』1:団体旅行:鶴見俊輔
2017.06.19
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図書館で『日本を知る105章』という本を、手にしたのです。全篇にわたって、英文、日本文、画像がセットになった構成であるが・・・何と言っても、日本文の書き手が、荒俣宏、佐高信、橋本治、鶴見俊輔等、蒼々たるメンバーで、かなり読ませるわけです。英語力アップにつながれば、おつりのようなものでおます♪【日本を知る105章】コロナ・ブックス編集部、平凡社、2001年刊<「MARC」データベース>より生け花、法隆寺、わび・さび、能、マンガ、忠臣蔵など105のキーワードを、日本を代表する41人の作家・文化人が簡潔明瞭に解説。全文英語訳付。95年刊「日本を知る101章」に、新たに4章を加えたもの。<読む前の大使寸評>全篇にわたって、英文、日本文、画像がセットになった構成であるが・・・何と言っても、日本文の書き手が、荒俣宏、佐高信、橋本治、鶴見俊輔等、蒼々たるメンバーで、かなり読ませるわけです。英語力アップにつながれば、おつりのようなものでおます♪amazon日本を知る105章昨今は中国人団体客の急増で、日本の観光産業は彼らの振る舞いに往生こいているが・・・19世紀の団体旅行を、見てみましょう。p115<団体旅行:鶴見俊輔> ヨーロッパの富は、19世紀に団体旅行の習慣をうみだした。これを商売として組織したのはイギリスのトマス・クックである。1841年6月5日、クックは彼の属している禁酒運動デモのために、人類の歴史上はじめて団体列車を予約することを思いつき、それまでの黒檀細工師から転じて、旅行代理店をひらき、1867年、パリの万国博覧会のときには代理店のチェーンをとおして2万人の見物人をおくりこんだ。この風俗は20世紀にはいって欧米大衆文化の特色の一つとなったとフラン人アンドレ・シーグフリードはいう。 団体旅行は日本にも入ってきて、1960年代以後、日本が経済大国になってから国内だけでなく海外への団体旅行がさかんになった。1991年度の日本人海外旅行者は1100万人を超え、農協、国会議員、市会議員、近所の主婦たちなどさまざまのパック旅行が旅行代理店をとおして促進されている。 それぞれの旅行グループは日本人だけからなり、日本語をはなしながら、日本の現代の常識をとおして風景を見る。いわば日本の国のカプセルの内部にあって、外を見ていることになる。 大国日本のカプセルに入ったままの旅行ではなく、単独旅行者として海外を見た岐部ペトロ、ジョン万次郎、ジョセフ彦、河口慧海、牧逸馬とはちがう流儀の旅である。 日本人の団体旅行には、トマス・クックの影響から自由な系譜がある。ひとつは、江戸時代の富士講、伊勢参りなどの講中の団体旅行である。もうひとつは明治なかばから、教育熱心な小学校、中学校の教師のはじめた遠足と修学旅行である。早くも1888年8月21日に、文部省は北海道の師範学校に1ヵ年60日以内として修学旅行をおこなうようにという訓令を出した。 1924年5月15日から23日にかけて盛岡農学校のおこなった修学旅行は、故郷岩手の農村をよくするために北海道から何を学ぶことができるかという切実な問題をかかげてなされた。このことを書いた教師宮沢賢治の「修学旅行復命書」は、彼の全集の中でひとつの重要な位置を占める。 1871年に右大臣岩倉具視を全権として欧米におくられた視察団は、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文をふくみ、政府首脳を半分に割るほどの重大かつ大規模の人材を海外におくったもので、新政府にとっての冒険だった。これほどの海外視察団派遣は、世界の歴史の中でも珍しいもので、ロシアのピョートル大帝一行の西欧視察団にわずかに類例を認めることができる。このことが貧しい新政府にひきおこした不協和音は、やがて西南戦争にまで尾をひく。 しかし、こうした不協和音をうんだというものの、政府首脳がみずからを二つに分かち、残留部分に信頼を託したということは、十分にむくいられた。講中も修学旅行も岩倉視察団も、個々の事物を見て学ぶという古くから日本人のなれている考え方に由来する。
2017.06.18
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・南方マンダラ・日本を知る105章・地平線の彼方から・ぼくがいま、死について思うこと<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【南方マンダラ】南方熊楠, 中沢新一著、河出書房新社、1991年刊<商品の説明>より世紀を超えてなお知の巨大な風貌をとどめる南方熊楠。日本人の可能性の極限を拓いた巨人の中心思想=南方マンダラを解き明かす。中沢新一の書き下ろし解題を手がかりに熊楠の奥深い森に分け入る。<読む前の大使寸評>ぱらぱとめくると、自然科学や民俗学や宗教など、まるで万華鏡のような有様で・・・知の巨人の秘密の一端でも見えるかも♪<図書館予約:(5/12予約、6/16受取)>amazon南方マンダラ************************************************************【日本を知る105章】コロナ・ブックス編集部、平凡社、2001年刊<「MARC」データベース>より生け花、法隆寺、わび・さび、能、マンガ、忠臣蔵など105のキーワードを、日本を代表する41人の作家・文化人が簡潔明瞭に解説。全文英語訳付。95年刊「日本を知る101章」に、新たに4章を加えたもの。<読む前の大使寸評>全篇にわたって、英文、日本文、画像がセットになった構成であるが・・・何と言っても、日本文の書き手が、荒俣宏、佐高信、橋本治、鶴見俊輔等、蒼々たるメンバーで、かなり読ませるわけです。英語力アップにつながれば、おつりのようなものでおます♪amazon日本を知る105章************************************************************【地平線の彼方から】野町和嘉著、クレヴィス、2015年刊<「BOOK」データベース>よりサハラ砂漠からアンデス高地まで、地球上の荒々しい自然の中で生き抜く人々に魅せられた記録。40余年に渡るドキュメントより代表作から最新作まで、写真96年、エッセイ28編収。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、砂漠や駱駝の写真が見えて、大使のツボがうずくのです。写真家の著者の紀行文もなかなかのようです。rakuten地平線の彼方から************************************************************【ぼくがいま、死について思うこと】椎名誠著、新潮社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりぼくはあといくつこういう場に立ち合えるのだろうか。そしていつ自分がこういう場でみんなにおくられるのだろうか。それは、わからない。ぼくにも、そして誰にもわからない。<読む前の大使寸評>この本は、先日読んだ『孫物語』でシーナが言及していたので、即、図書館に借出し予約していたものです。<図書館予約:(6/14予約、6/18受取)>amazonぼくがいま、死について思うこと************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き223
2017.06.18
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図書館で『日本建築は特異なのか』という本を、手にしたのです。韓屋に惹かれる大使は、先日『韓国現代住居学』という本を読んだところだが・・・その勢いで、この本を借りたのです。日本建築の何が独自なのかを考えてみたいということでんな♪【日本建築は特異なのか】歴史民族博物館編、歴史民族博物館、2009年刊<企画趣旨>より 神社・寺院、御殿・住宅、城郭・民家・茶室などによる日本の建築文化は、縄文・弥生にはじまり、古代・中世・近世と日本列島内で受け継がれてきたもので、日本独自であり、日本固有のものであると考えられています。しかし果たして本当にそうなのでしょうか? 東アジアに視野を広げてみると、中国や韓国の建築と日本建築はよく似た部分も多く、日本建築とは何が独自で何が固有のものなのか案外わからなくなってしまいます。このような観点にたって、あえて「特異」という言葉を使って日本の建築文化を考えようというのがこの企画展示の試みです。 中国建築、韓国建築と比較して日本建築の何が独自なのかをまず考え、そこから東アジア建築の共通性、普遍性という問題を考えようとしています。<読む前の大使寸評>韓屋に惹かれる大使は、先日『韓国現代住居学』という本を読んだところだが・・・その勢いで、この本を借りたのです。日本建築の何が独自なのかを考えてみたいということでんな♪rekihaku日本建築は特異なのか中国や韓国では、日本と比較して職人の序列が低いが・・・その訳を知りたいのである。ここで日韓の建築生産体制を、見てみましょう。p86~94<第4部 建築技術と生産組織><日本の建築生産体制> 古代の律令制においては、造宮省、木工寮、造寺司、修理職という役所が建設を担当しており、ここに建築工事を統括する技術系官僚が所属していて、彼らが実際の現場で建築工事を実施していた。平安期になると、修理職が主となり、また大寺院では寺内に造寺所、修理所をもつようになって独自の建設活動が可能になった。 古代末ころから、工匠の組織は小規模な家族的な徒弟性で維持されていたらしいことが確認できる。大工道具は個人所有であっただろう。このような小規模経営体での経営は、現在でも続いており、おそらく家職として工匠の再生産、技術の伝達が行われたのであろう。建設現場の大小によって、毎回小経営体が編成されなおして仕事が進められたのである。また、12世紀から棟上に際して木の札を棟木に打ちつけるようになる。施主、事務担当者に並んで工匠名が記されるのが普通であり、工匠は建物を作ることに相応の社会的な評価がなされていた。 中世になると、中央の公的な造営組織は衰弱し、多くの工匠は有力社寺など安定的に仕事が供給される組織に属することになる。大きな社寺では職人が「座」という組織を作って、仕事の独占権を獲得した。座は小規模な経営体を率いる工匠が構成する自治的な結合体である。(中略) 日本における工匠の家族的小経営体は大工技術の進展に大きな役割を果たしたと思われる。13世紀ころから建築の施工精度が徐々に高くなり、中国、朝鮮半島の建築との異質性が目立つようになるが、おそらく、家族的な徒弟性で技術の伝承を図ることで、施工精度の上昇、維持が可能になったと推定される。<韓国の建築生産体制> 高麗王朝(918~1392)は中央集権体制を完成した王朝であった。宮殿や官庁を建てるのは、工曹という土木や建築を主管する中央の官署が担当し、工曹のなかには優秀な匠人たちが属していた。この制度は朝鮮王朝(1392~1910)に受け継がれた。官庁では少年たちを選んで技術を教え、18歳になると1人前の職人として認め、工匠案という名簿に名前を入れた。名前を入れられた匠人は、1年の半分は国の建築工事に従事する義務を負い、残りの期間は自由に民間の仕事をした。国の建築工事の経歴を積み、功労が認められると武官系の官吏に任用された。工匠案は地方でも施行したが、その数は少なかった。 朝鮮王朝は儒教を重んじ、仏教を抑えたので、仏教寺院では匠人を求めるのが非常に難しかった。そのために僧侶の一部が自ら技術を習って寺院の工事を行った。僧侶のなかには優れた技術をもった大工や彩色匠が現れた。 15世紀ころ、大工の頭は「大木」と呼ばれた。1447年のソウルの南大門の修理の際に、「大木」は正五品の武官であった。また、石工の頭である「都石手」も同じ官職をもった。 しかし17世紀に入ると匠人の待遇が悪くなり、工匠案による管理体制も本来の形では運営されなくなった。匠人たちは官庁を離れ、民間の営業場で働くようになった。18世紀になるとほとんどの官庁の建築工事は民間匠人によって行われるように変わった。その結果、経歴を積んだ匠人に与えられていた官職制度も消えてしまった。それとともに大工の頭は「大木」の代わりに「邊首(片手)」、または「都邊首」と呼称が変わった。(中略) 邊首は15世紀の大木のように工事の全体を統率できるわけではなく、自分の職種や特定の作業部分に限って責任をもった。18世紀以後の建物が全体の統一性より細部が目立つように見えるのは、このような匠人組織の変化と関係があるように思われる。<韓国と日本の大工道具比較> 木造建築を実際に作るのに用いる大工道具も、東アジアの中でかなりの違いがある。中国と韓国はある程度共通しているものがあり、日本とはかなり違っているように見える。ここではあまり知られていない韓国の大工道具を日本の大工道具と比較してみたい。 まずわかりやすいのは鋸(のこぎり)である。韓国では比較的最近まで枠によって鋸身を引っ張る枠鋸が主流であったという。日本においても中世には、中国伝来の製材用の大型の枠鋸を使っていたが、近世には製材用の縦挽き鋸は前挽大鋸という刃幅広の鋸に取って代わられてしまった。(中略) 台鉋(だいかんな)は使い方が決定的に違う。韓国では押して使うのである。力が入りやすいように両脇に押し棒がついていたり、二人でも挽けるようにさらに前に引き棒がついていたりする。日本の場合は手前に挽くように発達し、1人挽きで繊細に薄い長い鉋屑が出るように刃を調整する。ウン 東アジアの大工道具の比較などは「竹中大工道具館の企画展」でも展示がありました。『日本建築は特異なのか』1:「はじめに」『日本建築は特異なのか』2:「第2章 中国・韓国・日本の住宅比較」『日本建築は特異なのか』3:儒教の施設、神社とは何か竹中大工道具館の企画展R1
2017.06.18
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図書館で『そうはいかない』という本を、手にしたのです。なんか既視感のある本であるが中身には覚えがないので、挿絵もきれいだし、まあいいかと借りたのです♪帰って調べたら、2ヶ月くらい前に借りていました、イカン イカン・・・で、この記事をその2としています。【そうはいかない】佐野洋子、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりこの本は、見事な「変愛小説集」だ。といってもフィクションとエッセーの間を行ったり来たりする不思議な作品ぞろい。これを物語エッセーと名づけることにしよう。母と息子、母親と私、見栄っぱりの女友だち、離婚した美女、イタリアの女たらし、ニューヨークの日本人夫婦…自らの周りにいる愛すべき変人奇人たちを、独特の文体で活写した傑作33篇。イラストレーションも多数収録。<読む前の大使寸評>なんか既視感のある本であるが中身には覚えがないので、挿絵もきれいだし、まあいいかと借りたのです♪rakutenそうはいかない洋子さんの息子を、見てみましょう。p130~134 <ポルシェ・マークⅱ> 息子は起き上がった。水玉のブリーフの上にTシャツを着ているだけである。煙草に火をつけて壁に寄りかかり、「母さん、母さんちの駐車場貸してくれない」と言った。 1時間後、私は友達の家のテーブルに突っ伏して「あーあーあー、もう次から次へ、胃に穴が開く」とうめいていた。 「健、昨日おれんところに電話してきたよ。ポルシェだろう」 「やめさせてよ、お願い。税関の紙がなくて、乗れない車なんだってよ」 「だって十万円だろ、安いじゃない。ちゃんとすれば、5、600万になるよ」 「だって、ナンバーが取れないのよ、そんな車どうするのよ。埼玉のどこだか知らないところからどうやって持ってくるのよ。自分でトラックで運ぶって言うのよ」 「そりゃ無理だ。素人じゃ運べないよ」 「持ってきたってただの鉄のかたまりだよ。素性がわからない車なんて、麻薬を運んできた車かもしれないじゃない」 「ハハハ、いいじゃない。どうせ日本の警察なんてどんなことでもでっちあげるよ。その疑いがちょっとでもあれば健なんてイチコロ。2,3年はムショ暮らしだよ。あいつ、人の心証悪くする名人じゃない。アハハハ」 「いや、やめないよ、ポルシェ・マークⅱだろ、1963年物だって言ってたから、これはいいよ。俺、税関の紙がない車の相談にのってくれる会社知ってたから、健に教えといた」 「なんてことするのよ。あなた、大人でしょ。だいたいあなたがあんな古いジャガーなんかに乗ってるから、健がその気になるのよ」 「いや、あのジャガー、俺、女房より可愛い。もう可愛い奴よ」 「乗っているより直しているときの方が多いじゃないの。車なんて国産の中古がいちばんいいに決まってる」 「あなたも女だねえ。いいじゃない、やらせなよ。俺、今度健といっしょに見に行ってくるよ。程度がよかったら、紙なんかなくても持っているだけでいいもの」 「どこに置いとくのよ」 「軽井沢に置いておくだけで絵になるよ」 「あーあーあー、もう気が狂ってるよ。もしナンバー取れたとしても、そんなポンコツ、乗れるようになるまでどれくらいお金がかかるのよ」 「2、300万」 「えーっ、嘘でしょう」 「ちゃんと乗れるようになったら5、600万になるよ」 「そんなものに乗る身分か。あーあー、何考えてるんだろう」 私は、もう半分泣いている。 「姉さん、何が心配なの?」 妹が、いやに冷静に言った。 「だいたいそんな車と関わること自体が変なのよ」 「放っとけばいいじゃない。どうせお金なんかないんだから、どうにもならないわよ。めんどくさくなって、途中であきらめるに決まってるわよ」 「いや、俺はあきらめないと思うね」 「あーあーあー」 「姉さん、はじめから一切無視して取り合わなければいいのよ」 「そんなこと言ったって」 「放っときなさい」 「ほんとうに持ってきちゃったらどうしよう。ねえ、お願いだからやめさせて。あなたがやめとけって言えば聞くかもしれない」 「いやだね。俺だってマークⅱだったら欲しいもん」 息子の部屋の車雑誌の山が目に浮かんだ。水玉のブリーフにTシャツで、目をぎらつかせていた息子が不気味だった。息子は生まれたときから強情のかたまりだったのだ。 「もういい、あなたには頼まない。うちの夫に反対させる」 「ねえ、健に言ってよ。あのへんな車、まだあきらめないでここに持ってくるって言ってるのよ」 「マークⅱのこと?」 私の新しい夫は、なんだか興味津々の様子なのだ。注記:楽天はギリシャ数字を受け付けないので、マークⅱとしています。ウーム 洋子さんがあーあーあーと、テーブルに突っ伏してしまうのも、わかるでぇ。『そうはいかない』1:泣かない『そうはいかない』2:タマが死んだ
2017.06.17
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図書館で『そうはいかない』という本を、手にしたのです。なんか既視感のある本であるが中身には覚えがないので、挿絵もきれいだし、まあいいかと借りたのです♪帰って調べたら、2ヶ月くらい前に借りていました、イカン イカン・・・で、この記事をその2としています。【そうはいかない】佐野洋子、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりこの本は、見事な「変愛小説集」だ。といってもフィクションとエッセーの間を行ったり来たりする不思議な作品ぞろい。これを物語エッセーと名づけることにしよう。母と息子、母親と私、見栄っぱりの女友だち、離婚した美女、イタリアの女たらし、ニューヨークの日本人夫婦…自らの周りにいる愛すべき変人奇人たちを、独特の文体で活写した傑作33篇。イラストレーションも多数収録。<読む前の大使寸評>なんか既視感のある本であるが中身には覚えがないので、挿絵もきれいだし、まあいいかと借りたのです♪rakutenそうはいかないエッセイをもう一つ、見てみましょう。p136~138 <タマが死んだ> 知らない奥さんがタマを抱いて玄関に立っていた。タマは口から黄色い汁を出して、鼻のまわりには黒いものがこびりついていた。 「これ、お宅の猫ですか? 家のガレージの隅に昨日からいたんだけど、何だか様子が変で、水をやっても飲まないんですよ。全然動かないし」 「ああ、ああ」と、私は言った。 とうとう死ぬ、今日中に死ぬ。この人、死にそうな猫をこんなふうに抱けて勇気があるなあ。死にそうなものって怖いじゃん。 「ああ、そうです、そうです。家のです。ありがとうございました。昨夜帰ってこなかったので、どうしたのかなあと思っていたんです」 私はタマを受け取った。タマはすごく軽くて、毛のすぐ下にごりごりした背骨が触った。タマは狐のえりまきみたいにダランとして、私の腕の中で、「どうするつもりもありません。今日中に死にますからね」というふうにじっとしていた。手と足の白いところが、汚れた足袋みたいだった。 「本当にありがとうございます」 私は、見知らぬ死にそうな猫なんか抱いたりできないかもしれない。勇気のある人だなあ、とサンダルつっかけた普通のおばさんみたいな奥さんに感心してしまった。私にタマを渡すと、奥さんは、やっぱり汚いものにさわったあとのように両手をしごいている。そして、あわてたようにタマのひたいをなでて、「かわいそうに」と言った。 私は、二階に上がってバスタオルでタマを包んだ。バスタオルの上からでもゴリゴリした背骨がわかった。タマは、帽子をかぶった人形のように顔だけをタオルから出していた。目はとおいところも近いところも見ていないようだった。 タマが急に私を見た。突然私が、私だけが見えだしたみたいだった。タマはまばたきもあいないで、じーっと私を見た。やだ、見てる、と思って、私もじーっとタマを見た。目をそらしたら、16年も一緒に住んでいた全てを捨てるような気がした。私とタマはじーっと見つめ合った。胸がどきどきした。タマはいつまでも私を見ていた。私もいつまでもタマを見ていた。やだ、と思ったの、タマにバレなかったかしら。バレないように一所懸命タマを見た。 しばらくすると、タマは目をそらした。また、何も見ていない顔になった。息が浅くて、すーっとすぐにも止まりそうだった。 すごいなあ。16年だものなあ。長かったなあ。タマは16年も毎日私の家にいたんだ。私が旅行して家に帰らなかった日も。私が留守にした日を全部足したら1年ぐらい、いやもっとあるかもしれない。友達の家に泊まったり、法事で実家に帰ったりも入れたらもっとかもしれない。その間も、この猫ずっとひとりで家にいたんだ。息子なんか、最近5,6年はいつ家にいるのかわからないぐらいなのに。これはあいつの猫だったのに。夫はこの猫とたぶん5年くらいしか一緒にいなかった。離婚する時、タマのことなんか考えもしなかったろう。夫がいなくなっても、タマはずっと毎日この家にいたんだ。 この家を本当に自分の家だと思っていたのはタマだけだったんだ。16年間、1日も旅行になんか行かないで、夜中にオートバイで駆け回ったり、飲み歩いたりもしないで、すごく真面目だったんだ。 夜中にタマは死んでいた。『そうはいかない』1:泣かない
2017.06.17
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図書館で『小泉武夫のほんとうに美味い話』という本を、手にしたのです。おお 小泉さんの料理本やないけ♪ なんか既視感のある本であるが再読するのもいいではないかと借りたのです(やはり、5ヶ月くらい前に借りていました)小泉さんの料理本について何冊か読んだが、発酵食品を愛する融通無碍なテイストには・・・大使は絶大に信頼しているのでおます。【小泉武夫のほんとうに美味い話】小泉武夫著、海竜社、2012年刊<「BOOK」データベース>より日本経済新聞夕刊に大好評連載中の「食あれば楽あり」より。よりすぐりのあの味この味101選。<読む前の大使寸評>小泉さんの料理本について何冊か読んだが、発酵食品を愛する融通無碍なテイストには・・・大使は絶大に信頼しているのでおます。rakuten小泉武夫のほんとうに美味い話大使の大好物でもあるジンギスカン料理を、見てみましょう。p142~143<第61話 ジンギスカン鍋> モンゴルや内蒙古行くと羊をよく食べる。その食べ方の大半は湯で茹でたものをそのまま食べるものだが、なかには羊血や羊脂を腸に詰めて、それを茹でて出すこともある。この腸詰めはなかなか手ごわい相手で、食べ慣れていない旅行者が知ったかぶりをして食べ過ぎると、苦痛を呼ぶことがあるから注意が必要だ。 その羊肉の食べ方で、最も日本人が好むのは何と言ってもジンギスカン(成吉思汗)料理であろう。金串に刺したり金網の上にのせたりした薄切り羊肉を、火で炙ってつけ焼きして食べる中国「カオヤンロウ」というのがジンギスカン料理の代名詞のようなものであるが、実は本場モンゴルや内蒙古には、このような「ジンギスカン料理」と呼ばれるものはない。 鉄桟の付いた鍋に、味付けした羊肉をのせ、その上で焼いて食べる日本人好みの料理ももちろんモンゴルにはないが、この食べ方はなかなか日本人の嗜好に合っていて「ジンギスカンやるか」となると大概はこの方法となる。なかでも北の大地北海道は、ジンギスカン鍋の一大文化圏で、どんな小さな町でさえもジンギスカンを食べさせる店があり、また名を馳せたチェーン店もあちこちにある。 旭川の友人を訪ねても、帯広の知人のところでも、上湧別の農家に立ち寄っても、「先生、ジンギスカンやっか」とくるので、我が輩も「やっぺ」とうれしく応えるとすぐに準備にとりかかる。ジンギスカンの好きな人は、常に冷蔵庫に羊肉をストックしておくので、街まで肉を買いに行く、なんてことは必要なく、あっという間に楽しい宴が始められるのだ。 先日も旭川の郊外に住む友人宅でジンギスカンを楽しんできた。 暖かい時期だと戸外でやるのが普通だが、今は冬なので彼の自慢のダイニング・キッチンでやった。テーブルの真ん中に、北海道式といってよろしいジンギスカン鍋が据えられて、その上にタレに漬け込んでおいた羊肉をのせ、あとはジージーと焼きながら次から次にその肉を口いっぱいに放り込んでいくのである。 リンゴやニンニクをたっぷり使った、奥さん自慢の秘伝のタレ(だいたいどの家でもこう言う)はさすがで、肉が美味しく、いくらでも食べることができた。肉をかむと、チュルルとうま汁が出てきて、それがタレの甘辛みとからみ合い、脂肪のコクも押し上げてきて、鼻からは、微かに羊肉の匂いがしてきて、我が輩はたまらず「ウメ~ェ」と羊の鳴き声をまねた。『小泉武夫のほんとうに美味い話』1:第29話 塩辛飯『小泉武夫のほんとうに美味い話』2:第20話 ぶっかけ飯『小泉武夫のほんとうに美味い話』3:第32話 夏の発酵茶漬け
2017.06.17
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図書館で『小泉武夫のほんとうに美味い話』という本を、手にしたのです。おお 小泉さんの料理本やないけ♪ なんか既視感のある本であるが再読するのもいいではないかと借りたのです(やはり、5ヶ月くらい前に借りていました)小泉さんの料理本について何冊か読んだが、発酵食品を愛する融通無碍なテイストには・・・大使は絶大に信頼しているのでおます。【小泉武夫のほんとうに美味い話】小泉武夫著、海竜社、2012年刊<「BOOK」データベース>より日本経済新聞夕刊に大好評連載中の「食あれば楽あり」より。よりすぐりのあの味この味101選。<読む前の大使寸評>小泉さんの料理本について何冊か読んだが、発酵食品を愛する融通無碍なテイストには・・・大使は絶大に信頼しているのでおます。rakuten小泉武夫のほんとうに美味い話発酵食品の権威・小泉さんお奨めの一品を、見てみましょう。p82~83<第32話 夏の発酵茶漬け> 我が輩には、こんな猛烈な暑さもなんのその、これを乗り切る食法がいくつもある。暑いのだから冷たいものを、なんて軟派な考えは捨てて、逆転の発想で熱いものをしっかりと食べる硬派な食事もその一つだ。 例えば、ブタの三枚肉を入れたキムチ鍋なんてのはよく効く。鍋にぶつ切りにしたキムチをデンと入れ、そこにブタの三枚肉を入れ、グツグツと煮え立っているやつを汗タラタラ流しつつヒハーヒハーしながら食らう。体はたちまち熱地獄になるが、これがまた美味い。 火照った体に、口からは、かなりのピリ辛が襲ってくるので汗は滝のように滴る。鍋に残った汁にはうどんを入れて煮込み、これも賞味するのだ。いいだしが出ているのでうどんの美味なこと。すっかり食べてから、暑い屋外に出てみると、何だかとても爽やかな感覚になれるから不思議だ。 夏に熱いものといえば、我が輩得意の「発酵茶漬け」ってなものもある。丼に7分目ほど盛った熱い飯に、さまざまな発酵食品をのせ、上から熱々の湯か茶をぶっかけて食らうものである。これも俺にはよく効く。たくあんの古漬けや菜っ葉の漬け物もよし、カツオの酒盗もよろしいし、焼きくさやもいいし、納豆もよい。しかし、何と言っても食欲をムラムラと勃隆させるのは糠味噌に漬けた魚である。その代表が「へしこ」だ。 「へしこ」とは、サバやイワシ、ニシンなどの魚に塩をしてから糠味噌に漬け込んで発酵させたもの。へしこに付いている糠味噌を手でざっとぬぐいとって、それをさっと炙り、その肉身をほぐしてから飯にのせ、上から熱湯をかけて食うのである。 すると、まず鼻孔から、あの郷愁を伴った田園風景を思わせるほど香しい発酵の匂いが入ってくる。そして口でかみ始めると、飯の耽美なほどの上品な甘みに、発酵によって大いに熟れた野武士のような力強いうまみと酸味が魚からジュルリジュルリと出てきてそこに被さってくる。その香味、いたく我が輩の食の欲を起こさせるのである。とにかく夏の食欲の無い時、このような丼飯はあっという間に胃袋にすっ飛んで入っていってしまう。 石川県美川町のフグの卵巣の糠憑けを取り寄せて、それを熱い飯の上に振りまき、そこに熱湯をかぶらせて食らうなどは、まさに一大堪能劇場で、ギラつく暑い太陽なんていっぺんに吹っ飛ばすことができる。暑さに負けず、猛暑にくたばらず、発酵仮面は今日も行く。ウン サバの「へしこ」を食べたことはあるのだが、「へしこの茶漬け」は未体験なので、こんどぜひトライしようと思うのだ♪『小泉武夫のほんとうに美味い話』1:第29話 塩辛飯『小泉武夫のほんとうに美味い話』2:第20話 ぶっかけ飯
2017.06.17
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図書館で『日本建築は特異なのか』という本を、手にしたのです。韓屋に惹かれる大使は、先日『韓国現代住居学』という本を読んだところだが・・・その勢いで、この本を借りたのです。日本建築の何が独自なのかを考えてみたいということでんな♪【日本建築は特異なのか】歴史民族博物館編、歴史民族博物館、2009年刊<企画趣旨>より 神社・寺院、御殿・住宅、城郭・民家・茶室などによる日本の建築文化は、縄文・弥生にはじまり、古代・中世・近世と日本列島内で受け継がれてきたもので、日本独自であり、日本固有のものであると考えられています。しかし果たして本当にそうなのでしょうか? 東アジアに視野を広げてみると、中国や韓国の建築と日本建築はよく似た部分も多く、日本建築とは何が独自で何が固有のものなのか案外わからなくなってしまいます。このような観点にたって、あえて「特異」という言葉を使って日本の建築文化を考えようというのがこの企画展示の試みです。 中国建築、韓国建築と比較して日本建築の何が独自なのかをまず考え、そこから東アジア建築の共通性、普遍性という問題を考えようとしています。<読む前の大使寸評>韓屋に惹かれる大使は、先日『韓国現代住居学』という本を読んだところだが・・・その勢いで、この本を借りたのです。日本建築の何が独自なのかを考えてみたいということでんな♪rekihaku日本建築は特異なのか北京の四合院東アジアにおける日本建築の立ち位置が「はじめに」に包括的に述べられているので、見てみましょう。p6~8<はじめに> 東アジアにおける伝統的な建築という観点から見て、中国・韓国・日本の建築の基本的な相違点を見ておく必要があるだろう。 まず宮殿である。東アジアでは王権が尊重されてきた。中国でも、また韓国でも宮殿は古代以来、近世にいたるまで最も格の高い最上位の建築として受け継がれてきた。今でも宮殿建築はよく残されており、中国紫禁城や韓国景福宮のように用途としては本来のものではないものの、建物は尊重されて使われているというべきであろう。 ところが日本では、古代に中国から宮殿が導入されたが、古代のある時期以降は貴族の住宅が宮殿の役割を果たすようになり、その建築様式も本来の形は失われてしまった。京都御所は建築様式としては宮殿というより住宅建築であり、中国や韓国のように最上位の建築としての意味はなくなってしまった。 また王権の所在場所としての宮殿ではないが、やはり古代の国家を象徴する装置として祖先を祀る宋廟や、土地の神と穀物の神を祀る社ショクが、中国では北京で、また韓国でもソウルで、宮殿と並ぶ重要な施設として都城の一角を占めているが、日本には全くない。 次に宗教建築である。仏教建築は古代中国で栄え、朝鮮半島を経て日本に伝えられた。以来日本においては仏教建築が最も格の高い建築として受け継がれてきた。中国でも、また韓国でも仏教建築はそれぞれの地域で重要な建築として建てられ続けてきた。この点では三つの地域は共通といえるだろう。 ただ日本には仏教建築と並んで神社建築がある。伊勢神宮に象徴されるこの建築形式は、仏教建築伝来以前の古い形式を残しているとされ、その独自性が強調される。実際には仏教建築の影響を受けてかなり変化しているのであるが、中国・韓国から見ると神社建築はかなり異質な建築に見えるようである。 最後に住宅建築である。住宅は支配者層と一般庶民とでは、その規模や形が大きく違っている。支配者層の住宅では、中国では早い時代から「四合院」という左右対称で中庭を囲んだ住宅形式が支配的であった。(中略)長安でも北京でも、他の主要都市でも四合院が用いられている。 日本古代の寝殿造はこの四合院の影響下に成立したとも考えられているが、早くから左右対称の構成はくずれている。寝殿造が変化してできた書院造という近世の支配者層武士の住宅は、「座敷飾り」という独自の身分関係を象徴する装置を発展させている。 韓国の貴族住宅も中国の影響から形成されたと考えられるが、朝鮮王朝時代の「両班」という階層のための両班住宅は、左右対称ではなく、内棟と舎廊棟という、独自の空間構成を成立させている。 庶民住宅は、日本でいう竪穴住居や、高床住居に対応する住居形式が、時代は違うもののそれぞれの地域で受け継がれている。中国の場合、庶民住宅でも左右対称の中庭型の形式が受け継がれているのに対して、韓国では左右対称ではなく、また必ずしも中庭型ではないようである。韓国で庶民住宅から普及したとされるオンドルという床暖房が、庶民住宅も含めて韓国住宅の特徴として強調されている。 日本の庶民住宅の場合、17世紀の「民家」という様式の成立が大きな画期であり、農家の場合、主屋である一つの大きな棟に住宅機能がすべてまとまってしまっていることが大きな特徴である。複数の比較的規模の小さな建物で構成される中国や韓国の住宅建築とはかなり異なっているというべきであろう。【韓国関連記事】『韓国現代住居学』1『韓国現代住居学』2『韓国の住宅』【日本関連記事】『日本人の「住まい」はどこから来たか』3『「縁側」の思想』【中国関連記事】『世界の居住文化百科』:中国のヤオトン
2017.06.16
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「エッセイ」でしょうか♪<市立図書館>・小泉武夫のほんとうに美味い話・孫物語・そうはいかない<大学図書館>・日本建築は特異なのか図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【小泉武夫のほんとうに美味い話】小泉武夫著、海竜社、2012年刊<「BOOK」データベース>より日本経済新聞夕刊に大好評連載中の「食あれば楽あり」より。よりすぐりのあの味この味101選。<読む前の大使寸評>小泉さんの料理本について何冊か読んだが、発酵食品を愛する融通無碍なテイストには・・・大使は絶大に信頼しているのでおます。rakuten小泉武夫のほんとうに美味い話************************************************************【孫物語】椎名誠著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「岳物語」が戻ってきた!?今度は「岳」の子、孫の話。3匹の男女男は、本好き、おませな娘、活動派。イクジイ・シーナの奮闘スーパーエッセイ。<読む前の大使寸評>おお シーナがじいちゃんの役回りしている物語ではないか♪イクジイ・シーナの奮闘はどんなかな。rakuten孫物語************************************************************【そうはいかない】佐野洋子、小学館、2010年刊<「BOOK」データベース>よりこの本は、見事な「変愛小説集」だ。といってもフィクションとエッセーの間を行ったり来たりする不思議な作品ぞろい。これを物語エッセーと名づけることにしよう。母と息子、母親と私、見栄っぱりの女友だち、離婚した美女、イタリアの女たらし、ニューヨークの日本人夫婦…自らの周りにいる愛すべき変人奇人たちを、独特の文体で活写した傑作33篇。イラストレーションも多数収録。<読む前の大使寸評>なんか既視感のある本であるが中身には覚えがないので、挿絵もきれいだし、まあいいかと借りたのです♪rakutenそうはいかない************************************************************【日本建築は特異なのか】歴史民族博物館編、歴史民族博物館、2009年刊<企画趣旨>より 神社・寺院、御殿・住宅、城郭・民家・茶室などによる日本の建築文化は、縄文・弥生にはじまり、古代・中世・近世と日本列島内で受け継がれてきたもので、日本独自であり、日本固有のものであると考えられています。しかし果たして本当にそうなのでしょうか? 東アジアに視野を広げてみると、中国や韓国の建築と日本建築はよく似た部分も多く、日本建築とは何が独自で何が固有のものなのか案外わからなくなってしまいます。このような観点にたって、あえて「特異」という言葉を使って日本の建築文化を考えようというのがこの企画展示の試みです。 中国建築、韓国建築と比較して日本建築の何が独自なのかをまず考え、そこから東アジア建築の共通性、普遍性という問題を考えようとしています。<読む前の大使寸評>韓屋に惹かれる大使は、先日『韓国現代住居学』という本を読んだところだが・・・その勢いで、この本を借りたのです。日本建築の何が独自なのかを考えてみたいということでんな♪rekihaku日本建築は特異なのか************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き222
2017.06.16
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図書館に予約していた『ブラック オア ホワイト』という本を、待つこと3日でゲットしたのです。浅田さんと言えば、中国を見る目の確かさに注目しているのだが・・・浅田さんの現代小説はどんなかなと、期待して予約していたのです♪【ブラック オア ホワイト】浅田次郎著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>よりあのバブルの夜、君はどんな夢を見ていた?経済の最前線で夢現の境を見失ったエリート商社マンの告解がいま始まる。近代日本の実像に迫る渾身の現代小説!<読む前の大使寸評>浅田さんと言えば、中国を見る目の確かさに注目しているのだが・・・浅田さんの現代小説はどんなかなと、期待して予約していたのです♪<図書館予約:(6/08予約、6/11受取)>rakutenブラック オア ホワイト冒頭の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p5~9 ひとりなのか、と私は訊ねた。 「気楽なものさ」 質問はあまりに漠然としており、都築君の返事も答えにはなっていなかった。それ以上の質問をすれば、言わでものことを言わせてしまうような気がして、私は口を噤んだ。 豊かな髪はさすがに白くなったが、身にまとった超然たる空気は変わっていない。痩せて背の高い体型も、昔のままである。洒脱に着こなした麻のシャツとジーンズは、とうていやもめ暮らしには見えなかった。 「あのころは、毎晩ぐっすり眠れた」 眠り薬を弄びながら、都築君はいくらか悔悟するような口ぶりで言った。 話の舳先は唐突に回頭した。30年近くも前の、好景気に浮かれ上がっていた時代の出来事である。 まったく、学生時代とどこも変わっていない。いつも超然としていて、相手の立場や気持をこれっぽっちも忖度しないのだが、そうした彼のふるまいには邪気や功利がかけらも窺えなかったから、疎んじられることもなかった。「都築君」という呼び方は、彼に対する敬意などではなく、それ自体が渾名だった。 いや、もしかしたら、階級社会を脱しきれぬ曖昧な民主主義の中で育った私たちは、知らず知らず彼を貴族として礼遇していたのかもしれない。 ソファに沈みこみ、広い壁に不釣合なくらい小さいマティスに目を向けて、都築君は勝手に語り始めた。 「そう。あのころは、どこでもいつでも、ぐっすりと眠れた」 それから、長い脚を汲みかえ、「むろん、誰とでも」と言って、優雅な笑い方をした。<第1夜 スイスの湖畔で見た白い夢> そのホテルは、いわゆるベル・エポックの典型だった。 ヨーロッパでは珍しくもないが、何から何まで百年前のまま、という頑固さが気に入った。 廊下もゲストルームもむやみに広くて、近代的な改良は何ひとつ施されていなかった。だからかえって、30代なかばの生意気ざかりの僕でも、不満の抱きようがなかったんだ。 バルコニーには真赤なゼラニウムが咲き誇っていてレマン湖だかチューリヒ湖だかが手に取るように望まれた。湖岸は秋の色に染まっていたと思う。 19世紀の末か20世紀初めの一瞬の平和な時代に、贅の限りを尽くして造られた代物だったのだろう。機能的にも美術的にも完成しているから改良の必要はないと、信じられているふうがあった。(中略) 冷蔵庫もない。飲み物が欲しいときは、ルーム・サービスなどではなく、いちいちボタンを押して執事(バトラー)を呼ぶんだ。早朝だろうが夜中だろうが、1分と待たずにドアがノックされた。 それがまた、テール・コートにボウ・タイを締め、白い口髭を立てた。まったく19世紀にしかいるはずのないバトラーだった。何を注文しようと、彼は「」の一言で去り、僕の思い通りのものが、必ず彼自身の手で届けられた。 ホテルに到着した晩のことだ。 ゲストルームの広さと、やたら曲線を多用したデザインになじめず、なかなか寝付けなかった。転転とするうちに、どうにも羽根枕の柔らかさが気になってきた。 そこで、バトラーを呼んだ。硬い枕がほしい、と僕は注文した。 「かしこまりました」 テール・コートの裾をさっと翻して彼は出て行った。そして僕が煙草を吸いおえぬうちに、たちまち戻ってきた。 ライオンの装飾が施された大理石のワゴンの上に、枕が二つ載っている。どうしたわけか、それぞれに黒と白のカバーがかかっていた。 バトラーは魔術師のように両手を拡げて、ひどいドイツなまりの、それでいて厳かな英語で言った。 「ブラック・オア・ホワイト?」 どうしてそんなことを訊くのだろうと思った。たかが枕なのだから、両方とも置いて行けばよさそうなものだ。だがバトラーは、まるでメイン・ディッシュでも選ばせるようにそう言った。 触れてみると、やはり柔らかな羽根枕だった。もっと硬い枕はないのか、と僕は訊ねた。 格式あるホテルでは「ノー」が禁句だ。バトラーは微笑みながら答えた。 「どうぞお試し下さいませ。ブラック・オア・ホワイト?」 意味がわからなかった。何かしら僕の知らない慣習のようなものがあるのか、それとも東洋人のわがままを肝に据えかねて、いやがらせでもしているのか、と思った。 あれこれ考えても始まらないので、「ホワイト」と答えた。古今東西、枕カバーは白が当たり前だろう。
2017.06.15
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図書館で『孫物語』という本を、手にしたのです。おお シーナがじいちゃんの役回りしている物語ではないか♪イクジイ・シーナの奮闘はどんなかな。【孫物語】椎名誠著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「岳物語」が戻ってきた!?今度は「岳」の子、孫の話。3匹の男女男は、本好き、おませな娘、活動派。イクジイ・シーナの奮闘スーパーエッセイ。<読む前の大使寸評>おお シーナがじいちゃんの役回りしている物語ではないか♪イクジイ・シーナの奮闘はどんなかな。rakuten孫物語シーナが「家族の時間」を回顧しているので、見てみましょう。p75~78<ひと時の家族の時間> ニューヨークからやってきた娘とたった1晩の、ファミリー全体の夕食の卓を囲みながら考えていたのは、やはりあちこちの国を旅しているあいだに気がついた「家族の時間」というものであった。 家族全員が顔を合わせて食事をする時間なんてあとで考えると本当にうたかたのものだったのだな、ということをぼくはだいぶ前に気づいていた。 ぼく個人の場合でいえば、世田谷の結構大きな家で生まれ、大家族のなかにいた。異母兄弟も入れて6人きょうだい、居候のおじさんと、母方の親族1人、それに父が当時は元気にしていたから、朝でも夜でも食事は賑やかだった筈だ。しかしぼくはその頃のことは殆ど覚えていない。 5歳のときに千葉に越し、家族は少し入れ代わって8人。でもぼくが小学校6年のときに父は死んだので、親子揃って食事をしていたのを覚えているのが小学校3年生ぐらいからだったから、通算してわずか3~4年、ということになる。そのあとは父の不在の夕食だった。 どんどん兄や姉が家を出ていき、やがてぼくも出ていった。そしてぼくは結婚し、自分の家族を作った。子供たちが生まれた。長男と長女である。 長女はその日3年ぶりに実家に2日ほど滞在したその娘であり、息子は5年前に二人の子供をつれてサンフランシスコから帰ってきた。5年のあいだに1人(流)が増えて、合計8人がいまのぼくの家族だけれど、はたしていつまでこうしてみんな顔を揃えての夕食の時間がもてるのだろうか。タツマキのようにやかましい三匹のコブタどもの騒ぎ声を聞きながらぼくは赤ワインにやや酔いつつそういうことを考える。 娘は翌朝6時半に来たときと同じぐらいドタドタしながら家を出ていった。新宿まで十分の距離だからぼくは妻と一緒にクルマで送っていった。駅前で「元気でいろよ」の挨拶をする。もう20年もアメリカにいるから習慣になっていて娘は母親と抱き合っての別れだ。ぼくは照れくさいので運転席から手を振った。 アメリカのねぇねぇ(孫たちはそう呼ぶ)が嵐のようにやってきて嵐のように去ってしまうと、間もなくして幼稚園も小学校も冬休みになり、今度は暇をもてあました三匹が小さなタツマキを三つ合体させてぼくの家を毎日午後に襲うようになった。 ぼくは年末の28日から仲間たち20人ほどで、あまり目的も必然性もないオヤジ合宿があって福島までいく。その合宿は毎年12月25日ぐらいをすぎるとモノカキは暇になるので、ぼくが提唱し、15年ほど前からまわりの友人らを集めて行っているものだった。だからその合宿まではわりあい暇でいる。 1人で本を読んでいるのに飽き、ひるめしを食ったあとぐらいに三匹のコブタがやってくるのを密に待っているのが本当のところだった。 この時期に、例の海賊船を作ろうと思っていたのだが、アメリカのねぇねぇが流にプレゼントしてくれた海賊船キットがあまりにもキッパリとうまくできているので、これから設計をしようと思っていた我々はいささか混乱した。完璧な完成品を前にしてとても勝ち目はない、という感じだったのだ。(中略) 我々の目の前には作りたかった立派な海賊船がある。その海賊船の所有者は流であるから、流よりはるかに歳上の波太郎とぼくがそれに負けないくらいのものを作ればいいのだが、なんだか作る前にすでに敗北感というものがあった。面白いものだ。 「それじゃあこの海賊船にまけない城砦を作ればいい」 波太郎は大発見のようにして言った。 波太郎は数年前から日本や外国の城に興味があって、暇さえあればパソコンのグーグルマップを使って世界の城を調べている。その中には有名な城でもイクサで焼かれてすでに城址しかないものが多い。それは世界で共通していた。 モノゴトの興味というのは面白いもので、そうなるとどうしてその城は滅びてしまったのだろうか、という疑問や謎に波太郎はつきあたる。その関係の本を捜す。滅ぼされてしまった民族も沢山ある。滅ぼしたほう、滅ぼされたほう、その双方の民族の衝突の歴史を調べる。そういうことにも現代の子は追及が早い。パソコンを使うと簡単にわかるからだろう。 彼の興味とその探究心、探求方法を見ていると、つくづく新時代を生きていくあたらしい人間たちなんだなあ、ということを感じる。『孫物語』1:サンコンカンからの来襲『孫物語』2:これからを見ていたい
2017.06.15
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図書館で『孫物語』という本を、手にしたのです。おお シーナがじいちゃんの役回りしている物語ではないか♪イクジイ・シーナの奮闘はどんなかな。【孫物語】椎名誠著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より「岳物語」が戻ってきた!?今度は「岳」の子、孫の話。3匹の男女男は、本好き、おませな娘、活動派。イクジイ・シーナの奮闘スーパーエッセイ。<読む前の大使寸評>おお シーナがじいちゃんの役回りしている物語ではないか♪イクジイ・シーナの奮闘はどんなかな。rakuten孫物語冒頭の一編を、見てみましょう。p8~12<サンコンカンからの来襲> 「むかしは夏といえば毎日夕立でカミナリが走ったものだ」 などと思っていたら、雷雲が連日発生し、わが家の近所の家に落雷し、余波で電子機器壊滅の被害を受けた。 あまり「いいなあ」などとノウテンキに言っていられない東京になっている。 それでも日本の自宅に落ちついているのは、「いいなあ」とこの数年思うようになってきたからだ。 その理由は「孫」の登場である。じいちゃんはここでにわかにふやけ顔となり、どうにもだらしがなくなる。これまで世間的に聞いていた「孫というのは可愛いし、面白いものですよ」というのは客観的にしばしば感じていた。 街を歩いていてもあきらかに、おじいちゃんかおばあちゃんと思われる老人と小さなその孫がなにやら話しながら歩いてくるのを見ると「いい風景だなあ」と思ったし、そこだけとくべつやわらかい空気に包まれているようで、見ている他人のぼくも心が安らぐのを感じていた。 ぼくに最初の孫ができたのは2003年だから、思えばだいぶ前のことだ。ぼくの娘は大学を卒業するとすぐに、息子は19歳でアメリカにわたってしまった。娘はニューヨーク、息子はサンフランシスコである。その息子のほうが結婚して子供ができた。男の子で、ぼくの孫第一号である。初孫誕生の連絡は外国で聞いた。 南米の厳しい嵐がやってくる前の日だった。そこからさらに奥地にいく小型飛行機が飛ぶか飛ばないかの瀬戸際だった。 海外での旅の停滞は嫌なものだから、ぜひ飛行機が出てほしい、と思ったが、パイロットは慎重だった。でもそういうときにいきなり「孫誕生」の知らせを聞いたっものだから「パイロット無理すんな」と急に思考とタイドを変えた。 無理して飛び出して墜落なんかしないでくれ、と思ったのだ。墜落して死ぬなら、せめてその初孫の顔を見てからにしてほしい。南米だからそこから大きな旅客機でまっすぐ14時間ぐらい北上していけばサンフランシスコに着く。現実的にはそんな時間も余裕もないが、待機時間に真剣に航空ルートを調べたりしていた。 でも我々の小型機は無理して奥地に飛ぶことになった。常に強風が吹いているという有名なパタゴニアのフィッツロイという急峻な山を目指していた。僕は7人乗りの飛行機の窓から外を見ていた。離陸だけで全身がゆさぶられる激しい振動のさなかだった。(中略) それまでパタゴニアに来たならば「いつ何がおきるかわからない」と言われていたので当然こっちもいつどういう事態に遭遇してもかまわない、という気持ちで旅していたが、そのフライトからぼくは急に「常に安全第一に願いますよ」などと思うようになってしまったのだった。 「生きていくこと」 これが「孫」がじいちゃんに及ぼす最初の「大きな力」なんだ、ということを、後になって知った瞬間だった。
2017.06.15
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図書館に予約していた『宰相A』という本を、待つこと3日でゲットしたのです。戦争こそ平和の基盤だと煽る宰相Aとは・・・なにやら印象操作が得意な安倍首相に似てなくもなくて、怖いのです。現実の日本では、明日(15日)にも共謀罪法案の強行採決が予定されているが・・・メディアの報道がわりと、静観して(白けた?)いるのが、怖い。【宰相A】田中慎弥著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より小説の書けない作家Tが母の墓参りに向かっている途中で迷い込んだのは、国民は制服を着用し、平和的民主主義的戦争を行い、戦争こそ平和の基盤だと宰相Aが煽る「もう一つの日本」だった。作家Tは反体制運動のリーダーに祭り上げられ、日本軍との闘いに巻き込まれるが…。自由を奪われた世界で想像力が現実を食い破る、圧倒的野心作!<読む前の大使寸評>戦争こそ平和の基盤だと煽る宰相Aとは・・・なにやら印象操作が得意な安倍首相に似てなくもなくて、怖いのです。<図書館予約:(6/06予約、6/09受取)>rakuten宰相Aこの小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p12~15 駅に到着した弾みで目が覚めた。窓の外は夕日が終わりかけている・・・駅のアナウンスの声がなんだか英語みたいに理解できない風に聞えるのは、眠りから完全に戻ってきたいないからなんだろう。目はきちんと開いているが。 古いホームに立つ案内板には確かに、0という駅名が記されている。母の墓参りに行く途中で母の夢を見、しかもその中で今度の旅の目的を確認するかのように、母から小説を書けと言われ、目が覚めると0町に着いているとはなんとも出来過ぎている。それこそお話の中にいるみたいだ。 夢で聞いた母の声は、母を装った、すでに執筆の触手になりかけている私自身の声だっただろうか。母のことを書くというのは、体に流れる母の血を使って私が母の声で喋るということ、私が母になる、ということ。私は作家としてお話を書く母になった私自身の話を。私1人では無理だが母の声を借りれば出来るかもしれない。今度の小説に書こうとしているのは母のことなのだから・・・ 待った、0? もう一度見るとホームの案内板には、0、とアルファベットの1文字だけが書いてある。お、で始まる筈の駅名が0の1文字で。私が便宜上0と書いた記述に呼応しているとでもいうのだろうか? 筆記用具や着替えなどを入れたリュックを肩にかけてホームへ降りる。母の埋葬で訪れた時と同じ場所なのかどうかはっきりしない。 駅の構内のアナウンスを再び耳にし、はてなと思った。 英語なのだ。さっき初めて聞いた時は、眠りから戻ってきたいないのではなく、恐らく完全に目が覚めていた。それと同じ英語を耳にしているのだから、いまの自分もやはり完全に覚めているのだろう。日本語以外読みも書きも聞き取ることも出来ないが、英語に間違いないのは分かる。最近の駅は海外からの客のために複数の言葉が流れることもあるにはある。それならそれでまず日本語が流れそうなものだが、いつまで経っても英語しか聞えない。これはどうしたことだろう。 すぐ傍を背の高い人影が通り過ぎ、私がぼんやりと立ち尽くしているのが不思議だったのか、男は一瞬こちらを振り向いた。茶色い髪で鼻が尖り、目は、青だろうか。国籍はどこか知らないがこういう乗客には確かに英語のアナウンスも必要だな、と思っていると、さらにわけの分からない事態が起こっているのに気づいた。うしろから追い越したり向こうからやってきたりしている客の、男も女も若者も老人も、その全てが、日本人の顔とは違う、また他のアジアの顔立ちにも属さない、高い鼻に鮮やかな瞳の、明らかな欧米系、アングロサクソンと呼ぶべき顔なのだ。(中略) ポケットから取り出した切符を自動改札機へ通そうとしてまた足が止まる。切符の投入口が見当たらない。他の乗客を見ていると、手に持った何かを改札機の上部の赤く発光する部分にかざして通過する。私はそういうパスを持っていない。もう一度投入口がないことを虚しく確認すると、試しに切符を赤い光に当てて通り過ぎようとしてみる。予想通り、凄まじい警報音とともに、城門かというほど巨大な鉄の扉が目の前を閉ざした。周囲の客たちがいっせいにことらを見る。 「カムヒア」 声の方を向く。改札の横の窓口から身を乗り出しているおは・・・ああ、いったいどういうわけだろう、その駅員の女もまた、身長こそ低いが高い鼻と青い目なのだ。加えてさらに奇妙なことに、駅員の着ている服が緑色で軍服風、乗客たちと全く同じものだ。
2017.06.14
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図書館で『中国エネルギー事情』という本を、手にしたのです。6年前刊行でちょっと古くなったが、資源戦略、石炭や原発への依存度など、中国のエネルギー事情が興味深いのです。【中国エネルギー事情】郭四志著、岩波書店、 2011年刊<「BOOK」データベース>よりめざましい経済成長の続く中国は、いまや世界一のエネルギー消費国。「重厚長大」型経済の下、石油は国内生産では足りず、輸入に頼るとともに海外での開発・権益確保を推進、他方で石炭は環境汚染と地球温暖化への対応が問われている。さらに天然ガス、太陽光や原発も含め、この国の今後を左右するエネルギー事情を包括的に描く。<読む前の大使寸評>6年前刊行でちょっと古くなったが、資源戦略、石炭や原発への依存度など、中国のエネルギー事情が興味深いのです。rakuten中国エネルギー事情発電事業の動向を、見てみましょう。p145~148■クリーン石炭火力発電 中国初の石炭ガス化複合発電(IGCC)モデル事業となる華能天津IGCC発電所の建設がNDRCに認可され、09年に着工した。2010年には建設がピークを迎え、年末までに設備取付を完了、デバッグを行う予定である。中国が自前の知的所有権を持ち、世界でも最先端のクリーン発電技術が実質的に進展していることを意味することで、専門家たちは、同技術は「クリーン石炭火力発電」の方向を示すものと認識している。 IGCCは「従来エネルギーに関する新たな手段」として、石炭ガス化技術と高効率のコンバインド・サイクルを組み合わせる先進的な発電システムであり、世界の先進的な火力発電技術で、環境保護性能に優れ、汚染物の排出量は一般火力発電所の10分の1、脱硫率は99%、NOXの排出量は一般発電所の15~20%に相当し、ゼロ排出の達成に寄与する。 現在、世界で稼動する石炭燃料・一定規模以上のIGCC発電所は5基あり、発電規模は約130万KWとなっている。このほか、建設中、計画中の各種IGCC発電所は40基以上あり、発電規模は約2000万KWに上る。これらの発電所は米国、欧州、日本などの先進諸国に建設され、そのうち17基は「クリーン石炭火力発電」技術を採用している。IGCC技術によってクリーン石炭火力発電が可能となるであろう。(中略) 中国の「クリーン石炭火力発電」技術・設備に関しては、一般の設備はいずれも国内で調達でき、独自の知的所有権を持っている。しかしながら、ガスタービンを独自に生産できない。国内企業による共同開発・調達や日米欧諸国からの協力を必用とする。■始まるスマートグリッド事業 「次世代電力網」といわれる「スマートグリッド」が注目されている。スマートグリッドとは、人工知能や通信機能を搭載した計測機器等を設置して電力需給を自動的に調整することにより、電力供給を人の手を介さず最適化できるゆにした電力網である・ 周知のように、グリーン・ニューディール政策を掲げた米国オバマ大統領の主な施策の一つがスマートグリッドであるが、その政策はエネルギー安全保障のみならず、経済の回復・振興のためにも、グリーンエナルギー産業の育成と同産業による雇用創出を狙ったものであった。 中国でも、中央政府に直属する国家電網公司は、09年8月に、強力スマートグリッドを段階に分けて推進する戦略を発表したのに続き、10年1月、本格的なスマートグリッドの構築を推進すると発表、今後10年間の強力スマートグリッドの建設・完成を計画している。『中国エネルギー事情』1:四つの問題点、原発大国から原発強国、日中エネルギー協力の可能性『中国エネルギー事情』2:戦略目標と不確実性『中国エネルギー事情』3:第6章 電力の需給はどうなっているか
2017.06.14
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図書館で『中国エネルギー事情』という本を、手にしたのです。6年前刊行でちょっと古くなったが、資源戦略、石炭や原発への依存度など、中国のエネルギー事情が興味深いのです。【中国エネルギー事情】郭四志著、岩波書店、 2011年刊<「BOOK」データベース>よりめざましい経済成長の続く中国は、いまや世界一のエネルギー消費国。「重厚長大」型経済の下、石油は国内生産では足りず、輸入に頼るとともに海外での開発・権益確保を推進、他方で石炭は環境汚染と地球温暖化への対応が問われている。さらに天然ガス、太陽光や原発も含め、この国の今後を左右するエネルギー事情を包括的に描く。<読む前の大使寸評>6年前刊行でちょっと古くなったが、資源戦略、石炭や原発への依存度など、中国のエネルギー事情が興味深いのです。rakuten中国エネルギー事情中国の計画経済はどのように運用されているのか?・・・電力需給を通じてそのあたりを見てみましょう。p131~135<第6章 電力の需給はどうなっているか>■供給体制と政策 中国では、電力産業に競争メカニズムを導入、市場競争を促進するため、「電力に関する改革方案」(2002年3月公布)に基き、02年12月に国家電力公司を発電5社、送電2社、補助企業4社に分割している。 発電5社は、華能集団公司、大唐集団公司、華電集団公司、国電集団公司、電力投資集団公司である。送電事業は、華南・西南五省(広東・広西・貴州・雲南・海南)を管轄する南方電網公司と、その他の地域を管轄する国家電網公司に二分され、国家電網公司の下には東北・西北・華北・華東・華中の電網公司が設置されている。 このように、中国の電力供給体制は、国家電力公司の再編・改革に伴い、形成されている。また、それに伴い、その直後、国家電力監督委員会が中国発の規制・モニター機関として設置され、電力市場の運営のモニター、電力料金、電力事業の管理・モニターを行っている。 中国の電力政策は、電力産業発展に関する基本方針を以下のようにまとめている。すなわち、・エネルギー効率の向上(2010年までに所内率を4.5%、送電ロスを7%に低減する。4500KWのコジェネレーション、2000KWの選炭廃棄物綜合利用発電を建設する、など)・生態環境の保護・電力網建設の強化・秩序ある水力発電の開発と石炭火力発電体制の合理化・原子力発電の積極的開発・再生可能エネルギー発電の奨励・天然ガス発電の開発 こうした電力政策の実施・促進に当たっては、現在、主に以下のいくつかの課題が挙げられる。まず第一は、小型発電所の閉鎖に伴う社会的雇用問題および地域社会発展の安定化問題である。第二には、現行の電気料金制度の下では、省エネ・インセンティブが働きにくいし、電力の安定供給にも問題がある。第三は、風力資源のある地域は送電網の整備が遅れている。最後には、ガス供給逼迫・価格の問題などがガス発電開発を阻害している。 中国で03年前後に頻発し始めた電力供給逼迫、停電は世界的に注目された。広東省、セッ江省などの日系企業は生産ラインが一部ストップし、現地事業に支障をきたしていた。電力供給不足の最大の要因として、急速な経済の高度成長による莫大な電力需要に電力供給が追い付かなかったことなどが挙げられている。その背景の下で、電力設備の増強が進められ、発電設備容量が増大しているのだ。 その後、とくに国際金融危機に伴い、輸出減少による中国経済の減速、回復成長の中で、中国電力事情はどうなっているか、またその電源構成の特徴と電力需給のゆくえも検討しておこう。■金融危機後の経済回復の下で 中国では、石炭火力発電所が発電設備総容量の8割を占めている。また、全国の出炭量の三分の二は発電用として消費されている。 08年前半は、燃料、とくに石炭の供給不足や送配電未整備などの問題によって、多くの地域で電力利用制限や停電が進められたが、後半になると、経済不況、過剰な設備投資、国際金融危機などの影響で電力需要が急減し、発電設備の稼動時間数は大幅に減少した。ウーム 資本主義のいいとこ取りも組み込んだ中国の計画経済は凄まじいものがあるなー・・・とにかく膨大な数の人民が欲望にまかせて経済を回しているんだもんなー。『中国エネルギー事情』1:四つの問題点、原発大国から原発強国、日中エネルギー協力の可能性『中国エネルギー事情』2:戦略目標と不確実性
2017.06.13
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図書館で『中国エネルギー事情』という本を、手にしたのです。6年前刊行でちょっと古くなったが、資源戦略、石炭や原発への依存度など、中国のエネルギー事情が興味深いのです。ところで、帰って調べてみると、この本は3年ほど前に借りていたのです。・・・で、その2としました。【中国エネルギー事情】郭四志著、岩波書店、 2011年刊<「BOOK」データベース>よりめざましい経済成長の続く中国は、いまや世界一のエネルギー消費国。「重厚長大」型経済の下、石油は国内生産では足りず、輸入に頼るとともに海外での開発・権益確保を推進、他方で石炭は環境汚染と地球温暖化への対応が問われている。さらに天然ガス、太陽光や原発も含め、この国の今後を左右するエネルギー事情を包括的に描く。<読む前の大使寸評>6年前刊行でちょっと古くなったが、資源戦略、石炭や原発への依存度など、中国のエネルギー事情が興味深いのです。rakuten中国エネルギー事情中国の原発推進は、日本の安全にも重大に関わるわけで・・・・そのあたりを見てみましょう。p185~189<戦略目標と不確実性> エネルギー・セキュリティや地球温暖化問題への対応の観点から、世界的に原発への期待が高まっている。その中で、中国も石炭などの化石燃料起源の環境汚染への対処のために、一次エネルギーの供給に占める原発の割合を高めようと、その建設を積極的に推進している。 中国は、持続可能な成長の制約を克服するために、石油・天然ガスの輸入拡大、海外権益確保の加速、再生可能エネルギーなど非化石燃料開発の強化など、エネルギー確保・環境負荷の軽減に努めている。その中で、エネルギー安全保障の視点から、石炭に依存する度合いを軽減し、とりわけ原発に力を入れようとしており、最近、その活発な原発建設の動きが注目を集めている。 09年4月、中国は原発の「積極的開発」から「強力的開発」へと開発方針を転換した。2010年3月、政府は20年までに原発能力を4000万KWにするという目標を引き上げて8000万KWにすることにしている。 10年12月時点で、中国の原発の設備容量は1079.8万KW、電源構成の中でわずか1.2%を占めているにすぎない。また、建設中の原発は25基、発電能力が2773万KW。稼動中の原発設備は13基(図参照)だが、その原子炉に関する自主開発技術・国産化はまだ低い。これまでに導入された原子炉は、国産設計、フランスから導入したPWR型炉、ロシアのVVER-1000(PWR型炉)、カナダのCANDU-6と様々である。 現在、6ヶ所の原子力発電所で、ユニット13基が稼動しており、(中略)こうした中、中国原発も技術蓄積・成長により、国産化率が80%を越え、第二世代改良型から三門・海陽のように第三世代(AP1000)の技術を導入した原子炉の建設も本格化している。 中国が原発建設を完成させると、原発能力は飛躍的に増加し、08年の7倍以上に拡大する。それによって、一次エネルギー消費量における原発の比率が現在の0.8%から8%にまで増加するのだ。 原発建設・運営において、中国は積極的に外資・技術導入を行っている。例えば、09年12月に広東核電集団がフランス電力公社(EDF)と合併し、広東省台山原発有限公司を設立した。その合併は、相手の技術・運営管理ノウハウを吸収するためである。同発電所は、フランス側の欧州加圧水型原子炉(PWR)の第三世代技術を導入する世界で3番目の原子力発電所であり、第一期工事では発電機2基を建設、出力は175万KW、年間260億KWHの電力を供給、CO2排出量を年間約2300万トン削減できると見られている。 今後十数年間で、原子力発電能力は現在の7倍超に拡大し、また、現在の日本の原子力発電能力を大幅に越え、2016年の日本の原子力発電能力をも上回ることになる。 前述の中国の原発政策・戦略および動向から、次のいくつかの点を指摘しておきたい。まず、第一は、原発開発は地球温暖化の緩和、石炭依存型のエネルギー需給構造による環境問題の改善などの面で評価することができる。また、石炭への依存度が高い電源構成も改善されるであろう。 次に、日本、世界の原子力発電設備並びに関連設備メーカーにとっては、商機が増える。世界金融危機の中で欧米や日本の関連企業にとっては、中国の原発導入の拡大が望ましいわけである。原発技術の開発・蓄積に伴い、中国も積極的に国際原発市場に参入し、海外原発基地の建設・直接投資などで海外進出しようとしている。 また、中国の原発設備の大量導入により、ウランの需要が増大している。それにより、日本などのウラン調達にとって獲得競争がさらに厳しくなり、国際市場におけるウラン資源争奪の激化や中央アジア、オーストラリア、カナダなどウラン資源保有国のウラン価格が上昇することも予想される。 さらに、中国における原発能力の短期間での急拡大については、人材養成、原子力の保安、設備の品質保証などの問題も懸念される。 ウーム 中国の軍拡も脅威であるが、原発の増設もそれに劣らずに脅威である。なにしろ隠蔽体質の国だから、どんな故障が隠蔽されているのか分からないのが、怖い。この記事も中国、韓国の原発事情3に収めるものとします。『中国エネルギー事情』1:四つの問題点、原発大国から原発強国、日中エネルギー協力の可能性
2017.06.13
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<『韓国現代住居学』2>図書館で『韓国現代住居学』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると・・・・安東の両班の里、オンドルと畳の違い、林立する高層アパート群、ソウルの「月の村」など写真も豊富で、見どころ満載でおます♪【韓国現代住居学】ハウジング・スタディ・グループ著、建築知識、1990年刊<カスタマーレビュー>よりこれまで読んだ韓国の建築の本の中でも非常にわかりやすい。著者が日本人だからなのか…絵(図面)も写真もたくさんあり、せつめいも非常にわかりやすく、韓国の建築について調べたい人はおすすめです。<読む前の大使寸評>安東の両班の里、オンドルと畳の違い、林立する高層アパート群、ソウルの「月の村」など写真も豊富で、見どころ満載でおます♪amazon韓国現代住居学日式住宅のその後を、見てみましょう。p196~198<上道洞営団住宅地> 朝鮮住宅営団という名前をご存知だろうか。昭和16年から20年の終戦まで、朝鮮半島を基盤に、庶民のための住宅を供給していた特殊財団法人である。終戦から43年、今でもこの営団住宅が残っているという。ソウル市民に「日式住宅」と呼ばれているこの住宅の調査のため、わずかながら入手できた当時の資料や図面を持って、ソウルに向かった。 1988年5月。気が滅入るような暑さである。ソウル駅前から漢江路をバスで南へ10分くらい走り、漢江大橋を越え上道トンネルをくぐると四方を山に囲まれた盆地に出る。この盆地を貫通する冠岳路を中心とした一帯を上道洞(日本時代の上道町)という。住宅は冠岳路を中心に雛段状に拡がっており、松、プラタナス、銀杏、柿、藤など緑が多く、豊かな表情を持っている。 しかしその反面、冠岳路は交通量が多いために、ほこりっぽく、また排気ガス規制がないため自動車の騒音と黒煙に、思わず顔をしかめ、目を細めてしまう。この上道洞にある二つの大学では、今ちょうど学生が盛んにオリンピックの南北対話に対するデモを行っており、それを阻止するための機動隊が上道洞のロータリーごとに常駐している。そのためにここにいると自然と気持が引き締まる。 朝鮮住宅営団は、この上道洞に単に住宅の建設だけではなく、学校・公園・市場・公衆浴場などを含んだ、ひとつの模範住宅地をつくることを目標にした。竣工当時の公告に「鷺梁津駅から徒歩15分位、田園色彩の豊かな理想的住宅郷であります」と謳っていることからも、いかに当時、営団が力を入れていたかがうかがわれる。 営団住宅は営団設立の翌年、昭和17年8月に一部が竣工し、分譲された。また未竣工の工事も順調に進んだものの、全体が完成しないうちに終戦を迎え中断された。建設された住宅は千六十七戸と記録されている。昭和62年9月の調査によると、増改築の末に何とかその姿をとどめているものが319戸確認できるだけだったが、当時の風景を想像するには十分過ぎるくらいである。 冠岳路に面した町並みは、他のソウル市内と大差ないが、一歩脇道へ入ると、道に沿って母屋を露出させた切妻屋根が見えてくる。これが朝鮮住宅営団の建設した住宅である。所々は建て替えられたタイル張りのビルや、モダンな住宅になっているものの、その軒の続く風景は明らかに日本である。 すでにかなりの年月を経過しているため、長年の塵により薄汚れ、手入れの行き届いていないものは今にも崩れてしまいそうだ。「当時、人気のあった上道町の営団住宅を手に入れるのは、抽選倍率も高く、至難の技だったそうです。手に入れることができた人は本当に幸運だったんですよ」と当時営団職員だった金王錫さんが、以前話してくれたことを思いだした。現在の日本でいえば、都心から割と近いニュータウンに相当するのだろうか。この住宅が当時住宅難の京城において、労務者や庶民の憧れだったことが当時の新聞を見るとよくわかる。 しかし、やっとの思いでこの住宅を手に入れた人々も、間もなく訪れた昭和20年の終戦により、一切の特権的地位を失い、泣く泣くこの住宅を手放すことになった。結局一番早くから住んだ家族でも、長くて3年しか住むことができなかったわけである。そしてこの住宅は内地へと引き揚げていった日本人に代わり、韓国人が住むことになる。このあたりの状況は梶山季之氏の小説『闇船』に詳しいので参照していただきたい。 そして5年後の1950年6月25日、南北に分断されていた韓半島には、ソ連軍が南下し始め、朝鮮戦争が起こった。多くの人々は慌てふためいて、戦場であるソウルから逃げだした。同様に営団住宅に住み着いた人々も、せっかく手に入れた家を捨てて南へと逃げていった。 結局、1953年7月25日、停戦協定が成立して国内が落ち着くまで、つまり第二次大戦後の8年の間は、営団住宅の住み手はおろか、誰の家だかもはっきりしない状態が続いた。ただ、はっきりしているのは営団住宅の住み手が日本人から韓国人に代わり、今日まで続いているということである。ネットで2010年代の日式住宅を見つけたので、見てみましょう。2010.04.2670年の歳月びっしり…‘営団住宅’潰すのかより ソウル,永登浦区,文来洞のサムウォン ナウビル アパート15階の窓から正面を眺めるとソウルでは見ることが難しい風景が広がっていた。 目の前には同じような屋根の日帝時代の平屋建物500余棟がきちんと一直線に建ち並んでいた。500棟を中心に周辺にぎっしりと建ったアパートはこの古く低い家々を飲み込むように空高く伸びていた。去る2月25日、現場取材に同行したアン・チャンモ京畿大建築大学院教授(現 文化財専門委員)は「1940年代初期、現在の住宅公社に該当する朝鮮住宅営団が作った労働者住宅が現在までそっくり残っている所はこちらだけだ」と説明した。営団住宅は当時、大規模団地型住宅の最初のモデルだった。 営団住宅団地内に入ると‘テアン産業’,‘ホンソン機工’,‘トンジン研磨’等の看板を掲げた10~15坪の小規模工場がびっしり並んでいた。こちらで大工として働き50年近く暮らしたという住民タン・ユンオク(75)氏は「60年代初めにここに移ってくると、日本式家屋構造を韓国式に変えお金をたくさん稼いだ」と自慢した。こちらの家々は大部分がタン氏のような大工の手を経て用途に合わせて改造され、住宅・市場・工場など数多くの変形を経て私たちの暮らしの現場になってきた。アン教授は「開発ブームでこちらの歴史が皆消えてしまう前に、1,2ブロックだけでも残さなければならない」と話した。 永登浦区,文来洞の営団住宅は、住宅不足現象を解決するため1942年頃に建てられたと推定される。1919年3・1運動の後、都市に移動する農民層が急激に増え、韓国に流入する日本人の数も多かった。1930年代からは日本が韓国を兵たん基地として設定し、軍需産業が発達し労働者の住宅問題がより一層深刻化した。こういう住宅問題を解決するために、1941年に朝鮮総督府が建てたのがまさに朝鮮住宅営団であり、朝鮮住宅営団が作ったのが即ち営団住宅だ。ソウルでは特に文来洞,上道洞,大方洞などに営団住宅が建設された。 この内、唯一500棟がそっくり残っている文来洞の営団住宅はアマチュア写真作家たちが頻繁に訪れる所でもある。今ではめったに見られない近代の姿を写真に収めることができるためだ。アン・チャンモ教授は「日帝時に建てられ今は所々が廃虚になっていてもおかしくないのに、今も空き家が殆どないほどに活用がうまくいっている」とし「日帝強制占領期から経済成長期を経て現在まで、都市住居の興亡盛衰が含まれているこちらを開発前に一部だけでも保存しなければならない」と話した。 ファン・ビョンウ文化連帯文化遺産委員長も「今の低密度産業施設をそのまま置いたまま、片側を文化芸術創作空間として作る方式で既存の姿を生かさなければならない」と話した。 しかし、こちらもすでに所有主たちを中心に開発風が吹いている。住民タン・ユンオク氏は「何年か前から一部の所有主たちが主軸になり、開発推進委が構成され活動中」としながら「開発よりは小規模工場から受け取る家賃で生活する方が良いと考える人々もいるが、数はそんなに多くない」と伝えた。反対に借家人たちはそのまま残すことを望んでいる。 90年代初めにこちらに定着した後、2代にわたって工具店を経営するソン・キボン(37)氏は「こちらは小規模工場が密集しシナジー効果を出している」として「開発で他所に行くよりは、こちらで続けて商売できればうれしい」と話した。『韓国現代住居学』
2017.06.12
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図書館で『韓国現代住居学』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると・・・・安東の両班の里、オンドルと畳の違い、林立する高層アパート群、ソウルの「月の村」など写真も豊富で、見どころ満載でおます♪【韓国現代住居学】ハウジング・スタディ・グループ著、建築知識、1990年刊<カスタマーレビュー>よりこれまで読んだ韓国の建築の本の中でも非常にわかりやすい。著者が日本人だからなのか…絵(図面)も写真もたくさんあり、せつめいも非常にわかりやすく、韓国の建築について調べたい人はおすすめです。<読む前の大使寸評>安東の両班の里、オンドルと畳の違い、林立する高層アパート群、ソウルの「月の村」など写真も豊富で、見どころ満載でおます♪amazon韓国現代住居学安東佳日村の韓屋両班の屋敷を、見てみましょう。p108~112<両班の屋敷の空間構成> 初めに宋孫の居室のサランバン(舎廊房)に招き入れられた。遠来の客のもてなし方ということになる。まず、直立して額に両手を当て床に伏せるという韓国式の礼で挨拶する。延羽氏の長男の権宋睦や一族の権世基氏も同席する。宋睦氏の指揮ですぐに膳が用意される。この家特製のカンジョンという水飴で固めたおこしのようなもの、薬果と呼ばれるかりん糖のような菓子、でんぶ、卵を海苔でまいたもの、ピーナツ、なつめ等十種類程のつまみがお膳に載っている。第18代の宋睦氏は46歳、180cmの長身である。白いパジ(=ずぼん)と膝までたれる紺のチョゴリ(=上衣)がすらりとよく似合い、ゆったりしたも身のこなしをいている。今日はわざわざ役所の勤めを休んで我々を案内してくれる。 屋敷は土塀で囲まれている。道路に面してデームン(大門)がある。月門という、大臣を輩出した家にだけ許される月の輪がつけられた門である。ただし今は車の出入りのため下側の輪は外されている。門の両側はヘンランチェ(行廊棟)。そこには厩や使用人の住む部屋があるが、今は使われていない。 門を入って主屋に向かう。構えの大きな建物だが、50年ほど前に、旧材を利用しながら改築したので、もとはもっと大きく、また家の格式を表す基檀も高かったという。手前正面にサランチェ(舎廊棟)がある。サランバン、サランテーチョン(舎廊大庁)、小サランバンがL字型に並んでいる。サランバンは主人の部屋、男の空間であり、外向きの機能を持つ。 サランバンの脇からアンマダン(内庭)に入る。中央に井戸がある。家族が多かった時期は向かって左側の棟にも居室があったが、核家族化が進み、今は納戸となっている。正面に主屋のアンチェ(内棟)がある。アンチェは正面左からプオク(釜屋)、アンバン(内房)、テーチョン(大庁)、サンバン(上房)で構成されている。サランバンが男の空間とすれば、アンバンは女の部屋であり、家の中心とされる。(中略) それにしても、冬は気温が零下20度を下回ることさえあるという韓国で、住居がこれだけの半屋外空間を持つことは不思議とも考えられよう。居室はオンドル(温突)で、その効果を高めるために小さい。つまり冬の寒さを旨としてできている。一方、夏は30度を越える程の暑さとなる。そのため必要とされる夏の空間がテーチョンなのである。夏には食事の場はここに移り、就寝の場となることも多い。ここでマッコリを御馳走になっていると大層気持ちのよいことは、既に確認済みであったが、今回、真冬でも日差しさえあれば、ここがやはり居心地よいことが実感された。ウン 大使もテーチョンの居心地の良さに気づいたが、この間取りは日本家屋には見られないので、韓屋独自の間取りなんでしょうね。伝統的な韓屋の空間構成については用語定義に、図と説明が見られます。
2017.06.12
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「予約本」でしょうか♪<市立図書館>・みんな彗星を見ていた・宰相A・中国エネルギー事情・ブラック オア ホワイト<大学図書館>・韓国現代住居学図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【みんな彗星を見ていた】星野博美著、文芸春秋、2015年刊<商品説明>より東と西が出会ったとき、一体何が起きたのか多くの謎が潜む、キリシタンの世紀。長崎からスペインまで、時代を生き抜いた宣教師や信徒の足跡を辿り、新たな視点で伝える。 <読む前の大使寸評>三浦しをんが泣きながら読んだとのこと・・・どんな本なのか?♪<図書館予約:(予約カートで待機していたが、館内の書架で見っけ)>rakutenみんな彗星を見ていた************************************************************【宰相A】田中慎弥著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>より小説の書けない作家Tが母の墓参りに向かっている途中で迷い込んだのは、国民は制服を着用し、平和的民主主義的戦争を行い、戦争こそ平和の基盤だと宰相Aが煽る「もう一つの日本」だった。作家Tは反体制運動のリーダーに祭り上げられ、日本軍との闘いに巻き込まれるが…。自由を奪われた世界で想像力が現実を食い破る、圧倒的野心作!<読む前の大使寸評>戦争こそ平和の基盤だと煽る宰相Aとは・・・なにやら印象操作が得意な安倍首相に似てなくもなくて、怖いのです。<図書館予約:(6/06予約、6/09受取)>rakuten宰相A************************************************************【中国エネルギー事情】郭四志著、岩波書店、 2011年刊<「BOOK」データベース>よりめざましい経済成長の続く中国は、いまや世界一のエネルギー消費国。「重厚長大」型経済の下、石油は国内生産では足りず、輸入に頼るとともに海外での開発・権益確保を推進、他方で石炭は環境汚染と地球温暖化への対応が問われている。さらに天然ガス、太陽光や原発も含め、この国の今後を左右するエネルギー事情を包括的に描く。<読む前の大使寸評>6年前刊行でちょっと古くなったが、資源戦略、石炭や原発への依存度など、中国のエネルギー事情が興味深いのです。rakuten中国エネルギー事情************************************************************【ブラック オア ホワイト】浅田次郎著、新潮社、2015年刊<「BOOK」データベース>よりあのバブルの夜、君はどんな夢を見ていた?経済の最前線で夢現の境を見失ったエリート商社マンの告解がいま始まる。近代日本の実像に迫る渾身の現代小説!<読む前の大使寸評>浅田さんと言えば、中国を見る目の確かさに注目しているのだが・・・浅田さんの現代小説はどんなかなと、期待して予約していたのです♪<図書館予約:(6/08予約、6/11受取)>rakutenブラック オア ホワイト************************************************************【韓国現代住居学】ハウジング・スタディ・グループ著、建築知識、1990年刊<カスタマーレビュー>よりこれまで読んだ韓国の建築の本の中でも非常にわかりやすい。著者が日本人だからなのか…絵(図面)も写真もたくさんあり、せつめいも非常にわかりやすく、韓国の建築について調べたい人はおすすめです。<読む前の大使寸評>安東の両班の里、オンドルと畳の違い、林立する高層アパート群、ソウルの「月の村」など写真も豊富で、見どころ満載でおます♪amazon韓国現代住居学************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き221
2017.06.11
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図書館で『みんな彗星を見ていた』という本を、手にしたのです。三浦しをんが泣きながら読んだとのこと・・・どんな本なのか?♪【みんな彗星を見ていた】星野博美著、文芸春秋、2015年刊<商品説明>より東と西が出会ったとき、一体何が起きたのか多くの謎が潜む、キリシタンの世紀。長崎からスペインまで、時代を生き抜いた宣教師や信徒の足跡を辿り、新たな視点で伝える。 <読む前の大使寸評>三浦しをんが泣きながら読んだとのこと・・・どんな本なのか?♪<図書館予約:(予約カートで待機していたが、館内の書架で見っけ)>rakutenみんな彗星を見ていた著者はミッション系学校の生徒だったが、それだけでこんなノンフィクションが書けるわけではないだろう。・・・著者がこの本を書くに至った根拠あたりを、見てみましょう。p18~20<キリシタンの時代> 各種の仏具や線香を取り揃えた仏具屋に足を踏み入れるのはへっちゃらな自分が、キリスト教系書店に入るのに二の足を踏んでいる。頭ではともかく、体が異文化のテリトリーだと感知しているのだった。 書店の前に立っていると、ウィンドーに大きなポスターが貼られているのに気がついた。2008年11月24日、長崎で大規模な列福式が行われるという告知だった。 列福式というのは、ローマ教皇から「福者」と認定された人の、いわば認定式である。ふうーん、と見過ごし、さあそろそろ意を決して店に入ろうよ、と思ったところで、ある名前が目に飛びこんできた。 中浦ジュリアン・・・ ジュリアン! 織田信長が生きていた時、ローマへ送られた4人の少年の1人、ジュリアン。 今回の大規模列福式の目玉は、中浦ジュリアンとペトロ岐部カスイだという。 1633年に殉教したジュリアンが、なぜ今頃になって列福されるのか? ジュリアンとの再会は、意外な形で唐突に訪れた。 私には奇妙な癖がある。何か一つのことに執着し、その理由がはっきりしない場合、先祖に根拠を求めたくなる、という癖だ(前世、と言わないだけまだましかもしれないが)。 その一つの例が中国だった。幼少期、餃子や春巻、横浜の中華街で目にするチャイナ服やチャイナ靴のきらびやかさに魅了され、折りしもテレビで「四人組」逮捕のニュースを目にsたことで急速に中国文化に惹かれていった。うちの家族でそのような傾向を示した人間が他にいなかったため、「自分だけ中国人なのではないか?」という妄想にとりつかれた。そして小学6年生の時、父に頼みこんで戸籍謄本を見せてもらった。残念ながら、自分だけが中国人であるような形跡は戸籍にはなかった。 ではなぜ中国文化や中国人に惹かれるのか。その理由が知りたくて、20代の多くの時間を南中国や香港に費やしてしまった。結局、理由はよくわからなかった。 それほど先祖が気になるならば、一度先祖について調べたらいいではないか。その思いが高じ、2008年から2011年にかけて『コンニャク屋漂流記』という作品を書いた。これは祖父の残した手記や一族の長老が語る話をもとに、鰯網の漁師だったうちの一族が、どのような道を辿って外房の御宿・岩和田に至ったかを記したものだ。 実は裏テーマとして、どこかにキリシタンとの接点がないかどうかにも注目していた。2008年、突然キリシタン熱が復活したことで、「先祖にキリシタンがいたのではないか?」という、悪い癖がまた出たのである。そんな妄想癖を人は馬鹿馬鹿しいと思うだろうが、自分はけっこう真剣である。 度重なる津波や火災で記録はことごとく失われ、あまり詳細なことまではわからなかったが、残念ながらキリシタンと関係がありそうな一族ではなかった。有馬晴信が日野江城下にセミナリヨの建設を許し、島原半島の南に聖歌が響きわたっていた1580~90年代頃、わが一族は紀伊半島西岸の加太か湯浅あたりにいたようだ。島原の乱が起きた1637~38年の時点では、すでに房総半島東岸の岩和田にいた。 思いこみが妄想であったことを証明するために、人生の多くの時間を費やしているような気さえする。ただ、一つだけ嬉しい発見があった。大航海時代の世界との邂逅だ。 慶長14年9月3日(1609年9月30日)、岩和田海岸の田尻の浜で南蛮船が難破した。その南蛮船はサン・フランシスコ号、乗っていた人物は、ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ、通称ドン・ロドリゴである。 ドン・ロドリゴはスペインの植民地となったヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)生まれの植民地政治家だった。1608年、前任者の死去に伴い、臨時総督としてフィリピンに派遣された。そして翌1609年、次期総督と交代のために召還命令を受け、3隻の艦隊でフィリピンからメキシコへ向かう航海の途中、岩和田の田尻の浜で難破したのである。その他2隻はといえば、サンタ・アナ号は豊後の臼杵・中津浦への緊急入港して海難を逃れ、残るサン・アントニオ号だけが航海を続けて無事メキシコへ帰還した。 乗船者のうち56名は溺死したが、317名は一命をとりとめた。小さな漁村、岩和田に300名を越える異人が上陸したのである。岩和田の人々が大航海時代の世界と接触した瞬間だった。この難破事件が星野家で語り継がれていたのである。 一族の長老、かんちゃんによれば、浜に打上げらた異人たちを岩和田の者どもが裸になり、体温で温めたという。またもう1人の長老、敬一じいさんによれば、裏山の畑にはその時溺死した人の遺体が何体か埋められているという。 サン・フランシスコ号には、前年フィリピンで暴動を起こした日本人が、強制送還のために若干数乗せられていた。ロドリゴがのちに記した『ドン・ロドリゴ日本見聞記』によれば、岩和田に上陸した時、村人の言葉がまったくわからないため、彼は一命をとりとめた日本人キリシタンに通訳をさせている。『みんな彗星を見ていた』1
2017.06.11
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図書館で『みんな彗星を見ていた』という本を、手にしたのです。三浦しをんが泣きながら読んだとのこと・・・どんな本なのか?♪【みんな彗星を見ていた】星野博美著、文芸春秋、2015年刊<商品説明>より東と西が出会ったとき、一体何が起きたのか多くの謎が潜む、キリシタンの世紀。長崎からスペインまで、時代を生き抜いた宣教師や信徒の足跡を辿り、新たな視点で伝える。 <読む前の大使寸評>三浦しをんが泣きながら読んだとのこと・・・どんな本なのか?♪<図書館予約:(予約カートで待機していたが、館内の書架で見っけ)>rakutenみんな彗星を見ていた著者がスペインのバスク人の街を訪れたので、見てみましょう。p389~392<ビトリアへ> 2014年9月9日、私はスペイン北部のビルバオへ向かうため、パリ行きの飛行機の中にいた。深夜に羽田を出発したその便は、慌しく飲み物と機内食を配ったあと、じきに消灯時間となり、乗客たちは毛布をかぶったりアイマスクを着けたりして、早々と寝る体勢に入った。 朝早くビルバオに着いたらすぐさまビトリアへ移動することを考えれば、1秒でも長く眠りたいところだった。しかし緊張で神経が高ぶり、まったく眠気が訪れない。(中略) 結局、機内では一睡もすることができなかった。 ビルバオ空港からバスを乗り継ぎ、ビトリアに到着したのは午後1時を回った頃だった。ビトリア(バスク語では「ガステイス」)には「中世地区」と呼ばれる、アーモンド型をした旧市街があり、私のホテルはちょうど中世地区が終る場所に位置していた。ホテルの向かいにある街路の名前は「新ユダヤ人街」。彼らは町の周辺で暮らしていたことになる。かつて暮らした場所から新しくここへ集められたのであろう。 あてずっぽうに歩き始め、すぐさまこの街が気に入った。中世地区は一つの丘のようであり、最も高い場所に聖マリア大聖堂が建ち、守護神のようにこの街を見守っている。中世サイズの街だから、当然のことながら道は狭く、車はあまり入ってこない。 南北に伸びた街路は、急な坂道や階段で結ばれ、あまりに急な坂にはエスカレーターが取り付けられている。ここに住んだら足腰が鍛えられそうだ。 この高低差の感じはどこかに似ていると思ったら、長崎に似ているのだった。歴史に「もし」は禁物だが、もし大追放で長崎の教会が破壊されなかったら、こんな街並だったのだろうか。ドミニコ会士が長崎に建てたサント・ドミンゴ教会跡を思い出さずにはいられなかった。 長崎市立桜町小学校の隅にある、あの遺構を訪れた時のことはいまでも心に焼きついている。この遺構は小学校建て替えの際に校庭の下から発掘され、そこをそのままガラス張りにして、石畳や地下室が見渡せる構造だった。400年前をしのばせる、日本で唯一の教会遺構である。にもかかわらず、まるで2000年前の遺跡を見ているような、ある特定の人たちが死に絶えた、という滅亡感が漂っていた。長崎はいま、教会関連遺産群の世界遺産申請に沸いているが、この遺構がリストに入っていないことが私には解せない。 この教会がことのほか重視されたのは、聖遺体が安置された教会だったからだ。ドミニコ会から出た最初の日本人殉教者、レオン税所七右衛門(188福者)の遺体である。 島津家久の心変わりでレオンは殉教し、ドミニコ会士は薩摩から追放された。神父たちは自らの手で教会を解体し、その木材の山とレオンの遺体を、薩摩で授洗したライ病患者とともに舟に乗せ、長崎に運んだ。そして建てたのがサント・ドミンゴ教会だ。 この教会が、地下だけとはいえ奇蹟的に残されたことには、熾烈な長崎の権力闘争が関係している。ドミニコ会最大のパトロンだった村山等安を失脚させて権力を握った末次平蔵は、痕跡を地中に埋め、その上に自分の屋敷を建てた。等安の象徴の上に君臨することで、権力の移行を長崎じゅうに知らしめたのである。(中略) 路地を歩きながら私は、サパテリア街という通りを探していた。この通りの3区53号にスマラガは生まれたという。ふと見上げると、歩いてきた路地がまさにサパテリア街だった。聖マリア大聖堂から坂を下りたところに南へ延びた、端から端までせいぜい5分もあれば歩ききれる短い街路である。花や鳥かごでつつましくも美しく飾られた4階建ての集合住宅の1階には、サンティアゴ巡礼者のための相談所もあった。1577年3月9日に生まれたスマラガは、この路地を走り回っていたことだろう。 路地に3時の時を告げる教会の鐘が鳴り響く。その音色に誘われるように坂道を下りていくと、坂道の終るところに、修復のための網がかけられた古い教会が建っていた。車がほとんど入らない教会の周りには、バルやレストランのテーブルが並び、人々がパラソルの下で賑やかに遅い昼食をとっている。 地図で確認したところ、いま目の前にある協会こそ聖ペドゥロ教会、スマラガが誕生した翌日に洗礼を受けた教会だった。彼は、受洗した教会と目と鼻の先で育ったのだった。
2017.06.11
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