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「立っているだけで感動する」と言われる、20世紀最高のバレエダンサー、ユダヤ系ロシア人のプリマ、マイヤ・プリセツカヤと、能楽界の第一人者・梅若六郎の一夜限りのコラボレーション。舞台は世界遺産の上賀茂神社です。なんだか、最高の食材を寄せ集めて、骨董の鍋で煮込んだらどうなるか、というような(めちゃめちゃ例えが悪い)イベントにも見えますが、果たしてどうなることやら。数少ないプラチナチケットを友人が取ってくれました。立っている姿を見るだけで感動するという人が生で見られるというだけでわくわくします。ところが、賀茂別雷大神のお力も届かず、天候は雨。しかも、気温は明らかに10度を下回ってます。会場は上賀茂神社の細殿で、観客席にはテントがなく、配られた雨合羽と毛布で耐え忍ぶしかない、という最悪のコンディションでした。風がなかったのがせめてもの救いでしょうか。内側にステテコとジジシャツという完全防備で臨みました。これなら大丈夫なはず。上賀茂神社の細殿前には、パイプ椅子がザザッと200席くらい、並んでいました。NHKのハイビジョンカメラが4カメくらいいたでしょうか。テレビの撮影があるだけあって、照明はバッチリです。演目は、1)能「羽衣」2)「アヴェ・マイヤ」:曲は「アヴェ・マリア」で、それをマイヤ・プリセツカヤ向けに振り付けして、編曲されたもの。今回は両手に紅白の扇を持っての上賀茂バージョンでした。3)笛の独演(曲名は何だったのか、わかりません)4)ボレロ:能の舞いとバレエのコラボレーション。このコンディションのため、間に休憩はなく、一気に上演されました。やはり、印象に残ったのは、マイヤ・プリセツカヤの凛々しいお姿です。今年で83歳になるとは到底思えない体のライン。スラリと伸びた背筋、スッキリとした首筋、昔と変わらぬ(過去の名演をYouTubeで予習しました)しなやかな動き。衰えを感じさせないどころか、逆年齢詐称ではないかと思えるほどです。森光子や由美かおるも及ばない、段違いのアンチエイジングぶりです。確かに「立っているだけで感動する」の意味がよくわかりました。マイヤ・プリセツカヤのスゴさは、そのストイックな自己管理だけではありません。1943年にモスクワのボリショイ・バレエ団に入団後、父親をスターリンの迫害で亡くし、母親も地方に追放されてしまいます。自らも、共産党体制の圧力の中でもがき苦しみ、海外公演に出てもホテルに監禁されるかのような自由のない生活(ドッグフードを食べさせられたことも時折あったのだそうです)を強いられました。その生き様をどのように想像したらいいのか。僕らの想像を遥かに超えるものでしょう。そういった背景も、オーラに変換してしまったような舞台でした。ボレロでは、能の装束をふわっと両腕にかけて舞います。そのアレンジも上品で無理のないものでした。途中、向かい風で右腕から装束が外れてしまいましたが、踊りのしなやかさが失われることはありませんでした。午後6時半開演で、午後8時過ぎに終了しました。見とれているうちに、あっけなく終わってしまいました。周りはあまりの寒さに途中退席する人が続出しましたが、最後まで見れば、そのオーラに感じ入った人は多かったはず。できれば良いコンディションで見たかったなあ。でも、あの83歳はありえない...背筋を伸ばし、徹底的な自己管理をすることの素晴らしさを教えてくれたように思いました。感動しました。
2008年03月30日
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飛び石連休にマイレージを活用してふらっと九州を旅することにしました。九州は去年2月に高千穂の夜神楽に行って以来です。また歴史ある神社を訪れようと、3日間で九州を縦断する旅にでました。まず初日、宇佐神宮へ。この日は大分空港に着いた後、しばらく国東半島の石仏めぐりをしていたので、車で着いたのが午後3時30分ごろでした。宇佐神宮とは、725年に建立された、全国4万社あまりの八幡宮の総本宮です。一之御殿に応神天皇を、二之御殿に比売大神(ひめのかみ)を、三之御殿に神功皇后を祀ります。八幡信仰は仏教文化と神道の融合と考えられ、そのために神仏習合の発祥地とされています。また、東大寺大仏殿の建立に際して、宇佐の女祢宜である大神社女が、八幡神を擁して紫の神輿に乗って奈良に入ったことから、神輿発祥の地とも言われています。伊勢神宮が外宮→内宮の順に参拝するように、宇佐神宮は上宮(じょうぐう)→下宮(げぐう)の順で参拝します。もっとも、伊勢神宮とは違って、上宮と下宮はすぐ近くにあります。こちらは上宮。左から一之御殿、二之御殿、三之御殿となっています。本殿は八幡造りで国宝に指定されています。「おや?」と思ったのは、拝礼の方法です。二礼、四拍、一礼。つまり出雲大社と同じ方法なのです。これを採用しているのは、全国でも出雲大社と宇佐神宮だけなのだそうです。しかもその由来は不明なのだとか。日本史のルーツにもからんだミステリーが、ここにありそうです。上宮の奥には、ご神木のクスノキが立っています。社殿と比べると、その大きさがわかります。お土産に「鳳凰ネクタイピン」を購入しました。本殿の外陣と内陣にある襖に描かれた鳳凰からデザイン化されたもので、これぞ宇佐神宮オリジナルのおみやげです。でもネクタイピンを使うことなんてほとんどないんですけどね。いつ使うかな?つづいて、下宮へ。こちらは産業発展の発展や農業の充実を願う神様がいて、上宮よりも身近なはずですが、立ち寄る人影は、上宮と比べてまばらでした。上宮と下宮の分かれ道はこんなところにありました。深々とした森の中にある、宇佐神宮。鮮やかな朱色の社殿や鳥居に歴史の重みを感じる訳ではありませんが、神社らしく、しんと静かで清浄な空間を充分に感じることができました。
2008年03月20日
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飛び石連休にたまったマイレージを使ってどこかに行こうと思って空席をみてみたら、大阪-大分便が空いていました。大分空港は、大分市から離れた場所にあって、国東半島の隅にちょこんとあります。国東半島は、奈良時代から平安時代にかけて六郷満山と呼ばれる仏教文化が栄えたところです。石仏や磨崖仏など、今もその遺跡が半島の至る所に散在しています。ということで、この日の遺跡めぐりでは「仏の顔も三度まで」というわけにはいきません!午前8時45分に大分空港に到着。レンタカーの手続きをして、すぐに出発です。まず国東半島の最深部・岩戸寺に向かいました。誰もいない、閑散としたところでした。百年経っても景色が変わらないような感じです。こうやってみると、石の仁王像というのは、風化した後のディテールの粗さがかえって周囲の環境と一体化してきて、それが味になっているような気がします。向かって右側にあった像は、1478年に造られたもので、在銘丸彫り仁王像としては日本最古だということです。導かれるように参道を奥へと進んで行くと、国東半島で最古の宝塔という国東塔がありました。あまりにもひっそりと建っているので、これが重要文化財だとは気づかないほどです。茅葺き屋根のお堂も、鄙びた感じで、このお寺の雰囲気にピッタリでした。続いて向かったのが、文殊仙寺(もんじゅせんじ)。カーナビに行き先を入力しようと思ったら、寺の名前が案内リストにないことが発覚!ナビ頼りだったので、看板を見逃すなどして道を2度間違え、30分も迷ってしまいました。電話番号を104で聞けばよかった...着いてみると、やはり参道の両脇に立派な仁王様がお出迎え。石段を上がり、奥に進むと、表情の豊かな石仏が並びます。苔むした感じがまた風情を増しています。両子寺(ふたごじ)では初午大祭が行われていました。正午の餅撒きにちょうど間に合いました。自分もひとつだけCatchできました!このお寺で最も印象深かったのは、ふもとの参道です。仁王像と並木と仁王門と石段、その並びが荘厳な印象を与えます(中に入ると、くだけた感じになりますが...)富貴寺。九州最古の木造建築という国宝・大堂のバランスの良さに惹かれます。雨の日は中に入ることができませんが、この日は快晴。わずかに残された内側の壁画を見ることができました。お堂の周りには、様々な石像美術があります。無造作に、それでいて周囲と溶け合っています。元宮磨崖仏は、偶然通りがかりました。これは薄い石板に薄く彫られていました。ギリシャ彫刻のような感じさえします。あいにく、真木大堂は、改修中のため閉鎖されていました。石仏ばかり見ていたので、このへんで9体の木像仏像群を見たかったのですが、残念。そして、最後に、熊野磨崖仏。鬼がわずか一夜で築いたという伝説の石段を登っていきます。この険しさは、まるで新宮の神倉神社のようです。99段あります。石段を上っていくと、突然、巨大なふたつの磨崖仏が現れます。その迫力に、思わず「おおっ」と声をあげてしまいました。右手奥に高さ約6.8mの大日如来、左手前に高さ約8mの不動明王がそびえます。不動明王の表情がどことなく柔らかく、探せばいそうな顔で親しみやすい感じです。この巨大な磨崖仏、今からおよそ900年前につくられたとされています。それにしても、なぜこの国東半島には石仏がこうも多いのでしょうか? 周囲は緑豊かで、木で仏様をつくることだって充分にできたはずです。近畿地方ではほとんど見られません。近くには神仏習合の発祥地、宇佐神社があります。つまり、神でも仏でもいいから助けてほしい、それだけこの土地の人々は、今の痛みや苦しみから逃れたいという思いが強く、その思いの強さが岩を削るという行為に発展させたのかもしれないと、勝手に想像するのでした。その石仏が風化を重ねて、今日のマイルドな姿にかわり、周囲の風景に溶け込んでいるところに、味わい深さを感じるのでした。
2008年03月20日
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「街全体が映画のセット」...そう呼ばれるほど、美しい町並みで知られる尾道。大林宣彦監督の尾道三部作から20年あまり経ちますが、いまだにロケ地巡りをする観光客が絶えません。大阪からは新幹線と在来線を乗り継いで、およそ1時間半で着くほどの近さ。春の暖かい日差しとともに歩いてみることにしました。午前9時11分新大阪発の「ひかりレールスター」に乗り、福山で在来線に乗り換えて、尾道に着いたのは10時40分過ぎ。あっという間でした。まずは、尾道ラーメンを体験しようと、最も有名なお店の「朱華園」へ。11時開店のはずが、11時過ぎには、すでにお店の前には長い行列ができていました。回転が早く、あまりイライラと待つような時間はありませんでした。鶏ガラベースに、豚の背脂が浮かびます。基礎となる味は醤油味。スッキリとした味で、秋にいただいた福島の郡山ラーメンに少し似ている...と思ったら、あとでガツンと背脂が効いてきて、口の中に脂っこさが少し残りました。もう少しあっさりしていたら、一日で2~3杯いこうと思っていたのに....お腹を満たしたところで、早速、寺巡りをスタート。普通なら尾道駅の近くから進むところを、駅から最も遠い浄土寺から駅に向かうルートにしました。これは浄土寺に向かう階段。すぐ上をJRが走っています。まずは、浄土寺。飛鳥時代に聖徳太子が創建した真言宗の名刹で、本堂は国宝に指定されています。小津安二郎監督の「東京物語」のロケ地にもなりました。おびただしい石仏群が、奥にありました。なかなかの迫力です。道しるべに忠実に進んで行くと、西国寺に着きます。仁王門の巨大なわらじが目につきますね。さらに階段を上がって行くと、国の重要文化財に指定されている三重塔があります。その優美な形が特長です。つづいて、御袖天満宮(みそで)。映画「転校生」で、主人公の2人が抱き合って転がり落ちていくうちに、男女が入れ替わるという場面に使われた石段がこちら。きれいな一枚の石段がずーっと続くから美しい。ところが、最上段の一部にだけ、あえてひび割れが入っています。これには人間のつくるものに完璧はない、という教訓が入っているのだそうです。御袖天満宮の由来は、菅原道真が太宰府に左遷される途中で、尾道に休憩に立ち寄り、人々の優しさに感動した道真が、自らの着物の袖を破いて自分の姿を描いて渡したというエピソードにあります。天満宮を下りて脇道に入った先に、道真が腰掛けたという石がありました。そのすぐ近くには、大林監督から、観光客へのメッセージがありました。すんごく地味な場所でびっくり。艮(うしとら)神社。ここは映画「時をかける少女」で回想シーンに出てきます。ご神木のクスノキ、かなりの迫力です。さらに、尾道駅に近づき、千光寺へ。尾道で最も有名なお寺で、ロープウエーで上がります。往復440円。脳科学者の茂木健一郎さんも、ここでビールを飲むと気分転換になるのだとか。確かに、この景色は美しい!切り立った崖の途中に、朱色のお堂が建っています。さながら、プチ清水寺のようです。千光寺から尾道駅に向かう小道は、石畳で、いい感じに狭く、絵になる場所がとても多いのです。役者さんがちょっと通るだけで映画のワンシーンになってしまいそう。絵になる町には、動物の姿も絵になるようです。志賀直哉旧居前でオレンジを一心不乱につついていたうぐいす。この日の暖かさにつられて、猫も犬も...尾道は、山と海に挟まれた地形が、神戸とよく似ています。お金持ちになると、家をどんどん坂の上に建てるところも同じ。しかし、いま、この坂の途中に家を建てることは、非常にお金がかかります。地元の人によると、平地で800万で済む工事が、坂の途中だと2100万円もかかるのだそうです。愛着とこだわりを持って住むうちはいいのですが、坂が歩けなくなると、家や土地を明け渡してしまうのだそうです。たまに空き地が見られるのは、そのためです。尾道の人は、とても親切でした。これでもかというくらいに懇切丁寧に教えてくれます。歩き疲れてたたずんでいると、声をかけてきてくれて、尾道の歴史やら実情を延々と語ってくれたり、降りるべきバス停が近づくと、5回くらい教えてくれたり...地元の人に紹介していただいた漁師の店と呼ばれる食堂では、獲れたての魚をさんざん食べて飲んでひとり2500円という驚異的なお値段。彼らの優しさの根源はいったい何か、ということを考えているうちに、あっという間に大阪に戻る終電の時間になってしまいました。21時46分発の在来線に乗って、新大阪には23時25分に着きました。片道100円という渡船にも乗っていないし、しまなみ海道を自転車でわたってみる、ということにも挑戦していないので、尾道にはまだまだ行きたくなる要素がたくさんです。そのときに、また考えてみたいと思います。
2008年03月16日
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本州最南端の町、和歌山県串本市は、大阪から特急で3時間もかかります。沿岸沿いをくねくねと走らざるを得ない紀伊半島の地形のせいで、日帰りをするには何とも遠いのです。でも、この町には、国の重要文化財に指定された長沢蘆雪のダイナミックな襖絵があって、ぜひ一度現地で見てみたいと思っていました。それに、春を感じるなら、関西で最も温暖な場所にいきたいと思い、季節の変わり目、しかも天気予報は完璧な晴れ予報のこの日、急遽行くことにしました。ちょっと寝坊してしまって、天王寺午前10時20分発の「くろしお」に乗車しました。串本に着くのは13時22分。出るのが遅かったと、ちょっと後悔。まずは昼ご飯。駅前の食堂で、地元の人がよく食べるという「かつお茶漬」をいただきました。串本では一年を通して鰹が獲れるのだそうで、漁師たちが海に出る前にご飯に載せて、そこにお茶をかけていただくのだそうです。ちなみに、お店でいただいたものは、特製のたれがかかっていました。それほど見栄えのいいものではありませんでしたが、コクがあって、かつおは素材の良さを感じさせるまろやかさ。ぶりしゃぶのような食感でした。駅に戻ってレンタサイクル。4時間で600円と手頃な価格です。駅員室から自転車が出てきたのには少し驚きました。さっそく、今回の旅の目的地、無量寺へ。自転車だとあっという間に着きます。入口にソテツがドンと生えていて、南国情緒を感じます。門をくぐって右手に、小さな美術館「応挙芦雪館」があります。1961年11月に開館した当初は、「日本一小さい美術館」として知られたのだそうです。確かにこぢんまりとしていますが、中身はギュッと詰まっていました。入館料1000円を払って中に入ると、伊藤若冲や円山応挙の掛け軸がトントンと並べられていました。杉板の襖の両面にかすかに残された絵も展示されていました。なぜ串本にこのような名画が残されているのでしょうか。津波で流された無量寺が再建されたとき(1786年)の住職・愚海和尚と円山応挙が、京都で仲良しだったのがきっかけです。応挙は新築祝いに本堂を飾る12面の障壁画などを寄贈しました。弟子の長沢芦雪は、本堂の有名な襖絵「竜虎図」12面などを描きました。当時、芦雪は32~33歳で、1年足らずの間に、串本のお寺や旧家などにおよそ270点の作品を残したのだそうです。こうして、江戸期を代表するような画家二人のコレクションが、ここに集められているのです。さて、応挙芦雪館の中央にはレプリカの虎図が置かれています。かつて虎図が大英博物館に貸し出されたときに、その代わりとして作られたものです。つづいて、平成2年に建てられた収蔵庫に移動します。ここに、国の重要文化財に指定された、長沢芦雪の「竜虎図」の襖絵の本物があります。収蔵庫は、晴れた日にしか開かれないのだそうです。串本の激しい雨にあたると、襖絵はあっという間に劣化してしまうからです。それぞれの絵の一部は、こちら。何と言っても印象深いのが、虎図。当時は毛皮を見て、想像で描かれた動物です。どこかキュートな顔に、襖3面いっぱいに手足がスッと伸びています。すごい迫力です。虎の目は、どこから見ても、こちらを見ているように感じられます。伊藤若冲のコレクションで知られるジョー・プライス氏は、この虎図を見て、感動の余りしばらく動かなかったそうです。やがて絵が描かれた当時と同じように、周囲の照明を消して、ろうそくの明かりで鑑賞し続けたそうです。プライス氏だけでなく、東京から来て3日間ずっと、この絵を鑑賞しつづけた女性もいたということです。自分もずっと一人で虎図、竜図、唐子琴棋書画図などを独占することができました。これが東京や京都の展覧会だと、絶対にこうはいきません。贅沢なひとときでした。続いて向かったのは、串本海中公園。無量寺からおよそ5km離れていました。海沿いを走って、かなり気持ち良かったのですが、自転車で行くと少し遠く感じました。ここでは、串本近辺のサンゴや、ウミガメ、サメ、ヒトデなどを見ることができます。中でもユニークなのは、サメやエイ、ウミガメが悠々と泳ぐところを見られる水中トンネルです。まるでダイビングしながら見ているような感覚でした。沖合140m、水深6.3mに設置された海中展望塔。丸い窓を覗き込むと、メジナの群れを目の前に見ることができます。閉館(16時30分)間際に駆け込んだため、「ステラマリス」という海中観光船に乗ることはできず、あまりゆっくりと鑑賞することはできませんでしたが、ダイビングができなくても、気軽に水中体験ができて、串本の多様な海の生物を目の当たりにすることができていいな、と思いました。串本から大阪に戻る最終の特急は18時46分。それまで2時間近くあったので、「せっかく本州最南端に来たのだから」と10km離れた潮岬を目指すことにしました。これが大誤算!かなりの上り坂を進まなければならず、苦労しました。潮岬の灯台に着くまで、およそ50分。ああ、これならレンタカーを借りればよかったかも。着いたのは17時30分頃。すでに灯台は閉門して、最南端から海を眺めることはできませんでした。代わりに、潮御崎神社にあいさつしました。そろそろ戻らなければ、と焦って、串本駅へ。うかつなことに「本州最南端の地」の看板を見ることなく、あの辛かった坂を一気に下りてしまいました。下り坂は時間がかからないので、寄ってからでも充分間に合いました。これには後悔したなあ...最終の特急「オーシャンアロー36号」で、天王寺には21時30分頃に着きました。めまぐるしい日帰りの旅でしたが、美術あり、水中体験あり、ハードなサイクリングありと、充実した旅でした。
2008年03月15日
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毎年3月2日に行われる小浜のお水送り。今年は週末と重なったことで、初めて行くことができました。せっかく小浜に行くなら、鯖街道を北上して国宝の眠る寺を散策しようと、日帰り凝縮バージョンにしてみました。鯖街道とは、若狭地方で獲れた魚を京都に運ぶまでの道のことです。特に鯖が多かったことから「鯖街道」と呼ばれました。主に、国道303号線と367号線を乗り継いでいきます。この日はまだ寒い冬晴れ。途中の滋賀県高島市近辺は冷え込みが厳しく、夜には氷点下になります。路面凍結対策として、レンタカーのタイヤはスタッドレスにしました。実際に行ってみると、道の両脇にしっかりと雪が残っていて、ここが滋賀県とは思えないほどの積雪量でした。1mを超えていたと思いますが、地元の人によると、例年よりも少ないのだそうです。琵琶湖の西側を北に向けて走って行くと、鯖寿しを売りにするお店が点在することに気づきます。最初に開店したと言われる「栃生梅竹」で高級鯖寿しを購入しました。お水送りを見終わった後のお夜食として食べようと考えたのです。道幅はそれほど広い訳ではありませんが、車の通行量がそれほど多くないので、困ることもなくスイスイと進みました。途中、「道の駅 くつき新本陣」の日曜朝市に立ち寄ります。地元のドライバーで混み合って、駐車スペースは常にほぼ満車でした。売られているものは、鯖寿しやしいたけ、餅、パンなど。素朴なものが目につきました。自分は焼き鯖寿しを購入。車内でいただきましたが、思ったより脂が強かったです。さらに北上を続けると、江戸時代の宿場町の面影を残す熊川宿にたどり着きます。道の駅「若狭熊川宿」で車をとめて、茶色く舗装された一帯を歩いてみます。かつて通り沿いに立っていた電柱を町並みの裏手にまわしたことで、昔の宿場町の情緒がよく残されるように見えました。ひときわきれいに整備された民家がありました。逸見勘兵衛(へんみ・かんべえ)家の住宅で、伊藤忠商事二代目社長の伊藤竹之助の生家でもあります。3年かけて改修し、平成10年から一般公開されています。入館料は200円。中をちょっとだけ覗いてみると、力強い梁など日本の伝統的民家の良さを残しながら、吹き抜けあり、トップライトありと、かなりモダンにつくりかえられていました。断熱材を入れたりして、防寒対策もバッチリだそうです。民家の保存のあり方として、いくつもの提案がちりばめられていました。続いて、小浜の明通寺へ。本堂と三重塔が国宝に指定されています。いずれも鎌倉時代に建てられたもので、高い木立の間にどっしり根を下ろしたかのように安定感を感じさせます。お寺の拝観時間が16時までのところが多かったので、19時スタートのお水送りまで時間がたっぷりありました。そこで、16時に小浜港を出発する遊覧船「蘇洞門めぐり」に乗船しました。「蘇洞門」(そとも)とは、小浜湾の東側の海岸6kmにわたってできた海蝕洞で、花崗岩が日本海の波の作用で削られてできました。昭和9年に国の名勝に指定されています。岩が網の目のように亀裂が入った「あみかけ岩」同じような大きさの亀が重なっているように見える「夫婦亀岩」遊覧船の目的地「大門・小門」。この日は風が強く、残念ながら、近くに降り立つことはできませんでした。右手の小門でも、大人の背丈の3倍はあるそうです。所要時間およそ50分。船内にはたえず観光のアナウンスが流れ、お客さんを飽きさせないようにしていました。でも2,000円の料金は高いような気が...日本海の厳しい荒波にもまれながら、江戸時代にエンジンなしで航海術を発展させた高田屋嘉兵衛はエラいな、とつくづく感じました。このあと、オバマブームのいまを見に行きたいと思ったのですが、町中を見渡すかぎり「ちりとてちん」関連の掲示の方が圧倒的に多く、とても短い時間の中で見つけることはできませんでした。お水送りが終わって、夜中の鯖街道は真っ暗でした。途中、朽木周辺で、鹿が車に向かって突進!目が合ったときには「鹿を轢いてしまうのではないか」と正直焦りました。結局ギリギリですれ違って事なきを得ましたが、人里離れた夜中の道路は、何が出るやら...鯖街道には、文化と交易の歴史が残されていて、非常に面白かったです。京都や奈良と、文化的に関連していることがよくわかりました。本来ならもう少し時間をかけて味わった方がいいのかもしれませんね。
2008年03月02日
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東大寺の「お水取り」は古都・奈良に春を呼ぶ行事として有名ですが、その10日前の3月2日に、小浜では「お水送り」が行われます。「お水送り」と「お水取り」はパスの出し手と受け手のようなものです。いままで「お水取り」には3度行きましたが、「お水送り」はまだ。年に一日しかなく、今年は日曜日にあたることから、絶好のチャンスです! お水送りのルーツは、なんと1250年あまり前にさかのぼります。752年、東大寺に全国の神様を招いて開かれた修二会(しゅにえ)に、若狭の遠敷(おにゅう)明神が漁に夢中になったために遅刻してしまいます。そのおわびとして、遠敷明神は、二月堂の本尊に供える閼伽水(あかすい・清浄聖水)を若狭から送ると約束します。その神通力が発揮されると、地面が割れ、白と黒の二羽の鵜が飛び出て、穴から清水が湧き出たというのです。古来、小浜と奈良は地下で結ばれていると信じられてきたのだそうです。清水の元となった場所は「鵜の瀬」と呼ばれ、「お水送り」の行事の行われる場所となり、この湧き水が出た場所は「若狭井」と名付けられ、「お水取り」ではそこから閼伽水を汲み上げ本尊にお供えされます。こうして、お水送りとお水取りは、小浜と奈良で離れていながらも、切っても切れない行事になったのです。さて、お水送りの終了予定時刻は午後9時過ぎ。この時間には大阪に戻るバスも電車もない...ということで、今回はレンタカーで向かうことにしました。夕方、小浜駅前の観光局に問い合わせると、毎年3000人近い客でにぎわうので早めに会場に向かったほうがいいということでした。あわてて、午後5時30分過ぎに臨時駐車場に着き、シャトルバスに乗り換え(運賃100円)、神宮寺に入りました。境内の入口では、たいまつを売っていました。1本1000円。マジックで願い事と氏名を記入します。この日は1600本用意され、そのほとんどが売れていました。松明を買わない人も多く、2000人から3000人の参拝客がいたことになります。階段をあがると、すでに多くの参拝客が、本堂前を埋め尽くしていました。こういうときのためにと、持参したステップスツールが活躍してくれました。本堂が暗くなり、達陀(だったん)が始まりました。マイクを通して、暗くつぶやくようなお経が聞こえてきました。やがて、お堂の中のシルエットが明るくなったり、暗くなったり。たいまつを大きく振られるのがわかるとどよめきが起こります。「おおお、お堂が燃えてしまうのではないか?」...赤装束の僧が振り回す巨大なたいまつは、本堂の正面に出てきます。東大寺のお水取りのように、手すりに乗せるようにお堂の左右に大きく動き回ります。続いて、たいまつは、砕氷船が流氷を割るかのように、本堂前の参拝客をかきわけて、境内の大護摩壇に進みます。ここで大護摩法要。いつ大護摩が燃え上がるのかと、カメラを手に待ち構えていましたが、法要は粛々と丁寧に進められていました。いよいよ、護摩焚きのスタート。点火と同時に、煙がもうもうと立体的に上がります。たいまつの強いにおいがして、上空には灰が上がります。頭や肩に降る灰を振り払う参拝客はほとんどいません。「お水取り」と同じように、この灰をかぶれば一年間無病息災でいられるという期待があるのかもしれません。ほどなく、松明行列が始まります。順序はすべて決まっていて、山伏が法螺貝を吹きながら先導し、6人の和尚が大籠松明をもってこれにつづきます。つづいて、山伏姿の行者や、神宮寺関係者、手松明を持った一般参加者の順で、松明行列は鵜の瀬へと向かいます。今年らしく、参加者の中には「I Love OBAMA」の鉢巻姿の人もいました。自分も、行列の最後の方に加わりました。これは護摩壇から松明に点火するところです。寺の階段を下りると、たいまつの列が非常に美しく見えます。1.8kmの火の帯ができていました。鵜の瀬までの美しい列が蛇行します。自分のたいまつは、神宮寺を出たところで強風にあたって一気に燃えあがりました。しまった!これでは鵜の瀬に着く前に燃え尽きてしまう...と、沿道に置かれたバケツや、道路脇の残雪を使って、火の勢いを弱めてみました。が、あまり効果がないまま、あっという間に残り30センチくらいに。泣く泣く消すことにしました。消えた残りを手に、早足で鵜の瀬へ。鵜の瀬の鳥居前で、参加者全員がたいまつの火を消しますが、階段の前で参加者がたまったまま動けなくなっています。境内が狭くて、人の整理がつかないと、中に入れないというのです。かなりの時間、待ちました。鳥居をくぐり、階段をおりると、奥に遠敷川が流れ、手前の河原で大護摩が焚かれていました。僧侶や行者が取り囲むように、お経をあげ、鈴を鳴らしていました。大護摩のオレンジの明かりに包まれて、神秘的な雰囲気に包まれます。遠敷川に燃えかすが落ちるように、大きなたいまつが置かれていました。冷たい水と燃えさかるたいまつ...すごい煙に包まれて、むせかえります。ちょうど、自分が入って5分くらいすると、注目の送水神事が始まりました。僧侶や行者が遠敷川をわたります。向こう岸で神事を行っているのがはっきりと見えました。白装束の水師が刀で水を切るような仕草をしたあと、送水文を読み、竹筒をかたむけ、御香水を川にそそぎました。写真は送水文を奉上しているところ。これから、御香水は10日間かけて、若狭から大和の国に向かいます。神事が終わったのは、午後9時15分ごろ。鵜の瀬前のバス停で延々とシャトルバスを待ちました。近くの国道までは一本道で混雑しているようで、小浜駅行きと、駐車場行き、いずれも迎えのバスがなかなか来ませんでした。駐車場に戻ったのは午後10時過ぎです。結局、2度の休憩をはさんで、大阪に戻ったのは午前1時過ぎでした。「お水送り」はとても日本らしい、神仏習合ともいえる行事です。見た目にも神秘的で幻想的。自分でたいまつを手に持ち運ぶことができるので、参加意識も高まります。寒くて不便で大変ですが、とにかく見に行ってよかった、と思いました。ぜひオバマ候補にも見てもらいたい、火と水の織りなす美しいお祭りでした。
2008年03月02日
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