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童話「雨上がりのにじ」は、私の中にあったリアルと、想像と、夢が一つになって出来上がった物語です。書こうと思った、キッカケは某童話賞への応募でしたが、そのずっと前から、このお話のベースが私の中にあり、それをいつか形にしたいと考えていました。そこで、童話賞に向けてその想いを形にしてみる事にし、出来上がったのが「雨上がりのにじ」でした。結局童話賞ではなんの結果も残せませんでしたが、私なりに、ずっと胸の中にあった想いを形にするという作業のキッカケをもらう事が出来て、よかったと思います。 私の中にあった想い。その一番目にあったものは、娘が小学校1年生の時に書いた、一遍の詩でした。「おかあさんがにゅういんした」 がくどうからかえったら、おかあさんがいなかったにゅういんしたんだなきそうになったおかあさんが、「おとうさんのおてつだいをしてね」といったことをおもいだしたポツポツとあめがふってきたので、せんたくものをかごにいれたがっこうのよういも、ひとりでやっただんだんげんきがでてきたおかあさんが「いいこね」っていってくれるかなこの詩は、その年の某市の小学生の詩集に選ばれて載りました。仕事とお姑さんの看病で私が倒れて入院してしまった時のことを、娘が詩に書いたものです。この詩をみて、私は泣きました。もっと、もっと普段から娘に「いいこね!」って、「頑張ったね!」って言ってあげればよかったなって。それから、何年も経っても、私は自分への自戒の念と、子供達からの思いを感じながら、時々この詩を読み返しています。この詩は、子供から私へもらった最高のプレゼントでした。そして、その最高のプレゼントに託された思いに応えたいと。童話という形で残そうと思ったのでした。 2番目には、私が幼い頃何度も読み返した、一冊の童話にありました。「大きい1年生と小さな2年生」(古田 足日著) 体格が大きいのに、いまいちしっかり出来ない泣き虫の1年生 まさやと、背が小さいにも関わらず、負けず嫌いで上級生の男の子とケンカをしても涙を見せない あきよ と、あきよの同級生でのんびりやの まりこが出てくる物語です。私も、あきよのように、クラスで一番ちびのくせに、負けん気が強くて、男の子とケンカしては泣かしていた、おてんばな女の子でした。そのせいか、この物語は、自分の姿を見ているようで思い入れがあったのだと思います。まさやは、あきよに手を引かれて学校へ通ううちに、あきよみたいにしっかりしなくちゃ!と思います。でも、どうしたら“しっかり”できるのかわかりません。そんなある日、あきよの大好きな花である、ホタルブクロの花を踏まれてしまったことで、あきよが見せた涙をみて、まさやはホタルブクロの花を一人で取りに行くことことにするのですが・・。物語のラスト近くに空に虹がかかります。私は、自分が大好きだったその物語の主人公達のいる場所と、虹の橋をはさんだこっち側に私の書く物語の場所を設定して、物語が同時進行しているような気持でこれを書きました。そうすることで、大好きだった物語の中に、自分も一緒に入れたような気がしていていたのかもしれません。そうして、私の物語に出てくるわが子の分身たちは、私が昔読んだ物語の主人公達と一緒に同じ虹を見上げるのです。 この物語は、童話として子ども達のために書いたというより、昔子どもだった私や大人たちのために書いたのかもしれません。
2004年07月31日
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先日友人が、子ども達にいつサンタは実在しないのだという話しをしたかと聞かれた。彼女には小学3年生の男の子がいる。その子の友達が遊びに来ていた時のこと。友人の子どもは、「サンタはいる」と言ったのだが、サンタなんかいないといわれてケンカになったらしい。友人の息子は、「ママはいるって言ってたもん」と主張しているのを聞いて、友人は心が痛んだという。そう言えば、私も小さい頃サンタがいると信じていて騒動を起こしたことがあった。確かあれは私が小学1年の時だった。クリスマスまで一週間余りのある日、サンタが入ってくるための煙突が我家にもあるか?と探したことがあったのだ。だが、唯一見つけた煙突は、風呂釜だった。これではサンタが焼け死んでしまう!そう思ってしまってからクリスマスイブまで間、私の勝手な取り越し苦労が始まった。誰に話す事が出来ないまま、一人で対策を練っていた。結局、クリスマスイブには、サンタが来る時間にお風呂に入らなければいいんだと、結論を出し実行した。しかしその夜、物音で目を覚ました私は驚いた。夜遅く帰宅した父がお風呂に入っていたのだ。それを見て、私は父がサンタを焼き殺してしまったと勘違いをした。ずっと私の心の中にあった心配が的中してしまったことや、サンタはもう居ないというショックなど、私の勝手な取り越し苦労は大きな泣き声になって出た。なんで泣いているのか理解できなかった両親も、切れ切れにわけを話す私の言葉を聞き、一所懸命私をなだめてくれたらしい。たぶん、サンタは実在しないのだという話しもその時聞いたのだと思う。我家の子ども達の時は、長女が小学2年生の時だった。娘が希望したおもちゃが、いつ手に入るのか目処が立たなかった。下の息子にだけ先に渡そうかとも考えたのだが。娘が、サンタが自分にだけプレゼントを持って来なかったと傷ついてしまっても困るということになり、夫が子ども達に打ち明ける事にした。サンタが居なくても、プレゼントはもらえると分かったせいか、子ども達の反応は結構あっさりしていた。当時保育園の息子は、「毎年いろんなデパートの包み紙だったから、変だと思ってたんだ」と言ってた。友人にその話しをすると、「うちもそろそろカナ~」と、ちょっと寂しげに言った。サンタクロースとは、4世紀頃の東ローマ帝国小アジアの主教、キリスト教の教父聖ニコラウスを起源としている。ある日ニコラウスは、貧しくて娘を嫁に出せない家があるのを知り、その家の窓に金貨を投げた。この金貨で娘は嫁に行くことができたという伝説が残されており「奇跡の奉仕者」とも呼ばれていた。この時、金貨が暖炉のそばに干してあった靴下に入ったことから、吊るした靴下にプレゼントを入れる風習ができたとされている。ニコラウスは、教会では聖人として列聖されているため、聖(セント)・ニコラウスと呼ばれ、これが北欧の訛りで、サンタクロースになったという。またあの赤い服も、司教服の色に由来し、コカ・コーラ社が宣伝に用いるために赤い服を着せたものが広まったのだ。だが、なぜ日本人はクリスマスに熱心なのだろう。特にサンタは、小さい子を持つほとんどの家庭では、実在することになっている。一つには、子どもにプレゼントをあげるという事に対して照れのような物を感じる日本人が、サンタという架空の人物からのプレゼントという事で、それをスムーズに行う事が出来たからかもしれない。それと、親が自分の子どもの、子どもらしさや純粋さを親が測る一つの目処に、サンタを利用しているような気がする。「ママが(パパが)そう言ったんだから」と親の言うことを信じる子どもの心を、サンタの存在を使って確認しているようにも見える。だが、サンタはプレゼントを運ぶ宅配屋でも便利屋でもない。そして、そんな事で子どもの本質を確認する事もないだろう。受け継がれるべきは、ニコラウスが持っていた気持ちの優しさである。サンタが物語の中だけの人になってしまっても。誰かが誰かのことを思い、その人の望む物やその人のためになにかをプレゼントする。サンタはそんな、優しい思いや心の中に居るのである。2003.12.24掲載
2004年07月30日
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先日、信じられないような事件が報道された。父親が、わずか生後4ヶ月の次女に、電極を当てたり、殴ったりしたというものだ。逮捕された父親は、「気がついたら次女が息をしていなかったので、応急処置をした」と答えたという。事件の真相はまだ明らかにはなっていないが。普通4ヶ月の乳児が息をしていなかったら、すぐに救急車を呼ぶだろう。いきなり電気ショックで応急処置をしようなどは、思い付かないと思う。しかし、この事件に限らず、毎日のように幼児虐待のニュースは流れてくる。最近、自分の子どもの愛し方を知らない若い親が多いのだという。まさか、そんな…。と思われる方も多いかもしれない。しかし現実に、確実にそういう人が増えているのだ。その事実を受けて、公共広告機構が「抱きしめる、という会話」というCMを流しているのをご存知だろうか?画面には、親子らしい女性と女の子の姿が映し出される。そして、「自分の子どもなのに、愛し方がわかない。まず、子どもを抱きしめてあげてください」というナレーションとともに、女性が女の子を抱きしめるというものだ。このCMは、公共広告機構の2003年から2004年にかけての全国キャンペーンとして流されているものである。公共広告機構が発行する、「ACリポート」の中で紹介されている記事には、「子ども達が親の愛情に見守られながらすくすくと育っていく。それが社会の基本です。しかし、今の日本は、育児放棄や幼児虐待など、親子の関係がとても危うくなっています。わが子とどう接すればいいのか分からない。そんな若い親たちも増えています。そこで、もっともシンプルな、けれど言葉以上に雄弁なコミュニケーションとして「抱っこ」を取り上げました。「抱きしめる」という、誰にでも出きる愛情行為を通して、親世代の子育てに対する意識を喚起していくのです。」とある。このCMの製作者である博報堂の島崎氏がこのCMを作るにあたっての思いがも、ACリポートの中に綴られている。このCMを作ろうと思ったキッカケは、島崎氏の手元にあった一枚の新聞記事切りぬきだったらしい。そこには“抱きしめる~すべてを包み込む愛”とかかれていた。島崎氏は、親子の問題に限らず、公共マナーや、日本・日本人なども含めた大きな視点で、このテーマをCMとして打ち出すことにしたのだという。今、目の前で起こっている、現実の事件は想像を超え、あまりにも救いがない。だからこそ、今の日本には「抱きしめる、という会話。」のような原点帰りが必要だと思った。とコメントしている。私がはじめてこのCMを目にした時。まさしく、島崎氏の言うように、原点に気付かされたような気になり、胸の奥深い所でなにかがうずくような気持ちがした。母性本能という言葉がある。もし、この言葉のとおり母性が本能から来るものであるとしたら。頭の中で、どうやって子どもを愛したらいいか?と悩む前に、もっと原点での部分で、子どものぬくもりを感じ、子どもにぬくもりを伝えていくべきなのだ。そのためには、抱きしめるという行為は、とても自然な行為だと思う。頭よりも、もっと本能に近い体や肌で感じて行くことからはじめて行くことが、とても大事なことだと思う。前述の父親に、なにか虐待のような事実があったとしても、ぐったりとした子どもの姿を見た時に、応急処置で子どもを蘇らせるというような、自分のしてしまった行為の後始末のための行動ではなく。思わずかけよって抱きしめる、という行為をして欲しかった。もしかしたら、そのことによって、その父親も、我が子の命のぬくもりを、感じられたかもしれない。そして、もっと違う行動を起こすことができたかもしれないのだ。抱きしめること。それがやがて、愛しいと思う気持ちに変わる日がきっと来る。もし今、子どもの愛し方で悩んでいる人がいるのなら、勇気をだして一歩を踏み出し、まず抱きしめて、体や肌で子ども達のぬくもりを感じて欲しいと思う。2003.12.15掲載
2004年07月29日
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先日、私立中学の説明会に行った友人と話す機会があった。友人が行ったのは、すべり止めといわれる中堅の私立の女子校である。まず、学校の施設が充実していることに驚いた。その次に、学校の勉強だけでも、センター試験の8割は行ける。という校長の言葉にも驚いた。中高一貫教育と言うことで、高校2年生までには、高校までの教育課程を終えてしまい、高校3年生は、受験勉強に専念出来るようにカリキュラムを組んであると言う。これは、私達が中学生のころにも、私立の学校では良く言われていたことだが。東大などの合格率が何位と言われるような学校ではなく、一地方の女子高の校長先生から出た言葉であるというところに驚きを隠せなかった。そのためには、現在一般的に使われている教科書では、教材として不足なので、各教科において、独自の教材を作成して授業に使っているのだと言う。また、中学のうちから、放課後や夏休みなどの長期休暇に、補習授業も行なっているという。つまり、予備校に通わなくても、大学受験まで学校で面倒を見るシステムになっているというのだ。私は、彼女の話しを聞きながら、少し前の読売新聞の投稿欄に掲載された、女子高校生の投稿を思い出していた。彼女は現在公立高校に通いながら、大学受験のために勉強をしている。しかし、ゆとり教育の導入で、学校の授業では、教科書が最後まで終わらないこともしばしばあり、行事以外は土曜日も休みなので、自分で勉強しなくてはならない。しかし、私立高校に通う人達は、土曜日も授業があり基本的に学校で教えてもらえることが多いので、有利だという。公立高校でも、受験用のシステムを導入してもらえないのだろうか。という訴えだった。私はこれを読んで、高校とは予備校の代わりに通うところではないのではないか、と思ったのだが。説明会ではっきりと明言する学校がある程、現実には高校が予備校化してきているのだと実感した。確かに、これから少子化が加速する時代を迎えて、いかに生徒を確保していくか、と言うことは、私立の学校にすれば経営上絶対にクリアしなければならない問題であるだろう。それには、生徒やその保護者が望むように、高校を予備校化して、一人でも多くの卒業生を、国公立や有名大学に合格させることが必須であるのかも知れない。逆に言えば、そのために高い授業料を払って私立の学校に行かせるのかもしれない。だが、高校は大学の予備校として存在するのではないはずであり、それを全面に打ち出してしまうこともあまり良いこととは言えないのではないかと思う。ゆとり教育を実施して、確かに小学生は夏休みの宿題が減り、土曜日も休みになり時間的なゆとりができたのかも知れない。しかし、中学の先生からは、小学校で基本的なことがきちんと学習できていないことからくる、子ども達の学力レベルの低下にはめに余るものがある、との声が上がっているのも事実だ。中学では、休みになった土曜日は、びっしりと部活動の予定が入っていることが多い。小学校での学力不足を補うためか、夏休みの宿題もかなりの量が出るところが多いい。しかも、公立中学では、殆どの子どもが高校受験をしなくてはならず、中学校に入ったとたんに、その現実を目の前につきつけられる。そのため、子ども達はそのギャップに振りまわされているように見える。ゆとり教育のゆとりとは、本当に子ども達にゆとりを与えているとは思えないのは、私だけでは無いだろう。長引く不況で、大学に進学しなくては、なかなか定職につくこともままならないという状況で、国公立ばかりではなく私立の多くの大学までセンター試験の結果によって合否を決めてしまっている現実がある。子ども達にゆとりを与えたいのだとしたら、一番上に漬物石のように重たくのしかかっている、大学受験や高校受験の方法を根本から見なおすことの方が先ではないのだろうか。2003.12.8掲載
2004年07月28日
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最近、幼児虐待によって子ども達が命を落としてしまったというニュースをよく耳にする。特に先日は、母親だけではなくその子の祖母までもが虐待を加えていたという報道まであり、これには本当に驚いた。私は、この幼児虐待という言葉を聞くと、ある少女の事を思い出す。その少女と会ったのは、もう20年以上も前の事だった。その頃私は学生で、ある団体に所属していた。その団体は、ボランティア年に数回で養護施設を訪問し、様々な由で親と一緒に暮らすことができなくなってしまった子ども達に、手作りの紙芝居を見せたり、一緒に遊んだりしていた。その少女に始めて出会ったのは、冬の初めの丁度今ぐらいの季節だった。私達は、クリスマスにちなんだ話の手作り紙芝居を上演し、その後で子ども達と一緒に色画用紙に折り紙を貼りつけてクリスマスの飾り作りを企画した。そして当日、集会室で紙芝居を上演している時の事。私は、誰かが入口からそっと覗きこんでいるのに気がついた。紙芝居が始まってしまって、入りづらいのかな?と思った私が廊下に出てみると、5~6歳くらいの少女が立っていた。少女は、大きな目で上目遣いにじっと私を見ていたのだが、私が近づいていくと、おびえたような顔をしてズリズリと後ずさりをした。良くみると、片手で妹らしい子の手を握り締めていた。そして、その少女の上唇の上には、くっきりと紫色の筋がついていた。後ずさりをした彼女は、その筋の上に下唇を重ねてかみ締めて、グッとあごを引いてさらに上目遣いで私のことを見て来た。慣れない人がいきなり近づいて来て恐かったのだろう。そう思った私は、部屋に引き返して、見本用に作って来たクリスマスの飾りを2つ持ってまた、廊下に出た。少女は、またドアから中の様子を覗き込もうとしているところだった。彼女は、私が差し出した飾りを見てまた後ずさりをしたが、妹の方が手を出してきたので、私は「後でこういうのを作るから、良かったら作りにおいでね」と言った。彼女は慌てて、妹の手を引きを自分の後ろに隠すようにした。私は、彼女が抱えていた熊の人形に持たせるようにしてその飾りを渡した「クマちゃんが欲しいって言うから、これはこの子に上げるから、あなたも後で作りに来てね」するとまた、彼女は後ずさりをし、妹の手を引いてどこかへ去ってしまった。紙芝居が終わり、飾り作りが始まってしばらくしてから、彼女は施設の職員さんと一緒に部屋に現れ、飾りを作る輪に加わっていた。他の職員の方が、彼女達が母親から虐待を受けていて、ここに来たばかりなのだということを教えてくれた。あんな小さな体で、ずっと妹のことをかばいながら過ごして来たのだろう。彼女はあの大きな目でなにを見て来たのだろうか? 辛い思いをしながら、ずっとずっと上唇をかみ締めて耐えて来たのだろう。そう思っただけで、私は切なくて涙があふれて来そうだった。飾り作りも盛況のうちに終わり、私達が後片づけを終えて帰ろうと思った時。施設の子ども達や職員の方々が、玄関まで見送りに出てくれた。その中に、あの少女の姿があった。すると、職員の人に付き添われてその彼女が私の前に歩いて来た。そして、なんと、自分でさっき作った飾りを、私に向って差し出して来た。「あなたにもらって欲しいそうです」職員の方が、ニッコリ笑って私にそう言った。多分、私が上げた飾りの代わりのつもりなのだろう。私は、最初驚いて声が出ず、彼女の前にしゃがみこんで、彼女を抱きしめて「ありがとう」と言うのがやっとだった。すると彼女は、コックリと頷いてくれた。その時、上唇はかみ締めてはいなかった。翌年私は、卒業して就職してしまい、その団体も辞めてしまったので、それから彼女に会うことはなかった。あれから、彼女に優しく平穏な日々が訪れていることを、陰ながら願うしだけだった。親からの虐待によって命をおとしてしまった子は元より、虐待を受け心に傷を負ってしまった子もまた切ない。彼女のような子どもが、これからさき現れることが無いように、心から願わずにはいられない。2003.12.01掲載
2004年07月27日
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私は今、年甲斐もなく、子どもと一緒になってあるアニメに嵌っている。そのアニメは「NARUTO」である。ご存知無い方もいらっしゃると思うので説明すると。これは、今も週間ジャンプで連載が続いている少年マンガをアニメ化したものである。架空の国の忍者の里に生まれたナルト少年は、いろいろ困難を乗り越えて一人前の忍者になって行くというストーリーだ。ナルトは、身寄りがいない。しかも、昔その国で大暴れした九尾のキツネの魂を、産まれたばかりの赤ん坊だった頃に、体の中に封印されてしまい、計り知れない力を体内に宿したまま成長していく、そのため事情を知っている大人達からは、忌み嫌われて育つ事になる。ナルト自体はその事を知らず、孤独な幼児期を過ごしてしまう。しかし、その忍者学校で優しく接してくれる恩師や仲間に出会い、少しづつ成長していきながら、忍者としてもそして人間としても強くなっていく。なぜこんなにも、このマンガに嵌ってしまったのだろう?と自分なりに考えてると。ストーリー展開やキャラクターの設定がしっかりしているので面白い事に加え、そのアニメーションに使われている音楽も魅力的だと気がついた。架空の国ではあるが、忍者の話しという事からか、三味線や尺八、和太鼓などをロック調にアレンジしたものが使われている。そのせいか、バックに流れている音楽にも重厚感や渋さがあり、場面の臨場感などが際立って感じられる気がする。そしてなにより、そのナルトというキャラクターにとても魅力を感じるのだ。忍者学校には、元々生まれながらに素質を持ったものや、名門の家系産まれその技を持っている者などが沢山いる。そんな中で、器用でもなく、なにも持たないナルトは、忍者になるための学校では落ちこぼれていた。それでも、自分の力だけで戦っていくのだ。自分を信じ、自分の中に培ってきた力を信じながら。私は、そんなナルトに今の子ども達にはなかなか見る事のできない、辛抱強さや底力を感じる。少し前までは、日本人が一番得意としていたのが、この辛抱強さや底力であったはずである。だからこそ、あの戦後の焼け野原の中から瞬く間に復興をとげ、こんな小さな国でありながら、経済大国と呼ばれるようになったのだろう。まあ、経済大国になった事に関しては、そのやり方や、その他の摩擦などを考えると、いい事であるとは言い切れるものではない。しかし、その根底には、計り知れないパワーを感じざるを得ない。我家の子ども達も含めて言える事だが、今の子ども達にそれを要求する事はとても難しい。一向に出口の見えない不景気の中にありながらも、まだ日本は豊かな国である。その豊かさが、子ども達から、いや大人達からも、底力やそれを身につけるためのすべを奪い取ってしまったのだろうか?ナルトのように、自分の信じる道へまっしぐらに進む事のできる底力を、子ども達につけさせたい。そう願いながら、子ども達と一緒にナルトを応援している。2003.11.11 掲載
2004年07月26日
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先日、中学1年の娘と話しをしていて驚いた。娘の中学にも不登校の子が3人もいると言うのだ。中には小学校時代から、私も良く知っている子の名前まであった。「不登校になってしまった原因はなんなの?」と娘に聞いてみたが、クラスが違う事もあり、娘も詳細は知らないらしかった。今年8月、文科省が発表した学校基本調査速報によると、昨年度の「不登校」を理由とする長期欠席者数(年間30日以上)は13万1211人(前年度比7511人減)と発表された。1975年以来27年間増加し続けた不登校者数は、はじめて減少した。全児童数に占める割合も0・05ポイント減少の1・18%となった。文科省は減少に対し「熱心な取り組みが数字として現れた」と評価する一方「依然として憂慮すべき状況」と話した。減少傾向に向っているとは言うものの、依然とて13万人強もの不登校者がいる事を知って、その数の多さに驚いたのは私だけではないのではないだろう。娘とその話しをしながら、私はある少年のことを思い出していた。それは、今から約5年ほど前のことだった。私がインターネットをはじめたばかりの頃で、あるコミュニティサイトに登録していた。そのサイトでは、自分の日記を公開したり、同じ趣味を持つ人達と一緒にグループを作り、そこで掲示板を使って意見を交換したり、チャットと呼ばれる、インターネットの画面上で複数の人と話しができるシステムで会話を楽しんだりしていた。ある日、一人の青年がチャットで私に話しかけて来た。彼は自分のことを、大学生だと言っていた。同じ趣味を持っていたせいか、かなり年令差があるにも係わらずそれなりに会話ができていた。私が日記に、我家の子ども達との平凡だけどドタバタとして日常の育児の様子や、週末に外出した時のことなどを書いていた事もあり、その事について話すことも良くあった。そんな日が続いていた時、彼が私にメールをくれた。実は彼は、大学生ではなく不登校の高校生だったのだ。それからしばらくし、私と不登校少年のメールのやり取りやチャットでの会話が頻繁に行なわれるようになった。彼は私に、カミングアウトしたつもりだったらしいのだが私があまり驚かなかった事。事情を知ってからも、そのまま普通に接していた事もあったのか。少しづつ事情を話してくれた。彼は、高校受験に失敗してしまった。取り敢えず第2志望の学校に通学する事になったのだが、第1志望の学校に落ちたというショックと、入学した学校のレベルの低さに勉強をする気が起きなかったらしい。そのうち、楽勝だったはずの成績もガクンと落ちてしまった。その事をキッカケに、街の人達が皆、自分が第1志望の学校に落ちた事や、今通っている学校でも成績が悪いことなどを知っているような気がしてきて、表に出るのが恐くなってしまったらしい。夏休みを境に、彼は学校に行かなくなり、自室に引きこもる生活を送るようになってしまい、もう半年近く経つという事だった。私は彼の話しを、基本的になるべく受け入れて聞くようにしていた。彼は彼なりに、悩み必死に闘っているのが見えたからだ。彼と話し初めて約半年経った頃の事だった。彼から来たメールに「あなたの日記を読んでいるうちに、僕も表に出て見たくなりました」と一言書いてあった。そして「話しを聞いてくれてありがとう」と言う言葉で、そのメールは締めくくられていた。それから、彼はそのサイトには顔を出さなくなり、私にもメールが届く事は2度と無かった。彼なりに、自分で表に出るキッカケを見つけたのだろう。彼が胸を張って表を歩いている事を私は今でも陰ながら願っている。そして、娘の学校や全国にいる不登校になってしまった子ども達にも、なにかいいキッカケが訪れ、元の生活に戻って元気に青春時代を送る事ができるように、心のそこから願いたいと思う。2003.11.04 掲載
2004年07月25日
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「秋の日はつるべ落し」とは良く言ったもので、ここのところ日が暮れるのが早くなった。しかし、中学生の娘は相変わらず部活で帰りが6時を過ぎてしまう。中学生などを狙った通り魔事件などのニュースを良く耳にすることもあり、親としては心配な日々を送っていた。すると先日、いつもなら帰宅しているはずの時間を過ぎても、娘が帰って来なかった。結局娘の帰宅時間は30分近く遅くなった。理由を聞いてみると、学校の近くで不審者が確認されたので、部活で残っていた女子生徒は集団で下校するように言われたので、皆で順番にまわって一人づつ送りながら帰って来たのだという。我家は学区の中でも一番遠いところに位置しているので、娘の順番は最後になってしまったらしい。そんな事が数日続き、娘の帰宅時間は遅くなるばかり。最初は方面毎に集団で帰るように指示されたのだが、最後には校内に残っていた女子生徒全員で集団で下校するように言われたので、学校を出る時間も回り道の距離も長くなり、結果的に帰宅時間が遅くなってしまったのだという。やはり理由は「学校の近くで不審者が確認されたため」なのだという。しかし、そのことについて学校側から保護者へ説明などはなにも無かった。「不審者って?」と娘に聞いても、娘が実際に目撃したわけではなく、帰宅しようとしたら先生に止められて指示をされたので、それ以上の詳しい事情はわからないと言うのだった。それから数日後のことだった、息子の小学校から保護者宛てに手紙が届いた。「児童の安全に関するお知らせとお願い」と題されたその手紙には、先週娘の帰宅時間が遅くなった理由の詳細が書かれていた。どうやら、娘の中学の女子生徒が、校門のあたりで不審者に声を掛けられたり、後をつけられたという事があったらしい、しかもその後、その不審者が校門で生徒を待ち伏せするという事態まで起き、警察に連絡をして身柄を拘束してもらうという事件まがいのことまで起きていたのだという。小学校ではこの事態を受け、校門を開放したままにしないなどの安全策を強化したので協力して欲しいということと、子どもが一人で外出することを避けることや、帰宅時間を早めにするなどの措置を、家庭でも実施して欲しいというお願いだった。しかし、なぜこのような事件まがいのことが起きていながら、当事者である中学側からはなんの説明も無いのだろうか?もしそのようなことが起きているのなら、安全が確認されるまでは、部活などでの居残りを禁止するなどの措置が取れなかったのだろうか?日が暮れてしまってから生徒だけで集団下校をさせても、最後の子は暗い中一人で家に帰らなければならなくなる。もし、その最後の一人になった状態の時に事件が起きてしまったらどう責任を取るつもりなのだろうか?学校側に説明をして欲しいと申し入れをしたのだが、まだ返事はもらえていない。わが身は自分で守れと子どもに教えるしかないのだろうか?今回の事だけに限らないが、学校側の危機管理体制にはかなり問題があると思った。2003.10.30 掲載
2004年07月24日
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10月21日付けの読売新聞に、先月の27日に埼玉で開催された、読売・中公 女性フォーラムの記事が掲載されていた。今回の議題は「いまどきの実家論」。不況の影響などで若いカップルには共働きが増えてきている。その共働き世帯の多くが、子育て等に係わる課題を実家頼みで乗りきろうとしている。つまり、実家のおばあちゃんパワーを当てにして子育てしようというのだ。記事によると、結婚後、経済的に苦しいことがあれば実家を頼りにしていいか? という問いに対して、20-30代の36%の人が、「良いんじゃないの」と答えており、高齢世代の「頼るべきではない」という答えが多かったのと対照的であった。また、経済的だけではなく、実際に子育てをおばあちゃん任せにしている夫婦も多い。本来子育ては、夫婦が協力して行なうべきだが、不況などの影響で連日帰りの遅い夫を当てに出来ない分、専業主婦であっても親に頼ってしまうというケースも多い。実家での出産で、最初から母親と娘のチームによるパパ抜きの育児が始まることもあり、夫の影は薄くなるばかりだという指摘もあった。最近では、初からそれを計算にいれた上で親と同居する、いわゆる「マスオさん現象」も多く見られるようになった。世話を焼いている親世代には、現役で仕事をしている人や介護を抱えている人も多く、体力的にもそろそろ育児の現役をこなすには無理が出てきている。それでも、世話になっている子世帯からは「孫の躾に甘い」とか、「厳し過ぎる。干渉しすぎる」等の声や、逆に「やってやってる」と親に言われて嫌な思いをしている子世帯などのケースもある。それでも、20代で親を亡くしてしまった私には羨ましい話しだが、なぜそこまでして親は子どもの面倒を見ようとし、子どもの側も頼ろうとするのだろうか?数年前の事だが「パラサイト・シングル」という言葉が流行った。社会人になってからも親と同居し続け、結婚もせず。洗濯や掃除など身の回りの世話全てを親にしてもらっている人達の事である。「パラサイト」とは、寄生という意味で、成人してからも親に「寄生」して暮らす独身者達を総称している。社会人でも、食費も一切入れずに経済面で世話になっている場合も多くあった。これだけ聞くと、パラサイトしている子ども達の方だけに問題がありそうだが、実はそれを許している親の方にも問題がある。親離れできない子ども達と同じように、親も子離れが出来ておらず、子どもを自立させる事が出来ないのだ。昔とは違い、今は親世代に経済的な余裕がある。子どもが成人し社会人になったからといっても、親としては別に今までの暮らしと変わるわけでもなく、かえって親元に子どもがいてくれることが嬉しく、ずるずるとそのままにしてしまう。親もまた子どもに依存している。つまり、パラサイト・シングルは、親と子相互の依存によって発生するのだ。今回のフォーラムで論じられていた子世代は、このパラサイト・シングル世代にあたる。依存する事に慣れた子どもと依存される事に慣れた親の関係は、男女を問わず子世代の婚化・晩婚化を産む。そして、結婚後も老いた親に依存した形でしか生活を行なえないという事情から、出産人数の低下が起こる。つまり、少子化が進む事になる。確かに、先の見えない不況からなかなか脱出できないでいる日本経済の現状を考えると、親世帯から援助を受けなくては生活が成り立たない若年世帯もあるかも知れない。だからこそ、子育てをしている世代が背負い切れない負荷を親だけが負担するのではなく、社会全体で補うようなシステムの確立が必要であると思う。それと同時に、親と子の相互依存状態の解消を図っていくことも必須であると思う。2003.10.23 掲載
2004年07月23日
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私がその少女と出会ったのは、もう7年近く前のことだった。彼女は、娘が転入したさきの保育園のクラスメートだった。見るからに賢そうで、はっきりとした美しい顔立ち、運動神経が良さそうな軽やかな身のこなし。どれを取っても文句良いようが無いといったかわいい少女だったのだが、「こんにちは」といって笑った彼女の笑顔に、私は言い様のない陰があるのを感じていた。何やら、可愛く笑う彼女の後ろで、真っ黒い陰が「ニヤッ」と笑ったように感じたのだ。その予感は、それからしばらくして的中した。娘は、おっとりしてどん臭い所がある。田舎の幼稚園ではそれほど目立つ事はなかったのだが、転入先の都会の保育園では今までいないタイプで、珍しさからクラスの子が皆娘と遊んでくれた。だがそのことが、彼女の機嫌を損ねてしまった。彼女には、娘のことがうさんくさく感じたのだろう。ほど無く娘は彼女からいじめを受け始めた。最初は子ども同志のトラブルだからと見守っていたが、小学校に上がっても収まることは無かった。彼女の母親に言うべきか悩んだが、噂で却っていじめが水面下になり酷くなってしまったという話を聞き。彼女の母親に言ってもなにも解決は見ないだろうと容易に想像できた。そこで私は、娘の考え方を変える事にした。学校とは全く違う環境の友達を沢山作れるようにしたも。しかし、事はそう簡単には進むはずがなかった。娘と私の壮絶な闘いの日々は、娘が高学年になってもまだ続いていた。私は根気強く娘と話し合い、娘も一つ一つ解決していった。そんなある日、例の彼女と仲良しのA子と一緒に班を組んで社会科見学に行くことになった。その子も娘のいじめに荷担していた。心配した私が娘に事情を聞くと、娘は「A子ちゃんが私を嫌いなことは分かってる。A子ちゃんが嫌な顔をした時、他の子が嫌な気分になるでしょ?それが1番いやなんだけど、取り敢えずおもむろに嫌な顔するのだけは我慢してるから、私も気にしないことにしたの。だって、誰にでも好かれるなんて無理なことだもん。だから大丈夫だよ」といって笑った。娘は、いじめられることから、自分の気持ちを上手くそらすように上手く対処出来るように成長していた。そしていつの間にか、いじめも消滅していった。そして昨日、久しぶりに例の彼女の話しを聞く機会があった。彼女にいじめられていた子は何人もいて、大概の場合彼女の母親に話してもなんの解決も見なかったらしい。担任の先生に相談しても、彼女は成績の良い生徒で問題はないと取り合ってもらえなかった人もいた。その場にいた皆が、自分だけではなかったことを知って驚いていた。その話しを聞いていた私は、長崎の12歳の少年を思い出した。彼には発育障害があり、なにか起こるといきなり切れてしまうことも多々合ったという。そのことについて、母親だけではなく、先生や地域の人も皆感じていたのだが、彼の成績が良かった事もあり、それぞれが疑問を抱きながら断片的な情報を持ち、それを持ち寄ることが無かったために、彼の異常性についてしっかりと認識できなかったのだ。彼女場合は、それほどの異常性を持っている訳ではなく大事には至らなかったが、一歩間違っていたらなにか事件が起きていたかもしれない。他人のうちのお子さんについてあれこれ言うのは気が引けるが、勇気を持って誰かに相談するなど情報交換やアクションを起さなければいけないのかもしれない。これからは、親だけではなく地域で子ども達を見つめる目を大事にしていく必要があると実感した出来事だった。2003.10.16 掲載
2004年07月22日
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「子ども達の睡眠時間」先日、中学1年の娘が帰宅するなり私にこう言った。「今日ね、学校で笑われちゃった」話を聞いてみると、もうすぐ始まる中間テストの勉強について友人と話していた時、いつも何時に寝るかという話しになったのだという。娘が「10時に寝る」と答えると皆が「赤ちゃんみたい」と言って笑ったのだそうだ。娘が、皆は何時に寝るのかと聞いてみると、殆どの子が12時か1時と答えたという。我家では、子どもの就寝時刻は10時を目安にしている。しかし、これもつい最近まではもっと早い時間だった。小さい子どもの睡眠時間は、9~10時間位が良いといわれている。9時に寝かせて6時半に起床すれば、約9時間半の睡眠時間が取れることになる。しかし、我家で9時に寝かせていたのはもっと単純な理由から、その時間に寝ないと朝起きられないからだ。昨年まで私はフルタイムで働いていた。子ども達を送り出してからすぐに私も出勤しなければならないという生活をしていたのだ。そのため朝いつまでグズグズ寝ていられると困るので、6時半に起こしてすぐに起きられるように早く寝かせるようにしていたのだ。就寝時間を1時間遅くしてくれと言い出したのは、子どもからだった。見たいドラマや映画などが9時には終わらないことも多いので、延ばして欲しいと言い出したのだった。最近は、朝自分で起きるようになっていたことや、娘が中学に上がった事もあり、今年の4月から延長したばかりだ。しかし、9時に寝るという生活習慣が出来てしまっているせいか。楽しみにしていたドラマが始まる前に、眠くて寝てしまうことも良くある。他の子達は、12時過ぎに寝て朝起きられるものなのだろうか?と疑問に思った。そこで、知り合いに就寝時間について聞いてみると、小学校の高学年でも、12時過ぎに寝るらしい。その時間まで勉強しているという子もいたが、殆ど子はテレビを見たりゲームをして起きているらしい。「らしい」、というのは、多くの子が自分の部屋で寝ていて、部屋にテレビやゲームが置いてあるのではっきりとは分からないというのだ。そして、朝起きなくて困るという声も多く聞かれた。大人になると、睡眠時間に個人差が出てくるようになり、必ずしも8時間寝るのが良いとも言えないようだが、やはり子どもの場合は心身の成長のために9~10時間は必要だ。しかし、厚生労働省の調査によると、中学・高校生の3割は睡眠時間が6時間に満たないのだという。受験などを控え、学年が上がるほどこの傾向が強くなる。そして、多くの子が、昼間も眠気感じていた。なかなか寝付けないとか、寝た気がしないなどの睡眠障害を抱えた子も多かった。注目すべき点は、昼間眠気を感じると答えた子の多くが、「落ち込んだり希望をなくしたりすることがある」と答えている事だ。大人でも眠れないことが続けば、集中力が落ちたりイライラしたりする。気力が無くなるのも分かる気がする。しかし、この遅寝の子ども達がうまれるには、それなりの原因があるのだ。それは、小さい頃からの生活習慣である。親が遅くまで起きている家庭では、往々にして子どもも親につられて遅くまで起きていることが多いという。ある程度の生活習慣が身につくまでは、親が子どもの生活リズムに合わせるようにする必要があるのではないだろうか?秋の夜長、眠りや睡眠時間について見直してみるのも良いと思う。2003.10.9 掲載
2004年07月21日
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近頃、同じサークルで活動している仲間の一人の元気がない。なんでもない風に装っているが、どことなく悩んでいるのが感じられた。私は、お節介かな?とも思いつつ、彼女に話しを聞いてみた。すると、旦那さんのことで悩んでいるのだという。彼女の旦那さんは、高校の先生をしている。彼女曰く、その旦那さんから日々小言を言われるのが苦痛なのだという。家事や育児の事に関して、かなり細かいところまでチェックが入り、その事についてかなり色々といわれるらしいのだ。しかし、彼女は、社会的常識を持っており、きちんと自分の意見を持ち、行動力もあり明るい人なのだ。私がサークルで一緒に活動していても、テキパキと仕事を進めていく彼女に、そんなに毎日小言を言われるほどの落ち度があるようには見えなかった。最初は話しにくそうにしていた彼女だが、私がウンウンと聞いているうちに少しづつ、どんなことを言われるのか、細かいことを話してくれた。行動力のある彼女は、学校でも色々な役員をやったり、サークルの活動にも積極的に参加したりと忙しい日々を送っている。決して家事をなおざりにいしている訳ではないのだが、日によっては帰りが少し遅くなってしまう日もある。すると、それだけでもだんなさんに小言をもらうのだ。確かに、一家を預かる主婦の立場で、夕食に支障が出てしまうような時間に帰宅するのはいけないことなのかも知れない。しかし、たまに夕飯がほんの少し遅れる程度のことなのだからいいではないか?と反論したくなるのも道理である。しかし、彼女のだんなさんは高校の先生である。理詰めでいろいろ迫られ、彼女に反論の余地は残されないのだという。彼女は、だんなさんに責められるたびに心に傷を追う。しかしその事すらも、精神的に弱く、甘えている証拠で、おまえが悪いのだ」と言われるらしい。私は彼女に「それって、DV(ドメスティックバイオレンス)じゃない?」と言った。DVとは家庭内で行なわれる暴力のことで、大概の場合、夫から妻への身体的暴力をさす事が多い。先に制定された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(DV防止法)」でも、婚姻関係の有無を問わず、パートナーから身体的暴力を振るわれている場合に限り、被害者を保護救済することを目的にしている。しかし実際には、言葉などの精神的暴力を振るわれているケースはかなり多いのだ。DVではないか?という私の問いに対して、彼女ははっとして黙ってしまった。DVの特徴としてまず「緊張期」がある。加害者は暴力などの自分の行為を完全には肯定していないところがあるのだが、被害者は暴力を振るわれないために、相手を刺激しないようにする時期のことそう呼ぶのだ。それから、何かのキッカケでその緊張が崩れた「激しい暴力」が起こる。しかし、暴力を振るった後に加害者の態度は一変し、暴力を振るった事への後悔とパートナーへ謝罪の言葉をもって、優しく接する「ハネムーン期」とばれる時期が訪れる。これはDVには、根底に「暴力で相手を支配する」という欲望があり、支配する相手に逃げられては困るという本能がそうさせるので、その加害者の心からの言葉ではないのだ。そうして、被害者がまた加害者からの暴力が再発することを恐れて、緊張する「緊張期」に入るという具合に、状態が循環していくのだ。その循環の中で、繰り返される暴力と、さげすみの言葉に、自信を無くした被害者は、「私が悪いので、暴力を振るわれても仕方が無い」という思いを抱くようになる。暴力が行なわれるのが家庭なので、問題が発覚するのが遅れたり、加害者はもちろん被害者でさえも、自分が陥ってる状況がDVだとは気がついていないことも多く、それを目の当たりにする子ども達への影響も心配されている。彼女のケースはまさしくそのものだったのだ。今、DVに関しての相談窓口が色々なところに設置されている。もし、彼女のように一人で悩み傷ついている人がいるとしたら、少しでも早い時期に相談に行くことをお薦めする。そして世の男性達も、もしかしたら加害者になっている可能性があることを知って欲しい。2003.10.4 掲載
2004年07月20日
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今年公立中学に入った娘は、吹奏楽部に入部した。娘の中学の吹奏楽部は、毎年のように市や県の代表になっていた。それだけに練習もキツイ。娘は、1学期中も夏休みも、土日も殆ど休み無く、毎日朝からお弁当を持って部活へ出掛けていた。そんな忙しい日が続いた夏休みのある日、娘が私に「2000円頂戴」と言ってきた。何に使うのか聞いてみたところ、翌日開催される吹奏楽の市大会に出場するに当たっての入場料とパンフレット代だという。市の教育委員会や吹奏楽連盟が主催する大会に、市立の学校が出場するのだが、その出場者の生徒からも入場料を取るというのだ。その金額が合わせて約2000円なのだった。公的な大会で、市内の小学校から社会人までが出場するのだが、参加人数はかなりの数に上るはずである。その人達から、子ども1200円大人2000円の入場料を取るという。大会の全ての出場者が演奏し終わった後に、表彰式が行なわれるのだが、入場料を払って客席に入らないと、表彰式までいるところがないのだ。まあ、他の学校の演奏を勉強のために聴くという意味合いもあるようだった。お金のことで細かいことを言うのは嫌だが、それでも公的な大会で1200円もの入場料を取ることはいかがなものだろうかと思った。そしてその日の夜、帰って来た娘が持って来たパンフレットを見て、飽きれてしまった。全市の団体が出場する大会は数日にかけて行なわれるのだが、その全ての日程の学校の名前と演奏曲目などを印刷しただけのものだったのだ。しかも、同じ県内の違う会場で開かれている、他の市大会の分まで全て載っていた。なぜこれを500円も出して購入しなくてはいけないのか?まったく意味がわからなかった。パンフレットには、協賛の団体や楽器メーカーの広告も載っていた。アマチュアの大会の入場料やパンフレット代に、映画などの興業など以上の値段を出さなければならないのだろうか?公的な大会で、収益事業なのだろうか?会場代くらいしかかからないはずだ。その日出場する人数に単純に、入場料をかけて算出すると1日で120万円にもなった。これはもう完全に収益事業として行なっているとしか考えられない。しかも、県大会や地方大会でも同じ事が起こった。確かに私立の学校も参加はしているが、青少年育成のための大会である。なにか市からの援助などがあるのではないか?疑問は頭から離れなかった。この話しをクラスメートのお母さんにすると。サッカー部でも同じようなことがあるのだと逆にこぼされてしまった。中学の名前入りのジャージをお揃いで購入させられたのだが、その金額が5万円なのだという。中学の名前が入っているので、学校側で備品として揃えて貸し出せば済むことだと思うのだが、なぜ購入しなくてはいけないのだろう。このご時世でも、教育に関連した事柄になら親はホイホイお金を出すと思っているのだろうか?それとも、貧乏人の子は部活をやる資格がないということなのだろうか?なんとも後味の悪い思いを残した、夏休みの出来事だった。2003.9.27掲載
2004年07月19日
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先日、娘の中学で体育祭が行なわれた。その日は、朝から雲一つ無い快晴で、体育祭が始まる時間には、すでにかなり気温がかなり高くなっていた。小学校からするとかなり広い中学校の校庭には殆ど日陰の部分が無かった。一周200mのトラックを囲んで、本部席や保護者用の観覧席などが配置されていたが、校舎の反対側に配置された生徒用の応援席は、陽射しをさえぎってくれるものは何もなく、特に暑そうに見えた。体育祭が始まり改めてプログラムに目を通して驚いた。準備体操や応援合戦なども含めた全17プログラムの内、実に7プログラムが徒競走やリレーなどの「走る」競技で構成されていたのだ。まさに炎天下といえるこの気候の中では、いかに元気な中学生と言えども体力的にキツイのではないかと、容易に察しがついた。だが、実際にリレーが始まってみて、私は更に驚いた。徒競走などは、トラックを半周分の100mで争われるのだが、一人リレーに関しては200mを走り、なんとアンカーに至っては1周半走るのだ。つまり300mを全力疾走することになる。大人顔負けの体格と体力で走る子ども達は、驚くほど足の早い子ばかりだった。しかし、さすがに一周を過ぎて最後のコーナーに差し掛かったあたりで、疲れが来るのだろう。皆その辺りでガクンとペースが落ちる。残りの数十mはかなり辛そうで、歩いているようなペースに落ちてしまう子が何人もいた。しかし、それも抜き抜かれつの競り合いになると様子が変わってくる。走ることに集中しているので、ペースが余り落ちないのだ。レースとしては、その方が盛りあがり面白いのかも知れないが、私はあまりにも無茶なのではないか?とハラハラしながら見守っていた。すると、予感は当たってしまった。組対抗リレーのアンカーの選手が、ゴール直前で倒れ込んでしまったのだ。何かに躓いて転倒したのではない、余りに頑張って走りすぎて、貧血を起こして倒れ込んでしまったのだ。遠目で見た感じでは、意識が無いように見えた。しかし、競技中だからだろうか?先生も誰もその生徒に駆け寄ろうとはしなかった。2位を競り合っていた彼は、倒れているうちに、かなり離していた後続のチームに抜かれてしまったが、起き上がることができなかった。半周以上離していた、最後のチームがゴールした頃ようやく意識を取り戻し、フラフラと起きあがって歩きだし、倒れ込むようにしてゴールした。私はその一部始終を見ていて、あんなにまでして走らせる必要があるのだろうか?と思った。いくら普段は体力が自慢の生徒だとしても、緊急事態が起こらない保障はない。せめて、倒れ込んでしまった時に先生が駆けよって、本人の状態を確かめるくらいのことはしてもいいのではないだろうか?その日の夕方、各地の高校などの体育祭で熱中症で沢山の生徒が倒れたというニュースが流れた。私は、昼間娘の体育祭で見た光景が重なって、背筋が寒くなる気がした。学校側が生徒の体力を過信しているのか、当日の状況判断がきちんとできないのか、いずれにしても、もう少し学校側に配慮があるべきだろうと私は思う。2003.9.22掲載
2004年07月18日
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新学期に入り、子ども達の学校では授業参観が開かれた。もう30年くらい前のことになるが、私が小学生の頃の授業参観といえば、普段より少しめかし込んだ母親達が教室の後や廊下に並び、いつもよりかなり緊張して張り詰めた空気が流れる教室で行なわれる授業を見るという感じだったと思う。しかし、最近の授業参観は少し様子が違う。 私が子どもの頃は、参観が行なわれる授業の殆どが国語や算数など主要教科だったが、今の子ども達の学校では、音楽や体育など幅広い教科で行なわれている。そして今日、私は小学5年生の息子の授業参観に行って来た。 今回は体育で、プールで行なう水泳大会を参観するのだという。水泳大会と言うので、25mづつ泳ぐところを見せられるのかと思っていたら、前日にプログラムが配られた。水球や、宝拾い(プールの底に沈んだ宝を潜って拾ってくる)あり、25mリレーありと、泳ぎの技術だけを競うのではなく泳ぎが得意でない子どもにも配慮されたプログラムになっていた。子ども達は自分で出たい種目に出場し、進行役も順番にこなしていた。中でも一番目を引いたのは、「シンクロナイズドスイミング」。映画やTVドラマで人気の「ウォーターボーイズ」の影響で、子ども達の間でシンクロが大人気なのだ。 毎週楽しみにそのドラマを見ていた息子もシンクロに参加していて、一週間ほど前から家でも振り付けの練習をしていた。自分たちで振りつけや構成を考えたのだというわりには、ドラマのものをそのまま使っている部分も多く見られたので、どうなる事やらと思っていたのだが。実際に目の前で始まると、ドラマさながらみずしぶきを上げて行なわれる演技の迫力に、くぎ付けになってしまった。 参観している父兄の間から、自然と「シンクロ!」チャッチャッチャッと掛け声と手拍子が起こる。子ども達は、音楽に合わせて順番にジャンプをしたり、直線から円へとフォーメーションを変えながら泳いだりしていた。中には、あまり泳ぎが得意ではないのか、時々足をついて立って息継ぎをしている子もいる。それでも皆、一生懸命気持ちを一つに合わせて頑張っているのが良くわかる。 最後に、2人一組で肩車をして円を作り、中央の子だけが下の子の肩に立ちあがってポーズを取って終わった。大きな拍手が子ども達を包んでいた。親ばかかもしれないが、たった一週間の練習でここまで出来るのかと思うほど、見事な出来映えだった。なにより、演技を終えてプールから上がってきた子ども達の顔が、ドラマのラストシーンと同じようにキラキラと輝き、やり終えたという達成感と自信に満ちていたのが印象的だった。 本来授業参観とは、学校での子どもの様子を親に知ってもらうためのだと思う。しかし、私の子どもの頃のような形式のものばかりでは、普段の様子が出るはずはない。それに比べ、今回の水泳大会は、授業参観の形態としてはあまり類を見ないものだが、子ども達の自然な姿や、一生懸命なにかに取組む姿を見ることが出来て、親の立場からすると、とても良い試みだと思う。それと同時に、少しづつでも変わりつつある学校教育の形を見せてもらったような気がした。2003.9.18 掲載
2004年07月17日
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子どもは、なにか分からない事があると「あれはなに?」とか、「どうして?」と聞いてくる。我家の小学5年生になった息子も、度ある毎に色々と聞いてくる。私もなんでも知っているわけではないので、時々答えるのが面倒な事もあるのだが、分からないことは出来るだけインターネットなどで調べて、それを息子にも理解できるように説明しながら、答えるようにして来た。 息子の最近の関心は、「北朝鮮」について。六カ国協議が行われたり、万景峰号の入稿騒ぎあったりと近頃多く報道されているので、息子なりに気になるのだろう。しかし、北朝鮮の動向に対して関心を持っているのは息子だけではないらしい。 これは今年の春の事だが、北朝鮮がテポドンなどのミサイルを日本に向けて発射するのではないか、という報道がなされた時。息子は帰宅するなり私のところに飛んで来て、「ねえねえ、オレ達、あと3日で死んじゃうんでしょ?」と聞いて来たことがあった。息子の小学校で、ミサイルが打ちこまれるので、後3日で皆死んでしまうんだ」という噂が流れていたのだ。きっと、ミサイルに関しての報道を見た大人が、子ども達の誰かに「ミサイルが~…」の話しをしたのだろう。それを学校で言ったらしいのだ。 息子の不安そうな顔を見た時、私は一瞬答えに詰まってしまった。こんな小さな子ども達までもがそんな噂をするようになってしまった事に、驚きを隠せなかったのだ。それと同時に、子ども達の1番身近にいる大人として、無責任なことは言えないと実感した事柄でもあった。事実、私はつい最近まで万景峰号が行き来していることを知らなかった。なぜなら、学校で日本と北朝鮮は国交を断絶していると教えられていたので、まさか不定期にしろ貨客船が行き来しているとは思っていなかったからだ。 万景峰号は、当初在日朝鮮人の帰国事業のために建造された。いまは在日朝鮮人の祖国訪問や修学旅行、帰国した家族への物資の輸送に利用されている。しかし、ご存知のように、現在は様々な疑惑が浮上し、正常に航海するために必要な機器の整備不良などの指摘もあり、入港拒否などが起こり話題に上った。しかし、これらのことを全て踏まえなくては息子の疑問に答えることは出来ず、当然「なぜ日本に北朝鮮の人達が暮らしているのか」という事まで遡って説明する必要も出てくる。 忙しく日常を送っていると、「あれ?」と思う事柄があっても、聞き流してしまったり、何度もその言葉を聞いているうちに、意味が分かったような気になってしまう事が多い。だが、そうしてうやむやにしてしまう事が、結果的に子ども達に無責任なことを伝えてしまう事になってしまう気がしたので、出来るだけきちんと調べて、自分でも確認しながら、息子に説明をしていった。 北朝鮮の問題は、調べてみても、まだ原因が解明されていなかったり、きちんと答えが出ていない事柄も多く、北朝鮮という国の動向も読めないことから、子どもにどう説明したら良いのか随分悩む事も多かった。しかし、それはそれで子ども達にありのままを伝え、善悪だけでは判断できない部分も出来るだけ理解してもらえるように努力した。しかし、そうして行くことで私自身もかなり色々な事を再確認した。 しかし、現在報道されているニュースの大半は「どうやって子どもに説明したら良いだろう?」と悩むような事件ばかりだった。どうしてそうなってしまうのか?という部分が、私自身が納得できるような答えが見つけられないものが多かった。これも、今の世情の複雑さを反映しているのだろう。出きればこれからは、説明するのに困るような、難解な事件が起こって欲しくないと切に願うのだった。2003.9.11 掲載
2004年07月16日
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先日、中学1年の娘が友人と翌日の部活へ行くための打ち合わせの電話をしていた。教室を使える時間がまちまちで、毎日のように登校時間が変わるのだ。1年生は、部活を始めるための準備をしなくてはいけないので、開始時間より少し早めに行かねばならないのだという。電話を終えた娘が、「明日は7時半に家を出るから」と告げに来た。娘の学校までは歩いて15分もあれば着くのだが、娘が告げて来た時間は部活開始時刻より1時間以上も早かった。「なんでそんな早い時間にいくのよ?」と私が聞くと、娘は言いにくそうにしながら「だって友達が、準備があるし間に合わないと困るからって言うんだもん…」のんびり屋の娘とは違って、友達は少し神経質らしい。しかし、いくらなんでも早過ぎるだろうと思い「そんなに早く行っても、学校開いてないんじゃない?」と聞くと、「うん、実はね今日も早過ぎて開いてなかったんだ」と娘。「だったら…」と言いかける私を制して「とにかく、皆がその時間に行くっていうんだから、お弁当お願い!」娘はそう言い残して自分の部屋に行ってしまった。その日の夕方、部活から帰った娘に話しを聞くと。やはり学校は閉まっていて30分近く校門の前で待っていたらしい。そして、またその日の夜も友人から同じように翌日の登校時間の打ち合わせの電話が掛かってきた。娘は友人に「今日も30分も待ったんだから、明日はもう少し遅く行こうよ」と話をしているようだが、友人の「間に合わなかったら困るでしょ!」という言葉に押しきられて、また同じような時刻に出掛ける事になったと言いに来た。「ねえ、遅刻したらまずいけど、早く行き過ぎるのも迷惑だと思うけど?」と私が娘に言うと、娘は「朝早くにお弁当作らせることになってゴメンね」と言った。やはり気がついていなかった。「そうじゃなくて、学校の近所の人達の迷惑も考えなくちゃいけないって言ってるの」「学校の周りの人たち?」自分達の都合ばかりを考えて行動することで、周りにどんな影響を及ぼすのか?という事までは考えが及んでいないのだ。時間をキッチリ守ろうとする行動は、一見大人びた行動に思える。しかし、それも「過ぎたるは及ばざるが如し」で、行き過ぎれば逆効果になることもある。私の話しを納得したらしい娘は、友人に電話を掛け直して待ち合わせの時間を調整しなおしていた。その様子を見ていて、私は以前勤めていた会社の若い人達を思い出した。彼らは、自分の机の上などはきちんと整理をして、いつもきれいにしていた。しかし、職場の人達が共通で使う書類などは、使いっぱなしだったり、元のところに戻さなかったりすることが多かった。つまり、自分のテリトリー内や、自分自身に係わる事に関しては、異常なほどに神経質で、それを侵される事も異常なほど嫌う。しかし、それが他人のテリトリーであったり、物になると、途端にずさんになり無神経としか言い様のない行動を取る事が多いのだ。視野が狭く、自分本意な考え方しか出来ないわがままな人間なのだ。と言い放ってしまえばそれまでのことなのかも知れない。しかし、それはただ彼らが、周りに迷惑をかけないという事が具体的にどういう事なのかを理解していないだけなのではないかと私は思う。自分のことだけ出来ていれば「いい子」と扱われ、それ以外の事はみな親任せで育って来てしまった結果なのだと思うのだ。口でいくら「周りに迷惑をかけるな」と言って聞かせても、子どもが理解していなければ意味が無いのだ。少しづつ社会に出ていく子ども達に、一つ周りと自分との距離や関係を学ばせて行くように、具体的に指導していくことが必要なのだと思う。2003.9.4 掲載
2004年07月15日
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これは先日のこと、中1の娘と小5の息子と一緒に買い物に出掛けた。思ったよりも時間が掛かってしまい、丁度夕方のラッシュ時と帰宅の時間が重なってしまった。そのために、始発駅から乗車したにもかかわらず、電車はすでに寿司詰め状態だった。雨が降っていたために車内の湿度は高く、むれ臭い雨の匂いと汗の匂いが車内には立ち込めて、不快指数100%といった感じだった。 もう少しで発車のベルが鳴るという時、近くで赤ちゃんがグズル声が聞こえ始めた。大人でも、思わず眉をひそめたくなるような状況なので、赤ちゃんがグズルのも無理は無いだろうと私は思ったが、周りの乗客達の眉間のしわはますます深くなり、中には赤ちゃんがどこにいるのかと周りを伺う人や、大きな咳払いをする人もいた。すると、隣りにいた子ども達が私にこんなことを聞いてきた。 「ママ、どうして赤ちゃん泣いているんだろうね?」「もう夕方だから、お腹空いたのかな?それとも、眠いのにこんなに暑いしジメジメしているから、寝られなくてグズっているのかもね?」それを聞いた子ども達は、「そうだね、可愛そうだね~」そういって視線を落とした。子ども達の視線の先を見ると、隣りに立っている人の間から、座席にいる赤ちゃんの姿が見えた。 お母さんは、周りを気にして一生懸命赤ちゃんをあやしている。しかし、狭い膝の上で窮屈な思いをしているせいか、赤ちゃんが泣き止む様子は無かった。どこからか、「こんな時間に赤ん坊を連れて歩かなくても」という声も聞こえた。子ども達は、その声をしたほうを振り向いて、グッと睨んでいた。子ども達は、その心無い声に腹が立ったのだろう。発車のベルが鳴り止むころ、数人の乗客が駆け込んで来たために、私達親子は、グズル赤ちゃんの目の前の位置までグッと押し込まれた。電車が走り出して程なく、いきなり赤ちゃんがグズルのを止めた。「あれ?」と思って見てみると、家の子ども達が、二人掛りで赤ちゃんのことをあやしていた。 声を出さずにそっと前の人の背中の間から、顔を出したり顔を隠したり、ニッコリ笑ったりしては赤ちゃんの顔をかわりがわり覗き込んでいる。二人で順番に覗きこまれるのが面白かったのだろう、赤ちゃんのご機嫌はすっかり直り、息子に向って手を伸ばしては笑っていた。我家の最寄の駅になり、子ども達が赤ちゃんにバイバイをすると、赤ちゃんのお母さんが私に向って「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言ってくれた。 駅からの帰り道、子ども達が私に車内での出来事を振りかえってこんなことを言った。「あの赤ちゃんのお母さん(赤ちゃんがグズって)スゴク困っていたのに、、周りの人達は迷惑な顔をするだけで、誰も助けてあげようとしなかったのが腹が立ったんだ。赤ちゃんが泣くのは仕方が無いことだし、お母さんが悪いわけでもないのに」そして、その後「昔、ママも同じように大変だったんでしょ?」と続けた。 そう言えば、私も子ども達が小さい頃同じような思いをしたことがあった。子ども達にせがまれるまま、小さい頃の話しをしていた折に、私がそんな話しもしたのだろう。それを覚えていた子ども達には、あのグズっている赤ちゃんのことも困っているお母さんのことも放って置けなかったのだ。 我家では、子ども達に自分達が育って来る過程での様々な事柄を話して聞かせることが良くある。多少私の愚痴も混ざってはいるのだが、子ども達なりにその話しを聞いて思うところがあったのだろう、それが今回の行動に繋がったのだと思う。すべての人が同じ行動をとることが良いと思うわけではないが、今の社会にはどこか優しさが欠けているような気がする、それを子ども達が感じたことも確かだと思う。子どもは母親の影響だけを受けて育つのではない。今の社会の有り方も、子ども達の行動に深く関わってくるのだということを、大人の人達にも自覚してもらいたいと思う。2003.8.25 掲載
2004年07月14日
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先日、保育士をしている友人と育児について話しをした。彼女は、保育士になって20年余りのキャリアを持つベテランで、自分でも3人の子どもを育て上げている。その彼女が最近のお母さん達に感じることは、子どもの叱り方に対して自信を持っていないということだった。今、世の中には情報が氾濫している。子育てに関しても、テレビや雑誌、インターネットばかりではなく、口コミもママ友からだけではなく、おじいちゃんおばあちゃんからも入ってくる。時には、街中で通りすがりのなんの事情も知らない人達からまで、「ああするべきではない!」等といわれる事がある。小さな子どもを連れていると、街中を行き交う人全てが育児評論家なのではないか、と思える程、いろいろなことについて口を出されることもある。子育てに関して、マニュアルや噂や定説等を含め、あらゆる情報が氾濫しているのだ。私自身も、初めて娘の子育てを始めた時、正直言って「いったい人間の赤ん坊って、どうやって飼えばいいんだろう?」と悩んでしまった事があった。一応育児書や雑誌などを揃えていたが、そこにある全ての条件を整えても娘が泣き止まなかったり、逆にその情報だけ見るととても深刻な病気の前兆に思えてしまったり。どれを信じていけば良いのか?が判断できないことが多く常に不安に駆られていた。そんな状態の中で、「母親の愛情が足りないんじゃないか?」とか「母親のくせにそんなことも分からないなんて」等、通りすがりの人達の無責任な発言が投げかけられれば、不安は更に増長していくことになる。「赤ちゃんが泣くのは、肺を鍛えるために必要な事。赤ちゃんの仕事のようなものだから、あなたの落ち度ではないよ」というような、優しい言葉を掛けてはなかなかもらえず、母親は孤独になり子育てに関しての自信はどんどん剥ぎ取られていく。子どもが成長していくに従って、子どもを叱る事も多くなっていくが、その叱り方一つを取っても、「叱り方で子どもをダメにしてしまう」とか、小さな子どもに分別を教えるために、軽くペチンと小突くことに対しても「体罰をするのはよくない」等と周りから言われる事に振り回されてしまって、子どもを叱るということ自体が出来なくなってしまう。つまり、子どもを叱るということに、親が迷いを感じてしまうのだ。友人の保育士さんも、最近のお母さん達にそのことを強く感じるのだという。親の方に、善悪や子どもを叱るための基準がしっかり持てなければ、子どもを叱ることなど出来るはずはない。子どもを持ったという事実だけでは、親になることはできない。育児をしていく中で様々な事を学び親になっていくのだ。しかし社会の目は、子どもを持った瞬間から完璧な親としての対応を求め、子育ての責任全てを母親の責任だと責め立る。少年犯罪が起こるたびに、未来を左右する重要な仕事である「育児」に対しての責任を、母親だけに責任転嫁してしまうような社会の風潮も、「育児を失敗したくない」という思いを母親達の中に強く抱かせ、マニュアルや情報にすがる母親は多くなって行くのだと思う。しかし、産まれて来る子どもには、それぞれに違った人格があり、成長の仕方にも固体差がある。必ずしも情報通りに育児が運ばず、情報に振り回されることになってしまうのだ。「昔みたいに普通に育てて行けば、そんなに間違った子どもが多くなることもないと思うんだけど。今の世の中では、いろいろな価値観も変わってきて、「普通の生活」自体が難しくなっているような気がする」と友人が静かに言った言葉が、いつまでも私の心の中に響いていた。2003.8.22 掲載
2004年07月13日
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今、子ども達を取り巻く環境には、リアルな部分がとても少ない。街中では、緑が少なくなり、私が子どもの頃からしたら蝉の声もすくなり、トンボの姿を見かけることも少なくなった。小さいころから、土に触る機会も少なく、触ろうとすると「汚いからダメ」と言われる。子ども同志のちょっとした小競り合いの中で、ぶったりぶたれたりという形でもコミュニケーションをとり、打たれた相手の痛さを知り、打った方の心にも痛みを感じながら育ち、手加減や限度を覚えて行くはずなのだが。実際は、構えただけでも親に止められ、「打ったら痛いからだめよ」とこれも想像の中だけで説教をされる。つまり、あらゆる場面でリアルに接する機会を持たずに育って来てしまうのだ。これは5年位前の事、当時娘は小学2年生で息子はまだ保育園児だった。夕飯の買い物の帰り道での事。押し合いをしてふざけあっていた子ども達は、だんだんエスカレートし、車道の横に白線が引いてあるだけの歩道を歩いているにも関わらず、お互いの体を突き飛ばし始めた。「車が来たら危ないから止めなさい」と何度注意をしてもまた始める。仕方が無いので私は子ども達に「君達は今日は夕飯抜きね!」といった。驚いた子ども達は「なんで?なんで?」と聞いてきた。「だって、危ないのを分かってて、注意されてもまだやるっていうことは、命が要らないって事でしょ?要らない命に御飯を食べさせても勿体無いから、御飯は食べなくていいから」と私。子ども達はすっかり大人しくなり、しばらく何かを考えているようだった。しばらくして「やっぱ、命要るから夕飯食べたい~。お腹すいたよ」と泣き出した。(少し言い過ぎたかな?)とは思ったが、いくら頭で「命を大切にしろ」と言っても、実感が伴わずにどうしたら良いのかを判断する事ができないでいたのだ。それからは、ふざけることがあっても、軽く注意するだけで、自分で行動を制御する事が出来るようになった。そしてこれは先日の事。私はある取材で横須賀に行くことになった。子どもを同行させても良い場所だったので、夏休み中の小学5年の息子を連れ、友人親子にも声をかけて一緒に行くことにした。取材を終えてから、三笠公園に立ち寄った。ここは、日露戦争中に活躍した、軍艦三笠が修復されて保存されているので有名な公園なので、三笠を観ることにしたのだ。初めて、本物の戦艦を見て、その大きさに圧倒されながら、「うわ~、カッコイイ!」と息子達は大騒ぎだった。私が子どもの頃は、三笠はまだ水に浮いていたのだが、現在は陸に上げられ、被弾した跡は修復した壁に赤いペンキで印が付けられ、周りには、被弾した際に穴が空いてしまった、6cm以上もあるような鉄板などが展示さていた。内部は資料館になっていて、実際に使用したデッキや、ボロボロになった軍服などが展示されていた。普段息子は、バーチャルな戦争ゲームなどで良く遊んでいた。しかし、実際の戦争の傷跡を目の当たりにしていくうちに、次第に息子の表情が真剣に変わっていくのが分かった。三笠からの帰り道、私は息子に感想を聞いてみた。すると息子は、じっと前を見据えながら「戦争は恐いと思ったし、絶対嫌だ!って思ったよ。戦艦はカッコ良かったけど、それだけじゃないんだよね、戦争は」そういってから私の方を見上げた。私が頷くと、息子はまた前を見て、自分でも確認するように頷いていた。もう60年近くも前の事になってしまった第2次世界大戦。私達は、それを経験した自分の親達から話しを聞き、戦争の怖さを教えられた。しかし、実際には戦争を体験していない私達が、子ども達にその恐さを伝えていくには、伝え聞いた体験談を話すしかなく、リアルさに欠ける気がしていたのだが、今回の三笠見学は、そのギャップを一度に埋めてくれた気がした。もうすぐ、終戦記念日が来る。悲劇を再び起こさないためにも、夏休みの1日を使って戦争の恐ろしさを実感するのも良いのではないと思う。2003.8.15 掲載
2004年07月12日
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12歳という思春期の入り口に立つ難しい年頃の子育てに関して、いろいろなメディアで取り上げられている事はご存知だと思う。実は我家の長女は、先日の長崎で事件を起こした少年と同い年である。その事もあり、私は娘の同級生の男のお母さん達に、その胸のうちを聞いてみた。 殆どのお子さんが、私の目から見てもきちんと育っているという印象があったせいか、そのお母さん達からも取り敢えずそんなに切羽詰ったような話は聞かれなかった。それでも、どのお母さんも「今は大丈夫だけど、これから先(子どもが)どうなるかは、ハッキリ言って分からないけど…。」と将来の子どもに対しての不安を口にした。 そんな中、一人だけ自分の一歩間違えば自分の子どもにも犯罪を起こしてしまう可能性があるのではないか、という不安をハッキリと抱えているお母さんがいた。他の子とは違い、小学校の高学年から急に父親に追い付くほど体が大きくなり、声変わりなど体の変化も始まった。そして彼女を超えるほどの体格になった頃から、その子の、反抗期が始まったのだと言う。初めは、学校の様子などを自分からは話さなくなり、提出物の事などで彼女が話し掛けても、息子は殆ど口を利かなくなってしまったという。 彼女は彼女なりに、いろいろと息子とコミュニケーションを取るために努力をしてはいるのだが、なかなか難しいようだった。彼女は、朝起きてきた時から、すでに息子が母親を見る眼がキツクて痛く感じるのだと言って、ため息をついていた。もうすぐ2年を向えようとしている反抗期の息子との日々に、彼女はかなり疲れているのだ。「あの子と会話をしようと思う事自体が間違っているんじゃないか?ってそんな風に最近思うときがあるの」と、肩を落として彼女は語った。 今回話を聞いた数人の中で、落ち付いてきちんと育っていると思われる男の子達の家庭は、どの家でも父親がきちんと子ども達の事に関わっていた。父と息子が共通の趣味を持っていたり、父親が息子と話す時間を持つなど、父と息子のコミュニケーションがきちんと取れているのだ。多分、子育てを母親だけがするのではなく、父親が関わることで、母と子だけの密室的な子育てにならないで済むのだろう。その事によって、子育てのストレスを母親だけが背負い込むこともなく、子ども達も母親のストレスからくる偏った育てられ方をしないで済んでいるようなのだ。また、祖父母や隣り近所など地域の人達との付合いがある家は、地域にも子どもを見つめる目があり、また子ども達も、いろいろな人達との係わり合いを通して学ぶ事があるせいか、きちんとした社会常識を身につけている事が多かった。 前述の彼女家の場合、息子の反抗期の捕らえ方が彼女と夫ではかなり違うのだ。その事を夫と話し合おうとしても、なかなか時間を取ってもらうことも出来ず、「子育てはオマエの仕事だろう」というような夫の姿勢から、きちんと相談に乗ってもらうことも出来ないでいるのだという。 子育てには、膨大な労力と忍耐が要る。手のかかる小さな年令の頃はもちろんのこと、ある程度の年令になっても、夫婦の協力は必要不可欠だと思われる。しかし、その事を実感として持ち、実行に移している父親はどれだけいるのだろうか?一昔前から見たら、かなりの割合で増えてきているとは思う。現在のような混迷した世の中に子どもを送り出さなくては行けないことを考えると、やはり母親だけではなく、父親も子育てにかかるべきなのではないかと思う。また、地域の人達なども含め、出来るだけ多くの目で子ども達を見つめ、それぞれが様々な形で子ども達と関わっていきながら、子ども達を育てて行く必要があるのではないかと、実感した。2003.8.4 掲載
2004年07月11日
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先日の長崎の事件だけでなく、最近起きる事件の多くが性に対するゆがんだ認識からきた、性犯罪であることが多い。私は最近、性教育に関しての取材をしているのだが、その取材を始めてから、日本という国のあまりにも性や性教育に対しての認識が低さを実感し、それが性犯罪の多発や、低年齢化を呼び起こしているのだということを知った。 私も、性教育の本を担当するまでは、はっきり言って性教育の事については何も知らなかった。12歳と10歳の子どもの母親として、そろそろまじめに考えなくちゃなぁ~、と思っている程度だった。 しかし取材を進めていくにしたがって、世に溢れる性情報のほとんどが、男性の視点から、一方的な思いこみによるSEXを扱ったもので。そこに画かれて、いるのは、レイプ=SEXであり、男は、いやがる女を押し倒してこそ男であり、支配する事で男を保つべきだというような、暴力的でサディスティックに扱っている。いわば、男性主導社会のもつ悪い部分の縮図のようなものだ。 そして、日常生活の中で、TVからでも溢れ出てきている、その間違った性の情報を、うのみにしてしまった男の子達は、潜在的なレイピストの種を植え付けられ、そして、また女の子もそれを受け入れるべき存在なのだ、というような間違った認識を受けつけられてしまう事になりかねない。私の周りにいる男性の言動が、その要素を強く帯びているという実状と、それに対して漠然としか反論できなかった自分を照らし合わせて見ることでも、それは実感出来るものだった。 そして、これらの事柄から、子どもを守るためには、子どもに性を特別視させないように、もっと自然な事だと認識させる必要がある事。また、自分の体のことをきちんと教えると、性の自己決定能力を子どもが身につけ、自分の体も、相手の体も大事にするようになるのです。そのためには、親が性に対して正しい知識と認識をもち、出来るだけ早期から、家庭の中で子どもに教えていく必要がある。つまり、性教育とは、子ども達に自分の体を守るために必要な知識であり、かつ生きていくすべを教えるために、必要な知識だったのだ。それを今まで知らずに、のほほんと過ごして来てしまった事に私は後悔を覚えた。 性教育元年が叫ばれて10年余りが経ち、日本でも早期からの性教育の必要性が叫ばれつづけているが、その実状は殆ど進んでいない。それは、いまだに日本の社会の中に、性をタブー視する風潮が根強く残っていることと、性教育にいまいち乗り気ではない文部科学省の態度が原因として考えられる。特に文部科学省は、私が取材の申しこみの電話をしたところ、「ご期待に添うようなお話はなにもないと思います」と断られたほどだ。今回の事件の引き合いに出される神戸の少年Aの事件からもすでに6年が経っているにも係わらず、殆どなにも対策を打っておらず、性教育に関しては、学校は宛てにならないことは明白である。 性教育を子ども達に施していくには、家庭で子ども達とあらゆる事に関して、ざっくばらんに話し合える環境の整備も必要になる。このことも視野に入れて、日本の家庭でも、もっと積極的に性教育に取組む必要があるのではないかと思う。2003.7.23 掲載
2004年07月10日
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最近、中学生などの少年による殺人などの犯罪が多発している。長崎で、12歳の中学生が、4歳の男児を誘拐し殺害した事件も沖縄で起こった同級生を殺害して埋めてしまった事件も、どちらも私達の常識を逸脱した、残虐きわまりないものだった。しかしその他にも、通り魔や事件、一家殺害などの傷害や殺人の報道も、連日後を断たない。「日本は治安の良い平和な国」だという常識は、もはやどこかに行ってしまった気がする。そして、私達が普段、常識だと思いこんでいる事も、今は神話化し崩壊しているのではないだろうか? 長崎の誘拐殺人事件で補導された少年は、成績が良く、普段は読書が好きな大人しい少年で、とてもこんな犯行を起こすようには見えなかったという。しかし、成績や素行が悪い=犯罪を起こす、という「常識」はもはや常識ではないのかもしれない。それは、私達が「常識」だと思っている事の大半は、現在より以前の生活から産まれてきたものだからだろう。では、以前の生活と現在の生活と、何が変わってしまったのだろうか?私は、その変化の一番の要因は、生活の中の「実感の喪失」ではないかと思う。つまり、私達の日常の中のあらゆる場面から、実感や現実と言ったリアルが消えつつあるのだ。 私が就職し初めてお給料をもらったのは、もう20年近く前の事だ。その頃、まだ銀行振込ではなく、現金を手渡しでもらった。大した金額ではなかったが、自分の一ヶ月の成果を実感できた気がし、端数の小銭の重さやチャリンチャリンという音までもが、重く感じられて嬉しかった記憶がある。しかし、現在は殆どが銀行振込に変わり、明細書が一枚手元に来るだけだ。買い物をする時も私が子供の頃は、店先で、「下さいな」と声を掛ける事から始まり、「今日は何にする」等の会話を経てからお金を払い、品物を手にしたが。今では、レジにいる人にお金を払うだけで、それもカードを使えば、お金を払っているという実感は更に希薄になる。ましてや、ネットショッピングでは、買い物をしているといった実感さえ希薄になってしまっている。 あまり季節感のないスーパーの店頭。コンビニやレトルトなどの調理済食品は、調理の過程で実感するはずの、包丁の音や煮物から立つ醤油の匂いもなく、食卓に並ぶ事になる。サッシやエアコンの普及により、夏でも冬でも快適な室内。子供達の遊びも、ゲームなどが主流で、自然や生き物などの生きた命と触れることがない。核家族化した家庭では、人の老いを見ることもない。私達は、便利で快適な生活を手に入れると共に、季節感や命のぬくもりなど、実感のある生活から、少しづつ遠ざかってしまったのだ。 そして、その実感のない日常を産まれた時から送り続けて来た子ども達は、ゲームやマンガや映画などのバーチャルな世界と、実感のない現実との境や区別をきちんとつかることが難しくなってしまっているのではないのだろうか?生活を実感することから産まれてくる常識。その常識という神話を崩壊させてしまったのは、自分たちの利便性だけを追求してきてしまった、現在の大人達であり、子供達はその犠牲者なのかもしれない。2003.7.12 掲載
2004年07月09日
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先日、早稲田大学の学生らによって、女子大生集団暴行事件が起こった。これに関連して、自民党の太田元総務庁長官が、「集団レイプする人は、まだ元気があるからいい。まだ正常にちかいんじゃないか。そんなこと言っちゃ怒られるけど」と発言したという。これは、太田氏が、少子化問題について、「プロポーズできる勇気のない人が多くなっている」と述べた後、司会者から「プロポーズできないから、集団でレイプをする(のか)」と問われて、集団暴行事件に関する発言をした。太田氏は講演後、記者団に「『レイプは重大な犯罪であって従来以上に厳しく罰すべきだ』と付け加えるきっかけがなかった。それほど強く異性を求めているのであれば、きちんと結婚する相手を求めるべきではないかという事が言いたかった」釈明した。(2003年6月27日 読売新聞 社会面より) この記事を読んで、私は愕然とした。あまりにも、自分の認識の低さを自覚していないと感じたからだ。太田氏は、『レイプは重大な犯罪であって従来以上に厳しく罰すべきだ』と付け加えるきっかけがなかった。と釈明しているが、レイプが法律的に罪である以前に、女性蔑視の最低な行為であり、元総務長官ともある人が、その事さえ分かっていないことに愕然としたのだ。さらに、氏は「それほど強く異性を求めているのであれば、きちんと結婚する相手を求めるべきではないかという事が言いたかった」と述べているが、これについても、結婚とは、相手の体だけを求めてするものではないはずである。つまり、釈明となるべき発言でさえも、私には暴言ともとれる発言なのだ。 この太田氏のケースに限らず、ここのところ、国会議員など“大の大人”と呼べる人達のセクハラなどの記事が目に付く。なぜこんな事が起きてしまうのだろうか? これは、日本という国が性をないがしろにしている国であるということの現れであり、女性を物として扱っても良いというような、女性蔑視のセックス観が、無意識のうちにすり込まれてしまっている男性が多い事も示しているのではないか?これは、性に関しての自己決定能力が欠如していることの現れであるとも言える。 つまり、子どもの頃から、性に関する知識が必要十分に提供されず、性器は自分の体であるはずなのに、触っても見てもいけないというような、あたかも自分のものではないように思わされて来た事から、自分の体の主人公で有ることを放棄させられて来てしまい、そのために充分な自己決定能力(自分の体や性は自分のものであり、大切に守られるべきものであり、他人の体や性も自分の場合と同じように、大切にすべきものなのだという事)が、きちんと認識出来ていないことの現れだと思う。それでは、どうすれば性に関しての自己決定能力を培う事が出来るのだろうか? それには、性と生殖、それによる妊娠や避妊についての充分な知識、性交によって負うかもしれない病気によるリスクについての情報の知識を持つことや、自分の人生の中には沢山の選択肢があり、性関係に入ることもその選択の一つであるのだという事など、あらゆる自己決定をするための判断材料を持つことが必要なのだ。本来なら、子どもが小さい頃から親が自然に、そのための知識を与えて行くことで、性を特別視することなく、自然のものとして受け入れるようになり、また自己決定能力も自然と身につけることが出来るのだ。そして、これこそが性教育の持つ極めて重要な役割なのだ。つまり性教育とは、自分の体を守りそれを健全に保つために必要な知識であり、また、それを知る事によって異性のことも思いやることが出来るようになる教育でもある。その意味では、最近の若者だけでなく、全ての人にきちんとした性教育を認識し理解してもらう事が必要なのではないかと、私は思う。2003.7.6 掲載
2004年07月08日
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少し前の報道で、一人っ子政策を推奨している中国で、子どもにピアノを習わせるのがブームで、日本からの中古ピアノが飛ぶように売れているというのがあった。日本でも、六つのポケット(両親・父方祖父・父方祖母・母方祖父・母方祖母)を持つといわれる最近の小学生達は、公立の学校がゆとり教育のために土曜日が休みになった影響もあり、習い事が盛んである。 私の周りの子ども達も、ピアノやスイミングや英会話などの定番から、フルート、フィギアスケートなど様々な習い事をしている。かくいう我家の子ども達も、5年ほど前から、レーシングカートをやっている。ここまで来ると、金額的にも子どもの習い事とは言い難いものがあり、家族で取り組むプロジェクトのようになってくる。しかし、この習い事が盛んな状態は小学校の間だけで、中学に通うようになると続けていくのが困難になるのだ。それは、中学になると「部活」が始まるからだ。中学での部活も、土曜日が休みになった関係で、体育会系の部活を中心に、土日は練習や大会といった予定がぎっしり詰まっている。 我家のレーシングカートのように、部活としては存在しないものはもちろんのこと、剣道のように、部活は存在はするものの、本人がそれまで所属していた団体の練習や試合が、中学での部活と重なってしまう場合もある。小学校時代の習い事や趣味が、そのまま中学での部活に移行できるような物ならば問題はないのだが、高校入試の調査書に部活での取り組みを記入する欄があることもあり、子ども達は、それまでやって来た習い事か、部活か、どちらかの選択を迫られることになる。 学校側の説明では部活は必須ではなく、調査書の欄にも、「中学でなにか頑張ったこと」が記入できればそれでいい、というのだが、今年の春に中学生になった娘は、部活を選択した。娘の他にも、それまで続けて来た習い事を中学で辞めることになった、という話をいくつも耳にした。親としては、「それまで頑張って来たのだから…」、という思いも有る。 そんなおり、6月26日の読売新聞の社会欄に、『都立高で“一芸入試” 』という記事が載っていた。これは、東京都教育委員会が、来年度の都立高推薦入試から、野球などのスポーツや、吹奏楽、作文などの文化活動で全国レベルの優秀な成績を収めた生徒を優先的に受け入れる「特別枠」を導入する、というものだ。校長の判断では、調査書を判断材料としない“一芸一能入試”とすることも可能だそうで、全国の公立高校の中でもユニークな試みだといえるものだ。今までも、都立高の推薦入試では、調査書、志望理由などを書き込む「自己PRカード」の提出と面接が必須で、小論文などを課す学校もあり、今年度は全日制の入学者の2割強が推薦で入学している。 新たに設ける「特別枠」では、自己PRカードと、スポーツなどの全国大会で入賞した際の表彰状や、英語検定の合格証明書なその提出が最低条件で、校長の判断により、調査書の提出を求めたり、面接や小論文を課す場合もあり、今秋までに具体的な選考基準を公表する予定だ。 今回の試みによって、高校受験のシステムになにか変化が生じれば、中学生の生活にもなんらかの影響が出てくるだろう。当然、部活以外の習い事や趣味を選択することも、現状より容易になるかもしれない。小学校時代に何年間も打ち込んできたものを、やむなく手放さざるを得ない状況を、出来るだけ少なくして欲しいと思う。2003.6.28 掲載
2004年07月07日
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CAPプログラムをご存知だろうか。CAPとはChild Assault Prevention(子どもへの暴力防止)の略で、はわかりやすい人権概念を教え、子どもたちがいじめ、痴漢、誘拐、虐待、性暴力といったさまざまな暴力に対して何ができるかを子ども、親、教職員、地域の人々に教えるプログラムだ。1978年、コロンバスのある小学校で女子生徒が登校途中にレイプされ事件をきっかけに、子どもたちは次第に気持ちが不安定になり、おねしょをしたり、夜うなされたり、一人でいるのを怖がるなど子どもがおびえる時の典型的な行動がみられるようになってしまった。この状況を心配した一人の女性教師が、子どもたちの安心感を取り戻すように力になってほしいとレイプ救援センターに相談し、それがきっかけで児童発達の専門家、心理療法家、医師、親、教育者、演劇の専門家の協力のもとにプログラムの原型が生まれ、開発されたものだ。日本では1985年に、森田ゆりが初めてCAPを紹介し、その後女性たちの手で広められたこのプログラムは、現在グループの数は100を超える。誘拐や通り魔の被害に小学生が遭遇するという事件報道が続いていて、我家にも被害に遭った子達とあまり変わらない年令の子どもがいるので、不安な気持に思っていたのだが、先日、そのCAPプログラムのメンバーにお話を伺う機会に恵まれた。ここのところの状況を反映してか、CAPへワークショップ(知識を中心に教え込む従来の学習形態と異なり、参加者が自ら考え、意見を述べ、ロールプレイ(役割劇)に加わるやり方で進すめる参加型学習。子どものためのプログラムの実践を「子どもワークショップ」と呼んでいる)の依頼も急増しているのだという。ワークショップは、子どもの3つの権利… 「安心」「自信」「自由」についての説明の後に、いじめのロールプレイ(子どもどうしの暴力)・誘拐のロールプレイ(見知らぬ人からの暴力)・性暴力のロールプレイ(知っている人からの暴力)を行い、それらの暴力から身を守るための方法、先生ロールプレイ(信頼できるおとなに打ち明ける)などを実際にプレイしながら学ぶ。そして最後にトークタイム(復習と練習)で、子どもが暴力から身を守ることができるよう、何ができるか一緒に考え、子どもが本来持っている力を引き出す援助をする。という構成で実施される。ところが、ワークの依頼を受ける時に、性暴力のロールプレイは、年令的に早過ぎるというような理由で必要がないので省いて欲しいといわれることが多いという。実際には、性暴力は増加と低年齢化の傾向にあり、今一番重要なプレイだとCAPの側では認識しているのではずすことは出来ないと説明しても、そこを理解し認識してもらうのは困難を極めるらしい。現場が学校という密室であることなどから、表面化しずらくいのだが、スクール・セクシャルハラスメントも多発しているという。誘拐でも性暴力でも、巻きこまれてしまってからでは遅いのだ。実際に、ワークを受けた子ども達から、過去に性暴力に遭っていたことがあるという告白をうけたり。実際に被害に遭いそうになった時、ワークで教えてもらった方法で上手く逃れることが出来たという声が多数寄せられているのだ。「性」という文字を見聞きしただけで、あまりイメージが良くないと思われる人も多いのかも知れないが、子ども達をそれらの暴力から守ってやるためには、今までの間違ったイメージに縛られていてはいけないのだ。まずは、教える側の私達大人が、正しい認識を持つことが一番必要なのだと思う。2003.6.22
2004年07月06日
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5日に厚生労働省が公表した人口動態統計(概数)によって、1人の女性が生涯に産む子供の数(合計特殊出生率)が、1・32(前年1・33)で過去最低を記録し事が分かった。つまり、また少子化が進んだ事になる。少子化の原因としては、女性の高学歴化に寄る出産年令の高齢化、育児休業などの制度の遅れなどいろいろと上げられている。だが、一番の原因は、日本という国が子どもの育てにくい国だからではないだろうか? 欧米諸国でも、少子化の進んでいる国があり、それぞれの国で、育児休業法を改定するなどの対策を取っている。その結果、フランスは少子化に歯止めをかけることに成功した国もあるが、アメリカのように、少子化などどこ吹く風といった国もある。それではなぜ、育児休業法の整備が同じように進んでいる国のなかで、少子化に歯止めを掛けられた国と、相変わらず進んでしまう国があるのだろうか。それは、それぞれの国の、育児に対しての社会の考え方が違うのだ。フランスとアメリカ、どちらの国も男性が育児や家事に従事することが当たり前の国であり、社会も子どもに寛容である。しかし、「男は仕事、女は育児や家事をするものだ」という認識が高いドイツや日本では、まだ育児や家事に従事する男性も少ない。その結果、男性の育児休業取得が認められても、社内の目を気にしてなかなか取得する事が難しいのが現状だ。電車などの公共の場で、子どもがぐずった時の母親の肩身の狭さは想像以上のものがあり、ベビーカーで街を行けば立ち往生するばかりである。つまり、日本という国は、子持ちに冷たい国なのだ。私は、昔から子どもが好きだったので、3~4人産もうと思っていたが、実際育ててみて、2人育てて行くのが限度だと感じた。景気の低迷によって落ちこむ収入、それに反して増加する一方の教育など経済的な負担もかなりのものがあるからだ。そのために子どもを預けて仕事に出る母親も多いが、ココでも子持ちの女性に対して社会は冷たい。子どもが熱を出したり、学校などの行事がある度に仕事を休まなければならないからだ。最初に「子どもが病気の時などには休んでもよい」という条件で採用してもらっていても、度重なれば職場の人の目が気になり、最終的に仕事を辞めざるを得なくなることも少なくない。中には、「子どもを預けてまで働かなくても!」と、親戚に詰め寄られた人もいる。そして、こういう場面で夫にかばってもらったという話しもあまり聞かない。すでに高齢化が始まっている日本の社会のシステムを、維持していくために必要な税金や社会保険料をまかなっていくには、女性の労働力は必要不可欠なものであるはずだ。しかし、現状のまま「育児は母親がすべきである」という社会通念を持ったままでは、育児の負担も経済的な負担も、全て母親だけが追わざるを得ないことになる。その結果、小さい子どもを持った女性の就労は困難を極め、それを目の当たりにした若い女性達は、結婚や子どもを持つことを嫌がるようになるのだ。現に私の周りでも、上記のような理由で、結婚をためらったり、子どもは一人いれば充分だと思っている人が沢山いる。日本の社会全体で意識の改善を行わない限り、少子化に歯止めをかけるのは難しく、将来日本は、社会のシステムを維持して事が出来なくなるのではないだろうか。2003.6.16 掲載
2004年07月05日
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今、「学校のトイレではウンチをしない」と言う子が増えている。中には、我慢できずにもらしてしまう子もいるそうだ。それでもトイレでウンチをしないのだ。理由は、ウンチをすると周りの子からからかわれて恥ずかしいからだ。この傾向は、女の子よりも男の子方が多い。小便器と個室がある男子トイレでは、個室に入っただけで、「うんちだ、うんちだ」とからかわれてしまう。最近は、子供向けの番組などでもこの問題を取り上げたりしてはいるが、問題はなかなか解決しない。そんな中、学校側に新しい動きが出てきた。 5月27日発行の読売新聞の生活面の家庭と暮しのコーナーにこんな記事が掲載された。「小便器のない男子トイレ!」小学校でウンチをするとからかわれて恥ずかしいという男の子達のために、個室だけのトイレを作ったという話題だった。個室だけのトイレを作ったのは、神奈川県茅ケ崎市の小学校。天井まで完全に仕切られた個室のみの男子トイレで、水の流れの音がする擬音装置まで付いているので、入っただけでは大便かどうか分からなくなり、ウンチだとからかわれることも無くなり子ども達には好評だ。国も最近トイレの改修に補助金を出すようになった。 からかわれる原因は、やはり「ウンチ」は「汚い」「臭い」というイメージが強いからだろう。確かに、私が子どもの頃に比べると、街の中から「汚い物」や「臭い匂い」が消えた気がする。昔は汲み取りトイレの匂いや、道路脇のどぶの匂いなど。生活臭とも言えるいろいろな「臭い匂い」が、街のあちこちに漂っていた。それはあまり気持ちのいいことではないが、有る意味必要な匂いだったのかもしれない。トイレは水洗に変わり、下水道が整備され、防臭剤や抗菌グッズが溢れるようになり、街や生活の中からいわゆる「臭い匂い」が一つづつ消えて行き、逆に私達は、匂いに過敏になってしまった気がする。 人間は動物であり、生きているのだ。生きている以上、排泄もすれば臭い匂いも発する。それは当たり前のことであり、からかうべきことでも恥ずかしい事でも無いはずである。今回の試みは、「学校でウンチが出来ない子ども達」にとっては、画期的な物だと思う。しかし子ども達は、本当にからかわれる事が無ければ、学校でウンチが出来るようになるのだろうか? 例えば駅や会社など公共の場で、今までの学校と同じような環境のトイレを使用する事が出来るのだろうか? 私は、家の子ども達に学校でウンチをするかどうか聞いてみた。するとやはり、息子もからかわれたらしいのだが、「学校でウンチをして何が悪い?オマエはウンチをしたことがないのか!」と、逆に食ってかかったのでそれからからかわれなくなったという。全てのケースが息子のような方法で解決できるとは限らないとは思う。しかし、子どもが小さい時からの指導によって改善できる点は多いだろう。もう一度子ども達と、トイレについて話しをしてみる必要があるのではないだろうか。2003.6.9掲載
2004年07月04日
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先日子供達と一緒に買い物に行った時、小学校5年の息子が急に「三国志の本を買って欲しい」と言い出した。実は、息子が今はまっているゲームの一つに、「三国無双」というのがある。これは、中国の三国志をモデルにしたゲームなので、登場人物も三国志そのものだ。ゲームにはまっていることは知っていたので、ゲームの攻略本を買うのかと思ったら、ちゃんとした「三国志」の本を買いたいのだと言う。 息子はそのゲームをやっているうちに好きな武将が出来たらしく、その武将のことをもっと知りたいと思い始めたらしい。図書館で、子供向けにわかりやすくマンガで描かれた三国志の本を読んだのだ。そのうち、それぞれの武将の人柄や時代背景、国を攻める時の作戦の立て方などに興味が出てきて、ゲームにも三国志にものめりこんでしまったらしい。 何軒かの本屋さんを廻って、やっとのことで子供向けにわかりやすく書かれた歴史図書の中に「三国志」を見つけた時、息子は思わず「あった!」と声を上げる程だった。しかし「三国志」は長い話なので、上・中・下の三巻に分かれていた。「こんなに読めるの?」と私が言うと、絶対読むから全部買ってくれとせがまれた。 買い物から帰ってくると、「あ、関羽が出てきた!」とか言いながら、早速のめりこむようにして読んでいた。きっかけはゲームでも、いろいろなことに興味に繋げていく子供の吸収力の高さに驚きながら、息子の成長も確認できた出来事だった。
2004年07月03日
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最近の離婚率の増加を反映してか、我家の子ども達の周りでも苗字が変わる子ども達が増えて来た。中には数回変わった子も居る。先日も、息子の友達の苗字が変わった。しばらくしてから、息子たちがその友達の話をしていた、「○○の新しいお父さんって、優しいけど“エロ”なんだってさ」「“エロ”ってなに?」と私は息子に聞き返した。息子は「なんかね○○の幼稚園の年中になる弟が、そう言ってたんだ」と言った。もう一度息子に話を聞いてみると、その子の新しいお父さんはゲーム機でもなんでも買ってくれる優しいお父さんなのだが、“エロ”なんだそうだ。たぶん子ども達の言う“エロ”とは、私達が子どもの頃に使っていた“エッチ”に相当するものらしい。“エロ”という言葉の意味は、息子たちも余りよく分かってはいないようで突き詰めて聞くと、「そう言ってたんだもん、オレにも良く分からないよ」とお茶を濁されてしまった。「なんでも買ってくれる=優しい」という子ども達の価値観に、危うさを感じてしまった。しかし、それよりも私は“エロ”という言葉に反応してしまった。大人達のどんな行動を示して“エロ”と称していているのかは、結局分からなかったが、新婚さんなので、それなりに仲が良いのだろうと大体の想像は付く。新しいお父さんに優しく(いろいろ買ってもらっている)されている分、はっきり「嫌」だとは言えなくて、“エロ”という言葉を使ったのではないだろうか。その大人達の行動を子ども達は、とても冷めた目で見つめているのだ。そう考えると、"エロ“という言葉を使わざるを得なかった幼稚園児の心に差した影を見たような気がした。しかしその子に差した心の影は、その子に接した周りの子ども達にも及んでいるのではないかと思う。息子は友達の話を終える時に、「もしママが離婚したいと思ったら、離婚はしてもいいけど、名前を急に変えるのは嫌だ」と私に言った。名前が代わることで、当然人生も変えなくてはならなくなる。苗字が変わるという事は、結婚をした女性なら経験する事であるが、自分から望んで苗字が代わったにも係わらず、今までとは違う名前で呼ばれることに、最初は当惑したり、今までの自分とは違う人格になってしまったような錯覚まで覚えることがある。大人達の都合で名前を変えざるを得なかった子ども達は、突然今までの自分の人格を剥ぎ取られ、別の人格を貼りつけられてしまったような気持ちになのかもしれない。離婚をするには、それなりの事情があるはずだ。子どもなりにその事情を受けとめる努力はするが、自分の人格までは奪わないで欲しい、そんな想いを抱えている仲間達を見てきて、息子なりにそう思ったのだろう。幼稚園児の小さな心の中に差した影に、親たちは気付いているのだろうか。物を与えることでしか、優しさや愛情を表現したり、伝えたり出来ないのだろうか。現代を生きる子ども達の置かれている状況は、大人達が思うよりも厳しいものなのかもしれない、その厳しさが大人達の行動を見つめる子ども達の視線の冷たさに現れているように感じられた。2003.5.26 -オリーブニュース掲載-
2004年07月02日
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今子どもたちの間で、根強い人気を誇るゲームソフトに、ポケットモンスター(ポケモン)というのがある。ゲームの中を旅しながら、モンスターを捕まえて仲間を増やしていき、いろいろな冒険をしてゲームをクリアしていく、いわゆるロールプレイングゲームといわれるものだ。主人公に自分の名前を付ける事が出来るので、プレーヤーは、ゲームの主人公に自分の姿と重ね合わせて、まるで自分がゲーム世界を冒険しているような共感を覚える。そのせいか、我家の子どもたちも熱中している。 先日も、小学5年生の息子が友達を我家に呼んでそのゲームで遊んでいたのだが、ゲーム機を横においてみんなでなにやら紙に書いている。 「何やってるの?」と聞くと、「これで暗号を解いてるの」と見せられた説明書には、点字がびっしりと書いてあった。 説明書をよく読むと、それは実際に使われている点字で、ゲームの中でそれがモンスターを捕まえるための暗号として使われているのだ。説明書の最後に日本点字図書館の理事長さんによる点字についての解説も記載されていて、ゲームをすることによって、少しでも点字のこともわかって欲しいということが書かれていた。 子どもたちは、学校で福祉について学んだので点字のことも知ってはいるのだが、やはりそれだけでは身近に感じることは難しいのではないか、と思っていた。しかし、子ども達にとって一番身近な存在である「ゲーム」に取り入れられた事に寄って、子ども達は実体験を持って、身近なものとして点字と接することができるようになったらしい。現にわがやの子どもたちも、駅などで点字を見かけた時の反応が、明らかに違って来ているのだ。 最近、テレビゲームが子ども達に与える影響などが問題になることが多いが、このポケモンに、点字が取り入れられていることは、あまり世間には知られていないと思う。しかしこのことをきっかけとして、子ども達になにかを感じ始めたのではないかと思う。今回の任天堂の新しい試みがいずれ大きな実になることを、願って止まないのであった。2003.5.19 オリーブニュース 掲載
2004年07月01日
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