全444件 (444件中 1-50件目)
Jan 1, 2010
Jul 14, 2009
【人生も商売も、出る杭うたれてなんぼやで!】 それが著書のタイトル。著者である吉田潤喜(じゅんき)氏はアメリカンドリームの体現者と自身のホームページに書いている。京都で在日コリアン2世、3代目のクリスチャンと生まれて育った吉田氏は、東京オリンピックの強いアメリカ人と、テレビで見る行儀が良く仲の良いアメリカン・ファミリーに憧れていたという。19歳の時、親の反対を押し切って羽田からアメリカへと飛び立つ。ノースウェスト航空で降り立った地はシアトル。もしこれがサンディエゴ行きの飛行機だったら、また違った人生が展開されていたかもしれないと笑う。 吉田氏は帰りのチケットを売って車を買い、そこに寝泊りする生活を始めた。ちょうどブルース・リーブームのアメリカ、昔習った空手を教えるという条件で大学の授業を無料で受けさせてもらい、そこで知り合った女性、リンダと結婚する。しかし、クリスマスのプレゼントも買えないほどに家計が苦しくなった時、実家の焼肉屋のソースを真似て作り、生徒や知人に渡すとこれが大評判。やがてそれが「吉田ソース」となって全米、世界へと売られていく事になるなど夢にも思っていなかった。ビジネスは浮沈みしながらも、年商250億、また地域や奉仕活動にも積極的な吉田氏の講演会がマンハッタンで行われた。「不景気だけど、元気になって欲しい、パワーを感じて欲しい」というのがその思いだという。 講演が始まる前に約10分のプロモビデオを鑑賞した。かすか遠い記憶の中、シアトルに住んでいた時代にコマーシャルを見ていたかもしれない。でもまだ右も左もわからなかった時代、よくは覚えていない。そこへ登場したのがカーボーイハットをかぶり、関西弁で話すからなぁ、と笑っている元気なオッチャン。 約250人収容のほぼ満場となった会場を見回し、「やっぱりニューヨークやなぁ。違うわ。エネルギーを感じる。」と一言。講演会を通じて東京、関西、アメリカでの会場の違いを話した。東京では皆必死にノートを取っているという。関西ではノートは取らずに聞き流す。そしてアメリカ、ニューヨークの会場のオーラはその東京、関西とも違うという。「ふーん」「へー」「ためになった。じゃ、飯食べに行こうか」と受身である日本と違い、何かを感じるという。きっとそれは私たちも彼と同じく外国の地で必死に生きているからなのか、ニューヨークという土地柄、成功者を夢見て日々努力している人が多かったからかもしれない。 彼は2度ほど人生のどん底を見たと経歴にはあるが、実は4回なのだと笑いながら本音を吐いた。人生は山あり谷あり、物事が上向きになると調子に乗るのでズトーンと落ちるという。そして悔しい思いで一杯になり、また這い上がって来たのだと言った。これは、アメリカという国が敗者に対して寛大なのと、敗者に対してもチャンスを与えてくれる国だからだと述べていた。きっとアメリカにいる多くの人が体験していることかもしれない。 吉田氏の話しぶりはまるでコメディアンのようだ。40年という長い間アメリカ社会で生きてきて、話術のノウハウをマスターしたのだと感じた。関西弁とカウボーイハットという井出達から「吉本新喜劇じゃない」と言うが、それ以上に面白く、間の取り方も上手いと思った。そんな社長でもある吉田氏が成功した理由は:1)たくさんの社長に会って、どんなお酒を飲み、コーヒーを飲み、車に乗り、ゴルフをしてごまかすのか学んだ。2)空手と同じで調子に乗るとダメになる。良い所を研究するのではなく、弱い所を見つけて認める。3)商売するのであれば身を捨てて、1秒で安心してもらうような自分になる。4)Passion とEnergyを持って自分に暗示をかけて突き進む。5)金儲けの目的は恩返し。バスを動かせ。 頭に来る事があれば、「なにくそっ!」と思い、吉田氏の場合はそこに閃きが生まれチャンスになった。パッションを持っている人にはオーラが出て、人が放っておかないというのだ。私も恥ずかしいながら、ブチギレすることが多々ある。だから彼の「なにくそっ!」というエネルギーの原動力を参考にしたいと思った。まるで江原啓之さんや美輪明弘さんのお話を聞いているかのように、「エネルギーの法則」や「オーラ」という言葉が飛び交っていた。 自分が大好き、だから他人も愛せる、という吉田氏は、「夢は徹底的に追わなければならない。Keep on Dreaming!」というメッセージで講演を締め括った。努力と苦労を笑顔とジョークで吹き飛ばす吉田氏は、その波乱万丈な人生を、時にどん底であってもきっと人生を楽しく乗り切ってきたのだろう。約束どおり、パワーを感じ、元気にしてもらった。 さて、次は私の番だ。この沸々とする思いを実現させていくこと、それが私のアメリカンドリームだから。 ===吉田ソースアメリカで1日平均5万本生産されているグルメソース。保存料無添加の本醸造の醤油を始め、高品質で自然な原料を使用し、添加物を一切加えない自然な製法が人気を呼んでいる。プロフィール:よしだ じゅんき1949年12月7日、7人兄弟の末っ子として京都で生まれる。アメリカにあこがれて、1969年1月24日に単身渡米する。波乱万丈のアメリカ生活をサバイブした末、自家製秘伝のタレをベースにしたヨシダソース(正式名称:ヨシダグルメのたれ®)を生産販売してアメリカンドリームの体現者となる。米国の中小企業局、Small Business Administration(SBA)が選ぶ全米24社の中に、FedExやインテル、AOL、ヒューレットパッカードなど並んで「殿堂入り」を果たす。 2005年にはNewsweek誌(日本版)「世界で最も尊敬される日本人100」に選ばれる。現在、ヨシダグループとして18社を抱え、グループの会長職務と地元料理番組のレギュラー出演、各地での講演から、日本国内での様々な番組出演・各メディア取材などこなし、世界中を飛び回る日々を送っている。 http://www.youtube.com/watch?v=ThUjX-9eMMc
Jul 2, 2009
忙しく人が行き交うマンハッタンのパークアベニュー。まるでこの街の頂点を上り詰めた成功者を象徴するかのような大企業のビルの群れが威厳を持って立ち並ぶ中、こんな小さな花がこの街を飾ろうと精一杯咲いていた。
Jun 30, 2009
2009年6月25日、世界に衝撃が走った。King of Popと言われる世界のスーパースター、マイケル・ジャクソンが50歳という若さで、その一生を閉じた。ネット上だけでなく、テレビでも彼の追悼番組が組まれた。同日には1970年代から80年代に世の男性を魅了したファラ・フォーセットの訃報があった直後であった。時代を象徴した2人だった。映画好きだった父の影響で、子供の頃から「スクリーン」、「ロードショー」といった雑誌を見て育った。『チャーリーズ・エンジェルス』はグラビアの世界ではあったけれど、カリフォルニア・ガールの象徴のようなファラ・フォーセットは、私のアメリカへの憧れをますます強いものにした。ミュージックビデオがテレビに流れ出すと、聖子ちゃん、トシちゃん、マッチ、と言っていたクラスメートたちも、洋楽親しむようになった。そのミュージックビデオでやはりマイケル・ジャクソンは特別だった。米粒のようにしか見えなかったけれど、横浜スタジアムで行われたコンサートに行ったのを覚えている。結局、それが彼のコンサートに行った最初で最後となってしまった。アメリカの音楽、映画が大好きだった私の思い描いていたアメリカに影響を少なからずとも及ぼした2人だった。Good-bye、マイ・アイドル・・・
Jun 29, 2009
少し前の写真ですが、クライスラービルがメチャメチャ綺麗でした。
Apr 14, 2009
アメリカ合衆国内に独自のパスポートも発行している国家があることをご存知だろうか? それはイロコイ連邦(Iroquois Confederacy)、日本人なら「色恋?」と思わず首を傾げたくなるような名前だが、ニューヨーク州北部からカナダのオンタリオ州にかけて6つの部族で形成されている集団だ。残念ながらイロコイ連邦のパスポートを日本は認めていないと聞くが、ニュージーランドは受け入れたらしい。イロコイ連邦がアメリカ13州の独立に協力したばかりでなく、連邦制度にまで影響したということを今日初めて認識した。そのような事を聞いたことはあったが、漠然としていて「ふう~ん」と受け流していただけだったように思う。昨年度、親友の結婚式もこのイロコイネーションのオノンダガ郡にあるシラキュースで行われ、世界一汚染された湖、オノンダガ湖畔で結婚式の次の日にピクニックも行っている。親友にイロコイの事を聞いてもあまり知らず、きっと私の方が良く知っていると言われてしまった。イタリア系移民3世にあたる彼女にとってはイロコイネーションで育ちながらも身近な存在ではなかったようだ。イロコイ連邦制度がアメリカ合衆国の連邦制度の元となっている背景には、ベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファーソンに影響を与えていたことが要因だったようだ。1780年代の合衆国憲法制定会議にはイロコイ連邦や先住民諸国の代表団が含まれていたというから驚きだ。また、歴代大統領もイロコイ訪問するのが習慣となっていたというが、ジョンソン大統領で終わってしまった。ではジョンソン大統領の次の大統領は誰だったか?ウォーターゲート事件で失脚したニクソン大統領だ。合衆国の国章ハクトウワシもイロコイ連邦を元にしてあり、言論の自由、信教の自由なども合衆国憲法に取り組まれ、女性の参政権があったのもイロコイ連邦だったというから、驚きの連続だ。もともと、イロコイ連邦に属する部族は女系、部族(Clan)を統率するのはClan Motherと呼ばれる女性であり、その下に何人かの酋長(Chief)がいるのだそうだ。てっきり酋長が一番偉いのだとばかり思っていた。Clan Motherはリーダー(酋長)となる育成を任され、リーダーと共に部の統治をしたという。世界でも数少ない女系社会がアメリカ合衆国の元になっているのが興味深い。イロコイの歴史は隣接する部族たちが争っていたのを平和を求めることに始まる。そしてもしかしたらここに現在の世界を予言するようなことが隠されているようにも思える。イロコイが形成されたのは1000年頃と言われている。創造主(Creator)からの使い(Messenger)であるピースメーカー(Peace Maker)がこの5つの部族に平和をもたらすために送られた。ある時、オノンダガ族のTadadahoという男の元に行った。私はどうしても忠雄と呼んでしまうが、Tadadahoは髪に蛇がまとうほどの邪念を持っていたという。Tadadahoはメッセンジャーであるピースメーカーが人々に平和を説くこと止めさせようとしたのでメッセンジャーは Tadadahoの娘を殺した。ハイアワサ族はピースメーカーの説く創造主の言葉を受け入れたが、Tadadahoの娘の死を悲しむ人々はやがて愛する人を失った人の悲しみを分かち合うようになる。人々は再びピースメーカーの言葉を受け入れ、やがて5つの部族に広がり、同じく創造主の言葉を受け入れた Tadadahoから蛇が梳き絶たれ、50人目の酋長として受け入れられたというのが伝承だ。5つの部族は松の木の下に全ての武器を埋めて平和を約束し、この木を平和の大法則(The Great Law of Peace)を象徴する平和の木(The Tree of Peace)で集うことを決め、鷹(Eagle-that-sees-far)がその木の上を飛び、平和の木は根を聖なる四つの方向に伸ばし、ここにデモクラシーが生まれ平和の白い根(white roots of peace)となった。そこでふと閃いたのが、4つの方向は当然の如く東西南北だが、5つの部族は5大陸とも考えられるのではないか、ということ。ならば創造主のメッセンジャーとなるピースメーカーは誰、何処の国になるのか?これは全て今日、初めて国立アメリカ・インディアン博物館に行って学んだことだ。スミソニアンの一部である故、入場無料。昔、税関だった場所で、政府と市の建造物に指定されている。展示物は他博物館と比べると少ないが、現在、「デザインによるアイデンティティー(Identity by Design)」という女性たちがどれだけ衣服に思いをこめてきたか、それが今も受け継がれているという展示が開催されている。細かいビーズ作業、デザインに込められた部族・家族の象徴から当時の女性の生活やを垣間見ることが出来る。なぜか篤姫を思い出し、日本の着物にも同じような思いが込められていたんではと思った。デザイナーの中にひとりアジア人の顔をしたJamie Okumaというラストネームの若い女性が居た。ネイティブ・アメリカンの中には日本人に似た人もたまに居るが気になって調べてみるとやはり日本に縁があったようだ。母方がネイティブ・アメリカン、父親がハワイアン・オキナワンの女性で出生と同時にインディアン居留地で育ったらしいことがわかった。なんだか嬉しかった。「全ての存在は繋がっている」ネイティブ・アメリカンの生き方そのものであり原点である光ある言葉が心に暖かく響く。 イロコイ連邦の旗
Apr 4, 2009
朝、地下鉄を待ちながら、手持ちぶたさに1ヶ月程前に届いた一通のメールを見ていた時だった。新しいメールが地下のホームにいる私のブラックベリーに届いた。そして私はあっと声を喉につまらせた。『被爆者の声 HP管理人です。 こんにちは。伊藤明彦さんが、3月3日 午後8時34分、お亡くなりになりました。』私は伊藤さんご自身が投稿したメールを読んでいたのだった。伊藤さんは40年間にわたり全国の被爆者を訪ね取材を続けて被爆者の肉声を収録し、テープやCDに収めて施設や図書館に寄付をしていた。最近はボランティアの協力を得て、録音した肉声を文字に起こし、それをHPにて配信した。その功績は昨年、吉川英治文化賞受賞して讃えられた。『被爆者の声』のHPに出会った私は管理者の了解を得て、昨年10月に行った『Love&Peace:朗読と語り部の会』の中で伝えた。最近の伊藤さんはビデオで被爆者を記録、世界に向けて聞いて欲しいという強い願いから、英語の話せる被爆者を取材していたと言う。私の父代わりのような被爆者の方もその1人だということも改めて知った。私の心が震えるのは、伊藤さんが1970年に長崎放送を退社して自身の人生を被爆者たちの記録に捧げた事だ。記者という肩書きが無い中、自費で被爆者の取材を続け、その記録を図書館などに寄付するという行為は並大抵のことでは無い。資金は昼間日雇いの仕事をして作り、夜に録音機を持って被爆者たちを訪問したという。こんな人がこの世の中にいるなんて・・・。ただ、ただ、「凄い人だ」と思うだけ。せめて私に出来る事は海外、ニューヨークに住んでいる事を利用することだけ。伊藤さんの意志を継いで、収録されたビデオをいつか流したいと思う。伊藤さんは8歳の時に長崎で被爆している。こうやってまた一人、生き証人がこの世からいなくなった。被爆者の高齢化により、生の声を聞けるチャンスはだんだん少なくなっていくだろう。だから、機会があれば是非彼らの話に耳を傾けて欲しい。そして知って欲しい。63年前の戦争がまだ続いている人たちがいるということを。伊藤さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。被爆者の声HPhttp://www.geocities.jp/s20hibaku/伊藤さんの訃報と業績を伝える長崎放送http://www2.nbc-nagasaki.co.jp/houdou/index.php?itemid=7034 ===日記を放置していた私が悪いのですが、変なコメントやトラックバックが発生した為、現在書き込みを受け付けておりません。
Mar 12, 2009
滞在2週間の中で沖縄旅行へ行くことが今年の課題だった。一昨年はヒロシマへ、昨年はナガサキへと足を運んだ。だから今年は沖縄へ、とそう願っていた。昨年、ナガサキ・熊本・宮崎県高千穂から実家のある横浜に戻る時、一緒に旅行していた母が「来年は沖縄ね。」と言った言葉が後押しになったのかもしれない。ニューヨークから一時帰国した3日後、羽田を朝早く出て、沖縄を最終便で発つ沖縄本島・宮古島3泊4日の旅に出た。 沖縄は今までの私の中で日本の中での異国だった。南の島と聞いてイメージするぐらい。興味を持ったのは本当に最近のこと。ニューヨークで知り合った友人に宮古島出身の人がいたからかもしれない。それまでは沖縄にしても北海道や四国は「いつか行ってみたい、でも本当に行くかわからない」という場所なのだ。 ニューヨークには沖縄料理の店がある。知り合いにも沖縄出身の人が結構いる。知人は酔うと私を含めて一緒に居る人たちを「本土の人」と呼ぶ。生まれつき口下手なのかもしれないけれども訛りが気になるのか、一生懸命標準語で喋ろうとしているのがわかる。関西人は標準語で話そうとしない人が多いのに比べて他の地方出身者は努めて標準語で喋ろうとする。だから気を使わなくても良いのにといつも思っていた。共通の知人は「彼は沖縄の海のような人だから」とよく言った。それが初めて沖縄の地を踏んだ事によってよくわかった気がした。 4月上旬の数日の訪問、そして母と一緒の旅なので海辺でゆっくりしたバケーションとは程遠いものだった。その上、私はスキューバのライセンスを持っていないので潜ることは所詮無理。けれども青い空、青い海を待ち焦がれる思いで一杯だった。と、同時に私の訪問したい場所は沖縄戦跡。今回の訪問の目的を戦跡めぐりとスピリチュアル探求の旅とした。 那覇へ向かう機中、目の前にあるスクリーンに地上の画像が映し出されていた。那覇に近づくにつれ、海が見え始めると私の胸は高まった。那覇空港に着陸した時に目に飛び込んできた光景は今までに見たことのないものだった。それは自衛隊機の数の多さ。調べてみると民間機と陸海空の自衛隊と海上保安庁が共有しているという(Wikipediaより)。隣の席に座っていた母も身を乗り出して窓の外を眺めながら「ずいぶん多いわね。」と驚いていた様子だった。 空港のロビーに出ると、暖かい空気が気持ちよかった。まだ寒かったニューヨークのことを思うと自然に笑みがこぼれた。南国の雰囲気あふれる空港の中を物珍しさにきょろきょろしながら歩いた。日本の免許を既に失効させてしまい、道幅の狭い日本での運転を母から禁止されている身であるため、今年も運転は母に任せることに。レンタカーを借りて最初の目的地、ひめゆりの塔のあるひめゆり平和祈念資料館に向かった。 那覇へ向かう機上から
Apr 8, 2008
ただいま、ニッポン!また桜の季節に合わせて一時帰国中。先週末が都内の桜の名所でのピークというニュースも見ていましたが、成田空港の周りにはまだ桜も残っていたし、高速道路からも街中に咲いているピンクの花を見る事ができて本当に嬉しい。また2週間の滞在中、国内旅行をしたり、小学校・中学校の同級生たちとの再会が予定されていたりと実のある滞在となる予感。家族と一緒に過ごして、しっかり充電したいと思う。 でも、まずは「ただいま!」
Apr 5, 2008
サボリ気味というよりあえて書いてないかもしれない楽天日記だけれども、このブログを書き始めた当初はブログが面白く、また楽しくてしょうがなかった。同じ街に住んでいて、もしかしたらすれ違っているかもしれない人たちとのコメントのやりとりやそんな人たちを通じて知り合ったネット仲間とのバーチャルな空間が新鮮だった。そしてある時、「オフ会をやろう!」と言って集まり、それがきっかけとなってリアル・フレンドへと発展していった友たち。 今では日本に帰ってしまった人たちもいるけれど、ブログ日記を通じてどんな生活を送っているのかやコメントの書き込みでいつしかいつも一緒にいるような感覚に陥ってしまう。そんな仲間とバーチャルではなく、再会する機会が訪れた。 日本に帰国した人がアメリカに遊びに来る、ニューヨークに来るというので集まった。久しぶりに会うけれども、久しぶりが1年以上も前のことであるなんて信じられないほど。昨日とは言わないまでも、先週、先月会ったような気がするね、なんて言いあっていた程。グルメの友達に教えてもらって来たという彼女の手にはビッチリメモが書き込んである地図があった。そのグルメ通のお薦めのレストランに行こうと言って行ったのがこのペトロシアン。本当に久しぶりだった。 このレストランには思い出がある。 その昔、大学卒業してすぐの頃。就職してやっと大人の仲間入りしたと感じた時だった。日本から来る人たちのアテンドをする同僚と一緒にこのレストランに連れて来て貰っていた。本社の社長の意向で社員教育やインセンティブに力を入れていた会社だったから、頻繁に日本からたくさんの人がやって来て、マンハッタンで食事をしてミュージカル鑑賞をするのが常だった。周りの人たちの計らいもあって私もたまに同席した。同僚が、このペトロシアンが良いからと、このレストランに行く時に声をかけてくれていたのだ。その後は転職した先の年上の女性がこのレストランが好きということで、ハッピーアワーとしてシャンパンとキャビアをカウンターで戴くということがあった。マンハッタンに住み始めた頃で彼女は本当に色々なことを教えてくれた。 周りをみると混んでいるわけでもなく、平日としては人の入りはあまり無いように思った。けれど、だからこそ久しぶりに集まった3人での会話が邪魔されること無く弾んだ。 このブログ無しでは出会えなかった仲間との再会。フレンドシップの形態は変わっても、その中身はまるでキャビアのよう。 良き出会いに感謝。
Apr 2, 2008
ぐr 10日程前に撮った写真ですが気に入っているので久しぶりに写真アップ!
Mar 27, 2008
日本のブログ文化は今や世界一。 2006年の統計によれば世界に約7000万のブログが存在し、そのうちの37%が日本語で書かれたものだそうだ。私のこの楽天ブログもこの37%に貢献しているに違いない。ちなみに英語は36%。その違いは英語ブログは独自の分析を書くジャーナリスティックなものが多いのに対し、日本語は日記形式が多いらしい。 そう考えるとメジャーリーグで活躍する松井稼頭央選手、田口壮選手、井口資仁選手などはオフィシャルサイトにブログ日記を公開している。若いヤンキース・ピッチャー、フィル・ヒューズ選手のブログは有名だが、これは彼がそういうジェネレーションにいるからだと思う。 ふと思ったのが、もしこのブログ文化が戦後日本にあったとしたら・・・? 仲間の家でミーティングをしている時に見せてもらった本があった。英語版の栗原貞子著『黒い卵』(英語題Black Eggs)だった。彼は私と出会い、Hibakusha Outcry(ヒバクシャの叫び)というグループを立ち上げる数年前に原爆詩を集めた朗読パフォーマンスを行っている。そんな話を聞いて出会うきっかけとなったのだが、彼はまだヒロシマ、ナガサキを訪れたことは無い。 ページをパラパラとめくると、これを読んで彼が詩を選んだのだとわかったのだが、すると彼がこう言った。 「表紙を見てごらん。文字が黒く消されてるだろう?検閲された痕だよ。」 旧字体を使ったその文章を読むと、まるで試験勉強をするためにハイライトを引いた参考書のようになっていた。 戦後の日本にはGHQによるプレスコード、検閲があった。Wikipediaによると原爆詩人、栗原貞子や峠三吉の詩集が発禁処分に処されたという。このプレスコードにより日本国内だけではなく、世界にも原爆の恐ろしさを伝えれられることが無かった。プレスコードは1953年まで続き、その間も核実験は繰り返されていた。 だから、もしブログ文化がその頃の日本にあったとしたら、きっと栗原貞子さんはブログ発信したのではないだろうか?たとえ検閲でページが消されたとしても、またブログを立ち上げ、と繰り返したのではないかと思う。 「原爆のことはやめておきなさい」 そう私も日本人に言われたことがある。私の活動についての反応もアメリカ人よりも日本人からの方が冷たく、無関心と感じる時の方が多い。もしかしたら、日本人のDNAの中にプレスコード時代の何かが植えつけられてしまったのかもしれない。 忘れないで欲しい。1945年8月6日も2001年9月11日も青い空が広がっていたことを。 【追記】 表紙になっている詩 『戦争とは何か』を載せようとしたら、こんなメッセージが出てきました。 わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。この方のブログをご参照下さい。
Mar 22, 2008
母が2月中旬にニューヨークを去ってから、目まぐるしい毎日を送っている。そしてあっという間に3月も終わろうとしている。すでにサマータイムは始まり帰宅する午後5時過ぎでもまだ明るい。そして長い裾のダウンジャケットもクローゼットにかかったまま。春分の日を過ぎて、あとは肌で感じる春を待つだけとなった。 ボランティア平和活動の一環で昨年から始めたニューヨーク平和映画祭。今年の開催に向けて少しずつ動いている。残念なことに仲間が多忙の為にひとり欠け、残った2人で分担しながらアレコレ決めている。仕事の片手間に行っているせいか、頭の中は平和活動のこと、仕事のこと、プライベートのことでいつも一杯。休まる暇が無い。また今年も4月に2週間程日本に一時帰国するけれど、日本行きの飛行機に乗った時にやっと落ち着くことが出来るのではないかと思うほど。でもきっとその飛行機の中でも旅行に行く沖縄の資料をきっと読んでるに違いない。と、するとトータル・リラックス・タイムは南の島のビーチまでお預け。母は「脳を使っていた方がボケないよ」と私のひとり暮らしを心配してか滞在中よくそう口にしていた。 でもひとり暮らしの良いところは気ままなところ。今夜も金曜日の夜中だというのに日本テレビ開局55年記念ドラマ 『 東京大空襲 』を続けざまに第一夜、第二夜と見てしまった。63年経ってようやく3月10日の東京大空襲が思い出され始めたように感じた。年老いたおじいちゃん、おばあちゃんが今の世を嘆いて誰にも見せず押入れの奥にしまっていたものを出して見せてくれるようになったというような感覚。そんな切実さが伝わってきた。 そんな意味ではヒロシマ、ナガサキの原爆投下は世界中に市民権を持っている。この2月、3月にかけてニューヨークではこのテーマのお芝居が2本上演された。意外だったので驚いたけれど、その2本ともノン・ジャパニーズ。1つはイスラエルの演劇集団の英語字幕で上演された『黒い雨』というお芝居、もう1つは原爆開発したアメリカ側の視点からのお芝居だった。 『黒い雨』はアメリカという国がよく反映させていて、ストーリーは過去を忘れた人たちがまた過ちを犯してしまうという未来の話でもあり新鋭劇団。若い男性がお風呂に入るシーンがあるのだがフル・ヌードとなった。芝居の内容より他のことに気が散ってしまった。でも嬉しかった。周りを見渡しても日本人観客は私ひとり。イスラエル・ノン・ストップ・アート・フェスティバル2008という中での上演だったのできっと殆どがユダヤ人だったのだと思う。彼らには彼らの歴史があるのに、そうやってヒロシマに目を向けて世界中で公演しているということが日本人の私にとってはとても嬉しく、ありがたく思えた。もちろん、今のご時世、他人事ではない。人、ひとりに歴史あり。そして命の尊さは変わらない。 最近知り合いになった若い禅僧の座禅会で平和活動について話して欲しいと依頼があった。そのような場は初めてのこと。参加者と禅僧の4人相手に私の経緯を話し、吉永小百合さん編集の詩集から詩を2編読んだ。人はどんな話が聞きたいのか、そして私は何を伝えたいのか。詩はそれだけで腹の底から衝き動かされる力を持っている。 任運騰騰。そう生きている昨今。「忙しくて」というのは言い訳ですが、日記放置状態でした。ごめんなさい。頑張って書きます!『黒い雨』演出:Ofira HenigHerzliya Theater Ensemble and Haifa Theater
Mar 21, 2008
まだ会っていないけれど、今日から約2週間半ほど母が遊びに来ている。 10時半頃自宅から無事着いたと連絡があった。仕事があるので出迎えにはいけない。だから母はひとりでタクシーに乗って私のアパートまでやって来る。重い荷物を5階まで運ぶのは一苦労だが、母はなぜか運がよく誰か出くわした人が手伝ってくれている。今日はいつもと違って朝についた便だったからか、ひとりだったのだろう。息を切らしながら『今着いたよ』と数時間前に電話をしてきた。12時間のフライトで、あまり寝れなかったから少し休むと言っていた。私が帰る頃までには大夫回復しているだろう。 なんと言っても甥と姪の写真やDVDを持ってきてくれたので、いろいろ話しを聞きながら見るのが楽しみで仕方がない。甥からは涙を流しながら書いたというラブレターを預かっているという。甥の涙は義理の妹の言うことを聞かずに白い紙に大きな字で書き始めてはみだしてしまったからだそう。歌や踊りは上手な甥。だけど絵は下手で興味がない。そんなところは私に似ている気がして愛おしさが増す。 いつもひとりの空間に誰かがいる。いつもは言わない『ただいま』と言うようになる。そして言えば『おかえり』と迎えてくれる人が家に居る。気を使わないで空気のような存在の家族。どんなに離れていても、最後にいつ会ったかなんて関係なく、一瞬でその関係に戻れる相手。 親孝行らしいことはあまり出来ないかもしれないけれど、たくさん話しをして、美味しいものを食べ、オペラ鑑賞したりしようと思っている。 しばしの間、お気楽ひとり暮らしにさよならして甘えん坊の娘に戻ります。
Jan 24, 2008
毎年1月2日に書初めをする。 その年のテーマにしたい漢字一文字を選び、四方12センチの色紙に書き、一年間本棚に飾っておく。この数年来続けている事だ。使用している書道 セットは中国製の子供騙しのようなもの。筆の質がとても悪いので書き辛いけれど、おせち料理も食べない私が日本的正月気分に浸れるのはこの書初めだけと 言っても過言ではない。 年の瀬が近づくと、テーマの漢字をどうしようかと考え始める。今年もそう。候補に挙げていたのは『輝』 『愛』。ちなみに2007年は『和(PEACE)』だった。けれど、たぶん数年前にも書いた『花』に決めた。 この『花』に込めている想いというのは喜納昌吉さんの『花 (すべての人の心に花を)』からとった。 『花 (すべての人の心に花を)』 作詩:喜納昌吉 作曲:喜納昌吉 川は流れて どこどこ行くの 人も流れて どこどこ行くの そんな流れがつくころには 花として 花として 咲かせてあげたい ※泣きなさい 笑いなさい いつの日か いつの日か 花をさかそうよ※ 涙ながれて どこどこ行くの 愛もながれて どこどこ行くの そんな流れをこのうちに 花として 花として むかえてあげたい 花は花として わらいもできる 人は人として 涙もながす それが自然のうたなのさ 心の中に 心の中に 花を咲かそうよ 泣きなさい 笑いなさい いついつまでも いついつまでも 花をつかもうよ この曲は様々なアーティストによりカバーされ、世界中で愛されているという。 そして喜納 昌吉さんの平和への願いを込めた言葉に共鳴。 すべての武器を楽器に すべての基地を花園に すべての人の心に花を 戦争よりも祭りを このご時世だからこそ、すべての人の心に花が咲くように。 平和を願う心を持つよう種を蒔き、水を注ぎ、 そしていつか芽が出て花が咲くように。 その花で一杯の世界になるように願って・・・。
Jan 2, 2008
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 まだまだ不定期便のブログですが、今年は平和活動のことなども書いて行きたいと思います。初日の出は曇り空で拝む事が出来ませんでしたが、午後になって新春の日差しがアパートに差し込んできました。下の写真はそんな元旦の一枚です。 2008年をキラキラ輝く一年にしていきましょう!
Jan 1, 2008
Season's Greetings
Dec 4, 2007
久々にデートに誘われ、大好きなカーネギーホールへ! ・・・私は2番目候補だったようで、お誘いは当日の今日。おまけに彼は直前まで会議でギリギリ駆けつけるというのでロマンチックなディナーなんて無し。 時間潰しも兼ねて、ロックフェラーセンターのクリスマスツリーを観にいった。沢山人がいたけれど、思ったほどではなかった。人垣を掻き分けて写真を撮る。回りはショッピングバックを掲げたカップルたちが記念写真を撮っている。回りなんてお構いなしというように、Kissし続けるカップルも目に飛び込んできた。 酔っ払って絡んでKissしたんじゃなくて、好きな人との甘~いKissはいつだったっけ?! カーネギーホールにつくと相変わらずその凛とした趣きに微笑んでしまう。彼も開演ギリギリ間に合った。ホッとする瞬間と共に変化する私の心。ニュートラルから女モードに切り替わっていく。 Sweet Honey in the Rock という年配黒人女性6人グループのアカペラ、ゴスペル、ソウル・・・そんな音楽、音色、ストーリーテリング、アファメーション・・・。次々に歌われるメッセージはまるで私に語りかけるように、そして求めていた救いがそこにあった。 「これはまさに君にピッタリだね。君を誘って良かった。」 歌声は私の魂にドーンと響き、知らずのうちに溢れる涙が零れ落ちていた。何度も何度も目を拭いながら、二度と訪れないその瞬間、瞬間の感動を噛み締めていた。 そして直ぐ隣にいる彼のぬくもりを感じながらも、手を握ることさえ出来ずにただただそこに居た。このオトコは一体何を感じているのだろう。全くわからない。 帰りに寄った居酒屋の食事は不味かった。耳に入って来る会話も撮影だの、なんだのと業界話のようだったけれど、なぜか薄っぺらな魂の無い言葉にしか聞こえなかった。 そして私の言葉も濁り気味。最近彼に会うたびに弱音ばかり吐いている。強い自分を見せておきたい相手、弱い自分を見せられる相手、、、でもその違いとは何?そして彼もまた凹んでいた。今日は私に弱音を吐くまいと思っていたらしい。 他の人には絶対話さないということを私に話すらしいけど、裏を返せば私という存在はカッコいい自分を見せたい相手では無いということ。 誰かに愛されたいと切望している私。それを知っているからあえて言われた言葉は「内なる湧き上がってくる愛情を自分に注ぐのが足りないんじゃない?!」 それは自分が一番良くわかっている。 ステージの上でこう歌っていた。 ♪ 朝起きて、鏡を見てこう言うの。私の髪型が好き。私の体が好き。私という存在そのものが好き。。。 ♪感謝が足りないという矛先は決して外界だけじゃなく、内面からのも足りないのだろう。 魂に届いた言葉と音色が、私を目覚めさせようと、今、必死に叫んでいる。 ロックフェラーセンターのクリスマスツリー
Nov 29, 2007
またオサボリになっていますが、最近撮った写真をアップします。もうすぐサンクス・ギビングですがすでに街はクリスマスのデコレーションになってます。 ここ、グランドセントラル駅からはホリデーシーズン、家族に会いに行く人たちでごったがえします。 私の好きなスポットのひとつです。
Nov 17, 2007
クーパーズタウンまでNYCより車で約4時間 野球殿堂のあるクーパーズタウンは野球をこよなく愛する人たちにとってはまさに聖地だ。 野球の起源を辿ると実に古代エジプト時代にも遡ることが出来、壁画に野球に似た遊びが残っている。また1744年にイギリスで発行された『A pretty little pocketbook』はアルファベット順に韻を踏んだ詩が読まれていたのだが、その中にB-Base Ballと記されていた。けれど今の野球と発展させたのは、『発祥の地』と言わせてしまったアメリカだ。 独立戦争の名残なのか当時のアメリカ人がイギリス発祥ということでは許せなかったとも言われているようだが、『発祥の地』となったそもそもの背 景は、禁酒法や1929年世界恐慌の経済復帰のために「南北戦争のヒーロー、アブナー・ダブルデイがクーパーズタウンで野球を考案した」という虚実の伝説 が語られたことだ。(参考:Wikipedia) クーパーズタウン(Village Of Cooperstown)はオステゴ湖畔に1786年にウィリアム・クーパー(William Cooper)によって始まった。彼は後に裁判官となり、息子ジェイムズ・フェニモア・クーパー(James Fenimore Cooper)は代表作に『最後のモヒカン族』を書いた著者である。19世紀の半ば頃からシンガーミシンの共同オーナーであるクラーク家がその辺り一体の 土地を持ち、夏は避暑地としても賑わいを見せていた。そのクラーク財団により1936年に野球殿堂が設立されたのだ。野球殿堂を数ブロック歩くと、町が出 来た当初の建築物に遭遇する。ウィリアム・クーパーの建てたクーパーズタウンで一番古い家も今でも残っている。野球の歴史だけでなく、アメリカの歴史をも 垣間見ることの出来る場所なのだ。 毎年多くの観光客が訪れ、その目的はやはり野球殿堂だ。 野球殿堂にはアメリカだけでなく、世界中から野球に関わるモノ、ホームランボール、スコアカード、ユニフォーム、バットなど多種に渡って展示されている。そのモットーは「歴史を伝え、偉業を称え、世代を繋ぐ」(Preserving History, Honoring Excellence, Connecting Generations)。(参考:Wikipedia) 私は見逃してしまったけれども、2006年日本がワールド・ベースボール・クラシック(WBC) で優勝時のものも収まっているという。 設立した1936年に最初に殿堂入りした5人の選手の中にベーブ・ルースがいた。ヤンキースで活躍した事、彼の持つ記録から彼だけの展示場も設けられるほど。野球と言えばベーブ・ルースというようにいまだに彼の背番号3のユニフォームを着るファンも多い。 1934年日米野球 当時は飛行機ではなく船で遠征 私が訪れたのはちょうどヤンキースがプレイオフで敗退した後だった。今では「元」となってしまったが、任期が終わるトーレ監督の再任か否かが新聞を賑わせていた時でもあった。展示を見ていると、100年以上前のニューヨーク・タイムズ紙の一言が強烈に目に飛び込んできた。 “…No longer a sport, but a business…” New York Times 1891(野球はもはやスポーツではない、ビジネスだ!) ビジネスとなったのは、ここニューヨークが今の形に近い野球が始まったことにも由縁があるだろう。1845年、ニューヨーク・ニッカボッカースという名前を付けた消防団たちの健康のために始まったものだった。けれどプレー場所が無いため、ハドソン川を越えてニュージャージー州ホーボーケンにて試合を行うようになった。ニューヨークに場所が無くてニュージャージーでプレイするとは、160年前も今と同じなのかと思うと思わず笑ってしまう。そして1957年にブルックリン・ドジャースがロサンジェルス、ニューヨーク・ジャイアンツがサンフランシスコに移るまで、ニューヨークには3つの球団があった。このニューヨークから野球が全米に広がって行ったのだ。 メジャーの影にマイナーリーグの存在やニグロリーグ、女子プロ野球リーグの存在や太平洋戦争中、日系人収容所でも野球が行われていたことも野球殿堂に納まっている。 野球殿堂 Baseball Hall of Fame< つづく >
Oct 13, 2007
野球 この言葉の響きに一瞬、白昼夢を見てしまう感覚に陥る人がいるに違いない。私もそのひとりだ。 いつの頃から野球が好きになったのかを覚えていない。3つ下の弟が小学校1年の時、近所に出来たばかりのリトルリーグに入った。弟は4歳からバレエを習っていた私を付き添う母に連れ回されていた。だから今度は私が弟の応援に行くようになった。チームの中で弟は生年月日が一番遅かった。そうしたら背番号1を与えられた。上級生、小6エースピッチャーの怪訝な顔を今でも忘れない。 覚えているプロ野球観戦は家族で横浜大洋ホエールズと広島カープの試合観戦に行った一度だけ。選手の名前がアナウンスされ、回りの大人たちの真似をして訳もわからず拍手した。もっぱら野球観戦は春と夏の高校野球だった。そしていつの間にか甲子園を夢見るようになっていた。 その夢が叶ったのが以外にも早く、高校1年の夏だった。女子高校に進んだ私が選んだ部活は応援部。高校入学前の春、兄弟校である男子校が甲子園出場した。夏の大会ももちろん期待されていた。そして見事地区予選を勝ち抜き甲子園出場を果たしたのだ。 横浜球場のような比較的新しい球場に子供の頃から馴染んでいた私は、初めて甲子園のスタンドに立った時、「あ、小さいんだ。」と呟いた。それが甲子園の印象だった。 1回戦で負けるだろうと言われていた兄弟校が勝ち進み、3回戦まで闘った。そこで勝っていればベスト8に進出だったけれど、選手も応援も応援寄付もそれ以上勝ち進むのは厳しい状況だった。でもこの甲子園に行った事が私の高校時代の唯一の思い出となった。 渡米後、頻繁に野球観戦に行くようになったのは東海岸に来てからのこと。それも社会人となって、同僚たちと一緒に行ったのが始まりだ。野茂投手が大リーグ入りして大活躍した1995年は、私が日本人だと知ると彼の名を口々にしたた。日本人だけでなく、2世や3世の日系人までもが喜んでいた。 そしてヤンキースに日本人選手として来た伊良部投手初登板試合を観戦に行った事も記憶に残っている。今、松井選手がガードされ守られているのは、この伊良部選手の失敗のお陰だと私は思っている。 私がヤンキースのファンになったのが1996年にヤンキースがワールドシリーズで優勝した時だった。それまで以前住んでいたマリナーズを始め、シアトルのチームを応援していた。そんな私を2人の女友達で同僚が笑ってよく言ったものだ。 「シアトルの試合なんて滅多に見れないんだから、ヤンキースのファンになりなさいよ。」ワールドシリーズの途中、もしヤンキースが優勝するのであればファンになると約束した。そしてその通りとなった。 マンハッタンに転職してくると、回りの友達にチケット持っている人や会社から貰って誘ってくれる友人が増えた。今までの車で観戦から地下鉄に乗って30分。ブロンクスがより近い存在となった。そして3~4年前あたりから頻繁に球場観戦に行くようになった。 松井選手がヤンキースに入団した2003年はアメリカがイラク戦争を始めた年で、アメリカが、ニューヨークが毎日入ってくるイラク戦争のニュースに滅入っていた。その中で日本人だけが松井選手の一挙一動に歓喜し、明るい光を彼に見出していた。そして西海岸では成功している日本人メジャーリーガーに対して、ようやく東海岸にも大型プレーヤーの登場に沸いていた。 ニューヨークで働く日本人たちは、まさにニューヨークを象徴するような金とパワーのヤンキースの元で頑張る松井選手に自分たちの姿を重ね合わせたのかもしれない。そして松井選手の成功を願った。 松井選手だけでなく、野球人であれば憧れるピンストライプのユニフォーム。ベーブ・ルースを始めとした球界に功績を残した偉人たち。彼らの功績は野球殿堂に納まっている。その野球殿堂を訪ねる旅に出る事にした。 < つづく >
Oct 12, 2007
あなたは自分の耳をよく見たことがありますか?耳を見るとあなたのすべてが見えるそうです。それが耳占い!中谷ミミさんが約20年前に台湾人の占い師から伝授し、この度、日本初の耳占いの本が発売されました!同級生の企画プロデュース本なので宣伝!!6つの耳タイプでわかるほんとうのあなた『耳占い』中谷ミミ/著ふじわらかずえ/絵 約2万人のデータから大まかに6つのタイプ(満月耳、三日月耳、真四角耳、長方形耳、三角耳、逆三角形耳)に分かれ、そこから耳たぶや耳の上部、下部などから占うというもの。私は三日月耳なのですが、日本人にもっとも多いタイプで「保守的で常識を重んじる、典型的な日本人の性質がよく表れています。」(P39)自分の耳を観察して占ってみると、本当に当たってます! あなたはどのタイプ?是非、本を手にとって占って見てください!
Sep 29, 2007
奥にマンハッタン、手前にMetsの本拠地SheaスタジアムとUSオープンテニスの会場となったスタジアムがあるのが見えますか?
Sep 19, 2007
MIXIでこんなニュースを見つけた。被爆国日本から平和の願い=同時テロ6年、歴史の悲劇共有-NY (時事通信社 - 09月12日 13:12) 【ニューヨーク11日時事】米同時テロから6年を迎えたニューヨーク市内では11日、原爆投下という歴史上の悲劇を経験した日本からも関係者らが駆け付け、テロの犠牲者を悼むとともに命の大切さを訴える行事を開催した。 マンハッタン中心部にあるジャパン・ソサエティーでは、広島で被爆し、白血病で亡くなった佐々木禎子さんの兄雅弘さん=福岡県在住=が講演。平和への願いを込めて千羽鶴を折り続けた禎子さんの生涯を描く詩を朗読し、「他人を思いやる心の輪が広がっていけば、大きな平和につながる」と語った。雅弘さんは12日、同時テロの犠牲者の追悼施設に、禎子さんの手による折り鶴1羽を寄贈する。 一方、マンハッタン島の西側を流れるハドソン川沿いでは、ニューヨーク本願寺仏教会がテロ犠牲者を悼む灯籠(とうろう)流しを開催。在留邦人らを中心に数百人が集まり、平和祈念など思い思いのメッセージを書き込んだ灯籠を川面に浮かべた。 [時事通信社]----------------------------------------------------- このニュースに対して日記を書いた人たちがいた。その多くは原爆投下と911同時多発テロを一緒にするな、という怒りを露にしていた。「悲劇共有」という見出しがその理由で、その中も更に「ああ、時事通信またかよ」というような日記もあった。 一人、NY在住の人だけは、愛する家族を失う悲しみは戦争であってもテロであっても同じだと記していた。 そしてもう一人は「思いやりの心の輪」というタイトルで日記を書いていたのだけれども、これがまさしくサダコさんのお兄様、佐々木雅弘さんのメッセージなのだ。 9月9日に行われた「サダコと1000羽鶴」のお芝居上演後、9月11日にジャパン・ソサエティーでにて佐々木雅弘さん、「ヒロシマ・ナガサキ」のスティーブン・オカザキ監督、Bucknell 大学で東洋学の教鞭を取るJames Orrの3人がスピーカー、モデレーターにプリンストン大学東洋学のSheldon Garonを迎え約150人が参加した。その時、雅弘さんはサダコのメッセージは「他人を思いやる心」が「小さな平和」を生み、それが「大きな平和」となっていく、と語った。 自身も被爆者でありながら、アメリカを恨むどころか今日の発展は米国のお陰だとも話していた。質問が出た久馬発言については、他人には他人の考えがあり、その考え方にとやかく言う権利は自分には無い、というようなことを話され、英訳するのが難しいという日本語の「思いやりの心」(thoughtfulnessと通訳)を世界の中心、ニューヨークから発信出来た事を喜んでいると言っていた。 加害者、被害者意識から脱するのが21世紀の姿勢ではないかと私は思う。事実、リトルボーイ、ファットマンを作る過程においてアトミック・ソルジャーと呼ばれる被爆兵士、ダウンウィンダーズと呼ばれるニューメキシコ州に住む核実験場付近に住む人たちは同じ様に被曝しているのにも関わらず、米国内での認識は低い。 また核廃棄物は当時全米の多くの地域でばら撒かれた様で、なぜかガン発生の多い地域があったり、そこに住む住民が知らずにいたりと被害は日本の広島・長崎以上なのではないかと思える程だ。(現在、1985年に春名幹男著「ヒバクシャ・イン・USA」を読書中) 世界中から人々はヒロシマ・ナガサキを訪れる。その反面、しられざるヒバクシャのいるアメリカ。ただこれも天秤にかけるものではない。視点を何にフォーカスするのかとすれば私は「人」。 『オーラの泉』の中で美輪明宏さんと江原啓之さんは「思いやり」は「想像力」だと言う。その「思いやり」を佐々木雅弘さんの「思いやり」にあてはめて想像してみたらどうだろう。「原爆は戦争を早めるために正しかった」と他人事として見ているアメリカ人もいつか自分の庭の土が被曝しているのに気付くだろう。 人事ではないということ、全てが自分のことであることに気付き、知った時、やっと真が見えてくるのではないだろうか。私がヒロシマ、ナガサキについて活動するのも、そこには出さないヒバクシャたちがいるからでもある。 6月に行われた映画「ヒロシマ・ナガサキ」(原題:White Light/Black Rain)のニューヨーク試写会でパネリストとして参加、映画にも出演している元エノラ・ゲイ搭乗員、 セオドア・バン・カーク氏は原爆投下は「戦争終結させた。よって沢山の人々の命を救ったのだ。この考えは当時も今も変わらない」と強く主張するが、「二度と使用してはならない。」と言い切っていた。残念なことにメディアは彼のこの最後の言葉を報道しない。 21世紀はもっと前を向いて歩いていく姿勢が必要だ。でなければ平和への道はまだまだ遠い。サダコ(佐々木貞子さん)の兄、佐々木雅弘さん
Sep 13, 2007
8月は文字の如く、あっという間に過ぎてしまった。これから毎年、私の8月はこうやって忙しさの中に過ぎ去って行くのだろう。夏だからこそ自然に湧き上がって来るエネルギーに感謝したい。これが冬であれば私自身どこまで動けるか自信が無い。 あの日から2年以上経っていた。あの日とは、広島被爆者の方と国連でお会いした日のこと。その方との出会いで私の人生の舵は方向転換し、先月行ったニューヨーク平和映画祭を開催の運びとなった。その映画祭の企画が決定したのが開催の2ヶ月前。本当なら半年ぐらいはじっくりと時間をかけて行うべきところを、開催を8月に拘ったことや仲間2人との時間の兼合いをも含めて本当に駆け足で全てを行わなくてはならなかった。 NHKで放送された『サリバン先生の平和教育』のキャサリーン・サリバン女史もこの映画祭に大きく係わってくれた。昨年秋に彼女と知り合ったことがきっかけで、私と国連でお会いした被爆者の方とを結び付けてくれたのだ。そしてその方がピースボートに乗って映画祭開催中に偶然にもニューヨークに来るという話も彼女から聞いた。偶然とだけでは言い切れない何かが動いているようにしか思えなかった。そしてメディアに向けて発信したプレス・リリースや関係者たちの協力を得て、『ニューヨーク平和映画祭』のニュースは共同通信とNHK『おはよう日本』から日本だけでなく全世界に向けて発信された。今年6月頃にアナウンサー職のままニューヨークに赴任となりニュースにあがったNHKの有働由美子アナウンサーが直接連絡を下さり、電話とお会いして熱心に話を聞いて下さった。番組放送後、上海に住む広島生まれの女性から感銘を受けたというメールを頂いた。横浜生まれの「一会社員」である私がヒロシマについて活動しているということに「私も!」と立ち上がりますという嬉しいお便りだった。有働さんも同じ。現在は会社員として働きながらの活動に感動して下さり、ニュースにまとめて下さったのだ。私一人ではなく、仲間と出会い、そして共鳴してくれた人たちと作り上げた『ニューヨーク平和映画祭』。ただ想っているだけではなく、行動を起こすことによって何かが始まるのだということを身を持って体験した。そして3日間のイベントが終わった後に更にその輪が広がったと確信している。 草の根運動の基本である、全て手作りのイベント、そして参加者もお手伝いの方たちも全てボランティアという中に行った。けれどだからこそ、そこにはひとりひとりの純な思いが篭っていたのだと思う。その一人ひとりに強い平和への想いがあったからこそ実現出来たのだ。 ニュースには映らなかったけれど、2年ぶりの再会や911の話を何度も聞いて下さった有働さんと番組プロデューサーとCrew。実際、私よりもCrewの彼らの方が毎日報道しなければならず、911の体験は私のものとは比べ物にならないだろう。詩の朗読に出演してくれた俳優の人たち、ダンサーの女の子、音楽参加してくれた霧生ナブ子さんと田中ルミ子さん、そしてボランティアを名乗り出てくれた友人たち。一緒に活動している2人と共催の天理ギャラリーの方々、そんな多くの素晴らしい人たちに囲まれたからこそ、テーマは重くとも暖かさが残るイベントとして終わることが出来たのだと思う。 イベントが終わって直ぐに今度はお芝居のお話を頂いた。広島平和公園にある「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木貞子(サダコ)さんの劇を9月9日に上演する。カナダ人の書いた既存のお芝居ではなく、お兄様の佐々木雅弘さんに直接話しを聞いて書かれたという史実に基いたお芝居であり、この脚本を私と同じ様にニューヨークで911を体験したのをきっかけに梅村真紀さんという日本人女性が書いた。私は母親を演ずる。芝居、役を通じて私の中でもっとヒロシマ、被爆者の方々の理解が深まっているように思う。 平和を願うより多くの人たちと、留まることなくたとえ少しずつでも歩み続けて行こうと思う。
Sep 4, 2007
この週末は3連休。 Labor Dayの祝日が来て、もう夏が終わるのだと暦が知らせている。この夏はイベントに奔走して、ゴルフも恋愛も無し。唯一楽しんだのが野球。ヤンキースはプレイオフ進出をかけてまだまだ熱く闘っている。私たちにとっては娯楽の野球でも選手にとっては長いシーズンなんだろうなぁとつくづく思う。 たまたま先日足を向けたユニオン・スクエアではフリーマーケットで賑わっていた。ここに集う人たちも通り過ぎる人たちも、私の働くエリヤや住むエリアとは全く違う雰囲気を持っている。漂う匂いは「生活」。そして自由という名の空気を吸っているような気がする。 あまりにも同じ空気しか吸っていない自分に気づいた時、忘れていた冒険心がくすぐられてた。 ああ、旅に出たい!
Sep 1, 2007
8月31日(金)朝7時半過ぎからのNHKラジオ第一放送で私の活動を有働由美子アナウンサーが紹介してくれるとのこと! 番組は『ラジオあさいちばん』、7:33 ワールドリポートというコーナーがあるのでたぶんその時間帯でしょう。 もし起きていらっしゃったら是非TuneInしてみて下さい!
Aug 31, 2007
ほんの数日、何もしない日があっただけでまた毎日忙しい日が続いている。ニューヨーク平和映画祭の後すぐに久しぶりに頂いたお芝居の話。そのリハーサルが毎日会社が終わった後にある。 折鶴サダコ(佐々木貞子)の話はアメリカでも有名だ。広島平和公園に建つ折鶴を空高く掲げたサダコ像(原爆の子の像)は実際にサダコの友人たちが資金を集め建立した。そこには戦争で亡くなった子供たちの鎮魂の願いと、平和への願いが篭っている。 今回のサダコのお話はサダコのお兄さん、佐々木雅弘さんからの史実に基づいたサダコの話。私と同じように911当時ニューヨーク在住だった梅村真紀さんが脚本を書いている。私はお母さん役として出演する。 お芝居の良さは、ただ見て受け止めるのではなく自分が体験することにより、より理解を深めることが出来るところにあると思う。実際、リハーサルで脚本を読むとずっしり重たいものがキャストひとり、ひとりにのしかかっているように思う。 「生きたい!」 どれだけ多くの日本人が戦時中、そう思っただろう。そして惜しくも亡くなっていった人たちが今の世の中を見た時にどう思うであろう?尊い命があまりにも軽視されているのではないだろうか? リハーサル途中の休憩時間に外へ出て見上げた空はスゴかった。空はどこまでも高く、広く、そして自由。 私たちも人としてそんな空のように生きていけたらいい。
Aug 30, 2007
NY平和映画祭が終わって1週間が経った。 東京からお呼びしたシンガーソングライター田中ルミ子さんのライブが14日まであった事もあり先週は何かと忙しかった。週末やっとゆっくりすることが出来、本当に何にもしない一日を過ごした。疲れと達成感とが一度にどわーっと押し寄せた感じ。何をする気力も起きなかった。 ずっと家で過ごしたので、『二重被爆』のプロデューサーから戴いた山口彊(やまぐちつとむ)さんの「生かされている命~広島・長崎「二重被爆者」、90歳からの証言~」を読み終えた。終戦や原爆に関する日本のTV番組のDVDをビデオ屋から数枚買っていたものの、まだちょっと間を置きたい気分だった。けれど、見たい映画や見なくてはいけない映画がまだまだ沢山ある。そしてTV取材のカメラマンの方からも本を2冊お借りしている。 土曜日は近所に住んでたお兄ちゃんのような友人が結婚し、郊外に住み始めてBBQをするというので出かけてきた。既に秋の気配を感じさせる微風が吹く中、空は深い青色で空高く、他愛無い会話を交わした時間とのんびりとした空間につくづく平和だなぁと思った。 日曜の朝はやっとゆっくり母と話すことが出来た。夏休みでずっと田舎に行っていた日本の家族。甥のりんりんは私がテレビに映り、驚きと照れ交じりに見入っていたという。嬉しいことに最近は私に会いにニューヨークに来たいと行っているそうだ。その甥のりんりん、姪のみーちゃんが私の活動の源になっている。写真を見ながら、この子達の未来のためにと思う。 この数週間にあったことを日記に書き記して残したいと思う反面、あまりにも様々な出来事や出会いがあってそれを今も胸に熱く焼き付けているようなところもあって、まだ言葉にしたくないという気持ちも強い。ただ、ただ感謝の念は強く、素晴らしいご縁とそして友人たちからのサポートと応援、そして映画祭に関わった一人一人と足を運んでくれた人たちに本当にありがとうと言いたい。2年前、ひとり平和のために何かやろうと思っていた。それが今は輪がどんどん広がっている。ひとりじゃない。それが何よりも嬉しい。そしてここで留まること無く、来年に向けて、個人的には来月のお芝居出演と、もう次へと歩き出している。愛する家族や友達の笑顔を見続ける毎日を送るためにも少しでも多くの人に非核や被爆者のことを伝えたい。 ☆願 平和☆ 「生かされている命~広島・長崎 「二重被爆者」、90歳からの証言~ 」http://item.rakuten.co.jp/book/4476793/
Aug 21, 2007
NY平和映画祭も無事終わった!思っていた以上には人が入らなく、若い人を惹きつけることが出来なかったけれども成功のうちに無事幕を閉じる事が出来た。詳細はまた後日、日記に書きたいと思っているけれども、とにかく来て下さった人たちが『いいね。』『こういうイベントを催してくれてありがとう!』と言って下さった事がとても嬉しく感じる。少しでも心に平和の種を蒔けていればと願うばかり。終わった当日はそれほどでも無かったのに、ある人から 『君のその自分を信じて行動する姿に感動したよ。』と携帯に残してくれたメッセージが心にジーンと来て、また普通の生活に戻った月曜日の朝、会社の机でなんだか泣きたくなってしまった。感無量というのはこんな感覚なのだろうか。 私の人生を変えたヒロシマ被爆者との2年前の出会い。それから月日が流れてこのようなイベントを計画して、そのイベント開催前日にその被爆者との方との劇的な再会劇があり、それを全てTVカメラが追って記録してくれた事は本当に幸せなこと。そしてたくさんの出会いがあった。こうして私が強く平和を訴えるのは、《人》が好きだからなんだと改めて思った。愛する人たちの笑顔がある毎日。それが平和なんだ、って。 詳細はまた後日に。 イベントはまだ明日もあり、このNY平和映画祭のために日本から来て下さったヒロシマの歌を歌い続けて31年というシンガーソングライター、田中ルミ子さんのNY初ライブコンサートがある。私は詩の朗読で出演させて頂く事になった。NY在住の皆さんのために彼女が歌って下さる。NY在住の方、是非足を運んで下さい!* * * * * * * * * * * * * * * * * *Direct from Tokyo Her 1st New York AppearanceSongs of HomeSinger/Songwriter Pianist, Rumiko TanakaPoetry Reading by YUMITuesday, Aug 14th, 20077:00 PM -8:00 PM$15 Cover -No Drink MinimumTHE TRIAD: 158 West 72nd St. New York, NY 10023(Btw Between Broadway & Columbus Avenue) on the 2nd Floor.Reservations: 212-362-2590 http://www.triadnyc.comFor More Information: http://www.melodist.netE-mail rumiko@melodist.net
Aug 14, 2007
2007年8月10日(金)に始まったNY平和映画祭の新聞記事が掲載された!その前から始まっていたNHKからの取材も初日で終わり、特別事件が起こらなければ8月16日(木)『おはよう日本』7:45から放送予定。より多くの方にここ、ニューヨークから平和を願って発信しているということを知って欲しい。被爆者の方々に、私たちが原爆の悲惨さを伝えていきます、と伝わりますように。 ここに辿りつくまでに必然のように出会って来たご縁に感謝。そして支えてくれ、応援してくれている方々に感謝。そして私の人生の歩み方を大きく変えたHさんとの出会いに心から感謝致します! ひよこがよちよち歩き始めました。* * * * * * * * * * * * * * * *NYの映画祭で平和の尊さ訴え 広島、長崎への原爆投下や戦争をテーマにした映画を上映、音楽や舞踊なども交えて平和の尊さを訴える「ニューヨーク平和映画祭」が10日夜、3日間の日程でニューヨーク市内で始まった。 初日の10日は上映に先立ち、「にんげんをかえせ」の詩句で知られる原爆詩人の故峠三吉や、故栗原貞子の詩を英訳し、寸劇に織り交ぜた舞台などが五十人近い観客の前で披露された。 会期中、ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」を監督した日系3世スティーブン・オカザキ氏の2005年の作品で、アカデミー賞短編ドキュメンタリー部門にノミネートされた「ザ・マッシュルーム・クラブ」や、第二次大戦中に米政府に抵抗した日系人画家を描いた「ミリキタニの猫」、広島と長崎で2度被爆した人々の足跡をたどった「二重被爆」などが上映される。(共同)スポーツ報知http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070811-OHT1T00135.htm西日本新聞 九州ネットhttp://www.nishinippon.co.jp/nnp/local/nagasaki/20070811/20070811_007.shtml中日スポーツhttp://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2007081101000181.html徳島新聞社http://www.topics.or.jp/contents.html?m1=1&m2=10&NB=CORENEWS&GI=Lifestyle/Human_Interest&G=&ns=news_118679915554&v=&vm=1東奥日報http://www.toonippo.co.jp/news_kyo/news/20070811010001811.aspさきがけonTheWebhttp://www.sakigake.jp/p/news/topics.jsp?nid=2007081101000181四国新聞社http://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/article.aspx?id=20070811000150山陰中央新報http://www.sanin-chuo.co.jp/newspack/modules/news/article.php?storyid=869104016山梨日日新聞http://www.sannichi.co.jp/kyodo/news.php?genre=Lifestyle.Human_Interest&id=2007081101000181.xml西日本新聞http://qnet.nishinippon.co.jp/entertainment/showbiz/20070811/20070811_004.shtml中日新聞http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007081101000181.html北國新聞・富山新聞http://www.hokkoku.co.jp/newspack/kurasi2007081101000181.html神戸新聞Web Newshttp://www.kobe-np.co.jp/kyodonews/culture/0000530804.shtml福井新聞http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news4/article.php?topicsid=8&pack=CN&storyid=33162北日本新聞社http://www.kitanippon.co.jp/contents/kyodonews/20070811/152100.htmlgooニュースhttp://news.goo.ne.jp/article/kyodo/entertainment/movie/CO2007081101000179.html長崎新聞http://www.nagasaki-np.co.jp/f24/CN20070811/li2007081101000181.shtml東京新聞http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2007081101000181.html岩手日報http://www.iwate-np.co.jp/newspack/cgi-bin/newspack_s.cgi?s_lifestyle_l+CN2007081101000181_1福島民報http://www.fukushima-minpo.co.jp/news/kurashi/2007081101000181.html
Aug 12, 2007
NYK時間 2007年8月5日 午後7時15分 今年も8月6日(NYK時間5日)が訪れた。知らなかったのだが、結構あちこちでヒロシマ・ナガサキ原爆投下62周年ということで、平和団体のイベントが行われているのを知った。その多くは日本人主催のものではなく、アメリカ人主体のものであり原爆に限らず、戦争について、特に今、アメリカ軍のイラク戦争における在り方が問題とされているので軍に従事する家族がイラクから撤退させよ、と言う運動が盛んになって来ている様に思える。そして市民の間でもダラダラと続くこの状態に不満を覚え、ブッシュ大統領への不信感はますます増えている。 そんな集会に参加して来た。「宇宙(空)を制するものが世界を制する」とハッキリと言い切り、核の恐怖に至っては「北朝鮮に核があると言われているけれど、アメリカまでは届かないから大丈夫。」と言うスピーチに唖然としてしまったが、たとえ平和を唱えるアメリカ人であってもあくまでもアメリカ人中心であることをハッキリ認識さあせられた。あまりメディアでは扱われない劣化ウラン弾の使用によるアメリカ兵の被爆の話などは興味をそそったが、核だけでは話切れないところがあるのも痛感した。 その後、昨年と同じくNY仏教会で行われたヒロシマ・ナガサキ祈念セレモニーに参加した。原爆投下時刻の黙祷、その後続いたキャンドルを点してのサイレント・ウォーク。昨年と同様であったけれど、参加者の数が少ないこと、強いて言えば日本人の数がめっきり減ったように思った。 そして!私たちのイベント、NY平和映画祭も今週末となった。本当にいろんな方々の応援と支えがあって開催することが出来る。 NY在住の皆さん、是非足を運んで下さい。よろしくお願いします! Interborough Repertory Theater and Tenri Cultural Institute presents NEW YORK PEACE FILM FESTIVAL~ Voices of Hiroshima/Nagasaki Survivors in the 21st Century ~Friday, Aug. 10 - Sunday, Aug. 12, 2007 * * *Friday, August 10, 6:30 - 9:30pm: 6:30pm: Opening with poetry and dance7:00pm: film: The Last Atomic Bomb8:30pm: Discussion with Academy Award nominated director Robert Richter & Dr. Kathleen Sullivan9:00pm: Live Music with Rumiko Tanaka* * * Saturday, August 11, 11am - 5pm: 11:00am: film: Genie in the Bottle Unleashed11:15am: Workshop with Dr. Kathleen Sullivan & a guest speaker, Mr. Michimasa Hirata, Hiroshima A-bomb survivor1:30pm: 2006 Academy Award nominated film: The Mushroom Club2:15pm: Staged poetry and dance 2:30pm: film: Double Hibakusha3:45pm: film: The Cats of Mirikitani * * * Sunday, August 12, 2 - 5pm: 2:00pm: Live music with Nabuko Kiryu2:15pm: film: Genie in the Bottle Unleashed2:30pm: film: Double Hibakusha3:30pm: film: The Last Atomic Bomb (15 minute version)3:45pm: 2006 Academy Award nominated film: The Mushroom Club4:15pm: Closing with poetry, dance & live music with Rumiko Tanaka * * * Advance tickets available at http://www.smarttix.com/ or call 212-12-868-4444 General Admission: pass for 1 day 12; 2 days $20; 3 days $27 Senior/students w/ID: pass for 1 day $8; 2 days $15; 3 days $21 At the door (cash only): pass for 1 day $15; 2 days $25; 3 days $30 Senior/students w/ID: pass for 1 day $10; 2 days $18; 3 days $24 * * * Tenri Gallery: 43A W. 13th Street, New York, NY 10011 (Between 5th and 6th Ave.)5 min. walk from Subway Union Square Station - 4,5,6,L, N, Q, R, W3 min. walk from 14th Street PATH & Subway 6th Ave & 14th Station - F, L, V
Aug 6, 2007
歌舞伎が観たい!そう思うようになったというのは私がただ年を取ったからではなく、和、日本の伝統芸能に誇りを持って接したいと感じるようになったからではないかと思う。 2004年夏、リンカーンセンターに設置した小屋で公演された中村勘九郎率いる平成中村座。エアコンの音、近くに座るアメリカ人老夫婦の翻訳デバイスから聞こえてくる英語、飛行機の音などが気になる中での観劇だった。そして演目最後にNYPDを持ち出して歌舞伎の世界をぶち壊してしまったなぁという感想はあったけれど、歌舞伎という世界に少なからず魅了された。 その平成中村座がまたNY公演に戻ってくるというニュースを聞いたのは今年冬のことだった。あれから3年が経ち、2年間の中村勘三郎襲名公演を経て戻ってくる平成中村座に期待していた。今年夏、リンカーンセンターで行われるイベントは幾つかあり、チケット販売開始された時は歌舞伎だけチケットを買うことが出来なかった。だからシングルイベントのチケット販売解禁日を心待ちにしていた。3年前の公演は売り切れだったこともあり、発売日に即チケットを購入した。一番安い$25のチケット。時代劇が大好きで日本でも歌舞伎を良く観にいっていたという同僚と一緒に行くことにした。 会場のアベリーフィッシャーホールの前ではダンスの他イベントが同時進行し、そこにまるで異次元から訪れたような平成中村座の旗が立ち並び、数件の伝統工芸職人と工芸品が並んでいた。3年前に比べると規模は小さい。けれど、久しぶりに見る日本風の手ぬぐいや工芸品は一瞬のうちに私と同僚を懐かしい時代の日本にワープさせた。 もしも私が大学卒業間もない20代の若者だったとしたら。。。きっとこういった工芸や民芸品に見向きもしなかったかもしれない。年を重ねるということは『良いものは良し』と判断出来る知識と経験が培ったということなのかもしれない。 今回、歌舞伎小屋は建てられなかったが、アベリーフィッシャーホールがたくさんのちょうちんで飾られ、着物姿の人たちをちらほら見た。楽日に行くという友人も着物着付け仲間と着物で観劇したと言っていた。そうやって「なんちゃって日本」がリンカーンセンターの一角に演出された。 今年の演目は『法界坊』。初日だけは中村親子の『連獅子』だったがもちろんチケット入手することは出来ず、このNY公演にあわせたように放送されたテレビのスペシャル番組で観ただけだった。後から聞いた話だが1時間ほどの短い演目で、$200支払って観劇した人たちは物足りなかったようだ。 観劇する前、会社で同僚たちとこの平成中村座のことが話題になっていた。観劇した人たちの評判が良くないというのが噂話の中心だった。「$200も出してチケット買ったけど、無駄だったわ~って友達が言ってたわよ。」観たままを感じようと『法界坊』の話の筋も読まずに出かけた。 テレビのスペシャル番組のお陰で勘三郎さん長男、勘太郎さんが怪我をしリハビリ姿を知り、彼の姿を舞台で追った。私の大好きな野球の選手たちと勘太郎さんがダブって見えたからだ。弟、七之助さんは『ラスト・サムライ』出演から米国でも有名と解説には載っていたが、やはり勘三郎さんが登場すると舞台の空気がガラっと変わるのがわかった。さすがこの中村座の座長の貫禄だ。 知人に歌舞伎俳優の若者がいる。初めて歌舞伎というものに興味を持ったのは彼の影響だと言って過言ではない。3歳から日舞を始めたという彼から世襲制の歌舞伎という伝統芸能であり、特異な世界のことを聞き、少なからずお稽古の大変さというのを知った。その歌舞伎世界で世襲の子供たちにとってどんな意味合いを持つのか。その肩にのしかかるプレッシャー、責任というものはきっと私たちの想像を超えるものだろう。 さて『法界坊』は、というと正直とてもガッカリだった。3分の1が英語でパフォーマンスというのが日本のニュースでは話題にあがりあの辛口NYタイムスも絶賛していると書いてあったが、とにかくNY在住日本人たちには完全なる不評。NYタイムスでは『大はしゃぎのセックスコメディー劇』と書かれ、歌舞伎演目の中では珍しいという喜劇だと知ったが、英語でのパフォーマンスと使用される英語がいただけない。日本で歌舞伎を良く見ていたという友人は演目が悪いと言っていたけれど、彼女も含めて誰もが媚び過ぎだと眉をしかめていた。日本的ギャグの連続など、歌舞伎という伝統芸能と学芸会の紙一重の差を感じてしまった。 休憩時間、隣に座るアメリカ人の中年女性2人に感想を聞いてみた。 「席が悪いのかもしれないけど、言ってる英語が全然わからないわ。衣装が素敵でなかったら最後まで見ないで帰りたいんだけどねぇ。20年前にビーコンシアターで観た歌舞伎はすごかったわよ。」つたない記憶からこの歌舞伎は市川猿之助さんのスーパー歌舞伎のことを言っているのではないかと思う。私も一度だけスーパー歌舞伎を観たことがあるが、「これならブロードウェイでもウケる!」と感じたほど感動した。 休憩の後の約20分でやっと満足するような歌舞伎が見る事が出来た。舞の踊りは本当に指先まで神経が行き届き繊細さをも表し、勘三郎さんの身のこなしはダンサーそのものであった。だからこそ、残念でならない。観光客はニューヨークに遊びに来る。エンパイヤーステートビルに登り、自由の女神を拝観する。「うぁー、ニューヨークって楽しい!面白い!」と言って沢山っ写真を撮ってまた帰ってゆく。ここで暮らす本当の厳しさや日々の戦いを全く知らずに。それと同じ感覚の平成中村座NY公演だった。 良いものは良いと観る目を私たちは持っている。それは言葉が通じなくても、伝えたいという気持ちがあれば伝わるからだ。日本に来るオペラで日本人に受けるように日本語で歌ったり、バレエに日本舞踊を付加えたりすることはしない。こんな話を聞いた事がある。ブルックリンBAMで新劇を公演した野田秀樹さん。日本ぽくないからと劇の途中で着物着て三味線引きが登場したという。それを観たアメリカ人はそれが劇をダメにしたと言っていた。ニューヨークの観客をバカにしないで欲しい。普段からブロードウェイなど観て鍛えられている目を持っているのだから。媚びるというのは自分たちに自身が無いゆえの現れであるとある俳優仲間が言っていた。 もっと自分たちの持つ魅力と素晴らしさに誇りを持ってニューヨークでパフォーマンスして欲しい。その誇りを伝えるためにも。。。開演前にこの写真を撮った時怒られましたが公演中の無断撮影は決して致しません!
Jul 25, 2007
昨日のニュースでご存知だと思いますがマンハッタンで蒸気用配管が破裂して蒸気が大量に噴出、クライスラービルぐらい高くのぼった。その時間が午後6時頃。 いつもなら残業して会社にいるところなのに、予定があり5時に退社。向かった先はウェスト側。どう地下鉄を乗って行くか迷っていた。グランドセントラル駅に行ってから西側に行くか、53丁目に行ってから乗るか。結局53丁目から乗ることにした。前日から豪雨や洪水の余波で地下鉄ダイヤはめちゃめちゃだった。けれど、もし予定が無ければ爆発のあった6時頃は帰途中、グランドセントラル駅に向かうころの時間。これまでにも何度か「あそこにいた!」ということはあった。 911の数ヶ月前までウォール街にあるオフィスに勤めていた。もしあの時その会社で働いていたとしたら?!その転職先も911後に解散、レイオフされたのだがその数週間後にそのオフィスが入っていたビルで爆発事故があった。今年4月に長崎市長が弾丸に倒れた事件数日前には丁度その辺りを通る観光をしていた。 神様に守られている。そんな気がしてならない。 地下鉄は夜になっても不通。出先からバスで帰宅したけれど、事故現場付近は迂回。道路も込んで通常の2~3倍の時間がかかった。事故後、友達や同僚から安否を尋ねる電話が入り、その時聞いた情報は私の勤め先の入っているビルも事故現場から近いので避難させられたらしいということ。テロでは無いけれど、ビルが崩れ落ちたと伝わってきた。こういう非常時の情報伝達の正確性の無さを実感した。 今朝、出社して同僚が撮った写真をくれた。友達とシェアしてOKという許可が出たので掲載します。ニュースで見る写真は地上からのものが多いけれど、これは36階から撮影。どれだけ蒸気があがったかが伺える。 まだ地下鉄はグランド・セントラル駅を通過、バスも迂回している状況。会社前の道路も封鎖されたまま。でもこの爆発したパイプはマンハッタン地下に敷かれるパイプとしてはまだ新しい方だとか。 一刻も早く通常に戻れますように・・・
Jul 19, 2007
アメリカ東部時間2007年7月17日(火)午前7時11分(日本時間同日午後8時11分)に行われたファイヤー・ザ・グリッド。思った以上に日本の各界著名人のメルマガにも登場していました。 ではなぜこの時間でなければいけなかったのか?それを説明する森田玄さんのブログをご紹介します。 朝、目覚ましで起きて左手に「星の石」を右手にはアンダラクリスタルを握り締めながら瞑想。お腹のあたりがぷわぁーと暖かくなっていくのを感じました。それはきっと地球に送られている愛と喜びのエネルギーをまるで自分が地球になったかのように疑似体験しているようでした。その後、今年4月に参拝した幣立神社で頂いた祝詞を神棚の前であげました。日本の神様ともここニューヨークから繋がり世界と繋がろういう祈りを込めました。もともと幣立神社は五色人が世界中からあつまり五色神祭を行うところ。五色神祭とは、世界の人類を大きく五色に大別し、その代表の神々が根源の神の広間に集まって地球の安泰と人類の幸福・弥栄、世界の平和を祈る儀式です。この祭典は、遙か太古から行われている世界でも唯一の祭典です。(明窓出版「青年地球誕生 -いま蘇る幣立神宮-より」)ファイヤー・ザ・グリッドと繋がりがあるように思ったのです。 私達が同時に座り、一時間のあいだ瞑想してグリッドに点火するとき、私達は地球の全ての地域を同時に繋げることができます。その過程で私達は、現在、および将来の人類のために、愛、平和、調和、および、団結した力で世界をより良いものへと変えていくために心をつなぐのです。 そうなる世界へと世界のライトワーカーたちが繋がったというのは素晴らしいこと。陰があって陽が有る。今までの陰の時代から抜け出て陽の時代へと進んでいけますように!
Jul 17, 2007
ネット中で話題になっているのでもうご存知の方も多いと思うけれど、《ファイヤー・ザ・グリッド》まであと数日。世界中の人たちと繋がって、この人間が傷つけてきた地球に愛のエネルギーを送る計画。人類が昔、意識の集合体から離れ、自由意志を持つようになり、その挙句、多くの間違いを繰り返して来た結果が地球の温暖化や公害、汚染、核で一瞬にして消えてしまうという時勢になったということ。だから数年前からこの日のこの時間に1時間瞑想して、またその意識の集合体となろうと呼びかけている。 アメリカ東部時間: 2007年7月17日(火)午前7時11分 日本時間: 2007年7月17日(火)午後8時11分カウントダウンまであと4日とちょっと。 きっと奇跡は起こる! YouTubeの画像
Jul 12, 2007
頭の中がいろんなことでごちゃごちゃ、整理がつかない時にこんなに暑いとますます脳ミソが煮えくり返る気がする。会社を終えてビルの外に出た時には、ぬるいお湯に漬かったような感じがした。めげずに、用があるアッパーウェストへ向かう。久々に行くとやはり西と東の違いを顕著に感じる。行った先のオフィスではクーラーが効かないとボヤいていた。外が暑すぎるのだと言うと納得していたけれど、エコモードにしていた辺りはやはり西側の意識なんだろうなぁと思ってしまった。 その用もすぐに済み、帰途についた。けれど熱風が舞う地下鉄には乗りたくなく、バスを乗り継ぐのも面倒臭く思った。だから暑い中、散歩がてらセントラルパークを突きって帰ることにした。 数年前、ニューヨークの大停電の時を思い出した。夏の暑い日だったから停電という大事態でもニューヨーカーはのんびりセントラルパークを散歩しながら帰ったり、ひっくりかえったり楽しんでいた。私もそのひとりだった。その時あまりにも暑いからアイスクリームを買ったのを思い出した。セントラルパークに入ってすぐ、背の小さな暗い顔した年配のオジサンがアイスやお水を売っているカートを見つけ、初心貫徹のごとくアイスを買った。一目もはばかず、アイスを頬張りながら歩いていた。 美味しい。 夕日がどんどん傾き、さらにオレンジゴールデン色となって行く時、上層階だけニョキッと出すアパートがキラキラ輝きだした。眩しい太陽の光は青々する木々に照り返し、荒い息を吐きながら走り去るランナーたちが青春真っ只中に見える瞬間。 なんとも言えない至福の喜びを感じる。 I セントラルパーク
Jul 9, 2007
来る8月10日から12日までの3日間、NYCの天理ギャラリーにてヒロシマ、ナガサキの原爆関連の映画を上映する映画祭を行います。上映作品5本のうち『二重被爆』以外はアメリカ人が撮った作品です。戦後62年が経ち、日本で風化されつつある戦争や被爆者の話を21世紀のアメリカが目を向けています。 原爆投下を「しょうがない」と発言した官僚が出てくるような日本。そしてその前に戦争を知らない若い世代。戦争体験は辛いからと次世代に語らなかった体験者たち。何も無い焼け野原から生きていくためにモノ、モノ、モノと追いかけた時代とその後に続く団塊世代。今、若者たちはその失った心の世界を「スピリチュアルブーム」として求めているように感じる昨今。けれど学力の低下、教育問題のある学校。 そんな中、今でも戦争と向き合って生きている人たちが日本にいるのです。 それを伝える映画をここニューヨークから発信します。NY在住の方、是非見に来てください。NYにお友達がいる方、是非この映画祭を知らせてください。アメリカ人の方達にも是非ご紹介下さい。 2007年7月7日の七夕の日、お願い事は・・・ 願☆平和* * * Interborough Repertory Theater and Tenri Cultural Institutepresents NEW YORK PEACE FILM FESTIVAL ~ Voices of Hiroshima/Nagasaki Survivors in the 21st Century ~Friday, Aug. 10 - Sunday, Aug. 12, 2007at Tenri Gallery: 43A W. 13th Street, New York, NY 10011 * * * Friday, August 10, 6:30 - 9:30pm: 6:30pm: オープニング ~詩の朗読 & ダンス~ 7:00pm: 映画 『Last Atomic Bomb~最後の原爆』 8:30pm: Q&A アカデミー賞ノミネート ロバート・リクター監督 & プロデユーサーDr.キャサリン・サリバン 9:00pm: ピアノ弾き語り 田中ルミ子* * *Saturday, August 11, 11am - 5pm: 11:00am: 映画『魔法のランプのジニー』 11:15am: Dr.キャサリン・サリバン先生のワークショップ ゲストスピーカー:ヒロシマ被爆体験者、平田道正さん1:30pm: 2006年アカデミー賞ドキュメンタリーショートフィルム ノミネート作品 映画『マッシュルームクラブ』 2:15pm: 詩の朗読 & ダンス 2:30pm: 映画『二重被爆』 3:45pm: 映画『ミリキタニの猫』 * * * Sunday, August 12, 2 - 5pm: 2:00pm: 音楽: 霧生ナブ子 2:15pm: 映画『魔法のランプのジニー』 2:30pm: 映画『二重被爆』 3:30pm: 映画『The Last Atomic Bomb~最後の原爆』(15 minute version) 3:45pm: 2006年アカデミー賞ドキュメンタリーショートフィルム ノミネート作品 映画『マッシュルームクラブ』 4:15pm: 閉会 詩の朗読、ダンス、ピアノ弾き語り 田中ルミ子上映作品、ライブパフォーマンスはスケジュール変更する場合があります。 Advance tickets available at http://www.smarttix.com/ or call 212-12-868-4444General Admission: pass for 1 day 12; 2 days $20; 3 days $27Senior/students w/ID: pass for 1 day $8; 2 days $15; 3 days $21At the door (cash only): pass for 1 day $15; 2 days $25; 3 days $30Senior/students w/ID: pass for 1 day $10; 2 days $18; 3 days $24* * *Tenri Gallery: 43A W. 13th Street, New York, NY 10011 (Between 5th and 6th Ave.)5 min. walk from Subway Union Square Station - 4,5,6,L, N, Q, R, W3 min. walk from 14th Street PATH & Subway 6th Ave & 14th Station - F, L, VMap* * *Email: HibakushaOutcry@gmail.com http://hibakushaoutcryeng.blogspot.com/ http://hibakushaoutcryjp.blogspot.com/(日本語)
Jul 7, 2007
今年も会社のマンハッタン・クルーズがあった。カクテルアワー、ディナーと続き、そしてデザートと共にダンスフロアに繰り出して踊る人が増えていく。今年も雨男がいるせいか天気はイマイチ、小雨降る中のクルーズとなった。けれどそんな悪天候でも島を一歩外に出るとまるでダイヤモンドの輝きのように美しいマンハッタン。ほんの数時間の間だけれども満喫した時間を過ごした。でもこんなチャンスを生かして、社長と談話することが出来たり、他の部の人と知り合うことが出来たり、立ち上げたランナーズ・クラブの勧誘をしたり。人との繋がりはどんな事がきっかけとなるかわからない。 普段はマンハッタンに住み、オフィスから人も羨む景色を一望できても目もくれない人たちが、この時ばかりとこのエネルギッシュな街を眺め、時にその美しさをカメラに収める。 私もそのひとり。溜め息が出るくらいキラキラ輝く摩天楼を眺めながら、この街に住んでいる事に感謝する。 改めて、私はニューヨークが好き。ただちょっと波が大きかった今日のクルーズ。こうやって座ってブログを書いている今も、なんとなく揺れているような気がする(笑)。
Jul 5, 2007
7月3日は誕生日だった。私はいつも日本時間とアメリカ時間とお祝いし、そして独立記念日となり3日間のサラブレーションとなる。もちろん、週末にかかったりすると5日間なんてことも以前にあった。今年は取り立てて気持ちの変化なども無いのだけれども、弟からのメールにはやられた。 『毎年毎年言っているけど、早くいいひと見つけてね。』心配かけている弟を安心させる事は出来るかなぁ? 同僚がランチ、ディナーとお祝いしてくれ、その後呼ばれたパーティーに。毎年、誕生日には飲みすぎて記憶を無くす、、、ということが続いているので今年は控えめに。帰り道、まだ賑わっているバーを横目に歩きながら考えていた。 私は一体何が欲しいのか?本当に欲しいものは心から願うとその想いは叶うと知っているから、今日の独立記念日の祝日にじっくり考えてみたい。 生きている事に感謝、天国の父、そして母に感謝☆
Jul 3, 2007
♪ Take me out to the ball game, Take me out with the crowd.Buy me some peanuts and cracker jack, I don't care if I never get back,Let me root, root, root for the home team, If they don't win it's a shame.For it's one, two, three strikes, you're out, At the old ball game.♪ カブスバージョン 全米どこの野球場に行っても7回表と裏の間の『7th Inning Stretch』に流れるだろう"Take me out to the ball game"は野球ファンではなくても子供の頃から童謡のように愛されている音楽のひとつではないだろうか。私もこの歌が好きで携帯の着メロにしている。この曲はジャック・ノーワースという人が1908年にニューヨークの地下鉄に乗っている時に書いたという。彼の詩にアルバート・ボン・ティルザーが作曲し、その後編曲されたが今日に至るまで愛唱されている。面白い事にこの2人、その当時は野球観戦などしたことがなかったらしい。 いつもはヤンキーススタジアムで歌うこの歌をシカゴ滞在2日目にシカゴカブス本拠地で1914年に建てられたウィグリーフィールド(*)で聞いた。現在大リーグ30球団でボストン・フェンウェイパークに次ぐ2番目に古い球場だ。そしてどうしても来たかった場所だった。(*ウィグリーフィールドは日本語ではリグレー・フィールドあるいはリグリー・フィールドと記載されるそうですがここでは発音に近いウィグリーフィールドとします。)シカゴダウンタウンから地下鉄で約20分ほど。ヤンキース球場と似ているなと思った。けれどウィグリー球場のある近辺は良い住宅地らしく、その辺りはブロンクスとは正反対。どこの球場に行くのでも同じだけれども、私はまるで子供のようにワクワクしてしまう。それがずっと行きたいな、と願っていたこのウィグリーだとなるとその想いは余計強く、観光客に徹する事にした。まだ壊れたままのデジカメで写真を撮りまくり、チケットを求めて窓口に行った。対戦相手は松井稼頭央選手の所属するコロラド・ロッキーズ。両チームともそれほど馴染みがなく、知っている選手といえばカブスの元ヤンキース選手ソリアーノぐらい。勝敗に関係なく純粋に野球が楽しめ、ウィグリーという伝統ある球場を堪能することにした。 奮発して購入したチケットは前から6列目。球場はヤンキーススタジアムと違い小さく見え、そして客席とフィールドもとても近かった。声をかければ届く距離にいる選手たち。同じメジャーリーガーでもヤンキースの選手が大きく見えるのは舞台が違うからなのだろうか。だからこそそんな大舞台でプレーしたいと思う選手がいるのもなんとなくわかる気がした。 球場の外に外野席のように見える席がある。実は道を挟んで立っているアパートの屋上。球場の外野席と同じように席が並び、人でびっちり埋まっていた。球場の壁が低いので観戦が可能なのだ。隣に座った人に聞くとビルのオーナーが建物の屋上座席を作り金を取って見せているという。その行き過ぎた行為に球場側が訴え、折合いが付く前は球場が衝立のようなもので見れないようにしていたらしい。けれど昨年ビルのオーナーたちが球場側に支払いをすることで解決したという。試合のタダ見が出来なくなったとしても立地は最高だ。 球場の中は骨組みがそのまま露出して、古さを演出していた。またそれに併せたように出店の看板も古い字体を使用したり古さを強調させている気がした。ここがアメリカの良いところ。古いものを大事にして、逆にそのレトロ感を売りにしているように思った。目を閉じると少しダボダボのユニフォームを着た選手たちがプレーしているようなそんな白黒の世界が思い浮かぶ。この球場が大好きになった。 私はヤンキースファンだからカブスと入ったTシャツを買うことに躊躇したけれど、Wrigley Fieldと入ったTシャツを見つけ購入した。たかがTシャツなのに何故か嬉しかった。 試合はカブスが8-5でコロラドを下した。前の週にヤンキースはコロラドを訪れ、3試合とも負けてしまったことを考えるとちょっと複雑だったけれど、上機嫌のおっとりしたマナーの良いカブスファンと共に地下鉄に乗り込んだ。 気分は最高だった。仕事だったとは言え、シカゴ滞在が有意義なものとなり満足感で一杯だった。その時は次の日のフライトがキャンセルとなり、足止めされて延泊することになるだろうとは夢にも思わなかったのだから。。。 昔ながらの古いスコアボード
Jul 1, 2007
クリスタルが大好きな同僚がネットで見つけて友達数人で購入した石がシカゴから戻ると会社のデスクの上に置いてあった。聞くところによると、私が出張に出た先週の月曜日に届いたそう。その石とは『星の石』。申し込む前は海外まで送付してもらえるのかわからなかったけれど、OKして下さったとのこと。風邪が長引いて咳の止まらない私はすぐにポケットに入れて一日を過ごすと胸のあたりが軽くなったような気がした。『にぎり石』とあるように、見た目は普通の砂利と変わらないけれど握り締めると足の裏から頭のてっぺんまで電流が流れるような感じ。ツイてる すべてがうまくいくと良い言葉を発しながら握り締めると良いのだそうだ。今、まさに私に必要な石だと感じ、いつもポケットに持ち歩いている。 この星の石は最近では雑誌やテレビなどで取り上げられたらしいが、もともとは度会秀吉さんという方が、 「日本は原爆でやられてしまった。これからはウランの時代だ。自分も日本にウランを探してやろう」と思い立って探し当てたウラン鉱脈の近くで発見した。星の石 原石 この石で風呂を沸かして100日水を変えず、注ぎ足して風呂に入っていてみたけれど水は臭くならなかった、ガン、リュウマチ、神経痛、内臓不調、打撲、怪我など様々な病気が完全に良くなったとも。そして磁力線が無いという。(これは宇宙パワーを秘めたアンダラクリスタルやタキオンと同じ?) いろんなモノが世に出されて来ている昨今、どんなメッセージがその裏に隠されているのかと考えると、人間の生き方や価値観、そして文化や思想まであらゆる分野において洋の東西を問わずに危険信号が出ているのではないだろうか?それをいち早くキャッチするのが日本人。そして100万人のキャンドルナイトなどが行えてしまう日本という国はやはり『不思議の国、ニッポン。』 昨年からネットのあちこちで見かけていたファイアー・ザ・グリッドは2007年7月17日(グリニッジ標準時間の2007年7月17日11時11分)とあと2週間ほど。私もアンダラと星の石を握り締めながら祈りたいと思う。
Jun 30, 2007
USS New York (ドック型輸送揚陸艦) 日本では考えられないかもしれないけれど、この輸送揚陸艦は911で崩れ落ちたワールドトレードセンターの残骸スクラップから造られた。詳しくはウィキペディアをご参照下さい。 家を建てる時や新車に乗る時にお祓いする日本の文化って良いなぁとつくづく感じます。
Jun 29, 2007
Second CityあるいはWindy Cityとニックネームのついた街、シカゴに行っていた。表向きは仕事。お客さんを訪ね、そしてまる一日のコンファレンスに出席。けれども今この時期にシカゴへ行けたというのは私の活動の上でもとても貴重なことだった。今の仕事に就いて4年目。だんだん面白く無くなって飽きてきたところ(笑)。けれど私の気持ちとは反面に学ばなければならない事が多く、実際のところ忙しさは変わらない。それと同時に私の生活の中心となっているのが野球観戦とヒロシマ、ナガサキ関連の活動。その2つの分野で願っていた事がこのシカゴで叶った。 今年8月にニューヨーク平和映画祭を開催する。準備期間が短く、人手不足、時間不足の中、模索しながらも進んでいる。上映映画はアカデミー賞ノミネート作品からアカデミー賞ノミネート監督の映画や話題のティーンエージャー製作のドキュメンタリー映画、それにライブ・パフォーマンスを織り交ぜてプログラムが組まれている。そのティーネージャーはシカゴ郊外に在住、今回初めて会うことが出来た。マンハッタンの既に大人びたクソ生意気そうなティーネージャーと違って、素朴で純で真直ぐさが会った瞬間から伝わってきた。ただお土産に持っていったTシャツはどうやら彼らにはちょっと大きすぎたみたいだった。 11歳で作ったという初めての作品を見せてもらいながら、彼らも「この頃はまだ声が高かったんだよ~。」とケラケラ笑いながら楽しんでいる。学校のプロジェクトから始まったという映画制作が世界中から注目されることになるなど思いもしなかっただろう。 この訪問は仕事先のお客さんと隣接した町であったことから実現した。レンタカーも含めて全て必然のように自腹を切る事なく、なるべくして導かれているようにしか思えなかった。 その日の夜は仕事関連の用事が終わってから、宿泊先ホテル近くにそびえ立つシアーズタワーの展望台へと行く事が出来た。短い滞在であり、時間の制限のある中で行きたかったところのひとつだった。 シカゴの街は海のようなミシガン湖に面し、そこに向かってハイウェイや道路が四方八方から向かっている。 全ての道はシカゴへと通ずと言わんばかり。その昔、ここへ馬車で荷車を引いて物を売買していたのかなぁと思うと、私も希望に満ちたワクワクしたような気持ちになっていた。私は今でもマンハッタンに恋している。けれど最近はジェットコースターのような起伏の激しいような感情は持ち合わせず、至って平穏の関係になっている。だからシカゴは新しく出来た友達のような感じだ。この街が好きだなぁと思った。 それにしても感謝することの多い毎日が続いている。それも『オーラの泉』で良く聞く台詞、《偶然ではなく必然です。》ということが多く続いている。何度も何度も「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と言いながら天に感謝している。 そしてシカゴ第2日目にも念願だったある夢が叶った。 <つづく>
Jun 25, 2007
夏至も過ぎ、本格的な夏到来!ということもあり、少し前に夏らしいブレスレットを作ってみた(写真右側)。いつもパワーストーンクリスタルブレスを2つ、3つと重ねて身に付けているいるのだけれども、このクラッククリスタルは、それだけで模様が付いている様に見えたので気に入っていた。今日、明日お会いする人へのプレゼントとしてブレスを作っていた(写真左側)。そして気が付いたのが、いつも身につけているクリスタルのクラック(割れ目)が消えて透明に近くなっていたのだ!???どうしてなのかわからないので、わかる方是非教えてください。
Jun 24, 2007
今年のサンダンス映画祭で注目を浴び、好評だったという日系3世スティーブン・オカザキ監督のドキュメンタリー映画、『White Light / Black Rain(白い光・黒い雨)』のニューヨークプレミア試写会があり招待して頂いた。 スティーブン・オカザキ監督試写会の前にレセプションがあり、そこにはメディアが詰め掛けるのと同時に国連関係の方々やジャーナリスト、そして日本・NYで活躍する兵藤ユキさんや画家・イラストレーターの黒田征太郎さんがいらしていた。黒田さんは『ピカドンプロジェクト』を立ち上げ、アーティストたちとのコラボをしながら世界中を歩いているという。そんな方とは知らずに、結構長い時間お話を伺う事が出来た。そして彼もこの映画に出演している一人だった。 私がヒロシマ・ナガサキのことを始めたきっかけとなった国連で出会った被爆者の方とはその後ご縁があってメールのやりとりをするようになった。そして、タイミングよくこの夏に企画しているイベント開催時にニューヨークにいることがわかり、参加して頂く事を承諾して下さったのだけれど、その方が『今までに見た映画で一番良かった映画』と推薦して下さった映画がこの『White Light / Black Rain(白い光・黒い雨)』だった。 今年4月にナガサキ訪問した際、少しだけお会いした被爆者の方も出演していた。戦後62年経った今でも彼らの戦いは続いていると痛感するばかり。けれど世の中は戦後生まれが75%となり、8月6日、8月9日、8月15日が何の日か知る日本人がだんだん減っている。それを日本に住んでいない人々が危険信号だとばかりにメッセージを送っているのにも日本人は気づいていないようにも思う。 横浜生まれの私がヒロシマ・ナガサキについて調べ始めて感じるのは、自分があまりにも無知であること。とても恥ずかしく思う。そんな中、最近知ったのは『原爆乙女』と呼ばれる25人の女性たちの話だった。戦後10年足らずのアメリカにケロイドのある女性たち25人が渡り、整形手術を受けたのだ。作家のノーマン・カズンズ氏が資金調達の運動を行い、実現された。原爆乙女たちの整形手術の数は30回以上にも及んだという。その1人でカズンズ氏の養女になった笹岡恵子さんも映画に出演、そして上映後のパネルディスカッションのパネリストの1人として参加されていた。米国在住被爆者、笹森恵子(しげこ)さんそのパネルディスカッションで彼女の隣に座っていたのはヒロシマに原爆投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの元搭乗員セオドア・バン・カーク氏だった。彼は原爆投下は「戦争終結させた。よって沢山の人々の命を救ったのだ。この考えは当時も今も変わらない」と強く主張する。その横で首を横に振る笹森さん。彼のことは以前日本のテレビ番組でも見た事があり、同じようなことを述べているのを見て米国軍人魂の人なのかと思っていた。けれど彼はこんなことを口にした。 「沢山の人々、それは中国人でありカンボジアなど日本軍が侵略し虐殺していた人々だ。」原爆投下後、悪夢にうなされる事もなく生きているというバン・カーク氏は戦争そのものがいけないのだとも主張した。(左から)スティーブン・オカザキ監督、笹森恵子さん、セオドア・バン・カーク氏 観客からの質問は憲法第9条にも触れ、アメリカの知識人の間では関心が高いことを感じた。そして新たな核の問題としての北朝鮮の存在がアメリカで関心を高めているのかもしれない。もしかしたらミサイルが届いてしまう日本よりも。 私が浦上天主堂を訪れた時、マリア様の前で祈っていた3人の女性祈っていた3人の女性のうち2人もこの映画に出演しているように思う。 この映画『白い光・黒い雨』はアメリカは8月6日にHBOで放映、日本では邦題『ヒロシマナガサキ』として7月下旬から公開予定。http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki/
Jun 20, 2007
【 皆が私に言いました。白馬の王子様があなたの目の前に現れるなんて思っちゃダメよ、と。でも本当になったのです!ただ、、、白馬じゃなくて、マツダのミアタに乗って現れました!】 そんな花嫁の言葉を結婚式のプログラムに印刷した海辺のガゼボで行われた友人の結婚式に参列した。数年前、彼女を含めた数人で多種人種版「セックス・アンド・ザ・シティ」のようなお芝居をやろうと集まった仲間の1人が、遂に運命の人と出会った。私に散々、『ルールズ』という結婚にこぎつけるノウハウ本を参考にしろと言い続けていた女友達だった。マッサージ師をしながら女優、脚本、演出をこなすマルチな才能を持つ彼女。知り合ったアクトレス仲間でも正真正銘クレージーな人なのだけれども、やはり繊細で傷つきやすい心を持ち合わせている。ネット出会い系サイトに登録して、46人とコーヒーデートをしてそれを『デート』と呼ばずに『10分のアポ』と呼んでいたという。絶対に飲みに行ったり、ディナーなどには行かなかった。そしてその46人目の後に出会ったのが、ミアタに乗ってやってきた王子様だったわけだ。私は写真で拝見するだけで、王子様に会ったのは結婚式が初めてだった。けれど私を見るなり王子様は、 「君がゆーみんだね!出席してくれてありがとう!」とまるで昔からの知り合いのようにとてもフレンドリーな笑顔とハグとキスで迎えてくれた。出席した中で私だけが外国人。きっと目立ったのだろう。こんな時は自分のバックグラウンドが有難く思える。 家族、親戚と仲の良い友達だけという割と小さな結婚式だったけれども、ニュージャージー州にあるボードウォークと海水浴の出来る海岸が広がるガゼボでのI Do!はとてもロマンチックだった。教会のパイプオルガンで入場するバージンロードの代わりに、1本のフォークギターで奏でる優しい音色と共に花嫁が2人のお兄さんと登場、純白のウェディングドレスが太陽の下でまるで天使が舞い降りたかのように眩しかった。 実は2週間前に一緒にお芝居を書いていた共通の友達が引越し先のLAからNYに遊びに来ていた。その時に新郎と会って来たという彼女から初めて詳しく聞いた。 「今さっき二人に会ってきたんだけどね、彼はすごーく素敵な人よ!彼女のこと愛しまくっちゃってるっていうのがすごくわかるの。」 「へー。でもまさか私たちの中で彼女が先に行くとはね。私はあなたが最初だと思ってたわ。」 「私もそう思ってたわよ。でも彼女、この1年ぐらい嫉妬して凄かったわよ。毎日LAにいる私のところに電話してきてさ。」 「え?どうして?嫉妬したって始まらないのに。」 「ほら、彼って野球の選手でしょう?結婚してるって言っても、女の人が群がってくるらしいから。」 「えええええ?ちょっと待って!野球の選手???いつ?どこで?」 「若い頃の話らしいけど、オリンピックにアメリカ代表で出たらしいわよ。」 「うっそー!!彼女、野球の選手と結婚したの!?それ、野球大好きな私にとってすっごく羨ましいわ!!」 「え?ゆーみんって野球好きだったの?知らなかったわ。私は大学の頃、メッツの選手とデートしてたわよ。」 「えええええ???二人ともすごーい!!」そんな会話をしていたので、ミアタの君からダンスを踊ろうと誘われた時に聞いてみた。すると本当にオリンピックの選手で、マイナーリーグで5年プレーしていたという。今もコーチをしているらしいということだった。 「ゆーみんも野球が好きなら今度、試合を見に来てね!」 「もちろん行くわよ!!」私を含めて参列者の独身女性たち数人は彼の友達が参列するのを期待していたのだけれども、残念ながら独身男性は参列していなかった。私たちの額に「残念」の刻印が押されていたのを当日、私のデートとなったハンサムな独身男性がよく知っている。独身男性と言っても彼は私になど全く関心は無い。それだけではない。かつらを被り、女装するドラグクィーンだったのだ!!もちろん、式にはスーツ姿で参列していたが、心の中ではドレスを着ていたのだと思う。彼と一緒に踊ってもお互いがリードすることもなく、中性2人が踊っているような滑稽なペアと他人の目には映っただろう。 そんな笑いがいっぱいの結婚式だった。既にご両親を亡くしている友達は、他州に暮らす姉兄たちに囲まれながらとても幸せそうだった。そしてミアタの王子様が彼女を見つめる瞳が「これが愛なんだ!」と言わんばかりに輝いていたのを見て、私が涙しそうになってしまった。プログラムの中にはこんな一節も書かれていた。"You're in my heart. You're in my soul.You'll be my breath, when I grow old.You are my lover. You're my best friend.You're in my soul." ~Rod Stewart 白球を追いかけるようにお互いを追い続け、いつまでも幸せでありますように☆
Jun 9, 2007
前回の日記を書いてからいつもアンダラクリスタルをカバンの中に忍ばせて出かけている。そしてネットでアンダラウォーターの作り方を見つけて飲んでいる。作り方は至って簡単。水の中にアンダラクリスタルを2~3秒入れるだけ。日本帰国中、Merry Janeさんに「奇跡の水」を頂き、それ以来いつも飲んでいるのだけれども、その「奇跡の水」の中にアンダラクリスタルを入れて飲んでみた。体の中のエネルギーが活性化されるのがわかるのだ!会社ではお水を沢山飲むようにしているので、飲んでは作り、飲んでは作りしていたのだけれども、同僚2人にも飲んでもらおうとコップ7分目ぐらいに注ぎ渡した。 「どお?」同僚の1人は50代半ばのアメリカ人女性。今は落ち着いて来たけれど、情緒不安定な時期が続き、問題視されていた時もある。また心配性で胃がおかしくなり、多くの食べ物が合わずに戻してしまうのだ。会社でもダイエットコーラにポテトチップスのようなものしか食べていない。その彼女がアンダラウォーターを口にすると、 「すごいわ!体の中で何かが起こっている気がする!」とワクワクしたような笑顔で言った。彼女に「奇跡の水」のことを話し、アンダラクリスタルを見せた。世代的にはヒッピー時代の少し後に育った彼女は、不思議世界のことに理解があり好きなようだ。だから水の話もクリスタルの話も興味深そうに聞いていた。 そして次の日の朝。会社に着くなりその彼女が言った。 「奇跡の水って何なの?とにかくスゴイのよ!あの水飲んでから、デトックス(解毒)作用が効いているの。それにここずーっと夜よく眠れなかったのに、久しぶりぐっすり眠れたの!」 「うぁー、すごい!それは良かったわ。今日もまた飲む?」 「もちろん!コップも用意してるわよ!」そして彼女はまたコップ7分目のアンダラウォーターを飲んだ。もうひとりの同僚も「私はフェチ」と言っていたぐらい水には煩いらしく、一日中、アンダラウォーターを分けてあげていた。 そして次の日。 「どう?解毒作用はまだ続いてるの?」と、私が訪ねると、 「続いてるわよ!それにまたぐっすり眠れたの!」心なしか彼女の顔が普段と違って明るく見えたのは気のせいだったのだろうか?あまり笑顔を見せない彼女が笑っているからそんなオーラを発していたのだろうか?ちょうど週末前だったこともあり、空ペットボトルにアンダラウォーターを入れ、 「週末、ボトル半分ずつ飲むとちょうど良いかもね。また飲んだ結果を教えてね。」と言って渡した。私自身、彼女に起こっている事に驚いていた。 「奇跡の水」はペットボトルの水に1~2滴垂らすだけであっという間にペットボトルの水が「奇跡の水」となる。実際、実家で甥のりんりんと実験してみた。飲み比べると、「喜び」という波動の「奇跡の水」は一瞬でまろやかになる。りんりんも「まろやかぁ~」と私の真似をして目を大きくクリクリさせながら驚いていた。ちょっとかさかさ気味だったほっぺたに「ミラクルウォーターつけようか」と言って2日程つけたら治ってしまった。その「奇跡の水」にアンダラクリスタルを入れたアンダラウォーターの効果は、同僚のデトックス効果として現れた。水フェチという彼女もデトックス効果が出ているという。私はデトックスのサプリを飲んでいるからか、同じような効果は出なかったが、会社で彼女たちにアンダラウォーターを分けるのが日課となった。 アンダラウォーター効果は人それぞれ違うだろう。けれどもこんな良い形で結果が出るというのがとても嬉しく思える。私はただ水を作るだけ。あとは宇宙のエネルギー任せ。 これが絶対のものだとは言わないけれど、こういう話は嬉しくなる。いつの日か同僚の体のシステムが変わり、普通にモノが食べられるようになれると願うばかり。特別な場所に行かずともヒーリング。そして私は周りの笑顔で癒される。 ☆ 感謝 ☆
Jun 4, 2007
我が家(アパート)にアンダラ・レムリアンクリスタルがやってきました!1967年にレディ・ネリーと言うシエラネバダ山脈ふもとに住むネイティブアメリカンのメディスンウーマンの女性が見つけた石でまるでガラスのよう。様々な色があるということだけど、私の手元に来たのは薄い青色を帯びたクリアのアンダラ・クリスタルと送ってくださった鈴木美保子さんがプレゼントしてくれた小粒のグリーンのアンダラクリスタル。メールボックスを開けてパッケージを持っただけでエネルギーを感じ、封を切った途端にハートチャクラがぶゎーっと開いていった物凄いエネルギーを感じました。アンダラ・クリスタルについては彼女のサイトで詳しく説明があるので、そちらを参照してください。http://www.mycosmicheart.com/Andara.html 先日、友達が見せてくれた高い波動のモノがあったのだけれども、それを持った瞬間にやはりハートチャクラが開いていくのがわかりました。自分でもセルフ・レイキをする時にいつもレイキエナジーを流すハートチャクラ。きっとこのチャクラに反応する石が必要だったのだと改めて思いました。その他アンダラ・クリスタルの効用は:· 細胞間の超伝導体としてはたらき、直接DNAに作用する · DNAレベルでの変容、進化を促し、意識を拡大してくれる。· 肉体とエーテル体をつないでくれる · ボディ、マインド、スピリット間のコミュニケーションをシンクロさせる · 健康を増進し、意識を拡大、シフトするのを助けてくれる · 宇宙にみなぎる聖なる知恵、宇宙的な知識へのアクセスを容易にしてくれる · 右脳と左脳をつなぎ、「全脳」状態を促進してくれる またアンダラ・ウォーターという水を作ってみました。アンダラ・クリスタルを水に2-3秒入れるだけで出来るというのです。コップ1.5杯ぐらいを飲んで寝ましたが、朝起きた時に体の中のエネルギーが違う気がするのです!朝、寝起きの悪い私は体が重く感じてずーっとベッドの中に居たいなーと思うのに、体が引き締まったように感じるんです!痩せてないのに痩せた気分(笑)。 また意識的にシフトしたいと思っていたところ。このアンダラ・クリスタルに尻を叩いてもらえそうです。 美保子さん、ありがとうございました!
May 29, 2007
全444件 (444件中 1-50件目)