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さらに4階から5階への階段を上る。階段は左側通行と。5階の「常設展示室3」を訪ねた。近づいて。廻り込んで。小田原城天守再現コーナー江戸時代に天守にまつられていた摩利支天像の安置空間を再現し、再現に生かされた職人の技を映像で紹介していた。「摩利支天と小田原城小田原城天守最上階には、武士の守り本尊として信仰された摩利支天像が安置されていまし「た。大久保忠朝か貞享3年(1686)に佐倉藩(佐倉市)から小田原藩に復帰した際に、天守に祀ったとされています。「御天守摩利支天」と呼ばれ、元禄16年(1703)の地震において焼失をまぬがれたことから、更に尊崇を集めました。摩利支天像は、明治3年(1870)に天守が取り壊された際に、永久寺(現小田原市城山)に移されましたが、昭和35年(1960)に天守閣が復興された際に返還されました。」「小田原城天守模型の調査小田原市から委託を受けた小田原城天守模型等調査団(団長・西和夫神奈川大学名誉教授)は、3基の小田原城天守模型と絵図等の関連資料の調査を行いました。その結果、天守最上階に、摩利支天を含む天守七尊が安置されていた空間の詳細が明らかになりました。そこで天守閣耐震改修に際して、この摩利支天像が安置されていた空間を再現することとなりました。」「小田原城天守模型(東博模型)」(右)「最上階須弥壇平面図」(上)と「最上階須弥壇立面図」(下)「市民による摩利支天安置空間再現摩利支天安置空間の再現にあたっては、かっての小田原藩有林などを中心とした小田原産材が用いられ、その多くは市民の寄付によりまかなわれました。切り出しや運搬、加工にも多くの市民が協力し、古建築についての知識と経験を活かした様梁を中心に、小田原の職人が施工しました。小田原の木に関わる多くの人のカが結集し、平成28年(2016)、明治3年(1870)の廃城以来146年を経て、かっての小田原城天守最上階の姿がよみがえりました。」「小田原城天守最上階模型 平成27年(2015)」「小田原城天守最上階模型 平成27年(2015)小田原城天守模型(東京国立博物館模型)の実測結果をもとに制作したもので、柱の配置や摩利支天像が安置されていたとされる須弥壇の様子が分かります。」「天守型厨子」。「天守型厨子」年代未詳 小田原城天守閣蔵高さ161. 0cm 幅72.5cm 奥行71 .5cm摩利支天像が納められていた厨子で、小田原城天守の姿を模したものと思われます。一層部分には観音開きの扉があり、内部には金箔が貼られています。作られた時期は不明ですが、明治3年(1870)の小田原城廃城後に摩利支天像を安置していた永久寺(小田原市城山)刊行の「天守七尊」図には、本資料に納められた姿で摩利支天像が描かれており、昭和35年(1960)の天守閣復興の際に摩利支天像とともに小田原城天守閣に収められました。」「摩利支天」👈️リンク 案内。「摩利支天と天守七尊摩利支天は、日本では武士の間であつく信仰されてきました。小田原城天守のものは三面六臂(さんめんろっぴ/3つの顔と6本の腕)で、イノシシに乗る姿で表されています。また、作られた時代は分かりませんが、天守の形をした厨子に納められています。江戸時代の天守には、摩利支天を含む、天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていました。現在残るのは、阿弥陀如来、如意輪観音、大日如来、弁才天、地蔵菩薩、薬師如来で、明治3年(1870)の廃城時に持ち出され、現在は永久寺(小田原市城山)に安置されています。」「摩利支天像」を四方から。映像でも紹介されていた。「今日まで380年 小田原の町を見守ってきました。」「そして今、この摩利祀る空間が」。「最上階にある摩利支天の空間の・・・」「詳細が明らかになりました。」「摩利支天」を祀る「須弥壇」を斜めから。正面から。「摩利支天」の左右に天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていた。右から地蔵菩薩、弁才天、薬師如来像。中央の「摩利支天」像を再び。ズームして。右側には、右から阿弥陀如来、大日如来。廻り込んで。大日如来、如意輪観音。そして「諸山十尊(しょさんじゅっそん)天守閣最上階から見えるのが箱根連山です。これらの中で、天守背後に位置する駒ヶ岳、明神ヶ岳、二子山、石垣山など10の山頂は、諸山十尊として天守七尊とともに信仰されていました。」最上階にある「回廊・展望デッキ」からの光景案内板。西側。諸山十尊として天守七尊とともに信仰されている駒ヶ岳、明神ヶ岳の姿が。この日の西側の諸山十尊の絶景。西側、駒ケ岳の左には双子山、石垣山一夜城が。「石垣山一夜城」👈️リンクは以前に行った時の写真(左の鉄塔の上部の山頂の場所⇓ズームして。「二子山」をズームして。南側・真鶴半島方向。真鶴半島。「伊豆大島」の姿が写真左に。真鶴半島をズームして。「小田原三の丸ホール」、「常磐木門」方向を見る。「常磐木門」をズームして。東方向には「江ノ島」、「三浦半島」が見えると。我が市の「江ノ島」の姿が辛うじて。北側の案内。北側の写真の一番右側の「小田原駅」の先が「大山」。その左から「三の塔」、「塔ヶ岳」、「蛭ヶ岳」、「檜洞丸」。そして階段を降りて1階ミュージアムショップ(天守閣内)に立ち寄った。「伝統の小田原物産小田原市には豊かな歴史と自然を背景として、菓子「ういろう」や「かまほこ」、「小田原提灯」などさまさまな物産が生まれ、現在まて脈々と受け継がれています。歴史的には、戦国時代に関東の霸者てあった小田原北条氏の本拠地、また江戸時代には東海道の難所・箱根の手前の宿場として経済・文化的に発展した小田原。自然の面では、南に広がる相模灣ての水産物、西の箱根山系から伐りたされた木材などの資源に恵まれています。」「ういろう」、「梅干し」、「蒲鉾」、「小田原漆器」、「寄木細工」、「小田原提灯」、「小田原鋳物」、「その他さまざまな物産」。小田原周辺ガイド1️⃣北条早雲公像小田原駅駅西口のロータリーにある、高さ5.7m、重さ7tの像です。平式2年(1990)、小田原市制50周年を記念して造られました。北条早雲が牛の角に松明を付けて走らせることで軍勢を多く見せ、大森氏から小田原城を奪ったという、「北条記」に書かれた「火牛の計」のエピソードをモチーフにしています。2️⃣小田原文学館北原白秋や北村透谷など、小田原にゆかりの文学者を紹介しています。宮内大臣田中光顕の別荘を改装した本館と桜閣風の白秋童謡館があり、建第も楽しむことがてきます。敷地内には尾崎一雄邸の書斎も移築されています。3️⃣北条氏政・氏照の墓所天正18年(1590)の小田原合戦後、徳川家康と外戚関係にあった五代氏直は高野山に追放されましたが、四代氏政と氏照(氏政の弟で八王子城主)の兄弟は自刃し、かつてこの地にあった小田原北条氏の氏寺・伝心庵に葬られました。4️⃣報徳二宮神社・報徳博物館ニ宮尊徳をまつる神社です。明治27年(1894) 4月、二宮尊徳の教えを慕う6カ国(伊勢国、三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、相模国)の報徳社の総意により建立されました。尊徳の遺品などを展示する報徳博物館も隣接しています。5️⃣松永記念館・老欅荘(ろうきょそう)電力王と呼ばれた実業家で、近代三茶人の一人、松永安左衛門(耳庵)が、自らが収集した古美品の公開を目的として自宅數地内に建てました、敷地内にある老欅荘(国登録有形文化財)は、近代数寄屋建築で松永が晩年を過ごした居室です。6️⃣小田原漁港神奈川県西部の拠点となる漁港で、アジやイワシなど多くの魚が水揚げされます。漁港内には魚市場や食堂もあり、新鮮な旬の魚介類を楽しめます。防波堤に建てられた、小田原提灯を模した灯台も見どころの一つです。7️⃣清閑亭・清閑亭土塁黒田官兵衛の子孫で、貴族院副議長を努めた黒田長威の別荘です。小田原城三の丸外郭の土塁上にあります。数寄屋風の和風建築で、平成17年(2005)、国の登録有形文化財になりました。晴れた日には、母屋から真鶴半島や大島、相模湾や箱根山を一望できます。8️⃣小田原宿なりわい交流館関東大震災の後、旧網問屋「角吉」を昭和7年(1932)に再建した建物です。小田原の典型的な商家の造り「出桁造り」が用いられています。まち歩きの際には、案内所やお休み処としてぜひお立ち寄りください。9️⃣小田原市郷土文化館小田原市の歴史や文化、自然を紹介する博物館です。市内で出土した土器や石器等から小田原藩時代の古文書、市内でのなりわいを支えた民具まで多様な資料を展示しており、旧石器時代から現代までの小田原の歴史を○○できます。ミュージアムショップの店内。お土産が所狭しと並んでいた。「北条五代」を大河ドラマに👈️リンク。「北条五代」を題材としたNHK大河ドラマを誘致するために「署名」のご協力をお願いします」と。「戦国の世にあって親兄弟争うことなく五代百年にわたり関東を治めた北条氏は、減税、殖産興業、経済振興、文化奨励などの善政を敷きました。「民を豊かにし、国を豊かにする」という北条氏の領国経営は、現代のまちづくりにも通じるものです。北条氏の魅力を日本全国へ広く発信するために、大河ドラマ化を求める署名活動にご協力をお願いします。●北条五代とは戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。明応9年(1500)頃、関東で理想の国家を作ろうと、北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆韮山から小田原城に入りました。以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。ニ代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は減亡しました。」是非、実現して欲しいのであるが。「鎌倉武士の日常生活」講演会ポスター。「鎌倉幕府の肖像~木像や肖像画からみる武土の装束について~」「北条家の人々~義時、泰時を中心に~」「幡多から波多野へ ーー古代の秦野ーー」東国の相模国幡多郷であった秦野地域の庶民やこの地域を出身とする人物等について、奈良・平安時代の遺跡から発見された遺構遺物や文献等から解説。「禄寿応穏 小田原城」👈️リンク。「小田原かまぼこコレクション」。近づいた写真をネットから。小田原といえばなんと言ってもかまぼこ!!各社の自慢のかまぼこが並ぶ。「小田原城天守閣 来館記念スタンプ「虎朱印」「虎朱印」に刻まれている「祿壽應穩」(禄寿応穏)には、禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように、人々が平和で暮らすという願いが込められているといわれ、小田原北条氏二代氏綱から五代氏直までの歴代当主が用いました。」小田原城の「プリクラ」。「世界でココだけ 全身撮影OK プリムービー無料」と。小田原城天守閣入口には学生の集団が。花菖蒲と小田原城天守閣が描かれた「御城印」を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.31
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天守閣3階の【企画展示室1】。小田原城周辺の発掘調査結果や小田原ゆかりの美術工芸品や甲冑、刀剣などが展示されていた。発掘調査結果の展示コーナー。「発掘された小田原城とその城下小田原城とその城下では、昭和46年(1971)以降500地点を超える発掘調査が行われています。土の中から現れた「茶碗のかけら」も非常に多くのことを語りかけてくれます。それは、歴史の表舞台に出てこない人々の暮らしぶりや、いきいきとした小田原城の姿です。発掘調査によって垣間見えた、足元に眠る小田原の一部を紹介します。」「史跡・小田原城趾 御用米曲輪でみつかった切石敷遺構風祭石(箱根の凝灰岩)と鎌倉石(黄色い凝灰岩)を加工しモザイク状に組合わせた切石の庭園遺構です。要所には安山岩の巨石を配して見所を作っており、この庭園を眺めるような位置で大型の礎石建物が見つかっています。このような切石を用いた底園は全国的に例がなく、小田原北条氏が高い文化と技術を持っていたことをうかがわせます。」発掘状況。左 :小田原城の発掘調査中央:小田原宿のにぎわい右 :小田原城を取り巻く城下の暮らし下部には、発掘された数々の陶磁器が展示されていた。左 :かわらけに見る小田原北条氏の世界👈️リンク かわらけとは、武家社会において儀式や宴会で使われる素焼きの器です。関東地方の かわらけはロクロで成形されるものが主体ですが、小田原北条氏は、手びねりで作る 京都系の技術で作られたかわらけを用いていました。これらのかわらけは「小田原物」と 同様に、領国内で珍重されて用いられました。中央:かわらけと饗宴右 :船載品へのあこがれ 下部には発掘された多くのかわらけが展示されていた。「戦国時代の小田原城出土のかわらけの移り変わり」。「かわらけと饗宴北条幻庵(宗哲)が鶴松院に与えた心得「宗哲覚置」に記された婚礼礼作法や式三献、年中行事に関する注意書きから、当時のかわらけの使い方がうかがい知れます。また、永禄元年(1558) 4月、古河公方足利義氏が小田原の北条氏康館を訪れ、饗応を受けた際の記録があります。そこには、氏康館での儀式の様子が記され、かわらけとともに小田原の名産である梅干しや蒲鉾などもみられます。」小田原城三の丸藩校集成館跡第Ⅲ地点29号溝中層から出土したかわらけ(写真右上・右下)。大量に一括廃棄された出土状況から、儀式や宴席で使用されたと考えられます。御用米曲輪でも、多量のかわらけが出土しました(写真左下)。「船載品へのあこがれ北条氏が天正5年(1577)頃、青磁皿、茶碗等を弟で武蔵国鉢形城(寄居町)の北条氏邦に送ることを伝えた書状があります。これは、船載品である青磁などの希少な貿易陶磁を小田原北条氏が手に入れ、贈答品として領国経営に活かしたことが文献資料からもうかがえる事例です。貿易陶磁の出土量の少ない戦国時代の関東地方において、これらの船載品は絶大な価値を持ちました。」「小田原市ゆかりの美術工芸戦国時代以降、城下町・宿場町として栄えた小田原には、さまざまな美術工芸品が集まり、またここで生産されました。残念ながら小田原城当主に関わる資料はそのほとんどが散逸し、城下町や宿場町に残った資料も度重なる地震災害などで失われました。ここでは、小田原ゆかりの美術工芸品をテーマごとに紹介します。」「漆工小田原の漆工品といえば、透明な漆で自然な木目を見せる「小田原漆器」が有名です。これらは広く日用品として使用されたものと推定されます。一方で、小田原には黒漆塗に蒔絵や螺鈿を施した豪華な藩主ゆかりの品々も伝来しています。こうした藩主ゆかりの品々の中には、藩主夫人が婚礼道具として持参したものや菩提寺となった寺院に伝わったものなどがあります。これらの漆工品は、藩主やその周辺の人々の小田原城での暮らしぶりの一端を示しています。黒漆塗に蒔絵や螺鈿を施した漆器を展示。「甲冑後頭部が盛り上がる阿古陀形風で、やや大振りな兜鉢を「小田原鉢」と呼んでいます。これらの兜鉢に「相模」「相州小田原」などと銘文が刻まれるものが見られるためです。明珍派と呼ばれる一派が大森氏に招かれ、小田原で甲冑製作が始まったといわれています。明珍派は小田原北条の小田原城入城後も引き続き甲冑製作を続けました。江戸時代の甲冑師については残念ながら定かではありません。」「甲冑」が並ぶ。「本小札紫糸素懸威腹巻(ほんこざねむらさきいとすがけおどしはらまき)戦国時代 小田原城天守閣蔵」北条氏康の五男(一説に四男)で三崎城主・韮山城将・館林城代などを務めた北条氏則所用と伝わっています。氏則の子、氏盛を藩祖とする河内狭山藩に伝わったもので、昭和18年(1943)の「日本武器概説」に北条子爵家(狭山北条家)蔵として紹介されています。小田原北条一族伝来の甲冑類は非常に珍しく、貴重な作品です。「縦矧桶側二枚胴具足(たてびきおけがわにまいどうぐそく) 江戸時代 小田原城天守閣蔵」北条早雲(ほうじょうそううん)の末子、幻庵(げんあん)の子である北条新三郎氏信(しんざぶろううじのぶ)所用と伝わる具足です。永禄12年(1569)、蒲原城(かんばらじょう/静岡)に在城した氏信は、小田原北条氏の領国に攻め入った武田氏を迎え撃ち、討ち死にしました。後世に補修された部分もありますが、兜は戦国時代の形態を伝えています。」「本小札黄櫨糸威二枚胴具足(ほんこざねはじいとおどしにまいどうぐそく)江戸時代 個人蔵 高さ140cm 幅43cm 奥行40cm寛永9年(1632)に、美濃加茂で大久保家に仕官して藩士となった竹内籐左衛門正明が所持したとの伝来を持ちます。小札(こざね/短冊形の小板)が二重に重なる「本小札」の技法を用い、二枚の胴を蝶番(ちょうつがい)でつないでいます。」「刀剣」。「刀剣小田原での作刀は、戦国時代初頭、小田原北条氏に招かれて島田鍛冶が小田原にやって来たことに始まるとされています。鎌倉には鎌倉鍛冶が既に存在し北条氏の領国内では、この2つの系譜を引く刀鍛冶が活躍しました。これらの刀剣は「末相州(すえそうしゅう)」「小田原相州」と呼ばれています。江戸時代には、加賀の刀工兼若の四男清平が、当時の藩主稲葉氏に召し抱えられ、八幡山で作刀を始め、以後数代にわたり活躍しました。「刀 銘「相州住康春(そうしゅうじゅうやすはる)作」 (小田原市指定文化財)戦国時代 小田原城天守閣蔵 長さ77.9cm 反2.7cm刀身が長く反りの太刀姿の刀です。保存状態も良く、康春が手がけた中でも優れた作品です。この刀は「新編相模国風土記稿」にもその由緒が記載されており、歴史的にもたいへん貴重な資料です。」「太刀 銘「恒次(つねつぐ)」。「太刀 銘「恒次(つねつぐ)鎌倉時代 小田原城天守閣蔵 長さ74.6cm 反2.0cm備中古青江(びっちゅうこあおえ)の刀工恒次の太刀です。恒次は数代にわたっていますが、この作品は鎌倉時代中期頃のものです。わずかに磨りあげていますが保存状態も良く、当館が収蔵する刀剣の中でも最も優れた作品の一つです。「黒於塗大久保藤絵螺鈿打刀拵」「黒漆塗大久保藤蒔絵螺鈿打刀拵「大久保藤」は、「上り藤に大」紋とも呼ばれ、小田原藩主大久保氏の定紋です。この拵は、黒漆に金蒔絵で上り藤に大紋を規則正しく配列し、その間に、螺鈿を施したものです。経年の痛みは見られますが、漆の黒色に金の蒔絵と螺鈿が映えた名品です。「雪村周継(せっそんしゅうけい)筆「竜虎図屏風」」雪村は常陸(現在の茨城県)に生まれ、幼くして禅門に入り画を学んだ。個性の強い画風を形成し、画家としての地位を確立した後各地を遍歴、1550年代頃小田原での活動中に本作品を描いた。竜は雨を呼び生命の源である春を象徴し、対する虎は風を呼び生命の終焉、秋を象徴するとされる。しかし神聖で恐ろしい竜虎の表情は非常にユーモラスである。現れた竜をにらむ虎の姿はまるで猫のようであり、旋回する竜の顔もどこか親しみがもてる。緻密な表現に加え、雄大な題材の中に遊び心をもたせる雪村の個性が非常によく表れている。「雪村周継(せっそんしゅうけい)筆「竜虎図屏風」(左)」ネットから。「雪村周継(せっそんしゅうけい)筆「竜虎図屏風」(右)」ネットから。そして次の「企画展示室2 回廊展示」へ。次に、天守閣4階の「企画展示室4」へ。「その後の小田原城」。「小田原城廃城明治3年(1870)、防風雨による被害や藩の財政難を理由に、知藩事大久保忠良が新政府へ小田原城の廃城を願い出て、天守は解体されました。城跡は陸軍省の所轄になり、二の丸隅櫓だけが残りました。その後、旧藩主大久保家の〇〇申請により、明治23年(1890)に払い下げられ、更に小田原町へ転売・貸し出されました。天守台には、明治26年(1893)に」藩祖大久保忠世をまつる大久保神社が建てられました。」「解体中の天守」。 「御用邸時代👈️リンク明治時代の小田原には、伊藤博文や山県有明らが別荘を構えました。明治天皇の皇女である常宮・周宮(かねのみや)内親王も小田原の気候や土地柄を気に入り、御用邸の建設計画が持ち上がりました。小田原町と旧藩主大久保家は宮内省と土地の売買や交換を行い、明治34年(1901)に御用邸が建設されました.これを期に、天守台に設けられた大久保神社を移し、馬出門や黐櫓の整価が行われました。御用邸には後の大正天皇や昭和天望も滞在しました。」「御用邸正門(馬出門)」「小田原御用邸配置図」をネットから。「御用邸正門(馬出門)」。「小田原城 東南櫓」か。「小田原城阯御用邸西御門(箱根口門)」。「周宮殿下御座所」。当時の桜並木か。「その後の小田原城」。「関東大震災大正12年(1923) 9月1日、マグニチュード7.9の関東大地震が発生しました。小田原の町はほぼ全ての建物が倒壊・損壊するとともに、町の中心部は火災により焦土と化しました。城跡内では御用邸も被災し、江戸時代の姿を残すニの丸隅櫓、天守台、堀の石垣も崩壊しました。」「二の丸住吉橋と銅門跡 昭和5年(1930)頃」。様々な被害の写真が。「新たな城跡利用震災後、御用邸は廃止されます。小田原町は学校(後の市立城内小学校・県立小田原城内高等学校)用地としてその敷地の一部を取得し、堀の埋め立てを計画しました。これに対して、小田原保勝会などが保存運動を展開したことでニの丸堀が残され、昭和13年( 1938 )に城跡は国の史跡に指定されます。一方で、図書館や野球場の建設、こども文化博覧会の開催など、さまざまな用途での活用が続けられていきました。」「小田原城の全景 昭和33年(1958)」「本丸広場」。ターザンとゾウのウメ子 1950 (昭和25)年小田原こども文化博覧会開催時に開園した動物園では、開園当時、ゾウ・クマ・タヌキ・キツネ・サル・ワニ・クジャク・水島・ヤギ等が飼育され、博覧会後も1951 (昭和26~1959 (昭和34 )年にかけてヒグマ・アシカ・ライオンが寄贈され、動物園の規模は拡大していきました。動物の中でも特に人気があったのはタイから購入したゾウのウメ子でした。ウメ子の名前は子どもから募集し名付けられました。みなに親しまれたウメ子は2009 (平成21)年に亡くなりました。推定年齢62歳の大住生でした。写真は、森永製菓がスポンサーとなった「森永デー」の時の様子で、ミルクキャラメルの宣伝のための、野外劇場での曲芸や奇術ののち、「日本ターザン」が登場しました。「天守閣復興昭和25 ~ 28年(1950 ~ 1953)にかけて、戦後復興の一環として天守台の石垣の積み直しが行われました。折しも、全国的に天守の復興が盛んになっており、「小田原城天守間復興促進会」が結成されるなど、市民からも復興を望む声が高まっていました。昭和33年( 1958 )、市は天守間の復興を決定し、翌年から始まった「天守閣復興瓦一枚運動」では、瓦の枚数にして2万枚以上の寄付が集まりました。昭和35年(1960) 5月25日、小田原城天守閣は開館の日を迎えました。また、天守間に続き昭和46年(1971)には常盤木門も再建されました。」「建設中の天守閣 昭和35年(1960年)」。天守台の観覧車1956 (昭和31)年頃天守台の観覧車を写したものです.「天守闇跡」という標住が見え、その奥に観覧車が写されています.観覧車の体とゴンドラがカラフルに塗られていたことがわかります。「建設中の小田原城天守間 1960 (昭和35 )年関東大震災により天守台の石垣は崩落し、長らくそのままとなっていましたが、小田原こども文化博覧会の開催が決定すると、崩落した石垣がそのままではと、町内会で自発的に始めた募金(天守間石ー積運動)がきっかけとなり、1953(昭和28)年に天守台の石垣復旧工事が完成しました。その後、天守閣を観光資源として注目した商工会議所が促進会を発足させ、市民の長年の夢であった天守閣復興が実現しました。この時も市民による「小田原城天守閣復興瓦一枚運動」が行われ、寄付金が集まりました。」「常盤木門」は昭和46年(1971年)3月に完成。「進む史跡整備天守閣・常盤木門の復興を経て、昭和57年(1982)から本格的な史跡整備が始まりました。史跡整備は、文献や発掘調査の成果を踏まえ、江戸時代末期の姿を基本に進められています。平成2年(1990)に住吉橋か再建され、その後、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門、平成23年(2011)には馬屋輸の整備か行われました。大手筋(正規登城ルート)の歴史的景観がよみがえりつつあります。」「馬出門と銅門」。天井からは「岡本秋暉(おかもとしゅうき)筆 花鳥図」が描かれた垂れ幕が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.30
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「江戸時代の小田原城 全体構成江戸時代の小田原城の城域は、三の丸堀より内側の範囲となりました。本丸にそびえる天守は城域の西に位置し、その背後には戦国時代の空堀が残る丘陵地が続いていました。ニの丸、御用米曲輪、南曲輪等8つの曲輪が本丸を囲むように置かれ、さらにその外側に三の丸が形成されていました。城域に入るためには、三の丸に設けられた、大手門、箱根ロ門、幸田口門、谷津ロ門の城門を通過しなければなりませんでした。」「江戸時代の小田原城」西に「本丸」、南に「二の丸」、北に「三の丸」。「本丸」をズームして。「本丸」絵図。「本丸には西端に天守、中央には本丸御殿がありました。また、南東側には正門である常盤木門、北側には裏門にあたる鉄門の2つの門が置かれました。ここに描かれた本丸御殿は、寛永地震の後、三代将軍徳川家光の上洛に備えて建てられたもので、元禄地震で倒壊した後、再建されることはありませんでした。」「二の丸」。「二の丸」絵図。「ニの丸は、本丸の東側に位置しています。正門にあたる銅門は、寛永10年( 1633 )頃に完成したとされています。本丸には将軍家専用の本丸御殿が置かれたため、ニの丸に藩主の居館や藩の政庁として使用されたニの丸御屋形があり、小田原城の中枢として機能しました。」「御用米曲輪」。「御用米曲輪」絵図。「御用米曲輪は本丸とニの丸の間に位置し、蓮池に面した広大な曲輪です。本丸とは階段を上った先の鉄門で、ニの丸とは東側の相生橋でつながっています。曲輪の名は、幕府の米蔵が置かれていたことに由来します。ここには、米のほかに大豆や小豆、塩などを納めた蔵が置かれ、最も多い時期には6棟建っていました。」「三の丸」。「大手門」絵図。「三の丸は、本丸やニの丸を取り囲むように配置されています。大手口に面した東側には重臣の屋敷が並び、北側には領内の年貢米を収納する蔵などが置かれました。三の丸には大手門、箱根ロ門、幸田口門、谷津ロ門の4カ所の城門が設けられ、その出入りは門番により厳しく管理されていました。」「小田原城の役割①---将軍のための施設---」「小田原城の役割②---陸と海の番人---小田原藩の領内には、東海道とその脇街道が通っています。その内、箱根・仙石原(箱根町)、根府川(小田原市)、矢倉沢(南足柄市)、川村・谷ケ(山北町)に関所があり、藩の役人らが目を光らせていました。6カ所もの関所を管轄していたのは、全国でも小田原藩が唯一です。幕末に異国船が日本近海に現れるようになると、小田原藩は海防も担当することとなります。浦賀(横須賀市)や下田(下田市)に藩兵を派遣して警備に当たらせるだけでなく、領内の海岸線に台場を設け、異国船の到来に備えました。」江戸時代の街道と関所江戸時代の街道網は、五街道とそれに付随する協街道を中心に、それらに連絡する街道によって形成されています。要所には関所が置かれ、「入鉄砲」と「出女」が監視されました。箱根は「出女」の監視が厳しかった関所で、女性は証文の携帯が義務付けられ、厳重な取調べが行われました。江戸湾・相模の台場幕末期、幕府は異国船に対する備えとして、江戸湾一帯に台場を築造しました。小田原も小田原・大磯(大磯町)・真鶴(真鶴町)に台場を築造し、喜永5年( 1852 )に完成させています。小田原藩の台場には、後に品川台場(品川区ほか)築造の責任者となる江川英竜の韮山塾の技術が活かされています。台場調練図幕末の小田原海岸(市内浜町~南町)には万町・代官町・荒久の3カ所に台場が設置され、複数の大砲が据えられました。図は安政6年(1859)に台場で行われた訓練を描いたものです。小田原藩兵持場図弘化3年(1846)に米国海車のビッドル提督が浦賀(横須賀市)に来航した際、小田原藩も応援して藩兵を派遣しました。図は野比村(横須賀市)に布障した小田原兵を描いたものです。「三ツ葉葵紋瓦 江戸時代」「三ツ葉葵紋は徳川将軍家の家紋」。「三ツ葉葵紋は徳川将軍家の家紋小田原城内では、本丸及び御用米曲輪で出土・採集され、御用米曲輪でも数多く出土しています。本丸及び御用米曲輪には、幕府・将軍家用施設が存在し、それらの施設に三ツ葉葵紋瓦がふかれていたと考えられています。」「鬼瓦」。下部の葉は何の葉?「丸瓦「文政四辛巳歳(かのとみのとし)」刻印」。「丸瓦「文政四辛巳歳(かのとみのとし)」刻印文政4年(1821)の天守修築という記録から、修築に関連して製作された可能性が考えられます。同じ年号の刻印をもつ瓦で、小田原藩領河州交野郡私部村(かしゅうかたのぐんきさべむら/大阪府交野市)で製作されたものもあることから、この瓦も同様に製作されたものかもしれません。」「小田原城の城下町と宿場町小田原の町は、〔中略〕外側に城門と番所があり街道の両側に体裁のいい家並が続いている。住来は清潔で真直に伸び、殊に中通りは非常に広い。手前の町を合せると、半時間では通りぬけられない。人家は約1000戸、小さいが形よく、大抵白壁作りで四角い敷地に建てられ、小さい庭がついている。白壁の3層の天守閣が人目を惹く領主の居城は、町の北部にあり、それに近く山へ登る坂道に数宇の寺院がある。」「小田原の町は〔中略〕外側に城門と番所があり、街道の両側に体裁のいい家並が続いている。往来は清潔で真直に伸び、殊に中通りは非常に広い。手前の町を合せると半時間では通りぬけられない。人家は約1000戸、小さい形がよく、大抵白壁作りで四角い敷地に建てられ、小さい庭がついている。白壁の3層の天守閣が人目を惹く領主の居城は、町の北部にあり、それに近く山へ登左坂道に数宇の寺院がある。」「小田原城下は武家地、町人地、寺社地などの住み分けがなされ、町人地は東海道に面した通り町9町と、その南を並行して走る4町、甲州道に面した6町から成る脇町10町から構成されています。町人地には、城下の経済を支える商人・職人が暮らしていました。人や物資を輸送する伝馬・人足を担う小田原宿は、西に箱根、東に酒匂川という難所を控えています。江戸時代末期の小田原宿には、幕府の役人や大名か宿泊する本陣4軒、脇本陣4軒のほか、旅籠100軒ほどが軒を連ね、にぎわっていました。」「東海道分間延絵図 小田原宿」、ネットから。東海道沿いの町並み絵図。その手前に「小田原 名物 ういらう」と。「印籠型看板印籠の形をした看板です。ういろう(「ういらう」)は、小田原北条氏時代からの由緒を持つ外郎家が販売した薬「透頂香」のことで、二代目市川団十郎が「外郎売り」を演じて歌舞伎十八番の一つとなってから全国的に有名になりました。」葛飾北斎 小田原 外郎売小判横絵 享和〜文化初年(1802〜1807)「江戸時代の店舗絵」。「小田原提灯小田原提灯は、新宿町(小田原市浜町)に住む甚左衛門という人物が、大雄山最乗寺山中の材木で製造したのが始まりとされています。材料が霊木のため、魔除けとなること、小さくおりたたんで懐に入れられること、骨が太く平たいので、ノリの接着面が広く破れにくいことが「三徳」といわれました。江戸時代末期には職人などに重宝され、全国で使われました。」「シアタープログラム1 よみがえる小田原城(約7分)プログラム2 北条五代百年の夢(約7分)出演 苅谷俊介(北条氏政役) 合田雅吏(北条氏直役)上映中」「よみがえる小田原城戦国時代、小田原北条氏による関東支配の拠点となり、日本最大規模を誇った小田原城。江戸時代には、近世城郭として生まれ変わり、元禄年間に最盛期を迎えます。昭和58年(1983)から30年の年月をかけた史跡整備により、ニの丸から本丸にかけての歴史的景観がよみがえってきました。最も華やかだった頃の小田原城を、大手筋に沿って天守を目指し登城してみましよう。」「北条五代百年の夢戦国の世にあって親兄弟争うことなく、五代100年にわたり関東を治めた小田原北条氏には、目指してきた理想の国づくりがありました。天正18年(1590)、時の覇者・豊臣秀吉によってその夢が絶たれようとしているそのとき、四代氏政・五代氏直父子が、初代早震から受け継いできた豊かな国づくりの理想「禄寿応穏(財産と生命がまさに穏やかであるように)」に込められた想いを語ります。」「北条五代百年の夢」が上映中であった。そして、2階は戦国時代の展示。伊勢宗瑞(北条早雲)から北条氏直まで、小田原を治めた北条五代の紹介とともに、戦国乱世、小田原城がどのような運命をたどったか、最新の研究をわかりやすい形で展示していたのであった。「常設展示室2」の「戦国時代の小田原城」は撮影禁止であった。入口のみを。以下、ネットから。「小田原北条氏と小田原城」。「時代を画した小田原合戦」。小田原合戦では、15万とも言われた豊臣秀吉の軍に小田原城を包囲されてしまう。小田原北条氏最大のピンチであった。「豊臣秀吉」。豊臣軍は経済力があり、武器や食料の調達にも長けていた。「甲冑姿で写真を撮ろう!」。「全国に広がった「総構え」」。「小田原城と江戸時代の城下町・宿場町」。そして3階へ。回廊展示→(小田原市ゆかりの美術工芸)→漆工→甲冑→刀剣→花鳥図 へ。企画展示室2「回廊展示」は「小田原城検定クイズ」。答えは「現地」にてご確認ください。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.29
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「小田原城 天守閣」入口でチケットを購入。リーフレット。館内案内。1階の展示室入口では「箱根寄木細工」が迎えてくれた。下記の動画はとても詳しく勉強になりました。1時間超える大作です。【戦国ネットすきらじ】第74回「小田原城 ~天守台はなぜ二段?~」👈️リンク1階はまず、「江戸時代の小田原城」についての展示。中央に小田原城天守。「小田原城天守小田原城は500年以上の歴史を持ち、戦国時代の小田原北条氏の居城として著名ですが、天守の存在が確認できるのは江戸時代初頭のことと考えられています(相州小田原古絵図)。地震などの被害を経て建て直された小田原城天守も、明治3年(1870)には解体撤去されて姿を消してしまいます。しかし、「天守閣復興瓦ー枚運動」に代表される市民の熱意と多くの人々の尽力により、昭和35年(1960)に天守閣が再建されました」。「天守閣復興瓦ー枚運動小田原城天守閣復興へ動き出したのは、終戦後まもなくのことです。市制施行10周年にあたる1950年、長い間崩壊したままになっていた天守台の復興に向け、市内の町内会が、「天守閣石一積運動」を始めました。この活動による24万円の募金も活用し1953年12月に天守台の石垣が復興しました。一方、小田原商工会議所は1956年10月に「小田原城天守閣復興促進会」を設立し、天守閣復興に関わる募金活動を開始しました。翌年には市も本格的に天守閣復興に取り組み、その年の10月には天守閣復興資金のための起債の許可が自治庁からおり、さらに県からの補助金も認められました。小田原城天守閣復興促進会では1957年5月から募金活動を行い、1959年に市が「小田原城天守閣復興期成会」を設立し、この活動を引き継ぎました。こうした募金で集められた金額は2千万円以上に上りました。これと並行して進められたのが「天守閣復興瓦一枚運動」です。1959年12月から、市役所商工観光課、城址公園本丸広場で受付が開始され、その後、小田原駅前広場、各支所、星崎記念館、銀座通りなどにも窓口が開設されました。金額にして約240万円、瓦の枚数2万1,366枚が寄せられました。今も天守閣に葺かれた瓦の約3分の1には、この運動に参加された人々の名前が記されています とネットから。「全国「天守」高さ比べTOP10「天守」とは天守とは城郭内の象徴的な存在で、通常、その城郭内で最も高い建築物です。起源には諸説ありますが、天守建築が盛んになったのは戦国時代以降で、その用途はさまざまでした。江戸時代前期までの天守には居住空間が設けられる場合がありますが、以後の天守の内部は簡素な造りになり、倉庫として使われる場合も数多くありました。小田原城天守の場合は、三代宝永度天守の最上階に摩利支天(まりしてん)を中心とした神仏像が置かれ、信仰空間であったことが確認されています。」「全国「天守」高さ比べ TOP10 現存天守 江戸時代以前に建てられ、現在まで残る天守 復元天守 かつて城があった場所に、資料に基づき外観等をほぼ忠実に復元する事を目指している。 復興天守 建物が存在した事実はあるものの、資料に乏しく忠実な復元ができないため、推定による 再建を行ったもの。NO.1~NO.4●NO.1 大阪城天守・・・・41.5m(望楼型) 所在地/大阪府大阪市 復興天守/5重8階●NO.2 名古屋城天守・・・36.1m(層塔型) 所在地/愛知県名古屋市 復元天守/5重7階●NO.3 島原城天守・・・・33.0m(層塔型) 所在地/長崎県島原市 復興天守/5重5階●NO.4 熊本城天守・・・・32.5m(望楼型) 所在地/熊本県熊本市 復元天守/3重6階NO.5~NO.10。●NO.5 姫路城天守・国宝・・31.5m(望楼型) 所在地/兵庫県姫路市 現存天守/5重6階●NO.6 小倉城天守・・・・・28.7m(望楼型) 所在地/福岡県北九州市 復興天守/4重5階●NO.7 小田原城天守・・・27.2m(層塔型) 所在地/神奈川県小田原市 復興天守/3重4階●NO.8 広島城天守・・・・26.6m(望楼型) 所在地/広島県広島市 復元天守/5重5階「小田原城👈️リンク 東側立面図江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を基に昭和35年に江戸時代の姿として外観復元され、内部は歴史資料の展示施設となっています。復興に当たっては、「瓦一枚運動」が展開され、多くの市民からの寄付が寄せられました。3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822m2となっています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。小田原市では平成18 年に天守閣の高さを基準とした高度規制を行い、天守閣の高さを超える建物の建築を制限し、長い時間をかけて育まれてきた歴史景観を次代に受け継いでいくこととしています。」天守閣の「付櫓」、「渡櫓」。●NO.9 福山城天守・・・・・26.3m(層塔型) 所在地/広島県福山市 復興天守/5重6階●NO.10 若松城天守・・・・・25.1m(層塔型) 所在地/福島県会津若松市 復元天守/5重7階「小田原城天守の変遷小田原城天守は江戸時代を通じて外観3重内部4階の天守櫓に付櫓、続櫓で構成されていました。江戸時代の間に2度も天守が再興されたのは小田原城だけです。初代にあたる慶長度天守は「相州小田原古絵図(加藤図)」に描かれ、望楼型の天守であったことが確認できます。完成時期は不明です。寛永7年(1630)以前に失われていたと考えられています。ニ代寬永度天守は寬永10年(1633)の寬永地震後に再興されました。「相模国小田原城絵図(正保図)」に描かれ、層塔型を示し2重目3重目には高欄がめぐらされています。元禄16年(1703)の元禄地震により倒壊しました。三代宝永度天守は宝永2年(1705)に再興されました。現存する模型や絵図によりその姿がが確認できます。初重目2重目の屋根には唐破風と千鳥破風の飾り破風が据えられ、形式的には徳川家が居住する天守と共通します。明治6年(1873)の廃城令を待たず、明治3年(1870)解体されています。」江戸時代後期に制作されたという天守閣の模型。小田原城には3基の天守模型が残っていると。それを元に、復元されていると。廻り込んで。廻り込んで。宝永2年の「小田原城再興碑」。最後に「小田原城主兼隠岐守藤原朝臣大久保氏長忠増」と大久保忠増の名が刻まれていた。「銘文 印刻 元禄十六年癸未十一月廿二日夜地震 天守城楼回禄翌年春剏再興之事宝永 二乙酉年四月日天守白楼以下迄外郭 惣石壁築成矣於是彫攻于畳石以誌焉 従四位相州小田原城主兼隠岐守藤原朝臣大久保氏長忠増再営」と。「小田原城再興碑 小田原市指定文化財宝永2年(1705)4月 小田原城天守閣蔵 高さ144.3cm 幅60.5cm 奥行61.2cm元禄16年(1703)11月22日夜の大地震により、小田原城は天守をはじめ、ほとんどの建造物が崩壊・焼失する壊滅的被害を受けました。この再興碑は、藩主大久保忠増による復興の経緯を伝える貴重な資料で、大正12年(1923)の関東大地震の際、崩落した天守台の石垣の中から発見されたものです。」「上棟式用大工道具 江戸時代 小田原城天守閣蔵」 上棟式に用いられた儀式用大工道具で、矢内高光の作と伝えられています。手斧(ちょうな)や墨壺(すみつぼ)。「小田原城再興天守棟札(宝永二年)」。 高さ 164.4㎝幅 40.5㎝厚さ 2.5㎝元禄16年(1703)の元禄大地震による小田原城倒壊後、宝永2年(1705)に小田原城主で幕府老中の大久保忠増が再興した天守の棟礼である。宝永2年12月に上棟したことが分かる。本棟札は、小田原有信会の瀬戸秀兄により昭和10年(1935)に小峯の大久保神社本殿から発見されたもので、小田原城再興碑とともに小田原城の歴史を示す貴重な資料である。なお、再興碑と棟札では、小田原城主大久保忠増の受領名が異なっているが、これは再興碑制作時点では「隠岐守(おきのかみ)」であったものが、宝永2年9月から「加賀守(かがのかみ)」となった為である。「御殿上棟式図」にこの大工道具が描かれていることから、両者の関連性がうかがえます。加賀守 大久保忠増の名がある。9月に大久保忠増の受領地が変わっています。1865年御殿(二の丸御屋形)の棟上式の様子であると。さらに1階展示室を進む。「小田原の城主たち江戸時代の小田原城は、徳川家譜代大名である大久保家・阿部家・稲葉家などが城主を努めました。途中、徳川二代将軍秀忠が小田原城に隠居する計画も浮上するなど、小田原城は江戸の西を守る要の城として重要視されました。小田原城の最初の城主は大森氏と伝えられています。その後、小田原城は15世紀末から16世紀の初め頃に北条早雲の支配下となり、ニ代目の氏綱の時代から小田原北条氏の本拠地として整備されていきます。以来、北条氏の勢力拡大と領地支配は、ここ小田原城を拠点に進められました。近世においても、小田原城は江戸防衛の拠点として重視され、城下は東海道の宿場町として栄えました。その重要性から、江戸幕府・・・・」「小田原城の城主たちと小田原城のあゆみ」。近づいて。大久保忠世の息子・忠隣が政争に敗れて改易になると、小田原城は一時的に廃城となり、1632年に稲葉正勝が城主となって城は大改修が施され、近世城郭へと生まれ変わりました。1685年に稲葉氏が越後国高田へと転封になると、翌年、下総国佐倉から大久保忠朝(忠隣の孫)が入り、以後は大久保氏が10代に亘って小田原藩主を務め、明治を迎えます。「伝小田原城二の丸二重櫓鯱瓦」「伝小田原城二の丸二重櫓鯱瓦江戸時代 小田原市郷土文化館蔵 高さ135cm 幅83cm 奥行92cm鯱瓦は、屋根の最上部にあたる大棟の両端に一対で設置されているものです。鯱は想像上の動物で、防火を祈り、権力を誇示するために置かれたといわれています。この鯱瓦の発見・伝来の経緯が定かではありませんが、二の丸二重櫓のものと伝えられています。「大久保氏と小田原城三代将軍徳川家光は江戸の守りを固めるため、関東の境界線上にある関所や山間地の整備を進め要所に譜代大名を配置しました。南関東の入ロには家光の弟忠長が藩主の駿府藩(静岡市)が配置されていましたが、忠長の改易により消滅してしまいます。駿府藩に替わって南関東の守りを任されたのは、家光の側近である稲葉正勝の入封によって復活した小田原藩でした。小田原城は改めて南関東の要塞として位置づけられ、稲葉氏のもとで城郭と城下町の整備が進められていくことになります。」「大久保彦左衛門と「三河物語」大久保彦左衛門は実名を忠教 といい、大久保忠世の弟にあたります。」後世、将軍への諫言も辞さない「天下の御意見番」の異名を持つ伝説的な人物として語られます。彦左衛門の代表的な著作が「三河物語」の執筆です。その中で彦左衛門は、徳川家の家訓とその中における大久保氏の功績、後世への教訓をつづっています。当時、忠隣の改易で大久保氏の立場はよくありませんでしたが、彦左衛門は「三河物語」を通して、徳川家へ変わらぬ忠義を尽くすよう一族と子孫に訴えたのでした。」「稲葉氏と小田原城三代将軍徳川家光は江戸の守りを固めるため、関東の境界線上にある関所や山間地の整備を進め、要所に譜代大名を配置しました、南関東の入口には家光の弟忠長が薄主の駿府藩(静岡市)が配置されていましたが、忠長の改易により消滅してしまいます。駿府藩に替わって南関東の守りを任されたのは、家光の側近である稲葉正勝の入封によって復活した小田原藩でした。小田原城は改めて南関東の要塞として位置づけられ、稲葉氏のもとで城郭と城下町の整備が進められていくことになります。」「徳川家光の乳母・春日局稲葉正勝の母は徳川家光の乳母として知られる春日局です。春日局は将軍となった家光を引き続き補佐し、正勝も小姓時代からの側近として家光を支えました。正勝は早世したため、息子の正則が元服前に家督を継ぐこととなります。春日局は若き当主である正則をよく助け、稲葉氏と有力大名との婚姻を実現させるなど、寛永20年(1643 )に亡くなるまでその政務を支え続けました。春日局の死後、正則は小田原城に近い紹太寺(現在は小田原市入生田へ移転)に供養塔を建て、その菩提を弔いました。」「大久保氏再入部と小田原城貞享2年(1685)、稲葉正通が越後国高田(上越市)に天風となり、大久保忠朝が小田原に入封しました。71年ぶりの小田原復帰となった大久保市でしたが、そこに待ち受けていたのは、元禄16年(1703)の大地震、宝永4年(1707)の富士山噴火とその火山灰が堆積した酒匂川の頻繁な洪水といった、大規模な自然災害でした。特に洪水被害は長期化し、被災地は復興が完了するまで幕府の直轄地となります。歴代の藩主たちは、これら一連の災害を契機とする財政難に悩まされ続けました。」「二宮尊徳の活躍二宮尊徳(金治郎)は天明7年(1787)、栢山村(小田原市栢山)生まれです。荒廃した一家を若くして立て直し、文政元年(1818)には藩主大久保忠真から表彰されています。」文政4年(1821)、忠真は大久保家の分家がある下野国桜町領(真岡市)を荒廃から立て直すため、尊徳ら表彰者に復興案の作成を命じました。この時に優秀な案を示した尊徳は藩に登用され、桜町領の復興を任せられます。「報徳仕法」と呼ばれる尊徳の手腕は成功をおさめ、名○に広がっていきました。」「小田原城の構成と役割江戸時代、小田原北条氏により築かれた総構の範囲は小田原府内と呼ばれました.小田原城の城郭は、天守より東側の低地部にあたる三の丸より内側とされ、本丸より西側の丘陵部については戦国時代末期の姿が温存されました。小田原城は江戸城の西を守る要の城郭として位置づけられ、大久保氏や稲葉氏といった江戸幕府でも要職を務める譜代大名語名が城主を務めました。本丸には将車家専用の本丸御殿が設けられるなど、徳川家とも関係の深い城でした。」「城絵図にみる小田原城の変遷小田原城の城絵図は、改修工事の計画や幕府の命令によって作成されたものなど、いくつかの種類・系統が現存しています。これらの絵図には小田原城の状況が描かれ、絵図を比較することで、それらの変遷を読み取ることができます。」「相州小田原古絵図(加藤図)慶長19年(1614) ~寛永8年(1631)頃」現在知られている最古の城絵図で、小田原北条氏時代の面影を残す江戸時代初期の小田原城の姿を知ることができます。「相模国小田原城絵図(正保図)正保3年(1646) ~承応3年(1654)頃」幕府に提出した公式の城絵図で、元禄地震で大きな被害を受ける以前の小田原城の姿が精緻に記されています。「寛永年間小田原城廓総図(宮内庁図)元禄10年(1697 ) ~元禄16年(1703 )頃」元禄期の小田原城内の様子を詳細に描いた城絵図で、稲葉氏の時代に完成した近世小田原城の最盛期の姿を伝えています。表題には寛永年聞とありますが、実際に描かれたのは元禄年間とされます。小田原城の最盛期の姿近づいて。「小田原城の最盛期の姿この模型は最盛期の小田原城を示す「寛永年間小田原城廊(くるわ)総図(宮内庁図)」を基に再現したものです。江戸時代の小田原城は、瓦積みの白亜の天守や常磐木門などの城門、櫓に加え、本丸御殿や二の丸御屋形、馬屋、大腰掛などの建物が配置されていましたが、元禄16年(1703)、元禄地震により倒壊・焼失しました。」「小田原城と城下町」。「小田原城と城下町小田原城は戦国時代に小田原北条氏によって築かれた総構えの範囲が、小田原府内としてそのまま江戸時代に引き継がれ、城下町・宿場町となっています。本丸には天守と本丸御殿、ニの丸には御屋形などの城の施設があり、三の丸は重臣の屋敷地となっていました。東海道沿いは本陣や旅籠が並ぶ小田原宿の中心としてにぎわっていました。」小田原宿。本陣が4つもある巨大な宿。「小田原合戦のきっかけ 名胡桃城事件天正17年(1589)、沼田城👈️リンク(沼田市)の帰属をめぐって豊臣秀吉による裁定がくだされ、三分の二が小田原北条氏、三分の一が真田氏の領国になりました。この時期、秀吉は戦国大名同士の私戦を禁じ、自らが国境を定める「惣無事」を進めていました。また、北条氏は秀吉への従属を表明し、その証として氏政の上洛準備を進めていました。しかし、同年1 1月に、北条氏配下の沼田城代・猪俣邦憲が真田領内の名胡桃城👈️リンク(みなかみ町)を奪取しました。秀吉はこれをきっかけに北条氏討伐を決めたとされます。ただし、戦国時代、こうした境目の城をめぐる争いは一般的であるとともに、北条方は上洛した氏政が人質として拘束されることを恐れ、上洛に踏み切れなかったという事情もあります。また、秀吉側でも、徳川家康をはじめとする対北条氏穏健派と石田三成ら強硬派との家臣同士の争いがありました。小田原合戦に至る過程は、こうしたさまざまな要素が重なったものといえるでしよう。」「真田と北条の激戦地沼田城と名胡桃城」👈️リンク「北条五代記」。石垣山から発掘された瓦。 石垣山城の古図。1720年に小田原藩主 大久保忠方の命により作成されたもの と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.28
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小田原城址公園「本丸広場」。小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし、北条早雲(伊勢宗瑞)に始まる小田原北条氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備されました。そして、豊臣秀吉との小田原合戦を前に周囲9kmにおよぶ総構を構築し、日本最大級の城郭となりました。北条氏滅亡後には、徳川家康の家臣である大久保氏が城主となります。小田原城は、北条氏時代の姿を継承しつつも、改修されながら用いられていきますが、大久保氏の改易により破却されることとなりました。その後、稲葉氏が城主となりますが、寛永10年(1633)の地震により、城と城下は潰滅的な被害をうけます。そのため、稲葉氏は小田原城を大規模に改修し、小田原城は現在見られるような近世城郭としての姿に生まれ変わりました。明治維新を迎えると、明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、建物は解体・売却されます。城趾は陸軍省の管轄を経て御用邸として用いられることとなりますが、大正12年(1923)関東大震災を期に神奈川県・小田原町(小田原市)へと払いさげられることになります。現在、小田原城の本丸・二の丸一帯に相当する城趾公園は国指定史跡・都市公園に指定されており、往時の姿を取り戻すよう、史跡整備が進められています。「本丸広場」越しに小田原城天守閣を見る。「常盤木門SAMURAI館」の正面入口を見る。小田原城常盤木門の展示をリニューアルし、新たな歴史観光施設「常盤木門SAMURAI館」が2016年オープン。甲冑や刀剣などの武具に特化した展示を行い、武士の精神性や武具の美術性を紹介しているのであった。甲冑・日本刀コーナー小田原城天守閣で収蔵する武具をはじめ、日本甲冑武具研究保存会会員の所蔵品など、甲冑や刀剣類の優品を展示していた。また、甲冑・打掛・忍者衣装の貸出・記念撮影も有料で出来るようであった。プロジェクションマッピング「花伐つ鎧」👈️リンクデジタル映像と音楽による躍動感に満ちたビジュアルで、武士の世界観を表現。そして「小田原城 天守閣」を再びズームして。広場の中央にが桜の巨木があった。4月になると(ネットから)。「本丸」。「本丸跡小田原城の本丸は、 東西83間 (約150m)、 南北63間(114m)ほどの規模があり、 その西端に天守台、 中央には本丸御殿がありました。 本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。 東側の門は、 本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門と呼ばれていました。本丸御殿は、他のお城では藩主居館(はんしゅきょかん)として用いられます。 しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632) の寛永小田原大地震で倒壊したため、 翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建される現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。 元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた 「寛永年間 小田原城 廓総(くるわそうず)図(通称 「宮内庁図」)」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、 巨松は 「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えています。」樹齢400年以上のクロマツ。戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松)のうち、現在は1本「巨松」のみが残っているのだと。「かながわの名木百選小田原城跡本丸の巨松天保年間の相中雑誌に「御本丸に七本松という老松・・・」とある松の生き残りと思われる城跡内最大の巨木である。小田原市の天然記念物に指定されている。樹高:30メートル 胸高周囲:5、3メートル 樹齢:約400年(推定)クロマツは、本州から九州の海岸に生える常緑の針葉高木で、アカマツとともに防風林、砂防林や街道の並木などに植えられることが多い。樹高45メートル、胸高周囲10メートル、樹齢約800年に達するこのもあると言われている。」少し傾いては入るが、あたりの松を従えながら堂々とそびえる姿は、お城の風情にぴったり。「本丸茶屋」は小田原市事業協会が運営する店 と。うどんやそばや北条にちなんだメニューなど提供。施設は三つに分かれていて、お土産物の販売コーナー、レストラン、食品のテイクアウトコーナーになっていた。「本丸茶屋」。「小田原城 天守閣」。正面から。「小田原城天守閣」案内板。「小田原城天守閣小田原城天守は、外観三重内部四階の天守櫓に、入口にあたる付櫓、さらに両者をつなぐ続櫓で構成されています。江戸時代の城絵図によると、初代天守は、慶長年間(1596~1615)に描かれた望楼型天守(加藤図)、二代目天守は、寛永10年(1633)の寛永地震後に復興された層塔型天守(正保図)、三代目天守は、元禄16年(1703)の元禄地震後の宝永3年(1706)に復興された層塔型天守(文久図)と考えられます。この三代目宝永天守は、その後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)に解体されました。現在の天守閣は、昭和25年(1950)から3年かけて天守台石垣の復興工事が行われ、その後、観覧車が設置されるなどしましたが、昭和35年(1960)に小田原市民らの力により、鉄筋コンクリートで復興されました。そして、平成28年(2016)に「平成の大改修」として、耐震補強と大規模な展示リニューアルが行われました。」右の絵図は上から、「初代 望楼型天守(加藤図)」。「二代目 層塔型天守(正保図)」。「三代目 層塔型天守(文久図)」。その右の写真は中央から、「文久図に描かれた江戸時代末期の本丸と天守」。 「明治3年 解体中の天守」。「明治26年 天守台に建立された大久保神社」。「昭和30年頃 天守台の観覧車」。「昭和35年 天守閣復興工事」。再び青空を背景に聳え立つ「小田原城 天守」を。修学旅行?の学生の姿も。「小田原城址公園 花案内」。桜、藤、シャガ、紫陽花、ハス、桜、ツツジ、花菖蒲、ユリ、菊花展 を楽しめる小田原城址公園の場所、そして時期が丁寧に案内されていた。「小田原市観光アプリケーションA Rポイント本丸御殿1703年(元禄16年)の地震で倒壊した、本丸御殿の外観及び内部を再現しています。小田原城の本丸御殿は、徳川将軍家が上洛の際に用いる御殿でした。内装は、名古屋城やニ条城などの徳川家縁の城を参考に復元しました。」「小田原城 本丸御殿」をネットから。「小田原城 本丸御殿」絵図をネットから。小田原城内のCG👈️リンク もネットから。「本丸広場」👈️リンク 越しに「常磐木門」方向を振り返る。天守閣の左に、天守登城口への長い石段が。再び「小田原城案内図」。廻り込んで。「小田原城 天守閣 登城口 入館料」は510円/大人と。団体が上って行ったので暫し時間待ち。小田原城天守閣記念撮影用の看板。「小田原城天守閣」案内板。「小田原城天守閣「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要のの城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃墟・解体までもその姿を保ちました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的リニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。」天守登城口への長い石段を上って行った。石段の途中から「本丸広場」を見下ろす。そして天守登城口へ。そして「小田原城 天守閣」入口へ。 「小田原城 天守閣施設案内」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.27
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「常盤木橋」の手前の広場にあった「小田原城と小田原合戦攻防図」案内板。赤:秀吉軍 青:北条軍 青線---:総構。「天正18年(1590) 4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める豊臣秀吉の大軍に包囲されました。●時代を画した小田原合戦織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)からは、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました(総構)。また、各地の支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていきました。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の籠城の末、北条氏直は小田原城開城を決意します。合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。」「●戦闘の経過天正18年(1590) 3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。東海道を進む本隊は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。また、毛利輝元(本人は京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から北関東に侵攻しました。これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟した秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。本隊の猛攻に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、別働隊に主要な支城を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。●小田原合戦の意味北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。そして、その本城である小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」でした。北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしよう。また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を行いました。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。」「北条方の支城網図」。解りやすい地図をネットから。「小田原城を中心に、韮山城(静岡県伊豆の国市)、玉縄城(神奈川県鎌倉市)、八王子城(東京都八王子市)、小机城(神奈川県横浜市)、館林城(群馬県館林市)、三崎城(神奈川県三浦市)などの一門(当主の親戚のこと)の城や、鉢形城(埼玉県寄居町)、松山城(埼玉県吉見町)などの支城を地域の軍隊を治める中心的な城として各地の重要な場所に造り上げました。さらに足柄城(静岡県小山町)、浜居場城(神奈川県南足柄市)、泉頭(いずみがしら)城(静岡県清水町)などの兵站(へいたん)基地(食料や物資を補給するための拠点として設置)や戦闘用の城を街道に面した場所や国境の近くに構えました。そして、城に交代で勤務する武将の配置から城の維持や管理をする武将たちまでを、落ち度なくしっかりと決めて、小田原城を中心にした守りを万全にしたのです。こうしたシステムを本・支城体制といいます。北条氏は、このようにして小田原城を一番上位に置いて、その下に様々な役割を持つ城を、自分が治める国の隅から隅まで配置したのです。」と。「障子堀想像図」。障子堀とは、内部を畝(うね)状に掘り残して、堀底を区切っている堀のこと。山中城の障子堀は見た目が美しく、城ファンでなくても思わず心ときめいてしまう魅力があるのだ。まるでワッフルの網の目のようなので、ベルギーワッフルと一緒に写真撮影する人も多いとか。通常の堀と同じように、攻め寄せてくる敵を足止めする。そして堀の内部に敵が侵入した場合、通常の堀と違って底が細かく区切られているため、更に動きが制限される。そうして底で動けずにいると、狙い撃ちの的に。もし必死でよじ上ることができたとしても、やはり狙い撃ちされてしまうのだ。こんな風に、見た目だけでなく効果も通常の堀より優れていることがわかるのであった。ここは「常盤木坂(ときわぎざか)」。「常磐木門」に向かって進む。「小田原城案内図」。「現在地」はここ。「本丸東堀と常磐木橋江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていました。本丸の東側を画する堀を、本丸東堀と呼んでいます。本丸東堀は、発掘調査の結果、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上深さがあったと想定されています。現在は、堀の形を平面表示しています。文久図には、この場所に本丸とニの丸をつなぐ木製の橋が描かれおり、「常盤木橋」と名付けられていたことが分かります。これから先の本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートがあり、この常盤木門から入るルートが正面口になります。常盤木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に再現されたものです。常盤木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができます。」「文久図に描かれた江戸時代末期の常盤木橋と本丸東堀」。「明治3年の常盤木門と常盤木橋」。「イヌマキ常盤木橋の前にある、樹齢約520年以上、幹周り4.5mに及ぶ市内最大の巨木。本丸広場の巨松と双璧をなす。」「小田原城跡のイヌマキ所在 城内三ーニニ樹相 目通り幹囲 四.五メートル株元周囲 約六メートル樹高 約ニ十メートル枝張り状況 東西ニ十五メートル 南北十三メートルイスマキは、関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社、寺院境内にも多く見られます。この木は、幹回り4 . 5 メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5 メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げ、傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。 小田原市教育委員会」現在の「常盤木橋」手前から「常磐木門」の「枡形」方向を見る。正面に「渡櫓」、左に「多門櫓」。現在の「常盤木橋」から左側の「花菖蒲園」をみる。現在の「常盤木橋」から右側の「花菖蒲園」をみる。「常盤木橋」を渡りながら左側を。ズームして。右側を。ズームして。「常磐木門」の「枡形」に向かって石段を上って行った。「常磐木門」の「枡形」の手前から。「小田原城 常盤木門」案内板。「小田原城 常盤木門本丸には、常盛木門と鉄門というふたつの門があり、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には、常に線色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄しますようにとの願いが込められていると言われています。江戸時代初期からありましたが、元禄16年(1703)の地震で倒壊炎上し、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました(「文久図」、右図)。明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓を再建しました。江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。現在、常磐木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲胄を展示しています。また、目本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。」「文久図」に描かれた「常磐木門」。宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建された と。「常磐木門」碑。このあたりの石垣は古そうなのであった。「常磐木門」の枡形の先には、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松)の姿が。現在は1本「巨松」のみが残っているのであった。「常盤木門石塁復旧碑」。「大正十ニ年九月一日の関東大地震に小田原城址の石垣殆んど崩潰の厄を被った際本丸正門の常木門の塁郭もまた崩れた その後久しく復旧の機を得なかったが、ここに昭和三十五年ニ月より国並に神奈川県の補助を得て年次計画を以て復原に着手し、同三十八年三月三十日総工費五百万円にて工事を完成した。石塁旧観に復したのを記念して由来を石に刻して伝う昭和三十八年三月三十一日 小田原市長 鈴木十郎」。「常盤木門」が右手に。「常盤木門」の屋根。「鯱(しゃちほこ)」の姿をズームして。「常磐木門」の「渡櫓」を正面に見る。この「常磐木門」の「渡櫓」は「常盤木門SAMURAI館」となり、武具・甲胄を展示しているのであった。「常磐木門」を正面から。門の傍らに立つ松(常盤木)にちなんで、小田原城の永久不変の繁栄を願って、常盤木門という名がつけられたと伝えられているのだと。「常磐木門常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。元禄16年(1703年)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870年)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松(おおまつ)」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971年)に再建しました。」鉄筋コンクリート造(一部木造)で再建(さいけん)された「常磐木門」。常盤木門は本丸の表門にあたるため、重要な防御拠点として、もつとも大きく堅固に造られた。武器や食糧を貯蔵した多門櫓と、渡櫓を備える枡形の構造を持つ。城の永久不変の繁栄を願い、かたわらに今も残る巨松を始め、常盤木が植えられた。1971年(昭和46年)に再建されたとのこと。「常磐木門」下から石垣を見る。天井を見上げて。そして「常磐木門」を潜り「本丸」に入り、振り返って。「↑天守閣」案内板。「常磐木門」の「渡櫓」内では刀剣や甲冑の展示を行っていた。また、鎧兜や着物を着て、武士・お姫様・忍者に変身できる着付け体験も行っていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.26
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我が家の横の菜園で『花オクラ』を栽培し漸く開花を初めました。『花オクラ』はアオイ科トロロアオイ属に属する一年草です。「トロロアオイ」や「黄蜀葵(オウショッキ)」とも呼ばれています。『花オクラ』は中国原産の植物で、花や根の部分が食品や漢方薬として活用されてきました。日本へも古くから伝わっていて、根と果実の粘液が和紙ののりとして現在も使われているそうです。『花オクラ』は実ではなく花の部分を食べます。花をおいしく食べることができるよう品種改良されているのです。『花オクラ』の花は花弁が5枚で、オクラの花とよく似た淡いレモンイエロー色をしており、中心部と雄しべの柱頭が濃いワインレッドをしています。朝に咲いて夕方にしぼんでしまう一日花。旬は6~8月で、道の駅や農家の直売所などで販売されている所もあるようです。スーパーなどで売っている場合もあると聞いていますが、傷みやすいのでそれほど一般的ではないのです。『花オクラ』は淡白な味わいですが、ほのかにオクラのような風味や香りが感じられます。生で食べるとシャキシャキとした食感。また、オクラに似た特有の粘り気があり、とろりとした舌触りを楽しめます。加熱すると粘り気がさらに増すのが特徴なのです。『花オクラ』の花は10~20cmほどの大きさで、『オクラ』の花の2倍ほどのサイズです。『花オクラ』も実をつけますが、かたく短い実で『オクラ』のような長いさやにはなりません。食べてもふさふさとした毛が口に残ってしまうため、食用には向かず、食べられることはほとんどないのです。この日の朝は『花オクラ』の花を5個ほど摘み取って来ました。中央の花の付け根の部分そして蕊の部分を除去し、沸騰水に少量の酢を加え、手早くしゃぶしゃぶする感じに茹でます。お酢を少し入れると色が綺麗に残るのです。そしてこれを冷水に晒し、盛り付けてポン酢や麺つゆをかけて出来上がり。そしてこちらは『モロヘイヤ』。この日は『ヌルヌル』の2種のおツマミを楽しみながら、ビールを楽しんだのです。そして今日は『花オクラ』を生で。『花オクラ』の生ハム巻です!『花オクラ』の花びら2~3枚を緩やかに巻き、さらに生ハムでまいただけのシンプルレシピ。ねっとりと濃厚な生ハムの味わいや香り、塩分と、花オクラの香りとシャクシャクとしつつ、とろりとした食感がとっても合うのです。今回は、口当たりを滑らかにするためオリーブオイルを少々かけて見ました。生産者のみが味わえる?、エディブルフラワー( エディブルフラワーとは「Edible =食べられる」「Flower=花」、つまり『食べられる花』を意味しています。)を食べ楽しんだのです。 ・・・おわり・・・
2024.07.25
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そして「小田原城 本丸東堀跡」に到着。正面に見えたのが「常盤木門(ときわぎもん)」に続く石垣の上に立つ枡形門の一部。この日は「小田原城 あじさい 花菖蒲まつり」を開催中。「小田原城東堀」にある「花菖蒲園」は6月になると約6000株(鉢)の花菖蒲が花を開いているのであった。「あじさい・紫陽花」と「花菖蒲」のコラボを楽しんだのであった。「常盤木坂」に架かる朱の欄干の「常磐木橋」を見る。ズームして。ハナショウブは初夏、梅雨の中でも、ひときわ華やかに咲き誇ります。野生のノハナショウブをもとに、江戸時代を中心に数多くの品種が育成され、現在2000以上あるといわれています。優美な花形としっとりとした風情が魅力で、色彩の魔術師とも呼ばれるように、花色の変化に富んでいます。アヤメやカキツバタに似ていますが、花弁のつけ根が黄色で、アヤメのような網目模様はなく、葉幅は狭く、葉脈がはっきりと隆起している点でカキツバタと区別できますと ネットから。紫と白と花菖蒲が満開状態。紫の花菖蒲をズームして。こちらは白地に紫の花菖蒲。朱の欄干の「常磐木橋」が正面に。カメラマン?の姿が。「御城印あじさい花菖蒲バージョン小田原城天守閣にて販売中!!」と。「常磐木橋」を潜りながら、北側に続く「菖蒲園」を見る。北側に続く「菖蒲園」の西側・「小田原城 常盤木門」の下の斜面には「あじさい園」が拡がっていた。これぞ「あじさいブルー」。「常磐木門」を振り返って。「花菖蒲園」を囲むように「花菖蒲」、「あじさい」両方を同時に楽しめる遊歩道が。斜面の「あじさい」をズームして。「花菖蒲」は「鉢」に植えられたまま並べているのであった。様々な色合いの「花菖蒲」を楽しみながら進む。あじさいはこれからが花のピークに。「花菖蒲」と「あじさい」のコラボを楽しむ。ズームして。しばし「花菖蒲」をカメラで追う。あじさいの斜面を。「常盤木橋」方向を振り返って。今度はしばし、あじさいをカメラで追う。青の額紫陽花。手毬状になった真っ白な花が美しく。やわらかく優しく。再び「花菖蒲」を追って。「常盤木橋」手前から散策して来た北側の「花菖蒲園」を振り返って。「常盤木橋」下から南側の「花菖蒲園」を望む。「常盤木橋」を支える石垣。そして再び「常盤木橋」を潜り南側の「花菖蒲園」を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.25
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そして「銅門枡形内仕切門」を潜ると、「銅門枡形」があり、左手に巨大な「銅門」が姿を現した。「銅門(あかがねもん)」に近づいて。銅門から見る天守と常盤木門の多聞櫓。「銅門」を見上げて。銅板が張られた「銅門(あかがねもん)」。「銅門」の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来。現在の「銅門」は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されている と。飾り金具として、至る場所に銅板が貼られていた。「銅門」の天井を見上げる。松の巨木を手斧か槍鉋(やりかんな)のようなもので、仕上げた跡が生々しく残っていた。「銅門(あかがねもん)江戸時代のニの丸正門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。枡形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元しました。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われています。」「銅門の復元」案内板。「銅門の復元銅門は、住吉堀の復元事業と併せて昭和58年(1983)から平成5年(1993)まで発掘調査が行われた後、平成5~7年(1993 ~ 1995)にかけて、桝形や櫓台石垣復元工事が、平成8、9年(1996、1997)にかけて、渡櫓門や土塀の復元工事が、日本古来の伝統的な工法で行われました。石垣の復元工事には、関東大震災で住吉堀に崩落した石材に加え、角石に真鶴産小松石(安山岩)平石に、蔵王山系安山岩か使われています。建築工事は、小田原市建築協同組合が受け負い、復元にあたっては、宮大工の芹澤伸明氏が棟梁を務め、市内の大工職人や近隣の左官職人らの匠の技が結集されました。復元に使われた木材のうち、鏡柱など14本の檜材は、ラオスから輸入しています。また、天井の大梁2本は、国産の黒松を使用し、丸い刃が付いたハマグリ釿(ちょうな)により、鱗のような風合いの加工がされています。これらの檜や松は樹齢200年を超える大径木が使われています。」それぞれの時代の「銅門」に関する説明。ここにも「小田原城案内図」。「銅門」の航空写真をネットから。「銅門」を潜り、振り返って。「銅門」の右手には「銅門の二階」が見学出来るのであった。下の写真は以前に訪ねた時の写真。毎週土・日曜日および祝日に、普段立ち入ることができない銅門内部の特別公開を行っていると。【特別公開】10時00分~15時00分以下の写真も以前に「銅門」の2階を訪ねた時の写真です。2階の天井の丸太梁組が見事。梁組をズームして。丸太の手斧仕上げが美しいのであった。細長い窓が並んでいるのが「石落とし」。そして「銅門広場」から「銅門」を振り返る。「小田原城跡のビャクシン」が前方に。「小田原市指定天然記念物(昭和五十六年三月三十日指定)小田原城跡のビャクシン所在 城内三ー二二樹相 目通り幹囲 三.一メートル 株本周囲 約三.九メートル 樹高 約十五メートル 枝張り状況 東西約十二メートル 南北約十五メートルビャクシン は主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約四.五メートルのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。 小田原市教育委員会」その先にあったのが「銅門 土塀模型」。その手前にあったのが「伝 銅門礎石」。「伝 銅門礎石この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。 使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。 箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。 手前の石は約一・六t、奥の石は約一・八tある立派なものです。」廻り込んで。「銅門 土塀模型」に近づいて。竹で造った柵に何層にも土や漆喰を塗り重ねて造られていることが理解できたのであった。荒壁・斑直し・大直し・中塗り・砂漆喰。荒壁は下地に細い竹を組んで造る土壁のこと。斑直し、荒壁の表面を平面に整える作業。次に大直しですが、これも表面を整える工程のようですが、斑直しとの具体的な違いは??中塗りは上塗りの前工程、最後の砂漆喰は字の通りで、漆喰に砂を混ぜて強度を増したもの。これを仕上げに塗る、塗っては乾かしてを何度も繰り返すのであろうか。「銅門 土塀模型この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち制作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめる重要な役割を果たしました。皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合」より寄贈を受けたものです。」銅門前の枡形の土塀の内側を。この土塀の工法が示されているのであった。「銅門広場」👈️リンク から「銅門」そして土塀の反対側を振り返って。「二の丸跡」案内板。「二の丸跡江戸時代、多くのお城では、藩主の住まいは本丸にありました。しかし小田原城の本丸には徳川将軍家のための御殿があったため小田原藩主の住まいは二の丸にありました。ニの丸の建物は「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割がありました。ニの丸御屋形は、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で被災した後に大規模に整備され、唐門や能舞台を備えた御殿造りの壮麗な建物となりました。しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊・炎上したことが、発掘調査でも確認されています。その後、規模を縮小して再建されますが、幕末に至って幕府老中や将軍家の上洛が再開されると拡張され、本丸御殿に代わる将軍家宿所としても用いられました。明治に入り廃城となった後、同34年(1901)に御用邸が建て替えられましたが、大正1 2年(1923)の関東大震災でほぼ全壊しました。そして、その後、鰯和4年(1929)に小田原第二尋常小学校(後の城内小学校)が建設されました。平成4年(1992)に小学校統合に伴い城外へ移転しましたが、残った旧講堂は歴史見聞館として使われています。」江戸時代の小田原城復元模式図から「二の丸」はここ□。その先にあったのが「歴史見聞館・小田原城NINJA館」。城内小学校の建物はかつて講堂・体育館だったらしい1棟だけが現在残っており、この小田原城歴史見聞館という名前で忍者の体験館(?)的に使われているのだと。「風魔NINJYA」顔出しパネル。「小田原城NINJYA館」👈️リンク 案内板。この日の入館はパス。「小田原城案内図」。現在地はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.24
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熱海・ジャカランダの花を楽しんだ帰路に、小田原城を訪ねた。往路と同じルートで小田原まで戻り、「学橋」前の駐車場に車を駐め散策開始。小田原城址公園の堀にかかる赤い「学橋」👈️リンクは、市民のシンボル的存在。城址公園内の二の丸広場に平成4年まであった城内小学校への通学橋として利用されたことから、この名前が付けられたのだと。今も近くの高校生たちが通学したり、イベント時には多くの人々が行き来しているとのこと。城へ向かう入り口として親しまれている橋だが、多くの魅力が詰まった小田原城そして小田原の街への入り口でもある と。この日の主な目的はこれ・「小田原城 あじさい花菖蒲まつり」。令和6年6月1日(土)~16日(日)の期間で開催中であった。この日は6月11日(火)10:40過ぎ。「約2500株のあじさいと約1万株の花菖蒲の共演をお楽しみください。」と。「小田原城」&周辺案内板。「馬出門」方向への「お堀端通り」沿いの桜並木。「小田原城 二の丸隅櫓」を見る。「馬出門」方向に向かって歩きズームして。「馬出門」への橋「めがね橋」を見る。橋の形から通称「めがね橋」と呼ばれているが、正式には「馬出門土橋」という。橋を渡ると馬出門に入るため、この名前が付けられている。この馬出門を通り、銅門、常盤木門へと進むのが、正規な登城ルートなので、本来はここが城址公園の正面玄関と。この門は、馬屋曲輪の北部、さらには二の丸の正面に位置する重要な門であり、門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持っている。伝統木工法に基づき平成21年に復元された と。箱根登山バス「バスのりば めがね橋」。「小田原城 二の丸隅櫓」を見る。左奥に「小田原城 天守閣」が見えた。「小田原城跡小田原城の歴史小田原城は、戦国時代には関八州を治めた小田原北条氏の本城となり、豊臣秀吉との小田原合戦の際には、周囲9kmにわたって、堀と土塁で城下を囲む戦国最大規模の大城郭に発展しました。北条氏滅亡後、江戸時代になると、江戸幕府の西を守る重要な城郭として、天守、櫓、城門と石垣と水堀から成る近世城郭に改変されます。小田原城は、中世の城と近世の城が同じ場所に重複して存在する城郭であることが特徴といえます。明治時代には、天守をはじめ建物は取り壊され、ニの丸内は、皇族の御用邸になりますが、関東大震災によって残っていた石垣も大破し、高等女学校や尋常小学校、野球場や図書館などが建設されます。昭和58年(1983)からは、史跡整備が本格化し、施設の移転が進められ、住吉堀や銅門(あかねもん)、馬出門、御用米曲輪(ごようまいくるわ)の復元整備が進められています。」「小田原城の歴史年表」。「文久図に描かれた江戸時代末期の小田原城」。「めがね橋」、「小田原城 馬出門」を正面に見る。「めがね橋」入口にあった「小田原城案内図」、「周辺案内図」。「周辺案内図」。「小田原城案内図」。解りやすい「小田原城 園内マップ」をネットから。ここからが「小田原城正規登城ルート 馬出門・銅門(あかねもん)・常磐木門・天守閣」と。「めがね橋」入口から「馬出門」👈️リンクをズームして。「めがね橋」を渡りながら南側の掘りを見る。「めがね橋」を渡りながら北側の「学橋」を見る。再び「小田原城 二の丸隅櫓」をズームして。「馬出門」。「馬出門」手前の広場「馬出門広場」は昔はなく、橋を渡ると直ぐに「馬出門」があり「枡形」が拡がっていたが、寛文12年(1672)の改修で、門は、土橋を渡った奥に移動し、土橋との間に広場・「馬出門広場」が設けられた と。「馬出門馬出門は、三の丸からニの丸に向かう大手筋上に設けられた重要な門で、桝形の内側に位置する内冠木門と同様、控え柱にそれそれ屋根がつく「高麗門形式」の門であったと考えられています。発掘調査によって、明治34年(1901)に設置された皇族の御用邸時代の石垣や江戸時代の石垣、門の礎石などが確認されました。これらの成果や絵図をもとに、平成21年(2009)に高さ約6.3m、幅約4.7mの規模を持つ馬出門が復元されました。復元には、柱や扉は欅(けやき)、屋根の下地は椹(さわら)、土塀の控柱には栗を用いました。御用邸時代の門は、馬出門土橋から直進して門をくぐることができるように向かって左側に位置をずらすとともに、石垣を高く積み直しており、写真で当時の様子を知ることができます。」「馬出門(うまだしもん)馬出門は、三の丸からニの丸に向かつ大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文1 2年(1672)に桝形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。明治時代には御用邸の正門でしたが、関東大地震で倒壊しました。平成21年(2009)に発掘調査を経て、江戸時代の姿に復元整備されました。」振り返って「お堀端通り」沿いに出来た「小田原三の丸ホール」を見る。正式名称は小田原市民ホール。 2021年9月5日開館。小田原市民会館の後継施設となる多目的ホール。客席数: 大ホール:1,105席 小ホール:296席 とウィキペディアより。小田原市本町1丁目7−50。「馬出門」を入ると「馬出門枡形」が現れた。「枡形(桝形)とは 戦国時代、城の入口・一の門と二の門の間が広く長方形や正方形につくられています。 これは、進入してきた敵の勢いを緩めたり、中が直ぐ見通せないようにしているのです。 だから、城下町にはたいてい、この形が今も残っています」とネットから。正面の石垣の先に「小田原城 銅門」の巨大な屋根が現れた。「馬出門枡形馬出門桝形は、馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)のニつの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。桝形は、江戸時代初期(1645年頃)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672)の改修で門は、土橋を渡った奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。明治34年(1901)に、ニの丸一帯が皇族の御用邸となった後、関東大震災で石垣の大部分が崩落し、周囲の堀の一部が埋め立てられましたが、平成15年(2003)から整備のための調査を開始し、平成21年(2009)に復元整備を完了しました。石垣の復元には、安山岩を用い、馬出門の南側を真鶴産小松石、北側を江戸城の石丁場である早川石丁場で発掘され、記録調査後に廃棄予定であった石を使用しています。」こちらが枡形出口・二の門の「内冠木門」。「内冠木門(うちかぶきもん)馬出門の枡形の内側にある門 平成21年(2009) 復元」と。「内冠木門」前から「馬出門枡形」を振り返る。そして「内冠木門」を潜って進むと右手に「住吉堀」がありその手前には「案内板」が。「小田原城と銅門(あかがね門)銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪(うまやくるわ)やお茶壷曲輪とは住吉堀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。」「江戸時代末期の小田原城絵図(部分) 小田原城天守閣蔵」「小田原城案内図」。「小田原城 案内図 史跡 小田原城跡」近づいて。現在地はここ。「小田原城小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存在しました。明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。 昭和35年(1960) 天守関復興 昭和46年(1971) 常盤木門再建 平成 9年(1997) 銅門復元 平成21年(2009) 馬出門復元 平成28年(2016) 天守閭リニューアル 常盤木門SAMURAI館オープン」南側正面にあったのが「二の丸お休み処・二の丸観光案内所」。「小田原ガイド協会が、城址公園内や小田原の観光スポット・史跡などをガイドします。小田原城址公園内ガイド、モデルコースガイド、期間限定の企画ガイドなど様々なプランをご用意しております。」とネットから。「小田原城 銅門」に続く「住吉堀」に架かる「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」が右手に現れた。「銅門(あかがねもん)」案内板。「銅門(あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほば全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復原されたものです。銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門、を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復原されています。「解体される前の銅門(明治5年) 横浜市美術館蔵」と。「住吉堀住吉堀は、銅門と馬屋曲輸・御茶壺曲輔の間を仕切る堀で、寛永9年(1632)以降、稲葉氏による近世化工事で完成しました。大正12年(1923)の関東大震災で石垣が崩落し、その後埋め立てられ、小田原高等女学校(後の城内高等学校)が設置されていました。昭和58年(1983)から本格的に始まった史跡小田原城跡の整備事業に伴い行われた発掘調査では、石垣の根石と呼ばれる一番下の積石と、その下に敷かれていた松の土台木が堀全体で確認されました。また、絵図に描かれていない戦国時代の小田原北条氏による「障子堀」(堀底に土を掘リ残し障壁とする堀)、さらに江戸時代初期の「障子堀」や自然石をそのまま使用した野面積みの石垣などが検出され、時代によって異なる堀の変遷が確認されました。住吉堀の石垣と堀の復元工事は、昭和63年(1988)から発掘調査と並行して、城絵図や発掘成果と整合させて行われました。また、平成2年(1990)に住吉橋を復元しましたが、銅門櫓台石垣を含めた石垣までの完成には、平成7年(1995)までの6年間を要しました。復元に際しては、関東大震災で崩落した石垣の石を使い、角石などの一部は、真鶴産小松石(安山岩)を新たに使用しています。」再び「住吉堀」、「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」を見る。「馬屋曲輪」👈️リンクから「住吉堀」、「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」そして「銅門」。「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」を正面から。「銅門枡形内仕切門」に向かって進む。木製の「太鼓橋」👈️リンクが。「住吉橋銅門枡形内仕切門(あかがねもんますがたうちしきりもん)と馬屋曲輪(うまやくるわ)の間にかけられた橋 平成 2年(1990)復元 平成30年(2018)改修 2019.03小田原城総合管理事務所」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.23
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この日は7月7日(日)、午前中は仕事の打ち合わせで平塚駅近くまで行き、帰りに最終日になった「平塚七夕まつり」に立ち寄った(後日、ブログアップ予定)。そして地元の駅に到着し、自転車で家に向かう途中に、回り道して、農家の方が栽培しているひまわり畑に立ち寄る。例年は、この畑から国道に沿って300mほど南に進んだ場所にひまわり畑👈️リンクがあったが、今年は栽培が行われていなかった。今年の、この畑も、農家の方が畑の緑肥用に栽培されているとのこと。主に土壌の菌根菌を増やして、後作の作物のリン酸吸収を促すのだと。菌根菌は植物の根に共生して生育する微生物の総称。 菌根菌は土壌中の養分を吸収して植物に供給し、その一方で植物が光合成によって生成した物質を受け取ることで生育しているのだと。また、深根性のため土壌の透水性改善効果もあるのだと。全国的に5~8月が播種に適しており、農地の景観アップには最高の植物。花が終わった直後に、トラクタ―のロータリーで、立ったままのひまわり(向日葵)を鋤き込むのだと。これにより連作障害も緩和されるとテレビから。ヒマワリはいつも太陽の方向を向いていることから「向日葵(ヒマワリ)」と呼ばれるようになった、という話は有名ですが、実はヒマワリが動くのは花を咲かせる前の伸長・成長をしている時で、ちょうど花を咲かせる頃には動かなくなるのだと。ヒマワリは、花を咲かせる前の成長期に、若い葉が付く茎の先端部分を太陽の方に傾けます。この動きにより、より多くの光を葉に当てることができます。ヒマワリを太陽の方向に向けないように固定すると、個体全体の乾燥重量が13%減少し、葉の面積も9.7%減少したという研究結果が得られているとのこと。つまり、ヒマワリは、たくさんの太陽エネルギーを得て光合成をし大きく育つために、小さい頃から開花する直前まで太陽を追いかけているのです。ズームして。さらに。そして我が?ミツバチを発見。ミツバチは花粉を求めてヒマワリに訪花しているとばかり思っていたが、以前に、フランスを旅行した時に「ヒマワリ蜜」があることを知ったのであった。「南仏オーガニックはちみつ(ヒマワリ、ラングドック産、125g)」そしてフランス語で「MIEL」とは「蜂蜜」であることをこの時に知ったのであった。大谷翔平選手が本塁打を放った後、大量のヒマワリの種を顔にかけられ手荒い祝福を受けるシーンがいつもテレビで。ドジャースに今季加入したT・へルナンデスが発案したパフォーマンスだと。ヒマワリの種は大リーグの球場ではベンチに一般的に置いてあるお菓子だと。私も、若い頃、中国の各地に出張した際、会議のテーブル上にこのひまわりの種が、お皿の中に山のように積まれ、中国人がお茶菓子代わりに口に含み、見事に口の中で殻を割り、床にペッペペッペと吐き出し、床が殻だらけになっていた記憶を懐かしく思い出しているのです。中国では食べるヒマワリの種を「瓜子(guāzǐ)」と呼び、とにかくいろいろな場所でその当時は目にするのであった。いろいろな味があるようだが、あまり美味いとは思わなかったが。これがその時の写真。ネットで見るといろいろなヒマワリの種を購入できると。興味のある方は、TRYしてください。 ・・・おわり・・・
2024.07.22
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国道135号沿い、サンビーチから続く「ムーンテラス・親水公園」は、北イタリアのサンレモ市が熱海市の姉妹都市であることや、海岸沿いの地形が似ていることから、地中海北部のリゾート地をイメージして整備されている。また、夜間のライトアップは、夜のデートスポットとしても人気がある。海上に大きく突き出した展望テラスで、姉妹都市イタリアを思わせるリゾートムードが漂う。潮風を感じながら散策したり、沖を走るクルーザーを眺めたりと、海辺の風情を満喫できる。「恋人の聖地」に認定されており、テラス尖端にある噴水前には恋人たちが愛を誓い合うことのできる石のモニュメントも。ライトアップされてロマンチックなムードになる夜もおすすめ と。航空写真をGoogleマップから。熱海~伊豆大島、神津島を航行する「セブンアイランド 友」の姿が。全長27 m、総トン数164 t。旅客定員数は254名。2013年4月1日に就航、1989年竣工以前は、鹿児島商船「トッピー1」として鹿児島・指宿・種子島・屋久島航路に就航しました。馬力は3,800馬力×2、最大速力43.0kt(knot・ノット)。ノット (knot 記号: kn, kt)は、速さの単位であり、1ノットは1時間に1海里 (1852 m) 進む速さである。よって最大速度43.0kt≒80km/hrで運行していると。再び「熱海サンビーチ」そして高層マンション群を見る。国道135号からの石段の壁には多くの種類の魚たちが。巨大なマンボウや亀の姿が。ムーンテラスの曲線が印象的な石のアーチを過ぎて突端まで行くと噴水のモニュメントがありその下に石碑があるのだ。それぞれのアーチの先端で海鳥が羽を休めていた。熱海城を見上げて。ズームして。「熱海ムーンテラス」の「恋人の聖地」 のモニュメントをズームして。塔の頂から水が流れ落ちて。廻り込んで。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザインらしい。テラス尖端にある噴水前には恋人たちが愛を誓い合うことのできる石のモニュメントがあった。このモニュメントの前に立つときには、ちょっとした作法があるそうです。モニュメントを後ろにして、男性が向かって左に女性が右に立ち、背中の方で手と手をクロスさせながら、手形に手を置き、お互いに思いを伝え合うそうです。「恋人の聖地Yumi Katsura Lover's SanctuaryHere I declare this land as "Lover's Sanctuary" to impart the joy and themagic ofencounters, blissful marriages, and raising a happy home, I send my blessings to yourencounters and wish you a wonderful future.SINCE 2006Bridal Mother 桂由美NPO法人地域流性化支権センター」熱海城を背景に「恋人の聖地」 のモニュメントを。「スパ・マリーナ熱海」を見る写真左に恋人たちが愛を誓い合うことのできる石のモニュメントが。北方向に向かって進む。円形中央に東西南北の表示があり、その先に世界の都市名が記載されていたようであったがかなり傷んでいたのであった。丸い地球儀をイメージした中には、「シンガポール」、「カイロ」、「カスカイス」、「サンレモ」、「中国 北京」等の名前があった。廻りこむと「ニューヨーク」、「テオティワカン」、「リオデジャネイロ」、「ロトルア」、「シドニー」と。南側から「恋人の聖地」 のモニュメントを。「熱海後楽園ホテル」を中央に。豪華クルーザー。プレジャーボートのうち、サロンクルーザー、メガヨット、ギガヨットと呼ばれているものの通称。一般的に25フィート(7.62m)以上の船舶で、サロンまたはラウンジ、トイレ、キッチン(ギャレー)、ベッドルーム、シャワーなどの「居住空間と居住設備」を備えたレジャー用のヨットやボートを現す言葉である とウィキペディアより。「VISIONARY Ⅴ」と。「VISIONARY」とは「夢想家 空想家」と。反対側・南側には日本の都市名が。「スカイデッキ」を見る。「釜鳴屋平七夫婦像」方向を見る。アーチの先端には海鳥?の姿が。「スカイデッキ」の下段の「レインボーデッキ」を駐車場方向に歩く。再び「スパ・マリーナ熱海」に停泊中のクルーザを見る。そして駐車場近くの「アガパンサス」の花を追う。アガパンサスはこの時期、さわやかな涼感のある花を多数咲かせ、立ち姿が優雅で美しく、厚みのある革質の葉が茂る様子には力強さも感じられます。こちらも南アフリカに10~20種ほどの原種が自生し、交配などにより300以上の園芸品種が育成されているとのこと。性質が強く、植えっぱなしでほとんど手がかからないので、公園などの花壇やコンテナの植え込みに利用され、また切り花としてフラワーアレンジメントにも使われているとのこと。近づいて。「アガパンサス和名 紫君子蘭(むらさきくんしらん) 別名 アフリカンリリー原産国 南アフリカ開花期 6月~ 8月科属名 ヒガンパナ科アガバンサス属梅雨の時期に花開くアガバンサスは、紫や白など涼しげな色合いで見る人を和ませてくれます、西洋では「愛の花」とされ、恋や愛にちなんだ花言葉を持っています。多年草で細長く伸びた茎の先から放射状に花を咲かせ草丈は3 0 ~ 1 5 Ocmまで成長します。」そして、今年の「ジャカランダ」の花の見納めに再び、最初に見た駐車場近くの樹を。今年も紫色の花をブドウのように房状に咲かせ、葉の緑と花の紫がとても美しい熱海海岸のジャカランダの花を大いに楽しんだのであった。東海岸町のお宮緑地が「ジャカランダのプロムナード(散歩道)」となっており、独り占めの如くに楽しむことが出来たのであった。ジャカランダの花が咲くこの季節には、ジャカランダの樹の下を歩くと、足元には紫の花びらが絨毯のように広がっていたのであった。その上を歩くと、まるで花の海を漂っているかのような気持ちにさせられます。花の香りもまた、甘く優しく、心を落ち着かせるのであった。鮮やかな青紫色の花びらは、まるで絵画のように華やかで、遠くからでもその存在感を放つのであった。この日の如くに初夏の陽光に照らされると、花々はまるで空から降り注ぐ紫の雨の如くにも見え、風に揺れるたびに心を奪われるのであった。最後にカメラの設定を変えて。近づいて花をよく見ると、一つ一つの花は小さな鐘のような形をしており、その中に繊細な模様が浮かび上がった。さらにズームして。淡い紫から濃い紫へのグラデーションは、まるで絵画のような美しさ。花びらが風に舞う様子は、儚さと美しさが一層引き立つのであった。最後に、こちらが、南アフリカの首都・プレトリアのジャカランタの並木。熱海のジャカランダは、残念がら花のボリュームより葉のボリュームが多いのだが。これも天候、土地の質等が微妙に影響するためと。熱海の「ジャカランダ」の花には多くの葉が同時にあり残念だが。一度、この写真の光景を見に行きたいと思っているのだが・・・無理!!せめて「宮崎の日南市」のジャカランダでも!! ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2024.07.22
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今日、7月21日(日)は満月。満月は夕方の日暮れの頃に東の空から昇り、翌日の明け方の日の出の頃に西の空に沈みます。7月の満月はアメリカの農事暦で「バックムーン」とも呼ばれます。この呼び名はアメリカが発祥とされていて、英語で書くと「Buck Moon」と。「Buck」はオスの鹿を意味しており、ちょうどオスの鹿の象徴でもある角が生え替わる時期であることから、7月の満月をバックムーンと呼ぶようになったのだ と。アメリカの先住民は季節を把握するために、各月に見られる満月に名前を、動物や植物、季節のイベントなど実に様々につけていたのだと。満月の瞬間がいつになるのかは、太陽・地球・月の位置関係によって計算ができます。地球から見て、太陽の方向と月の方向の差(黄経差)が0度の瞬間が朔(新月)、90度の瞬間が上弦(半月)、180度の瞬間が望(満月)、270度の瞬間が下弦(半月)と定義されていて、およそ1か月弱で1周します。つまり満月は、地球から見て太陽と月がほぼ正反対の方向にならぶ瞬間(太陽、地球、月の順に、ほぼ一直線にならぶ瞬間)を指します。今年2024年の満月の日は下のごとくに。この写真の撮影時間は19:46。月が赤っぽく見えたのは、大気の影響による現象で、朝日や夕日が赤く見えるのと同じ理由。月の出、もしくは月の入りのときのように、月が地平線(水平線)に近いときに、赤っぽく見えやすくなるのです。普段、私達が目にする光の中には、虹の七色で表現されるように、青い光から赤い光までいろいろな色が混ざっていて、全体としては白っぽい光となっている。月からくる光も最初は白っぽい光です。しかし、月の光が私達の目に届くまでには、光が地球の大気の中を通過しなければなりません。波長の短い青い光は波長の長い赤い光に比べて、地球の大気の中を進む途中で大気の分子にぶつかって、あちこちに散乱されやすい性質があります。このため、大気の中を長く通過すればするほど、青い光は私達の目に届きにくくなるのです。一方、赤い光は大気の中を通過しても、散乱されにくいので、私達の目まで届くことができるのです。さて、丸い地球をとりまく大気の厚さは、どこでもほぼ同じですが、地上から見ると、見る方向によって、厚さが違うのです。頭の真上の方向がいちばん薄く、水平方向に近くなればなるほど大気が厚くなっていきます。地平線(水平線)近くに月があるときは、月からの光が、厚い大気の中を通過することになります。すると、青い光は届きにくく、赤い光だけが私達の目に届きます。そのため、月が赤っぽく見えるのです。どんな形の月でも(月だけでなく実は星も!)、地平線近くにあるときには赤っぽく見えますので、一度よくご覧になってみてはいかがでしょうか。繰り返しになりますが、短い波長の「青色光」は、大気中の粒子(ホコリや水分)などにぶつかりやすく散乱しやすい光です。逆に長い波長の「赤色光」は、大気中の粒子(ホコリや水分)などにぶつかりにくく散乱しにくい光なのです。そしてこの日の、月の出直後の赤い満月をさらにズームしてみました。そして色が白くなった21:30過ぎの満月の姿なのです。 ・・・おわり・・・
2024.07.21
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「熱海サンデッキ」から「熱海城」をズームして。白い建物は「熱海後楽園ホテル」。そして「初島」、「熱海港防波堤灯台」を見る。 「初島」は熱海の南東に浮かぶ島。高速船で熱海からわずか30分で辿り着く、家族連れに人気のリゾートアイランド。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もあると。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住していると。「初島」👈️リンク をGoogleマップから。◯が島の北部の居住範囲。島は伊豆半島東部相模湾海上に浮かぶ島。静岡県唯一の有人島で首都圏から一番近い離島として知られています。全て火山島である伊豆諸島と違い、海底が隆起して海上に姿を現した海成段丘(隆起と海水の浸食によって出来た地形)の島と言われています。現在初島灯台が建っている第1段丘(島内最高地点:海抜約50m)付近は、地質学的な調査によると2万年ほど前に海上に姿を現したと言われています とネットから。「熱海サンデッキ」から山の斜面に建つ高層マンション群を振り返る。「熱海サンデッキ」のタイル画。子供とハートをイメージしたオブジェ。その先には「熱海港防波堤灯台」と「初島」の姿が。近づいて。「ホスピタリティーそれは、もてなしの心人を思いやる心・人を愛する心です私たちの前で手と手をとり合って下さいきっと愛が大きく翔くでしょう愛・・・・・・それは熱海の心です」と辛うじて判読。海岸を背にして「坪内逍遥の句碑」があった。「海なぎぬ 冬知らぬ里の やぶ椿 せいえう」碑のバックは藪椿であろう。再び「熱海サンデッキ広場」から。「ジャカランダ遊歩道」に戻ってさらに進む。再び陽光に映える「ジャカランダ」の花を追う。青空に映えて。そして「ジャカランダ遊歩道」の南側入口まで戻る。ブーゲンビリアをこれでもかとカメラで追う。そして再び国道135号沿いの石版絵画をカメラで追う。「中山晋平記念館「大衆音楽の普及に大きな役割を果たした作曲家中山晋平の業績を偲び、晋平が晩年を送った住居をそのままの形にて遺品とともに梅園内に保存されています。」「大湯間歇泉「お湯が音とともに噴出し、周囲に湯気とイオウの臭いを立ちこめる大湯間隙泉。関東大震災により噴出が不規則になり現在は復旧工事にて人工間歌泉となった。」「熱海」と書いて、「あたみ」と読むこの地名の由来は、海中より温泉が凄まじく沸きあがり、海水がことごとく熱湯となったため、「あつうみが崎」と呼ばれ、それが変じて「あたみ」と称されるようになった」と。「澤田政廣記念館熱海が生んだ芸術家澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、津田芸術の集大成がここに展示されています。」「熱海が生んだ芸術家 澤田政廣。九十三年間の生涯における作品は、木彫、油絵、陶芸、書、リトグラフ等と極めて多彩であり、澤田芸術の集大成がここに展示されています。」「伊豆山神社伊豆に流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です。この「伊豆山神社」👈リンク は昨年2019年2月に訪ねたのであった。」「いずに流されていた源頼朝と北条政子が、ここで忍び逢い結ばれたことから、縁結びの神様として人々に親しまれているロマンあふれる神社です。」ブーゲンビリアを横から。「釜鳴屋平七夫婦像」への遊歩道の石段手前にあったオブジェには「アタミ サンビーチ」と。「遊歩道」から背の低い「ジャカランダ」に再び近づいて。「熱海サンビーチ」。遠く真鶴岬の姿が。まだ人の姿はなし。時間は9:15。真鶴岬の「三ツ石」をズームして。国道135号の擁壁沿いを歩く。木の先端にジャカランダの花が。そして「親水公園・ムーンテラス」を望む。地中海北部のリゾート地をイメージした「親水公園」内のテラス。サンビーチから南に続く親水公園の一画に、多目的トイレやベンチ、モニュメントなどが設置されている。青い海と白い砂浜が続くサンビーチとムーンテラスは「恋人の聖地」に認定されており、テラス先端に設置された噴水は恋人達が愛を誓い合う場として有名だ。夜にはテラス全体がライトアップされ、ロマンチックなムードが漂うのだ。国道135号の擁壁を背に。そして「釜鳴屋平七(かまなりやへいしち)夫婦像」に到着。ズームして。さらに。「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起った漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈へ遠島の途中大島で死んだ。人間平七の無死愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。八十五歳武者小路実篤」と。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」そしてこちらは「熱海市名誉市民橋田壽賀子 顕彰碑大正十四年京城(ソウル)生まれ。戦後映画界で、女性脚本家の草分けとして執筆を開始。後に黎明期のテレビに活躍の場を移し、ドラマの発展を支えた。日本人の心と家族の絆を温かく描き、多くの視聴者に感動を与え、愛された。ドラマは海外でも放送され、文化を超えて高評価を得る。壮絶な戦争体験から物語には平和への祈りも込められた。熱海を慈しみ、この地で多くの作品を生み出した。熱海市名誉市民、テレビ界で初の文化勲章を受賞。従三位。主な作品おしんおんな太閤記春日局愛と死をみつめて女たちの忠臣蔵源氏物語渡る世間は鬼ばかり 橋田壽賀子。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.21
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さらに熱海・お宮緑地(ジャカランダ遊歩道)の散策を続ける。「ジャカランダ」はノウゼンカズラ科の低高木で、中南米原産。淡い紫・藤色に輝き、異国の情緒を漂わせる「ジャカランダ」。ここ静岡・熱海や宮崎・日南など日本の数カ所でも「ジャカランダ」の花で名所づくりをしているが、都内以南がおそらく開花の北限になるようだ。極めて美しいブルーの花を50花以上、ブドウのように房状に咲かせているのであった。さらにズームして。南アフリカのツアーが最も人気が出るのがジャカランダの時期・10月。プレトリアでは街全体が紫色に染まり、まるで花のトンネルをくぐっているような気分に!。日本の桜の「青紫」版である とネットから。右手前方にユニークな鍵穴の如き造形の石であったが、説明書き等はなかった。正面から。熱海城を背景に。更にジャカランダの花を追いかける。椰子の木を見上げて。そして前方に「ジャカランダ遊歩道」の出口・北側からの入口が姿を現した。ズームして。ラッパのごとき藤色の花。その形がファンファーレを吹くトランペットを連想させることから「栄光」「名誉」という花言葉がつけられたと。その神秘的な紫色は高貴な色とされ、王室をイメージするとも。さらにズームして。「ジャカランダ遊歩道」の出口・北側からの入口もブーゲンビリアに覆われて。「ギンバイカ」も咲き乱れて。近づいて。「ギンバイカ」は、芳香があるかわいい白い花を枝先に開花させる常緑低木の花木。ハーブとしてマートルの名前でもよく知られていると。葉には油腺があり、葉をたたいたりもむことでフルーティーな芳香が放たれるのであった。「ジャカランダ遊歩道」の出口・北側からの入口には「ATAMI ジャカランダ フェスティバル」と。「ジャカランダ遊歩道◆ジャカランダ詳細世界三大花木(カエンボク・ホウオウボク・ジャカランダ)の一つで、いまでは熱海の初夏を告げる花となりました。街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ。本州ではめずらしい風景です。また、ジャカランダの日本での認知度は、海外のリゾート地への渡航者の増加に伴って広がりつつあります。熱海での開花は折しも傘の花開く梅雨シーズン。ラッパの形をした小さな青紫色の花がブーケのように熱海の梅雨空を彩ります。●形質 ノウゼンカズラ科の落葉高木~低木。葉は優美なシダに似た2回羽状複葉、花は藍色 または青紫色が基本でピンクや白色もある。落葉だが春先まで葉を着けることが多い。●原産地 南米の熱帯~亜熱帯地方原産で約50種が知られる。●分布 世界の熱帯、亜熱帯の乾燥地帯を中心に栽培される。国内では関東南部~沖縄まで 栽培事例あり。●生育環境 凍障害を受けない温暖な土地で、かつ日照の多い比較的乾燥地を好む。●開花特性 国内では花より葉が先行して出芽する。花数も相対的に少ないため樹冠全休が花で 覆われることは少ない。」熱海の風景をテーマにしたお宮緑地の石碑を楽しみながら歩く。「長谷寺山門」。熱海にも「長谷寺」👈️リンク があることを以前に知ったのは、この絵画から。ブーゲンビリアを見上げて。熱海市と姉妹都市関係(1990年~)にあるカスカイス(ポルトガル語: Cascais )は、ポルトガルのリスボン県の都市である。ユーラシア大陸最西端のロカ岬へのバスがここから発着している。2019年にポルトガル・ロカ岬を訪ねた際に絶壁上に立っていたロカ岬のシンボルの十字架のモニュメントにも同じようなよく似たカスカイスの紋章が刻まれていたのである。ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり 海始まるAQUI ONDE A TERRA SE ACABA E O MAR COMECA」を刻んだ石碑であった。椰子の巨木を何度も見上げて。「ジャカランダ遊歩道」を引き返して。青空に映えるジャカランダの花。「錦浦景勝熱海の景勝地の一つ。伊豆の玄関、魚見崎の南から約1キロメートルに及び断崖が続く名勝。(魚見崎~錦ヶ浦~曽我浦は約2キロメートル)太陽がのぼるとき、光が浦にそそいで眩しい五色の光となって輝くことから、京の錦織の名をかりて「錦ヶ浦」と呼ぶようになりました。熱海多賀火山の名残を残し、源頼朝、加藤清正などの歴史的人物に由来する伝説も残されています。崖の高さは80メートル。荒波が刻んだ兜岩・基盤岩・烏帽子岩・弁天岩など奇岩が並び、海上には初島や大島が浮かびます。」とネットから。再びはユニークな形の石造りのオブジェが現れた。淡いピンクの百合の花。近づいて。この時間は観光客の姿は少なかった。雲のゆっくりと流れて。再び「ブッドレア ブラックナイト」とのコラボを。別名は「房藤空木(フサフジウツギ)」。原産地は中国である。日本へは明治時代にヨーロッパで改良されたものが渡ってきた。ブッドレア・ブラックナイトはそうした園芸品種の1つである。特徴は花の色が濃い青紫色をしていることである。樹高は1メートルから3メートルである。葉は卵状の楕円形で、向かい合って生える(対生)。葉の裏面には毛が密生していて白い。開花時期は7月から10月である。細い枝を広げて円錐花序(枝分かれして全体が円錐状に見える)を出し、紅紫色の花をたくさんつける。花は上側に向いて咲くので下面には少ない。花はよい香りがする。花の後にできる実はさく果(熟すると下部が裂け、種子が散布される果実)である。全体にサポニンを含み有毒である。」とのネット情報。以前、日比谷花壇大船フラワーセンターでも見た記憶があるが。ズームして。「サンビーチ 花火大会熱海海上花火大会は、1952年(昭和27年)にはじまった歴史ある花火大会。夏だけではなく年間を通して10回以上も開催されている熱海名物です。会場である熱海湾は、3面を山に囲まれた「すり鉢」状の地形のため、海で上げる花火の音が反響し、 大きなスタジアムのような音響効果があり、花火業者さんも絶賛する日本一の花火打上会場です。 夜空に広がる花火や、水面に映る花火、そして、フィナーレを飾る「大空中ナイアガラ」の美しさは、瞬きを忘れるほど!心にずっと残る思い出ができる、熱海ならではのイベントです。」と。「熱海サンビーチ案内図」。以前に訪ねた「来宮神社 👈リンク来福・縁起の神として古くから信仰されている來宮神社。本殿横には国の天然記念物にも指定された樹齢二千百年、幹の太さは24メートルの大楠の御神木があり、パワースポットとしても有名です。幹を一回りすると一年寿命がのびると伝えられており、この木の生命力にあやかろうと長寿・病気平癒・健康祈願の参拝者が多く訪れます。また、願い事のある人は、思うことを誰にもいわず一回りすると願い事がまとまる、とも言われています。夜はライトアップされ、朝、昼、夜とそれぞれの表情が楽しめます。例大祭は毎年7/14~16に開催されます。」と。「熱海♨観光 案内マップ」。再び現在の「お宮の松」を。「お宮の松」案内板。遊歩道にも巨大な「お宮の松」の絵が刻まれていた。案内板は英語・日本語版が並んで。「明治の文豪尾崎紅葉の代表作小説「金色夜叉」は、明治30年(1897)1月1日から5年半に亘り読売新聞に連載されたちまち単行本になり、劇化されるなど当時空前の反響を呼び起こした。ストーリーは、ヒロインの鴫沢宮がカルタ会の席で、銀行家の息子富山唯継に見染められた。しかし、宮には第一高等中学校の生徒であった婚約者間貫一がいたにもかかわらず、宮の両親はそれを承知の上で富山の求婚を受け入れたことにはじまる悲恋物語であり、作中のクライマックスの場に熱海の海岸が選ばれたことと、金色夜叉の歌 熱海の海岸散歩する 貫一お宮の二人連れ 共に歩むも今日限り 共に語るも今日限りが広く人々に愛唱されたことから、熱海は一躍脚光を浴びるようになり、今日、国際観光温泉文化都市として、全国有数の観光地に発展を成し得たのは、丹那トンネルの開通と共に金色夜叉が大きなきっかけになったのは言うまでもありません。金色夜叉の主人公貫一とお宮の名は「一月の十七日来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!再来年の今月今夜・・・・十年後の今月今夜・・・・」の名台詞と共に、歳月の移り変わりのもかかわらず、人々の記憶に残り、いつまでも愛されていくでしょう。紅葉は、37歳の若さで死去し金色夜叉はついに未完に終わったが、紅葉の死後、彼の残した「腹案覚書」をもとに紅葉の高弟であった小栗風葉によって完成された。熱海市では毎年1月17日、作者を偲んで尾崎紅葉祭が行われます。貫一お宮のブロンズ像は、熱海市在住の日展審査委員館野弘青氏により製作され、熱海ロータリークラブが創立30周年の記念に、昭和61年(1986)年1月17日熱海市に寄贈したものです。 平成元年五月吉日 寄贈 熱海ロータリークラブ」。「梅見の滝熱海市の全国的に知られる観光名所である「熱海梅園」内にある、四季の移ろいが感じられる滝。」「姫の沢公園「姫の沢公園」は、市街地中心部より北西約5キロメートルに位置し、四季を通じて花と緑を楽しんでもらうように造られた自然を基調とした総合公園であり、園内には、四季折々の花木はもとより、アスレチックコースなどが整備され、家族連れで自然に触れ合いながら一日中楽しむことができると。」「貫一お宮尾崎紅葉の名作「金色夜叉」の名場面。主人公貫一とお宮の別れ場面に熱海海岸が登場し一躍有名になった。現在の像は昭和60年に建立された。」そして「サンデッキ広場」への石段まで戻る。石段を上って。「サンデッキ広場」から国道135号沿いのビル群を見る。遠く山の中腹に「熱海城」の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.20
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熱海のお宮緑地(ジャカランダ遊歩道)の散策を続ける。椰子の並木と「ジャカランダ」のコラボ。こちらは比較的花のボリュームが多い「ジャカランダ」。見上げて。ここにもキバナランタナが。椰子の木とのコラボを追う。紅葉?した葉も。「カスカイス市・熱海市国際姉妹都市提携記念植樹ジャカジャランダ(ノウゼンカズラ科)平成2年(1990)7月2日」カスカイス市は、ポルトガル・リスボンから1時間足らずの美しい国際的なリゾート。太陽海岸(コスタ・ド・ソル)と呼ばれる美しい海岸線を持ち、マリンスポーツやゴルフ、乗馬が楽しめます。豪華なホテルやレストラン、カジノなどが並び、欧州最西端のロカ岬への観光の拠点にもなっています。もともとのどかな漁師町でしたが、19世紀後半にポルトガル国王ルイスI世が夏の離宮を造営したことから、貴族たちの別荘建設ラッシュにつながりました。こうした街の発展のしかたは、御用邸の建設を機に政財界の大物や文豪が別荘を構えるようになった熱海とも、ちょっと似ています。熱海市とのご縁の始まりは、ポルトガルに柔道を伝えた日本人柔道家を通じた交流の提案で、平成2(1990)年から姉妹都市。提携を記念して熱海市内の海岸沿いの緑地に植えられたジャカランダは、カスカイスを代表する木です と。カスカイス(カシュカイシュ)はここ○ブットレア・ブラックナイト。ジャカランダ遊歩道から駐車場へ下る石段の壁のステンドグラス風の色彩が美しかった。再び椰子の木を見上げて。熱海市の汚水マンホール。明治時代に熱海温泉を一躍有名にした尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の名場面と「お宮の松」、そして背景の夜空には「花火」を図案化したもの。「AAY380タイムカプセル」。「AAY380タイムカプセルこのカプセルは昭和59年10月1日より昭和60年3月30日の間、熱海梅園開園百年等の記念すべき節目の年を迎え、この年を「明日へ向けての熱海観光元年」としATAMI ANNIVERSARY YEAR380(AAY380-熱海380記念祭)と名付け開催された数々のイベント等の記録を収納したものです。21世紀、市にとって最良の日に後継者により、オープンされますことを期待しここに設置いたします。昭和61年7月13日 熱海市長 内田 滋」。「サンデッキ広場」の植栽の間を歩くと左手にもベンチとタイル画があった。「熱海八景画家、山本光一は天保13年(1842)江戸下谷に生まれた。名は信敬。明治36年(1903) 10月6日、61歳で歿した。墓は臨済宗南禅寺派の月州寺(東京都台東区童泉2丁目2ー15)にある。山本家は代々江戸で儒学を教授していたが父素堂は二男て画もまたよくし、生歴を画家として終えた。光一の兄、学半も画家を志した。詳細は2人とも不明である。光一は熱海の風土が好きだったにちがいない。度々来遊して、明治21年には、「熱海梅園之図」と「改正熱海市街全図」を、翌22年には「伊豆の浦づたい」と題する絵入りの和綴本を刊行し、熱海の紹介に努めている。この「熱海八景色紙」は明治21年の刊。八景とは、かって成島柳北(1837 ~ 1884)が選んで話題となっていた景勝の地8ヵ所、すなわち梅園の春暁、来宮の杜鵑、温泉寺の古松、横磯の晩涼、初島の漁火、錦浦の秋月、魚見崎の帰帆、和田山の暮雪、を版画にしたのであろう。現今の風景と比べて興味津々たるものがある。今を去る90余年前の熱海である。 「1980年熱海八景色紙」より」」ここにも陶板画が。温泉寺松明治21年に描かれた山本光一の熱海八景。「ルリマツリ(プルンバゴ)」の花であろうか。こちらは朱色のカンナの花。ズームして。反対側の壁にも美しい造形が。クジャクサボテンの真っ赤な花。「サンゴシトウ(珊瑚刺桐)」。名前の由来。 赤くいっぱい咲く花 → 「珊瑚」 枝葉に少々トゲあり → 「刺」 葉っぱが桐みたい → 「桐」と。ズームして。「サンゴシトウ(珊瑚刺桐・珊瑚紫豆)」。別名 ヒシバデイゴ(菱葉梯梧)、Coral tree (コーラル・ツリー)原産国 東南アジア、アフリカ開花期 6月~ 8月花言葉「夢」「活力」分類名 マメ目マメ科デイゴ属アメリカデイゴとエリスリナ・ヘルバケアとの交配種で、赤い刀型で筒状のまま花を咲かせます。花名は、珊瑚のような色、枝や茎に刺があり、葉が桐に似ていることからから名付けられました。」ピンクのランタナ。「キング・プロティア」。開花すれば。「キング・プロティア学名 プロテア・キナロイデス分類名 ヤマモガシ科プロテア属樹高 1 m ~ 3m程度原産地 南アフリカ開花期 4月~ 10月花言葉 王者の風格 甘い恋プロテアは花の王様と賞賛される南国の常緑低木で、花名な自由に姿を変えることができるギリシャ神話の海神プロテウスが由来。南アフリカには多種類のプロテアが自生しており、中でもこの「キング・プロテア」は花が大きく優雅であることから南アフリカ共和国のシンポルであり国の花となっています。」「貫一お宮の像」。近づいて。心変わりの許しを請うお宮と、それを足蹴にする貫一の姿の像が。「尾崎紅葉記念碑」。尾崎紅葉の写真。「この像は、明治時代の新聞連載小説、尾畸葉著「金色夜叉」の主人公の貫一とお宮の切ない別れを再現したものです。ニ人の心の擦れ達い、愛情、悲しみが詰まった象徴的な場面であるため、物語を忠実に再現したもので、決して暴力を肯定したり助長するものではありません。是非、この小説をご一読いただき、ニ人の心情や当時の世相に思いを馳せていただけましたら幸いです。」台座には館野弘青(たてのこうせい)作と刻まれていた。」「尾崎紅葉(1867~1903)森鴎外等と並び明治を代表する文豪。胃癌のため35才の若さで惜しまれつつ世を去ったが、晩年、読売新聞紙上に連載した恋愛小説「金色夜叉」が日本全国の読者の熱狂的支持を得て、その舞台となった熱海海岸は一躍全国に知れわたった。以来。熱海市は国際観光温泉文化都市を標榜し、全国有数の観光地として大きな発展をとげ、今日に至っている。熱海市民は、尾崎紅葉先生の業績に感謝するとともに、その遺徳を偲び「金色夜叉」の「来年の今月今夜のこの月を」の名科白で有名な貫一・お宮の別離の日、1月17日を記念日と定め、尾崎紅葉祭を開催している。」「「お宮の松」の由来お宮の松は、尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に由来し、命名されたものである。この松は、江戸時代前期(1645年頃)、智恵伊豆と呼ばれた老中松平伊豆守信綱が伊豆を巡視した際に植えさせた松の一本といわれている。この松は、その姿が美しかったことから、「羽衣の松」とも呼ばれていた。1897(明治30)年から読売新聞に連載された「金色夜叉」により、熱海海岸の場が登場したことから人気を集め、また、演歌師のつくった「金色夜叉の歌」が流行し、熱海温泉の名は一躍脚光を浴び、天下の熱海温泉を不動としたものである。このことから、1919(大正8)年熱海に別荘を持っていた「煙草王」村井吉兵衛や土地の有志によって、横磯に「金色夜叉」の碑が建立された。この碑には、紅葉の門人であった小栗風葉の句「宮に似たうしろ姿や春の月」が刻まれ、羽衣の松のかたわらに建てられたことから、いつしか「お宮の松」と呼ばれ、熱海の新しい名所となった。 また、この碑も女性的な感じから川端康成は、「石そのものも可憐な女の後姿に似た記念碑」と認めている。1949(昭和24)年、キティ台風により道路が崩壊されたことにより道路の拡幅が行われ、海側に伸びた大枝が切られ、また、観光地としての発展に伴い、自動車の排気ガス等によりとうとう「お宮の松」は枯れだした。(初代「お宮の松」の樹齢はおよそ300年で、現在のつるやホテル前の歩道から海に向かって約2メートルの場所にあった)。市では、市民皆様の協力を得て、二代目「お宮の松」の選定を始めた。その結果、50数本の候補から、熱海ホテルにあったクロマツを「お宮の松」に選定し、国際興業の社主であった小佐野賢治氏により寄贈を受け、小田原市の本多大四郎氏の所有する松を添松とし山種証券の山崎種二氏等の寄附並びに市内関連団体の多大な協力により、1966(昭和41)年現在の場所に二代目「お宮の松」として完成したものである。「お宮の松」の樹齢は、2001(平成13)年現在でおよそ95年、添松はおよそ75年になります。」「お宮の松」案内板。「紅葉山人紀年 金色夜叉の碑」。「宮に似た うしろ姿や 春の月 風葉」と。現在の「おみやの松」。「初代のお宮の松」。近づいて。現在の松は1966年(昭和41年)に植え替えられた2代目で、樹齢300年を超える初代の松は切り株へと姿を変えて2代目の隣に展示されていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.19
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車を降り散策開始。「熱海城」が山の中腹?に。ズームして。熱海城は、静岡県熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。市街地や南熱海を一望できる熱海市内有数の絶景スポットとなっている。城郭は歴史的に実在したものではない。1959年(昭和34年)に海抜100mの位置に建てられた。外観5重、内部9階の日本の城郭に見られる天守を模して造られた鉄筋コンクリート造建築であり、天守閣風建築物である。浅野祥雲作による金鯱を戴く天守からは、熱海市街・初島・大島・相模灘を一望できる。晴れた日には6階にあるパノラマ展望台の望遠鏡から東京スカイツリーや横浜ランドマークタワーが見える。208本の桜が植えられ、3月下旬から4月上旬にかけて「熱海城桜まつり」が開催される。1962年(昭和37年)公開の映画『キングコング対ゴジラ』や1967年(昭和42年)公開の『大巨獣ガッパ』などにも舞台として登場した。かつては地下に温泉施設があり、隣接する離れは宿泊棟だったが共に閉鎖された。現役の展望台真下には古い展望台がそのまま残る とウィキペディアより。「糸川」に架かる「熱海渚橋」を見る。この「糸川」沿いに咲いた「熱海桜」👈️リンク を1月31日に楽しんだのであった。しして「ATAMI ジャカランダ フェスティバル 2024」が行われていた。紫に彩る熱海の初夏の風物詩6.1(土) ~6.16(日) ジャカランダライトアップ 期間中毎日 18:00~22:00 ジャカランダ遊歩道 ブーゲンビリアライトアップ 期間中毎日 18:00~23:00 糸川遊歩道まずは熱海海岸沿いを彩るジャカランダの花の散策開始。道路の反対側に咲く「ジャカランダ」の花。南米産のノウゼンカズラ科の「ジャカランダ」。ホウオウボク、カエンボクと並んで世界三大花木の一つに数えられている。紫色の花をブドウのように房状に咲かせ、葉の緑と花の紫がとても美しい落葉高木。熱海市には、国道135号沿い(東海岸町「ジャカランダ遊歩道」~渚町「親水公園」間の歩道、および親水公園内)に高木(見上げる高さ)と低木(目線の高さ)があったのだ。花色は紫、桃、白が有りますが、国内で一般に普及しているのは、ジャカランダの仲間で最も鑑賞価値が高いとされる、アルゼンチン原産のミモシフォリア種です。花色は薄紫色で、長さ5㎝くらいのラッパの形をした花を枝先に多数つけます。熱海のジャカランダも主にミモシフォリア種で、花の見頃は5月下旬から6月中旬頃です。この種は、生長すると幹の高さは15mにもなる高性種で、南米等を訪れた旅行者は、大木全体を覆い尽くすように咲く紫色の花々に鮮烈な印象を受けるようです。さらにズームして。既に落下している花びらもあった。「花が頭に落ちるとしあわせが訪れる」と言われる「ジャカランダ」の花。再び見上げて。別の花をズームして。国道135号から熱海市春日町の高台に立つ高層高級マンション「ザ・クレストタワー熱海」の姿を。地上30階建、全320邸であると。手前の写真左のピンクの建物は「ゼファー熱海ビーチタワー」。咲くか、咲かないか、その年になってみないと分からない花と。そんなちょっと気まぐれなジャカランダ。1990年に熱海市の国際姉妹都市、ポルトガルの力スカイス市から贈られた2本が、いまでは100本以上に。常夏の熱帯地域を中心に分布する世界三大花木は、いまでは熱海の初夏を告げる花となった と。熱海の海沿いでは、この6月になると、お宮緑地からサンビーチにかけて、ラッパの形をした小さな青紫色のジャカランダの花がブーケのように空を彩るのです。昔、アルゼンチンを訪れた時に見たジャガランダは日本のソメイヨシノの様に、花が咲いてから葉が開くのに、ここ日本・熱海のものは逆で、葉が開いてから花が咲くのだ。確かにサクラの様に咲けばより美しく迫力十分。なぜなのであろうか?ネットを調べてみると、下記のごときページがあった。「ジャカランダは、アルゼンチンが原産とされており、乾期に落葉して、乾期の終わりから雨期の初め頃に花が咲くようです。日本では、冬が乾期に当たり、春になって開花に至ると考えられます。葉をたくさん出すと乾燥には弱くなるため、原産地ではまず花が咲き、雨期になって十分に湿度が上がったことを感受して葉(新芽)を出すように適応していると考えられます。日本ではそこまで乾燥が強くないため、春暖かくなるとともに新芽が出るため、葉が先に成長すると考えられます。落葉樹木の多くは落葉前に花芽を作っており、その後の環境要因に応答して開花に至ります。サクラなどでは温度が開花時期を決める主要因となっていますが、ジャカランダの開花要因については詳しくは分かっていないようです。もっともサクラにおいてもソメイヨシノは花が咲いてから葉が出ますが、山桜などは葉が先に出ますので、ジャカランダも日本で開花できる品種の特性によるのかも知れません。」と。下の写真はネットから。これぞ本場の「ジャカランダ」。こちらは、オーストラリア・シドニーのジャカランダとネットから。こちらは熱海のジャカランダ。ラッパの形をした小さな青紫色のジャカランダの花がブーケのように。青紫色の花を初夏に咲かせる姿がキリに似ることから、キリモドキとも呼ばれる。ジャカランダの葉をズームして。新緑の如き葉はレースのような繊細な対性羽状複葉で、小葉は長楕円状ひし形で長さは1㎝程度。涼しげな草姿は観葉植物としても人気。ズームして。「ジョナサン 熱海サンビーチ店」前のジャカランダ。ズームして。国道135号を渡って。「熱海サンビーチ」を背景に。移動して。ズームして。後方に「熱海港防波堤灯台」。ジャジャランダをズームして。中央に、遠く真鶴岬・三ツ石を望む。「熱海サンビーチ案内図」。「現在位置」はここ。お宮緑地(ジャカランダ遊歩道 約380m)がここからスタート。濃いピンクのブーゲンビリアもゲートフェンス上に。ズームして。濃いピンクのブーゲンビリアがアーチ状に。「キバナランタナ」の花。ズームして。「名称 キバナランタナ花期 1~12月花言葉 協力、厳格」お宮緑地(ジャカランダ遊歩道 約380m)入口を振り返って。「ブラシの木」の花も。「近宝樹・ブラシの木【花種】 フトモモ科ブラシノキ属【学名】 カリステモン(美しいおしべ)【原産地】 オーストラリア原産【開花時期】 5月中旬~ 6月中旬【花言葉】 はかない花」「ジャカランダ遊歩道」 を北に進む。「カシワバアジサイ」。近づいて。「ジャカランダ遊歩道」 沿いの「ジャカランダ」の花をカメラで追う。「竹灯篭」。スマホ用撮影台も設置されていた。この先にも。夜になれば・・・(ネットから)。ジニア・ヒャクニチソウ(百日草)。ジニア=百日草であることを最近知ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.18
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この日は6月11日(火)、下の姉が熱海のジャカランダの花を見て来たと写真をLINEで送ってくれたので、私も見に行くこととした。デジカメを我が愛車のダッシュボードにセットし、リモートスイッチでシャッターを押せる用にして、7時過ぎに我が家を出発。藤沢バイパスに向かって善行地区を進む。新湘南バイパス・茅ヶ崎料金所を通過。この日は富士山の姿は見えなかった。前方に、「湘南ベルブリッジ」が姿を現した。本橋は、新湘南バイバスの茅ヶ崎海岸I C付近に位置し、相模川の支流である小出川を鋭角に渡河する橋梁。新湘南パイバスは風致地区を通過するため、湘南のもっイメージや周辺環境と調和した道づくりを目指して計画されたと。とくに本橋は湘南海岸へのゲートとなり、この路線のランドマークとしての役割が期待されて造られたと。橋の長さは246.5m。そして国道134号に出て、相模川を渡る。橋の名は「トラスコ湘南大橋」。橋に手前から「平塚市」になっている。相模川の河口流路が変化していた歴史をしめすものであろう。現在の相模川下流部はかなり直線的な流路になっているが、かつては激しく蛇行を繰り返し、かつ河口部は現在よりかなり東寄り(茅ヶ崎市寄り)を流れていたことが知られているのだ。「大磯ゴルフコース」横を通過。梅澤海岸にある、二宮漁港物揚場を左に見ながら進む。橘料金所手前から箱根の山々の姿を見る。橘料金所を通過。「西湘バイパス」は、西湘二宮ICから箱根口ICおよび石橋ICまでの区間は中日本高速道路管理の一般有料道路である。下り線は、この手前の「橘IC」で降りれば、料金は無料なのだ。国府津駅前を右に見ながら進む。正面右に箱根の二子山、左に伊豆半島の姿が。酒匂川を渡り、早川IC手前を通過。真鶴道路方面に向かう。「小田原ブルーウェイブリッジ」を渡る。石橋料金所を通過し、国道135号へ。前方に「真鶴半島」を見ながら進む。海岸沿いの国道135号を進む。正面に「根府川隧道」。「地魚ごはんと海の幸 浜ゆう」横を通過。「屏風岩隧道」手前。有料の真鶴道路(真鶴ブルーライン)には入らずに一般道・国道135号を進む。JR真鶴駅前を通過。湯河原町「吉浜海水浴場」手前を通過。「湯河原駅入口」交差点を通過。有料道路「熱海ビーチライン」手前。一般道・国道135号を進む。国道135号・朱の橋「逢初橋(あいぞめばし)」が前方に。「治承2年(1178)の夏、北条政子は親の定めた山木判官兼隆との縁談を嫌い、婚礼の夜に頼朝を慕って宴席を抜け出し、ここ伊豆山へ逃れ、足川の地に隠れました。当時、伊豆の蛭ケ小島に流されていた源頼朝はその日伊豆山密厳院の院主で頼朝の師匠であった阿闍梨 覚淵の坊にいましたが、知らせを受けて頼朝と政子が劇的な対面をしたのが逢初橋と言われています。一般的には、伊豆山温泉入り口の国道135号に架かる朱色の橋が逢初橋となっていますが、本当の逢初橋は御岳社の森に架かっている橋であるといわれています。 伊豆山温泉観光協会」2021年7月3日の熱海市伊豆山土石流災害にて上記本物の「逢初橋」は流出してしまい、その土石流は、ここ国道135号の「逢初橋」👈️リンク まで押し寄せて来て、約1ヶ月、国道135号が通行止めになったのであった。前方の山の斜面に白亜の高層マンション「熱海サニーハイツ」が姿を現した。そして前方に「熱海城」の姿も。熱海サンビーチが近づいて来た。「春日町」交差点を通過すると熱海湾の姿が。左手には熱海城、その下に熱海後楽園ホテル。「貫一お宮之像」を左手に見ながら、熱海サンビーチに沿って進む。そしてこの先の一方通行の国道135号に左折して進み、目的地の「熱海市営 第一親水公園駐車場」に到着し、車を駐めたのであった。時間は8:25。自宅から約1.5時間で到着したのであった。 ・・・つづく・・・
2024.07.17
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この日の最後に訪ねたのが「浄土宗 大蓮寺」。川越市元町2丁目8−25。「大蓮寺」の「山門」。「来迎山 大蓮寺」。境内の開運出世 稲荷大明神・「拂稲荷社」。内陣。龍の切り絵。「災厄(さいやく) 拂(ふつ)稲荷社」と。正面に本堂。石仏群。左側の石仏群。石仏の台座には「四國八十八箇所 西國三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所、日本百八十八箇所」と刻まれていた。「瑞?信」碑。「南無阿弥陀仏」碑。奥にあったこの石仏は?六地蔵。左から地獄、畜生、餓鬼、阿修羅、人間、天の六道。本堂に近づいて。両側に「阿弥陀如来像」か?右側。左側。本堂にさらに近づいて。扁額「大蓮寺」。碑の上部、蓮の花の上に「阿弥陀如来」を表す梵字であるキリークが。その下にも文字が??「聖観音菩薩」像であろうか?ズームして。「靈均巡招之誌」か。「子育延命地蔵堂」。「子育延命地蔵尊」と書かれた赤い幟が参道両脇に並んでいた。近づいて。「子育延命地蔵堂」。扁額「子育延命地蔵尊」。「子育延命地蔵尊」。大蓮寺二十三世玄譽存龍上人が、富士山での三年間の荒行に酬い大正2年、大本山増上寺より賜ったお地蔵様。「掲示板」。「寺宝紹介 釈迦三尊像釈尊は、初夜・中夜・第三夜と瞑想思惟して十二月八日の明けの明星が輝く頃、ついに真理を得て成道(悟りを開くこと)し仏陀となりました。シッダールタ三十五歳の時と伝えられています。仏陀となった釈尊が悟の境地を楽しんでいところ、インドの神代表格であるグラフマー(梵天)が仏陀の悟りを賛嘆し、人々に教えを説くように説得します。しかし、真理は難解であり、貪りにふける人々には理解できないといって、二度目までは断りました。そして三度目にして説法を決意し、立ち上がったといいます。此の説話を「梵天勧請」といいます。釈尊は、サールナート(鹿野園)にかっての修行仲間の五人がいると知り、そこへ向かって歩き始めます。釈尊が悟りを開いたブッダガヤからサールナートまでは、200km以上あります。サールナートには、カウンジンヤ、マハーナーマン、ワシュゥパ、アシュワジット、バドリカの五人の比丘がいて、彼らは釈尊の姿を見て、あれは苦行を捨て、娘スジャータの差し出した乳粥を飲んでしまった、本当になさけない奴だ。皆で無視をしよう。そう決めていました。しかし、裸足で歩いてくる釈尊の姿を見て、無視することを忘れ、思わず立ち上がって迎えることになってしましました。ここで、釈尊は「中道」「四諦」「八正道」の教えを説いたと伝えられています。是を「初転法輪」と言います。この五人は釈尊の初めての弟子(五比丘)となり、悟りを開きました。バーラーナシーン国にクリカラ(倶梨迦)長者がいました。その子にヤシャ(耶舎)がいます。ヤシャは、ある日、サールナートに来て、釈尊の説法を聞きただちに出家したのでした。ヤシャに続いて、ヤシャの父母、その妻も釈尊に帰依しました。これが優婆塞(在家の男性の信者)優婆夷(在家の女性の信者)のはじまりをいわれています。釈尊はサールナートを出て、ラージャグリハに向かおうとします。それは、釈尊がシッダールタだった時代、ラージャグリハで、ビンビサーラ王と約束したことを実行に移すためでした。もしもシッダルタが、悟りを開いたならい必ずや自分にその法を解き明かして欲しいしかし、ラージャグリハへ向かう途中で雨季に入ってしまいます。雨季になると、外を歩くことが難しいとともに、その頃は草木が芽をふき、虫たちが卵からかえる時期と重なります。そのため修行僧たちは外出して草木を踏みつけ、虫を殺すよりは、その間一カ所に集まり「安居」といって、その一年間の行いを反省し、戒律を確認する期間を持っことになっていました。その期間は、陰暦五月十六日より陰暦八月十五日までの三ヶ月となっています。安居を終えた釈尊は、五百人の弟子を持つ、ウルビラ・カーシャパをたずね、事火バラモンの、火を礼拝するなどという誤った教えを指摘しました。そして、ウルビラ・カーシャパは、五百人の弟子とともに釈尊に帰依していきます。ウルビラ・カーシャパには、ナディー・カーシャパとガーヤ・カーシャパの二人の弟がいました。ました。兄のウルビラ・カシャパが釈尊に帰依したので、ナディー・カーシャパは、三百人の弟子と、ガーヤ・カーシャバは、二百人の弟子と共に釈尊に帰依します。この時、釈尊の弟子はすでに千二百余名になっていました。」「阿弥陀三尊座像(二尺五寸)」。向かって右が慈悲の力によって人々を救って下さる観音菩薩様、左が智慧の力によって人々を救う勢至菩薩様です。ふくよかで穏和な表情をし、西方浄土を願う衆生を遍く救い取ろうとされる慈悲の広さ大きさを表しています。結跏跌坐をされ手は阿弥陀の定印を結ばれています。大蓮寺八世鏡譽上人(正徳3年《1713》寂)代に安置されたもの と。「大蓮寺」の墓地。「本堂」を振り返って。そして山門を出て右側奥にあったのが「高澤不動尊」。「川越文教会 高澤不動尊」。本尊:不動明王。ここにもラッピングされた自販機があった。「小江戸川越春の舟遊」。「時の鐘」。そしてこの日の全ての観光予定を終了し帰路に。圏央道川島ICから八王子方面に向かう。圏央道鶴ヶ島JCTまで500mの場所を通過。そして「海老名JCT」にて「圏央道」から「東名高速道路」に入り、「綾瀬スマートIC」にて一般道に降り、予定の時間に地元に到着したのであった。そして駅前にて6人でこの日の反省会を2時間ほど。そして徒歩にて美しくライトアップされた黄色のカサブランカを見ながら帰宅したのであった。この日の移動ルート図。 ・・・つづく・・・ ・・・完・・・
2024.07.16
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「川越・蔵造りの街並み」を戻り、出発点の「札の辻」交差点まで戻る。「札の辻」交差点を左折し、「高澤通り」を西に進み、「菓子屋横丁」を目指す。先ほど訪ねた「川越まつり会館」案内板。ここが「川越まつり会館」の駐車場入口のようであった。駐車場入口にあった「旧高澤町碑」。「旧高澤町 現 元町ニ丁目札の辻の西で、赤間川を境としている。古くは、竹沢九郎という人が開いた町といわれる。江戸時代には、そうめんを扱う店が軒をならべていた。文化十五年(一八一八)にかれた絵図には、石置屋根・板屋根のニ階造りの町並みが見られる。この大通りに接して菓子屋横丁が大正時代から盛んとなり、現在も一年を通じてにぎわいを見せている。」「川越・蔵造りの街並み」の雰囲気を感じさせる自販機のラッピング。「元町珈琲店」の先の駐車場にあったチンパンジーと犬の像。川越市在住の発泡スチロールアーティスト・ヤジマキミオさんの、発泡スチロール製のチンパンジー「パン君」と犬「ジェームス」。チンパンジー「パン君」。犬「ジェームス」。そして「高澤通り」に面した「菓子屋横丁」の東側入口に到着。正面に「駄菓子江戸屋 川越本店」。川越市元町2丁目7−1。「キツネ面 800円」が様々な顔で並ぶ。「ここより菓子屋横丁」と。江戸時代から続く歴史的街並みが広がる「菓子屋横丁」は明治時代初期に活躍した菓子職人、鈴木藤左衛門が川越で和菓子屋さんを開いたことが誕生のきっかけと言われています。江戸っ子好みの気取らない菓子が好評で、周辺に数々の菓子屋さんが暖簾分けをする形で増加。最盛期である昭和初期には70店舗が軒を連ねたそうです。色とりどりのガラスが散りばめられた石畳の道など、江戸時代から続く歴史ある佇まいは今も変わりません。昔ながら手法で作られる飴菓子やカルメ焼き、醤油の匂いが香ばしい焼き煎餅など、伝統的な手作りの味が楽しめる菓子屋さんが並んでいます とネットから。近づいて。雪塚稲荷神社には「江戸の昔、迷いあらわれた白狐を殺した挙句、食べてしまった若い衆が祟られ、町の人の前に火の玉が現れたことから、狐の祟りを鎮めるために奉斎、大雪の日に因んで雪塚稲荷神社と称した」という言い伝えがあり、それをもとにこのキツネ面が伝えられているのであろうか?「駄菓子江戸屋 川越本店」の角にあった小さな木製の社。「菓子屋横丁マップ」。「駄菓子江戸屋 川越本店」の内部にも一面に「キツネ面」が。昔ながらの駄菓子屋という感じで、昭和な感じのおもちゃなんかもありました。これぞ駄菓子屋という どれも懐かしい物のオンパレード!引き戸の入口、手作り感のある木製の棚に種類が豊富な駄菓子が沢山並び、昭和にタイムスリップ!!。お菓子以外に懐かしいオモチャもありテンション上がる私でした。 「菓子屋横丁」の「寺町通り」を進む。手焼きせんべい体験のできる「十人十色」👈️リンク。川越市元町2丁目3−17。さらに「寺町通り」を進む。この先を進むと「門前横丁」に繋がっていると。右に曲がって進むと左にあったのが「菓匠右門」👈️リンク名物「いも恋」をネットから。その先、右手にあったのが「玉力製菓」。創業約100年。菓子屋横丁に店を構える手づくり飴の老舗 と。川越市元町2丁目7−7。昔懐かしい菓子作りの店が立ち並ぶ川越の「菓子屋横丁」。昔は「飴屋横丁」とも呼ばれ飴づくりが盛んに行われていた と。そんな昔ながらの製法でつくられて飴を今に伝えている と。市松飴(ハッカ飴)と。和菓子店「よしおかYA」👈️リンク。木の匂いが広がる店内に並べられた駄菓子の数々。観光客や地元の客でにぎわう様子からは、どこか懐かしい温かみを感じられる。駄菓子屋の隣では川越の名産「さつま芋」で作られたお土産菓子の販売も。その先にあったのが日本食材店「三代目彩香」👈️リンク。漬物や駄菓子を売っている店。「菓子屋横丁」を西に向かって進む。正面にあったのが和菓子屋「松陸製菓」。江戸寛政8年創業の老舗飴屋。職人の手造り 生いちご飴 生ぶどう飴も好評。日本一長い黒糖ふ菓子、フードコートでは生芋ようかんソフト、たこマヨせんも人気の店 と。「ふ菓子」。さらに「高澤通り」に向かって進む。駄菓子屋「森徳製菓」の店頭には「モンゴル岩塩」が。川越市元町2丁目7−6。その先にあった和菓子屋「龜屋」。2月9日(金)「龜屋菓子屋横丁店」が開店。菓子屋横丁店では、毎朝ついたお餅での上に大根おろしをのせた「からみ餅」を販売。からみ餅の他にも人気の生菓子「豆大福」や、季節の生菓子、龜屋の代表銘菓「亀の最中」や「こがね芋」も販売中とのこと。人気の「からみ餅」と。 「高澤通り・児玉往還」に向かって進む。右手に「うなぎ 大穀」👈️リンク。「絶品 うな重」。「うな重(松) 4,500円」と。大穀誉 だいこくほまれ 4,400円(税込)と。そして「菓子屋横丁」の散策を終え、「高澤通り」に出る。「高澤橋」に向かって進むと左側にあったのが「山王 山車蔵」。「山王 山車」をネットから。そして右手にあったのが「六塚稲荷神社」。川越市元町2丁目8−12。正面から。石鳥居の右側には、「八紘一宇」と刻まれた主塔と、「紀元二千六百年記念」と記された支柱が立っていた。「八紘一宇(はっこういちう)」碑。『日本書紀』の「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ」を、全世界を一つの家のようにすると解釈したもの。 一つの家とは、つまり「八紘一宇」とは、人種・民族・宗教等の差別なく、世界のみんなが一つの家に平和に暮らす理想を願った意味合いである。ここに「八紘一宇」碑を立てた経緯は?「元町二丁目六塚稲荷神社本殿付 文政二年棟札(市指定・建造物)元町二丁目はかつて高沢町と呼ばれ、本町とならぶ繁華なところでした。当社は赤間川(現新河岸川)を背にして、札の辻から西に延びる東西道の高沢橋東詰の小高いところに立地し、ランドマークになっています。本殿は、高い石積基壇上にたつ中規模の一間社流造で、屋根は銅板の瓦棒葺です。身舎の架構は出組を組んで中備に彫物を飾り、妻飾は虹梁を一手持ち出して大瓶束と笈形で化粧棟木を支えます。縁の腰組は三手先です。架構はそれほど複雑ではなく、彫刻も所狭しと飾り立てるほどではありません。板支輪・笈形にはとぢらものびやかな渦紋が彫られ、気品が感じられます。身舎背面の縁下板壁に狐の出入りする穴があけられ、基壇の中に続いています。庇は几帳面取の角柱を虹梁型の頭貫でつなぎ、柱上に出三斗を組んで中備に竜の彫物を飾ります。身舎とは海老虹梁でつなぎ、手挟で納めています。手挟は波と渦の籠彫で、亀が泳いでいます。身舎の壁面に江戸彫の彫刻がはめこまれていますが、右側面のものは盗難にあい、失われています。背面は亀を助ける浦島太郎、左側面は武士と唐子で、脇障子は狐、扉の左右脇壁は鯉の滝登りとなっています。本殿内に脇札があって建立年代が判明します。棟札によれば、文政二年三月の再建で、遷宮導師は教育院弁宣法印でした。文政二年(一八一九)という造営年代は、川越の江戸彫を用いた本殿の中では早い時期に属します。川越において江戸彫を用いた本殿は、天保期以降に流行し、嘉永・安政期の一八五〇年代に最盛期をむかえます。当本殿は最盛期の三十年程前に造営されており、最盛期のものに比べると、建築の架構があまり複雑でないこと、彫刻の用い方がまだ控えめであること、などの特徴が指摘できます。直接風雨にさらされており、風蝕が進んでいますが、当本殿は幕末の川越を飾る江戸彫を用いた本殿の最初期の遺構であり、景観上もランドマークとして重要でその価値は高いといえます。 平成十九年八月十日指定 川越市教育委員会」本殿正面の写真。棟札の写真。「手水舎」。石灯籠越しに社殿を見る。この建物は本殿ではないようだ。扁額「六塚稲荷神社」。「六塚神社 改築落成之碑」。そしてこちらが「六塚稲荷神社」の「本殿」。正面から。近づいて。廻り込んで。見事な彫刻。左側面:武内宿禰が龍神(龍王)より宝珠を献上された場面 と。背面:浦島太郎の姿と。キツネの姿が。こちらにも。そして「境内社」。近づいて。3つの末社は明治初期まで約200年以上大蓮寺に祀られていましたが、明治時代に発令された神仏分離令により「六塚稲荷神社」に合祀され現在に至る と。右:八幡神社。中央:三峯神社。左:琴平神社。小さな社「四塚稲荷神社」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.15
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「長喜院」に向かってなかなか趣のある路地を進むと、奥にも立派な蔵が。「やまわ蔵部」👈️リンクとあり、「陶芸教室」がこの蔵で行われているようであった。「長喜院」は、NHK朝の連ドラ「つばさ」の重要ロケ地ともなったとのこと、この「陶芸教室」の蔵はやまわの角を曲がって小路に入った所の突き当たり右にあった。川越市幸町7−1。そしてその先に「長喜院」の山門が現れた。曹洞宗・「長喜院」は、大道寺政繁の甥、権内長喜の居所だったところを寺院として建てたとのこと。 川越の仏教には、大道寺政繁が大いに貢献したようです。大道寺政繁は北条氏康・氏政・氏直の三代に仕え、終焉の地はここ川越であったと。また、徳川家が浄土宗の信徒であったことも、繁栄振りに影響したのかもしれないとネットから。山門の扁額は「冷月山」。立派な「本堂」に向かって参道を進む。ズームして。巨大な屋根には、黄金色に輝く鴟尾(しび)があったが・・・。扁額は「長寿禅院」と。参道左手にあったのが「萬霊」塔。合掌観音立像であっただろうか?お顔をズームして。六地蔵尊。「六地蔵(ろくじぞう)大地のような広い心で私たらを包みこんてくれる仏さま。いつでも私たちのどころに駆けつけられるよう、頭を丸めて杖を持ち、旅の修行僧のおすがたをしています。お地蔵さんは、夏の暑い日でも、冬の寒い日でも、いつもしずかに徴笑みながら私たらを見守っています。」そして目に入ったのは、「苦行釈迦像」のレプリカ。本物は、インドのインドラホール美術館にあるとのこと。「苦行の釈迦像お悟りを開くために精進するおすがた。苦行によりやせ細った身体とは対照的に、目は凛然としています。のちに苦行から離れたお釈迦さまは、菩提樹の下で結跏趺坐(けっかふざ・坐禅)してお悟り(成就得導・じょうじゅとくどう)にいたりました。ラホール美術館所蔵の原寸大レプリカインド・ソーマパーラ氏 一九八六年制作」。近づいて。釈迦如来像は 誕生像、苦行像、降魔像、説法像、涅槃像に造形化されると。その内、苦行像と呼ばれる像である。出家後、6年間苦行生活を送っていたときの像と。目は落ちくぼみながらもしっかりと前を見ている。ガリガリに痩せて鬼気迫る姿。柔和で穏やかな姿をしている普通の釈迦如来像とは違った感動を与えてくれるのであった。 苦行では悟りを開かれず菩提樹の下で瞑想することになり、そこで悟りを得ることになったと。「沙羅樹(さらじゅ)」「沙羅樹(さらじゅ)👈️リンクお釈迦さまがクシナガラにおいて、八十歳で涅槃に入った時、臥床(がしょう)にそびえていた樹。入減の際に、枯死して臼い鶴のような色を呈したので、「鶴林(かくりん)」ともいいます。◇涅槃会(お釈迦さまのご命日)二月十五日涅槃の夜 静かに開く 沙羅の花」「サラソウジュ(沙羅双樹、娑羅双樹、学名: Shorea robusta)は、フタバガキ科サラノキ属の常緑高木。シャラソウジュ、サラノキ、シャラノキともいう。ただし、これらの名で呼ばれ、日本の寺院に聖樹として植わっている木のほとんどは、本種ではなくナツツバキである。」とウィキペディアより。そして「長喜院」の山門の北側にあったのが「雪塚稲荷神社」。川越市幸町5−8。石鳥居の扁額「䨮塚神社」。参道を見る。「雪塚稲荷略縁起当社は城下町川越の十ヶ町の一つ、南町の氏神として崇拝されてきた。南町は、江戸から明治にかけて六十軒あまりの町であったが、江戸店を構える大商人を多く生み出し、明治十一年(一八七八)には県下初の国立銀行を開業させるなど、十ヶ町の中でも中心的な商業地であった。神社の創始は、口碑に、「江戸の昔、ある大雪の夜、南町の通りに一匹の白狐が迷いあらわれた。これを見た若い衆数人が白狐を追い回してついに打ち殺し、挙句の果てにその肉を食したところたちまち熱病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現れるようになった。町内の者はこれを白狐の祟りだとして恐れおののき、近くの長喜院の境内に社をたて、白狐の皮と骨を埋めて塚を築き、雪の日のできごとであったことにちなんで、雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した」という。明治二十六年の川越大火によって本殿、拝殿焼失、同三十年四月二十八日に再営した。その際土中のご神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納したという。また、昭和五十五年社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され、「雪塚稲荷神社遺躰文政六年二月十二日御霊昇天、同年三月十二日御霊祭日と定め同年同日雪塚稲荷神社と称す」との銘文があった。文政六年(一八一三)以来、とくに商売繁盛に霊験あらたかさをもって知られ、町内のみならず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の信仰に支えられてきた神社である。祭神 雪塚稲荷大明神祭礼 元朝祭 正月元旦 例大祭 四月十二日 一万度祭 六月一日 月次祭 毎月十二日 三社講 年 一回社宝 国選定「川越市伝統的建造物保存地区」特定物件 国指定重要無形民俗文化財「川越氷川祭の山車行事」 埼玉県指定有形民俗文化財「翁の山車」 川越市指定有形民俗文化財「踊り屋台」 川越市指定有形民俗文化財「旧南町保有文書」 原 舟月作 雲形太鼓芸能 堤崎流幸町囃子」「雪塚稲荷神社」の社殿。祭神:豊受姫命(とようけひめのみこと) 穀物の神 =別称:豊受大神※雪塚稲荷略縁起には、祭神は「雪塚稲荷大明神」と記載 と。正面から。祭神 雪塚稲荷大明神。「幸町山車「翁」「小狐丸」平成修復記念」と。 「幸町山車「翁」「小狐丸」平成修復記念「翁」雪塚会(旧南町)明治三年九月制作製典型的な江戸型の山車、江戸人形師随一「法橋都粱斎仲秀英」の作である。「小狐丸」金山会(旧鍛冶町)江戸時代の名匠「法橋原舟月」の作と伝えられている。天保六年修補の記録あり。共に昭和四十三年埼玉県指定文化財。明治・大正・昭和と過去数回の改装、改修を経て現在の壮麗優雅な姿を維持している。しかし経年の傷みが激しく、幸町自治会長原正次、雪塚会服部光太郎・金山会西川一郎と相諮り、文化財保護に関わる国・県・市の理解、特に幸町自治会々員及び山車関係者、並びに有縁の方々の協力を得て、平成の修復を成し遂げた。ここに完成を祝い永くその志を伝える。幸町自治会(順不同・敬称略)・・・・以下略・・・」こちらは境内社「三峰神社」。境内の紫陽花の花を追う。そして再び「川越・蔵造りの街並み」まで戻る。理容店「銀巴里」👈️リンク。その隣は、以前「㈲本の店太陽堂」があったが、現在は洋品店になっていた。そして「抹茶スイーツ処 茶和々 川越店」👈️リンク。川越市幸町7−5。。和菓子屋「龜屋」👈️リンク。さらに「川越・蔵造りの街並み」を北に進む。自転車屋「津久井商店」。「門前横丁」入口。「門前横丁」は、菓子屋横丁に通じる、ちょっと風肩のある石畳みの小路で、その先にいくつかお寺がある為、門前横丁と言われているとのこと。その道の先には、ガラスが散りばめられた石畳の道が特徴の「菓子屋横丁」があった。やきいも屋「小江戸横丁 芋川」👈️リンク。川越市元町2丁目1−3。「焼き芋 COEDO HACHI 川越」👈️リンク。川越市元町2丁目1−6。そして「川越まつり会館」👈️リンク。約370年の伝統を誇る川越まつりをいつ訪れても体感できる施設。館内には本物の山車2台を展示。また、3面スクリーン(4.7m×8.7m)による、まつり当日の映像を約8分間上映している(20分毎に上映)と。川越市元町2丁目1−10。「展示中の山車川越市 猩猩の山車」。「猩猩の山車」。お面「ひょっとこ」。お面「おかめ」。お面「狐(きつね)」。「仙波町 仙波二郎安家の山車」👈️リンク。「元町二丁目 山王の山車」。横から。「川越まつり会館」の北側の路地の先に像があった。「まごころ」佐藤健次郎作。「まごころ 船橋功一書」と。「みなさんの幸せを祈って 認証三十周年記念 国際ソロプチミスト埼玉」そして道路の反対側は「稲荷小路」と。会席・懐石料理店「えぷろん亭」。「四季の膳・さつまいも料理」。その先にうどん屋「えびす庵」👈️リンク。テイクアウトでだし巻き玉子串を提供。店内ではのどごしの良いうどん、揚げたての天ぷらをセットにした、食事を提供。たまごとうどんをメインにした和食店であるとのこと。そして「川越元町郵便局」。通常の郵便局ですが、川越一番街にあるこの郵便局の外観は一風変わっていた。この郵便局の建物は蔵造り風に作られており、一番街の景色に溶け込む雰囲気大!!。観光スポットとしても見応えがあり。川越市元町2丁目2−3。ポストもシックな色合い。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.14
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さらに「川越・蔵造りの街並み」の散策を続ける。左手にあったのが金物店・「徳町荻野銅鐵店」。正面から。蔵造りの町並み幸町にある町家造り建物の金物店。明治時代創業の老舗金物店で、店内には実用品から美術工芸品まで鉄・銅製品が並んでいた。ショーウインドーには仏具が、店内入口には風鈴が吊り下げられていた。何より店正面の屋根上中央の看板に風情があったのであった。 ふたたび、道路の反対側の仏具販売店「上州屋」の店頭にカメラを向けた。「上州屋」は、仏壇・神棚・寺院用具の専門店として大正8年の創業。「布袋尊」狸(タヌキ)の置物。駐車場「タイムズ川越幸町第2」前を進む。川越市幸町2。左:「川越プリン」中央:和菓子屋「kashichi」右:スイーツ店「川越チーズケーキ」。川越市幸町1−133種のプリンの写真をネットから。その先にあったのが「川越ショコラ ブロマージェ」。35年以上チョコレート菓子を作ってきたセイワ食品が蔵造りの町並みが小江戸の雰囲気を醸し出す人気の観光地・川越に初のチョコレート専門店をオープンしたと。川越市幸町1-9。その隣にうなぎ料理店「うなぎ 傳米」👈️リンク。「築150年以上の古民家をリノベーションした「うなぎ傳米」。厳選された鰻を備長炭でじっくりと焼く鰻の蒲焼きと月替わりの旬の逸品をノスタルジックな空間の中でお楽しみください。当店では、最高峰のブランド鰻「うなぎ坂東太郎」を取り扱っております。身の厚み、脂の質、旨味、どれをとっても最高の鰻です。ぜひ一度お試しください。」と。店頭には長い列が出来ていた。食べたかったがカメラに食べさせて?・・・。その先にあったのが着物販売店「呉服かんだ」。その先には、蔵造りの街並みが続いていたのであった。和雑貨商・ギフト雑貨ショップ「川越 椿の蔵」。川越市幸町3−2。観光客の姿も多くなって。手前に「つけもの小江戸」。車のない時を狙って。「つけもの小江戸」の先の路地を左に折れて進む。目的地はこの先にあった「日蓮宗 行伝寺」。左手に熟成焼き芋専門店・「芋ぴっぴ 川越店」。「熟成焼き芋」。1mm絹糸の紫芋とアイス「芋ピッピ」。そして正面に「日蓮宗 行伝寺」の山門。山門「日蓮宗 行傳寺」。題目碑(塔)「南無妙法蓮華経」。「日蓮宗 行傳寺徳治元年(一三〇六)に開かれた法華道場の小庵を前身とし「大本山池上本門寺」「本山鎌倉妙本寺」の両山第四世大鷲妙泉阿闍梨日山上人の教化を受けた豪族上田氏一門の丹精で、永和元年(一三七五)【朝田山行傳寺】と号し開創、開基日山上人の後継には両山第八世の大運阿闍梨日調上人、以後も代々名僧知識が住職になり、法燈連綿と今日に至る。創建の地は諸説あり、天文年間に川越城一郭の松郷に所在、元和五年(一六一九)地域の大火で類焼に及び堂宇伽藍悉く烏有に帰し現在地へ移転、文化九年(一八一二)現本堂建立『良質な欅材を用いた見事な建造物』と寺院建築の諸氏も称賛、由緒伝統を示す什宝あまた格護《通常非公開》」「日蓮宗 行傳寺」。境内の参道を本堂に向かって進む。正面に「本堂」。約700年の歴史がある行傳寺。広々とした伽藍と目を奪われる本堂の意匠が眼の前に。現在の本堂は、文化9年(1812/江戸時代)に建てられてたもので、「見事に調和のとれた県内屈指のケヤキ造り建築」として、専門家も絶賛する程であると。また、飾り彫物も素晴らしく、向拝には龍や鳥などのモチーフを始めとした様々な彫物で飾られ、これらの意匠は、川越城内の建物や川越祭の山車にも同様のデザインが使われる程であると。江戸時代、まさに「建築」「飾り彫物」両方のトップデザインであった行傳寺本堂は一見の価値ありなのであった。扁額「行傳寺」。木鼻(右)。木鼻(左)。中央:「南無妙法蓮華経 宗祖日蓮大菩薩」左:「朝田山 行傳寺 歴代上人覚位」右:「南無妙法蓮華経 法・・・・」と。「浄行菩薩」像。「浄行菩薩法華経のみ教え「従地涌出品」には、大地から出現したとされる四大菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行)中の浄行菩薩は『あらゆる煩悩を自他ともに除くことに力を尽くす』との誓いを立てられたと説き示されてます。私たちは目につく汚れや埃を洗い落としますが、目に映らない煩悩(心身を煩わし悩ませる一切の妄念)も確かに払い除けることが肝心です。お題目を唱えながら浄行さまの石像を清水で洗うことによって《当病平癒身体健全》の願いが叶うとして、古来から法華経信者に崇められています。六根清浄にして息災安穏なる日々をお過ごしください。南無妙法蓮華経 合掌」掲示板。「宗祖六百遠忌(弘化四年二月作 日蓮聖人御一代記絵図 復刻!)」。「日蓮上人御一代記」は、日蓮大聖人の六百遠忌を記念して、明治期の編輯人として活躍した羽田富次郎こと泉竜亭是正(せんりゅうていこれまさ)が明治十四年(1881年)に著述し、歌川芳春(うたがわよしはる・文政十一年・1828~明治二十一年・1888)が挿入絵図を担当している。境内の石庭も見事。石庭越しに本堂を見る。本堂前から境内の南側を見る。そして県道12号線・川越栗橋線まで戻り、再び「埼玉りそな銀行 川越支店 蔵の街出張所」を見る。復路で歩いて来た「川越・蔵造りの街並み」を振り返る。左にお香・和雑貨専門店「やまとごころ川越」👈️リンク右に「かつおぶし中市本店」👈️リンク。日本人には馴染み深いかつお節を中心に、昆布や煮干などの海産物などの様々な乾物と、スーパーなどの大型店舗にはあまり見られないような珍しい品物を各種取り揃えていると。左から「創作漬物 河村屋 川越店」次に「手作り箸工房 きっちん遊膳 川越店」さらに「川越・蔵造りの街並み」が続く。この商店街一帯は電柱も無いため当時の様子に近い雰囲気を味わう事ができるのであった。和菓子屋「亀屋栄泉」👈️リンク。川越蔵造りの町並みの中心地で時の鐘にも近い辺りにお店がある。創業は明治時代らしいが、木造瓦葺きの2階建ての堂々たる建物。柱や梁、格子戸等は茶色く変色し歴史を感じさせる。この辺りの建物は明治26年の大火で全焼してしまいその後に耐火力のある蔵造りで再建され現在に至っているとのこと。陶器専門店「陶舗 やまわ」1893年建築の重厚な蔵造りの陶器店!川越の陶芸作家の作品から、普段使いの容器まで幅広く提供している と。「陶舗 やまわ」の手前の路地に入ると左手の壁には「川越の歳時記」の写真が展示されていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.13
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「時の鐘」を後にして「かねつき通り」を県道12号線・「蔵造りの街並み」方向に歩く。豆腐店「近長 細田長兵衛商店」を県道12号線・「蔵造りの街並み」側から見る。左手角に在ったのが「武蔵川越之図」。さらに「仲町」交差点方向に進むとあったのが「服部民俗資料館」。明治26年の川越大火後に建てられた服部家(元、照降業(履物や傘の販売)や薬種業(薬の調剤、販売など)を営んでいた商家)の建物をそのまま使用し、江戸時代以降の川越の商いと暮らしにかかわる史料を展示している資料館です。建物は市指定有形文化財に登録されています。季節ごとに展示が変わり、3月と5月には歴史的価値のある雛人形と五月人形が展示されます。蔵造りの町並みに面しており、館内は無料で見学することができます と。川越市幸町6−8。「服部民俗資料館」の内部。明治時代に薬屋と履物屋を営んでいたようです。薬の看板など当時の貴重な資料を無料で見学でき、川越の歴史を垣間見ることができたのであった。川越を描いた絵葉書や写真等も展示されていた。貴重な鉄道遺産も展示されていた。「甘味茶房 かすが」👈️リンク。小江戸川越の名物「芋そうめん」はさつまいもをつなぎに使用した川越芋そうめん。つるんとした口当たりとコシが魅力であると。ここにも客待ちの人力車が。「埼玉りそな銀行 川越支店」。川越には蔵造りの建物と共に、明治・大正時代の洋風建築も多く残っているのだ。その代表的が、この「埼玉りそな銀行 川越支店」の建物。大正7年(1918年)に旧国立八十五銀行本店として建てられ、国の登録有形文化財の指定を受けている。設計は保岡勝也という方。3階建てのインパクトがある佇まいは、時の鐘と共に川越のランドマーク的な存在。外観の見学は自由。しかし建物内部の見学は残念ながら行われていないようであった。旧国立八十五銀行は、明治11年(1878年)に川越藩の御用商人横田五郎兵衛・黒須喜兵衛らによって、設立願いが提出され八十五番目にできた銀行。現在の建物は大正7年(1918年)に建設。なんと埼玉県で初めて設立された銀行なのだと。ズームして。菓子屋「くらづくり本舗 一番街店」。「埼玉りそな銀行 川越支店」とのコラボ。ファッション アクセサリー店「玉屋 川越」👈️リンク。小江戸川越のレトロな町並みで天然石、ガラスアクセサリー、雑貨を販売。とんぼ玉にねこ玉は大変人気と。そして左手奥に在った「法善寺」を訪ねた。川越市幸町2−14。寺号標石「真宗大谷派 自然山法善寺」。「真宗大谷派 法善寺」。「本堂」を正面に見る。真宗大谷派寺院の法善寺は、自然山寳林院と号す。法善寺の創建年代等は不詳ながら、真言宗寺院として丹波国氷上郡にあったといい、寛正元年(1460)に法印良應が当地へ移したといいます。その後祐惠・良海が京へ上京し浄土真宗を教えを受け、永正三年に祐惠は住職を良海に譲り、祐惠は京で専修専念の行者となり往生、良海は真言・浄土真宗の兼学を図ったものの、天文六年川越合戦に巻き込まれ、良海は麻布善福寺に入山し、麻布善福寺の源能と云僧を後住とし、浄土真宗に改めたといいます。なお源能は、一條右衛門太夫信龍(甲斐武田氏一族)の叔父だといいます。本尊:阿弥陀如来像。墓地。墓地の入口にあった人物は誰?ネットで調べてみると「法善寺の槍持ち奴瀬川嘉右衛門のお墓は片手に盃を持つこんな形。虫まで肴にして大酒を飲んだので「虫食い奴」と言われたそうです。」と。本堂を再び。扁額「浄華臺」。龍の彫刻。立派な木造の本堂と唐破風がある庫裡が特徴の寺。寺務所。そして再び「蔵造りの街並み」まで戻る。「武州無双工匠具 白石藤兵衛」一番街にある職人御用達の道具屋。店の中には、鉋(かんな)、鑿(のみ)、天然砥石(てんねんといし)、ナイフ、包丁が整然と並べられていて、迫力があるとネットには。しかし、この日は店頭に、川越の姿をペン書きした絵画が並んでいた。道路の反対側にあったのが「菓匠 右門」。「いも恋」。「「いも恋」は、さつまいもとつぶ餡をもち粉の生地でやさしく包み、昔なつかしい風味に仕上げたまんじゅう。さつまいもとつぶ餡の取り合わせ、もちもち感のある生地の妙が「いも恋」のおいしさ。しっとりとした味わいが大好評いただいております。埼玉県からは「彩の国認定優良ブランド品」としても認定され、小さなお子様からお年寄りまで、幅広い層のお客様に愛されています。大切な方へのご贈答にもたいへん喜ばれています。「菓匠右門」のいも恋は、ほくほくのさつまいもと粒あんがもっちりとした生地で包まれた、手のひらサイズのまんじゅう。店頭で蒸かしているので、熱々が食べられます。どうぞ素朴な「いも恋」をご賞味下さい と。そして左側に見えたのが「大型駐車場」。「「歌姫」橋本次郎作」。近づいて。「歌姫 1994年(平成6年) 橋本次郎 1919~1997」と。川越出身の彫刻家、東京学芸大学名誉教授。(旧制川越中学35回)と。現在地はここ。名所案内。川越城本丸御殿、時の鐘、仙波東照宮、川越祭り会館、市立美術館・博物館喜多院(七福神)、氷川神社、菓子屋横丁。「旧鍛冶町」の石碑があった。「旧鍛冶町 現幸町鍛冶町は古くから川越城の刀匠などがいたところで「三芳野名勝図絵」によれば「小田原属城時代天文・弘治の頃鍛冶平井某・相州より来りてここに住す」と記され、この頃に鍛冶・刀匠などが集ったのでついに町名となったと言われる。天正年間になると平井の弟子十余人がこの町に住んでいた。従って鍛冶の祭神である金山神社があり、毎年三月十五日にはふいご祭りのため川越町近郷の鍛冶工が集って祭りをしたと言う。この様な関係から川越祭りの山車の人形は三条小鍛冶宗近が選ばれている。」「イシイの甘栗 川越店」👈️リンク甘栗を店内の釜で丹念に焼き上げ、選りすぐりの甘栗を販売。和服姿の女性が歩く。仏壇販売店「上州屋」👈️リンク。「鍛冶町広場」。「鍛冶町広場由来この広場のある場所は、現在の町名である仲町になる以前は、『鍛冶町』という町名でした。室町時代後期、鍛冶 職人の平井某が相州(現在の神奈川県)から移り住み、その後弟子たちもこの町に住んでいたことにより、『鍛冶町』と言われるようになったと、江戸時代に書かれた「武蔵三芳野名勝図会」に記されています。」現在の仲町になる以前は鍛冶職人とその弟子が多く住んでいたことから鍛冶町と言われるようになったと伝えられています。観光客や近隣住民の憩いスポットとして重宝され、そのまま仲町観光案内所に抜けることも可能です と。左の蔵のある建物の前には多くの「ガチャガチャマシーン」が並んでいた。その隣は川越・化粧品店「蒟蒻しゃぼん」👈️リンク。「蒟蒻はダイエットの味方となる蒟蒻マンナン、保湿に欠かせないセラミドの両方を兼ねそなえた国民的ビューティフードです。蒟蒻のもと、蒟蒻芋の発見は、数千年前にもさかのぼるといわれています。庶民の食卓に登場するようになったのは鎌倉時代。それまでは、貴族や僧侶しか口にできない、貴重な食材だったといわれています。蒟蒻を石けんにしようと思い立ったきっかけは、「もしも蒟蒻の”ぷるぷる”が石けんだったら、気持ちよさそうだなぁ」という好奇心からでした。さっそく、研究所を開設。はやる気持ちを抑えて開発に取り組むも、蒟蒻のようなぷるぷるの感触で、なおかつ洗浄力と保湿力のある石けんを作るのは、そう簡単ではありませんでした。ぷるぷるの手ざわりも、天然の素材による鮮やかな色も、正直いうと、すべて偶然、奇跡の産物でした。蒟蒻とにらめっこの毎日のなか、ただひたすら”ぷるぷる”の手ざわりで、蒟蒻の良い成分を含んだ石けんを作りたいという想いで研究を続けていたら、ある日ある瞬間、”ぷるぷる”で、”天然のキレイ色”で、”蒟蒻がもつ美肌のもと”をあわせ持つ石けん、名付けて『蒟蒻しゃぼん』が誕生したのです」と。そして「仲町」交差点に到着。交差点の向かいの角にあったのが「小江戸 まめ屋」👈️リンク。「旧志義町」碑。川越市仲町4−3。「旧志義町 現 仲町志義町は昔鴨善吉という刀鍛冶が開いたので鴨町といった。この町から北の方にかけて昔は馬場があって城中の士が調馬した所と伝えている。その後明治年間には志義学校が開かれ、さらに穀問屋が軒を並べていて川越穀市の旺盛だった頃には志義町の穀市の初荷は関東でも有名なものであった。」「蔵造りの街並み重厚な蔵造りは、明治26年(1893)の大火を契機に築かれました。その伝統的な町家群に加え、近代洋風建築など永きにわたる多様な様式の建物が連なる町並みは、江戸時代から現代へ至る変遷を示し、特色ある歴史的景観を伝えています。現在の東京では見られなくなった、江戸のたたずまいを彷彿させる町並みは、次代に伝える貴重な文化財として国の重要伝統的建造物群保存地区 に選定されました。 文化庁 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会」「国選定川越市川越伝統的建造物群保存地区●都市計画決定/平成11年4月9日(1999)●重要伝統的建造物群保存地区選定/平成11年12月1日●所在地/幸町の全部及び元町1丁目、元町2丁目、仲町の各一部●面積/約7.8ha」左側奥にあったのが「公益財団法人 山崎美術館」。川越市仲町4−4−13。昭和57年(1982)に開館した山崎美術館は、蔵造りの町並みに面する老舗和菓子屋「龜屋」本店の一角に建つ蔵を利用しています。館内では、川越藩お抱えの絵師である橋本雅邦の作品を中心に、山崎家に代々伝わる美術工芸品の数々が季節に合わせて展示されています。入館者には、老舗の和菓子とお茶のサービスがあります と。川越藩お抱えの絵師である橋本雅邦の作品写真をネットから。そして、時間の関係上、ここまでとし「川越・蔵造りの街並み」を引き返す。再び建物の前に「ガチャガチャマシーン」が並ぶ蔵を。帰路は、川越・蔵造りの街並みの往路とは反対側をカメラで追う。先程の「ガチャガチャマシーン」の蔵の屋根瓦をズームして。「松」の文字が確認できた。屋号の一部であろうか。創作和雑貨店「創作ちりめん 布遊舎」。ちりめんの品物を中心に和風の小物が販売されていた。川越市仲町6−3。その隣りにあったのがアートカフェ・「CAFE ELEVATO」。川越市の仲町、亀屋の筋向いにある洋風の建物は、大正4年(1915)建築の土蔵造り、川越市指定文化財の田中家住宅。2007年3月までは「田中家住宅」「田中屋美術館」であった。川越出身の芸術家の作品や川越唐桟(かわごえとうざん)など、田中利明氏が収集したコレクションを展示していた。今は道路沿いの1階・2階部分が川越アートカフェ「Cafe Elevato(カフェ エレバート)」、住宅部分は和創菜と四季のすし「風凛(ふうりん)」としてオープンしていた。川越のさつま芋を使用した生ビール「COEDO」も全5種類あるようだ。その先の建物は史跡「山吉ビル」。「山吉ビルの歴史年 表 1923 (大正12年) 店蔵の裏に木造3階建ての洋館を建設1936 (昭和11年) 店蔵を取り壊し山吉デパート建設 呉服・洋服の他、洋品雑貨・玩具・文具・漆器・箪笥・食料品等を扱い、 屋上には庭園を設けるなど川越名所として有名なデパートでした。1941 (昭和16年) 金属類回収令により、エントランス上部銅製鍛金庇など供出1950 (昭和25年) 丸木百貨店(丸広百貨店前身)1956 (昭和31年) 丸広百貨店1964 (昭和39年) 丸広百貨店移転....... パチンコ店・キャバレー「鈴人草」・「月世界」 この頃に正面北側のショーウィンドウ部分などが改変1983 (昭和56年) 奥の木造3階建ての洋館取り壊し....... 駐車場2006 (平成18年) 復元及び耐震補強工事2008 (平成20年) 竣工建 物 概 要 建物規模 階 数 : 地上3階 建築面積 : 92.5 ㎡ 延床面積 : 277.5㎡ 最高高さ : 14.2m構造種別 鉄筋コンクリート造 (耐震壁付きラーメン構造)基礎形式 直接基礎形式 (布基礎)建設年度 昭和11年(1936年) (73年前) 平成16年~平成18年(復元・耐震補強工事)」と ネットから。1階部分の窓の上には、ステンドグラスが。色の鮮やかな写真をネットから。現在は「保刈歯科醫院」になっているようであった。以下も、ネットからの写真を交えて。夜に歩くと、ステンドグラスの美しい色彩を楽しむことが出来るのであろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.12
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埼玉県道12号線・川越栗橋線の「札の辻」交差点近くの大型バス駐車場にバスは駐まる。「川越・蔵造りの街並み」に向かって散策開始。川越には「蔵造りの町並み」が今も残っているのだ。蔵造りは類焼を防ぐための巧妙な耐火建築で、江戸の町家形式として発達したもの。今の東京では見ることのできない江戸の面影をとどめている。平成11年12月には国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、平成19年1月には「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されたのだ。「札の辻」交差点を通過し南に進む。「川越・蔵造りの街並み」近くのマップ。「札の辻」交差点を通過し、南に向かって散策したのであった。客待ちする人力車。「札の辻」交差点。「蔵造りの街並み」と川越市役所前の道がクロスする交差点が札の辻。札の辻は、川越城下町の中心として、高札場(こうさつば)があった場所。高札場とは、幕府が決めた法度(はっと)や掟書きなどを木の板(高札)に書き、人目を引くように高く掲げる場所のこと。全国的にも各地に「札の辻」地名は残っているのだ。江戸時代の川越城と札の辻周辺図。交通量、人出も多かった。往路は「仲町」交差点に向かって左側の「川越・蔵造りの街並み」をカメラで追う。左手に「お菓子の紋蔵庵 - 蔵の街店」👈️リンク。川越市元町1-15-5。屋根の上には3匹の豚のオブジェ、食欲をそそるにおいがただよう「ミオ・カザロ(Mio Casalo)蔵のまち店」👈️リンク。大野農場直営のハム・ソーセージ工房。川越市元町1-15-3。「重要文化財 大澤家住宅」。大沢家住宅は、呉服太物商、西村半右衛門(屋号「近江屋」)が建てたもので、間口6間奥行4間の規模の大きな町家である。明治26年(1893)の大火に焼け残った貴重な建築であり、棟木に打ち付けてある祈祷札及び神棚の墨書から寛政4年(1792)に建設されたことがわかっている。建物は、切妻造桟瓦葺屋根の総二階で、前面に奥行4尺の下屋庇が付く。軒は出桁で支えるが、明治大火後の店蔵と異なり軒蛇腹はなく、2階正面の窓も土塗りの親子格子で構成されており、土蔵造というよりも塗家造の町家といえよう。建築当初は、庇正面だけではなく南面まで廻っていたが、現在は撤去されている。正面の庇は中央間が開放され、左右脇間が腰壁で創建時は庇柱内側に防火戸を立てる構えであった。1階は手前半間通りを土間とし、奥を床上部分とする一室空間で、背面側中央に間口3間奥行半間の神棚を設け、2階へは東南隅の箱階段で登った。1階の戸締まりは、庇との境に入った摺揚戸で行われ、背面は、観音開きの土扉が神棚の両脇に2箇所設けられ、火災の際には住居部分と完全に分離できるようになっている。2階は5室からなり、棟通りで二つに分かれ、正面北側の14畳間には床の間と地袋付きの床脇が備えられている。大沢家住宅は、明治大火後に毅然とした姿で川越商人たちの目前に現出し、土蔵造建築の防火性を実証させた町家であり、川越における土蔵造の町並みが誕生するきっかけをつくった貴重な建築といえる と。「民芸品 小松屋」👈️リンク と書かれた暖簾。1893年の大火の際に蔵造りの大沢家住宅が焼けずに残ったことから、次々と蔵が建てられるようになったと。その街並みは埼玉県で唯一、国の重要伝統的建築物群保存地区。「重要文化財・建造物 大沢家住宅桟瓦葺、切妻造、二階建、間口六間、奥行四間半の店蔵造りである。一階は店舗で二階前面には土格子があり、外観は全体的に簡素であって壮重な感がある。この建造物は、川越城下町の中心部である札の辻の傍らにあって、呉服太物の豪商近江屋半右衛門が寛政四年(一七九二)に店舗として建てたものである。防火を目的とする土蔵造りの故にその後数度の大火にも類焼をまぬがれた。関東地方の町家の蔵造り、商家の古い例として、もっとも重要な建造物である。なお、平成元年より平成四年にわたり、大規模な修理が行なわれ、寛政四年当時の姿に復元された。」店の中に入って。1792年築造。川越最古の商家(国指定重要文化財) 店内は江戸時代の呉服屋のおもむきを残していた。 落ち着いた和小物を中心に山車のミニチュア、時の鐘ストラップ等 川越の民芸品が多数販売されていた。「稲荷小路」の先にあったのが本格自家製うどん屋「金笛うんとん処春夏秋冬」。金笛醤油が提供するこだわり醤油を生かした豊富なメニューを用意。明治以降に建てられた蔵造り建物の窓は重厚な観音開扉。その隣に「杉養蜂園 川越店」👈️リンク。蜂蜜の専門店。自社で育てたミツバチで国産蜜を採っているとのこと。店内では話題のマヌカ蜜をはじめ、ローヤルゼリー、プロポリスといった健康食品や、蜂蜜やローヤルゼリーを使った化粧品などもあった。蜂の巣ソフトクリームやハチミツドリンクも人気。同じ通りに2店舗を構えていた。「巣みつ」も並んでいた。働き蜂により、蜜の濃縮が完了し、ミツバチが自ら分泌する蜜ろうで巣房に蓋をして、白い蜜蓋で覆われた蜂蜜の巣枠を、そのまま切り出した「巣みつ」。「巣みつ」。キャラクターショップ「どんぐり共和国 川越店」。日本にとどまらず、世界にファンがひろがるスタジオジブリのキャラクターたち。そんなキャラクター商品を川越でも購入できる店。目じるしは、おなじみトトロの巨大看板。ポニョやキキも勢ぞろい。川越市幸町10-12明文堂 101。ここにも「杉養蜂園」。こちらが川越2号店。閉ざされたシャッターには「明治二十六年頃此処に在った土蔵です」と。右手に「古美術 まちかん」と書かれた大きな表札が掲げられていたが。アンティークショップであったのだろうか。ベーカリー「みっふぃー蔵のきっちん&べーかりー 川越店」👈️リンク。左に豆菓子「豆吉本舗」。豆吉本舗は、たくさんの種類の豆菓子を取り揃えた豆菓子専門店。きなこ豆、いわし豆、梅干豆、みそがらめ、小豆ミルク豆、抹茶青大豆...その他にも多くの豆菓子を揃えているとのこと。右に「菓寮 花小路 川越時の鐘店」。「焼きかりんとう」や「早川ポテト」、色々な味の「一口ようかん」など、ほっこりしたお菓子は老若男女楽しめます。「黒糖のゴーフレット」や「焼かりんとう」には季節毎のフレーバーも登場し、通年お楽しみいただけます。」と。その先にも蔵造りの店舗「川越酒店」が。蔵造りをズームして。「時の鐘」に向かって左折して「鐘つき通り」を進むと右側に在った「近長 細田長兵衛商店」は閉まっていたが。「近長」と書かれた絵画看板が2枚。そして史跡「時の鐘」に到着。川越市指定文化財「時の鐘」は、寛永4年(1627)から同11年(1634)の間に川越城主酒井忠勝が、多賀町(いまの幸町)の現在の場所に建てたものが最初といわれています。創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボルです。現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。3層構造で、高さ約16メートル。平成8年に、時の鐘は環境庁主催の「残したい“日本の音風景100選”」に選ばれました と。鐘つき時間👈️リンク1日に4回、自動鐘打機により鐘つきを行っています。午前6時・正午・午後3時・午後6時「川越の時の鐘」。「残したい日本の音風景百選 平成八年七月一日環境庁認定川越の時の鐘私たちは、日常生活の中で耳を澄ませば聞こえてくる様々な音に囲まれて生活しています。環境庁は、全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)を「残したい日本の音風景百選」として認定しました。川越市では、江戸時代初期から時を告げてきた「時の鐘」が認定されました。いつまでも人々の心に響く、鐘の音と蔵造りの町並みがっくり出す音風景を大切にしていきたいと思います。 川越市」「ときのかねひろば城下町のたたずまいが色濃く残る街並みのなか、ひときわ高い「時の鐘」は、いつの時代も川越のまちのシンボルです。「ときのかねひろば」は、時の鐘耐震化工事で出土した受玉石(うけたまいし)などを公開・活用するために設置しました。」「時の鐘」は全高:17.5m と。「時の鐘」の下を潜り、振り返って見上げると「鐘突き棒」の姿が確認できた。ズームして。平時は、「鐘突き棒」は油圧?電動?シリンダーで作られた、自動鐘打機にて時を鳴らしているのであろうか?「時の鐘」の鐘の写真をネットから。市指定文化財「時の鐘」は、江戸時代中期の享保5年(1720)に鋳造された銅鐘。もとは、その49年前の寛文11年(1671)に当時の岩槻城主阿部正春が鋳造させたものでしたが、ひびにより鐘の音に不具合が生じたため、改鋳された。それが、現在の鐘であると。時の鐘の表面には、116文字が刻まれています。鐘を鋳物で造り上げ、表面の磨きなどを行って仕上げた後、タガネなどの工具を使って文字を刻み込んだものです。116文字で記された文章は次のようなものです。縦書きの漢文体で、漢字のみで記されています。最初に原文(横書きにして、句読点を補ってあります、下段におおまかな内容を掲げます。原文武州埼玉郡岩槻城下鳴時鐘者則寛文十一年辛亥、城主予州刺史阿部正春、所令冶工渡辺近江掾正次新鋳也。至今五十年、釁郄稍多而音響不調也。於是因仍旧制、使江都良冶小幡内匠勝行改造焉。冀夫声聞遠大於不朽也。 享保五歳次庚子八月日 岩槻城主伊豆守大江姓永井氏直信誌大意武州埼玉郡の岩槻城下に鳴る時の鐘は、寛文十一年辛亥の年に時の城主伊予守阿部正春が、鋳物職人の渡辺近江掾正次に命じて新鋳したものです。その後今まで五十年を経る中で、ひびが次第に多く生じてしまい、音響にも不具合が出てきました。そこで、以前と同じように、江戸の名工の小幡内匠勝行に改鋳させました。その鐘の音がいつまでも、遠くまで鳴り響くことを願います。 享保五年庚子八月日 岩槻城主伊豆守大江姓永井氏の直信がこの鐘の鐘の文章を書きました と。「時の鐘」への急な階段は昇降禁止措置が施されていた。奥に在ったのが「薬師神社」。「薬師神社」横から、史跡「時の鐘」を振り返る。「時の鐘・薬師神社時の鐘時の鐘は、江戸時代の初期、酒井忠勝が川越城主(1627~1634)のころに建設されたと伝えられています。その後何度か焼失し、現在の時の鐘は、明治26年の川越大火の翌年に再建されたもので、高さは約16メートルあります。平成8年には、環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。薬師神社の由来薬師神社は、以前瑞光山医王院常蓮寺という寺でしたが、明治維新の折に薬師神社となりました。御本尊は薬師如来の立像で行基菩薩の作といわれています。五穀豊穣、家運隆昌、病気平癒、特に眼病にご利益があるといわれています。右奥の稲荷神社は、出世、開運、合格に著しいご利益があるといわれています。」「川越小唄西條八十作詞、町田嘉章作曲春はうらうら 多賀町あたり鐘も霞の ヤンレヤレコノ 中で鳴る鐘もかすみの中で 鳴る 昭和四十五年一月十二日 旧多賀町薬師講 桃林書 山崎石材刻」手水舎。「薬師神社の由来について当神社は以前瑞光山医王院常蓮寺という寺であったが明治維新の折薬師神社となった。明治二十六年川越大火により時の鐘と共に消失翌年再建された御本尊は薬師如来の立像で高さ六十糎行基菩薩の作という。五穀豊穣・家運隆昌。特に病気平癒のご利益があり眼病には著しい効果がある。尚、向かって右奥の稲荷社は出世開運合格に著しいご利益がある。」「半夏生(はんげしょう)」も花を咲かせていた。水辺に群生する白の斑がたいへん美しい涼しげな植物。「半夏生」の名は、夏至から11日目を半夏生と呼び、その頃に花を付けることから名付けられたそうです。葉っぱの半分ほどが真っ白な白粉を塗ったような様子から「半化粧」とも呼ばれます。開花と同時に花穂のすぐ下の葉が白く変わります。白くなる面積は個体差がありますが、半分くらい~9割ほどで、葉っぱ全体が真っ白くなることはありません。花が終わる頃には葉っぱは緑に戻ります。なんとも不思議で神秘的です。半夏生は虫媒花であるため、葉を白くして虫に花のありかを知らせるためではないかと言われているそうです とネットから。扁額「川越薬師如来」。「絵馬掛け処」。「め」を鏡文字にした絵馬が飾られていた。眼病に特化した薬師さまであるとのこと。「古来各地から「薬師様は目の神様」と信仰され底翳(そこひ)を患う者の参拝があり、お礼に描かれた向かい目の絵馬が数多く見られる。(P202)」と記載ありとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.11
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再び「喜多院」の境内から「水屋」そして「喜多院 慈恵堂」を見る。ズームして。人の数は少なかった。正面から。県指定有形文化財・建造物。慈恵堂は、境内中央で東に面して建つ入母屋造銅板葺屋根の大建築である。延暦寺第18代座主慈恵大師良源(元三大師)をまつり、大師堂、潮音殿(ちょうおんでん)とも呼ばれ、いわば根本中堂の役割を果たしている御堂である。建築年代は、『星野山御建立記』から、寛永15年の大火後の翌16年(1639)に造営されたことがわかっており、携わった大工は、山本若狭守吉重、長左衛門、加右衛門の3名である。柱間9間側面6間で四周に縁・高欄が回り、正面と両側面に1間幅の畳廊下(入側)を設け、その奥に正面7間側面3間の外陣、正面7間側面2間の内陣が配されている。また、内外陣境は引違いの格子戸を入れて結界を設けるなど、延暦寺根本中堂を典型とする天台宗の仏堂形式と同一の形式が採用されている。寺院で見られる五色の旗は、主に仏教に関連しています。これらの旗の色は、それぞれ異なる意味を持ち、仏教の教義や象徴と結びついています。具体的には以下のような意味があります。青色 (Nīla):意味: 平安、慈悲、無限象徴: 仏陀の知恵を象徴し、特に慈悲の心を表します。黄色 (Pīta):意味: 中道、聡明、調和象徴: 仏陀の教えそのものを象徴し、中庸の精神を表します。赤色 (Lohita):意味: 精力、意志、情熱象徴: 仏陀の実践を象徴し、修行や自己改善の意志を表します。白色 (Avadāta):意味: 清浄、純粋、正義象徴: 仏陀の心の純粋さと清浄さを表し、煩悩からの解脱を意味します。橙色 (Mañjiṣṭha):意味: 智慧、知識、霊性象徴: 仏陀の悟りと智慧を象徴し、特に知識と洞察力を表します。5色の色の並びは宗派や地域によって若干の変化が見られることもあります と。石段を上り「喜多院 慈恵堂」に近づいて。正面と両側面に1間幅の畳廊下(入側)を設けていた。扁額「潮音殿」喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。喜多院を中心とした古地図をネットから。五百羅漢像の並ぶ場所を訪ねた。川越の観光名所の中でも、ことのほか人気の高い喜多院の五百羅漢。繰り返しになるが「日本三大羅漢の一つに数えられている。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたものです。十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普賢の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座しています。笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様がおられます。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいます。また、深夜こっそりと羅漢さまの頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあり、それは亡くなった親の顔に似ているのだという言い伝えも残っています。」と。再び中央のお釈迦様を。旅立ちの姿。ヒソヒソ話をする五百羅漢を。寝ている羅漢様。まぁまぁ 一杯!!仲良く!!五百羅漢場の十二支 羅漢像の中には、十二支の動物を持つ羅漢さんがいるとのことで、探してみました。 十二支の子・丑・寅。十二支の卯・辰・巳。十二支の午・未・申。十二支の酉・戌・亥。これも十二支の「寅」だと言われたが・・・・。この碑は??「喜多院 慈恵堂」を振り返って。写真中央が「太子堂喜多院太子堂縁起山門本年は聖徳太子御忌一千三百五十五年に当ります申すまでもなく聖徳太子はわが日本の文化史上における代表的偉人でその政治上の功績は云ふまでもなく学問著述教育宗教音楽芸能工芸築建医療養護社会施設その他諸道の祖として信仰されております 特に室町の時代末には仏教宗派にとらはれず太子を芸道の祖として尊ぶ信仰が生れ大工左官屋根職等の仕事師の絶対的信仰をあつめたのであります当山の太子堂は弘化四年三月当山末寺混合院境内地に創建され明治以後廃寺にともない日枝神社境内に移し更に明治四十二年三月現在の多宝塔建立地に移築しそして昭和四十七年十一月この地に立派な六角太子堂として再興したものであります この度慈恵堂多宝塔大修繕の勝縁を記念して太子堂再興新太子像奉刻木遣塚石垣など建設と共に川越鳶職組合(代表西村甚平氏)が中心となり喜多院太子講の結成を見まして十方有縁の篤信徒に太子のお■を戴けることはまことに佛天の恵み千載一偶の法縁でありますこゝに畧縁を誌し記念とする次第であります 昭和五十一年二月二十二日 星岳亮善 識左側の石塔が「木遣塚木遣(きやり)塚建設の碑昭和五十年四月吉日木遣とは、建築用材に用いる大木を運ぶ時、大勢の力を合わせて引く歌を云い、木曳歌と同義語である。木曳の際の号令の役目をした掛声が木遣歌となった我々の先祖はその音頭に合わせ真棒と曳綱に命をかけて建設への基礎造りを続けて来たが現今では、木遣と云えば 木遣音頭を以て代表され 諸々の行事に広く歌われるようになったこの度川越鳶組合は 近隣鳶組合と計り ここ喜多院太子堂の聖地に木遣塚を建設し その由来を記し先祖の偉業を讃えると同時に鳶の伝統の保持と新時代に即応した業界の発展を祈念しようとするものである塚建設に当り多数の御賛助を得たので ご芳名を刻み永く伝えたい」。売店「川越大師 厄除けだんご」と。「喜多院」について「ChatGPT」に纏めてもらいました。川越にある喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市に位置する歴史的な寺院で、天台宗に属しています。正式名称は「星野山無量寿寺喜多院」といい、川越大師としても知られています。以下に喜多院の主な特徴と歴史について説明します。歴史創建:喜多院の創建は830年(天長3年)で、慈覚大師円仁によって建立されました。円仁は平安時代の僧侶で、天台宗を日本に広めるのに貢献しました。重要人物:江戸時代に入ってから、徳川家康に深く信任された天海僧正が住職を務めました。天海僧正は、徳川幕府の重要な僧侶であり、江戸時代の仏教界に大きな影響を与えました。火災と再建:1638年(寛永15年)に大火災に見舞われましたが、江戸幕府の援助により再建されました。その際、江戸城紅葉山御殿から移築された建物も含まれており、現在もその一部を見ることができます。見どころ五百羅漢像:喜多院の五百羅漢像は、国内でも有名な見どころの一つです。約540体の羅漢像があり、一体一体が異なる表情や姿をしているため、訪れる人々に感銘を与えます。徳川家光誕生の間:江戸城から移築された建物の中には、徳川家光が誕生したとされる「家光公誕生の間」があります。歴史的価値が高い場所として、多くの観光客が訪れます。庭園:喜多院の庭園は四季折々の美しさを楽しむことができる場所で、特に春の桜や秋の紅葉が美しいことで知られています。行事:毎年2月には「だるま市」が開催され、多くの参拝者で賑わいます。この行事は、無病息災や家内安全を祈るために行われています。アクセス喜多院は川越市の中心部に位置しており、公共交通機関を利用して簡単に訪れることができます。川越駅から徒歩約20分、またはバスを利用することができます。喜多院はその歴史的価値と美しい建造物、庭園、そして興味深い仏教遺産により、多くの観光客や参拝者を引きつけています。そして「喜多院」の山門を出ると左側にあったのが「白山権現」。「白山権現830 (天長7年)慈覚大師円仁が喜多院を創建された時に、天台宗修験道の霊場である白山より、この守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられています。右道路向かい側の日枝神社は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山ふもとの日吉大社の神様の分霊を祀った神社です。天台宗では、神仏習合といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝し人々の幸せをお折りします。* 修験道=神様と仏様の両方の力を得る修行方法」その先にあったのが「天皇陛下・皇后陛下 スウェーデン国王陛下王妃陛下 行幸啓記念」碑と「天海大僧正」像。「天海大僧正」像。天海大僧正(慈眼大師)とは 徳川家康公、秀忠公、 家光公の3将軍に仕え日光山第53世貫主を務め、一時衰えた日光山を 立て直しました。その大きな功績は日光再興の恩人と今に伝えられています。銅像は彫刻家・倉沢実氏作。「天海大僧正(1536~1643)喜多院第27世住職であり、会津高田(現 福島県会津美里町)出身、江戸時代初期、喜多院を復興しました。将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城また喜多院を訪れています。108歳で遷化(亡くなる)後、朝延より「慈眼大師」の称号を賜りました。」「天皇陛下・皇后陛下 スウェーデン国王陛下王妃陛下 行幸啓記念」👈️リンク 碑平成19年3月28日、 当時の天皇、皇后両陛下とスウェーデン国王、王妃両陛下が川越をご訪問。一番街、市立美術館などを視察されました。 時の鐘入口交差点では「曳(ひ)っかわせ(山車どうしによる囃子(はやし) の競演 )」が行われ、 ご一行は川越まつりの雰囲気を満喫したご様子でした と。「行幸啓記念碑2007年3月28日(平成19年)、天皇・皇后両陛下におかれましては、スウェーデン国王陛下・王妃陛下と共に多喜院をご訪問ご視察されました。左側には、1977年11月10日(昭和52年)に、両陛下が皇太子殿下・同妃殿下として行啓ご訪国下さいました時の記念碑があります。」道路の先にあったのが「重要文化財 日枝神社(ひえじんじゃ)」。「仙波日枝神社古墳」もあるようであった。墳丘にさり気無く案内板が建てられているくらいで、古墳として認識している人は少ないかもしれません。それもそのはず!元々は、前方後円墳だったこの古墳は、大正13年の県道工事で古墳のほとんどを壊してしまい、現状は前方部分が残るのみとなっているとのこと。「日枝神社(ひえじんじゃ)」。「日枝神社(ひえじんじゃ)は、埼玉県川越市小仙波町の神社。旧社格は県社。もともと喜多院の境内にあったが、県道建設のため大正時代に仙波古墳群の日枝神社古墳(多宝塔古墳)という前方後円墳の一部を削平して喜多院門前に移転した。歴史円仁(慈覚大師)が喜多院を創建(天長7年・830年)したおりに、その鎮守として貞観2年(860年)に坂本の日吉大社を勧請したものであるといわれている。東京赤坂の日枝神社(旧官幣大社)は、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城の際に、この川越日枝神社から分祀したものである。(赤坂日枝神社もそう記述している)本殿は朱塗りの三間社流造、銅板葺で国の重要文化財に指定されている。拝殿は老朽化が深刻だったため、近年、新拝殿が再建された。祭神祭神は僧形の大山咋神(おおやまくいのかみ)・大己貴命(おおくにぬし)。」とウィキペディアより。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.10
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川越に到着し、まず最初に訪ねたのが「重要文化財」に指定されている「喜多院(きたいん)」。喜多院は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。小江戸川越七福神めぐりの第3番で大黒天を祀る。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参詣客が訪れる とウィキペディアより。「山門」が正面に。国指定重要文化財山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額か掲げられていたといいます。棟礼を見ると寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永1 5年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります と。「喜多院」案内図。「山門」を潜ると、右手にあったのが「五百羅漢尊」。「天明二年建立 五百羅漢尊」と。「五百羅漢尊」入口門にあった喜多院の寺紋・「二つ引き両」。天海大僧正が二つ持っていた家紋のひとつがこの「二つ引き両」のようです。足利氏の家紋である「二つ引き両紋」をなぜ天海は家紋にしていたか、その天海の家紋がなぜ喜多院の寺紋に使われているか等は別にして、天海が喜多院に大きくかかわっていることも要因の一つかもしれません。また、「三つ葉葵」も喜多院と縁が深い紋ですから、軒瓦に使われていたとしても納得できます。江戸城から移築された「家光誕生の間」や、「東照宮」はまさに三つ葉葵ですから と。門の隙間から「五百羅漢像」を見る。帰路には内部に入り「五百羅漢像」を間近に見たのであった。日本三大羅漢の一つに数えられる。この五百余りの羅漢さまは、川越北田島の志誠(しじょう)の発願により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立されたもの。十大弟子、十六羅漢を含め、533体のほか、中央高座の大仏に釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩を合わせ、全部で538体が鎮座している。笑うのあり、泣いたのあり、怒ったのあり、ヒソヒソ話をするものあり、本当にさまざまな表情をした羅漢様が。そして、いろいろな仏具、日用品を持っていたり、動物を従えていたりと、観察しだしたらいつまで見ていても飽きないくらい、変化に富んでいるのであった。中央高座には「お釈迦様・釈迦如来像」。脇仏にズームして。脇侍の文殊・普腎の両菩薩、左右高座の阿弥陀如来、地蔵菩薩。右に並ぶ「五百羅漢」。左に並ぶ「五百羅漢」。入口右手の「石造参尊五百羅漢記」と題する享和3年(1803)銘の石碑。この石像群の建立の経緯が刻まれている。それによれば、天明2年(1782)に北田島村(現川越市北田島)の志誠(しじょう)という人物の発願で建立が始まり、志誠の死後、同門の僧らがその遺志を引き継いで諸方に浄財を勧進し完成に至ったとある。うち100余体の」台座には、個人や団体など寄進者の名前が刻まれている。五百羅漢とは、悟りを得て人々に尊敬された500人の僧のこと。ただし中央の釈迦如来をはじめとして羅漢以外の像もあるので、実際の石像数は500体を大きく上回っている。形態は立像、坐像、臥像などさまざまで、仏具や日用品を手にする者や、動物(干支の動物が多い)を従える者もいる。その表情も笑う者、泣く者、怒る者など千差万別で、参詣者を飽きさせることがない。また、深夜にこっそりと羅漢の頭をなでて巡ると、ひとつだけ温かさを感じるものがあり、その顔は亡くなった親の顔に似ているとの言い伝えもある と。御札・お守り販売所。立派な「水屋・手水舎」。上向きの剣に二匹の龍がからみつく、倶利伽羅龍スタイル。さすが、不動明王をご本尊に祀っている寺。両方の龍の口から水が出ていた。そして「多宝塔」。県指定有形文化財多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裡玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。廻り込んで。総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、下層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています と。屋根にズームして「県指定・建造物多宝塔「星野山御建立記」によると、寛永十五年九月に着手して翌十六年(一六三九)に完成、番匠(ばんしょう)は平之内大隅守、大工棟梁(だいくとうりょう)は喜兵衛長左衛門だったことがわかる。この多宝塔はもと白山神社と日枝神社の間にあった。明治四十五年道路新設のため移築(慈恵堂脇)されたが、昭和四十七年より復元のため解体が行なわれて昭和五十年現在地に完成した。多宝塔は本瓦葺(ほんがわらぶき)の三間多宝塔で下層(かそう)は方形(ほうけい)、上層(じょうそう)は円形(えんけい)でその上に宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根を置き、屋根の上に相輪(そうりん)をのせている。下層は廻縁(まわりえん)を回(めぐ)らし、軒組物(のきくみもの)は出組を用いて四方に屋根を葺き、その上に漆喰塗(しっくいぬり)の亀腹(かめばら)がある。この亀腹によって上層と下層の外観が無理なく結合されている。円形の上層に宝形造の屋根をのせているので組物は四手先(よてさき)を用いた複雑な架構となっているが、これも美事に調和している相輪は塔の頂上の飾りで九輪(くりん)の上には四葉、六葉、八葉、火焔付(かえんつき)宝珠がのっている。この多宝塔は慶長年間の木割本「匠明(しょうめい)」の著者が建てた貴重なる遺構で名塔に属している。 昭和五四年三月 埼玉県教育委員会 川越市教育委員会」「小江戸川越七福神 大黒天」当院には、小江戸川越七福神の大黒天が祀られている。大黒天は古代インドの闇黒の神で、仏教での戦闘神。平安以後食を司る台所の神と崇められた。又、日本の神大国主命を大国と混同させ、命の御神徳を合わせ、糧食財宝が授かる神として信仰を得ました。くろ(黒)くなってまめ(魔減)に働いて大黒天を拝むと大福利益が得られます と。「小江戸川越 七福神」。大黒天堂 内陣。「川越七福神 第三番 開運 大黒天」。右に「拝観案内」。「江戸城からの移築建造物慶長19年(1614)徳川家康公の寄進により伽藍が整備されました、寛永15年(1638)の川越大火により、山門を除く諸堂が消失しました。再建にあたり三代将軍徳川家光公は江戸城内の御殿を川越に移築する命を下しました。このことは、当時の当山第27世住職天海僧正と将軍家の特別な関係を示すものです,江戸城から移築された建造物は、客殿・書院・庫裏の3棟で、現在国指定重要文化財として保存され公開されています。客殿の中の山水画で飾られた一部屋が「家先公誕生の間」と伝えられています。また、書院は家光公の乳母(子守り役)である春日局の「化粧の間」と伝えられています。五百羅漢喜多院の五百羅漢は実際には538体有ります。天明2年(1782) ~文政8年(1825)にかけて造立されています。志誠という僧侶が発願し、先祖供養・五穀豊穣・仏法興隆等を願う多くの人々のご寄進と協力を得て完成しました。羅漢はお釈迦さまの弟子です。人々から尊敬されるまでに修行が進んた弟子を表します。当山の五百羅漢は、中央にお釈迦さまが座り、その回りで弟子たちが説法を聞いている風景を表しています。なお、お釈迦さまの入滅後、弟子たちが何度も、集まり、それぞれが聞いたお釈迦さまの教えをまとめる「結集」という会議がおこなわれました。そこでまとめられた教えが「お経」といつ形て現代まで伝えられています。また、深夜当山の羅漢さんの頭をさわると、一体だけ温かく感じる羅漢さんがいて、昼間その羅漢さんの顔を見ると、自分や身内に似ているという伝説があります。」「受付➡️三代将軍徳川家光公誕生の間 春日局化粧の間 五百らかん」この碑は??喜多院の客殿・書院・庫裏手前の植栽には石灯籠と巨木の松が。喜多院の客殿・書院・庫裏は江戸城より1639年に移築されたもの と。 庫裏が入口になっていますが客殿や書院は奥なので外からは見えない。 建物内は撮影禁止となっていた。「喜多院 庫裏・寺務所」方向を見る。「拝観入口 建物・五百らかん 拝観受付」。書院前に遠州流の枯山水「曲水の庭/轉合の庭(てんごうのにわ)」があった。遠州流とは、小堀遠州(こぼりえんしゅ)に始まる武家茶道の一派である。小堀遠州は、江戸幕府の茶人でもありながら庭園デザイナーとしても知られ、南禅寺金地院(京都)や頼久寺(岡山県高梁市)など数多くの作品を残す庭園界の偉人である。ただし、本庭園は「遠州流」となっているため、小堀遠州自身が作庭した庭園ではない と。ズームして。「庭の説明題 曲水の庭この庭園は遠州流東好み枯山水書院式庭園です。中心の離れ五石の石組みは四方見となっており、流れは眞(激の瀨)行(出水)草(せせらぎ)に区分され背景は借景です。植栽である五本の役木は、真、副、控、受、留の基本に従って植え込まれ、飛石は手前より大、中、小と織部打ちに猿近法が利用され、特に中心主木の赤松は能舞台の目附柱になぞらえ廊下辿りに松を眺めると後方の景色が移動する等、遠州流独特の手法が各所に取り入れられ関東好みの爽快さと品位が保たれている。」「遠州流庭造道東派家元西椿斉之印 題 枯山水 曲水庭 遠州流書院式築山 泉水平庭 昭和五拾年弥生吉日・・・以下略・・・」と。移動して「曲水庭 遠州流書院式築山 泉水平庭」をズームして。枝垂れ桜の巨木であっただろうか?春になると(ネットから)。緑の葉の中に赤い葉も。客殿方向を見て。「水琴窟(すいきんくつ)」。「小江戸川越七つの音風景水琴窟(すいきんくつ)水琴窟は江戸時代初期の茶人、小堀遠州が考えた排水装置「洞水門」から発祥したといわれています。甕(かめ)の底に溜まった水面に水滴が落ちると、甕の空洞に反響する音色が琴に似ていることから「水琴窟」と呼ばれるようになりました。」「昔ながらの水琴窟👈️リンク 構造」水琴窟の仕組みは、まず手洗い場である手水鉢(ちょうずばち)や蹲裾(つくばい)等の真下に洞窟を造ります。 その中に水滴が落ちて、洞窟底面に溜まった水の表面に波紋が生まれます。このとき水滴の出す音が洞窟の壁面に反響し、琴の音に似た涼やかで風雅な音が地上に響きわたります と。以下の7枚の写真はネットから転載させていただきました。書院・庫裏・客殿の配置図。「書院(春日局化粧の間)国指定重要文化財客殿につながる書院は、桁行6間、梁間5間の寄棟作り、柿葺(こけらぶき)です。客殿、庫裡と同じく江戸城紅葉山(阜居)の別殿を移築したものです。8畳2室、12畳2室があり、一部に中2階があります。この8畳間の2室には、それぞれの床の間が用意され、片方の部屋には脇床も設けられています。これらの部屋は、この建物が江戸城にあった頃、徳川家光公の乳母として知られる眷日局が使用していた部屋で、「春日局化粧の間」と呼ばれています。」正面から。「客殿(徳川家光公誕生の間)国指定重要文化財客殿は、書院、庫裏とあわせ江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築したものです。桁行8間、梁間5間の入母屋作りで柿葺(こけらぶき)。12畳半2室、17畳半2室、10畳2室があります。12畳半のうち一室が上段の間で、床と違い棚が設けられ、その襖と壁面には墨絵の山水が描かれています。また、天井には彩色による81枚の花模様があります。湯殿と(便所)も設けられています。この上段の間は、この建物が江戸城にあった頃、3代将軍徳川家光公がここで生まれたということから、「徳川家光公誕生の間」と呼ばれています。中央の17畳半の一室には仏間が設けられ、仏事を営めるように設営されています。広間正面の壁には、豪華な鳳凰と桐の壁画があります。」天井には彩色による81枚の花模様が。「渡り廊下」。御朱印をいただきました。見学を終え外に出て「庫裏」を振り返る。「喜多院 慈恵堂」を横から見る。右手には「回廊」が。手前に「御神木 天海僧正 お手植 槇」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.09
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「豊洲 千客万来」を後にして、次の目的地の「川越」に向かう。都道484号線に向かって進むと、左手に見えたのが「豊洲大橋」。晴海運河をまたぎ、東京都中央区晴海5丁目(晴海埠頭)と江東区豊洲6丁目(豊洲埠頭)を結ぶ道路橋である。東京都道484号豊洲有明線支線(環二通り)が通る。「豊洲大橋」を渡り、「レインボーブリッジ」方向を見る。「レインボーブリッジ」をズームして。4月1日に通行が可能になった豊洲市場の船着場方向を車窓から振り返る。この船着場は漁船用なので一般の船は利用できないようだ。奥に見える設備はエレベーターで、豊洲市場・水産仲卸売場棟の屋上緑化広場へと行くことができる。誰でも利用可能だが、利用には時間が限られていると。豊洲市場が開場してから利用できると。「晴海ふ頭H-Jバース」付近に停泊中の「水産庁」所属の「照洋丸」。漁業取締本部配属の漁業取締船で、我が国周辺水域等において、違法な操業及び漁具の設置を行う外国漁船等の指導・取締を行うことを目的にした船。87.6m長☓14m幅☓2183総トン と。東京二十三区清掃一部事務組合 「中央清掃工場」の巨大煙突。三角形の煙突の高さは177.5m と。「中央清掃工場」を左手奥に見ながら環二通りを進む。「黎明大橋」を渡る。左手に見えたのが人道橋「黎明小橋」。2018年に暫定開通した東京のこの環状2号線の豊洲~築地区間では透明の防音壁を全面的に採用。一部はトンネル状になっているのであった。防音壁メーカーのひとつ積水樹脂(大阪市北区)によると、透明の防音壁は平成の初め頃から登場し、徐々に増えているといいます。やはりメリットは「光が差す」ことだそう。透明にすることで、たとえば高架下にできる影の範囲を小さくできるほか、一般道では特に「店の看板が防音壁で見えなくなるので透明にしてほしい」といった要望も多いそうです。新規道路の建設にあたり、当初は鋼製の防音壁で計画したものの、住民説明会の結果で透明に変更するケースも、ままあるといいます。透明の防音壁の多くはポリカーボネート(自動車のヘッドライトカバーなどに使われる)製で、一部、アクリル製もあるといいます。ガラスなどは割れた場合の安全性に問題があるため、「NEXCOの厳しい安全基準を満たすうえでも、(耐衝撃性に優れる)ポリカーボネートが現実的な素材」(積水樹脂)だそうです。しかし、鋼製の防音壁は内側に吸音材があり、音を吸収する一方で、透明の防音壁は音を反射してしまうのだそう。このため、仮に透明板を全面的に使用する場合は壁が高くなるケースがあるうえ、材質としてもコストは高くなるといいます。そこで、前出した「鋼製板と透明板の組み合わせ」が使われるほか、道路の片側は鋼製壁、もう片側は透明壁を使うケースもあります。たとえば、東京と千葉を東西に結ぶ京葉道路がこの方式で、上り線側は鋼製壁、下り線側は透明壁で主に構成されています とネットから。「築地大橋」を渡りながら、「竹芝客船ターミナル」方向を見る。右手に「東京タワー」左に「JR東日本四季劇場 [春] / [秋]」の屋根が確認できた。「東京タワー」をズームして。「築地大橋」を渡り進むと左に「浜離宮恩賜公園」を見る。車窓の反対側には「東京スカイツリー」の姿も。右折して「新大橋通り」を進むと左手にあったのが「朝日新聞東京本社」。東京都中央区築地5丁目3−2。「国立がんセンター中央病院」。東京都中央区築地5丁目1−1。そして「市場橋」交差点の手前右手に「築地 場外市場」の看板が姿を現した。「市場橋」交差点の角の駐車場にバスは駐まる。「4月25.26.27 築地春まつり」が行われたようであった。バスから降りて「市場橋」交差点の角から「築地場外市場」👈️リンク入口を見る。昼食会場に向けて築地四丁目を歩く。「つきじ すしざんまい 新館」案内。すし店「すしざんまい」を展開する喜代村の社長、木村清氏の人形が迎えてくれた。「喜代村 すしざんまい 本陣」案内。昼食会場の「喜代村 すしざんまい 本陣」に到着。「にぎり」寿司セットをビール片手に楽しんだのであった。そして、「千客万来」で目で楽しんだ「インバウン丼!!」とはいかなかったが、昼食を口で楽しみ、バスに戻り「川越」に向かって進む。「荒川」を渡る。「美女木JCT」を経由して「東北縦貫自動車道」に入り、「幸魂大橋」を渡りながら「彩湖(荒川貯水池)」を見る。「大泉JCT」から「関越自動車道」へ。「新座料金所」を通過。「川越IC」で「関越自動車道」を降りる。そして川越市街に向かう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.08
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食楽棟 ・3階フードコート内にあった枯山水の如きオブジェ。3階から「時の鐘広場」を見下ろす。食楽棟のランドマークの「時の鐘」の下に広がる多くの人が集う広場。10時、12時、15時、18時、21時には実際に鐘が鳴るとのことであったが、タイミングが合わず聞くことは出来なかった。3階の連絡通路から、2階外の「豊洲目抜き大通り」を。3階にあった焼肉・肉料理「好ちゃん」。飯田橋の大人気焼肉店が豊洲に上陸!絶品ホルモンと黒毛和牛焼肉を是非お楽しみください と。「焼肉・塩ホルモン 好(よし)ちゃん」。「ランチメニュー」。3階 寿司・海鮮丼・海鮮 うに専門店「築地 うに虎」。豪華&高価メニュー。「海鮮丼」。「雅 10,000円」。「皇帝 18,000円」これぞ「インバウン丼!!」「厳選生うに6種(130g)・本鮪大トロ・本鮪中トロ・いくら」おいしかった!!と言いたかった!!「豊洲 先客万来 2024年2月1日(木) グランドオープン」。築地の伝統を継ぎ、新たな賑わいを目指す 「豊洲 千客万来」のアンバサダーに、 伝統と革新を体現する表現者、 「中村獅童」👈️リンク さんが就任した と。2階に戻って土産店「豊洲えんぎもの」内にあった日本包丁専門店「貴和美」👈️リンク を訪ねた。様々な種類、様々な大きさの包丁が。近づいて。プロ用から家庭用まで様々な種類の包丁を取り扱っているのであった。「目利き横丁」左に「芋松」豊洲市場内の青果仲卸 芋松が運営する飲食、物販店舗。日採れの湘南野菜、産直の有機野菜、加工品、焼いも、ソフトクリーム、日本酒など店主セレクト商品を用意 と。天井には「大漁旗」が並ぶ。右手に「Seafood Burger 豊洲 島童子」.「濱風茶房」。「濱風茶房」。「抹茶(八女茶)モンブラン」1,000円 と。前方に「築地銀だこ」。「築地銀だこ」。「うにいくら山芋乗せのお出汁付きたこ焼き」。「たまごや新海」。日本全国のこだわり卵を厳選して常時10種類以上販売。TKGに合う醤油やトッピング、卵料理に合う調味料を多種ご用意 と。TKG:「卵かけご飯」のこと。 「Tamago Kake Gohan」の頭文字をとった略称。「セルフTKG作りませんか!①パックごはん+ TKGセットを購入する②レンチンする③おすすめ卵の中から1個選ぶ④お好きな調味料でTKGをめしあがれ」「セルフTKG 500円~」。「映画「二宮金次郎」豊洲 先客万来 上映会」案内ポスター。「豊洲市場ぐるめ場所」👈️リンク 案内。「先客万来」の他にも「ぐるめ場所」はいっぱいありますよ!!と。「先客万来」の「木戸門前広場」を最後に。「お客様へのお願い各店舗でご購入いただい商品は必す施設内でお召し上がりください豊洲市場へのお持ち込みはご遠慮くださいお客様のご協力お願い申し上げます 千客万来」巨大な真紅の唐傘は日除け用にも。「豊島市場」👈️リンク 用二次元コード。そして駐車場のバスに戻る。「◯◯地区自治会連合会様」と。出発時間は11:10。駐車場出口には、「千客万来」の「万葉倶楽部」👈️リンク へ、古来より名湯として知られる「箱根温泉」と「湯河原温泉」の源泉を運んだタンクローリーが戻る姿が確認できた。2024.2.1にグランドオープンした「東京豊洲 万葉倶楽部」案内をネットから。そして、「千客万来」👈️リンクを訪ねて、これぞ「インバウン丼!!」と思われる多くのメニューを目でのみ楽しみ、カメラで撮りまくった後は、我々の昼食の場・「築地場外市場」の近くの店へとバスで向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.07
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さらに「豊洲 千客万来」の散策を続ける。「大手門広場」側にあった土産店「豊洲えんぎもの」の「ぬいぐるみ マグロくじ」 一回1,000円(税込)コーナー。「漁火」👈️リンク。創業150年近い歴史を誇る豊洲市場の老舗水産仲卸が、隣接した市場から目利きされた新鮮な魚介類を中心に、海鮮炉端焼を展開していた。店頭での「海鮮炉端焼」。大海老、ニジマス、???土産店「豊洲えんぎもの」の入口を再び。「豊洲 千客万来」内に当社がオープンしている店舗は、江戸の街並みを再現した食楽棟「豊洲場外 江戸前市場」の豊洲目抜き大通りの最奥にあり、「江戸遊楽座」という芝居小屋をモチーフにした外観が特徴。「新板大江戸名所双六」👈️リンク。右下の振り出しから左上の上がりまで順番に進んでいく「回り双六」(出た目によって次の場所が決まるタイプを「飛び双六」というと)。さいころを振って駒を進めるつもりで、登場する江戸の甘味をたどってみることが出来るのであった。土産店「豊洲えんぎもの」の店内を散策。「歌舞伎醤油皿」。お皿に醤油を注ぐと、「隈取」が浮き上がるユニークな商品。「筋隈」や「むきみ隈」など、柄は全6種類あるようだ。隈取は顔の血管や筋肉を誇張するために描かれたもので、役柄によってデザインが異なるが、「歌舞伎醤油」6種類の隈取がモチーフになっているのであった。「都市の温泉郷 万葉の湯」案内板。7Fにあるようであった。「露天風呂」をネットから。「足湯」をネットから。再び「2F 豊洲場外 江戸前市場」案内板。「目利き横丁」を歩く。「水長水産」の店「漁火」。巨大な蟹であったが・・・ピンボケ。「たらば蟹 一肩 ¥18,500」と。「地方発送もできます!!」と。「熟成之 だしスープ」コーナー。私も試飲させていただきました。「豊洲物産」。全国各地の乾物、瓶詰、各種調味料等を中心に幅広い食材を提供。「松茸」。「山内フーズ」👈️リンク。「うなぎ弁当 2,500円」。「蟹・いくら弁当 2,200円」。カニのちらし寿司や函館の海鮮がたっぷりの弁当。この店ではとうもろこし、スイカを。「富士山」の勇姿。「3F 豊洲場外 江戸前市場」案内板。こちらにも。「築地 うに虎」。豪華&高価メニュー。「海鮮丼」。「大江戸うどん さくら」👈️リンク。「フードコートのよりどり町屋」内の「十割そば たかはし」👈️リンク。「フードコートのよりどり町屋」内の「ポキボウル カナロア(Kanaloa)」👈️リンク。「江戸辻屋」。「海鮮バイキング いろは」👈️リンク。厳選された鮮魚を含め約50種のバイキングメニューをご用意 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.06
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大型バス駐車場にてバスを降りて「豊洲 千客万来」の散策開始。豊洲市場に隣接する「豊洲 千客万来」は、食楽棟「豊洲場外 江戸前市場」と温浴棟「東京豊洲 万葉俱楽部」から成ります。2024年2月1日にオープン。食楽棟「豊洲場外 江戸前市場」では、築地の伝統を引き継いで、豊洲ならではの新鮮な食材などを活かした飲食・物販店舗を展開いたします。江戸の古い街並みを再現したオープンモールで、食べ歩きやお買い 物をお楽しみください。温浴棟「東京豊洲 万葉俱楽部」では、専用トレーラーにて、箱根・湯河原の温泉を毎日運搬して、豊洲の地に“東京都心の温泉郷”を実現します と。「1F 豊洲場外 江戸前市場」案内。「1F~3F案内板」。・日本最大規模の木造耐火商業施設。・1階 鉄骨造、2~3階 木造の立面混構造。・2~3階の木造部の柱と梁に、“東京の木 多摩産材”を活用した木質耐火部材 「COOL WOOD(1時間耐火仕様)」 を採用。・御影石や淡路瓦などの伝統的な建築素材を用い、江戸の風情ある街並みを現代に再現。そして最初に2Fを訪ねた。「2F 豊洲場外 江戸前市場」案内図。「木戸門前広場」。「逸品屋えどこ」👈️リンク 前には多くの外国人観光客の姿が。ブルーのお揃いのTシャツを来た外国人観光客。「目利き横丁」の入口。仲卸が目利きした新鮮な旬の食材や珍味を、食べ歩きやカウンターで楽しむことができ、各店舗から食欲をそそる香りが漂う食の賑わいを体感いただけるエリア。「木戸門」から入り「豊洲目抜き大通り」を訪ねた。右手最初にあったのが「つきぢ神楽寿司」👈️リンク「豊洲目抜き大通り」を進む。寿司やうなぎなど、江戸前の食が楽しめる飲食店街や地元江東区で人気の店舗が並ぶエリア。東京の⾷の魅力の新たな発信源としての役割を担っている と。その先に、左手にあったのが「江戸 深川屋」👈️リンク。江戸時代の防火用水を再現。その先、右手にあったのが「千客万来屋台店」👈️リンク。3階の連絡通路下を進む。「玉子焼 力武-Premium-」👈️リンク。大正末期創業、玉子焼専門店。特選卵を使用した新しい出汁巻き玉子、プリン、ソフトクリーム等スイーツや、休市日限定メニューも豊洲場外でしか味わえません。築地で大人気焼たて食べ切りサイズもご賞味ください と。人気の「厚焼玉子」も店頭で焼いて。これぞ「厚焼玉子」!!。丸武のプレミアムたまごやき 300円。「うなぎ 北鎌倉 名月川」👈️リンク。「炭火焼 うなぎ 北鎌倉 名月川」。「うな重 松(うなぎ一尾半) 5,910(6,500)円」「うなぎ一品料理」。ウナギの香りが写真からも溢れ出て来るが如くに。食べたかった!!!!・・・・。右側に「十割そばと江戸前天ぷら 囲炉裏」👈️リンク、左側「軽食・スイーツ・ドリンク かねす」👈️リンク。「ふわふわサクサク まんじゅうの天ぷら」。「当店限定の 『まんじゅうの天ぷら』 は、「酒まんじゅう」・「黒糖まんじゅう」・「紫芋まんじゅう」 の3種で、まんじゅうに衣をつけてサクッと揚げたオリジナル天ぷらです。まんじゅうを天ぷらにする(熱を加える)ことで、より一層中身の “餡の甘み“ を感じていただける商品となっております。豊洲千客万来店ならではの “食べ歩きグルメ” としてぜひお楽しみください! 」と。さらに進む。「月島もんじゃ 十五夜」👈️リンク。「しらすもんじゃ」。「あんバターたい焼き」。「あんバターたい焼き 400円」。大きなバターを口に咥えた「あんバターたい焼き」。「肉好き 大黒天」👈️リンク。「九州産黒毛和牛 黒火乃牛と岩中豚のメンチカツ」。卸ならではの厳選した牛肉、豚肉、鶏肉を使用し、大きな肉の串焼きや、肉の煮込み、豪快な肉炒め、揚げたての肉惣菜をご用意しています と。「大黒天甘辛すき焼豆腐」。そして右手には「時の鐘広場」が現れた。「豊洲 千客万来」のランドマーク、時の鐘。時の鐘とは、江戸時代に時を告げる役割に使われていた。時の鐘の下には時の鐘広場があり、多くの人が集う空間となります。定期的にイベントなども開催しています と。このあと、川越にある「時の鐘」を訪ねたのであった。「時の鐘広場」のベンチにて多くの観光客が買った食べ物を楽しんでいた。「千客万来 大入」と。和カフェ「豊洲 ふくらすずめ」。芝居小屋「江戸遊楽座」の中に、“見てよし、食べてよし、飲んでよし! 縁起物を取り揃えて、みなさまに福をもたらす場所に”を合言葉に、食品や雑貨を扱う土産店「豊洲えんぎもの」、素材にもビジュアルにもこだわった和カフェ「豊洲ふくらすずめ」、約30種の日本酒を楽しめる「豊洲のみよし」の3店舗がオープン と。歌舞伎役者の錦絵が。「花飾駒道中双六 うかい勘作 中村芝翫」豊原国周 画 。 「女房お傳 大谷友右衛門」豊原国周 画 。「役者絵 すごろく」。「三芝居三言音雙六(さんしばいこわねすごろく)」👈️リンク と古文字の師匠から。「豊洲市場 相馬水産」には長い列が。“創業60年 豊洲まぐろ仲卸し”相馬水産のファーストフード店。王道の刺身、仲卸しだからこその希少部位、前代未聞のまぐろ料理等、“とにかく旨いまぐろを食べてもらいたい”との一心で創り上げたメニューの数々をご賞味ください と。「まぐろ串」。「江戸有楽座」の北西側、土産物屋「豊洲えんぎもの」の入口の上にあった「鼠小僧次郎吉」、「鳴神」、「毛抜」の歌舞伎の題目が書かれた看板。中央に「優長市川系譜」👈️リンク。右「一世一代 吃の段中村歌右衛門 豊国画 けいせい反魂香」左「女房お徳 中村大吉 豊国画 けいせい反魂香」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.05
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この日は6月6日(木)、今年も私がボランティアとして参加している、わが町の自治会連合会の親睦旅行に参加。駅前に8時集合とのことで自宅を7:40過ぎに徒歩にて出発。ご近所の白の「カシワバアジサイ」。ビワ(枇杷)の実がたわわに。赤のタチアオイ(立葵)。当初は中国原産と考えられていたが、現在はビロードアオイ属(Althaea)のトルコ原産種と東ヨーロッパ原産種との雑種(Althaea setosa ×Althaea pallida)とする説が有力である。日本には、古くから薬用として渡来したといわれている。花がきれいなので、園芸用に様々な品種改良がなされた。草丈は1~3mで茎は直立する。花期は6~8月で、花は垂直に伸びた花茎の下から上に咲き上っていく。ちょうど梅雨入りの頃に咲き始め、梅雨明けと共に花期が終わる(花茎の頭頂部まで開花が進む)ことになぞらえて、「ツユアオイ(梅雨葵)」という別名も冠されている。花は一重や八重のもあり、色は赤、ピンク、白、紫、黄色など多彩である。花の直径は品種によるが大きなものでは10cmくらいである。本来は宿根性の多年草であるが、品種によっては一年草でもある。アオイの名から会津若松市と静岡市が市花に制定している。チロリアンランプ。提灯のような特徴的な花が開花する、つる性植物。和名のウキツリボクで呼ばれることもよくあルと。駅までの民家の庭の花を追う。大きく花びらを広げた黄色いユリ。まぶしいほど色鮮やか。そして、定刻の8:15に約30名が大型観光バスに乗り込み、最初の訪問地の「豊洲 千客万来」に向かってスタート。見送って下さったセンター職員の◯岡さん。国道467号を進み、白旗神社手前から藤沢バイパスへ。先日訪ねた境川に架かる鷹匠橋を見る。「藤沢市 大清水浄化センター」。そして、その先直ぐに横浜市に入る。国道1号を進み、横浜新道に向かう。横浜新道・戸塚料金所を通過。新保土ケ谷ICを通過し、横浜横須賀道路に進む。新保土ケ谷ICから横浜新道方向を見る。横浜横須賀道路方面に進む。狩場ICを通過し、首都高速神奈川3号狩場線に入り「狩場本線料金所」を通過。「横浜マリンタワー」を左手に見る。そして前方左手に「横浜ベイブリッジ」が姿を現した。横浜港のメインターミナルとなる大さん橋ふ頭の長さは、450mある。そのため長さの面だけで見れば、たとえば全長300m超えの客船であっても、港に着けること自体は可能。ただし、大きな船は、その分高さもある。大さん橋ふ頭に着く以前に、この横浜ベイブリッジの下を通過することができないという問題が立ちはだかるのだ。海上から橋まで約56mですので、それ以上の高さの船は、ベイブリッジの下を通過できない。過去には、高さ56.6mのキュナード社の大型客船『クイーン・エリザベス』が大さん橋に寄港したこともあるが、干潮時、海面が低くなる時間帯を狙っての寄港あった。以前に横浜港に寄港した『クァンタム・オブ・ザ・シーズ』のような客船は、たとえ干潮時でも、大さん橋ふ頭まで入ることはできないのであった現存する船で、ベイブリッジを通過できないであろう超大型客船は、ほかにも多数ある。「シンフォニー・オブ・ザ・シーズ」の姉妹船で、全長362.12mを誇る「ハーモニー・オブ・ザ・シーズ」をはじめ、「オアシス・オブ・ザ・シーズ」、「MSCメラビリア」などだ。いずれも全長300m超え、総重量は20万トン近い。しかし、横浜港ではこうした超大型客船を受け入れる対応策がすでにある。横浜ベイブリッジをくぐれない船を迎え入れる際は、大さん橋ふ頭ではなく、大黒ふ頭を利用しているのだ。横浜ベイブリッジよりも手前(東京湾側)にあるため、橋をくぐる必要がない。大黒ふ頭は、主に自動車専用船のために利用されてきたが、現在では、超大型客船の受け入れにも利用されているのである。横浜ベイブリッジをズームして。本牧JCT手前から「横浜ランドマークタワー」方向を見る。「横浜ランドマークタワー」をズームして。「横浜ベイブリッジ」の橋脚。1981年着工、1989年開通。橋長860m、塔高172m、海面上175m。横浜ベイブリッジから横浜港を見る。「横浜ランドマークタワー」、風をはらんだヨットの帆の形が特徴の「ヨコハマ グランドインターコンチネンタル ホテル」を見る。「日産自動車 横浜工場 第2地区」その手前の「太平洋製糖株式会社」を見る。「大黒JCT」手前から「東京電力パワーグリッド(株) 横浜大黒変電所」の巨大煙突を。1996年に建設した高さ約 200mのスレンダーな煙突。外筒は、糸巻型の鉄筋コンクリー卜構造であり、スリップフォーム工法にて施工された。「人と環境の調和を目指した都市型発電所」のシンボルとしての景観を担っている と。大黒パーキングでトイレ休憩のため急カーブを下りながら、横浜ベイブリッジを見る。「大黒パーキングエリア」の上空からの写真をネットから。手前が「ベイブリッジ」、前方が「鶴見つばさ橋」。「大黒JCT」の急カーブの下り坂をバスの車窓から見上げて。大黒PAパーキングエリアのシンボル「照明塔」。以前に夜に撮った写真を。そしてバスを降り、トイレに向かう。花壇も美しく管理されていた。バスは出発し、「鶴見つばさ橋」を通過。左手に「扇島パワーステーション」を見る。東京ガスと昭和シェル石油 (現 : 出光興産)の共同出資により設立された企業。東京ガス扇島LNG基地に隣接した東亜石油貯油地跡地にて、ガスタービンと蒸気タービンを組み合わせたガスタービンコンバインドサイクルによる火力発電を行う と。羽田空港横を通過し進むと、左手に見えて来たのがホテル「グランドニッコー東京 台場」。ゆりかもめ「台場駅」方向を。「フジテレビ本社ビル」。「台場」交差点の角にはキリンの姿が。レゴ「しあわせのキリン」(レゴランド・ディスカバリー・センター東京)と。レゴランド®・ディスカバリー・センター東京(運営:マーリン・エンターテインメンツ・ジャパン)は2022年12月20日、高さ6メートルにおよぶ、約50,000個のレゴ®ブロックを使用した「しあわせのキリン」モニュメントの完成お披露目イベントを開催したとのこと。そして「有明西運河」に架かる「のぞみ橋」を渡る。「有明テニスの森」交差点を左折して進む。倉庫「ユニクロ有明流通センター」は、緑化や周辺緑地整備など環境配慮を施した、最先端の物流センターなのであろう。「豊洲有明線」の「富士見橋」からの光景。右手に「レインボーブリッジ」が見えた。「レインボーブリッジ」は芝浦地区と臨海副都心を結ぶ首都最大級の橋。1987年着工、1993年竣工、同年8月26日開通。 全長約800メートルの二階建て構造で、上部は首都高速11号台場線、下部は中央に新交通システム「ゆりかもめ」、その両側には一般道路と歩道が通っているのだ。手前の高架が「首都高速11号台場線」その下が「ゆりかもめ」線。そして目的地・「豊洲 千客万来」近くの「豊洲市場前」交差点に到着。 ・・・つづく・・・
2024.07.04
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県道207号線・森戸海岸線を国道134号に向かって進むと、左手にあったのが「東京工業大学ヨット部合宿所」。「切通し」が前方に。「切り通し」手前の「逗子桜山ニューライフ入口」を右折して「逗子市浄水管理センター」の方向に向かって進む。逗子市の「逗」の字は「一点しんにょう」と「二点しんにょう」のいずれが正しいのか。「一点しんにょうの「逗」と二点しんにょうの「逗」は、漢字としては同一の字であり、活字体が異なる場合に一点で表記されたり二点で表記されたりします。したがって、いずれを用いても逗子市の表記としては正しいということになります。」と逗子市👈️リンクの正式見解であるようだ。JR逗子駅と京急-新逗子駅は「二点しんにょう」であった。「二点しんにょう」「一点しんにょう」「辻堂」の「辻」も同じと。左手にあったのが「鐙摺(あぶずり)の不整合」案内板。「鐙摺の不整合👈️リンクここは三浦半島でいちばん古い層の上に、これより若い逗子層が傾斜不具合の関係で重なっている露頭で「鎧摺の不具合」として、古くから知られています。右下から左上方に向かってみえる凹凸に富んだ不具合面を境として、逗子層は北に緩く傾いているが、葉山層はほとんど垂直に近い傾斜を示してることから、葉山総推積後、逗子層推積前に多きな地殻変動があったことがうかがわれ関東地方の生い立ちを知る上で貴重な資料とされています。不整合面のすぐ上には、葉山層の砂岩、泥岩などの礫からできている基底礫岩がみられ、ミウラニシキその他の貝化石が多数含まれています。 逗子市教育委員会」「不整合面の位置と順序」案内図。不整合面に近づいて。防空壕跡には不整合面の案内写真が。案内板の写真には説明文も。「神奈川県指定天然記念物 鐙摺の不整合を示す露頭」案内柱「昭和五十ニ年五月二十日指定 神奈川県教育委員会」と。そしてその先、右手の逗子海岸沿いの広場には花火見物の客席用の椅子が並べられていた。その先、逗子海岸の砂浜にも巨大なブルーシートが敷かれていた。どちらも有料席となるのであろう。この時期に花火大会を催す理由は、この後に、この場所に「海の家」が建ってしまうと「有料席」の設置可能場所が、縮小されてしまうため、「花火大会」の採算面で大きく影響するためであろうか?「鐙摺の不整合」を振り返って。行き止まりの先、「逗子市浄水管理センター」の敷地内の公園の石碑を訪ねた。国木田独歩は若くして(満36歳)没した小説家で、自然主義文学の先駆者とされています。学生時代に徳富蘇峰と知りあい大いに影響を受け、明治27年(1894年)、民友社に入り徳富蘇峰の「国民新聞」の記者となり、この年起きた日清戦争に海軍従軍記者として参加。「愛弟通信」をルポルタージュとして発表し、「国民新聞記者・国木田哲夫」として一躍有名となりました。明治28年(1895年)11月、蘇峰の媒酌で佐々城信子と結婚し逗子で暮らし始めましたが、あまりの貧困生活に耐えられず帰郷し両親と同居しました。翌年信子が失踪し協議離婚しています。信子との間には長女がいます。その後、明治31年(1898年)、下宿の大家の娘・榎本治(はる)と再結し、四子をもうけました。この最初の結婚生活を送った地が逗子であり、独歩ゆかりの地となっています。また、独歩も貸し家の「柳屋」近くで眺めた富士が忘れ難かったようで、小説「武蔵野」で「われわれが逗子の「あぶずり」で眺むるよう」な富士に言及しています とネットから。「国木田独歩文学碑逗子の砂やま草かれて 夕日さびしく残るなり 沖の片帆の影ながく 小坪の浦はほどちかし 国木田独歩 「たき火」より」と刻まれていた。石碑の裏面には「平成四年十二月 逗子市教育委員会」と。再び逗子海岸の花火席を見る。時間は16:23。花火開始まであと3時間強。花火打ち上げ用の台船を再び。江ノ島をズームして。次に訪ねたのが「国道134号」沿いにあった「櫻稲荷神社」。逗子市桜山8丁目16−8。「櫻稲荷古くからこの地を司る三柱の神様を櫻稲荷としてお祀りしています。水を司る龍神地を護る巳神豊穣の稲荷神衣食住、五穀豊穣、商売繁盛、諸願成就、産業興隆を昼夜の別なく御守護くださいます。由来についてはQRコードを読み取ってください。令和元年十月二十三日 遺産 中尾建築工房」民間法人が勧請した神社のようであった。法人私有地内に鎮座しますが、古くから当地を司る神様として前の道路から誰でも参拝できるよう考慮されていた。国内遍く鎮座する大きな神社にも無人で寂れた小さな祠にも路傍の石祠にも古(いにしえ)の勧請に関わった方々の信仰心と住民への思いやりに感謝するとともに、今の時代の真新しい「櫻稲荷」に勧請初期から後々同時代を送ることができるのだと ネットから。扁額も「櫻稲荷」。小さな木製の社に近づいて。次に訪ねたのが国道134号「長柄隧道」手前の左側高台にあった「田越神明社(桜山下の神明社)」。現在名は田越神明社ですが、桜山の下社にあたる神社とのこと。鳥居の脇には、なかなか立派なタブノキとカヤが育っていた。鳥居の柱には、「元禄十六年六月廿二日」」」(西暦一七〇三年)と刻まれていた。元禄十六年は江戸時代・東山天皇の代で、元禄十五年十二月十四日の赤穂四十七士の討ち入りの翌年に勧請されたことになる。さらに進むと石段の上にあった社殿。「当神社は田越神明社と言います。祭神は天照大神です。伊勢神宮の内宮、天照皇大神宮よりの勧請状況は記録がなく不明ですが、鳥居の柱には、『元禄十六年六月廿二日』(西暦一七〇三年)と刻まれています。元禄十六年は江戸時代・東山天皇の代みよで、十五年十二月十四日の赤穂四十七士の討ち入りの翌年に勧請されたと思われます。以後三〇〇年、氏子十五軒にてお守り致しています。当社やしろは東京オリンピックに際し、当所に遷座されました。 平成十五年(二〇〇三年)一月一日 田越神明社氏子」境内には庚申塔が並んでいた。7年位前にこの場所・田越神明社に移設されたものとのこと。右から「山状角柱型 日月 「青面金剛塔」」。「田越 講中」と台座には。右側面には「安政六己未稔二月」(1859)と。「唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿」右側面 「天明五巳年」(1785)。左側面 「正月吉日」「唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛立像 三猿」。右側面 「文政七甲申年」(1824)左側面 「十一月吉日」。「唐破風笠付角柱型 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿」。右側面 「寶暦七丁丑天」(1757)左側面 「十一月吉日」。「舟形光背型 種子(カ) 青面金剛立像 邪鬼 三猿」。正面左側 「延寳九辛酉歳九月吉祥日」(1681)正面右側「奉造立山王供養長久如意祈」。「櫛形角柱型 「庚申塔」」。正面右側 「大正十年」(1921)正面左側 「一月吉日」そしてこの日の散策予定を全て終了し、県道207号線のバス停に向かう。道路標識を振り返って。帰路も、JR逗子駅までバスを利用。道路標識の「逗子駅」、「逗葉新道」の「逗」は「一点しんにょう」の「逗」が用いられていた。バス停「切通し下」でバスの到着を待つ。このバス停の「逗子駅」は「二点しんにょう」の「逗」。このあたりには、まだ花火見物の客の姿は少なかった。そして地元の駅からは、この日の葉山の海岸からは見えなかった富士山の山頂の姿が確認できたのであった。そして18時前に帰宅したのであった。この日の散策ルート図。そしてこの日の歩数は31,972歩、24.5kmと我がスマホから。よく歩きました、歩きすぎ!?そして、この夜は、標高41mの我が家からは、「逗子海岸花火大会2024」👈️リンクの花火の姿が確認でき、自宅の我が部屋から楽しんだのであった。我が部屋からしばしズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.07.03
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県207号線の左側に、鐙摺城址としての史跡でもあり、町指定文化財にもなっている「旗立山」への鉄製の階段があった。「葉山町指定文化財第四十三号史跡 旗立山👈️リンク平成四年三月二十七日指定高さ25mほどの頂上が平らな丸い小山で、鐙摺(あぶずり)山、軍見山とも呼ばれています。『源平盛衰記』によれば、石橋山(小田原市)で旗揚げした源頼朝に呼応した三浦党は、鐙摺城北側の小浜の入江から援軍として出陣します。石橋山の合戦で頼朝軍が敗走したことを酒匂川の畔で聞いた三浦党は引き返しますが、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇、対峙します。その後、お互いの誤解から合戦になりますが、このとき鐙摺城にいた三浦党の総帥三浦義澄は、この山に旗を立てて気勢をあげたことから、旗立山と呼ばれるようになったといわれています。また、『新編相模国風土記稿』によれば、伊豆蛭ヶ小島に配流されていた頼朝が、治承元年(1177)に密かに三浦を訪れ鐙摺山に登った際、馬の鐙が擦れたことからこの名が付いたとされます。 葉山町教育委員会」鉄骨製の階段を上って行った。この木柱には??鉄骨製の階段の後は、岩を刳り貫いた石段が。そして平らな頂上に到着。「葉山町指定 史跡 旗立山(鐙摺山) 「伊東祐親入道供養塚」伊東祐親には、娘が四人あった。長女は相模の三浦義澄の妻になり、次女は、はじめ工藤祐経に嫁いだが、のち取り帰されて、土肥遠平に再縁した。三女と四女は、まだ父のもとにいた。源頼朝は既に十三歳のとき、伊豆の国へ流されたが、伊東・北条の両人を頼みに暮らしていた。三女は美人の名が高かったので、頼朝はそれを知って、つれづれのなぐさめとして、ひそかに通ううち、男子が生れた。頼朝はおおいに喜んで、その男子に千鶴御前という名をつけた。伊豆は、源氏にとっては祖先が往来した地であり、かつて部下が住んだ国である。平家全盛の世に、雌伏している頼朝ではあったが、このたび男子が生れたことは、流人の身に、ひとしおうれしく感じられた。千鶴御前・三歳の春、伊東祐親入道は、大番勤めを終って、京から伊東へかえった。しばらくは千鶴御前の事を知らされませんでした。ある夕方、庭苑の築山で遊んでいた、千鶴御前の姿を見て、妻に尋ねた。頼朝が通った三女にとっては継母だったので、いい機会とばかりに愚かしい言い方で、伊東祐親入道に頼朝と三女との間の子で、貴方の孫御前ですと告げた。伊藤祐親入道は大いに腹を立て、「娘が多すぎて置き場がなければ、乞食にでもやるが、源氏の流人を婿にするなどは、まっぴらだ。もし平家におとがめられたら、なんとしよう。毒虫は頭をくだけ、かたきの子は殺してしまえ、とは古語にもいっていることだ」こうして郎党をよびよせ、千鶴御前を誘い出し、伊東の松川の上流の溜りに芝漬けにしてしずめた。しかも、その三女を奪って、同じ伊豆の江間の小四郎に嫁がせた。さらにそのうえ、頼朝を夜討ちにしようとして、郎党どもをあつめた。しかし、伊東祐親入道の二男・九郎祐清が事情を話し、ひそかに北条の方に逃れるよう進言した。源氏の時代になってから、伊東祐親入道は、かって頼朝に不信をはたらいたかどで、ついに生けどりになって、婿の三浦介義澄にあずけられた。三浦介義澄は、伊東祐親入道の長女を、妻にしていたのである。前の罪をのがれがたく、伊東祐親入道は、三浦の鐙摺というところで、首をはねられた。」と。植え込みに囲まれ、こんもりと盛り上がった所に「伊東祐親入道供養塚」があった。その塚には塔婆も。現在地はここ●。供養塚の近くから見える景色は極上、「江ノ島」をズームして。鐙摺山、軍見山の山頂の広場を振り返って。伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源家の嫡流頼朝が、治承元年(1177)、三浦微行(びこう)の折り、鐙摺山城に登るとき、馬の鐙(あぶみ)が地に摺れたのでこの名が付いたと言われる。源平盛衰記では、石橋山に旗上げした頼朝に呼応した三浦一族の三浦党は、この鐙摺の小浜の入江から援軍として出陣したとしている。この合戦で頼朝は敗走するが、三浦党も酒匂川畔まで行き、敗戦を聞き引き返す途中、小坪あたりで畠山重忠軍と遭遇したとき、お互いの誤解から合戦になるが、この時、鐙摺山城にいた三浦党の絵師三浦義澄はこの様子を望見し援軍を送ったが、和解が成立し、再び軍をこの鐙摺山城に引きかえした。鐙摺山城を旗立山(はたたてやま)と呼ぶのはこのためである と。そして上って来た鉄骨製階段を降りた。道路面にあったマンホール蓋。「ヨット」、「ウグイス」、「クロマツ」、「ツツジ」がデザインされた葉山町の汚水マンホール蓋。明治45年、国産ヨットが初めて帆走(はんそう)したことから、葉山町は「近代ヨット発祥の地」とされています。 相模湾に浮かぶヨットを主役に、町の花「ツツジ」、木「クロマツ」、鳥「ウグイス」をあしらったマンホール蓋で、親子蓋である本蓋は、親子あわせて壮大な海を渡るヨットを描いています。 ヨットが行きかう相模湾は、温暖な気候と黒潮の恩恵から多様な生き物が生息しており、そうした環境へ配慮し、町の浄化センターは山間部に建設しました。受枠に施された青い円は、山・川・海を廻る水を表し、「葉山の美しい水環境を未来の世代へ引き継ぐ」という思いを込めています とネットから。旗立山・鐙摺山を下って、海宝寺の先まで戻り、「あぶずり港(鐙摺港)」に向かって歩く。「あぶずり港(鐙摺港)」手前の丘に上がって停泊中の葉山マリーナのヨット群。全てのヨットが台車に載せられて。「HAYAMA MARINA」と。その先にあったのが「葉山港 日本ヨット発祥の地碑」。葉山港は、「日本ヨット発祥の地」としても知られている。日本にヨットが伝えられたのは、横浜港(現・山下公園)に外国人ヨットクラブが造られたのが最初とされていますが、日本人では、明治15(1882)年、当時の農商務司法大臣 金子堅太郎伯爵の子息がヨットを建造し、葉山で楽しんだのが始まりとされています。葉山港の入口には帆の形をした記念碑が建立されています。三浦郡葉山町堀内。「葉山港 港湾管理事務所」を見る。三浦郡葉山町堀内50。「葉山港」・「あぶずり港(鐙摺港)」。葉山港は、三浦半島の相模湾側に位置し、鈿朝港とも呼ばれ、古くから澄業が営まれているとともに「日本ヨット発祥の地」として知られています。昭和30年の神奈川国体では、ヨット観技の会場として、また、昭和39年の東京オリンピックでは、湘南港のサブハーバーとして重要な役割を果たしました.その後、平成6年に再整備に手し、平成10年9月には国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)の成年女子ヨット競技会場として利用されました。また、平成17年から18年にかけて、港湾管理事務所の建て替えを行い、平成19年4月から供用を開始しています.現在は、ヨット、モーターポートを約250隻、漁船を約40隻収容しています と。この日の漁を終えた漁船が並ぶ。右手にあったのが「明治大学体育会ヨット部合宿場」。再び葉山港を見る。「長三郎丸」と書かれた漁船が並ぶ。葉山あぶずり港の入口には数件の船宿が立ち並んでいて、向かって一番左にあるのが「長三朗丸」の宿。その先のT字路の角にあったのが葉山港改築「船溜竣工紀年」碑。記念碑には、「大正十ニ年九月一日ノ大震災ニ因リ海岸ノ隆起甚シク船舶ノ碇繋避難ノ利便ヲ喪《うしな》ヒ」とあり、葉山港の船溜(ふなだまり)が隆起し使えなくなったことが書かれています。また、漁船の係留は砂浜に引き上げるしかなく、一旦天候が悪化すると大破する船が多かったことも書かれています。さらに震災後、魚介類への需要は増大し、漁船の増加・大型化が進み、復興工事を願う漁民の「痛嘆」(ひどく嘆き悲しむこと。痛切な嘆き)が長かったこと、この窮状を打開し新たな発展拡大を目指し組合役員・組合員が一丸となって、鐙摺(あぶずり)船溜の再建を遂行したことが書かれています。地震によって地盤が隆起した様子や、総工事費十二万余円(現在の貨幣価値で約6億円)にものぼった工事が、有力篤志家(味の素本舗の鈴木商店)の資金援助のほか、多くの方々の協力で実現したことが確認できます とネットから。「逗子市新宿5丁目」にある「披露山」を望む。「旧石原慎太郎別荘」も中央に確認できた。「あぶずり港内駐車場」の岸壁上にはブルーシートを敷いて何かを待っている家族の姿が。最初は釣人家族かと思っていたが。「第67回逗子海岸花火大会」がこの日2024年5月30日(木)午後7時30分より開催されると。逗子海岸の有料席図、車両通行止め(交通規制)案内図。外海側の岸壁に様々なシートが敷かれ場所取りが。近くにいたご主人に何が始まるのかと訪ねたら逗子の花火大会が今晩開催されると。ここは無料の特等席なのであろう。時間はまだ、16時前、開催まで3時間半近く!!逗子海岸沖の花火の打ち上げ台船(船台)をズームして。「あぶずり港内駐車場」から1Fに、旬の地の食材を使用したフランス風創作海辺料理店「レストラン ラ・マーレ」のある建物を見る。そして「小浜海岸」を見る。「旗立山」の北側の道路沿いにあったのが「旗立山麓の丸石神」。「手前に置いてある石は、条が残されていることから縄か綱が巻かれた跡のようで、漁網(ぎょもう)か錨綱(イカリづな)に使われたのではないでしょうか。そう考えると丸石も元は船を安定させるバラストだったのかも。かつて三浦半島の西側や相模湾一帯は、通船の便があったと考えられています。」とネットから。「小浜海岸」の先に見えたのが「逗子市浄水管理センター」。逗子市内唯一の下水道終末処理施設。逗子市桜山9-2448-4。「小浜海岸」から国道134号沿いの「葛が浜海岸」、「大崎公園 展望台」方向を望む。「鐙摺葉山港入口」交差点。花火打ち上げ船台を再び見る。県道207号・森戸海岸線を北に進む。この先から、逗子市が始まるのであった。三浦郡葉山町堀内。次に訪ねたのが「鳴鶴公園」。「鳴鶴公園は逗子市にある住宅街のコンパクトな公園です。昭和後期につくられた第二次ベビーブームのための公園です。」とネットから。「鳴鶴公園」。「鳴鶴公園」内にあった「岩ケ谷遺跡」。そしてここは「平田東助別荘跡」であると。平田 東助👈️リンク(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の武士(米沢藩士)、官僚、政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任した。山縣有朋の側近として知られる。また、第2次桂内閣において神社合祀を強力に推進した。出羽国米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。爵位を継いだ長男の平田栄二(松堂)は日本画家、その次男の松下正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。次男の平田昇は海軍中将となった。大正14年(1925年)3月、病気により辞任。同年4月に逗子のこの場所にあった別荘に於いて薨去された とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.02
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「諏訪神社」を後にして、県道207号線に戻り、100mほど北に進み再び海岸に。この時は、干潮の時間で、前方の岩場が大きく広がり、岩場で遊ぶ子供達の姿も。岩場の奥には「葉山灯台」が再び。「諏訪防波堤」は、しっかりした立入禁止措置がなされていた。「葉山マリーナ」の敷地境界線となっているようであった。「葉山マリーナ」のヨットハーバーを見る。遠く江ノ島の姿が確認できた。そして、来た路地を戻り再び県道207号線に出て、「葉山マリーナ」の正面に向かう。入口にあった「鈴木三郎助像」。近づいて。「三代 鈴木三郎助《葉山マリーナ創業者》1890(明治23)年~1973(昭和48)年味の素株式会社三代目社長であり、京浜急行電鉄株式会社社長も努めた鈴木家の第三代当主・鈴木三郎助は、葉山マリーナの創業者であります。彼の父、二代鈴木三郎助は、葉山の海岸に打ち上げられるカジメから薬品の原料となるヨードを採取する事業を始め、1893 (明治26 )年には鈴木製薬所として現在の葉山マリーナが建つ場所に工場を建設しました。鈴木製薬所は次第に事業を拡大、やがて「味の素」という新事業も興し、葉山から離れていきますが、当地は鈴木家とうまみ調味料「味の素」の出発地として大切に保持されておりました。そして初の東京オリンピック開催に当たり、本邦初となるヨットハーパーのあるリゾートホテル建設を、当時の五輪担当大臣から提案された三代鈴木三郎助は、1964 (昭和39 )年、この地に葉山マリーナを建設しました。銅像は以前ホテル正面玄関に建立され、施設建て替えの際に一時保管された後、2011(平成23 )年に再設置されました。建立記念の「題字」は、京浜急行電鉄株式会社会長(当時)小谷昌氏の揮毫によるものです。」「鈴木三郎助翁像 小谷 昌」と。「HAYAMA MARINA」。レストラン、ショップが併設されたマリーナ。葉山は日本ヨット発祥の地。潮の香りと、マストに当たるロープの軽快な音を聞きながら、湘南の海にきたことを実感。マリーナ内にはレストランやカフェ、ショップが入っており、ゆっくり時間を過ごすこともでき、多くのお土産も販売されていた。ズームして。中央に「葉山マリーナ」の「ロゴマーク」が。(ネットより)。多くのヨットが所狭しと係留中。江ノ島をズームして。「旗掲揚ポール」を見る。併設されていたレストラン、ショップをしばし散策。様々な色の「HMYCクラブTシャツ」が販売されていた。2Fへの階段。2階にはレストランが。●広東料理 青羅 コース料理から評判の麺類まで、自然の風味と素材の旨味を活かした広東料理。●葉山わさび お刺身をはじめ魚も充実。新鮮な魚介類と美味しい串揚げが楽しめる。●葉山AROMANCE(アロマンス) AROMANCE とはAROMA(香り)とROMANCE (物語)をマリアージュさせて生まれた 「葉山」発の香織(かおり)のブランド。南仏コートダジュールと葉山の自然豊かな 風景を 重ね合わせて調香した穏やかで優しい香りを楽しめる と。江ノ島・裕次郎灯台周遊クルージングも楽しめると。1便:11:00~ 2便:13:30~ 3便:15:00~※11/16~3/15期間の平日は1便・2便のみ運航大人3,000円 (税別) 小人1,500円 (税別)クルージングのコース案内。外に出て、「葉山マリーナ」の本館・マローナプラザを振り返る。レストラン・ショップ・クルージング案内。そして再び県道207号線に出る。「葉山マリーナ」の駐車場前にあった民家を。歴史を感じさせる屋敷の広い住宅が並んでいた。「葉山日陰茶屋」手前の左側にあったのが「三浦二十四番 観世音大士」碑。この細い坂道を上って行った。この後に訪ねた「海宝寺」の墓地の前を進む。所狭しと並んだ多くの石仏が迎えてくれた。手水場。「海宝寺」の本堂。詳しい由来などは分からないようだが、「新編相模国風土記稿」の「三浦郡 衣笠庄 堀内村」の欄に光徳寺の子院として紹介されており、「海寶寺 是も域外に在。別に除地を附す。正観音を置。郡中札所三十三観音の第二十四番なり」と、簡単に紹介され、現在でも光徳寺が管理されているとのこと。ちなみに、除地とは江戸時代、幕府や藩から年貢を免除された土地のこと。幕府からも一定の信仰を得た、由緒正しいお寺なのであろう。扁額「海寶寺」。 「鐙摺(あぶずり)港 」 側からの民家に挟まれた路地奥にあった寺。内陣。現在は同じく堀之内にある光徳寺の持ち寺になっているとのこと。寺歴は定かではありませんが、江戸時代の地図にも『戒宝寺』と記されているとのことで、相当に由緒ある古いお寺のようであった。境内には六地蔵のお姿も。近づいて。石祠に納められた石仏。六地蔵の両脇にあった「庚申塔」(右)。六地蔵の両脇にあった「庚申塔」(左)や五輪塔他が並ぶ。そして「海宝寺」の隣・南側にあったのが、「鐙摺 須賀神社」。手水場。拝殿。三浦郡葉山町堀内44。虹梁上の目貫には兎の彫刻が。なぜ兎を?気になります。波との関連から、海難除け関連でしょうか。内陣。石鳥居。海岸から一段上がった高台の上。すぐ北側には源頼朝ゆかりの鐙摺あぶすり城址の高台もあった。白い神明鳥居が、海に似合うのであった。扁額「須賀神社」と。そして境内から「海宝寺」の「六地蔵」その奥に「旗立山(鐙摺城出城跡)」を見る。県道207号線沿いにあったのが「葉山日影茶屋石蔵」。種別 国登録有形文化財(建造物)登録年月日 平成23年1月26日所在地 葉山町堀内16-1構造 石造2階建、瓦葺、建築面積31平方メートル時代 大正10年頃登録基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの「日影茶屋本店客室棟」。日影茶屋はかつて「日蔭茶屋」と書き、江戸時代から続く老舗茶屋で知られています。明治初期には「茶漬茶屋」の記録がありますが、明治9年に「旅泊渡世鑑札願」が出され、この頃から宿泊客も扱うようになったようです。大正10年頃に現在ある房州石の石蔵を建造し、大正11年には暴風雨の影響で建物の一部を移築して、このときに内蔵の持ち上げ工事や帳場、板場、奥棟、店舗の改築工事を行っています。大正12年春には帳場ができて客室棟も2階建てとなり、このときに車廻しが付けられています。昭和9年には大玄関と大玄関から左手の客室、風呂場、洗面所を取り壊し、客室の改築が行われた。現在の客室棟天井に残された棟札により、上棟年月日は昭和9年3月13日であることが明らかとなっています。昭和40年代には大改装工事が行われ、調理場と店舗等がグリルに改修され、大きく雰囲気を変えています。しかし、1階の大広間や2階の客室は旧状をよく残しており、かつての様子をうかがうことができます。大広間は17畳と14畳の座敷がそれぞれ2組用意され、ふすまを開けると一間続きとなり、大広間として使用することができます。座敷では正面にそれぞれ黒檀の丸太柱を据えた大床が用意されています。座敷と次の間を仕切る欄間は筬欄間(おさらんま)、室内には長押のほかに内法長押が廻されて、違い棚と書院窓を配した床脇を備えています。客室は8畳敷と6畳敷の間の組み合わせによる部屋が4室用意されており、旅館として栄えた様子を伝えています。明治中期なると葉山は海浜別荘地として栄え、多くの人々に知られるようになり、それに伴って文人・名士も数多く訪れました。その名所旧跡は葉山の各地に残り、多くの逸話を伝えていますが、日影茶屋もまた、文人・名士で賑わいを見せた場所として歴史的に価値の高い建物ですと ネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.01
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