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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
このブログは、その時のものである。
関所前の国道301号線を渡ると、左奥に進むと焼き肉、ホルモン屋の角にあった表示には
「ここを水路が通り、関所へ出入りする船が行き交っていました」と。
同じ角にあった『味楽酒房 豊水(ほうせん)』の店の入口の壁には『新居関所』の姿が。
『東海道 三十一番 新居宿』
「東海道は江戸日本橋より大阪高麗橋までです。大津宿追分を右に行き、京都三条まで
は東海道五十三次。
大津宿追分より左に行くと、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿、大阪高麗橋までが
東海道五十七宿となります。」
東海道五十三次を制覇したら東海道五十七宿まで足を延ばしたいのであるが。
『無人島漂流者 不屈精神を伝える』。
江戸期 新居人 鳥島に生きた二十一年 享保4年(1719)~元文4年(1739)。
生存:三人 死亡:九人
この碑は、新居関所と街道をはさんだ反対側の一角にあった。
石碑には12名全員の名前が刻まれており、不屈の精神を伝えるとともに鎮魂の願いが込めらて
いるのだと。
石碑の『裏面』。
筒山五兵衛の船・『鹿丸』の運行・漂流ルートと漂着し21年間生き抜いた『鳥島』が
示されていた。
「江戸時代中期の享保三年(一七一八)新居宿泉町筒山五兵衛船は、遠州今切湊を出帆した。
翌四年の秋、奥州宮古から房州へ向う途中、銚子沖で嵐にあい遭難、太平洋を南方に流され、
絶海の無人島、今の鳥島に漂着した。 乗組員十二人の内九人が死亡、残る三人が都合二十一年を
生き抜いて、元文四年(一七三九)救出された。 無人島生活日本最長であった。
八丈島に着いた三人は、江戸城に召し出され、八代将軍吉宗に謁見、異境のアホウドリの島での
生活をじかに聞かれてその様子が詳しく語られたことで江戸中の評判になった。
このことが、徳川実記に記されている。 三人は褒美を頂いた後、新居から親族の出迎えを受け、
東海道を丁重に駕篭で送られてきた。 関所では、役人や郷里の人々の歓迎を受け、
領主松平伊豆守と地元の人々の手厚い保護を受け後々まで安穏に暮らした。
死亡した水主(かこ)九人は、小笠原父島にある咸臨丸墓地に幕府の調査船咸臨丸乗組員
西川陪太郎や小笠原島初期の入植者とともに手厚く祀られている。
この建立場所「矢来道」は旧東海道沿い泉町の一角で、昔のお関所構内を仕切る
「矢来(柵)」があったとこである。」
新居関所の復元された『大御門(おおごもん)』。
正面から。
「大御門は、明六ツ(午前6時頃)に開き、暮六ツ(午後6時頃)に閉じました。
大御門の前には、高札を置く枡形広場があり、東海道へつながります。
大御門の大きさは、高さ5.8m、幅4.6mです。
城門と同じ屋根付きの堂々とした高麗門です。
礎石建ちではなく、地表より2.7m以下に礎石をすえ、
柱を埋めた堀立柱(ほったてばしら)の門です。」。
新居関所の出入り口に当たる「枡形広場」に江戸時代後期の掲示板「高札場」が復元されていた。
高札は、宿場内の住民に定書を告知する「宿高札」と、関所近くの今切湊に出入りする船に向けた
「浦高札」の二種類が。絵馬のような五角形で上部に「笠木」が付いたものが。
宿札は六枚。
浦高札は二枚掲示され、宿高札は新居宿から白須賀宿まで馬で荷を運ぶ際の料金を定めた
「駄賃札」や、渡船の重量制限を記した札など。
キリシタンを密告した場合の報酬など書かれた札、親子や兄弟の忠孝を呼びかける札など、
いずれも正徳元年(1711)に発令されたもの。
交差点から『大御門(おおごもん)』を再び振り返る。
そして右手奥にあった復元工事中の『女改之長屋』を振り返る。
『女改之長屋』とは
江戸時代、新居関所では「入り鉄砲に出女」と言って、交通の往来を厳しく
取り締まっていた。特に女性の取り調べは厳しく、取り調べを担った「改め女」とその家族が
居住した建物が『女改之長屋』。
長屋は2家族が住んでいた木造平屋で、こけらぶき屋根、壁は土壁と、
江戸時代の庶民の家の造りであるとのこと。
現在復元工事を実施中で、2020年に公開予定とのこと。
『新居宿まち歩きマップ』。
【 http://a-machinet.org/map_annai.htm
】より
新居宿の幕末期泉町通り(東海道)の軒割。
『留万株式会社』は現在は機械工具卸売店。
国道301号線を西に進む。
『髪結い 時五郎』
「関所に程近いこの場所にある髪結いでは関所改めを受けた女性たちの髪を結い直した
とも云われています」
『紀伊国屋 平兵衛』
「疋田弥五助(本陣)の分家で西の新家(紀伊国屋弥左衛門)、東の新家(紀伊国屋平兵衛)
と呼ばれていました。」
右手に『中山屋』は現在は「カメラのマツミヤ」。
『旅籠屋(船割宿) 中山屋孫次郎』
江戸後期、孫次郎、和十郎父子二代にわたり今切湊改修に尽力しましたが、彼岸は
叶いませんでした。今切りを望む高台にタカボタ地蔵を建立。
新居関所から旧東海道(国道301号線)の左側に『旅籠 紀伊国屋 資料館』の看板が。
この空き地は『旅籠屋(船割宿)筑後屋 次郎左衛門』
「船割宿(ふなわりやど)は、特定の藩の御用を行う旅籠のことで、今切渡船や関所通行の
段取りなどを行っていました。」。
『旅籠 紀伊国屋 資料館』。
江戸時代、徳川御三家の一つ紀州藩の御用宿を務めた縁から紀州屋と名乗った。
宿内最大の旅籠屋の一つで、平成13年に再生整備を行い旅籠資料館として開館した。
『旅籠屋(船割宿) 紀伊国屋 弥左衛門』
「新居名物のうなぎの蒲焼きの味が評判でした。昭和30年代まで旅館業を営み、
新居宿と共に歴史を刻んだ旅籠です。」。
反対側から。
「新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代の初めに新居に来て、茶屋を営んだという。
はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。
旅籠屋としての創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤める
ようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。
その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の
七里飛脚の役所があった。
紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し立て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた
建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を
伝える施設として活用するため、東海道四〇〇年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。」。
旅籠 紀伊国屋資料館のセット券で中に入る。
正徳6年(1716)紀伊国屋の屋号を掲げ、新居宿の大旅籠として昭和期まで営業。
江戸時代の旅籠様式を随所に残しており往時の宿場文化を伝える資料を展示している。
入口から奥の部屋を見る。
『新居宿旅籠 紀伊国屋』説明板。
火鉢のある部屋から裏庭を見る。
鎧兜が飾られていた。
奥庭の木々も綺麗に手入れがされていた。
復元した紀伊国屋の夕食(左)と当時の蒲焼き(右)。
『風呂場』。
水戸黄門に登場した かげろうお銀(かげろう おぎん)役の由美かおるの写真が。
この場所での撮影が行われたのであろうか?
『便所』。
たたき土間には『釜場』が。
1&2階間取り図。
江戸時代後期の紀伊国屋は、間口五間(約九メートル)の平屋造りで、部屋数12、裏座敷2、
総畳数63と、25軒前後あった新居宿の旅籠の中で最大規模を誇っていた。
明治7年(1874)の大火により焼失、二階建てに建て替えられ一部増築されたのだと。
階段を上り2階へ。
各部屋は障子や襖で仕切られてた部屋割り。
『寺みち』と書かれた絵画額。
『客の間』。
『宿部屋』が続く。
部屋の隅には『角まくら』や『箱まくら』が。
階段を降ると『裏庭』が。
この後に訪ねた『旧芸者置屋 小松桜』案内板。
『東海道五十三次宿場名物』
この日までに、何箇所のものを味わったのであろうか?
宿部屋の前には縁側が。
裏庭を別の角度から。
様々な展示物が並んでいた。
そして『旧芸者置屋 小松桜』を訪ねた。
浜松で新聞屋を営んでいた松井米吉が、明治34年頃、旅籠屋紀伊国屋の裏手にあった
建物を買収して置屋を開業し、大正初期に現在地に移築した。
平屋建てから二階建てに改築後、置屋兼小料理屋として営業を再開し、二階部分は
御座敷として遊べる構造としたと。
1階の部屋には『寿 令和』と書かれた白の文字板が。
男の子のすこやかな成長と健康を願い飾られる五月人形と座敷幟(ざしきのぼり)と
呼ばれる五月飾りなども展示されていた。

2階の階段上から1階を見る。
2階に飾られてあるこの写真は小松楼にいたと思われる芸者さん達。
懐かしい桐ダンス?火鉢そして鏡。
花鳥風月の水墨画が描かれた屏風。
ミシンや丸テーブルや火鉢も。
中央にあるのは古い時代の写真焼き付け器でしょうか。
東海道五十三次。
2階の襖(ふすま)には何やらお経のように文章が沢山書かれていた。
小松楼とは大正時代初期から昭和初期にかけて存在した芸者置屋兼料亭だった。
新居の地は明治以降、鰻の養殖と製糸業で栄えて、近くに芸者置屋11軒あり芸者も
50人以上いて栄えたとか。昭和初期に廃業した小松楼は、建物が残っており交流館として
展示施設となっていた。建物には芸者置屋兼料亭として機能した当時に使用していた
三味線などの商売道具の楽器が所狭しと並んでいた。
当時の芸者さんたちが笑顔で。
こちらは新居宿の芸者さんたちの集合写真?
そして再び旧東海道に戻ると右手に『肥後屋』。
『旅籠屋(船割宿)肥後屋作右衛門』
「新居の旅籠の中で最も畳数が多かった肥後屋、全部で115畳ありました。
大店らしく家業を継ぐものへの家訓も書き残してあります。」
同じく右手に『井筒屋』。
『井筒屋清太郎』。
「慶応三年、本陣武兵衛に続きここ井桁屋にも「お札降り」があり、「ええじゃないか」騒動は
遠州以東へも伝播して行きました。」
泉町交差点に向かうと左手、こちらは旅籠伊勢屋長吉跡。今は金松酒店に。
新居町で「蓬莱泉」「開運」「おんな泣かせ」や「新居関所」などの地酒や、
「魔王」「青酎」「人夢可酒」などの焼酎や各種お酒、各種名産品などを取り揃えて
いるようだ。
そして泉町交差点を渡り左折すると、空き地の隅に『疋田八郎兵衛本陣跡』の石碑と説明板。
『疋田八郎兵衛本陣跡』
「新居宿に三軒あった本陣の一つ。天保年間の記録によると建坪193坪で、門と玄関を
備えていた。八郎兵衛本陣には吉田藩のほか、徳川御三家など約120家が利用した。
疋田家は、新居宿の庄屋や年寄役を務めた。」
『泉町』交差点。
そして戻ると泉町交差点正面にあった『飯田武兵衛本陣跡』
交差点を渡って『飯田武兵衛本陣跡』。
『本陣跡』碑と案内板。
『飯田武兵衛本陣跡』
「飯田本陣は、天保年間の記録によると建坪196坪で、門構え玄関を備えていた。
飯田本陣には小浜、桑名、岸和田藩など約70家が利用した。
明治元年(1868)の天皇行幸の際に行在所となり同年の還幸、翌2年の再興、明治11年
(1878)の巡幸の際にも利用された。
その行在所の建物は明治18年(1885)、奥山方広寺に移築された」
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