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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
富士川の氾濫から田畑を守るために、古郡氏が堤防の築造に着手してから50年が経ち、
孫の代になっても未だ完成せず、人柱を立てることになった。富士川の渡しを西から東へ渡る
千人目の者が人柱になることになったのだと。千人目を名乗り出た者が、雁が連なり飛ぶ先頭の
人柱となり、ついに雁堤が完成したのだ。なぜV字の堤防になったのか、それは激流をせき止める
のではなく、受け止める遊水池を造ったからであると。
堤の斜面に鎮座する『護所神社』
階段を上がると護所神社の石鳥居が。
その奥にあったのが護所神社社殿。
護所神社前からの富士山。
江戸時代の初め、新田開発と富士川治水のために築かれた雁堤は、50年余りかかる難工事で、
人柱伝説も生まれた。人柱の供養塔と記念碑が建立されていた。
『雁堤人柱之碑』。
昭和9年に建立され、千人目の僧侶が人柱になったことが刻まれているのであった。
『人柱供養塔』。
「17世紀後半の寛文年間のころ、岩淵の渡しから富士川を渡ってきた巡礼姿の老夫婦がいた。
夫婦が松岡の代官屋敷の前を通ると、役人に行く手をさえぎられた。
役人によると、富士川の氾濫を防ぐために堤防を築いているが、たびたび決壊して工事が
進まないので、富士川を渡ってくる千人目の者を人柱に立てて河流を鎮めようと皆で決め、
その日から千人目がこの老夫婦に当たったのだと言う。
これを聞いた夫婦は、東国巡礼を終えたら人柱になると約束し、3ヶ月後に戻って来た。
夫は白木の棺に入れられ、堤が最も破れやすい箇所の地中に埋められたと。
夫は、自分が生きている間は地中から鉦(かね)を鳴らし念仏を唱え、それらが絶えたときは
死んでいるだろうと言い残したが、21日間地中から鉦の音が響いていたと。」
「護所神社
古郡孫太夫重政公父子の偉業雁堤の築造は、繰り返す富士川の洪水で、しばしば決壊流失の
きめた。千人目に当たった旅僧はこれを快諾し、従容として人柱と化した。
以来三百余年の今日まで遂に堤防の決壊を見ず、住民はその徳を慕い「護所神社」として
その霊を祭っている
」
『人の世に命をささげし人柱 今に佇えて富士のカリかね』
作者の文字は理解できなかった。
護所神社の屋根越しに見事な富士山を見る。
古郡氏三代の偉業を称える石碑。
「中里村の古郡孫太夫重高は籠下村(松岡)の開拓のため堤防工事に着手し、元和7年(1621)
岩本上に一番出し、二番出しといわれる突堤を築き、その子重政は、引き続きこの地の
新田開発のため、加島代官に任じられ、新田開発のため手腕を発揮しました。
さらに重政の死後、その子文衛門重年は富士川の水勢を弱めるため、氾濫時に水流を留める
広大な遊水池を準備することを着想し、逆L字型の堤防を築造しました。
こうして雁堤は、古郡重高—重政—重年の三代にわたる50年余の歳月と莫大な経費、
そして治水の工夫を結集して完成し、以後富士川の氾濫から守られた加島平野は、
「加島五千石の米どころ」ともいわれる豊かな土地に生まれ変わったのでした。」
雁堤築造と加嶋新田開発に尽くした古郡文右衛門重年公の没後300年を記念して建立したと。
『松崎鉄之介句碑 秋富士へ 雁堤 つばさ張る』。
松崎鉄之助 略歴。
【Google Earth】で見て、堤防部分に赤線を引いてみると
「く」の字を連ねたような堤防の跡が雁の姿のごとく見えて来たのであった。
東名高速道路方面の北西に向かう雁堤を望む。
富士川に向かって全長2.7kmにおよぶL字型の長堤。
『雁堤(かりがねづつみ)』説明板。
東名高速・富士川SA(上りにある大観覧車( Fuji Sky View)が見えた。
富士山と手前に東名高速道路。
「絶景かな!絶景かな!!」。
雁堤を後にし、旧東海道に向かって歩を進める。
富士市の「竹取物語」のかぐや姫と富士山を描いた消火栓のマンホール蓋。
なぜかぐや姫なのか。竹取物語のエンディングに、「そのよしうけたまはりて、
士 《つはもの》どもあまた具《ぐ》して山へ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは
名づけける。」とあることから、物語の舞台が富士市の竹林であるという説があるそうだ。
松岡の住宅街を進む。
旧東海道左側にあった『明治天皇御小休所阯』碑。
そして前方に富士川に架かる緑の『富士川橋』が姿を表した。
その手前右側の『水神社』を訪ねた。
『東海遺「歴史の道」 水神ノ森と富士川渡船場』
⬅リンク。
阿&吽形の狛犬の先に水神社拝殿を階段下からズームで。
富士川渡船場跡碑と宝暦8年(1758)の富士山道道標。
江戸時代まで富士川に橋を架けることは許されず、渡船による往来のみであった。
徳川家康の遺言との説もあるようだが、橋を架けても川の流れが速く、維持するのが
困難だったのであろう。富士川に橋が架けられたのは明治に入ってからの事と。
石碑の横側には
「慶長六年(一六〇一)徳川家康により東海道伝馬(宿駅)制度が定められまもなく
日本橋を起点とする五十三次が誕生しました
またこの地から数十メートル南の旧東海道沿いに岩本村が管理した船場詰所が
存在したといわれる。これらのことを後代に伝えるため東海道の百年祭記念事業の一つ
としてこの碑を建立する。」と刻まれていた。
水神社案内図。
ズームで。
正面に水神社拝殿。
拝殿の両脇に八幡宮(左)と天満宮(右)が。
水神社拝殿を近くから。
水神社略記
⬅リンク。
手水舎。
拝殿の彫刻。
水神社本殿。
拝殿内部。
明治9年から夏は渡船、冬は有料木橋での通行となったと。
その後大正11年に鉄橋の架け替え工事が行われ、大正13年(1924)
6連トラス橋として完成。
今の国道1号線は新富士川橋といって海の近くを渡っていた。このほかにも富士川橋は
沢山あって、東名高速・第2東名・東海道線・東海道新幹線、みんな富士川を渡る橋は
「富士川橋」であるとのこと。
軽トラックの後ろに『富士川橋 旧親柱(左)』そして新親柱(右)が見えた。
そして旧国道1号、現県道396号に架かる富士川橋を渡る。
富士川橋は、日本三大急流河川(富士川(長野、山梨、静岡)、須磨川(熊本)、
最上川(山形))の富士川に架かるトラス橋。昭和六十三年三月竣工の銘板も。
右手が歩道橋。
歩道橋を進む。
朱桁の橋は東名高速道路 富士川橋。
下流側には東海道本線富士川橋梁。

富士川橋の手前には橋脚を保護する堰がそして階段式の魚道が。
富士川橋から富士山。
ズームで。
人の姿はほとんど無く、富士川橋歩道橋を二人占め。
再び、いつまでも眺めていたい絶景。
この後に訪ねた『光栄寺』が見えた。
富士山をズームで。
頂上付近は強風か?雪が舞い上げられているのが確認できた。
そして橋長399mの富士川橋を渡り終わり対岸の富士川橋西交差点から
振り返る。

その1
に戻る。
・・・ つづく
・・・
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