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焼酎にちなんだ「京都歴史逍遥」もはや8回目。今回はちょっと足を伸ばして、お隣の滋賀県草津市におじゃましました。近江の草津宿といえば、江戸時代、東海道と中仙道の分岐点として、交通の要所でした。京から東へ向かって出発した旅人のほとんどは、大津を越えて此処で一泊あるいは東海道なら石部宿で一泊しました。そんな草津の街は、現在は大学キャンパス、大企業の工場、住宅がどんどん建ち並び、新名神高速道路もつながってアクセスも便利になりました。京阪地域に通勤通学する多くの人びとのベッドタウンともなって、にぎやかです。しかし、街を実際歩いてみれば、今もかつての旧街道の街並みをところどころ感じられます。JR草津駅を出て南に歩くと、やがて国指定史跡「草津宿本陣」につきあたります。周囲には高塀や藪をめぐらしてあります。本陣とは、大名公家など貴人の宿泊所のことで、東海道・中山道の分岐点で交通の要衝であった草津には2軒ありました。現在は、1軒のみ残っていて、別名「木屋(きや)本陣」と呼ばれています。東海道筋では唯一ほぼ完全に残っている本陣です。 建物のほかにも、多数の関札、膨大な大福帳(宿帳)などの貴重な資料が残されています。なんと、大福帳には、忠臣蔵の吉良上野介や浅野内匠頭、皇女和宮、シーボルト、新撰組の土方歳三などの名前も見られます。草津市では、毎年「草津宿場まつり」が行われます。4月28日を前夜祭とし、29日に当日祭で「草津時代行列」が殿様行列が優雅に進みます。「草津宿かごかきレース」、物産展もあります。今年は和宮・篤姫・大名行列が絢爛を競うようですよ。さて。草津を訪れたおみやげはというと。滋賀県出身のお笑い芸人ムーディ勝山さんも子供の頃から親しんだという名物の「うばがもち」。そして、米どころである滋賀の日本酒とともに、米焼酎。江戸城を築いた太田道灌を御先祖にもつ、「太田酒造」の「無名不語(なもなくかたらず)」。その名の通り、あまり宣伝されていません。ですが、実に秋の黄金の穂波の風にたゆたう様を想像させる、お米の香が豊かな長期熟成三年貯蔵酒でした。※紹介しました商品が価格変更や売り切れとなっている可能性もございますのでご了承ください。
2008年04月26日
京都市内も桜色から次第に若葉色に変化する頃。4月21日~29日まで、壬生寺の境内では毎年「壬生狂言」が行われます。秋にも特別公開、2月にも節分会の2日間行われます。重要無形民俗文化財に指定されたこの狂言は、正式には「壬生大念仏狂言」と言います。とりわけ、29日の夜に演じされる夜の念仏狂言は、沈黙劇と篝火(かがりび)のコントラスト、観劇の人びとの声無き感動とあいまって、幽玄な趣に酔わせてくれます。この「壬生寺」といえば、風雲急を告げる幕末京の街を闊歩した新選組ともっとも所縁の深い寺として有名ですね。新選組が初期「壬生浪士組」と名乗った頃から、壬生寺の数百メートル北にある八木家(現在は和菓子屋さん)に寓していたことは、よく知られています。さて。この新選組を預かる母体となったのが、当時幕府の臨時職として京、朝廷の警固に派遣されていた京都守護職である会津藩でした。会津藩が岡崎の金戒光明寺を駐屯地としていたことは、また別の機会にお話させていただくこととして。会津若松のある福島県は米どころ。喜多方も会津も二本松も、それぞれ水質が違い、個性豊かなお酒を生み出しています。では、会津にいた一千の兵が京都にやってきて飲んだお酒って、どんなお酒だったのでしょう?会津侍は質実剛健。華美や豪奢ではなく勤勉を常とし、男気に溢れた人物が多かったといいます。そんな彼らが普段飲んだお酒の多くは、清酒ではなく「粕取り焼酎」が殆どだったようです。「カストリ」ときくと、戦後出回ったエチルアルコールを混ぜた粗悪品まであったような、あの焼酎のことをイメージする方も多いかもしれませんが、そうではありません。本来の「粕取り焼酎」とは、清酒の搾り粕(酒粕)を蒸留して造るものです。日本酒の「火落ち」(腐敗)防止の為に使用されたり、梅酒のベースに用いられることもありました。もともとは、冬の間に搾った酒粕を蒸留し「早苗饗(さなぶり)」という田植えの祭りに饗したので「さなぶり焼酎」とも呼ばれています。蒸留した後のさらに粕となったものは、田の肥料として使われていたようです。それがまた、酒の原料となるお米を生育させるのですから、かつての日本人のエコサイクル活動に脱帽ですね。今晩は「粕取り焼酎」で、その心を見習いたいです。※紹介しました商品が価格変更や売り切れとなっている可能性もございますのでご了承ください。
2008年04月21日
銀座というと、皆様「東京の銀座」をいちばんに思い浮かべるかもしれませんが、実は「銀座」は全国主要都市には存在しました。もとは「銀座」は、貨幣や度量衡に従う免許の必要なものを製造したところ、つまり役所の名前です。では、その「銀座」発祥の地は?これが京都・伏見なのです。関ヶ原の戦いの翌年(1601年)、徳川家康は洛南の地、伏見城下に貨幣鋳造所を設立しました。当初は堺の両替商、湯浅作兵衛に命じて取り仕切らせました。しかし、徳川幕府の中枢が移るに従い駿府にも銀座が設けられ、さらに数年後には銀座の機能は全て江戸と京の中心に移されました。伏見は以後、京と大坂をつなぐ水運の要衝として幕末、明治初期まで発展を保ちます。いまでも伏見には銀座町という地名が残され、「銀座跡」の石碑が建っています。かつて江戸前まで樽廻船で運んだ伏見の「下り酒」。その興隆をしのばせる酒蔵のひっそりした街並みに、「銀座」の名も遠くなったのを感じます。ふと見上げると、電柱の角材の穴をすずめが出入りしています。桜も終わると本格的なすずめの巣作りの季節。あちこちでなわばりを示す盛んな鳴き声が聞こえてきました。三十石船が行き交った川面を眺めつつ、伏見に集った酒飲みすずめを思い浮かべます。※紹介しました商品が価格変更や売り切れとなっている可能性もございますのでご了承ください。
2008年04月14日
桜爛漫の京都です。円山公園の枝垂れ桜はもちろん、清水寺を中心とする東山あたり、渡月橋から見る嵐山の山桜、少し遅れて咲く御室仁和寺の桜と、数々名所はありますが、やはり若い方々にも人気なのが銀閣寺周辺の「哲学の道」の桜でしょうか。そして、そこから南へ向かって南禅寺に程近い琵琶湖疎水を十石舟で桜見物しながら周遊、というのもオーソドックスなパターンです。場所は少し西へ戻りますが、この琵琶湖疎水沿いに白川通を横切る桜並木も美しいものです。さらに西へ今出川通を歩いて行くと、節分会で有名な吉田神社があります。この吉田神社を取り巻くように、今出川通を挟んで南北に、東大路通を挟んで東西に広がるのが、京都大学の広大なキャンパスです。この広大な敷地は、もともと何があったのかというと、江戸時代(幕末)には各藩の京都下屋敷がありました。京大本部は尾張徳川家の屋敷、農学部などは土佐山内屋敷です。このあたりを吉田村といい、吉田神社の社領や近衛家など公家の拝領地があったところです。もう、吉田村やその南の聖護院村は洛外だったわけです。江戸開幕後は、京都は幕府側の京都所司代によって治められていましたが、各藩は近畿の一部の公務にかかわる藩以外は京屋敷を持っていませんでした。今の企業でいうと、「地元本社に東京本社はあるけど、京都は出張所で所長と部下数名でいいか」というような扱いでした。ところが、幕末の京都が政治の中心地になっていくと各藩は、洛中(市内)に屋敷を持とうとするのですが、大藩ともなるとなかなか敷地がありません。そこで、出張所はそのままに、郊外に兵馬を管理するための大きな宿舎を作ったのです。それが、尾張家や山内家の下屋敷などです。ここに、かの坂本龍馬の盟友でもある中岡慎太郎の指揮する「陸援隊」本部が置かれました。陸援隊の隊員は、山内屋敷内に志士らを匿ったり、討幕の密談を行っていたようです。もしかしたら、龍馬もこの屋敷を訪れたかもしれません。奇しくも彼等は運命をともに、慶応3年11月15日、日本の夜明けを見ぬまま近江屋で刺客に襲われ斃れます。桜を愛でながら、そんな熱い志士たちに思いを馳せ、一献傾けてみたいものです。※紹介しました商品が価格変更や売り切れとなっている可能性もございますのでご了承ください。
2008年04月04日
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