JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.07.07
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

中央通路の



そして、次に「2中世」展示室へ
「鎌倉が最盛期を迎えた時代ー中世。鎌倉幕府の成立以降、政治・軍事・経済・宗教・文化の
中心地として繁栄を極めた、武家の都市・鎌倉。この部屋では、地下から掘り起こされた
出土遺物を通して、鎌倉武士たちの営みと、中世鎌倉の都市空間を眺めていきたい。」
考古資料と写真パネルを用いた5セクションにより、中世都市鎌倉と武士の営みを紹介していた。
鎌倉の地形模型に映像を投影するジオラマプロジェクションマッピングも見どころであった。



鎌倉の遺蹟 鎌倉市の史跡、埋蔵文化財包蔵地 (平成27年3月現在)
鎌倉では昭和初期から、全国に先がけて発掘調査が行われてきました。とくに1970年代以降は、
都市化の波を受け市街地にも調査範囲が及び、数多くの出土品を伴う中世都市の遺跡が姿を
現しました。それらは中世の都市生活の様相を鮮やかに語ってくれます。
鎌倉の地下は、まさに歴史資料の宝庫といえるでしよう。
当館の建つ無量寺谷の調査でも、寺院または屋敷の一部や庭園、やぐら等様々な遺蹟が発見
されています。」



「鎌倉市の史跡・埋蔵文化財包蔵地(平成27年3月現在)」。



住まいとまちづくり
鎌倉幕府の成立以降、急速に都市の整備が進められましたが、それらに伴う造作は御家人等に
費用が割り当てられました。若宮大路の脇にかって設けられていた側溝の跡からは、工事費を
分担した武士の名前を記した木簡が見つかっています。
また鎌倉の遺跡を代表する今小路西遺跡(御成小学校校庭)では、北条氏や有力武士の屋敷と、
それに付属する家人の家、さらに都市に住む人々の家や半地下式の倉庫群が見つかっており、
鎌倉の町の様子を知ることができます。」



「武家屋敷の発掘(今小路西遺蹟)」(左)と「若宮大路側溝(北条時房・顕時邸跡)」(右)。



交易と流通の拠点
鎌倉は都市として整備されると、京都にならぶ交易の拠点として重要性を増していきました。
港があった和賀江島をはじめとして、大町や小町、米町などが商業地として賑わいをみせるように
なります。鎌倉には瀬戸の陶磁器、長崎の滑石鍋、南西諸島の夜光貝など、全国各地から多くの
モノが集まりました。また国内にとどまらず、中国の青磁や白磁などの貴重品も輸入されて
いました。
中世という時代は、流通が飛躍的に発展した時代でもあったのです。」



「鎌倉に搬入される物資の産地」。



「鎌倉に搬入される焼ものの産地」。



暮らしの意匠
美しい和文様から、思わず目を留めてしまうコミカルな動物絵まで、鎌倉で見つかる出土品には
さまざまなモチーフが施されています。なかでも漆器に表される野趣あふれる装飾や奇抜な文様
表現には、鎌倉びとの独自な感性を見ることができます。また滑石スタンプの文様も個性的な
ものばかりで、お菓子などの装飾(焼印)に使われたと考えられています。日用品に施された
これらの意匠は、鎌倉の人々の生活に豊かな彩りを与えていたものと想像されます。」



暮らしの意匠
鎌倉出土漆絵皿」。



祈りとまじない
中世において、祈りやまじないは今日の医療や科学に代わるものでした。病気になった際には、
仏に祈ったり、形代(かたしろ)を流すなどして平癒を願ったのです。
鎌倉では、小型の仏像など日常的な信仰を示す仏教遺物のほか、呪術に使う呪符や形代、土地の
神を鎮める儀礼(地鎮祭)に用いる埋納物など、仏教の枠に収まりきらない出土品も多く見つかって
います。陰陽道や道教、修験道などの要素が取り込まれ、民間信仰として広まっていた様子が
うかがわれます。」



「地鎮埋納物の出土状況(笹目跡)」(左)と「不動利益縁起絵巻 東京国立博物館所蔵」(右)。



源頼朝と幻の大寺院  ---永福寺---

かって鎌倉には、源頼朝が建立した大伽藍がありました。三つの堂を複廊でつなぎ、堂前に池を
配した優麗な姿は、鎌倉時代にこの地を訪れた人々の目を驚かせました。この寺は永福寺と
呼ばれ、鎌倉を代表する大寺院となりました。
源頼朝は平氏政権を倒した後、文治5年(1189 には奥州藤原氏を征討し、その地位を固めます。
一方で、日本列島を巻き込んだ内乱は、多くの犠牲者を伴いました。永福寺はその犠牲者を
弔うために建立したとされています。
室町時代の火災以降は再建されず、幻となった永福寺ですか、長年に亘る詳細な発掘調査によって、
大伽藍の様相が明らかとなりました。」



発掘された青磁椀類。



壁には「透彫金具」、「装身具片」、「幡吊金具」
手前には「仏像は片」、「永福寺の螺鈿装飾」と「螺鈿装飾と夜光貝」等。



「黒漆地螺鈿燈台断片」と
若宮大路周辺遺蹟群から出土した夜光貝。貝殻表面には鋸のようなもので削ろうとした
加工痕がある。永福寺跡出土の螺鈿装飾のように、螺鈿装飾の材料とて持ち込まれたものと
考えられる。」。



永福寺道内の荘厳
永福寺跡の発掘調査では、堂内や仏像を飾っていた金銅製の金具や、平泉の中尊寺を思わせる
ような螺鈿の装飾品も見つかり、華麗な室礼の様相が明らかになりました。中でも蓮華飛雲文の
装身金具は、仏師運慶の一派が造像した仏像の光背・宝冠・胸飾などにみられる特徴をもって
います。
さらに「転法輪鈔」という仏事法会の詞を収集した編纂物には、永福寺薬師堂内に薬師如来像や
十ニ神将像が安置されていたと記されています。
この十ニ神将を運慶派の作品とする見解があり、装身金具の類似性なども含めると、永福寺の
仏像が運慶一派の手によるものであった可能性か高まっています。」



「永福寺の瓦屋根の復元」。



永福寺の瓦
永福寺では伽藍再建の度に新たな瓦が利用されたため、軒丸・軒平瓦ともに、各20種を超える
大量の軒瓦が出土しています。
I期の主要な軒瓦の組み合わせは、八葉複弁蓮華文軒丸瓦と均正唐草文軒平瓦で、平安時代後期の
平安京や南都系の瓦と系譜を同じくするものです。また主要軒瓦と製作技法に共通性のある
三巴文軒丸瓦もI期に分類されます。
次いて、Ⅱ期の主要な瓦には、「永福寺」の三文字が配されているのが特徴です。これと並んで
Ⅱ期の代表例とされる、下向き剣頭文の軒平瓦は、埼玉県美里町の水殿瓦窯で生産されていた
ことが明らかになっています。
Ⅲ期の瓦は小型のものが多く、鎌倉市内の極楽寺等で出土した瓦と同様の意匠をもっているため、
忍性(にんしょう)率いる造瓦集団との関連が指摘されています。」



永福寺瓦屋根の復元 史跡永福寺跡出土
鎌倉時代に永福寺を訪れた人々の目を驚かせたのは、玉て造られたかのような美しい瓦を重ねた、
壮大な瓦屋根てした。
この瓦屋根を、実際に出土した永福寺の瓦を使って再現しています。」



「永福寺」の伽藍のCG。



発掘調査の成果と整備の状況 」。
中ノ島、池、薬師堂、北翼廊、北釣殿、遣水流路等の発掘調査時の写真が。



「青磁蓮弁文椀」。



青磁蓮弁文椀
ニの鳥居の東に位置する発掘調査地点から大量に出土した青磁碗。この地域は13世紀以降、
倉庫などに使われた半地下式の建物(竪穴建物)が建ち並び、都市鎌倉の物流を担う場所で
あったと考えられている。出土した碗は、ほぼ完形品で釉薬の光沢が美しく、使用した形跡が
みられないことから、破損などで価値がなくなった製品を一括廃棄したものと考えられている。
鎌倉における青磁の流通量を知る上で、貴重な品々である。」



「宗教都市鎌倉ー中世びとの信仰と祈り」。



宗教都市鎌倉ー中世びとの信仰と祈り
鎌倉には、中世から続く歴史ある社寺がたくさんあります。当時、鎌倉の谷戸にはさまざまな
宗派の寺院が建てられ、鎌倉仏教の主導者たちが多く集い、辻々では説法を行う僧の声が
響いていました。鎌倉はまさに一大宗教都市としても隆盛したのでした。
武家屋敷のなかにも小さな仏像を安置した仏堂が建てられ、武土たちの日常の祈りの場に
なっていました。現在は廃絶した寺院や屋敷の跡からは、中世びとの信仰を伝える品々が
多く出土しています。」



埋葬とやぐら--鎮魂と供養の空間
鎌倉の山沿いや谷あいを歩くと、いたる所にあけられた岩窟に気がつくことでしよう。
これらは「やぐら」と呼ばれる鎌倉地方特有の埋葬施設です。狭い平地に対して人口が過密した
鎌倉では、墓地の確保が困難であり、またケガレの忌避から、山肌を利用したやぐらが多く
作られたのです。やぐらの中には、火葬骨とともに五輪塔や板碑などが置かれ、供養の標と
されました。苔むしたやぐらの前に立つと、中世鎌倉の空気をそのままに感じることができます。」



「阿弥陀三尊種子板碑」。



阿弥陀三尊種子板碑  胡桃ヶ谷(くるみがやつ)やぐら出土 鎌倉国宝館所蔵
板碑は、主に供養塔に用いられる石塔婆。
鎌倉ではやぐらを中心に多くの板碑が見つかっている。本品は胡桃ヶ谷やぐらで
出土した。深い彫り口の見応えある作で、正応元年(1288)の銘が刻まれている。」



「五輪塔」



五輪塔(銭洗弁財天周辺やぐら群出土)  銭洗弁財天宇賀福神社所蔵
五輪塔は、墓塔などに用いられる石塔。
下から方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、宝珠形の空輪からなる。
本品は銭洗弁財天の隧道上のやぐら群から出土した五輪塔の優品である。」



鎌倉の地形模型に映像を投影するジオラマプロジェクションマッピング。
1.都市鎌倉の成立
2.社寺の隆盛
3.交易と鎌倉文化
4.中世以降の鎌倉



1.都市鎌倉の成立
「縄文時代の鎌倉の入江」。



「鎌倉時代初期の鎌倉の海岸」。
黄色の部分が、海面が下がって陸地になったのだ。



寿福寺のある亀ヶ谷の地には、頼朝の父義朝の屋敷があったとされ、1180年(治承4年)、
源氏再興の挙兵をして鎌倉に入った頼朝は、当初この地に御所を置こうと考えたが、
土地が狭く、亡き父の御堂(岡崎義実による造立)もあったことから大倉の地を選んだのだという。



大倉御所(おおくらごしょ)は、鎌倉時代に相模国鎌倉大倉郷(現神奈川県鎌倉市二階堂・
西御門・雪ノ下3丁目一帯)の地にあった源頼朝の邸宅。大蔵御所、大倉幕府とも。
治承4年(1180年)から、承久元年(1219年)まで39年間、鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の
御所であった。



「鶴岡八幡宮」。
治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、
12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる
施設を整備していった。
建久2年(1191年)に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、
あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。



「浄光明寺」。
浄光明寺(じょうこうみょうじ)は、神奈川県鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある真言宗
泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山(せんこくざん)。開基は北条長時。開山は真阿。
本尊は阿弥陀如来である。北条氏や足利氏とゆかりの深い寺院で、足利尊氏は後醍醐天皇に対し
挙兵する直前、当寺に籠っていたと伝える。



「まんだら堂やぐら群」。
「まんだら堂やぐら群」は、一つひとつは2m四方程度と小規模で構造も単純なものが多いが、
150穴以上の存在が確認されている有数のやぐら群で、これだけまとまったやぐらを良い状態で
見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、たいへん貴重。
やぐらの中に並ぶ五輪塔は、後の時代に動かされているものが多いので、中世の姿そのままとは
言えないが、主に火葬した骨を納めるなどして供養するために建てられたもの。
葬られたのは、武士や僧侶が多かったと考えられているが、経済力を蓄えた商工業関係者なども
含まれていたであろう。
この「​ まんだら堂やぐら群 ​」👈リンク は以前に訪ねたのであった。



「鎌倉の切通し」。
鎌倉は三方を山に囲まれ、防御上非常に有利な地形をしていましたが、人や物資の行き来には
不便であったため、山の稜線を切り開いて道を作った。
これを切通(きりどおし)と呼びます。切通は鎌倉への出入り口として交通上だけでなく
戦略上重要な意味があったため、周辺には有力者の邸宅などが置かれていた。
鎌倉とその外を結ぶ切通のうち主なものを「鎌倉七切通(かまくらななきりどおし)」または
「鎌倉七口(かまくらななくち)」と呼ぶ。



「和賀江島」。
鎌倉時代の1232年(貞永元年)に築かれた。歴史上はこれ以前に、日宋貿易の拠点である
大輪田泊(摂津国)に築かれた経が島の記録があるが、その後の地形変化により失われており、
和賀江島は現存する築港遺跡として日本最古のものとなっている。
現在では満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまうが、干潮時には岬の突端から西方に
200mほどにわたって巨石の石積みが見られ、往時の姿を偲ばせる。
かつては北側に数本の石柱があり、南風を避ける船を係留していた。
付近の陸地は神奈川県鎌倉市材木座にあたり、すぐ南側には逗子マリーナがある。
鎌倉市と逗子市の境界に位置する。



海からは「和賀江島」経由で、陸路では周囲に設けた「切通し」経由で鎌倉に
入ってきたのであった。



「浜と経済活動---生と死の交錯する場」



「浜と経済活動---生と死の交錯する場
鎌倉の海岸線は現在より内陸にあり、砂丘が広がっていました。都市の周縁に当たる浜地は、
庶民の集団墓地としても利用され、由比ヶ浜周辺では膨大な数の人骨が出土しています。
一方、浜は海の玄関口でもありました。東南には人工の舟着場「和賀江島」が築かれ、
たくさんの交易船が行き交いました。中国大陸や列島各地からさまざまな品物が集まり、
近くには半地下式の倉庫が立ち並んでいました。浜地は、貿易や商業で賑わう場所でも
あったのです。」



「埋納銭」。



そして、後日この「和賀江島」を訪ねたのであった。



ズームして。
何か石碑も立っているようであったが。



若宮大路周辺遺跡群出土の埋納銭  若宮大路周辺遺跡群
若宮大路と大町大路が交差する下馬周辺で出土した埋納銭。曲物に入れられた状態で見つかり、
その数は40,000枚を越える。町屋地区の建物の床下に埋められており、備蓄銭であったと
推測される。」



左から「仏花瓶」、「渥美窯壷」、「黄釉水注」、「瀬戸黒釉水注」。




                              ・・・もどる・・・



                   ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.05.19 15:55:59
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