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人は、他のために役に立つという事が究極の生き甲斐、存在意義■愛を与えることの出来る幸福わたしたちの魂の中には、愛を与える存在となりたいというソフトがインプットされているようです。そして、そのソフトが起動して働いている時に本当の幸福がわき上がってくるのではないだろうかと思います。人生を半世紀過ぎると色んな事が立体的に見えてきます。もちろん今でも何かを得たり何かをしたりしたことが幸福と感じる所はがあるが、その奥に、もっと素晴らしい見えないものが隠れている事に気づくようです。歳を取るとチョットしたことで涙もろくなるのは、涙腺が弱くなっているからと単純に言ってしまう人がいますが、そうでもないようです。色んな出来事などの、その奥に有るものを感じ取り立体的に物事の本質が見えるようになってきたために感動する事ができるからのようです。万象万物の営みの中に、努力する姿、感謝する姿、反省する姿、人知れず善行をしようとする姿、愛を与えようとしている姿、その人も周りもより良く素晴らしく出来ないかとしている姿に感動を覚えます。しかし、なぜ?そのような姿に接すると感動するのか?なぜ?涙が出るのでしょう。なぜでしょう。考えてみてもその答えははっきりとは出てきません。しかし、地球上のどんな人を見ても、一時期悪の道に入りその反対のことをしているような人の心の中にも、どこの誰であろうと、その心の奥に皆が持っている要素のようです。どこのどのような人であれ、愛を与えることの出来るような存在になりたいという思いが、魂の中にソフトとしてインプットされているとしか思えません。変なことで自慢話をしてしまう心の中にも探ってみると同じ原因が含まれています。愛を与えることの出来る存在であることを認めて欲しくてしている行動でしょう。そのような存在になった結果、多くの人から尊敬や畏敬の念で見られたりしたいという、結果における現象のみを、結果主義となって、その形だけを求めているようなところもあります。愛を与えることが出来る存在でありたいという、そのような心に本当は創られているのでしょう。植物であっても、なぜ、彼らはなぜ?あんな美しい姿をとって生きているのでしょう。動物であってもそうです。何故、肉が美味しいのか?考えると不思議です。私達人間は、一時期そのことを忘れて、自己中心に自堕落に生きることも有りますが、後になって気が付いてそのことを悔やむことが有ります。死後、地獄に行って苦しむ魂も有るといいますが、生前に気が付かなかった人たちの哀れな末路なのかもしれません。■親業と仕事愛を与えることの出来る存在といっても、立場を変え時を変えて色んなお役立ちの機会が与えられているのがこの人生であり、社会のようです。この愛を与えるということの基本的なところは、家庭の中に在ります。キリスト教関係でも一番象徴的に扱われ独立した信仰にもなっているようですが、マリア信仰です。そうです、母親業です。イエスが救世主としての仕事を出来るようになった背景にはマリアの注ぎ込んだ愛情が起源に有るのではないだろうか。犬の話に比較しては申し訳ないが、盲導犬の訓練でも、その犬が子犬の時に周りから無条件の愛を一杯注ぎ込まれなければ、それ以後の訓練にも耐えられないし、将来、人とペアを組んでその人の為に献身的に尽くすような盲導犬にはなりにくいと聞いたことが有ります。もちろん家庭が崩壊したような逆境からスタートして、それを反面教師としてより立派な仕事をされる人もいますが、なかなか困難なことです。国を破壊しようと思えば、家庭を破壊し、人の心を荒廃させることが出来れば、武器を使わなくても簡単に出来るという説も有るように、家庭はとても大事な社会を形作る最小単位なのです。その家庭を守り、子供を育て、男性の外での仕事を支え間接的に社会を支えている母親の仕事は、とても重要な要素を持っています。近現代では、この女性の母親業、家庭での仕事を低く見る世論がまかり通っています。男女同権、男女機会均等法とか、ジェンダーフリーとか色々ありますが、この眼には見えにくいが、一番重要な仕事をないがしろにさせるような考え方に、決して同調してはならないでしょう。なぜなら、女性にとって人生の中で、振り返ってみると、この子育ての頃がその人の存在意義が一番高まっている時期であるようなのです。過ぎ去ってみて、振り返ってみると、子育ての時期が一番幸福でかけがえのない時期だった事が分かるようです。子供にとっても社会にとっても役に立ち、それだけでなく、自分自身にとっても最大の幸福の時期だというのですから、最高に価値あるものなのです。歴史上の偉人は、家庭の外で仕事をしている人たちが多いでしょうが、子供にとって身近な偉人は母親である事が多いように親業の重要性は歴史に名を残している人たち以上のものが有るでしょう。社会の中でしている仕事は、会社仕事など色々あり、その仕事は評価を得、収入を生み出し家庭を支えています。会社仕事も循環し家庭を支え、社会を支えます。その男性が主にやっているような会社仕事であっても、子育てと同じ要素が有ります。眼の前の目標をクリアーしようとしてその時は一生懸命でしょうが、その仕事が意義有る素晴らしいものであった場合、その収入や評価以上に、過ぎ去って振り返ってみると感慨深いものが有ります。しかし、その仕事の性格上、短期間に成果、結果を求められる点で苦しいことも有ります。振り返ってみて社会の役に立つという視点から逆方向に向かっているような仕事も有ります。この仕事の成果とか評価、収入、その日を満足させるものは、目の前に見える姿でダイレクトに迫ってきますので、その目をくらまされることが有ります。そのように、本質的なものを見えなくするような要素も有り、非常に難しい面もありますので、眼に見えにくいものを見ていこうとするトレンドも大切なのでしょう。短期的で、目に見えるようなものは、分かりやすく、魂に組み込まれている本能部分にも近くて翻弄されがちですが、時間や空間を越えた部分、眼に見えにくい部分を見ていく必要性が有ると思います。昔からストイックな生き方が教訓的に言われ続けているのは、生き物としてインプットされている本能部分のソフトでは、快楽を求めるような部分に刺激を与え意識しなくても自然に浮かび上がってくるものなので、それが暴走し自分も周囲の人も不幸にしないためにでしょう。■内向きのソフトと外向きのソフト人の心に組み込まれているソフト、もちろん動植物、万象万物の中にも入れられているソフトは、それぞれの種における本能部分に関するものは有るでしょう。その本能というソフトに従って、どのような生き物も、周囲から教えられなくてもその生命体を維持するためや、その種を保存するためのアクションを起こすようになっています。明らかに埋め込まれているソフトが作動しているのです。この生命体に組み込まれているソフトの事をフラクタルの森で考えてみると、やはり陰陽二つの極が有るようです。その種を保存し、その生命体を維持していくために必要なソフトと、もう一つのソフトが組み込まれています。それは、「他の為に役に立ちたい」というソフトです。本能とかは、内向きのソフトであり、「他の為に役に立ちたい」というソフトは外向きのソフトです。どうやら、この二つのソフトが有って初めてこの宇宙が存在しているように思います。陰と陽の関係です。経済の問題でも、消費(生活・家庭)と生産(仕事、企業)の両方が上手くいって初めて社会が安定し経済が安定するように。プラスとマイナスの極が有って初めて電気が流れて、その仕事が成されるように。この社会全体、この宇宙全体が、いったいどのような仕事をしているのか分かりませんが、私達が外向きのソフトである「他の為に役に立ちたい」というソフトが上手く機能し実際に役立てることが出来た時にしみじみと下幸福感に浸れるように、これらのソフトをインプットしてくれている神々も、同じ事を考えているのではないだろうか。我々と同じ喜びをかみしめているに違い有りません。そのようなことが想像されます。よって、自己を保存し維持していこうとする内向きのソフトと、愛を与えようとする外向きのソフトを適切に働かさなければなりません。内向きのソフトは、放っておいても働かないケースは少ないでしょうが、この外向きのソフトが上手く機能するためには、色んなハードルが有って、小さなハードルをコツコツとクリアーした上で働くようですので、自助努力の精神が大切のようです。多くの人々の心の幸福と社会の幸福に貢献し、神々と共にその喜びを共有している存在たり得ること、その天使達と同じような喜びを感じられることも可能な道が用意されていると思います。また、逆に内向きのソフトだけしか使いこなせず、社会のお荷物になっているような人もいるでしょう。たとえ、どのような逆境にあっても、その場で一筋の光となることは可能です。小さなロウソクの光となる道は、どこにでも有ります。言葉一つ、笑顔一つ、まなざし一つ、思い一つ、ただ、与えたいという思いさえ起こせば、その思いは必ず何らかの仕事をしていくはずです。
2009.05.29
ついこの前までは、山も静かだったが、このところ緑の攻勢に圧倒されている。朝起きて、最初のおしっこを山の木や植木、畑に肥料としてまき散らしながら山の緑達と会話をし、ウグイスと下手な口笛で会話をしている。畑に植えた苗も、このところグイグイと大きくなっているのだが周りを見渡すと、駐車場や道端の雑草たちも元気だ。そろそろ、草刈りをしなければ・・・このところ2ヶ月に1回のペースで窯を焚いている。今日から窯を詰め始めたがもうちょっとゆっくりのペースに出来たらとも思う。良い焼きの出る確率の高い窯なのだが少し容量が少ないのかもしれない。耐火煉瓦の余分も有るのでもう一つ大きな窯を作ろうと思っているが今ひとつ、前に進んで行かないのはどうしてだろう。機が熟さなければ何事も良い結果には結びつかないとも思うのであわてずに新しい窯の構造を模索して楽しむことにしている。
2009.05.25
「景気回復には、消費を刺激すること(陽)と仕事を増やすこと(陰)と両方を見るべし」景気を良くする方法は様々に有るが、これも両目で見るべきである。景気も気からと言うように、人の気分によって大きく左右される。その経済に関わる人の立場にも色々ある。その役割分担は、基本的には次のようになるだろう。十字架の4象限に対応させて入れてみる。「資産家、経営者、労働者、消費者」この4つに整理できる。ここで人、物、金、情報が循環して社会を造り経済活動が行われている。そしてそれらが上手く機能するために「政治家、公務員」というような補助者が必要とされ色んな仕事が産まれてくる。(電線が長くなると電気抵抗によるロスが多くなるように、必要以上にここが膨らんでは効率が悪くなる。)この社会を構成している人は、分類し整理するとこの6態が有るのだろう。「資産家、経営者、労働者・・・消費者」と役割分担はあるが、基本的には誰でも消費者です。消費者であり「仕事」(生産)をする者としての役割も担っています。生産者と消費者、この両方を常に両目で見なければなりません。世間では、どうしても消費者中心、国民、市民、低所得者を中心に物を言う人がいますが、これは片目だけで見ている状態です。そして、資産家、経営者、労働者を階級と見て階級闘争を訴えるような組織も有りますが、これは嫉妬に狂って両目で見られなくなっているだけです。これは役割分担であり破壊すべきものではありません。私は、経済を専門に学んだわけではないが、陰陽と単純化しながら考えると非常に分かりやすくなるようです。「需要と供給」のことも陰陽で見るとクロスする両面が有るようですが、先ほどの「消費」と「仕事」と言い直してもいいでしょう。仕事として色んな物やサービスの供給が行われ、その需要を満たすために消費が行われる。「需要と供給」を「消費と仕事」と言い換えると経済対策には分かりやすくなる。景気対策は、消費を増やすことと仕事を増やすことです。仕事を増やし消費を増やせば良いだけです。そして、その仕事は有意義で将来役に立つ可能性を持つ物である必要が有ります。イナズマにたとえるとおかしいかもしれないが、このような自然現象でも陰陽が有ります。上から落ちてくるだけでなく、大地にその要因が出来ていて両方が引っ張り合ってイナズマという現象が起きるようです。電気も一緒で片方にプラスに帯電したものがあり、片方にマイナスに帯電したものが有って流れていくようです。これは景気対策でも一緒で、両方が上手く働かないと効果はないでしょう。もちろん消費を刺激して仕事を増やしていくという方法も有るでしょうが、どうしてもばらまき的な要素が国民にとっても受け入れられやすく、消費を活発にする視点で対策が講じられがちのようです。しかし、その消費が上手く循環していくためにはその上流の方からの手当がどうしても必要です。「消費」だけでなく両目で見て「仕事」を増やす必要が有ります。どちらかというと、この仕事を増やすということのほうが重要かもしれません。よくとられていたのが公共事業です。この公共事業ですが、今まで世界の景気対策、景気浮揚になったものを考えると大きいもので2つ有ります。一言では「公共事業」ですが、2つに分けると「インフラの整備」と「戦争」です。少し説明不足も有り変な感じに聞こえるかもしれませんが、人々がお金や物を循環させなくなると必然的に強制的な力が産まれてくるようです。この2つが今まで大きな仕事を社会に与えてきました。前者は道や橋を造ったり国内の体力増強のための仕事、後の方は他国の犠牲という代償がつきまといますが、強制的に成される大きな仕事でしょう。そこに仕事が産まれ消費が起こり強制的にお金が循環し景気が浮揚してきました。この二つの要素は盾と矛の意味も持つのでしょう。国力を増し、戦う力、今までの歴史はそうだったのでしょう。しかし、科学技術も発達し地球もグローバル化して、経済でも周辺国と密接な関係を持つものに成熟した今という時代は、そのような原始的なものであってよいわけはありません。インフラの整備は良いとしても、当然ながら、紛争を起こし他国を攻めて他国の富を奪ってはいけません。攻める対象を他国に求めるのではなく、フロンティア精神です。それは考えれば宇宙開発とか、新たな需要の創造とか色々出てくるでしょう。もちろん、国防の意味でも国内体力の増強はしておかなければなりません。世界の覇権構造が変化していく中で、中国は空母の建造に取りかかりました。将来、日本と何らかの摩擦が起こった時に、昔アメリカと起きたと同じような紛争に立ち入るかもしれません。そんな時に日本のシーレーンを中国に押さえられていたのでは、アメリカに代わって中国の属国にならざるを得なくなります。中国が共産党一党独裁の体制からアメリカのような自由で民主主義の体制になっていれば、それも構わないでしょうが、このままいくとチベットのようになりかねません。将来の備えの為にも軍事力は保持しておく必要は有るでしょう。その為に、中国に対抗するだけでなく空母を何隻か建造する事も景気刺激策になります。災害救助向けの機能も備えた空母を10隻ほど30兆円規模で建造すると造船業界から景気の波は起こるという意見も有ります。そうすれば、海外から見た目も、日本は自分で自分を守ろうとする気概が有ると安心して見られ、日本の株価も上昇するでしょう。中国のように内陸部が未発展の国では、景気刺激策も国内投資の余地がいっぱいありますが、日本で道路や鉄道、ダムなどこれ以上作ってもそれほどの効果は期待できません。空母の建造、これは将来へ向けての大きな布石となります。もちろん、この策はすぐには実行不可能でしょう。その為には憲法まで手をつけていく必要もあるでしょう。どうも、この景気という代物は、前に向かって進み続けなければこけてしまう2輪車のような要素が有るようです。結局、国民に夢と希望を与えなければ人々は自転車のペダルをこいでくれません。戦争という脅しで走る方法も有ったのでしょうが、勝てば官軍負ければ賊軍、代償があまりにも高くつきます。そして、核戦争となると勝者が生き残るかどうかというところも有ります。大きな戦争はしにくくなってはいますが、破綻国家は、他国も道連れとばかりに破滅への道に突き進む場合も有ります。個人レベルでも殺人を犯し死刑にしろとばかりにすごむ人がいるように。では、国が行う公共事業以外で、もっと仕事が増えるための具体的な方策が有るでしょうか。国がやるとどうしても、そういう時期には現政権に対する不平不満が爆発するでしようから、ご機嫌取りの政策になりがちです。消費の刺激策は、どうしても国民へのばらまき的な政策になりがちで、選挙の要因も重なり市民、労働者、弱者への対策に流れがちです。しかし、これが中心であっては、循環は起こりません。循環を起こすには、やはり、「仕事」です。政府が起こす公共事業も有るでしょうが、やはり、メインは民間の仕事に求めるべきです。政治家や官僚達の主導でやると道路工事とか単純な箱物で終わって、逆に後の維持管理費で財政赤字の元になる場合も有るでしょう。これからの仕事の創出は、民間に任せるべきです。民間の智慧と活力を活かしきり、より多くの仕事が市場に溢れるようにしなくてはなりません。しかも有意義な仕事です。その為には、資産家、経営者、労働者の更なる創意工夫が求められます。より素晴らしい製品、より素晴らしいサービス、それらをより多く市場に送り出す手だては様々に有るでしょう。政治の面からもこれを応援しなければなりません。新たな徳のある資本主義を構築しなければならないと思います。仕事を増やすためには、発想、イメージ(陰)と実現の為の資金(陽)です。企業家、起業家たちには良いアイデアもあるでしょうし、資金さえ有れば従業員を解雇せずにそちらへのチャレンジも可能です。今までの仕事がヒマになっているのであるなら、逆にそれこそチャンスかもしれません。その資金が潤沢に回るためには、日銀の金融政策だけに頼るべきではないという意見も有ります。企業への融資向けでの「銀行紙幣」を30兆円規模で三大メガバンクに発行させるという案があります。なぜ「銀行紙幣」発行が景気回復に効くのか?http://www.mirai-utopia.org/suzuki/798正直最初はよく分からなかったのですが、よく考えてみると確かに良い案です。単純な公共事業に頼るより、民間の力を信じた方が無駄も有りません。みんなリスクを背負って頑張ってくれるわけですから、行政機関に任すよりよっぽどましなのは当然の事です。責任を取らない官僚に任すことに比べるまでも無いでしょう。他にも一杯プラス面が有るようです。ただ、単に企業や銀行を優遇するように錯覚し嫉妬して多くの人が反対する可能性が有ります。自分で自分のクビを締めるような意見を平気で言う人たちが多いので、それだけが心配です。企業の目的は社会貢献に有り、その結果目標として利潤の追求が有るわけですから、どうすれば、雇用を維持し、多くの人々の生活の向上と、幸福の増進に貢献できるか、とことん競争していただけるなら、そのうねり、その循環はとても大きな力となって景気を浮揚させることが出来ると思います。自分たちに、本当に価値あるサービスや物を生産し提供してくれる企業に、消費の力が黙って財布のひもを締めておくわけが無いのです。
2009.05.13
マルクスの宗教観が彼の思想を通して世界に蔓延したのだろうか。「宗教は、大衆の麻薬である」とする考えが東西冷戦のときに東側諸国や、左翼の活動家達によって世界に広められたのかもしれない。当時も今も、知識人、良識派、左翼と言われるような人々の中には、いまだこの思想の暗示にかかっていおる人たちが多いようだ。私と同じ団塊の世代では、当時、ソ連や中国、北朝鮮、北ベトナム、カンボジアのポルポト政権などでと同じく、東側の思想が真理であり世界をユートピアにしていく考え方だと信じた人たちが多くいた事実が有る。日本でも左翼運動、学生運動が活発で大学教育を受けた人たちの中でゲバ棒を振り回して革命を訴えていた人たちは多い。私の飲み友達の中にもそのような活動経験が有るという人が数人いる。私自身は、高卒ですぐに銀行に入ったのでその洗礼は受けなかったが、私のすぐ上の姉の影響で同じ暗示を受けていたことが有る。姉は、大学の部落解放サークルなどで左翼運動に関わり今でも夫婦共に共産党員である。学力優秀で優しくもあり自慢の姉ではあったが、未だにその暗示から解けてはいない。以前は、会うたびに説得を試みたが、歴史認識や政治経済の問題で議論すると顔色が変わり、恐ろしい形相になるので、今は深くは切り込まないようにしている。姉にしても友人達にしても、その世界観、宗教観の所にふれなければ当たり前につきあえるのだから、最近は、そろっとクギを刺すぐらいにしている。そのように事なかれ主義でつきあうのも大事かもしれないけれど、最近、考えれば考えるほど、このマルクスの「宗教は大衆の麻薬である」という考えが及ぼしている悪影響を見過ごすことは出来ないと感じている。マルクスの思想には、虐げられた大衆救済というようなこととか色々と共感できるところも有るだろうが、論より証拠、かの東側諸国の凋落ぶりを見れば何らかの問題が有ることは分かるだろう。しかし、知識人と言われるような人たちは、その原因を深く考えることが苦手なようで、その思想は、未だ残っている。フラクタルの森で見れば、その社会が形作られる要素は次の通りである。宗教(思想)があり、その宗教をベースにした道徳があって、憲法や法律が作られ、社会が造られるというふうになっています。 宗教→道徳→規律→社会基礎にはその社会を担っている人たちの考え方(思想、宗教)があって、その土台の上に色んなものが乗っかってくるのです。東側の思想は、それなりの思想は有るのですが、眼に見える世界の事だけで思想を作り、目に見えない世界の認識を排除してきました。実存主義哲学の流れの延長線上で科学的でないものを否定することが知識人のように錯覚されていた背景も有るのでしょう。彼らは、その見えない世界を扱い民衆を扇動する宗教を麻薬として軽蔑してきました。麻薬ですから、覚醒剤、シャブやコカイン、大麻と同じです。そのような麻薬を常習としている人たちは、殺されたり、隔離されたり、刑務所に入れられ強制労働に従事させられてきたようです。思想の中で目に見えない世界の真実にまで踏み込んだ考え方を排除してきた結果は、歴史がその事実を刻んでいるのは周知の通りです。私自身も高校時代はその影響を知らずに受けていたのか、宗教を否定していました。神も否定していました。宗教に頼らなければまともに生きていけない人たちというレッテルを貼っていたようです。ですから、現代でも、宗教を信じ熱狂的に活動している人たちを見ると、カルト宗教のように見えてしまうのでしょう。周囲に迷惑さえかけなければ何を信仰してもかまわないが、押しつけたり、強要して伝道するようなら拒否し糾弾するような風潮になっていると思います。反面、視点を変えて考えてみると「宗教は麻薬である」という扱い方をしている人たち、そのような宗教教団が有ることも事実ではあります。確かに麻薬というか、麻酔薬も必要な局面も有るので全否定は出来ないのも事実です。しかし、そのように麻薬として扱っている宗教と、そうでないまともな宗教との違いは何でしょう。これはフラクタルの森に入れてみれば明白になります。宗教が存在するのは、これは何でもそうですが、何らかの成果が期待できるから存在しているのは真実でしょう。御利益ですね。 宗教(O・悟性)→御利益(AB・理性)この間をつないでいるものに違いが有るのです。思い(B・感性)と行い(A・知性)ですね。人生も、焼き物作りでも、全てがこの思いと行いの要素で出来上がっていることですが、宗教を麻薬的に使っている人たちは、ここが希薄になっています。その宗教を信じさえすれば、そして、言われるとおりに行動さえすれば御利益があり、幸福になれると信じるのです。鰯の頭も信心からと言ったレベルの場合が多いでしょう。言葉としてはその通りなのですが、深くないという事実が有ります。簡単に、安心、安寧、幸福、おかげを得るためであっても難しく考えたくないという所が人間には有ります。過去の宗教でも、キリスト教にしろ仏教にしろ、イスラム教にしろ、歴史を見ると次第に分かりやすく簡単になり一般大衆に受け入れられやすいように変化していきます。ですから、これらの宗教が純粋な形を残した状態で国家の宗教として受け入れられた地域では最高の繁栄を謳歌することが出来たのに、時代を下ると次第に見る影も無くなってしまいます。仏教でも、お釈迦さんや弟子達は木の下や洞窟の中でただ座って瞑想していた訳ではないのに、禅宗では無念無想で座る事しか言いません。本当は、瞑想する前に座して反省をしていました。苦集滅道の八正道ですが、フラクタルの森で言えば、次の4カ所のチェックになります。O・悟性 B・感性 A・知性 AB・理性見る(正見) 思う(正思) 行う(正語・正業・正命・正精進) 結果(正念・正定)これは仕方がないことなのかもしれませんが、布教、伝道して広がっていく時に、分かりやすく簡単になっていいかざるを得ないところがあります。しかし、時々、そこにつけ込んで私利私欲の為に宗教をねじ曲げて扱う人達も出てきます。ですから、本当は、思いと行いの所のチェックと修正が求められるのです。自己の意識改革と、それに伴った日々の生活の変革、修正です。とは言っても、その中身の差はとても分かりにくく難しいという現状は有ります。経済問題と同じく、結果主義になり利益さえ上げれば良いという考えになると言っても良いのですが、それであっても、社訓で社会貢献を上げてお為ごかしに利潤の追求のみに走っている企業が有るように、非常に難しい。そこで、とても良いキーワードが有ります。それは「正しき心の探究」という言葉です。私が今学んでいる宗教の資格要件の中に入っていますが、それは、「常に正しき心を探究する姿勢を有すること」となります。正しい心を維持していくことは無理でしょうから、その努力を続ける事という説明も加わります。この言葉を私は座右の銘として心に刻んでいます。そして、この言葉を次のように翻訳しています。「正しき心の探究」これは、陰(因)の所であり、先ほどの「思い」と「行い」の二つで考えても、最初の思いの所が大切なことは順番として分かります。みんな誰でも自分の思い、考えを正しいとして行い、言動を繰り返していますが、その正しさ同士がぶつかり合いせめぎ合っているのですから、この所を客観的に見る必要が有ります。客観的に見るとは、自と他との利害を離れて見ている人の立場で見ること。できるならば、仏神の視点ですね。仏神の視点から見た正しさを基準にしています。もちろん神、仏の思いがどこにあるのか分かるはずはありません。しかし、自分と他者は根っこは同じであり、つながっていて本当は一体のものであると信じています。同根であり一体、同じ船の乗組員であり運命共同体だと信じています。そして、私と意見や利害が対立する敵であっても、仏神は、両方とも我が子と認識されている存在だとも信じています。地球の反対にすんでいて何の関係も無いように見えている人たちも我が子と認識されている存在であり、宗教が違い対立し、いがみ合っているような立場同士であっても、共に我が子という認識をされている存在が本当の神であり、仏で有ろうと思います。仏神のお心、その思いの中に正しさを求めています。ですから、想定問答してみるのです。自分と意見の対立する人がいる。共に自説を正しいとしてケンカしているのだが、これを仏神が見ておられたらどう思われるだろう。まず、議論は良いとしても仲良くして欲しいと思うだろう。そして、それぞれの意見が、その場だけよければ良いという考えでないか、どれだけの時間範囲にまで考えているのかという事と、その事が、限られた範囲の人の事しか考えていないか、周囲のどれだけの人にとって良い形で影響を与えるのかという視点で見られるでしょう。どれだけの時間と空間の範囲にまで責任をとれるのかを見ておられるはずです。広い世界の中で見られているはずです。その事が推測可能です。地球という惑星全体に責任を持たれ、未来永劫まで責任を持たれている神々であるならどのように考えるであろうかとイメージしてみるのです。そうすると自他の意見の違いの整理がしだいについてきます。常に、この3点測量をするように心がけ、自と他と全体(仏神)の視点で物事を見るように努力していますと、全てがよく見えてきます。悩み苦しみの中にいる時は、自分のその世界、時間認識と空間認識が小さくなって、今、ここにいる自分の視点でしか物事を考えていないことに気が付きます。是非、悩み苦しみから解放されるためにも、この「正しき心の探究」という事を考えてみてください。使いごたえの有る言葉です。
2009.05.11
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