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子供部屋の本棚で、この文庫本『スワロウテイル』を手にしたのです。おお 今回は、映画の後に原作を読むことになりそうです♪【スワロウテイル】岩井俊二著、角川書店、1999年刊<「BOOK」データベース>より円を掘りに来る街。それがイェンタウンだ。日本人はこの呼び名を嫌い、自分たちの街をそう呼ぶ移民たちを逆にイェンタウンと呼んだ。ヒョウとリンとフニクラは墓荒らしで小金を稼ぎ、グリコは売春で生計を立て、身寄りのないアゲハを引き取った。ある日、客のひとりがアゲハを襲い、隣人のアーロウが客を殺してしまう。すると腹の中からテープが飛び出し、代議士のウラ帳簿が見つかる。飽和状態のイェンタウンで、欲望と希望が渦巻いていった。映画『スワロウテイル』の岩井俊二監督自身によるもうひとつの原作小説。<読む前の大使寸評>おお 今回は、映画の後に原作を読むことになりそうです♪amazonスワロウテイル円都(イェンタウン)この小説の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p25~26<円都(イェンタウン)> この街をあたしたちは『円都(イェンタウン)』と呼んでいた。 円が欲しくて世界中からいろんな人種がやって来て、まるでかつてのゴールド・ラッシュを思わせた。円を掘りに来る街。それがイェンタウンだ。 日本人はこの呼び名を嫌い、自分たちの街をそう呼ぶ移民たちを逆にイェンタウンと呼んだ。ちょっとややこしいけど、あたしたちにとってイェンタウンとはこの街のことで、日本人が言うイェンタウンとはあたしたちのことなのである。 日本人はあたしたちイェンタウンのことを軽蔑していた。まるで円に群がる蠅か何かのように思い込んでいた。でもそれは仕方がない。あたしたちの中にも日本人のことを、円を作る機械のようにしか考えていない連中も少なくなかった。どっちもどっちだ。そしてあたしはどっちも好きにはなれなかった。 そんな中でヒョウは少し違うにおいのする人だった。 ヒョウは工場の裏の広大な空き地に住んでいた。 改造した廃車を三台並べて、これをヒョウは家にしていた。p39~43<アゲハ> グリコは今でこそ自宅のアパートで客を取っていたが、3年前まではこの住まいもなく、みすぼらしい売春宿の二階の小さな部屋で同じ外国籍の女たちと雑魚寝して暮らす毎日だった。 日本に来て右も左もわからなかったグリコに店のママのマリリンは何かとよくしてくれた。(中略) あたしがグリコを見たのはそれが最初だった。 どういう印象もなかった。ただマリリン・ママの店に出入りしている女たちと同じにおいだけを感じた。 あたしが階段の隅に座ってそっちを見ているのにグリコが気づいた。 「あの子?」 「そう。手のかかんなそうな子でしょ」 「子供っていうからもっと子供かと思ったわ。…ねえ、いくつ?」 グリコはあたしに聞いた。あたしはだまっていた。かわりにマリリン・ママが答えた。 「12だっけ? 正確にはわかんないのよ」 「名前は?」 「ないのよ」 マリリン・ママがそう言った。 「え?」 「名前。ないのよ」 「なんで?」 「いいかげんな母親だったのよ。戸籍もないし。犬や猫じゃないんだから」 「犬や猫だって名前ぐらいつけるでしょ」 「身の回りの手伝いでも何でもするわよ。頭のいい子だから面倒は掛けないと思うわ」 グリコはしばらく爪をかんでいたが、マリリン・ママの期待いっぱいの顔に根負けしたみたいで、ちょっと不機嫌そうにこう言った。 「面倒見てる暇なんかないからね」 マリリンは大喜びでグリコを抱きしめた。 「何にも心配ないよ! でも名前だけは考えてあげてね!」 こうしてあたしはグリコの家で世話になることになった。その夜、グリコは帰って来たフニクラにあたしを紹介した。 「よく働くんだって、この子。もうお兄ちゃんはお払い箱ね」 「そりゃいいや! ハッハッハッハッ!」 フニクラはグリコのジョークを笑い飛ばしたが、やや不安になって後半ひきつり気味だった。それでもフニクラは何かとあたしをかわいがってくれた。仕事から帰ると必ずおみやげをくれた。おみやげと言ってもガムとか、チョコとかだったけど、あたしもそれが愉しみになった。 ある日の午後、グリコはあたしにカーラーを巻かせながら自分はマニキュアを塗っていた。 あたしはさっきから鏡に映ってるグリコの胸元が気になって仕方がなかった。うすいシャツの間からへんなものが見え隠れしていたからだ。 あたしの視線にグリコが気づいた。 「これ?」 あたしはあわてて視線をそらした。 「こんなのが珍しいの?」 あたしがコクリとうなづくと、グリコは胸をちょっと開いてそれを見せてくれた。 きれいなアゲハチョウのタトゥーだった。 「きれい」 「そう?」 「アゲハでしょ、これ」 「アゲハ?なに?日本語?」 「そう」 「アゲハっていうの? バタフライのこと」
2017.08.31
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「さんちか古書大即売会」で『THE BONNIE & CLYDE BOOK』という本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくってみると、意外に写真の多い本である。写真満載のシナリオ本となっているが、映画を再現するにはこの作りが最善でんがな♪【THE BONNIE & CLYDE BOOK】Wake, Sandra著、Simon & Schuster、1972年刊<Note>よりIncludes a screenplay of Bonnie and Clyde based on the original screenplay by David Newman and Robert Benton.<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくってみると、意外に写真の多い本である。写真満載のシナリオ本となっているが、映画を再現するにはこの作りが最善でんがな♪hathitrustTHE BONNIE & CLYDE BOOKBONNIEとCLYDEの最後の場面を、見てみましょう。p161~164EXTERIOR NEW ANGLEA flock of birds flies out from the trees. The sound of ther wing-beats is a little like gunfire.The old man suddenly dives under his truck to hide.CLYDE:Hey…His smile suddenly fades.CLOSE-UP CLYDEHe looks desperately toward Bonnie.CLOSE-UP BONNIE Tearful and loving, she reterns his last look.EXTERIOR ROADSIDEHidden in the underglowth, HAMER has seen the chiken truck from a long way away and realises he cannot afford to let anything pass between him and his quarry. He decides the time is now. The shooting stats.We see the chiken truck. Two men in the front seat. They see ahead of them an incredible sheeting match, and, in terror, they jam on the brakes. The noise is rapid, deafening, In all, the laws fire eighty-seven shots into BONNIE and CLYDE, giving them absolutely no chance.We see, alternately, the bodies of CLYDE and BONNIE twisting, shaking, horribly distorted; much of the action is in slow motion. CLYDE is on the ground, his body arching and rolling from the impact of the bullets. BONNI is still in her seat: her body jerking and swaying as the bullets thud relentlessly into her and the framework of the car.EXTERIOR THE CAR ON THE VERGEBONNI's body slews out sideways, head first. A final burst and her head and shoulders drop down on the running boad. CLYDE's body rolls over and over on the groound and then lies still. The firing stops.Utter silence. It has been a massacre. BONNIE and CLYDE never had a chance to return the gunfire.
2017.08.31
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この本は図書館予約して、(予想外に早く)約3ヵ月後にゲットしたわけだが…発売後ただちに予約したことと、神戸市が副本を6冊買ってくれたおかげでしょうね♪【みみずくは黄昏に飛びたつ】川上未映子×村上春樹著、新潮社、2017年刊<商品説明>よりただのインタビューではあらない。『騎士団長殺し』の誕生秘話、創作の極意、少年期の記憶、フェミニズム的疑問、名声と日常、そして死後のこと……。誰もが知りたくて訊けなかったことを、誰よりも鮮烈な言葉で引き出した貴重な記録。11時間、25万字におよぶ、「作家×作家」の金字塔的インタビュー。<読む前の大使寸評>図書館予約して、(予想外に早く)約3ヵ月後にゲットしたわけだが…発売後ただちに予約したことと、神戸市が副本を6冊買ってくれたおかげでしょうね♪<図書館予約:(5/30予約、8/26受取)>rakutenみみずくは黄昏に飛びたつ職業としての物書きについて川上さんが突っ込んでいるので、見てみましょう。p16~18 <「語りかけ」の変化>川上:村上さんはこれまでも、書くことやそれにまつわることについては、折々のインタビューやエッセイで話したり書いたりしてこられたと思うんですが、『職業としての小説家』で、それらを総括されている印象があります。今回、系統的にお書きになって、いかがでしたか。村上:この本は、どこかの雑誌とか出版社から依頼を受けて書いたんじゃないんです。小説を書くという作業について、自分が前から言いたいと思っていたことを、一度文章にして書いてみようと思って、いわば自分のために書き始めたんです。書き出したのは5,6年くらい前かな。 言いたいことをみんなそっくりそのまま書いちゃおうという感じで書き溜めていったんだけど、そうすると当然ながらいろいろとカドが立ってくるので(笑)、あとで手を入れて、いちおう世間に出してもいいように書き直しました。でも基本的には言いたいことをわりに率直に書いています。川上:書き終わった時には、何かこう、言い切ったなという手応えはありましたか?村上:いや、言い切ったなとは思っていない。いろんなトピックについて書いたけど、まだ話してないトピックは結構あるような気がします。例えば、翻訳については語ってないんですよ。川上:そうですね。村上:いずれ、翻訳は翻訳として、独立した本にしようと思っているから。その時は、柴田元幸さんとゆっくり本1冊分くらい話そうと。そういう積み残したテーマはいくつかあります。あと、やはりこれを言っちゃうと、特定の個人が絡んできてちょっとまずいということもありますし。川上:『職業としての小説家』で取り上げたそれぞれのテーマは、自然に出てきたものですか?村上:ええ、頭に浮かんだものをぽっぽっと書いていったら、それぞれのトピックごとに章としてまとまっていったということですね。日にちをかけてひとつひとつの章を書いていったという感じです。僕としてはわりに大事な本になると思うから、締め切りなしでじっくり書いていきました。川上:魅力の一つだと思ったのは、村上さんが誰かに向けて語りかけている、というところでした。というのも今度の本は、プロの作家に向けて書かれている部分もあるし、作家志望の人、あるいは小説を書かない純粋な読者、あるいは十代や二十代だった時の村上さん自身に向けて書いているなと思えるところもたくさんあって。村上さんがこの本を、特定ではないにせよ確実に存在する「誰か」に向けて書いているというスタンスを、魅力的に感じたんですね。 特に冒頭におかれている、「MOKEY」創刊号に掲載された「小説家は寛容な人種なのか」という章の末尾で、「リングにようこそ」って締めの一文を読んだ時に、ちょっと驚きました。こういう呼びかけみたいな言葉は、これまでお書きにならなかったんじゃないかと思って。 村上さんはこの本でも、書くことについて、すごく個人的に、深く掘り下げながら語っていくんですが、何か、これまでとはちょっと違うニュアンス、「我々」っていう視点というか、ちょっと今までとは違う語られ方、聞き手に向けて語っておられるのを感じたのですが、そこにご自身の変化はあったのでしょうか?村上:僕が若い頃は、当然のことながら、まわりにいたほとんどの作家たちは、僕より年上だったでしょう。そういう中で、僕はどっちかというと反抗的な立場にいたというか、アウトサイダーとしての意識が強かったから、年上世代の作家たちに対して構えるところも、それなりにあったんでうよね。ちょっとハスに見るというか、意識してはぐれてたという雰囲気だったんだけど、もうこの年になると、はぐれるも何もないだろうと(笑)。今はほとんど、僕より年下の作家になっちゃたわけだからね。例えば、芥川賞の選考委員なんかも、年齢的には僕とほぼ同じか僕より下ですよね。川上:そうですね。村上:するとやっぱり、作家というものに対する視線が変わってきます。昔はわりにつっぱって身構えてたけど、今はもう、どうぞ好きにやって下さいという感じですよね。すり寄る必用もないけど、つっぱる必用もない。川上:そういう変化があったんですね。以前に読んだ『職業としての小説家』を再読しようと思うのです。【職業としての小説家】村上春樹著、スイッチ・パブリッシング 、2015年刊<「BOOK」データベース>より「MONKEY」大好評連載の“村上春樹私的講演録”に、大幅な書き下ろし150枚を加え、読書界待望の渾身の一冊、ついに発刊!【目次】第一回 小説家は寛容な人種なのか/第二回 小説家になった頃/第三回 文学賞について/第四回 オリジナリティーについて/第五回 さて、何を書けばいいのか?/第六回 時間を味方につけるー長編小説を書くこと/第七回 どこまでも個人的でフィジカルな営み/第八回 学校について/第九回 どんな人物を登場させようか?/第十回 誰のために書くのか?/第十一回 海外へ出て行く。新しいフロンティア/第十二回 物語があるところ・河合隼雄先生の思い出<読む前の大使寸評>大学図書館でみっけ、市図書館の予約を解消し、借出したのであるが・・・大学図書館は穴場やで♪<図書館予約:(10/27予約、11/27大学図書館でみっけ、借出し)>rakuten職業としての小説家『職業としての小説家』1:小説家になった頃p45~49『職業としての小説家』2:小説家は寛容な人種なのかp9~12『職業としての小説家』3:どこまでも個人的でフィジカルな営みp166~172『職業としての小説家』4:誰のために書くのか?p243~247『職業としての小説家』5:文学賞についてp58~61『職業としての小説家』6:「あとがき」p308~313
2017.08.30
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図書館で『文学フシギ帖』という新書を、手にしたのです。読者力を鍛えるというか…池内さんの、ためになる書評集であろうかと思うのです。【文学フシギ帖】池内紀著、岩波書店、2010年刊<「BOOK」データベース>より鴎外・牧水・百〓(けん)から三島・寺山・春樹まで、いずれ劣らぬ腕利きぞろい。さまざまな「フシギ」を秘めた作品に、当代随一の読み巧者が挑む。少し違った角度からあの名作を眺めてみると、思いもかけない新たな魅力が見えてくる。読めば世界を見る眼がかわる、文学の魅力満載!読者力を鍛える、老若男女におすすめの文学フシギ入門。<読む前の大使寸評>読者力を鍛えるというか…池内さんの、ためになる書評集であろうかと思うのです。rakuten文学フシギ帖幸田文の晩年のあたりを、見てみましょう。p170~172<幸田文と『崩れ』> そのとき幸田文、72歳。 知人に誘われ、静岡県の安倍川上流までカエデの林を見に出かけた。5月のことで山菜採りにもいい。足弱な人を気づかって、知人は車で行けるところまで走り上がった。 車がとまり、ドアがひらいて、足を下ろしたとき、「妙に明るい場所」だと思ったそうだ。「変な地面」だとも思った。それから辺りを見まわして息を呑んだ。正面の山の背が壮大に削ぎとったように崩れおちていたからである。 俗に「大谷崩れ」とよばれている。安倍川上流はフォッサマグナと中央構造線にはさまれ、地質がもろい。江戸の半ばから標高2000メートルの大谷嶺が崩れはじめた。富山県立山の「鳶崩れ」、長野県の「稗田山崩れ」とともに「三大崩れ」とよばれている。 半年後、雑誌『婦人之友』に『崩れ』と題する連載が始まった。翌年12月まで14回にわたってつづけられ、連載が終ったとき、幸田文は74歳だった。 「因果なことである」 自分でもこぼしている。なぜこんな年齢になってから、こういう体力のいることに惹かれたのか。ふつうなら心おだやかに身を休めて暮らす歳だというのに、自分ときたら全国の崩壊現場を訪ねまわっている。まことに奇妙な「巡り合わせ」としか思えない。 それまできちんと和服で通してきた人が、セーターにズボンをはいた、決意のほどがうかがわれる。砂防工事の関係者でも、建設省の役人でもない。文筆で名の知れた70すぎの女性が、なぜか思い立って各地の山崩れを見てまわり、それを丹念にしるしとめた。世界の文学にも、めったにないケースである。 幸田文の文業は40歳をこえてからのこと。父露伴の死を見とり、すすめられるまま『父―その死』のタイトルで臨終記を発表した。人はその文才に舌を巻いた。さすが文豪の娘だといいそやした。 しかし、幸田文自身はべつだん、それでもって文筆を始めるつもりはなかっただろう。父の死は記録しておく価値があると考え、だから書きとめた。厳しい父のしつけどおり、ほうきできれいに部屋をはいた、といったことと本質的に変わらなかった。 父のことを書き継いだあと、沈黙をはさみ、50代で大きく飛躍する。『黒い裾』『流れる』『ちぎれ雲』『さざなみの日記』。1年あまりのうちに、あいついで出た。さながらそれは、抑えられていた才能の奔流だった。 日本芸術院会員に選ばれたのが72歳のとき。それはまた崩壊現場巡りを始めた年でもある。「三大崩れ」はもとより、富士山の大沢崩れ、男体山の大薙崩れ、由比地すべり、桜島。風変わりな連載を待っていたかのように北海道・洞爺湖畔の有珠山が噴煙をふきあげた。 「さて、車へと促され、見ればその車は全身に凹みやら塗料の剥げやら、無数の傷を負って、歴然と災害のあとを残していた」 異変の渦中にとびこんでいたことがうかがえる。どうしてそんなに崩壊現象に惹かれたのか?(中略) 崩れ紀行を注意深くたどっていくと読みとれる。この女性もまた、ひそかに猛々しいものを秘めていた。嫁いだ先で女児をもうけたが、十年後に離婚してもどってきた。晩年の露伴との日常は父と娘の闘いのようなところがあった。毎日少しずつ、土砂が低い方へと移動しつづけ、それがある日、一気に崩れて突っ走る。幸田文が自分の内側にたえず感じていた衝動ではあるまいか。
2017.08.30
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図書館で『国境越え』という本を、手にしたのです。おお、シーナの写真付き紀行とあれば期待できそうやでぇ♪【国境越え】椎名誠著、新潮社、2012年刊<「BOOK」データベース>より港町で性の洗礼を受け、アルゼンチンの山中でナチス残党らしき一家に救われ、チリの娼館で夢を見て、バリではあやしい人妻に近づいていく…。写真からよみがえる、眩しい風、膿んだ闇、うごめく男たち女たち、匂いたつ記憶ーカメラ片手に世界中を旅したシーナが、新たな物語の地平を発見する。<読む前の大使寸評>おお、シーナの写真付き紀行とあれば期待できそうやでぇ♪rakuten国境越えアルゼンチンでの徒歩旅行あたりを、見てみましょう。p125~130 <国境越え> アルゼンチンの南にはドイツのナチの戦犯が逃亡してきて、辺鄙なところに隠れている場合がある。自然環境が厳しくて離農した古い農家などにそういう戦犯が住み着いて巧みに小さな村を作っている事があり、それは地図から抹殺されている場合がある、というのだ。 ということはアルゼンチンの地方行政もナチの戦犯を匿うことに加担している、という訳であり、それは珍しいことではない、とサントスはいう。 太陽は昼の位置にあって、上空をわずかな風が吹いているようだった。壱がこころなし眼を輝かすようにして言った。 「そういうナチの生き残りに会って話をすることは可能だろうか」 アブ・サントスへの質問だった。 サントスは少し考え、 「状況次第だろうと思う。もうナチの重要な戦犯は10年ぐらい前までのナチ残党狩りによって捕まったと言われている。いまも生き残っている戦犯は小物だし、もしかすると二世か三世になっていて、こういう地に同化しているかもしれない。そうだったらそんなに警戒なしに会えるだろうと思う」 それを聞いて壱は少し考えていた。 それから「ようし。これはチャンスかもしれない。おれたちはメンドーサのおかげでえらい目にあってしまったけれど、コトと次第によったら災い転じて福となす、ということになるかもしれない」 壱が言いそうなことだ、とおれはそれを聞きながら考えていた。 「ワザワイ、フクとは何?」 サントスが聞いた。 「日本の古い言葉で、不幸や失敗を成功に切り換えるということだよ」 音彦が言った。いまの会話でなにがどうしてそうなるのかサントスにはまだ理解できないことだろうけれど、壱はそれを今度のドキュメンタリーフィルムに収める、ということを考え、急に野心に火がついたのだ。 「その村に行こう」 気の早い壱がサントスにむかって言った。 「でも、それは可能性の話で、地図から消えている村が近くにあるとわかった訳ではない」 サントスが言った。もっともなことだった。けれど、橋をわたると川沿いに動物の足跡と荷車の轍がはっきりいくつもついていて、ナチの隠れ村とは断定できないまでも、そっちのほうに人の住んでいる酪農農家ぐらいはありそうだった。(中略) 遅い午後になると道は急にその幅をひろげ、地面もかたくなってきた。ロバ車ではなく自動車が走っている道のようだった。そして川端からはなれ、低い丘陵地帯にむかっていた。 さっき橋のところで昨夜焼いた残りの羊の肉をみんなして昼飯がわりに食ったが、この「新道路」の発見を祝って、そこで大休憩をすることにした。 こういう道を歩いていけば、農家や酪農家の人が乗っているちゃんとしたクルマに出会う可能性が大きくなる筈なのだ。 おれたちは昨日よりも確実に元気になってきていた。 「しかし、もしもだなあ」 音彦が言った。 「もし、サントスのいうようにナチの残党やその子供らが隠れている家があったとしたら、おれたちみたいな外国人は警戒されて、追い払われるかも知れないなあ」 「そういうことも考えられる。でもいまからそんなことを心配してもしょうがない」 壱が言った。(中略) 「あと1時間で暗くなります」 サントスが言った。もうだいぶ長いことこの国をうろついているのだから、そんなことは言われなくてもおれたちだってわかっていた。 「そうだな。今日もキャンプの準備をするか」 壱が残念そうな声で言った。そのひとことでみんなの気がゆるみ、おれは道端にへたりこみそうになった。パッキングをきっちりやっていたとはいえ、30キロ近いキスリングを一日中担いでいたわけだからそれも仕方がないだろう、と自分でも思った。 テントを張る場所は道端にした。壱の考えで夜中にもクルマがやってくる可能性があるから、少し道から横にはずれたところにこの「突然旅」でつかうようにしている4人寝るだけでぎりぎりのツェルトをひとつ張ることにした。この本もシーナの写真付き旅行記に収めておきます。
2017.08.29
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映画『海角七号』が2008年に台湾で公開されたので、この本は1年後に発刊されていたようです。とにかく、文章で後追いしたくなる本では、あるでぇ♪【海角七号】魏徳聖著、徳間書店、2009年刊<「BOOK」データベース>より1940年代、日本統治下の台湾。若い日本人教師が、日本名を友子という台湾人の教え子と恋に落ちた。しかし、敗戦を迎え帰国を余儀なくされる。彼は日本に着くまでの七日間、海上で手紙を綴る―。60年後の現代。プロ・ミュージシャンになる夢に敗れたアガは、嫌々郵便配達のバイトをしている。ある日、アガは郵便物の中に、いまは存在しない住所・海角七号宛ての小包を見つける。それは60年前、日本人教師が恋人・友子に綴ったあの手紙だった―。<読む前の大使寸評>映画『海角七号』が2008年に台湾で公開されたので、この本は1年後に発刊されていたようです。とにかく、文章で後追いしたくなる本では、あるでぇ♪amazon海角七号「海角7号」公式HPこの本の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p50~52<南投> 彼は落ち着いた口調で話し、そして苦笑いを浮かべた。 「しばらくしてようやくわかった。落ちてきたのは全部味方の飛行機だったんだよ。戦争が終わってずいぶん経ってから、色々本などで知ったことだが、アメリカ軍は台湾を襲った後まもなく、フィリピン進攻作戦を立てて、レイテ沖海戦をおっぱじめた。あれは人類史上最大規模の海戦だった」 佐藤老人は続けた。 「自分が修理した飛行機がどんどん出動して、海軍の作戦を援護しに行ったわけだ。その中に『神風特攻機』があったが、いずれにせよ彼らは戻っては来なかった。その時だったか、私は戦争に負ける予感がした。終戦後、私たちは国民党の兵士に送還されて、引き揚げて来た」 彼は栗原南のほうを振り返った。 「南さん、手紙だけ読めばあなたのお父さんは無料のフェリーで帰国したように思えるかもしれない。だが実際には乗るかどうかを自分の意思で決められたわけじゃなかった」 佐藤さんはゆっくりと語った。 「あのとき、日本が降伏してから国民党政府は台湾に残っている日本の軍人や一般人については、自分たちが利用したい技術者を除いて、全員を強制送還すると決めた。しかも国民党の兵士の身分検査はとても厳しくて、台湾人が紛れ込もうとしてもそれは不可能なことだった」 一部の、すでに日本国籍を取得した配偶者を除いては。もしそうならば、台湾人である友子さんが船に乗りたいと願ったとしても、それはかなわぬ夢に過ぎない。南は思った。あるいは、無理だとはわかっていても、試してみようという気にはならなかったのだろうか。 「送還される日本人が船に乗る時には、身の回りの品と、千円だけを持つことが許された。他はすべて台湾の財産として没収されてしまった」 佐藤さんは、戦後の千円なんて、何も持っていないのと同じだったと言った。「私が日本に帰り着いたときは、自分の特技を生かして工業都市名古屋で食っていこうと思った。だが、名古屋に辿り着いてみると、街全体がこの本丸御殿のようになっていた」 大戦末期、アメリカは重工業基地である名古屋に大規模な爆撃を行ない、そのたびに1万はあろうかという爆弾が雨あられと降り注いだ。結局、名古屋の工場や、数万の住宅、さらには市街地全体が焼け野原にされ、その被害は台湾よりもさらに大きかった。佐藤さんがそれを見たとき、どれほど驚いただろうか。この本をもう少しさかのぼって見ましょう。p23~25<南> 家の中は幼い頃と同じように狭く、廊下は体の向きを変えるスペースすらない。だが、父は病に倒れるまで、いつもこの家をきれいに片付けていた。すでに半年以上誰も住んでおらず、食器棚やテーブルにはうっすらとほこりが積っていた。埃にアレルギーがある南は鼻を押さえながら左右を見渡し、二階に上がることにした。 二階には父の書斎がある。古い本がたくさん並んだ書棚があり、その隣にはかわいらしい小さなタンスがある。小さな文机の上には父が愛用していた万年筆と、すでに壊れてしまったワープロが置かれている。 父はずっと詩や短文を書いていた。その筆致は美しく上品で、時には雑誌に投稿することもあった。掲載された時には、原稿料で一品二品食卓におかずが増えた。南が結婚して家を離れた後、父はある出版社の社長の目にとまり、しばらくの間名古屋で仕事をしていたらしい。その後バブルが崩壊し、出版社が倒産したため、父は再び常滑に戻ってきた。貯金や母のパート、細々と文章の加筆や校正の仕事をして暮らしていた。だが、父は彼女に会うときはいつもきちんとした身なりをし、金まで渡して「東京は物価が高いから少しでもいいものを食べなさい」と言うのだった。南は後々まで両親が非常に貧しく質素な暮らしをしていたことを知らなかった。 父は台湾から引き揚げてきた後、各地を転々として、最後にここ常滑港に安住の地を見つけたのだった。父が常滑にやってくる以前のことを、南は何一つとして知らない。台湾にいたことも、どういういきさつで常滑に来たのかも、父は語ろうとしなかったし、母もほとんど知らなかった。告別式の席上で、佐藤さんが感傷的な口調で父の生涯を振り返っていた時、南は初めて常滑が父の故郷ではないことを知った。 タンスを開けてみたが、服もそれほど入ってはいない。ため息を一つついた時、ふと、タンスの底にあるものが南の注意を引いた。木の継ぎ目が裂けて開いていいるようだった。 うずくまってその継ぎ目を探ってみると、そこは二重底になっていた。木の板を開くと、そこには真っ黒でかすかにつやを放っている箱が置いてあった。 何だろう? 南は不思議に思って思ってその箱を取り出した。黒い漆塗りの箱には品の良い金の松葉模様が描かれている。彼女は机に向かって、ふっとほこりを吹き払い、箱を机の上に置いた。開けてしまおうか? きっと大事なものが入っているに違いない。父はもう亡くなって、ここにあるものはすべて自分のものであることはわかっているのに、ある種の罪悪感があった。彼女は、そっとふたを開けた。 箱の中に入っていたのは、若い女性を写した古い白黒写真と、手紙の束だった。 台湾恒春郡海角七番地 小島友子様この本も原作が先か、映画が先かR1に収めておきます。
2017.08.29
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図書館で『ニート』という本を、手にしたのです。おお 絲山秋子の初期の短篇小説集ではないか…これは期待できるかも♪【ニート】絲山秋子著、角川書店、2005年刊<「BOOK」データベース>よりどうでもいいって言ったら、この世の中本当に何もかもどうでもいいわけで、それがキミの思想そのものでもあったー。洗練と節度を極めた文章からあふれ出す、切なくも甘やかな感情。川端康成文学賞受賞、気鋭の作家が切り取った現代の生のかたち、珠玉の五篇。<読む前の大使寸評>おお 絲山秋子の初期の短篇小説集ではないか…これは期待できるかも♪rakutenニートこの短篇小説集の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p95~98<へたれ> 松岡さんは、彼女いてはるの? と言った。僕は夜勤が多くてふられてしまったと半分嘘をついた。松岡さんは私もひとりやし、と言ったけれど、決まった人がいるかどうかは教えてくれなかった。時間が迫ってきて、僕は彼女を池袋駅まで送っていった。別れ際に彼女は、 「ありがとう、またね」 と関西弁のイントネーションで言った。またね、というのはきっと次もあるってことだ。僕は椎名町まで歩いて、それでもまだ歩き足りないくらいいい気になっていたので家のそばでビールを半ダース買って帰った。 翌日、松岡さんから「大阪に帰りました、楽しかったです」とメールが来て、それから僕たちは頻繁にメールを交わすようになった。僕はメールより電話の方が好きだ。彼女の話し方に好感が持てたし、それに松岡さんは実によく笑ったから。 1ヵ月たつかたたないかで、松岡さんが僕のことを、コウちゃんて呼んでいい?と言ってから、僕は大阪に、彼女の部屋に行った。それから僕は、定期的に、休みに合うときに大阪に行くようになった。 まもなく安全柵の扉が開きます 安全柵の扉が開きます ご注意下さい 安全柵の 松岡さんはスマートで、部屋のセンスもいい。部屋は、外国のせっけんみたいな、いいにおいがする。松岡さんの肌の、ひっそりした花のようなにおいとはまた違っていて僕は両方とも好きだ。部屋のなかで僕がとりわけ気に入っているのは、彼女の部屋のあちこちにある流木コレクションだ。波の力で柔らかな肌の色に仕上げられた流木を見て、僕はそれがかつてどんな樹木の一部だったのかを想像してみようとする。 けれど流木は今はもう森林とは無縁に、海からも切り取られてそこにある。松岡さんは1ヶ所の浜で1本の流木しか拾わない。旅する流木が松岡さんの家で一息ついている様子がいい。ほかに俗っぽいものはなにもない。目立つものといえば、額に入ったパウル・クレーのポスターくらいだ。 書棚を見れば医学書があって、確かに松岡さんが医者だったと思い出すけれど、空間に冷たさはない。僕たちが座るのは、北欧からきたしっかりしたソファだ。木目がとてもきれいだ。役に立つものたちはきちんと整頓されてクロゼットや戸棚に入っている。 僕なんか、棚があれば本や雑誌でいっぱいにしてしまうし、床には新聞や脱いだ服がつい散らかってしまうし、テーブルの上の醤油差しだって仕舞わない男だ。そうじゃなくても僕の部屋は、松岡さんを呼べるようなところではない。 今日も東海道新幹線をご利用いただきありがとうございます。今度の23番線の電車は、 12時17分発 ひかり271号新大阪行きです。途中静岡浜松名古屋京都に停まります 電車到着までしばらくお待ち下さいこの本も絲山秋子ミニブームR9に収めておきます。
2017.08.28
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「ミニブーム」でしょうか♪ 椎名誠と絲山秋子が個人的なミニブームでおます。(もちろん、村上春樹もですが)<市立図書館>・みみずくは黄昏に飛びたつ・文学フシギ帖・ニート・国境越え・海角七号<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【みみずくは黄昏に飛びたつ】川上未映子×村上春樹著、新潮社、2017年刊<商品説明>よりただのインタビューではあらない。『騎士団長殺し』の誕生秘話、創作の極意、少年期の記憶、フェミニズム的疑問、名声と日常、そして死後のこと……。誰もが知りたくて訊けなかったことを、誰よりも鮮烈な言葉で引き出した貴重な記録。11時間、25万字におよぶ、「作家×作家」の金字塔的インタビュー。<読む前の大使寸評>図書館予約して、(予想外に早く)約3ヵ月後にゲットしたわけだが…発売後ただちに予約したことと、神戸市が副本を6冊買ってくれたおかげでしょうね♪<図書館予約:(5/30予約、8/26受取)>rakutenみみずくは黄昏に飛びたつ************************************************************【文学フシギ帖】池内紀著、岩波書店、2010年刊<「BOOK」データベース>より鴎外・牧水・百〓(けん)から三島・寺山・春樹まで、いずれ劣らぬ腕利きぞろい。さまざまな「フシギ」を秘めた作品に、当代随一の読み巧者が挑む。少し違った角度からあの名作を眺めてみると、思いもかけない新たな魅力が見えてくる。読めば世界を見る眼がかわる、文学の魅力満載!読者力を鍛える、老若男女におすすめの文学フシギ入門。<読む前の大使寸評>追って記入rakuten文学フシギ帖************************************************************【ニート】絲山秋子著、角川書店、2005年刊<「BOOK」データベース>よりどうでもいいって言ったら、この世の中本当に何もかもどうでもいいわけで、それがキミの思想そのものでもあったー。洗練と節度を極めた文章からあふれ出す、切なくも甘やかな感情。川端康成文学賞受賞、気鋭の作家が切り取った現代の生のかたち、珠玉の五篇。<読む前の大使寸評>おお 絲山秋子の初期の短篇小説集ではないか…これは期待できるかも♪rakutenニート************************************************************【国境越え】椎名誠著、新潮社、2012年刊<「BOOK」データベース>より港町で性の洗礼を受け、アルゼンチンの山中でナチス残党らしき一家に救われ、チリの娼館で夢を見て、バリではあやしい人妻に近づいていく…。写真からよみがえる、眩しい風、膿んだ闇、うごめく男たち女たち、匂いたつ記憶ーカメラ片手に世界中を旅したシーナが、新たな物語の地平を発見する。<読む前の大使寸評>おお、シーナの写真付き紀行とあれば期待できそうやでぇ♪rakuten国境越え************************************************************【海角七号】魏徳聖著、徳間書店、2009年刊<「BOOK」データベース>より1940年代、日本統治下の台湾。若い日本人教師が、日本名を友子という台湾人の教え子と恋に落ちた。しかし、敗戦を迎え帰国を余儀なくされる。彼は日本に着くまでの七日間、海上で手紙を綴る―。60年後の現代。プロ・ミュージシャンになる夢に敗れたアガは、嫌々郵便配達のバイトをしている。ある日、アガは郵便物の中に、いまは存在しない住所・海角七号宛ての小包を見つける。それは60年前、日本人教師が恋人・友子に綴ったあの手紙だった―。<読む前の大使寸評>映画『海角七号』が2008年に台湾で公開されたので、この本は1年後に発刊されていたようです。とにかく、文章で後追いしたくなる本では、あるでぇ♪amazon海角七号************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き242
2017.08.28
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図書館で『江国香織とっておき作品集』という本を、手にしたのです。著者の芳名は知っていたが、著作を読むのは初めてでおます。さて、どんなかな。【江国香織とっておき作品集】江国香織著、マガジンハウス、2001年刊<「BOOK」データベース>よりフェミナ賞を受賞した処女小説「409ラトクリフ」を初収録。珠玉の中短篇小説とファンタジー、そしてビートルズ訳詞集、さらに、異色絵本『夕闇の川のざくろ』もカラーで完全収録。父・江国滋の「香織の記録」と妹・晴子の「夢日記」も初公開。単行本未収録作品がたっぷり、欲ばりでぜいたくな作品集。<読む前の大使寸評>著者の芳名は知っていたが、著作を読むのは初めてでおます。さて、どんなかな。rakuten江国香織とっておき作品集江国香織にとっての「物語」を、見てみましょう。p98~99■物語と著者、物語と読者 物語が本になるということは、誰かがその物語の存在を信じて、そこに分け入っていき、そして物語を発生させることだと思うんです。それは決して派手なパフォーマンスなんかではなく、ひそやかな作業。そして、読者がページをめくるということも、本に閉じ込められた物語を発生させることだと思う。 だからこそ、書く時点、読む時点で物語に分け入っていくのはとてもライブなことなんですよね。 歴史物だとか、古い書物を読むときも、決して過去にさかのぼるのではなく、いま存在しているその場所に行くんです。現時点での、そおの場所に。だからいいんだな。ビデオの再生みたいなものじゃないから。ほんとうにおもしろいって思う。 そう考えると、物語と著者、物語と読者、それぞれの距離は同じなんですよね。物語を書いて発生させた著者にとって、その物語はそれなりに親しい距離にはあるけど、決して著者のものにはならない。だって、著者が物語に近づいてくれたのであって、物語が著者に近づいてくれたわけじゃないから。 それと同時に読者にとっても、読んだとたんに、ちゃんと親しい距離のものになる。そんな毅然とした態度で存在している物語はすごいですよね。 でも、一方、書き手にとっては、物語って実はものすごく乱暴で、出来の悪いものでも、ぜんぜんつまらなくて退屈でも、いったん発生させてしまうと修正はできないんです。それはどんな形であれ、一個の物語として完成されたものだから。■「切り取る」と「語る」 物語の発生のさせ方には、もちろんいくつもの方法があるんだけど、私がいちばん好きなのが、切り取って見せるという方法なんです。 物語のなかに入っていった私が見たものをできるだけすっぱりと切り取り、それを見た読者が立会人みたいになってくれるような。80年代のアメリカの小説にすごく影響されたせいかな。そのころのアメリカの小説がとても好きで、そういうものを自分でも書きたいと思っているんですね。たとえばレイモンド・カーヴァーとか、アン・ビーティーとか。 だけど最近になって、もっと別の形でも書きたくなってきて、「語る」ということに挑んでみようと思ったんです。この意識の変化も私にとっては物語の復権ということになるんだけれど。 「語る」というのは正面から物語に立ち向かわなくてはならないから、ほんとにむずかしい。とくに私にとっては、語りたくないがゆえにたどりついたのが「切り取る」というスタイルだったから、よけいにそう感じるんでしょうね。「語る」ことに対して、恐怖感を抱いていたといってもいいくらい。 「語る」ということはとっても気恥ずかしいし、がんばって気恥ずかしさを克服して語ったとき、うまくいかなかったり格好悪かったりすることへの恐怖心がある。語らずに切り取った場合、失敗しても、それはたんなる駄作だけど、語って失敗すると、それ以上に格好悪いような感じがするんです。だから物語をうまく「語る」というのは、私の野望です。
2017.08.27
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図書館で『カツ丼わしづかみ食いの法則』という本を、手にしたのです。とにかく、この本の圧倒的なタイトルに惹かれて借りたわけでおます♪【カツ丼わしづかみ食いの法則】椎名誠著、毎日新聞出版、2014年刊<「BOOK」データベース>より人生的ヨロコビの瞬間。【目次】1(アジアジモウロウ日記/「世界遺産」ってなんだ? ほか)/2(人生のお勘定/ビールを飲むのもタタカイだ。 ほか)/3(「うちゅくちい国」はどこに/一七年ぶりのバリ島 ほか)/4(今夜も眠れない…が/麺談風発 ほか)/5(攻撃的距離からの逃走/どたばたカンヅメ日記 ほか)<読む前の大使寸評>とにかく、この本の圧倒的なタイトルに惹かれて借りたわけでおます♪rakutenカツ丼わしづかみ食いの法則ボケの症状あたりを、見てみましょう。p69~73<タクシーにサイフを忘れた> 歳をとってくるといちどきにいろんなことを考えるのが苦手になってくる。例えば小さなコトで三つの違ったことをしなければということになり、最初のコトをやっているあいだに三つ目のやるべきコトがなんだったのか忘れてしまっている。今さっき思いついたコトなので、一所懸命に思いだそうとする、思いだせればしめたもの。 しかしそれをやっているあいだに二つ目にやろうと思ったコトを忘れてしまっている。それぞれ関連のないコトであると思考が関連しなくなっているからもう駄目だ。あとで思いだすだろうと思ってもそうはいかない。つまり一生思いだせないことになる。 それを防ぐためにはひとつのコトしか考えないようにするしかない。そのひとつのコトをやりおえたら次にやるべきコトを考えるようにすればいいのだけれど、いざそうなると何も思いつかなかったりする。これをたぶん「無思考」というのだろう。「無我」とは違うんだろうな。「無我の境地」というのはあるだろうけど、「無思考の境地」というのは非常にレベルが低い。もしかするとそれが「バカ」という境地かもしれない。 ここに「サケ」というものが入ると頭のどこかが脈絡なく活性化し、無意味にいろんなコトを一度に考えていたりする。「いちどきに起きる脈絡のないしかも意味のない無思考」ほどわけのわからないものはない。このあいだ、そういうコトになった。 仲間とサケを飲み、かなり酔ってから4人でやる中国系賭け事というものをやり、結局負け、タクシーに乗って自宅に向かった。雨が降っていたけれど、タクシーがすぐにつかまったので傘を忘れたことを思いだしたが、次に行くときあればいいや、と思いそのタクシーが日頃よく使っている契約タクシーであることがわかり、そうだカードだ、と思考した。 普通の場合、そんな単純なコトを「思考した」などとは言わず、せいぜい「思った」「わかった」「知った」ぐらいで片づけられるのだろうが、サケバカ頭ではそうは簡単にいかない。「確認」が必用だ。 「カード」が入っている「サイフ」というものを「思考」し、その確認をした。秋の終わり、そろそろ寒くなってきているので、その日ひさしぶりに薄手のパーカーをひっかけてきた。生地の外からサイフをさぐり、外側からその形状を確認。 続いて家を出るときポケットに入れたままのカギ類の存在を外側から触って確認。そうだ携帯電話はどこだっけ。(中略) そういうコトを考えているともう自宅に着いた。新宿から自宅まで10分かからない。いま思えば短時間にいろんなコトを考えすぎた。「思考」しすぎた。「確認」しすぎた。 タクシー料金をカードで払い、外に出た。30秒で玄関の内側だ。 三階の自室に行き、机の上にころがっている携帯電話を確認し、パーカーを脱いだ。そのときサイフを出しておかないとあとで「サイフはどうした?」というコトに必ずなる、ということを思考した。 ようし、まだおのれの注意力、用意周到力はちゃんと機能しているな。ふふふ。まだバカじゃないんだぜ。そう思いつつパーカーのポケットを外側から触りサイフの形状確認をした。 しかしどうやってもサイフの形がないのだ。パーカーのどこにもない。そんなバーカーな、などとは言っていられないような「れれれれ?的」不安感がはしる。 もうすこしちゃんと調べたがやはりそこにはない、ということを確認した。すぐにドドドドっと階段をかけおりた。妻は一階で寝ているがいまはそんなコトを気にしてられない。外に出て、さっきタクシーを降りた場所、玄関のすぐ前のあたりに行って道を調べた。雨が降っている。午前0時すぎだ。都会だからまだ歩いている人が数人いる。(中略) 少々の現金はともかく、いま無くすとあとあといろいろ面倒なものが頭のなかに浮かんできた。とくに「運転免許証」と二種類の「クレジットカード」は紛失するとそうとう面倒くさそうだ。なによりも明日、クルマを運転していく予定の仕事がある。もう先方に駐車場スペースの確保まで依頼してある。そういうことをいっぺんに「思考」する。やはりそうとうなドジをしてしまったのだ。結局、ポケットに残っていたタクシー利用明細書にある電話番号に電話して、5分後にサイフ発見となったそうで、事なきを得たようでおます♪『カツ丼わしづかみ食いの法則』1
2017.08.27
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図書館で『カツ丼わしづかみ食いの法則』という本を、手にしたのです。とにかく、この本の圧倒的なタイトルに惹かれて借りたわけでおます♪【カツ丼わしづかみ食いの法則】椎名誠著、毎日新聞出版、2014年刊<「BOOK」データベース>より人生的ヨロコビの瞬間。【目次】1(アジアジモウロウ日記/「世界遺産」ってなんだ? ほか)/2(人生のお勘定/ビールを飲むのもタタカイだ。 ほか)/3(「うちゅくちい国」はどこに/一七年ぶりのバリ島 ほか)/4(今夜も眠れない…が/麺談風発 ほか)/5(攻撃的距離からの逃走/どたばたカンヅメ日記 ほか)<読む前の大使寸評>とにかく、この本の圧倒的なタイトルに惹かれて借りたわけでおます♪rakutenカツ丼わしづかみ食いの法則カツ丼が出てくるあたりを、見てみましょう。p197~201<カツ丼がしがし親父の説得力> 2月はまったく雪のおかげで予定の行動がずいぶん変えられた。そのためその朝思ってもみなかったところに泊まったり、初めての町をさまようなんてことが続いた。毎週やってくる雪の日に地方に行っていることが多かったからだ。 ある町でひるめしを食った。もとより初めて行く店で「そばを主体としたなんでも屋」のような大衆食堂で、混んでいてみんな相席だった。これも久しぶりのことで、むかしはどの店でもこういうことが多かったなあ、と納得して三人がけのひとつの席に座った。 順番で、向かいの席のおっさんに最初のカツ丼がきた。思いがけず見るからにうまそうである。四角い盆の上には味噌汁とオシンコが正しい配分で並んでいる。 そのときのおっさんの食い方が素晴らしかった。 カツ丼を左手でがっちり掴み、割り箸を右手に力強く「がしがし」と食った。絶妙の力配分で、がっちり掴んだカツ丼と箸の動きが躍動している。おっさんはいっときもカツ丼をテーブルの上にはおかず、ずっとがっしり左手で掴んだまま「がしがし」と食っている。ほれぼれするような箸と丼の連携技だ。ときどきオシンコをつまみ、味噌汁は箸を置いて右手で椀を掴んで飲む。カツ丼を持つ左手はあくまでもドンブリを掴んだままだ。 なんとなく猛禽類が獲物を確実に食っていく動作を連想した。状況はまるで違うが、その全体の意思と力強さ、最後まで貫かれていく「がしがし」の徹底思想。 これぞ本物のカツ丼の食い方だ! 感動しているうちに、ぼくの前に「ミニかけそば、ミニ天丼」なる軟弱なものがやってきた。なんか恥ずかしい。 こそこそ食っているうちにカツ丼大将はバッバッと力強く店を出ていった。 軟弱ミニミニセットなるものを食いつつ考えた。世界の食い物のなかであのように食うべきものを片手でがっしり最後まで握ってそのまんま食っていく、という食い方はどれほどあるだろうか。 ぼくが一番しゃらくさいと思っているのは結婚式における「フランス料理」という奴である。なぜか日本の結婚式というとあれが多い。左右にいろいろ形状の違うナイフやフォークが並び、すでにその種類と数で「どーだ!」と言っている。やがてうやうやしく前菜的なものが出てくるが、味もよくわからないままとにかく食ってしまう場合が多い。まだ酔っていないから、それなりに西洋料理の作法らしきものを緊張意識しながら。 しかし、そういう料理の出てくる結婚式披露宴の最中で考えたことがある。 ぼくはけっこういろんな国々に行っている。西洋料理の本場「西洋」にもかなり行っている。しかしそういうところで本場の本格的な西洋料理というものをただの一度も食べた記憶がない。 そんなの頼むと時間がかかりそうだし、格式ばったそれらしき料理の注文も面倒くさいから、そこそこ立派な店でもアラカルトの一品とビールぐらいですませてしまう。 だから本格的な西洋料理を食うのは、日本の結婚式披露宴ぐらいなものである。ということに気がついた。これはいったいなんなのだ? ナイフとフォークの使い方に慣れていないから本格的な西洋料理は食べ方が難しい。いろいろ気をつかう。全体のルールは皿などの容器をもちあげて食わないことだろう。(中略) 西洋料理と同じく韓国の料理も原則、皿や椀などをもちあげて食ってはいけない。箸はたいていカナモノ製で慣れないと食物を掴みにくい。ひじょうにもどかしい。焼き肉専門の店ではやはり焼きたて肉がうまい。どんぶりに白いごはんを入れてもらいそれらアチアチ焼き肉をキムチとともにのせて食ったらさぞかしうまいだろうなあ、と思う。ウン 同感やでぇ♪だいたい大使は、ギョウザ定食(ご飯付き)を愛顧しているし、焼き肉は必ずご飯とセットである。
2017.08.27
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「手当り次第」でしょうか♪<市立図書館>・室町無頼・江国香織とっておき作品集・南紗艦隊殲滅「上」<大学図書館>・マンションで楽しむ和骨董図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【室町無頼】垣根涼介著、新潮社、2016年刊<「BOOK」データベース>よりならず者の頭目・骨皮道賢は幕府に食い込み、洛中の治安維持を任されていたが、密かに土倉を襲撃する。浮浪の首魁・蓮田兵衛は、土倉で生き残った小僧に兵法者への道を歩ませ、各地で民百姓を糾合した。肝胆相照らし、似通った野望を抱くふたり。その名を歴史に刻む企てが、奔り出していた。動乱の都を駆ける三人の男と京洛一の女。超絶クールな熱き肖像。<読む前の大使寸評>著者の『ワイルド・ソウル』という小説を読んで以来、ファンとなったのだが…さて、著者の時代小説はどんなかな♪ということです。<図書館予約:(2/06予約、8/23受取)>rakuten室町無頼************************************************************【江国香織とっておき作品集】江国香織著、マガジンハウス、2001年刊<「BOOK」データベース>よりフェミナ賞を受賞した処女小説「409ラトクリフ」を初収録。珠玉の中短篇小説とファンタジー、そしてビートルズ訳詞集、さらに、異色絵本『夕闇の川のざくろ』もカラーで完全収録。父・江国滋の「香織の記録」と妹・晴子の「夢日記」も初公開。単行本未収録作品がたっぷり、欲ばりでぜいたくな作品集。<読む前の大使寸評>著者の芳名は知っていたが、著作を読むのは初めてでおます。さて、どんなかな。rakuten江国香織とっておき作品集************************************************************【南紗艦隊殲滅「上」】大石英司著、中央公論新社、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国軍が南沙に建設していた滑走路が、一晩で消滅した。当初は台風被害だと思われたが、偶然海中より発見された映像から、何者かに襲撃された事実が浮かびあがる。怒る中国はフィリピン軍、その背後に米軍の関与を疑うが、映像には驚くべきものが映し出されていた。それは、日本人なら誰もが知る有名な戦艦ー絶対に“存在しない”日本の戦艦の姿だ。その情報を得た日本政府は、自国に火の粉がふりかかる前に調査を命じる。乗り込んだのは司馬光二佐と“サイレント・コア”の姜小隊。南沙を訪れた彼らは、謎の敵を追うことになったのだがー?<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、台湾訛りのカダログ語をしゃべり中国共産党を嫌うフィリピン人が登場するわけで、その滅茶苦茶な発想が…いいかも♪rakuten南紗艦隊殲滅「上」************************************************************【マンションで楽しむ和骨董】ムック、成美堂出版、2000年刊<「MARC」データベース>より古民具、古布、器、和小物を使った素敵な和のインテリアをとりいれて自分流の空間づくりを楽しむ。コーディネートテクニックを実例をまじえて紹介し、マンションに似合う演出アイディアも紹介する。<読む前の大使寸評>追って記入amazonマンションで楽しむ和骨董************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き241
2017.08.26
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三宮の古書店で『映画でボクが勉強したこと』という本を、手にしたのです。1993年発刊時の定価が1300円で、この店の売値が500円なら格安ではないか…ということで買い求めたのです。帰って、楽天の古書を調べたら285円となっていたが…これも想定内でおます。【映画でボクが勉強したこと】清水義範著、毎日新聞社、1993年刊<「BOOK」データベース>より感動を教わり、愛を教わり、ユーモアを教わり、こんな風に生きたいものだと、人生までも教わった。名作も面白い、駄作もおもしろい、珍品ももちろんオモシロイ。映画への愛と感謝と、清水義範という人ならではの発見に満ちた、オールタイム・映画エッセー。 <読む前の大使寸評>1993年発刊時の定価が1300円で、この店の売値が500円なら格安ではないか…ということで買い求めたのです。rakuten映画でボクが勉強したことSF映画について、見てみましょう。p211~214<SF映画について> たとえば、「ターミネーター」は私にとってSF映画ではないが、同じシュワちゃんの出ている「トータル・リコール」はSFである。 あの映画の、いったいどこに事実があるのかさっぱりわからなくなってしまいそうな、あの多重性がいい。現実には火星旅行のできない男が、そこへ行ったような幻覚を得られる施設で幻の火星旅行をしようとし、失敗する。その理由が、男はすでにそういう処置を受けていて、今、現実だと思っている生活がすでに幻覚だったのだ、という設定がいい。まさしく、フィリップ・K・ディック好みの、ゾクゾクするような設定である。 簡単に言えば、あれは夢オチである。いい夢を見させてくれるレジャー・ランドへ行って、さて楽しもうとしたら、あなたは今、夢の中にいるんですよ、と言われた、ということによく似ているのだから。 しかし、その設定にこだわりぬいて、どこに真実があるのか、自分はそもそもどういう人間なのかというところまでつきつめて、あれは多層世界の面白さを見せてくれた。だからSF映画だと思うのである。 よろしいですね。火星へ行くからSFだということではないのですよ。それだったら、ジェリー・ルイスの「底抜け宇宙旅行」もSFだってことになってしまう。 宇宙船がどかどか出てきても「スター・ウォーズ」は物語のテーマにおいてSFではなく、姫を助けて悪を倒すチャンバラなんである。 「エイリアン」は宇宙へ行くけど、その本質はお化け映画である。そして、その作品を撮ったリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」は、SF映画なのである。 これもまた、原作がフィリップ・K・ディック。 そして「ブレードランナー」のテーマは、死、であった。実を言うと、ディックのSFのテーマは、それであることが多いのである。 レプリカントという、人間と一見全く違わないアンドロイドがいて、そいつたちが人間に反逆する。主人公の探偵はそいつらのボスを追いつめる。 そして、最終的には、主人公は敵を倒す。 だが、重要なのは、なぜレプリカントが反逆するのかという理由である。 おれたちは5年で(確かそのぐらいだった。正確なところは忘れた)死ぬように作られている。それが不満なのだ。 レプリカントはそう言うのである。つまり、人間が神によって長くても百年ぐらいで死ぬように作られているのがイヤなように、レプリカントも同じことなのだ、というテーマなのである。ディックは、そういうことを考え続けた作家だった。ウン SF映画の題材として、まず「ブレードランナー」を取り上げるあたり…お友だちのような清水さんでおます♪それにしても、「スター・ウォーズ」はチャンバラとは、言われてみれば納得やでぇ。『映画でボクが勉強したこと』1
2017.08.26
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図書館で『地球遺産最後の巨樹』という大型本を、手にしたのです。全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪【地球遺産最後の巨樹】吉田繁, 蟹江節子著、講談社、2002年刊<「BOOK」データベース>より【目次】プロローグ 地上に残った巨樹たち/奇樹バオバブ(マダガスカル)/世界一の巨樹の森(米国カリフォルニア州)/世界最長寿の樹(米国カリフォルニア州東部)/樹幅世界一の巨樹(メキシコ)/台湾神木十傑(台湾)/日本最大級の巨樹(日本)/宝石になった巨樹(米国アリゾナ州)/古代文明を支えた巨樹(レバノン)/森を失った国に残された巨樹たち(イギリス)/星の王子さまのバオバブ(ジンバブエ)/世界一の巨樹発見(南アフリカ)/世界を創った森の神(カナダ クイーン・シャーロット諸島)<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪rakuten地球遺産最後の巨樹レバノンスギレバノンスギの今について、見てみましょう。p95~98太古の巨樹を守る現代の救世主:LEBANON 横に大きく扇を広げたようなしなやかな枝ぶり。まっすぐに天空に伸びたたくましい幹。そして芳しい香りを放つレバノンスギ。 カディーシャ渓谷の石窟につくられた修道院には「神に従う人はナツメヤシのように繁り、レバノンスギのようにそびえる」と旧約聖書の言葉が掲げられている。 残された太古の森を「神の杉の森(アルゼラブ)」と名づけたのはマロン派の人々である。弟子たちを連れて高い山に登ったイエスはそこで神に姿を変え、最も大切な樹を植えた。その樹こそがレバノンスギで、高い山がこの森だと言い伝えられているからだ。神の杉の森の中心には、そのときの様子が描かれた祭壇画が飾られた小さな石造りの教会がある。 しかし、敬虔なクリスチャンたちが守り続けてきた小さな森にも陰りが見えてくる。数千年を生きたレバノンスギの中には無残に倒れるものが現れ、樹皮が剥がれ落ち痛々しく木肌をさらす古木が増えてきたのだ。 だが太古の貴重な森には現代も救世主がいた。 太古の巨樹を救おうと最初に立ち上がったのは国際日本文化研究センターの安田嘉憲教授である。その依頼を受けてアルゼラブにやって来たのは、漢方薬を主成分とした樹勢回復剤を弱った樹に注入しているのが広島県の戎晃司氏。戎さんは広島大学の中根周歩教授と共同開発したマツ枯れ防止剤を数千万円以上無償提供し、ボランティアで毎年この森の治療にやってくる。 戎さんが1本1本樹勢を調べたレバノンスギは620本。推定樹齢6500年の巨樹も含め、治療を施した樹は大量の花と実をつけた。レバノンスギの活力が復活してきたことを示すように、枯れたように見えた樹肌にはマツヤニがにじみ出した。 破壊し尽くした人類の歴史から奇蹟的に生き残った太古の巨樹。その行く末をレバノンから遠く離れた日本人が今、見守っている。そして、それに続くように村人たちもまた苗木をつくり、神の杉の森の周囲に若い森を育て始めている。『地球遺産最後の巨樹』1:イギリスのオーク『地球遺産最後の巨樹』1:台湾ヒノキ
2017.08.25
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図書館で『地球遺産最後の巨樹』という大型本を、手にしたのです。全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪【地球遺産最後の巨樹】吉田繁, 蟹江節子著、講談社、2002年刊<「BOOK」データベース>より【目次】プロローグ 地上に残った巨樹たち/奇樹バオバブ(マダガスカル)/世界一の巨樹の森(米国カリフォルニア州)/世界最長寿の樹(米国カリフォルニア州東部)/樹幅世界一の巨樹(メキシコ)/台湾神木十傑(台湾)/日本最大級の巨樹(日本)/宝石になった巨樹(米国アリゾナ州)/古代文明を支えた巨樹(レバノン)/森を失った国に残された巨樹たち(イギリス)/星の王子さまのバオバブ(ジンバブエ)/世界一の巨樹発見(南アフリカ)/世界を創った森の神(カナダ クイーン・シャーロット諸島)<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪rakuten地球遺産最後の巨樹台湾ヒノキについて、見てみましょう。p66~67台湾神木十傑:TAIWAN■台湾ヒノキは日本に送られていた 台湾のヒノキは、日本では明治時代末期より銘木として知られてきた。日本の領有当時、ヒノキの良材の産地して名高い阿里山には、木材搬出のために阿里山鉄道が敷設されている。阿里山鉄道 台湾のヒノキにはタイヒとベニヒがあり、タイヒは台湾扁柏を指し、台湾で最も優れた針葉樹材とされている。ベニヒは、古くはタイワンサワラとも呼ばれていたベニヒノキのこと。タイヒとベニヒは日本でいえば、ヒノキとサワラのような関係にある。■巨大な神木はほとんどがベニヒ 台湾の巨樹は9位にクスノキがある以外、20位まですべてがベニヒ。タイヒは伐採されたためという理由もあるが、ベニヒのほうが生命力および繁殖力について優れているかrだと聞いた。ベニヒは樹脂を多く含み、台湾の産地独特の非常に急峻な場所にも生育する。事実、現存する現存するタイヒからは発芽能力を備えた種子がほとんど採取できないという。■大安渓神木 台湾最大の巨樹といわれるベニヒノキ「大安渓神木」。幹回り日本一の蒲生の大楠24.2mよりも太い。標高3529mの大雪山の2325mあたりにひっそりと立つ。p150達観山自然保護区 かつての日本の神社仏閣建築のために、ヒノキやベニヒノキを送っていた台湾。しかし伐採禁止となった現在では、森林の多くはレクレーション地として保護されている。そして、日本と同様に神木信仰がある台湾では、休日ともなれば、多くの人々がそんな神木のある森へ家族でレジャーに出かけている。 達観山自然保護区はそんな神木の森の中でも、最もポピュラーなところ。屋久島にあるヤクスギランドのようでありながら、遊歩道はアップダウンも少なく、園内にはトイレや自動販売機もある。そのうえ、ここには台湾国内で10本の指に入る巨樹「台湾神木十傑」に含まれるベニヒノキが2本ある。国内11位と12位の巨樹もあり、台湾でも最大級の神木の森である。『地球遺産最後の巨樹』1
2017.08.25
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図書館で『地球遺産最後の巨樹』という大型本を、手にしたのです。全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪【地球遺産最後の巨樹】吉田繁, 蟹江節子著、講談社、2002年刊<「BOOK」データベース>より【目次】プロローグ 地上に残った巨樹たち/奇樹バオバブ(マダガスカル)/世界一の巨樹の森(米国カリフォルニア州)/世界最長寿の樹(米国カリフォルニア州東部)/樹幅世界一の巨樹(メキシコ)/台湾神木十傑(台湾)/日本最大級の巨樹(日本)/宝石になった巨樹(米国アリゾナ州)/古代文明を支えた巨樹(レバノン)/森を失った国に残された巨樹たち(イギリス)/星の王子さまのバオバブ(ジンバブエ)/世界一の巨樹発見(南アフリカ)/世界を創った森の神(カナダ クイーン・シャーロット諸島)<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪rakuten地球遺産最後の巨樹オーク(Quercus ruber)(英国・大ブリテン島の巨樹・老樹を訪ねてより)イギリスのオークについて、見てみましょう。p99~100森を失った国に残された巨樹たち:ENGLAND【オーク】 どっしりとした幹に大きな樹冠を持つオークは、イギリス人にとっては樹木の王様である。ケルトの時代からイギリスでは聖木とみなされ、アングロサクソン人もそれを受け継ぎ、重要な協議はほとんどオークの樹の下で行ったといわれる。 しかし、一方でオークはローマ帝国支配時代、盛んに精錬業の燃料として利用され、のちに、ヨーロッパの後進国から抜け出すため自給自足体制を目指したエリザベス一世の下で、鉄・鉛・銅・ガラス・樽・紡績などさまざまな産業のために利用された。 最も有名なのはスペインの無敵艦隊を破ったイギリス艦隊で、大きな軍船をつくるためには樹齢100年以上のオークの巨樹が2000本は必用だったといわれている。加工しやすく耐水性も高いオークは材としても優秀だったのである。ナポレオンの上陸を阻止できたのもオークの巨樹がイギリスに大量に存在したからで、ガラス業者も燃料としてよく燃える樹齢20年以上のオークを好んだ。 こうしてオークは伐り尽くされ、アレック氏のような個人の私有地、元貴族の屋敷だったパブリックスクールやマナーハウスの庭に巨樹となったオークが残されたのである。
2017.08.25
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先日は『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』という封切り映画を久々に観たのです。封切り映画としては『シン・ゴジラ』を観て以来のことではないか…手元不如意の大使のチョイスは、それだけ厳選されているわけでおます。マクドナルド兄弟に合った翌日、レイは「レストランをフランチャイズ化してみないか」と提案した。以前、兄弟は独力でフランチャイズ化を試みたものの、サービスの質にムラが出たため、それを断念せざるを得なかった。ところが、飛び込みセールスで鍛えたレイのしつこさは人並み外れていたわけで…まあ、すごかった♪素晴らしいコンテンツを見つけた(50代過ぎ)中年レイの粘りは凄かったわけで・・・大使がバブル景気の中で働いていた頃、海の向こうのアメリカでは、マクドの快進撃が起きていたようですね。今では、毎日が日曜日の大使であるが、かつての仕事中心の生活を…懐かしむのであった(笑)・・・というわけで、くだんの鑑賞フォームを作ってみました。【ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ】ジョン・リー・ハンコック監督、2016年米制作、H29.8.22鑑賞<movie.walker作品情報>よりカリフォルニア州南部の小さなハンバーガーショップ、マクドナルドを世界最大のファーストフードチェーンへと成長させた男、レイ・クロックの実話を描く人間ドラマ。創業者であるマクドナルド兄弟とミキサーのセールスマンだったレイとの出会いから、両者の対立まで、成功の陰にあったダークな側面までも映し出す。レイをマイケル・キートンが演じる。<観る前の大使寸評>封切り映画を観るのは『シン・ゴジラ』を観て以来のことではないか…手元不如意の大使のチョイスは、それだけ厳選されているわけでおます。movie.walkerファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツフランチャイズ化競争といえば、日本では吉野家、松屋などの牛丼店フランチャイズがつとに知られるわけで…手元不如意の大使も吉野家を愛顧しております。なお、マクドにもよく行っていたけど不祥事があって以来はご無沙汰しております。・・・いまでも貧乏人の味方のようなマクドの健闘を祈ってはおるのですが。しかしねえ、供給サイドから需要を生み出すという頑固一徹な商法はいかにもアメリカ的であり、三方良しの日本商法とは違うようですね。ところで、食育という伝統がないにも等しいアメリカ人の食生活については『食料の帝国』2にまとめています。
2017.08.24
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三宮の古書店で『映画でボクが勉強したこと』という本を、手にしたのです。1993年発刊時の定価が1300円で、この店の売値が500円なら格安ではないか…ということで買い求めたのです。帰って、楽天の古書を調べたら285円となっていたが…これも想定内でおます。【映画でボクが勉強したこと】清水義範著、毎日新聞社、1993年刊<「BOOK」データベース>より感動を教わり、愛を教わり、ユーモアを教わり、こんな風に生きたいものだと、人生までも教わった。名作も面白い、駄作もおもしろい、珍品ももちろんオモシロイ。映画への愛と感謝と、清水義範という人ならではの発見に満ちた、オールタイム・映画エッセー。 <読む前の大使寸評>1993年発刊時の定価が1300円で、この店の売値が500円なら格安ではないか…ということで買い求めたのです。rakuten映画でボクが勉強したことATG(アート・シアター・ギルド)について、見てみましょう。p67~70<ATGってありましたね> 私は、ATGの会員になった。自動列車停止装置に一役かったわけではない。それはATS。ATGというのは、アート・シアター・ギルドのことである。もともとは戦後フランスで生まれた運動というか、組織で、興行成績的には期待できないが芸術性は高いという映画を応援しようという活動をした。 つまり、古典名作の上映と、意欲的で芸術的な新作の上映、独創的な新人への応援などをするのだ。 日本でも1962年にアート・シアター・ギルドができ、当時、8都市に10のチェーン館があった。 もちろん、名古屋にもATG館はあったのである。それは、名宝会館という映画館ビルの5階だかの小さな劇場で、名宝文化、というところだった。 だんだん映画好きがこうじてきていた高校三年生の私は、そこの会員になったのだ。 会員になると会員証がもらえ、入場料が3割ぐらい安くなるのだった。その割引がうれしくて会員になった。 名宝文化では、ATGの精神にのっとり、月のうち半分は、難解で芸術的な新作映画を上映していた。私は、むむむむずかしいなあ、と思いながら背伸びして、それらを観た。 そしてあとの半月は、古典名作の二本立てなんかをやってくれるのだ。それは、ビデオのない時代としてはとてもありがたいことだった。 本来のタイミングを逸したのに私が「市民ケーン」や「ふたりの女」や「博士の異常な愛情」などを観ることができたのは、ひとえに名宝文化の古典再上映シリーズのおかげだったのである。 古典のことはさておいて、ここではATG映画のことを語ろう。 日本のATGが取り上げた第1作は「尼僧ヨアンナ」というポーランド映画である。再上映をした折に、私はそれを観た。悪魔にとりつかれた尼僧を助けようとする、わけのわからん映画である。 思い出すその他の作品を並べてみようか。 「ピアニストを撃て」も確か、ATG作品だった。 「5時から7時までのクレオ」 「パサジェルカ」 「ビリディアナ」 「去年マリエンバードで」 どいつもこいつも、変な映画ばっかりである。 ベイルマンの「第7の封印」や「沈黙」もアート・シアターじゃなかったかな。フェリーニの「フェリーニの8-1/2」や「魂のジュリエッタ」はどうだったろう。ゴダールの「気狂いピエロ」は確かにそうだった。気狂いピエロ とにかく、このおかげで私は芸術的で難解な映画の一部に触れることができたのである。そしてその当時は、それをなかなか格好いいことだと思っていた。ある程度は理解できるもんね、という顔もしていた。 しかし今にして思えば、20歳前の若造にとっては、ほとんど鑑賞不能のむずかしい映画だったね。「パサジェルカ」と「ビリディアナ」なんて、今となっては頭の中で合併して1本の悪夢の思い出のようになっている。 そして、「去年マリエンバードで」。 アラン・レネ監督作品で、アラン・ロブ=グリエ脚本で、ベネチア映画祭金獅子賞を取ったこの映画は、私がこれまでに観た全映画の中で、堂々第一位のなんにもわかんなかった作品である。一から十まで、とにかくまるでわからないのだ。そこまで見事にわからないと、かえって爽快なくらいだ。 とにかく「去年マリエンバードで」は、映画芸術の一方の極にはこういうものもあるのか、ということを私に教えてくれた。実に驚いた。 でも、そんなふうに背伸びして観たアート・シアター作品の中で、いい映画だなあと感動したものもある。 たとえば「かくも長き不在」というのはいい映画でしたよ。 監督はアンリ・コルビという人。 アリダ・ヴァリの演じる、パリ郊外のカフェーの女店主テレーズが、ある日、1人の浮浪者を見てショックを受ける。その浮浪者が、戦争中にドイツ軍に連れ去られた夫にそっくりだったのだ。だが、浮浪者は記憶を失っているらしい。その男は、はたして本当に夫なのだろうか。ウン 清水義範さんもATGのむむむずかしい映画を観ていたようで…お仲間だったようですね♪ところで、ゴダールの「中国女」という政治的な映画を大使がチョイスしたのは、ATGで、むむむ難しい映画を観てきた習いがあったからでしょうね♪なお、大使がATGで観た作品はアートシアターギルド映画のパンフレットに載せています。この本も掘り出し物の古書をゲットR2に収めておきます。
2017.08.24
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図書館で『満州事変から日中戦争へ』という新書を、手にしたのです。1931年の鉄道爆破作戦は、日本近代史のまったくエポックメーキングな事件ではないか…ということで借りたわけでおます。【満州事変から日中戦争へ】加藤陽子著、岩波書店、2007年刊<「BOOK」データベース>より「満蒙の沃野を頂戴しようではないか」-煽動の背景に何があったのか。満蒙とは元来いかなる地域を指していたのか。1931年の鉄道爆破作戦は、やがて政党内閣制の崩壊、国際連盟脱退、2.26事件などへと連なってゆく。危機の30年代の始まりから長期持久戦への移行まで。日中双方の「戦争の論理」を精緻にたどる。<読む前の大使寸評>1931年の鉄道爆破作戦は、日本近代史のまったくエポックメーキングな事件ではないか…ということで借りたわけでおます。rakuten満州事変から日中戦争へ陸軍の対ソ認識、対中認識を「おわりに」で、見てみましょう。p235~236<おわりに> ここまで読み進めてこられた読者はすでにお気づきのことと思うが、昭和戦前期の日本においては、国防思想普及運動などによって国民を巻き込み、扇動し、満州事変への支持を調達した陸軍などが真にめざしていたものと、扇動の過程で国民の前で強調され、展開された論理との間には、実のところずれがあった。 石原莞爾が望んだのは、1.ソ連がいまだ弱体な時、2.中国とソ連の関係が悪化している時、3.日本とソ連が将来的に対峙する防衛ラインを、中ソ国境の天然の要害まで北に西に押し上げておくことであった。将来的な対米戦の補給基地としても満州は必用とされていた。しかし、それは国民の前には伏せられ、条約を守らない中国、日本品をボイコットする中国という構図で、国民の激しい排外感情に火が点ぜられた。 松岡洋右が、そして建川美次までが連盟に止まろうと奮闘した1932年暮れから33年初頭、ジュネーブ軍縮会議の陸軍側随員の1人として同じくジュネーブに居合わせた石原は、早期脱退をぶつのでもなく、冷静に傍観していたとの証言がある。戦略上の目的が達成されれば日中紛争の帰結など問題ではなかったのだろう。掻き立てられ、後に放置された国民の憤怒は「満州事変は復仇」との自己説得の論理に、より強く結びつけられてゆくほかはない。 ずれは日中戦争においても起きた。参謀本部第一部長だった石原は、37年後半にもソ連の対日参戦がありうると見ていた。ソ連を警戒するあまり、満州に駐屯していた現役兵の多い屈強な師団には手をつけず、荒木貞夫が喝破したように、後備兵の比率の高い弱体な特設師団に上海・南京戦を戦わせた。いっぽう、軍内の拡大派もまた、目の前の中国との戦争を名目に臨時軍事費を獲得し、実のところ将来の対ソ戦に備えた拡充計画、国防国家化に予算の6割を振り向けていた。 陸軍の不拡大派も拡大派も、その実、中国と正対していなかったのである。『満州事変から日中戦争へ』1:張作霖爆殺あたりの軍事的・政治的背景『満州事変から日中戦争へ』2:石原莞爾ら陸軍中堅の考え方
2017.08.23
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図書館で『満州事変から日中戦争へ』という新書を、手にしたのです。1931年の鉄道爆破作戦は、日本近代史のまったくエポックメーキングな事件ではないか…ということで借りたわけでおます。【満州事変から日中戦争へ】加藤陽子著、岩波書店、2007年刊<「BOOK」データベース>より「満蒙の沃野を頂戴しようではないか」-煽動の背景に何があったのか。満蒙とは元来いかなる地域を指していたのか。1931年の鉄道爆破作戦は、やがて政党内閣制の崩壊、国際連盟脱退、2.26事件などへと連なってゆく。危機の30年代の始まりから長期持久戦への移行まで。日中双方の「戦争の論理」を精緻にたどる。<読む前の大使寸評>1931年の鉄道爆破作戦は、日本近代史のまったくエポックメーキングな事件ではないか…ということで借りたわけでおます。rakuten満州事変から日中戦争へ張作霖爆殺あたりの軍事的・政治的背景を、見てみましょう。p88~91<吉田茂の苛立ち> 眼目は二つ目の張作霖引退勧告にあったが、田中はこの項目を削除した。外務も陸軍も、張の下野が望ましいと考えていたので、有田八郎亜細亜局長や白川義則陸相は田中を説得した。しかし、田中は撤回に応じようとはしなかった。鉄道交渉や東三省政権の財政改革などを満鉄にやらせ、あくまで張を相手とする、この点についての田中の決意は固かった。田中がいる限り張を排除しえない。こうした認識は、陸軍の中に広まったであろう。 張を引退させるべきだと考えたのは陸軍だけではなかった。その1人に奉天総領事・吉田茂がいた。なぜ張はこれほど忌避されたのだろうか。東方会議後の「満蒙における懸案解決に関する件」(27年7月12日)をみると、外務省が、鉄道よりも「東三省の条約違反その他不法措置」解決を最優先課題としていたことに気づく。吉田は、イギリスが「12月メモランダム」で中国側に認めたワシントン付加税に強く憤慨していた。 25年10月、12ヶ国を集めて開催された北京関税特別会議(26年7月無期延期となる)は、28年7月7日、国民政府が不平等条約廃棄、新条約締結宣言をした時点で閉会となっていた。ワシントン会議で決定された中国関税条約第2条は、中国各地の地方政権の課している通行税であるリ金を廃止するため特別会議を開催し、リ金廃止が確認されて後初めて2.5%の増税を許す、と定めていた。 吉田にとってみれば、リ金の廃止もなれないままに、イギリス側の一存で中国全土での新税課税が始まったのは許しがたかったのであろう。吉田はまた、北伐軍との戦闘の軍費を補うため、張が東三省で行った紙幣乱発を批判していた。奉票と呼ばれたその紙幣が暴落すれば、日本からの綿布輸出が不利となるからである。 吉田の張作霖批判は辛辣であった。27年6月10日、「軍閥私闘の為に東三省の治安を撹乱せしめざる我が決意」を示すため、たとえば張にとって、最も重要な奉天工廠を占拠するか、山海関・トウ南・吉林など鉄道主要地点を日本側は占拠すべきだと具申していた。<張作霖爆殺> 基本的に「東三省の条約違反その他不法措置に関する件」を重視していた吉田など外務省の出先は、ワシントン体制からの逸脱を辞さない英米側の態度もあり、また北伐に対して日本軍が軍事的に干渉した結果起きた済南事件の衝撃もあり、中国側からの批判の矢面に立たされるようになっていた。吉田が、田中への意見具申の中で、張作霖以外の東三省実権者擁立を切望するようになってくるのにも、こうした背景があった。 28年6月3日午前1時15分、張は関外へ退去するため北京駅を発った。国民革命軍、北京入城の5日前のことである。張の乗る列車は、4日早朝、京奉線と満鉄線の交差する地点・皇姑屯で爆破され、張はその日のうちに死亡した。 事件は、関東軍高級参謀・河本大作らによって準備されたものだった。河本は、21年3月から23年8月まで北京の公使館付武官補佐官を、その後24年8月まで参謀本部支邦課支邦班長を務めた人物であった。 事件を知った蒋介石は翌5日の日記に「日本人の陰険たるやかくの如く、わが東北国防はいかにすれば強固にし得るだろうか」と記す。事件から1ヵ月余り前の4月27日、参謀本部第一部長・荒木貞夫と第二部長・松井石根に宛て河本が出した書簡が残っている。この手紙からは、国民革命軍による張作霖の撃破を、河本が強く望んでいたことが判明する。ウーム 公使館付武官には「殺しのライセンス」が許されているかのような所業であるなあ・・・・まさか河本大作氏がイアン・フレミングの愛読者だったとは思えないが(笑)。
2017.08.23
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図書館で『歴史と風土』という文庫本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、ウイグル族とか女真族とか、中華から見たら辺境の民族が出てくるわけで…これも大使のツボでおます♪【歴史と風土】司馬遼太郎著、文藝春秋、1998年刊<「BOOK」データベース>より司馬遼太郎という作家の大いなる魅力のひとつに、その話術の妙がある。歴史に対する深い造詣から紡ぎ出される数々の興趣つきない逸話は人の心を捉えて離さない。ここに収めたものは全集第1期の月報のために語り下ろしたものと「雑談・隣りの土々」という表題の雑誌連載から三篇(『司馬遼太郎の世界』所収)である。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、ウイグル族とか女真族とか、中華から見たら辺境の民族が出てくるわけで…これも大使のツボでおます♪rakuten歴史と風土古代の製鉄について、見てみましょう。p216~117<砂鉄業者のきた道> ここで話は変わって鉄のことに移りますが、中国大陸の鉄は多くは硬銑鉄です。非常に精錬法が違っていて、古代から鋳鉄なんです。それは大変高度な炉を持たなければできません。 ヨーロッパでは17世紀くらいに鋳鉄があらわれるわけですが、それを、中国では紀元前からやっていた。 日本やヨーロッパでやってきた鍛鉄というのは簡単なんです。うんと鉄を焼いて生こげにして、カンカンたたけば、鍛えた鉄になるわけです。中国では、古代から鋤、鍬でも鋳物です。近代の青竜刀に至るまで鋳鉄です。 中国の冶金技術は、やはり青銅をとかして鋳型に入れるのですが、鉄もまたとかして鋳型に入れるというのが、主でした。 ところが朝鮮半島では別の方法で精錬していたようです。鋳鉄のような優れた炉を用いなくても、極端にいえば、野焼きだって鉄はできるのです。 李朝以後、朝鮮は生産が遅れてしまったために、20世紀に入ってからでも、百姓たちが野焼きで鉄をつくっているのを見た学者がいるそうですね。 ともかくも、製鉄にはおびただしい木炭がいりました。その木炭は一山で、鉄数トンということで、大変な自然破壊をしないと鉄はできない。たちまちにして3,4世紀の朝鮮半島ははげ山になっていったでしょう。 朝鮮半島はモンスーン地帯から少し外れるので、樹木の復元力が少ない。それだけでなく、はげ山にした後、表土が吹き飛ばされるから山骨があらわれてそのために樹木の復元は非常にむずかしい国になったと思います。 そのころは国境意識も民族意識も余りなかったから、砂鉄精錬の業者たちは、朝鮮でのしごとに見きりをつけ、慶州のそばの迎日湾から船を出して、島根、鳥取、それから天日槍伝説のある但馬の竹野海岸あたりにやってきたのではないでしょうか。 彼らは5,6人で来るのではなく、かなりの生産組織で来たはずです。砂鉄探しをする者、木炭をつくる人、本格的に鉄を精錬する人たち、運び人、そして米、稗、栗をつくる農民まで連れてくる。男女入れて五百人とか千人とかにもなったでしょうか。組織化されていますから、フロンティアの中に入っていきますと、軍事的にも土着民に対して非常につよかったと思います。 砂鉄の採掘には鉄穴流しという、山にヤマタノオロチのごとく長大な人工の溝を掘ります。それで下流の平野の土着農民は、赤い土が流れてきて困るだけでなく、同時に砂鉄業者が連れてきている農民に圧迫されます。彼らは荒野を開拓して力をつけ、たちまち、その地域の首長になった、とはいえないでしょうか。 朝鮮半島にはうでに古墳文化が成立していました。かれらタタラの親分たちも、故郷の王や貴族にまねた古墳をつくりはじめた、という一面が、日本の古墳の発生にあるような気がしてなりません。『歴史と風土』1:古代満州を遊よくした高句麗人『歴史と風土』2:紀州の雑賀党『歴史と風土』3:関ケ原の意味『歴史と風土』4:土佐の風土
2017.08.23
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図書館で『歴史と風土』という文庫本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、ウイグル族とか女真族とか、中華から見たら辺境の民族が出てくるわけで…これも大使のツボでおます♪【歴史と風土】司馬遼太郎著、文藝春秋、1998年刊<「BOOK」データベース>より司馬遼太郎という作家の大いなる魅力のひとつに、その話術の妙がある。歴史に対する深い造詣から紡ぎ出される数々の興趣つきない逸話は人の心を捉えて離さない。ここに収めたものは全集第1期の月報のために語り下ろしたものと「雑談・隣りの土々」という表題の雑誌連載から三篇(『司馬遼太郎の世界』所収)である。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、ウイグル族とか女真族とか、中華から見たら辺境の民族が出てくるわけで…これも大使のツボでおます♪rakuten歴史と風土紀州の雑賀党を、見てみましょう。p62~64<紀州のこと> 有田の商工会の会長の雑賀某という人がいまして、えらい爺さんで孫市みたいな人ですが、それがある日、予告もなし、ベルも押さずに僕の部屋に入ってきたことがありました。それが自分は雑賀党のものであるが、一度雑賀党の小説を書いてくれというんです。話によると全国の雑賀党を組織して廻っているんだそうです。その人は蚊取り線香屋で自分で作ってるんです。あまり時代にあわないんですね。 今では蚊取り線香は大きなメーカーでつくるもので個人で造っている人なんてあまりいないでしょう。個人企業でつくるせいか渦巻きが凸凹になっていましてね。ところがこれが一番蚊が落ちるんじゃといって、蚊取り線香を新聞紙に包んでおいていったんです。ところがそれをつけてみると、なるほど蚊がよく落ちるのですね。それがまたなんともいえない滑稽な感じがしていたのです。 そのお爺さんは川崎のサイカ屋百貨店にまで訪ねていったらしい。サイカ屋さんも和歌山の人だから雑賀会に入ったようです。で、帰っては一所懸命商売している。 こんな滑稽な地帯というのは近畿地方にはないのです。こういう一種滑稽感を持った人材が出る地帯というのは山城国も丹波国も伊勢国にもないのです。もっと小賢しこくて理にも利にも合ったことをするでしょう。河内国は今東光さんによって書かれて随分ひょうきんな所になりましたけれども、庶民のひょうきんさで天下を呑むひょうきんさではないでしょう。雑賀党、つまり紀州人にはそういう人がいるのですね。 和歌山には今でも雑賀孫市が神前でヒ者をまねた踊りをしたという八咫烏神社があります。三本足の八咫烏が神社の門になっていて、大きな法螺貝が御神宝になっています。孫市が吹いたとも言い、雑賀党が使ったともいう言い伝えのあるものです。僕は会えませんでしたが、最近知人が行った時にそこの神主が雑賀孫市をボロクソに言ったそうです。あんな奴が出たからこの辺一帯が駄目になったんだと。 やっぱり雑賀党の雰囲気なんですね。それが紀州人の良さで、孫市で紀州が有名になったからうれしいなどとは思わないんです。孫市がそこで踊ったということが唯一の由緒である神社の神主がそういうことを言うあたり、おもしろいと思いました。 ただかわいそうなことに雑賀党は徳川時代には紀州徳川家の百姓として搾取される側に立ったわけですね。紀州徳川家の政治というのは、五十何万石を維持しなければならないというような、いろいろ同情すべき点もありましたけれども、非常に強い搾取をしています。日本の旧大名で一番悪い政治をしいた藩の1つだったかもしれません。税金が高かったのです。 天領では幕末でも幕府は政治の模範地帯として四公六民を守っています。諸藩は金がいるために五公五民になったりしていますが、紀州は六公四民までになったといいますから、相当搾取しています。『歴史と風土』1
2017.08.22
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図書館で『歴史と風土』という文庫本を、手にしたのです。ぱらぱらとめくると、ウイグル族とか女真族とか、中華から見たら辺境の民族が出てくるわけで…これも大使のツボでおます♪【歴史と風土】司馬遼太郎著、文藝春秋、1998年刊<「BOOK」データベース>より司馬遼太郎という作家の大いなる魅力のひとつに、その話術の妙がある。歴史に対する深い造詣から紡ぎ出される数々の興趣つきない逸話は人の心を捉えて離さない。ここに収めたものは全集第1期の月報のために語り下ろしたものと「雑談・隣りの土々」という表題の雑誌連載から三篇(『司馬遼太郎の世界』所収)である。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、ウイグル族とか女真族とか、中華から見たら辺境の民族が出てくるわけで…これも大使のツボでおます♪rakuten歴史と風土古代満州を遊よくした高句麗人を、見てみましょう。p199~201<高句麗人は、すべて扶余なり> 話はまた草深き古代満州の世界に戻りますが、満州の後背に広がっているシベリアは、非常に低くて、むろん、タイガという森林が育っているし、ここでは、さほどには遊牧はできません。遊牧のグループはいたようです。大遊牧国家を形成するほどの条件はありませんでした。それにくらべると、満州は地面が高く、ちょっと別の地域になるわけです。 北京に行くと、八達嶺という所に長城を見学に行きます。その万里の長城の上に立って、向こう側の満州の方を見ますと、非常に鋭い傾斜が裾をひいています。今は公園化して、木を植えていますが、昔ならば木を植えては防衛にならず、草だけのズンベラボウにしておく。そういう傾斜だと馬をかついで上がるわけにはいかず、まして城壁があって阻まれます。騎馬民族というのは、馬を捨てたら、ただの人で、だから長城一重で防げます。山海関の関所さえ扉を開けなければ、彼らは入ってこないんです。 ですから、長城の存在が実証するように、古代は万里の長城の向こう側は、漢民族の居住地ではなかったわけです。先ほど戦国の趙の話が出ましたが、おなじく戦国七雄の一国で、「燕」という国を考えることが、満州については重要です。紀元前222年に秦に滅ぼされるのですが、それまでは現在の北京付近から河北省にかけてひろがっていました。 現在の長城に接しているために、異民族からのたえざる圧迫があったと思います。その版図は半乾燥地が多いために、旱魃があると、農民は満州に逃げてゆき、耕作しました。満州における農耕のはじまりについては、燕の農民の活躍が見のがせないでしょう。満州に燕の農民の耕作地ができると、燕の役人や軍人がやってきて徴税し、管理する。従って燕の版図は満州までひろがったのです。 だから紀元前数百年前には、いわゆる漢民族領地は、そこまで膨張していたということがあって、遼東半島ぐらいには及んでいたろうという想像がつきます。くだって漢が一時、遼東半島及び朝鮮の一部の分割を強いたりしていますので、満州は中国人の十分な可視範囲になっていました。さらにはいまの遼寧省あたりを行政化していることから見まして、満州は必ずしも、固有の満州・ツングース語グループのもののみではなかったということが言えます。 しかし、やっぱり満州にはツングース固有の文化があった、と思いたいですね。 話は変わりますが、私は10年ほど前に韓国に旅行して、扶余の町に行きました。非常にいい所でした。ところが一番わたしにとって気になるのは、扶余という言葉です。扶余という言葉は、かつて地名でもあり、種族名でもあったと思うんです。 その地名は、今の中国東北地方の吉林省の扶余という所と、同じ文字を書きます。その扶余という所から、朝鮮半島に、グループが出ているんです。「高句麗人は、すべて扶余なり」と言われています。これは北朝鮮です。 百済は王朝のみ扶余族であると言われている。だから、百済は、もとは扶余族が南下して征服した王国かも知れません。新羅はちょっと一概には言いにくい。 要するに「扶余族」というのは、もともと満州にいた民族でしょう。少なくとも高句麗というのは、扶余族が朝鮮半島に南下定着して、さまざまの条件によって高い文化をつくりあげたものと考えます。 燕が勢力を南満州、遼東半島にまで伸ばしたという時に、扶余族は当然その影響を受け、素朴を脱し、農耕化したであろうと想像します。 農業というものはより優れた適地を求めて、移動します。農耕化した扶余族は当然、南方にある朝鮮半島の適地を求めて、移ったのでしょう。それが、後に言われる高句麗一円で、王国を作ったのではないか。ウン 司馬さんは、女真族、高句麗人とかツングース語グループにロマンを感じていたようですね♪
2017.08.22
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「中華」でしょうか♪<市立図書館>・満州事変から日中戦争へ・歴史と風土・カツ丼わしづかみ食いの法則<大学図書館>・地球遺産最後の巨樹図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【満州事変から日中戦争へ】加藤陽子著、岩波書店、2007年刊<「BOOK」データベース>より「満蒙の沃野を頂戴しようではないか」-煽動の背景に何があったのか。満蒙とは元来いかなる地域を指していたのか。1931年の鉄道爆破作戦は、やがて政党内閣制の崩壊、国際連盟脱退、2.26事件などへと連なってゆく。危機の30年代の始まりから長期持久戦への移行まで。日中双方の「戦争の論理」を精緻にたどる。<読む前の大使寸評>1931年の鉄道爆破作戦は、日本近代史のまったくエポックメーキングな事件ではないか…ということで借りたわけでおます。rakuten満州事変から日中戦争へ************************************************************【歴史と風土】司馬遼太郎著、文藝春秋、1998年刊<「BOOK」データベース>より司馬遼太郎という作家の大いなる魅力のひとつに、その話術の妙がある。歴史に対する深い造詣から紡ぎ出される数々の興趣つきない逸話は人の心を捉えて離さない。ここに収めたものは全集第1期の月報のために語り下ろしたものと「雑談・隣りの土々」という表題の雑誌連載から三篇(『司馬遼太郎の世界』所収)である。<読む前の大使寸評>ぱらぱらとめくると、ウイグル族とか女真族とか、中華から見たら辺境の民族が出てくるわけで…これも大使のツボでおます♪rakuten歴史と風土************************************************************【カツ丼わしづかみ食いの法則】椎名誠著、毎日新聞出版、2014年刊<「BOOK」データベース>より人生的ヨロコビの瞬間。【目次】1(アジアジモウロウ日記/「世界遺産」ってなんだ? ほか)/2(人生のお勘定/ビールを飲むのもタタカイだ。 ほか)/3(「うちゅくちい国」はどこに/一七年ぶりのバリ島 ほか)/4(今夜も眠れない…が/麺談風発 ほか)/5(攻撃的距離からの逃走/どたばたカンヅメ日記 ほか)<読む前の大使寸評>追って記入rakutenカツ丼わしづかみ食いの法則************************************************************【地球遺産最後の巨樹】吉田繁, 蟹江節子著、講談社、2002年刊<「BOOK」データベース>より【目次】プロローグ 地上に残った巨樹たち/奇樹バオバブ(マダガスカル)/世界一の巨樹の森(米国カリフォルニア州)/世界最長寿の樹(米国カリフォルニア州東部)/樹幅世界一の巨樹(メキシコ)/台湾神木十傑(台湾)/日本最大級の巨樹(日本)/宝石になった巨樹(米国アリゾナ州)/古代文明を支えた巨樹(レバノン)/森を失った国に残された巨樹たち(イギリス)/星の王子さまのバオバブ(ジンバブエ)/世界一の巨樹発見(南アフリカ)/世界を創った森の神(カナダ クイーン・シャーロット諸島)<読む前の大使寸評>全ページにわたってカラー写真満載の大型ビジュアル本である・・・写真と文章の著作コンビが世界中を訪ねた熱意と薀蓄がええでぇ♪rakuten地球遺産最後の巨樹************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き240
2017.08.22
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図書館で『何も持たず存在するということ』という本を、手にしたのです。目次を覗いてみると、読書関連のエッセイも数点あり・・・借りることにしたのです。【何も持たず存在するということ】 角田光代著、幻戯書房、2008年刊<「BOOK」データベース>よりへらへらした大人になりたい。大仰さがまるでない大人に。切なく、おかしな、心の記録。最新エッセイ集。【目次】父とアカエボシの食卓/ラーメン激戦区在住/体の喫煙命令/小説の打ち合わせ/もう夏なのか!/祖母の梅、私の梅、ボクシング観戦/待つということ/海辺の結婚式/機内の旅〔ほか〕<読む前の大使寸評>目次を覗いてみると、読書関連のエッセイも数点あり・・・借りることにしたのです。rakuten何も持たず存在するということ作家の読書について、見てみましょう。p156~159<本が映す自分> 小説を書く人間にしては本を読まないと、ずうっと言われてきた。20代のころのことだ。23歳で私は小説を書きはじめたのだが、周囲にいる編集者、同業者はみな年上で、彼らに比べたら私は本に関してまったくの無知だった。だれそれを読んだか、と訊かれ、名前も知りません、と素直に答えては幾度もあきれられた。小説を書くんだったら本を読みなさい、と幾人もの年輩者に言われ、書くことと読むことがどうつながっているのかわからないまま、私は遮二無二、本を読みはじめた。 なんでも読んだ。新刊紹介の仕事も進んで受けた。その結果わかったことがある。世のなかに、つまらない本というのはそうそうない、ということである。もちろん人と人とのように、人と本の相性はある。相性が合わない本はあるが、読むに値しない本はない。 20代の私に相性がばっちり合い、仕事と関係なくむさぼり読んだのは内田百ケンと尾崎翠である。まったく異なる作風の二人だが、共通点がある。現実とは微妙にずれた場所に、一瞬にして読み手を連れ去るところである。それはまったく心地いいトリップ感だった。 食べたことのないものを口にして、おいしい、とびっくりするときと、うへえ、と慣れなさ故に顔をしかめるときとある。本もまったくおんなじで、思えば20代の私は、なんでも口に入れ、合うものと合わないものを捜していたような気がする。 それはつまり、自分自身を知ることでもあった。みんながおいしいと口をそろえるものでも、私にはおいしくないことがある。だれも好んでは食べないゲテの域のものでも、食べずにはいられないものがある。ひどく個人的なその嗜好を知っていくことは、自分自身と出会うことと同義なのだ。 30代に入って、20代のころみたいに、なんでもかんでも読まなくなった。もはやワカモノでない私に、もうだれも本を読みなさいなどとは言わないし、以前より私は自分の読書嗜好を知っている。 本の読み方が変わって、驚いたことがひとつある。十代のころに読めなかったものが、びっくりするほどするする読めて、ときにものすごい感動をしてしまう、ということである。 たとえば川端康成。高校生のころ、私はこの作家が苦手だった。退屈で、古くさいと思っていた。それが数年前、何気なく手にとって読み、度肝を抜かれた。簡潔な言葉、映像がいちいち浮かぶ文章、書かれていることの奥深さ。古くさいどころか、平成の今読んだってまったくあたらしい。1時期私は川端康成に夢中になった。 当然のことながら、これは本の変化ではなくて読み手である私の変化である。高校生の私は、川端康成には不釣合いな子どもだったのだ。年齢を経て、立派な大人になったとは言い難いが、しかしそれでも未知の体験をし、十代のころには知り得なかった感情の引き出しを持っている。 このことに気づいてから、以前読まなかったもの、相性が悪いと見切って遠ざけていたものに、私は再度チャレンジするようになった。読みたい本は増える一方である。(中略) 本は人の心を豊かにするとか、人を劇的に変化させるとか、私はあんまり信じていない。本はいつだって私たち自身の鏡なのだと思う。成長すればその成長が、怠惰にしていればその怠惰が、くっきりと映し出される。自分でも知らなかった自分の姿を、ときに残酷なまでに映し出してしまう媒体は、本をおいてほかにないと私は思っている。そしてもちろん、この鏡を持っていることは私たちにとってとてつもなく幸福だ、とも思う。ウーム これほど本を読まずに作家になったのがすごい…という気もするのだが。
2017.08.21
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図書館で『ひとは情熱がなければ生きていけない』という本を、手にしたのです。おお 浅田さんのエッセイ集ではないか…個人的ミニブームの一環として、この本を外すわけには、あかんのや♪【ひとは情熱がなければ生きていけない】浅田次郎著、海竜社、2004年刊<「BOOK」データベース>より陸上自衛隊に入営する朝、住みなれたアパートを片付けながら、十九年を生きてきたおれの身軽さに驚いた。-行動する力、挑戦する勇気は、ひそかな情熱から生まれる。熱く生きてこそ、「自分の人生」である。<読む前の大使寸評>おお 浅田さんのエッセイ集ではないか…個人的ミニブームの一環として、この本を外すわけには、あかんのや♪rakutenひとは情熱がなければ生きていけない浅田さんが映画『鉄道員』を語っているので、見てみましょう。p85~91<小説と映像の未来> 作品が次々と映像化されて、忙しい日々が続いている。 本当のこと言うと、私にとってはどうでもいいのである。なぜなら私の作品は小説『鉄道員』なのであって、映画『鉄道員』は私の小説を基とした、降旗康男監督の作品だからである。私自身がスタッフの一員として脚本を書いているならともかく、ただの原作者なのだから、べつのクリエーターが築いた作品についてとやかく口を挟む権利はない。 「どうでもいい」というのはつまり、芸術作品としての映画を、同じクリエーターのひとりとして客観的に尊敬しなければならない、というほどの意味である。 このさき永遠に続くであろう小説と映像との平和的共存のために、もしくは新たな文化のために、われわれは相互にこうしたスタンスを維持して行かねばならないと思う。 したがって、映像化に応じて私が忙しくなるのは、原作者としての責任を感じているからではなく、サービスである。そしてほんのちょっと、映画化によって原作がさらに多くの読者を獲得できればいい、と思う。こうした助平心もまた、両者の平和的共存の上には必要なことであろう。 でも、嬉しい。やっぱり嬉しい。 秋虫のすだき始めた夜更け、茅屋のお勝手でひとりヤキソバを作りながら、突然天から降り落ちてきた「鉄道員」である。 一気呵成に書き上げ、スパゲティーを食いながら編集者に渡した。それがあろうことか「小説すばる」の巻頭掲載となり、さらにあろうことか単行本の表題作となって直木賞をいただき、あまつさえあろうことか短篇集としては記録的ベストセラーになって税吏を喜ばせた。 そこに映画化の吉報。佐藤乙松が高倉健さんだと聞けば、何を隠そう健さん主演の映画をすべて観ている私は、つとめて平静を装いつつ狂喜した。 今や原作より有名になってしまったオビのキャッチ・コピーは「あなたに起こるやさしい奇蹟」。この本を読んだ人にはきっといいことがあるよ、という素朴な祈りおよび素朴な下心をこめた傑作コピーであるが、何のことはない、奇蹟にあやかったのはてめえであった。(中略) 物語の表現手段として映画が登場したのは、わが国においては明治末期から大正の初めにかけてである。その歴史も、はや百年を数えるのだが、実はわれわれの先輩たちはその間、さほどの脅威は感じていなかった。 おそらく、映画は芝居の一畸形、もしくは代償物であろうと誰もが考えていたのだと思う。多くの小説が映画化されたにもかかわらず、原作者は常に超然と構えており、小説と映像との関係を真っ向から論じた作家はほとんどいない。 だが、幼いころから映像を日常の一部に取り込み、その可能性も娯楽上の優位性も十分に知悉しているわれわれ世代にとって、映像は職業的アイデンティティにかかわる脅威なのである。 なぜ小説が昔ほど読まれなくなったのか。この答えほど簡単なものはない、われら映像世代の子供らが、幼いころの時間割のまま大人になり、またその子供らも親に倣って、人類が長い間書物をひもといてきた貴重な時間のすべてを、テレビや映画やコンピューターの前に捧げつくしてしまった結果なのである。 文化がそういう形に変容したわけではあるまい。生活が変形したのである。しかし、生活の持続は、文化である。 われわれがいま、最も恐れねばならないのは、小説がその本来の特性を放棄して映像におもねることではあるまいか。 映像世代の作家は、ともすると頭の中にスクリーンを置き、そこに映し出される映像をデッサンすることで作品を完成させようとする。むろん私も、そうした小説の書き方から免れぬひとりである。 しかしそのような方法ででき上がった作品は、けっして映像関係者の興味をひかない。なぜなら彼らは映像のプロフェッショナルなのだから、そんな小説ならはなから脚本で書いたほうがよいのである。『ひとは情熱がなければ生きていけない』1:自衛隊での生活『ひとは情熱がなければ生きていけない』2:漢籍に惹かれる浅田さん『ひとは情熱がなければ生きていけない』3:「破滅」への衝動
2017.08.21
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図書館で『にっぽん全国百年食堂』という本を、手にしたのです。おお シーナの得意なルポ旅もの(各県2店厳選)ではないか♪ルポ先が東日本に片寄っているが…良しとするか。【にっぽん全国百年食堂】椎名誠著、講談社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりずーっと続いているのがエライ!北は釧路から南は石垣島まで。和食洋食からラーメン、ジャンクフードまで。おらが街の名物食堂42店。汗をかきかき、ビールをぐびぐび。どこへいっても楽しかったうまかった、4年がかりの探訪記。【目次】青森 喜びも悲しみもあんまりねがったなあ/北海道 銅釜に手打ち。きれいはうまい/岐阜 ともに独自に75年/群馬 関東ソースカツ丼包囲網/福島 みちのく最古ラーメン探訪/新潟 和的洋食の歩んできた道/福井 越前おろしそばにあとずさる/静岡 元気な店は気持ちがいい/長野 女将がつなぐ百年の貫禄/沖縄 ぬるくもうまい八重山そば〔ほか〕<読む前の大使寸評>おお シーナの得意なルポ旅もの(各県2店厳選)ではないか♪ルポ先が東日本に片寄っているが…良しとするか。rakutenにっぽん全国百年食堂最古ラーメンについて、見てみましょう。p49~53<福島:みちのく最古ラーメン探訪> 前に簡単に書いたが、少しまえ約2年にわたって、ある小説雑誌で全国のあらゆる麺(蕎麦、うどん、ラーメン、ソーメン…等々)を食って、どれが一番うまいか、という、大変ご苦労さまな、うまくて苦しい(1日に7,8麺を食うのだ)取材仕事をした。 題して「すすれ! 麺の甲子園」。 その実地踏査の結果わかったことは、日本は世界でも稀な「麺大国」であり、同時に「ラーメン大国」でもある、ということだった。 全国どこへ行ってもラーメン屋は必ずあり、長年にわたって、どこそこのラーメンはうまいとか、いやこっちのほうが断然絶品!などというガイド、評論のたぐいでけんけんゴウゴウ。テレビはネタがなくなるとタレントをラーメン屋に行かせて「すご…い!」とか「まいう…」などと言わせてお茶の間をにぎわすというかお茶をにごしてきた。 人々はそういう話題にあおられ、うまいラーメン屋と聞くと行列をつくり、それによって店の親父がカン違いして作務衣などはおり「無限天竺細長流」とか「秘伝鳴門細切海苔麺道」などとわけのわからない説法をカウンターの向こうで叫んだりして、もうたいへんなことになっているのを目の当りにした。 そしてそういう行列のできる店がかならずしもうまいとは限らず、話題先行で、さまよえるラーメン小僧(親父も姉ちゃんもいるが)らが錯覚の味覚に喜んでいるだけだったりするのだった。(中略) 年明け早々、我々取材班(いつものメンバー4人)は福島県の会津若松市にむかった。道々、取材リーダーの西澤から(この取材は)相手の許諾をもらうのがけっこう難しいんですよ。という思いがけない話を聞いた。理由は簡単なことだった。 ただ古いというだけの店なので、これまであまりマスコミに取材されたことのない店が多い。だから取材したいという話をしてもチンプンカンプンになることがよくある。取材されるかわりにカネを取られる、というケースを想定される場合もあるという。それから全国で販売されている雑誌に載せられたとしても、北海道や九州から客がやってきて大繁盛する、というわけでもないだろう。(中略) そのようなことを話しているうちに「三角屋」に着いた。本当は「坂本屋」というのだが、三角形の土地に建っているので、町の人がみんなそう呼ぶようになってしまい、いつしか店のほうも「三角屋」と自認するようになってしまった、という、これぞ愛される庶民の店…とでも言えるような微笑ましい逸話ではないか。 なるほど暖簾には「三角屋」と染めぬいてある。脇の看板に「みちのく最古の手打ち中華そば」とある。店内はかなり広く、テーブルが20卓ぐらいあった。 営業時間は11時からである。それより少し前に着いたのだが、すでに客がいた。いかにも地元の常連客ふうのおじさんおばちゃんだがストーブを囲んで世間話をしている。 調理用の白衣を着た4代目の西田一彦さん(74歳)と、5代目を継ぐ予定の息子さん西田弘一さん(46歳)が我々を迎えてくれた。 4代目、5代目なんて歌舞伎役者か噺家みたいだが、こういうところが「百年食堂」の凄いところだ。創業年はお店の人にもわからないらしいが大正初期にはもうやっていたという。初代の西田留吉さんは井戸掘り職人で全国を渡り歩いていた。そのときに横浜あたりでラーメン作りを覚えて、ここで開業したのではないか、と4代目は言う。けれど当時は豚でダシをとったので、話題にはなったけれど肉食はまだ馴染みが薄く、商売にはならなかったらしい。 でも生き残ったのはなぜなのか。 推測の域を出ないのだが「すすれ! 麺の甲子園」で約2年全国のラーメン屋を取材した感覚で言うと、時代背景を考えるに「ラーメン」そのものが珍しかったからではないか、と思う。 日本で最初にラーメンを食わせた店はどこか、ということになると諸説あって互いに譲らず、どうしようもないので触れないが、たぶん「百匹目の猿」のようなものなのだろう、とぼくは思う。世界のあちこちに散らばっている猿が、泥で汚れた芋を川の水で洗って食いはじめたのが、ほぼ同時だった、というアレである。離れた地にいて情報交換できない猿が、同じタイミングで賢くなったのは、ナニゴトにもそういう同時多発性がある、ということ(だったような気がする)。『にっぽん全国百年食堂』1
2017.08.20
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図書館で『にっぽん全国百年食堂』という本を、手にしたのです。おお シーナの得意なルポ旅もの(各県2店厳選)ではないか♪ルポ先が東日本に片寄っているが…良しとするか。【にっぽん全国百年食堂】椎名誠著、講談社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりずーっと続いているのがエライ!北は釧路から南は石垣島まで。和食洋食からラーメン、ジャンクフードまで。おらが街の名物食堂42店。汗をかきかき、ビールをぐびぐび。どこへいっても楽しかったうまかった、4年がかりの探訪記。【目次】青森 喜びも悲しみもあんまりねがったなあ/北海道 銅釜に手打ち。きれいはうまい/岐阜 ともに独自に75年/群馬 関東ソースカツ丼包囲網/福島 みちのく最古ラーメン探訪/新潟 和的洋食の歩んできた道/福井 越前おろしそばにあとずさる/静岡 元気な店は気持ちがいい/長野 女将がつなぐ百年の貫禄/沖縄 ぬるくもうまい八重山そば〔ほか〕<読む前の大使寸評>おお シーナの得意なルポ旅もの(各県2店厳選)ではないか♪ルポ先が東日本に片寄っているが…良しとするか。rakutenにっぽん全国百年食堂トンカツやらソースカツ丼の生い立ちについて、見てみましょう。p41~45<群馬:関東ソースカツ丼包囲網> 今回は群馬県である。いつものように二軒の集中取材だが、どちらも「ソースカツ丼」である。ぼくは東京に生まれ、東京で暮らしているので「ソースカツ丼」にはなじみがない。その存在を知ったのはせいぜい5,6年ぐらい前のことだった。丼の上にソースをつけたカツが乗っているという。んなもの食うなら「トンカツ定食」を食えばいいではないか。丼のごはんの上にトンカツをのせて何が嬉しいのだ。ケッ、にせカツ丼め、と思ったものだ。 博識で知られた映画監督、山本嘉次郎の『日本三大洋食考』(昭文社)はぼくのタカラモノ本のひとつだが、トンカツの元祖はカツレツで当然牛肉。それがいつのまにかトン(豚)にかわってしまった。あまつさえそのうえにケチャップをかけてる店がある…とたいへん怒っている。 さらに「ポークカツレツとトンカツとどう違うかといえば、肉が薄くて、ウスターソースをじゃぶじゃぶかけて、ナイフとフォークで食うのがポークカツレツであり、肉が厚くて、トンカツソースがかかっていて、適宜に切ってあって、箸で食うのがトンカツなのである」と断言している。 カツ丼の発祥にはいろんな説があり、1913年(大正2年)にはソースカツ丼が東京の早稲田で誕生していたらしい、という。さらに『とんかつの誕生』(岡田哲)には、1921年(大正10年)に早稲田の学生、中西啓ニ郎が今のカツ丼(煮カツ丼)の原型をつくり出した、という記述がある。そうだとするとソースカツ丼は我らの知る煮カツ丼よりも先に世に出現していたことになる。 で、時は移って『全日本「食の方言」地図』(野瀬泰申)は、PCのネットワークを使って結果的に初めて日本中の食文化勢力地図をかたちづくった画期的な内容となったが、そこには「首都圏はソースカツ丼に包囲されている」というタダナラヌ見出しが躍っている。 それによると長野、群馬、福島、山梨はむかしから圧倒的なソースカツ丼多発地帯でありこれに(未調査の栃木が加わったら)東京はソースカツ丼に完全に包囲されてしまう。ただちに降伏せよ状態、ということだ。 東京ではネコでも知っている常識の「煮カツ丼」(わざわざ煮という文字をつけるのがいまいましい)で育ってきたものとしてはなんだか落ちつかない。そしてこの本に寄せられた情報のなかに、ソースカツ丼の本家発祥の店は創業約80年、群馬県桐生市の「志多美屋」であると書いてあるのを発見した。 「行かねばなるまい!」 我々は立ち上がった。いつものように西澤にヒロシに海仁にぼくである。東京からクルマでむかった。途中なにごともなく、午後1時には桐生の街中の、なんだかやたらに派手な店に到着した。なにが派手かって外壁が全部太い黄色い横縞模様である。巨大なゼブラが寝ているようだ。おそるおそる店内進入。 迎えてくれた店主は三代目の針谷智之さん46歳。驚いたのは1時をすぎているのにほぼ満席状態だったことだ。つまり流行っている、ということだ。しかも客はみんなソースカツ丼を食べている。しかも女性というかおばさんが多い。おばさんは女性なのだから「女性が多い」とだけ書けばいいじゃないか、とおばさんは言うかもしれないが「おばさんとソースカツ丼はよく似合う」ということを我々はそのときほぼ同時に確信してしまったのだ。 「本来女性はあまりカツ丼は食べないのです」。全国のあらゆる食いもの事情にくわしいヒロシがやや感動した顔で言う。とはいえこのヒロシは当初からソースカツ丼には批判的であった。「群馬県がソースカツ丼の発祥の地であり、なおかつ流行っているというのは、群馬県が名にしおうカカア天下の牙城であることと密接不離の関係にあるのであります」と彼は道々叫ぶようにして言っていた。「なぜならばソースカツ丼はどんぶりごはんの上にトンカツをのせてソースをかけただけの手抜き丼です。亭主にチャッチャッチャとこういうお手軽なのを作って自分はカラオケなんかに行ってしまうのです」。ヒロシの力説は続いた。 「その点、普通の煮カツ丼は、だしをとってそこにタマネギなりを入れてトンカツを柔らかく似てタマゴでふっくらと仕上げる。警察の取り調べなどのときにたいていこのトンカツとタマネギをタマゴでふっくら温かく煮たカツ丼をだされ、そのとたんにふるさとの母親の顔を思い出し、じーんときて、ハイたしかにわたしがやりました、などと犯人は落ちるのです。ドンブリにただトンカツがでんとのっただけのソースカツ丼を出されておふくろを思いだしますか。ナンダコレハと言ってさらに反抗的になるだけです」ウン かつて東京で食べた煮カツ丼は、関西人の大使も驚くほど旨かったでぇ♪
2017.08.20
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図書館で『習近平時代のネット社会』という本を、手にしたのです。「微博」「微信」などによる世論形成を問題視する習近平政権は、ネット環境の統制を強化する…との報道が流れていてホットな社会現象である。【習近平時代のネット社会】 古畑康雄著、勉誠出版、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国のインターネットの発展は、7億の網民(ネット市民)が発言・交流する空間を生み出した。特にモバイル時代に入り「微博」「微信」など交流アプリが世論形成に大きな役割を果たしている。だが言論空間の主導権を奪われることに脅威を抱いた習近平政権は強い言論統制という「壁」を築く一方、利便性の高いネット環境を提供し、網民を囲い込もうとしている。「壁」と「微」の空間で何が起きているかを考察する。<読む前の大使寸評>「微博」「微信」などによる世論形成を問題視する習近平政権は、ネット環境の統制を強化する…との報道が流れていてホットな社会現象である。rakuten習近平時代のネット社会中国語メディアの歴史認識を、見てみましょう。p208~211<中国語メディアにおける日本観> 13年7月14日、人民日報の微博が、中国中央テレビ(CCTV)の報道内容を伝えた。 「『中日戦争で多くの中国人が死んだが、知っていますか』『知らない』『南京大虐殺を知っていますか』『うーん、忘れた』…安倍政権は『侵略、南京大虐殺』などを教科書から抹殺しようとしている。日本の教科書は改ざんにつぐ改ざんで、真実からますます遠ざかっている。歴史を正視できない国が、どうやって未来をはっきりと見分けることができるだろうか」という内容で、番組のビデオ映像も添付されている。 一見して、ひどい内容だと思った。おそらくは学校で歴史をまだ学んでいない、中学1年生くらいの生徒数人に、街頭で突然インタビューした感じだ。聞かれた方は戸惑った様子で、「知らない、分からない」と答えたのだろう。そしてその後は歴史教科書に批判的な日本人へのインタビューだけを流し、記者の「歴史を正視できない国が」云々のコメントで終っている。 通常、このような取材をする場合、しかるべき学校や教育委員会に取材を申し入れ、歴史授業の様子を取材したり、教員、生徒から学校できちんと話を聞いたりすべきだ。自分の主張に沿ったコメントだけでなく、反対の声も取り上げなければならないのはメディアとして当然のやり方だが、CCTVは「初めに結論ありき」なのだろう。 カリキュラムの都合で歴史、しかも近現代史を教わっているかどうか分からない子供に、初めから自分が望んでいたようなインタビューをして、それをもって日本政府がどうだとか、未来がどうだとか言うのはあまりに問題が大きい。 近現代史については、NHKのドキュメンタリー番組「日本人がなぜ戦争に向かったのか」など、教科書以外にも様々な場を通じて学ぶことができる。そうした日本社会の取り組みを伝えずに、街頭のいいかげんな取材で「歴史を正視できない国が」などと言うCCTVのレベルには本当に恐れ入る。 だが、この報道を見た網民は、心配したほど愚昧でも、洗脳されてもいなかった。約1万7000本のコメントの一部を見ると、中国政府の歴史教育への批判が強いことがうかがえる。 「あなた(人民日報)は中日の民族の恨みを煽ることはできる。だが南京大虐殺よりも凄惨だった中国人が中国人を殺した歴史を、人民日報はなぜ書けないのか? 文化大革命、3年の大飢饉、国民党が正面で日本と戦った事実など、歴史書では軽く触れているだけで、詳しくは書かれていない。更に我々の歴史書にはある事件(天安門事件)が抹殺され、まるでなかったかのようだ。歴史を正視できない国に、未来はあるのか」 「歴史を正視しようとしない国が、他国に歴史を正視するようどうやって要求できるのか。歴史を反省しようとしない国が、他国に歴史を反省するようどうやって要求できるのか」 「中国政府とparty(共産党)は真実の歴史に向かい合っているのか」 このようなコメントはきりがないのでこのくらいにする。さらに興味深いのが、この報道を受けて大手サイト『網易』がネットユーザーに「中日歴史教科書」という調査を始めたことだ。この調査によると、「日本の教科書は歴史を悪意をもって改ざんしている」という意見と、「中国の歴史教科書は白は黒と言いふくめている」を支持するという意見が、13年7月時点でそれぞれ2727、8932と明らかに中国の教科書を否定する声が多いことだ。中国の教科書を批判する側には、日本の扶桑社などの教科書の採択率が低いことや、歴史の教科書で日中戦争の経緯や南京事件について記述してあるとの指摘もある。 このような調査をネットでできること、そして網民がこのように堂々と中国の歴史教育を批判できること、人々がCCTVをメディアとしてあまり信用を置いていないこと、こうしたことに「もはや我々は一方的な情報操作に騙されないぞ」という中国社会の世論の成熟ぶりを感じる。 日本の政府やメディアも、こうした中国のネット世論の動向を正確に把握し、適切な発信を続けていくことで、中国の民間世論をより理性的な方向に変えていくことも可能ではと考える。『習近平時代のネット社会』1
2017.08.20
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図書館で『ひとは情熱がなければ生きていけない』という本を、手にしたのです。おお 浅田さんのエッセイ集ではないか…個人的ミニブームの一環として、この本を外すわけには、あかんのや♪【ひとは情熱がなければ生きていけない】浅田次郎著、海竜社、2004年刊<「BOOK」データベース>より陸上自衛隊に入営する朝、住みなれたアパートを片付けながら、十九年を生きてきたおれの身軽さに驚いた。-行動する力、挑戦する勇気は、ひそかな情熱から生まれる。熱く生きてこそ、「自分の人生」である。<読む前の大使寸評>おお 浅田さんのエッセイ集ではないか…個人的ミニブームの一環として、この本を外すわけには、あかんのや♪rakutenひとは情熱がなければ生きていけない漢籍に惹かれる浅田さんを、見てみましょう。p54~57<背広と書物> 漢籍に興味を持ったのはいつのことだったであろうか。たぶん中学生の漢文の授業がその発端なのであろうが、以来私は漢字と漢文に魅了され続けている。文字のひとつひとつが深遠な意味を持ち、それらのつらなりが、力強く、簡潔で、美しい文章となる。人類の叡智は遥か史記の時代に完成されており、それからの世界中の文学はみな、退行でこそあれ進歩など何ひとつないのではないかと、思うこともある。 鳥獣はみな、さえずりや咆哮によって相互の意思を伝達し合う。言葉は人間の声である。ならば鳥獣のいななきと同様、力強く、簡潔で、美しい声がすぐれた言葉であるといえる。そうした言葉の始源性をたがえぬうえに、最小の語量で最大の情報を包摂している漢語は、やはり完成された言語というべきであろう。 ところでわが国では、近代に言文一致の運動が行われて、文章にたずさわる者はみな、日本語の新しい表現法を自らの文体とするようになった。すなわち日本語の自由な散文表現は、たかだか百年の歴史しかないと言っても良い。 その百年の間には、鴎外のように漢文の骨格を大切にしたあ作家もおり、漱石のようになよやかな和文体を用いた作家もいた。やや遅れて、芥川龍之介はその持ち前のディレッタンティズムに物を言わせて、和漢の教養の上に翻訳文の構文を融合させるという文体を創造し、志賀直哉は「話すように書く」言文一致の理想に最も適応した、わかりやすい小説文体の嚆矢となった。 では現況はどうであるかというと、先人たちの文体とはほとんど血脈のない、純血の英語翻訳文体が主流となっている。時代が若くなればなるほど、和漢の伝統的文体は学問とみなされ、教室の外に出れば誰もが翻訳小説を読み、ハリウッド映画を見続けてきた当然の結果であろう。また文学をめぐる社会環境の全体も、急激にアメリカを指向してしまったので、そうした教養の吸収方法に無理や無駄がなかった。 私は高度成長期に生まれ育ったにもかかわらず、漢籍というふしぎなお里を持っていた。東京の生まれであるのに、若い作家や編集者たちと会話をすると、笈を負って上京してきたようなコンプレックスを感ずることがある。 小説に対する考え方は頑固で柔軟性がなく、本稿を読んでもわかる通り、文体は接続詞を多用したロングセンテンスで対句表現も多く、一見簡潔なように見えて修飾過剰である。これらはみな、「お里の慣習」である。子供の時分から小説家を志して、才能はともかく努力に憾みはなかったと信じているのだが、デビューが遅れた最大の原因は、今の世間が私のお里の慣習を理解してくれなかったせいであろうと思っている。中国を材にした小説を二つしか書いていない理由も、「近しすぎてつまらない」というのが本音である。いざ書こうとすると、想像の翼が自由に拡がらぬ。 江戸っ子の祖父や父は、身なりだけはきちんとしろと私を躾けた。だが百着の背広をブティックさながらに揃える私の生活は、その躾けとはさほどかかわりあっていないと思う。 読書人たるものはけっして弊衣蓬髪であってはならず、常に威儀を正して先人の書物に向き合うものであると、自ら信ずるがゆえである。そう思えば、私のキャラクターもあんがい世間から誤解されているような気がする。ウン 漢字を愛し反米の大使にとって、やや時代遅れのような浅田さんの拘りがよく伝わってくるのでおます♪『ひとは情熱がなければ生きていけない』1
2017.08.19
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図書館で『ひとは情熱がなければ生きていけない』という本を、手にしたのです。おお 浅田さんのエッセイ集ではないか…個人的ミニブームの一環として、この本を外すわけには、あかんのや♪【ひとは情熱がなければ生きていけない】浅田次郎著、海竜社、2004年刊<「BOOK」データベース>より陸上自衛隊に入営する朝、住みなれたアパートを片付けながら、十九年を生きてきたおれの身軽さに驚いた。-行動する力、挑戦する勇気は、ひそかな情熱から生まれる。熱く生きてこそ、「自分の人生」である。<読む前の大使寸評>おお 浅田さんのエッセイ集ではないか…個人的ミニブームの一環として、この本を外すわけには、あかんのや♪rakutenひとは情熱がなければ生きていけない著者の自衛隊での生活を、見てみましょう。p22~25<寂マクの庭にて> 世にも珍しき体育会系文学少年であった私は、自分でもふしぎなくらい自衛隊生活に馴染んでしまった。あらくれた人間関係にもまったく抵抗がなかった。 山野を駆けめぐり、鉄砲を撃ちまくり、殴り殴られて日々を過ごすうち、もしかしたら自分の天職は小説家などではなく、軍人なのではないかとさえ思った。 資質というより、趣味の問題であっろう。訓練は誰にも等しく厳しいのであるが、苦痛を苦痛とのみ感ずる人間と、苦痛の中に歓喜や矜持を見出す人間とが明らかにいて、私は後者の典型だった。要は体力でも能力でもなく、そういう生活が好きか嫌いかなのである。 6ヶ月間の教育期間中に、私はひとつの確信を得た。もし仮に18歳の三島由紀夫が教育隊の中にいたとしたら、明らかに「苦痛を苦痛とのみ感ずる」グループに属するであろう。あくまでも能力や成績の問題ではなく、趣味の問題としてである。 苛烈な教育訓練の間に、私はひとつの鍵を握った。 半年後、教育期間を了えて配属された部隊は、市ヶ谷駐屯の第32普通科連隊であった。「普通科」とは、現憲法下まさに苦肉の命名であるが、要するに歩兵連隊のことである。べつに希望したわけではない。東京出身者という理由もあってか、黙っていたらそういうことになった。 32連隊は奇しくも、1年前のあの日に三島由紀夫が動かそうとして企画した部隊であり、彼が楯の会の会員たちとともにしばしば体験入隊を試みた部隊であった。 私の部隊配属は昭和46年の10月1日付であるから、市ヶ谷にはまだ事件の余韻が生々しかった。さすがに将校は超然としていたが、営内の主たる下士官の中には三島シンパが何人もいた。 私が起居することになった営内班の班長もそのひとりで、消灯前のひととき、三島の思い出やその思想について滔々と語った。 当然のことながら、私は入隊理由を口にしたことはなかった。正しくは、私の心の中で入隊の動機はまだ整理されてはおらず、考えてもわからないのだからとりあえず現場に潜入してみよう、という程度の気持ちであったかと思う。 ある日、中隊長の立会により私物検査があり、私の所持品の中から『北一輝論』と『行動学入門』が発見された。折も折、場所も場所であるから、それらは『資本論』が発見されたよりも重大事であった。 たちまち幹部室に連行され、書物の出所を詰問されたので、もともと自分の私物でありますと答えると、今度は班長が連行されてきた。つまりくだんの営内班長が新参の二等兵を感化しようとして書物を貸したのであろうと、幹部将校連は邪推したのである。 私は日ごろ、班長の消灯前の訓話にもてんで興味のないふりをしていたから、幹部室に呼び出されて驚いたのはむしろ彼であった。私はそれくらい、面構えにはインテリジェンスのかけらすらなく、言語動作はきわめて粗野な、難解な書物とはおよそ無縁の「確信犯的自衛官」と思われていたのである。 そこで仕方なく、書物を所持する理由を語ったのだが、それは同時に自分が自衛隊を志願した動機に及ばざるをえず、話はものすごく長く、かつまどろっこしくなった。第一、そのころにはまだ自分の考え方も平明に説明できるほどまとまってはおらず、幹部連から糾問されれば不適切な回答を並べ、彼らが考えこめばさあらに自分でもよくわからんことをしゃべるという地獄に嵌りこむほかはなかった。(中略) 話せば話すほど、中隊長も幹部たちも、営内班長までも、理解するどころか私に対しひどく懐疑的な目を向けた。 そのとき私は、もうひとつ確信を得たのだった。三島由紀夫の思想と行動には、少なくとも自衛隊内部では理解されうるものは何ひとつとしてない。そして、明晰な三島自身が、数多くの交友や体験入隊を通してその事実に気付かぬわけはなく、すなわち、思想はおのれのうちなる幻想にすぎず、行動は一席の茶番にすぎなかったことを、当の三島由紀夫は知っていたのである。この本も浅田次郎の世界R7に収めておきます。
2017.08.19
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図書館で『え、なんでまた?』という本を、手にしたのです。いつもながら、本のタイトルがキャッチーやでぇ♪なお、借りたのは2013年刊の単行本サイズのものでした。【え、なんでまた?】宮藤官九郎著、文藝春秋 、2015年刊<「BOOK」データベース>より『あまちゃん』『マンハッタンラブストーリー』『11人もいる!』…あの名セリフが生まれた背景から、撮影現場や日常生活に散りばめられた驚きの発言まで、人気脚本家が言葉について綴ったエッセイ集。たった一言のセリフを思いつくのに5年かかっていることも!?言葉のセンスが炸裂する人気連載が、ついに文庫化!<読む前の大使寸評>いつもながら、本のタイトルがキャッチーやでぇ♪なお、借りたのは2013年刊の単行本サイズのものでした。rakutenえ、なんでまた?クドカンの心境を「あとがき」に、見てみましょう。p284~285<あとがき> 宮藤です。2冊目です。 『え、なんでまた?』というタイトルに深い意味はなくて、 『いまなんつった?』 『え、なんでまた?』 『どうなってるの?』 『え、シュワちゃんが妊娠?』まで行きたいという野望もないです。ちなみにシュワちゃんが妊娠するのは『ジュニア』という映画で、監督は『ツインズ』や『ゴーストバスターズ』を撮った人だそうです。もっと評価されていいと思います。 2013年2月11日現在『あまちゃん』の91話を書いています。部屋でラジオ聴きながら、たまにドトールやスタバで、ほぼ1日1話ずつ書いています。それでも月に6,7本は映画を観て、お芝居やライブも2,3本観て、本は…あんまり読んでないけど、2日に1回はかんぱ(娘)と晩ご飯食べて、寝る前には缶ビールを飲みます。 地味だ。我ながら単調で退屈な日々。文春の〆切が来るたびに思う。あ~あ、今週も面白いことなかったと。財布の中身、減ってねえ。ポケットの中身、映画の半券とドトールのレシートしかねえ。誰とも会ってねえ。誰ともしゃべってねえ。 でも、こんな暮らしがずっと続くといいなあと思います。 今より、良くも悪くもならなくていい。死ぬ前に本棚に隠してあるエッチなDVDだけ処分できればいい(5枚)。それだけはお願い。神様。その余力だけ我に与えたまえ。 ひたすら暢気で平和で面白かったバンドのツアーと武道館公演、その約1ヵ月後に起こった震災。大切な人が病気になったりこの世を去ったりした、この2年間を経て思う。 現状維持ほど難しいものは無いなあ。 「今より良くなることはないからね(笑)」 これはキングオブ名言、岩松了さんのお言葉です。「宮藤くん家は何年目?」と訊かれ「結婚ですか? 18年です」と答えると、僕ではなく、奥さんの目を見て仰いました。 え、なんでまた? と思いましたが、あるいは真理かもしれない。 今より良くなることはない。だとしたら、明日も、明後日も、来年も、ずっと「今」をキープするしかない。なんだろ、立ち止まるのでなく、動く歩道を逆向きに歩くような感じで、ジタバタして、やっと現状維持できるのかもしれないなどと思い巡らせながら、今日も全裸でリビングをウロウロして娘から「キモイ!」「オッサン!」と罵られています。みなさんありがとう。さようなら。 2013年2月 宮藤官九郎 『え、なんでまた?』1
2017.08.18
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図書館で『え、なんでまた?』という本を、手にしたのです。いつもながら、本のタイトルがキャッチーやでぇ♪なお、借りたのは2013年刊の単行本サイズのものでした。【え、なんでまた?】宮藤官九郎著、文藝春秋 、2015年刊<「BOOK」データベース>より『あまちゃん』『マンハッタンラブストーリー』『11人もいる!』…あの名セリフが生まれた背景から、撮影現場や日常生活に散りばめられた驚きの発言まで、人気脚本家が言葉について綴ったエッセイ集。たった一言のセリフを思いつくのに5年かかっていることも!?言葉のセンスが炸裂する人気連載が、ついに文庫化!<読む前の大使寸評>いつもながら、本のタイトルがキャッチーやでぇ♪なお、借りたのは2013年刊の単行本サイズのものでした。rakutenえ、なんでまた?挙動不審な官九郎さんを、見てみましょう。p13~16<『端っこに寄りましょうか』> 久しぶりに職務質問を受けました。渋谷の文化村で打ち合わせを終え、ホテル街を抜けたところにある喫茶店を目指して歩いていたら正面から警官が4人! なんと横一列に並んで来るではありませんか。 この状況で動揺しない人なんかいます? たとえやましい事がなくても、いかつい4人の巡査が横並びで、鋭い目つきで歩いて来たらビビるじゃないですか。まして僕は年平均4~5回は職質を受ける男。すっかり職質慣れして免許証をいちばん取り出し易いポケットに入れている。自身のバンドで『職務質問』という曲を作ってしまうほどです。 しかも! 僕が歩いていたホテル街は、あの高相さんが職質を受けた場所なのです。なんでまたよりによって。なんか恐怖を通り越して笑いがこみ上げて来た。 「ん!? どうした! お兄さん!」 前から来る男が微かにニヤついたのを、日本の優秀な警察官は見逃さなかった。4人同時に駆け足で僕を取り囲む。 「ちょっと端っこに寄りましょうか」 「なんで笑った? 今、なんで笑ったの?」 「お名前確認できるものあります?」 「お兄さん、お仕事?」 ヤバい。すっかり挙動不審な男になっている。目が泳いでるのが自分でも分かる。恥ずかしいけどここは身分を明かして潔白を証明しなくては。 「あ、あの僕、宮藤官九郎という、作家とか俳優とかやってる者で」 「はいはい」 はいはい!? 「首からさげてるバッグ開けてもらえる?」 もはや言いなりです。 「これは何?」 「あ、ボトルネックというギター弾く時にこう弦の上を滑らして使うヤツで…」 「これは何えすか?」 「それは…こないだ沖縄行った時に三線を頂いて、それを弾くための…付け爪?」 作家で俳優と名乗ったくせに所持品は音楽に関するものばかり。濡れ衣とは言え冷や汗が出る。 「この薬何ですか?」 僕は耳を疑いました。クスリ!? と自主的にカタカナに変換してしまった。 (中略) どうにか疑いは晴れ、最後は和気あいあいと世間話して別れました。 そして翌日。僕はバラエティ番組『シロウト名鑑』のロケで街頭に立ち、面白そうなシロウトさんに声をかける仕事をしていました。 「お兄さん、テレ東のシロウト名鑑ですけど、ちょっと端っこに寄りましょうか」 やってること一緒だ。番組も8回目を数え、同じシロウトさんでも何か持ってそうな人とそうでない人を見分けるコツみたいのが分かって来ました。そうか。お巡りさんも直感で声かけてんだな。そして僕は明らかに「何か持ってそう」側の人間なんでしょうね。 持ってないけどね。
2017.08.18
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「エッセイ集」でしょうか♪<市立図書館>・にっぽん全国百年食堂・え、なんでまた?・ひとは情熱がなければ生きていけない・アンマーとぼくら<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【にっぽん全国百年食堂】椎名誠著、講談社、2013年刊<「BOOK」データベース>よりずーっと続いているのがエライ!北は釧路から南は石垣島まで。和食洋食からラーメン、ジャンクフードまで。おらが街の名物食堂42店。汗をかきかき、ビールをぐびぐび。どこへいっても楽しかったうまかった、4年がかりの探訪記。【目次】青森 喜びも悲しみもあんまりねがったなあ/北海道 銅釜に手打ち。きれいはうまい/岐阜 ともに独自に75年/群馬 関東ソースカツ丼包囲網/福島 みちのく最古ラーメン探訪/新潟 和的洋食の歩んできた道/福井 越前おろしそばにあとずさる/静岡 元気な店は気持ちがいい/長野 女将がつなぐ百年の貫禄/沖縄 ぬるくもうまい八重山そば〔ほか〕<読む前の大使寸評>追って記入rakutenにっぽん全国百年食堂************************************************************【え、なんでまた?】宮藤官九郎著、文藝春秋 、2015年刊<「BOOK」データベース>より『あまちゃん』『マンハッタンラブストーリー』『11人もいる!』…あの名セリフが生まれた背景から、撮影現場や日常生活に散りばめられた驚きの発言まで、人気脚本家が言葉について綴ったエッセイ集。たった一言のセリフを思いつくのに5年かかっていることも!?言葉のセンスが炸裂する人気連載が、ついに文庫化!<読む前の大使寸評>いつもながら、本のタイトルがキャッチーやでぇ♪なお、借りたのは2013年刊の単行本サイズのものでした。rakutenえ、なんでまた?************************************************************【ひとは情熱がなければ生きていけない】浅田次郎著、海竜社、2004年刊<「BOOK」データベース>より陸上自衛隊に入営する朝、住みなれたアパートを片付けながら、十九年を生きてきたおれの身軽さに驚いた。-行動する力、挑戦する勇気は、ひそかな情熱から生まれる。熱く生きてこそ、「自分の人生」である。<読む前の大使寸評>おお 浅田さんのエッセイ集ではないか…個人的ミニブームの一環として、この本を外すわけには、あかんのや♪rakutenひとは情熱がなければ生きていけない************************************************************【アンマーとぼくら】有川浩著、講談社、2016年刊<amazonの商品紹介>より休暇で沖縄に帰ってきたリョウは、親孝行のため「おかあさん」と3日間島内を観光する。一人目の「お母さん」はリョウが子どもの頃に亡くなり、再婚した父も逝ってしまった。観光を続けるうち、リョウは何かがおかしいことに気がつく。かりゆし58の名曲「アンマ―」に着想を得た、書き下ろし感動長編。<読む前の大使寸評>沖縄を舞台とする小説は、池澤夏樹著『カデナ』以来となるが、借りてみるか。<図書館予約:(9/25予約、8/18受取予定)>rakutenアンマーとぼくら************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き239
2017.08.18
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図書館に予約していた『新・観光立国論』という本を、ゲットしたのです。予約して3日後にゲットしたのは、個人的には最速記録になります♪【新・観光立国論】デービッド・アトキンソン著、東洋経済新報社、2015年刊<「BOOK」データベース>より外国人観光客8200万人、GDP成長率8%!日本の進むべき道がここにある!【目次】はじめに 日本を救うのは「短期移民」である/第1章 なぜ「短期移民」が必要なのか/第2章 日本人だけが知らない「観光後進国」ニッポン/第3章 「観光資源」として何を発信するか/第4章 「おもてなしで観光立国」に相手のニーズとビジネスの視点を/第5章 観光立国のためマーケティングとロジスティクス/第6章 観光立国のためのコンテンツ/おわりに 2020年東京オリンピックという審判の日<読む前の大使寸評>予約して3日後にゲットしたのは、個人的には最速記録になります♪<図書館予約:(8/9予約、8/11受取)>rakuten新・観光立国論「観光立国」論の続きを、見てみましょう。p55~57<「観光立国」と「観光大国」> 「観光立国」という観点で、日本の「現実」を見つめ直すためには、まずは成功している「観光立国」を形成する条件を知らなくてはいけません。成功している国には何があって、日本には何が足りないのかということから考えてみましょう。 では、「観光立国」になるためには、どのような条件を満たせばいいのでしょうか。それは先ほどの「観光立国」上位ランキング国の姿を分析すれば、すぐに浮かび上がってきます。 いくつかの観光の専門書などによると、「観光立国」には4つの条件が必要不可欠だと言われています。もちろん、4つすべてが揃うに越したことはないのですが、このうちのいくつかの条件を伸ばして差別化を図ることで、「観光立国」として成功している例もあります。ですがやはり、「観光大国」という高い評価をされている国というのは、総じてこの4つの条件を満たしています。 その4条件とは「気候」「自然」「文化」「食事」です。これらを1つずつ観て行く前に、ここで「観光大国」という言葉が出たので、「観光立国」と「観光大国」というものの違いについて考えてみましょう。 そもそも、「観光」には、さまざまな種類があります。高級リゾートでゆっくりと過ごすことを目的にするような富裕層の観光から、乗り合いバスで観光地をめぐる団体ツアーのような観光まで、目的や対象者は多種多様です。専門書によると、世界では少なくとも20種類以上の観光が確立されているということです。 たとえば、最近注目を集める医療ツーリズム。治療やメディカルチェックを目的とする観光ですが、このなかには出産観光などもあります。その国に観光に訪れて滞在中に出産をすれば、新生児がその国の国籍を取得できるというものです。 また、もっと珍しいところで言えば、危険地帯に足を踏み入れる戦場観光、ブラジルやインドなどの貧困地区を訪れるスラム観光などもあります。 このように多種多様な観光が存在するなかで、複数の観光を提供できる国こそが「観光大国」になりえるのです。それはフランスなどを見れば明らかでしょう。ワイン畑をめぐる観光もあれば、高級ブランドをめぐる観光もあれば、史跡をめぐる観光もできる。1つの国で多くの観光が楽しめるのです。 もちろん、どれか1つに特化して世界に発信することができれば、たしかに外国人観光客はある程度は集まります。しかし、しょせんは1つの観光なので、やってくる観光客数もたっかが知れています。つまり、特色ある観光を打ち出すというのは、「観光立国」を目指すうえで施策の1つとして必要なことではありますが、それ単体では「観光大国」にはなれないということです。『新・観光立国論』1
2017.08.17
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図書館に予約していた『新・観光立国論』という本を、ゲットしたのです。予約して3日後にゲットしたのは、個人的には最速記録になります♪【新・観光立国論】デービッド・アトキンソン著、東洋経済新報社、2015年刊<「BOOK」データベース>より外国人観光客8200万人、GDP成長率8%!日本の進むべき道がここにある!【目次】はじめに 日本を救うのは「短期移民」である/第1章 なぜ「短期移民」が必要なのか/第2章 日本人だけが知らない「観光後進国」ニッポン/第3章 「観光資源」として何を発信するか/第4章 「おもてなしで観光立国」に相手のニーズとビジネスの視点を/第5章 観光立国のためマーケティングとロジスティクス/第6章 観光立国のためのコンテンツ/おわりに 2020年東京オリンピックという審判の日<読む前の大使寸評>予約して3日後にゲットしたのは、個人的には最速記録になります♪<図書館予約:(8/9予約、8/11受取)>rakuten新・観光立国論「短期移民」という考え方を、見てみましょう。p46~49<「観光立国」とは何か> 今の経済構造の下では、どんなに日本人一人あたりの生産性を向上させたところで、今のGDPを維持するくらいがやっとだというこれからのにほんにおいて、維持ではなく「」を目指すための一つの解決策に「短期移民」という考え方があることは、「はじめに」で申し上げたとおりです。 人工が減っていく日本において、移民というリスクを背負い込むことなく、人工増加分の経済効果が望めるのは、短期間だけ日本に滞在してお金を落としてくれる外国人を増やす、つまり「観光立国」だというのは、きわめて合理的な考え方なのです。 昨今、これからの日本の「成長戦略」というものが論じられることが多くなってきましたが、「観光立国」もその選択の一つになってくるのは間違いありません。 では、「観光立国」になるためにはどうすればいいのでしょうか。そのような話をすすめていく前に、まずは大前提として、「観光立国」とは何かということからお話をしていきましょう。 一般的には、「観光立国」とは、その国がもつ特色ある自然環境、都市景観、美術館・博物館などを整備することで国内外の観光客を誘い込み、観光ビジネスやそこから波及する雇用など人々が落すお金を、国の経済を支える基盤の一つとして確立することだとされています。 つまり「観光立国」という言葉に、何か明確な定義があるわけではありません。外国人観光客が年間にこれだけ訪れたから、観光産業がこれだけの経済規模になったからといって、「観光立国に成功」というものではないのです。ただし、「観光立国」と呼ぶにふさわしい最低限の「基準」はあります。 それは、国連世界観光機関(UNWTO)による、世界の観光における指数を見れば明確に浮かび上がってきます。 2014年の報告では、世界の観光産業は、直接的、間接的及び誘発的な影響も含めると、全世界のGDPの9%を占めています。また、11人に1人を雇用しており、観光輸出額は1.4兆米ドル。これは全世界の輸出額の6%を占めているとされています。さらに、すべてのサービス業の輸出額の29%を占めているというデータもあります。 これらの指数を「世界平均」ととらえれば、少なくともこの平均値をクリアしていることが、「観光立国」の最低条件と言えなくもなさそうです。そのなかでも特にわかりやすいのが「GDPの9%」という目安でしょう。観光が国の経済を支える基盤になっているということを示すには、これ以上ないほど明確な数字です。 もうひとつは、GDPに対する外国人観光客から得た収入の比率です。そこで図表をご覧ください。日本の低さがきわだっていることがわかるでしょう。 全世界の国際観光客到着数は、1950年にはわずか2500万人でしたが、その30年後の1980年には2億7800万人、さらに15年後の1995年に5億2800万人、そしてついに2013年には10億8700万人と、すさまじい勢いで膨れ上がってきました。(中略) これだけの「客」がいて右肩上がりの成長をしていく市場というのは、世界を見回してもそれほどありません。「観光」というのは、世界的に見て発展、繁栄が約束されている市場なのです。 つまり、やるべきことをしっかりとやっていけば、この大規模かつ世界的な潮流のなかで、日本の観光ビジネスを飛躍的に成長させることは、決して不可能ではないのです。
2017.08.17
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図書館で『>怒涛の虫』という本を、手にしたのです。郷土の英雄ともいえるサイバラについては古くからフォローしているが、初のエッセイ集を見つけたわけで、これは期待できそうです。【怒涛の虫】 西原理恵子著、毎日新聞、1993年刊<「BOOK」データベース>より怖いモンなし。無垢。それゆえ過激。話題のマンガ家・りえちゃんの初のエッセイ集、4コマつき。<読む前の大使寸評>郷土の英雄ともいえるサイバラについては古くからフォローしているが、初のエッセイ集を見つけたわけで、これは期待できそうです。amazon怒涛の虫サイバラの自慢話を、見てみましょう。p94~97<君は7月7日朝6時15分NHK/BS2を見たか> 「Sさん、Sさん。見て。ビデオが届いただす」 「お。裏ですか表ですか」 「なに大ボケかましてるざんすか。私の『ゆんぼくん』がナント、NHK様で紹介されたんざんすよー」 「へー」 「衛星第2放送で。私んちで移らないから、知り合いが録画して送ってくれたの」 「衛星第2…かあ」 「私もついにNHK登場! 成り上がったざんすー」 「…ま、とにかく観よう」 「(司会者)BS週刊ブックレビュー、いまこの1冊がおもしろい…この書評コーナーに初めて漫画の作品が登場しました。『ゆんぼくん』。作者、西原理恵子さんがこの4コマのシリーズにこめた狙いについて、関川夏央さんのコメントをうかがいます」 「セキカワ…って有名な人だすか?」 「なにを失礼な! 西原さんの100倍有名な作家の人です」 「ふーん」 「(関川さん)…この漫画を通して思うことは、そこはかとなくあふれてくる郷愁、あるいは失われたものへのヒショウ…そういうものが、若い漫画表現者の中に現れてきているのではないかト…」 「ヒショウって悲傷かなあ。さすがに難しいことを言うなあ。あれ、西原さん、どうしたの?」 「ホッホー! ホッホー!」 「あ、西原さん、鼻の穴!」 「うるさい! ふむふむ。やっぱりインテリさんは違う。よーわかっちょる」 「…すごい鼻息」 「(関川さん)…この作品には巧みな笑いもあるんですが…まあ、西原さんの絵はあんまり巧みではないですが(笑)…」 「お、セキカワ、いま何言うた。私の絵がヘタだと言っただすかー」 「まあ、まあ。事実だから、しょーがないでしょうが」 「ガルルル…ガッデム」 「(関川さん)…例えば藤沢周平が、東北の一つの藩を人のいさかいも含めて懐かしい日本人の故郷だと表現したように、この漫画の描いた田園風景も、日本人の帰りたい風景を、戦後時代に仮託して描いている。…非常に刺戟を受けたわけです…」 「ふーん、いろんな読み方があるもんですねえ。ねえ、西原さん。西原…」 「クー」 「…寝てる」 …というわけざんしたが、考えてみると今回は、完全に私の自慢話ざんしたねー、いやー恥ずかしい。 いえね、衛星第2の朝6時台の番組だって言ったら、担当のSが「そんなの、日本中で3人くらいしか観てねーよ」って憎まれ口たたくもんだから、悔しくてネタにしたんだす。TVでちょっと紹介されたくらいでハシャギやがって、バカ、と思ってるでしょ。あー恥ずかし。 ちなみに『ゆんぼくん』は月刊『まんがくらぶ』連載中で、竹書房から単行本が出てるだす。 …自慢した上に宣伝までしてしまった。すまん。『怒涛の虫』1
2017.08.16
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図書館で『>怒涛の虫』という本を、手にしたのです。郷土の英雄ともいえるサイバラについては古くからフォローしているが、初のエッセイ集を見つけたわけで、これは期待できそうです。【怒涛の虫】 西原理恵子著、毎日新聞、1993年刊<「BOOK」データベース>より怖いモンなし。無垢。それゆえ過激。話題のマンガ家・りえちゃんの初のエッセイ集、4コマつき。<読む前の大使寸評>郷土の英雄ともいえるサイバラについては古くからフォローしているが、初のエッセイ集を見つけたわけで、これは期待できそうです。amazon怒涛の虫ブレークする前のサイバラを、見てみましょう。p38~40<サイバラ、田舎に帰る> えー私事で恐縮です。兄の結婚式で田舎の高知に帰ってきました。約2年ぶりの帰省。実は今回の里帰りには、内心、期するものがありまして…。 というのは、私、ある事情から地元の高校を退学になっています。思い起こせば7年前、「こりゃ町内の人に顔向けできん」という家族のご配慮で、上京することにしたんですね。 道をハズれた者に、地元の目はそれはきびしいものです。私はその後、大検を受け、大学を卒業し、漫画家になって、といろいろあったけど、田舎の「町内の人」からどう思われてたかは、私、わかる。 高校中退→上京→フーゾク という転落の図式を予想されてたに違いありません。 でも、この2年で私の連載もふえたし、本も出したし、まあ故郷に錦を、ってほどじゃないにしろ、内心、胸をはっての里帰りだったんです。 で、田舎でわかったことは、 「私、でんでん有名じゃない」 私が漫画描いてること、だーれも知りません。そりゃ私、東京でもそんな有名じゃないし、まして漫画を読まない年配の人が知らなくても当然だけど、近所の人にくらい、お母さん宣伝してくれればいいのに、と筋違いの怒りを覚えたりしました。 昔なじみの人に会っても、 (フーゾクの女だと思ってるな…私の人権認めてないな) とか、ヒガんでしまいます。 兄の結婚式には地元の人がたくさん来てたから、これは名誉回復のチャンスだと思ったら、 「新郎の妹の理恵子さんは、東京でギャンブル中心のお仕事をなさってまして…」 なんて紹介されてんの。一同「ほー」だって。そりゃ麻雀漫画も描いてますけどねえ。 弁解の機会もなかったから、田舎の人たちはきっと、 高校中退→上京→ギャンブル中心のフーゾク という、なんかものすごい転落の図式を想像したに違いないんだわ。くー。 田舎の年寄りに認知されるのは、東京のギョーカイで有名になる一万倍たいへんだと悟りました。『サンデー毎日』に連載してて知らないんだから、この上は「栄光の新聞4コマの座」を狙うしかない。牧編集長、なんとかなりませんか。コネで。(なるか、ばか…担当)
2017.08.16
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図書館で『空母「蒼龍」とともに』という本を、手にしたのです。著者の兵歴は飛行機整備兵というのが…シブいのです。それにしても、84歳で一気呵成にこの本を著わした記憶力と熱意がすごい♪【空母「蒼龍」とともに】池田清夫著、津軽書房、2001年刊<「BOOK」データベース>より飛行機整備兵として真珠湾攻撃からミッドウェー海戦へ。大海原を漂流六時間無事帰還。海中に消えた「蒼龍」を見送り刻みつけた記憶。八十四歳にして初めて一気に書き下ろした己が人生。<読む前の大使寸評>著者の兵歴は飛行機整備兵というのが…シブいのです。それにしても、84歳で一気呵成にこの本を著わした記憶力と熱意がすごい♪amazon空母「蒼龍」とともに「真珠湾攻撃」の続きを、見てみましょう。p88~90<真珠湾攻撃> 攻撃前夜の12月7日の夜となったが、此処まで敵に見つからずに来られたということは、正に天佑神助というほかはない。此処まで無事来られたことで、この作戦の7割は成功したものと見てよい。あとは悪くても五分五分の戦いは出来るはずだ。などと考えビールを飲んで寝たら、案外ぐっすり眠れた。もっともいくらもしないうちに総員起こしだ。 作業服に着替え飛行甲板に出て見るとまだ真暗な夜である。飛行甲板にはゼロ戦が一番前でその次は艦爆、一番後部は艦攻の順に軽い方から順序よく並べてある。艦橋前では搭乗員が整列し、出発前の打ち合わせをしている。いよいよ試運転開始で私も受持機に乗り、エンジンを始動綿密な点検をし、異常の無いことを確認し、搭乗員に引継ぎ、がんばれよと肩をたたいて下におりた。 まだ夜はすっかり明けきらないが、少し空の彼方が白めいて来た。いよいよ第一次攻撃隊出発の時間だ。母艦は風上に向かってスピードを出して走っている。艦橋より発進の合図があり、いよいよ発艦が始まる。飛行士の合図で一番前のゼロ戦から、一機一機轟音とともに飛び立ってゆく。飛行甲板の両サイドにいるもの全員、帽子を振って見送る、これが攻撃隊を送る礼儀なのだ。彼らもそれにこたえて手を振って飛んで行くのだ。各母艦、全機発艦終了し、上空を旋回しながら大編隊を組み、空の彼方へ姿を消した。 この一次攻撃隊が出発する約1時間前、巡洋艦から飛び立った一機の水上偵察機が軍港内を偵察し、その結果を知らせて来ていた。それによれば、軍港内にいるはずの、数隻の空母の姿が見えず、その行き先も不明、その他は異常なし、とのことで、攻撃隊は飛びながら、一部作戦を変更したのである。その結果、空母目標が巡洋艦その他となったことは残念なことである。 第一次攻撃隊約二百機が真珠湾上空に達した頃、すっかり夜も明け、好い天候の朝まだき、彼の有名なトラトラトラになったのである。第一次攻撃隊総指揮官、「赤城」の飛行長の搭乗機より発信した暗号無電、我奇襲に成功せり、である。この無電を待っていたのは、我が部隊だけではない。勿論この無電を受け、直ちに第二次攻撃隊約二百機が発進したのは当然である。然し、この無電を今や遅しと待っていたのは、実は太平洋全域に展開中の、我が陸海軍全部隊であり、この無電を合図に一斉に行動を開始したのである。 いよいよ第一次攻撃隊、攻撃開始である。まずゼロ戦隊は制空隊として、各飛行場に殺到、一機の敵機も離陸させぬよう、片っぱしから撃ちまくり、その上、格納庫、その他の地上施設も破壊したのである。艦攻隊の爆撃隊は、三千メートルの高度より、戦艦を目標に八百キロ鉄甲爆弾を投下し、雷撃隊は、巡洋艦その他の目標に向かって急降下し、二百五十キロ爆弾を投下したのである。上空を見ていた敵側も、やがて敵襲と気づき、俄然猛烈な対空砲火が吹き出したのである。ウン この辺の描写は・・・戦争映画オタクの大使は『トラ・トラ・トラ!』という映画でよく知っているのです。【トラ・トラ・トラ!】リチャード・フライシャー監督、1970年米制作、H24.7.30観賞<goo映画解説>より太平洋戦争の火ぶたを切った真珠湾奇襲作戦の全貌を描いた大型戦争映画。製作総指揮はダリル・F・ザナック、製作は「ブルー・マックス」のエルモ・ウィリアムス。監督は、アメリカ側が「ミクロの決死圏」のリチャード・フライシャー、日本側が「スパルタ教育・くたばれ親父」の舛田利雄と「きみが若者なら」の深作欣二。ゴードン・W・プランゲの「トラ・トラ・トラ!」とラディスラス・ファラーゴの「破られた封印」を基に、アメリカ側はラリー・フォレスター、日本側は菊島隆三と小国英雄が共同脚色。<大使寸評>戦争オタク必見の映画でんな♪ 冒頭、軍楽隊が「海ゆかば」を演奏するところで、おもわず涙する大使であった。とにかく膨大な数のカーティスとカタリナ飛行艇の実機が爆破されたが、さすがアメリカ映画の物量には驚いたのだ。そして、こんな国と戦争した無謀さを実感。goo映画トラ・トラ・トラ!『空母「蒼龍」とともに』1
2017.08.15
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図書館で『空母「蒼龍」とともに』という本を、手にしたのです。著者の兵歴は飛行機整備兵というのが…シブいのです。それにしても、84歳で一気呵成にこの本を著わした記憶力と熱意がすごい♪【空母「蒼龍」とともに】池田清夫著、津軽書房、2001年刊<「BOOK」データベース>より飛行機整備兵として真珠湾攻撃からミッドウェー海戦へ。大海原を漂流六時間無事帰還。海中に消えた「蒼龍」を見送り刻みつけた記憶。八十四歳にして初めて一気に書き下ろした己が人生。<読む前の大使寸評>著者の兵歴は飛行機整備兵というのが…シブいのです。それにしても、84歳で一気呵成にこの本を著わした記憶力と熱意がすごい♪amazon空母「蒼龍」とともにこの本の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p78~82<真珠湾攻撃> 1年8ヶ月の陸上生活をして、再び母艦「蒼龍」に乗るのだ。また前にいた戦闘機隊ならいい等と考えながら、鹿児島県の笠之原基地まで汽車の一人旅でたどり着いたら、上空は訓練機の爆音で賑やかだ。懐かしい宿舎に入ると、「池田兵曹、待ってたぞ」と迎えてくれたのが艦爆分隊の先任下士官だった。 今度は九九艦爆の飛行機員として配属されたのだった。前にいた頃の旧式なものは姿を消し、新型に代わっていた。戦闘機も九六戦からゼロ戦に代わっていたのである。艦爆分隊の七分隊長は江草少佐で隊長兼務であり、同じ艦爆の八分隊は池田大尉であった。ゼロ戦分隊の分隊長は、横山大尉の後を飯田大尉がやっていたが、横山大尉当時の懐かしい顔ぶれは、殆ど見えなかった。訓練は相変わらずの猛烈さで、雨が降らなければ休みはない。 たまの休みは、例によって例の如しで、やる事は決まっている。日夜も分かたぬ猛訓練から解放された若者集団は、思いっきり羽を伸ばすだけである。 昭和16年10月半ば、笠之原基地を引きあげ、母艦に乗った。母艦には、前に一緒だった者も居り、懐かしかった。今度は九九艦爆分隊なので、居住区も別であるが、かつて知っている艦内なので、迷うこともなく、早速作業についた。 これがまた予想もしない作業で驚いた。それは、寒冷地対策として、エンジンを、超大型の白金懐炉で暖めるというものだ。理屈ではわかるけれども、どんな装置か見当もつかない。でも渡される部品を見て納得した。それは普通の白金懐炉の、百個分以上のあるもので、燃料はガソリンである。それから、エンジンをすっぽりと覆って、しかも下まで届く長い袋状のカバーで、材質は不燃性の石綿で出来ていて、その袋の下部に白金懐炉を置き点火すれば、その熱はすべて上部のエンジンに集中し、適度の暖気を保ち、極寒の地方でもたやすく始動できる。これが60機全機に装備され、燃焼実験も完了し、装備したままで、母艦は大分県の佐伯港に入港した。そしてまた大変なことが始まるのである。 それは翌日から始まった積み込み作業である。それが今までに見たこともない大がかりで、総動員的なものだった。普通は航空科員の我々などは一人も参加することもなく、殆どは、軍需部の倉庫員や、母艦の専門の係等によって、機械器具が操作され、静粛、迅速に行われるのである。しかし、今回はそれに加えて、我々まで動員されたのは次の理由であった。それは重油の積込みの異常さによるものである。 各油タンクを満タンにした上、18リットル入りの小缶を、ところ狭しと積込み、転倒、移動などないように固縛するのが我々の仕事であった。食糧は勿論、弾薬も大量、それがすべて実戦用である。飛行機の対寒装備と、この積込みの異常さを考え合わせるとき、果して何を連想するだろう。それは戦争である。(中略) 11月18日、母艦は佐伯港を出港した。母艦は二隻の駆逐艦を従え太平洋の日本近海を北上している事は確実だ。それは飛行機が寒冷地装備をしていることでも察しがつく。出港後、特別な作業もなく、例によって移動物の固縛ぐらいのものだ。その移動物が問題で、第一番は飛行機である。前車輪と、尾輪の三点を、しっかりと、チェーンで鉄甲板に繋止固縛してあるが、艦の揺れで、隣りの飛行機と接触し破損することがあるので注意を要する。(中略) 佐伯港を出港して何日かしての午後、突然の艦内放送で、総員飛行甲板にあがれ、の号令があった。何事かと急いで飛行甲板にあがった。艦橋前にいた当直将校が、母艦の左舷方向を指して、宮城の方向はこの方向、只今よりお別れの最敬礼を行う、と言って大音声で、最敬礼、と言った。その号令に従って、最敬礼をした。それでますます戦争だと確信した。 艦内は俄かに、行先や相手国についての議論が高まった。寒冷地に行くための装備をしているのだから、相手国はソ連だ、という説が最も有力となって来た。ウーム 終戦記念日にこの記事「真珠湾攻撃」を取り上げるのは、我ながらミスマッチだと思わないでもないでぇ。
2017.08.15
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今回借りた4冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「エッセイ集」でしょうか♪<市立図書館>・移民の宴・新・観光立国論・何も持たず存在するということ・怒涛の虫<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【移民の宴】高野秀行著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>より突撃、隣の外国人の食卓。日本初の比較“ごはん”文化論的ルポ。【目次】成田のタイ寺院ーThailand/イラン人のベリーダンサーーIran/震災下の在日外国人/南三陸町のフィリピン女性ーPhilippines/神楽坂のフランス人ーFrance/中華学校のお弁当ーTaiwan/群馬県館林市のモスクーMuslim/鶴見の沖縄系ブラジル人ーBrazil/西葛西のインド人ーIndia/ロシアン・クリスマスの誘惑ーRussia/朝鮮族中国人の手作りキムチーKorean Chinese/震災直後に生まれたスーダン人の女の子、満1歳のお誕生日会ーSudan <読む前の大使寸評>「比較ごはん文化論的ルポ」という切り口が、いかにも高野秀行やでぇ♪rakuten移民の宴************************************************************【新・観光立国論】デービッド・アトキンソン著、東洋経済新報社、2015年刊<「BOOK」データベース>より外国人観光客8200万人、GDP成長率8%!日本の進むべき道がここにある!【目次】はじめに 日本を救うのは「短期移民」である/第1章 なぜ「短期移民」が必要なのか/第2章 日本人だけが知らない「観光後進国」ニッポン/第3章 「観光資源」として何を発信するか/第4章 「おもてなしで観光立国」に相手のニーズとビジネスの視点を/第5章 観光立国のためマーケティングとロジスティクス/第6章 観光立国のためのコンテンツ/おわりに 2020年東京オリンピックという審判の日<読む前の大使寸評>追って記入<図書館予約:(8/9予約、8/11受取)>rakuten新・観光立国論************************************************************【何も持たず存在するということ】 角田光代著、幻戯書房、2008年刊<「BOOK」データベース>よりへらへらした大人になりたい。大仰さがまるでない大人に。切なく、おかしな、心の記録。最新エッセイ集。【目次】父とアカエボシの食卓/ラーメン激戦区在住/体の喫煙命令/小説の打ち合わせ/もう夏なのか!/祖母の梅、私の梅、ボクシング観戦/待つということ/海辺の結婚式/機内の旅〔ほか〕<読む前の大使寸評>追って記入rakuten何も持たず存在するということ************************************************************【怒涛の虫】 西原理恵子著、毎日新聞、1993年刊<「BOOK」データベース>より怖いモンなし。無垢。それゆえ過激。話題のマンガ家・りえちゃんの初のエッセイ集、4コマつき。<読む前の大使寸評>郷土の英雄ともいえるサイバラについては古くからフォローしているが、初のエッセイ集を見つけたわけで、これは期待できそうです。amazon怒涛の虫************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き238
2017.08.14
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図書館で『移民の宴』という本を手にしたのです。なんか以前に借りたような本であるが、中身に見覚えがないので借りたのだが…帰って調べてみると去年の12月に借りていたのです。で、この記事を(その4)としています。【移民の宴】高野秀行著、講談社、2012年刊<「BOOK」データベース>より突撃、隣の外国人の食卓。日本初の比較“ごはん”文化論的ルポ。【目次】成田のタイ寺院ーThailand/イラン人のベリーダンサーーIran/震災下の在日外国人/南三陸町のフィリピン女性ーPhilippines/神楽坂のフランス人ーFrance/中華学校のお弁当ーTaiwan/群馬県館林市のモスクーMuslim/鶴見の沖縄系ブラジル人ーBrazil/西葛西のインド人ーIndia/ロシアン・クリスマスの誘惑ーRussia/朝鮮族中国人の手作りキムチーKorean Chinese/震災直後に生まれたスーダン人の女の子、満1歳のお誕生日会ーSudan <読む前の大使寸評>「比較ごはん文化論的ルポ」という切り口が、いかにも高野秀行やでぇ♪rakuten移民の宴東日本大震災関連を、見てみましょう。p72~75 <震災パニックに陥ったスーダン人の友人> 3月11日に起きた東日本大震災は多くの人の人生を狂わせた。在日外国人の人たちも例外ではない。2011年4月25日現在、外国籍の犠牲者は23人が確認され、行方不明者の数は把握されてもいない。 直接被害に遭わなかった人も、日本から脱出するか、日本国内でも福島の原子力発電所からなるべく離れた場所に避難するかなど、選択を迫られた。 私の10年来の友人であるモハメド・オマル・アブディンもその一人だ。アフリカのスーダン出身で、1998年に日本にやってきた。彼は小学生のとき遺伝性の病気で失明し、目が見えないのだが、天才としか言いようのない言語能力と記憶力で、日本語の会話はもちろん読み書きさえ自由自在だ。 寿司とユーモアをこよなく愛すこの男から電話がかかってきたのは震災二日後のことだった。 「タカノさん、大変なことになってるね。何をどうしたらいいか訊く人がいなくて困ってるよ」と異常に暗い声でぼそぼそ言う。 「寮に友だちがいるだろ?」と私は返した。彼は東京外国語大学大学院の博士課程に在籍し、府中市にある同大学の留学生寮に住んでいる。 「ダメダメ、わけのわかんないガイジンしかいないよ」彼はイライラした口調で答えた。 「わけのわかんないガイジンはおまえだろう」といつもなら突っ込むところだが、あまりに彼がピリピリしているので言えない。どうやら他の外国人は日本語がさほどできないので、情報は海外のメディアに頼っているらしい。 このとき海外メディアはすごかった。私もインターネットでBBCやCNNのニュースを毎日見ていたが、石油コンビナートが大炎上し、大津波が町を飲み込み、原子力発電所が爆発するという映像を繰り返し流していた。こんなものを見たら誰だって「ああ、日本はもう終りだ」と思う。 「タカノさん、原発はどうなの?」アブは詰問調である。 「それほどシリアスな状況じゃないって政府は発表しているけど…」 「日本政府は信用できない」アブはきっぱり言った。「水俣病のときだってそうでしょ。大丈夫、大丈夫って言ってて、被害がどんどん拡大していってさ…」 司馬遼太郎や曽野綾子を愛読するこの男は日本の近現代史にやたら詳しい。こういうときは実に厄介だ。 「ねえ、ほんとに大丈夫なわけ? あとでやっぱり被爆してたなんてなったらまずいんだよ」 私はなんだか菅首相か枝野官房長官になった気持ちがした。何しろ、正確な情報も正しい判断を下すための基準もないのである。誰かが大丈夫だというからそれを繰り返すしかない。大丈夫じゃないと言えば、「じゃあ、どうすればいいの?」と訊かれるわけだし、それに対する答えも持ち合わせていない。自然に政府答弁みたいになる。 「今すぐどうなるってわけじゃないんじゃないか」 そう言うと、「そんな曖昧な言い方じゃ困るんだよ。こっちなんか、妻の親からガンガン電話がかかってきてるんだよ」。 アブは去年、故郷であるスーダンの首都ハルツームの従姉妹に紹介された地元の女生と結婚、日本に連れてきていた。そして奥さんは今、妊娠8ヶ月だった。もう飛行機に乗せられないので、帰るに帰れない。奥さんの家族から毎日何度も「大丈夫なのか?」と電話がかかってくる。アブは目が見えないから、身重の奥さんの手を引いて逃げるということもできない。舅や姑からの電話攻勢で不安と恐怖が膨れあがっているのだろう。無理もない。 「大丈夫かって訊かれて何て答えてるの?」 「そりゃ、『大丈夫』って言うしかないよ。大丈夫じゃないなんて言ったら大変なことになる」 ここでも政府答弁か。こうやって、今日本全国のみならず世界各地で政府答弁の連鎖が展開されているのだろう。 アブは奥さんを連れて「西」へ逃げることも考えているのだが、どこもあてはないという。今は平時でも出産はたいへんだと聞く。早くから病院を確保しておかないとお産の面倒をみてもらえない。こんな時期に妊娠8ヶ月で見知らぬ町に行くことは非常にリスキーだろう。 「放射能を防ぐ方法を教えてよ」というので、「極力肌を露出しないで、頭から手の先まで布か何かで覆う…、つまりイスラム・スタイルだな」と答えたら、彼は初めて笑った。 「タリバンみたいな格好ね」 タリバンとは、バーミヤンの石仏を破壊した、アフガニスタンのいわゆる「原理主義」勢力である。『移民の宴』1:朝鮮族中国人のキムチ作りp278~283、日本の住み心地p288~289『移民の宴』2:中華学校のお弁当p154~156『移民の宴』3:神楽坂のフランス人p129~139
2017.08.14
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図書館で『杉浦日向子の食・道・楽』という本を、手にしたのです。おお 杉浦さんの本ではないか…最後のエッセイ集とのことで、心して読むとしよう♪なお、借りたのは2006年刊のハードカバーでした。【杉浦日向子の食・道・楽】杉浦日向子著、新潮社、2009年刊<「BOOK」データベース>よりテレビ番組の解説でもおなじみ、着物姿も粋な、稀代の絵師にして時代考証家、「江戸からタイムスリップした」現代の風流人・杉浦日向子の人柄と心意気を映す最後のエッセイ集。命をつなぐ食をめぐる話、人生を彩る酒の話題、大切にしていた憩いのひとときを思いをこめて綴る。懐かしい作品制作風景、単行本未収録の漫画のひとコマ、愛用の着物、酒器、小物の口絵写真、作品リストも収録。<読む前の大使寸評>おお 杉浦さんの本ではないか…最後のエッセイ集とのことで、心して読むとしよう♪rakuten杉浦日向子の食・道・楽お酒の呑み方をもうひとつ、見てみましょう。p136~137<酒を呑むにも上手下手> 自分は、筋金入りの酒呑みだから、ほんのお湿り程度であれ、酒がなくては、ものが食べられない。どんなに旨そうな前菜が、目の前に置かれようとも、初めの一口の酒が届かないうちは、手はひざに貼りついたまま。しかし、ものがなくとも酒は呑める。 呑み始めると食べるのが億劫になる。食べることは命の根幹で、本当に大切なのは解っているのに、食べる作業は運動と同じで、疲れる。しっかり食べるには、それなりの体力が必要だ。 最も面倒なのが、ナイフ・フォークと箸。人間以外に、道具を使わなければ採餌できない動物はいない。いちいち、持ち替えては置き、持ち替えては置く。 これは当たり前のことなのだけれど、酒呑みにはこのうえなく、うっとうしい。「呑むと良く喰う」タイプもいるが、胃弱の酒呑みには、そんな芸当はできない。結局、腹にたまらない。塩辛い珍味を、ちびちび嘗めながら、ぐずぐず存分に呑むことになる。 これが、いちばん、いけないんだそうだ。こうやって20年以上酷使し続けた、肝臓と膵臓が、ついに悲鳴をあげた。 しばらく断酒をして、臓器のご機嫌をうかがったうえで、また、ぼちぼち呑んでいる。断酒は、思いのほか辛くはなかった。それより、この先、呑めなくなる身体になるのが、厭だった。現在の臓器を休ませれば、将来は呑めるというのが、張り合いとなった。 ようやく血液検査による数値が、放免となった解禁ののとき、「呑む前に食べろ」が、主治医との、唯一の約束。 まず、ちいさな盃で、梅酒を一杯(これは酒じゃない、いわゆる露払い)。そしてちいさな握り飯(海苔なし具なし)をひとつ。それに蜆か豆腐の赤出しを一椀。なんだか、とても、落ち着く前菜だ。こうすると、おのずと酒量も減るし、穏やかな満足感も得られる。 なにしろ、箸を使わない握り飯と、噛まずに飲める味噌汁が、なんの抵抗もなく、素直に受け容れられる。こんなん有り? という意外なほどイージーな、呑ん兵衛必携の「救済符」。 外の呑み屋で、初手にいきなり「お握りと赤出し」は、気恥ずかしいかもしれないが、馴染みの店に、訳を話せば、毎回そうしてくれる。この前菜、定着して欲しいと、切に願っております。ウン 胃弱の場合の呑み方など、今の大使にとって参考になりまんな♪『杉浦日向子の食・道・楽』1
2017.08.13
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<『杉浦日向子の食・道・楽』>図書館で『杉浦日向子の食・道・楽』という本を、手にしたのです。おお 杉浦さんの本ではないか…最後のエッセイ集とのことで、心して読むとしよう♪なお、借りたのは2006年刊のハードカバーでした。【杉浦日向子の食・道・楽】杉浦日向子著、新潮社、2009年刊<「BOOK」データベース>よりテレビ番組の解説でもおなじみ、着物姿も粋な、稀代の絵師にして時代考証家、「江戸からタイムスリップした」現代の風流人・杉浦日向子の人柄と心意気を映す最後のエッセイ集。命をつなぐ食をめぐる話、人生を彩る酒の話題、大切にしていた憩いのひとときを思いをこめて綴る。懐かしい作品制作風景、単行本未収録の漫画のひとコマ、愛用の着物、酒器、小物の口絵写真、作品リストも収録。<読む前の大使寸評>おお 杉浦さんの本ではないか…最後のエッセイ集とのことで、心して読むとしよう♪rakuten杉浦日向子の食・道・楽お酒の呑み方を、見てみましょう。p111~113<おいしいお酒、ありがとう> なんでこんなに酒が好きなんだろう。酒が、ほんとうにうまいなあ、と思ったのは、30を過ぎてからのこと。自分の意思で、店を選び、もちろん身銭で、手酌で、ひとり、たしなむようになってからのこと。 酒が、ほんとうにたのしいなあ、と思ったのは、40代になってからのこと。呑みたい酒と場所を、TPOにあわせて、ぴたりと、使い分けできるようになってからのこと。 それ以降は、接待の酒は、極力辞退。どんなに旨い秘蔵地酒を、眼前にちらつかせられようとも、またの機会に。どうしても、断りきれないギリギリの義理縛りには、適量の二割を、おしめりにいただく。 友人との割り勘会には、陽気なおしゃべりを肴に、五割がた呑む。自前で、外食のときには七割がた呑む。いずれのときにも、適量までの残りは、自宅で、ゆっくり、しっかり、呑む。 酔って帰宅するのは、ものすごく億劫だ。ことに、すっかり暗くなってから女ひとり、ふらついて夜道を歩くのは、辛気くさい。それがハイヒールだったら、壊れたメトロノームのようで不気味だ。夜更けて、酒臭い息の、もつれた舌で、タクシーの運転手さんに、行き先を告げるのは、もっとずっと恥ずかしい。 怪しい物体になる前に、酔わずに帰る。これは、その日のコンディションにおける、自身の適量を、いつでも適確に計れるという、酒呑みを自認する者の、唯一無二のプライドである。 へべれけになるやつは、酒呑みのアマチュアだ。酒と対等ではない。酒にもてあそばれているだけだ。おおばかやろう。 とはいっても、そんなのは、単なる理想で、いざ、酔っ払っちゃえば、プライドもアマチュアもへったくれもない。ネイキッドなむき身の、ぐにゅぐにゅのアメーバ状態で、大切な時間を、むさむさと止めどなく食んで行くのだ。なんで酔っ払っちゃうんだろう。けど、酔わないなら、呑まないほうがいい。もったいない。呑んで酔わないなんて、酒に失礼だ。酒の神様の罰が当る。 呑まなければ、もっと仕事ができるし、お金もたまる。たぶんそうなんだろう。ベッドにもたれ、ゆるり、適量を満たしながら、なんてことのない1日に、感謝して、ほほ笑んでいる。間に合わなかった仕事、ごめんなさい、おいしいお酒、ありがとう。今日も、ちゃんと酔えて、よかった。あした間に合うね、きっと。この本も杉浦日向子アンソロジーR2に収めておきます。
2017.08.13
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図書館で『習近平時代のネット社会』という本を、手にしたのです。「微博」「微信」などによる世論形成を問題視する習近平政権は、ネット環境の統制を強化する…との報道が流れていてホットな社会現象である。【習近平時代のネット社会】 古畑康雄著、勉誠出版、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国のインターネットの発展は、7億の網民(ネット市民)が発言・交流する空間を生み出した。特にモバイル時代に入り「微博」「微信」など交流アプリが世論形成に大きな役割を果たしている。だが言論空間の主導権を奪われることに脅威を抱いた習近平政権は強い言論統制という「壁」を築く一方、利便性の高いネット環境を提供し、網民を囲い込もうとしている。「壁」と「微」の空間で何が起きているかを考察する。<読む前の大使寸評>「微博」「微信」などによる世論形成を問題視する習近平政権は、ネット環境の統制を強化する…との報道が流れていてホットな社会現象である。rakuten習近平時代のネット社会中国のネット環境を「序文」で、見てみましょう。p4~9<序文> 中国のネットユーザーは7億1000万人に達した。特筆すべきはスマートフォンなどモバイルユーザーの急増で、いまや92%に当る6億5600万人がタブレットやスマホでネットにアクセスしている。CNNICの報告でも、ネットユーザーの90%に当る6億4200万人が微信(ウェイシン)など「即時通信」を使用、「ユーザーの生活の中で各種サービスを提供する総合的なプラットフォームになった」として、買い物、旅行、娯楽やさらに医療、政府事務、公共交通機関の支払いもカバー、網民(ネット市民)の日常生活で最も基本的なアプリとして、生活の多くの場でその価値を発揮するだろう」と指摘している。冒頭で述べたようなさまざまなスマホ向けサービスの普及は、こうしたモバイルユーザーの急増を支えている。 だがこうした中国のネットライフは、中国の厳しいネット規制を表す「防火長城」(英語ではGFW、すなわちGreat Firewall)という高い壁の中で行われている。この壁を意識しないかぎり、決して不便ということはなく、ある意味快適でもある。グーグル、ユーチューブ、ツイッター、フェイスブック、インスタグラムは使わない、必用ないというなら、その代わりである微博(ウェイボ)微信が壁の中のネット生活に十分なサービスを提供してくれる。ニュースや地図、動画アプリも充実している。 だが政府の方針に疑問を持ち、社会のさまざまな不正や不公平をネットを使って伝えようとする人、あるいは政府がコントロールするメディアによる世論形成に違和感を持ち、社会のさまざまな不正や不公平をネットを使って伝えようとする人、あるいは政府がコントロールするメディアによる世論形成に違和感を持ち、彼らが伝えようとしない事実を知ろうとした場合、高い壁の存在に直面することになる。さらにはその壁に反抗した場合、そこから排除された者には、厳しい措置が待っている。(中略) 友人であり、現在は日本で生活する中国の著名風刺漫画家、変態辣椒(本名:王立銘)から叩き出されたひとりだ。彼と最初に知り合ったのは2012年秋、反日デモの余韻が冷めやらない北京だった。その時のことを連載中のコラムに次のように書いた。■人気風刺漫画家が見た日本 変態辣椒という奇妙な名前を持つ彼を初めて知ったのは、ツイッターなどに発表した作品だ。例えば次のようなものがある。死んだ男の子と女の子が次のように話している。「生れ変わってマケドニアに行こう」「そうだね、あそこでは祖国のスクールバスに乗れるからね」。 これは2011年11月、甘粛省で定員9名の幼稚園のマイクロバスに園児64人が乗せられ、交通事故に遭い21人が死亡したという事故の直後、中国政府がマケドニアに豪華なスクールバス23台を寄贈した問題を風刺している。当時ネット世論では「これでは中国外交部(外務省)ではなく援交部だ」などといった罵声であふれた。辣椒はこの問題を痛烈な漫画で表現した。(中略) 辣椒は1973年河北省生まれ、地元の学校で公告を学び、2006年からは時事問題をテーマにした漫画を発表するようになった。変態辣椒という名前には特に深い意味はないという。微博を使って漫画を発表するようになったのは11年ごろからで、多くの「大V」(著名ネットユーザー)とも知りあうきっかけができたという。現在彼は北京のネット関連企業で働きながらネットで活動を続けている。 辣椒は14年2月、中国の著名ブロガーを日本に招くプロジェクトで来日し、東京都知事選など日本の政治や社会を視察した。だが直前に新浪微博は彼のアカウントを取り消した。「訪日の情報を知った新浪網が日本に関する書き込みをできないよう、意図的にやった可能性がある」と関係者は語った。 だが微博や微信は健在で、55万のフォロワーに向けて発信を続けた。特に帰国後、日本で得た様々な印象について、多くの微博を発表、読者との論戦を繰り広げている。 「都知事選は北京市長選挙に相当する。30歳以上の日本国籍を持つ人は300万円の供託金を払えば立候補できる。これは遊び半分で出馬する人を制限するのが目的で、もし10%の票を得られれば、お金は返還される」 「日本の中国書籍専門店には、中国語書籍や日本で出版された中国関係の本が、左派、右派の別を問わず並んでいる。抗日戦争の多くの犯罪は日本の歴史家が発見したものだ」 「今回日本のトイレについて重点的に考察した。自分が入った公共トイレはいずれも臭いがせず、目を閉じれば自分がご不浄にいると感じないほどだった。多くはウォッシュレットで、暖房便座や乾燥機能、水流調整など複雑な機能も付く。日本人のお尻は本当に幸せだ!」 こうした発言には当然ながら「いつからそんなに日本びいき、親日になったのか?」「日本が招待した理由は?」といった声も出た。これに対し辣ショウは「本来自分のような草の根の人間が招待されることはないが、政府があらゆる対話のチャンネルを閉じたので、日本政府はやむなく、民間と交流し、誤解を解こうと望んでいる」「私が贔屓するのは先進的な制度であり、親日ではなく文明的な国家を支持しているだけだ」などと反論、反日派に対して次のようにコメントしている。 「お金をためて、日本行きのビザを申請してみたらどうか。反日の憤青(怒れる若者)はほんの僅かでも旅行に出れば、心服して考え方を改めるだろう。一昨年の反日潮流の後日本への旅行は低迷したが、今は過去最高のレベルだ。政府の冷淡な接触拒否と民間の大規模な観光旅行は強烈なコントラストを形成している。もしあなたが井の中の蛙をずっと続けたいのなら仕方がないが、可能ならばどうして自ら行って真相を見ようとしないのか?」
2017.08.13
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図書館で『絶対に行けない世界の非公開区域99』という本を、手にしたのです。ナショナル・ジオグラフィックの本なので、画像とか取材力は申し分が無いようです。【絶対に行けない世界の非公開区域99】ダニエル・スミス著、日経BPマーケティン、2014年刊<「BOOK」データベース>よりこんな場所があったのか!本書では99ヶ所を厳選し、地域ごとに紹介している。【目次】(「BOOK」データベースより)沈没した潜水艦K-129/太平洋巨大ゴミベルト/HAARP研究施設/ボヘミアングローブ/スカイウォーカー・ランチ/グーグル・データセンター/ホーソーン陸軍補給基地/スカンクワークス/米墨麻薬密輸トンネル/エリア51〔ほか〕<読む前の大使寸評>ナショナル・ジオグラフィックの本なので、画像とか取材力は申し分が無いようです。rakuten絶対に行けない世界の非公開区域99悪名高いグアンタナモ湾収容所を、見てみましょう。p94~96<グアンタナモ湾収容所> 米西戦争で米国がキューバを掌握した1898年以来ずっと、米海軍はグアンタナモ湾の浅瀬に基地を維持している。1902年にキューバは独立を果たし、新政府はその翌年、米国がグアンタナモ湾を永久租借することに合意した。 海軍基地は総面積120平方キロあまりで、国交のない国に存在する米軍基地としては唯一のものだ。2001年のニューヨーク、ワシントン、フィrデルフィアへのテロ攻撃後、ブッシュ大統領は有名な「対テロ戦争」宣言を行ない、米国の保安に対する潜在的脅威と考えられる個人を収容する施設をグアンタナモに設置した。 周囲に敷設された地雷原や常駐軍に加え、海や湿地帯といった天然の防衛システムに守られたグアンタナモは、世界でもっとも警戒の厳重な収容施設の一つである。 収容者の多くは、2000年代前半のアフガニスタンとイラクにおける米国の軍事作戦中に拘束された人々だったが、その他にも、第三国によって懸賞金と引き替えに引き渡された人もかなりの数にのぼっていた。 グアンタナモの主要な収容施設はキャンプデルタだ。2002年に閉鎖されたキャンプエックスレイから任務を引き継ぎ、同時に開設された。海に臨む断崖絶壁の上に建てられた施設には、600人以上を収容可能だ。 オレンジ色のつなぎ服を着て手錠をはめられた収容者たちが、露天の檻の中で地面にひざまずかされ、警備員たちに監視されている・・・・そんな光景が、21世紀を表す」映像としてたちまち人々の脳裡に焼き付けられた。特に、テロ容疑者が裁判を受ける権利さえも奪われて、米政府によって拘束されていることを懸念する人権団体にとって、これは象徴的な光景だった。 ブッシュ政権はグアンタナモの収容者を「不法な敵性戦闘員」という地位に分類した。つまり、ジュネーブ条約によって定められた戦争捕虜の権利は否定され、米国の刑事司法制度の適用対象でもないというのだ。そしてその代わりに、収容者は軍事委員会によって裁定されるとする。アムネスティ・インターナショナルによると、2009年に拘禁されていた収容者800人のうち、裁判にかけられたのはわずかに26人で、有罪判決にいたったのはたった3人だった。『絶対に行けない世界の非公開区域99』1
2017.08.12
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図書館で『絶対に行けない世界の非公開区域99』という本を、手にしたのです。ナショナル・ジオグラフィックの本なので、画像とか取材力は申し分が無いようです。【絶対に行けない世界の非公開区域99】ダニエル・スミス著、日経BPマーケティン、2014年刊<「BOOK」データベース>よりこんな場所があったのか!本書では99ヶ所を厳選し、地域ごとに紹介している。【目次】(「BOOK」データベースより)沈没した潜水艦K-129/太平洋巨大ゴミベルト/HAARP研究施設/ボヘミアングローブ/スカイウォーカー・ランチ/グーグル・データセンター/ホーソーン陸軍補給基地/スカンクワークス/米墨麻薬密輸トンネル/エリア51〔ほか〕<読む前の大使寸評>ナショナル・ジオグラフィックの本なので、画像とか取材力は申し分が無いようです。rakuten絶対に行けない世界の非公開区域99世界種子貯蔵庫とやらを、見てみましょう。p150~152<スバーバル世界種子貯蔵庫> 多くの国が自国内に種子貯蔵庫を設けているが、ある植物が災害で絶滅したとき、同時に種子の貯蔵庫も失われたらどうするのかという問題が必ずつきまとう。核兵器や津波は、貯蔵庫も破壊するほどの甚大な被害をもたらす。 北極点から1300キロの場所にある世界種子貯蔵庫に種子を預けるのは、大災害が起きて植物の多様性が失われた場合に備える、保険のようなものなのだ。 スバーバル諸島(ノルウェー領)の最大の島、スピッツベルゲンにある世界種子貯蔵庫は貯蔵室を3室備える。場所は砂岩の山の内部で、入り口からの距離は120メートルだ。この場所が選ばれた理由の一つは、辺境だということが挙げられる。侵入を企てる者がいたとしても、貯蔵庫に入ることはおろか、スバーバルにたどり着くだけでも大変だ。 同じく重要なのは、この場所が世界でもっとも平和で、政治的に安定しているということだ(そもそも住人が少ない)。加えて、海抜130メートルの位置にあるため、極地の氷冠が解けたとしても痛手をこうむることはない。地殻変動の影響による被害がこれまでほとんどなく、永久凍土が種子の保存に理想的な温度を保ってくれる。 2008年に操業を開始した貯蔵庫の建設費用は1000万ドル弱だ。ノルウェー政府、ノルディック・ジェネティック・リソースセンター、グローバルクロップ・デイバーシティ・トラストの3者間で結ばれた契約に基いて運営されている。各国政府と、国際的な非政府機関からの資金の提供を受けている。 一般的な貸金庫と同様、預けられた種子は預託者の排他的な財産であり、貯蔵庫の運営会社もノルウェー政府も、その所有権を主張することはない。しかし、預けた国が何らかの理由で存在しなくなった場合に、その国の預けた種子が誰の所有になるのかははっきりしていない。 貯蔵庫の耐用年数は約1000年だ。エントランスのつや消しスチール製の扉を入り、それに続く98メートルのトンネルを通ると貯蔵室へといたる。トンネルの中は三つのセクションに仕切られていて、セクションごとに施錠されている。温度は貯蔵室に近づくにつれて低くなる。貯蔵室は厚いコンクリートの壁と大きな金属製のドアで守られている。(中略) 保管用種子は、外的要因による影響を受けないよう、熱処理で封印をした、非常に厚いクッション封筒に入れて送る。島に到着した封筒は有害もしくは危険な物が入っていないことを確認するため、まずエックス線で検査される。 貯蔵庫は平均で年に2回、新たな種子を預るために開かれるが、人の入場は厳格に制限されている。各ドアを開けるには異なる四つの鍵が必要だという。噂によると、ノルウェーの王族が公務で訪問した時でさえ、貯蔵室そのものには入れなかったそうだ。立ち入り禁止区域以外への訪問は可能だが、綿密な身分証明と徹底的なセキュリティチェックが必須だ。
2017.08.12
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今回借りた5冊です。だいたい支離滅裂に借りているけど、今回の傾向は、強いていえば、「手当り次第」でしょうか♪<市立図書館>・絶対に行けない世界の非公開区域99・習近平時代のネット社会・ま、いっか・空母「蒼龍」とともに・杉浦日向子の食・道・楽<大学図書館>(今回はパス)図書館で手当たり次第で本を探すのがわりと楽しいが・・・これが、図書館での正しい探し方ではないかと思ったりする(笑)************************************************************【絶対に行けない世界の非公開区域99】ダニエル・スミス著、日経BPマーケティン、2014年刊<「BOOK」データベース>よりこんな場所があったのか!本書では99ヶ所を厳選し、地域ごとに紹介している。【目次】(「BOOK」データベースより)沈没した潜水艦K-129/太平洋巨大ゴミベルト/HAARP研究施設/ボヘミアングローブ/スカイウォーカー・ランチ/グーグル・データセンター/ホーソーン陸軍補給基地/スカンクワークス/米墨麻薬密輸トンネル/エリア51〔ほか〕<読む前の大使寸評>ナショナル・ジオグラフィックの本なので、画像とか取材力は申し分が無いようです。rakuten絶対に行けない世界の非公開区域99************************************************************【習近平時代のネット社会】 古畑康雄著、勉誠出版、2016年刊<「BOOK」データベース>より中国のインターネットの発展は、7億の網民(ネット市民)が発言・交流する空間を生み出した。特にモバイル時代に入り「微博」「微信」など交流アプリが世論形成に大きな役割を果たしている。だが言論空間の主導権を奪われることに脅威を抱いた習近平政権は強い言論統制という「壁」を築く一方、利便性の高いネット環境を提供し、網民を囲い込もうとしている。「壁」と「微」の空間で何が起きているかを考察する。<読む前の大使寸評>「微博」「微信」などによる世論形成を問題視する習近平政権は、ネット環境の統制を強化する…との報道が流れていてホットな社会現象である。rakuten習近平時代のネット社会************************************************************【ま、いっか】 浅田次郎著、集英社、2009年刊<「BOOK」データベース>より自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、軽妙洒脱な生き方指南。<読む前の大使寸評>浅田さんのエッセイ集はこれまで数冊読んできたが…この本はタイトルにも表れているように気楽な感じの編集のようで、それもいいかも♪rakutenま、いいか************************************************************【空母「蒼龍」とともに】池田清夫著、津軽書房、2001年刊<「BOOK」データベース>より飛行機整備兵として真珠湾攻撃からミッドウェー海戦へ。大海原を漂流六時間無事帰還。海中に消えた「蒼龍」を見送り刻みつけた記憶。八十四歳にして初めて一気に書き下ろした己が人生。<読む前の大使寸評>著者の兵歴は飛行機整備兵というのが…シブいのです。それにしても、84歳で一気呵成にこの本を著わした記憶力と熱意がすごい♪amazon空母「蒼龍」とともに【杉浦日向子の食・道・楽】杉浦日向子著、新潮社、2009年刊<「BOOK」データベース>よりテレビ番組の解説でもおなじみ、着物姿も粋な、稀代の絵師にして時代考証家、「江戸からタイムスリップした」現代の風流人・杉浦日向子の人柄と心意気を映す最後のエッセイ集。命をつなぐ食をめぐる話、人生を彩る酒の話題、大切にしていた憩いのひとときを思いをこめて綴る。懐かしい作品制作風景、単行本未収録の漫画のひとコマ、愛用の着物、酒器、小物の口絵写真、作品リストも収録。<読む前の大使寸評>おお 杉浦さんの本ではないか♪借りたのは2006年刊のハードカバーでした。rakuten杉浦日向子の食・道・楽************************************************************まあ・・・・抜き打ちのように、関心の切り口を残しておくことも自分史的には有意義ではないかと思ったわけです。図書館大好き237
2017.08.11
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図書館で『ま、いいか』という本を、手にしたのです。浅田さんのエッセイ集はこれまで数冊読んできたが…この本はタイトルにも表れているように気楽な感じの編集のようで、それもいいかも♪【ま、いっか】 浅田次郎著、集英社、2009年刊<「BOOK」データベース>より自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、軽妙洒脱な生き方指南。<読む前の大使寸評>浅田さんのエッセイ集はこれまで数冊読んできたが…この本はタイトルにも表れているように気楽な感じの編集のようで、それもいいかも♪rakutenま、いっか小説家の読書熱を、見てみましょう。p135~138<読書をする猿> 読むことが好きで書くようになった。 小説家を志した動機といえばそれに尽きる。読書熱が昂じて、とうとう書物を作ってしまったわけである。食いしん坊が厨房に立ったといえば、いっそうわかりやすいであろう。 つまり私の仕事の母は読書であるから、原稿に追われて自由な読書時間が削られると、不幸と不孝を同時に感ずる。思うさま本が読めなければ苛立つ。そんなとき読みさしのページを開けば、まるで赤ん坊が乳を与えられたようにおとなしくなるのだから、まことに単純である。好きな形容ではないが、たぶんこういう人間を「活字中毒者」というのであろう。一見多趣味のようでありながら、実は読み書き以外にはほとんど趣味はなく、生活から読み書きを奪われでもしたら、とたんに死ぬほかはないと思われる。 いや、小説家になった動機からすると、書けなくなっても生きている。だが読めなくなったらまちがいなく死ぬ。 そんなわけであるから、今節一種の社会問題となっている「読書ばなれ」など、私にはてんで理解できない。読むか読まぬかではなく、読まずに生きていられることが信じられないのである。 さて、そうした私にとっての至福は、何ものにも妨げられずに読書をする日々である。読みつくせぬくらいの書物をどっさり抱えて山間の温泉場にこもる。 テレビの旅番組ではないのだから、食事や部屋はどうでもいい。あたりに名所などないほうがいい。むろん連れなどはもってのほかである。天然の景色と、湯と、書物があればいい。もし三日間の完全な自由が与えられたなら、私は今この瞬間からでも書物を抱えて旅に出る。 ここまでお読みになった方の多くは、小説家という職業の特殊性を感じたのではあるまいか。貴重な余暇と、非日常の旅と、今や反社会的娯楽になってしまった読書を、むりやり結びつけているように感じた方もいるはずである。 しかしよく考えてみれば、私たちは貴重なはずの余暇をいつの間に過ぎたかわからぬくらいに空費しており、非日常であるべき旅に日常をひきずっており、反社会的娯楽もなにも、子供のころに胸ときめかせてページを操った読書の快楽を忘れてしまった。あんがい気付かざるそうした過ちを一挙に快復する方法としては、すこぶる有効だと私は思うのだが、いかがなものであろう。(中略) さらには、日ごろほとんど無縁の自然と親しんだ結果、活力が充満する。森林浴だのマイナスイオンだの、そういう身もフタもない分析はやめよう。人間の正体は猿であるから、コンクリートの猿山に住むのは本来の姿ではなく、山に住むべきなのである。 しかし猿は読書をしない。つまり人間とは、読書をする猿なのである。いまいましい群からひとり離れて、湯に浸かり、自然に抱かれ、読書三昧の日々を過ごすというのは、私たちの本質である動物性を快復しつつ、人間的知性を増進させるという、すばらしく理に適った行動と言える。 かくしてこの旅から帰ると、あらふしぎ、何となく大人になっている。 ここで最大の問題といえば、多忙な生活の中で果してこんなことが可能かどうか、という現実的な制約であろう。しかし、これは私の憲法なのだが、あらゆる行為というものはできるかできぬかではなく、やるかやらぬかなのである。 猿は行為をなすにあたって、「できるかできぬか」と本能的に判断する。しかし人間は「やるかやらぬか」という意思の判断を下す。すなわち前者が野生であり後者が知性である。この知性の獲得によって、猿は二本足で立ち上がり、人間となった。 では、原稿も書きおえたことだし、これより書物を山と抱えて旅立つ。ごきげんよう。『ま、いっか』1:日本語の未来『ま、いっか』2:ま、いっか
2017.08.11
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図書館で『ま、いいか』という本を、手にしたのです。浅田さんのエッセイ集はこれまで数冊読んできたが…この本はタイトルにも表れているように気楽な感じの編集のようで、それもいいかも♪【ま、いっか】 浅田次郎著、集英社、2009年刊<「BOOK」データベース>より自分のために笑え。人のために笑え。いつも背筋を伸ばし、鉄の心を忘れるな。粋に、一途に、ゆうるりと。浅田次郎が贈る、軽妙洒脱な生き方指南。<読む前の大使寸評>浅田さんのエッセイ集はこれまで数冊読んできたが…この本はタイトルにも表れているように気楽な感じの編集のようで、それもいいかも♪rakutenま、いっかこの本のタイトルになっている「ま、いっか」を、見てみましょう。p11~14<ま、いっか> 男は容姿ではない、などと口で言うのは簡単だが、いささか無責任な言であろうと私は思う。それがすべてではないにしろ、容姿が恋愛の一要件であることにちがいはないからである。 ただし普遍的客観的にすぐれた容姿の男ばかりを要求し続けると、痛い目に遭うかアブレるかのどちらかであるから、「ま、いっか」という許容範囲内で手を打つのが、恋愛のコツと言えよう。 恋愛感情の相当部分は思いこみである。もしかしたら大部分かもしれない。したがって信心深いタイプの女性ならば、相手のアバタをエクボだと思いこむこともできるが、飽きっぽい性格の女性は、本物のエクボもやがてアバタに見えてくる。恋のゆくえは大方こうして決まるのであるから、「ゼッタイこの人」も「ま、いっか」も、結果的にはさほど変わりがない。 要するに、男の容姿は恋愛の一要件にはちがいないけれど、客観ではなく主観的に納得できればよい、ということになる。 さて、ここまではわかった。たとえ世界中がサイテーとののしっても、自分の美学だけがイケメンと信じてさえいれば、恋愛は幸福である。だがしかし、この恋愛論には思いもつかぬ陥し穴がある。 恋愛の結果としての結婚、もしくはそれと同然の長期にわたる交際において、男の容姿は哀れな変貌をとげる。若い時分のたかだかのみてくれなど、たいてい40もなかばを過ぎれば形骸すらとどめぬのだから怖ろしい。年齢とともにてんで傍目を気にしなくなる分だけ、男の変容は女性の比ではない。(中略) 今や女の人生は男によって左右されるほど脆くはなかろうが、一生の伴侶とするには早熟型のイケメンよりも、晩成型のジミ男のほうが得にきまっている。しかも中年からの男の容姿は収入や地位に比例する場合が多いから、結婚相手としてはあえて「ゼッタイこの人」を捨て、「ま、いっか」を取るという手も大いにありうる。 その先は努めて信心深く、アバタもエクボだと思いこめばよい。思うだけではなく、口に出して誉めちぎればなおよい。女はほめられて喜ぶだけだが、男はほめられればその気になるので、やがてアバタはエクボに変わる。 年齢とともになぜかカッコ良くなり、容姿に応じて晩成した男たちには、みなリングサイドのトレーナーのごとき伴侶がついているように思える。 さあ、身近の「ま、いっか」について、もういちど考え直してみようか。『ま、いっか』1
2017.08.10
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