全31件 (31件中 1-31件目)
1
栗駒自然学校で行われている「若者自立塾」は厚生労働省所管事業で、相当期間、教育訓練も受けず、就労することもできないでいる若年者の方を対象に、合宿形式による集団生活の中で生活訓練、労働体験等のプログラムを実施している。原則3ヶ月の合宿を通して、社会人・職業人としての基本的能力を獲得し、働くことについての自信と意欲を身につけ、就労等の可能性を広げることを目的としている。初年度の今年は、全国25箇所が選定されて活動を開始している。東北地区では、唯一栗駒自然学校が選定されて、10人ほどの対象者が研修を重ねている。この事業の中で私の所属するNPO法人キャリア開発研究機構がキャリア・カウンセリングを担当している。本日、先週行われた2日間のカウンセリングの様子の報告を横野よう子専務理事から報告を受けた。やさしく感度の高い若者が全国から集まっていて集団生活に入っている。キャリアカウンセリングには当初戸惑いも見られたが、自分発見と気づきのプログラムで人生鳥瞰図を描いていくというプロセスの中で、希望の光を見つけたりやる気が出てきた若者が多かったそうだ。私たちのNPOでは本格的にニートといわれる人たちを対象に取り組んだのは初めてだが、開発したプログラムが実践の中で力を発揮し、磨かれていくことは嬉しいことだ。来年はじめには2回目の合宿カウンセリングが行われる。当初の目的どおり、就労につながることを期待したい。
2006/10/31
コメント(0)
月刊ビジネスデータに連載中。11月号が届く。-----------------------------------------------親しい人と会った時の挨拶は欧米では「ご機嫌いかが?」であるが、中国では「飯食ったか?」であるという。日本では、「忙しいですか?」が一般的である。日本のビジネスマンはみんな忙しく動き回っていて、それが職業生活の幸せを意味するらしい。さて、多くのビジネスマンは確かに忙しく一生懸命に働いていることは認めよう。ただし問題はその忙しさの中身である。統計の精確さを至上命題とする事務社員、五本の指を駆使して電卓を操る経理マン、帰社後複雑なフォームに報告を書き付ける営業マン、血まなこになって文字校正に追われる広報マン、過去の延長線上に研修を続ける教育研修担当者、、、、。その結果何が起こっているか。この経理マンは会社全体の方向とは違ったカネの使い方を奨励するだろう。営業マンは業績を取り繕うことに精一杯で成績はあがらない。この広報マンは気を遣ってはいるが頭を使ってはいない。この教育研修担当者は毎日たんたんと日程をこなしているだけだ。、、、。 経理マンは、計算をするという具体的な作業を仕事と勘違いしている。営業マンは、報告書を書くという作業と仕事を混同している。教育研修担当者は、研修の細かな事務をとるといいう作業を仕事と間違えている。仕事には目的がある。その目的を達成するために私たちは仕事をする。そのための具体的な行動が作業なのである。忙しく立ち働いているビジネスマンの具体的な日常を観察すると、目的を忘れて目の前の作業に没頭している人が多いのではないか。それは仕事の目的とお客様の存在を忘れるところから起こる。そしてこの二つはくっついているのだ。試みに同僚に何をしているかと聞いてみるといい。「事務をやっています」「組合対策です」などの答えが返ってくるなら、問題である。それはこまねずみのように動いているということに過ぎない。「目的は?」、「お客様は誰か?」、私たちの仕事は常に自問し続けなければ、眼前の繰り回しに明け暮れるようになってしまう可能性が高い。私たちが心しなければならないのは、日々の具体的で細かな作業と目的を達成するための仕事の区別を忘れがちなことである。作業と仕事の峻別こそ、リーダーが心すべきポイントである。
2006/10/30
コメント(7)
日曜日の午後に一度訪問したことのある芹沢けい介美術工芸館を妻と一緒に訪ねた。この館は東北福祉大学の中にあるのだが、今日は国見祭という大学祭の日だったこともあり入場料は無料で、館内には人が多かった。1895年生れの芹沢は、静岡市の呉服反物卸、小売商の家に生まれる。東京高等工業学校(東京工大)図案科を出て、32歳の時に生涯の転機となる柳宗悦とその書「工芸の道」に出会う。この美術工芸館の5階の入り口のホールのビデオで、「私(池田満寿夫)と芹沢けい介」というNHKの日曜美術館(美術家たちの記念館ではこの番組の映像を流しているところが多い。まず初めにこの映像を見てそれから実物を観るのはとてもいい)の番組を流していた。この番組は1983年12月31日の放映で芹沢けい介は亡くなる前の年だから87歳頃の映像で、出演してた池田満寿夫はまだ40代の後半で顔が若い。版画の池田満寿夫による芹沢の仕事と人物に関する評価の言葉で、この人物の凄みを了解した。染色作家という肩書きの芹沢の仕事にどちらかといえば反伝統主義的な匂いのある池田が出会うのは、外国の日本食レストランにかかっている暖簾やカレンダーに表現されている絵や字であったという。池田によれば「シンプルで歯切れよい、華やかさと軽さ」を持って伝統を引き継いでいる。布や暖簾に描く文字は純粋な美の形をしている。有名な「縄のれん文のれん」などは、暖簾の布に大きな縄を描いていて、それを人がくぐって店に入っていく姿が目に浮かぶ傑作である。デザインは本来無名性の高いものであるが、芹沢の意匠はそれをまもりながらも独自性を保っているという不思議な存在感がある。芸術家は動物的だが、芹沢は植物的である。着物、帯地、暖簾、壁掛、カーテン、風呂敷、屏風、軸などに表した膨大な仕事に対して、師の柳宗悦は「力はないけれども、力のない色だけれども、しかし美しく極楽のような色だ」と評している。この柳宗悦という人物は、棟方志功、白州正子、小林秀雄、そしてこの芹沢などに触れると出てくる名前である。日本民藝館を創設したこの柳の足跡も訪ねなければならないと改めて思った。裸婦像が、次第にデザイン化、単純化されて、最後は縄に変化する図案などには驚かされるが、池田は「単純化への意思がある」「見たものを即刻デザインする」「自然からデザインする」というように芹沢の特徴を分析している。60代になったところで急逝する池田満寿夫だが、愛嬌のある顔と語り口で、的確な言葉の連鎖を発していく。池田には、ビジネスマン時代に一度だけ会ったことがあることを思い出した。世界のグルメを味わう会で、そういえば晩年の岡本太郎と池田満寿夫、妻の陽子が一緒のテーブルだった。本の装丁、挿絵、布地に色を染めていくこの芹沢の作品は、相田みつをの文字や絵を思い出させる。本来、書物というものは、書かれてある中身と挿絵や装丁は切り離せない芸術品だった。私たちは美しい装丁を手で持つという喜びを味わっていた。芹沢は、つくる喜び、つかう喜びの両方を知っていて、創作と生活が一貫していたようで、自宅に人を招くときは、配置するものを変えていたそうだ。ひょうひょうとした魅力的な人物であった高齢の芹沢は、画面の中で日本全国をずだぶくろを持って車で行脚した」と楽しそうに語っていたのも印象深い。「屏風、着物、帯地、暖簾、扇子」というテーマの小ホールには、さきほど見た「縄のれん文のれん」(1955年)が飾ってあった。「出雲の旅 四曲屏風」には、松江城、八雲村道、平田町、出雲大社が一枚づつ描かれている。布文着物、草花帯地、すすき文帯地、水魚文帯地、漁船文着物、貝文裂(きれ)、棚の上の静物四曲屏風など、ため息がでるほど素敵な作品ばかりだ。そして年賀状やグリーティングカードも素晴らしい。「釈迦十大弟子尊像」という小ホールには、10人の高弟を表現した染物を見ることができる。それぞれ、密行第一、論議第一、説法第一、持律第一、頭陀第一、智恵第一、天眼第一、神通第一、多聞第一、解空第一の弟子である。この中には釈迦の嫡子など息子も2人含まれている。天眼のところでは、それぞれ肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼とあって、この法眼は遠近、内外、昼夜、上下とすべてを見ることができる目との解説があった。入り口のホールに戻ると「般若心経軸」という大きな軸が壁に掛かっていた。1995年に「生誕百年記念 芹沢けい介展」がこここで催されたときに記念講演した池田満寿夫(還暦)が書いたものである。大きく雄渾な軸である。池田は、この2年後にあっけなく亡くなってしまう。6階では芹沢が70代の初めから88歳で亡くなる直前まで蒐集した「中南米の工芸展」を開催していたので、観る。マヤ文明、インカ文明を生んだ「アンデスの民芸品、「メキシコ、ギャテマラ、コロンビア、エクアドル、ペルの土器。土偶」、「ギャテマラ、ボリビアの染織」などのコーナーがあった。芹沢は、いつの間にか向こうからこういう品たちが訪ねてきたとユーモラに語っている。芹沢は、1956年には人間国宝(重要無形文化財保持者 型絵染)、1976年には文化功労者。そして1976年にはフランスの国立グラン・バレ美術館で展覧会を行い、後にフランス政府文学芸術功労賞を得るなど、その仕事の普遍性を証明している。昭和32年に宮城県石越から東京鎌田に移設した2階建ての板倉の一階の様子が展示されいるのを興味深く眺めた。芹沢の応接間兼仕事場である。12畳の広さであるが、生活空間を豊かにすることを目指し「見事な調和」を信条とした芹沢は、客人にあわせて前夜模様替えをして楽しんでいたそうだ。ふと白州次郎・正子の武相荘を思い出した。
2006/10/29
コメント(0)
写真(左は久恒啓一、右は樋口裕一)金曜日の夕刻、羽田のJAL整備部門での講演のあと、渋谷に向かう。郷里の幼馴染の友達との会合だ。中津市上宮永4丁目のある狭い地区に団塊の世代前後の男の子が多数ひしめきあって暮らしていたことがある。記憶をたどると30人近くいたような気がする。今、帰省のたびにそのあたりをみると、ほんとうに小さな空間でそういう人数がたむろしていたのは幻のような不思議な感覚に浸ることある。最近連絡がとれた4人が集まったのだ。指定された店の「ざこ万」は中津出身の78歳の店主が経営していて、中津名物の「鱧(はも)」や幻の焼酎「耶馬美人」が味わえる。メンバーは、新橋で弁護士を開業して活躍している久恒三平さん。(さんちゃん)大ベストセラー「頭のいい人、悪い人の話し方」の著者の樋口裕一さん。(ゆういっちゃん)日産自動車の技術の部長をしている私の弟の久恒智彦。(ともちゃん)そして私。(けいぼちゃん)年齢は私が上で一つずつ違うということなので、同世代の幼馴染の遊び仲間だ。小学校の頃には毎日のように遊んでいた記憶があるが、中学校に入る頃になると転居したり、塾に通ったりとそれぞれの道を歩んだので、遊ばなくなってしまった。今ではみんなもう50代で風貌も変化しているのだが、互いに愛称で呼んだりしながら、にぎやかに、たのしく、ゆかいに郷里の味を楽しみながら痛飲した。たいいっちゃん、けんちゃん、つよしちゃんなどの懐かしい名前と顔や小さな事件が話題に出ると、そのシーンはセピア色で脳裏によみがえってくる。また飲み会をやろう、そしてゴルフを一緒にやろうということで終わりにして、私は新幹線の最終の22時20分(金曜日だけは22時台がある)をめがけて東京駅に直行した。 (4人の写真を載せようとしているが、技術未熟のため、とりあえず二人のみ掲示しています)
2006/10/28
コメント(4)
JAL整備事業部門で講演会を行った。テーマは「考える技術者」がJALを救う。対象は管理職。私自身が、入社は整備本部だったので、友人も多く、懐かしい会となった。装備工場以来数十年ぶりだったり、広報部時代に一緒に仕事をしたり、懐かしい顔を眺めながら話をすすめた。今回、窓口になった山下部長(広報部時代に一緒)、薮内部長(航雲寮の寮兄時代)、そして関空整備部長の津江さん(一緒に寮兄をやった)、関連会社社長の原口さんと福地さん(2人とも装備工場時代の先輩)、長谷部さんと味園さん(広報部時代の整備からの研修生でおおぞらweeklyを担当)、栗原さん(装備工場時代)、また副本部長・執行役員の奥田さんはどこかで会ったことがあると思っていたら、ロンドン時代に一緒だった人だった。コミュニケーション、図解コミュニケーション、箇条書きが思考力を奪う、考える社員、経営の本質、大いなる安心、JALの問題点と解決に向けての考え方、HP、キャリアデザインなど多岐にわたって話をして、今後の参考にしてもらった。講演時の反応やアンケートもよく、私のほうも熱が入って時間をややオーバーしてしまった。
2006/10/27
コメント(0)
NPO法人知的生産の技術研究会の八木会長がイギリス旅行から帰ってこられて、報告の電話があった。そのときに、韓国行きの話がでた。韓国ソウルにこの知研の支部ができたのだが、ここから講演依頼があり、11月に二人で出かけることになった。八木さんは「天津の日本少年」という中国での15歳までの自分史の本があり、講演のテーマは自分史執筆となった。私はドラッカーの図解本を出していることもあり、ドラッカー経営学の真髄がテーマとなった。そういえば、最近ドラッカー学会から韓国のドラッカー・ソサエティでの会合で私に出講依頼があったのが、そのときはスケジュール出来ずに断ったことがある。「人的資源管理」という学部の授業で、ドラッカーを論じる資料をつくったので、それを使うことにしようか。私の本は韓国での翻訳出版が多いので、書店を覗いてこよう。
2006/10/26
コメント(0)

11月初めに手帳の本を出版する。タイトルは、必ず夢を実現する「鳥の目」手帳術(日本実業出版社)となった。図解コミュニケーションの本質は、自由に飛ぶ鳥になったつもりで、社会や情報の空を飛ぼうじゃないかということである。日常生活では私たちは、地上を這いつくばっている虫のように低い視線でものごとを眺めている。鳥になったつもりで、おおらかに、おおきく、視界をひろげて、森の全体を眺め、興味のある対象があれば、さっと舞い降りて高度を下げて、近くで観察する。これが「鳥の目」である。鳥瞰である。地上にいてもこの目を持っていれば、全体と部分の関係がわかってくるから、意識は混沌とはしていない。自分が全体の中でやるべきことも見えているから、あせりもない。多忙ではあるのに、多忙感はない。個人の時間管理もこういった目でみることができれば、楽しくなる。スケジュールというのは、時間軸で自分の生活や人生を鳥瞰するツールである。そういった観点から手帳を使いこなそうじゃないか、という提案をしているのがこの本ということになるだろうか。私は4週間のスケジュール表を中心に仕事をしているが、このオリジナルのソフトもこの本を買った人にはダウンロードできるような仕掛けを考えている。毎週、月曜日には先週の第二週目のスケジュールがせりあがってくるソフトなので、使い勝手がいいと思う。まだ開発途上のソフトなので、無料で使っていただくことにしている。このソフトとこの本を使って、いい仕事をする人や素晴らしい人生を送る人が出てくると嬉しい限りだ。興味のある方は下記。http://books.yahoo.co.jp/book_detail/r0224046http://www.7andy.jp/books/detail?accd=R0224046http://www.amazon.co.jp/gp/product/4534041500/ref=pd_rvi_gw_2/249-3523096-0076368http://www.bk1.co.jp/product/2728643http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031800497&Action_id=121&Sza_id=GG
2006/10/25
コメント(0)
数年前、第8期までを数えた「インターネット図解塾」は、学んだ人も数百人となった。このたび、完全リニュアルしてふたたびインターネット上の図解講座を開講する運びとなった。主宰者は株式会社デュナミスで、形式や内容も新たに「図で考える!久恒啓一のインターネット図解講座 理解・伝達編(仮称)」として、11月末~12月頃に第一期オープン予定。宮城大学の卒業生たちが運営しているデュナミスもここ数年で、有限会社から株式会社に発展して、私の教え子を中心に図解部門も立ちあがり、今回の講座を担当することとなった。図解の技術の習得は、本で勉強するよりも、弟子をとってマンツーマンで少人数で指導するのに適しているのだが、実際はなかなかそうはいかない。そこをインターネットという新しい手段を用いて、時間と空間の制約を越えて、同じような効果を得ることを目指す試みである。受講生の図解を添削指導するきめ細かいカリキュラムなどをデュナミスと一緒に開発中だ。私のホームページ・ブログ・メルマガをご覧の方から優先的に予約できる仕組みになっているので、関心のある方は下記を参照されたい。抽選で5名の方に、私のサイン入り最新刊をプレゼントすることになっている。http://hisatune.net/cgi-bin/tmresmail/index.cgi----------------------------------------------------------------------------今日は、公立大学協会情報部会が宮城大学で開催された。全国の30の公立大学が会員で、今回は24大学42名が出席。私は部会長(総合情報センター長の宛職)なので、開会の挨拶と閉会の挨拶を行う。独立行政法人化とネットワーク関係の予算、ネットワーク更新と予算、デジタルコンテンツの著作権問題、学内LANの運用など、活発な情報交換が行われた。最後に、このメンバーのメーリングリストをつくってこの中で情報交換を続けていくことにした。
2006/10/24
コメント(1)
事務局との打ち合わせ、ゼミ、講義を終えて、大崎市へ向かう。第二回目の行革委員会は、行革の理念についての議論がメインテーマである。財政状況、市民の苦情状況などの説明が市側からあった後、行革の理念についての議論に入る。図解を用いて議論をすすめる図解審議会にトライ。初回の議論のあとに事務局と相談して描いた図をもとに2時間ほど活発な議論が続いた。待ったなしの厳しい財政状況でもあり、委員の議論も真剣である。伊藤市長も参加されて議論に加わる。原案図に加えるポイント、具体的な実施項目を図の中に入れ込んで修正し、全体像をつくることとなった。キーワードは「市民ニーズ」「政策プライオリティ」「コミュニケーション」。終了後は、副会長と会長の私、そして市長、副市長、総務部長、行革推進課長らと食事をしながら懇談。
2006/10/23
コメント(0)
今日は娘が通う市内の看護専門学校の「看学祭」を妻と見物に行った。娘は福祉大学を出た後、方向転換で看護師を目指すことになり通っている。初めて学校に行ったが、校舎もきれいで環境もよく、基礎・成人老人・母性小児・在宅の各看護実習室や、ビデオライブラリー視聴可能な図書館、パソコン設備なども整備されており、また学生たちもいかにも看護を職業にしようというソフトな感じで好感を持った。赤ちゃんの沐浴体験や手術室体験や、学生の展示などが行われていた。また体育館ではVOXRAYという人気グループの歌や、学生たちの歌や楽器演奏、ダンスなどのパフォーマンスを楽しむことができた。せっかくなので、身体測定とバーチャル老人体験を申し込んでみる。身体測定の方は、血圧、握力、肺活量、そして骨密度を測ってくれる。音響的骨評価値という測定情報で骨密度は年齢平均以上、肺活量は3900ccだったがこれは随分と高い数字だそうで、まずはひと安心。期待した「バーチャル老人体験」では、白内障で脳溢血による左足麻痺の80歳の老人という設定でいくつかのものを身に纏って階段を昇り降りする。白内障用のメガネをかけると、視野が極端に狭くなって階段の昇り降りには、手すりが必要だし、目を下に向けてステップを踏まないと不安になる。視野狭窄となるので、生活は不自由になることがわかった。また、左足にまとった荷物のため、のぼるときは効き足の右から、くだるときは左足からでないと昇降は難しい。これも時間をかけてゆっくりした動作でないと危険を伴うと感じた。しかし、白内障にもかからず足の麻痺もないという状態だったら、80歳になっても少し体が重くなる程度のようだ。まずは、節制をこころがけ、病気にならないような生活をすることが大切だと改めて思った。
2006/10/22
コメント(0)
王陽明という人物とはいずれ向かい合わなくてはならないとずっと考えてきた。陽明の書いた書物もいくつか買って眺めてみたことも何度かある。しかし、なかなかその思想の本質まで迫った感じはなかった。芝豪という人の「小説 王陽明」(明徳出版社)上下巻を手に入れて読み終わった。思想の発展の様子が本人の心境、環境、遭遇する事件、ライバルとの問答、弟子とのやり取りなどの中で、エキスとして現われてくる。思想は本人の成長とともに変化、回転、成熟していくものだろうから、書き表した書物からだけではなかなかわからない。人物を身近に感じながらその発展の経過を知ることができるので、この小説・評伝という形式は優れた表現方法であると感じた。後に「知行合一」で知られる陽明学と呼ばれるこの聖人の学は、すべての人に初めから備わっている良知を磨き続けること(「至良知」)が大切であるとする。そのために「事上練磨」を強調した。この考えは、朱子学(朱子自身が恐れたように訓詁学に堕した)と対立する一大思潮に育っていく。日本でも、大塩平八郎、佐藤一斎、河井継之助、安岡正篤などの流れになっていく。こういう文脈の中で王陽明のことを理解していたのだが、陽明は軍事にも抜群の能力を発揮している。それは諸葛孔明の働きを髣髴とさせる見事なものだった。王陽明は波瀾万丈の生涯を57歳で閉じている。この書はもういちど読み直したい。小説の中から少し。・格物は物に格(いた)るではなく、物を格(ただ)すとすべきだ・職務に即して学を進めるべきだ。それこそが真の格物、つまり物を格す(ただす)ことだ・人間の活動はすべてが事上練磨の対象。功夫を重ねることによって良知が磨かれる・平天下、治国、斉家、修身、正心、誠意、到知、格物・山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し・狂者(よいと思うことを行き過ぎを懼れずに行う者)・兵は惟れ凶器、已むを得ずしてしかる後に用う
2006/10/21
コメント(5)
行政機関からの講演依頼が多くなってきた。こういう講演は、それぞれの行政機関が抱えている課題や問題、実態がわかるので、私にとっても貴重な現場体験になっている。11月からは、行政改革推進委員会の会長を拝命している宮城県大崎市で2ケ月で6回の講演を頼まれている。今年度1市(古川市)6町が合併したこの市の職員は1400名という規模になったが、古川、岩出山、鹿島台の3箇所で2回づつ、全職員を対象に予定している。せっかくの機会なので、行革に直結するアウトプットが目に見える形ででる大型の仕掛けを考えている。12月は、最高裁判所で講演をする予定。数年前から定期的に通っているが、今年も皇居の近くに建つ荘重な雰囲気の最高裁にでかける。司法の分野も裁判員制度の導入など悩みは深い。また、最近、人事院から講演の依頼があり12月に出向くことになった。人事院(東京・青山)は公務員の採用、給与、退職などの身分にかかわる仕事をする役所である。人事院勧告による給与水準の議論は毎年話題になる。こういう役所は何を問題と考えているかがわかるので楽しみだ。年明けには、10月に引き続いて千葉県にある市町村職員中央研修所(市町村アカデミー)にも出かける。10月は財政部門の担当者が対象だったが、今度は企画部門の全国の市町村職員が相手である。市町村という行政現場の最前線の職員との接触もまた楽しみの一つだ。
2006/10/20
コメント(2)
PHP「ほんとうの時代」に「人物記念館を訪ねる旅――本物の日本人に出会うために」を連載している。早いもので11月号で14回目である。今回は江戸時代の浅草、上野を描いた人気作家・池波正太郎を記念した文庫の訪問記だ。次回は不忍の池のほとりに建つ横山大観の屋敷を使った横山大観記念館を予定している。過去の連載は下記のとおり。1. 後藤新平 (政治) 岩手2. 司馬遼太郎(小説) 大阪 3. 福沢諭吉 (学者) 大分4. 岡本太郎 (絵画) 東京5. 原敬 (政治) 岩手 6. 樋口一葉 (小説) 東京7. 松本清張 (小説) 福岡8. 遠藤周作 (小説) 長崎9. 新渡戸稲造(学者) 岩手10 杉原千畝 (外交) 岐阜11 森鴎外 (小説) 東京12 岡倉天心 美術) 茨城13 寺山修司 (演劇) 青森14 池波正太郎(小説) 東京
2006/10/19
コメント(0)
NHKの看板だった磯村尚徳(NHK特別主幹)さんの話を聞く機会があった。この10年、磯村さんはパリ日本文化会館の初代館長として1995年から2005年にかけてパリに滞在した。この会館は110億円かけた立派な施設で、縄文展、草間弥生展、イサム・ノグチ展、ひととロボット展、伊万里展、広重展、YOKKAI妖怪展、そして来年度は棟方志功展、アジアのキュビズム展、明治の洋画展などが予定されている。パリには世界各国の文化会館が64あるが、中国などを抑えて入場者数はトップだそうだ。その背景には、ネオ・ジャポニズムという波がある。マンガ・アニメ・ロボット・剣道・柔道・お花・お茶・折紙などにフランス人が大きな関心を抱いていることがある。いわゆるジャポニズムは宮廷やアーチストなどエリート層の感心だったが、今回は日本の大衆文化(すし屋は600軒。デーリーカルチャー)に対する関心の深まりが底流にある。庶民層に影響が及び、特に女性は「フランス人による日本祭」では65%が女性であるのも特徴。現在、フランスは一人当たりの日本文化への投資額は世界一である。日仏関係の歴史をみると、渋沢栄一、永井荷風などのフランス通の片想いの時代が続いたが、今では逆にフランスの日本への片想いに逆転している。日本では女性が一番好きな国はフランスだが、男性は14位でしかない。日本とフランスは補完関係にある。フランスは、戦略や企画が得意だが、実行面ではうまくない。日本は逆である。日産のゴーンさんの成功は、構想や戦略を彼が立て、実行を日本人がやったというプロジェクトだから成功した。20分程度の短いスピーチだったが、示唆とウイットに富んでいた。磯村さんは昭和4年生まれだから70代後半の年齢だが、元気な姿を久しぶりにみた。
2006/10/18
コメント(0)
今年の夏、博多湾に浮かぶ能古島を訪ねたことがある。そのとき、「檀一雄の家」という案内板を偶然見かけて興味を抱いて見に行った。山の中腹にある一軒の廃屋がそれだった。この家の庭からは、船着場と博多湾を挟んだ対岸の百地の海岸の建物が遠望できて気持ちがいい。その時、こういうところに別荘でも持つと幸せだろうなあと思った。この家のことを書いたエッセイを偶然見かけて読んだ。長女の檀ふみの「父の縁側、私の書斎」という文庫の冒頭に「能古島の家 月壺洞」という短い素敵な文章がそれである。「火宅の人」の著者である父・檀一雄は、気ままでわがままな人で「新しい環境を、その都度自分の流儀で埋め尽くし、埋め終わると同時に別の天地に遁走したくなる」と本人が書いているように、この家も短い期間しか住んでいない。檀ふみは、一度だけ父の住むこの家で語り合ったことがあるそうだ。どうしてこの家を「檀一雄記念館」にしないのかなあと思っていたら、このやはり地元からも要望があり福岡市に寄贈しようかとも考えたらしいが、「いつか能古島に、月の光がいっぱい入るような家を建てよう。大きな窓にもたれて、父の好きだった音楽を聴きながら、静かにお酒を飲もう。そのとき、きっと父は私のかたわらにいる。なんだかそんな気がしてならない」という結びの文章にあたった。檀ふみは、女優、タレントなどの顔で登場したが、現在はNHKの「日曜美術館」の司会で着物を着た姿で全国の美術館の名画を紹介する姿を見かけるように、美人でありながら多彩な才能と親しみやすい人柄で人気が高い。「バリアフル」「風呂と日本人」「屋根裏から」「おこたの間」「理想の書斎」「イヌ小屋?ウサギ小屋?」「スープのぬれない距離」「こころの縁側」「春を忘るな」「あたりはずれ」「名画の見つけかた」などの家にまつわるエッセイのテーマの選び方でもわかるように、観察眼が鋭く、かつ暖かく、そして素晴らしく文章がうまい。この人の本籍は物書きではないだろうか。
2006/10/17
コメント(0)
ホームページのリニュアルを最近行ったが、その一つは「映像のご挨拶」だ。今までは、「声のご挨拶」というタイトルで、ホームページを訪れた人へ声のメッセージをながしていたが、リニュアルに伴って、映像にしてみた。http://www.hisatune.net/html/etc/aisatu_v.htm「YOUTUBE」という映像に強いサービスを使ってみたのだが、その後グーグルが買収し、話題になった。この映像データベースには個人の写真があらゆる形で保存されており、それらが今後はグーグルで検索すると引っかかってきて、問題がでてくるという記事だった。こういった問題はともかく、私の方は自分にとって役に立つ技術は何でも取り入れようと考えているので、すぐに採用したというわけだ。技術に関する情報はこういった形でないと本当にはわからない。ホームページには「本棚」という新しいコーナーもできた。最新の著書の棚、分類に従って並べる棚を設置してみた。http://www.hisatune.net/html/02-kenkyuu/tyosaku/bookshelf.htm新聞や雑誌を読んで漫然と技術の進歩を知っていても実態を感じることはできない。実際に使ってみて本質がやっと理解できるというわけだ。その中で技術進歩や社会のニーズに触れることができる。こういった新しい流れや技術を教えてくれる若い人がまわりにいるということが私にとっての大事な環境である。
2006/10/16
コメント(0)
大学祭の二日目。後援会(保護者の会)主催の講演会は今年は、永六輔さん。この講演会は、小沢昭一・大江健三郎・秋山仁と続いてきた大学祭には無くてはならないイベントになっている。800人近く入る講堂はほぼ満席。さすがに永六輔さんのトークは面白くて、爆笑の連続となった。名人芸である。ビジネスマン時代におつきあいもあったが、挨拶はしなかった。私も知っている奥様は5年前に亡くなったとか。午後5時からは、後援会と大学側との打ち上げ懇親会。以下、永六輔さんの講演から。--------------------------------------------------------------------宮崎管長(永平寺)「法に則り、比喩を用い、因縁を語るべし」鎌田実のかかりつけの医者選び「患者の話をよく聴く・薬に頼らない・を暮らしの注意をしてくれる・すぐ専門医を紹介してくれる・地域の施設に詳しい・家族の気持ち理解してくれる・セカンドオピニオンの医者を紹介してくれる・むなしさ、さびしさ、わびしさを理解してくれる・本当のことを言ってくれる」永六輔のいい患者の条件「ミスや誤診で驚かない・勝手に自分で病名を決めない・同じ病気の医者を探せ・看護師を大事にする・命の終わりを考えない・医者の前で気取らない・奇跡を信じない・職人気質の医者を選べ・医者がご臨終といったら死んだフリをする」小沢昭一・永六輔・野坂昭如の年をとったと感じる時「テレビに向かって相づちをうつようになる・テレビをちゃんと観ているのに何のコマーシャルかわからない・固有名詞が出てこない・くしゃみをするとへが出る・トイレでチャックを下ろそうとするとすでに下りている・意味のなくせき払いが多くなる・新聞の訃報を読んで同じ年の人がいるとうれしくなる・階段の登り時に若い女性の3段下からのぼりたくなる」いただきます「あなたの命をわたしの命にさせていただきます」ごちそうさま「この食べ物にかかわった人へのお礼」
2006/10/15
コメント(0)
土曜日の夜は、久しぶりに映画を観た。2001年9月11日の悲劇から5年が経った。ニューヨークの象徴でもあったこのツインタワーの北棟がアメリカン航空、南棟がユナイテッド航空のハイジャックされた旅客機に激突され炎上し、崩壊したシーンはいまだに脳裏にくっきりと残っている。2749名が死亡。その国籍は87に及ぶ。343名は消防士。港湾職員の犠牲者は84名、うち37名は警察官。ニューヨーク市警察の警官は23名。救出された者は20名だった。この作品は、1986年の「プラトーン」や1989年の「7月4日に生れて」などの作品(これらの戦争映画は観たことがある)を手がけたオリバー・ストーン監督の作品である。この監督は1967年から68年にかけてベトナムで米国陸軍歩兵連隊の兵士として2度の負傷を受けブロンズスター勲章を受勲、帰還後ニューヨーク大学フィルム・スクールで映画制作を学んでいる。その後の毎年あるいは数年おきの映画作品のリストをみると、ベトナム戦争体験が色濃く反映していると感じる。その監督が世界を震撼させた同時多発テロを手がけたが、事件全体を描かずに救出にあたり生き埋めになった港湾警察官の家族愛に焦点を絞った。テロに対する怒りや政治的意図はなく、ひたすら生き埋めという過酷な状況で生き延びる二人の姿と救出劇、そして家族の様子を克明に描いた。この作品には実際に救助に携わった人たちも多数出演している。映画そのものは、2人の男のパーソナルな面から「9・11」を描いている。事態がどうすすんだのかを詳細に追い、ジョン・マクローリンとウイル・ヒメノのやりとりと生還、家族とのつながりを描いたシンプルな作品である。「あの日、人種を超えてアメリカが一つになり、世界画支えてくれたということを忘れてはいけない」というオリバー・ストーン監督の言葉が、この映画の使命と言えるだろうか。主演のニコエラス・ケイジは、生き埋めになってからは顔の表情だけで苦痛や絶望や希望を演技をしている。「俳優としての才能が、何か人々に癒しを与えられないかと考えていた」ので、この作品をすぐに引き受けている。もう一人のマイケル・ペーニャは、「粉や遺物が目に入ったりして多くのスタッグが体調を崩しました。僕は横たわっていて、顔中にさまざまな物が付着しています。石の破片が目や鼻、口に入っているんです」「あの時、慰めや癒しを求めていた気持ちが役作りでウイルと話している時に甦ったのです」とインタビューで述べている。「信じるもののために全力を尽くす」人々を描き続けたオリバー・ストーン監督は、特撮や最新技術を駆使した今までのアプローチとは違う作風を追求している。ITとグローバル経済に酔うアメリカに一撃を与えた事件を描く中で、職業に対する深い敬意と家族の絆の大切さをアメリカ国民に呼び起こす作品だと感じた。
2006/10/14
コメント(0)
宮城大学開学10周年記念式典が行われた。午後1時から行われた記念式典は、宮城大学管弦楽団演奏、馬渡学長式辞、村井県知事挨拶、相沢県議会議長祝辞、中国大連大学趙学長祝辞、米国ハートネル大学バロー学長祝辞、仙台学長会議岩崎代表祝辞、来賓紹介、宮城大学開学10周年ステートメント、宮城大学学歌「風上の息吹」斉唱、記念演舞・記念植樹というプログラム。来賓では野田一夫初代学長もみえて旧知の方々との交流を楽しんでおられた。(対応にあたっていただいた友人たちに感謝!)15時からは記念講演。講師は寺島実郎宮城大学客員教授。財団法人日本総合研究所会長で三井物産戦略研究所長(三井物産常務執行役員)。寺島さんは中央教育審議会委員、日本経団連日本ロシア経済委員会ウクライナ研究会委員長、経済産業省産業構造審議会情報セキュリティ基本問題委員会委員長などの要職も兼ねている。講演のテーマは「現代社会における知---これまでの10年、これからの10年」で、宮城大学の開学の97年前後から今日までの時代の動き、私生活主義と拝金主義を両輪とする団塊の世代論から表日本と裏日本の反転現象(現在、日本の太平洋沿岸地域は裏日本、日本海沿岸地域は表日本)まで示唆に富む内容で聴講者に深い感銘を与えた。夕方5時過ぎからは近くの仙台ロイヤルパークホテルでのパーティ。伊藤副知事、県総務部長、アイリスオーヤマの大山社長、そして大連大学やハートネル大学の学長らがみえて華やかな雰囲気。事業構想、看護の教授陣はもちろんだが、食産業学部の先生たちとも交流ができてよかった。私は、この日は講師の寺島実郎さんの係となって、4つの講演をすませて札幌から仙台空港に到着する寺島さんを出迎え、学内での対応、そして終了後は今度は仙台駅まで公用車で送るというスケジュールだったので、久しぶりに寺島さんといろいろな話もできた。寺島さんは帰京後は夜10時からのテレビ朝日の報道ステーションに出演して北朝鮮問題への日本がなすべき対応などを独自の視点で語っている姿を観た。この人の役割の大きさと多忙ぶりははまた格別だ。
2006/10/13
コメント(0)
千葉の幕張本郷にある市町村職員中央研修所(市町村アカデミー)の財政運営コースで講義。対象者は全国の市町村の財政や予算を担当する部署の職員で係長前のクラスが多い。年齢は30代中心で人数は50名を超えている。「情報の整理・図解化のポイント」というテーマで4時間のコースなので、講義と実習というスタイル。昨夜と同じように行政のあり方を論じた後、実習に入る。この研修所には毎年出講しているが、初めて郷里・中津市の受講生がいた。夜7時からは霞ヶ関の商工会館でNPO法人知的生産の技術研究会のセミナーの講師をつとめる。こちらののテーマは「人物記念館の旅」と「後藤新平」である。1時間ほど人物記念館の旅の醍醐味を語り、後半の1時間は明治の大事業構想家・後藤新平の事績や人物像をパソコン画面の写真を見せながら語った。私にとっては新しい分野だったが、楽しく話すことができた。終了後、9時半の最終便の新幹線で仙台へ。
2006/10/12
コメント(0)
いくつかの会議を終えて、夕刻6時から仙台アエルにあるエルソーラでの宮城大学公開講座の講師として出講する。今回の私のテーマは「地域づくりと社会的合意形成」である。ホリエモン事件の教訓。裁判員制度のポイント。考える社員がいない。時代の転換のキーワード。経営の本質はコミュニケーションである。説得型行政から納得型行政への転換。社会的合意形成の方程式。地域づくりの経験から。顧客満足ゼミの活動から。大崎市行政改革推進委員会の動き。受講者は60名くらいだっただろうか。宮城県庁、国土交通省、農水省、仙台市役所、北上市役所、東北経済連合会、角市役所、杜の都信用金庫、仙台市都市総合研究機構、NTT、東北大学大学院生、富谷高校、美里町役場、大崎市役所、多賀城市役所、仙台シニアネットクラブ、サイエンティア、一の坊、東北産業活性化センター、建設技研、JETRO、ワード研究所、デュナミス、、、、。宮城県庁保健福祉部地域福祉課長と仙台市企画部市民局総合政策部政策企画課長が挨拶にみえた。終了後、大崎市の行革委員を一緒にやっている富田さん、NPOキャリア開発研究機構の横野さん、そして宮城県行政経営推進課の渡辺さん、鈴木さんと食事。
2006/10/11
コメント(1)
9日の朝日新聞朝刊に「図解 働く女性の成功ノート」の広告が載った。私の本は今まで日本経済新聞の広告が中心だが、今回の本はもっと広く女性を中心に読んで欲しいので朝日新聞になった。本の中で使っている図版は書き込みながら自分で考えていくようにつくってあるから、読む本というより「使う本」といった趣の本になっている。いくつかのネット書店(amazon/bk1)でも、ちらほら読者の書評が載り始めた。----------------------「しんどいなぁ」という言葉が口癖になって、いつも何かを思い悩み、ため息をつく。こうした状況がずっと続くのかなぁと思っていたところに何冊か著作を読んだことのある、久恒氏がこの本を出したとあって驚いた。悶々とした「悩み」に対して、久恒氏が提唱している「図解コミュニケーション」がどこまで太刀打ちできるのか期待感もあったが、不安感もあった。この本の鍵は、文中にもあるが、“「悩み」を「問題」にする”というところにある。書中にある「悩み」はとてもリアルで、「このことで悩んでいるのは私だけではなかったんだ!」という気持ちになる。そういった「安心感(?)」に加えて、悩みを図にしてかいていくうちに、その悩みがいつのまにか「問題」「課題」になっていることに気づく。「悩む」というもやもや、としている気持ちの問題から何が悩んでいるポイントなのか、それを解決するためには何ができるか?と建設的に「問題」に取り組んでいるのである。図にかき出すという行為もまた、自分を冷静に客観視するポイントなのかもしれない。自分の内に対する悩みについては、自分を認めることからもスタートしていて自分を見直すことができる。もちろん、人によって解決できない「問題」もあるかもしれないけれど漠然と悩む状況から、解決できない問題だったんだ、という認識へと変わって気持ちはぐっと楽になる。自分は何で立ち止まり、本当はどこに向かいたいのか。今、たっているぼんやりとした足元に戸惑う「悩み」から、自分のキャリアデザインを意識した「問題」への変化。この変化はとてもドラマティックだ。私の口癖は「しんどいなぁ」から「これからどうしようかな」に変わった。(bk1)---------------------------------今の時代では日本でも男女平等を唱えて、女性の社会進出が増加しています。しかし、いくら平等といっても、家庭内においての脚色が原因で、女性の仕事と家庭の両立はやはり大変難しいものです。私もその大変さで苦しんでいる一人です。 主人とは学生結婚で、現在二人とも留学して大学院に通いながら、仕事も持ち、更に主人が一人息子で、早めの家継ぎを生むことも期待されています。しかし一方で、自分が好きな仕事を持ち続ける夢もあります。こんな現状のなかで、すごく悩みを抱いています。学業か家庭か仕事か??? このときに「働く女性の成功ノート」に出会えました。中に、私と同じ悩みに困っていた女性の例が書かれていました、育児・仕事・親・主人・時間・金・・・などとの付き合い方がとても参考になりました。今は、仕事か家庭か?ではなく、<仕事も家庭も学業も>だと思えるようになりました。どうもありがとうございました。(アマゾン)------------------------
2006/10/10
コメント(0)
泉パークタウンに住んで最初に感じたことは、「空が広いなあ」ということだった。東京にいた時は、自然の変化を楽しむ余裕などなかった気がする。東京ではいつも前向きに歩いていた(?)ため、上に空があることに気がつかなかったのだ。さて、この街に住む楽しみの一つは、公園を巡ることだ。山を拓いたゆるやかな起伏のある土地だから、どこを歩いても特色のある公園にでくわす。高森東公園は、夫婦の散歩という習慣のついた公園だ。水のある景色は心を和ませる。池のそばの山道を歩くときの木漏れ陽に照らされる時の幸せ感は忘れがたい。寺岡のとんがりタワーのある寺岡山。ぎっくり腰になったとき、早朝に近所の寺岡山をせっせと歩いていたことがある。かなりの傾斜のある坂道を登っていくと何の変哲もない頂上に着く。このタワーは光をともすだけで景色の価値が一変することを教えてくれる。そこからゆるやかに下っていくと野球場に出る。早朝野球を楽しんでいる社会人グループに出会うこともあり懐かしい気持ちになる。この公園は地図には高森寺岡公園という妙な名前で出ていた。紫山公園。春のおぼろな柔らかい緑の風景、夏の木陰の散歩道、ひんやりした山陰、秋の山道の紅葉の色付きの変化、冬の一面の雪景色の絶景、、。時々刻々と変化してやまない自然を感じる公園だ。旬という言葉は、上旬、下旬というように10日を指すというが、四季どころではなく10日ごとに季節が変わることを実感する。筑波山の春の日の出から立山連峰の冬の日没まで、風景が四季の変化とともに一日の流れの中に表現されている横山大観の絵巻物を見ているような気になる。公園で家族連れがキャッチボールをしたり、フリスビーに興じたり、犬と戯れて悲鳴を上げる風景を見ると心が和んでくる。幸せな人たちがここで遊んでいるのだなあとこちらまで豊かな気持ちになる。画家の描く公園の風景そのままだが、違うのは絵の中で多くの子供達が走り回っていることだ。この光景はどんな絵よりも素晴らしい。こうやって書きながら、普段何気なく使っているパークタウンという言葉は、「公園の街」という意味であることを改めて発見してしまって、われながらおかしくなってしまった。
2006/10/09
コメント(0)
「羽にもと子記念館・八戸友の会」という看板がかかった家が、八戸自動車道の終点の近くにある。静かなたたずまいのその家の門を過ぎて中に入ると、奥から女性の声が聞こえる。何かを人に説明している様子である。まず目に入ったのは「思想しつつ 生活しつつ 祈りつつ」という羽にもと子(1873-1957年)のつくった自由学園の校訓である。自由学園の名は何度か耳にしたことがある。日経新聞の大物記者を辞めて独特の未来小説などを描いている水木楊や、長銀やソフト経済センターなどで鳴らし多摩大学教授をつとめてユニークな文明観や歴史観で楽しませてくれる日下公人などがこの学校の卒業生であると聞いている。学園出身の友人がいるが、人柄も型にはまらない印象を持っている。また大学教育学会の大会を「総合学習」をテーマとして宮城大学で開いたとき、自由学園の教師の発言内容に感銘を受けたことがある。自由学園は、「画一的な詰め込み教育でなく、子供自身から勉強態度を引き出す教育」「雇い人のいない自治自労の生活」を目指し、1921年に創立する。このとき21人の少女が集まっているが、その写真がある。羽にもと子と26人の少女達が楽しそうにはつらつとして心から笑っている。この学校の教育の未来を予想させて深く印象に残った。26人の少女たちが勉強した自由学園明日館は、もと子の教育の理想に感銘したライト(帝国ホテルの設計者)が設計したものである。自由学園はその後も発展を続け、現在では幼稚園から最高学部(大学)まで男子も含め1300名を超える規模になっている。自由学園は昼食は生徒自身が当番でつくるなど自治・自労の方針を貫いているが、現在は東久留米にある。「真理は汝らに自由を得さすべし」という聖書の言葉をいただき自由学園としたのだが、戦時色が濃くなって学校の名前を変えよという官憲の圧力に対し、名前を変えるくらいなら止めてしまうともと子は啖呵を切って護ってもいる。1932年胃行われた世界新教育会議には日本代表として出席し、「それ自身一つの社会として生き成長し、そうして働きかけつつある学校」と自由学園を紹介している。日本初の女性新聞記者だった羽仁もと子は「婦人之友」「家庭之友」などの雑誌を出して、女性の教育に力を注いでいる。大正12年10月号の婦人之友の目次をみると、高村光太郎「ヴェルハアランは言ふ」、長谷川如是閑「流言飛語はどうして起こるか」などが掲載されており、もと子自身も「失はれたるものから加へられたるもの」「失へる二人の友」「手紙に代えて」など3篇を執筆している。こういった雑誌編集の中で、もと子は明治37年には家計簿なども自身で考案し、出版もしている。家庭や仕事において女性がどのように生活しらたいいか、その智恵を啓蒙し普及させたのだが、子供の頃「きわめて聡明で、きわめて不器用な子供だった」ため、自身の家庭生活を切り盛りするための智恵を取材という形で聞きまわって、その成果を記事として書いたのである。もっとも不得意な分野が仕事になったということだろう。こういうケースは身近にもあるから微笑ましくなった。2005年版の家計簿には「けむりのように消えてしまう おカネの足あとが つかめます。この家計簿をつけると 暮らしの予算が立てられ 明日がみえてきます」と書いてあった。娘の説子は「現在使われている家計簿は、もと子が苦しかった自分の生活からヒントを得て作り上げたものだったんだね」と語っている。雑誌では、本邦初の紙上座談会なども行っている。昭和31年1月号をみると、羽仁もと子、三木清(哲学者)、羽仁吉一(夫)、小林一三(経営者)などが座談会を開いている写真がある。スタッフには挿絵の竹久夢二などの名前もみえる。「婦人之友」は1930年創刊だが、この雑誌に書いた文章をもとにもと子は「羽にもと子著作集」21巻を刊行する。この著作集は大変に人気があって、各地の読者の集まりができていった。これが「友の会」である。昭和5年には第1回大会を開いたが、当時39の友の会があり、会員は1000名に達した。館員の女性に聞くと「現在は3万人を切った」とのことでその影響力に驚いた。友の会は、88箇所にあり、海外愛読者は56カ国にも及ぶ。1929年、56歳のもと子は第1回不用品交換会を催す。今で言うフリーマーケットである。「合理的な家事・育児に役に立つ記事を満載した婦人之友や家庭之友は、全国各地で家庭・子供・仕事の各面で必死に生きようとしていた女性の生き方に多大な影響を与えた事業だったと思う。「朝起きて聖書を読み 昼は疲れるまで働き 夜は祈りてねむる」記念室に飾っている言葉である。もと子の日常の心構えを髣髴とさせる。羽仁もと子は八戸の松岡という家の出であるが、この松岡家は人材を出している。もと子の妹の千葉クラは、敬虔なクリスチャンとして八戸の女子教育に一生を捧げており、千葉学園を創設した。弟の松岡正男は、慶應を出て新聞記者として活躍し時事新報の会長になっている。その弟の八郎はデーリー東北の社長である。ジャーナリストや教育者が多い。また、羽仁もと子の長女説子も教育者だが、結婚した相手の森五郎はが後のマルクス主義者であり一世を風靡した羽仁五郎である。私は大学時代「都市の論理」という著作に親しんだことがあるが、卒業後知的生産の技術研究会の講師としてお呼びして謦咳に接したことがある。また、その子供は映画監督の羽仁進であり、その子供が1964年生れのジャーナリスト・羽仁未央である。時代の先駆者として啓蒙的な人々が多いのが特徴のようである。----------------------------------------------------------------二戸のシビックセンターの2階と3階にある二人の記念館も訪問する。・3階:田中館愛橘記念科学館・2階:福田繁雄デザイン館
2006/10/08
コメント(2)
大山康治将棋記念館を訪問する。将棋界で抜群の実績を残した第15世名人の大山は、通算成績1433勝781敗(勝率6割4分7厘)、棋戦優勝124回、獲得タイトルは、名人18期、王将20期、王位12期、棋聖16期、そして名人・A級在位連続45年という空前絶後の金字塔を打ち立てている。「賞はごほうびでなく、激励のしるしである」「一時の栄光を求めるより、長く続けることが大切」「人が真似できない芸を持つことが一流の条件である」こういう言葉が記念館の壁に掲げてあるのをみて、偉業を達成した大山の心構えと心掛けに感心し、納得する。年譜をみると私の生まれた年に初のタイトル(九段戦)を獲得し、2年後の29歳で名人位を奪う。50歳で永世王将、53歳15世名人、57歳永世十段と、42年間に亘って活躍しているから、この人の強さはよく知っている。記念館の入り口に、一代の覇者は先輩・同輩・後輩を負かすは、後に後輩に破れ、天命として位を禅譲するという考え方が記してある。大山康治は、木村名人から禅譲を受け、20年にわたり第一人者として君臨し、中原名人に位を禅譲した。木村名人が負けたとき、「良い後継者を得た」と語ったことも知られている。大山は書が素晴らしい。この名人は、書やこけし、扇子などに自分の好きな言葉を多く書いている。「努力」「忍」「歩の力」「和」「千変万化」「夢」「調和」「一歩千金」「龍」「静観」「根性」「心如水」「仁者寿」「勝負と人生」「助からないと思っていても助かっている」」「思無邪」「昇竜」、、、。大山の考えていたことを感じさせる言葉群である。同時代の棋士たちとの成績も貼ってあった。昭和18年生まれの「さわやか流」米長邦雄の対大山戦は、45勝58敗昭和14年生まれの「自在流」内藤国雄は、18勝50敗昭和7年生まれの二上達也は、45勝116敗昭和57年生まれの「光速の寄せ」谷川浩司は、15勝6敗昭和22年生まれの「自然流」中原誠は107勝55敗昭和15年生まれの「神武以来の天才」加藤一二三は、46勝78敗明治38年生まれの「第14世名人」木村義雄は、11勝17敗大正7年生まれの「新手一生」升田幸三は、70勝96敗昭和10年生まれの「火の玉流」有吉道夫は、28勝40敗青森県百石町は大山の故郷ではない。縁があって平成元年に名誉町民となった大山は、頻繁にこの町を訪れている。百石は将棋盤や駒のいいものを産むこともあり、将棋を通じた町づくりを目指しており、1986年からは全国将棋祭りを開催しているなど将棋が盛んだ。子供たちの強さは全国有数である。「大山康治を語る」というビデオが大山んも素顔を語っている。中原永世十段「受けの強さ。大局観がすぐれている。常識や定石にとらわれない。相手のクセを見抜く」永井英明「大山は将棋の普及やファンサービスに取り組んだ。あんな多忙な人はいなかった」中戸俊夫(百石町)「いばらない、気さくな方だった。ゴミ拾い、お茶だし、盤運びなどもやっていた。行事のお願いなどで断られたことがない。第二の故郷とおっしゃって毎月必ず見えた」記念館の将棋の歴史の展示も興味深い。古代インドでチャトランカとして生まれた将棋は、西に向かって西洋のチェスとなり、東に向かって中国の像棋となった。日本将棋は、中国からのルートとタイやカンボジアからのルートの二つの説があるが、8世紀以前に伝わった。西洋では立体の駒を使うチェス、中近東では立体の駒のシャトランジ、モンゴルではシャタル、フランスではフランス革命、タイではマックルック、トルコではシャトランジという将棋が盛んである。中国のシャンチーは、文字が書かれた丸い駒を9路X9路の交点に置いて漢界と楚河に分かれて戦う。漢界側は、兵、相、仕など、そして帥、楚河側は卒、象、馬、車、包、士、そして将という駒を使う。どちらも7種類の駒を使って戦う。兵卒という言葉や将帥という言葉の成り立ちを思わせる。日本では、68枚の駒を使う平安大将棋、現在の将棋から飛車と角行を除いた形で駒が取り捨ての平安将棋(小将棋)、現在でも指す人のいる唯一の古将棋である中将棋(桂馬がない)、鎌倉期の130枚の大将棋などの解説がある。持ち駒使用は日本将棋の独自の特徴であり、ゲームが複雑化し、面白みが増す画期的なものなのだそうだ。今上陛下(明治天皇)献上の将棋駒は字が見事だ。また摂政宮殿下献上の将棋駒の字は丸い字で味がある。人物記念館は死んだ記念館が多いが、この記念館は子供たちが将棋を指す姿、子供と職員の将棋などが行われており、活気があり生きている記念館だとの好印象を持った。--------------------------------------午前は大山将棋記念館、午後は十和田市の新渡戸記念館を訪問。宿泊は二戸の金田一温泉。
2006/10/07
コメント(2)
大暴風雨の中、青森県の三八上北地方(三戸・八戸・上北半島)の中心地である八戸市での講演会に向かう。八戸は人口24万人ほどで、青森県では弘前を凌ぐ県第二位の都会である。青森県医師会生涯教育講座の受講者は八戸の医師会メンバーである。テーマは「医療現場と図解コミュニケーション」。風雨の中、夕刻7時には八戸グランドホテルには40人ほどの医師が集まった。懇親会の後は医師会の幹部たちと夜の街に出て食事をする。医師会の村上会長は脳神経クリニックの開業医、副会長の瀬尾さんは八戸赤十字病院長、理事の田名部さんは八戸市民病院の副院長(専門は小児科)、座長をつとめた岡本さんは市民病院の外科部長。みんな60代のこの町の実力者である。「日本の医療は医者のボランティアで成り立っている」という発言があるなど、医療業界の問題、悩み、実情などを肴に痛飲して、楽しく過ごして気がついたら11時半になっていた。この時間まで飲んだのは久しぶりだ。
2006/10/06
コメント(0)
「知研フォーラム」(NPO法人知的生産の技術研究会の機関誌)が充実している。それぞれの記事に読み応えがあり、なかなか簡単には読み切れない情報量である。http://www.tiken.org/10月1日発行の291号は、会のセミナーのまとめだけでも次のとおり。・最高裁判事10年を体験して 東京 福田博(最高裁元判事)・道州制は地方分権の切り札になるのか 名古屋 吉田隆之(愛知県県民生活部統計課)・入門・ポットキャスティング 大阪 豊田佳明・大石裕一・物書きを志す人に与う 東京 小中陽太郎(作家)・私の映画づくり 東京 今井正(映画監督)・途上国に生まれてよかったと思うこと 東京 金容善(元金星中央研究所長) 李 (韓国青少年図書財団理事長)また、投稿・連載等では・ニートの自立支援施設見学記・ポスト万博の1年間を振り返って・人生の古典を読む-ギッシング・普遍性を求めて・僕はニートです・覇権国家ロシアについて再び考える・モトイズム--産業界から大学に転じた10年の顛末記・歴史ノンフィクション「宣教師東漸」私の部分は・人物記念館の旅---横山大観・池波正太郎・メディアクリッピングから・新刊「働く女性の成功ノート」の広告
2006/10/05
コメント(0)
宮城大学卒業生でつくっている株式会社デュナミスからWebインタビュを受けた。以下その記事。-------------------------------------------------デュナミスとの出会いを教えてください 私は宮城大学の開学と同時に、初めて現在の大学教授の職に就いたのですが、その中でも印象深いプロジェクトが、デュナミスとの出会いになっています。 現在の「ベガルタ仙台」であるサッカーチーム「ブランメル仙台」の幹部の方から、「ブランメル仙台」をJ1に昇格させるお手伝いをしてくれないか、という話をいただきました。私が宮城大に来て少ししてからのことです。話を進めていくうちにプロジェクトに学生の意見や力を取り入れながらやっていこうとなり、講義の際に学生に呼びかけたのです。この呼びかけに応じたのが、一期生であり、後にサークルデュナミスを立ち上げることになる力丸君でした。力丸君を中心に産学連携という趣旨に賛同してくれた有志の学生が集まり、サークルデュナミスになったのは、以前に力丸君が話していたとおりです(※月刊デュナミスWEBマガジン8月号参照)。 私はサークルデュナミスの顧問として彼らとその後も様々なプロジェクトを行ないましたが、私にとってこのプロジェクトは学生や地域の人々と連携して行ったはじめての事例として、非常に思い出深いプロジェクトになっています。力丸君を中心に、渡辺君など力のある人材が結集したことはとても大きいですね。最初の一期生や二期生というのは、教えたというより仲間という感じなんです。ルールも仕組みも何もない状態の宮城大学に飛び込み、一緒に大学を作ってきた仲間。その仲間が現在中心となっているのがデュナミス。私にとっても大変幸せな出会いだったと思います。 現在、デュナミスとはどのような関係ですか? 経営や仕事上の相談に乗ったり、一緒にプロジェクトを行ったりしています。例えばシンクタンクや各自治体から相談を受けた際に、自分一人の意見だけではなくデュナミスのメンバーと一緒に考え、より良い結果を出そうと共にやってきました。その中で様々なノウハウを教えたり、一緒に開発したりと、お互いに欠かせない関係になっていると思いますね。 デュナミスは私のゼミ出身であったり、学生時代に様々に私と関わっていたメンバーが中心になっていますので、気心が知れた仲です。いずれみんなが年を取って、君付けで呼べない時代が来るかもしれませんが、今のような良いパートナーシップは続けていきたいと思っています。「一馬君ももう60歳になったか!」なんて言ってるかもしれませんね(笑)。そんな中でメンバーの皆さんに言いたいことは、「自分の健康を大事にして」ということ。個人の健康は会社の健康に繋がりますから、個人個人できちんと健康管理をしてください。近年忙しくなって働いてばかりいるようだけど、私より先に倒れる人なんて出ないようにしてくださいね。ちなみに私がプレゼントした万歩計、ちゃんと使っていますか? 先生にとってのデュナミスとはどんな存在でしょうか? 先ほども申しましたが、開学してからの宮城大学で一緒に学校を作ってきたメンバーがデュナミスにはたくさんいますので、宮城大学の理念を非常に濃く引き継いだグループであると、私は考えています。その中で私も一緒になって成長してきた仲間です。 私が今までやってきた中でも思い入れのあるプロジェクトの一つに、ある地元自治体のまちづくり計画があります。21世紀のまちづくりをテーマに地元の人と一緒に考えたのですが、そのときのプロジェクトで得た経験やノウハウ今も連綿と積み重なって続いているのです。その過程には必ずと言っていいほど、学生の頃のデュナミスメンバーが関わってくれていました。そういう意味でも、私のノウハウはデュナミスにしっかりと受け継がれていると思います。地域の問題や課題に関しては、かなりの量のプロジェクトを一緒にやってきましたので、ぜひそのノウハウを生かして地域だけではなく全国規模で事業展開をしていって欲しいですね。 デュナミスを一言で表すとなんでしょうか 一言で…といいますか、まず言いたいことは「社名を変えて欲しい」ということなんですが…(笑)。“デュナミス”という名前も大変素晴らしいと思っていますが、“デュミナス”と間違えられやすいんですよね。もちろん無理な話とは分かっていますよ(笑)。 デュナミスは力や元気のある若者が集まる場所だと思います。そのような若者がいるということは、日本の将来にとっても、大変有益なことではないでしょうか。このような人たちが全国あちこちにいればいいなぁ、どんどん日本が元気になると思います。自分にとってもそうですが、宮城大学や地域にとってもデュナミスが生き生きと活動していることは「元気の素」です。そんな、関わった人みんなが元気になれる「元気の素」にデュナミスの存在がなっているんだと思います。調味料のように、みんなに元気を振りかけていく「元気の素」であり続けて欲しいですね。 今後のデュナミスに期待することは何ですか? 高野槙という木をご存知でしょうか? 先日お生まれになった悠仁親王のお印の木です。この木は日本固有の常緑樹で高さが40mあり、太さが1.5mもある大きな木ということから、「大きくまっすぐ育って欲しい」という願いをこめてお印に選ばれたそうです。そこで私からの提案なのですが、デュナミスも今後この高野槙を会社の木にしたらどうでしょうか いつまでも若く元気に、という意味でも常緑樹は最適ですし、「大きくまっすぐ育って欲しい」という願いは私がデュナミスに対して抱いているものでもあります。 しかし、実は一つだけこの木にも短所があるのです。それは成長が遅いこと。成長が遅い分、年輪の幅は小さいそうです。ですがそれは決して短所だけではありません。年輪の幅が小さいので、肌理の細かい緻密な作りをしています。そのため耐水性もあり固く育つそうです。この部分、まさにデュナミスにぴったりだと思いませんか?高スピードで成長してボキッと簡単に折れてしまうような、ベンチャー企業が最近は多いようですが、デュナミスはゆっくりとしたスピードでも基礎を緻密に積み上げて、しっかりと固く育つ高野槙のような会社ではないでしょうか。 それに「ひさひと(親王)」と「ひさつね」って、ちょっと似てるでしょう?(笑)二文字だけですけど。株式会社化一周年のときに親王も生まれたことですし、ぜひ、高野槙を会社の木にしてくださいね!私からの提案です。いいと思うんだけどなぁ。------------------------------------------------------------------写真を含めた全文は下記参照。http://www.dunamis.jp/03-sinka/web-magazin200609/yukari.htmhttp://www.dunamis.jp/
2006/10/04
コメント(0)
先月、ボーダーフォン(ソフトバンク)の携帯905SHを購入した。いわゆるワンセグというやつで、画面をヨコにしてテレビがを見ることができる機種である。画面をヨコにするだけで自動的にテレビ電波を探すので、タクシーの中でニュースを知りたいとき、仕事場でスポーツの結果を知りたいときなど重宝している。会議などでヨコにしているとテレビを見ているとばれるので、そういうときは画面が少し小さくなるがタテにすることもできるのがいい。主に地震等災害時にニュースを知るためにこの機種にしたのだが、普段はこういう使い方で楽しんでいる。今日は、ウイルコムの「W-03es」をを入手した。先日私のゼミの卒業生が近況報告に研究室に現われたときに、持っていたツールだ。その使い方に刺激されて買った。携帯よりやや大きい白いデザインで、ハンディタイプのパソコンといってもよい。今すごく売れているそうだ。 外出先でもメールチェックができる。 下側をずらすと小型のキーボードもついている。 ワード、エクセル、パワーポイントも使える。 外でインターネットが閲覧できる。 プロジェクター、プリンターにもつなげる。 ワンセグにつなげばテレビも見れる。 そして、PHSでもあるので、当然きれいな音質で電話もかけることができる。技術革新の進歩でどんどん便利になってくる。外出先でも仕事場や書斎と同じ感覚で情報が処理できるように環境を整えていくのが私の願いである。ホームページにあらゆる情報を入れこんで使いやすく育てているのもその願いへのチャレンジでもある。またグーグルのGmailの導入で迷惑メールのストレスからは解放されたし、今回のW-03esの購入によって、快適なモバイルライフという願いに一歩また近づいた気もするが、どうだろうか。
2006/10/03
コメント(0)
ビジネスマンなら誰でも手帳は持っているだろう。秋になると各種各様の手帳が売り出され、店頭が賑やかになるのは毎年のことだ。「手帳」という名称は、手に入る小型の帳面という意味でつけられている。手帳という名前は、モノの持つ意義や意味を語っているわけではなく、単なる形を述べているわけだ。私も若い頃から手帳には凝ってきた。手帳業界に君臨し続ける能率手帳、そして一世を風靡したシステム手帳など、過去に使ったあらゆる手帳が書斎には揃っている。手帳には何が書いてあるか。まず、電話番号簿や住所録があるが、こういう呼び方では本質を表ないと思う。それは自分の持つ人的資源のリストである。小遣いの収支を記す欄もあるだろうが、これは金銭出納簿などではない。可処分所得の使い方を記した貴重な資料であると考えたい。また、手帳の最大の用途はスケジュール表だろう。スケジュール表とは何か。限られた貴重な資源である時間、特に可処分時間の使い方に関する予算書であり、その結果を示す決算書なのである。その他、家族の誕生日、ゴルフにかかわる格言、新聞記事の切り抜きなど、様々の自分にとっての大事な情報が含まれているはずだ。これらは、生活充実のための情報資源である。こう考えてくるとこれはもはや手帳ではないことは明らかだろう。手帳とは、ヒト・モノ・カネ・時間・情報といった人生の限られた経営資源を最適に組み合わせて最高のレベルの生活を実現するための貴重な道具なのだ。会社の経営と人生の経営とはなんら変わるところはない。私たちはこの道具を使いこなしながら、仕事を含む人生全体をマネジメントしていかねばならない。だから手帳には人生が入っていると言っても過言ではない。「たかが手帳」ではない。以上述べてきたような考え方と具体的な技術を身につけて手帳と対峙することは、極めて大切なことである。リーダーは、組織や集団をマネジメントすることが仕事であるが、自分自身をマネジメントする力がなければそのような仕事を全うすることは期待できない。手帳という戦略的ツールを活用して自らの人生や生活を戦略的にマネジメントしようとする気概と日常的な訓練が、リーダーとしての素養を育むと言ってもよいだろう。 (月刊「ビジネスデータ」10月号執筆原稿)
2006/10/02
コメント(0)
私のホームページ(図解Web)が、明日からリニュアルしてお目見えする。http://www.hisatune.net大きくデザインが変わるわけではないが、いろいろなアイデアや新しい技術を取り入れることによって使い勝手がよくなるはずである。映像による挨拶、書棚の変更、研究室の様子の開示、デザインの変更、各種資料の収納、、、。私のホームページは1999年2月オープンだから、いつのまにかもう7年半になった。この間、下記のように何度もリニュアルを行い、進化を重ねてきた。今後もこのホームページとともに進化を続けていきたい。図解Webの歴史 1999年2月1日 図解Web正式オープン 2000年2月 サイト内検索の導入 5月 メルマガ「ビジネスマン教授日記」開始 10月 インターネット図解塾開講 11月 URLをhisatune.netに変更 2001年4月 大幅リニュアル 2004年6月 大幅リニュアル 2005年2月 累計アクセス数 476000ヒット 2006年 ブログ、メルマガ、HPの連携体制確立
2006/10/01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1