JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.04.11
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カテゴリ: JINさんの農園
「遠藤宮原線」の「榎戸」交差点を右折して片側2車線の歩道を東に進む。



道路の反対側には大きなガラス温室が続く。



サンクイックトマト 井出農園 」と。
井出トマト農園は、「1次産業」であるトマト生産から、ジュースやケチャップなど加工品を
手掛ける「2次産業」、そしてそれら製品を直営店舗や自然体験、他農業経営者の支援を行う
「3次産業」までの「6次産業」を展開している。
農業の新しい価値の創造を通じ、社会からの期待に応え、一人ひとりが輝く豊かな世界の実現を
目指している と。







そして路地を左折すると右手にあったのが「 妙福寺 」の「 山門 」。
藤沢市打戻2587。



「山門」前から「鐘楼」を見上げる。



「山門」前に「妙福寺」の掲示板。



今月の聖語
ただ我信ずるのみにあらず
いのちに合掌
=安穏な世を目指して=

この文は、「また他の誤りを誡めんのみ」と続きます。世の中を良くするために、良いと思った
ことを自分自身にとどめず、他人の誤りを注意していこうということです。
私たちは日常生活のなかで、自分だけの正解を相手に押し付けてしまったりすることがあります。
それはともすれば、むやみに相手を否定しかねず、発展性のないものになってしまいます。
他人に注意や忠告などをする場合は、一度立ち止まって独りよがりの自分だけの正解に
とらわれていないかよく考え、常に相手を尊重し、安穏な世の中を願いながら行ないましょう。
鎌倉時代の日蓮聖人はお釈迦さまが説かれた経典の1つ『法華経』を信仰の基にしましたが、
改めてすべての仏教経典を読み込まれて人びとの安穏を願い『立正安国論』という書を
著しました。

◎日蓮聖人ご遺文『立正安国論』
私たちの心の持ち方を改め安穏な世の中にしていこうと、鎌倉幕府の実力者である前執権最明寺
入道北条時頼に上奏した書物です。日蓮聖人の代表的な著作です。
  文応元年(1260)39歳」



石段を上り、山門を潜って境内に。



巨大な日蓮聖人像が迎えてくれた。



お顔をズームして。



「祈願堂」。







扁額中央には「南無妙法蓮華経」の文字が。



観音像。



「鐘楼」。



梵鐘をズームして。



「本堂」。







石灯籠。



天水桶。



近づいて。
日蓮宗の宗紋「井桁橘(いげたたちばな) が中央に。



本堂を正面から。
本尊釈迦牟尼仏 (三宝諸尊:大正・昭和の火災で一尊のみ安置)。昭和九年(1934)の火事で、
堂塔を焼失、ニ棟あった蔵にも火が入り、 将軍関係などの寺宝をすべて失いました
また記録類も失われました。 平成五年(1993)、日遠上人第三百五十遠忌の記念として、
本堂・客殿・庫裡を新築 しました。
妙福寺は、 慶長ハ年(1603) に徳川家康の側室「お万の方」(水戸光圀祖母)が帰依した高僧
日遠上人を開基開山として創建 され、徳川家の庇護を篤く受けたと伝えられています(縁起より)。
別説に正保三年(1646)創立とされていますが、日遠は慶長ハ年に亡くなっているので、弟子の
日福が師を開山に据えたと考えられます。また、十五代将車徳川慶喜が隠居後、当寺で暮らす
つもりでしたが鳥羽伏見の戦い敗れ実現しませんでした。170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てられ、
当時は寺域が広く、七町歩ありましたが、後の社会変動、第ニ次世界大戦などを経て大幅に減少
してしまいました。
室町期の作とされる日蓮上人坐像(当寺祖師像 像高36.0cm)や、天明四年(1784)開眼の日蓮上人
が安置 明治の
初めには村役場 が置かれました。他に、 墓地の上方に三十番神堂、釈迦堂、境内に祈祷堂
あります。」と資料から。



屋根には 徳川家の家紋の「葵」の紋 が。
ーロに葵の紋といって、様々な意匠がある。特に 徳川家康公の代になってからは、
「三つ葉左葵巴の紋」のデザインが定着 し、徳川三代の家紋として利用し始めた。
いずれにせよ徳川家の葵の紋は、賀茂明神の信仰に基づくもので、それを変形したものである。



内陣に近づいて。



本堂の扁額「 陽向山 」。
十五代将軍慶喜は隠居後当寺で暮らすことを予定するなど、幕府の厚い保護を受けてきた寺。
鳥羽伏見での敗戦で、寺への隠棲は実現しなかったが、170人ほどが宿泊可能な庫裡が建てら
れていたと。 本尊は日蓮、三宝諸尊を安置。



内陣。

写真の説明はありません。

ズームして。



この写真はネットから。



虹梁の龍の彫刻(右)。



虹梁の龍の彫刻(左)。



花頭窓。



木魚に鼠そして居眠り小僧 の石製置物が本堂前に。



庫裡・客殿。



本堂の左を奧、石段の上には、八角形の御堂 ・釈迦堂 があった。



その横にも建物・ 三十番神堂 があった。



ドコモ打戻無線中継所



山門前から本堂を振り返って。



鐘楼近くの石碑には「 法界 𭇥 識 宜禪院日弘聖人 」と刻まれた石碑があった。
法界の 𭇥 とは「 生命をもつすべてのもの 」を意味すると。



「妙福寺」を後にして、「遠藤宮原線」の坂道をさらに上って行った。
右手に連なる温室には「井手農園 野菜直売所」案内板が。



左手に立っていた石碑。
藤沢市打戻2588。



夢の大地
平成十一年ニ月、打戻大仲土地改良区は、当地を東西に縦断する巾25メートル道路の建設と
俟って施工に 及んだ。古来よりこの一帯は起伏が激しく、農作業には支障を来し、困難の解消
区内を奔る道路は四面に通じ、整然とした区画畑は、以前の地形をとどめることを知らず。
拓けた耕地の展望は景観をよくし、新生活力の夢を膨らませる。首尾一貫、事業の工成りしを
刻み永世に伝える。
     平成十四年(2002)三月ニ十六日建立」



裏面には土地改良組合の関係者の名前が刻まれていた。



巾25メートル道路 、そして「 夢の大地」碑 を振り返って。



民家の庭には「ヒメキンギョソウ・リナリア」?に似た花が。



坂を上り終わると信号が。



宇都母知(うつもち)神社入口 」交差点。



この交差点を右折して「 宇都母知神社 」に向かって進む。



真っ赤な椿の花が咲き溢れるが如くに。



近づいて。




                                 ・・・もどる・・・



                  ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.04.11 06:09:33
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