JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.04.26
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​『旧東海道を歩く』ブログ 目次 ​

倉沢地区の分岐路には道標そして『西倉沢の一里塚』の石碑が。
「江戸から数えて四〇番目の一里塚である。だから江戸から凡そ160キロの距離にある。
ちなみに由比駅~東京駅間は158.4キロである。
この一里塚はさった峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。」



薩埵峠まで残り1.3kmの地点を通過。



『ふるさとを見なおそう!』
「戦国時代、足利尊氏が弟直義と合戦セ氏古戦場として知られ、また東海道随一の難所
「親知らず子知らず」の悲話が伝えられている。峠は磐城山((いわきやま)・
岫崎(くまざき)ともいい、『磐城山ただただ越えきませ磯崎の こぬみの浜に
われ立ちまたむ』と詠まれ、江戸時代安藤広重の東海道五十三次のうち、ここ薩埵峠より見た
富士山と駿河湾の景観を画いたものはあまりに有名です。 
『山の神 薩埵峠の風景は 三下り半に かきもつくせ』 魯山人 」



急な坂道が続く。



『倉沢』道標。



富士山が見えて来たが、前には雲が出てきていた。



駿河湾には貨物船が。



『由比地すべり対策事業』説明ボード。
清水区由比西倉沢において、年超過確率1/100規模の豪雨や地震に伴い発生する地すべりから、
住民の生命や財産、及び日本の 大動脈である国道1号・東名高速道路・JR東海道本線の
重要交通網の被害を防止するのが目的であると。



遠く駿河湾の向こうに伊豆半島の姿。



『東海道薩埵峠周辺案内図』。
由比宿から興津宿の間は、大井川などと並び東海道の難所と言われたところで、
波間を縫いながら岩伝いに浅瀬や岩の合間を通る「下道」を通わなければならず
「親知らず・子知らずの難所」とも呼ばれたまさに旅人泣かせの場所であった。
その後、薩埵峠を越える「中道」が切り開かれたが、数キロに渡って険しい山道が続く
難所には変わりなかった。



何を建設中なのであろうか?
手前の枇杷の木には早くも実を袋で保護。



海沿いを走る、上側が東名高速道路そしてその下を潜っているのが
富士由比バイパスとJR東海道線。
その先、駿河湾の先には三保の松原方面が。



そして漸く『薩埵峠』に到着。
時間は15:23。



左手に「薩埵峠山之神遺跡」の石碑して幸田露伴の次女である
幸田文(こうだあや)・文学碑が右手に。
「由比の家ある風景をみると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで
眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう。 
草木のあるなんでもない山なのだ。 だが、そこを見ていると、なにかは知らず、
土よ、いつまでも平安であれ、と念じていた」と刻まれていた。



『夢舞台東海道標柱』
「さった峠は、東海道興津宿と由比宿の間に横たわる三キロ余の峠道で、古来、
箱根・宇津の谷・日坂などと共に街道の難所として知られてきました。
江戸幕府の東海道伝馬制度が定められたのは関が原の戦から間もない
慶長六年(1601)のことで、その後「一里塚」なども整備されましたが、この峠道の開通は
ずっと遅れて、明暦元年(1655)と記録されています。
さった峠には上道、中道、下道の三道がありました。下道は峠の突端の海岸沿いの道であり、
中道は、明暦元年に開かれた山腹を経て外洞へ至る道です。また、上道は
峠を下るところより内洞へ抜ける道であり、この道が江戸後期の東海道本道です。」

『風光明媚な絶景の地』
「その昔、現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいました。
万葉の歌人、山部赤人の有名な歌は、この付近から詠まれた歌ではないかと伝えられています。
『田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りけり』   
また享和元年(1801)狂歌師の蜀山人(大田南畝)が峠にあった茶店に休息した時、
小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った
狂歌がさった峠の名を有名にしました。
『山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ』 」。



そして富士山の姿。
残念ながら雲は頑固に動かないまま。



暫く待つが。



自然はままならず。



逆に富士の姿がじわじわと小さく。



駿河湾の先に富士市内の紙パルプ工場群そしてその奥の愛鷹山は雲もなく
絶景であったが。



『東海自然歩道バイパスコース』。
興津駅~見晴観音までのコースが説明されていた。



奥にあるもう一つの展望台に向かう。
途中更新された展望台があったが、未だ使用再開されていなかった。
薩埵峠は「東海道五十三次」の中で、当時と同じ景色がのぞめる唯一の場所と言われている。
当時と違うのは、崖下に道路や鉄道が通る陸地が存在しているところ。江戸末期(1854年)
安政の大地震が起こるまで崖下は海であったが、地震により地面が隆起して陸地が出来たと。



近くにはネットで富士山の姿が確認できるライブカメラが稼働していた。



しかしここからも・・・・・。
下道だった海岸には国道1号富士由比バイパスや東海道本線が通っている。

忙しく往来していた。



カメラを片手に暫く待つが、状況は変わらず諦めて下山開始。



しかしまた振り返りながら・・・。



この姿に拘って。
『東海道五拾三次之内 由井 広重画』
当然ながら、高速道路や国道、JRなどは描かれていない(笑)。
因みにこの辺りは、古代~江戸時代初期までは、下の海岸が東海道だったそうで、
ひとたび海が荒れると、大波から逃げるのが遅い老人や子供が、大波にさらわれてしまった
ことから、別名を「親不知(おやしらず)」「子不知(こしらず)」とも呼ばれていたのだと。



『五十三次名所図会 十七 由井 薩多嶺親しらす(竪絵東海道)』。
「由井宿から興津宿へ向かう途中のさった峠から見る富士山は絶景です。
しかしさった峠の道は断崖絶壁の下に荒波が打ち付け、危険なことで有名でした。
無事帰れるかわからないことから、「親知らず」と表現されていると思われます。」



『東海道五十三次(隷書東海道)』より「東海道 十七 五十三次 由井」
この絵が「親知らず・子知らずの難所」の「下道」の絵なのであろう。



そして下の写真は1月下旬にこの地を訪れた、我が高校時代の同級生の
「マドンナ」から送られてきた写真。
この頃は富士山に雪は少なかったが、富士山を隠す雲は全くなかったのであったが。



しかしこれでもかとシツコク待つが・・・・。



山頂だけは隠れることなく。



見納めの一枚。



西からの『薩埵峠』道標が。



『薩埵峠』と刻まれた石碑。



『薩埵峠歴史』(右)
「鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられたさった地蔵をこの山上に
お祀りしたので、それ以後さった山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯埼の不来海の浜にわれ立ち待たむ)ここに道が開かれたのは
1655(明暦元年)年、朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を
波の寄せ退く間合を見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡が見られ、
そこまでが江戸時代の道路である。今のように海岸が通れるようになったのは、
安政の大地震(1854)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。」

そして左には『薩埵山の合戦』。
「薩埵山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した。
「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。 
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って
敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が
三ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。」



急な階段を下る。西から薩埵峠を目指す方がハードか?



下っていくと広い共同墓地?が。



JR興津駅まで3.3km、60分と。



『ふるさとの路 薩埵峠の案内』。



『薩埵峠ハイキングコース』案内板。
「薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)、
近くの海岸から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、人々はこれを山に祀りました。
山の名も菩薩と同じ意味を持つ「薩埵」と呼びかえられたと伝えられています。
薩埵越えは、ひg氏の箱根峠越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所でした。
薩埵峠を越える道は江戸時代には三つありましたが、明暦元年(1655)朝鮮通信使のために
山腹を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)です。」



『往還坂』と刻まれた石碑。
かつての東海道は往還坂南東側(写真左手)の山裾を通っていたが消失して、
この往還坂が迂回ルートとなっているようであった。



薩埵峠旧道(中道)沿いに鎮座する『白髭神社』を訪ねた。



階段の上には白髭神社の『社殿』が鎮座。
静岡県ににはこの白髭神社が多いのでその理由をネットで調べてみると、
白髭神社の建立については、朝鮮半島からの渡来人との関係性を指摘する説もあるが、
民俗学者の柳田国男は白髭信仰を「主として水辺の神」としており、「水害から人命や田畑を
守ってくれる神として、安倍川流域で白髭神社の勧請が積極的に進められた」と。
水害の多発した江戸中期から末期にかけて、半数以上の白髭神社が再建され、
安倍川水系の藁(わら)科(しな)川沿いでは、白髭神社の社殿や鳥居が川の方角に向かって
建立されているのだと。



白髭神社境内の木々の隙間から駿河湾を望む。
薩埵峠越えの下道は眼下の海岸、中道はこの真下を通る急傾斜の坂道で通じていたのだ。



収穫の終わったみかん畑の中の旧東海道を下っていく。
この日の夕日が山の端に近づいて来ていた。



更に下って行くと「おきつがわ通り」に合流。
合流地点にあった「土地改良之碑」。
ここから薩埵峠までは2.3km、65分との道標表示。

​


                             ​ その8 ​  に戻る。

                  ・・・ つづく ​・・・






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Last updated  2024.02.24 20:22:48
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