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森戸大明神の裏手に進み、鳥居をくぐって小さな丘に向かって石段を上る。「葉山町指定重要文化財 天然記念物 森戸大明神ビャクシン」と。「神奈川県 かながわの名木100選 森戸大明神のビャクシン」案内板。「神奈川県 かながわの名木100選 森戸大明神のビャクシン和名:イブキ(ヒノキ科)源頼朝が当地に伊豆の三島神社を勧請した際、そこの若木が飛来し、岩壁に根付いたものと言われている。古木が海上にのりだした姿は珍しい。葉山町の天然記念物に指定されている。樹高 15メートル 胸高周囲 4.0メートル樹齢約800年(推定)イプキはビャクシンも言い、東北南部から九州の海岸に生える常緑高木で、社寺や庭園によく植えられるほか、生け垣などに用いられる。樹高27メートル、胸高周囲8メートル、樹齢約1500年に達するものもあると言われている。」石段の先に石碑が現れた。「御神木 飛柏杉」と。一般に飛柏槇とかかれ間違いないが、神社としては槇ではなく杉を使って下の写真の如く「飛柏杉(びびゃくしん)」と表現して欲しい と。森戸大明神のビャクシン(柏槙)。和名:イブキ(ヒノキ科)。源頼朝がこの地に伊豆の三島神社を勧請した際、そこの若木が飛来し岸壁に根付いたものといわれていると。古木が海上にのり出した姿は珍しいと。別の角度から。「飛柏杉(びびゃくしん)」の近くには日吉社が祀られていた。そして、「飛柏杉(びびゃくしん)」をあとにして石段を下ると、右手に見えたのが森戸大明神裏の岩の上に立つ「千貫松」。源頼朝が衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した際、岩上の松を見て「如何にも珍しき松」と褒めたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたと言い伝えられている。「菜島 (名島) 鳥居」。神社裏手の磯辺より沖合い700メートルに浮かぶ小さな島で、赤い鳥居が目印。ズームして。「葉山灯台(裕次郎灯台)」ヨットマンだった石原裕次郎さんの三回忌を偲び、1980年から1993年まで日本外洋帆走協会の会長を務めた、兄の石原慎太郎さんが約1億円の基金を集めて建設しました。灯台のプレートには「海の男 裕次郎に捧ぐ 葉山灯台」と刻まれているとのこと。2018年に撮影した、富士山を背景にした裕次郎灯台と朱の鳥居の写真 を。遠く、鎌倉市長谷3丁目にある「長谷寺」の姿が確認できた。「江ノ島」をズームして。「石原裕次郎記念碑」。神社裏手の海岸入り口には、湘南で青春を過ごし、この地をこよなく愛した俳優、故石原裕次郎のブロンズ像と兄の石原慎太郎自筆の詩が刻まれていた。「夢はとおく 白い帆に のって 消えていく 消えていく 水のかなたに」「太陽の季節に実る 狂った果実たちの 先達 石原裕次郎を 偲んで」。これも、2018年に富士山をバックに立つ石原裕次郎記念碑を撮った時の写真。「森戸大明神裏の海岸」の岩場を見る。「マルチーノ公使ベルツ博士記念碑」ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ人物と。 彼は葉山が黒潮の影響で冬は暖かく夏は涼しい温暖の地で、風光明媚であるということに注目し「葉山」が保養の地として最適であると皇室に進言し、明治27年に葉山御用邸が造営されたのだと。その功績を称えてこの場所にこの記念碑が建てられた と。石碑には、IN MEMORIAM CHEV. RENATI DE MARTINO ET PROF. DR. ERWINI BAELZマルチイーノ公使・ベールツ先生 記念碑葉山一帯ノ地源平時代二在リテ其名己二顕 ハル而シテ近古二及ヒ却テ聞ユル所アラス明治二十年中東京駐紮伊太利公使レナード・デ・ マルチイーノ氏甚タ葉山ノ風景ヲ愛シ創メテ 其ノ別業ヲ森戸ニ営ム 後ノ細川侯邸即チ是ナリ 先師エルウイン・ベールツ先生モ亦其ノ海岸附近ノ地ニト宅シテ暇日休息ノ処卜為シ頻二此地ノ保健ニ適スルヲ推賞ス 池田徳 潤男、秋田映季子、相前後シテ別墅ヲ森戸ノ丘陵ニ建ツ 明治22年6月鉄路ノ通スルニ及ヒテ井上毅子モ亦ベールツ先生ノ説ニ聞キテ其冬一色ニ来リ住ス 翌年夏金子堅太郎伯モ亦至ル 尋テ有栖川宮家ノ別邸成ル明治27年ニ至り其1月ヲ以テ始メテ御用邸ヲ置カル 是二於テ葉山ノ名忽チ天下二鳴ル 予モ亦夙二其風光ノ明眉ト気候ノ温和トヲ愛シ蝸蘆ヲ 森戸ニ築キテヨリ己ニ三十有余年ヲ過キ 頗ル先師着眼ノ敏ナルニ服ス 予他年葉山発達ノ 歴史ノ或ハ湮滅ニ帰スルアランコトヲ憂ヘマルチーノ公使及先師ベールツ先生ノ先唱ノ功ヲ石ニ勒シテ以テ後人二諗ク昭和十一年 二月 東京帝國大學名誉教授 醫學博士 入澤達吉 識 野村保泉刻」「葉山町指定重要文化財 建造物 顕彰碑 ベルツ博士・マルチーノ公使記念碑」「詩人 堀口大学 詩碑」。 「花はいろ 人はこころ」昭和25年6月、葉山の温暖な土地柄を愛して移り、多くの業績を残して昭和56年3月15日、89歳で死去。葉山町名誉町民(昭50年)。町制50周年を記念して建てられたと。「昭和天皇御即位五十年記念碑」。「近上践祚五十年」と。昭和天皇の御即位50年を記念し、昭和50年に建てられた記念碑。「明治天皇御製・照憲皇太后御歌碑」。明治天皇 海辺雪 「波のうへに 富士のね見えて くれ竹の 葉山の浦の 雪はれにけり」照憲皇太后 里神楽 「くれ竹の 葉山の宮に きこゆるや 森戸あたりの かぐらなるらむ」「高橋是清歌碑」。「堪忍の 股よりのぞけ 富士の山」2・26事件で暗殺された高橋是清の別邸跡が「葉山交流館」になっている と。この碑は?「・・・・参拝記念建之」「大正天皇即位の御大典記念碑」。大正天皇の御即位を記念して、大正4年に建てられた記念碑。「侯爵細川家 松樹五百本寄進の碑」。侯爵であった細川家より、当神社に松の木500本が寄進された記念として建てられた と。「寄附事業記念 大正四年秋九月 東京御供講」と刻まれた石碑。「永代神楽」碑。「森戸大明神裏の海岸」の岩場を再び。鳶(とんび)襲来。ベンチに座り休憩していると、隣の御夫婦が食べていた弁当のおかずを鳶(とんび)が頭上から襲い奪って行ったのであった。御夫婦は早々にこの場所を避難して行ったのであった。そして私も早々に。森戸海岸を後にして、再び「森戸神社」の境内へ。「待合所」奥の「おみくじ所」を訪ねた。窓には「大漁旗」が。「森戸大明神御祭神 大山祇神(おおやまつみのかみ) 事代主神(ことしろのぬしのかみ)御利益 除災招福「鎌倉を守る要所に鎮座する頼朝ゆかりの社」伊豆の韮山で流人として暮らしていた源頼朝が静岡県三島市にある三島大明神(現・三嶋大社)に源氏再興を祈願した。のちに大願成就した頼朝は1180年に鎌倉に拠点を置くと、この地に三島大明神の御分霊を勧請し森戸大明神とした。大山祗神、事代主神をお祀りする。七瀬祓の霊所のひとつとして、心身浄化の禊や災厄除けの加持祈祷が盛んに行われた場所であり禊橋にその名残が見える。源頼朝の別邸があり、歴代将軍がこの地を訪れて流鏑馬や相撲などの武事を行ったことが『吾妻鏡』に記されている。和田義盛ゆかりの千貫松や三島大明神から飛んできたと伝わる「飛柏槇」などの史蹟に加え、晴れた日には海の向こうに富士山を望めるなど、風光明媚なところも魅力である。」「鯛みくじ」の「恋し鯛」、「めで鯛」。「一心泣き相撲 葉山場所」👈️リンク が令和6年10月6日(日)に開催されると。「一心泣き相撲®では日本の伝統行事を通じて、赤ちゃんとの思い出作りをお手伝いします。四百年以上の歴史を有する泣き相撲は、赤ちゃんの泣き声やしぐさに合わせて行司が勝負を預かり『 緑児泣きたるは万歳楽 』と、すこやかな成長と健康を祈願する日本の伝統行事です。化粧廻しと紅白綱を締めた赤ちゃんが人生の初土俵へあがる姿は可愛らしくも逞しくもあり、その成長をご家族皆様で感じられることから、『赤ちゃんの卒業式』と呼んでいます。会場では、相撲、御祈祷、赤ちゃん力足(四股奉納)をはじめ背伸び太鼓や、参加記念として手作りのカブトや赤ちゃんの記念手形の授与などのイベントを開催しています。」とネットから。神奈川県神社庁の5月のポスター。「まことの道 【皐月】五月 石の上にも三年」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.28
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「庚申塔」。猿田彦大神を祀った庚申塔は葉山町唯一で、三浦半島では珍しい流れ造りの石祠。「庚申塔庚申の信仰は、中国の道教の思想に基づくもので、江戸時代に盛んになり講中の人たちが庚申塔を建立した。六十日毎にめぐって来る庚申の日の夜、眠った人の体内から三尸と呼ばれる虫が出て、天帝にその人の罪過を報告し罰か下されるといわれ寝てはいけないと信じられていた。」●造立年号(塔に刻まれている年月日:享保11丙午天10月庚申日(1726年)●碑型、石質、其の他: 石祠(流れ造り)、安山岩、単基。●大きさ及破損度: 高さ78cm(屋根及台石共)。宮殿間口30cm。屋根右前少し缺ける。●刻像 : 無し。●銘文 : 室の内部中央に「猿田彦大神」と刻し、台石に「真名瀬庚申講中」と右から横書に刻む。 向って右側面に年号、同左側面に月日を記す。●塔の特徴: 猿田彦大神を祀った庚申塔は、葉山町ではこの塔だけで他に無い。又流れ造りの 石祠は、三浦半島でも珍しい。葉山酒商組合の「菰樽奉納(こもだるほうのう)」場。江戸時代に江戸へ酒を運ぶ時、大きな酒樽が壊れないように巻いていたのが菰(こも)である。破損を防ぐ目的で、酒樽に菰(こも)を巻き付けたのが、菰樽(菰冠樽:こもかぶりたる)の始まりといわれています。今日では菰に色々な銘柄のデザインが描かれており、それぞれの酒造メーカーよりさまざまな願いがこめられたデザインになっているのだと。「手水舎」。掲示板の「六月祭事暦」。右手奥の社の中には、無数の小石が。「子寶石納所」碑。子宝石をお受けになり、赤ちゃんを授かったご夫婦がご出産の後、お宮参りに合わせて子宝石をお戻しいただく場所です。納める際は、子宝石へお子様のお名前をご記入いただき、お子様が石のように丈夫でありますよう願いを込めてお戻しください と。近づいて。「森戸神社」の「子授祈願」・「安産祈願」の「絵馬」。こちらは「誕生奉告 成育祈願」の丸い「絵馬」。「絵馬掛所」。この絵馬は赤ちゃんの健康と成長を祈願。「水天宮」。「水天宮」。水天宮の内陣。「水天宮「まいられよ 子宝の福 さづかりに」と石碑に刻んである通り、古くから安産・子宝を求める人等の篤い信仰を受けている。左右にある「子宝の石」を手でなで、お詣りすると子宝が授かると言い伝えられている霊験あらたかな石です。」「句碑まゐられ(禮)よ 子寶の福 さ(左)づか(可)り(梨)に(耳)」。昭和3年から堀内に住んだ雪中庵東枝の句碑(昭和50年建立)。「社務所」・「御朱印受付所」。移動して。「おせき稲荷社」。近づいて。「おせき稲荷社」と。「おせき稲荷社古来より「せきが止まらない人」又「咽を使う職業の人たちの篤い信仰があります。」内陣。そして参道を進むと「森戸神社」の狛犬が迎えてくれた。狛犬(右)。狛犬(左)。そして正面に「森戸神社」の「社殿」。近づいて。内部の様子をネットから。「森戸大明神永歴元年(一一六〇)伊豆の蛭ヶ小島に配流された源頼朝公は三嶋神社を深く信仰し、源氏の再興を祈願した。治承四年(一一八〇年)その神助を得て旗上げに成功して、天下を治めた頼朝公は自らが信仰する三島神社の御分霊を、鎌倉に近き元山王の社地であった此の景勝の地に勧請して、永く感謝の誠を捧げたと伝えられる。当時のことは、社宝として奉蔵の後二條院並びに花園院の院宣によっても篤く崇敬された様子がうかがわれ、又、吾妻鏡には、この地で加持祈祷が行われ、源氏はもとより三浦、北条、足利諸氏の崇敬も篤く、天正十九年(一五九一年)にし徳川家康公により社領七石が寄進されている。その後、明治の御代に移り、葉山に御用邸が造営され、ご滞在の折には天皇、皇后両陛下を始め皇族の方々の御参拝を仰ぎ、葉山郷の総鎮守として近郷近在より多くの参詣を得ている。特に境内より富士、箱根、伊豆、江ノ島を望む光景は絶景で、「森戸の夕照」としてかながわの景勝五十選に選定されている。御祭神 大山祇命おおやまつみのかみ 事代主命ことしろぬしのかみ(えびす様)御祭日 例大祭 九月 八日 潮神楽 六月十六日史跡飛柏槙(町指定天然記念物)(かながわの名木100選) 樹齢 八百年余り 元歴元年(一一八四年)頼朝公が当社を参拝の折、三嶋神社から種子が飛来し発芽したものと 伝えられ当社の御神木である。千貫松 頼朝公が衣笠城に向う途中森戸の浜で休憩した時、岩上の松を見て「如何にも珍しき松よ」と ほめたところ、出迎えの和田義盛は「我等はこれを千貫の値ありとて千貫松とよび候」と答えた という由来がある。子宝石 「まいられよ子宝の福さずかりに」と詠まれている通り古来より信仰の篤い石である。」「拝殿」横から「森戸川」、朱の「みそぎ橋」を振り返る。疾走する馬の絵馬。「社殿」前から境内を振り返る。「砲弾」。森戸神社社殿に上る階段右手に砲弾が一基奉納されている。台座に「奉納」と刻まれているのが判読できるのみで、基壇に銘板が取付けられているが風化侵食により判読不明。砲弾は28センチ砲弾で全長約97cm。宮司さんによると日露戦争の頃に奉納されたと聞いているのみで詳細不明とのこと。 であれば、日露戦争の戦利品であるロシア軍の砲弾であろう。台石46cm、基壇80cm。「おみくじかけ」。「多幸多福みくじ」。「恋し鯛みくじ」。社殿の裏には、層が顕になった巨岩があった。「葉山町指定重要文化財建造物 森戸大明神社殿」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.27
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「光徳寺」を後にして、葉山町堀内の住宅街を進み、県道207号線・森戸海岸線まで戻ると正面に「森戸神社」の朱の「一の鳥居」が姿を現した。右手にあったのが社号標石「森戸神社」。朱の鳥居に向かって参道を進む。「通年勤務 巫女アルバイト募集」と。「森戸神社 配置図」。①本殿 ②おせき稲荷社 ③水天宮 ④庚申塔 ⑤畜霊社⑥総霊社 ⑦社務所・授与所・待合所 ⑧待合所 ⑨手水舎 ⑩参集殿⑪飛柏槇 ⑫千貫松 ⑬名島(菜島) ⑭みそぎ橋 ⑮マルチーノ公使ベルツ博士記念碑 ⑯詩人・堀口大学 詩碑 ⑰昭和天皇御即位の御大典記念碑 ⑱大正天皇御即位の御大典記念碑⑲高橋是清 歌碑 ⑳明治天皇御製 昭憲皇太后御歌㉑源頼朝公別墅跡 ㉒侯爵細川家 松樹五百本寄進の碑㉓石原裕次郎 記念碑 ㉔葉山灯台(裕次郎灯台)㉕森戸の夕照(もりとのせきしょう) ㉖車祓所 ㉗駐車場 ㉘森戸海岸㉙富士山 ㉚江ノ島 ㉛子宝石納所 ㉜車いす・ベビーカー用スロープ朱の鳥居を潜り進み、参道の狛犬の手前を右に曲がる。正面に朱の橋・「みそぎ橋」が見えて来た。公衆トイレの手前に掲示板が。「葉山俳句会」の作品が八句。・飛魚や地球どこでも震源地 石橋静江・若葉風言葉の美しき人と会ふ 高梨久子・陽炎の中はくすぐったいかもね 小沢一郎・・・以下省略・・・「みそぎ橋」。道路橋で、「かながわの景勝50選」に選ばれたタ照の地、森戸川の河口に架かる小橋である。木橋を思わせる橋であるが、構造は鉄筋コンクリートで、橋長22m、幅員3.4m。優美な朱色の欄干と青銅の擬宝珠が取り付けられている。絵になる橋である。青銅の擬宝珠の下には「みそぎ橋」と。この森戸の海浜は、鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められ、事あるごとにお祓いやみそぎが行われたと「吾妻鏡」に記されています。このような故事により、この海辺で「みそぎ」が盛んに行われ、神社から海辺に通じる橋を「みそぎ橋」と呼ぶようになったと言い伝えられています。「みそぎ」とは重大な祭事の前に海水を浴び、罪穢を祓いのけ、身を洗い清めることです。神社入り口を右方向に曲がるとご覧になれます。下を流れるのは「森戸川」。上流側を見る。下流側を見る。正面に見えたのが「森戸神社」の社殿。ズームして。「みそぎ橋」を渡り、海に向かって川沿いを進むと左手に石碑が。誰に関する石碑だったのであろうか?これも、この後訪ねた西東三鬼に関連した石碑?「葉山海岸 即事 哲五月湘南景曷ぞ優なる近く看る江島浪間に浮かぶを遠く瞻れば蓮岳天蓋に聳ゆ暫らく童児に倣い貝を拾いて遊ぶ豫徴始めて車に乗る苔花闘病三年纔に関を徹し今朝乗車湘湾に向う患し無し半ば坐し半ば横臥す快適轔々葉山に至る」伊勢神宮 内宮の御手洗場に似た光景。ここも御手洗場なのであろうか?西東三鬼(さいとう さんき)の句碑「秋の暮大魚の骨を海が引く」。「西東三鬼、1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の日本の俳人。本名・斎藤敬直(さいとう けいちょく)。 歯科医として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。戦後は「天狼」「雷光」などに参加し「断崖」を主宰。」とウィキペディアより。「森戸川」の対岸の高台に「森戸神社」の社殿を再び。「森戸川」の河口を見る。この後に訪ねた、飛柏槇(ひびゃくしん)と千貫松(せんがんまつ)を見る。飛柏槇(ひびゃくしん)をズームして。「森戸海岸」を見る。岩場の奥に「江ノ島」の姿が。ズームして。移動して。再び森戸神社の社殿を森戸川越しに。「みそぎ橋」を渡り「森戸神社」の参道へ戻る。参道の両脇に巨大な狛犬が。狛犬(右)。狛犬(左)。「参集殿」が参道の左側にあった。来客や祭典奉仕者などをお迎えする施設として、また、結婚式の控え室としても利用されているようであった。「命が積もり歴史に成る HaYaMa Time」第32回葉山芸術祭 👈️リンクが4/24~5/12で開催されたと。<アーティスト>ブルース・オズボーンの作品とのこと。2003年に誕生した「親子の日」の理念は “「親」と「子」の関係を見つめて、家族、地域、社会、そして自然をも含むすべての「環境」に敬意を払い平和を願う” です。 そしてまた、「親から授かった全ての命が健やかに育まれてほしいという願い」を込めた私たちからの「未来への贈り物~present to the future~」として20余年の歳月をかけて育んできました。2025年(令和7年)1月に町制100周年をを迎える葉山町と、1894(明治27)年に竣工され御用邸の中でも一番長い130年の歴史を刻む葉山の御用邸が、私たちの希望を繋いでほしいと願い、今まで撮影した9500組の親子写真の中から葉山で出会った親子の写真を選び作品にしました と。「二の鳥居」は石鳥居。右手に「総霊社」。「総霊社」。社殿に近づいて。見事な彫刻。内陣は鍵で閉ざされていた・・・・。「総霊社英霊、祖霊を始め水子の霊など、この社には多くの霊がまっられています。どなたの霊でも「おまつり」いたしますのでお申し出て下さい」こちらは「畜霊社」。かつて、多くの家畜が疫病にかかった時、この社にお参りしお願いすると病から免れることができたと云われ、以来家畜(ペット)の守護神として篤い信仰があると。「畜霊社かつて、多くの家畜が疫病にかかった時、この社にお参りしお願いすると病から免れることが出来ると云われ、以来家畜(ペット)の守護神として篤い信仰を集めている」内陣には石製の社が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.26
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次の目的地の「葉山町堀内」にある「光徳寺」に向かって進む。こちらは「光徳寺」から少し離れた場所にあった「光徳寺の墓地」。さらに「光徳寺」に向かって進むと右手に小さな社があった。内部には五輪塔の如く石塔が安置されていた。「光徳寺 観音堂」碑。住職の?住宅の離れにあった「観音堂」。「観音堂」。「観音像」に近づいて。さらに。そしてこちらが「会館 望嶽亭」への入口。七重石塔。そして本堂への参道。六地蔵。手水舎。本堂前の石灯籠(左)と天水桶。石灯籠(右)。本堂を正面から。宗派 浄土宗山号 仏心山院号 常照院寺号 光徳寺本尊 阿弥陀如来所在地 三浦郡葉山町堀内1349番地。本堂に近づいて。扁額「慈徳殿」。本堂内陣。鐘楼。梵鐘。「重建記念碑」。「重建記念碑」「重建」とは再建の意味であると。「宗祖 円光大師」碑。寺務所。望嶽亭。寺報「おてらでは」。令和六年三月十五日号。老僧 祝 92才 記念写真。寺の屋根にも「光徳寺」と。飾り瓦。鈴木家墓地入口。鈴木竹雄家之墓 と。正面にも石灯籠、墓石が並ぶ。再び「望嶽亭」への山門。「掲示板我田引水〈意味〉 自分の田に水を引き込むこと。自分の都合のよいように言ったり、行ったりすることの たとえ。自分に好都合になるように事を取りはからうことのたとえ」。〈構成〉 「我田」は自分の所有する田、「引水」は水を引き込むこと。〈類義語〉得手勝手」左手の石碑には「従是光徳寺行」と。「南無阿彌陀佛」碑。「日露戰死病歿之英霊南無阿彌陀佛」と。再び参道を振り返る。「あじさい公園」に向かったが、まだ早そうなので引き返した。「HAYAMA Town Guide」。現在地はここ。次の目的地の「森戸神社」に向かって葉山町堀内の住宅街の路を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.25
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県道207号線・森戸海岸線を左折して「芝崎海岸」に向けて進む。前方にあったのが「CONDOMINIUM THE HAYAMA」。相模湾に面した岬に建つ4階建て(地下1階)・総戸数34戸の低層マンション。ヨーロピアン調の外観が特徴的、共用部に設けられた屋外プールから眺める太平洋は絶景と。優雅な空間を実現できるリゾートマンション と。防波堤に沿って西方向に進む。この日の散歩ルート。「ライオンズマンション葉山マリンビュー」が前方に。「HAYAMA MARINE VIEW」と。芝崎海岸は東京から1時間強くらいで行けるシュノーケリングエリアの中では、間違いなく関東でNo’1のシュノーケリングポイントだ と。この時間は干潮時で多くの岩場が海面上に姿を現していた。芝崎海岸では多くの種類の魚を大量に目撃することができ、浅い場所から10メートルを超す深い場所までバラエティに富んだ広大なポイントである と。遠く江ノ島をズームして。柴崎海岸からの富士山の姿をネットから。防波堤に囲まれた五角形の形になっている沿岸道路をさらに進む。建物は「マイキャッスル葉山」。地上5階 地下1階建、総戸数44戸のマンション。「葉山町指定天記念物 葉山柴崎海岸及び周辺水域」案内板。「葉山町指定天記念物葉山柴崎海岸及び周辺水域 平成7年4月1日指定第44号相摸湾に面したここ芝崎海岸は、葉山層群の森戸泥岩層及び森戸凝灰岩層からなる磯で、潮間帯、潮下帯ともに転石地帯、砂礫、砂地等が広がり、変化に富んだ地形をしています。海洋環境については、黒潮系暖流の流れによる外洋水の影響を受けるため、潮通しがよく、透明度も良好です。また、黒潮系暖流の影響で、真冬でも10度以上の海水温を保ち、一部を除く暖流系生物が周年見られる海域となっています。また向芝原(岸側中央部の小高い所)から沖合いにかけての自然は残され、ここで観察される海洋生物は貝類・甲殻類・魚類・海藻類など多種多様です。かって、昭和夭皇が当地へ調査研究に来訪され、ウミウシ類、ホヤ類、ヒドロ虫類の新種を多数発見されました。中には芝崎の岩礁の一つである鮫島にちなんで「サメジマオトメウミウシ」と名付けられたウミウシの新種もあります。このように、芝畸海岸は狭いながら多種多様な海洋生物が豊富に見られる海域のひとつになっています。 葉山町教育委員会 平成23年11月」岩場で遊ぶ家族連れ?の姿も。この時は潮が引いていたのであった。「菜島(名島)の鳥居」をズームして。その先に朱の小さな社の姿も。「江ノ島」と「菜島(名島)の鳥居」のコラボを。「菜島(名島)の鳥居」の上に「江の島シーキャンドル」。「葉山灯台(裕次郎灯台)」。葉山灯台は、俳優たけでなくヨットマンでもあった故石原裕次郎氏の三回忌を記念して、兄の石原慎太郎氏が基金を募り1989年に建設しました。そのため「裕次郎灯台」とも呼ばれています と。民家の塀には濃いピンクの「マツバギク(松葉菊)」が。近づいて。葉と花の形から「マツバギク(松葉菊)」と呼ばれ、多肉質の細長い葉が密生し、キクのような花を咲かせていた。やや寒さに弱いが、乾燥や潮風に強く、やせ地でもよく育ち、横に這うように広がっていくので地面を覆うグランドカバーにも適しているとのこと。 「真名瀬(しんなぜ)漁港」。管理者 - 三浦郡葉山町漁業協同組合 - 葉山町組合員数 - 56名(2001年(平成13年)12月)漁港番号 - 2110080漁船が停泊中。漁船をズームして。「真名瀬漁港での禁止事項」案内板。「真名瀬海岸」を見る。「第1種 真名瀬漁港所在地:神奈川県三浦郡葉山町一色管理者:葉山町 都市経済部産業振興課 所管所:水産庁」漁港の種類は、漁船の利用範囲によって漁港漁場整備法 第5条第19条の3に基づき、次のように分類されます。 ・第1種漁港 : その利用範囲が地元の漁業を主とするもの。・第2種漁港 : その利用範囲が第1種漁港より広く、第3種漁港に属しないもの。・第3種漁港 : その利用範囲が全国的なもの。・第4種漁港 : 離島その他辺地にあって漁場の開発又は漁船の避難上特に必要なもの。・特定第3種漁港 : 第3種漁港のうち水産業の振興上特に重要な漁港で政令で定めるもの。 以下の13港が政令で指定されている。 八戸(青森)、塩釜(宮城)、気仙沼(宮城)、石巻(宮城)、銚子(千葉)、三崎(神奈川) 焼津(静岡)、境(鳥取)、浜田(島根)、下関(山口)、博多(福岡)、長崎(長崎) 枕崎(鹿児島) とネットから。「真名瀬漁港」入口から「由比ヶ浜」方向を望む。県道207号線まで戻り、この後に訪ねた「森戸神社」方向を見る。「真名瀬海岸」からのダイヤモンド富士 をネットから。ハイキングコース案内「はやま三ヶ岡山緑地 真名瀬コース」。その奥には大きな藁葺き屋根の家が。現在は空き家になっているようであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.24
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「森山社」を後にして、県道207号線に向かって、葉山町一色の住宅街の道を進む。「長雲閣こみち」。長雲閣とは、総理大臣や陸軍大臣を歴任した、桂太郎氏の別荘のこと。日露戦争の前後には、政府要人たちが度々会議に使用したそうです。現在は、この小道に名前が残るのみ。古い時代に想いを馳せつつ、さらに進みます。「長雲閣こみち」。県道沿いのレストランの塀に「桂太郎別荘・長雲閣跡」の案内が掛かっていた。が、私が聞いた話では、県道から少々入った建物である。下の写真は、「長雲閣こみち」と、中央に建物が写っているが、その建物が、数年前まで桂太郎別荘とされていた。しかし地元歴史家よると、ここではなく、向かい側の建物がそうだと変更になったのだと。「桂太郎別荘跡」はここであっただろうか?日露戦争前後には、政府要人による重要会議が別荘を中心に度々開かれている。司馬遼太郎原作「坂の上の雲」でも「葉山会議」と称して登場している。そして再び県道207号線に出て北上する。左手にあったのが「神奈川県立近代美術館 葉山館」。奥にあったのが屋外にある常設展示。2003年の開館以来、一部作品の入れ替えや追加を経て、2016年に旧鎌倉館から移設された9点が加わり、現在は彫刻20点が庭園に、壁画2点が建物内に常設されている。葉山館のイラストマップ「彫刻はどこにいるの?」(館内無料配布)と一緒に、一色海岸に臨んだ庭園を散策しながら野外彫刻を楽しんだのであった。三浦郡葉山町一色2208−1。茶色の石材で。中島幹夫 NAKAJIMA Mikio『軌 09 Orbit 09』1966年館内では「吉田克郎展」が、開催されていた。「吉田克朗展 -ものに、風景に、世界に触れる」会期:2024年4月20日(土)〜6月30日(日)。武蔵野美術大学の教授だった美術家、吉田克朗の全貌に迫る初めての回顧展と。吉田克朗『触“春に”V』。これまでほとんど紹介されることのなかった作品や、さらに油彩から版画作品までを網羅し展示していると。県道沿いには幟が立っていた。駐車場の横にあったアルミニウム&大理石の作品。清水九兵衛 KIYOMIZU Kyuubei『BELT』1978年駐車場から「神奈川県立近代美術館 葉山館」を見る。小田 襄 ODA Jo『円柱の展開 Development of a Cylinder』1983年李 禹煥 LEE Ufan『項 Relatum』1985年「神奈川県立近代美術館 葉山館」入口。若林 奮『地表面の耐久性について』ホセイン・ゴルバ Hossein GOLBA(1956~)『愛の泉 Fountain of Love』イラン出身のホセイン・ゴルバの作品『愛の泉』。最初イタリアのチェレ彫刻公園の水飲み場として制作された。樹木の幹を鋳造、他の部分を蝋型で付加。「愛」の意味とは?「飲料水 Drinking Fountain右下のボタンを踏むと水が出ます」との案内も。水桶には二人の顔が。さらに葉山館だけの作者からの「おまけ」も足元に。強く踏むと、ボタンを踏んでいる足に水がかかるのであった。鈴木 昭男『「点音(おとだて)」プレート・葉山』2012年。『地平の幕舎』。鉄板でテントのような形を。鉄の赤錆がいい色を出していた。保田春彦 YASUDA Haruhiko『地平の幕舎』1993年『天地の恵み Blessings of the GOOD Earth』。眞板雅文 MAITA Masabumi『天地の恵み Blessings of the GOOD Earth』2003年『ハーモニーⅡ HarmonyⅡ』。波乗りジェーンって感じで。富樫 一 TOGASHI Hajime『ハーモニーⅡ HarmonyⅡ』1972年ここが先程訪ねた「葉山しおさい公園」からの連絡通路。「開門時間土曜日・日曜日・祝日の近代美術館開館日のみ午前10時30分~午後4時まで」「三ヶ岡遺跡神奈川県立近代美術館葉山の建設に伴い、この地にあった三ヶ岡遺跡が発掘調査され、主に古墳時代から平安時代(4 ~ 10世紀)にかけての集落の跡が発見されました。この遺跡で特筆されることは、海浜に立地する特徴を活かした平安時代の製塩跡が見つかったことです。ムラの跡 竪穴住居が22軒、掘立柱建物が1棟密集して発見されました。ほとんどが6 ~ 7世紀のもので、継続して居住していたことがわかりました。製塩跡 約2X6mの範囲に火を受けて赤く硬くなった地面があり、そのそばから多量の土器が打ち捨てられたままに出土しました。また海水を煮詰めるためのものか、石組炉の跡も2基発見されています。」「製塩跡」と「竪穴住居跡」。『イノセンス-火 Innocence:Fire』。西雅秋 NISHI Masaaki『イノセンス-火 Innocence:Fire』1991年西雅秋『大地の雌型より』2003-5年葉山漁港の4隻の木造船にコンクリートを流し込み、ひっくりかえして木部を外したもの。「一色海岸」を望む。西雅秋『大地の雌型より』の一部。アントニー・ゴームリー『Insider Ⅶ』1998年山口牧生 YAMAGUCHI Makio『棒状の石あるいはCosmic Nucleus aBar of Stone,or Cosmic Nucleus』1976年『揺藻(ゆれも) Swaying Alga』。空 充秋 SORA Mitsuaki『揺藻(ゆれも) Swaying Alga』1985年湯村光『Stone Work – Stream』1987年柳原義達(1910~2004) YANAGIHARA Yoshitatsu『裸婦 座る Sitting Nude』原型 1956年(鋳造 1964年以前)『こけし Kokeshis(Japanese Wooden Dolls)』。近づいて。イサム・ノグチ(1904-1988)は、日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれた、20世紀を代表する世界的な彫刻家。彫刻はもちろん庭園や舞台芸術、家具そして照明のテザインも手がけるなど、現代彫刻の可能性を大きく押し広げ、作品と活動を通して世界各地て愛されつづけている芸術家である と。イサム・ノグチ Isamu NOGUCHI『こけし Kokeshis(Japanese Wooden Dolls)』1951年『石人 Stone Man』1966年(古墳時代6世紀後半の扁平石人の複製(岩戸山古墳[福岡県]出土・現在大分県日田市に設置)イサム・ノグチ Isamu NOGUCHI『こけし Kokeshis(Japanese Wooden Dolls)』を振り返って。これは、展示物ではなく、石製の休憩場所のようであった。「レストラン オランジュ・ブルー」。イサム・ノグチの作品を別の場所からも。最後に「神奈川県立近代美術館 葉山館」を再び振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.22
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「玉蔵院」を後にして、国道134号を80mほど南に下り、右折すると次の目的地の「森山神社」案内板があった。そして直ぐ先、右側に「森山神社」の参道入口が現れた。石段を上ると「森山神社」の石鳥居が。「森山神社一 御祭神 奇稲田姫命(素戔嗚尊の妃神)一 祭 日 歳旦祭 1月2日または3日 祈年祭 2月中旬 例 祭 8月末日曜 新嘗祭 11月中旬 行合祭 満32年目毎に執行由 緒当社は、奇稲田姫命を奉斎し家業繁栄、家庭円満、農耕の守護神と仰ぎ 今から1270余年前、天平勝宝(749〜757年)の頃、良辨僧正によって勧請されたと伝えられる。三浦古尋録に、「此守山明神ノ祭礼ハ三十三年目毎也、此祭礼ノ時ハ例ニヨツテ小壺村ノ天王ノ神輿ヲ借用ルトナリ、祭礼神輿ニ札ヲ張、今其札三十四枚有、此札年来ヲ数レハ、文化申年(一八一二年迄一一二二年ニナル」と創建年代が如実に記されている。又、江戸で正徳5年に刊行された和漢三才図絵には、「守山大明神 佐賀岡ニ在リ、社領三石、俗ニ世計大明神ト号シ、毎年十一月十五日ニ酒ヲ醸シ翌年正月十五日明神ニ供ス、其ノ酒デ善悪ヲ試シ、歳ノ豊凶ヲ計ル」と記され、当時三ケ岡に鎮座し、天正19年11月に、徳川家康公より社領三石が寄進されている。特に世計り神事は近隣の人等の篤い崇敬を集めていた。新編相模風土記に、「森山明神社鎮守ナリ神躰ハ束帯ノ座像天平勝宝年間良辨僧正勧請スト云、天平十九年十一月社領三石ヲ寄附セラル、例祭毎年十一月十五日但三十三年ニ當ル年ハ十一月十三日小坪村天王神輿ヲ迎十四日ニ神楽ヲ奏シ當日鶴岡社人、伶人、八乙女、等来テ管絃ヲ奏シ二神輿ヲ引いて舁テ海岸ニ至ル是ヲ神忌ト唄フ」とある。海辺の当地に農耕に深い関係のある神事が今日迄伝承されていることは非常に珍らしく、この地域の人等が作付をする上で、重要な指針であった証拠であろう。昭和39年 三十三年の大祭を記念して、氏子崇敬者の浄財で現在の社殿を改築した。 謹白 宗教法人 森山社」住宅の間に参道があり、奥にある本殿までまっすぐと伸びていた。正面に石鳥居の「一の鳥居」。広場の先に、石段がありその先に「拝殿」が見えた。右側には例大祭等の時の、大きな石製の観覧席の如きものがあった。「拝殿」への石段を上る。「奉納 参道」碑。「奉納 石段」碑。石段の上に「狛犬」(右)。石段の上に「狛犬」(左)。足で押さえているのは、お花?明治35年生まれで、耳を横に張った江戸流狛犬。花は牡丹のように見えたが。「例大祭 献詠歌」「献詠歌」に近づいて。「手水舎」。「吐水口」。水を吐き出している龍には迫力があり立派。水を司る龍には火防の意味も有る。そんなわけで多くの神社仏閣で龍を見かけることがあるのだ。「花掛け」「奉納 森山社 例大祭 御寄附者一覧 令和五年八月」と。正面に「拝殿」。森山神社は正式名称を「森山社」と称し、社伝によると祭神として「奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)」を祀っています。創建は天平勝宝(西暦749年)で、鎌倉由比ヶ浜生まれの良辨僧正が勧請されたとされています。往時は「守山大明神」とか「佐賀岡明神」と呼ばれ、佐賀岡(現・三ケ岡=大峰山)にあったとのこと。「森山社の祭神は「奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)」です。(日本神話に登場するこの女神は『日本書紀』では「奇稲田姫」『古事記』では「櫛名田比売」と表記されます)奇稲田姫命は出雲国(島根県)簸の川(斐伊川)の川上に住んでいたとされ、足名推命(アシナヅチノミコト)と手名推命(テナヅチノミコト)夫婦の八人娘の末娘として暮らしていました。毎年毎年、八岐大蛇がやってきて次々と娘たちを食べてしまい、最後に残った末娘の奇稲田姫命も食べられてしまう時期がきたので、老夫婦の両親は嘆き悲しんでいました。そこへ高天原を追放された「素盞嗚尊(スサノオノミコト)」が折よく現われ、ことの次第を聞き義侠心を燃え上がらせて八岐大蛇を退治しました。(日本神話に登場するこの大蛇は『日本書紀』では「八岐大蛇」『古事記』では「八俣遠呂智」と表記されます)助けられた奇稲田姫命は素盞嗚尊と結婚して、出雲国に宮殿を造って住んだとされます」とネットから。拝殿に近づいて。本坪鈴(ほんつぼすず)が二基並ぶ。扁額「森山神社」。内陣。本殿に向かって左側にあった「神輿庫」。神輿が大きすぎて・・・。こちらは、子供用神輿か?例大祭時の神輿👈️リンク の写真をネットから。森山社の境内にはいくつかの境内社があった。■船玉神社(祠)●御祭神:住吉三神(底筒男命(ソコツツノオノミコト)、中筒男命(ナカツツノオノミコト)、 上筒男命(ウワツツノオノミコト))●御神格:海の神、航海の神、和歌の神●御神徳:海上安全、漁業・海運・貿易・造船などの業種守護、商売繁盛、開運招福 (縁結び・子授かり)■金刀比羅社(船玉神社内)●御祭神:金山毘古命(カナヤマヒコノカミ)●御神格:鉱山の神、鍛冶の神、鉱物の神、包丁の神●御神徳:鍛冶技術向上、金属加工業の守護、金運、商売繁盛、開運招福、災難避け、厄除け 漁業の守護神・商売繁盛・縁結び・子授かり●由 緒:創建不明、神奈川県郷土資料(明治12年)及び葉山郷土誌(昭和5年(1930))には「住吉神社(建物正面一間、奥行一間)」と、「金刀毘羅神社(建物正面三尺、奥行三尺)」と二社の記載がある。現在の祠は、昭和43年(1968)11月一色氏子会(連名)、一色漁業正組合員(連)により改築された。■厄神社(大国主社)(祠)●御祭神:大地主命(オオトコヌシノミコト)・大物主神(オオモノヌシノカミ)●御神格:国造りの神、農業神、商業神、医療神、縁結びの神、土地の神、家・屋敷を守る神●御神徳:縁結び、子授かり、夫婦和合、五穀豊穣、病気平癒、産業開発、交通・航海守護、 商売繁盛・国内平定・天下泰平・農業保護・医薬の神●由 緒:創建不詳、祠内に残された木札が存し、表面に「天下泰平 奉 厄神社 御造營神璽 崇敬者安全 社掌 守屋喜代太郎」、裏面に「大正8年1月14日 一色崇敬者中」の記載がある事から往時の建物か?伝によれば三ケ岡町内から氏子廃絶により移されたといわれている。神奈川県郷土資料(明治12年(1879))に「大国主神社、祭神・大地主命、由緒不詳、建物・正面三尺奥行三尺」の記載あり、また、葉山町郷土史(昭和5年(1930)には「大国主社、祭神・大地主命、由緒・ 不詳、建坪・二合五勺」の記載がある。■稲倉魂社(祠)●御祭神:稲荷神(倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)(日本書紀)・宇迦之御魂神(古事記))●御神格:五穀豊穣の神、諸産業繁盛の神●御神徳:五穀豊穣、産業振興、商売繁盛、家内安全、芸能上達田の神、五穀豊穣の神、諸産業繁盛の神 ●由 緒:創建時期不明、祠内に「正一位稲倉魂命天長地久常堅右明治二己巳年(一八六九)十二月鈴木源致」と木札あり、この時期に建立されたものと思われる。神奈川県郷土誌(明治12年(1879))に、「稲荷社祭神稲倉魂命、由緒不詳、建物正面三尺奥行三尺、氏子百六拾弐戸」とあり、また、葉山町郷土史(昭和5年)に「祭神稲倉魂命、由緒不詳、建坪二合五勺」とある。古老によれば一色打鯖地区から移設されたの伝有。 平成30年(2018)、講を解散するに当たり、新たな祠を隣地玉蔵院に建立、既存の社を廃社としたが社屋のみ残されている。境内北側に在する稲荷大明神も、上原地区を中心とした講中で、当社と同様の縁起である。■神明神社(祠)●御祭神:天照大神(アマテラスオオミカミ)(日本書紀)、天照大御神(古事記)●御神格:太陽神、皇祖神、日本の総氏神●御神徳:国家安泰、子孫繁栄●御祭神:豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)●御神格:食物神、穀物神●御神徳:農業・漁業の守護、産業振興、開運招福、厄除け地元では「だいじごさん(大神宮様)」と呼ばれる伊勢神宮の分社。●由 緒:創建時期不明、葉山町葉山郷土誌(昭和50年(1975)3月)記述の古老の伝によれば、大正初期(1912~1916)には御祭神が森山神社に合祀されていた。ご神体(石)碑?は明治13年(1880)に遷宮祭としてだいじごさん(大神宮山(一色1501番地付近))から深夜零時に安置したと伝わっている。 一方、神奈川県郷土誌(明治12年(1879))には、「神明社(一色字平松)、建物正面一間、奥行一間境内17坪、信徒七拾人、民有地第一種」と記述あり、拠って当地とは別地に存し、前記の時期に当社に合祀されたと思われる。 例年7月に「大神宮祭」を斎行し、氏子の崇敬を集めている。■稲荷大明神(祠)(京都伏見稲荷の分社)●御祭神:倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)●御神格:五穀豊穣の神、諸産業繁盛の神、屋敷・地域の神●御神徳:五穀豊穣、産業振興、商売繁盛、家内安全、芸能上達、金運向上、諸願成就 ●由 緒:創建不詳、伝によれば一色上原地区を中心に活動していた講が、将来の衰退を危ぶみ、森山神社に合祀されて今日に至っていると言われている。稲荷神社の多くは旧家や辻々に建立しているのを散見することができ、その中で血縁者や地縁的関係者などの小集団で社の講中を行っていた。境内西側に在する別祠稲倉神社も、一色打鯖・三ケ岡地区を中心とした講中で、当社と同様の縁起である。左側から拝殿を見る。■浅間神社(舟型石碑)●御祭神:神吾田津姫、神吾田鹿葦津姫、木花開耶姫(コノハナノサクヤビメ)(日本書紀)、神阿多都比売、木花之佐久夜毘売(古事記)●御神格:火の神、山の神、安産の神、子育ての神、酒造の神●御神徳:子授け、安産、縁結び、農業・漁業守護、航海安全、火難消除、織物業守護 浅間信仰・富士山信仰・山の神をまつる社。●由 緒: 創建明治17年(1884)6月1日、一色在の富士(浅間神社)講中が建立、富士吉田市浅間神社 には、「葉山町一色富士講中」と記された扁額を見ることができる。 神奈川県郷土資料(明治12年)には「浅間社、由緒不詳、建物正面三尺、奥行き三尺」の 記載あり、また、葉山郷土誌(昭和5年)には「浅間神社」の記載がある。 なお、同様の石碑が後背の峰岡山山頂にも凝灰岩で出来た富士講の石塔(明治16(1883)年が 祀ってある。他にも多くの歴史を感じさせる石碑が。「令和五年 森山社例大祭」案内。「森山神社 ホームページ QRコードです!!」。「拝殿」前の石段から参道を見る。小さな石祠。そして、ビービーとミツバチが訪花している木は「クロガネモチ」クロガネモチの開花は5~6月。その年に伸びた葉の脇に小さな花が複数集まって咲く。雌雄異株で雄株には雄花が、雌株には雌花が咲くが、いずれも直径4ミリほどで目立たない。花は淡い紫~クリーム色で、花弁と萼は浅く4~6つに裂け、花弁は反り返る。雄花は4~6本ある雄しべが目立つが、雌花の雄しべは退化しており、代わって中央にある柱頭が隆起する。セイヨウミツバチの姿を。ズームして。こちらはニホンミツバチ。「クロガネモチ」の「ハチミツ(蜂蜜)」をネットから。別名「山れんげ」と呼ばれる人気ある蜂蜜と。そして参道左手にあったのが「一色会館」。一色会館は、レトロでちょっとユニークな建物。通常は、上の写真の様に片側に掃き出し窓が並ぶ外観ですが、例大祭などがある時は、並んだ扉や桟などを全部外して、大きな舞台になってしまうのだと。下の写真は、お祭りの時の“舞台”になった状態であると ネットから。舞台の正面は、ひな壇になっていて客席になるのだ「。まるでちょっと昔の“芝居小屋&桟敷席”といったレトロな風情で、昭和の香りがたっぷり残る素晴らしい空間。舞台になっている部分は、畳敷きの大広間。大広間の上手も小さな舞台になっている と。こちらが「一色会館」の玄関。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.21
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Googleマップの案内に従い、次の目的地の「玉蔵院」に向かって進む。Googleマップは、墓地の裏の入口を案内したのであった。墓地内そして境内を歩き、「国道134号」側の正門まで進む。「高野山真言宗三浦不動尊第2十三番三浦観世音第二十五番湘南七福神恵比寿尊干支守霊場第七番 玉蔵院」三浦観世音「第廿五番霊場」碑。参道を本堂に向かって進む。「高野山 真言宗 玉蔵院 掲示板」。「おてらヨガ」も行われているようであった。寺号標石「高野山 真言宗 守護山 玉蔵院」。この石碑は?近づいて。しかし解読不能。山門を入るとまっすぐに続く参道の脇に、幹の周囲が3m近くもある樹齢400年以上のイチョウ・エノキの巨木が聳え立っていた。右手には「エノキ」の巨木。「イチョウ」の巨木を見上げて。左側にもイチョウ(銀杏)の大木そして一番本堂よりに「エノキ」が並ぶ。「エノキ」の手前に「葉山町指定重要文化財 天然記念物 玉蔵院のエノキ・イチョウ」碑。庚申塔が二基。近づいて。左側の庚申塔道立年号(塔に刻まれている年月日) 元禄5壬申天5月吉日(1692年)碑型、石質、其の他 舟型、安山岩、2基の内向って左塔大きさ及破損度 高さ76cm(台石を含まず)。幅37cm。上部が少し缺けた外完全刻像 定印阿弥陀如来と三猿 三猿は向って右から見ざる、聴かざる、言わざるで、左右の猿は背を丸めて中央の猿に 向っている。銘文 種子は缺損 上原村 八郎衛門、六左郎、甚衛門、市衛門、勘兵衛、五兵衛 四郎兵衛、市兵衛、次郎兵衛、三郎兵衛。塔の特徴 この塔は定印阿弥陀如来を主尊にしたのが特徴で、葉山町では1基だけである。 又三猿の左右の猿が背を丸めて中央の猿に向き合っている事も特徴である。右側の庚申塔 ???「六地蔵」。「六地蔵」とは六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天からなる六つの世界)全て救うという誓願のもと、六体の地蔵があり子どもを護る仏様として知られている。因みにこの寺の六地蔵は眼病にご利益があるとされている と。境内右側の、弘法大師像。「南無大師遍照金剛」と書かれた白の幟が一対。近づいて。「弘法大師 御入定 千百五十年記念四國八十八ヶ所砂踏み霊場」と。主尊が阿弥陀如来という、立派な宝篋印塔が建っていた。六地蔵の横に建っている県下でも珍しい石塔型の転輪で、お百度参りに使われたものだと。「葉山町指定重要文化財 建造物 玉蔵院の庚申塔 二基」種別 建造物(石造)指定年月日 昭和45年8月27日所在地 葉山町一色(玉蔵院)規模 高さ114cm、幅51cm石材 安山岩時代 寛文五年(1665年)下部に三猿「言わざる」「聴かざる」「見ざる」。三猿に雌雄がはっきりと表されている大変珍しいもので、寛文5(1665)年10月吉日の陰刻から葉山最古の塔とされていいる と。「三ヶ岡講中」と。「葉山町指定重要文化財 建造物 玉蔵院の庚申塔 二基」と。「宗祖弘法大師御誕生壱千二百年記念碑」「高野山 真言宗 守護山 玉蔵院」の「本堂」。「干支守霊場 丑寅 歳の寺」。本堂内陣。守護山 玉蔵院は弘法大師(空海)を宗祖とし、高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を総本山とする高野山真言宗のお寺。ご本尊は大日如来(だいにちにょらい)で、拝む際は「オンバザラダトバン」とお唱えします。・開基年 奈良時代 天平勝宝年間(749~757)・開創者 東大寺別当 良弁僧正・本尊 金剛界大日如来(旧くは十一面観音)・霊場 三浦観音二十五番、三浦不動二十三番、湘南七福神恵比寿、十二支霊場丑寅年本尊 : 金剛界大日如来。本堂の左側には。丑寅歳本尊 虚空蔵菩薩。湘南七福神 葉山恵比寿。湘南七福神 葉山恵比寿。弘法大師像か?そして本堂の左側にあった境内社群。朱の鳥居が三基。お稲荷さま:正一位稲荷大明神・生目大明神・猿場大明神であると。中央が「生目大明神」。左が「正一位稲荷大明神」。右側が「猿場大明神」。境内左で、 更に右奥の庚申塔群を訪ねたが、巨大なオオスズメバチが飛来して来たので慌てて避難。この時期からするとオオスズメバチの女王蜂であっただろうか?オオスズメバチの女王蜂の姿をネットから。危険なオオスズメバチですが、冬眠から目覚めた直後の女王蜂は栄養不足で体力がなく、弱っているため人を刺す可能性は低いとのことだが、既に5月末でもあり!! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.20
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「葉山しおさい公園博物館」を後にして、「葉山しおさい公園」の池泉回遊式の日本庭園を歩く。「葉山しおさい公園平面図」。池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)とは、広い池泉を中心都市、中島、四阿などを設け、舟遊び・納涼・散策など、庭園をいろいろな角度から干渉し楽しめる造庭技法。 桃山末期から江戸初期にかけて成熟した作庭技法。 代表的な庭園として、桂離宮・修学院離宮・六義園・後楽園(岡山)などがある。大きな池を中心に配し、その周囲に園路を巡らして、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現。園路の所々には、散策中の休憩所として、また、庭園を眺望する展望所として、茶亭、東屋なども設けられていた。スイレンの濃いピンクの花も。大きな鯉がのんびりと。石の「太鼓橋」。川の如き水場にも鯉が。茶室「一景庵」。「一景庵ー景庵は、一歩ー景ともいわれる日本庭園に囲まれた変化に富んだ趣ある情景から名づけられたとする説があります。茶室は、千利休の孫の千宗旦が利休の聚楽屋敷の四畳半を再現とされる裏千家の又隠と、千少庵が利休の聚楽屋敷にあった色付九間書院を写したものと伝えられる表千家の残月亭を摸した造りとなっています。」茶室「一景庵」の内部には赤い毛氈の敷かれた長椅子が。白の「柏葉あじさい」。近づいて。池越しに先程訪ねた「葉山しおさい公園博物館」を見る。ここにも。茶室「一景庵」を反対側から。水音が聞こえる方向に向かって歩く。右側に滝が現れた。「噴井の滝湧水部が力強く水を噴き上げる井戸型をしていることから、「噴井の滝」と名づけられたとの説があります。落差3mの滝は、横に広がりながら水が落下する「布落ち」と壁面を伝うように水が落ちる「伝い落ち」の複合水流からなり、美しい段瀑の姿をしています。」横に広がりながら水が落下する「布落ち」。石の壁面を伝うように水が落ちる「伝い落ち」。「滝」からの流れ。「滝」からの流れに架かる飛び石を渡る。「噴井の滝」を振り返って。ズームして。飛び石を振り返って。「神奈川県立近代美術館 葉山館」への連絡口。連絡口。開門時間土曜日・日曜日・祝日の 近代美術館開館日のみ 午前10時30分~午後4時まで券売受付所の前にあった壺。「小村寿太郎 終焉の地」碑。終世困窮していたという小村は豪邸居並ぶ葉山で借家住いだったらしく、一色の潮騒を耳にして静かに生涯をとじた と。そして、「一色海岸」に向けて黒松樹林の中を歩く。黒松樹林の中を海の方へ向かってしばらく歩くとここだけ洋風なパーゴラテラスが。石の椅子に座って見える一色海岸をセレブな気分で味わえたのであった。「一色海岸」には巨大な海の家が建設中であった。「一色海岸」からの「相模湾」。引き返して、梅林の中を歩く。再び「噴井の滝」からの清き流れを見る。紅葉シーズンにまた来てみたいと感じたのであった。園路を巡ると、築山、池中に設けた小島、橋、名石などで各地の景勝などを再現しているのであった。先ほど、スイレンの花をみた場所の反対側から。「潮見亭休憩所」入口。その先に「菖蒲園」。「菖蒲園ハナショウブ・イチハツ・アヤメなど」と。開花はこれからであった。そして「葉山しおさい公園」を後にして、県道207号線・森戸海岸線を北に進む。右手に歴史を感じさせる家屋が。そして、路地を右折すると直ぐ左手にあった石仏。石仏を正面から。「葉山茶寮 六花 Ricca 」の角にあった石仏。三浦郡葉山町一色1664−1。「一色第五町内会掲示板」。「一色第五町内会こみちマップ」。路地を東に進んで行くと、石垣の塀が現れた。「佐島石こみち」と。一色にある森山神社に抜ける風情ある路地で、横須賀市湾岸で産出する佐島石の石垣が続くのであった。半世紀は経過している趣の石垣や土塁はほどよく風化し古民家にマッチしているのだ。鬱蒼とした庭とこんもりと色づく橙や琵琶の実。色褪せた表札はローマ字で綴られて、渋い味わいがあるのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.19
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そして「昭和天皇御下賜標本」展示コーナーへ。「昭和天皇のご研究昭和天皇はご幼少の頃から動植物に深く興味をもたれ、生涯、海洋生物や植物そして変形菌のご研究に力を注がれました。中でもライフワークとしてお選びになったのはヒドロ虫類の分類学的研究で、葉山御用邸を拠点に昭和4年から始められました。ご発見になったヒドロ虫類の新種はご自身で発表され、「相模湾産ヒドロ虫類」(1988)、「相模湾産ヒドロ虫類Ⅱ」(1995)などに発表されています。また、その他の海洋生物に関しては、各専門家が協力し生物学研究所から多くの報告書が出版されています。これらは、相模湾の生物相を知る上で貴重な文献となっています。昭和天皇の生物学者としての幅広い業績は世界的に認められ、昭和7年、イギリスのリンネ協会の名誉会員に、さらに、昭和46年にはロンドン王立協会とロンドン動物学協会の名誉会員に推薦されておられました。」「昭和天皇御下賜標本昭和天皇はご生前、葉山御用邸を拠点に相模湾の海洋生物を熱心にご採集され、それらの分類学的なご研究をされました。ここに展示されている28点の標本は葉山海岸および、その周辺における昭和天皇ご自身のご採集品で、葉山町に御下賜されたものです。資料の大半は昭和天皇のご専門であった刺胞動物のヒドロ虫類ですが、学術的に貴重なウミウシ、ウニ、ヒトデ、ホヤなどの種類も含まれています。これらの中で新種として記載された種類は次の通りです。●クラブラリア・ミカド Clavularia mikado●サガミウミウシ Cadlina sagamiensis●ハスエラタテジマウミウシ Armina magma●ニセモミジ Ctenopleura fisheri●リモニア・グロリオサ Limonia gloriosa」「御下賜標本」が並ぶ。その横には「昭和天皇のご著書」、「昭和天皇ご収集の生物に関する出版物」が。「昭和天皇のご著書」。「昭和天皇ご収集の生物に関する出版物」。「ヒドロゾアの標本を手にされる昭和天皇」と「葉山御用邸にて採集のご様子」。「昭和天皇に因む主な海洋生物」。「学習研究社 発行(1980) 天皇陛下」、「天皇陛下の生物学ご研究」相模湾、葉山の展示室。「相模湾の有毒生物」。「相模湾の有毒生物海に棲息する多くの生物がさまざまな毒をもっています。海洋生物の毒として、多くの人が思い浮かべるのはフグの仲問のもつテトロドトキシンではないでしようか。しかし、実際には特殊なタンパク質構造で作り出された毒など、未だに解明されていない毒をもつ生物か沢山います。海洋生物にとって「毒」とは、その身を守るためや、餌をとるために進化させた生態の一部であり、その毒はヒトに対して用いるものではありません。したがってこれらの生物が、積極的にヒトを襲うことは稀です。大切なことは、どの生物がどのような性質の毒をもっているのかをあらかじめ知り、万が一、出会った場合には、安全な対応がおこなえるための、正しい理解をもつことです。」「葉山の紹介神奈川県の三浦半島西北部に位置する葉山町は、東西約6.5km、南北約4km、総面積は約17km2あります。海、山の自然に恵まれ、都心に近いながらも生物が豊富で、地質学的にも興味ある所として知られています。相模湾に面した海岸線は南北に4.6km広がり、その地形は変化に富んでいます。そこへ黒潮がぶつかり、多種多様の海洋生物を産み出しています。また、美しい緑の山々に生息する動植物はとても豊かです。その間をぬって相模湾に流れ込む森戸川、下山川があり、こにも淡水産の生物が多く見られます。いっぽう、相模湾を望む景勝地としても名高く、四季を通して富士山、箱根、伊豆半島、大島、江ノ島などが眺望できるうえ、年間を通して気候が温暖なことなどが御用邸の町、別荘の町といわれるゆえんでしよう。このような素晴らしい環境の中に生活している私達にとって「葉山の自然」は貴重な財産です。大切に受けとめ、自然に親しみましょう。」「葉山町地質図」、「葉山町全図」「相模湾図」、「東京湾図」。「相模湾の漁場名」。「葉山海岸の漁場名」。ズームして。小さな島の名も判るのであった。「相模湾の貝類」「軟体動物 Mollusca貝類の仲間を学問的に軟体動物とよびます。昆虫に次ぐ種類の多い動物群で、世界に約10万種、日本には8千種類くらいいると言われています。次の7つのグループに分類されています。1 .腹足類(巻員の仲間) オキナエビス、アワビ、サザエ、タカラガイ、ミスジマイマイ、アメフラシ、など。2 .斧足類(ニ枚貝の仲問) アカガイ、アサリ、ハマグリ、ヤマトシジミ、マテガイ、タイラギ、オオジャコ、など。3 .無板類(カセミミズの仲間) カセミミズ、オオシマカセミミズ、サンゴノヒモなど。4 .単板類(ネオピリナの仲間) ネオビリナ5.多板類(ヒザラガイの仲間) オオバンヒザラガイ、ヒザラガイ、ケハダヒザラガイ、ロウソクツノガイなど6.堀足類(ツノガイの仲間) ツノガイ、ヤカドツノガイ、ミガキマルツノガイ、ロウソクツノガイなど。7.頭足類(イカ、タコ、オウムガイの仲間) スルメイカ、マダコ、アオイガイ、タコブネ、トグロ、コウイカ、オウムガイなど。」相模湾の貝類 Sea Shells of Sagami Bay南から流れ込む黒潮(暖流)と、北から親潮(寒流)の影響を受ける相模湾には、南方系と北方系の貝類が見られます。南方系の貝類にはタカラガイやイモガイの仲間などがあり、北方系ではアヤボラ、ケショウシラトリガイなどがあげられます。また、三浦半島の海岸線には多様な環境があり、潮間帯には貝類が生息するのに適しています。同時に相模湾の海底地形は、浅海から深海まで複雑なうえ、さまざまな底質の場所があり、それぞれに適応した貝類が住んでいます。特に深海には”生きた化石”として有名なオキナ工ビスなど、相模湾特有貝類が多いといえます。このように相模湾は貝類の豊富な海域で、およそ2000種が生息しているといわれています。「潮間帯の貝の分布磯の生物は水深によって住み分けをしていますが、それを知るには大潮の引き潮の時、観察するとわかります。ます露出した岩礁をま横から見ると、アラレタマキビやタマキビガイは満潮線より少し上部に住むため、最も上部で見られ、ヘソアキクボガイなどは干潮線付近、つまり潮が引いた時、水面に近い方で見られます。ここでは潮間帯の磯が左から右方向へと深くなるように表現してあり、貝類が垂直分布しているようすがわかるようになっています。」「寄生する軟体動物」。「相模湾で発見されたオキナエビスオキナ工ビス類は古生代から中生代にかけて繁栄した原始的な腹足編の一群てあり、地質時代に繁栄した種に近似した形質を殻に留める現生種は「生きている化石」とよばれている。オキナエビMikadotrochus beyrichii(Hilgendorf、1877)は旧東京大学設立の母体となる第一学区医学校から東京医学校時代に在職していたドイツ人お雇い講師のヒルケンドルフ(Franz martin hilgendorf:1839-1904)が、江ノ島の土産物屋の店先に飾られていたものを入手し、ドイツに帰国後、この標本をもとに世界で3番目のオキナ工ビス科の現生種として報告した。オキナ工ビスは、ヒルゲンドルフが新種として記載する以前に木村兼葭堂(1735-1802)による未定稿の「奇貝図譜」に「無名介 按アゲマキノー種ナラン」として図示されていたものが、最古の図示てあり、ヒルケンドルフによる記載の100年近く前に.すてに本草学的な手法で記録されていた。また.武蔵石寿(1766-1861)が1844 (弘化元)年に著したとされる「目八譜」にも「西王母 翁蛭子」として図示されている。」「長者貝の由来長者貝の由来は、帝国大学三崎臨海実験所の採集人てあった青木熊吉(1864-1940 )が採集の依頼をうけ苦心の末に採集したオキナ工ビスが、高額て買い取られた際に「長者になったようだ」と言ったことから、オキナ工ビスの別名である「長者貝」という和名が名づけられたとする逸話が通説化している。しかし実際には青木熊吉がはしめてオキナ工ビスを採集したとされる時期よりも前に.ヒルゲンドルフの後任として来日したデーデルライン(Ludwg Hinrich Philipp Döderlein: 1855-1936)らが、高額でオキナ工ビスを買い求めていたことから、江ノ島や三崎の漁師の間でオキナ工ビスはすでに「長者貝」の別名てよばれていたという記述が残っていることや.1897年に帝国大学三崎臨海実験所の箕作佳吉(1858-1909) が、標本商のオーストン(Alan Owston:1853-1915)により採集された生きたオキナ工ビスを世界に先駆け報告していることなどから、青木熊吉による「長者員」の命名とそれに関する一連の逸話の一部は、のちの時代の創作と考えられる。」「日本周辺海域から記録されたいるオキナエビス類南北に長い日本列島周辺海域からは、リュウグウオキナエビス、オキナエビス、コシダカオキナエビス、ベニオキナエビス、ゴトウオキナエビス、アケボノオキナエビス、テラマチオキナエビスの7種が記録されています。」「変化する環境と生物の消失」。「変化する環境と生物の消失相模湾沿岸域の環境は、1923 (大正12)年9月1日に発生した関東地震に伴う隆起により大きく変化した。三浦半島においては、地域によって1.0m以上の隆起が記録されている。隆起後の地形の変化の特徴の一つとして、震災以前はほとんど発達していなかった砂浜の面積が急激に増大したことがあげられる。この変化に伴い生息環境が拡大したサクラガイ類などの砂浜に棲息する生物は、個体数が一時的に増加したと推測される。震災か1世紀近くが経過した現在、三浦半島や相模湾沿岸域の砂浜は、平均すると年間3.0mm程度の速度で沈降し続けているため、再び砂浜の面積は縮小している。沈降に伴い環境も遷移し現在の相模湾沿岸域の砂浜環境の生物相は、震災直後の生物相とは異なる組成に遷移していると考えられる。ヒトの活動に伴う環境の攪乱や大規模な改変は、少なからす生物の減少の原因となりうることに疑いの余地はない。しかし、台風や暴雨、水害などの短期的な自然環境の攪乱だけでなく、断層運動に伴う大規模な環境の変化により棲息場所が縮小、消失した結果、生物の個体数が大幅に減少したり絶滅に至ることもある。地殻変動に伴い引き起こされる環境の変化も、生物相の遷移や生物の消失の原因となりうる。」様々な貝が。「三浦半島沿岸域のウミウシ類」。「三浦半島沿岸域のウミウシ類Sea slug of Sagami Bay,Miurapeninsulaこれまでウミウシの仲間は、軟体動物門腹足綱(巻貝)に含まれる後鰓亜網(もしくは後鰓目)として分類されていましたが、これら種類は、複数の系統から収斂進化したと推測さ後鰓亜網を用いない分類が用いられています。ウミウシの仲間は、頭楯目Cephalaspidea、有毅翼足目 Thecosomata.裸殻翼足目 Gymnosoma-ta、無楯目 Anaspidea、アクリッド目 Acochlidiacea、嚢舌目 Sacoglossa、ニセイワヅタブドウガイ目 Cylindrobullida、傘殻目Umbraculida、側鰓目 Pleurobranchomorpha、裸鰓目 Nudibranchiaの10目に分類されます。 ウミウシの和名は、裸鰓目に見られる体の前方にある1対の触角を、ウシの角に見立てた「海牛」が語源と考えられます。」「甲殻類の多様性甲殻類とは、甲殻亜門(Crustacea)に分類される節足動物の総称である。分子系統学的な解析の結果から、甲殻類と六脚類を併せて汎甲殻類(Pancrustacea)とし、六脚類が側系統群の甲殻類から派生したと考えられている。鞘甲亜綱(しようこうあこう Thecostraca )は固着性や寄生性の成体をもつフジツボ・カメノテ・エボシガイなどが含まれている。付属肢の形熊が、真軟甲亜綱と異なることから別の亜綱に分類されているトゲエビ亜綱(Hoplocarida)は、ロ脚目(シャコ目)が含まれている。真軟甲亜綱(Eumalacostraca)は、工ビ・ヤドカリ・カニをはじめ等脚目・端脚目・タナイス目・クーマ目などを含む一大グループである。」「タカアシガニ」に見えるが?文字の読みは「じん」と。「蟳(じん)」で「ガザミ(蝤蛑、虎蟳)」とのこと。上の蟹の写真は蟳(じん)・ガザミとは甲羅の大きさと脚の長さのバランスが違うようであるが。「訓蒙図彙 中村惕斎 寛文(1666)年成立」「甲殻亜門 Subphylum Crustacea甲殻亜門は、工ビ・カニ・ヤドカリなどに代表される節足動物門のグループである。主に海域に適応し、等脚目の一部がわずかに陸域に適応している。現生種は介形類(Osracoda)・ヒゲエビ類(Mystacocarida)、鰓尾類(Branchiura)シタムシ類(pentastomida)・カイアシ類(copepoda)・ヒメヤドリエビ類(Tantulocarida)・鞘甲類(Thecostraca)・軟甲類(Malacostraca)・鰓脚類(Branchiopoda)・カシラエビ類(Cephalocarida)・ムカデ工ビ類(Remipedia)11群に分類される。一般的に甲殻類とよばれる工ビやカニは、軟甲類に含まれている。」「イバラガニモドキ」(左)と「イガグリガニ」(右)。「タイマイ」、「セクロウミヘビ」、「マダラウミヘビ」。「相模湾から記録された爬虫類これまでに相模湾からは、コブラ科(ウミヘビ科)5種、ウミガメ科3種、オオザメ科1種の合計9種の爬虫類が記録されています。海域に棲息するヘビ類のほとんどは沿岸域のみを生息域とするのに対して、ウミガメ類は、いずれの種でも産卵・孵化以外は外洋を棲息域とします。爬虫類は、変温動物であることから、水温が低下する冬季を中心に活動が鈍くなり、海岸に打ち上げられることがあります。」「タイマイ」に近づいて。そして漁具展示コーナーへ。「葉山の漁業Fishery of Hayama相模湾に面した葉山には、刺し網漁、シラス船曳き網漁,見突き漁、もぐり漁、ワカメどり漁、ヒジキどり漁、ワカメの海面養殖などの漁業があります。古くは、定置網漁、地曳き網漁、手繰網漁、延縄(はえなわ)漁などが行われていましたが、現在では釣り船を主体とする漁業者が大半を占め、漁を専門とする漁業者が少なくなりました。ここには、かって葉山で使用されていた漁具を中心に展示してあります。」「万祝(まいわい・まんいわい)」「万祝(まいわい・まんいわい)大漁の時、船主が漁師に贈り物として配ったお揃いの「はんてん」のような着物。江戸時代中期から東北、関東の漁師のあいだで着用した晴れ着で、これを着て神社を参拝することが誇りだったと言われています。これは、葉山で使われたものですが、現在ではこの風習は残っていません。」奥には「生簀」が2基。右手に「櫓」、左に「ガラス浮き玉」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.18
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葉山しおさい博物館展示室内から「葉山しおさい公園」の「日本庭園」を見る。葉山町所蔵 複製画展の展示室を訪ねた。葉山町所蔵複製画展~世界の名画の複製画展示~令和6年5月28日(火) ~ 6月23日(日)場所 葉山しおさい博物館 くつろぎゾーン時間 午前8時3 0分から午後5時まで ※入園は午後4時3 0分まで 休館日 6月3日(月) ~ 1 2日(水)、1 7日(月)観覧料 無料(ただし、しおさい公園人園料が必要です。) ※入園料 高校生以上: 3 0 0円 小中学生: 1 5 0円場所 葉山町立図書館 1階展示スペース時間 午前9時00分から午後6時まで休館日 6月3日(月) ~ 1 2日(水)、1 7日(月)観覧料 無料 間い合わせ 教育委員会生涯学習課」「リュクサンブール公園」 アンリー・ルソー 複製画「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ聖堂」 エドモンド・クロス 複製画「ジプシーのキャラバン」 フィンセント・ファン・ゴッホ 複製画。「ジプシーのキャラバン」 フィンセント・ファン・ゴッホ 複製画「鞭をもつ少女」 ビエール=オーギュスト・ルノアール 複製画展示室の光景。複製画展示室から日本庭園を見る。入口受付近くに展示されていた「ケンスレーダイオウグソクムシ」と「オオグソクムシ」。「ケンスレーダイオウグソクムシ」。「オオグソクムシ」。展示室の入口方向を振り返る。地下階にあった展示室(葉山の海洋生物)へ向かう。階段を下る。葉山 森戸神社裏より富士を望む。地階に展示されていた漁具類を見る。「葉山沖の深海」。「シロウリガイ類の化石」。「シロウリガイ類の化石シロウリガイ類は、相模湾の水深1000m付近をはじめとする深海の海洋プレート境界域に優占してみられる大型のニ枚貝の一種です。この化石は、逗子市池子に分布する三浦層群池子層(440 ~ 280万年前)より産出したものです。 横浜防衛施設局:提供」写真では解りにくいが。「シロウリガイの生態相模弯初島沖水深900 ~ 1200mの海底には、高密度でシロウリガイ類が生息しています。シロウリガイ類は、垂直に海底に直立し、海底下に足を嵳し込み、硫化水素(硫化水素イオン)を体内に取り込んでいます。取り込まれた硫化水素は、著しく肥大化した鰓に運ばれ、鰓の上皮細胞内部に共生している硫黄酸化細菌が、この硫化水素と水管から取り込んだニ酸化炭素を用い有機物を生成します。シロウリガイ類は、この有機物を栄養として利用していると考えられています。また、このような生態を持っため、シロウリガイ類の消化器官は退化しています。地球上に知られる生態系のほとんどは太陽の光を始点する光合成の食物連鎖のもとに成り立っていますが、シロウリガイ類をはじめとする深海の海洋プレート境界域に生息する化学合成生物は地球内部からしみだす化学物質を始点として化学合成細菌が生産者となる化学合成生態系とよばれる特殊な生態系を作り出しています。」「相模湾の深海生物カイロウドウケツモドキ 海線動物門相模満中央部の沖ノ山堆水深845mて観察されたカイメンの一種です。ガラス繊維の骨片の束で海底に固着し、珪質の骨片をもっことから「ガラス海綿」ともよばれています。ハエジゴイソギンチャク 刺胞動物門相模湾西域の小田原沖水深648mで観察されたイソギンチャクの一種です。口盤ががま口のように折れ曲がる特異な形態をしています。水深2,000m付近からも知られ、本種をクラゲイソギンチャクとする報告もあります。オオ工ンコウガニ 節足動物門相模湾中央部の相模海丘水深1,208mで観察された甲幅が20cmに達する大型のカニ類です。相模湾の水深300 ~1,000m付近に生息しています。オオ工ンコウガニの近縁種は、マルズワイガニの通称名で缶詰めなどの原材料として使われることがあります。ユメナマコ 棘皮動物門相模湾西域に位置する初島南東沖の水深1,136mで観察されたナマコの一種です。膜で連結された触手を使い、海底から数mの高さまで浮遊・遊泳します。オオグチボヤ 脊索動物門伊豆大島北方沖の門脇海丘水深1009mで観察されたホヤの一種です。ロのように見える横に裂けた大きな入水孔をもち、流れに向かい大きく開くことで、流れで運ばれる工ビなどを捕食します。」。「相模湾の深海と化学合成生物群集相模湾は、フィリピン海プレートが北米プレートの下に沈みこむ境界に位置することから複雑な海底地形をもちます。相模トラフとよはれる水深1000mを越える相模湾中央部の海底谷をはさんで、伊豆半島沿岸は陸から急激に水深が深くなるのに対して、三浦半島に沿岸には広い陸棚があり、ゆるやかに水深が深くなります。相模湾初島沖の深海には、日本近海ではじめて観察されたシロウリガイ類などから構成される化学合生物群集が生息しています。」シロウリガイ類。オオエンコウガニ。「相模湾沿岸域の魚類これまでに相模湾からは、45目249科1517種類の魚類が記録されています。これらの種類を科別の出現種数で比較するとハゼ科が最も多く109種類(全体の7. 2 % )になり,次いでペラ科88種( 5. 8 % ) 、フサカサゴ科53種( 2. 9 % ) 、スズメダイ科44種( 2.9 % ) 、チョウチョウウオ科35種( 2. 3 % )の順になります。相模湾から記録されるスズメダイ科やチョウチョウウオ科の種類には、冬季の水温の低下に耐えられず姿を消す種類が含まれています。■相模湾と黒潮日本列島の太平洋岸を流れる黒潮は、いくつかの安定した流路があります。それぞれ黒潮非大蛇行接岸流路(B)、黒潮非大蛇行離岸流路(C)黒潮大蛇行(A)とよばれています。黒潮が流れるがる位置により三宅島や八丈島の潮位は変化し、この影響は相模湾内にも及びます。」水槽で飼育している魚は「葉山町沿岸域に生息する魚類」。近づいて。シマスズメダイ。サザナミフグ。石鯛(クチグロ)。「葉山海岸の魚類」。「葉山海岸の魚類Fishes from the coast of Hayama葉山海岸の地形は実に変化に富んでいます。砂浜、岩礁、転石地、河口などが連続し、浅海から深海までの海底地形も様々な底質で広がっています。ここへ南からの黒潮暖流が流れ込み、多彩な環境に適応した多くの魚類が生息しています。また、稚魚が生息するために必要なアマモ場が各所に形成され、カジメの群落など海藻が繁茂している海域も多く、魚が餌をとったり、隠れる場所が十分にあることも魚類にとって住みやすい条件のひとつです。このコーナーでは葉山海岸で見られる「魚類のすみ場所の違い」をわかりやすく展示してあります。」「やや深い海」、「深い海」に近づいて。「タカアシガニ」。「タカアシガニMacrocheira kaempferi クモガニ科 城ヶ島沖相模湾の水深100m~300m付近に生息する世界一はさみ脚の長い節足動物です。はさみ脚長く、大きな個体がオスで、はさみ脚が短く小さい個体がメスです。」深海生物の液浸標本が並ぶ展示コーナー。中央に1m以上ある「オニイソメの標本」。巨大ゴカイ的なヤツ。左下に芸術的なタコの液浸標本。マンボウ。ラブカ。「ラブカカグラザメ目ラブカ科Chlamydoselachus anguineus Garman, 1884ラブカ(羅鱶)は、1884年にアメリカの生物学者ガーマン(Samuel Garman)が本州で採集された 1.5 mのメスの個体をもとに新種として報告した原始的な形態をもつサメの一種です。本種は、相模湾をはじめ、太平洋・大西洋の水深50 ~ 1570 mに広く分布することが知られています。ラブカは、胎生で、3.5年の妊娠期間を経て体長40 ~ 60 cmの仔を産みます。雌雄で体長が異なりオスは90 ~ 120 cm,メスは130 ~ 150cmで性成熟し、最大体長はオスで1.7 m、メスで2.0 mに達することが知られています。」「生物の分類」コーナー。「生物の分類これまでに地球上からは,およそ1 , 000万種の生物が記録されています。1700年代まで、これらの生物は「動物」と「植物」の2つに分けられていました。1800年代には微生物の発見に伴い、原生生物が加わり、生物は3つの世界に分類されるようになりました。1970年代以降は、原核生物はモネラ界に、真核生物は植物界,動物界.菌界,原生生物界の4つに分類する分類体系が主に使われてきました。2000年代以降、遺伝子の情報に基づく分類方法が取り入れられるようになり、これまで「原生生物界」にまとめられていた生物は、多様な真核生物の寄せ集めであることが判明し, 6つのスーパーグループに分ける分類体系が提唱されています。」相模湾に生息する海藻類。「相模湾や三浦半島に因む種名」「相模湾に因んで名がつけられた海洋生物」。「相模湾や三浦半島に因む種名相模湾は、日本の海洋生物学の発祥の地とされている。1877 (明治10)年に帝国大学理学部動物学教室の初代教授として来日したE. S、モース(1838 -1925 )により、一時的な施設であるが、江ノ島に東洋で初の臨海実験所が設けられ海洋生物の採集や研究が行われた。その後、帝国大学三崎臨海実験所が1886年(明治17)年に三浦市三崎に設立された。三崎臨海実験所の設立以前には、帝国大学医学部のお雇い教師として来日したF.ヒルゲンドルフ(1838-1904)やL. H. P.デーデルライン(1855-1936)により相模湾の海洋生物の採集調査が行われ.相模湾には、珍しい深海生物などが多く棲息している海域として海外に紹介されていた。昭和天皇により葉山御用邸を拠点とした生物学御研究所の採集調査は.相模湾東部海域を中心に、およそ60年にわたり行なわれた。この調査は、網羅的な生物相の採集調査を同一の海域で長期的に行うという世界的に見ても稀な研究である。これらの研究成果として、相模湾をタイプ産地(基準となるタイブ標本の採集された場所)として記載された生物の中には、採集地である「相模」、「葉山」、「三崎」という地名だけでなく、小さな岩礁である「鮫島」、「名島」、「亀城礁」など、より具体的な採集地に因んで名づけられた種名が少なくない。また、三浦半島を形成する地層中より採集された標本をもとに記載された化石には「三浦」など採集地に因む種名がある。」相模湾や三浦半島に因む名前の生物。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.17
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県道207号線・森戸海岸線を北に進むと左手にあったのが「葉山しおさい公園」の正門前広場。「葉山町指定史跡 大正天皇崩御・昭和天皇継承の地指定 昭和六十一年四月二十九日 指定第三十八号所在地 葉山町一色ニ一ニ三の一葉山御用邸付属邸の歴史この葉山しおさい公園は、葉山御用邸付属邸の跡地で、昭和62(1987)年6月3日開園し、面積は18009.28平方メートル(約5500坪)ある。ここはもと岩倉具定侯爵・金子堅太郎伯爵・井上毅子爵の各別荘を、大正6(1917)年7月にお買い上げになり、澄宮(すみのみや・現三笠宮)邸として大正8(1919)年6月に竣工されたものである。大正天皇崩御大正天皇は、葉山御用邸をこよなく愛され、最後の行幸は大正15(1926)年8月10日、付属邸で御病気ご療養のためであった。当時、たまたま本邸が関東大震災で損傷し、再建中であったため付属邸へ入られた。陛下には以来同邸においてご療養につとめられたが、同年12月25日、午前1時25分、遂に崩御(逝去)されたのである。時に御年48歳であった。昭和天皇皇位継承大正天皇が崩御(逝去)され、悲しみの中旧皇室典範第10条の定めに従って、皇太子殿下(後の昭和天皇)は直ちに葉山御用邸において天皇の位におつきになられた。新天皇陛下は、まず登極令(旧皇室令)第1条によって践祚(せんそ・皇位を受け継ぐこと)の式を行うため、剣璽渡御(けんじとぎょ)の儀が12月25日午前3時15分より葉山御用邸付属邸において執り行われた。また、宮城(皇居)賢所において践祚の儀式が同じ時刻に行われた。第124代の宝祚(皇位)をつがれた新天皇陛下は、徳川侍従長、奈良侍従武官長、一木宮相以下を従え、伊藤式部長官のご先導により静かに東京に向かわれた。時に御歳26歳。尚、付属邸における剣璽渡御の儀式は皇族、政府関係者列席のもと厳かに行われた。儀式における各役割は宝剣を捧持するもの、原侍従、神璽を捧持するもの、松浦侍従、御璽国璽を捧持するもの、松井内大臣秘書官がその任に当たった。践祚の行われた部屋は昭和56(1981)年11月再建された御用邸の中へ移設されている。 平成6年3月27日 葉山町・葉山町教育委員会」「葉山しおさい公園」正門。「葉山しおさい公園入園料一般 大人 三百円 小人 百五十円(小中学生)団体(ニ十名様以上) 大人 ニ百五十円 小人 百円開園時間 午前八時三十分から 午後五時まで休園日 月曜日 祝日の翌日 年末年始」「葉山しおさい公園」。「葉山しおさい公園 案内図」。受付・管理事務所で入園券を購入。「葉山しおさい公園平面図」。「葉山しおさい博物館」に向かって進む。前方に石碑が現れた。「今上陛下即位記念 平成ニ年十一月十二日」碑。現上皇陛下のこと。そして「葉山しおさい博物館」を正面から。旧御用邸付属邸の御車寄せを移築したものである と。「葉山しおさい博物館」。「葉山町所蔵複製画展~世界の名画の複製画展示~令和6年5月28日(火) ~ 6月23日(日)場所 葉山しおさい博物館 くつろぎゾーン時間 午前8時3 0分から午後5時まで ※入園は午後4時3 0分まで休館日 6月3日(月)、1 0日(月)、1 7日(月)観覧料 無料(ただし、しおさい公園人園料が必要です。) ※人園料 高校生以上: 3 0 0円 小中学生:1 3 0円場所 葉山町立図書館 1階展示スペース時間 午前9時0 0分から午後6時まで体館日 6月3日(月) ~ 1 2日(水)、1 7日(月)観覧料 無料 問い合わせ 教育委員会生涯学習課」「入館無料」と。「ごあいさつようこそいらっしゃいました。この「葉山しおさい博物館」は昭和62年(1987) 6月に開館いたしました。館外の敷地(葉山しおさい公園)は葉山御用邸付属邸の跡地で、大正天皇崩御、昭和天皇皇位継承の地で、いわば昭和発祥の地として知られる由緒ある所です。館内の常設展示は葉山海岸を中心に、「相模湾の海の生物」をテーマにして構成してみました。とりわけ昭和天皇の御下賜標本や珍しい深海生物の展示は当館ならではのものです。生物の宝庫として世界的に知られる身近な相模湾を認識していただき、自然に親しんでいただければ幸いに存じます。 葉山しおさい博物館」受付カウンター。正面には、ヨットが展示されていた。移動して。「上皇陛下御下賜ヨット」。御下賜品(ごかしひん)とは、皇室や宮家から贈られた品物のこと。「案内パネル」が2基。「オリンピア・ヨーレ全長 5m最大幅 1m57cmマストの高さ 6m85cm一人乗り ディンギー丸みを帯びた優美な船型は、美しく典雅な雰囲気を醸し出していると言われている。」「御下賜ヨット オリンピア・ヨーレこのヨットは昭和25年7月、日本ヨット協会(現日本セーリンク連盟)が当時皇太子殿下でいらした上皇陛下に献上した「オリンビア・ヨーレ」という級式のヨットてす。ちょうど沼津御用邸附属邸にこ滞在中の皇太子殿下の元に届けられました。上皇陛下が皇太子殿下時代に沼津でお乗りになりました後、沼津御用邸の廃止に伴い、このヨットは葉山御用邸に移されました。上皇陛下は葉山の海岸においても当時皇太子妃殿下でいらした上皇后陛下とご一緒にお乗りになり、ヨットは葉山御用邸の艇庫て大切に保管されておりました。「オリンビア・ヨーレ」という級式のヨットは昭和9年ドイツて生まれ、昭和11年のベルリンオリンピックてヨット競技の一種目として採用されました。この時、日本はヨット競技としては初めて「オリンピア・ヨーレ」競技に参加しましたが、その後のオリンビックではこの級式のヨットが競技種目として採用されたことはありませんでした。平成19年3月に上皇陛下は日本セーリング連盟にこ相談の上、この「オリンビア・ヨーレ」を葉山町に御下賜になさることとなさいました。葉山町てはその後、ヨット発祥地てある葉山港の港湾管理事務所に保管・展示しておりましたが、平成22年3月に元葉山御用邸附属邸跡地の「葉山しおさい公園」に移設いたしました。 葉山町」館内には葉山周辺の海に生息する魚類、貝類、甲殻類、海藻類などが展示されていた。中でも昭和天皇御下賜標本や深海生物の展示は、当館ならではのもの。・海洋生物の系統分類・相模湾の珍しい大型生物・相模湾で使われていた漁具等も展示されていた。「無生物の形---石の造形藝術---生物(せいぶつ)とは、細胞という単位からなり、自己増殖などの生命活動を行うものと定義される。これにして無生物(むせいぶつ)とは.生命活動を行わない石や水などの物質を示す。生物の形は遺伝子により支配され、自らの意思により形成されるのに対して.無生物の形は、物理的な要因で形成される。同じ形でも、生物と無生物では全く異なる形質形成の過程を辿っている。ここに展示した「石」は、無生物である。意思のない無生物が作りだす偶然の形には不思議な魅力がある。」左から二水石膏、しのぶ石、桜石。ニ水石膏(Gypsum:ギプサム)硫酸カルシウムCaSO4を主成分とする鉱物。骨折などの患部が動かないように外からの固定する創傷処置であるギブスの語源である。しのぶ石(Dendrite:樹枝状晶)岩石の間隙に二酸化マンガンが樹枝状に結晶化したしのぶ石は、自然現象でできるフラクタルの偽化石である。かってはシダ植物(シノブは、シダ植物の古名である)の化石と考えられたことが名称の由来である。桜石(Cordierite:コーディエライト)菫青石は、Mg2Al3 (AlSi5O18)の化学組成をもつケイ酸塩鉱物である。桜石は菫青石が熱水変質により雲母化したものである。断面を桜の花の紋様に見立てた桜石の名称は江戸時代にすでに名づけられていた。「黄鉄鉱(Pyrite:パイライト)化学組成はFeS2。鉄と硫黄からなる。一般的には六面体の結晶形を示すが、八面体や十二面体などもみられる。強い衝撃を与えると火花を散らすことからギリシャ語の「火」を意味するpyrに由来する。かっては硫酸の原料として採掘されていた。鉄礬柘榴石(Almandine:アルマンディン)十二面体あるいは偏菱二十四面体などの自形結品を作り、Fe3gAl2(Si04)3で表される。変成岩、火成岩、花崗岩ペグマタイトでもっともよく見られる。」「子産石(Concretion:コンクリーション)生物起源の炭酸塩コンクリーションは、有機物中の炭素と海水中のカルシウムなどが結合し、短時間で方解石などの鉱物が沈殿して形成される。子産石は,葉山層群中から産出するコンクリーションである。かつては安産のお守りとされた。」「へそ石(Nodule:ノジュール)へそ石は、深海底に棲息していた生物の巣穴を中心に砕屑粒子の隙間が鉱物で充填されて形成された生痕化石と考えられる。へそ石の名称は,中心のくぼみを臍になぞらえてつけられた。江戸時代から知られる三浦半島の奇石のひとつである。」「Carcharocles megalodon(Agassiz,1843 )」。「Carcharocles megalodon(Agassiz,1843 ) カルカロクレス メガロドン ネズミザメ目 オトドゥス科 Emma Longhorn氏 寄贈Carcharocles megalodonは、全長16 mに達したと推定されているサメの絶滅種です。本種は、日本をはじめアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、アフリカなどの前期中新世(1800万年前)から鮮新世末(300万年前)の地層からの産出が報告されています。近代科学が発達する前の江戸時代の日本では、この化石の正体がわからず「天狗の爪石」とよばれていた時代もありました。また、中世のヨーロッパでは「舌石(Glssopetri)」とよばれていました。本化石は, 2007年にEmma Longhorn氏により葉山一色海岸に打ち上げられた状態で採集された資料であり、産出層は不明ですが、逗子層(600万年前)の基底部にあたる礫岩層からの産出と推測されています。」「オカダンゴムシ」と「ハマダンゴムシ」。「身近な外来生物オカダンゴムシオカダンゴムシ(ダンゴムシ)Armadillidium vulgareは、1943 (昭和18)年に岩本嘉兵衛によりはじめて日本列島から記録された、明治時代以前に園芸植物と共にヨーロッパから日本に移入したと考えられる外来生物です。オカダンゴムシが日本に移入したばかりの明治時代、「ダンゴムシ」の和名は、海浜域に生息する在来種のハマダンゴムシTylos granuliferusの和名として用いられ、現在オカダンゴムシと呼ばれている種類は、「テマリムシ(手毬虫)」と呼ばれていました。戦後、オカダンゴムシは急速に分布を広げ、現在では、最も身近な環境で見られる生き物のひとつとなっています。」正面に出土した丸木舟が展示されていた。正面に出土した丸木舟。「古代~中世の丸木舟(今から約1000年前)」と。「丸木舟出土当時の様子」(左)。「丸木舟出土当時の様子」(右)。「葉山町堀内発見の丸木舟昭和42年3月、堀内児童遊園(堀内510番地)に防火貯水槽工事の際、地表から約250センチの深さから発見されたものです。「丸木舟」は、側壁は残っておらず底板のみですが、残存長278センチ、最大幅57センチを測ります。表面にはノミで加工した跡が残っているほか、削りやすくするために表面を焼いた跡がよくわかります。材質はクスノキと判定されています。丸木舟が製作された年代については、放射性炭素年代測定法によリ、10世紀初頭から12世紀初頭(平安時代: BP940±104年)と測定されています。」出土した「丸木舟の底部」。「縄文時代の葉山」と「国指定史跡 長柄桜山古墳群」案内板。「縄文時代の葉山最初に葉山に人類の足跡をうかがえるようになるのは、縄文時代になってからです。1万年以上続く縄文時代は、自然環境の変化に合わせながら、狩蝋や漁撈、植物性食料の採取、また限定的ではありますが、植物の栽培や管理も行うなど、多様な生業が営まれた時代です。葉山町内では、現在繩文時代の遺跡が5か所知られています.馬の背山遺跡(木古庭)は標高約160mの丘陵上にある遺跡で、昭和32年に赤星直忠博士が担当者となって発掘調在が行われました。遺跡は5つの地点に分かれており、りんご箱一個程度の遺物が出土しています。遺物は、縄文時代早期や前期の土器が出上したほか、石鏃などの石器が見つかっています。見つかった土器の時期は断続的で量も少ないことや、住居跡などの遺構が見つかっていないことから、定住的な生活が営まれていたとは考えにくいところがあります。おそらく狩猟や堅果類などの植物性食料の採集のために、湧水の豊富な当地が一時的なキャンプ地として適していたのではないかと思われます。同様の遺跡として、正吟遺跡(上山口)や間門遺跡(上山口)があります。縄文海進(じようもんかいしん)それまで寒冷だった気候は約1万年前から温暖になり、海水面は急速に上昇していきます。約6千5百年前には現在の海水面よりも高くなり、沿岸部の葉山の低地は海の中にありました。約5千5百年前に海水面の高さは4 ~ 5mほどに達してピークを迎えます。これを縄文海進と呼んでいます。縄文時代の自然環境縄文時代の葉山の自然環境はどのようなものだったのでしようか。約9千~ 6千7百年前の三浦半島の陸上では、森や林を作る樹木が、それまで生育していたコナラやニレ、ケヤキなどを主体とする落葉広葉樹林から、シイノキ、エノキ、スギなどを主体とする照葉樹林に種類が変わります。生育する植物の種類が変わった結果、そこに棲む動物の種類が変わった結果、そこに棲む動物の種組成も変化したと考えられています。海域ては、縄文海進とよばれる世界規模の海水面の上昇がおこり、それまで陸地だったところにまで海水が浸人することにより、「おぼれ谷」とよばれる泥の干潟が形成されました。この新たに形成された環境には、ハイガイやシオヤガイなど、現在の相模湾沿岸や関東地方の海域には棲息していない特殊な軟体動物が棲息していたことが分っています。森戸川沿いでは長柄交差点近くの海抜3 m付近から、下山川沿いでは町立ー色小学校近くの海抜8m付近から、泥干潟に棲息する軟体動物の化石が記録されています。したがって、縄文海進の最高期には、現在の森戸川や下山川の流域に沿って海が陸域に浸入し、この周辺域が当時の波うちぎわ(波打ち際)付近だったと雅測されます。この時期に形成された湾は、狄い湾口をもつ入り組んだ内湾であり、現在の一色海岸や森戸海岸のような開けた砂浜の環境ではなく、ハイガイやオキシジミ.イボウミニナなどの棲息する泥干潟の環境であったと考えられます。特に内湾的な環境に依存度の高いハイガイやシオヤガイは、その後、海退期になり海水面が低下すると、棲息地となる泥干潟が消失したため、相模湾沿岸域から姿を消してしまったと考えられます。」約6千5百年前(縄文時代)の葉山の海岸線と遺跡 ※松島(1975)を参考に作成。シオヤガイ、イボウミニナ、オキシジミ、ハイガイ。下の列にハイガイ、シオヤガイ、コゲツノブエ。「三浦半島の今からおよそ6500~5500年前の縄文時代に相当する地層中からは、現在の相模湾沿岸域には生息しない生物の化石が採集されます。およそ6000年前を中心に世界的に海水面が上昇する縄文海進期には現在よりも最大で4mほど海水面が高くなり、入り組んだ谷戸の奥にまで海が入り込み、「溺れ谷」とよばれる泥干潟の環境が形成されていたと考えられています。このような場所にハイガイ、シラオガイ、シオヤガイなどに代表される現在の相模湾沿岸には生息しない南の海域に生息する種類が優占して生息していたことが化石の記録から報告されています。」「国指定史跡 長柄桜山古墳群長柄桜山占墳群は、平成11年(1999年) 3月に、逗子市と葉山町の境にある丘の上で新たに発見されました。2基とも4世紀代の前方後円墳で、現存している神奈川県内の古墳では最大級の規模を誇ります。第1号墳古墳時代前期後葉( 4世紀後葉)全長 91.3m 後円部径 52.4m くびれ部幅 24. 2m墳丘は、後円部三段、前方部二段につくられており、後円部と前方部の高低差が大きい前期古墳の特徴をもっています。後円部は左右非対称の形をしており、現在の逗子市街地が広がる田越川流域や逗子湾から望むことができる西側を整った形に作り出しています。後円部の中央からは、長さ約7m、幅約1. 6mの落ち込みが確認されました。地下に納められた木棺が長い歳月をへて腐食してつぶれたため、古墳の表面に落ち込んだ陥没坑です。部分的な断ち割り調査により、この陥没坑の真下から粘土槨(木棺を粘土で覆った構造の埋葬施設)が1基存在することを確認しています。古墳からは埴輪がたくさん出土しています。後円部を中心に立て並べられていたものと考えられます。出土した埴輪には、三角形の透かし孔が開けられた円筒埴輪や底がない壺形埴輪がみつかっています。また葬送祭祀に使われた壺や高坏などの土器も見つかっています。第2号墳 古墳時代前期後(4世紀後葉)全長 88m 後円部径54m くびれ部幅 32m第1号墳から西へ500mほど向かったところにある前方後円墳です。後円部と前方部の高低差があまりなく、前方部は第1号墳に比べると、幅が広くなっています。古墳の表面には砂岩や丘陵岩盤の泥岩を用いた装飾(葺石)が施されていました。第2号墳からも円筒埴輪と壺形埴輸が見つかっています。前方部から西側には、相模湾に浮かぶ江の島をはじめ、天気が良けれは大山や富士山を一望することができます。古墳群築造の背景古墳群周辺の同時期の遺跡は、田越川中流域に集中して見つかっています。なかでも持田遺跡で石釧と呼ばれる腕輪形石製品が出土しているほか、池子遺跡群の竪穴住居跡からは銅製の鏡や鏃などが出土しており、これらは一般のムラから出上することが稀な、外から運はれてきたものです。田越川に沿って進むと、相模湾ー東京湾間を最短で往来できることから、当時この地域は物資流通の拠点であったと考えられます。また、古墳群より南側の三浦半島相模湾沿岸には、点々とムラが見つかっており、海上交通も重要な役割を果たしたと考えられます。長柄桜山古墳群が築かれたこの地域は、当時の太平洋沿岸における物資流通の重要な拠点であったと考えられ、往来する人々が見上げる位置にある2基の古墳は、ランドマークとしての役割を果たしたと考えられています。」「高坏(たかつき)(食器や祀りの道具)」長柄桜山古墳群から出土した埴輪。長柄桜山古墳群の1号墳と2号墳。長柄桜山古墳群と同時代の遺跡分布図。「葉山しおさい公園」ポスター。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.16
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「下山口 神明社」を後にして、次の目的地の、「葉山御用邸」に裏にある「大浜海岸」を目指す。国道134号を南に進み、振り返ると、「葉山御用邸」の塀と巨木の植栽が正面に。ズームして。神奈川県三浦郡葉山町にあるこの「葉山御用邸」は、明治時代の1894年(明治27年)、近代のお雇い外国人でドイツの医学者:エルヴィン・フォン・ベルツ博士の勧めにより、比較的温暖で風光明媚な葉山の地に『葉山御用邸』を着工。若かりし嘉仁親王(後の大正天皇)の保養地として用いられ、1926年(大正15年)の最期もこの地で迎えられました。1971年(昭和46年)に建物が焼失(葉山御用邸放火事件)したが、1981年(昭和56年)に再建された。相模湾に面する海岸沿いにあるため景色がよく、江の島や湘南、天気が良いときは富士山も眺めることができます。すぐ近くに葉山公園があり、憩いの場になっています。上皇陛下・上皇后美智子さまは、葉山御用邸裏の「小磯の鼻」をご散策されるのがお好きとのこと。「葉山御用邸」の広さ(土地)は95,796.46m2 建物(延べ面積)は3,625.70m2とのこと。土地は約▢310m、建物は▢60mということになる。この「葉山御用邸」前の国道134号は「葉山公園通り」と呼ばれているのだ。「葉山御用邸」の塀に沿って歩き「大浜海岸」に出る。右手に朱色に塗られた欄干の橋を見る。欄干に近づかないように仮設設備のある橋を渡る。「下山川」の河口と相模湾を望む。こちらは「葉山御用邸」側。臨御橋の改修工事用の為にクラウドファンディングが行われ、目標金額の2億円を達成したが、臨御橋の改修の実施には、橋の状態調査、工法の選定、原材料費や労務単価等の高騰の影響により、その準備に当初の想定を上回る時間と費用を要する見込みであり、見直しを実施中であると。再び「下山川」の上流方向を。「臨御橋(りんぎょばし)」と。臨御橋は、御用邸の中を流れる2級河川である下山川の河口付近に設置されている長さ33メートル、幅4メートルのコンクリート製の橋です。欄干が赤く塗られていることから、地元では「赤橋」とも呼ばれ、一色海岸と長者ヶ崎・大浜海岸を結ぶ連絡橋として町民や観光客の散策に使われています。現在の形になる前は木造の橋として設置されていたそうですが、老朽化や台風等による破損を繰り返し、昭和43年に葉山町施工のコンクリート橋に改修され、現在に至ります と。潮位があがり2つに分かれた「長者ヶ崎」を振り返る。「小磯の鼻」。「葉山御用邸」の裏にあり、海に向かってこんもり芝生の丘になっている場所。大浜海岸と一色海岸を隔てるように海に伸びた抜群のロケーションで、ピクニックをしたりヨガをしてみるのもおすすめの場所 と。岬の先端は葉山スコリアと呼ばれる岩場になっていて、磯遊びもできる場所。皇宮警護官の小屋もあった。「小磯の鼻」の岩場の上に朱の鳥居と石祠があった。海の守り神が祀られているのであろう。「一色の洗濯岩」を見る。お立ち台の先が「一色の洗濯岩」の名勝になる。地質は、新第三紀の葉山層群(三浦半島で最も古い地層)で砂泥互層(一部はスコリア)となっている。侵食の違いで洗濯板のように見えることで「洗濯岩」とも言われている。「小磯の鼻」から「葉山御用邸」を。警備用の皇宮警護官の姿も。ご苦労さまです。「小磯の鼻」の岩場を振り返る。「一色海岸小磯の防波堤」の先端から。「一色海岸」。三浦郡葉山町一色にある「ライオンズマンション葉山マリンビュー」をズームして、天気が良ければ、「ライオンズマンション葉山マリンビュー」の後方に「富士山」の勇姿が見えるのだが。写真はネットから。そして「葉山御用邸」の北側の「しおかぜこみち」を国道134号に向かって戻る。この附近はコンリートの壁が続いていた。そしてその先にはツタ(蔦)に覆われた壁が続いていた。そいて、国道134号と交わる県道207号線まで.戻り「葉山御用邸前」交差点に向かって進む。右手にあったのが、「葉山御用邸」の北側の通用門。「皇宮護衛官募集」ポスター。「募集 皇宮警察」ポスター。警察庁の付属機関である皇宮警察本部に所属する国家公務員として、皇居や御用地を守る「警護」、皇室の方々を守る「護衛」、これらの活動を支える「警務」の三部門があるとネットから。道路の左手にあったのが「神奈川県葉山警察署」。三浦郡葉山町一色2034。前方に大きな交差点が。この交差点で、県道207号線が国道134号に繋がっているのだ。「葉山御用邸前」と。横断歩道を渡り、「葉山御用邸正門」を見る。三浦郡葉山町一色2038。そしてその先にあった「恩光碑」。三浦郡葉山町下山口1439。「恩光碑」を見上げる。明治・大正・昭和時代の皇太子殿下の葉山行啓がなされたことを奉祝して葉山町が建立した「恩光碑」。「この碑は、明治・大正・昭和時代の皇太子殿下の葉山行啓を奉祝して、昭和十一年に葉山町が建立したものです。中央剣型塔で「恩光碑」の碑文は枢密院顧問官金子堅太郎の揮毫、設計は彫刻家青柳利男の謹作、撰文は吉田増蔵博士で、その揮毫は松平直亮伯爵によるものです。」この鳥は鶴??「我葉山町 明治以来亘千三朝荐沗 皇太子殿下行啓而明治之朝以ニ十六年ニ月三日 大正之◯以ニ秊六月ニ十九日昭和之朝以九年六月六日竝始仰 鶴駕臺臨焉頃者胥謀樹銅表以諗恩榮之辱於永世云爾」水かきがないので鶴の姿か?「昭和十一年一月 葉山町謹建之」そして「恩光碑」の手前にあった色彩豊かなマンホール蓋。「明治45年、国産ヨットが初めて帆走(はんそう)したことから、葉山町は「近代ヨット発祥の地」とされています。 相模湾に浮かぶヨットを主役に、町の花「ツツジ」、木「クロマツ」、鳥「ウグイス」をあしらったマンホール蓋で、親子蓋である本蓋は、親子あわせて壮大な海を渡るヨットを描いています。 ヨットが行きかう相模湾は、温暖な気候と黒潮の恩恵から多様な生き物が生息しており、そうした環境へ配慮し、町の浄化センターは山間部に建設しました。受枠に施された青い円は、山・川・海を廻る水を表し、「葉山の美しい水環境を未来の世代へ引き継ぐ」という思いを込めています」 と再びネットから。「葉山御用邸」正門の「皇室警護官」の姿を。そして横断歩道を渡り、青い欄干の橋に向かって戻る。国道134号・下山川に架かる橋。「下山橋」と。欄干にはヨットの姿が。近づいて。「下山川」の下流側を見る。相模湾の見える位置まで移動して。海岸に最も近い臨御橋(りんぎょばし)まで2本の橋があるようだ。「葉山御用邸」の正門前を通過。県道207号線まで戻ると「関東ふれあいの道 ④佐島・大楠山のみち」案内板。関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)は梅の木平(東京都八王子市)を起終点に東京、埼玉、群馬、栃木、茨城、千葉、神奈川の1都6県を時計回りに巡る160コース、トータル1,803kmの自然歩道です。神奈川県内には17コースがあります。豊かな自然に触れ、名所や史跡を訪ねながら歩いてみませんか。」④佐島・大楠山のみち三浦半島最高蜂の大楠山は登り約1時間、標高242m。比較的容易に登れるコースですが、最後の階段はちょっと頑張り、下りたあとはひたすら国道の歩道を歩きます。「関東ふれあいの道佐島・大楠山のみち長者ヶ崎 1.0km」。そして県道207号線を北上し、「一色海岸」京急バス停前を通過。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.15
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国道134号を葉山公園方向に向かって進み、次の目的地の「下山口 神明社」に向かってこの石段を上って行った。まずは「下山口 神明社」の西側にあった境内社?の「稲荷神社」へ。神明鳥居(しんめいとりい)の石鳥居には「令和二年七月 下山口神明社 建立」と朱字で。神明鳥居二本の円柱の上に円柱状の笠木をのせ、下に貫を入れた直線的な鳥居。覆堂 (おおいどう)?の中には朱の社殿が鎮座。その手前にお狐様。朱の社殿に近づいて。そして奥にあったのが「下山口 神明社」。三浦郡葉山町下山口1504。手水舎。右手にあった「社務所」。陶器製?の狛犬(右)。陶器製?の狛犬(左)。社殿。御祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ) 向津比売命(むかつひめのみこと)「下山口 神明社」は森戸大明神宮司様の兼務社で、毎年8月第3日曜日に例祭と神楽の奉仕が行われていると。社殿に近づいて。「社殿」の左側に2つの社が。右手は「御札預り所」。この社の扁額は「恵比寿天」と。格子の隙間から内陣を見る。こちらは神輿庫か?振り返ると、国道134号沿いに石仏の姿が。石仏の手前に案内柱が立っていた。「葉山町指定重要文化財 建造物 神明社の庚申塔」と。歴史を感じさせる4基の庚申塔が並んでいた。一番右の大きな庚申塔。駒型 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿 ニ鶏。この時は、逆光であったので、はっきり解かる写真をネットから。造立年号(塔に刻まれている年月日) 天明元辛丑11月吉日(1781年)碑型、石質、其の他 角柱駒型、安山岩、四基群の内向って右端。大きさ及破損度 高さ172cm(台石を含まず)。幅76cm。破損無し。刻像 一面六臂人身を吊す青面金剛と、日月、二鶏、三猿、邪鬼。青面金剛は中央右手に剣を持ち、 左手はシヨケラと称する人身の頭髪を掴んで吊す。他は法輪、槍、弓、矢を持つ。 兜に蛇を巻き邪鬼の背に乗る。猿は向って右から見ざる、聴かざる、言わざるで、 左右の猿は中央に向き合っている。銘文 正面向って右に年号、同左に「願主当村五組講中」とある。塔の特徴 この塔は葉山町で一番大きい。又蛇頭の青面金剛はこの塔だけである。 かがんだ邪鬼は肉体美の出た優しい姿になっているのは面白い。三猿の左右の猿は、 中央に向き合っているが朗かに見える とこれもネットから。笠付角柱型(笠欠) 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿。正面に「濱里中」、右側面 「宝暦四甲戌九月吉日」(1754)。笠付角柱型(笠欠) 日月 青面金剛立像 邪鬼 三猿右側面 「安政七庚申二月吉日」(1860)唐破風笠付角柱型 青面金剛立像 三猿(三面)。斜めから。背面 不言猿。右側面 不聞猿右側 「當村惣子中」 左側 「奉造立三王廿一社」。左側面 一猿右側 「元禄十二年」と。「氏子会館 災害避難場所 葉山町」案内板。こちらが国道134号からの「下山口 神明社」への参道への石段であった、 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.14
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「万福寺」本堂を正面から。縁起を再び。「当山は、明応四年(1495)の創建、鎌倉の大本山光明寺系の浄土宗の寺である。この寺は、もと下山口平の里にあった満蔵院で、下山口を領していた鎌介という人が満蔵院本尊の薬師瑠璃光如来の信仰者であったので、明応四年に現在の地に自分の邸宅を全部寄進して寺となし平の里から薬師如来を移して祀り「沙白山満蔵院万福寺」と号した。そして、鎌倉の光明寺から浄土宗四代の法孫寂恵上人の法弟、源誓上人を招請して開山と仰いだ。なお、藥師瑠璃光如来は相模風土記に行基作と記されている。《御詠歌》 おのづから染(そ)まる心(こころ)の錦(にしき)こそ かくれやはなし木々(きぎ)の下山(しもやま)」向拝虹梁(こうはいこうりょう)の上の見事な彫刻。木鼻彫刻(右)。木鼻彫刻(左)。寺紋「八曜に月」であっただろうか?「八曜に月」紋は、真上が欠けた『半月』を描き、その周りに周囲に8つの星を配して描く。戦国武将武田家家臣の原氏の家紋 であるとのことだが。隙間から本堂内陣を。御本尊:阿弥陀如来本堂前から六地蔵、旧本堂の鬼瓦を見る。境内から山門方向を。??の老木の跡であっただろうか?寺務所。再び六地蔵を正面から。「万福寺」を後にして、ナビに従い再び国道134号に向かう。小路脇のガクアジサイ。近づいて。三浦郡葉山町下山口の住宅街の煉瓦?畳の路地を進む。右手にあったのが、カフェバー?「808LAB」。三浦郡葉山町下山口1510−4。HAWAIのナンバープレート?の如き。懐かしい公衆電話。振り返って。国道134号に戻ると角にあったのが「カヌー/カヤック ショップ」の「好日葉山工房・Goodday Hayama Workshop」👈️リンク2022年2月1日、葉山御用邸前のビル1階にオープン。工房を始めたのは、近くの高台で2012(平成24)年、「八千代 木製カヤック工房」を作った梅原雅士さんと、その工房に通っていた生徒、原田幹寿さん と。近くに住む人や週末に葉山に遊びに来る人などから作りたいという申し込みが多くあると。フォームを決めて、ベニヤ材で型を作り、細く切った杉を張り合わせていく。最後に磨き上げて、椅子や装飾を施す。標準タイプは30日~40日で仕上がるのだと。三浦郡葉山町下山口1506−6。製造途中?のカヌーか?使う木材の種類(桜、杉・・・)により、金額が大きく違うようであった。塗装も完了して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.13
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そして次に訪ねたのが「神奈川県立葉山公園」。入口にあった案内板。「葉山公園」柱。「神奈川県立葉山公園案内図御用邸に隣接する葉山公園は、かつては御用邸付属の馬場でした。昭和21年10月に神奈川県に払い下げられ整備し、昭和32年4月に「近隣公園」として開園しました。相模湾が眼前に広がり、富士山と江ノ島を望む絶好のビューポイントにあり、景勝の地「葉山」に相応しい公園です。クロマツ林のなか芝生が広がり、ハマナスが群生する海辺の公園で、夏は海水浴やマリンスポーツで賑わいますが、秋から春にかけては富士山を望む散策の地となります。」富士山が見える天気であれば・・・・「相模湾と富士山」。大正3年( 1914年)「葉山村海岸全景」(提供:山郷土史研究会)。葉山御用邸横の「下山川河口」と御用邸裏の「小磯の鼻」方向を見る。そして振り返ると、「葉山公園・トンビ磯」その先に「長者ヶ崎」。4匹の大型犬と散歩する御夫婦の姿。「四阿(葉山公園休憩所(海側))」。「四阿」の先から見える「箱根の山々と富士山」案内。ズームして。冬になると、天気次第ではこの絶景が見えるのであろう。「パーゴラ(葉山公園)」。「パーゴラ」とは、庭や軒先に設ける格子状の棚、またはその空間のことです。 イタリア語のぶどう棚が語源です。 バーゴラには藤やブドウ、ゴーヤなど蔓科の植物を絡ませると、夏場の日差しを遮り、涼しげなイメージだけでなく室温の上昇を緩和させる効果も期待できます と。江ノ島と大山の姿は確認できたが。再び「長者ヶ崎」を。「芝生広場」を歩き公園内の松林の中を歩く。「葉山公園」を出て「わかしおこみち」に出る。葉山の魅力の一つはひっそりたたずむ小径(こみち)。そして国道134号に向かって進む。次の目的地の「万福寺」に向かって国道134号「葉山公園入口」交差点を渡る。葉山町の汚水マンホール蓋。明治45年、国産ヨットが初めて帆走(はんそう)したことから、葉山町は「近代ヨット発祥の地」とされています。 相模湾に浮かぶヨットを主役に、町の花「ツツジ」、木「クロマツ」、鳥「ウグイス」をあしらったマンホール蓋。外周の円は、山・川・海を廻る水を表し、「葉山の美しい水環境を未来の世代へ引き継ぐ」という思いを込めています と。そして「万福寺」の山門前に到着。寺号標石「浄土宗 沙白山 万福寺」。掲示板。今月の言葉「比べなくても あなたは あなた」👈️リンク。「どんな一歩も大事な一歩いけらば念仏の功つもり、しなば浄土へまいりなん。とてもかくても、此の身には、思いわずろう事ぞなき(生きている問はお念仏を称えてその功徳が積もり、命尽きたならばお浄土に参らせていただきます。いずれにしてもこの身にはあれこれと思い悩むことなどないです。)私たちはさまざまな思いを抱きながら毎日を歩んでいます。思い切って踏み出した一歩も、迷いながら踏み出した一歩も、なんとなく踏み出した一歩も、どれも等しく大切で、私たちが生きる上でとても大事なもの。そんな歩みの中、私たちはお念仏をとなえることによって、阿弥陀さまにお見守りいたたき、いつか命終わる時、「極楽往生」というお導きをいただくことができます。日々、悩み戸惑い、心が散り乱れる私たちですが、お念仏の生活を送ることによって、阿弥陀さまと共に安心して毎日を歩むことが出来るのです。」正面に山門。扁額「瑞信成門」。意味は??山門をくぐり境内へ。左側にあった石碑。「浄土宗万福寺の誌明応四年(一四九五年)の創建である。下山口領主鎌介公が平の里満蔵院本尊の薬師瑠璃光如来の信仰者であったので現在地にあった自分の邸宅・敷地を全部寄進して、ここに移し、砂白山満蔵院万福寺と号した。そして鎌倉より浄土宗四代の法孫寂慧上人の法弟順誉現誓上人を招請して開山に仰いだと伝えられる。その後阿弥陀三尊が祀られたので之を本尊となし薬師如来は今は秘伝となっている。大正十二年九月一日の大震災に本堂全潰し第二十八代楽誉慶瑞上人は東奔西走堂宇再建に精根を傾け、遂に昭和ニ年四月二十ニ日現在本堂の落慶を見るに至ったのである。寺宝 薬師如来(行基作)不動尊厨子高僧筆墨 掛軸(弘法・法然・親鵉・他名僧筆になる)三浦札所 薬師如来十二番 身代り地蔵尊二十ニ番 願掛け観音三十三番白妙の真砂の上によろづ代をしめてさいわひ給ふみほとけ 昭和五十ニ年十月吉日 三十一世玄誉慶成 建立」 旧本堂の鬼瓦か?そして本堂。三浦郡葉山町下山口1515。「葉山町 ボーイスカウト ガールスカウト発祥之地」碑。「当山第30世住職坂田慶成師は 夙に青少年の健全な育成を悲願とせられ ボーイ・ガールスカウト運動の精神に深い感銘を享け当寺を草創の地と定め数名の少年達と苦楽を共にし幾多の困難を乗り越えて逐に葉山第1団を結成し昭和37年県連登録して葉山逗子における今日の隆盛の基盤を造ったものでここに記念碑を建立しその偉業を末長く称えることとした平成元年9月吉日側面:葉山町ボーイ・ガールスカウト 発祥之地紀念碑建設委員会」その先には「六地蔵尊」を祀った御堂。御堂内部に赤い帽子・涎掛けの六地蔵尊。「涙には涙に宿る仏ありそのみそのみ仏を法蔵【阿弥陀さまの事】と言う地蔵菩薩は人間のいる所常にその苦しみも哀しみも共にする同悲同苦のみ仏として現世での幸せの・・・・・・・暖かくみつめしっかりお守り下さる更に地蔵菩薩は慈悲深く子どもをお守りして下さり家庭平安・病気平癒・延命長寿・除災招福等の喜びを授けて下さる功徳がある。六地蔵尊は六道能化地蔵願王菩薩と申し人間が死んだあと之めぐるとされる六道の世界に夫々1.天道 ▶️ 日光地蔵2.人間道 ▶️ 除蓋障地蔵3.修羅道 ▶️ 持地地蔵4.畜生道 ▶️ 宝印朱地蔵5.餓鬼道 ▶️ 宝珠地蔵6.地獄道 ▶️ 檀陀地蔵がおり衆生が苦しむとすぐそばにかけつけて救ってくれる。その他六道の世界に迷う衆生を阿弥陀如来のもとにおつれし弥陀の浄土に往生させて下さるという大きな役を果たしていらしやる。」石仏がニ体そして摩尼車が。万福寺の「願掛け観音」。万福寺は、明応四年(1495)創建の浄土宗のお寺で、入って本堂左側に、この「願掛け観音」があった。「願掛け観音由来建立年代不詳。多くの人の願いを聞き、それを叶えて下さるということで参詣者が多く、関東一円からの来訪がある穏やかな心安らぐお顔はいつまでも見飽きない。最近は進学希望の学生の絵馬奉納で人気を呼ぶ。お参りするときお願い部分をたわしで洗い全体に水をかけて下さい。必ず周りをきれいにして桶には水を入れ、後の参詣者が困らないようにして下さい。」「願掛け観音」の後方にあった石仏。舟型の地蔵菩薩であっただろうか。そして更に奥のここにも合掌される石仏。合同墓か?「妙白山万福寺歴代上人墓」「妙白山万福寺歴代上人墓誌」現在の上人は三十一世のようであった。振り返って。美しいあじさいの花。近づいて。懐かしき手押しポンプの井戸。井戸前から振り返って。本堂前の石灯籠(右)。本堂前の石灯籠(左)。本堂を斜めから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.12
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この日は5月30日(日)、前日の風雨も過ぎ去り、この朝は青空が。台風1号も31日朝から昼前にかけて、伊豆諸島に最も接近する見込みとのこと。神奈川県内では雷を伴った激しい雨が降り、警報級の大雨となる可能性もあるという。よって、以前から計画していた、「御用邸のある町・三浦郡葉山町を歩く」をこの日に決行。6:30過ぎに自宅を出て、小田急線、東海道線、横須賀線を利用して逗子駅に到着。時間は7:17。バスで「長者ヶ崎」まで行くこととし、バス停に向かう。「歩いてみよう逗子・葉山」案内板。葉山町は人口約3万2千人、面積約17km2、我が藤沢でいえば御所見と遠藤を合せたくらいの規模の所で人口密度もほぼ近い。藤沢と異なり殆ど山であるが、相模湾を西に臨む沿岸部は温暖で風光明媚な保養適地として明治天皇侍医ベルツ博士のお墨付きを得た。明治27年御用邸が竣工、多くの別荘が明治から昭和中頃まで建設された。昭和9年には500軒にも及ぶといわれた別荘も、現在はその殆どが消え跡地の多くは高級マンションなどになり、また山間部の開発も始まりすっかりべッドタウン化しているのだ。今回は、あくまでも明るい海岸部を富士、江の島などを望みながら、往時を振り返るコースを長者ヶ崎~葉山マリーナの先まで歩くことにしたのであった。JR逗子駅駅舎を振り返る。逗子駅バスターミナルへ。中央に、ヨットの帆柱そしてその頂部に時計が。京急バス・長井行き7:40発で長者ヶ崎へr向かう。京浜急行バス・長井行きが定刻に到着。かなり混雑していたが、なんとか座席を確保。7:40定刻に出発。そして少し渋滞したが、国道134号を走り、8:05過ぎに「長者ヶ崎」バス停で下車し散策のスタート。国道134号の歩道を「長者ヶ崎」に向かって歩く。遠く海の先に、我が住む市内にある「江の島」の姿が。ズームして。さらに。前方右手に、神奈川県三浦郡葉山町一色にあるライオンズマンション葉山マリンビュー、そして手前の海岸が「長者ヶ崎海岸」。「葉山公園・トンビ磯」。県立葉山公園の前にある小さく短い突堤がトンビ磯堤防だ。長者ケ崎の岬が目前の絶景のロケーションだが、釣り場としては穴場的存在であると。水深は浅く堤防先端付近でも2mもないとのこと。三浦郡葉山町下山口。その先には、標高約140mの三ヶ岡山(大峰山)一帯が。「長者ヶ崎海岸」を再び。そしてその前方の、相模湾に約400m突出する「長者ヶ崎」を見る。付け根附近の断崖。三浦半島の尾根といわれる大楠山地(おおぐすさんち)の西端にあたり、泥岩層(逗子(ずし)泥岩層)からなり、基底は凝灰岩層(御用邸岬凝灰岩)で、地質上の向斜部が、硬い泥岩層による選択侵食のために山嶺(さんれい)となったものの典型とされる。1177年(治承1)伊豆に流されていた源頼朝(よりとも)が三浦半島を訪れてここの景色を賞したが、案内していた土豪の芦名三郎(あしなさぶろう)が、あたり一帯の植林に精を出して成功した長者の物語をしたのが地名のおこりと伝える。三浦半島西岸第一の展望地で、江の島から湘南(しょうなん)海岸一帯、富士、箱根、伊豆半島、大島、三浦半島南端部が一望のもとに収められる。横須賀側の南斜面では、草花、エンドウづくりが盛んで、早咲き、早取り(正月用)で知られる。夏は海水浴場となる と。「長者ヶ崎」の先端部。静かな海に筋状の白波が先端部に。こちらは、この日は無料の駐車場の入口。こちらは、4月~6月、9~10月の土日祝休日は有料(9~18時)の駐車場。有料駐車場の奥に「長者ヶ崎海水浴場」碑。ズームして。「かながわの景勝50選 長者ヶ崎」碑。長者ヶ崎は葉山町の南端で、横須賀市との境に位置し、大楠山系の峰山(三根山)が西に突き出した岬で、遥か富士を望み、大島が眼前に見え、ここも夕陽が美しい岬として知られている。土地の古老は現駐車場海側の屏風のような岩を「峠山」、その奥の岬を「尾ヶ崎(おがさき)」または「鵜ヶ崎(うがさき)」と呼んだ。南側(横須賀)は大崩、北側(葉山)は白石という小字である。昔は峠山と尾ヶ崎の間は舟が通れたが、大正12年の関東大震災で土地が隆起し陸続きになった と。長者ヶ崎の「マイルストーン〈ヨット〉」長者ヶ崎のある葉山町は、「日本のヨット発祥の地」であり、日本有数の歴史と伝統を誇るマリーナはもちろんのこと、多数のヨットスクールもあり、素晴らしいマリンライフのひと時を過ごすには最適な場所となっているのだ。「自転車半島宣言 長者ヶ崎ヨット三浦半島観光連絡協議会」。「三浦半島一周 サイクリング」。この時は富士山の姿は・・・。昔、早春に撮った写真を。このような写真を撮りたかったが残念。「長者ヶ崎駐車場「とるぱ」ご案内」であったが・・・ネットから。「とるぱ」は、写真を撮るパーキング・安全な駐車場と、写真撮影ができるフォトスポットのセットです。・「とるぱ」では、魅力ある風景などを撮影することができます。・現在、神奈川県では7箇所の「とるぱ」があり、皆様にご利用いただいております。 また、「とるぱ」の情報はホームページで確認することができます。 (平成23年3月現在)・「とるぱ」マークの標識をみつけたら、近くのとるぱ駐車場に車を停めて、カメラ片手に フォットsポットまで歩いて行ってみませんか。 きっと美しい風景を撮影することができます。長者ヶ崎からの見どころ 富士山、伊豆半島、江ノ島を望む景色は「かながわ景勝50選」に選ばれるほど ここから見える景色は、絶景として有名です。そしてこの日の長者ヶ崎。以前に訪ねた時の写真。こちらはネットから。こちらも以前訪ねた時のダイヤモンドリングの写真。「長者ヶ崎緑地◆所在地 横須賀市秋谷字尾ヶ崎5676番1 葉山町下山口字白石2053番1◆面積 10 , 670m2◆寄贈者 鹿島建設株式会社神奈川県では、優れた自然環境及び歴史的環境を保全して後世に引き継ぐため、かながわのナショナル・トラスト運動を進めています。この緑地は、鹿島建設株式会社の御芳志を受け、かながわのナショナル・トラスト寄贈緑地として保全するものです。自然を大切に、みんなの手でふるさと神奈川に豊かなみどりを残しましよう。」再び「長者ヶ崎海岸」を見る。「尾が島」。葉山・長者ヶ崎沖に浮かぶ小島。「芝崎海岸」に負けず劣らずのシュノーケリングスポット と。三浦半島を望む。右手は「城ヶ島」方向。再び「江の島」を。「関東ふれあいの道 ④佐島・大楠山のみち アマモ場の生きものたち長者ヶ崎の北側は波の静かな内海で、海底には砂や泥が堆積しています。このような浅い海にはアマモが群生し、「アマモ場」を作っています。アマモは海底に長い地下茎と根を繁茂させ、海水中にはリボン状の葉や、花や実のついた長さ1 ~ 2mの茎をつけます。地下茎や根の周りにはイソメ類やカニ類など、葉の表面に小型の藻類やモ工ビ類、ウズマキゴカイ、コケムシ類など様々な小動物がすみ、さらにトビウオやアオリイカなどが卵を産みつけます。アマモは多くの海の生き物に生活の場を提供しています。アマモ葉は細長く、幅5 ~ 7mm、長さ約1m、直立する茎についた花は海中や水面で咲き、初夏には米粒のような実がなります。三浦半島ではアジモとも呼ばれ、このほかモシオグサ(藻塩草)、リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結の切りはずし)などの名前があります。また、水深3 ~ 10mの海底には、直立すると5 ~ 6mになるタチアマモが群生して、アマモ場をつくります。」「アマモ」。「関東ふれあいの道⇐立石公園へ2.4Km しおさい公園へ⇒1.0Km。」そして国道134号のこの先は「横須賀市」。カーブを曲がると、右側に長者ヶ崎の裏側が見えたので撮ってみました。ズームして。再び「尾が島」をズームして。「葉山町」案内モニュメント。ズームして。葉山らしいデザインの町名看板。そして久しぶりの「長者ヶ崎」を後にして。国道134号を御用邸方向に進む。左手の小路が「さざなみこみち」と。「さざなみこみち」の入口には「津波避難経路」案内板が路面上にあった。「ここは海抜約9.5m 海抜20m地点まで約155m」と。「さざなみこみち」を「長者ヶ崎海岸」に向かって進む。「長者ヶ崎海岸」から「長者ヶ崎」の岬を振り返る。この時は、岬の途中が海で2つに隔てられていた。三ヶ岡山(大峰山)方向を望む。「長者ヶ崎海岸」を歩きながら振り返ると岬が二分されていることがはっきりと解ったのであった。ズームして。海面に出ている岩場伝いに先端に渡るのは無理そうであった。「葉山町海・浜のルール」案内板。 ・・・つづく・・・
2024.06.11
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「浦賀城小田原北条氏水軍の海賊城。浦賀水道に面し、浦賀港のある明神山に築かれた。天正18年(1590)に豊臣秀吉は小田原城を攻め北条氏は滅亡。その後浦賀賊衆は徳川家康と応戦後、徳川水軍となり、浦賀城は廃城となった。」「浦賀城跡波静かな、浦賀港を前にして、叶神社奥の院のある、明神山一帯を本城とし、本城の前面に、東林寺出丸と、専福寺裏山出丸がV字形に位置し、全体としては、Y字形の地形になっている。本丸のあった明神山には、二段のヒナ段を造り、今ものこしている。東林寺山の東側にもヒナ段を築いてあったが、宅地造成のため一段切り崩された。また梅山切通しは、掘割だったと考えられるが、道路拡幅工事のため切り崩された。城の西方の町(東浦賀)には、法幢寺、東林寺、専福寺を海岸沿いに連続させ、石垣を築いて防衛している。また東側の大きな谷間(大室)は、船蔵跡といわれ、先年発掘調査が行われ、水堀が発見され、柱穴の一部も確認されたが宅地造成の犠牲となった。北条早雲は、永正15年(1518)三浦道寸を、新井城にて滅亡させ、三浦の地を得た。そして、北条水軍の根拠地を、三崎城におき、大改修を加えて、防備に当たらせた。当時房州の里見水軍がたびたび三浦半島に出没し、弘治2年(1556)塚原備前守、富永三郎左衛門、遠山丹波守等、三崎城にて里見左馬頭義弘の軍勢と戦い、里見軍は兵船80隻をひきいて、城ヶ島に陣を構え、大合戦となったが勝負はつかず、里見軍は房総へ引き返した。そこで浦賀水道に面し、浦賀港のある明神山に海賊城を構築した。これが三崎城の支城、浦賀城である。そして、「浦賀定海賊」を起用し防衛にあたらせた。天正18年(1590)豊臣秀吉は、小田原城を攻め北条氏は滅亡した。浦賀海賊衆は後北条氏に属して、三崎城に立てこもり、豊臣方の徳川家康と戦闘を交え、城が陥落した後、城ヶ島に立てこもり、応戦を続けたのちに家康と和睦し、徳川水軍となった。そして浦賀城は廃城となったのである。」「浦賀城址戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。水軍の根城として山頂には空掘など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂が見られます。この明神山は自然の社叢林で県の天然記念物に指定されたウバメガシ分布の北限とされています。嘉永六年( 一八五三)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。下の絵は安藤広重の武相名所の旅絵日記の五六景の一枚です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」先ほど訪れた明神山の山頂の南端からは「浦賀水道」の絶景が拡がっていたのであった。そして前方の眼下に見えたのが先日訪ねた「浦賀燈明堂跡」が見えた。広重の旅絵日記より「浦賀水道」には「浦賀燈明堂」が描かれているのであった。「御城印」。「浦賀奉行所の設置とその役割」「浦賀奉行所の設置とその役割江戸の町の発展につれて、船によって江戸に運ばれる商品が増大すると、三崎・走水両番所を統合してつくられた下田奉行所では統制できなくなりました。そこで、享保5年(172)の12月、幕府は浦賀に奉行所を設置し、船番所を設置して、江戸へ出入りする船をすべて検査する体制を整えました。浦賀奉行所は、浦賀奉行(1 ~ 2名)の下に与カ(10 ~ 23名)と同心(49 ~ 86名)が付属し、船改めのほか、領地の年貢徴収や治安維持などの民政も行いました。船改めの実務は、105軒の廻船問屋が請け負っています。江戸時代後期になると、異国船が江戸湾に来航するようになり、海防と応接の任務が加わります。ペリー艦隊の来航の際の奉行所役人たちの活躍はよく知られています。その後の軍艦建造など、幕府海軍の発展にも大きな役割を果たしました。」「浦賀奉行所間取模型」。近づいて。そして正面に「浦賀奉行所の模型」。正面から。「浦賀奉行所 見取図👈️リンクⅠ 浦賀奉行所の誕生享保5年(1720 ) 12月、伊豆の下田にあった奉行所を移転し、新たに浦賀奉行所が設置されました。下田から浦賀に移転した公式な理由は「下田は港の出人口に岩礁があって、船の人出港の妨げになっている」という船乗りたちからの声を聞き、より安全な湊を求めたからといわれています。しかし本当は、江戸幕府が開かれてから100年問、大きな戦乱もなく平和な世の中てあったため、生産力が向上して全国各地から江戸へ様々な品物が人るようになり、江戸に人る物資の98%以上を占めていた船による荷物を、ほぼ完ぺきに検査できる場所を探した結果、すでに湊として整備されていた浦賀が選ばれたのです。Ⅱ 浦賀奉行所の役割(江戸に出人りする船の検査)浦賀奉行所には、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う船番所が開設されました。この船改めは「廻船問屋」と呼ばれた105軒の問屋に委託されました。江戸へ出人りする全ての船は、浦賀で改めを受けることが義務づけられ、船の関所の役割を担っていた船番所ては、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、生活必需品11品目の出入りの数が3か月ごとに江戸町奉行に報告されてしました。Ⅲ 浦賀奉行所の役割(異国船の警備と応接)浦賀奉行所が開設されて100年となる19世紀初めには、異国船が浦賀沖へ来航するようになり、奉行所に異国船への警備と応接の役割が追加されました。嘉永6年(1853) 6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818) 5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船の来航でした。このペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜て受け取ることになりました。Ⅳ 幕府海軍と浦賀奉行所の廃止翌年の嘉永7年(1854) 1月にペリーが再来日して、日米和親条約が結ばれましたが、その頃浦賀では、日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造されていました。安政5年(1858) 6月に日米修好通商条約が結ばれ、翌年に横浜が開港されると、異国(船)の応接は浦賀奉行所から神奈川奉行所に移されました。しかし、浦賀奉行所は、開港後も引き続き「船改め」の役割を続けるとともに、鳳凰丸建造や軍艦の修理など、幕府海軍を支える重要な役割を果たしていました。安政7年(1860)咸臨丸が浦賀から出港した時も、浦賀奉行所の役人が乗船してアメリカへ渡りました。浦賀奉行所は、慶応4年(1868)閏4月、新政府軍に接収され、「船改め」以外の仕事を終えました。「船改め」の仕事は明治5年(1872)まで続けられました。浦賀奉行所は、周囲を堀で囲まれ、東面北側に表門、北面中央に裏門がありました。敷地の中には屋敷、焚出所、土蔵などがかれ、さらに屋敷には玄関、白州、地方役所といった執務の場のほか、日常生活の場(役宅や台所など)も置かれていました。焚出所異国船が来航すると、奉行所の役人をはじめ、奉行所の船を操船する近隣の漁師は24時問体制になるため、その役目についた人たちにご飯などを炊きだした場所。奉行所の門を通らずに出入りすることができました。地方役所「じかた」役所と読み、年貢の徴収や土地制度、民政に関する政務を行っていました。白州奉行所で法廷が置かれた場所。しかし、裁判ばかりでなく、町人や農民などに通達するときも白州が使われました。浦賀奉行所では灯明堂の白砂が敷かれていて、汚れると新しい砂と交換しました。役宅奉行が2人体制になった文政2年(1819)以後、浦賀詰め(在地)となった奉行が居住した場所。文久2年(1862)までは、在地の奉行は単身赴任であり、奉行の周囲には秘書役の用人と警備役の目付が数名ずついました。」浦賀奉行所 地図。★「浦賀奉行所」👈️リンク。「奉行所 模型」に近づいて様々な角度から。「歴代浦賀奉行一覧」。「浦賀奉行所の主な役人」をネットから。「浦賀奉行所間取図」。「浦賀奉行所間取図 1」:文政4年(1821)~同11年(1828)頃。文政4年、敷地が享保5年(1720)開設時以来の約500坪から約1,500坪に拡張され、建物も新築された頃の間取図面。(弘化2年での修築についての記事は追筆されたもの)「浦賀奉行所間取図 2」:天保11年(1840)~弘化元年(1844)頃。弘化2年(1845)改築以前の間取り。文政11年~天保11年にいくつかの改築が、行われた結果を表している。「浦賀奉行所間取図 3」:安政2年(1855)新築。安政2年に新築された際の間取り。西側の破線から西の部分(10間半)はこの時に増地され、敷地は約1,950坪に拡張された。これは現在の奉行所跡地と同じ面積です。以後、文久2年(1862)に建物の一部が増築されたようだが、詳細は不明で、絵図も残っていない。「中島三郎助 宅」。近づいて。「中島三郎助 宅桂小五郎、中島三郎助宅に寄食・教えを受ける安政二年(1855年)桂小五郎は、吉田松陰の勧めで中島三郎助宅を訪れ、「船艦製造の技術と西洋軍事を極めたいので教授してもらいたい」と願いました。三郎助は固辞して承知しませんでしたが、桂が熱心に懇願するので「それでは一緒に勉強しよう」ということになり、アメリカより入手した造船製造書を研究することになりました。桂は後の木戸孝允です。桂が「どこか部屋の片隅にでも置いてもらいたい」と頼むと、三郎助は自宅の裏に漬物を置く二畳半ほどの納屋に床を張って提供し、桂は約四ヶ月この部屋で寄食したといわれています。この工ピソードは、『浦賀志稿本』に収められています。」「奉行所周辺の居住図」。「現在の浦賀奉行所跡周辺の居住図」。①浦賀奉行所跡②船番所跡(現在の浦賀病院)③浦賀奉行所支配組頭役宅跡④浦賀奉行所与カ・同心等の役宅跡「会津藩の江戸湾警備」。江戸湾の警備が、重要視されるようになったのは、寛政年間です。寛政4年(1792)ロシア使節ラクスマンが、根室に来航し日本の通商を求めましたが、この際に江戸への回航を要求しました。これに驚いた老中松平定信が、江戸湾の防衛体制の整備に着手しました。しかし、松平定信が老中を辞任したことにより、この計画も頓挫しました。その後、北方でロシアとの緊張が高まったり、長崎で起きた「フェートン号事件」をきっかけに、文化年間に江戸湾の海防が再び注目されるようになりました。文化7年(1810)に、会津藩が江戸湾の相州側の警備を命じられました。対岸の房州側の警備を命じられたのは、白河藩(当時の藩主は江戸湾の警備強化を提案した松平定信)でした。文化7年1 1月には、会津藩士の移住が始まりました。遠方への長期出兵だったため家族同伴がゆるされました。そして文化8年から9年にかけて、観音崎、浦賀平根山、城ヶ島に砲台が築かれ、陣屋は観音崎、平根山、三崎におかれました。警備隊は、番頭上席を責任者として、数名の番頭に指揮された軍隊、武具奉行、普請奉行、砲術家などの技術者、郡奉行を中心に民政にあたる者で編成されていました。この江戸湾警備は10年もの長期間に及びましたが、文政3年(1820)に、相州の警備は浦賀奉行所が担当することになり、会津藩は江戸湾警備の任を解かれました。「船番所」の模型。陸軍桟橋の前の駐車場の地が浦賀奉行所の出先機関であった番所が置かれていたところ。番所では、江戸へ出入りする船の荷改め(検査)を行い、それは江戸中の経済を動かすほどの重要なものであった。その業務は昼夜を通じて行われ、三方問屋と呼ばれる、下田と東西浦賀の回船問屋100軒余が実務を担当していた。右手に「船番所」。「船番所鳥瞰模型(1/60)享保5年(1720年)幕府は下田の船番所を浦賀に移しました。船番所は海の関所です。与カ2人、同心6人が昼夜詰めており、江戸に出入りする船は必ず船番所の検査を受ける決まりになっていました。船が着くと、与カ・同心の指揮で、東西浦賀・下田の廻船問屋が、積み荷・乗組員・船の石数(大きさ)等を書類と突き合わせて検査し、間違いがあれば理由がわかるまで留められます。「入り鉄砲・出女」のほか、運んではならない品物も細かく定められていました。浦賀の船番所は、明治政府になり廃止されるまでの約145年間、船改めと江戸防備の役割を果たしました。」〇敷地総坪・・・・・798坪7合5勺7寸〇正門脇の高札・・・・・・浦高札といい、海に関するお触れが掲げられていた。〇番所内に牢があるが、お白洲は無く奉行所でお裁きを受けた。〇下田丸(元韋駄天丸)・長津呂丸は下田番所から移されたもので、船がお船庫からはみ出ている のは、おそらく地形上、お船庫をこのサイズでしか作れなかったからと思われる。 模型製作:村上太」そして「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」を後にして、「浦賀通り」まで戻る。正面に、前回も見た巨大なテントが旧浦賀ドックの構内に。京急浦賀駅方面に向かう。浦賀コミュニティセンター分館は(愛称)浦賀文化センター。現在地はここ。「サーカス会場」入口。「ポップサーカス横須賀公園」👈️リンク。そして「浦賀駅前」交差点まで戻り、京急、横浜市営地下鉄、小田急線を利用して帰宅したのであった。この日の、京急久里浜駅~京急浦賀駅までの散策コース。この日の歩数は23,912歩であった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.06.10
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「異国船とペリー艦隊の来航」展示コーナー。近づいて。「異国船とペリー艦隊の来航江戸時代後半になると、日本近海に異国船が頻繁に姿を見せるようになります。ペリー艦隊来航以前の浦賀にも、6回・7隻の異国船がやってきています。浦賀奉行所は、その異国船との応接に当たるとともに、台場(砲台)を築いて海防に努めました。ただし、奉行所の役人は少人数だったため、有力諸大名が増援する体制が組まれ、会津藩や川越藩など様々な藩が江戸湾防備を担当しました。嘉永6年(1853) 6月3日、4隻からなるアメリカのペリー艦隊が浦賀沖に現れました。2隻の蒸気船は、黒煙を吐き、外輪を廻して逆行するという離れ業を見せ、異国船に慣れた浦賀住民もビックリしました。ー触即発の危機かと思われましたが、香山栄左衛門ら与カ・同心の尽力で、久里浜海岸で国書を受領するという形で、とりあえず難を逃れました。しかし、翌嘉永7年1月、ペリー艦隊は再び来航し、横浜で日米和親条約が結ばれ、日本は開国の道に進むことになりました。」「江戸後期、異国船渡来年表」。嘉永6年(1853年)のペリー来航前の「19世紀前半浦賀に来航した異国船」をネットから「19世紀前半浦賀に来航した異国船」の絵図。ブラザーズ号:1818 (文政元)イギリスマンハッタン号:1845 (弘化2 )アメリカサラセン号:1822 (文政5 )イギリスモリソン号:1837 (天保8 )アメリカビットル艦隊:1846 (弘化3 )アメリカマリナー号:1849 (嘉永2 )アメリカ「ブラザース号を取り巻く警備船の図黒船初来航となった「浦賀湊蕃船漂着図」(国立公文書館所蔵)をもとに作成した模型。文元(一八一八)年江戸湾では、鎖国後初めての異国船の来航、船将ゴルドン以下九名の乗組員で交易を求めて。来航であった。会津藩は千石船を借り上げ、陣幕をはり対応している、約ニ百年ぶりの異国船を好奇の目で見る人で浦賀は混乱した と.。「浦賀湊蕃船漂着図」(国立公文書館所蔵)とブラザーズ号:1818 (文政元)イギリス。「黒船(サスケハナ号 建造 1850年) 縮尺1/80 製作 最上 満「黒船 サスケハナ号縮尺 1 / 80(最上 満 製作)総トン数 2,450トン排水量 3,824トン船 長 257フィート(約78.4m) 幅 45フィート(13.7m)速 力 12.5ノット乗組員 平時230人 戦時306人構造:外輪式スチーム・スループ、木骨、木皮 帆 :3本マストパーク型船体:木造船体に腐食防止の黒いタール塗り砲 :9門「ハイネ画「ペリー久里浜上陸の図」(横須賀自然・人文博物館所蔵)」。そしてこちらは「鳳凰丸」👈️リンク。幕末に江戸幕府によって建造された西洋式帆船。幕末に日本で建造された洋式大型軍艦のなかで最初に竣工した。蒸気船の急速な普及のため旧式化し、実際には軍艦ではなく輸送船として使用された。鳳凰は聖天子が国を治める時に現れる想像上の鳥で、「鳳」が雄で「凰」が雌を指す。「鳳凰丸(建造 1854年)縮尺 1/50 製作 最上 満」「鳳凰丸縮尺 1 / 50 (最上満製作)排水量 約600トン船 長 20間(約36m)幅 5間建 造 1854年(浦賀)構造:竜骨、肋材と外板、内張り、吃水線下を銅板仕上げ帆 :幕府の所属を表わす黒の一文字船体:朱塗りに黒のストライプ砲 :10門」「ふね遺産認定書横須賀市殿幕末建造木造帆装軍艦 鳳凰丸我が国の技術役人と船大工によって建造された大船建造解禁後初竣工の様式帆船」・・・・・略・・・・・ふね遺産二十号(非現存船第一号)に認定致します。」「咸臨丸」「咸臨丸幕府が海軍創設のためオランダに注文した木造軍艦で1857年(安政4年) 9月日本に回航し咸臨丸と命名された。長さ49メートル、幅7. 8メートル、3本マスト、砲12門。1860年(安政7年)正月、軍艦奉行木村摂津守、艦長格勝麟太郎。日米修好通商条約の批准書交換を目的とする使節・新見豊前守らの乗ったアメリカ艦ポーハタン号の随行艦として浦賀を出港した。咸臨丸は我が国の軍艦としてはじめて太平洋を横断し、37日間を要してサンフランシスコに到着、5月5日無事浦賀に帰港した。翌年には小笠原開拓に従事、以後幕未の動乱に活躍し、明治維新後は北海道開拓使の輸送船として就航した。」近づいて。「江戸湾測量嘉永6年6月(1853年7月)浦賀沖にペリー艦隊が来航しました。ペリーは次の来航に備えるため、浦賀沖に停泊した翌日からベント大尉率いる測量船を山し、江戸湾の水深や潮流を測量し始めました。この測量をしながら、鎖国以来超えることのできなかった観音崎をシーザーのローマ攻略のポイント、ルビコン川にたとえてルビコン岬、岬を超えると真っ先に見える島、猿島をペリー島、ここに広がる入江をサスケハナ湾というように、アメリカ風の地名を付けていきました。」「ペリー艦隊制作 江戸湾測量図 1854年 オリジナル」をネットから。ペリー提督が神奈川、浦賀に上陸し神奈川条約を締結した1854年に測量した江戸湾の水深図です。左上にBay of Yedo as surveyed by the officers of the US Expedition to Japan in1864と記されています。横浜、浦賀、品川、川崎、千葉県五井、鋸山、勝山の地名が記されています。右下には、伊豆の下田から千葉県の洲崎、小湊、大東崎まで描かれています。サイズは、33cmx25cmで、薄手の紙に石版で刷られています。「江戸湾西岸:モーリーその他士官らによって1854年に測量」をネットから。「浦賀の誕生」、「三浦按針と国際貿易港浦賀」、「天下一の干鰯問屋(ほしかどんや)」案内。「浦賀の誕生ー原始・古代・中世の浦賀ー豊かな自然と温暖な気候に恵まれた浦賀には、約9,000年前から人々の生活が営まれていたことが数多くの遺跡や貝塚によって知ることができます。平安時代の未期から鎌倉時代にかけて三浦一族が活躍する頃になると、「浦川」(現在の久比里のー画)が重要な湊としての役割をもつようになりました。室町時代になると、現在ある寺の大多数が開かれています。そして戦国時代、小田原の後北条氏が東叶神社の裏山(明神山)に房総の里見氏に対抗する浦賀城を築き、水軍の基地としました。これに伴い、船大工や鍛冶屋、櫓屋など、船を建造・修理する職人たちも浦賀へ住居を構えるようになり、これらの人々の生活を支える町ができていきます。これが現在の浦賀へと続く第一歩でした。」後方中央に「弥生時代(後期)甕形土器」その右に「弥生~古墳時代 壺形土器」。「三浦按針と国際貿易港浦賀徳川幕府が成立すると、三浦半島は将軍の直轄地(天領)となり、代官・長谷川長綱が愛宕山の下に陣屋を構え、半島一円を支配しました。また走水と三崎に船改め・番所を置き、江戸湾の防衛に当たらせました。徳川家康は、江戸に近い浦賀の湊に外国商館をつくり貿易港にしようと考えました。この時の外交顧間が英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)で、逸見に領地を与えられ、浦賀に屋敷を構え、スペイン船などを誘致して貿易を行いました。その期間は10年ほどで、来航したスペイン船は6隻でしたが、長期間滞在する船員たちで賑わい教会が建てられるほどでした(関東では他に江戸に2か所あるのみ)」「浦賀湊絵図(文化~文政期頃 1810午代)江戸時代、与力だった中島清司か浦賀港全景を描いたもの 中島清司永豊画(中島家所蔵)」「干鰯問屋干鰯とは、鰯を天日干しにして造られた肥料で、主に東海近畿地方の農家で綿花や密柑の栽培に使用されました。江戸時代、浦賀には奉行所の設置、黒船の来航といった歴史的事象を経験する以前から干鰯問屋などの多くの豪商が存在し、港町、そして商人の町として大いに繁栄しました。干鰯市場のにぎわいを再現した60分の1のジオラマや幕府が干鰯問屋を救うために出した高札、(お触書)など、干鰯問屋なくしては語れない浦賀の文化を展示しています。」中央に「干鰯」、左に「干鰯」を利用して栽培した綿花。「干鰯」。「干鰯とは鰯を天日に干して作った肥料。大坂を中心に生産量が増してきた綿花栽培に欠かせないものであった。また、鰯を大釜て、ゆで、しぼってでた油が行燈油として利用される「魚油」、魚油をとった残りを天日で干したものを「〆粕」といい、干鰯と同じく畑の肥料として利用された。」「天下一の干鰯問屋江戸時代の初期、関西(特に紀川)から鰯を求めて、たくさんの漁船が関東にやってくるようになりました。これは、近畿地方を中心に綿作が発達し、最適な肥料としての干鰯を求めてのものでした。そして、近海で水揚げし加工した干鰯を関西へ帰る廻船に積む仲買業者として、東浦賀に干鰯問屋が生まれました。最初15戸だった問屋は最盛期には倍に増え、一時は全国の干鰯商いを独占するほどにまでなりました。干鰯問屋の数が増えるにつれて船の出入りも多くなり、これらの船の安全を図るため、幕府は湊の入り口に燈明堂を設けました。その維持管理費などの経費は当初幕府の負担でしたが、元禄期からは東浦賀の干鰯問屋が肩代わりし、明治維新までその灯をともし続けました。」「燈明堂江戸時代初期の慶安元年(1648年)、幕府の命により石川六左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らによって築かれました。廃止されるまでの200年以上の間、燈明堂は幾度かの暴風、台風、大地震に見舞われながらも修復や建て直しを繰り返し、灯台の役割を果たして来ました。現在の建物は平成元年(1989年)に復元されたものです。その果たした役割により、横須賀市の指定を得、神奈川県の三浦半島八景に指定されています。」手前には、「燈明堂の瓦(燈明堂北側の土台附近で堀出)」次に「浦賀ドック」展示コーナーへ。「浦賀ドック」展示コーナー。【浦賀ドックの町へ】、【湊町浦賀の繁栄】「明治維新を迎えた慶応4年(1868)閏4月、浦賀奉行所は解体され、やがて船改めの業務も終了します。明治3年(1870)、それまで東西に分かれていた浦賀村が合村して新しい浦賀村となります。その後、同9年(1876)に浦賀町となり、同22年(1889)には市町村制の施行にともない大津・走水・鴨居を併せた新しい浦賀町が誕生し、昭和18年(1943)に横須賀市と合併するまで自治体としての役割を果たしました。明治6年(1873)築地町に水兵練習所(後に浦賀屯営と改称)が置かれ、明治22年(1889)からは陸軍の要塞砲兵練習所に引き継がれました。明治30年(1897)、その跡地に消賀ドック(浦賀船渠株式会社)が設立され、以後、浦賀は港と商業の町から工業の町へと変わっていきます。」「奉納 ◯◯丸 明治廿八年 浦賀湊 万屋清左衛門」「江戸時代、湊町として栄えた浦賀には、諸国から多くの廻船が寄港し、おびただしい商品が水揚げられ、多数の商家と土蔵が立ち並ぶ、賑やかな町場に成長していきました。東浦賀に新井町・新町・州崎町・大ヶ谷町・築地古町・西浦賀に築地新町・谷戸町・宮下町・町、田中町・紺屋町・蛇畠町・浜町の町場があり、各町は自治組織によって運営され、祭礼を執り行いました。商家のほかに、旅籠・料理屋・湯屋・髪結などが軒を並べ、「洗濯屋」と呼ばれた遊郭もありました。相撲をはじめ芝居、人形浄瑠璃などの寄席興行が盛んに行なわれました。俳諧や和歌を興ずる結社もあり、句集や歌集も出版されるなど、高い教養をもつ文化人も輩出しています。」「浦賀屯営碑明治8年8月(一説では明治6年)に東京芝新銭座(現在の東京都港区浜松町)から、浦賀に移ってきて、明治9年9月1日に『浦賀水平屯集所』となる。『水平練習所』や『浦賀屯営』、『横須賀海兵隊』などの名称が何度も変更されているが、明治海軍が艦船の運用と海上における戦闘要員(水兵)を養成するための屯集所というは通じて同じ目的だったこの碑は現在、旧浦賀ドック構内にあり、現在公開されていない。また浦賀屯営があったとされる場所は築地新町(浦賀ドック構内)の一部。その内情は良く分かっていなく、病気などで海上勤務ができない兵隊が屯営入りする”屯営や生きた士官の捨てどころ”などと伝えられていたが近年の研究によって、日本各地から集まった優秀な人材を育成した機関だったことが判明しました。」「浦賀ドックでつくられた船たち」「浦賀ドックでつくられた船たち戦前(一部)」。「浦賀ドックでつくられた船たち戦後(一部)」。「浦賀ドック?ドック?浦賀ドックは、主に造船と船の修理を行う工場で、船以外にも鉄骨などの生産も行う総合工場でした。浦賀ドック創業前の日本では、大型の民間船の修理と検査は海軍のドックを利用していました。明治30年代初頭、浦賀と横浜に相次いで民間のドライドックができた後、民間船の修理と検査は、海軍のドックではなく民間のドックを使うよう国が取り決めを行いました。併せて、民間船を定期的に検査するような取り決めも行われました。『ドライドック』とは、船が入った後にポンプで水を抜き船底がむき出しの状態で修理や検査を行う施設です。病院でおこなう体をくまなく調べる検査を『人間ドック』といいますが、「船が長い航海のあと点検・修理のためにドックに入るように、人間も定期的にドックに入る必要がある。」という考えに由来するといわれています。」「俊英たちが集った浦賀《山口辰弥 工学博士》(安政3年~昭和2年 出身地:江戸)横須賀造船所の付属校を卒業後、フランスの「エコール・サントラル」を経てシェルプールの造船学校へ正規留学し、卒業。この造船学校は、フランスの最高学府でも上位成績者しか人れない難関校と言われた。帰国後は、黌舎教授、海軍造船総監、浦賀船渠株式会社の所長として活躍。なお、エコール・サントラルは、東京帝国大学工科大学初代総長の古市公威の母校でもある。《緒明菊三郎・実業家》(弘化2年~明治42年 出身地:伊豆戸田)西洋式帆船のヘダ号建造に参加した緒明嘉吉の子で、のちに海運王と呼ばれる。幼少期から父の元で造船業を学ぶ。父の死後、上京し洋式造船に乗り出す。明治16年(1883年)品川沖に緒明造船所を建造する。さらに、海運業を始める一方、浦賀造船所の創業に尽力。中央図書館のある小高い丘は、彼が所有していたことから「緒明山」と呼ばれる。」「浦賀ドックの誕生」と「浦賀ドックのあゆみ」、「ドライドックの作り方」。「浦賀ドックの誕生《浦賀にできた国内最大級の民間工場》浦賀は古くから湊として栄え、今から301年前の享保5年(1720年)には奉行所も設けられました。嘉永6年(1853年)にはペリー来航の舞台になるとともに、その脅威から洋式軍舟監の必要を悟り、翌年には、浦賀奉行所与カ中島三郎助を中心に日本最初の西洋式の軍艦である「鳳凰丸」が建造されます。日本における造船所の誕生です。そして明治30年(1897年)、「浦賀船渠」(通称浦賀ドック)という造船会社が設立されます。浦賀ドック誕生前の日本では、大規模工場は、国が設立して運営する官営工場が主流でした。これに対して、浦賀ドックは民間が設立、運営する民間工場でした。浦賀ドックは、創業当時、わが国でも最大級の民間工場であったと考えられます。そのため、全国から優秀な人材が集められ、帝国大出身者はもちろんのこと、海外の大学校を卒業した社員もいたほどでした。国内に2つしかない浦賀と川間のドライドックは、世界的にも珍しい赤レンガのドックで、当時の人々もその壮麗さに驚いたことでしよう。」「ドライドックの作り方①ドックの入口になる海域に仕切りの堤防をつくる。《締切堤》②堤防の仕切りの内側にある海水を取り除く。③①と②の作業と同時に本体になる部分を渠頭部から掘削していく。④掘削が終わった所からドックの底から形を整え、石やレンガ、コンクリートなどで作っていく。⑤ドックの底が完成するとドックの壁を底ができたところから同じように作っていく。⑥④~⑤の作業を繰り返してドックの入口まで作業を進める。⑦仕切りの堤防を撤去し、海水をドックに進水させる。⑧ドックの前部分の海域地盤を所定の深さまで浚渫(海底をさらって土砂などを取り除く)する。⑨浮戸(フローティングゲート)を船で⑩完成です! 連れてきてドックの入口に設置する。」「咸臨丸の修理」「浦賀ドックと浦賀の街並み《浦賀ドックとともに誕生した重要な道路の物語》浦賀ドックの誕生と拡張は浦賀地域の都市形成にも大きな影響を及ぼしました。下の写真では、ドックの造成工事に伴って山が削られ、浦賀の重要な道路が誕生していることがわかります。」「浦賀ドックと町の変遷明治33年に操業を開始した浦賀ドックは、干鰯問屋などで栄えた商業港だった浦賀を工業港に変えます。従業員のための病院や生協、社宅、娯楽施設、人港する船の船員のための宿泊施設などがつくられ、ドックの繁栄が町の中心的存在となり、活気あふれる商店街が形成されていきます。大正時代に入ると関東大震災が発生。浦賀工場から出火し、浦賀の町は山崩れとその火災で甚大な被害を受けます。町と浦賀ドックは互いに協力し、早急に復興しました。浦賀は空襲の被害に遭わなかったことから、戦後すぐに工場は再開し、町は賑わいを戻していきました。その後、時代の流れとともに造船業は衰退し、工場の撤退へと向かいます。明治期以降の浦賀の町の変遷は、ドックの盛哀と共にあったといえるでしよう。」「ポンプ室(煙突筒身建立)」「軍艦吾妻入渠」。「船渠掘削工事(海側) 明治30年代」。「1号ドック」。「浦賀船渠株式会社社歌/浦賀ドック音頭 LPレコード浦賀船渠60周年を記念してつくられたレコード。当時一流の作曲・作詞家に依頼し、社歌には三崎生まれで浦賀船渠に学徒動員で浦賀ドックで働いたことのある新進気鋭の歌手・三浦洸一を採用している」。「進水式で使われた鋼球(未使用)ヘッド、軟石ケンの代りに、直径90mのボールべアリング(鋼球)を無数に使用する方法である。ヘッド進水の難点を補うために考え出された最良の方法であり、現在、大型船にまで広く採用されている。設備費は最も高いが、消耗度は少なく、進水性能も安定している。進水台構造等はヘッドの場合と全く同じである。」「営業案内 浦賀船渠株式會社」。「船渠掘削工事(山側) 明治31年代」。「浦賀船渠株式會社第壹號舩之圖」。「浦賀船渠株式会社創業総会決議録明治29年浦賀船渠株式会社が創業する際に取締役などを決議した時の記録。層々たるメンバーに地元の有力者の臼井の名前が連なっている」近づいて。「浦賀ドック」。学研 ずかん ふね(1968年/昭和43年発行)表紙は浦賀ドックの進水式の様子ジャパンダリアは当時あった海運会社・ジャパンラインが昭和42年1月に竣工した全長232mの大型タンカー。この頃になると超大型タンカーの時代に入り、浦賀ドックでは手狭になって来た頃である。この船が出来た時の会社の名称は「涌賀重工業」でした。ガラスケースの中、中央には「竣工記念酒枡浦賀ドックで使われた枡は地元の酒屋が用意し、竣工記念の席では酒樽(四斗樽/約72リットル)が振る舞われる際に関係者に配られました。」左に「護衛艦たかなみ 部隊識別帽」前方には「船が進水式・竣工式で配られた記念品ネクタイピン、カップ」「2003年3月13日 朝日新聞最期の艦船 100年間お疲れさま浦賀ドック住重側 1号ドック保存検討横須賀市浦賀町の通称「浦賀ドック」(現・住友重機械工業浦賀艦船工場)で12日、最後の建造艦船となった海上自衛隊護衛艦が完成した。これで1世紀以上にわたり日本の造船を支えてきた浦賀ドックの業務は終了し、3月末の閉鎖に向けた施設内建物の撤去が始まる。住民の一部から博物館としての跡地利用が提言される中、住重側は同日、歴史的価値の高い一部の施設の保存を検討していることを初めて明らかにした。千隻以上の艦船を建造してきた浦賀ドックが最後に送り出したのは護衛艦「たかなみ」。午前11時から始まった引き渡し式には、海自や米海軍、住重の関係者ら約千人が集まった。今後は9万6千平方メートルの敷地にある工場施設の撤去作業と並行して、市と跡地利用の検討を進めるという。浦賀ドックの跡地利用をめぐっては、周辺住民の一部が、クレーンや船台などをすべて保存して博物館にすることを強く訴えてきた。これに対して住重側は12日、れんが造りの1号ドックと、その両脇に建てられたクレーン2基を保存する方向で市側と検討することを表明。ほかのクレーン5基や船台などは撤去するとしている。1897年に造船会社「浦賀船渠」として設立されて以来、地元では「浦賀ドック」の通称で親しまれてきた。その後、合併を繰り返し、1969年に住友重機械工業浦賀艦船工場となった。青函連絡船や練習帆船「日本丸」などの艦船建造をはじめ、国会議事堂の鉄骨工事、米空母ミッドウェーの改造工事、横浜ベイブリッジや明石大橋の製作などにかかわってきた。」海上自衛隊の「護衛艦たかなみ(JS Takanami, DD-110)」以前に訪ねた時の写真から。「たかなみ」は、中期防衛力整備計画に基づく平成10年度計画4,600トン型護衛艦2239号として、IHIMUに発注され、住友重機械工業追浜工場で2000年4月25日に起工され、2001年7月26日に進水、その後、住友重機械工業浦賀工場において艤装の後、2002年8月20日公試開始、2003年3月12日に就役し、第1護衛隊群第5護衛隊に編入され横須賀に配備された。「最後に作られた船、たかなみ2003年(平成15年) 3月12日、浦賀ドックで最後の建造となる護衛艦「たかなみ」が竣工され、同月31日浦賀工場は閉鎖しました。浦賀で生まれた「最後の船・たかなみ」は現在も現役で活躍する自衛隊たかなみ型護衛艦の1番艦として活躍中です。艦名の由来「高く立つ波」(高波)、そしてこの名を受け継ぐ日本の艦艇とし同じ浦賀で生まれたタ雲型駆逐艦「高波」、あやなみ型護衛艦「あやなみ」(三井造船玉野造船所)に続き3代目に当たります。たかなみは第一線で活躍する海外への派遣に行くことが多い艦船です。」「ミニ企画展示パトリア PATRIA空襲の被害を受けけなかった浦賀ドックは、戦後すぐに造船を再開しました。しかし、海軍の解体・海運業の壊減て大型船の受注がなくなり、手持ちの資材て細々と鍋などの家財や小さな漁船を造って会社を維持していました。ようやく受注にこぎつけても、急激なインフレや資材コストの上昇についていくことができず、なかなか会社の立て直しには至りませんてした。その頃、米ソ冷戦や朝鮮戦争が勃発したことによりアメリカによる対日政策が緩和されます。政府は、自らが全額出資した船舶公団て需要を造り日本の造船業は活気を取リ戻し始めます。昭和31年の「もはや戦後てはない」というキャッチフレーズに乗り、日本の高度成長期と共に浦賀ドックの規模も拡大していきます。当館に展示されている模型「パトリア」も、その時期に造られました。スーパータンカー「バトリア」の誕生についてご紹介します。」「SCENE URAGA昭和34年1月、総額約10億円の資金と1年3ヶ月の月日を投じてマンモス船台の建設工事は完成した。土木関係工事に於いて延べ105,000人を動員、使用鋼材1,200トン、その他を合わせて約6万トンの資材を要した。マンモス船台の完成により、マンモスタンカー「PATRIA」が進水した」「パトリア(PATRIA)船籍:リベリア竣工:昭和34年9月25日竣工船首:ZAS TANKER CORP(イスラエル)DWT:46,283.8LT(積載重量トン数)」浦賀初のスーパータンカー浦賀のDELAVALタービン1番機搭載浦賀発のスーパータンカー(油槽船)40万2707バレル(浦賀プール約178杯分)の原油を輸送浦賀DELAVALタービン1番機搭載油槽船(オイルタンカー)液体の油類をタンクに積んで輸送する船。事故などで液体物質が漏れると甚大な環境汚染になることから、二重構造となっている。世界最大のタンカー ”Seawise Giant” ( 656,000トン)同船は、当初422,000トンのタンカーとして住友重機械追浜造船所て建造されたが、竣工直前に香港企業に転売され、日本鋼管津製作所て船体延長工事が行われた。工事後の船体は全長458.5m、幅68.8 m現在は解体されているが、記録は破られていない。「超大型タンカー時代に向けて、今まであった第2・第3船台を合わせて更に幅を拡張し、昭和34年1月に総額約10億円を掛けて「マンモス船台」がつくられました。当時、世界でも屈指のこの大型船台でパトリアは建造されました。パトリアは、下から積み重ねていくエ法て造られました。建物のように出来上がっていく姿は壮大だったそうてす。」「昭和34年3月24日、パトリアは晴れて進水式を迎えました。三笠宮妃殿下によって支綱切断が執り行われました。」「パトリア」。船首側から。「パトリア号 進水」についての浦賀船渠・昭和34年4月発行の社内報記事。「浦賀船渠 昭和34年4月発行この社報は戦後昭和28年から浦賀船渠(浦賀ドック)で発刊され、ドックで作った船の情報や人事、社内で行われたイベントなどを伝えておりました。この展示している第73号は当時スーパータンカーと呼ばれたサイズのパトリア号の進水式の様子を伝えています。パトリアは浦賀ドックでも大口の受注だったことが紙面からうかがえます。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.09
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この日の最後に「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」を訪ねた。浦賀コミュニティセンター分館((愛称)浦賀文化センター)は、昭和57年(1982)4月1日に設立された文化施設で、浦賀地域の郷土資料館としての役割を担っている施設。建物の延面積は、504.23平方メートル。この施設は、展示室と3つの学習室(一般用貸室)から構成されます。まず、展示室には、浦賀奉行所関係の模型、中島三郎助関係の資料、鳳凰丸・咸臨丸・ペリー艦隊の船舶の模型等の展示がなされていた。地元の郷土史家等が特別展示等を企画するときもあるとのこと。横須賀市浦賀7丁目2−1。この場所はかつて、旧浦賀ドックの迎賓館であった「表倶楽部」の跡地だとのこと。正面玄関を見る。玄関には顔抜きパネルが。渋沢栄一(右)と勝海舟(左)。横須賀の鏝絵・辰巳忠志氏の作品が並んでいた。上段に「親子龍」、下段右から「花鳥風月」、「龍虎」、「降り竜」。「親子龍」。「花鳥風月」。「龍虎」。「降り竜」。「柿たわわ」。「浦賀の鏝絵めぐり左官職人が、壁などの仕上げに鏝で漆喰を塗り上げて作った彫刻風の絵を鏝絵(こてえ)といいます。江戸時代末期の左官職人入江長八(伊豆の長八)によって作られたのが鏝絵の起源だといわれています。長八に始まった鏝絵は、その弟子達や多くの左官載人によって全国へ広まっていきました。江戸時代より、浦賀には豪商の屋敵や土蔵が立ち並び漆喰を塗る職人が多くいました。明治期に入ると浦賀でも石川善吉らの手によって盛んに鏝絵作りが行われるようになりました。現在に残る鏝絵から、当時の浦賀の繁栄を偲ぶことができます。」「西叶神社」👈️リンク「東福寺」👈️リンク「常福寺」👈️リンク「川間町内会館」👈️リンク「八雲神社」👈️リンク「東耀稲荷」👈️リンク「法憧寺」👈️リンク「大六天神社」👈️リンク2階に郷土資料館があった。「浦賀周辺地図」。階段を上りながら浦賀地区の祭りの展示パネルを見る。「榊神社大禄天祭札 [ 5月/中旬土・日]川間の鎮守。土曜日には例祭式、神楽が奉納され、日曜日は神輿・山車が神社参拝後に町内を巡行する。また、木遣りの伝承保存に努めており、祭礼はもとより多くの祝い事で唄われている。」東叶神社例大祭[9月/第2土・日]東浦賀の総鎮守。各町内の山車彫刻が見事。東浦賀には、御座船があり、明治の頃には、海上を渡御したそうだ。彫り物が施された船に提灯が灯されてその明かりが水面に映り、お船唄が流れ皆うっとりと聞き入ったそうだ。西叶神社と同日に行われ、西東の浦賀の町が祭り一色となる。西叶神社例大祭[9月/第2土・日]西浦賀の総鎮守。例大祭には、「拝殿神楽祭」の年と三年に一度の「御神幸祭(大祭り)」の年がある。厳かに神事が執り行われた後に、町内神輿が一堂に会する様は壮観である。為朝神社祭礼[6月/第2土・日]浜町の鎮守。祭礼では「虎踊り」が奉納され、境内に設置された特設舞台で、唐子の踊りや親子虎の大胆な舞が演じられる。奉行所が下田から移された時に一緒に伝えられたといわれている。県の重要無形民俗文化財に指定されている。八雲神社の例大祭[ 6月/第2土・日]東浦賀の鎮守である八雲神社で行われる祭りで、「猩々坊(しょうじょぼう)」という大きな人形を乗せた山車が練り歩くのが特徴。この猩々坊は、疱瘡除けや不老不死の力があるといわれている。【仮面神楽「とっぴきぴー踊り」】お囃子のリズムに合わせて身振り手振りで情景を滑稽に表現する無言劇で、磯の香、土の匂いのしみ込んだ素朴な芸能です。文化文政の頃から、脇方の里人により須賀神社に拳納されてきたものです。【お浜降り】神社神興が白装束の白丁に担がれ静かに海へ入ってゆきます。その後、鴨居全域の神興が次々と海へ入り、禊をします。「浦賀文化 最新号鳳凰丸の建造①ー建造掛の人選こぼれ話ー嘉永六年(一八五三年)六月にペリー艦隊の軍艦による江戸への接近を目の当たりにして強い危機感を覚えた幕府は江戸の防備を充実させるべく同年九月十五日、これまで禁止していた大船の建造を解禁した。これをきっかけに浦賀で日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」が建造されることになるのだが、浦賀泰行所内ではこれに先駆けて建造の準備を進めており、九月七日には軍艦建造掛が選出されていた。メンバーは、与カからは香山栄左衛門、田中信吾、中島三郎助、佐々倉桐太郎の四名、同心からは斎藤太郎助、中田佳太夫、田中半右衛門、春山弁蔵、岩田平作、田中来助の六名だった。その翌月、浅野勇之助、大久保釭之助を加えたメンバーが老中阿部正弘から正式に「御軍艦并晨風丸形御船其外附属之品御製造御用掛」に任命され、この船の建造は幕府の正式な事業となった。ただこの時、与力の田中信吾だけは「御軍艦并晨風丸御船御打建御申請中身廻」、つまり軍艦建造中の見廻り役にされたとある。田中信吾は中島三郎助の父である中島清司とも名を連ねて異国船の対応に尽力してきた与力だったが、彼がこのような役回りとなったのは事情があったらしい。ペリー来航当時の浦賀奉行戸田氏栄が同職江戸詰の井戸弘道に宛てた私信「南浦書信」の十一月二日付けの書翰の中で次のように記している。「田信(田中信吾)は御普請掛りさしゆるし、其他は緩々保養可致旨相達し、よくよく利解仕候、当春以以来の事なから、亜船にて長ロ出勤いたし候事ニて、前日之引込は水ニ成候故、御暇申渡も余り早過候故、何分不都合、夫ら之処再々応組頭江申渡置候、」これによると田中はかねてより「引込」すなわち引退を考えていたらしい。しかし「亜船」(ペリー艦隊)への対があって引退は流れてしまった。それもあって「御普請掛」、つまり軍建造掛を「さしゆるし」たという。引退を考えていた田中自身は建造掛になることに難色を示したが、この役ならと了承したのだろうか、見廻りという役に就いている。理由はわからないが少なくとも戸田としては田中に引退されると困るタイミングだったのだろう。田中のことはしばらく戸田を悩ませたらしくこの後も「南浦書信」に話題が出てくる。十一月十二日付けの書翰では田中について「魯船之沙汰承り、一日も早く引込度趣ニて、御暇伺書さし出し申候、」とある。この時にはロシア船ディアナ号が下田での地震により大破したため、その修理場所などについて対応を協議していた時で、そんな状況で田中が一日も早く引退したいと伺書を差し出してきたという。支配組頭や香山栄左衛門もいろいろと説得したが、一日も早く引退したいと聞かず、戸田も「不忠至極」とは思うが今まで引き留めていることでもあるのでどうしたらよいものかと途方に暮れている。また、田中は与力の中でも地方掛であったようで、同日の書翰で戸田は引退については、是非のないこととしながらも「跡地方の申すものニ甚だ差支、申候、」と田中がやめた後の地方掛に支障があるとしている。理由としては、地方掛は本来の地方行政に関する業務だけでなく諸々の見積や普請の担当なども兼ねるため業務が多岐にわたり、人数を減らすことができない状況にあった。支配組頭が業務を引き受けてくれれば良いがこちらも頼りにならず、後任にできる人物もいないため「是ニは困り申し候」と困惑している。その後も「南浦書信」を見ると、田中のことで戸田は井戸に相談をしていたようではあるが、詳しいことはわからない。ただ田中は嘉永七年正月のペリー再来航前には引退していたのか、御褒美の記録や以後の鳳凰丸関係の記録にも田中信吾の名前は出てこない。「浦賀奉行所跡の発掘調査(その五)幕末から明治時代以降の浦賀奉行所跡慶応四年(一八六八年)閏四月に浦賀奉行所は廃止されました。その跡地は海軍用地・用地・民有地と変遷し、昭和一六年(一九四一年)~ニ〇年(一九四五年)頃には浦賀ドックの工員宿舎が建てられ、昭和四一年(一九六六年)からは浦賀重工業株式会社、後に住友重機槭工業株式会社浦賀工場の社宅になります。平成ニ九年(二〇一七年)年一二月にその跡地が横須賀市に寄贈されて現在に至っています。図1は、それらの建物の配置図です。浦賀ドック工員宿舎の建物は、米軍撮影の航空写真に解体中の姿が朧げに残されているだけで詳細な記録は確認できません。構造は不明ですが、発見された基礎跡などから、幅約10・8m、長さ約36・5 mの建物六棟とL字状の建物が浦賀役所跡地全面に配置されていたことが判明しました。建物は厚さ5cm前後のコンクリート土台の上に赤煉瓦やアス煉瓦(石炭ガラと消石灰が原料)を積んだ基礎の上に建てられた木造建築であったと思われます。黒枠で囲った南西部の調査区を詳細に表したのが図2の平面図になります。安政二年(一八五五年)の増改築時に新たに掘られた素掘りの西堀の一部と塀跡の柱穴列などが確認され、その東側からは浦賀ドック工員宿舎のレンガ積基礎と常滑焼土管の排水管、住友重機槭工株式会社浦賀工場社宅の鉄筋コンクリート製の基礎などが並んで確認されました。(写真1)幕末期から平成時代に至る浦賀奉行所とその跡地の履歴が窺える調査箇所です。次回からは各時代の主な出土物について紹介していきます。「Dockcafe4大正六年(一九一七年)、逓信省官療であった今岡純一郎が浦賀船渠山下亀三郎社長に抜擢されて専務となった。今岡は、その五年後、七代目社長に就任する。当時、船舶業界は低迷期であり、浦賀船渠の経営もまた厳しい状況であった。そのような中にあっても、経費削減や勤務改革、陸上の機槭製造等を兼営するなどして工場能力を維持した。また、帝大造船科卒だった今岡の知識を活かし船の性能を向上させるなどの構造改革にも着手、多くの新技術の開発を成功させる。その結果、浦賀ドックの代名詞ともいえる駆遂艦や青函連絡船の建造の更なる受注に繋がっていった。そんな折、大正十ニ年九月、関東大震災が襲来、浦賀船渠は壊滅的被害を受ける。重ねて工場内からの出火と近隣からの延焼で工場の大部分を失う。社長自ら復興に向けて従業員に理解と協力を求める掲示を行っている。今岡の手腕と尽力により、浦賀船渠は再び活気を取り戻し、造船所としての地位を確立した。しかし、その栄光の時を待たずして、今岡は昭和九年、六十歳の現職のときにこの世を去った。」浦賀コミュニティセンター分館(浦賀郷土資料館)にあった中島三郎助招魂碑の拓本。「浦賀船渠 昭和34年4月10日(金曜日)」「浦賀船渠 昭34年4月発行この社報は戦後昭和28年から浦賀船渠(浦賀ドック)で発刊され、ドックで作った船の情報や人事、社内で行われたイベントなどを伝えておりました。この展示している第7 3号は当時スーパータンカーと呼ばれたサイズのパトリア号の進水式の様子を伝えています。パトリアは浦質ドックでも大口の受注だったことが紙面からうかがえます。」そして2階の展示室入口前右側にあった「上の台遺跡考古資料」。横須賀市鴨居二丁目。市立上の台中学校の敷地が鴨居上の台遺跡。昭和五十一年二月、市内の埋蔵文化財分布調査中に発見された遺跡。本遺跡は縄文時代早期・中期、弥生時代中期 から古墳時代前期、および奈良時代の各時代・時期にわたって居住、利用された場所である。 本遺跡は台地上に広く占地し、その範囲は約八千平方㍍程度と思われる。本遺跡の主体は弥生時代から古墳時代前期にかけての集落址であり、 住居址総数は百を超える。この集落址は、三浦半島東岸において最大規模のものと思われ、かつ保存状態は良好であったとのこと。 出土された土器のかけらは五万六千個以上、整理箱に四百四十箱。堅穴住居址は百四十一軒も発掘された。 縄文時代の遺物としては土器が三千五百七十八点、石器が四十七点も出土した。 縄文式土器の場合、かけらを集めて復元できるものはなかった、という。 土器は、①縄文と撚(より)糸文②押型文③無文④沈線文や貝殻文⑤貝殻条痕文⑥中期以降のもの、の六つに分けて整理された。 また、土器の底の部分が五十七点も。特徴は丸底のものは撚糸文系、乳房状の尖(せん)底は条痕文、厚みが変わらずにとがるものは、沈線文や貝殻文など。石器で縄文時代のものと思われるのは四十七点。内訳は礫器十点、刃部磨製礫斧二点、石鏃十五点、石槍一点、削り器五点、加工痕のある剥片十点、その他。上の台遺跡の発掘調査は、昭和52年10月から翌年9月まで行われた。出土された土器片は5万6千個以上、住居址は141軒。写真は、見事に日の目をみた住居址。柱の穴がはっきり見える。そして「浦賀奉行所」を模した展示室の入口。浦賀奉行所与力・中島三郎助が迎えてくれた。廻船問屋・宮井家「萬清」の当時の生活用品と。「ここに展示されている陶器類は、宮井家に伝わっているものの一部であり、時代は天明期(1781)より明治期までのものである。当家は、元禄5年(1692)、紀州 宮原の地より東浦賀に移住した「宮与」こと宮原屋 宮井与右衛門の分家として、寛延2年(1749)西浦賀 紺屋町へ独立した萬屋 宮井清左衛門家であり、代々清左衛門を世襲し「萬清」の屋号で知られ、昭和の初期まで米・酒・塩の問屋として持船3艘を動かし、関西から東北地方まで手広く商売を営んでいた。家紋は左三巴で、商標は井桁である。」廻船問屋 宮井家(萬清) 所蔵品物。まずは「中島三郎助」の展示コーナー。中島三郎助が活躍していたころに見られた浦賀奉行所の様子、奉行所のある町に根ざす文化にもスポットを当てていた。この展示では、奉行所の役人であると同時に、俳句活動などを通じて文人としてもその名が知られていた中島三郎助の一面にも触れることができた。さらに、浦賀奉行所で作成された文書や中島三郎助の遺書など、貴重な資料の展示により、改めて奉行所のまち・浦賀を知ることが出来たのであった。浦賀奉行所の役人(与力)としてペリーの来航時に黒船に乗り込み、折衝に当たった中島三郎助。「中島三郎助の生涯(略年表)」そして彼の持っていた短刀が展示されていた。中島三郎助の生涯は、日本に近代化の嵐が吹き荒れる激動の時代に、その真っ只中を幕府の役人(与力)として、また一人の武士として忠実に生き抜いた49年間でした。幕末の文政4年(1821年)に浦賀奉行所の与力・中島清司の次男として生まれた三郎助は、14歳で奉行所に出仕します。その後、アメリカ船モリソン号砲撃事件(天保8年(1837年))、アメリカ人ビッドルの来航(弘化3年(1846年))、さらに、嘉永6年(1853年)のペリー来航を目の当たりにして、日本でも大型軍艦を持つことの必要性を説きました。そして、軍艦造船にあたり委員の一人として活躍、翌年の5月には着工以来わずか8カ月という短期間で、日本人の手による最初の洋式軍艦「鳳凰丸」の誕生となります。この後、三郎助は長崎海軍伝習所の第1回生として派遣され、勝海舟や榎本武揚らとともに造船・操船技術を習得し、近代造船学の指導的な立場になりました。一方、三郎助は父の教育を受け、幼少の頃から和歌、俳諧、漢詩文など風雅の道にも才能を発揮しました。ことに俳諧においては俳人・木鶏の名をほしいままにし、江戸にまでその名が知られていました。福沢諭吉が残した『福翁自伝』にも浦賀の立派な武士として書き記されています。慶応4年(1868年)に明治新政府が樹立されると、榎本武揚らとともに函館に向かい、旧幕府勢力を中心とした政府の樹立を目指します。しかし、翌年の5月に二人の息子恒太郎、英次郎とともに新政府軍の砲弾に倒れ、49年の生涯を閉じました。その後、明治24年(1891年)に、中島三郎助を追慕する人々の手により浦賀港を見渡す愛宕山公園に中島君招魂碑が建てられました。中島三郎助を近代造船の父と慕い、彼の業績を偲ぶ人々の手により造船所の建設が提案され、浦賀は日本を代表する造船の町として新たなスタートを切ることになります。さらに「中島三郎助」の展示コーナーを進む。浦賀奉行所与力の紋付き袴が。「与力中島三郎助中島三郎助は文政4年(1821)浦賀拳行所筆頭与力、中島清司の次男として浦賀に生れた。天保6年14歳の時、与カ見習として奉行所に出仕し父と同じ道を歩むこととなった。嘉永6年(1853)、ペリーの率いる黒船が浦賀に来航した際、三郎助は応接掛として、折衝の任に当たり、黒船に乗船し艦内を調べて回るなど、このことが三郎助の生涯に大きな影響を与えることとなった。嘉永7年(1854)、幕府が日本最初の洋式軍繿「鳳凰丸」を浦賀で建造するに当り、その建造主任となり、安政2年(1855)には勝海舟、榎本武揚らと共に長崎海軍伝習所に派遣され、造船術を学んだのちに浦賀港において、咸臨丸を修理するなど、造船、操船の第一人者として活躍しました。慶応4年(1868)幕府が大政を拳還するに及び榎本武揚と共に江戸を脱出、函館五稜郭に籠城し二子恒太郎(22才)、英次郎(19才)共々官軍と戦い、戦死しました。時に明治2年( 1869 ) 5月16日、49歳でした。三郎助はまた文人として和漢の学に造詣が深く、ことに、”俳人木鶏″として国事混乱の世にあって折にふれ俳諧に想いを託し、遺詠の数々が当時の彼の心情や交際範囲の広さを余すところなく今に伝えております。」「中島家累代系譜」中島 三郎助(なかじま さぶろうすけ)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。江戸幕府 小十人格軍艦役、のち蝦夷共和国 箱館奉行並。諱は永胤。【与力中島三郎助の活躍と生涯浦賀で代表的な有名人物といえば、浦賀奉行所与力の中島三郎助を挙げることができます。彼は、応接掛与力として、ペリー来航の際、最初に「黒船」に乗り、折衝にあたるなどの敏腕ぶりを見せました。その後、日本初の洋式・鳳凰丸の建造に従事し、さらに長崎海軍伝習所で航海術を学び、幕府海軍の軍艦役に取り立てられています。一方、和歌、俳諧、漢詩文など風雅の道にも才能を発揮しました。ことに俳諧において、「木鶏」の俳号は江戸にまでその名を知られていました。明治維新の戊辰戦争では、榎本武揚の率いる脱走艦隊に乗って箱館戦争を戦いました。その最後の決戦において、ニ人の子息を含む浦賀関係者十数人とともに千代ヶ岡陣地で戦い、命を失った。その死闘は永く世に伝えられる。】「中島君招魂碑外務大臣海軍中将従二位勲一等子爵 榎本武揚 篆額箱館戦争前(1868年)の榎本武揚(1836-1908)の写真。函館戦争で中島三郎助と共に戦い、その意思を継いで浦賀造船所(浦賀船渠株式会社)の設立に尽力したとされる。「中島永胤君招魂碑の「発起者」の碑碑文は、江戸時代後期の浦賀歌壇のリーダーでもあった西野前知が書いています。「中島永胤君招魂の碑建てんことおもひ立ちしは明治ニ十三年九月にして成功をとげしは同ニ十四年七月なり(後略)」に始まり、浦賀港を見下ろせる愛宕山に、石をすえ土をならし、花木を植え、東屋を造り、道を整備するなどなど、公園を建設する様子と招魂碑の趣旨が、発起者36名の名前と共に記されています。愛宕山公園(浦賀園)は、浦賀の人々に敬慕されていた中島三郎助の事跡を、後世に伝える招魂碑を建立するために整備され、明治24年(1891年)に開園した、横須賀市で最も古い公園です。所在地 愛宕山公園大きさ 176 cm x 130 cm x 11 cm建立年 明治24年(1891)」。「奉行所与力の服装」「幕臣中嶌三郎助👈️リンク明治年古函館ニ於テ戦死兄弟三名倶ニ死ス◯忠勇比類無シト言傳フ」1853(嘉永6)年の黒船来航時、浦賀奉行所与力の中島三郎助はペリー側の「最高位の役人以外とは面会しない」との強固な姿勢に対し、同行した役人を「副奉行である」と嘘をつき黒船に最初に乗船した日本人です。中島は、大砲などの装備を探るため、ちょこまかと動きまわるのでペリー側の記録には「大胆で出しゃばりしつこく詮索好き」と残されています。しかし、その行動は、西洋型軍艦鳳凰丸の建造に大いに役立ちました。その後、勝海舟・榎本武揚らとともに長崎の海軍伝習所へ派遣され、江戸に戻ってからは海軍操練所教授方として後輩の指導にあたり、海国日本の造船・操船の第一人者となりました。戊辰戦争で函館五稜郭にて新政府軍を迎え撃ちますが武運尽き、ふたりの子供ともども壮絶な死を遂げました。「横須賀市浦賀地域と函館市中島町との姉妹地域関係に関する盟約書幕末の英才・中嶌三郎助翁は近代国家を誕生させる荒波の中に、その生涯を捧げ、功績は日増しに高くなってきています。生誕の地、横須賀浦賀地域を中心に活動を続ける「中島三郎助研究会」、「中島三郎助と遊ぶ会」と戦没の地函館市中島町会は、ともに中島三郎助翁が、黒船来航の折に最初の交渉役として果たした役割やその後近代日本の幕開けにふさわしい造船技術者として果たした役割やその後近代日本の幕開けにふさわしい造船技術者として、また開運設立の先覚者として残した数々の功績を顕彰し、さらに多くの市民の方に理解を深める活動をしてきました。この二つの地域の趣旨を同じくする会が、地域の諸団体の協力のもと交流を深め・・・・・・・・・偉業を顕彰、理解の輪を各分野に広め、発展させることを盟約し姉妹の会として活動をいたします。 平成8年7月20日以下略」「本日、御地において中島三郎助父子墓前祭が開催されるにあたり、一言ごあいさつ申しあげます。昨年は当町主催によります、中島三郎助碑前祭に浦賀より東林寺参詣団様始め多数のご列席を賜り厚くお礼申し上げます。その折、横須賀市長様よりご丁重なるメッセージ、並びに東林寺ご住職様よりお心のこもった和歌を頂戴し感謝に胸震えております。本年も、本日同時刻、中島町の中島三郎助父子最期の地碑前において慰霊祭を執り行っております。このように三郎助父子の生誕地と戦没地に於いて同時に慰霊の行事が行われることに深い感慨を覚えます。浦賀が生んだ最高のテクノクラート、有能な幕臣、中島は数多の業績を残し、幕末の動乱には主家報恩の殉節を貫き榎本などとともに函館に赴き歴戦を重ねましたが、明治二年五月一六日ここ千代が岡陣屋において父子共々壮絶な最期を遂げました。激しい敵の攻撃に投降兵や逃亡兵の多い中、浦賀出身の者で固めた中島隊の部下には、遁れたものなかったとききます。いかに平生の恩遇が深かったか偲ばれます。この激戦を最後に幕末維新の動乱も終局を収め、近代日本の幕開けとなりますが、もし三郎助存命であれば必ず新政府軍の重鎮、或いは造船界の嚆矢として、近代国家建設の大役に従事されたことと思えば、その死惜しみてあまりあります。函館市は昭和六年、新町名制定のとき、三郎助の遺徳を讃え、その最期の地を中島町と命名致しました。東林寺ご住職のご来函の折り、十首の和歌を詠じられましたが、そのうち一首に丈夫の 赤き血潮の 溢れ染む 中島町の 弥榮にこそと歌われ、私共にお励ましのお言葉を賜りました。このことを肝に銘じ、私達町民は御地において大切に大切に尊敬、敬愛されている中島三郎助の名に恥じぬように街の伸展に意を注いで行く所存で御座います。終わりに、硝煙砲火の中、古武士の骨を焚き了わり、義に殉じて北の果てに放華せし御魂よ靖かれとお祈りし、三郎助永胤の辞世の歌を詠唱してメッセージと致します。空蝉の かりの衣を ぬぎ捨てて 名をや残さん 千代ヶ岡辺に 平成五年五月十五日 函館市中島町 町会長 船山圭右」短刀。相模國廣光 長六尺・・・。大田戴陽老人・・・・・「大田戴陽老人追悼文軸大田戴陽老人は蜀山先生の嫡孫にして、無為の天資をつぎ、滑稽洒落の雅情を専とし、夙に官袴を脱し、ひとり風月の閑静を愛したまふこと既に幾春秋か。ことし弥生の花のうつろふ頃よりやまふの床につかれけるが、五月四日といふ日、終に残花の芳香を百草にうつして、はかなくも彼の岸に赴かれしそ、親戚のなけきはいふへくもあらされど、郷里の人、誰かなけき惜まさらんや。さみたれや ほのかに西の 月あかり」「中島三郎助函館よりの手紙」。「中島三郎助函館よりの手紙慶応4年8月に江戸を脱出した一行がさまざまな事態に当面しながら、本州最後の地、宮古へ到着したのが10月12日でした。この地から三郎助が妻すずにあてた近況報告の手紙です。この手紙からも最終目的地、蝦夷へ出発するにあたっての困難ではあるが新開地を求めた三郎助の覚悟の程がよく表われています。一筆申進候 追々寒気相増候得とも、いよいよ御替りなふ御くらしと目出度そんじ候、次に此かた一同無事に而、当節は南部宮古と申所に罷在申候両三日之内にハゑぞと申へ参り候つもり、是は定而寒気つよくと心配いたし候、乍然、八月初旬持病相おこり候のみに而、丈夫ニ御座候まゝ、先達而恒太郎其方へ参り、御めもじいたし候由、いさゐ承り、大安心いたし候、美加保丸ハなん船いたし候よし、平田其外 乗組之者 如何哉とあんじ申候一、越後辺之いくさニ而、小笠原甫三郎の忰、新太郎 高林磯次郎等うち死いたし候よし、和田 伝兵衛ハ無事ニ而回天丸ニ居り申候、一、子供一同無事とそんじ候、与曽八も定而丈夫に成長とそんじ候一、江戸へよきたより有之候ニ付、御母上様江書状差上申候、御安心可被下候、一、我等並恒太郎、英二郎等、万々一うち死いたし候へハ、浦賀之寺へ墓御立可被下候 右の通り御頼申候、先は幸便ニまかせ、早々めでたく かしく 三郎助時雨月十六日おすゝ殿尚々時かふ御いとひ可被成候、お順始一同へよろしく御申伝可被下候 以上」一筆申し上げます。日増しに寒くなってきましたが、お変りなくお過ごしこととお喜び申し上げます。私たち一同は無事で、今は南部の宮古というところに来ています。ニ、三日のうちには蝦夷という土地に行くつもりです。そこは、とても寒いところと心配しています。しかし、八月上旬に持病が起きた以外は健康に過ごしています。先日恒太郎がそちらへ行き、お目に掛かったとのこと、くわしく聞いてとても安心しました。美加保丸が難船したとのこと、平田そのほかの乗組員はどうしたのかと案じています。一 越後の戦いで、小笠原甫三郎のせがれ新太郎、高林磯次郎らが討ち死にしたとのこと。 和田伝兵衛は無事で回天丸にいます。一 子どもたちは無事と思います。与曾八も丈夫に成長していることと思います。一 江戸へはよい知らせがありますので、母上に手紙を出しました。ご安心ください。一 私、恒太郎、英次郎らが、万が一討死した時には、浦賀の寺に墓を建ててください。このような状況ですから、どこで討死あるいは戦いの中で死去した旨、墓に刻んでください。まずは幸便にまかせて 三郎助時雨月(十月)十六日お寿々どのなお、時節柄お大事にしてください。お順はじめ一同にもよろしくお伝えください。「中島三郎助 遺言状榎本武揚が朝廷に上奏した願いが脚下され官軍による討伐を予想した三郎助が家炭へあてた遺書です。文面からわずか二歳の与曽八に短刀を贈り、家族へ決別の辞を述べ、また後段では、終生徳川家に忠勤を励む幕臣の姿をみることができます。」。「中島三郎助 遺言状」。「この短刀を与曾八への形見として贈ります。私は長いこと病弱で若死にしてしまうだろうと思っていましたが、はからずも四十九年の歳月を生きながらえたことは幸いと思っています。このたびの決戦では、潔く討死する覚悟をしています。与曾八が成長したのち、私のわずかな志を継いで、徳川家のこのうえもなく大きなご恩を忘れずに長い間忠勤してくれるよう頼みます。 明治ニ年三月三日 中島三郎助 永胤なお、御母上様、積年の恩恵に報えずにお先に遠い旅路に赴くこと、恐れ入ります。ということをよろしく申し上げてください。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.08
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「乗誓寺」を後にして、次の目的地の「八雲神社」に向かう。東浦賀1丁目17の路地を北に向かって進むと、「八雲神社」への石段が現れた、石段の途中、左手にあった「手水舎」。石段の途中から浦賀湾沿いに建つ「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」を振り返る。築年月(築年数) 1994年6月 (築30年)建物構造 SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)建物階数 地上22階総戸数 314戸右手にあったのが「東浦賀1丁目町内会館」。さらに石段を上る。石段の上に「八雲神社」の拝殿が姿を見せた。祭神は須佐男命。この社は江戸時代の建物で、当時は、大谷山満宝院八雲堂という修験の寺であったと。明治以降、神社に変わりましたが、建物はそのままで、屋根に宝珠が乗る、寺院型式の御堂建築なのであった。拝殿の向拝には、漆喰で造られている「漆喰鏝絵(しっくいこてえ)」という、見事な龍が取り付けられていた。ズームして。「向背の龍」と呼ばれるこの作品は、木彫り彫刻?と見紛う、見事な出来栄えで、全国的にも珍しい存在であると。龍頭を中心に据え、全身を丸彫に造形、ガラス玉の玉眼を嵌入する。くねる龍身はしなやかで、均整がとれているが、彩色はかなり剥落し頭部の破損部分も目立つ。「伊豆の長八」とともに、漆喰鏝絵の名人として全国的に知られる石川善吉48歳時、明治35年(1902)の作品。背面左端に銘文があり、「明治三十五年/左善作/四十八才」とあった。作者の「左善」とは、左官の善吉の略で、浦賀の左官職人石川善吉のことである。明治35年(1902年)48歳の時の作品であることが分かるのであった。尚、漆喰鏝絵は八雲神社の他,西叶神社・法憧寺・川間町内会館などにも残されていたのであった。「八雲神社祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代のもので,もとは大谷山満宝院八雲堂(おおがやさんまんぽういんやくもどう)という修験の寺でした。明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで,寺の型式であるお堂建築になっており、鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で造られた龍が取り付けられ、長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。東浦賀一丁目の鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ、須佐男命が乗った山車と猩々坊が(しょうじょうぼう・厄除け人形)が出ます。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「猩々坊」👈️リンク。行列の中で異色の存在は「猩々坊」。猩々といえば、まず思い浮かぶのが能楽の「猩々」。赤く長い髪が特徴的で、衣装も赤地または赤模様。中国において猩々は、想像上の動物で猿に似ているとされ、人の顔と足を持ち、人の言葉を理解し,酒を好むという。日本では赤面赤毛とされ、酒飲みの異名ともなっている。一方,八雲神社の猩々坊は、大きな頭と顔、黒々とした髪・髭・眉に白い顔。どこか一種異様な雰囲気が漂っているが、猩々とは共通点があまり感じられない。江戸末期に疱瘡(天然痘)が流行した時,人々は「疱瘡神」と言う疫病神が疱瘡を流行らせると考えた。猩々には能の印象から転じて赤色のものを指すこともあり、疱瘡神は赤色を苦手とし、「赤が病魔を払う」という俗信から、東浦賀の人々は「猩々」に「坊」をつけて擬人化、赤い衣装を着せて「疱瘡神除け」として祀ったようだ。全国には「赤い御幣」「赤一色の鍾馗絵」「赤い玩具の鯛車」「猩々人形」等々、赤を基調としたお守りや風習が存在するが、八雲神社の猩々坊は他に類を見ないユニークで貴重な存在と思われる。八雲神社は東浦賀町大ヶ谷の畠中という谷戸にあり、猩々坊は江戸末期の文久2年(1862)に造られた。ところが何故か、明治33年(1900)以降の祭礼においては、町内引き回しが行われなくなってしまった。それから95年が経過。これを惜しんだ町内の人達が、神社に保存されていた猩々坊の色を塗り直したり、髭をつけたりして修復、平成7年(1995)見事復活を果たし、現在に至っているようで大変喜ばしいことだ とネットから。「御宝珠」。寺から神社に変わった当時、屋根に乗っていた御宝珠。現在のものは、その後作り替えられた金属製であると。近づいて。「当町守護八雲神社御祭神 須佐男命此の社は江戸時代の建物です。当時は大谷山満宝院八雲堂と申して真言宗修験のお寺でした。明治初期に神社になりまして其の当時屋根に乗りし御宝珠です。東浦賀 一丁目町内会」つぎに訪ねたのが「津守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目14。「津守稲荷」と。石鳥居の先に拝殿。手水舎。拝殿。ご祭神は、社名からの推定になりますが、食物や穀物の神様で、五穀豊穣の神様である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。宇迦之御魂命とも表記され、稲荷神と同一です。創建は江戸時代中期の文政9年と。詳しい創建の経緯などは不明ですが、津守の「津」は港を意味するもので、港を守るお稲荷様として創建されたと考えられます。誰の手によりどのように創建されたかなどは、残念ながらわからない。拝殿の彫刻が目を惹いた。右側には龍、左側には神様でしょうか。木鼻(右)、下の方の両端には亀もいた。木鼻(左)、下の方の両端には亀もいた。拝殿の内陣。ズームして。拝殿に向かって右手には、「青面金剛塔」と書かれた小さな庚申塔があった。ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉)の花。咲き始めは紫色だった花は少しずつ白っぽくなり,1本の木に紫と白の2色の花が咲いているように見えます。一つの花の花期は短いのですが,次々に咲き続けるので長く2色の花を楽しむことができるのだ。観音崎通りを京急浦賀駅方向に向かって歩く。横須賀市東浦賀1丁目12−17附近。右手奥に神社の石鳥居が見えた。石鳥居の先の石段の上に朱の社殿が。正面から。「船守稲荷神社」。横須賀市東浦賀1丁目11。お狐様(右)。お狐様(左)。「船守稲荷神社」の社殿。東浦賀1に鎮座する船守稲荷神社の縁起は不明とのことだが、境内に天明5年(1785年)銘の手水鉢が奉納されて残っている。船守稲荷神社の創建は、奉行所が下田から浦賀へ移された享保5年(1720年)以降で、稲荷信仰が江戸で大流行する江戸時代後期であろう。船守は文字どおり船を守る稲荷社で、港を守る津守稲荷神社とともに港町浦賀にふさわしい名前の稲荷社。手水鉢が船守稲荷神社氏子中による奉納ならば、船守稲荷神社は天明5年(1785年)以前の創建となろう。しかし、船の前に津があるのが普通である。津守稲荷神社は文政9年(1826年)に創建されているので、船守稲荷神社の創建が津守稲荷神社の創建よりもはるかに古いことはあるまい。一方、浦賀のもう一つの稲荷社である福寿稲荷の創建も弘化4年(1847年)にまで下がるから、船守稲荷神社の創建も19世紀にまで下がる可能性もある。しかし、西叶神社の摂社である船守稲荷神社の創建が元文4年(1737年)であることから、これ以前の創建である可能性が大であろう 鳥居は朱塗りではないが社殿は朱塗りである。内部に本殿が安置されているから、おそらくは覆い屋であろう とネットから。。内部に本殿が安置されていた。そしてさらに観音崎通りを進むと、右手奥、住宅と駐車場の間の奥の山裾に赤煉瓦作りの小さなトンネル風の建造物が。「水のトンネル明治三十三年(一九〇〇)に操業を開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、現在の二葉二丁目にあった溜め池から掘った全長約千メートルの導水坑の出口です。この導水坑は、浦賀ドックが独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要としそのために造られたものです。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」横須賀市のサイトに詳しい説明があった。『明治33年(1900年)に操業開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、 現在の二葉2丁目にあった溜め池から掘られた、全長約1,000mの導水坑の出口です。 現在は使用されていません。 旧浦賀ドックは工業用水の確保のためにこの導水坑と荒巻用水路を整備しました。 明治33年に作成された工場の設計図には荒巻用水路しか記載がなく、その完成は明治35年(1902年)12月ですが、導水坑の記録は、 昭和に入って作成された図面に残されています。 この導水坑は、旧浦賀ドックが、独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要とし、 このために整備されたものと考えられます。 この工場で初めて開発された、浦賀式3連成レシプロ汽機と排気タービンによる連動主機は、 昭和6年(1931年)に建造された貨客船「新京丸」に初めて搭載されているので、 タービンの開発と導水坑の整備は更に溯ることとなるのでしょう。 当時は、使用後の熱くなった冷却水が、職員のための風呂の湯として利用されたそうです』と。「浦賀式3連成レシプロ並びに排気タービン連動汽機」そして「観音崎通り」を「浦賀駅前」交差点まで戻り、「浦賀通り」・県道208号線を南に進む。目的地は「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」。「浦賀国際文化村推進協議会の案内絵👈️リンク黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」の絵を4月16日(火)以来久しぶりに見る。ズームして。「浦賀丘入口」交差点より、「ポップサーカス横須賀公演」が行われている浦賀ドック内の特設大テントを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.07
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次に訪ねたのが県道209号線・観音崎通りの向かいにあった「浄土真宗 東教山乗誓寺(じょうせいじ)」。横須賀市東浦賀1丁目20−10。寺号標石「浄土真宗 東教山 乗誓寺」。「浄誓寺 寺域案内 江戸豪商墓地他案内図」。「掲示板」には、「乗誓寺 曽我兄弟 由緒」が。「乗誓寺 曽我兄弟 由緒乗誓寺の開基は、了源(曽我十郎の子、河津三郎信之)。この了源は、藤原鎌足を祖とし、第十八代の末裔で、父は曽我十郎祐成、母は大磯の虎御前である。鎌倉時代、源実朝に仕え。多くの武功により恩賞として相模国平塚の地を賜り、親鸞聖人が関東教化の折、その教えに帰依し出家、了源と称し、鎌倉時代(安貞元年 一ニニ七年)平塚に阿弥陀寺を建立、親彎聖人真筆十字名号を本尊とした。この本尊は親鸞聖人の直弟子であった真仏(京都本山・仏光寺)に下附された貴重な本尊で浄誓寺に現存する。その後、室時時代(寛正六年、一四六五年)、近江(滋賀)に土一揆の争いが起こり、比叡山衆徒により大谷本願寺が破却され、越中、越前、加賀、山科、摂津、紀伊などで一向一揆が勃発した。この為に当寺の相模(平塚)の阿弥陀寺の住職空浄は、碩学(有名な学者)の誉高かったため、比叡山の衆徒に攻め入られるとの報を聞き、本尊を奉じ、平塚を逃れ、室町時代(文明元年 一四六九年)に浦賀の地に移った。その当時の浦賀は、人家もまばらてあっが、一向一揆て共に戦った全国の人々が住職・空浄を慕って浦賀の地を訪れ、特に紀州・鷺森本願寺などの門徒や雑賀衆の人々が浦賀に移住し、江戸時代には賑わ町となった。その後、寛永十四年( 一六三七年)に西本願寺第十三代良如上人は、一向一揆て活躍したその当時の住職・空浄の功績をたたえ、この浦賀の地を訪れ、「阿弥陀寺」を改め、「東京山 乗誓寺」とう寺号を授kけた。さらに、江戸時代後期の浦賀は、浦賀奉行所をはじめ、黒船ペリー来航、咸臨丸のアメリカ渡航等、全国的に有名な地となり各地から人々が訪れた。江戸の文化を伝えたのは、乗誓寺が中心となり、政冶、経済、教育、芸術等、多くの著名人を招き、浦賀の人々の学問所として貢献した。当時の乗誓寺は、十間四面の本堂、山門、庫裡、郷学校舎、宝物殿、茶室、鐘楼堂、奥の院(阿弥陀仏)山頂水屋、日本庭園等が寺域内に存在した。尚、浄誓寺の住職は世襲制により脈々と継承され、曽我兄弟十郎の子孫である。」境内の石段・スロープを上って行った。正面に巨大な本堂が現れた。右手には石碑や案内板が。「横須賀市指定重要文化財絹本著色阿弥陀如来像」案内板。「絹本著色阿弥陀如来像」。「横須賀市指定重要文化財 絹本著色阿弥陀如来像 平成十六年一月二十六日指定本画像は浄土真宗形式の阿弥陀如来画像で方便法身尊像と通称されるものです。画面は少々損耗していますが、像容に大きな改変の形跡は無く、はぼ当初の姿を伝えています。肉身には金泥を塗り、面貎、手足の輸郭を細線で丁寧に描き、その画技は秀逸です。また、衣の線や文様に銀泥を用いているのは本画像の特色で落ち着いた趣に仕上がっています。画風から室町時代初期の制作と推測され、浄土真宗形式による阿弥陀如来画像の早い時期の作例として注目されるとともに、横須賀市域に遺るところの少ない中世絵画としても貴重です。 横須賀市教育委員会」上:「乗誓寺 曽我兄弟 由緒」と下:東教山乗誓寺由緒 浄土真宗本願寺派 本山 京都 西本願寺」「東教山乗誓寺由緒 浄土真宗本願寺派 本山 京都 西本願寺当山の開基は、平塚入道了源なり。了源は、藤原鎌足十八代の裔、曽我兄弟十郎祐成の子。母は大磯の虎御前なり。河津三郎信之と称す。信之は、源実朝に仕えて、武功多く恩賞として平塚の庄を賜り、積年の仇敵に感ずるところありて、親鸞聖人の教えを受けて出家し、了源と名乗り、安貞元年(西暦一二二七年)平塚に一宇を建て、阿弥陀寺と称し、親鸞聖人真筆の十字尊号を以って本尊とす。歴代相続後、文明元年(西暦一四六九年)比叡山の京都西本願寺の破却を知り、当時住職の空浄は平塚をのがれ、当地東浦賀に一宇を建て、阿弥陀寺の本尊を移す。元和元年(西暦一六一五年)空覚代に再興す。寛永十四年(西暦一六三七年)良如上人御巡教の折、東教山乗誓寺と賜る。大正十二年、関東大震災により、大本堂、庫裏、鐘楼堂等倒壊しも、昭和五十年本堂を再建、同五十九年庫裏、鐘楼堂を建之す。今や、ここに堂宇漸く整うに至り之を建て報恩感謝とす。尚 当時の歴代住職は、世襲制により脈々と継承され、曽我兄弟十郎の子孫なり。 昭和六十三年 春 東教山 阿弥陀院 乗誓寺相模国 阿弥陀寺開祖平塚入道了源より 第二十四代 浦賀乗誓寺より 第十七世住職 曽我宗允 乗誓寺 寺宝」ここにも、掲示板内と同じ「乗誓寺 曽我兄弟 由緒 乗誓寺第二十七代住職 曽我宗光」が。「東教山 乗誓寺 浄土宗本願寺派 本山 京都西本願寺曽我兄弟 ゆかりの寺」「曽我兄弟・虎御前の墓~箱根」をネットから。「乗誓寺の歴史と主な宝物」。「親鸞聖人御絵伝(桃山、江戸時代)」をネットから。「一向一揆、蓮悟書状(室町時代)」。「曽我兄弟仇討八百年記念銅像」。「曽我兄弟 十郎 五郎」像。「相模国 阿弥陀寺 曽我兄弟 十郎の子 僧:了源」「曽我兄弟仇討八百年記念銅像再建安元ニ年(一一七六年十月)工藤祐経が、伊東祐親に対し、所領争いの恨みから、伊豆、伊藤南方の山麓で待ち伏せし、弓矢を射った。その矢は、河津三郎(伊藤祐靖)に当たり、兄弟の父は亡くなった。その後、母は、相模国曽我の庄(小田原市)の曽我祐信と再婚し、幼い兄弟は、曽我の庄で成長し、元服して、兄は曽我十郎祐成、第は曽我五郎時致と名のった。そして、建久四年(一一九三年五月ニ十八日)に源頼朝により、富士野で巻狩りか催されることとなり、この報を知った兄十郎(二十ニ才)、弟五郎(ニ十才)は、父の仇討ちの好機とし、臺雨の闇夜を利とし、工藤祐経を襲い、父の仇討ちの本懐を遂げた。この仇討ちは「曽我物語」として有名である。尚、乗誓寺の代々の住職は、世襲制により脈々と継承され、曽我十郎の子孫である。 平成ニ十七年七月十三日 孟蘭盆会建立 銅像像再建願主 乗誓寺第二十五代住職 曽我宗光 由緒銘板寄贈者 当山 総代 木村鎮男殿 為、先祖代々供養」「本願寺と乗誓寺(鎌倉、戦国、江戸時代)●鎌倉時代(浄土真宗本願寺)開祖親鸞聖人(元仁元年一ニニ四年)開宗は、関東地方布教のため相模(平塚)に滞在していた時に曽我兄弟兄十郎の子がその教えに帰依し親鸞の弟子となり僧了源と名乗った。平塚に阿弥陀寺を創建し、初代住職となり後に浦賀に移り乗誓寺となる。親鸞聖人五老僧の一人である。●室町戦国時代は蓮如上人(㐧八代)の「一向一揆」の時代となり本願寺勢力が全国的に拡大し支配者(武士)と平民(農工商)との争いが続き「下剋上」といわれる「土一揆」(寛政六年、一四六五年)の乱となった。この争いは近江、琵琶湖で地主の比叡山(天台宗)と借地人(本願寺門徒)民衆との争いとなり、比叡山の衆徒により京都大谷本願寺がニ度にわたり破却され京都では「応仁の乱(応仁元年一四六七年)で騒然となり」◯◯◯◯「文明の乱(文明六年、一四七四年)の始まりは越前の守護大名富樫一族の争いから本願寺がその乱に巻き込まれたが、幸いに勝利した。その後長尾、畠山(能登)の戦いと続き、当時の「一向一揆」の頭領は本願寺の蓮悟(蓮如の子)(石川県金沢本泉寺住職)によって戦いの火蓋が切られた。その檄文「蓮悟書状(永正三年一五〇六年)が乗誓寺に送られて来た。この蓮悟の重要文書は乗誓寺に現存している。さらに「一向一揆」の戦いは、越前の吉崎御坊から京都郊外山科本願寺へ、さらに攝津大阪石山本願寺(現在の大阪城)へ。この決戦は織田信長との戦いで本願寺は苦戦し籠城したが敗北し◯◯◯援護を受け紀州和歌山の鷺森の本願寺を構えた。その後図らずも京都本能寺にて明智光秀の謀反により織田信長はあっけなく滅びた。次に天下を取った豊臣秀吉の時代には京都に本願寺の領地を与え西本願寺は現在に至っている。この激動の「一向一揆」時代を共に戦った本願寺㐧八代蓮如上人と平塚阿弥陀寺㐧八代空浄(学者)は京を逃れ空浄は平塚にも攻撃の手が伸びるとの報を聞き急遽浦賀に避難した。そして浦賀乗誓寺の初代となり現在に至っている。浦賀に移ってからは(文明元年、一四六九年)現在十八代平塚阿弥陀寺からは、二十七代曽我兄弟十郎の子了源から代々世襲制によって脈々と継承されている歴史がある。空浄が浦賀に移ってから数年後蓮如上人が浦賀を訪れ(文明七年、一四七五年)共に厳しい時代を無事生き伸び会えたことに感涙したと伝わっている。この時に境内に植樹された銀杏(イチョー)が、現在大樹となっている記念すべき銀杏の木である。(樹齢五百八十年)●江戸時代には徳川の天下となり平穏な全国統治によって、庶民の文化が栄えた江戸の文化は浦賀に伝わり紀州の鷺森本願寺の門徒や雑賀衆の人々が浦賀に移住し豪商の町となった、三浦半島一の豪商宮井一族(宮与)を始めほとんどの豪商が乗誓寺の門徒となり墓地、墓石を見てもその財力を知ることが出来る江戸の文化は乗誓寺を中心として伝えられ多くの文化人を招き文化交流の場となった。また当時の浦賀港は物流の中心として栄え、西岸から見た写真には乗誓寺の本堂が威風堂々と聳え庫裡、鐘楼堂が写っている。この賑わいの町浦賀に西本願寺㐧十三代、良如上人が訪れている。」「日本庭園 鷺吟の庭当寺の「鷺吟の庭」は中国李白の詩「魚躍青池満鷺吟緑樹低」から名付けられた。・・・・・・・・・・・・・・・鷺の鳴き声という意味があるとのこと。山々に囲まれた自然豊かな庭園には日々・・・白、青サギ、クマゲラ、キツツキや種々の野鳥や、タヌキ、リスなど、動物達が訪れる自然に満ちた風情ある名園である。」観音像であろうか、台石に山号・東教山が刻まれた石仏が安置されていた。再び「乗誓寺 寺域案内 江戸豪商墓所他案内図」。そして次に訪ねたのが「宮井与右衛門の墓所」。「江戸時代の豪商墓所屋号、宮与(本家)宮井與右衛門※宮井家一族の墓所は外塀周辺にあり」と。「宮井与右衛門(宮原屋) 出身地 紀伊国有田郡滝川原村(宮原)江戸時代から明治期にかけて、「宮与」の名で浦賀屈指の干鰯問屋であった。紀州宮原から浦賀への出店がいつであったかは詳らかではないが、十八世紀半ばにはすでに浦賀を代表する問屋となっており、多くの義援金により東浦賀村の年寄役に就任した。与右衛門は代々の通り名であり、明治三十一年には四代目町長に就任し、町政にも貢献した。」「宮井家(宮与)墓所法名図」。墓所入口から、右:三代 中央:初代 左:二代の墓石と。三代当主 宮井教遵初代当主 宮井教念二代当主 宮井教誓五代当主 宮井教淳六代当主 宮井教意手代の墓。この石仏は?そして「本堂」の前に。本堂正面。本堂の内陣。本尊阿弥陀如来像 をネットから。「本願寺第八代蓮如上人 お手植の銀杏の木」。銀杏の大木の根本に石碑が二基。「本願寺第八代蓮如上人 お手植の銀杏の木」碑。「本願寺第八代蓮如上人五百回遠忌記念蓮如上人は、中世(文明年中・一四六九年)の歴史に残る、北陸一向一揆の時代に西本願寺門主となり北陸に領主に対し民衆抑圧をいさめ、争いなきよう導かれたがやむなく戦乱となる。その後・上人は幾多の労苦を重ねながら、諸国をめぐり、門信徒の教化につとめ、本願寺の中興の祖といわれている。この蓮如上人は、この浦賀の地にもご巡教にこられこの銀杏(いちょう)(樹齢約五百年)の木をお手植された記念すべき木である。 平成十年(一九九八年)遠忌記念 平成八年四月二十五日建之 寄贈者 ・・・・・・・」本堂のわきを通り、階段を登っていくと「鐘楼堂」があった。鐘楼堂の建立は梵鐘とともに昭和五十九年、京都の嵐山の近くで製作された。下からズームして。梵鐘。重量は五百貫(約二千トン)で、鐘の周囲には百八の乳頭と呼はれる突起が付いている。この乳頭の数は、人問には百八の悩みがあり、鐘を打っことにより煩悩が消え去るということに因むものといわれているのだ。境内の新緑のモミジ葉を見上げて。陽光が差し込み、新緑の葉が輝いていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.06
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「専福寺」を後にして進むと、右手にあったのが「横須賀新町郵便局」。横須賀市東浦賀2丁目6−12。東浦賀5丁目と10丁目の境の道を北に向かう。100mほど進むと、右手に朱の鳥居の神社があった。鳥居の扁額には「東耀稲荷大明神(とうよういなりだいみょうじん)」と。「横須賀市指定市民文化資産」案内板。「東耀稲荷」案内板。「東耀稲荷創建は天明ニ年(一七八二年)で、食保命(うけもちのかみ)をお祀りしています。東耀稲荷の名の由来は、隣接する東耀山顕正寺の山号からとったもので、古くは顕正寺の境内にあったといわれています。さほど大きくありませんが、欄間や格天井などには見事な彫刻が施されています。屋根には恵比寿と大黒天の飾り瓦がのり、干鰯(ほしか)で栄えた東浦賀の繁栄ぶりを今に偲ばせてくれます。また、この稲荷は、火防(ひぶせ)の神としても崇拝されています。合祀されている須賀神社は、新町の鎮守で、創建年代はわかりませんが、昔、悪い疫病(コロリ)が大流行したとき、新町にも何人かの死者がでたため、里人が、当社(祭神、素盞鳴尊すさのおのみこと)を勧請し、病気をしずめたと伝えられています。」案内板にあった拝殿の内部の格子天井の龍の写真。参道の石段を上って行った。そして正面に「拝殿」。お狐様(右)。お狐様(左)。拝殿正面に掛けられた扁額には合祀された須賀神社の名が。「内陣」を格子の隙間から。拝殿の内陣の左側:獅子の子落とし父がおそろしく深い谷に子を蹴り落とす。子獅子は一度は登ってくるが、また突き落とされると、折からの嵐に爪が立てられず、木陰でしばし休んでしまう。子がなかなか登ってこないのは怖気づいたのだろうか、育てた甲斐がなかったのかと危ぶむ父。深い谷間を覗くと、水面にその影が映り…、親と子がそれぞれの存在に気付く。父の姿を見るや子は勇み立ち、高い岩をものともせず一気に駆け上がっていく。拝殿の内陣の左側内陣の欄間の彫刻。黄石公と張良漢の高祖に仕える張良は夢の中で老翁と出会い、兵法を伝授してもらう約束をする。夢の中で約束した五日後に橋のほとりに行くと、老翁は既に来ており、「人に物を教えて貰おうというのに、先生より遅く来るとは何事だ」と咎め、また五日後に来いと言い去っていく。五日後、張良は正装をし早暁に行くと威儀を正した老翁が馬に乗って現れた。そして自らを黄石公と名乗り、履いていた沓を川へ落とした。張良は急いで川に飛び込んだが、大蛇が現れ威嚇し沓を取られる。張良はすばやく剣を抜き立ち向かい大蛇から沓を奪い返した。黄石公は張良の働きを認め、兵法の奥義を伝授しました。張良黄石公。内陣の格子天井には一面に龍の姿が。拝殿の頭貫:2匹の狐ズームして。木鼻(右):獅子。木鼻(左):獅子。そして拝殿の欄間彫刻をカメラで追う。拝殿の右面に3枚、左面に3枚、裏面に1枚が嵌め込まれていた。奥から龍。鳥。鳥。左面:ミミズクであろうか。鳥。再び龍。裏面にも龍が。屋根に鎮座する恵比寿様。もとは『鳳鳳」『狐2匹』の饅絵が存在したが、屋根を修理した際、饅絵を修復できる技術者がなく、現在は白い漆喰塗りとなったのだと。下記2枚の写真はネットから。石川善吉・橋尾親子の作と言われているが・・・そして次に隣りにあった「顕正寺」を訪ねた。浦賀の町では、この「顕正寺」と西浦賀の太子寺が日蓮宗の寺とのこと。天正元年(1573)に僧・顕正坊日実大徳が顕正庵を結んだことによって開かれたと。横須賀市東浦賀2丁目1−1。「東耀山 顕正寺」。題目碑「南無妙法蓮華経」と「中根東里先生墓」。中根東里は江戸時代中期の陽明学者。東里は、伊豆下田の生まれで、若くして僧侶になりますが還俗(僧をやめる)し、当時の一流学者である荻生徂徠や室鳩巣に師事します。しかし、あきたらず、独学で陽明学を学び、栃木県の佐野で塾を開いていました。年をとるにつれ、母が晩年を過ごし、唯一の身寄りである姉(浦賀奉行所与力の妻)がいる浦賀の地を故郷のように思い、ここで70余年の生涯を閉じました と。「盥漱(かんそう)」と刻まれた手水場。「顕正寺天正元年( 一五七三)に顕正妨日実大徳が庵を結んだのが創建と仏えられる日蓮宗のお寺てす。本堂の右上手には中根東里の墓があります。東里は江戸時代中期の陽明学者で、晩年、浦賀へ移住しました。近くには明冶時代に歌会始めに招かれた浦賀の代表的な歌人の西野前知(さきとも)の墓があります。本堂の裏手には直木賞作家の山口瞳、咸臨丸副艦長の春山弁蔵、浦賀奉行所与力で後に横須賀造船所の技師として活躍した岡田井蔵(せいぞう)らの墓もあります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「中根東里の墓」の写真。「南無日蓮大菩薩」碑。十三重塔か?参道右手には多くの墓石が並んでいた。「我此土安穏 天人常充満 南無妙法蓮華経萬霊養」と刻まれた「無縁諸霊位供養塔」。「我がこの土は安穏にして、天人は常に充満せり」と。上段には、大名笠と呼ばれる大きな笠をかぶったような墓石が並んでいた。正面に本堂。「庚申塚」。青面金剛像庚申塔、猿田彦大神(明治41年(1908年)銘)、「庚申塚」と刻まれた石碑等が並んでいた。青面金剛像庚申塔(天宝12年(1841年)銘)。「故海軍大尉香山君碑」浦賀奉行と称して、ペリー艦隊との交渉にあたり、アメリカ側から高く評価されたと伝えられる香山栄左衛門の長男である香山永隆さんの顕彰碑。旧幕府の軍艦役であったが、その才能から維新後の明治3年朝廷に召しだされ、翌年海軍大尉に昇進した。香山留次郎氏(子息ではないだろうか)によって明治13年8月建立された。「故海軍大尉香山君碑 故海軍大尉香山君舊幕府相州浦賀港與力諱永孝之子母岡田氏天保十一年生于浦賀嘉永六年 米國来逼乞貿易幕府令厳海防以備不虞君受命戌同港明神﨑砲臺後幕議決和親海防觧厳安政二年 蘭人厭軍艦於此君受命與麾下之士數人往長﨑受海軍術于蘭人□學成東歸幕府以為軍艦役實為 皇國海軍術之權輿明治元年徳川幕府奉還大政于朝庭徒封于駿遠参君決志歸農卜居于都之北方 巣鴨以謀其終明治三年朝庭召為海軍術教授其四年累進至正七位海軍大尉□茲十三年二月廿九日 病没于官君諱永隆為人沈静而有才思事親至孝善書畫配萩原氏生五男四女銘曰 事親至孝 於後有餘 勤業為國 海軍權輿 明治十三年八月 清水徳馨撰并書 井亀泉鐫」碑裏面:「香山留次郎建之」歴史を感じさせる墓石が並ぶ。境内の掲示板には様々な案内所が貼り付けられていた。「山口瞳」👈️リンク「山口瞳」墓。「岡田井蔵咸臨丸の偉業に参加した士官市内東浦賀にある東耀山顕正寺の墓地に、忘れ去られたように一基の墓石がひっそりと立っています。その表に「岡田井蔵 妻◯子」と刻まれていて、この墓の主が万延元年(1860)わが国の軍艦として初の太平洋横断を成しとげた咸臨丸の壮拳に、乗組士官として参加した浦賀奉行組与力・岡田増太郎の弟岡田井蔵であることがわかります。さいわいその経歴は、田口乾三(中島三郎助の女婿・内閣書記官長)が墓石に記した500余の文字によって、およそのことを知ることができます。岡田井蔵は天保8年(1837)1月20日、幕臣岡田定十郎の4男として誕生しました。早くに父母を失い、兄増太郎の庇護をうけ、天保14年兄が浦賀奉行組与力となったとき浦賀に移り,16歳で幕府学問所である昌平黌に入学して漢字を修めています。安政3年(1856)、幕府から選ばれて第2回海軍伝習生として長崎に赴き、オランダ人から機関学の実際について学んでいます。同6年正月、修学を終えて勝麟太郎らとともに朝陽丸で江戸に帰り、幕府が江戸に新設した海軍操練所の教授方手伝出役として、幕府海軍の人材養成に当たるのです。安政7年(万延元年・1860)正月、遣米使節の随行艦咸臨丸に業前の者として選ばれ、機関方の青年士官として乗艦、連日の荒天に苦闘しながらも無事難航を切りぬけ、サンフランシスコに到着、大歓迎をうけます。滞在の日々は文明国アメリカの風物に接し、新鮮な驚きと感動の連続だったようで、井蔵自身も教会を訪れ、オルガンの妙なる音に耳を傾けたといわれます。帰途は平穏で同年5月5日、浦賀港に碇をおろし、歴史的航海の大任の果たします。同年12月には幕府より恩賞があり、井蔵にも銀20枚と時服2、さらに銀20枚が贈られました。帰朝後は再び海軍操練所に出仕しましたが、文久年間には朝陽丸の機関長として伊豆、小笠原諸島の調査・開拓に従事。さらに将軍家茂の海路上洛の折には、その警護にも赴いていたようです。明治元年(1868)1月、軍艦蒸気役一等を仰せつけられ、このころ市内の深田村に居在していたことがわかります。維新後は横須賀製鉄所の出仕。『横須賀海軍船廠史』によれば、明治4年(1871)には「造船少師 月給40両」と見えています。翌年には主船少師で製図掛主任となり、軍艦盤城、海門などの諸艦建造に尽力し、同9年には主船中師となります。のち海軍3等師と改称され、やがて海軍1等師に昇進し、同17年には製図掛機関部主任と見えています。井蔵は非常に図工にすぐれていることを以てその名を知られたといわれていますが、横須賀製鉄所(造船所)の創業期に一貫として製図部門の責任者の地位にあり、その実力を以て大いに海軍造船界に貢献しましたが、惜しまれて同22年(1889)に退職しました。のち同37年(1904)7月28日、横浜市青木町で死去、菩提寺である前述の東浦賀・顕正寺に葬られました。享年68歳でした。岡田井蔵は近代日本の幕開けの地浦賀から出て、幕府海軍の創立に身を投じ、咸臨丸の偉業に参加、さらには海軍造船界で活躍するなど、近代化を目指すわが国海軍のあけぼのに参画した海の先駆者であったのです。 (上杉 孝良)」岡田井蔵の墓の写真をネットから。「春山弁蔵近代造船に貢献した男明治元年(1868)8月、榎本武揚に率いられた8隻の幕府軍艦が艦隊を組み、あくまでも官軍に抵抗し、蝦夷に新天地を求めようとする榎本らの野望に、同調した者たちを乗せて、江戸湾を出港しました。この中の1隻、咸臨丸の副隊長として、造船の近代化に大きな足跡を残した浦賀奉行所・同心春山弁蔵が乗り込んでいました。しかし、出港3日目、江戸湾を出た所で、艦隊は台風に遭遇しました。咸臨丸は一番大きなマストを切り倒して、転覆を免れたものの、走行不能に状態になり、伊豆下田に漂着。その後、船体修理のために清水港へと向かいました。この清水港が春山弁蔵の53年の生涯の終えんの地となりました。文倉平次郎著の『幕末軍艦咸臨丸』によれば、清水港に入った咸臨丸は修理のために大小の銃砲、器機等は陸揚げし、兵士は留守番をする数名を残しただけでした。こうした状況の中に、官軍の軍艦・富士山丸、飛龍丸、武蔵丸が清水港に入り、咸臨丸をめがけて大砲を発射しました。すでに航行能力も失っていた咸臨丸の留守を守っていた春山らは、甲板に上がり白旗を打ち振りましたが、なおも攻撃が続き、ついには咸臨丸船上の戦いとなり、ここで壮烈な戦死を遂げました。この戦い後、咸臨丸は拿捕(だほ)され、幕府軍の戦死者はことごとく海へ投げ捨てられました。こうした情景を見ていた清水次郎長は、海から遺体を引き上げ、手厚く埋葬し、壮士墓を立てたことはよく知られています。春山戦死の報は、勝海舟をはじめ中島三郎助など近代造船に携わった人々に大きな衝撃を与えました。春山弁蔵は、文化14年(1817)に生まれ、18歳になった天保6年(1835)に奉行所に出仕し、同心として定廻りや封印役などの職務についています。春山がいつごろから、船(造船)に関心を示すようになったのかわかりませんが、弘化3年(1846)閏5月、浦賀沖に来航したビットルが率いるアメリカ軍艦の姿を見たことがひとつの転機と考えられます。これは、春山だけが転機になったのではなく、浦賀奉行所の江戸湾防備の方針が、台場中心的なものから協力軍艦の必要性に変わっていく過程でありました。この方針は、蒼隼丸という船を建造することで第一歩が示され、ペリー来航後、日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造で幕府も認めることになりました。蒼隼丸の建造は史料も少なく、春山がどの程度かかわったのかはっきりしませんが、鳳凰丸建造の時には、船体構造に関する知識を身につけ、そのレベルはペリーを驚かすほどになっていました。さらに春山の勉学に拍車をかけたのは、安政2年(1855)8月、長崎に開設された海軍伝習所の伝習生に推せんされ、本格的な造船学を学ぶことによってでした。長崎での伝習期間は、1年半でしたが、春山は期間が過ぎても長崎を去ろうとはしませんでした。それは、彼の性格からくるものなのでしょうか。また西洋の新しく刺激的な学問の魅力からなのでしょうか。ともかく、人の倍の期間も長崎に滞在して、造船学を学んできました。3年ぶりに浦賀へ帰ってくると、すぐに江戸に新設された海軍操練所の教授方として出役し、身につけたばかりの学問を次の世代に教え、指導する立場になりました。この間に、太平洋横断のために浦賀でドック入りした咸臨丸の修理を浦賀奉行所のスタッフとともに行っています。万延元年(1860)12月、幕府から海軍操練所のメンバーに純国産の蒸気船建造の依頼がありました。このプロジェクトの主任格は小野友三郎、船体の構造設計を春山、蒸気機関は肥田浜五郎が担当しました。慶応2年(1866)に完成したこの船は「千代田形」と呼ばれ、長さ九尺六寸(29m)あまりの小さな船でしたが、国産軍艦として、日本の近代造船史に新たな1ページを飾ることとなりました。 (山本 詔一)」春山弁蔵之墓 春山鉱平之墓。「西野前知浦賀が生んだ明治の歌人江戸時代の後期から明治にかけて浦賀を中心に三浦半島の歌壇をリードしたのが西野前知です。彼の代表する和歌は、 北の海に とるやひろめのいやひろく 国もさかゆる きみが御代かなで、前知が明治23年(1890)の御歌会始に詠進して、預選の栄に浴したときものです。家は代々回船問屋前知は、文政5年(1822)2月に生まれました。若いころの名を豊治郎といい、後に市郎左衛門。また、通称は佐六で、名を前知と言いました。家は代々市郎左衛門を名乗る回船問屋でした。前知は、ペリーが来航する直前の嘉永6年(1853)5月に前年亡くなった父の後を継ぎ、8代目の市郎左衛門として、浦賀奉行に認可されました。ここでいう回船問屋とは、浦賀奉行所の足軽役として、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査をする「船改め」の業務を担当していた人々です。西野家は下田奉行所時代からこの仕事をし、奉行所の移転に伴って下田から浦賀へ移住してきました。このような人々を総称して「下田問屋」といい63軒ありました。門下は女性や商人など前知は、文久3年(1863)、40代になったばかりで下田問屋の年寄り役となり、さらに三方問屋(下田、東西浦賀の回船問屋105軒)の行司(事務を担当し世話をする役職)にもなりました。明治維新後は、請われて新政府の浦賀役所に出仕し、ここでも官と民の太いパイプ役として活躍しました。このように前知は、実生活でも大きな業績を残していますが、隠居した明治10年代からは、本格的な歌詠み三昧の毎日となります。そして、浦賀を中心として女性や商人、知識階層の人々に和歌を浸透させていきました。自らも進んで東都の歌人たちと交流を持ち、視野を広めていったのです。前知と栄えた浦賀歌壇明治23年には、友人であった中島三郎助の23回忌追悼文を著しました。これを機に、西浦賀の愛宕山に三郎助の招魂碑が建立されることになり、その趣意の文章が石碑として残されています。前知は、同27年10月に、72才でその生涯を閉じ東浦賀の顕正寺で静かに眠りについています。その墓石には、自らの手で書かれた「西野前知」と並んで、「田中勝子」と夫婦を別姓で表す当時の風潮を取り入れるなど、新しい考えの持ち主でもありました。浦賀歌壇は、前知の出現で栄え、彼の死とともに消滅していったと言っても過言ではありません。 (山本 詔一)」「顕正寺」の「本堂」は鉄筋コンクリート製。近づいて。扁額「顕正寺」。本堂向かって右側にあった「地蔵堂」。お地蔵さまが3体。そして「顕正寺」を後にし、「観音崎通り」に出ると」「顕正寺 (中野東里の墓)」案内板が見えた。旧浦賀町章も描かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.05
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次に訪ねたのが「東林寺」の隣りにあった「専福寺」。1504年僧久悦が創建。俳人の小林一茶が恋人の「寿」の菩提を弔うために、何度かここを訪れていると。ちなみに恋人の「寿」のお墓は、関東大震災により山崩れで見つからなくなった と。横須賀市東浦賀2丁目10−6。「永昌山 専福寺」掲示板。石段下にあった「一葉観音(いちようかんのん)」。道元禅師が仏法を求め中国に渡られ、修行を終え、帰路の船旅での出来事です。大変な嵐に遭遇され、危うく命を落すところでしたが、一心に観音経を念誦されると、蓮華の花びらに乗った観音菩薩が現れ、風雨が静まり助けられた。順風満帆な旅を約束し、交通の安全さらには水難から身を守ってくださる観音様として今も深く信仰されていると伝えられています と。お顔をズームして。龍の吐水口(とすいこう)からは清水が。本殿に向かって石段を上って行った。石碑が並ぶ。寺号標石「浄土宗 専福寺」。 「呑龍上人宝前」碑。呑龍上人といえば、「太田(群馬県)の呑龍さん」の名で親しまれ、病弱な子供の立派な成長を願うお参りが絶えなかったといわれます。しかし、専福寺とのつながりはよくわかっていません。「宝前」とは、 神仏をまつった所の前を尊んでいう語 と。石段を上った場所にも石仏が2体。「地蔵堂」。「地蔵尊」と。お地蔵様は2体。こちらの堂は?子育地蔵尊。「子育地蔵尊??」「専福寺」の「本堂」。永昌山戒寿院専福寺・浄土宗鎮西派。扁額「専福寺」。「専福寺永正元年(一五〇四)僧久悦が創建の浄土宗のお寺です。本寺の阿弥陀三尊像は高村光太郎の祖で江戸時代の仏師・高村東雲の作です。文化三年(一八〇六)ごろ俳人小林一茶が初恋の人の菩提を弔うために何度か訪れたといわれます。墓地には東叶神社の芭蕉碑を建立した俳人福井貞斎とその娘・福の墓があり、浦賀の俳人達にはゆかりの深いお寺です。本堂の脇には浦賀町長を務めた廻船屋川津屋太田又四郎や浦賀畸人伝にその名をとどめる桐ヶ谷善兵衛等の墓もあります。 浦賀行政センター協働事業・浦賀探訪くらぶ掲示より」「阿弥陀三尊(高村東雲作)」。「動物供養塔」。「洗心念佛」と台座に刻まれた石仏。石仏に近づいて。「水かけ観音」。「水かけ観音さま観音さまに水を流して浄めると病も心の汚れも流されて守られ清く美しい姿になります 住職」「一茶の句碑」。一茶の初恋の人の墓地があって、一茶は少なくとも1回、文化3年(1806、一茶44才)6月に墓参りに専福寺を訪ねています。なお、市内佐島にも同名のお寺があります と。『遠き想い出のひと寿女の碑夕立の 祈らぬ里に かゝるなり 一茶』六月一日金谷から船に乗り浦賀に渡りその人の祥月命日の六月ニ日に墓参するためだ 一日晴 浦賀ニ渡ル 白毛黒クナル薬クルミヲスリツブシテ 涼風も けふ一日の 御不二哉 二日晴 夜雨 夕立の 祈らぬ里に かかるなり 三日晴 東浦賀州崎町専福寺ヘ参ル 香誉夏月明寿信女 天明二[年]六月二日没 文化三年一茶旅日記より」「小林一茶の初恋の人"寿(ひさ)”のお墓は山際にあったと言われていますが・・・一茶の合掌する姿が目に浮かんでまいります。 住職」「無縁塚」。多くの石仏が並んでいた。裏山の擁壁の下に墓地が拡がっていた。「永代供養塔」。「聖観音立像」か?正面から。ズームして。台座には「永遠の郷」と。「永代供養塔」と。本堂の脇には、浦賀町時代に町長となった回船問屋川津屋の太田又四郎の墓碑があった。「寺務所」。「寺務所」の玄関。見事な彫刻。再び境内入口を見る。大きな石碑が二基。「陸軍工兵一等兵 勲八等功七級 二木本松蔵碑」。「橋本䞾之碑」石仏(左は延宝5年(1677年)銘、右は元文2年(1737年)銘)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.04
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「東林寺」の「本堂」内をガラス越しに。ズームして。本堂の正面に本尊「阿弥陀如来」が安置されていた。さらに。実はこの阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊ということになるのだ と。「延命地蔵尊」。こちらはネットから。こちらの「延命地蔵尊」の仏師等は不明だが、本尊阿弥陀如来坐像の腹籠仏として納められた三尊仏と同時代のものと考えられるとのこと。「天水桶」前の「仁王像」(左)。「天水桶」前の「仁王像」(右)。「永代供養の塋(つか)」と。「浦賀山 雲上殿」とも。「忠魂碑」碑正面:「忠魂碑 陸軍大将正二位勲一等功二級侯爵 大山巌書」と。この碑は元々、愛宕園(愛宕山公園)に日清戦争の戦病死者の忠魂のために明治30年3月に建立されたものである。関東大震災により碑は倒壊したが、昭和初期(御大典記念として昭和3,4年頃と推測)に高坂小学校校庭に移された。戦後の混乱で引き倒され放置されていたのを、昭和24年3月に井上亀之助が小学校裏山に立て直したが、その際、碑の両側に昭和になってからの戦没者も併せ慰霊するために昭和事変英霊の碑を建立した。その後、昭和38年10月15日に、現在地に移された。建立当初に合わせ建てられていた建設発起人の碑は、現在は忠魂碑の裏にある。なお、忠魂碑左手には、碑の再建に尽力した井上亀之助顕彰の碑が建てられている と。「忠魂碑」の両側には昭和事変英霊の碑、背面に重なるように「忠魂碑建設発起人碑」があった。卒塔婆には「十夜回向一会為旧浦賀地区出身の諸英霊位追善菩提 当山・・」と。六地蔵。墓地を散策する。墓地の外壁には天女が描かれていた。左の墓石には「南無阿弥陀佛 中興 練誉上人」と。ズームして。劣化が進んでいたが。こちらには、蓮の花が。ここには、無縫塔の墓石が並んでいた。ズームして。相輪の部分が、花を重ねたが如くの宝篋印塔の墓石。「延命地蔵塔」。再び「本堂」、「水子地蔵尊」を振り返る。墓地入口付近には、浦賀奉行所与力であった中島三郎助親子の墓があった。三郎助は明治維新の際、あくまで幕臣としての意志を貫き、函館千代ヶ岱台場で父子ともども戦死した。時に49歳。しかし、浦賀に残した足跡は、まことに大きいものがあるのだ。俳人としても有名で、俳号を「木鶏」といいます。いまは父子共々、浦賀港を一望するこの高台に眠っている。毎年5月に、ここで三郎助の墓前祭が執り行われているとのこと。右側に墓石が二基。手前が「中島三郎助墓」。1821(文政4)年、相模国浦賀奉行所与力中島家生まれ。1849(嘉永2)年、浦賀奉行与力となり、アメリカ・ペリー艦隊来航時に、アメリカ側使者の応対を勤めた。1855(安政2)年、長崎海軍伝習所の第一期生となり造船学・機関学・航海術などを修め、築地軍艦操練所教授方出役に任命された。その後、与力の職を長男恒太郎に譲ったが、戊辰戦争勃発後に、榎本武揚らと蝦夷地に渡り箱館戦争に参戦した。蝦夷地仮政権で箱館奉行並・砲兵頭並を務め、千代ヶ岡陣屋守備隊長として奮戦した。新政府軍の攻撃にも陣屋で抵抗したが、6月25日(旧5月16日)に、長男恒太郎・次男英次郎・腹心柴田伸助らと共に戦死した。享年49歳。左隣には次男「中島英次郎墓」中島三郎助の次男。房次郎ともいう。父と兄恒太郎とともに箱館戦争に参戦し、千代ケ岡陣屋の守備隊に就いた。1869(明治2)年6月25日(旧5月16日)、新政府軍の攻撃に対して奮戦したものの、父や兄とともに壮烈な戦死を遂げた。享年19歳。「中島三郎助」親子の写真をネットから。正面に「中村家累代之墓」。「本堂」の右・南側にあったのが「寺務所・庫裡」であっただろうか。白壁が美しかった。廻り込んで。玄関右手にも、南無阿弥陀佛碑と石仏。白壁、竹垣、新緑そして紅葉とのコラブ。新緑と紅葉をズームして。本堂の屋根には「卍」が。そもそも「卍」は、サンスクリット語で「スヴァスティカ」と呼ばれ、吉祥の印として、「幸せ」や「めでたい」という意味があります。また仏教ではこの卍紋様は仏様を象徴する印の一つとされています。寺院の建物をよく見ると色々なところに卍紋様が彫刻されているのはこのためです。地図記号に卍が用いられているのは、仏様がいる場所を示す意味を込めてこの記号が使われたということです。また、この卍が右に回っている事も重要なポイントです。仏教では「右」をとても尊重して考えています。ちなみに仏様の髪の毛なども全て右回りに巻いています。その反対に左に巻いてあるものはつむじ曲がりといい、あまり良い意味で使われていないのです とネットから。坂を下り、「東林寺」そして「三浦稲荷社」の境内を振り返る。こちらが「三浦稲荷社」の参道。参道石段下の石仏。右は元禄7年(1694年)銘。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.03
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次に訪ねたのが「三浦稲荷社」。横須賀市東浦賀2-10-13。「三浦稲荷社」への参道の石段の手前にあったのが隣にあった「浄土宗 浦賀山 東林寺」の掲示板。「三浦稲荷社」は東林寺の境内に鎮座する稲荷社のようであった。「南無阿弥陀佛」と刻まれた六字念仏塔の碑。「深本、雷電、三浦稲荷社南無阿弥陀佛と刻まれた六字念仏塔祐天寺六世祐全(ゆうぜん)上人による名号(みょうごう)石塔で、江戸屋半五郎によって建立されました。名号の掘りも深く、半五郎の信仰の深さがうかがわれます。半五郎は浦賀で遊郭を営み繁盛していましたが、後にすべての財産を処分して遊女たちに分け与えて開放してやりました。自らは京都青龍寺で得度し、生き仏といわれた徳本上人の弟子深本(しんぽん・深心(しんしん))となり仏門に帰依しました。「浦賀事績考」によれば東林寺境内の稲荷前では文化六年(一八〇九)、当時の花形力士の雷電為右衛門(らいでんためえもん)の相撲興業が行われたと記されています。三浦稲荷社の稲荷神は倉稲魂(うかのみたま)で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」深本が寄進した西叶神社手洗石と雷電(相撲博物館)。「浦賀事跡考」によれば、東林寺境内の稲荷前では文化6年(1809)、当時の花形力士の電電為右衛門の相撲興行が行われたと記されていると。三浦稲荷社の稲荷神は、倉稲魂で五穀豊穣、開運出世、商売繁盛の神。浦賀駅の近く、住友重機械工業㈱の浦賀工場の壁にあった、浦賀中学校の生徒による絵画を想い出したのであった。「三浦稲荷社」の左側には寺号標石「浦賀山立像院東林寺」。「三浦稲荷社」の石鳥居。社殿に向かって進む。社殿前の参道は駐車場にもなっているようでで、広々としていた。手水鉢。社殿の見事な彫刻。よく見ると、正面には一匹のお狐様のお姿が。木鼻(右)。木鼻(左)。扁額「三浦稲荷社」。内陣。「正一位三浦稲荷大明神」。社殿を斜めから。社殿前から石鳥居方向を振り返って。隣りにあったのが、「東方寺」の巨大な石灯籠。鹿の姿が。ズームして。そして「東林寺」の本堂に向かって石段を上って行った。参道石段脇の「延命地蔵願王尊」。三浦三十八地蔵尊霊場35番札所の御前立地蔵。小さな石仏も奉納されていた。「念佛衆生 攝取不捨」と刻まれた石碑も。仏がこの世の衆生しゅじょう、生きているものすべてを見捨てず、仏の世界に救い上げること。▽「摂取」はその慈悲心で衆生を仏の世界に救うこと。 「不捨」は仏がどのような生き物をも見捨ててしまうことはないということ と。「光明徧照 十万世界」と。大意は、「(阿弥陀仏の体から放たれる)光はあまねく十方世界を照らし、仏を念ずる衆生を救いとって見捨てることがない」と。浄土三部経の一つ『観無量寿経』に「一々光明、遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨(一つ一つの光明があまねく十方の世界を照らして、念仏する衆生を捨てられることがない)」と出ていて、浄土宗では普段のお勤めの時に、その文句が唱えられているとのこと。左側にあった歌碑。三浦三十八地蔵尊霊場35番札所の御詠歌か?「慈悲のうみ ちりひの船を 浮かべつつ いく世よまでも 救ふとうとき」参道石段横の御堂。シャッターには??が描かれていた。本堂の前にあった観音像の絵。龍に乗った観音様の姿か?「徳川家康遺訓人の一生は重荷おもにを負をひて遠き 道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし こころに望のぞみおこらば困こん窮きゅうしたる時を思ひ出いだすべし 堪忍かんにんは無事ぶじ長久ちょうきゅうの基もとい いかりは敵とおもへ 勝事かつことばかり知しりてまくる事をしらざれば害がい其その身みにいたる おのれを責せめて人をせむるな 及ばざるは過すぎたるよりまされり」こちらにも別の絵が。観音様か?近づいて。本堂と向かい合うように石碑が。「井上亀之助顕彰の碑」卒塔婆には「旧浦賀町出身戦死病没諸英霊位追善菩提井上亀之助(井上祐一)」と。碑正面:「井上亀之助氏顕彰碑およそ、人の真価は事ある時に顕われる。意志の人、勇気の人、義侠の人、それは故井上亀之助氏その人である。戦後進駐軍の占領政策は厳しく教育の場から忠魂碑をも奪った。しかし、これを顧みる余裕すらなかった当時の世情こそあわれという外はなかった。放置された忠魂碑、これを見るに忍びず井上氏は私財を投してこれを弁天社に移した。さらに参詣者の便をはかり再びこの境内に移して英霊を守り通したのである。今は亡き井上氏しかし氏の義挙は生きている。いや、いつまでも不滅であろう。われわれは祈る。英霊永えに安らかなれと。昭和三十八年十月十五日 建設委員會建立」左手の石仏には、延宝8年(1680年)の銘が。こちらに水子地蔵尊が。「水子地蔵尊」。お顔をズームして。「本堂」。寺誌によれば、開山は唱阿上人。しかし、『新編相模国風土記稿』には、「いにしえは今の寺院を分ち唱へて二ケ寺なりしを大永三年(1523)僧良道合わせ一寺とす、故に此僧を開山と称す」とあると。本堂の正面に本尊「阿弥陀如来」が安置されていた。実は、この阿弥陀仏の胎内にある、もう一体の阿弥陀仏が本当の本尊ということになるとのこと。更にこの脇に、もう一体阿弥陀仏が安置されていると。この仏像は「善光寺式阿弥陀仏」といわれ、長野県善光寺の本尊を模して造られたもので、室町時代初期の作風をよく顕しているということで、市指定の文化財になっています。本尊の阿弥陀仏と善光寺式の阿弥陀仏を見比べると、阿弥陀仏の作風の変遷が見られます と。また、鎌倉時代の作といわれる市指定の重要文化財「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が保存されている と。近づいて斜めから。正面から。蟇股の装飾。木鼻(右)。木鼻(左)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.02
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ここ、明神山一帯は浦賀城址と云われている。小田原北条早雲が三浦一帯を領した頃、房総半島・里見水軍の度々の攻撃に備え、浦賀水道に面し港のある明神山に三崎城の支城として、16世紀後半(天正~慶長初期)に3代北条氏康(2代氏綱の嫡男)が水軍を配置した浦賀城を築城した と。先には現・住友重機械工業(株)の「浦賀船渠(株)殉職員慰霊塔」があった。近づいて。「為浦賀船渠株式會社殉職貟」住友重機械工業株式会社の前身である浦賀船渠(ドック)により大正9年に、この明神山々頂に建立されたものである。会社関係で先の大戦又不慮の事故等により亡くなられた308柱の御霊をおまつりしている。毎年10月には会社幹部の方々、ご遺族代表、地元関係者参列の下、慰霊祭が執り行われているとのこと。「浦賀船渠㈱」の社章であろうか?URAGA DOCKか?そして「浦賀船渠(株)殉職員慰霊塔」の裏、山頂の南端からは「浦賀水道」の絶景が拡がっていた。「浦賀城址戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。水軍の根城として山頂には空掘など城の遺構が残り、下田山・城山とも呼ばれていました。昔から眺望の素晴らしい所で対岸に房総半島、正面に浦賀八勝の一つ燈明堂が見られます。この明神山は自然の社叢林で県の天然記念物に指定されたウバメガシ分布の北限とされています。嘉永六年( 一八五三)ペリーの黒船四隻が浦賀沖に来航した時、眼下の左辺りに停泊しました。下の絵は安藤広重の武相名所の旅絵日記の五六景の一枚です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」広重の旅絵日記よりそして前方の眼下に見えたのが先日訪ねた「浦賀燈明堂跡」が見えた。上の安藤広重の広重の旅絵日記からすると◯あたりが、黒船の一隻・プリマス号が停泊していた場所か?ズームして。慶安元年(一六四八)幕府の命でつくられた日本式の灯台である燈明堂は明治五年(一八七二)までその役割を果たしたのだと。写真右の双子の山は房総丘陵の山の一つである「富山(とみさん)349.5m」である。「南総里見八犬伝」の始まりとなった富山。2つの峰からなる双耳峰で、標高は北峰(金毘羅峰)が349.5m、南峰(観音峰)342.0m。写真中央が「鋸山 標高329m」。「浦賀城から見た房総」。「浦賀城イメージ図」をネットから。浦賀城について「南郭」から「奥の院」方向を見る。明神山の上には土塁や帯曲輪らしきものもあったが、勝海舟関連の社や石碑などでかなりその地形は改変されているように思えたのであった。そして頂上から産霊坂(むすびざか)の石段を下る。拝殿の右の社殿近くにあった石碑には???石灯籠??「東叶神社」の「社務所」。「浦賀城」の御城印。そして「東叶神社」を後にして、来た道を引き返す。「横須賀古道散歩」案内図。「横須賀古道散歩「横須賀古道散歩」は横須賀市内を通っていたと伝えられる古代の東海道や中世の鎌倉道近世の浦賀道を古刹や古い地名をたよりにたずねる散歩道です。コースはしょうぶ園から衣笠駅付近を経て京急大津駅までの「古東海道ゆかり散歩」と京急大津駅から浦賀駅前を経て一方は東叶神社へ、一方は燈明堂へいたる「浦賀道ゆかり散歩」の2コースです。」そして次の目的地の「法憧寺(ほうどうじ)」に向かって東浦賀2丁目の住宅街を進む。右に折れ、前方の石段の上・東浦賀の海を見下ろす高台にある「法憧寺」に向かう。石段を上って行った。墓地が見えたが、隣の家は住職のご自宅なのであろうか?南側の墓地を見る。多くの石仏のお姿が。「無縁塔」と。そして「法憧寺」の「本堂」が浦賀湾に向かって建っていた。円城山宝珠院法幢寺・浄土宗鎮西派の寺。横須賀市東浦賀2丁目16−20。「法幢寺明応2年(1493)に、大本山鎌倉光明寺第八世の観誉祐崇上人によって開かれたお寺です。上人は浄土宗でお十夜法要を始めた人です。本堂には、恵信僧都(942~1017:往生要集を著し浄土教の基礎を築いた)の作といわれる、阿弥陀三尊像が安置されていおり、像の高さは約1mあります。薬師如来は、眷属(付き従うもの)の十二神将とともに本堂に安置されています。山号の円城山は、永正15年(1518)三浦一族を破り、この地を領した後北条氏が房州の里見氏に対する備えとして築いた浦賀城の一廓であったことを物語るものです。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「十二神将」。向拝の見事な龍の彫刻。ズームして。木鼻(右)。木鼻(左)。本堂にはこの一帯が浦賀城一廓だったことを物語る山号の扁額「圓城山」。軒下の小壁には岩田辰之助・徳太郎兄弟が大正15年(1926)に手掛けた魔除けの神獣をテーマにした合作鏝絵「牡丹に唐獅子」が遺されていた。鏝絵「牡丹に唐獅子」(右)。牡丹に岩上の一対の唐獅子が鞠と紐に戯れる図柄を、二間の壁面にわたり連続画的にレリーフ状に表現している。唐獅子頭に玉眼(ガラス玉)を嵌入。中央下段に銘文があり、「奉納/大正十五年/九月廿八日/岩田徳太郎/岩田辰之助」とある白漆喰仕上げ、一部彩色。ズームして。唐獅子頭に玉眼(ガラス玉)を嵌入。鏝絵「牡丹に唐獅子」(左)。ズームして。墓石には「故陸軍兵長桐ヶ谷信雄之墓」と。墓地の奥には多くの墓石が並ぶ。正面に立派な墓石が。「鍋洲累世之墓」と。ズームして。墓地の高台から浦賀湾を望む。「愛宕山公園」と浦賀湾に停泊する砂・砂利運搬船を見る。移動してズームして。奥にあった墓石は歴代住職の墓地であっただろうか。歴代鈴木家の墓。「鈴木累世墓」と。「南無阿弥陀佛」碑。これも無縁塔か?錫杖を持つ石仏。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.01
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東浦賀にあった「東叶神社」の散策を続ける。石段を上り終えると狛犬(右)が迎えてくれた。狛犬(左)。「東叶神社」の「拝殿」。近づいて。「本坪鈴」が2本。正月の初詣時は2本の長い列が出来るのであろう。扁額「叶神社」。「拝殿」の右側にあった「社」の名は?近づいたが何もなく。拝殿と直接繋がっていたが。叶神社の学業成就祈願の「絵馬」。菅原道真公か?「諸願成就」は「叶」と。「開運招福」は「昇り龍」。「拝殿」前から浦賀湾を振り返る。対岸には「西叶神社」があるのだ。「拝殿」の左側から標高約50mの裏山・明神山の石段を登って行った。右側にあったのが「神輿庫」。大きな神輿が納められていた。「恵仁志坂(えにしざか)」道標。古来より東叶神社には、二つの坂があり縁結びにご利益があるとされている と。叶神社の拝殿から奥の院に登る階段で、夫々名前がついていた。恵仁志坂(えにしざか):拝殿脇から中段までの坂産霊坂 (むすびざか):中段より頂上に向かう坂恵仁志坂(えにしざか)の石段を上る。朱の社は「湊稲荷社」。内陣を見る。「社叢林この林は長い間保護されてきた・・・・・・・・このあたりはタブノキやシロダモなどの多いイノデータブ群集と呼ばれる常緑広葉樹の林となっており、県指定の天然記念物です。」「風致保安林 設置 昭和五十三年度 神奈川県知事」と。石段の途中、左側にあったのが「芭蕉句碑」。「拝殿前から恵仁志坂を登ると、すぐ左手の樹蔭に浦賀港を見下ろすように自然石の碑が立っている。碑面の上部には篆額「正風宗師之碑」が刻まれ、建立者福井貞斎の筆で、「丹(に)よ起(き)丹よ起と帆はし良(ら)寒き入江哉(かな)」の句が彫られている。この句「にょきにょきと帆柱寒き入江かな」は元禄9年(1696)版の『反古集』(遊林編)に芭蕉の吟として載せられているものである。若き日の芭蕉(松尾桃青)が、郷里伊賀上野の天満宮に『貝おほひ』(句集)を奉納して江戸に下ったのは、寛文12年(1672)のこと。そして江戸深川にある門弟杉山杉風の生簀の番小屋に居を移したのは延宝8年(1680)、その翌年ある門弟から芭蕉一株を贈られてから、その居を「芭蕉庵」と呼び、門人たちは芭蕉翁と尊んで呼ぶようになった。その芭蕉が『野ざらし紀行』(『甲子吟行』)で知られる故郷への旅に出たのは貞享元年(1684)、それ以後は「片雲の風にさそはれて漂白の思ひやまず・・・」と自ら記している通り、『鹿島紀行』・『芳野紀行』・『更科紀行』の旅から『奥の細道』の旅へと、じっとしていられなかった詩人の心情が汲みとられるような流浪の生活が続けられている。これらの点から総合すると、芭蕉が浦賀に来て例の句を吟じたのは、彼が江戸に下った寛文12年(1672)から、故郷への旅に出た貞享元年(1684)までの間ではなかろうか。この碑が東岸の叶神社の境内に建てられたのは、天保14年(1843)冬のことで、浮世絵版画家初代安藤広重が浦賀を訪れて風景版画「日本湊尽」シリーズの「相州浦賀」の雪景色を、やはり東の叶神社の境内から描いたのと、ほぼ同じ頃と思われる。この碑の建立を記念して「四時富士句合」がおこなはれ、富士に寄せた句が最後に寄せられている。祖翁の碑をいとなみて不二晴れよ 翁まつりの茶振舞 企 貞斎涼しやや 水にすはらぬふじの影 校合 梅薫《注》梅薫とは、建立者・俳人福井貞斎の娘である。碑の篆額に刻まれた「正風」とは、安永・天明の頃(1772~1789)の俳壇で呼ばれた語で、芭蕉一門の俳風、即ち「蕉風」のことである。また「宗師」とは、第一位の師匠のことだから「正風宗師」とは当然芭蕉を指したものと思われる。「富士句合」の最後に「祖翁」とあるのも、やはり芭蕉のことであろう。ただし、一説によれば「にょきにょき」の句は、北村湖春(北村季吟(寛永元年(1624)~宝永2年(1705))の子)の作ともいわれるが、その辺の考証は定かでない。北村季吟は江戸前期の古典学者で、和歌・俳句を良くし、若い頃の芭蕉は季吟の門に俳諧を学んだことがある。なお、この「にょきにょき」の碑の建立者であり、かつ俳人でもあった福井貞斎(寛政3年(1791)~明治3年(1870))は竹弄舎と号し、仙台の産であるという。その墓は東浦賀専福寺にある。」とネットから。さらに急な石段を上って行った。人の姿はほとんどなかった。石段を上ると、さらに石段の姿が。ここから先が「産霊坂(むすびざか)」。「勝海舟断食の碑万延元年(一八六〇)、日本で初めて太平洋横断を成しとげた咸臨丸の艦長格・勝海舟は、航海前に、東叶神社の井戸で水垢離をした後、 裏山の山頂で断食をしたと伝えられています。過酷な冬の太平洋を初めて航海するにあたり、船玉明神を祀る叶神社に、航海の安全を切実な思いで祈願したと思われます。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「咸臨丸(鈴木勇次郎画)」。「産霊坂(むすびざか)修築記念碑此の坂を産霊坂と言ふ 七百有餘年前の築造にして遠き昔を偲ばしむるものありしが豪雨のため崩壊して遂に参拝の道を失ふに至れり依りて氏子相議り浦賀船渠株式會社を始め敬神諸家の賛同を得て大正拾年七月三日修築の工を起し同年拾月二日工全く成れり」頂上に向かう坂道・産霊坂(むすびざか)の石段を休み休み上って行った。苔むした石垣も美しかった。石段下の右手にあったのが「産霊坂(むすびざか)」道標。そして漸く標高約50mの裏山・明神山の山頂に到着。まずは「神明社」。小さな社殿に近づいて。祭神は天照大御神。そして緑に塗られた石碑は「勝海舟断食之跡昭和五十三年五月吉日 横須賀市長 横山和夫」と。「勝海舟断食之跡万延元年(1860)、時の幕府は日米修好通商条約批准交換のため米国軍艦ポーハタン号随行船としての咸臨丸の 船将に任命された勝海舟は壮挙に先立ち当社を訪れ太平洋横断公開の一路平安について叶神社の加護を記念し併せて事故の精神的肉体的荷重等の克服を謀るため社内にある井戸水で 潔斎水垢離を済ませ修行用の法衣に心身を整へ千古鬱蒼とした樹林に囲まれた輿の院の社前のこの場所を選んで座禅を組み断食修行を行ったのである。 叶神社」そしてこちらが「東照宮」。「東照宮」に近づいて。「奉獻御寶前」と刻まれた石碑。「神や仏の御前に奉納する」の意と。そして「本殿(奥の院)」近づいて勝海舟は、咸臨丸ての渡米前に、ここ本殿(奥の院)が祀られている東叶神社の裏山て断食修行をしたと伝えられている。太平洋横断とアメリカ視察を、命がけで臨もうとした海舟の決意が伝わるエピソード!!。現在、海舟が断食修行したとされる場所には、昭和期に建てられた記念碑が残っていた。また、東叶神社には、勝海舟が断食修行の際に使用されたとされる井戸が残る他、修行の際に着用した法衣が保存されているとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.31
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「東渡船場」で「愛宕丸」から下船して、乗船した浮き桟橋(西渡船場)を振り返る。「東渡船場」の入口にも「浦賀の渡し」と。入口の左側には石柱と案内板が。「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」ここ、神奈川県横須賀市の「浦賀の渡し」付近にある旅館・徳田屋跡の石碑。幕末の思想家・吉田松陰と佐久間象山が徳田屋で面会を行なった歴史的事実があるとのことで「吉田松陰・佐久間象山 相会処(徳田屋跡)」と石碑に刻まれていた。「徳田屋徳田屋は江戸時代から明治・大正期まで続いた浦賀を代表する旅館です創業は明らかではありませんが、寛政の改革を行った松平定信が相模・伊豆の沿岸を視察した折に宿泊したという記録からすると、1700年代の終わり頃 には存在したことがわかります。しかし、正式に旅宿(御用御宿)となったのは文化8年(1811)3月のことであり、これが浦賀の旅館の始まりです。ペリーが来航した嘉永6年(1853)6月には黒船を見聞するために吉田松陰が二度目の宿泊をして、ここで佐久間象山と会っています。これより前の、安政2年(1855)には、木戸孝允(桂小五郎)が浦賀奉行所・ 与力中島三郎助に造船技術の教授を得るために来訪した折に泊まっています。数多くの武士や文化人が徳田屋に宿泊し、ここから日本を見、世界を見て時の移り変わりを認識して、近代日本が誕生したことを考えると、徳田屋の果たした役割は大きかったことが分かります.その徳田屋はこの東浦賀の地にありましたが、大正12年(1923)の関東大震災の際に倒壊して姿を消しました。 横須賀市文化スポーツ観光部」「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」はこの建物のあった場所に。この建物は震災後に建てられた建物のようであった。ネットからの下記の写真には、上記建物の前に石碑と案内板があったようだ。「東渡船場」を振り返って、乗って来た「愛宕丸」を見る。「東渡船場」入口近くに置かれていたこの象と女性像のモニュメントは??「東渡船場」近くにあった「ELMAR URAGA TERRACE CAFE」が客呼び用に置いたものか。次の目的地の「東叶神社」に向かって南に進む。左にあったのが「洲崎町内会館」。横須賀市東浦賀2丁目11−20。「州崎 (地名の由来)東浦賀町2丁目のこのあたりを洲崎といいます。その地形からわかるとおり、浦賀湾にふっくらと張り出した洲の先頭部ということに由来します。洲崎の山の手には 江戸時代の初期に三浦按針(ウイリアム・アダムス)の屋敷があり、按針が勧請した社があったと記録されていますが、その場所は分かっていません。この近くの東叶神社の裏山は、戦国時代の1556年、三浦半島が房総の里見軍に攻められたため、北条氏康が築城したといわれる浦賀城があった所です。この城は、後北条氏時代の三浦半島水軍の根城でした。山頂は平坦で、東京湾と対岸の房総半島が一望できます。浦賀奉行所与力・中島三郎助と子の墓が東林寺にあります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探検くらぶ」その先右手にあったのが「新井町内会」と書かれた建物。横須賀市東浦賀 2-20-1。この倉庫は?民家のものか?そして正面に「東叶神社」の境内が現れた。「現在地」はここ。「浦賀湾」方向に廻り込むと「叶神社」案内板が。「叶神社祭神 應神天皇(誉田別命)由緒 養和元年(一一八一)辛丑年八月十五日京都高雄山神護寺僧文覚祈願奉勅命石清水八幡宮ヲ 勧請ス 夫ヨリ文治二年丙午年源頼朝公一事創業ノ際願意成就ノ意ニ基キ叶大明神ト尊称シ奉ル 叶神社 祭事 一月一日 歳旦祭(さいたんさい) 二月節分 節分祭(せつぶんさい) 二月十七日 春祭(祈念祭) 六月三十日 大祓式(おおはらえしき) 七月十八日 身代り弁天例祭 九月十五日 例大祭 十一月二十二日 秋祭(新嘗祭) 十二月三十一日 大祓式 東 叶神社々務所」参道正面入口。社号標石「叶神社」。「日西墨比貿易港之碑」「日西墨比貿易港之碑👈️リンクMonument of Trade between Spain・Mexico・Manila via Uraga慶長3年(1598)、徳川家康はスペイン(西)領メキシコ(墨)から新製錬技術を導入するため、スペイン領マニラ(比)からメキシコのアカプリコ港へ向かうスペイン商船(ガレオン船)を浦賀湊に寄港させるよう交渉した。そのため、慶長5年に上陸した英人ウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)を顧問とし、江戸邸のほか三浦郡逸見村の采地と浦賀邸を与えた。三浦按針はマニラにも渡海し浦賀貿易再開のために尽力した。江戸・浦賀・静岡・伏見・大坂にはフランシスコ会修道院が創設され、浦賀洲崎にはスペイン人を保護する高札が立てられた。この浦賀貿易を管轄していたのが船奉行向井将監忠勝である。浦賀湊には前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビペロ・イ・アベルサやメキシコ国王の使節セバスチャン・ビスカイノが訪れ、三浦按針建造のブエナ・ベントゥーラ号はロドリゴの帰国のために提供され浦賀を出帆し、幕府船として初めて太平洋航路横断を果たした。伊達政宗の遣欧船サン・ファン・バウティスタ号もスペイン国王使節ディエゴ・デ・サンタ・カタリナを乗せ入港している。三浦按針の母国との通商成立は来日から14年目であり、その3ヶ月後の慶長18年12月全国にバテレン追放令が公布された。元和2年(1616)貿易港は長崎・平戸に限定され、三浦按針が平戸への移住を余儀なくされるまで、浦賀は長崎と並ぶ東国唯一の国際貿易港として重要な役割を果した。2019年4月吉日 建碑発起人 浦賀湊を世界文化遺産にする会撰 文 日本海事史学会 鈴木かほる建碑賛同人 東叶神社氏子会寄付者一同(裏面に記載)施 工 石平石材店 <注>裏面」右手に「手水場」。その脇にあった「昭和五十二年市制施行七十周年記念横須賀風物百選東叶神社祭神は、京都の石清水八幡宮と同じ応神天皇(第15代の天皇)です。この神社は、養和元年(1181)8月15日、高雄山神護寺の僧文覚が、源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶ったことから叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。神社の裏山を明神山と呼び、標高は約50メートルです。後北条氏の頃、しばしば房総半島の里見水軍が、三浦半島に攻撃をかけてきましたので、それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、その左手に「勝海舟断食の場」の標柱が立っています。明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。特にウバメガシの自生は、県内でもこの明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。この学術的に貴重な明神山一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。」手水鉢には「灌洗(かんせん)」の文字が。「灌洗(かんせん)」とは「そそぎ洗うこと」。龍の吐水口(とすいこう)をズーム。そして「力石」が二つ。境内右手、水手舎の傍らに久助・十吉等、当時の怪力の名が刻まれた楕円形(40~60㎝)の力石が奉納されていた。「神奈川県指定天然記念物叶神社の社叢林 昭和五十一年十二月十七日 東浦賀町二丁目五十九番一他浦賀湾の東岸丘陵の突端斜面に位置する叶神社の社林は、標高53mの山頂まで見事な常緑広葉樹林で被われている。山頂部付近はスダジイ・マテバシイ林で占められ、一方斜面部はタブノキ林で被われている。高木層は、樹高20~22mのタブノキが優先しており、亜高木層はモチノキ、シロダモ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、イヌビワが生育している。低木層には、トベラ、アオキ、ヤツデ、オオバグミ、ムラサキシキブなどが見られる。林床に出現する植物の種数も多く、キヅ夕、テイカカズラ、ビナンカズラ、ヤブラン、キチジョウソウ、ツワブキ、イノデ、ベニシダ、オオバノイノモトソウなどが生育している。神奈川県はもとより、関東地方でも珍しく自然度が高く安定した郷上林を形成している。三浦半島沿岸部に残された数少ない自然林として学術的な価値も高く、天然記念物として指定されたものである。また、叶神社の裏山一帯は、浦賀城跡といわれており歴史的にも貴重なところである。 令和三年九月 横須賀市教育委員会」境内の巨大なご神木・銀杏も新緑に輝いていた。石段の上に拝殿の姿が。「おみくじかけ」。おみくじを「結ぶ」のでは、神様とのご縁を「結ぶ」為であると。神様とのご縁を結ぶ事によって、物事を良い方向に導いて頂く、という事。もちろん、何事も自らの努力が大切ではありますが、それに加え神様とのご縁があれば、それは更に良い方へと向かって行くことになるのだと。「神社参拝の基本作法」案内板。「源頼朝が大願成就したパワースポット叶神社(東)御祭神 誉田別命(ほんだわけのみこと)御利益 心願成就「頼朝に始る武家政権の歴史を支えた神社」養和元年(1181)京都神護寺の僧文覚が源家の再興を発願し、石清水八幡宮を当地に勧請され、もし源氏の再興実現せし折は、永く祭祀を絶たざるべしと祈念したところに始まるとされている。その後、文治2年(1186)には源頼朝公が源家再興願意成就の意を込めて神号を改め、叶大明神と尊称されたと伝えられている。社殿に昇る石段の両脇に植えられている蘇鉄はこの時に頼朝公が縁深い伊豆の地より移植奉納されたと伝えられている。境内に祀られている「身代わり弁財天」は種々の難事の身代わりになると言われており、幅広く多くの方々の信仰を集めている。また、幕未に勝海舟が明神山に籠もって断食修行をした際に使用した井戸が今も境内に残っている。」「叶神社案内略図」。①拝殿 ⑨産霊坂修築記念碑 ②厳島神社(身代り弁天) ⑩勝海舟断食跡③勝海舟禊の井戸 ⑪本殿(奥の院)④不動尊石刻碑 ⑫東照宮⑤神輿庫 ⑬神明社 ⑥湊稲荷社 ⑭住友重機殉職者慰震塔⑦芭蕉句碑 ⑮産震坂(むすびざか)道標⑧惠仁志坂(えにしざか)道標」「縁結び守り「勝海舟 縁の「勝守」御朱印等の案内が窓に貼られていた。」「耀真山永勝不動尊(ようしんざんえいしようふどうそん)の由来明治維新前には、神仏習合といって、叶神社は別当耀真山神寺(べっとうようしんぎんえいじんじ)として古儀真言寐醍醐寺派三宝院に属し、横浜の金沢から三浦半島 全域において、本山格の寺格をもった修験道の寺院を兼ね、歴代の宮司は、同時に真言宗の大僧都、真言修験の大先達を兼ねていました。叶神社には、不動尊が現在もお祀(まつ)りされており、このお不動様の像は嘗ての真言修験の寺院、耀真山永神寺のご本尊とも伝えられています。こちらのお不動様の石彫を通して、耀真山永神寺のご本尊、即ち耀真山永勝不動尊をお参りして頂けます。」拝殿前の石段の右には石仏が安置されていた。不動明王であろうか。段脇右を奥に進むと、鳥居があって、その奥には洞穴があった。「身代り弁天御神徳御祭神 厳島媛命 例祭日 七月十八日東浦賀の産土神である叶神社の境内社として、神秘な岩窟内に祀られる厳島神社はもともと海上交通の安全と戦の勝運を司る神として尊崇されており誠に霊験あらたかであります。 古よりこの弁天様を信仰された人々が海上の遭難や交通事故、はたまた難病などあらゆる不慮の事態に直面し、身命の危機に晒されても必ず弁天様が示現なされて身代わりとなられ災禍からお守り下さったという例には枚挙に暇がありません。 この様な御神徳が三浦半島を始め近郷近在の方々の篤い信仰をあつめております。弁天様を信仰なされて限りなき御神徳を享受されんことを祈念いたします 叶神社々務所」岩窟内に、厳島媛命がお祀りされ、不慮の事態に直面し身命の危機に晒されても必ず弁天様が示現なされて身代わりとなられ、災禍からお守り下さる と。扁額「叶神社 辯天社」岩窟内陣。身代わり弁天の横には、また別の手水石そして龍の吐水口(とすいこう)からか聖水が。「勝海舟 断食修行の折使用の井戸この流水は、右奥にある「勝海舟断食修行の折使用の井戸」から汲み上げている水です。比叡山延暦寺の高僧よりご託宣が伝えられ、この流水を硬貨に掛け流し常に身に着けることにより、弁天様のお力も相俟って、開運と金運のご利益が得られるとされております。流水を掛け流した硬貨を納めるお守り袋を社務所にて五百円で頒布致しておりますので、ご利用下さい。」勝海舟 断食修行の折使用の井戸。近づいて。「勝海舟 断食修行の折使用の井戸」と。拝殿への石段を上ると、途中踊り場の右側にあった「蘇鉄」。蘇鉄は、源頼朝公が緑深い伊豆の地より移植奉納されたと伝えられている。同じく左側にあった「蘇鉄」。「この蘇鉄は源頼朝公 源家再興の折 伊豆より移植奉納されたものである」と。さらに拝殿への石段を見上げて。この日は5月3日(憲法記念日)の祝日、日の丸が掲げられていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.27
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「千代ヶ崎砲台跡」の見学を終え、徒歩にて急な坂を下り、「川間隧道」先の交差点に向かって進む。前方に浦賀湾の入口にあるマリーナ・鴨居大室港方向を見る。「特別養護老人ホーム 太陽の家 二番館」の入口が左手に。そして「川間隧道」先のT字路交差点に到着し、ここを浦賀駅方面に向かってこの日も右折する。「シティマリーナヴェラシス(旧川間ドック)」を見下ろす。その先、左手にあったのが「住宅型有料老人ホームハビタスカーマ」。遊歩道には巨大なヤシの並木があった。これも「カナリーヤシ」であろうか?アフリカ西海岸、カナリア諸島原産なのでこの名がある。宮崎県の公式ページによると、病害虫に強く長寿なことから、不死鳥(フェニックス)の名前が付けられたとされるとウィキペディアより。幹径40cm以上になっていた。幹には葉痕が波状の模様になって残っているのであった。5m近く弓状にしなる長い葉を見上げて。旧浦賀ドックをズームして。豪華なプレジャーボートが並んでいた。路面に映り込む不死鳥(フェニックス)の葉の影も美しかった。「特別養護老人ホーム 太陽の家 二番館」の建物を振り返って。「Velasis 浦賀 2番館」。SRC造、地上14階建て、総戸数112戸、2001年5月築の高層マンション。横須賀市西浦賀4丁目11−2前庭にあった錨のモニュメント。さらに不死鳥(フェニックス)の並木の遊歩道を進む。そして「船番所跡」前に到着。浦賀湾の先には、この後に訪ねた「東叶神社」の姿が確認できた。「陸軍桟橋」には多くの釣人の姿が。「船番所跡浦賀奉行所の出先機関で、享保六年から明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。与力、同心の監督のもと「三方(さんぽう)問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が昼夜を通して実務を担当しました。「入り鉄砲出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」」「船番所の模型(浦賀郷土資料館)」。左手の道路沿いにあったのが「よこすか浦賀病院」。旧住友重機械健康保険組合 浦賀病院。1897年(明治30年)に設立された「浦賀船渠」の浦賀工場診療所として大正元年8月1日開設 。昭和19年6月1日 浦賀造船所病院と改称、昭和30年4月4日 浦賀船渠(うらがせんきょ)病院として開設。この日も多くの砂・砂利運搬船が停泊していた。手前に砂、砂利運搬船「三十一勝丸 上天草」。石材・砂運搬船「第十八新幸丸 兵庫県姫路」。石灰石他運搬船「第十八住吉丸 壱岐」。砂・砂利運搬船「第十五大福丸 徳島県徳島市」。砂・砂利運搬船「第二十五郎丸 熊本県 宇城市」。そして「西渡船場(浦賀の渡し)」の待合室に到着。「東渡船場」に停泊中の「愛宕丸」が動き出した。「乗船料」案内板。「【乗船料】料金は船内でお支払いください。・大人 400円(横須賀市民200円)・小・中学生 200円(横須賀市民100円)・未就学者 大人1名につき1名まで無料・ワンデイパス大人 600円・ワンデイパス小・中学生 300円・自転車および大きな荷物 50円渡船場渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」 には、渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認されています。当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。平成10年8月に就航した現在の「愛宕丸」は御座船風のデザインとなっています。この航路は「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっており、東西浦賀を結ぶ渡船は、シンボルの一つです。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀深訪くらぶ」「ご乗船の方はこのボタンを押して下さい ➡️ ●」そして1名の客を乗せた「愛宕丸」がこちらに向かって来た。船頭の半被には「うらがの渡し」の文字が。この日はこどもの日で日の丸の旗2本が。そしてFRP製浮き桟橋の「西渡船場」に到着。浮き桟橋(西とせんじょう)の平・断面図。そして年配の御夫婦と自転車の若者そして私の4名が乗船して、船は渡船場を離れた。私は片道分の400円を船頭に手渡す。チケット等はなし。往復利用する方は、往復分を乗船時に払い、復路用のカードをもらうシステム。自転車は50円を支払っていた。浦賀湾入口方向、そして房総半島を見る。年配の御夫婦。先程見た砂・砂利運搬船を海から見る。房総半島・富山、鋸山の姿が見えた。左手、浦賀ドックの右側には巨大テントが。大型テントで全国を巡業する本格サーカス・エンターテイメント「ポップサーカス」を誘致し、4月27日(土曜日)から6月23日(日曜日)までの期間、浦賀ドックにて「横須賀公演」が開催されているのであった。そして観音崎通り沿いに建つ住友重機械工業㈱浦賀造船所の旧工場の姿をズームして。その先に建つのが「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。巨大テントと浦賀造船所を見る。そして3分で「東渡船場」に到着し下船。徒歩30分を渡し船で3分で。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.26
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「第二掩蔽部」前の露店空間から隧道入口のアーチ状レンガ積みをズームする。そして「第一弾薬庫」への通路を左側に見る。「第一弾薬庫」への通路・交通路(下記)を案内され進む。この附近の見取り図。第四掩蔽部と第一砲側弾薬庫の間に狭い通路があります。見取図から「点灯室」であっただろう。そして階段前、右側奥にあったのが「第一弾薬庫」。部屋の奥は床と天井にそれぞれ2ヶ所に穴が開いていた。近づいて。地下弾薬庫で保管される砲弾は、揚弾井(天井の穴)を通って上階の高塁道に引き揚げられて砲座に運ばれていたと。揚弾井は多くの砲台に残っていますが、1つの弾薬庫に2つあるのはここ千代ヶ崎砲台だけであると。床の穴は砲弾の転倒防止用の穴か。砲弾はこの揚弾井(天井の穴)を通って上階の高塁道に引き揚げられて砲座に運ばれると。「第一弾薬庫」の入口側の壁に3つの小窓が並んでいた。これはランプを置く点燈窓であると。弾火薬庫として使われた部屋の中に火を持ち込まないように、この通路側から点燈窓にランプを置いていたと。さらに、当時はランプが倒れて部屋の中に落ちないようにガラス窓がはめ込まれていたのではないかと。別の角度から。現在はLEDライトが。そして見学者の女性は突然「キャー」と。久しぶりに見る「ゲジゲジ虫」であった。子供の頃ゲジゲジ虫は益虫であると聞いたが。以下のような生き物を食べてくれると。ゴキブリ、クモ、蚊ハエ、ダニ等々をたべてくれると。そして「第一弾薬庫」を後にして、さらに石段を上り、「第一砲座」への「高塁道」を目指す。両側の柵の所が揚弾井の上部であった。「高塁道」から先程の「揚弾井(ようだんせい、天井の穴)」を見下ろす。「第一弾薬庫」の床の穴も見えた。右手、高塁道の先には「第一砲座」の入口が見えた。天井に鉄製のレール(枠?)のような物が残っていた。高塁道の煉瓦の壁にも鉄製のレール(枠?)のような物が残っていた。ここにはレールが壁に沿って設置されており、そのレール上を揚弾井から引き上げた砲弾を転がし「第一砲座」へと移動させたのだと。以下はネットからの転載です「さて、地下弾薬庫からどのように引き揚げて砲座に運んでいたのでしょう?おそらくチェーンブロックのような機器で揚弾井から砲弾を引き揚げて、高塁道に設置された運搬用レールに乗せて砲座に運んでいたのではないかと推測します。史料を見ると「鶴頸揚弾機」や「鏈鎖揚弾機」と言った揚弾機があったようですが、いずれにせよ明治期は電力ではなく人力での操作でした。揚弾の構造を示す史料/書籍がないので想像の域を出ませんが、僅かな史料と遺構の状況を踏まえて、こんな感じだったかなとイラストを描いてみました。あくまで想像なので細かいツッコミはなしで(笑)揚弾井の上に設置されたのは鏈鎖揚弾機で、把手を回せばチェーンが揚弾井を昇降できるようになっています。地下の弾薬庫に下ろしたチェーンのフックに弾提鏈に掛けた砲弾を吊るして引き揚げ、台車に下ろして高塁道側の運搬用レールにスライドさせ、レールの上をゴロゴロ転がして砲座に運んでいた、、、と想像して描きました。つまり揚弾井上部の鉄製のレール(枠?)は歯車(滑車)を設置した跡、高塁道の壁に残る凹みは運搬用レールの設置跡と言うわけです。運搬用レールって正式名称が分からないけど、工場で製品を載せて次の工程に運ぶ時とか、空港の保安検査場で荷物載せて探知機通す時のあんな感じのヤツね(^^;」高塁道の出口から「第一砲座」を見る。運搬用レールから降ろされた砲弾は、おそらく送弾車に載せ替えられて砲座の即用弾薬置場(弾室)に置かれたと。石段上から。1つの砲座に、2門の榴弾砲、砲座は3か所。砲床内径は5.92mであると。砲床には多くの基礎石が並べられていた。此処に設置されていた「日本陸軍 二十八糎榴弾砲」をネット👈️リンク から。「日本陸軍 二十八糎榴弾砲」は、1880年代に大日本帝国陸軍が開発・採用した榴弾砲。旧称は二十八珊砲。主に日露戦争に実戦投入された本砲はその火力を発揮し、日露戦争勝利の大きな立役者として活躍したのだ。「第一砲座28cm榴弾砲を据え付けた場所です。地k上からコンクリートの床面まで約6mの深さがあります。1つの砲座に2門の榴弾砲が設置されました。」砲座の即用弾薬置場(弾室)の横壁から高塁道脇に一直線状に穴が空き、出口の光が確認できた。「伝声管(でんせいかん)」と呼ばれる通話装置であると。直径の小さい管の中では音波は平面波のような状態で伝搬し減衰が少なくなるという原理を利用したと。障害物のない場所での音波の伝搬は距離の2乗に比例して減衰するが、細い管の中を伝搬する場合は音波が拡散しないため減衰を大幅に抑えることができる。このため、伝声管を用いると、障害物のない場所で会話するよりもはるかに遠い場所に音声を伝えることができるのだと。砲座は土塁から堀り込まれた露天になっていて、ここからは外部、つまり目標を捉えることができない。砲台の南北にあった観測所から伝声管を通じて方位・仰角など指示が伝えられ、それに合わせて発砲する仕組みとなっていたのだと。榴弾砲は大きく放物線を描いて艦船の甲板を貫いて弾薬庫や機関等を重要な部分ほ破壊する目的で運用された。残念ながら、現在その観測所の地上施設を確認することはできないのであった。砲座の反対側から、砲座の即用弾薬置場(弾室)と第二砲座に繋がる高塁道を見る。砲弾を立て掛けて置くスペースであったと。「第一砲座」を後にして高塁道を下りて最初の塁道に戻る。そして次は砲座を上から見たのであった。「第三砲座」を見る。振り返ると、「千代ケ崎砲台跡」の受付事務所・展示室が見えた。防衛大学校方向を見る。富士山も姿を表した。「第二砲座」を見る。「第一砲座」を見る。「第1砲座」横から「浦賀水道」を見る。中央の双子の山は「富山(とみさん)349.5m」であると。「南総里見八犬伝」の始まりとなった富山。富山(とみさん)は、房総丘陵の山の一つである。2つの峰からなる双耳峰で、標高は北峰(金毘羅峰)が349.5m、南峰(観音峰)342.0m。展望台からは東京湾を一望できます。天気がよければ雄大な富士山が姿を見せることも。「千代ヶ崎砲台の立地千代ヶ崎砲台は、眼下に東京湾を一望できる標高約65mの山の上に建設されました。要塞建設期(明治時代)に建設された砲台群の中では最も南に位置し、当時の防御線の外側です。28cm榴弾砲が据え付けられた海正面砲台は、東京湾内湾に侵入しようとする艦船と最初に対峙することが想定されていました。対岸の房総半島側は水深が浅く、大型の艦船は三浦半島寄りを航行します。そのため、三浦半島側に集中して砲台が建設されました。大型艦が通行する航路は浦賀水道とも呼ばれ、現在では世界有数の海上交通量を誇っています。」「案内板」の写真をズームして。「要塞建設期(明治時代)に建設された東京湾要塞を構成する放題の配置」。浦賀水道を再び。写真中央が「鋸山 標高329m」。鋸山は、千葉県富津市と鋸南町の境にある標高329mの山で、伊予ヶ岳や鹿野山などとともに千葉県を代表する山のひとつ。良質石材の産地として江戸時代から盛んに採石が行われたことで露出した山肌の岩が鋸の歯のように見えることから、この名前で呼ばれるようになった。大展望の山頂部までロープウェイが運行され観光の山のイメージがあるが、照葉樹の緑濃い森やかつての石切場を整備した道など、歩いてこそ楽しめるポイントがある。また、山中には行基が開創した日本寺や風食洞窟に鎮座する千五百羅漢、高さ約30m・日本最大の大仏像などの史跡もこの山の魅力だ。アクセスもしやすく、登り下りともにJR内房線の駅(浜金谷駅、保田駅)となる。「第二砲座」を振り返る。砂利運搬船であろうか?そして「千代ケ崎砲台跡」の見学を終え、受付事務所・展示室まで戻る。「千代ヶ崎砲台跡 利用案内」。「千代ヶ崎砲台とは千代ヶ崎砲台は東京湾要塞を構成した砲台のひとつで、明治25年(1892年)に工事が始まり、明治28年(1895年)に完成しました。東京湾要塞の中での任務は観音崎の砲台群の側防と浦賀湾前面海域の防御で、対岸の富津元州砲台とともに援助砲台に位置づけられました。千代ヶ崎砲台は、28cm榴弾砲と呼ばれる大口径の大砲が備えられた榴弾砲砲台と小口径の加農砲などが備えられた近接防御砲台で構成されていました。榴弾砲砲台は南北に一直線に並んだ3砲座からなり、その延長線上の北側と南側にそれぞれ左翼観測所と右翼観測所が配置されていました。各砲座には28cm榴弾砲を据え付けた砲床が2つ置かれ、3つの砲座で合計6門の28cm榴弾砲が備えられました。28cm榴弾砲28cm榴弾砲の砲身は全長約2.8m、最大射程距離は7.8km、砲弾の重量は217kgになります。砲身を水平にして砲弾と装薬を装填した後、砲身を仰角に合わせて発射します。弾道は高く放物線を描き、敵艦の甲板を貫いて、エンジンや火薬庫など艦艇の重要な部分を破壊する狙いがありました。」榴弾砲砲台と近接防御砲台。砲座と地下施設千代ヶ崎砲台の榴弾砲砲座は地表から約6m低い場所に砲床が設計され、周囲はすり鉢状の高い胸墻(きょうしょう)が築かれて大砲を隠していました。敵艦艇からの砲撃による着弾の被害を小さくするため、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部などは砲座間の地下に造られています。砲台の建設千代ヶ崎砲台が建設された土地は、浅く谷が入った細尾根が続く丘陵地でした。砲台の建設にあたっては、丘陵頂部を削平し、地下施設の建設場所を掘削して施設を建設した後に埋め戻し、残土で浅谷の埋め立や土塁などを造成する大規模な土木工事が行われました。建設工事は陸軍工兵第一方面が担当しました。28cm榴弾砲の発射の様子(砲台名不明)。28cm榴弾砲に砲弾を装填する様子(米ヶ浜砲台)。「現代に残る砲台跡昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧軍施設の範囲は農地として民間に払い下げられました。その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所としての役目を終えることとなりました。明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台のふたつの砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の重事施設に関する遺跡としては、日本で初めての指定でした。明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家としての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記憧を未来に語リ継ぎ平和について考えるきっかけとなるのではないでしょうか。海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。なかでも、明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の建設と発展が大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影があります。いずれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎砲台跡が猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」千代ヶ崎砲台跡 平成30年。「現代に残る砲台跡昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧市施設の範囲は農地として民間に払い下げられました。その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所としての役目を終えることとなりました。明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡のふたつの砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の軍事施設に関する遺跡としては、日本で初めての指定でした。明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家としての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記情を未来に語り継ぎ、平和について考えるきっかけとなるのではないでしようか。海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。なかでも、明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の建設と発展が大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影があリます。いすれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎砲台跡が猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」上:海上自衛隊千代ヶ崎送信所時代下:猿島砲台跡「千代ケ崎砲台跡」のスケッチ。「掩蔽部(えんぺいぶ)、弾薬庫、砲座周辺」の模型。28糎榴弾砲 1/35スケール。千代ヶ崎砲台の歴史。「国史跡 東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡千代ヶ崎砲台は、明治25年(1892)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した、東京湾要塞を構成する砲台のひとつです。千代ヶ崎砲台は、建設当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。現在は、横須賀市が管理団体として史跡の公開・活用と維持管理を行っています。」「千代ヶ崎砲台の構造「千代ヶ崎砲台の各施設」。集水と排水の仕組み千代ヶ崎砲台の水の流れには、砲台内部て雨水を集水・ろ過して生活用水を確保するための集水系統と、砲座などからの汚水を砲台の外へ排出する排水系統の2系統がありました。集水系統は、用水など生活用水を確保する貯水所への導水ンステムです。貯水所は塁道の南北2か所で確認され、塁道には貯水所につながる「ろ過下水溝」が埋設されています、ろ過下水溝で簡易ろ過された用水は沈殿池の給水口から導水され、沈殿池からろ過池を経由して、最終的にきれいにろ過されて貯水池に溜められ、生活用水として利用される仕組みになっています。排水系統は、雨水とともに砲座や地下施設などから出る汚水を砲台の外へ排出する仕組みです。貯水所への集水系統と交わらないように設されていました。」地下室に使われた建築資材千代ヶ崎砲台の地下に造られた砲側弾薬庫など諸施設は、脚壁が煉瓦造、天井は無筋コンクリートで造られています。また、柵門への切通しや塁道の露天空間部分の擁壁は凝灰質礫岩という石材で造られています。煉瓦の積み方はイギリス積みと呼ばれる方式です。塁道に面した貯水所や棲息掩蔽部の煉瓦壁は、雨水の帯水を防ぐために物水性の高い焼過煉瓦(焦げ茶色)、直接雨風にさらされない室内や隧道内は普通煉瓦(赤色)を用いるという使い分けをしています。使われている煉瓦は小菅集治監という当時の刑務所に併設された煉瓦工場で造られたもので、桜の花の刻印が押されています。一般公開に先立ち実施した砲台構造体の健全度調査では数か所でコア抜きを行い、煉瓦の脚壁は奥が約75cm、天井を支える側壁が約1.5mの厚さで、コンクリート造のヴォールト天井は最も厚いところで約2mに及びました。コンクリートの強度試験では、現在のコンクリートトンネルに必要とされる強度と同等の数値が得られ、千代ヶ崎砲台の地下に残る諸施設は堅牟な構造物であることが分かりました。」「28糎(センチ)榴弾砲👈️リンク 砲弾模型 原寸」。左:「小菅集治監製」の焼過煉瓦と右:千代ヶ崎砲台跡出土煉瓦にはそれぞれ刻印が。「タウンニュース」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.25
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この日も急な坂道を息を切らせながら上って行ったのであった。そして「国史跡 東京湾要塞跡 千代ケ崎砲台跡」案内板に再会。「文化財説明板」。「国指定史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。東京湾内湾口を防御する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防御が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。築造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。」「東京湾要塞とは日本で初めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一砲台・第ニ砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年( 1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要基」と定め、東京湾要塞と呼称しました。東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。」日本遺産千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミューシアム」のサテライト施設でもあります。千代ヶ崎砲台の構造千代ヶ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2門すっ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。利用場の注意等・公開日 土・日・祝(ただし、12月29日~ 1月3日は除く)・公開時間 9時30分~ 16時30分( 3月~9月) 9時30分~ 15時30分( 10月~ 2月)・史跡内は足元が悪いところがありますので、ご注意ください。・公開工リア以外の場所は、危険なため立ち入りを禁じます。・史跡は国民共有の財産です。構造物を傷つけることや、地面の掘削をすることは禁じます。・地下施設の内部は、市教育委員会認定ガイドと同伴のツアーのみ見学でき、許可のない 立ち入りは禁じます。」そしてこの日は、「立入禁止」札やロープもなく。「柵門」砲台の出入り口。榴弾砲砲台の北東に位置し、凝灰岩に切石を用いた石積み擁壁の壁面には門扉の金具の一部が残されています。」建設当時からの石造りの切通を進む。正面にあったのが「土塁」その手前に「掘井戸」。「防御施設。柵門の内側を囲み、柵門の正面には高さ約5mの土塁と掘井戸があります。この中央土塁の両側を回り込むと榴弾砲砲台の塁道に連絡しています。」井戸は煉瓦で造られているとのこと。その煉瓦の表面に、監獄煉瓦として名高い小菅集治監で造られた桜の花の刻印があるのだと。バスを降りた「燈明堂入口」からのバスの時刻表がご親切に。丁度、ボランティアによるツアーガイドがパネル展示・説明室で始まったばかりだったので、グループに入れていただいた。30代の御夫婦2組と私の総計5名。「日本の要塞と東京湾要塞日本の要塞周囲を海に囲まれた日本にとって、古くよリ外国からの防御は海岸線を守備することでした。江戸時代後期以降になると外国船が日本近海に頻繁に出現するようになり、徳川幕府は江戸湾海防政策の一つとして台場の建設を行いました。幕府を倒した明治政府は西洋の列強からの脅威に備え、台場建設に代えて西洋の築城技術と建築資材を導入して重要な地を守備する沿岸砲台建設に着手しました。砲台建設とともに探照灯や弾薬庫など必要施設の整備、設置する海岸砲の選定、砲兵部隊の編成などが進められました。明治28年(1895年)には「要塞司令部条例」が公布され、その第一条において「永久ノ防御工事ヲ以テ守備スル地ヲ要塞ト称シ各要塞ニハ其地名ヲ冠シ某要塞ト称ス」と「要塞」の定義が示されました。日本の要塞建設は、おおむね明治時代に相当する「要塞建設期」、大正時代から昭和時代前期にかけての「要塞整理期」、日中戦争前後から終戦までの「臨時要塞建設期」の3時期に分けられます。明治13年(1880年)の観音崎砲台の建設着工から、昭和16年(1941年)に一部施設の竣工をみた宗谷要塞まで、22の要塞と5つの臨時要塞が建設されました。東京湾要塞東京湾要塞は日本で最初に建設された要塞で、明治10年代に着工された唯一の要塞です。首都東京と横須賀軍港の防御を目的に、要塞整理期に除籍された砲台も含め、昭和13年(1938年)に竣工した花立砲台まで32の砲台が築かれました。まだ航空機がなかった明治時代には、外国の侵入手段は艦船たけが想定されました。要塞建設期の東京湾要塞は、明治10年代に東京湾内湾が最も狭くなる富津岬ー観音崎間を防御線とした砲台群、明治20年代前半に横須賀軍港を守備する砲台群、明治20年代後半には清国との緊張が高まる中で富津岬一観音崎間を補強する堡塁と新たな砲台が築かれました。大正時代に入ると、日露戦争前後の火砲の性能向上、第1次世界大戦での航空機の出現に伴い、それまでの砲台が旧式化したために要塞整理期に入りました。その結果、東京湾の防御線は富津岬ー観音崎間から洲崎一剱崎間、東京湾内湾から外湾に南下・拡大しました。また、大正12年(1923年)に発生した関東大震災によって東京湾要塞を構成する各砲台に大きな被災が生じたこととあわせて、大正時代から昭和時代前期にかけては砲台の除籍と新しい砲台の建設が進められました。多額の国費を投し建設された東京湾要は、日清・日露など対外戦争に応して守備に就きましたが、想定された東京湾での交戦状態に陥ったことはなく、昭和20年(1945年) 8月の終戦後に連合国軍による武装解除を受けてその役目を終えました。」東京湾要塞を構成する砲台の配置。「千代ヶ崎砲台」の立体模型。近づいて。段ボール紙を重ねて製作しているのであった。移動して。「現代に残る砲台跡昭和20年(1945年)の第2次世界大戦終戦後、千代ヶ崎砲台が位置する旧軍施設の範囲は農地として民間に払い下げられました。その後、昭和35年(1960年)から榴弾砲砲台の跡地部分を防衛庁が取得し、海上自衛隊千代ヶ崎送信所として利用しました。通信技術のデジタル化に伴い、平成25年(2013年)には送信所としての役目を終えることとなりました。明治政府が首都東京防衛の要とした東京湾要塞は、現在、猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台のふたつの砲台跡が保存状態の良好な遺跡として国の史跡に指定されています。近代の軍事施設に関する遺跡としては、日本で初めての指定でした。明治14年(1881年)に工事を開始した猿島砲台と明治25年(1892年)から工事を開始した千代ヶ崎砲台では、建設年代に約10年の差があります。ふたつの砲台跡を比較すると、使用された建築資材の変化や土木・建築等の技術の習熟と進歩を見ることができ、その背景にある近代国家としての日本の発展をうかがうことができます。また、ふたつの砲台が「史跡」として指定され、保護・公開されている姿は、現在を生きる我々が戦争の時代の記憶を未来に語り継ぎ平和について考えるきっかけとなるのではないでしょうか。海に囲まれ豊かな自然に恵まれた横須賀での人びとの生活の痕跡は古く、約3万年前の旧石器時代から始まり、奈良時代に三浦半島を通っていた古東海道、鎌倉時代に源頼朝を支えた三浦一族、激動の時代の始まりを告げたペリー来航など、いくつもの歴史の舞台となってきました。なかでも、明治時代以降、終戦までの横須賀の歩みは陸海軍による東京湾要塞と横須賀軍港の建設と発展が大きく関わり、国内でも有数の軍都として発展しました。しかしそこには光と影があります。いずれも受けとめて将来に伝えていけるよう、その場の一つとしてこの千代ヶ崎砲台跡が猿島砲台跡とともにさまざまな活用の場となることを願ってやみません。 令和3年(2021年) 横須賀市教育委員会」「史跡東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡」の上空からの写真を頂いたパンフレットから。「千代ヶ崎砲台の各施設」をパンフレットから。①~⑩説明。まだまだ、「史跡東京湾要塞跡 千代ヶ崎砲台跡」の様々な案内板が掲示されていたが、現場のガイドに向かったので、その後を追う。まずは「地下施設」に向かう。砲台の建設時に掘削により発生した土砂は積み上げられ「土塁」が作られたと。「塁道(るいどう)砲台内の各施設を連絡する交通路。路面はコンクリートで舗装されています。幅員約4mの露天空間と隧道が繰り返され、地下施設の出入り口が接続しています。」凝灰質礫岩の擁壁。土塁南側の東西阪路の合流地点から眺めた露天塁道。右側の壁に沿って路面に延びる白い敷石は雨水の水路、左側は汚水の流路であると。左側にあったのが「第三砲座」への入口。右手にろ過池(奥)と沈殿池(手前)。右側に「第二貯水所」沈殿と濾過を終えた浄水は、貯水池に貯められる。千代ケ崎砲台には、南北の2か所に貯水所が設けられていた。千代ヶ崎砲台ては、砲台内部て雨水を集水、ろ過して、飲用水なとの生活用水として利用していた。雨水はまず、塁道の南北2ヵ所に設けられた貯水所に、塁道に埋設されたろ過下水溝て集水される。その後、沈殿池とろ過池て浄水されて、貯水池に貯められ、生活用水として利用されたと。井戸の様になっているのは水汲み口なのであろう。近づいて。ガイドの持つ懐中電灯の灯りが「貯水池」の水面に映り込む。貯水所のレンガ積みの壁を見る。イギリス積みになっていた。トンネルではあからさまに色の違うレンガが並んでいるのが見て取れた。右側のこげ茶色のレンガは「焼過煉瓦(やきすぎれんが)」と呼ばれるレンガで、通常のレンガよりも、さらに高温で焼いたレンガで、撥水性が高く、雨を弾く割合が優れていると。「焼過煉瓦(やきすぎれんが)」が生産される理由は、通常の赤レンガよりも強度を高くできるため、建築物の雨の当たる場所やコーナーでの仕上げに使うためであると。ただこのレンガはコストが高い為、風雨にさらされる事が少ない個所では普通のレンガが使われているのが見て取れるのであった。そしてレンガの積み方ですが、各段ごとに長いレンガが続く段と短いレンガが続く段が交互に繰り返されているのが見て取れた。これはイギリス積みと呼ばれる積み方で、丈夫な事、使うレンガが少なくて済むといった特徴があるのだと。ここのレンガは、小菅刑務所で囚人に焼かせたレンガだとか。ガイドが東京湾要塞を構成する砲台の配置を説明してくれた。「明治時代の要塞火砲」要塞火砲の種類 火砲は、その用途によっていくつかの種類に分けられ、弾道も異なっている。●加農砲(かのんほう):弾丸を高い初速で発射する火砲で貫徹力が高い。●榴弾砲(りゅうだんほう):遮蔽物の上を山なりの弾道で飛び越え射撃する。●臼砲(きゅうほう):榴弾砲よりもさらに大きな発射角度で射撃する。●速射砲(そくしゃほう):装填、発射が迅速、より低い弾道で発射する。●隠顕砲(いんけんほう):防護壁の内側に隠れ、射撃の際に砲身が持ち上がる。「加農砲(かのんほう)」の演習発射の瞬間の写真。そして左側にあったのが「第三棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」。訓練時や戦時の兵員の待避所・宿舎、または倉庫。塁道に面して出入口と採光窓、網戸を付けた通気口が、奥壁には地上への排気筒が設置されている。そして「第二砲座」への塁道を進む。左手前に「第二棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」。第二と第三砲座のための塁道から地上・土塁への石段。手摺はなかったのであろうか?ここも「第二棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」。「第二棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)」の内部。「第二掩蔽部(えんぺいぶ)」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.24
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「夫婦橋」を後にして、「平作川」沿い、国道134号の遊歩道を海に向かって進む。左岸には釣り船の乗り場・浮桟橋が並んでいた。左手には先程訪ねた「自衛隊久比里官舎」が見えた。右手の国道134号沿いには大きな建築物が。「横須賀市立横須賀総合高等学校」と。川沿いのフエンスには様々な船の姿が。そして左手には頑丈そうな橋が。「御稜威橋(みいつばし)」。御稜威は御厳と書くこともあり、「厳」を敬っていう語であるとのこと。天皇や神などの威光のことで、「御稜威、津々浦々に及ぶ」等の使い方をするとネットから。下を流れる川は「平作川」。橋の向こう側にはゲートがあり、その先は「陸上自衛隊久里浜駐屯地」。守衛隊員も常駐しており、もちろん駐屯地内に入ることはできなかった。横から見ると主桁には錆びが一面に。しかし正面から見たら頑丈そうな橋。「御稜威橋(みいつばし)」に少し入り込んで、「平作川」の上流を望む。この交差点の名称は「久里浜駐屯地前」。入口の門柱には「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」と。次の目的地の「千代ケ崎砲台跡」近くまでは徒歩で30分前後かかるので、ここ「自衛隊前」からバスを利用することを事前に計画済み。ネットで調べておいたバスの時間を再確認。「土曜・日祝」の9:23発。「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」の建物を振り返る。この花?の名は?黄色い部分が花?それとも葉?メキシコマンネングサ!?こちらは黄色いポピー。歩いて来た「夫婦橋」手前の道路標識を見る。「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」正門を再びズームして。久里浜駐屯地は昭和14年(1939年)に旧海軍通信学校として開設された。その後、昭和25年に発足した自衛隊の前身である警察予備隊当時から続く自衛隊最古の駐屯地。駐屯部隊には昭和27年(1952年)から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、「(システム通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、 「(東部方面警務隊)第129地区警務隊」、「(東部方面システム通信群)第316基地通信中隊久里浜派遣隊」がある。令和6年3月に「システム通信・サイバー学校」に改編し現在に至るとのこと。そして9:23発の定刻到着のバスに乗車。「JERA 横須賀火力発電所」をバスの車窓から。「開国橋」からズームして。途中、「横須賀市消防局 消防総合訓練センター」の手前を右折して進むと、左手にあったのが「久里浜少年院」と刻まれた案内碑。左側の建物は久里浜少年院の官舎のようだ。ロータリーを引き返して、右手に「横須賀市消防局 消防総合訓練センター」を見る。そして「川間隧道」が前方に。トンネル入り口には、横須賀市の木“オオシマザクラ”の絵が施されていた。「川間隧道」を通過。完成 1996年(平成8年) 隣接する「長瀬隧道」と交代。全長 304m 幅 10m 高さ 8.6m。そして「燈明堂入口」でバスを降りる。「現在位置」はここ。バス停手前のT字路を「燈明堂」方向に向かって進む。4月16日(火)以来、半月ぶりの道路を歩く。「燈明堂 千代ヶ崎砲台跡」案内板。ここを右に曲がると「長瀬隧道」へと。4月16日(火)は「長瀬隧道」を通過し、この場所に下って来たのだ。そして燈明堂、千代ヶ崎砲台跡の分かれ道を右折して千代ヶ崎砲台跡に向かう。「千代ヶ崎灯台跡 駐車場」案内板。入場は9時30分から16時まで とこの日は見学可能日であることを確認。この日も急な坂道を上って行った。振り返ると、眼下には「シティマリーナヴェラシス(旧川間ドック)」と高層マンション・ヴェラシス浦賀3番館が見えた。そして駐車場には多くの車が駐車していたので、この日は見学可能日であることを再確認出来たのであった。そして350m、高低差43mの急な坂道を10分弱で上り切り、「千代ヶ崎砲台跡」の入口に到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.23
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次に訪ねたのが100m程の場所にあった「宗円寺(そうえんじ)」。横須賀市久比里1丁目20−1。寺の手前にあった民家の庭の白の「カラー」の花。南アフリカ原産。 日本には江戸末期にオランダから渡来したと。 メガホン状のところがワイシャツの襟(Collar)の部分に似ているので「カラー」となった。また、その形が、修道女の襟(カラー)を連想させるところからつけられた、とも。1528年(享録元年)、臼井惣左衛門により開山。浄土宗の寺で本尊は阿弥陀如来。境内には庚申塔の他、石造文化財としては珍しい両面地蔵が見られる。本堂では、阿弥陀如来三尊像の他、釈迦の涅槃図を鑑賞することができる。80歳で亡くなった釈迦を囲み、この世の全ての人間から動物までが嘆き悲しむ様子が描かれ、天上には釈迦の生母・摩耶夫人が迎えに来ている と。珍しい?白い涎掛けの石仏が並ぶ。六地蔵を正面から。中央の石仏は阿弥陀如来像であろうか?寺号標石「浄土宗 宗円寺」。眞宝山 慶西院 宗円寺。石柱門には「度生圓通」と。度生:衆生を救うこと。圓通:仏教の言葉で、仏菩薩のさとりはあまねく行き渡り、自在に作用するという意味。「庚申塔」が並ぶ。青面金剛像。六手合掌型。右手で三叉戟と矢を持ち左手で弓と輪を持つ。「正徳貳壬辰歳(1712) 相州三浦郡久比里村」と刻まれていた。建ち並ぶ庚申塔から少し離れたところに建つ、1基の庚申塔。これは、1733年(享保18年)に建てられた庚申塔。ちょうど享保の大飢饉の翌年に建てられているので、飢饉によって亡くなった人のための供養の意味もあるのかもしれません。この時すでに、この地の地名には「久比里村」とあります。地名の由来はわかりませんが、久比里という地名はかなり昔から使われていたようです。御影石の両面に浮き彫りされた10体の両面地蔵尊。近づいて。はてさて面妖な、どちらが表で、どちらが裏か。両面地蔵尊越しに眺めた本堂。鎌倉権五郎景政が片目で彫ったと伝えられる両面地蔵。鎌倉景政(かまくらかげまさ)は、平景政とも称し、平安時代後期の武将。後三年の役では源義家に従軍して、右目を射抜かれながらも奮戦したと。どの両面地蔵も風化が進んでいた。「失明した武将が刻んだ両面地蔵尊奥州後三年の役において英雄の鎌倉権五郎景政も人問の極限の哀しみを神仏に託しては自らを慰め世の中の盲人を救うために、来世の光明を願って一念発起、盲目の身にもめげず両面地蔵を手探りで彫り上げたと伝えられ、眼病平癒の対象とされている。」ここにも石仏が。「南無阿弥陀佛」と刻まれた石塔。入母屋造瓦葺の本堂扁額「真寳山」。内陣。本堂前の天水桶。ここにも六地蔵?墓地を望む。「飯岡助五郎親分の父の墓」。「飯岡助五郎親分の父の墓「宝純院得譽義専称願居士」講談や浪曲にも出てきた下総の国(千葉県飯岡)の大親分助五郎は、三浦半島で生まれ、この久比里の土地こそ助五郎の父が居住していた所」「宝純院得譽義専称願居士」と。無縁塔。再び本堂を見る。無縁塔がここにも。「享保十二丁未天(1727)十一月二日」と。「文政元寅年(1818)」と刻まれた墓石。歴史を感じさせる墓石が並ぶ。そして「宗円寺」を後にして「夫婦橋」に向かって引き返す。「夫婦橋」手前の路地を左に曲がり、「平作川」に沿って歩く。釣船チャーター「山下丸」の駐車場には一面に黒い海藻が天日干しされていた。ヒジキであろうか。こちらはワカメの日干しであろうか。近づいて。その先にあったのが「自衛隊久比里官舎」。海側には「陸上自衛隊 久里浜駐屯地」があるのだ。地上4階建ての官舎が10棟以上並んでいた。ドーム型アンテナ。久里浜駐屯地は昭和14年(1939年)に旧海軍通信学校として開設されました。その後、昭和25年に発足した自衛隊の前身である警察予備隊当時から続く自衛隊最古の駐屯地 。駐屯部隊には昭和27年(1952年)から続く「通信学校」のほか、「通信教導隊」、「(システム通信団)中央野外通信群」、「(東部方面後方支援隊)通信教育直接支援中隊」、 「(東部方面警務隊)第129地区警務隊」、「(東部方面システム通信群)第316基地通信中隊久里浜派遣隊」がある。令和6年3月に「システム通信・サイバー学校」に改編し現在に至る。とネットから。「ここは、自衛隊官舎地区です。自衛隊関係者以外の立ち入り及び車両の駐車をお断りしております。陸上自衛隊通信学校長」「夫婦橋」に引き返すと、ここにも昆布が。養殖昆布であろうか、辺りに磯の香りが広がっていたのであった。「久里浜地区周辺案内」マップ。「現在地」はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.22
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そして次に訪ねたのが「若宮神社」。石鳥居の前には大きな井戸?非常水槽があった。横須賀市久比里1丁目4−11。1531年(享録4年)、臼井惣左衛門が鎌倉の鶴岡若宮明神を奉戴して建立した。祭神は仁徳天皇。1983年(昭和58年)社殿は焼失し、1985年(昭和60年)新築されている。社殿の左側に、古い鳥居の一部や額が保存されている。境内にある石碑には神社の縁起について書かれており、その台座は日露戦争の際、旅順口閉塞船の弥彦丸に使用されたとされる。正面に石製の一の鳥居。扁額「若宮神社」。社号標石「若宮神社」と朱色で。一対の「御神燈」。<境内の巨大な御神木・銀杏。緑の新葉が美しく。右側には石碑が2基。「御社殿再建記念昭和五十八年五月二十日の深夜 先人達が永年蓄財して建立した総欅造りの御神殿を不審火により消失しました。火中御神体を救出して 西叶神社に無事遷し奉りました これを励みとした氏子並びに崇敬者の早期再建の願いに応えて 町内外の有志 七百余名の浄財と神具備品及び屋根銅板の奉納を受けて 昭和六十年六月竣工七月六日遷座 翌七日神社本庁より献幣使が参向し竣工奉祝大祭を斎行しました 僅か二年の短期間で再建が叶ったことは 当神社の御神威と崇敬〇〇〇の総力の賜ものです。神輿二基及び参道などの工事を実施し 更に篤志の方々より鳥居二基の奉納を受けて再建事業を完了し茲に碑を建て記念します。昭和六十二年一月吉日 若宮神社 宮司感見武 再建委員会 藤田○書」「記念 社殿改築鎮守若宮神社御祭神は、仁徳天皇に座します 享楽四年千葉之介常胤の後裔臼井宗左衛門尉なるもの、鎌倉より源家の旧縁により、鶴岡若宮明神を奉載してこの地に移住し当社を建立以て氏神となし崇敬奉祀す。爾来、氏子の崇敬益々厚く常に社宇の廃頽を憂い、之が改築を成し、現に慶長十六年及寛永六年正保二年の御造営の棟札をするす。殊に一回社殿は明和七年の建造に係り、その荒廃甚だしく、氏子一同之を恐耀し大正四年村社に列格の際、改築の議起こり、爾来資金を蓄積し、今日に至り、機漸く熟し、茲に全く社殿の改築とともに境内整理の完成を告ぐ。依て之を永遠不朽に傳へんとて此の碑を建つ。 昭和十年八月 社掌 感見彦治謹誌」この記念碑の台座は、日露戦争の旅順閉塞隊に参加した弥彦丸に積まれていた花崗岩。日露戦争後に、旅順港口を復旧させるために、閉塞船として擱座していた弥彦丸を旅順港口から撤去し、浦賀船渠の川間分工場で解体した際、その船底から取り出したものと。「この台石は浦賀工場の寄贈にして日露戰役の際 旅順口閉塞船弥彦丸に使用せしものなり」。左手にあったのが「神輿殿」。内部には大きな「神輿」👈️リンク が鎮座。右にはやや小さい神輿。神輿パレードの際の「若宮神社」の神輿の写真をネットから。手水舎。背後には自治会の施設か?石段の上には二の鳥居、さらに石段の先に拝殿。二の鳥居。狛犬(右)。廻り込んで。狛犬(左)。廻り込んで。石段の上に拝殿。鳥居の柱の一部と割れ目の判る扁額。「宝暦七年三月に建立されたこの鳥居は二百三十年の歳月で風化し且つ柱が折損して崩壊の虞れがあったので御社殿再建を記念しこれを建て替えて旧社号額および柱の一部を此処に移し保存します。昭和六十一年十月吉日 鳥居奉納者一同」先代の扁額「若宮神社」。拝殿の左側にあったこの建物は蔵であっただろうか??拝殿に近づいて。拝殿の折れ戸(折戸)は開いていた。拝殿の扁額も「若宮神社」。内陣。祭神 仁徳天皇 ( にんとくてんのう ) 天照大神 ( あまてらすおおみかみ ) 大物主命 ( おおものぬしのみこと )創建 1531年(享録4年)例祭 7/24,25ズームして。拝殿の右手にあった境内社の「八雲神社」。扁額「八雲神社」。社殿。砲弾。若宮神社の境内社、八雲神社の社殿横に鎮座している。柵石に、「征露紀念」と「明治三十九年二月 氏子中」と刻まれていることから、日露戦争の勝利を記念して明治39年2月に氏子によって建立されたものであろう。砲弾の高さは役80cm、直径は28cmである。台座は、レンガ造モルタル張りである。調査当時は、碑は傾き、周辺も荒廃した状態であったが、最近きちんと整備された。なお、境内には、他にも旅順港口閉塞船に積まれていた石が記念碑の台座に使われている と。右側には多くの石祠が並んでいた。正面から。狐様の姿も。いろいろな場所から集められたものか?「若宮神社」の「本殿」を横から。春日造の本殿。春日大社に代表される春日造は、出雲大社に代表される大社造と同様に、切妻造・妻入ですが、屋根が曲線を描いて反り、正面に片流れの庇(向拝)を付しているのが特徴。再び御神木の大銀杏とその陰。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.21
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この日は5月3日(金・祝日)、前回訪ねる事が出来なかった、西浦賀にある「千代ケ崎砲台跡」そして「ポンポン船」に乗り「東浦賀」に渡り、「東浦賀」の名所旧跡を巡ることとする。早朝6:40過ぎに自宅を出発し小田急線、横浜市営地下鉄を利用して京急「上大岡駅」へ。そして特急「京急久里浜」行きに乗り「京急久里浜」駅に向かう。前回、「ペリー上陸記念碑」から引き返す際に、訪ねたかった場所があったが、時間的に無理と判断し、次回に訪ねようと考えていたからである。そして8時前に「京急久里浜」駅に到着。「京急久里浜」駅の改札口を振り返って。東口に出て、「平作川」に向かって散策開始。右手奥にあったのが「はろーど久里浜」商店街。そして「平作川」に沿った国道134号に出る。「国道134号」は、起点の横須賀市から、三浦半島や湘南地方を海岸線に沿って通行し、国道1号との接点である、終点の中郡大磯町に至る路線で、神奈川県の海岸線を東西方向に結んでいる一般国道。「国道134号」の起点が、横須賀市内の東京湾沿いの横須賀市三春町二丁目の国道16号であることを初めて知ったのであった。横須賀南警察署(旧浦賀警察署)久里浜交番が右手に。そして「国道134号」が「県道210号線」、「県道211号線」と交差する「夫婦(めおと)橋」交差点。なぜ「国道134号」に「線」を付けないのでしょうか?国道の路線名や起終点、経由地を規定した「一般国道の路線を指定する政令」において、各国道の路線名は「〇号」と、「線」が付けられていません。したがって国道においては、「国道1号」などと「線」を付けない表現が正しいことを以前に知ったのであった。複雑な道路標識をズームして。この交差点で直角に曲がる国道134号、そして県道210号線、県道211号線の表示が。県道210号線は夫婦橋で平作川を渡ると国道134号・神奈川県道211号久里浜港久里浜停車場線と合流、両道路との重複区間となり、平作川右岸を進んで終点・JR久里浜駅に至る。県道211号線の起点では神奈川県道212号久里浜港線から分岐し、暫く海岸沿いに北東へ向かったのち開国橋付近から平作川に沿って北西へ進む。夫婦橋では国道134号・神奈川県道210号浦賀港久里浜停車場線と合流し、両道路との重複区間となってJR久里浜駅前へと至る。「国道134号」には面白い道路名「尻こすり坂通り」と。1853年、開国を求めにアメリカからやってきたペリーが初めて日本の地を踏んだのが、現在の横須賀市久里浜。ペリー上陸の地から車で5分ほど、国道134号線沿いに「尻こすり坂通り」という標識が掲げられている。急坂のため荷車を押して坂を通ると、荷車の後部が擦れてしまうことから名付けられたという。「尻こすり坂通り」の全長は約3.3km とネットから。さすがに、歩行者の尻こすりではなく荷車の尻こすりであるようだ。横断歩道を渡ると前方・夫婦橋のたもとに高さ2.1mの笠塔婆型の石塔が立っていた。「内川新田開発記念碑(うちかわしんでんかいはつきねんひ)」。内川新田開発記念碑は砂村新左衛門政次が、万治3年(1660年)から8年を費やして完成した内川新田開発工事の記念碑である。「横須賀市指定史蹟内川新田開発記念碑昭和四十三年五月十日指定この石碑は砂村新左衛門政次が、万治三年(一六六〇)より寛文七年までの八か年をついやして苦心のすえに完成した内川新田開発工事の記念碑である。碑文によれば、内川入海の新田工事は、労苦の積み重ねで、ことに水門建設は難事業であったことが知られ、完成にさいし、神仏の加護に感謝する思いがしるされている。この新田開発によって当初は三百六十石余りの生産高が得られ、さらに数年後に二百二十五石の増加があったという。本市内における最大の新田工事であり、また久里浜の発展過程を知る貴重な史跡である。砂村新左衛門は当時、土木事業の数少ない指導者で、江戸の砂村新田、横浜の吉田新田など多くの新田開発にその手腕を発揮した。寛文七年十二月十五日に歿し、その墓は当地の正業寺(しょうごうじ)にある。 平成八年一月 横須賀市教育委員会」碑の表面、中央に「南無阿弥陀佛」、右に「霊巌寺」へ 左に「大誉(花押)」とあった。碑文は次の通り。「相州三浦内入海新田並八幡原新畑見立此門樋成就処年々舟鼻及破損八ケ年致 苦労尽工夫時依蒙仏神夢想而今此以石柱成就畢水神往護為子々孫々諸人現当二世安楽也 寛文七丁未年三月吉日 砂村新左衛門尉政次 敬白」 。 右側には夏、紅色の花が咲くキョウチクトウの花が刻まれていた。「内川新田開発記念碑(うちかわしんでんかいはつきねんひ)」の近くにあったのが「久里浜の歴史を知ろう(夫婦橋の由来)久里浜は江戸時代まで森崎や公郷(くごう)、池田、衣笠近くまである大きな入り江で上げ潮になると海水が奥まで入る温地帯で葦が一面に生えていました。この湿地帯に1660年頃砂村新左衛門という人が、内川新田と呼ばれる新しい川畑をつくりました。しかし、中央を流れる川はいくども洪水をおこし、そのたび田畑は荒らされ作物は収穫できませんでした。この洪水を防ぐため上手にたくさんの松の木を植えたり、橋を作ったりしましたが何回も上手は崩され橋は流されました。しかし、たくさんの困難な状況を乗り越えて、作物が収穫できる新田が完成しました。また、川の中央に中州を作り海水が新田に入らないように掛戸(かけど)という水門を作り、その上を人が行き来できる2つの橋を架けました。この橋は2つの橋であることから夫婦橋と呼ばれるようになりましたが、関東大震災で中州は壊れ現在のようにひとの橋になりました。中州には水門が完成したことを記念する碑がありましたが、現在の場所に移築されました。また、当時の夫婦橋は現在の人道橋の近くにありました。私たちは、多くの人々の労苦がしみ込んだ夫婦橋の由来を忘れてはなりません。 令和3年(2021年3月) 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会」関東大震災前の中州のある「夫婦橋」の姿。大正時代絵葉書より(絵葉書提供 久保木実様)1825年ごろの記録によると、一つの橋の長さは約30m、幅は2.4mであった。材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていたとのこと。「かながわの橋100選」と。現在の「夫婦橋」を見る。「夫婦橋」は、3径間連続変断面鉄筋コンクリート道路橋で、昭和29年に建設された。橋長33mで、河口の久里浜港にも近く、浦賀港と久里浜、三浦市方面とを結ぶ要路にある橋。親柱の上に照明灯が。「国道134号」の横断歩道を渡る。「夫婦橋」。その先にあったのが「夫婦橋風景」と書かれた案内柱。「昭和五十二年市制施行七十周年記念横須賀風物百選 夫婦橋風景」。「夫婦橋夫婦橋には300年以上の歴史があります。新夫婦橋をいつまでも大切に使ってください。この橋はいつ頃からかかっているのでしょうか。橋の歴史は、およそ330年前(1667年)の内川新田開発工事までさかのぼります。この工事で造られた、海水の逆流を訪ぐ水門が夫婦橋の始まりです。当時はどのような橋でしたか。昔は中央に中洲があり、ニつの橋が夫婦のように仲良く架かっていました(現在の人道橋あたり)。また、1825年頃の記録によると、ひとつの橋の長さは約30m、幅は24mほどでした。材料は丸太を使い、橋の上には土砂を敷き詰めていました。夫婦橋の「人柱伝説」とはどのような話ですか。昔の夫婦橋(水門)は、平作川の洪水で幾度も流されていました。そこで貧しい人夫の美しい娘が「神の怒りを鎮めるため」犠牲となって、橋の下に埋められました。その後、夫婦橋は大雨が降り続いても流されなくなったという悲しいお語です。実話はどうかはわかりませんが、昔から多くの人々が、平作川を治め、夫婦橋を守るために大変苦労してきた様子を伺うことができます。旧夫婦橋は「かながわの橋100選」に選ばれました。神奈川県では、県民の皆さんに神奈川を見つめ直し、郷土への関心をより深めて頂くため、昭和51年度から「かながわ50選・100選シリーズ」を始めました。平成2年度には、第15回目として「橋」をテーマに選定を行い、「地域のシンボルとして住民に親しまれ、歴史的にも由緒ある橋」としてこの夫婦橋が選ばれました。新しい夫婦橋のデザインはどのようにして決められましたか。道路計画並びに河川改修計画の実施による架替えにあたり、専門家を交えた委員会を設置し、周囲の景観との調和や、橋が持つ歴史性に考慮したデザインを検討しました。 (夫婦橋景観検討委員会)また、地域の皆様に親しまれ、末長く大切にされう橋であるように、地元の代表の方々より、様々な意見を頂きました。 (夫婦橋整備実施連絡協議会を設置)何をイメージしていますか。親柱や橋詰めの松は、名前の通り仲むつまじく寄リ添う夫婦の姿をイメージしています。全体は和風で統一し、まるみと親柱の照明灯の色は暖かみのあるものを選びました。親柱の文字は地元の小学生が書きました。橋の四隅にある親柱には、橋名と河川名を横須賀市立久里浜と明浜小学校児童の皆さんに、心を込めて書いて頂きました。橋名 「夫婦橋」竣工 平成8年3月工期 平成3年度~平成7年度橋長 L=37.0m幅員 W=18.0m(車道10.5m、歩道5.0m+2.5m)橋梁形式(上部構造)1等橋(TLー20)単純鋼床版箱桁橋 (下部構造)逆T式橋台(直接基礎)施工者 神奈川県横須賀土木事務所」我が上記写真では解読不明のため、下記写真をネットから。「明治40年頃 久里浜夫婦橋附近の追想 石渡勇画より」とネットから。「夫婦橋の人柱(ひとばしら)の伝説内川新田をつくるためにかけた橋も、川が大水になるたびに流されてしまいました。こんな事が何回もつづくと、村の人々の中には、「これは、神様がおいかりであるにちがいない。神のいかりをしずめるためには、人柱(ひとばしら)をたてなければ・・・。」という話が出はじめました。その話はだんだんと広まり、村でも、とくにまずしい家の、美しい娘(むすめ)に、その矢(や)がむけられたのです。「気の毒(どく)ではあるが、まずしい家のことだから、お金で何とかなるだろう……。と、村長たちが娘(むすめ)の家に出かけ、「神のためじゃ。村のためじゃ、ぜひ……。」と両親にお金を出してたのみました。両親はもちろん、娘(むすめ)もこの話を聞いて、たいそう悲しみましたが、まずしい家のこと、「神のため、村のためなら……。」と、しょうちしました。「人柱(ひとばしら)に娘(むすめ)がたてば、きっと神様はいかりをしずめ、願いを聞いてくれるにちがいない。」と、よろこんだ村人たちは、さっそく用意をはじめました。まず、大きな箱(はこ)をつくり、その中に娘(むすめ)を入れると、箱(はこ)の中に食べ物と鈴(すず)を入れ、ふたをしめて橋げたの下に、その箱(はこ)をうめました。それからというもの、村人たちが橋のそばを気にしながら通ると、鈴(すず)の音(ね)が聞こえてきます。しかし、三日たち、四日たちしていくと、とぎれとぎれで、しだいに小さな音になり、しまいには、とうとう耳をすましても聞こえなくなってしまいました。村人たちは、鈴(すず)の音(ね)とともに、娘(むすめ)が天にむかえられたと涙(なみだ)ぐみました。それからと言うもの、橋の工事もどんどんすすみ、夫婦橋(めおとばし)は、どんなに大雨がふりつづいても、流されることはなくなったと言う事です。 (田辺悟著「三浦半島の伝説」より」歩行者専用の人道橋を上流側に見る。昔の「夫婦橋」は現在の位置から約100m上流のこの人道橋の位置にあったと。下を流れる「平作川」の下流側を見る。現在の夫婦橋。夫婦橋を渡る。再び久里浜海岸方向を。久里浜市「消火栓マンホール蓋」黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター「アクアン」と 赤いはしご車を描き、下部は青地に消火栓の文字。蓋全面に滑り止めの模様が入っていて、デザインも滑らないようにブツブツで 描かれています。民家の庭の「チロリアンランプ」。近づいて。別名 「浮釣木(うきつりぼく)」 、「アブチロン」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.20
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「関東大震災慰霊塔」の前にあった横須賀市の雨水マンホールのカラー蓋。「2020年浦賀奉行所開設300周年」記念の雨水マンホール蓋。その先にあったのが「浦賀の渡し」。「浦賀の渡し」。浦賀の渡船(うらがのわたしぶね)とは、神奈川県横須賀市浦賀で運行されている渡し船。浦賀の町で古くから運航しており、ポンポン船の愛称で親しまれている。現在は繊維強化プラスチックによる装飾で御座船風に仕立てられた愛宕丸(あたごまる、全長9.5メートル、総トン数4.8トン、1998年就航)による運用だが、それ以前は普通の動力船であった。水上区間であるが横須賀市の市道2073号線を構成。東渡船場(東浦賀賀2-19-10先)と西渡船場(西浦賀賀1-2-19先)を3分で結ぶ。横須賀市唯一の市営交通事業であるあったが、2022年(令和4年)4月に民間に事業譲渡され、市の事業としては役目を終えたのだと。待合室。ここが「西渡船場」。「東渡船場」に停泊中の「愛宕丸」をズームして。「乗船料」案内。「【乗船料】料金は船内でお支払いください。・大人 400円(横須賀市民200円)・小・中学生 200円(横須賀市民100円)・未就学者 大人1名につき1名まで無料・ワンデイパス大人 600円・ワンデイパス小・中学生 300円・自転車および大きな荷物 50円渡船場渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」 には、渡船を修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、操業が確認されています。当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。平成10年8月に就航した現在の「愛宕丸」は御座船風のデザインとなっています。この航路は「浦賀海道」と名付けられ、横須賀市道2073号となっており、東西浦賀を結ぶ渡船は、シンボルの一つです。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀深訪くらぶ」「ご乗船の方はこのボタンを押して下さい ➡️ ●」と。この時は、対岸の東渡船場に渡し船「愛宕丸」が停泊していたのであった。「渡し船 就航中」と。渡し船の乗船は次回とし、さらに入江に向かって進む。左手に見えたのが「西叶神社」の一の鳥居、二の鳥居、社殿が見えた。遊歩道は赤レンガと灰色レンガが全面に敷かれ、波の模様に。再び約10km先の房総半島の山々を。そして前方に日本最古のレンガ造りドック・「浦賀ドック」の「ドックゲート」が現れた。そして対岸の「渡船」が動き出したことに気がついた。「ポンポン船」の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルになっている渡船は、港に隔てられた東西の浦賀の町を行き来する人にとって、大切な交通手段であると。この渡し舟は、浦賀に奉行所が設置されて間もない享保10年(1725年)ごろから記録に登場しているとのこと。現在も時刻表は無く、渡船が対岸にいるときは、呼び出しボタンを押すと、すぐに来てくれるのだ。「ポンポン船」の愛称で親しまれている「愛宕丸」。ズームして。お客さんは1名のみ。そして日本最古のレンガ造りドック・「浦賀ドック」👈️リンク の「ドックゲート」に近づいて。ドック内の船を外洋に出す時は、この中が空洞の「ドックゲート」が海側に倒れ込み、空洞内部に海水を入れ込みながらドック底部で水平となるのだと。浦賀ドックの敷地内には大型テントが建設中であった。ネットで調べてみると、「2024年4月27日(土)~6月23日(日)の期間、横須賀市の浦賀ドックにて、「ポップサーカス」👈️リンク が開催されます!」と。「POP circus WORLD TOP PERFORMERS」と。再び横須賀市雨水マンホール蓋。「観音崎灯台」、「黒船」を背景に「ペリー提督」を描いた雨水用の蓋。こちらは市の花ハマユウと中央に市章。 下部に「車道」と「あめ」の文字が。「昭和五十二年市制施行七十周年記念横須賀風物百選浦賀造船所浦賀湾を囲むこの施設は、住友重機械工場株式会社追浜造船所浦賀工場です。創業以来、浦賀船渠株式会社、浦賀重工業株式会社、更には現在の社名と変わりましたが、広く「浦賀ドック」の愛称で呼ばれてきました。この造船所は、明治二十九年、当時農商務大臣であった榎本武揚などの提唱により、陸軍要さい砲兵幹部練習所の敷地及び民有地を取得して設立準備を進め、翌三十年六月二十一日の会社設立登記をもって発足したものです。資本金は百万円でした。そのころの日本は、日清戦争などの影響もあって、外国から多くの艦船を買い入れ、世界的な海運国に発展しようとしていました。一方造船界は、技 術面や設備面で大きく立ち遅れていました。その遅れを取り戻すため、外国人技師を雇い入れて国内各地に次々と造船所を造っていきました。この造船所もその なかの一つで、ドイツ人技師ボーケルを月給約百五十円で雇いドックを築きました。明治三十五年十月十五日、フィリピンの沿岸警備用砲艦ロンブロン号(350排水トン)を進水させました。創業以来手がけてきた船は、いずれも 国内の企業から受注した工事用運搬船のたぐいばかりでしたが、十四隻目に初めて外国から受注した本格派の艦船を世に送り出しましたこの浦賀造船所で建造した艦船は、戦前・戦後を通じ約一千隻にのぼります。現在もなお技術革新の騎手として、新しい船を造り続け、造船の浦賀の象徴として、今もなお地元市民に基盤を置いています。」浦賀駅前通り商店街歩道に埋め込まれた「咸臨丸」パネル。「歌川広重「千繪の海 相州浦賀」初版1833年 天保4年」。葛飾北斎が浦賀の風景を描いた「相州浦賀」である。遠方の海面や空は藍色でありながら、前景は大胆に濃墨で潰され、拭きぼかしが用いられていて水面の微妙な色の変化がつけられるなど、夜も白みはじめた海浜の雰囲気が上手に表出されている「千絵の海」は、葛飾北斎(1760~1849)が天保4(1833)年頃に発表した10枚揃物で、関東地方を中心とした海や川での漁労風景を描いたものです。「総州銚子」「総州登戸」「総州利根川」「相州浦賀」「甲州火振」「絹川はちふせ」「宮戸川長縄」「五島鯨突」「蚊針流」「待チ網」から成る。中央に描かれているのが、燈明堂と思われる。美しい青い海を背景に、小さいながらも存在感は抜群だ。版画寸法:縦185 x 横265mmこの水路は?昔は浦賀湾に流れ込む小川があったのであろう。旧浦賀警察署向かい 御菓子司 太平堂の隣にあったのが浦賀町「道路元標」。裏側には「神奈川県」って書いてあるらしい。「1919年(大正8年)の旧道路法で、市町村に1基ずつ設置することとされていました。1922年(大正11年)、形状、規格、材料など細目が規定された内務省令が発布され、1万2000以上あった市町村の自治体中心部に設置され始めました。設置場所は府県知事が指定し、ほとんどは市町村役場の前か主要道路の交叉点に設置されました。浦賀の場合、浦賀町役場のすぐ近くってコトでしょう。大正時代に設置された道路元標の大きさは、縦横25cm、高さ約63cmの直方体で、頂部が弧を描くように丸く削られ、材質は花崗岩が多いです。地方によって若干の差異があり、コンクリート製作もあります。「○○村道路元標」、「○○町道路元標」のように市町村名を刻み、背面に設置年が彫られている場合ことが多いです。1952年(昭和27年)施行の新たな道路法によって、新しく設置されることがなくなり、無用のものとなったため開発工事に合わせて撤去されることが多くなりました。」とネットから。横須賀市浦賀4丁目5−1。裏側には「神奈川県」と。そして「久里浜駅」行きの京急バス。次回はこれも利用しようと。そして浦賀駅の少し手前の場所に、小さな案内看板が建っていた。「屯営跡の碑」👈️リンク と記されている看板を再び。明治8年(1875年)に、この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置され、明治18年(1885年)に「浦賀屯営」と改称され、多くの水兵を送り出した場所です。この碑は住友重機械の敷地内にあって、残念ながら見学できなかったが、浦賀という街が近代日本とともに歩んできた街という印象を、さらに強くしたのであった。「浦賀屯営」と「屯営跡の碑」と。そしてこの日の朝に見た「浦賀歴史絵図」を再び。そして京急・浦賀駅に到着。京急・上大岡駅で下車し、駅ビル内で腹ごしらえ。そして横浜市営地下鉄、小田急線を利用して帰宅したのであった。この日の京急・浦賀駅からの散策ルートmap。この日の歩数は30,000歩超えであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.05.19
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「燈明堂」を後にして、都市計画道路「 浦賀野比線」に向かって引き返す。左に曲がると、先ほど通った「長瀬隧道」への道であるがここを直進。「浦賀野比線」との交差点まで戻ると、正面の擁壁には様々な壁画が描かれていた。セーリングヨットの陰刻絵画。先ほど訪ねた「ペリー公園」、「燈明堂」案内表示。再び「旧川間ドック」を眼下に見る。全長136.7m、幅16.4m、深さ9.7m。ゲートが取り外されているので海水が入って、プレジャーボートが係留されていた。この「川間ドック」👈️リンクは明治31年に日本で初めてつくられたレンガドックだが、設計・築造したのは、横須賀製鉄所で学んだ恒川柳作や大倉粂馬、山崎鉉次郎ら。日本人による初のレンガドックである。「川間ドック」の写真をネットから。ドックの形は、先頭部分が丸くなっていて浦賀ドックとほぼ同じだが、煉瓦の積み方が少し異なる。こちらはイギリス積みによく似たオランダ積みである。長手だけの段と小口だけの段を交互に積むのはイギリス積みと同じだが、長手段の端で七五(レンガの長手方向の長さを3/4にしたもの)を用るのがオランダ流である。そして道路は浦賀湾の海岸に出る。対岸が東浦賀地区。右手にあったのが「浦賀港引揚記念の碑」。横須賀市西浦賀1丁目11−2。「浦賀港引揚記念の碑昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。 横須賀市」前方に「陸軍桟橋」。対岸に見えたのが「叶神社 (東叶神社)」。四阿で一時休憩。左手の道路沿いにあったのが「よこすか浦賀病院」。旧住友重機械健康保険組合 浦賀病院。1897年(明治30年)に設立された「浦賀船渠」の浦賀工場診療所として大正元年8月1日開設 。昭和19年6月1日 浦賀造船所病院と改称、昭和30年4月4日 浦賀船渠(うらがせんきょ)病院として開設。「陸軍桟橋」案内図。この海岸線は浦賀の海の玄関口であり、歴史を語るうえで、重要なスポットである。L字形の桟橋は、通称・陸軍桟橋と呼ばれ、昭和10年代に出来たものてある。太平洋戦争終結後、この桟橋に南方からの引揚者が数十万人上陸し、帰国の第一歩を印した思い出深い桟橋てある。また、この場所は、享保6年( 1721 )に浦賀奉行所の主要機関である船番所が置かれ、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と荷物の検査か行なわれた船の関所であった。この検査は江戸経済の安定をはかるために行なわれ、港町・涌賀の繁栄にもつながった。※この、港湾緑地は、国土交通省の環境整備事業により、整備したものであります。L字形の桟橋。案内図に近づいてL字の「陸軍桟橋」を。停泊中の砂、砂利運搬船の姿も。「第三十一勝丸」と。L字柄の桟橋の曲がり角から四阿、ウッドデッキを振り返る。再び、対岸・東浦賀の街並みを。左に振って。「船番所跡」案内板。18世紀に入るころから国内では生活物資の生産が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ、大量の物資が入ってくるようになりました。この流通の変化は幕府に経済政策の見直しを迫るものでした。幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、それまで伊豆下田にあった奉行所を浦賀に移転させ、江戸に出入りする船の積荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。ここは船の関所ですから、積荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。積荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌、から木綿や薪までの11品目について3ヶ月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒の合計105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所の足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは明治5年(1872年)3月のことでした。その船番所があったのがこの場所です。 浦賀観光協会」「異国船を取り巻く船番所の警備船」。ネットから。「船番所跡浦賀奉行所の出先機関で、享保六年から明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。与力、同心の監督のもと「三方(さんぽう)問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が昼夜を通して実務を担当しました。「入り鉄砲出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「船番所の模型(浦賀郷土資料館)」。「三十一勝丸 上天草」を再び。手前はタグボート、その横のオレンジ色の船は「東京湾スイムピクニック(船をチャーターしてクルージング形式)」のチャーター船とのこと。ここ浦賀港から船で出航し、対岸の千葉県へ渡り、館山〜富浦〜岩井の沖合をクルージングしながら絶好のポイントでオーシャンスイム、オーシャンスイムを楽しんだらまた船に乗り次のポイントへ、だ〜れもいないポイントでたっぷりとオーシャンスイムを堪能できるのだとネットから。「砂・砂利運搬船」の「第十八住吉丸 壱岐」。こちらも「砂・砂利運搬船」の「第十五大福丸 徳島県徳島市」。カナメモチの生垣とツツジに囲まれた遊歩道を歩く。「現在位置」はここ。横須賀市西浦賀1丁目15。「横須賀市南消防署浦賀出張所」の先にあった石碑。「大正十二年九月一日 関東大震災慰霊塔」。「関東大震災の慰霊塔大正十二年(一九二三)九月一日十一時五十八分、関東地方に大地震が発生しました。昼食時と重なって東京や横浜では大火災となり多くの人命と家屋が失われました。ここ浦賀でも崖崩れや火災などにより大きな被害を受けました。特に西浦賀では、愛宕山が崩れ、通行中の七人が生き埋めとなり、浦賀町だけでも二百二人の生命が失われました。戦後、この塔は震災と海難の犠牲者慰霊のため再建され、毎年八月上旬の浦賀みなと祭りで慰霊祭が行われています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「浦賀の被害状況」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.18
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「ペリー記念館」、「ペリー公園」を後にして、「ペリーロード」まで戻る。遊歩道の巨大なヤシの木。「カナリーヤシ」であろうか?アフリカ西海岸、カナリア諸島原産なのでこの名がある。宮崎県の公式ページによると、病害虫に強く長寿なことから、不死鳥(フェニックス)の名前が付けられたとされるとウィキペディアより。その奥が久里浜海岸。巨大なヤシの木に近づいて。存在感があり、南国イメージがあふれる代表的なヤシ。先ほど歩いて来た「ペリーロード」を浦賀方面に戻る。「開国橋」交差点。「開国橋」。再び下を流れる「平作川」上流を望む。次の目的地の「千代ケ崎砲台跡」に向かってひたすら引き返す。前方に「川間隧道」の久里浜側の入口を再び見る。「川間隧道」を左に見ながら旧道を進むと前方に「長瀬隧道」。完成 1930年(昭和5年)改修 1971年(昭和46年)全長 51.5m幅 5.8m高さ 5.4m「長瀬隧道」の久里浜側入口左にあった地蔵様。なんだか太目のおばさんに見えたのであった。下には「交通安全」と記されていた。この場所で過去に交通事故が発生したのであろうか?「長瀬隧道」を通過し、「千代ケ崎砲台跡」方面の道路と交差するT字路まで戻る。後に訪ねた「浦賀燈明堂」案内板が左手に。「浦賀燈明堂灯台の先柤というべき施設で、慶安元年(1648年)幕府の命により建てられました。菜種油を灯火の原料とし遠くまで照らすことで浦賀港に入ってくる船の安全を守りました。明治2年(1869年)日本初の洋式灯台である観音崎灯台が建設されたことによって燈明堂は役割を終え、建設から約220年過ぎた明治5年(1872年)に廃止となりました。現在は、残った石垣の上に当時の外觀が復元されております。」「燈明堂跡」まで約600mと。「千代ケ崎砲台跡」はここを右手に進み、坂道をひたすら上って行った。「千代ケ崎砲台跡駐車場」案内板。「土日祝のみ」、「閉場」の文字があったが、この時点では気が付かなかった。急な坂道を息を切らせながら上って行った。「国史蹟 東京湾要塞跡 千代ケ崎砲台跡」案内板があった。そして前方には「関係者以外 立入禁止」札がロープにぶら下がっていたのであった。スマホで調べてみると『国史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡は土曜日・日曜日・祝日に公開を行っております。』と。この日は、4月16日(火)の平日であったのだ。事前調査不足を痛感!!次回のチャレンジを誓って「文化財説明板」の写真を撮影。「国指定史跡東京湾要塞跡千代ヶ崎砲台跡千代ヶ崎砲台は、江戸時代後期に会津藩により台場が造られた平根山に、明治25年(1892年)から明治28年(1895年)にかけて陸軍が建設した西洋式の砲台です。東京湾内湾口を防御する観音崎砲台の援助や、浦賀湾前面海域への防御、また久里浜から上陸した敵に対する防御が任務で、榴弾砲の海正面防御砲台と臼砲・加農砲・機関砲からなる陸正面防御砲台で構成されています。築造当初の姿を良好にとどめていること、日本の近代の軍事や築城技術を理解するうえで重要であることから、猿島砲台跡(横須賀市猿島1番)とあわせて平成27年(2015年)に国の史跡に指定されました。」「東京湾要塞とは日本で初めて西洋の築城技術と建築資材を導入して建設された砲台は観音崎砲台の第一砲台・第ニ砲台で、明治13年(1880年)起工、明治17年( 1884年)竣工です。観音崎砲台の起工以後、明治政府は首都東京や軍港防衛のために東京湾岸に沿岸砲台群を建設しました。これらの砲台群によって守備する土地を「要塞」と定め、東京湾要塞と呼称しました。東京湾要塞を構成する砲台群は、明治20年代後半までに20か所、大正から昭和にかけては火砲の能力向上に伴い防衛ラインを東京湾の南側に拡大して12か所の砲台が築かれました。」日本遺産千代ヶ崎砲台跡は、「鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近化の躍動を体感できるまち~」の構成文化財として平成28年に日本遺産に認定されました。横須賀市の歴史、文化、自然を「ルート」でつなぎ、市内全体を大きな「ミュージアム」として楽しむ「よこすかルートミューシアム」のサテライト施設でもあります。千代ヶ崎砲台の構造千代ヶ崎砲台の海正面防御砲台は、3つの砲座が南北に並び、1砲座に2門すっ、合計6門の28cm榴弾砲が配備されていました。地表からすり鉢状に深く掘りこまれた露天砲座の地下には、砲側弾薬庫や棲息掩蔽部(せいそくえんぺいぶ)が造られ、砲弾の供給や地上との連絡、砲台内での貯水や排水の仕組みが合理的に設計されています。地下施設の壁は煉瓦造で、天井は無筋コンクリート造となっています。千代ヶ崎砲台より11年前に建設を開始した猿島砲台は地下施設の壁・天井ともに煉瓦造であり、2つの砲台を比較することにより建築資材や技術の改良と発展を見ることができます。利用場の注意等・公開日 土・日・祝(ただし、12月29日~ 1月3日は除く)・公開時間 9時30分~ 16時30分( 3月~9月) 9時30分~ 15時30分( 10月~ 2月)・史跡内は足元が悪いところがありますので、ご注意ください。・公開工リア以外の場所は、危険なため立ち入りを禁じます。・史跡は国民共有の財産です。構造物を傷つけることや、地面の掘削をすることは禁じます。・地下施設の内部は、市教育委員会認定ガイドと同伴のツアーのみ見学でき、許可のない 立ち入りは禁じます。再チャレンジを期し、引き返す。下り坂から浦賀湾入口の「横須賀市鴨居2丁目」の住宅街を見る。さらに下ると、眼下に「川間ドック跡」が見えた。白い高層マンションは「ヴェラシス浦賀1番館~3番館」。突き当りを右に折れ、「燈明堂200M」に向かって進む。右側には公衆トイレも設置されていた。そして「横須賀市指定史跡 燈明堂跡」に到着。横須賀市西浦賀6丁目。左手奥には石柱、石碑が。「名号碑(題目供養塔 )」 天保11(1840)年7 月建立 。角柱、高さ台座を含め約4m。前面:南無妙法蓮華経右側面:「一切業障海」「皆従妄想生」左側面:「衆罪如霜露」「恵日能削除」 (海のように広がっている悟りの邪魔になるすべての悪行は、皆正しくない考えから生まれる。 多くの罪は霜や露のようなものであり、あたかも太陽の光が万物を均等に照らし、霜や露を 消し去るように、仏の知恵はすべてにわたって、広く一切の生物の上に行きわたり、その 生物が犯した全ての罪を消滅する。)と。裏面:干辰天保十一歳次庚子七月中浣八鳥願主 東耀山 日鳴(花押) 法界平等・・・松崎屋與兵衛台座前面:「海上安全」 廻り込んで正面から。「千代岬瘞骨(えいこつ)志碑」。浦賀奉行浅野中務少輔長祚(ながよし)が嘉永二(一八四九)年二月に建立した碑。「千代岬台場建設中に出土した人骨を供養したもので、弘治二年(ー五五六)十月に房州から攻め入った里見氏と小田原北条氏との合戦の戦死者と推測される」と記されていますが、この付近で合戦があったとする記録はなく、確たる資料も見当たらないと。 そしてこちらは「地蔵菩薩像」燈明堂付近はかつて浦賀奉行所の処刑場だったといわれ、首切場とも呼ばれた。地蔵菩薩像は、死者を供養するために建立された、物流の拠点として栄えた浦賀の回船問屋などが海難者を供養するために建てたというニつの説があるとのこと。天保11(1840)年10 月建立丸彫、像高さ 71 ㎝、基壇高さ 142 ㎝基壇前面:種種重罪三逆消滅 自他平等即身成佛(観音経秘鍵偈・観音経の秘密の奥義、経などの 中に韻文の形で仏の徳を賛嘆し教理を述べたもの)基壇右側面:天保十一庚子年十月 東福寺祥麟(花押)基壇左側・背面に発願元、願主、世話人など 90 名程の名がある。「燈明堂とその周辺慶安元年(一六四八)幕府の命でつくられた日本式の灯台である燈明堂は明治五年(一八七二)までその役割を果たしました。燈明堂の背後の山には平根山台場がつくられ外国船に備えました。平根山台場は天保八年(一八三七)日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られています。ここから海岸線沿いに海に突き出た所には幕末期に、千代ヶ崎台場がつくられました。燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、かつてここが首切場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「幕末期の燈明堂周辺の絵図」。南側の海岸線を見る。ズームして。「浦賀水道」越しに房総半島の山々を見る。上総湊~浜金谷方向を望む。「燈明堂」に向かって狭い遊歩道を進む。「燈明堂にようこそ」燈明堂跡及び周辺地域 昭和43年2月10日指定燈明堂は慶安元年(1648年)から明治5年(1872年)まで、浦賀に出入りする船の安全を守った燈台です。この史跡を郷土の宝として、また歴史の学習や憩いの場として活用し、私たちの子孫に受け継いでいくために、次のことを守ってください。・・・以下 略・・・この史跡は、燈明堂跡とその周辺の土地を指定しています。指定地内には、築造当時から残る石垣とその上に復元した燈明堂のほかに、3基の石碑が建立しています。①地蔵菩薩像供養塔 天保11年(1840年)建立 死者を供養する碑で、台石左側面から裏面には世話人願主名が記されています。②題目塔 天保11年(1840年)建立 大きく「南無妙法蓮華経」の髭題目が刻まれた碑です。③千代岬瘞骨(えいこつ)志碑 嘉永2年(1849年)建立 碑文には千代ヶ崎台場の工事中に出土した人骨を埋葬したこと、その他に北条氏と里見氏の 合戦による戦死者ではないかと推測していることが記されています。 横須賀市教育委員会」「燈明堂」位置図。浦賀湾越しに東浦賀2丁目方向の街並みを望む。その右側には「かもめ団地」。そして「燈明堂」。横須賀市西浦賀6丁目46番地。「横須賀市指定史跡燈明堂跡(浦賀燈明堂) 昭和43年2月10日指定」復元なった浦賀燈明堂の建つ、この場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建っていた燈明堂跡地である。燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。燈明堂は、慶安元年(1648)幕府の命によって、幕史石川文左衛門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。石垣を土台にして、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に、金網をめぐらしてあった。その中には、直径36.4cm、深さ12.2cmの銅製の大きな燈明皿が置かれ、一晩に、灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2km)に達したという。当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に、浦賀奉行に所管替えとなり明治になり、神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは、徳川幕府が賄っていたが、同四年から、東浦賀の干鰯問屋が、一切を負担するようになった。明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって、1日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で、極めて貴重なものである。建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある、大きな石で、高さ約1.8m、幅3.6m、四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。燈明堂跡は、大正13年3月、国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の粋を結集して、当時の姿そのままに復元された。 (起工 昭和63年10月、竣工 平成元年3月) 横須賀市教育委員会」上記の本文では、この燈明堂は“灯心百筋と菜種油一升"と記載されていたのですが、本来は干鰯問屋が干鰯を作った時に出て来る魚油が正しいのだとのネット情報もあったが・・。「燈明堂復元北西立面図」。□3m☓高さ7.321m と。燈明堂の先には岩場が拡がっていた。岩場上から松の樹に囲まれた「燈明堂」を見上げて。岩場を移動して「燈明堂」を振り返る。ズームして。山から突き出たこの構造物は?神奈川県立観音崎公園の「戦没船員の碑」の先端が見えたのであっただろうか?浦賀水道を巨大な貨物船が航行。RORO船 「 第三はる丸 」 ( 大王海運 )か。RORO船👈️リンク のROROとは「Roll on Roll off」の略で、直訳すると「乗せて降ろす」を意味します。RORO船は今、2024年に懸念されている物流問題の対策として、注目されている存在なのだ。「RORO船」と小型船が行き交う。再び岩場越しに「かもめ団地」をズームして。千葉県君津市にある日本製鉄㈱の東日本製鉄所をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・
2024.05.17
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「ペリーのおいたちマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)は、1794年4月10日、ロード・アイランド州ニューポートで生まれました。活発な少年時代を過ごし、わずか15歳で、海軍士官候補生となりました。20歳の時、ジェーン・スライデル( Jane Slidell)と結婚し、暖かい家庭と子供たらに恵まれました。日本遠征から帰国して数年後、1858年3月4日、ニューヨークで亡くなりました。63歳。」「ペリー着用のモール、ボタンと指輪の複製」。「ペリーの生い立ち」コーナー。「ペリーが生まれ育った家」マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督は、1794年にロードアイランド州ニューポートで海軍軍人の三男に生まれた。「ペリーが娘イザベルにあてた手紙(1843年9月6日)」「日本へ来る10年前、船上で書いた娘イザべルあての手紙には、やさしさあふれるペリーの慈父ぶりか読み取れます。家族への愛と、仕事に対する謹厳さか対照的です。」ロードアイランド州ニューポートにあるペリーの生家。ペリーが家族に送った手紙。娘に細やかにあれこれ書いて送っている。喧嘩するんじゃないよ、と。ここに描かれているのはまさしく一人の父親としてのペリー。子供は10人いるが、ペリーより早くなくなってしまった子供が3人もいる。父親としての悲しみはいかほどのものだっただろうか。「セント・ビンセント岬沖のサラトガ号艦上にて 1843年9月6日わが愛する娘イザベルよ。今日、わたしは、おまえのお姉さんのキャロラインへ短い手紙を書いた。同時に、イザベルおまえにも手紙を書いてあげたくなったよ。この手紙が届いたなら、二人ともすぐにお父さんに返事を出しておくれ。お願いするよ。お兄さんのウィリアムが、いつもやっているように、手紙を出すチャンスがある時にそなえて、おまえも日記のようなものを作っておくとよい。なぜかといえは、おまえはいつもお母さんの手伝いで忙しいとおもう。たぶん、手紙を書く時間があまりないだろうから。また、お母さんや叔母さんたちの言いつけをよく守り、一生懸命に勉強しなさい。おまえは、お母さんといっしよに庭の手人れをし、果樹の植えかえを手伝いなさい。それからもうひとつ、庭に植えてあるマテ茶やブドウの木の手入れをやってくれているでしょうね。ウィリアムとともに、イザベルと家族全員に心をこめてこの手紙を送る。わたしの最愛の娘に幸せあらしめ給え。 おまえの愛する父 M.C.ペリー追伸、キャロラインが寄宿学校から帰ったなら、おまえは、かんしきゃくを起こして、けんかなどしてはいけない。姉さんが気持らよく過ごせるようにしてあげなさい。おまえたち二人が、お父さんと兄さん、そして、甥のオリバーや寄宿している姉妹たちのために、毎日お祈りすることを忘れないで欲しい。」「ペリー提督の子供達」。来航から開国に至るまでの変遷を床に描いた、子ども向けの「すごろく」が床面に。映像展示「ペリー上陸の日を描いた絵図」。「米国国書受領之図」〈横須賀市自然・人文博物館所蔵〉ペリーの久里浜上陸を南側から描いた絵図。絵図の上側には浦賀も描かれている。「日本側が描いたペリーたち」。映像展示の横にペリー胸像。近づいて。「特派大使・東インド艦隊司令長官マシュー・カーブレイス・ペリー 1794~1868」「ペリーを支えた部下たちペリーは、すぐれた指導者でした。しかし、遠征の艦隊と乗組員2,000名を動かすためには、有能な部下が必要でした。旗繿の艦長F.ブキャナンやH. A.アダムス参謀長は、事前交渉の役目以外に、ペリー上陸時の警備をしました。さらに、S. W.ウィリアムズ、A. L. C.ポートマンは、大事な通訳をこなしました。これらの人々の努力の結晶が、日本の開国を早めたのです。」下部は「ペリーと乗組員たちを描いた絵巻物」。「日本人の見たペリー瓦版のなかには、ペリーたちを想像で描いたものもありました。これらの瓦版は、浦賀や久里浜から遠く離れた村の人々にまで読まれました。」近づいて。さらに。「企画展示 開國百年記念祭」「企画展示 開國百年記念祭ーペリー来航がつなぐ久里浜と日米友好の歴史ー1953年、ペリー来航から100年になるこの年、横須賀市・アメリカ海軍は盛大な記念式典を行いました。展示物は当時の様子を写した写真、作られた記念品等となります。多くの市民、米軍関係者が参加し、当時の熱狂ぶりが伝わります。開国百年記念祭は当時の劇作家「永田衡吉」を構成・監督とし、人気演劇学者であった「河竹登志夫」らを演出に迎え、執り行われました。当時の首相であった吉田茂が構想を練ったとも伝えられています。1953年(昭和28年) 7月26日、来航・上陸などを再現した劇や、国旗掲揚などの記念式典、周辺のパレードなどが盛大に行われました。劇の出演者は、外国人役は米軍の関係者、日木人役は役所の人間が出演したと言われています。(記念祭内容)記念碑正面から砂浜と海上を使い、号砲・花火、狼煙(当時の連絡を再現)、国書受渡しの劇、国旗掲揚の式典、ミンストレルショー(ペリー来航時に披露された出し物)の再現、市民が参加して黒船音頭などが行われました。」「開國百年記念祭」の様子。「ペリー来航開国百年 記念館建設協賛シール」1953年の記念祭で記念館協賛のため作られた。「日米百年祭」記念絵皿。「開国百年記念祭発行パンフレット 1953年アメリカ政府発行」。三浦半島のジオラマ地図もあった。このペリー公園・ぺリー記念碑があった。近づいて。左手に「剣崎」その先に「城ヶ島」。「戸田伊豆守の胸像」、「すごろく」を振り返って。「横濱開港新聞 創刊号 嘉永7(1584)年3月3日」「資料集『記念碑の知識』記念碑の除幕式です●記念碑建設委員会アメリカ退役海軍少将ビィアズリーの演説を受けて、政治家の金子堅太郎、星亨、山口熊野、菅原傳、東京府知事、帝国大学総長を歴任した渡辺洪基、外交官の長崎省吾、機浜商業会議所(後の横浜商工会議所)会頭の大谷嘉兵衛、銀座で日本を代表する煙草商の、江添商店・江添廉三、電話技術をアメリカから持ち帰った電気技術の加藤木重教、日本郵船の副社長もつとめた伊藤米次郎、など10人が米友協会から選出され、「記念碑建設委員会」が組織されました。そして、明治33年(1900年)12月5日にはビィアズリー氏をはじめ、設立委員が久里浜を訪れペリー上陸地の見分を行い、久里浜字大濱に「嘉永六年米国水師提督被留理氏上陸地記念碑」と題した木標(六寸角)を立てました。碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文の筆によるものです。除第式は明治34年(1901年) 7月14日、べリーの上陸と同じ日に行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、個人として榎本武揚や徳川家達、アメリカからビィアズリーやべリーの孫にあたるロジャーズ少将等、総数約1,000人で、久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど、盛大な式となりました。●記念碑の基礎知識記念碑の大きさは高さ4.5メートル、幅2.4メートル、重さは11.4トンに及びます。素材は仙台産の花崗(かこう)岩で、碑の台石は、相州産:根府(ねぶ)川石となっています。刻まれている文は伊藤博又の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」と書かれています。碑又を彫刻しを石工は、横浜の横溝豊吉氏。碑の字画は鮮明で、伊藤の筆勢をよく表し、特に、裏面の英文は除幕式に参列したアメリカ人からも称賛されました。また、碑文には「紀念碑」と表記されていますが、本文中では「記」の文字で統一しています。*広辞苑で、記念は「紀念」とも書く、と説明されています。」●引き倒された記念碑日米親善の象徴となった上陸記念碑ですが、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦以降、アメリカに関係するもを性のものと憎まれ、記念碑にも矛先ガ向けられました。昭和19年(1944年)こは横須質市の翼賛壮年団を中心として、碑を粉砕して道路に敷こうという運動が起きました。これには軍人である鎮守府長官も『記念碑には罪はない!』と、とりあわなかったそうですが、ついに県知事の許可と受けて、昭和20年(1945)2月8日、碑は大綱を掛けられ引き倒されました。そのあとには「護国精神振起之碑」の木柱がたてられました。これは、評論家の徳富蘇峰の筆によるもので、後に石碑に代える予定でした。ところが半年後の8月15日に終戦となり状況は一転し、粉砕されずに残っていた碑は11月に復元されました。以後、この碑の前で毎年7月に横須賀市がペリーの上陸を記念する式典を開催しています。」●現在のペリー上陸記念碑昭和62年(1987年)5月1日に、市制80周年を記念して、ペリー記念館が開館しました。寄贈された黒船の模型や、上陸にまつわる貴重な資料が展示されています。」そして「ペリー記念館」を後にして、「ペリー公園」の西角に向かう。そこにあったのが「ぺるり上陸の地」碑。そして「ペリー上陸記念碑」の後ろ姿を再び。時間は13時。「久里浜~金谷フェリーのりば」案内板。「横須賀くりはま花の国」ポスター。「ポピー&ネモフィラまつり」ポスター。2024.4.6~5.26にて「横須賀くりはま花の国」にて開催中と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.16
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2階展示もあるので、階段で上がる。その途中にも所狭しと、貴重な資料が展示されていた。「ペリー記念館 掲示板」さまざまな「よこすか海軍カレー」が並んでいた。階段の壁に掲載された久里浜を写した写真を追う。「久里濱の風光」久里浜海岸と住吉神社。久里浜沖のアシカ島灯台。ペリー上陸記念碑とペリー一行の上陸の光景。ペリー提督の肖像とアメリカ本国から乗ってきたミシシッピー号。日本にやってきたペリー提督は、江戸幕府に沢山の土産を持って来た。ペリー提督から献上された汽車模型の図。「米利堅人饗応之図(複製)」。米利堅人饗応之図中の幕府へ献上した蒸気機関車模型の図。本物の蒸気機関車の1 / 4サイズで、動く蒸気機関車としては日本で初めて走った蒸気機関車として知られている。ミシシッピ号。「THE NAVAL AND MAIL STEAMERS OF THE UNITED STATES(複製)1955年ペリーを乗せて来航したミシシッピ号」。「黒船がやってきた!日本は.江戸幕府の支配のもとに、長い太平の世を過ごしていました。外国から見ると、それは「鎖国」でした。しかし、18世紀末から日本近海には、諸外国の船がたびたびやって来るようになりました。かれらは、通商と国交の開始を求めました。当時、世界は、大きく変わろうとしていました。欧米諸国は、アジアに工業原料を求め、そして、自国で生産された商品を売り込もうとしていました。」「ペリー立像の図」「アメリカの貿易と日本」「東洋へ進出するアメリカ独立して百年にもならない若いアメリカは、ヨーロッパに比べて、アジアの進出に出遅れていました。1818年、太平洋岸のカリフォルニアまで領土を伸ばしたアメリカは、蒸気船を利用すれば、20日間で中国大陸へ到達することが可能になりました。太平洋を越えて、中国の茶と生糸を輸入し、ボストンなどで生産された綿製品を輸出する仕組みができたのです。日本は、アメリカと中国を結ぶ中間に位置していました。ペリーに代表されるアメリカの開国要求の目的は、ここにありました。」「瓦版と庶民の目ペリーに直接会えない庶民は、想像をたくましくしてアメリカ人を描きました。まったく間違いの描写もありますか、よく見ると、正しい地理の知識も含まれています。」黒船来航を伝える当時の瓦版.吉田松陰は1854年、ペリーが再来航したときに、海岸にあった漁船で旗艦に漕ぎ寄せて乗船した。そこでアメリカへの渡航を請願するものの、拒否されて願いはかなわず、下田奉行所に自首して投獄されたのであった。ペリー来訪の絵。横浜にて応接の図幕府からペリー一行への贈答品が記されている。横浜での交渉場面を描く。中央でひざまずく人物がペリー提督。向かい合わせで描かれた武士像は、幡や陣幕の紋は力の象徴であった源為朝を連想させ、武士にひざまずくペリーの姿は、日本の武威に従う異国という対外認識を示している。世界六大州ノ内北あめりか州ハ日本の東に当りて海上五千里ヨと云開闢より千八百五十四年独立建国して七十七年に相成日本嘉永六年六月合衆国の王「ふりしてんとくの命を請けて官差大臣提督まつちうせへるりと云書簡を持相州浦賀表へ渡来す又御願筋の義ニ付同七年正月十七日浦賀表へ来る同廿二日対顔ニおよふ左之一机 一料紙硯一花入 一火鉢 広蓋 一置物一吸物椀六百人前 一羽二重二十疋一紋縮緬五疋 一板メ縮緬五疋一大根 八百本 一にんじん五百本一ねき 七十把 一菜四百把一蜜柑 七箱 一鶉五十羽一玉子 千 一上菓子六箱一鶏 三百羽 一米二百俵但し五斗入使節へ一羽二重五疋 一板メ三疋一紋縮緬二疋船将九人へ一羽二重三疋ツ 一板メ二疋ツツ通弁官へ一板メ三疋ツツ●下方民之悦一右之品々二月二十二日於浦賀表天下大平之御代而是被下●「あめりかことば和解の写」。「戸田氏栄(とだ うじよし)胸像」、その前の床の「すごろく」を見る。戸田氏栄(とだ うじよし)胸像。戸田氏栄(とだ うじよし、寛政11年(1799年) - 安政5年8月21日(1858年9月27日))は、江戸時代後期(幕末)の旗本、幕臣。官位は従五位下・伊豆守。知行は500石。浦賀奉行としてマシュー・ペリー来航時の折衝役となった。大垣戸田家の分家、深坂戸田家6代当主である。「使節応接役・浦賀奉行戸田伊豆守氏栄(とだ・いずみのかみ・うじよし 1799~1858)」今にも言葉を発しそうな顔!!「ペリーの久里浜上陸」絵図。「ペリーの久里浜上陸1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、江戸幕府は、大統領フィルモアの親書を受け取るため、久里浜にペリーを迎える応接所を建てました。」「ペリーが会見場に臨む様子 画:尾形月山」。「1853年7月14日ペリー上陸直前に描いた絵巻物」。「アメリカ人久里浜上陸の図」。「ペリーの外交術ペリーの日本に対する態度は、以前に渡来したアメリカの艦隊の場合とは、全く違っていました。特派大使として、交渉の権限を持った外交官僚以外と会うことを拒否したのです。確固たる態度と自信。それが、日本の鎖国の扉を開ける名誉をペリーに与えたのです。ペリーは、無理押しせずに、大統領フィルモアの親書に対する返事を直ちに要求しませんでした。しかし、再度来航の時に備え、江戸湾の測量を怠りませんでした。」「横浜応接所に決定翌年2月(永7年1月)、ペリーは、再び江戸湾に現れました。予定されていた浦賀の応接所を横浜に変更させました。そして、ここで日米和親条約か結ばれました。」「1854年横浜沖に停泊する艦隊を描いた絵巻物」「1854年当初予定されていた浦賀の応接所を描いた絵巻物」。艦隊移動の様子ペリー初時の浦賀奉行所と幕府の対応嘉永6年( 1853年)6月3日(7月8日) ペリー艦隊4隻浦賀沖来航、与カ中島三郎助・通訳の堀達之助がサスケハナ号に 乗り込み交渉6月4日(7月9日) 与カ中昌三郎助に代わって、浦賀奉行を演じた与カ番山栄左衛門が交渉6月6日(7月11日)ミシシッピー号江戸湾侵入し短艇を使い湾内調査・測量を行う、番山栄左衛門が 抗議し引き返す。同日、江戸城大広間にて大評定が開かれ国書受領が決定される。6月7日(7月12日) 香山栄左衛門、久里浜てのアメリカ大統領の国書を受け取りを伝える6月9日(7月14日) ペリー久里浜に上陸、国書授受の儀式、アメリカ大統領の国書受理6月10日(7月15日) ペリー艦隊、江戸湾内を北上、ミシシッピ号が羽田沖まて侵入6月11日(7月16日) ペリー艦隊、小柴沖停泊6月12日(7月17日) ペリー艦隊 帰帆 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.15
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そして「ペリー記念館」を訪ねた。「ペリー記念館」では、ペリー来航に関する歴史的資料や模型などが展示され、当時の絵巻物や瓦版などから、人々の驚きや動揺を知ることができるのであった。記念館は、ペリー来航という歴史的事実や、その意義を将来にわたって伝えてい行くのだと。横須賀市久里浜7丁目14。「ペリー記念館」案内。「入館案内■開館時間 9:00~16:30■休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合 翌日)」■入場無料」館内入口右にあった「ペリー提督像」。近づいて。「ペリー上陸の地~久里浜 黒船来航170周年」ポスター。ペリー率いる黒船艦隊が初めて浦賀沖に来航したのは1853年7月8日。昨年は黒船来航170周年であった。 横須賀市久里浜にはペリー上陸記念碑や記念館、開国橋など黒船に関連した建造物等が多く存在し、また久里浜港 はみなとオアシス“ペリー久里浜”として国土交通省に認定されている。 さらには古くから黒船初来航のまちとして、毎年 7 月に“久里浜ペリー祭”も盛大に行われている。 この度、黒船フェリーを令和5年11月22日から運航することにより、横須賀を“黒船初来航の地”として広く周知し、横須賀市・地元観光協 会・地元商店街とともに観光活性化を図ったとのこと。 千葉・金谷を定期運航する「しらはま丸(3,351トン・旅客定員 680 名)」の船体を、黒船(サスケハナ号) に模したラッピング施工を行ったと。ユニークなラッピング!!船体の左右舷 黒船サスケハナ号の`蒸気外輪`を模写 …横須賀 久里浜⇔南房総 金谷/東京湾フェリー/(しらはま丸) と館内受付。受付で館内撮影可を確認。受付には入館者用の名簿が置いてあり、日付と名前を書くだけなので、すみやかに記入を済ませた。展示品配置図。横須賀市市制80周年を記念して1987(昭和62)年に建てられた記念館。ペリー来航と開国の歴史を広く伝えるため、当時の様子が分かる貴重な資料などを展示していた。そして展示コーナーへ顔出しパネル「ペリー上陸の地 久里浜」。ホールの奥には、当時の黒船来航を再現したジオラマ模型が展示されていた。模型でも威圧感が伝わって来たのであった。「ペリーと黒船(ジオラマ)」。「1853年にやって来た4隻の黒船●蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦 艦長 F.プキャナン 全長 257フィート 2,450トン 大砲6門●蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI 艦長 S.S.リー 全長 225フィート 1,692トン 大砲12門●帆 船 プリマス号 PLYMOUTH 艦長 J.ケリー 全長 147フィート 989トン 大砲4門●帆 船 サラトガ号 SARATOGA 艦長 W.S.ウォルター 全長 150フィート 882トン 大砲4門」移動してジオラマを見下ろす角度で。反対側から。中央に後に訪ねた「燈明堂」、右に「浦賀奉行所跡」、左奥に「久里浜湾」。「蒸気船 サスケハナ号 SUSQUEHANNA 旗艦 艦長 F.プキャナン中佐、乗組員 300名 全長 257フィート(78.33m) 重量 2,450トン 、大砲6門」「蒸気船 ミシシッピー号 MISSISSIPPI 艦長 S.S.リー中佐、乗組員数 268名 全長 225フィート(68.58m) 重量 1,692トン 、大砲12門」「帆 船 プリマス号 PLYMOUTH 艦長 J.ケリー中佐、乗組員 210名 全長 147フィート(44.81m) 重量 989トン 、大砲4門」「帆 船 サラトガ号 SARATOGA 艦長 W.S.ウォルター中佐、乗組員数 210名 全長 150フィート(45.72m) 重量 882トン 、大砲4門ペリー来航の歴史案内。「鎖国後の日本1603年(慶長8年) 江戸幕府を開く 1639年(寛永16年) 鎖国が完成する 1853年(嘉永6年) ペリー艦隊 浦賀に来航 1854年(安政元年) 日米和親条約(神奈川条約)を結ぶ1856年(安政3年) ハリス下田に着任 1858年(安政5年) 各国と通商条約を結ぶ1860年(安政7年) 勝海舟 咸臨丸で太平洋横断1868年(明治元年) 明治維新(江戸を東京とする)1894年(明治27年) 日清戦争がおこる1901年(明治34年) ペリー来航記念碑完成1904年(明治37年) 日露戦争がおこる1914年(大正3年) 第一次世界大戦( ~ 1918年)1931年(昭和6年) 満州事変がおこる1937年(昭和12年) 日中戦争がおこる1941年(昭和16年) 太平洋戦争がおこる( ~ 1945年)1956年(昭和31年) 日本が国際連合に加盟するペリー艦隊 来航略年譜1852年(嘉永5年) 11月24日 アメリカ ノーフォークを出航1853年(嘉永6年) 5月23日 中国・香港を出航 7月2日 沖縄・那覇を出航 7月8日 浦賀沖に到着 7月14日 久里浜に上陸(国書を渡す) 7月17日 江戸湾を退去(香港へ)1854年(嘉永7年一安政元年) 1月14日 香港を出航 2月13日 横浜・小柴沖に来航 3月8日 横浜村に上陸 3月31日 神奈川条約締結 4月14日 伊豆・下田港開港(ペリー寄港) 5月17日 北海道・函館港開港(ペリー寄港) 6月28日 日本を退去 香港へ 香港集結後 各船 単独帰国 9月11日 ペリー提督 蒸気船ヒンドウスタンにて 単身帰国(疲れと持病<リウマチ>の悪化の為)」神奈川条約 下田条約の違い神奈川条約1854年(嘉永7年)神奈川・横浜に於いて日米和親条約(神奈川条約)が締結 下田と箱館(現函館)の開港が決まるペリー率いる黒船が続々と下田に入港し了仙寺はアメリカ使節の接待所 兼徳川幕府川との交渉場所となった第二条伊豆田の下田港と松前領の箱館港は、アメリカ船舶の受け入れ港として、日本人に許容されるものとする。この2港においては、日本人がそれを有する限り、薪水、食料、石炭、その他の必要な物資の供給を受けることができる。下田港は本条約調印のうえ即時開港し.箱館は日本暦の明年同日以後、即時開かれるものとする。ただし、提供すべさ物品の値段表は日本役人から渡され、その支払いは金貨または銀貨をもって行われるものとする.下田条約1856年(安政2年)伊豆下田・了仙寺に於いて日米和親条約付録(下田条約)が締結されアメリカ人の日本に於ける規則というものが出来た日本で初めて外国人が自由に町中を歩けた 日米の異文化交流の歴史は下田から始まった2年後下田に初代アメリカ駐日領事ハリスが来て日米の付さ合いの歴史が始まったアメリカ人の移動可能範囲は下田より7里 函館より5里四方に限り武家・町家に立ち入る事を禁ず アメリカ人に対する暫定的な体息所として了仙寺、玉泉寺に置き米人墓所は玉泉寺に置くアメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず」「ペリー来航に関係した人々戸田伊豆守 氏栄(奉行) (1799 ~ 1858 ) 美濃(岐阜県)駿府町奉行 日光奉行を経て1847年(弘化4年) 2月 浦質奉行になる幕府の旗本 禄高5000石ペリー来航時 ペリー提督よりアメリカ大統領フィルモアの国書受け取る井戸石見守 弘道 (奉行) (? ~ 1855)生い立ち はっきりした記録なし幕府・大目付海防掛けを経て1853年(嘉永6年) 4月 浦賀事行になる禄高 3005石 ペリー来航時 在府浦賀奉行として江戸に居た浦賀に帰り戸田伊豆守の補佐として接見した中島三郎助(与カ) (1821 ~ 1869)浦賀の役宅で生まれる海防に関心か強く洋式砲術の評価が高い 軍艦(蒼隼丸)を建造 大砲を乗せるペリー来航時 通訳堀達之助と最初にサスケバナに乗り込み交渉の立役者にな「外国との付き合いはなく外国船は長崎(出島)へ行くよう」「長崎なら外交交渉が出る」事をペリー提督に伝えた」香山栄左衛門(与カ) (1821 ~ 1877) 遠州・新宮生まれ|15歳で浦賀奉行所与カ 香山堅兵衛の養子になる中島と義兄第(妻同士が姉妹)ペリー来航時中島の紹介によりニセ浦賀奉行として交渉にあたるペリー側の信頼が高く54年横浜の交渉にも参加する堀達之助(通訳) (1823 ~ 1894) 長崎オランダ通詞家の5男1848年漂着した捕鯨船員「マクドナルド」から日本で初めて「英語」を学んだペリー来航時中島三郎助がサスケハナを訪れた時 通訳として同行語学の評価が高く54年日米和親条約の和解(和訳)にもあたる」ペリー来航までの外国艦隊の主な来航1792年(寬政4年) ロシア使節ラクスマン 根室へ寄港 1796年(寬政8年) イギリス人・プロートン 室蘭に寄港1804年(文化元年) ロシア使節レザノフ 長崎へ寄港1808年(文化5年) イギリス船フェートン号事件(長崎にオランダ船に偽装し入港) 1818年(文政元年) イギリス船プラザース号 浦賀に来航1822年(文政5年) イギリス捕鯨船サラセン号 浦賀に来航1825年(文政8年) 幕府異国船打ち払い令を出す1837年(天保8年) アメリカ船モリソン号 浦賀に来航(砲撃により退去させる)1842年(天保13年) 幕府 異国船打ら払い令を緩和→天保の薪水給与令に改める1844年(弘化元年) オランダ軍艦マンハッタン号 長崎へ(国王・開国勧告)1845年(弘化2年) アメリカ捕鯨船マンハッタン号 浦賀に来航1846年(弘化3年) アメリカ、ビットル提督(軍艦2隻 ) 野比沖1849年(嘉永2年) イギリスマリナー号 浦賀に来航1852年(嘉永5年) ロシア船 下田に来航1853年(嘉永6年) アメリカ、ぺリー提督 黒船艦隊4隻 浦賀に来航」「ペリー上陸記念碑 建立から現在(平成23年)」1900年(明治33年)10月 艦隊に乗り組んでいたビアズリー退役海軍少将来訪 11月 ビアズリー氏 米友協会の招待を受けスピーチを行う。 満場の会員に感銘を与える 久里浜建碑の件 満場一致で決定1901年(明治34年) 6月 米友協会代表 金子堅太郎氏2万円の建築基準を集める 7月6日 記念碑完成 記念碑概要 記念碑 材料 仙台産花崗岩 高さ 15尺(4.5m) 幅 8尺(2.4m) 厚さ ー尺2寸(0.4m) 重量 10屯余り 貴台 材料 根府川石 高さ 18尺(5.4m) 幅 11尺(3.3m) 厚さ 5尺(1.5m) 重量 6屯余り 総高 33尺(10m) 費用5000円 文字 北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑 書 大勲位侯爵 伊藤博文 石工 横浜 日ノ出町 横溝豊吉 ※ 再建後の現在は総高8.68m ※」ペリー提督の写真。「マシュー・カルブレイス・ペリーアメリカ海軍の軍人、江戸時代末期に開国を迫るため4隻の艦隊を率いて日本に現れた。」「1901年(明治34年)、米供協会の手によって、開国ゆかりの地にペリー上陸記念碑が建てられました。ペリーの果たした役割と人物像を紹介するために、この記念館がつくられました。」「泰平のねむりをさますじょうきせん(上喜撰 お茶の銘柄) たった4杯で夜も寝られず作者 老中 松平下総守」「ビッドル提督 来航1846年5月27日野比海岸数キロ沖に停泊インド隊切令長官ビッドル提督コロンバス(軍艦)ビンセンス(軍艦)来航の目的政府の公的使節として日本政府との通商を求める幕府はビットル提督の申し人れを拒否6月7日艦隊は野比沖を離れるビッドル艦隊は武器 乗員とも桁外れの大船だった幕府は鎖国政策の一環(大船建造禁止)を廃止*ビッドル提督来航1846年5月27日 (ペリー提督来航の7年前)*ペリー提督来航1853年7月8日」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.14
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そして、「ペリー公園」に到着。「ペリー公園」はペリーの上陸を記念して作られた歴史公園で、園内にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館などがあり、歴史的資料やジオラマなどを展⽰していたのであった。⽇本の歴史公園100選にも選ばれている、ペリーの久⾥浜上陸を記念して作られた歴史公園。園内にはペリー記念館、ペリー上陸記念碑および記念碑広場、児童広場があり、約250本の松の緑の向こうに久⾥浜の海と⻘い空が広がる⾒事な景観も魅⼒。横須賀市久里浜7丁目14。「ペリー記念館」案内板。入館無料、開館9:00~16:30。休館日 年末年始、月曜日(祝日の場合、翌日)「ペリー公園」内に入ると、正面に巨大な「ペリー上陸記念碑」が迎えてくれた。「市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 ペリー上陸記念碑」「ペリー上陸記念碑物語」案内板。「ペリー上陸記念碑物語長い間外国との貿易を制限していた徳川幕府に1853年(嘉永6年)アメリカ大統領の国書をもって来航した東インド太平洋艦隊司令長官ペリーは幕府と交渉し強い態度で開国を迫り、ついに1853年7月14日幕府に大統領の国書を受理させ再来航を約束しアメリカに帰りました。 このとき今まで200年以上にわたり外国との交流を閉じていた日本の地に外国の使節団が上陸し、幕府とアメリカの交渉が行われた場所が場所が久里浜であり、新しい日本の夜明けはこの久里浜から始まったのです。ペリー提督が初めて日本の地に上陸してから47年後の1900年(明治33年)10月25日アメリカ退役海軍少将ビアズリーが夫人と共に久里浜を訪れました。ビアズリーは17歳の時、少尉候補生としてペリー提督と共に久里浜に上陸したのです。彼は青年の頃訪れた美しい久里浜にたくさんの思い出があり、アメリカの使節団が初めて訪れた地に何も記念するものがないことを残念に思いました。ホテルのある横浜に帰ったとき新聞記者に久里浜でのことを話しました。その内容が新聞に掲載されました。また、明治政府の下で近代社会を築きつつあった明治10~20年代には前途有為な人達が留学や働く場所をもとめて欧米に渡りました。特にアメリカに留学し日本に帰国した後、政界や経済界で活躍する人達が集まり、1898年(明治31年)交友の場として米友協会が設立され、その米友協会の席上でもビアズリーが演説し、このことが契機となって当時の米友協会の会長でハーバード大学で学んだ金子堅太郎男爵(当時)を中心に上陸記念碑建設の運動が起こり「記念碑建設委員会」が組織され募金や明治天皇の下賜金によって記念碑は完成し、1901年(明治34年)7月14日ペリーの上陸と同じ日に除幕式が行われました。参列者は桂首相ほか閣僚、徳川家達、榎本武揚、アメリカからはビアズリーやペリーの孫にあたるロジャース少将等、総数1000人で久里浜沖では日米の軍艦が祝砲を放つなど盛大な式典となりました。日米親善の象徴となた上陸記念碑ですが太平洋戦争中にはアメリカに関するものは敵性のものと憎まれ1945年(昭和20年)2月8日横須賀市の翼賛青年団を中心としたグループに引き倒されました。ところが半年後の8月15日に終戦となり11月に復元されました。日本の歴史上大切な足跡を刻んだペリー上陸記念碑のもつ意義をこれからも大切に見守ってゆきましょう。参考 記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石 刻まれている文字は伊藤博文の書で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と書かれており 碑文を彫刻した石工は横浜あの横溝豊吉です 令和4年(2022年)3月 久里浜地域運営協議会 久里浜の文化を考える会」「ペリ-公園」案内図。ズームして。「ペリー上陸記念碑」に近づいて。記念碑の大きさ 高さ4.5m 重さ11.4t 仙台産の花崗岩 碑の台座は根府川石 と。手前に「錨のモニュメント」が。石碑には「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」と。1901年の建造、と。「大勲位矦爵伊藤博文文書」の文字が。ペリーは「伯理」と漢字表記されていた。これは伊藤博文の筆によるもの。1900年伊藤博文が名誉会長を務める米友協会(アメリカに留学経験や居住経験のある日本の人士が結成した交流組織)の式典で、退役海軍少将レスター・ビアズリーが「ペリーが上陸した久里浜の地に記念するモノが何もないのはいかがなものか」と苦言を呈した。ビアズリーはペリーとともに少尉候補生として久里浜に上陸した人物で、47年ぶりに久里浜を訪れていた。日本側からすれば「黒船が勝手にやって来てしょうがないから開国してやっただけなのに・・・」というのが本音だったのかも知れませんが、米友協会が中心になって記念碑建造に奔走し8か月で完成にこぎ着けた。除幕式典は、当時の桂首相や閣僚ら日米の関係者約1000人が参列する壮大なものとなった。もちろんビアズリーも参列した。ちなみに太平洋戦争中1945年2月には、「国辱的記念物」だとして記念碑が引き倒されるという受難に遭った。記念碑を当時のアメリカ大統領ルーズベルトに例え、「ルーズベルトの首を叩き落してやったぜ」と書いた猛々しい新聞もあったと。日本軍部はもともと「いや記念碑に罪ない」と取り合わなかったそうですが、戦局の悪化する中で愛国心溢れた民衆の声を聞き入れたパフォーマンスに頼らざるを得なくなったようです。もはや末期症状ですが・・・。戦後すぐの46年初には、アメリカ占領軍に見つかったらマズイということで、そそくさと復旧されました)とネットから。台座には「MONUMENT IN COMMEMORATION OF THE LANDING OF COMMODOREPERRY U.S.N.MARQUIS HIROBUMI ITO CRAND ORDER OF CHRYSANTHEMUM」と英文で。「ペリー来航図アメリカ海軍東インド艦隊4隻を率いるペリーは、大西洋を渡り、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して、1853年7月8日(旧暦の6月3日)に浦賀に入港した。」「1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリー(Matthew C.Perry)は、7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配のもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。ペリー来航より48年後の1901年7月14日、米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。」と。大西洋を渡り、ケープタウン、シンガポール、香港、上海、沖縄、小笠原諸島を経由して、1853年7月8日(旧暦の6月3日)に浦賀に入港。「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」の裏面には「嘉永6年6月9日上陸 明治34年7月14日建之THIS MONUMENTCOMMEMORATESThe First ArrivalOFCOMMODORE PERRY,AMBASSADOR FROM THEUNITED STATES OF AMERICAWHO LANDED AT THIS PLACEJULY 14,1853ERECTED JULY 14.1901.BYAMERICA’S FRIEND ASSOCIATION」と。「この記念碑は1853年7月14日、アメリカ合衆国大使のコモドール・ペリー提督がこの場所に初上陸したことを記念して建設する1901年7月14日 AMERICA'S FRIEND ASSOCIATION」アメリカから寄贈された?錨のモニュメントであろうか。「「泰平のねむりをさます・・・」の歌碑」。「泰平のねむりをさますじょうきせん たった四はいで夜も寝られず」。「じょうきせんの碑江戸幕府は約200年にわたり、外国との通商・交通を禁止する鎖国政策をとっていた。その日本に対し突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(旧暦嘉永6年6月3日)開国を迫る4隻の黒い艦隊が浦賀・鴨居沖に現れ、同艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。江戸湾の守備にあたっていた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船を見て、驚き動揺した。開国を促す黒船の来航に幕府要人はもちろんのこと、その威容を見聞きした人たちの驚きはどんなであったろう。この驚きを端的に表現したのが、この落首である。なお、「久里浜村誌」によれば、この落首は、老中松平下総守(間部詮勝)号松堂作とも言われている。 平成ニ年七月 横須賀市」「ペリー公園」碑。記念碑の手前に立つ石碑。1935年に「伯理記念碑保存会」という組織によって建造されたもの と。「北米合衆國水師提督伯理上陸記念碑建設者タル米友協會ノ意志ヲ継ギ本日以後本會ニ於テ該記念碑並構内ノ維持管理ニ當ルコトトナレリ仍テ茲ニ之ヲ誌ス昭和十年二月ニ日神奈川縣廳内 伯理記念碑保存會」「KANEKO PINETHIS TREE PLANTEDBYVISCOUNT KANEKOJULY 14TH 1901かねこ松米友協会会長子爵金子堅太郎氏手植松明治34年7月14日」「RODERS PINETHIS TREE PLANTEDBYREAR ADMIRAL RODERSJULY 14TH 1901ろぢあーす松 米海軍少将 ろぢあーす氏 手植松 明治三十四年七月十四日」「文化財説明板」。「文化財説明板横須賀市指定重要有形文化財(歴史資料)ペリー上陸記念碑 1基この記念碑は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー提督(Matthew Calbraith Perry)が久里浜に上陸してから48年後の明治34年(1901年) 7月14日、米友協会(会長金子堅太郎)により建立された。総高は5.25m。碑前面「北米合衆國水師提督伯理上陸紀念碑」は初代内閣総理大臣伊藤博文(同会名誉会員)の筆による。建立の経緯は、明治33年(1900年) 11月こ開かれた米友協会式典で、ペリーとともに久里浜に上陸した退役海軍少将ビアズリーが、上陸の地に日米両国最初の接点を示す光景が無いことを語り聴衆に感銘を与えたことに始まる。早速、米友協会は記念碑建立を計画し、明治憲法起草に関わった法律家で政界にも影響力の大きい金子が尽力して国内だけでなくアメリカからも建設費用を募り、わずか8ヶ月で記念碑落成式を迎えることができた。こうして建立された記念碑によりペリー上陸の意義は伝えられていったが、太平洋戦争中には敵国を讃えているとして引き倒されたことがある。しかし、終戦後の昭和20年(1945年) 11月に復元され現在に至っている。この「ペリー上陸記念碑」は、日本の近代の幕開けを象徴すると同時に日米両国の国際関係の歩みを示す貴重な歴史資料である。平成19年3月12日指定横須賀市教育委員会 平成19年10月設置」「ハイネ画 ペリー久里浜上陸図」「ペリー上陸記念碑」を斜め裏から「ペリ-記念館」を背景に。そして「ペリ-記念館」に向かって進む。左側にあったのが「ペリーの出生地の記念石」。ペリーの出身地アメリカのロードアイランド州ニューポート市から友好の印として贈られた石。「Presented on 14 JulyDedication of Commodore Perry Museumby RADM James D.Cossey Commander U.S Naval ForcesJapan and Honorable Patrlck Kirby,Mayor of Newport昭和62年7月14日 寄贈ペリー准将博物館への献石在日米海軍司令官 ジェームス-D.ユッシー少将及びニューポート市長 パトリックカービー氏 これを贈る」「Commemorative Rock From Newport,Rhode Island,USABirthplace of Commodore Matthew C.PerryマシューC.ペリー准将の出生地である米国ロードアイランド州ニューポート市からの記念石」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.13
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さらに「久里浜」方向に海岸線を進む。左手にあったのが「横須賀市消防局 消防総合訓練センター」。横須賀市長瀬3-4-1。鎌倉市を含めた横浜市、横須賀市、逗子市の4都市がここ横須賀市長瀬の横須賀市消防総合訓練センターで、中高層建物火災を想定した合同訓練が行われているとのこと。エピローグを迎えた桜並木の下を歩く。花びらが歩道上に舞い散って。左手にあったのが「国土交通省 国土技術政策総合研究所 横須賀庁舎」。国総研の横須賀庁舎においては、沿岸海洋、港湾、空港分野の研究開発を実施ししています。国総研で得られた研究成果は、港湾、空港等に関する政策の企画・立案や事業の実施を通じて広く社会や国民の皆様に還元されます と。「国土交通省 国土技術政策総合研究所 港湾空港技術研究所」。港湾空港技術研究所は、国土交通省所管の国立研究開発法人海上・港湾・航空技術研究所を構成する研究所である。港湾及び空港の整備等に関する調査、研究及び技術の開発を行っているとウィキペディアより。海岸沿いまで進むと、左手湾の先に「JERA 横須賀火力発電所」が見えた。横須賀市久里浜9丁目2−1。JERAは、東京電力ホールディングス傘下の東京電力フュエル&パワー(東電FP)と、中部電力とが50%ずつ出資し、燃料の上流開発・調達・トレーディング・輸送から、火力発電所の建設・運営までを手掛けるエネルギー企業である。JERAという社名は、Japan(日本)の頭文字、energy(エネルギー)の頭文字にera(時代)という語を組み合わせたものであり、「日本のエネルギーを新しい時代へ(Japan's Energy fora new eRA)」という意味が込められている。2023年6月30日に新1号機が、同年12月22日に新2号機が営業運転を開始した。新1号機 発電方式:汽力発電方式 定格出力:65万kW 使用燃料:石炭 蒸気条件:超々臨界圧(Ultra Super Critical) 熱効率:43.0%(高位発熱量基準) 着工:2019年8月[8] 営業運転開始:2023年6月30日[10]新2号機 発電方式:汽力発電方式 定格出力:65万kW 使用燃料:石炭 蒸気条件:超々臨界圧(USC) 熱効率:43.0%(高位発熱量基準) 着工:2020年4月 営業運転開始:2023年12月22日遠く房総半島の山々の姿が。海岸沿いには多くの岩場が顔を覗かせていた。そして大きな橋を渡る。下を流れる川は「平作川(ひらさくがわ)」。「平作川」。「平作川」の河口。「平作川」の上流を見る。延長は7.07kmとあり、そんなに長くはない河川である。平作川源流のひとつは大楠山〈これも三浦半島最高峰〉の東山麓、山林中にあり、また河川法上(?)の平作川本流源流は住宅地域の斜面からの湧水だったりするのだと。ほかにもいくつか支流が集まって中流部からは衣笠、久里浜などの市街地、住宅地を通り久里浜開国橋で河口、東京湾浦賀水道に出るのだと。橋の名は「開国橋」。橋名の由来はマシュー・ペリーによる黒船来航の際この橋の近くから上陸したためと言われている。久里浜港の埠頭には真っ赤な船「あかつき」が停泊中。「あかつき」が2018年8月、東京湾口で自力航行不能となったバハマ船籍の超巨大タンカー(VLCC)の救難/救出活動を行い、台風による被害の拡大を未然に防ぎ「日本海事新聞」で紹介されました。 サウジアラビアで原油を満載し東京湾に向けて航行しておりましたVLCC(載貨重量298,000㌧、全長333m、全幅60m)が、2018年8月に東京湾口でエンジン故障が発生し、自力航行不能に陥りました。おりしも大型の台風13号が関東に接近する中、サルベージ会社からの緊急要請に「(株)オフショア・オペレーション(以下OOC)」が応え、国内最大150㌧(ABS認定)の牽引力を誇る「あかつき」を急遽派遣し、第3管区海上保安本部の指示により遠州灘まで「あかつき」一隻で曳航し台風を回避、大規模災害を未然に防ぎました。その後、東京湾にて無事に原油を荷揚げし、中国舟山の修繕ヤードまで約一ヶ月間に渡る曳航を行いました とネットから。 「開国橋」を渡り終え、再び「平作川」の上流を振り返る。前方に見えたのが「久里浜海岸」。「ペリー通り」案内板。「ペリー通り」案内図。水色------の線が「ペリー通り」。ペリーが上陸した久里浜の海沿いの通りがペリー通りと呼ばれている。港前のペリー公園にはペリー上陸記念碑、ペリー記念館がある。ペリー(1794~1858)米国海軍軍人。嘉永6年(1853)日本に開国を求め軍艦4隻を率いて浦賀に来航。翌年再来航し、日米和親条約を締結した。なお下田にはペリーロードがある。「ペリー公園」まで320m、「東京湾フェリーターミナル」まで1100mと。黒船 花火 うちわ 神輿が描かれたボード。目的は?そして東京湾フェリー「かなや丸」。久里浜港~金谷港11.5kmを40分で結ぶ連絡船。総トン数 3,580t全長 79.0m航海速力時速 約24km(13ノット)旅客定員 680名車両積載台数 バスのみ最大12台/乗用車のみ最大105台/オートバイ24台海岸線・「ペリー通り」の遊歩道を進むj。東京湾フェリー「かなや丸」が東京湾浦賀水道から金谷港に向かって出航。右手に「黒船食堂」。昔ながらの海の家のような食堂で、ラーメン、丼もの、定食がいろいろあるようであった。左手には「東京海洋大学」練習船「海鷹丸」。東京海洋大学海洋科学部が保有する練習船・海洋調査船である。2000年に就航した4代目。総トン数 1,886 トン(国内) 3,391 トン(国際)載貨重量 1434トン全長 93.00m垂線間長 83.00m型幅 14.90 m型深さ 6.25 m(上甲板) 8.90 m(船楼甲板)満載喫水 5.95m主機関 ニイガタ6MG41HX形[1] 立形単動4サイクルトランクピストン形直接噴射式 ディーゼル機関1基推進器 4翼ハイスキュー可変ピッチプロペラ1基出力 4,489 kW(連続最大)航海速力 17.4ノット航続距離 12,900浬搭載人員 107名(職員47名、学生60名) とウィキペディアより。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.12
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久里浜方向への道を「旧川間ドック」に向かって進む。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」。VELASISは、Vela (帆/スペイン語)とOasis(楽園/英語)からなる造語で『帆の楽園』という意味。皆様にやすらぎとくつろぎの場所としてご利用いただき豊かなマリンライフに少しでもお役に立てればとの願いを込めての命名したと。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」入口。川間ドック(住友重機械工業川間工場)は、当時、東京石川島造船所の取締役会長たった渋沢栄一の提案により1895年(明治28年)から建設が開始されたレンガ積みドライドックです。横須賀製鉄所(横須賀造船所)で技術を学んた恒川柳作が設計を担当し、東京石川島造船所浦賀分工場として1898年(明治31年)から営業を開始した。近隣の浦賀船渠とのダンビンクによって両社は経営を悪化させることとなり、1902年(明治35年)には浦賀船渠に買収されて、浦賀船渠の川間分工場となり、浦賀船渠1号トックの通称「浦賀ドック」に対して、「川間ドック」と呼ばれるようになった。1984年(昭和59年)に工場が閉鎖された後は、跡地はマリーナ施設として再開発されて現在の「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」となったのだ。「city marina VELASIS(シティマリーナヴェラシス)」配置図。入口にあった錨のモニュメント。右手奥に事務棟。正面に(株)HSマリン。ボート・ヨット用品、艤装品、マリンアクセサリー全般を扱う会社であると。椰子の葉の影を。右手にあったのが介護老人保健施設「ソレイユカーマ」。横須賀市西浦賀5丁目32−2。そして眼下に「川間ドック」。川間ドックは世界に4か所しかない(諸説あり)とされるレンガ積みドライドックの一つで、国内では同じ浦賀工リアにある浦賀ドックと川間ドックだけしかなく、貴重な近代化遺産です。現在はシティ・マリーナ・ウェラシスの一部として利用されていて、クルーザーの係留やダイビングの体験などに利用されています。ドックのゲートは撤去されていて、常に海水が満たされた状態のため、レンガ積みドライトックとして内側を見ることはてきません。そのため、レンガ積みドライドックの内側壁面の全体像を見たり底に降りることができるのは、日本国内では浦賀ドックだけです。」常に海水が満たされている川間ドック。ゲートの外はそのままヨットハーバーにつながっているのであった。移動して。介護老人保健施設「ソレイユカーマ」を振り返る。道路の擁壁にはヨットやカモメ、ハマナス、灯台の姿が、ここを右折して久里浜方面に進む。自販機には案内地図が描かれていた。「ようこそ、横須賀へ」。そして前方に「長瀬隧道」が現れた。少し西側にある川間隧道の旧道である。隧道入口脇には多数の石仏が置かれていて、道の歴史を感じられたのであった。「長瀬隧道 横須賀市」。完成 1930年(昭和5年)改修 1971年(昭和46年)全長 51.5m幅 5.8m高さ 5.4m入り口には複数の庚申塔がまとめて置いてあった。横須賀市西浦賀5丁目33。一面六臂青面金剛立像。隣のこちらも一面六臂青面金剛立像。これも一面六臂青面金剛立像。手は六本で、本手は合掌か。その奥にも石碑が所狭しと並んでいた。延長 52mの「長瀬隧道」を歩く。「長瀬隧道」では女性の幽霊・少女の幽霊・老婆の幽霊が目撃されているため心霊スポットと呼ばれているとネットには。「長瀬隧道」を出て少し歩くと、右手桜が描かれた「川間隧道」の出口が。「現在地」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.11
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海岸通りから1本山側の道を「鎮西八郎為朝神社」に向かって南下する。横須賀市雨水マンホール蓋。幕末に浦賀に来航したペリー提督と黒船をデザインし、市内の雨水及び合流のマンホール蓋に使用しています。ペリー率いる黒船が浦賀に来航した1853年、当時の人々は大きな船体を見て大変驚きました。4隻の船をお茶の銘柄に掛けて「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」と風刺したほどです。この黒船の来航後、日本は長い鎖国から開国へと向かうこととなります。現在横須賀市では、ペリー来航や開国を記念した多くのイベントが行われています。幕末を混乱の渦に巻き込んだ一大事。その主役のペリーも、黒船も、現在では開国のシンボルとして市民から親しまれています。と「日本マンホール蓋学会」のHPから。そして「鎮西八郎為朝神社」前に到着。横須賀市西浦賀4丁目3−7。「為朝神社」の案内表示は破れて。これであろうか!? ネットから。「為朝神社(ためともじんじゃ)祭神 源為朝公御神徳 疱瘡除け 航海安全例祭 六月第ニ土曜日 宵宮祭 (奉納舞 虎踊り)日曜日 神輿渡御」「為朝神社」は浜町(西浦賀4丁目)の鎮守で、その名のとおり源為朝を祀っている。「浜町 (地名の由来)西浦賀4丁目のこの辺り(為朝神社)を浜町と言います。文字通り、浦賀湾に面した磯浜の広がる地域であったことから付いた名称です。浜町は元は広い範囲を占める「川間」の一画でしたが、漁を業とする人々の集落として発展し、この名称になりました。この地に伝わる「虎おどり」は、奉行所が伊豆の下田から浦賀に移った時に一緒に移ってきた下田の廻船問屋の人々が演じたものと言われています。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」靖国鳥居の前には、台石に町内安全と刻まれた安政3年(1856)建立の「秋葉山常夜燈」が。灯籠の火袋に力強い為朝の顔と笹竜胆(ささりんどう)が。石鳥居越しに「為朝神社」の拝殿を見る。祭神は源為朝。 浜町(西浦賀4丁目)の鎮守になっている。寛政12年(1800)頃、浜町の漁民が、海に漂流していた木像を引き上げ、地蔵堂に安置したのがはじまりだといわれます。そして功が多く、鎮西八郎為朝の像であったといいます。創建は文政期(1820年代)であり、航海及び疱瘡除の神様として信仰を集めていました。 源為朝は源頼朝の父の弟にあたり、保元の乱で父・為義とともに戦って敗れ、伊豆大島に流罪となりました。為朝は、その強弓を恐れられ腕の筋を切られて大島に流され、流人生活の果て、許されることなく没しました。古来より、悲劇の武将の怨念を恐れ、神として祀ることによって、逆に災いを転じて福をもたらすと考えられてきました。後世に疫神として、疱瘡神とし、当時人々に恐れられていた疱瘡の病を、為朝の怨霊の力でなおしてもらおうと期待していたのです。 この地に伝えられている「虎踊り」は、伊豆下田から伝えられたもので、 県の無形文化財に指定されています。 毎年6月、為朝神社祭礼が行われますとネットから。右手にトタン屋根の「手水場」。「県指定重要無形民族文化財国選択無形民俗文化財横須賀の虎踊所在地 横須買市浦賀四丁目(浜町)指定年月日 昭和五十一年(一九七六)十月十九日選択年月日 平成十六年(二〇〇四年)二月六日虎踊は、享保五年(一七二〇年)、奉行所が伊豆下田から浦賀に移った時に伝えられたといわれています。近松門左衛門の「国姓爺合戦」における和藤内の虎狩りの場面を取り人れた芸能で、ここ為朝神社に特設舞台をつくって演じられます。和藤内の登場に始まり、太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞(舞台を自由にふるまい数種の芸を披露)と進行し、最後に和藤内が虎を神符で成敗し、見えを切ります。虎は親子二体で、親虎には青年、子虎には少年が二人ずつ入り、和藤内は男児、唐子は女児、大唐人は成人男子が演じます。 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された「横須賀の虎踊」は、 浦賀と野比の虎踊が対象です。 令和四年(二〇二二年) 横須賀市教育委員会」「虎踊👈️リンク の概要」虎の着ぐるみを用いた舞に、歌舞伎や唐人踊りを採り入れた民俗芸能。虎は親子2体で、虎の頭は本邦880社の神符を貼って作られ、親虎には青年、子虎には子どもが2人ずつ入り、笛や太鼓に合わせて動く。踊りは、近松門左衛門の「国姓爺合戦」を題材に、和藤内(男児)唐子(女児)、太唐人(成人男子)たちによって踊られる。海外舞踊の組み踊り様式を取り入れた唐子踊り、虎の出現で子供が退散して虎が舞台上を自由に振舞い、それを和藤内が神符で押さえてみえを切り終わる。別のネットには虎踊👈️リンクは、獅子舞のように虎の頭をかぶった虎が暴れるように踊る踊りです。浦賀の虎踊は、享保5(1720)年に伊豆下田の奉行所を浦賀に移した時、共に移り住んだ町人によって伝えられたといわれます。昭和51年10月に県指定重要無形民俗文化財に指定され、平成16年2月には野比中村の虎踊と共に国の「記録等の作成を講ずべき無形民俗文化財」に選択されました。踊りは、近松門左衛門作の国性爺合戦の主人公、和藤内の虎狩りを題材とします。和藤内は男児が演じ、女児による「唐子踊り」の後に、大小二頭の虎が登場します。大虎は成人男子、小虎は未成人男子が扮し、笛、三味線、太鼓、鉦に合わせて「一本杉」「虎返し」「鶴の飴拾い」「しっちょい」といった芸が披露されます。やがて、和藤内が叶明神の木札をかかげ、虎を退治して幕となります と。(※パンフレットより)「親子の虎」。「和藤内(男児)」と虎。狛犬(右)。狛犬(左)。昭和30年(1955)造立の一対の「天水桶」には源氏の代表紋である笹竜胆(ささりんどう)が。拝殿頭貫の見事な彫刻。この物語は?ズームして。扁額「鎮西八郎 為朝神社」。木鼻は横向きの獅子。内陣。「為朝神社」の入母屋造りの拝殿を斜め左から。拝殿後方に本殿鞘堂の姿が。神輿庫であっただろうか?ここにも見事な彫刻が。「虎踊」の舞台建設用の足場パイプであろうか?「為朝神社」の拝殿の屋根にも社紋「笹竜胆」が。その先にも神社の石鳥居が見えた。「花稲荷神社」。横須賀市西浦賀4丁目。石鳥居の扁額「花稲荷」。真っ赤に塗られた社殿。扁額「詩庫三◯祠?」内陣。浦賀地区には稲荷神社が多いのであった。お狐様(右)。お狐様(左)。石祠。そして次に訪ねたのが石段の上にあった、これも「仲稲荷」。「正一位 仲稲荷神社例祭 二月初午例祭日 二月十一日御神徳 商売繁盛」急な石段を上る。こちらも真っ赤な社殿。お狐様(右)。お狐様(左)。ここにも石祠。鳥居は塩ビ製。社殿の内陣。ここにも沢山のお狐様が。社殿前から石段を見下ろして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.10
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「壽光院」を後にして、「浦賀奉行所 跡地公園」の西側の角まで戻る。案内柱の下には、狭い水路と2段積みの石垣も確認できた。正面に「横須賀風物百選 浦賀奉行所跡」碑。右に向かって歩き「浦賀奉行所 跡地公園」入口に廻り込む。「浦賀奉行所跡」の看板の横には、大きな案内板が設置されていた。「浦賀奉行所跡【市民文化遺産 令和3年(2021)1月25日指定】」案内板。「横須賀市では、文化財等には指定されていないが、市民生活に密着し、広く親しまれ、将来も大切に保存する必要のあるものを市民文化資産として指定しています」 と。「浦賀奉行所とは享保5年(1720) 12月、伊豆の下田にあった奉行所を移転し、新たに浦賀奉行所が開設されました。浦賀への移転理由は「下田は港の出入口に岩礁があって、船の入出港の妨げになっている」という船乗りたちからの声を聞き、より安全な湊を調査した結果、浦賀ということになった。」と記されています。しかし、この理由は下田に奉行所が置かれてから100年以上経過しているため、これが移転の本当の理由とは思えません。江戸幕府が開かれて100年が過ぎ、平和な時代が続いたため、農業を中心とした生産力があがり、全国各地から江戸へさまざまな物資が入ってくるようになりました。その98 %以上が船で運搬されており、江戸の物価の安定を図るために江戸での在庫量を把握する必要に迫られていたため、検査をほぼ完ぺきにできる場所を探した結果、すでに湊として整備されていた浦賀が選ばれたのです。浦賀奉行所では、船の積み荷と乗組員の検査をする「船改め」を行う「船番所」が開設され、江戸を往来するすべての船は浦賀で検査を受けることが義務付けられました。この「船改め」は「廻船問屋」と呼ばれた105軒の問屋に委託され、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、生活必需品11品目については、3カ月ごとに集計された数字が江戸町奉行へ報告されました。その他の業務としては、現在の税務署・裁判所・警察署・海上保安庁などの仕事を行っていました。浦賀奉行所が開設されて100年を過ぎたころから、江戸近海に異国船が来航するようになると、江戸を異国船から守る最前線の基地の役目も持つようになりました。嘉永6年(1853) 6月、浦賀に来航したペリー艦隊は、日本が近代に進む第一歩としてよく知られていますが、浦賀奉行所にとっては、文政元年(1818) 5月に来航したイギリス船から数えて7度目の異国船でした。このペリー来航時には、中島三郎助や香山栄左衛門をはじめとした浦賀奉行所の役人たちが大きく活躍し、交渉の結果、アメリカ大統領の親書を久里浜で受け取ることになりました。ペリー浦賀来航後の安政6年(1859) 6月、神奈川奉行所が開設されると、異国船関係の仕事は移されましたが、浦賀奉行所は、慶応4年(1868)閏4月、新政府に接収されるまで続き、さらに、「船改め」の業務だけは、明治5年(1872) 3月まで続けられました。浦賀奉行所の業務は、長官である奉行( 1、2人)・与カ(部課長クラス)が10騎~ 18騎(馬に乗ることが許されたので)・同心(係長クラス) 50人~ 100人で行っていました。与カ・同心はほとんど転勤がなく奉行所の表門前から海岸に向けた場所に役宅(官舎)が建ち並び、ここに暮らしていました。」「浦賀奉行所跡地全景(発掘調査)」。「浦賀奉行所模型(浦賀コミュニティーセンター分館所蔵)」。「石橋と掘割浦賀奉行所の表門の前の掘割(お堀)に架けられていた石橋が、役宅の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないような配慮がされていたためです。町家(商家)から役宅に入るところがカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。掘割は江戸時代後期の改装にともない、表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれて出来ています。焚出所浦賀奉行所内に併設されていましたが、この焚出所だけは浦賀奉行所の表門を通らす出入りすることが許されていた建物です。異国船が来航するようになると奉行所から番船(警備船)が出て、異国船周辺で警備にあたりました。この番船を動かすのは、浦賀周辺の村の漁師の役目でした。奉行所の役人とともに異国船が退去するまで、漁師と奉行所の役人へご飯の炊きだしをする場所が焚出所、炊きだしは浦賀の町人に与えられた仕事でした。その時に使用したかまど跡が令和元年(2019年)の発児調査で出土しました。平成30年(2018)~令和元年(2019)の発掘調査から浦賀奉行所の間取り図面は、19世紀に入るころから幕末期にかけて数点残っており、奉行所の建物がどのように変わっていったのか知ることができます。今回の発掘調査もこれらの間取り図面に基づいて行われた結果、奉行所の業務の一つである裁判が行われた「お白州に白い砂が敷かれている層が見つかりました。また、奉行所の屋根が瓦ぶきであったことを示す軒丸瓦をはじめ、瓦の破片が多数発掘されました。その他にも礎石や古銭や陶器類など、生活を支えていた道具類が見つかっています。江戸時代に江戸という大きな町を支える役割をした、浦賀奉行所の存在が実感できる現場がここにあります。」「浦賀奉行所絵図」をネットから。現在、「陸軍桟橋」と呼ばれる場所に、「船番所」が開設されていたという(今は、解説板が設置されるのみ)。「船番所」とは浦賀奉行所の出先機関で、江戸湾に出入りする船舶のすべてを検査した現場であった。さらに周辺道路を北に進む。「浦賀奉行所跡」を海・東側から見る。左上には先ほど訪ねた「大六天神社」の石鳥居が見えた。奉行所は東西86m、南北75mほどの大きさで、現在でも周囲を囲んでいた堀の跡の石垣と伊豆石の石橋が残っていた。そして、この「浦賀奉行所跡」には、2017~8年までは住友重機械工業(株)のコンクリート造りの社宅があったとのこと。ビックリ!!ネット👈️リンク で調べて見ました。当時の社宅の写真がありました。1号棟~3号棟まであったようです。どの様な経緯でこの場所に社宅が建ったのでしょうか?「黒船に最初に乗り込んだ男 中島三郎助浦賀奉行与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)、ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との折衝にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の様式軍艦・鳳凰丸を建造しました。三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏(もっけい)」と称し、人々から敬慕されていました。明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ヶ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。享年49歳、父子の墓は東林寺。函館中島村に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探訪くらぶ」中央に「中島三郎助」、右に恒太郎(長男)、左に英次郎(次男)。「中に入ってあそんでよいです。 自転車・バイク 進入禁止」と。ズームして。「浦賀奉行所 跡地公園」。「石橋(浦賀奉行所跡)浦賀奉行所表門の前のお堀に架けられていた石橋が、役宅(官舎)の通りより少し北に寄っているのは、奉行所が敵に攻められても直線で侵入できないように配慮されていたためで、同様に、町家(商家)から役宅に入るところのカギの手に曲がっているのも江戸時代のままです。お堀は江戸時代後期の改装にともなって表門とその脇の三方に低いながらも石垣が積まれてできています。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「石橋の内側(横須賀市教育委員会提供)」。これは、石垣の石それとも石橋の石であったのか?「浦賀奉行所跡」を囲むように、住宅が所狭しと。「浦賀奉行所跡」を後にして、海に向かって進む。「川間町内会 屋台格納庫」。川間町内会の屋台格納庫から出された山車をネットから。その先にあったのが「川間町内会館」。「川間町内会館」の1階入口。「川間 (地名の由来)西浦賀五丁目から六丁目にかけてのこのあたりを川間と言います。「川間」は、一般には、名の示す通り川と川の間にある土地とされています。この地域については、現在の平作川周辺が埋め立てられていなかったころの、昔の大きな平作川と、浦賀湾が現在の田中の方までずっと入江になって川のように見えた、その両者の間の地であることに由来すると言われています。この川間の少し奥まった山際の地に、江戸時代の中頃から明治になるまで約150年間、浦賀奉行所がありました。奉行所の奥の山際には、川間の鎮守で、江戸時代の創建である榊神社大禄天があります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」切妻壁には見事な「鏝絵(こてえ)」が。「松竹梅に鶴亀」玄関上妻壁に松の大木の左右に鶴亀を配し、さらに梅・竹を添えた目出度い図柄で、レリーフ状に表す彩色作品。左隅に「石梅作」の銘があり、石川梅尾の作であることが分かる。昭和34年(1959年)に会館新築の際、町内繁昌を祝って作られたものと。中央をズームして。「松竹梅」。亀(右)。鶴(左)。「石梅作」と。「石梅」とは石川梅尾の略である。昭和34(1959)年の会館竣工時に、地元・川間の左官職人石川梅尾(1908-1988年)が制作したと。梅尾は鏝絵名人と称された「三浦の善吉」こと石川善吉(1855-1945年)の13番目の末っ子として生まれ、善吉について修業したのだと。2階の切妻壁にも見事な「鏝絵(こてえ)」が。「鳳凰」二階切妻壁に鳳凰が双翼を大きく広げて飛翔する姿形を、立体的要素を強調した勇健な造形で壁面一杯に作り出している。白漆喰仕上げ。この左下にも梅文の銘があり、「石梅作」である。そして次の目的地の「上町稲荷」に向かった。途中、崖崩れの現場が。ブルーシートで覆われ道路沿いには30個以上の土嚢が置かれていたが復旧工事が行われている様子はなかった。道路の反対側には、現在でも居住されている?民家があった。坂の途中から、西浦賀5丁目の住宅街を見る。振り返って、崖崩れ現場を。この後に、道に迷ったが、なんとか引き返して、「上町稲荷」の入口に辿り着いた。石段の上に朱の鳥居が現れた。扁額「上町稲荷」。狐様(右)。狐様(左)。そして鳥居の下から「上町稲荷」の社殿を。近づいて。境内の「疱瘡守護妙正道祖神? 弘化四・・」と刻まれた石碑。社殿間から朱の鳥居を振り返って。そして石段を下り次の目的地の「鎮西八郎為朝神社」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.09
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そして再び南西に進むと右にあったのが「壽光院」。神奈川県横須賀市15。「寿光院常福寺の隠居所としての境外仏堂です。墓地には、「三命地蔵」が祀られています。これは江戸時代後期に、弁天丸の水主(かこ・水夫)の三人が遊ぶ金欲しさから、船の命ともいうべき網や綱を売ってしまいました。三人は死刑に処せられる前、大変後悔し、罪滅ぼしにと「この地にねんごろに葬ってくれれば、首から上の病気は何でも直します」と言ったので、船宿が地蔵を彫って安置しました。咸臨丸の副館長格としてアメリカに渡った、浦賀奉行所与力・浜口英幹の墓もあります。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」境内の三命地蔵。「本堂」への参道の両側には墓石が並ぶ。右手にあったのが「地蔵堂」。二体の仏様が。一体の地蔵菩薩坐像が祀られており、立膝姿の地蔵菩薩坐像は今まで数多くの石仏を見た中でも珍しい物であり、その脇にはいつの物かわからないが青銅製の子育て地蔵が一緒に祀られているのであった。このうち、この石造の地蔵菩薩坐像こそが不思議な伝説を今に伝える「寿光院の首切り地蔵」と呼ばれている地蔵菩薩なのである と。立膝姿の地蔵菩薩坐像。青銅製の子育て地蔵。正面に「南無阿弥陀佛」碑。正面に本堂。墓地の中の参道の先に宝形造瓦葺の本堂が。掲示板には「常福寺佛堂壽光院」と。本堂内陣を見る。中央に御本尊:阿弥陀如来。ズームして。本堂内陣の左側:観音菩薩。ズームして。本堂内陣の右側。右脇侍の勢至菩薩は確認できなかったが様々な位牌が並んでいた。ズームして。墓地の奥に足を延ばした。これが「地蔵堂」。「三命地蔵」別名「首切り地蔵」。石の地蔵さんと墓石が祀られていた。時は元治元年(1864年)、江戸時代も終わりに近づいた第14代将軍、徳川家茂(いえもち)の頃である。伊豆からやって来た弁天丸という舟が浦賀の港に着いたとき、この舟には松五郎、岩吉、忠蔵という三人の男が乗り組んでいた。この男たちは普段からあまり金回りの良い方ではないのに遊ぶのが大好きで、この時も船主には黙って錨の綱を持ち出しては売り払い、その金を遊びに使ってしまったのである。これに怒った船主は、この三人を盗人として浦賀奉行所に訴え、たちまち浦賀奉行所の厳しい取調べが始まるや否や、この三人は自らの犯した罪をあっさりと白状したのである。所詮、盗んだものはただの縄。お咎めも大した事はなかろうと高をくくっていた三人であったが、船にとっての錨の綱は命綱にひとしい物、その命綱を奪うのは命を奪うのと同罪であるとして、この三人は死罪を申し付けられてしまったのである。驚いた三人は慌てて命乞いをするがその甲斐もなく、浦賀燈明堂の首切り場へと引っ立てられて首を刎ねられた。元治元年(1864年)3月21日の事である。この際、この三人は再び故郷の伊豆の地を踏む事がかなわないことを大いに嘆き悲しみながらも、「もし、我らをこの浦賀の地でねんごろに葬ってくれるのであれば、首から上の病は何でも治してやろう」と言い残して首を刎ねられたという事である。船主であった「師崎屋」(もろさきや)は、この三人の願いを聞いてやり、寿光院に地蔵堂を作って「三命」と名付けお地蔵さんを彫り安置し手厚く葬ると、この地蔵菩薩は首から上の病は何でも治してくれるとの評判を呼び、頭痛、耳や鼻や虫歯などに悩む里人が参詣する姿が後をたたなかったという。やがて医療も科学も発達して、それらの治療はすっかり近代医学の担うところとなっていったが、今なおこの首切り地蔵堂には真新しい花と線香が供えられ、錫杖にかけられた千羽鶴が今なお絶えることのない信仰を如実にあらわしているのである とネットから。多くの墓石の中心に石仏が。阿弥陀如来像であっただろうか?無縁萬霊供養塔 と。地蔵堂の裏手にあった「美都(みつ)姫之墓」。美都姫は文化七年(1810)、幕府の命令で沿岸防備のために浦賀に来た会津藩士の家族。身分の高い人といわれ、浦賀で亡くなった。 数メートル後方に実家の墓があるため、この地に埋葬されたとのこと。「小林 旧會津藩士 小林栄三郎 明治十九年五月十四日 母 みつ 享年七十一」と。「美都姫之墓」横にあった三基の無縁仏。様々な墓石が。墓地から本堂を見る。そして「壽光院」を後にして、来た道を引き返し「浦賀奉行所 跡地公園」へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.08
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「浦賀奉行所 跡地公園」を訪ねる前に、その西側奥にある「大六天神社」と「寿光院」を訪ねることとする。「浦賀奉行所 跡地公園」の西側の道を南に進むと「(大)六天神社」への案内板があった。右折すると、正面に石鳥居が姿を表した。参道を西に進む。「大六天榊神社川間(西浦賀町5丁目)の鎮守で、主祭神は面足彦命(おもたりひこのみこと・猿田彦神)です。この神社の正式名称は「榊神社大禄天神」といい、当初は川間奥にある通称・お伊勢山(伊勢参りの講があったのでそう呼ばれた)の中腹にありました。明治の頃にお伊勢山の入口に移され、昭和の初めに現在地に移されました。大禄天は、語呂が第六天(多化自在天・たげじざいてん)に通じ、修験者の信奉した仏神といわれています。道の分かれる所を守り邪霊の侵入を阻止する神としてお祀りしています。お社の漆喰彫刻は浦賀の神社仏閣に見られる特徴です。祭日は5月中旬の土・日曜日です。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「川間の山車」の写真。石段を上る。社号標石「榊神社大禄天」。横須賀市長であった横山和夫氏が書いたもののようであった。「手水舎」。正面に社殿。横須賀市西浦賀5丁目14−10。狛犬(右)。創建年代不詳の狛犬、玉取り・子取りであった。 スリムで長い体長で、残念なことに全体をコンクリートで修正されているようであった。狛犬(左)。社殿に近づいて。川間の鎮守で、江戸時代に創建された「榊神社大禄天」。主祭神は猿田彦神で、神社の正式名称は「榊神社大禄天神」ですが、通称で「大六天神社」と称しているとのこと。見事な向拝の龍の彫刻。雲海は赤く染まっていた。ズームして。扁額「榊神社大六天 伊勢山神明社」と。内陣。社殿の右隣にあった建物。祭用倉庫であろうか?稲荷神社が合祀されていた。社殿に近づいて。手前の狛狐(右)。手前の狛狐(左)。社殿前の狛狐(右)。右は頭の一部が欠けていて、左右共に耳がありません。社殿前の狛狐(左)。顔が朽ちて鼻づら部分が落ちてしまっていた。首も折れて補修されたのであろうか。内陣。「榊神社大禄天神」を振り返って。境内には多くのタンポポの花が。そして大六天神社正面左右壁には見事な「鏝絵(こてえ)」が。右側は「昇り龍」が正面がガラスのケースの中に。上部には「鶴」の姿が。「昇り龍」。左側は「降り龍」が正面がガラスのケースの中に。上部には「鶴」の姿が。「降り龍」。そして社殿前から「浦賀奉行所 跡地公園」を望む。一番左の高層マンションが芸能人・窪塚洋介が2007年にジャンプ?した所。そして「浦賀奉行所 跡地公園」を囲む道まで戻る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.07
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そして「愛宕山公園入口」に到着。明治24年(1891年)に開園した横須賀市内最古の公園。当時は「浦賀園」と呼ばれ、入口上部には「浦賀園」と書かれた額・プレートが残っていた。額・プレート「浦賀園」をズームして。明治24年当時のものなのであろうか?「愛宕山公園入口」案内柱。その先に石段が始まっていた。石段の横には案内板が。「愛宕山公園明治二十四年(一八九一年)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれました。浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され、篆額の題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船渠(株)が創設された話は有名です。咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。与謝野鉄幹・晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」上り始めてすぐのカーブの場所にあったのが「寳船稲荷社」。狛狐(右)。狛狐(左)。さらに石段を上って進み、「寳船稲荷社」を振り返る。石段の踊場から見た浦賀港。途中に左への分岐あり、これが「浦賀愛宕山導灯」へと続く道。1分ほど坂道を上って行くと「浦賀愛宕山導灯(後灯)」に到着。この導灯は2003(平成15)年3月12日付けの三管区水路通報第10号によれば平成15年4月1日に「住友重機愛宕山導灯」から名称が変更されたもので、灯台表には「白塔形」と。そして引き返して、さらに石段を上って行った。再び「浦賀港」の入口部方向を見る。湾を出たところが浦賀水道で、その沖に見えているのは房総半島。広場の入口の所にあった3基?の石碑。中央の石碑の碑文は最初の「中島永胤君招魂乃碑」だけしか読めず。明治24年(1891年)7月。」「中島永胤」は「中島三郎助(なかじま さぶろうすけ)」のこと。江戸時代末期(幕末)の幕臣。江戸幕府浦賀奉行所与力、のち蝦夷共和国箱館奉行並。この碑は、稲井石(宮城県石巻市産)を使用し、高さ176cm、幅76cm、碑文は西野前知、筆を執ったのは賜硯堂の主・成瀬温によるものてす。流麗なひらがなの文には、『中島永胤君招魂の碑を建てようと思い立ったの明治二十三年九月、翌年七月に建てた。事績を後世に伝えるために、浦賀港を見下ろする絶景の場所に建てようと、草を刈り、枝を払い、土をならし、石を据え、花の木や常葉木を植え、町民は勿論、愛宕山に来る人々に安房・上総の海山を望む四方の眺望が素晴らしい山頂への道を整備し、休憩所を造り、ここに来る人たちが三郎助の慰霊や遊びに利用することを願ってやまない。』と招魂碑建設の趣旨と経緯が記されているのだ とネットから。「発起者」の文字があり「発起者の碑」👈️リンク とも。三郎助と深いかかわりのあった人(碑に刻まれた三十六人)が賛同するならば、と町の人々も賛同しました。記録によると、浦賀町発起人二十八名(内十八名は碑に名が刻まれています)、同町賛成員七十三人が名を連ね、さらに愛宕山公園整備寄付人名簿に九十六の人と法人の名・寄付の内容が記されています。多くの町の人達が建設にかかわっていることがわかります。近隣の町の人も含め町民こぞって協力して公園を造り、招魂碑を建てたのです。現在も町の人々が公園の清掃なと維持管理を行っています とネットから。 この碑は解読不能。その先にあったのが「咸臨丸出港の碑」。「市制施行七十周年記念横須賀風物百選咸臨丸出港の碑嘉永六年(一八五三)六月三日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて浦賀湾沖に現れました。我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが、江戸の近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。七年後の安政七年(一八六〇)、幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンヘ送ることにしました。幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下九十有余名の日本入乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。一月十三日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は、品川沖で錨をあげました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員十一名を乗せ、十六日の夕刻、浦貿に人港しました。それから二日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、一月十九日午後三時三十分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、三十九日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに人港しました。米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う万延元年(ー八六〇)五月五日でした。この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸人港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。なおここ愛宕山公園は、明治二十六年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。」裏面には「咸臨丸乗組員氏名」👈️リンク が刻まれていた。広場の巨木は「イヌマキ」。「イヌマキマツやスギに比べると、広い葉ですが同じ針葉樹です。じゅくした実の下についた紫紅色の花托は多肉質で甘味があり食べられます。潮風に強いので、海岸近くの人家やみかん畑などの防風林として多く植えられます」先ほど訪ねた「東福寺」が北方向に見えた。さらに急な石段を上って行った。ここにも「中島三郎助」案内板が。「中島三郎助明治二年(一八六九)五月、、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いが函館郊外の五稜郭近くで行われた。この戦いで浦賀奉行所与力・中島三郎助親子は戦死した。三郎助の二十三回忌にあたり、彼の功績と名誉を浦賀の町に末永く残すことを目的に、彼とともに激動の明治維新期を生きた友人、知人たちによって建てられたのが真向いにある中島三郎助招魂碑である。碑の篆額(題辞)は三郎助と公私ともに親交があリ五稜郭で共に闘った榎本武揚が記し、激動の時代を象徴するような彼の人生を表したのは当時の外務官僚の田辺太一である。また、この碑の除幕の日、初代の中央気象台長であった荒井郁之助の発案で、三郎助の意志を継いだ近代造船所を浦賀の地で開業することが決定した。中島三郎助略年表文政四年(1821) 浦賀奉行所与カ・中島清司の次男として誕生、母は浦賀奉行所与カ・ 樋田仲右衛門の娘天保六年(1835) 浦賀奉行所与力見習勤として出仕嘉永六年(1853) ペリー来航 応接掛として乗船嘉永七年(1854) 鳳凰丸竣工慶応四年(1868) 開陽丸て江戸脱出明治ニ年(1869) 千代ヶ岡砲台で息子恒太郎・英次郎とともに死去 横須賀市」「開園当時の愛宕山と家並み」。「浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭」案内板。「浦賀奉行所与力 中島三郎助生誕200年祭令和3年(2021年)1月25日中島三郎助と遊ぶ会中島三郎助の生涯中島三郎助は、幕臣であることを貫き通して49年の生涯を終えた。その中島が見習うべき人物としたのは、鎌倉時代に源頼朝に生涯を捧げた三浦大介義明であった。文政4年(1821年)1月25日に浦賀で生まれ、三郎助で8代目となる奉行所の与力の家系であった。天保6年(1835年)閏7月、15才で奉行所の与カ見習いとして出仕した。見習いに出仕するまでに槍術・剣術ともに当時砲術三派であった田付流・荻野流・集最流をすでに学んでおり、後に西洋式の高島流まで含めてすべて免許皆伝となっている。この砲術の腕前は、天保8年(1837年) 6月に浦賀沖へ来航したアメリカ商船・モリソン号に観音崎台場から砲撃を加え、打払っている。この時の功で、浦賀奉行・太田資統から太刀を拝領した。また、この年岡田定十郎の娘・すず(15才)と結婚をしている。嘉永2年(1849年) 6月、父の跡を継ぎ与力となった。翌年7月には館浦にあった「玉薬製造所」の責任者を勤めていたが、足軽役の者の過失から製造所と隣接の船蔵が焼失し、その責任から謹慎処分を受けた。嘉永6年(1853年) 6月、アメリカ東インド艦隊のペリーが率いる2隻の蒸気軍艦と2隻の帆走軍艦が来航すると、応接掛として最初に黒船に乗り込み交渉をした。もっとも中島の関心は最新鋭の蒸気軍艦には装備されていると思われる炸裂弾を発射できる大砲を検分することにあった。ペリー来航後、幕府に提出した上申書には、今は海外諸国の知見を養うことが大事であると述べおり、カの差を見せつけられた中島ならではの提言であろう。幕府も軍の必要性を実感し、浦賀奉行所へ軍艦建造を申し付けた。この軍艦・鳳凰丸は日本人の手による最初の洋式軍艦であり、その中心人物となったのが三郎助であった。しかも9カ月というスピードで翌年5月に完成させている。こうした三郎助の活躍は広く知れ渡り、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)が三郎助のところに弟子入りしている。三郎助は幕府が長崎に開いた海軍伝習所へ派遣され、オランダ人から造船や洋式砲台の建設などを習得した。安政5年(1858年)長崎から戻った三郎助は、幕府海軍の草創期に活躍し、多くの後輩を指導している。また、和歌や俳句を通じて、浦賀周辺の人々とも交流をもっていた。戊辰戦争が始まると榎本武揚らともに北海道に渡り新しい国(中島のなかでは新徳川幕府)づくりに親子で参加したが、新政府軍の攻撃を受け、箱館五稜郭近く1869年5月15日恒太郎・英次郎ともに戦死した。明治23年(1890年) 5月、名誉が回復され、浦賀の人々の手によって「招魂碑」が建てられた。その除幕式で中島の意志を継ぐ造船所の建設が提案されて、浦賀船渠が発足した。」そして「与謝野夫妻の文学碑」もあった。『黒船を 怖れし世など なきごとし 浦賀に見るは すべて黒船 寛』 『春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸(さやけ)く 晶子』 冷たい春風の吹く岡の上から浦賀の町を見下ろしたとき、 黒々とまるで鞘のような 造船所が見えたのを歌にしたと。碑に刻まれた寛の歌は、 『与謝野寛遺稿集』の「空即是色」に、晶子の歌は「白桜集」の「色即是空」に収められているとのこと。「与謝野夫妻の文学碑 碑の歌は、昭和十年三月三日与謝野寛(号・鉄幹)、晶子夫妻が同人たちとともに、観音崎、浦賀、久里浜を吟行した折り詠んたものである。思いのほかの寒さであったためか、寛は同月二十六日肺炎で没しているので、これは生涯最後の歌の一つといえる。寛は、明治六年二月二十六日京都市左京区の願成寺に与謝野礼巌の四男として、晶子(本名・志よう)は同十一年十二月七日に大阪府堺市の菓子商鳳宗七の三女として生まれた。明治二十五年上京して落合直文の門下に入った寛は、三十二年の秋に「東京新詩社」を設立。翌年四月には機関誌「明星」を創刊し、ひろく青年層にロマンチシズムを鼓吹して、短歌の革新に貢献した。一方、寛の歌に深く心うたれた晶子は、新詩社社友となって「明星」二号に短歌を発表、以後毎号同誌に投稿する。晶子が、明治三十三年八月に講演のため来阪した寛をその宿に訪ねたのが、二人の最初の出会いであった。やがて恋愛の進展に伴い、三十四年六月晶子が上京、この秋正式に結婚した。同年八月に出版された晶子の第一歌集「みだれ髪」は、世の注目を浴び、新詩社黄金時代の幕開けとなった。二人は、明治三十年代の詩歌壇を主導して、浪漫主義文芸の花を咲かせ、石川啄木、北原白秋、高村光太郎、佐藤春夫、堀口大学らの俊英を輩出した。代表作として、寛に「東西南北」、「天地玄黄」、「紫」、「鴉と雨」、晶子に「みだれ髪」、「小扇」、「舞姫」、「白桜集」がある。 横須賀市」「浦賀港入口」、遠く房総半島を見る。ズームして。「グリーンウォッチング ヨコスカ 浦賀コース」グリーンウォッチングヨコスカ事業は横山和夫市長の時代に行われ、1987(昭和62)年に最初の11コースが選定されました。そののち1989・1993年に追加のコースができ、計3冊のブックレットにその詳細が残っています とネットから。ここにも石碑が。「中島君招魂碑」と。「横須賀市指定市民文化遺産 中島三郎助招魂碑明治ニ十四年、彼を追暮する浦賀の有志によって建てられたもので、篆額は、当時の外務大臣・榎本武揚の筆である。愛宕山公園は、この碑の建立の際に整備された。」裏側には・・・・???そして「愛宕山公園」を後にして、南側に進み久里浜台/南浦賀の住宅街に向かう山の中の車道を下る。山の斜面に張り付いて立っている西浦5丁目の住宅街。南浦賀に入ると左手にあったのが「伏見金守稲荷大明神」。横須賀市南浦賀11。朱の鳥居の扁額「金守稲荷大明神」。内陣には「御幣」が。御幣とは、神様への捧げ物、お供え物を意味します。御幣とは細長い木や竹の串に特殊な形に裁った紙垂(しで)を取り付けた物で、神への捧げ物であると同時に、神を招くための依り代や、祓いに必要な道具としての面も持ちます。御幣の用途は2通りあります。①神主がふる際のお祓い棒として 周囲の穢れを取り除く目的で使用されます。②ご神体として 神社の奥に祀られ、神棚や台所、お手洗いに飾り家内安全を祈るため使用する地域もありますと ネットから。スマホのナビに従いひたすら細い下り坂を進む。そして前方に現れたのが「浦賀奉行所 跡地公園」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.06
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