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県道207号線・森戸海岸線を国道134号に向かって進むと、左手にあったのが「東京工業大学ヨット部合宿所」。「切通し」が前方に。「切り通し」手前の「逗子桜山ニューライフ入口」を右折して「逗子市浄水管理センター」の方向に向かって進む。逗子市の「逗」の字は「一点しんにょう」と「二点しんにょう」のいずれが正しいのか。「一点しんにょうの「逗」と二点しんにょうの「逗」は、漢字としては同一の字であり、活字体が異なる場合に一点で表記されたり二点で表記されたりします。したがって、いずれを用いても逗子市の表記としては正しいということになります。」と逗子市👈️リンクの正式見解であるようだ。JR逗子駅と京急-新逗子駅は「二点しんにょう」であった。「二点しんにょう」「一点しんにょう」一点しんにょうの「逗」と二点しんにょうの「逗」は、漢字としては同一の字であり、活字体が異なる場合に一点で表記されたり二点で表記されたりします。 したがって、いずれを用いても逗子市の表記としては正しいということになります と。左手にあったのが「鐙摺(あぶずり)の不整合」案内板。「鐙摺の不整合👈️リンクここは三浦半島でいちばん古い層の上に、これより若い逗子層が傾斜不具合の関係で重なっている露頭で「鎧摺の不具合」として、古くから知られています。右下から左上方に向かってみえる凹凸に富んだ不具合面を境として、逗子層は北に緩く傾いているが、葉山層はほとんど垂直に近い傾斜を示してることから、葉山総推積後、逗子層推積前に多きな地殻変動があったことがうかがわれ関東地方の生い立ちを知る上で貴重な資料とされています。不整合面のすぐ上には、葉山層の砂岩、泥岩などの礫からできている基底礫岩がみられ、ミウラニシキその他の貝化石が多数含まれています。 逗子市教育委員会」「不整合面の位置と順序」案内図。不整合面に近づいて。防空壕跡には不整合面の案内写真が。案内板の写真には説明文も。「神奈川県指定天然記念物 鐙摺の不整合を示す露頭」案内柱「昭和五十ニ年五月二十日指定 神奈川県教育委員会」と。そしてその先、右手の逗子海岸沿いの広場には花火見物の客席用の椅子が並べられていた。その先、逗子海岸の砂浜にも巨大なブルーシートが敷かれていた。どちらも有料席となるのであろう。この時期に花火大会を催す理由は、この後に、この場所に「海の家」が建ってしまうと「有料席」の設置可能場所が、縮小されてしまうため、「花火大会」の採算面で大きく影響するためであろうか?「鐙摺の不整合」を振り返って。行き止まりの先、「逗子市浄水管理センター」の敷地内の公園の石碑を訪ねた。国木田独歩は若くして(満36歳)没した小説家で、自然主義文学の先駆者とされています。学生時代に徳富蘇峰と知りあい大いに影響を受け、明治27年(1894年)、民友社に入り徳富蘇峰の「国民新聞」の記者となり、この年起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加。「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となりました。明治28年(1895年)11月、蘇峰の媒酌で佐々城信子と結婚し逗子で暮らし始めましたが、あまりの貧困生活に耐えられず帰郷し両親と同居しました。翌年信子が失踪し協議離婚しています。信子との間には長女がいます。その後、明治31年(1898年)、下宿の大家の娘・榎本治(はる)と再結し、四子をもうけました。この最初の結婚生活を送った地が逗子であり、独歩ゆかりの地となっています。また、独歩も貸し家の「柳屋」近くで眺めた富士が忘れ難かったようで、小説「武蔵野」で「われわれが逗子の「あぶずり」で眺むるよう」な富士に言及しています とネットから。「国木田独歩文学碑逗子の砂やま草かれて 夕日さびしく残るなり 沖の片帆の影ながく 小坪の浦はほどちかし 国木田独歩 「たき火」より」と刻まれていた。石碑の裏面には「平成四年十二月 逗子市教育委員会」と。再び逗子海岸の花火席を見る。時間は16:23。花火開始まであと3時間強。花火打ち上げ用の台船を再び。江ノ島をズームして。次に訪ねたのが「国道134号」沿いにあった「櫻稲荷神社」。逗子市桜山8丁目16−8。「櫻稲荷古くからこの地を司る三柱の神様を櫻稲荷としてお祀りしています。水を司る龍神地を護る巳神豊穣の稲荷神衣食住、五穀豊穣、商売繁盛、諸願成就、産業興隆を昼夜の別なく御守護くださいます。由来についてはQRコードを読み取ってください。令和元年十月二十三日 遺産 中尾建築工房」民間法人が勧請した神社のようであった。法人私有地内に鎮座しますが、古くから当地を司る神様として前の道路から誰でも参拝できるよう考慮されていた。国内遍く鎮座する大きな神社にも無人で寂れた小さな祠にも路傍の石祠にも古(いにしえ)の勧請に関わった方々の信仰心と住民への思いやりに感謝するとともに、今の時代の真新しい「櫻稲荷」に勧請初期から後々同時代を送ることができるのだと ネットから。扁額も「櫻稲荷」。小さな木製の社に近づいて。次に訪ねたのが国道134号「長柄隧道」手前の左側高台にあった「田越神明社(桜山下の神明社)」。現在名は田越神明社ですが、桜山の下社にあたる神社とのこと。鳥居の脇には、なかなか立派なタブノキとカヤが育っていた。鳥居の柱には、「元禄十六年六月廿二日」」」(西暦一七〇三年)と刻まれていた。元禄十六年は江戸時代・東山天皇の代で、元禄十五年十二月十四日の赤穂四十七士の討ち入りの翌年に勧請されたことになる。さらに進むと石段の上にあった社殿。「当神社は田越神明社と言います。祭神は天照大神です。伊勢神宮の内宮、天照皇大神宮よりの勧請状況は記録がなく不明ですが、鳥居の柱には、『元禄十六年六月廿二日』(西暦一七〇三年)と刻まれています。元禄十六年は江戸時代・東山天皇の代みよで、十五年十二月十四日の赤穂四十七士の討ち入りの翌年に勧請されたと思われます。以後三〇〇年、氏子十五軒にてお守り致しています。当社やしろは東京オリンピックに際し、当所に遷座されました。 平成十五年(二〇〇三年)一月一日 田越神明社氏子」境内には庚申塔が並んでいた。7年位前にこの場所・田越神明社に移設されたものとのこと。右から「山状角柱型 日月 「青面金剛塔」」。「田越 講中」と台座には。右側面には「安政六己未稔二月」(1859)と。「唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿」右側面 「天明五巳年」(1785)。左側面 「正月吉日」「唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛立像 三猿」。右側面 「文政七甲申年」(1824)左側面 「十一月吉日」。「唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿」。右側面 「寶暦七丁丑天」(1757)左側面 「十一月吉日」。「舟形光背型 種子(カ) 青面金剛立像 邪鬼 三猿」。正面左側 「延寳九辛酉歳九月吉祥日」(1681)正面右側「奉造立山王供養長久如意祈」。「櫛形角柱型 「庚申塔」」。正面右側 「大正十年」(1921)正面左側 「一月吉日」そしてこの日の散策予定を全て終了し、県道207号線のバス停に向かう。道路標識を振り返って。帰路も、JR逗子駅までバスを利用。バス停「切通し下」でバスの到着を待つ。このあたりには、まだ花火見物の客の姿は少なかった。そして地元の駅からは、この日の葉山の海岸からは見えなかった富士山の山頂の姿が確認できたのであった。そして18時前に帰宅したのであった。この日の散策ルート図。そしてこの日の歩数は31,972歩、24.5kmと我がスマホから。よく歩きました、歩きすぎ!?そして、この夜は、標高41mの我が家からは、「逗子海岸花火大会2024」👈️リンクの花火の姿が確認でき、自宅の我が部屋から楽しんだのであった。我が部屋からしばしズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.07.03
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県207号線の左側に、鐙摺城址としての史跡でもあり、町指定文化財にもなっている「旗立山」への鉄製の階段があった。「葉山町指定文化財第四十三号史跡 旗立山👈️リンク平成四年三月二十七日指定高さ25mほどの頂上が平らな丸い小山で、鐙摺(あぶずり)山、軍見山とも呼ばれています。『源平盛衰記』によれば、石橋山(小田原市)で旗揚げした源頼朝に呼応した三浦党は、鐙摺城北側の小浜の入江から援軍として出陣します。石橋山の合戦で頼朝軍が敗走したことを酒匂川の畔で聞いた三浦党は引き返しますが、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇、対峙します。その後、お互いの誤解から合戦になりますが、このとき鐙摺城にいた三浦党の総帥三浦義澄は、この山に旗を立てて気勢をあげたことから、旗立山と呼ばれるようになったといわれています。また、『新編相模国風土記稿』によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた頼朝が、治承元年(1177)に密かに三浦を訪れ鐙摺山に登った際、馬の鐙が擦れたことからこの名が付いたとされます。 葉山町教育委員会」鉄骨製の階段を上って行った。この木柱には??鉄骨製の階段の後は、岩を刳り貫いた石段が。そして平らな頂上に到着。「葉山町指定 史跡 旗立山(鐙摺山) 「伊東祐親入道供養塚」伊東祐親には、娘が四人あった。長女は相模の三浦義澄の妻になり、次女は、はじめ工藤祐経に嫁いだが、のち取り帰されて、土肥遠平に再縁した。三女と四女は、まだ父のもとにいた。源頼朝は既に十三歳のとき、伊豆の国へ流されたが、伊東・北条の両人を頼みに暮らしていた。三女は美人の名が高かったので、頼朝はそれを知って、つれづれのなぐさめとして、ひそかに通ううち、男子が生れた。頼朝はおおいに喜んで、その男子に千鶴御前という名をつけた。伊豆は、源氏にとっては祖先が往来した地であり、かつて部下が住んだ国である。平家全盛の世に、雌伏している頼朝ではあったが、このたび男子が生れたことは、流人の身に、ひとしおうれしく感じられた。千鶴御前・三歳の春、伊東祐親入道は、大番勤めを終って、京から伊東へかえった。しばらくは千鶴御前の事を知らされませんでした。ある夕方、庭苑の築山で遊んでいた、千鶴御前の姿を見て、妻に尋ねた。頼朝が通った三女にとっては継母だったので、いい機会とばかりに愚かしい言い方で、伊東祐親入道に頼朝と三女との間の子で、貴方の孫御前ですと告げた。伊藤祐親入道は大いに腹を立て、「娘が多すぎて置き場がなければ、乞食にでもやるが、源氏の流人を婿にするなどは、まっぴらだ。もし平家におとがめられたら、なんとしよう。毒虫は頭をくだけ、かたきの子は殺してしまえ、とは古語にもいっていることだ」こうして郎党をよびよせ、千鶴御前を誘い出し、伊東の松川の上流の溜りに芝漬けにしてしずめた。しかも、その三女を奪って、同じ伊豆の江間の小四郎に嫁がせた。さらにそのうえ、頼朝を夜討ちにしようとして、郎党どもをあつめた。しかし、伊東祐親入道の二男・九郎祐清が事情を話し、ひそかに北条の方に逃れるよう進言した。源氏の時代になってから、伊東祐親入道は、かって頼朝に不信をはたらいたかどで、ついに生けどりになって、婿の三浦介義澄にあずけられた。三浦介義澄は、伊東祐親入道の長女を、妻にしていたのである。前の罪をのがれがたく、伊東祐親入道は、三浦の鐙摺というところで、首をはねられた。」と。植え込みに囲まれ、こんもりと盛り上がった所に「伊東祐親入道供養塚」があった。その塚には塔婆も。現在地はここ●。供養塚の近くから見える景色は極上、「江ノ島」をズームして。鐙摺山、軍見山の山頂の広場を振り返って。伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(1177)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登るとき、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる。源平盛衰記では、石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている。この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の絵師三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした。鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである と。そして上って来た鉄骨製階段を降りた。道路面にあったマンホール蓋。「ヨット」、「ウグイス」、「クロマツ」、「ツツジ」がデザインされた葉山町の汚水マンホール蓋。明治45年、国産ヨットが初めて帆走(はんそう)したことから、葉山町は「近代ヨット発祥の地」とされています。 相模湾に浮かぶヨットを主役に、町の花「ツツジ」、木「クロマツ」、鳥「ウグイス」をあしらったマンホール蓋で、親子蓋である本蓋は、親子あわせて壮大な海を渡るヨットを描いています。 ヨットが行きかう相模湾は、温暖な気候と黒潮の恩恵から多様な生き物が生息しており、そうした環境へ配慮し、町の浄化センターは山間部に建設しました。受枠に施された青い円は、山・川・海を廻る水を表し、「葉山の美しい水環境を未来の世代へ引き継ぐ」という思いを込めています とネットから。旗立山・鐙摺山を下って、海宝寺の先まで戻り、「あぶずり港(鐙摺港)」に向かって歩く。「あぶずり港(鐙摺港)」手前の丘に上がって停泊中の葉山マリーナのヨット群。全てのヨットが台車に載せられて。「HAYAMA MARINA」と。その先にあったのが「葉山港 日本ヨット発祥の地碑」。葉山港は、「日本ヨット発祥の地」としても知られている。日本にヨットが伝えられたのは、横浜港(現・山下公園)に外国人ヨットクラブが造られたのが最初とされていますが、日本人では、明治15(1882)年、当時の農商務司法大臣 金子堅太郎伯爵の子息がヨットを建造し、葉山で楽しんだのが始まりとされています。葉山港の入口には帆の形をした記念碑が建立されています。三浦郡葉山町堀内。「葉山港 港湾管理事務所」を見る。三浦郡葉山町堀内50。「葉山港」・「あぶずり港(鐙摺港)」。葉山港は、三浦半島の相模湾側に位置し、鈿朝港とも呼ばれ、古くから澄業が営まれているとともに「日本ヨット発祥の地」として知られています。昭和30年の神奈川国体では、ヨット観技の会場として、また、昭和39年の東京オリンピックでは、湘南港のサブハーバーとして重要な役割を果たしました.その後、平成6年に再整備に手し、平成10年9月には国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)の成年女子ヨット競技会場として利用されました。また、平成17年から18年にかけて、港湾管理事務所の建て替えを行い、平成19年4月から供用を開始しています.現在は、ヨット、モーターポートを約250隻、漁船を約40隻収容しています と。この日の漁を終えた漁船が並ぶ。右手にあったのが「明治大学体育会ヨット部合宿場」。再び葉山港を見る。「長三郎丸」と書かれた漁船が並ぶ。葉山あぶずり港の入口には数件の船宿が立ち並んでいて、向かって一番左にあるのが「長三朗丸」の宿。その先のT字路の角にあったのが葉山港改築「船溜竣工紀年」碑。記念碑には、「大正十ニ年九月一日ノ大震災ニ因リ海岸ノ隆起甚シク船舶ノ碇繋避難ノ利便ヲ喪《うしな》ヒ」とあり、葉山港の船溜(ふなだまり)が隆起し使えなくなったことが書かれています。また、漁船の係留は砂浜に引き上げるしかなく、一旦天候が悪化すると大破する船が多かったことも書かれています。さらに震災後、魚介類への需要は増大し、漁船の増加・大型化が進み、復興工事を願う漁民の「痛嘆」(ひどく嘆き悲しむこと。痛切な嘆き)が長かったこと、この窮状を打開し新たな発展拡大を目指し組合役員・組合員が一丸となって、鐙摺(あぶずり)船溜の再建を遂行したことが書かれています。地震によって地盤が隆起した様子や、総工事費十二万余円(現在の貨幣価値で約6億円)にものぼった工事が、有力篤志家(味の素本舗の鈴木商店)の資金援助のほか、多くの方々の協力で実現したことが確認できます とネットから。「逗子市新宿5丁目」にある「披露山」を望む。「旧石原慎太郎別荘」も中央に確認できた。「あぶずり港内駐車場」の岸壁上にはブルーシートを敷いて何かを待っている家族の姿が。最初は釣人家族かと思っていたが。「第67回逗子海岸花火大会」がこの日2024年5月30日(木)午後7時30分より開催されると。逗子海岸の有料席図、車両通行止め(交通規制)案内図。外海側の岸壁に様々なシートが敷かれ場所取りが。近くにいたご主人に何が始まるのかと訪ねたら逗子の花火大会が今晩開催されると。ここは無料の特等席なのであろう。時間はまだ、16時前、開催まで3時間半近く!!逗子海岸沖の花火の打ち上げ台船(船台)をズームして。「あぶずり港内駐車場」から1Fに、旬の地の食材を使用したフランス風創作海辺料理店「レストラン ラ・マーレ」のある建物を見る。そして「小浜海岸」を見る。「旗立山」の北側の道路沿いにあったのが「旗立山麓の丸石神」。「手前に置いてある石は、条が残されていることから縄か綱が巻かれた跡のようで、漁網(ぎょもう)か錨綱(イカリづな)に使われたのではないでしょうか。そう考えると丸石も元は船を安定させるバラストだったのかも。かつて三浦半島の西側や相模湾一帯は、通船の便があったと考えられています。」とネットから。「小浜海岸」の先に見えたのが「逗子市浄水管理センター」。逗子市内唯一の下水道終末処理施設。逗子市桜山9-2448-4。「小浜海岸」から国道134号沿いの「葛が浜海岸」、「大崎公園 展望台」方向を望む。「鐙摺葉山港入口」交差点。花火打ち上げ船台を再び見る。県道207号・森戸海岸線を北に進む。この先から、逗子市が始まるのであった。三浦郡葉山町堀内。次に訪ねたのが「鳴鶴公園」。「鳴鶴公園は逗子市にある住宅街のコンパクトな公園です。昭和後期につくられた第二次ベビーブームのための公園です。」とネットから。「鳴鶴公園」。「鳴鶴公園」内にあった「岩ケ谷遺跡」。そしてここは「平田東助別荘跡」であると。平田 東助👈️リンク(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任した。山縣有朋の側近として知られる。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。出羽国米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。爵位を継いだ長男の平田栄二(松堂)は日本画家、その次男の松下正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。次男の平田昇は海軍中将となった。大正14年(1925年)3月、病気により辞任。同年4月に逗子のこの場所にあった別荘に於いて薨去された とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.02
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「諏訪神社」を後にして、県道207号線に戻り、100mほど北に進み再び海岸に。この時は、干潮の時間で、前方の岩場が大きく広がり、岩場で遊ぶ子供達の姿も。岩場の奥には「葉山灯台」が再び。「諏訪防波堤」は、しっかりした立入禁止措置がなされていた。「葉山マリーナ」の敷地境界線となっているようであった。「葉山マリーナ」のヨットハーバーを見る。遠く江ノ島の姿が確認できた。そして、来た路地を戻り再び県道207号線に出て、「葉山マリーナ」の正面に向かう。入口にあった「鈴木三郎助像」。近づいて。「三代 鈴木三郎助《葉山マリーナ創業者》1890(明治23)年~1973(昭和48)年味の素株式会社三代目社長であり、京浜急行電鉄株式会社社長も努めた鈴木家の第三代当主・鈴木三郎助は、葉山マリーナの創業者であります。彼の父、二代鈴木三郎助は、葉山の海岸に打ち上げられるカジメから薬品の原料となるヨードを採取する事業を始め、1893 (明治26 )年には鈴木製薬所として現在の葉山マリーナが建つ場所に工場を建設しました。鈴木製薬所は次第に事業を拡大、やがて「味の素」という新事業も興し、葉山から離れていきますが、当地は鈴木家とうまみ調味料「味の素」の出発地として大切に保持されておりました。そして初の東京オリンピック開催に当たり、本邦初となるヨットハーパーのあるリゾートホテル建設を、当時の五輪担当大臣から提案された三代鈴木三郎助は、1964 (昭和39 )年、この地に葉山マリーナを建設しました。銅像は以前ホテル正面玄関に建立され、施設建て替えの際に一時保管された後、2011(平成23 )年に再設置されました。建立記念の「題字」は、京浜急行電鉄株式会社会長(当時)小谷昌氏の揮毫によるものです。」「鈴木三郎助翁像 小谷 昌」と。「HAYAMA MARINA」。レストラン、ショップが併設されたマリーナ。葉山は日本ヨット発祥の地。潮の香りと、マストに当たるロープの軽快な音を聞きながら、湘南の海にきたことを実感。マリーナ内にはレストランやカフェ、ショップが入っており、ゆっくり時間を過ごすこともでき、多くのお土産も販売されていた。ズームして。中央に「葉山マリーナ」の「ロゴマーク」が。(ネットより)。多くのヨットが所狭しと係留中。江ノ島をズームして。「旗掲揚ポール」を見る。併設されていたレストラン、ショップをしばし散策。様々な色の「HMYCクラブTシャツ」が販売されていた。2Fへの階段。2階にはレストランが。●広東料理 青羅 コース料理から評判の麺類まで、自然の風味と素材の旨味を活かした広東料理。●葉山わさび お刺身をはじめ魚も充実。新鮮な魚介類と美味しい串揚げが楽しめる。●葉山AROMANCE(アロマンス) AROMANCE とはAROMA(香り)とROMANCE (物語)をマリアージュさせて生まれた 「葉山」発の香織(かおり)のブランド。南仏コートダジュールと葉山の自然豊かな 風景を 重ね合わせて調香した穏やかで優しい香りを楽しめる と。江ノ島・裕次郎灯台周遊クルージングも楽しめると。1便:11:00~ 2便:13:30~ 3便:15:00~※11/16~3/15期間の平日は1便・2便のみ運航大人3,000円 (税別) 小人1,500円 (税別)クルージングのコース案内。外に出て、「葉山マリーナ」の本館・マローナプラザを振り返る。レストラン・ショップ・クルージング案内。そして再び県道207号線に出る。「葉山マリーナ」の駐車場前にあった民家を。歴史を感じさせる屋敷の広い住宅が並んでいた。「葉山日陰茶屋」手前の左側にあったのが「三浦二十四番 観世音大士」碑。この細い坂道を上って行った。この後に訪ねた「海宝寺」の墓地の前を進む。所狭しと並んだ多くの石仏が迎えてくれた。手水場。「海宝寺」の本堂。詳しい由来などは分からないようだが、「新編相模国風土記稿」の「三浦郡 衣笠庄 堀内村」の欄に光徳寺の子院として紹介されており、「海寶寺 是も域外に在。別に除地を附す。正観音を置。郡中札所三十三観音の第二十四番なり」と、簡単に紹介され、現在でも光徳寺が管理されているとのこと。ちなみに、除地とは江戸時代、幕府や藩から年貢を免除された土地のこと。幕府からも一定の信仰を得た、由緒正しいお寺なのであろう。扁額「海寶寺」。 「鐙摺(あぶずり)港 」 側からの民家に挟まれた路地奥にあった寺。内陣。現在は同じく堀之内にある光徳寺の持ち寺になっているとのこと。寺歴は定かではありませんが、江戸時代の地図にも『戒宝寺』と記されているとのことで、相当に由緒ある古いお寺のようであった。境内には六地蔵のお姿も。近づいて。石祠に納められた石仏。六地蔵の両脇にあった「庚申塔」(右)。六地蔵の両脇にあった「庚申塔」(左)や五輪塔他が並ぶ。そして「海宝寺」の隣・南側にあったのが、「鐙摺 須賀神社」。手水場。拝殿。三浦郡葉山町堀内44。虹梁上の目貫には兎の彫刻が。なぜ兎を?気になります。波との関連から、海難除け関連でしょうか。内陣。石鳥居。海岸から一段上がった高台の上。すぐ北側には源頼朝ゆかりの鐙摺あぶすり城址の高台もあった。白い神明鳥居が、海に似合うのであった。扁額「須賀神社」と。そして境内から「海宝寺」の「六地蔵」その奥に「旗立山(鐙摺城出城跡)」を見る。県道207号線沿いにあったのが「葉山日影茶屋石蔵」。種別 国登録有形文化財(建造物)登録年月日 平成23年1月26日所在地 葉山町堀内16-1構造 石造2階建、瓦葺、建築面積31平方メートル時代 大正10年頃登録基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの「日影茶屋本店客室棟」。日影茶屋はかつて「日蔭茶屋」と書き、江戸時代から続く老舗茶屋で知られています。明治初期には「茶漬茶屋」の記録がありますが、明治9年に「旅泊渡世鑑札願」が出され、この頃から宿泊客も扱うようになったようです。大正10年頃に現在ある房州石の石蔵を建造し、大正11年には暴風雨の影響で建物の一部を移築して、このときに内蔵の持ち上げ工事や帳場、板場、奥棟、店舗の改築工事を行っています。大正12年春には帳場ができて客室棟も2階建てとなり、このときに車廻しが付けられています。昭和9年には大玄関と大玄関から左手の客室、風呂場、洗面所を取り壊し、客室の改築が行われた。現在の客室棟天井に残された棟札により、上棟年月日は昭和9年3月13日であることが明らかとなっています。昭和40年代には大改装工事が行われ、調理場と店舗等がグリルに改修され、大きく雰囲気を変えています。しかし、1階の大広間や2階の客室は旧状をよく残しており、かつての様子をうかがうことができます。大広間は17畳と14畳の座敷がそれぞれ2組用意され、ふすまを開けると一間続きとなり、大広間として使用することができます。座敷では正面にそれぞれ黒檀の丸太柱を据えた大床が用意されています。座敷と次の間を仕切る欄間は筬欄間(おさらんま)、室内には長押のほかに内法長押が廻されて、違い棚と書院窓を配した床脇を備えています。客室は8畳敷と6畳敷の間の組み合わせによる部屋が4室用意されており、旅館として栄えた様子を伝えています。明治中期なると葉山は海浜別荘地として栄え、多くの人々に知られるようになり、それに伴って文人・名士も数多く訪れました。その名所旧跡は葉山の各地に残り、多くの逸話を伝えていますが、日影茶屋もまた、文人・名士で賑わいを見せた場所として歴史的に価値の高い建物ですと ネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.01
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