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7世紀前半 浅間様古墳(せんげんさまこふん)明治時代のスケッチを見ると、円墳であることが判るが、現在は横穴式石室が残るだけである。石室内にお祀りされている、八幡様(大日如来の石像)は「御穴様」と呼ばれ信仰の対象となっている。古墳の名もこれに由来し「穴八幡」とも呼ばれる。 横穴式石室は、良く整った切石積で、構築されたいへん美しく、古代人の技術の高さを知らされる。別名・・・穴八幡、西岡第34号古墳墳形・・・円墳埋葬施設・・・横穴式石室」 更に展示ブースを観る。「4世紀末田園調布4丁目4番蓬莱山古墳多摩川下流域で最大、最古の前方後円墳。南武蔵でも後の荏原郡に当たる地域を治めた首長の墓ではないかと考えられている。四獣鏡や紡錘車形碧玉製品の出土が、この首長の強い政治力を物語っている。粘土層の復元図。上段、左から直刀、直刀、直刀中段、上、左から管玉、管玉中段、中央、左から四獣鏡、紡錘車、木棺中段、下、左から勾玉、勾玉、勾玉、小玉、丸玉、直刀上段:「四獣鏡」(左)と「紡錘車形碧玉製品」(右)中段:「大刀」(左) と「槍」、「刀子」(右) 下段:「勾玉」、「管玉」、「小玉」、「丸玉」 「四獣鏡蓬莱山古墳原資料所蔵 慶応義塾大学民族学考古学研究室中国製獣帯鏡をまねて作った倣製鏡(日本製の鏡)で「獣形鏡」とも呼ばれ、鏡面の裏に獣の姿が簡略化され、描かれている。4世紀代を中心に製作され、東日本では発生期の古墳から出土する。副葬された鏡は、実用品的役割より宝器として重要な意味を持つと考えられている。」 「紡錘車形碧玉製品蓬莱山古墳原資料所蔵 大田区立郷土博物館紡錘車は、糸を紡ぐために使われる道具だが、これは形が似ているだけで、宝器として扱われていたと考えられる。その使用方法は、①玉杖(権威を誇示するために用いる杖状の道具)の部品、②単独でペンダントのような装身具などが想定される。」 「大刀蓬莱山古墳原資料所蔵 大田区立郷土博物館」 「勾玉蓬莱山古墳原資料所蔵 大田区立郷土博物館」 「小玉蓬莱山古墳原資料所蔵 大田区立郷土博物館」 「丸玉蓬莱山古墳原資料所蔵 大田区立郷土博物館」 「指定書蓬莱山古墳指定面積 3,931平方メートル右を東京都指定 史跡 に指定する平成八年三月十八日東京都教育委員会」 「4世紀末~5世紀初所在地・・・田園調布一丁目、多摩川台公園内亀甲山古墳(かめのこやまこふん)横から見た墳形がカメの姿に似た山に見えたため古くは亀塚・亀塚山・亀ノ甲山・亀山とよばれていた。国史跡として保存され、その内容はよくわからないが、墳形の特徴や埴輪・葺石を持たないことなどから、蓬莱山古墳の次の世代の首長の墓と考えられている。別名 西岡第46号古墳墳形 前方後円墳規模全長径107.25m後円部径66m、高さ約10m前方部幅49.5m、高さ約7.5m」 「所在地・・・田園調布5丁目2番5世紀前半西岡第31・32号古墳隣合って位置するこれらの円墳は、同一の古墳で前方後円墳になるという説もある。第31号古墳から貝製の腕輪を模した石釧(いしくしろ)が、第32号古墳からは南武蔵最古の円筒形埴輪が出土している。」 「円筒形埴輪」。 「円筒形埴輪西岡第32号古墳原資料所蔵 大田区立郷土博物館円筒形埴輪は2本出土しており、大きさや2条ある凸帯位置.に共通性かみられる。共に底部より15cm程の間は器面の荒れが激しく、この部分を墳丘に埋めていたと想像される。器形では、太さがほほ一定していること、ロ辺が大きく広がること、凸帯の突出度か強く太いといった特徴かある。また、器面には黒斑(煤痕)か残り、焼成は野焼きで行われたと考えられる。これらの特徴は、この埴輸が5世紀前半に作られ、荏原(台)古墳群で最古の埴輪であることを意味している。」 「6世紀前半西岡第28号古墳多摩川流域最古の横穴式石室を持つ古墳であったが戦前に宅地化され消滅してしまった。しかし、ここから出土した六鈴鏡は、南武蔵国と上毛野国(現在の群馬県)との関係を暗示する貴重な資料である。」 「六鈴鏡西岡第28号古墳原資料所蔵慶応義塾大学民俗学考古学研究所獣形鏡の系統の文様をもつ倣製鏡(日本製の鏡)のまわりに、鈴が6つ付いている。鈴鏡は関東・中部地方に分布し、なかでも北関東地方に多いため、ここを製作地とする考えもある。鈴鏡を持つ巫女の埴輪があるため、祭祀用具として使われたと考えられる。」 「5世紀末~6世紀初所在地・・・田園調布一丁目55番浅間神社古墳多摩川を見下ろす舌状大地の先瑞に位置する前方後円墳。前方部は東向きとされていたが、平成2年の発堀調査て、反忖側の西向きに位置することがわかった。後円部上に多摩川浅間神社社殿が建立されており古墳の名の起こりもこれに由来する。人物形埴輪・鹿形埴輪・馬形埴輪・円筒形埴輪が多摩川側斜面を中心に出土し、豊富な種類の形象埴輪を伴う埴輪列の存在が考えられる。」 墳形・・・前方後円墳規模・・・全長約60m 後円部径32m出土品・・人物(男子)形埴輪1、馬形埴輪1、 鹿形埴輪1、円筒形埴輪、朝顔形埴輪「馬形埴輪浅間神社古墳原資料所蔵多摩川浅間神社馬形埴輪は動物型埴輪の中でも最も出土例が多く、ほとんどが、飾馬として表現されている。口の両側には鏡板が、頭から首にかけては、たてがみが表現されていたと想像される。全長1.5m~2mほどに復元されるであろう。鹿形埴輪浅間神社古墳原資料所蔵多摩川浅間神社鹿は、食料として狩猟され、角は道具や装身具を作る重要な材料となった。また、神聖な動物として尊ばれ、人々にとって身近な動物でもあった。そのため、弥生土器や銅鐸にも描かれ、埴輪にも多く見られる。」 「所在地・・・鵜の木一丁目17番三島塚古墳田園調布古墳群の東南に続く段丘上に位置していたと伝えられるが、宅地化され存在しない。その内容についてはほとんど判らないが、優しい笑みを浮かべた女性の埴輪は古墳の存在を今も語り伝えている。」 「人物(女子)形埴輪三島塚古墳原資料所蔵増明院円板状に表現された結髪は、古代の女子の「島田髷」で、髪中央にみえる四角い板は束ねた部分の表現こあろう。額には髪を押さえ、装飾ともなる櫛がさしてある。人物(男子)形埴輪浅間神社古墳原資料所蔵多摩川浅間神社一見坊主頭のようだが、額の両側に何かが剥がれた痕が見え、「美豆良」という古代では男子だけがする結髪が表現されていたことがわかる。また、頭上に直径2cm程の孔があるが、冠などがはめ込まれていたと想像される。」 「所在地・・・田園調布二丁目45・48番田園調布埴輪製作址埴輪の工房、土師器の工房、窯跡などからなり、埴輪生産を総合的に考えることのできる全国的にも数少ない貴重な遺跡。簡単な屋根を被せただけの竪穴の中で、家族的少人数によって、付近から採集した粘土を使い一回に7・8個の埴輪を作り、登窯で焼いていたのではないかと考えられている。」 遺跡は、 1)随輪製作所 ( 埴輪製作の工房と考えられる竪穴 ) 2)土師器( はじき )製作所( 土師器製作の工房と 考えられる竪穴 ) 3)購状遺構( 断面V字状の不明な溝 ) 4)窯祉( 上記遺構の西方の崖に沿って発見された 埴輪焼成用容窯( 登窯 )から構成されている と。道路工事の際偶然発見されたこの遺跡を、大正15年( 1926 )発掘調査した「 森本六爾 」は、埴輪製作の様子を、貧しい屋根を被せただけの貧弱単純な竪穴内で、家族的小人数によって、付近から採掘された粘土で、一回に7、8個の埴輪を製作し、害窯で焼いたのではないかと考えました とネットから。「埴輪製作所復元模型」。 そして、ここで製作された埴輪の供給先である古墳は、築造に多大な労力、時間、経済力を必要とし、又豊富な金属器も副葬されているのに対し、鉄器すら出土しなかった埴輪製作祉との間には、階級の違いがあったことを否定できないと述べ、埴輪は、古墳を築造するような特権階級社会に一つの商品として支持され、古墳の外部施設のほんの一部として用いられたのだとしました。全国的にみても、埴輪生産を総合的に復元できる遺跡が少ない中で、貴重な遺跡ですが、現在 遺跡は宅地化され、又 出土遺物も所在不明になっているとのこと。「田園調布埴輪製作」場所の想像図。 次々と古墳紹介が続いていた。「所在地・・・田園調布四丁目9番観音塚古墳観音塚という名は、江戸時代にここから出土した人物(男子)形埴輪を観音様として、古墳上に御堂を建てお祀りしたことに由来する。頭に帯状の飾りのある帽子らしいもの被り、衣は左前にあわせられ胸紐で結ばれている。首には、玉を連ねたネックレスが回っていたようてある。耳の脇から胸の上にかけて美豆良(男子の髮形)が表現されていた。文人を表現した埴輪てあろう。この埴輪以外にも、馬形埴輪(鈴が出土している。)・大刀形埴輪・円筒形埴輪が出土しており、墳丘上に豪華な埴輪列が並んでいたことが想像される。」 名称 :西岡第36号古墳墳形 :前方後円墳規模 :全長41m、高さ2.7m 後円部・前方部幅13m石室 :横穴式石室出土物:大刀形埴輪1、鈴形埴輪(馬形埴輪の一部? ) 1、 人物形埴輪、靫形埴輪2 ?、円筒形埴輪3、 馬具(雲珠・轡他) 24、大刀4、刀子3、 鉄鏃97、鉄環2、管玉8、切子玉6、小玉73」 様々な出土品。観音塚古墳から出土した遺物のレプリカとともに説明板が設置されており、照善寺所蔵の人物型埴輪の写真と解説が記されていた。正面に「大刀形埴輪」と「大刀」。 「大刀形埴輪観音塚古墳原資料所蔵元東京都武蔵野郷土館祭祀儀礼に用いられた「玉縄大刀」と考えられる。把(つか)の部分に勾金(弓形に湾曲した付属品)を取り付け、その外側に装飾として三輪玉が4個付けられていた。鍔の位置に低い凸帯がみられるが、喰出鍔(はみだしつば・把の太さよりわずかにはみ出す大きさの鍔)を表現したものかもしれない。鞘には逆ハート形に見える紐も着けられている。かっては、その姿から「消化器形埴輪」とも呼ばれた。」 「大刀この大刀は人骨(被葬者)の右側に並行して、切先を奥壁に向けて置かれていた。生前から用いていた大刀なのであろうか?あるいは、悪霊から身を守るために副葬されたのであろうか?」 「年代詳細不明所在地・・・雪谷大塚町14番鵜木大塚(うのきおおつか)古墳元気な子どもたちの声が聞こえる調布大塚小学佼の北側、対照的に物静かな稲荷社の烏居の奥に、比較的残りの良い円墳がある。「大塚」と俗称され、付近の地名「雪谷大塚町」の名の起こりとなっている。」 別名:大塚墳形:円墳規模:径約27m、高さ約6m「6世紀末~7世紀前半所在地・・・田園調布五丁目29番西岡第22号古墳昭和6~7年、墳丘の約半分が道路工事て削られた際、発掘調査が行われ横穴式石室が登見された。その玄室には、床一面に玉石が敷かれ、その上に多くの副葬品が置かれていた。6mの小さな空間にも、首長を弔う古代人の心が詰まっている。」 「刀子」、「鉄鏃」、「雲珠」。 そして、展示室の壁面の展示につづき、中央に置かれた箱の中を覗いてみる。木棺に埋葬された様子を再現したものであった。「木棺に埋葬された首長」。 棺の中には美しく盛装した先代の首長と共に武器や装身具、首長のシンボルである鏡などが副葬品として納められていた。「木棺に埋葬された首長棺の中には、美しく盛装した先代の首長と共に、首長が生前愛用していた武器や装身具、首長のシンボルとしての鏡などが副葬品としておさめられている。周辺ケース内に展示せれている出土品も、昔はこのように美しい姿をしていた。この副葬品の種類や量を調べることによって、首長が埋葬された年代、武人として活躍したのか、もしくは文人として優れていたのかなど、首長といての性格・権力、他地域の首長との関係、古墳時代の生産技術や生活など、いろいろなことが考えられる。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.28
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等々力不動尊の脇、西側には山を下る遊歩道があった。「たきのみち」と刻まれた石碑。「不動の滝」への路。「たきのみち」を下る。「等々力不動尊」は本堂に不動明王ご安置している。不動明王は右手に剣を持ち、左手に羂索(けんさく)という麻縄を持って、憤怒の形相をしている。この不動明王が持つ剣を倶利伽羅剣と言って、不動尊にはこのように「倶利伽羅剣」そのものを碑として置かれているのをよく見かけるのであった。「等々力瀧磴道石階新築碑等等力瀧在武之荏原群其地瀕千玉河幽外閑雅瀑泉落懸崖數丈水尤清冷四時不絶暑夏来浴療病耳者日為群美壱泉之上頭安不動尊相傳根嶺大師因夢感奉於斗明治十八年先住吉良實恩謀興有志者造其磴道五十餘間石階以便干侫隆焉瀑泉於是大改奮観可謂美績矣因勒其功傳於之後明治二十年有一年戌子建辰月満願寺現住 宇野真隆識」と。さらに「たきのみち」の石段を下る。祠や石碑、石仏が斜面に点在していた。右手にあった小さな石碑。石碑表面は風化せれて解読不能。不動明王像。近づいて。さらに。木の祠の中にも。近づいて。お顔のない石仏、いや両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのは「ガマカエル」のようであった。手前には多数の松ぼっくりが。この関係は?「神變窟」碑。「役の行者」の「神変窟」があった。岩場の斜面に祀られた小さなお堂。両手で抱えられるほどの大きさだが祀られているのは老婆の如き姿。神変窟付近には他にも小さな御堂が奉られていた。「神変大菩薩」は役の行者のおくり名。 舒明天皇の六年(六三四)年 大和の国生まれ深く仏教に帰依御岳山の洞窟に孔雀明王を祀って祈り大峰の山々などを修行の霊地とした。当山の本尊不動明王は当初、役の行者が彫んだと伝えられると。そして下方に等々力渓谷を流れる谷沢川の姿が現れた。その手前、左手には茶屋があった。茶屋・「雪月花」。大きな赤い和傘が。そして「不動の滝」方向を見る。滝の手前右手には「弘法大師」と「観音様」の像が。「観音様」像「弘法大師」像。「不動の滝」の上には「不動明王」そしてその奥にも仏の姿が。二つの龍の口から湧水が流れ落ちていた。かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役の行者ゆかりの霊場と伝えられている。壁面からも湧水がにじむように出ていたのであった。右側の瀧口。左側の滝口。この石碑には??瀧の上の斜面には「不動明王」像が。その下の両脇にも仏像が。滝の上の番人といった感じで滝を見守っていたのであった。不動明王像。ズームして。脇の仏像を。そしてその先に社が鎮座。右側には木祠が。「南無不動明王」と書かれた幟も。ここにも「不動明王」。その左隣に「正一位稲荷大明神」。一番右にあった小さな石仏。そして再び「不動の瀧」を振り返る。矢沢川に架かる「利剣の橋」。滝の落口を見る。再び「弘法大師」と「観音様」の像。「雪月花」。「矢沢川」。水面には紅葉が映り込んで。ここにも「東京都指定名勝等々力渓谷(とどろきけいこく)所在地 世田谷区等々力一丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する開析谷で、都区内唯一の渓谷である。台地と谷との標高差は一〇メートルあって、騒音も渓谷の中までは届かず、都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹木と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよくしている。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から一三年にかけて谷沢川(やさわがわ)の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることもなく、雉(きじ)などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水(ゆうすい)である不動の滝があり、かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷保存会によって行われている蛍(ほたる)祭りは、清掃活動とともに地域に根ざした保存活動として成果をあげており、清流復活運動の先駆けとなった地域である。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西元町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。 平成十一年九月 東京都教育委員会」「等々力渓谷内日本庭園・書院」への石段が前方に。日本庭園他の周辺案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.27
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「多摩川台公園」の斜面の遊歩道を上って行った。 「⬅水生植物園」、「あじさい園」案内標識。 そして「水生植物園」を望む。夏になれば(ネットから)。浄水場の貯水池跡に作られた水生植物園とのこと。その先にあった広場。更に進むと右手にあったのが「国指定史跡亀甲山古墳」案内板。 「国指定史跡亀甲山古墳この古墳は、大田区から世田谷区におよぶ荏原(台)古墳群中最大の前方後円墳である。発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪、葺石等がないことや、その古墳の形により、五世紀前半頃の築造と考えられ、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。この前方後円墳は、後円部南端を浄水場建設工事により削られているものの、比較的よく原形を保っている。港区芝公園内にある丸山古墳とならんで、都内の代表的古墳である。昭和三年、国の史跡に指定されている。 大田区」 「亀甲山古墳」の平・断面図。「亀甲山古墳」の規模。「亀甲山古墳については、古くは江戸時代の地誌類に記述を見ることが出来ます。『新編武蔵風土記稿』の下沼部村の亀塚の項には「浅間の西にあり、土人亀塚山といふ、浅間山より少しく高し、されど其事跡をつまびらかにせず、上沼部村亀塚の条合せ見るべし云々、」とあり、上沼部村の亀塚の項には「村の東の方にあり、小山のごとくたてり、又下沼部村にも一所あり、名づけて雌亀雄亀と云、ただかたちの似たるを以て云にや、その故を詳にせず、古くは御放鷹の節御立場になりしこともありと云、百姓弥右衛門の持なり、」と書かれています。同書ではこの亀甲山古墳を「亀塚」、「亀塚山」と記述しており、また宝萊山古墳とこの亀甲山古墳を合わせて「雌亀雄亀」と呼んでいるあたりは、興味深いところです。また、『玉川辺亀ノ甲山江右大将様御成記録』という徳川十二代将軍家慶が亀甲山に御上覧された記録が書かれている文献には、亀甲山古墳の名称に「亀ノ甲山」と「ノ」のルビがふられていることから、亀甲山は江戸時代当時から「かめのこやま」と呼ばれていることがわかっています」と。「史跡 亀甲山古墳」碑。 「亀甲山古墳」前の大きな四阿風休憩所からは多摩川の姿も確認できた。「多摩川台公園で見られるおもな野鳥」案内板。 「亀甲山古墳」を振り返って。ズームして。「多摩川台公園」の「古墳展示室」案内表示があった。ひときわモダンな石作りの四阿があった。塀に嵌め込まれた「下村宏のレリーフ」。 「多摩川台公園 (昭和二十八年開園)と下村宏氏昭和十二年、田園調布に居を構えて以来、この地(多摩川台)は下村宏氏が最も好まれた散策地でした。未開の古墳群の丘を眺めながら「何とかならないか」が口癖で、五島慶太氏(東急電鉄創設者)とも、この辺りの未来図を熱く話し合われていたそうで初代国立公園審議会の要職ににあった下村宏氏は、当局に掛け合い、まず多摩川台を公立公園とする許可を取り付け、努力の末、昭和二十八年都立公園として開園、昭和五十年大田区に移管。現在では武蔵野の面影を残す自然林豊かな公園として区民の憩いの場となっております。下村宏氏が好んで立たれた丘の上にあずまや(休憩施設)があります。ここが歌人としても活躍された下村宏氏の号である海南(かいなん)をとって、「海南亭」と名付けられております。壁面に肖像レリーフと功績を顕彰した銘板を慨め込んでおります。「下村宏氏」(明治八年~昭和三十二)明治·大正·昭和の官僚、新聞経営者、政治家、歌人。号は海南(かいなん)。玉音放送の際の内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られており、公益 福祉及び教育事業に尽力するなど、その足跡は極めて多方面にわたりました。また、晩年には(社)田園調布会会長に就任(昭和二十七年~昭和三十二年)されました。」「先生名は宏 海南の号をもって広く世人に親しまれた明治八年和歌山県に生まれ 東京大学をおえて逓信省 台湾総督府の要職を歴任し 転ぜられて情報局総裁となった また 日本体育協会 日本放送協会 藤楓協会 東京商業高等学校 自然公園審議会等主宰して 公益 福祉及び教育事業に尽力するなど その足跡はきわめて多方面にわたった人となり活丹無私 法学博士の学位を有し 博学で記憶にすぐれ 文章 弁舌の雄として知られた趣味は百般に及び 情誼はとくに厚く 交友無数であった また国土の自然を重んじ 終生山野を跋渉して楽しみとした昭和三十二年十二月九日 田園調布で八十二才の多彩な生涯をとじた 昭和三十五年十二月 下村海南先生記念事業 実行委員会眼さむれば 松の下草を刈る鎌の 音さやに聞ゆ 日和なるらし」 大正4年に「心の花」入会。歌集が五冊もある。歌は天草島での作 であると。「海南亭下村宏明治8 (1875)年~昭和32 (1957)年政治家・教育化・ジャーナリスト・歌人(号は海南)「海南亭」は、多摩川台公園の生みの親である下村宏の数多くの功績を顕彰して、昭和35(1960)年に多摩川台2号墳の南に建立されたあずまや(四阿・東屋)です。その壁面には、下村宏氏のレリーフと来歴・人物・和歌を記した銘版が嵌め込まれ、建立以来、区民憩いの休み処として長年親しまれています。同氏は昭和20 (1945)年8月15日、国務大臣兼内閣情報局総裁として昭和天皇による玉音放送を実現させ、終戦に尽力しました。生前に勲ー等瑞鳳章を受章し、多くの著作があります。 令和元年5月1日」 「大田区立 多摩川台公園 案内板」。 現在地は第一広場前のここ!!黄色く染まったイチョウ。「大田区立多摩川台公園 古墳展示室」が正面に。「大田区立多摩川台公園 古墳展示室」入口。「大田区立多摩川台公園 古墳展示室」案内板。 「古墳展示室」。 「古墳展示室は自由にお入りください 入場無料です」と。「大田区の古墳」 正面から。「大田区の古墳多摩川下流一帯は、水資源と肥沃な土地に恵まれ、弥生時代以来、豊かな農耕生産に支えられて発展した。その中から有力な首長が誕生し、彼らのシンボルとして巨大な墓「古墳」が造られた。大田区田園調布から世田谷区野毛に至る、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、数多くの古墳が分布し、これらは荏原(台)古墳群と呼ばれている。ここでは、その古墳群のうち、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」を造られた順に紹介する。」 「復元された古墳」 巨大な古墳の墓が実物大のレプリカで再現。近づいて。古墳頂部をズームして。古墳の下には「形象埴輪」が並んでいた。 「古墳展示室の見どころ案内ここから一歩中に入ると6世紀、古墳時代の日本にタイム・スリップ。築造当時のままに復元された全長約60mの前方後円墳が目の前に現れます。みなさまも、古代人になった気分で古墳の周溝や石窟の中を散策してください①古墳展示室の見どころ案内 ②復元された古墳③マツリの風景「墓前祭」 ④横穴式石室に入る⑤木棺に埋葬された首長 ⑥大田区の古墳⑦古墳の断面 ⑧古墳の造り方⑨荏原(台)古墳群の分布 ⑩武蔵国造の乱⑪いろいろな古墳とその大きさ ⑫展望窓」。横穴式石室を模した展示室への入り口。「まつりの風景「墓前祭」」。形象埴輪配列の復元は、以前に見学したことがあるが、人の形としてリアルに復元されたものを見たのはこれが初めてであった。「まつりの風景「墓前祭」墓前祭は、亡くなった前首長の埋葬の儀式だけでなく、新首長の即位を広く人々に知らせるための、世代交代を執り行う儀式でもあった。前首長の眠る石室の前で、神に仕える巫女のとりしきる「マツリ」が樂人達の奏でる音楽を伴奏として、厳かに進められている。」 「大刀を持つ女」。 「大刀を持つ女大刀は武器として用いられるだけてなく、葬送の儀式ては悪霊を追い払う呪術的道具としても重要な役割をはたしたことと考えられます。墓前へと向かう葬送の行列では先頭を歩き、これに続いてマツリに参加する人々の先払いとなった。そして、儀式では守護の象徴して人々とマツリの場を見守った。このような大刀を特つのは、霊力を持った女性の役目てあったと思われる。埴輪では巫女の姿で表現されている。「巫女」。 「巫女椅子に腰掛け、坏を捧げ持つ。身を清めるための酒でも入っているのであろうか。肩に回し衣をたくしあげる襷、肩から斜めに被られた游須比、幅の広い帯、腰につけられた鏡(六鈴鏡)と刀子(小刀)など、マツリを取り仕切る巫女の衣装や持ち物がよくわかる。顔や首を赤く隈取りするのは、呪術的な理由からであろう。」 「新首長」。 「新首長椅子に腰掛け、前を見据え、意を正すようすは、即位したばかりの新首長としての緊張感と力強さを感じさせる。ボタンのような装飾のある星形の鍔付帽子を被り、腕に籠手、手には手甲をつけ、衣を身にまとう。椅子の上には左側に玉纏大刀が置かれている。顔を首を赤く隈取りしているほ他、美豆良(みずら・男性の髪形)を縛る飾り紐も赤い。」 「琴を弾く男」。 「琴を弾く男マツリの雰囲気を盛り上げる楽人の一人、膝の上に琴を置き、これを奏でている。琴は埴輪にみられる最もポピュラーな楽器で、マツリの中でも重要な役割を果たしたのであろう。このような琴は弥生時代の遺跡(2~3世紀頃)から既に発見されている。奈良時代には中国や朝鮮から伝承した大形楽器に対抗して大きくなり、「和琴」と呼ばれるようになるが、これと区別するため「大和琴」、あるいはその姿から「鶏尾(とびのお)琴」ともよばれる。」 「太鼓をたたく男」。 「太鼓をたたく男太鼓が生み出す響きやリズムは、人々の心を自然とマツリの世界へ誘ってゆく。墓前祭においてもこの楽器は重要な役割を果たし、こを奏する楽人もマツリの中心人物の一人であった。胸の両側の皮は山形に縫った糸で留められている。これを肩から吊るし、左手で支え、撥(ばち)でたたいている。太鼓をたたく姿の埴輪はたいへん珍しい。」 古墳内部に展示室へ。壁面には、田園調布古墳群の個々の古墳について、出土品やパネルで詳細な解説がなされていた。そのうち、この日、めぐった蓬莱山古墳・亀甲山古墳・多摩川台古墳群(円墳8基)を中心に見学。出土した土器類が年代別に展示されていた。「円筒形埴輪」。 「土師器坏形土器」。 手前に「鍔(つば)」、「金環」。 「指定書多摩川台古墳群指定面積8964.25平方メートル右を東京都指定 史跡 に指定する平成十二年三月六日 東京都教育委員会」。 「7世紀初 多摩川台古墳群第3・4号墳範囲確認調査の際、両古墳の間に周溝の見つかり、各々独立する円墳てあることが判った。また、埴輪が出土し、第1・2号墳(前方後円墳)と共に、多摩川台古墳群の中て一グループを形成するものど考えられる。第3号墳別名 後藤第3号墳、西岡第44号墳墳形 円墳規模 径13m、高さ1m埋葬施設 横穴式石室出土品 土師器坏形土器4、須恵器片、埴輪片第4号墳別名 後藤第4号墳、西岡第43号墳墳形 円墳規模 径18m、高さ2m埋葬施設 横穴式石室出土品 大刀3、鍔2、刀子1、鉄鏃3、轡片1、金環1、須恵器、土師器片」 第3・4号墳の築造関係。多摩川台古墳群(円墳8基)の模型をアップで。南から北へ1号墳から8号墳が連なっている。最下端(南)の前方後円墳は後に円墳2基に築造し直され、1号墳、2号墳となっている。最上端(北)の円墳は「9号墳」となっているが、のちの「新8号墳」である。「多摩川台古墳群第5・6・7号墳古墳の中心点を結び、その直線に横穴式石室の方向を交叉させると各々ほぼ直角に交わる。これらは古墳の築造が計画的に行われてことを物語っている。多摩川台古墳群における第4号墳と第5号墳の間隔は、他に比べ広く、埴輪の有無も合わせて考えると、第1~4号墳、第5~7号墳という二つのグループが想定される。第5号墳別名 後藤第5号墳、西岡第42号墳墳形 円墳規模 径20.1m、高さ2.75m埋葬施設 横穴式石室出土品 大刀4、刀子3、鉄鏃62、轡1、小玉221、管玉5、勾玉4、棗玉2、切子玉1、金環、銅環、須恵器片第6号墳別名 後藤第6号墳、西岡第41号墳墳形 円墳規模 径19.5m、高さ2.8m埋葬施設 横穴式石室第7号墳別名 後藤第7号墳、西岡第40号墳墳形 円墳規模 径20m、高さ1.75m埋葬施設 横穴式石室」 第5・6・7号墳の築造関係。説明書きにあるように、確かに、3基の古墳の石室は主軸線と直角に設けられている。上段:大刀中断:刀子、轡(くつわ)下段:小玉、管玉、勾玉、棗玉(なつめだま)、切子玉「7世紀後半多摩川台古墳群第9号墳(新8号墳) 横穴式石室実測図小谷を挾んて離れた位置にある。昭和32年の発堀調査で、前室と奥室=玄室のある横穴式石室が発見された。出土遺物の内容から、前室は葬送祭祀を行う場所、玄室は遺体安置の場所として利用されていたと考えられている。」 「土師器杯形土器」と「須恵器長頸瓶横穴式石室の前室から3点、土師器坏形土器1点と共に出土した。そのため、前室では葬送祭祀が行われたのではないかと考えられている。長頸瓶の中には、酒などの飲物でも入れたのであろうか?その姿からフラスコ形瓶とも呼ばれ、2つの半球形を合わせ、側面に孔を開け長い口頸部を接合して作られる。これらの生産地は東海地方に限られるとされ、7世紀前半に始まり、8世紀に続くと考えられている。」 下段には「鉄鏃」と「金環」、「小玉」、「丸玉」。 「
2024.02.27
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そして都道312号線沿いにある「等々力不動尊」の山門前に到着。 掲示板には「慌てず騒がず一歩ずつ」と。山門には「七五三」参りの案内が。「運鈍根 うんどんこん」運を大事にし 情報過多の今は 見すぎず気にせず根気強く「弘法大師 空海 ご誕生 1250年」と。空海は774年(宝亀5年)生まれであるので西暦2023年が1250年になるのだ。「東京都指定名勝等々力渓谷(とどろきけいこく)所在地 世田谷区等々力一丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する開析谷で、都区内唯一の渓谷である。台地と谷との標高差は一〇メートルあって、騒音も渓谷の中までは届かず、都区内とは思えないほどの鬱蒼(うっそう)とした樹木と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよくしている。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から一三年にかけて谷沢川(やさわがわ)の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることもなく、雉(きじ)などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。等々力不動尊左手の石段下には、国分寺崖線の湧水(ゆうすい)である不動の滝があり、かつてはこの滝に打たれて行をする修行僧が各地から訪れたと言われており、役(えん)の行者(ぎょうじゃ)ゆかりの霊場と伝えられている。等々力渓谷保存会によって行われている蛍(ほたる)祭りは、清掃活動とともに地域に根ざした保存活動として成果をあげており、清流復活運動の先駆けとなった地域である。等々力渓谷は、東京都指定名勝「真姿(ますがた)の池湧水群(いけゆうすいぐん)」(国分寺市西元町)とともに国分寺崖線名勝群を形成する一つであり、東京を代表する自然地理的名勝として、植生学、地質学及び地形学上重要である。 平成十一年九月 東京都教育委員会」「等々力渓谷等々力渓谷は矢沢川によってできた谷で、今でも多くの動植物がみられ、四季折々には咲き乱れる桜、常緑の木立、秋の紅葉も不動滝(ふどうのたき)(竜頭滝 りゅうずのたき)に映え、深山の趣きがある。谷間は粘土、砂礫(されき)、赤土(関東ローム層)の層が重なって地層の移りかわりをものがたっている。不動滝は古くより知られ、清浄な渓谷にしぶきをたてて、とどろいていたことから、等々力の地名が起こったともいわれている。不動尊本尊は、新義真言宗の宗祖興教(こうぎょう)大師が山城国(京都府)よりこの地に移したとつたえられる。 昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会」現在の山門は、昔の満願寺山門を昭和43年8月に移築したものと。山門下から「等々力不動尊」の境内を見る。見事なイチョウの黄葉の下に紅白の吹き流しが。「草木供養碑」が左手に。小さな木祠の中には石仏が。そして一対の生花が供えられていた。庚申塔。六手青面金剛・邪鬼・三猿・二鶏。 塔の外周は欠けており、像も風化し細部がはっきりしない。 邪鬼と三猿。二鶏は台座に大きく浮き彫りされていた。雌雄に加え右下にはヒヨコもいるようだ。右手にあったのは神楽殿か?イチョウの黄葉が青空に映えて。境内の左側の紅葉。喜寿白雲 句碑『恋ほたる 風のふし目に 光りけり 喜寿 白雲』と。喜寿を迎えての奉納品か。手水場にはイチョウの落葉が。近づいて。境内の小さな祠・「厄除大師堂(明王院大師堂)」。近づいて。「常香炉」越しに本堂を見る。近づいて。中央にあるのが寺紋なのであろうか。本堂・等々力不動明王院 が正面に。真言宗智山派寺院の等々力不動尊明王院は、滝轟山と号し、等々力満願寺の別院。等々力不動尊明王院は、根来寺の興教大師が当地に不動堂を建立したと伝えられます。玉川八十八ヶ所霊場33番、関東三十六不動霊場17番。本尊は不動明王像。本堂の横には休憩用売店があった。菊の懸崖作りが両脇に。懸崖造りは、1本の小菊を大きな株に仕立て、野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を表現する技法。ピンクの花はピークを過ぎて。左は黄色の懸崖菊。氏子の奉納品であろうか。手間暇をかけ、作りあげたものであろう。「瀧轟山」と書かれた扁額。満願寺の山号は「致航山」、院号は「感應院」、寺号は「満願寺」。本尊は金剛界大日如来、宗派は真言宗智山派で、開創は平安時代末です。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築されました。常法談林三衣(じょほうだんりんさんね)の格式の寺で、学問所・教育機関・本山としての機能を有していました。山門方向の境内を見る。紅白の吹き流しが。寺伝によれば、平安時代後期、真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖である覚鑁(かくばん=興教大師)が本尊の不動明王像を安置して創建したとのこと。本堂は江戸時代末期の建築で、拝殿は昭和27年、山門は昭和43年に満願寺から移築。不動の滝への途中には修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ=役の行者)が祀られ、古くからの修験の地である と。「不動尊」と書かれた巨大な真っ赤な提灯。「社務所」。「本堂」前から木製の「舞台(展望台)」をズームして。見事な紅葉が拡がっていた。手水舎の龍。再び木製燈籠越しに紅葉を楽しむ。見上げて。境内の紅葉は今が盛りか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.26
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「展望台」を後にして再び拝殿前に。参拝者が振り鈴を鳴らすための神具「鈴緒」・「鰐口紐」の下部に見たことのある名前が。近づいて。「長嶋一茂 平成二十五年九月吉日」と。この近くの田園調布にお住まいか?内陣では祈祷が行われていた。拝殿前方再び境内を見る。朱の和傘の陰も鮮やかに。「展望台」方向を見る。左に神楽殿、四の鳥居が正面に。樒(しきみ・しきび)の樹?であっただろうか。七五三のお祝いご家族の姿が。再び「社務所・神前結婚式会館」を望む。 会館入口右手の「カエル・蛙の像」。石蛙は、社務所の玄関右脇に置かれ首にはしめ縄が巻かれていました。横長のずんぐりとした体型で、大きさは幅約80 cm×高さ約50 cm×奥行き約50 cm。 「社務所にいらした方に、石蛙が置かれた由来をお聞きしたところ、個人による奉納との事。富士講を信仰している方で、富士山に帰るという語呂合わせから蛙を奉納されたそうです。」とネットから。しかし、結婚式場の入口に蛙=カエル=帰る・・・・??? と個人的には。」石段を下る。振り返って。多摩川に沿って都道11号線を上流方向に進む。右手上が「多摩川浅間神社」の「展望台」。 「多摩川」と。そして「東急目黒線」、「東急東横線」の下を潜る。 この先、右手にあった「大田区立 多摩川台公園 案内板」。 現在地はここ!!この先に「亀甲山古墳」があると。振り返って。「調布取水所」入口。「東京都水道局 調布取水所」。調布取水堰:幅104m、型式:固定堰水門起伏堰閘門、完成年度:昭和10年。調布取水堰は、多摩川から取水した原水を調布浄水場および玉川浄水場に送る施設で、大田区田園調布に玉川水道株式会社によって昭和11年(1936)に完成した。玉川水道株式会社は現在の品川・大田・世田谷区方面に配水していた民営水道で、昭和10年(1935)3月に東京市水道に買収統合された と。入口に巨大な魚の像が。ここにも「武蔵野の路 丸子・二子コース」 案内板。「大田区立 多摩川台公園」。 多摩川に沿って伸びる丘陵地に約750mにわたって展開しています。多摩川八景見晴台、亀甲山古墳、宝来山古墳、多摩川台古墳群、海南亭、水生植物園、四季の植物園、あじさい園、ふたつの広場などがあります。桜、あじさいなど四季折々の花や自然林の道の散策が楽しめます。公園入口には、「多摩川台公園古墳展示室」があります と。石段を上って行った。「多摩川台公園内コース」案内板。 上部斜面には展望デッキが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.26
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「淨真寺」の本堂の右側の部屋にあった「高祖 善導大師像」。「浄土宗 開宗 八百五十年」と。「浄土宗を開宗した法然上人(右)は、夢の中で中国・唐時代の高僧、善導大師(左)に対面されました。この夢によって自身の進むべき道に確信を得た法然上人は、人々に生涯をかけて念仏の教えを広められました。」と。右側から。再び「天蓋」を。真下に移動して。格子天井にも装飾絵画が。本堂内の欄間の「極彩色の見事な彫刻」を追う。鳳凰の姿。再びご本尊を。本堂の主梁の上にも小さな仏様の姿が。黄金の仏像をズームして。そして本堂から外に出て回り縁から。黄葉&紅葉のコラボを。「本堂(龍護殿)」前の「半跏思惟地蔵菩薩」と「さぎ草絵馬」を。さらに黄金の光景を楽しみながら楼門・仁王門に向かって帰路に。Good Timingで訪ねることが出来たのであった。晩秋晴れの空から時折、銀杏の葉が金色の魚の形して降って来た参道を歩く。楼門・仁王門に向かって。再び五十石塔を。楼門・仁王門に近づいて。そして楼門・仁王門を潜って。参道横に建てられた木製燈籠の火袋の窓に描かれた鷺草の花をカメラで追う。そして右折して総門への参道へ。総門をズームして。右手には扉の開かれた「焔魔堂」が。「焔魔堂」への朱の太鼓橋、その先に「三途の川」が。扉の開かれた「焔魔堂」を正面から。内陣を再び。そして「淨真寺」の紅葉、仏像を大いに楽しみ、「九品仏駅」に向かって参道を戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.25
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「多摩川浅間神社」の境内にあった「絵馬掛け」を紅葉を背景に。「絵馬掛け」に近づいて。右手に「神楽殿」。廻り込んで。風がなかったので風車は・・・。「子産石」。この石は清らかな海の岩で、長い年月を経て自然に生まれた石で古来よりこの石を両手でやさしく撫でると子宝に恵まれると言い伝えられております。当社御祭神「木花咲耶姫命」は炎の中で出産したといわれ、子宝・安産・子育ての神として信仰されております と。「たけくらべ」碑。 参拝の折に家族でこの「たけくらべ」の石碑で背を測って写真を撮る光景が多くみられる。この石碑の上は富士をイメージしている。「参拝記念」撮影スポットの背景には拝殿そして赤い和傘が。狛犬(右)。「天皇陛下御即位五十年記念」碑 。狛犬(左)。そして「多摩川浅間神社」の「社殿」。 屋根をズームして。扁額「浅間神社」。 内陣を見る。振り返って境内を。「授与所」を見下ろして。「拝殿」の右側。 「絵馬」には桜の花が。 「授与所のご案内」。 「御朱印のしきたり 五ヶ条一 必ず参拝しましょう ご朱印は参拝の証です。まずは参拝から始めましよう。一 ご朱印帳を用意しましょう 用意できない方または書置き御朱印の日がございますので後ほど貼りましょう。一 書いてほしい所を開いてお願いしましょう カバーや挟んであるものは外し、綴り式の場合は紐を緩めましょう。 書き手へのご配慮お願いします。一 初穂料は予め用意しましょう 書き終えたご朱印をお渡しする際にお納めください。一 書き終えるまで静かに待ちましよう ご朱印はコレクションではありません。ご神域では静かなお気持ちでお待ちください。」 拝殿の右奥の紅葉。紅葉樹に近づいて。緑の葉とのコラボも美しい。さらにズームして。「拝殿」を斜めから。 御札売り場。「浅間神社 御造営記念碑」。 「多摩川浅間神社」の「見晴台」に向かう。「田園調布の古墳の丘の氏神様田園調布からの多摩川を望む眺望を四季を通じお参りと共にお楽しみください」と。 「展望台」は「社務所・神前結婚式会館」の屋上。 多摩川そして左側に「中原街道」の「丸子橋」、奥に武蔵小杉周辺の高層ビル群、右手には「東急目黒線」、「東急東横線」の高架が見えた。 武蔵小杉周辺の高層ビル群をズームして。丸子橋をズームして。東京都大田区田園調布本町と神奈川県川崎市中原区上丸子八幡町の間に架けられている。丸子橋の管理は東京都が行う。 河口から13.0 kmの位置にあり、鉄道橋を除けばガス橋と二子橋の中間にあたる。橋の間に東京都と神奈川県の都県境がある。片側2車線道路で、中原街道が上を通っている。近接して上流側に東急東横線・東急目黒線の東急東横線多摩川橋梁、下流側に東海道新幹線の東海道新幹線多摩川橋梁の二つの鉄道専用橋があり、丸子橋はこの二つの橋にはさまれる形で架かっている。初代の橋は1934年(昭和9年)に建設され、その後、2000年(平成12年)に現在の橋に架け替えられた。初代の橋はリズミカルなアーチが組み合わされた姿が特徴で、1990年(平成2年)にかながわの橋100選に選ばれた。初代の「丸子橋」が開通したのは、昭和10(1935)年5 月11日だった。人々は小旗を手に、できあがったばかりの「丸子橋」へ集まりその完成を祝った。工事費用は50数万円、長さ400m、幅11m。2 年の歳月を費やして、ついに「丸子橋」が完成した。 「東急目黒線」、「東急東横線」の高架をズームして。遠く、丹沢の山々の姿も。手前に「東急目黒線」。 奥に「東急東横線」。 「開運水晶玉」。 「奉納 開運水晶玉」。 水晶玉の下にある干支が書かれた円盤を回し、自分の干支を富士山の方角に合わせて遥拝するのだと。提灯「淺間神社」。 昔、下沼部村には、浅間、赤城、熊野の三つの神社がありましたが、明治40年、”一村に一神社”という合祀のための政令が出されたことから村人たちの話し合いが行われ、浅間神社が新しい村の鎮守様になりました。「多摩川浅間神社」の社紋は桜で、御祭神は木花咲耶姫命。「本殿」を斜めから。「祈祷待合所」とトイレ。このオブジェは??布のパッチワーク?「シン・ゴジラ」でラッピングされた自動販売機。「シン・ゴジラ」と「多摩川浅間神社」 「多摩川浅間神社 2016年に公開された映画「シン・ゴジラ」の劇中で、陸上自衛隊が行った【タバ作戦】の前線基地である【タバ戦闘団前方指揮所】が設置された。【タバ作戦】で強靭なゴジラを撃退することはできませんでしたが、「多摩川浅間神社」は破壊されずに済んだ。ゴジラの危機から透れた、【災害から守られる】【災いを跳ね除ける】場所として、ゴジラファンの間で人気の高いスポットとなっています。」 ゴジラが東京に向かって行ったときに自衛隊の戦車群ともみ合っていた場所なのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.25
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今日は、実家の竹藪に行き、「フキノトウ・蕗の薹」を収穫して来ました。【春の使者 蕗の蕾が 竹林に】・・・詠み人知らずそして今日の夕食は天ぷら。春菊、ブロッコリーそして春の訪れを知らせる旬の山菜・蕗の薹を楽しみました。そして今宵は2月の満月。2月の満月はアメリカの農事暦では「スノームーン」とも呼ばれると。また今回の満月は、2024年のうちで最も遠い満月でもあるのだと。やや、霞がかかっているので、「SLIM」の姿は確認できませんでした😁😁😁。今回は、2024年の満月としては地球から最も遠い位置でその瞬間を迎えていると。その年で最も近い満月はスーパームーンと呼ばれますが、今回はその逆ということに。地球の周りを公転する月の軌道は楕円形で、月の軌道は太陽や地球などの重力を受けて変化。このため、満月や新月のときの地球と月の距離は毎回異なるのだ。月は24日(土)21時30分頃に満月の瞬間を迎え、25日(日)23時59分に遠地点(地球から最も遠ざかる点)を通過するとのこと。満月のときの地心距離(地球の中心と天体の中心の間の距離)は約40万6000キロメートル、月の視直径(角度で表す天体の見かけの大きさ)は約29分26秒角と。2024年で最も地球に近い満月(10月17日)と比較すると、視直径は約12%小さく(面積は約22%少なく)なる。肉眼で見てもその大きさの違いを感じるのは難しいものの、写真を撮って厳密に比較すると、ごくわずかな違いが感じられるかもしれませんと。なるほど、我がカメラでもズームを最大にしても、まん丸の形でカメラに収まったのです。因みに地球1周は約4万キロです。アメリカの先住民は季節を把握するために、各月に見られる満月に名前を、動物や植物、季節のイベントなど実に様々につけていました。農事暦(The Old Farmer's Almanac)によると、アメリカでは2月の満月を「スノームーン(Snow Moon/雪月)」と呼ぶようです。「寒さが厳しく大地の多くが雪に覆われる季節」にちなんで名付けられたといわれます。皆さん中学時代?の復習です。もちろん、月は自ら光っているわけではなく、太陽の光を反射することで輝いて見えています。そして、太陽の光が当たっている月面の半球が地球から見てどちらを向いているかによって、三日月や上弦、満月、下弦など、見かけ上の形が変わります。地球から見た太陽の方向を基準に、太陽の方向と月の方向の黄経差が0度の瞬間が朔(新月)、90度の瞬間が上弦(半月)、180度の瞬間が望(満月)、270度の瞬間が下弦(半月)と定義されていて、およそ1か月弱で1周します。つまり満月は、地球から見て太陽と月が正反対の方向にならぶ瞬間(太陽、地球、月の順に、ほぼ一直線にならぶ瞬間)を指すのです。以上、夜の補講講座を終了いたしまます。
2024.02.24
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「淨真寺」の本堂前の「花供養塔」。母の日が終わった5月第3日曜日に、ここ浄真寺で花供養が行われると。戦後から長く続く法要で、お花屋さんの有志が1年間お花にお世話になった、花の生命を使って商売をさせて頂いたことへのご供養である と。本堂前の紅葉を追う。「本堂(龍護殿)」先のイチョウは既にほとんどの葉を落としていた。ズームして。「南無阿弥陀佛 傳通院四十九世」と刻まれた石碑。「本堂(龍護殿)」前には「さぎ草絵馬」がニ体。白鷺の足に結んだ常盤姫の願いが成就した事に由来し、龍護殿前の白鷺(しらさぎ)の像に願い事を結ぶことができるようであった。「常盤姫伝説今から400年以上も昔、世田谷城主吉良頼康には奥沢城主大平出羽守の娘で常盤という美しい側室がいました。常盤姫は頼康の愛を一身に集めていましたが、それをねたましく思った側妾たちは、つくり話によって頼康につげ口をしました。度重なるつげ口から頼康もそれを本気にして常盤姫に冷たくあたるようになりま した。愛情を疑われ、悲しみにくれた姫は死を決意し、幼い頃からかわいがってい た白さぎの足に遺書を結びつけ自分の育った奥沢城へ向けて放しました。白さぎは奥沢城の近くで狩をしていた頼康の目にとまり、矢で射落とされてしまいました。白さぎの足に結んであった遺書を見て初めて常盤姫の無実を知りいそいで世田谷城に帰りましたが、すでに姫は息をひきとっていました。その時、白さぎの血のあとから、一本の草が生え、サギに似た白いかれんな花を 咲かせました。これがサギソウと呼ばれるようになったのです。」とネットから。こちらの白鷺の像は口を開けて。この白鷺の像も阿吽像の如し。もう一体の白鷺(しらさぎ)の「さぎ草絵馬」。以下ネットから。さて、姫路城を白鷺城という名前にもあるように、われわれ日本人は色の白いサギを「シラサギ(白サギ)」と呼んでいます。でも実は、正式な種名としてシラサギという鳥はいません。ダイサギ、チュウサギ、コサギなどの白色のサギの総称としてシラサギと呼んでいるだけです。シラサギという名前の鳥は、いないのです!どうしてこういうことになったのか、都市鳥研究の第一人者で自然観察大学の学長でもある唐沢孝ー先生は、次のように説明します。「もともと白いサギを総称してシラサギと呼んでいたところ、標準和名を付ける時、大きさによって区別するためにダイサギ、チュウサギ、コサギなどという種名、標準名がつけられました。その結果、シラサギという名のサギはいないことになってしまいました。」と。「本堂」前に「金千五百圓」と刻まれた大きな石碑が鎮座。「本堂」前から「上品堂」を見る。「本堂(龍護殿)」前の「半跏思惟地蔵菩薩」。本堂横の「仏足石」。天保年間(1830~1844)造立の仏足石。「仏足石大聖釈尊の御入滅後、仏陀礼拝の形式として、その御足に対して、接足作礼(せっそくさらい)により人々は哀心慕情の誠を示した御入滅後およそ六百年、仏像が創まり、それが広範におこなわれるまでの永い年月、仏足石礼拝は重く用いられたのである。当山の仏足石の中央に千福輪相(法輪)が刻されているが、磨滅している。天保年間のもので、近年その土台を補修した。」本堂を斜めから。植松壽樹(ひさき)歌碑。「掃きよせて 落葉焚く間も 銀杏の樹 やまずしこぼす 黄なるその葉を 壽樹」大正昭和期の歌人。歌誌『沃野(よくや)』を創刊・主宰した。墓所はここ浄真寺。裏面には、短歌一首が冒頭に。『雷鳥は いろ(色)まぎらはし 指さして をし(教)ふる方(かた)に さ霧のうごく 壽樹』歌碑銘植松壽樹 明治二十三年二月十六日東京四谷に生れ長じて慶應義塾大学理財科を卒業実業界に入り 後に芝中学校(現芝学園)に職を転じ 爾来歿するまで教職にたずさわる 歿年 昭和三十九年三月二十六日明治三十八年窪田空穂の十月会に参加 若くしてすでに歌人としての風格を備え 大正三年「国民文学」創刊と同時に参画したが 昭和二十一年自ら「沃野」を創刊し主催する 著書のうち 歌集には碑面の一首を含む「庭燎」(大正十年八月)を始め 「光化門」「枯山水」「渦若葉」「白玉の木」など 研究には「近世万葉調短歌集成」其他 近世歌人の研究書数冊がある また能書家であった父千春に学び 若きより壽樹もまた書をよくした ここに頭刻の一首をのこして永くとどめることとする 碑面の一首は「庭燎」所収のもので 当時好んでこの地を逍遥した折の所産である 昭和四十五年六月吉日 植松壽樹歌碑建設委員会 編」と。上記の植松壽樹氏の歌は、以前に同じ内容のブログをアップ時に我が学友が地元の市民図書館から、「植松壽樹全歌集」の本をレンタルして、第四歌集「渦若葉」所収の歌であることを、見つけて下さいました。彼女の調査力に今日も驚愕、敬意、感謝です。「九品仏のイチョウ」。「都天然記念物 九品仏のイチョウ」。根本は黄金の絨毯が。黄金の枯山水の庭。本堂前から再び「都天然記念物 九品仏のイチョウ」を見る。ズームして。再び白鷺(しらさぎ)の「さぎ草絵馬」越しに本堂を見る。移動して。「本堂」を正面から。近づいて。「本堂本尊に珂碩上人御自作の釈迦牟尼如来(文化財)を安置し、当山第ニ世珂憶上人代、元禄11年(1698年)三仏堂ともども上棟した。世に珂憶造りと称せられ、雄大壮重なる茅ぶきの大殿である。近時、往昔の面影そのままの銅板葺に大修築を完了した。本堂はまた「龍御殿」ともいわれ、浄土(彼岸)を表象する三仏堂に対比し、西面して穢土(此岸)をあらわす。当山独特の行事である「おめんかぶり・来迎会」は、この本堂(此岸)と三仏堂中央の上品堂(彼岸)とのあいだに橋をかけ、阿弥陀仏とニ十五菩薩が、来迎・往生・還来と3回橋を行道するものである。」扁額「龍護殿」。「向拝」の見事な彫刻。「常香炉」九品仏浄真寺の寺紋は源頼朝の紋で知られる 「竜胆車(りんどうぐるま)」。正面五間で中央間は両折両開で格狭間を入れた桟唐戸、内側に明障子。正面に「御本尊」の「釈迦牟尼仏」が。内陣に鎮座する法界定印(禅定印)を結ぶ釈迦如来坐像。浄真寺の開祖の珂碩上人の作と伝わる像で、江戸時代の作 と。「御本尊」の「釈迦牟尼仏」をズームして。御本尊の左側の部屋。扁額は「霊瑞(れいずい)」と。「霊瑞」は浄土宗京都知恩院の僧。号は鳳誉。日野氏。信濃更科郡の人。蓮光寺仁説の下に投し、後江戸に出遊し増上寺学寮主慈専に学び、寮主となり学頭に進む。文政3年下総生実大巌寺に住し、後上野新田大光寺に転住し大教正に補せられる。明治19年増上寺に進み、21年知恩院に昇る。明治21年(1888)歿、70才。「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」「病が治ります。自分の患部と賓頭盧尊者の同じ所をくり返し撫でて下さい」と。私も頭をしっかりと撫でて。中央に世田谷区指定有形文化財・「五劫思惟像」。正面から。左に「三尊仏像」。右に「地蔵菩薩像」。左には多くの「御位牌」が祀られていた。左側から「御本尊」の「釈迦牟尼仏」を。右側に「宗祖 法然上人像」。「御本尊」の「釈迦牟尼仏」の裏の部屋を覗いてみた。九品仏浄真寺のマスコットキャラクター「きゅっぽん」。その奥にも連絡通路が。仏絵が描かれた祭壇が。「三界萬霊」と書かれた位牌。境内にも「三界萬霊塔」があったが。南無廣博身如来、南無妙色身如来の文字も。「廣博身如来」は、真言密教のご本尊様である「大日如来」のこと。「妙色身如来」は「大日如来」に帰依することによって、自分の中に生じた醜いものを取り除き、清浄な状態を保つこと と。本堂内の欄間の「極彩色の見事な彫刻」を追う。「天蓋」。場所を変えてズーム。再び御本尊の阿弥陀如来像を。そして本堂の右・濡れ縁に出て枯山水を見る。イチョウも樹によって黄葉のスピードが異なるのであった。枯山水の水面も黄金に輝いて。そして「本堂」の右側の部屋。扁額「松露斎」と。開山の「珂碩上人」の遷化法名が「大蓮社超譽珂碩松露大和尚」ということから来ているのであろう。右手には「阿弥陀仏像」が奥に。「開山 珂碩上人倚像」。ズームして。位牌には「開山大蓮社超譽上人珂碩松露大和尚 位」と。
2024.02.24
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この日は2023年12月8日(金)、「浄真寺」の紅葉を楽しんだ後(現在、同時進行で毎日12:00にアップ中)には、東急大井町線「九品仏駅」から「自由が丘駅」まで戻る。 そして「東急東横線」に乗り換えて「多摩川駅」で下車。 多摩川沿いを歩き、等々力不動尊を目指すこととし、「東急東横線」沿いを歩き、最初に「多摩川浅間神社(たまがわせんげんじんじゃ)」を訪ねることに。 「東急東横線」の「多摩川1号踏切」を渡る。正面右手・表参道の東側に「多摩川浅間神社」の「社務所」に繋がる女坂(参道)が見えた。その入口左にあったのが「愛桜碑花は櫻にその芳美を極め 山は富士にその秀麗を盡す 多摩の清流 兩岸十里 蒼空に富士の高峰を仰ぐところ 新たに万株の櫻を植ゑてこゝ帝都の近郊に一勝地を加へた そもそもこの大遊歩公園計畫は 内務省常局の手による沿岸修築の竣工と共に 東京府下砧 玉川 東調布 矢ロ 六郷 羽田及び神奈川縣下高津 中原 川崎等一市八町村住民の發起により 「大多摩川愛櫻会」👈リンク の結成となって 昭和五年三月十五日 盛んなる植初の式が擧行せられるに至ったものである 年々歳々 長堤の情趣愈深く 人は親和を加へ 花は採光を添へるであらう 行楽の人々よ 名も舊き多摩川に この新しき景致のゆかりを思ひたまへ昭和五年十一月三日 公爵鷹司信輔顕額 朝日新聞社撰 従六位勲六等根岸芳太郎書 内藤慶雲 刻」 女坂(参道)を見る。「多摩川治水記念碑 内務省東京土木出張所長辰馬謙造書」。鳥居の前を過ぎ廻り込むと、多摩川台公園(大田区田園調布)の崖下に大きな 記念碑が、多摩川を見つめるように立っていた。この碑、16年余の歳月を要して完成した国の直轄工事による多摩川下流改修工事を伝えていた。後ろ側に回る と、この事業は工費721万円を投じて1918(大正7)年4月に起工され、1934(昭和9)3月に竣工したことが分かるのであった。「武蔵野の路 丸子・二子コース」案内碑。このコースは、大田区田園調布丸子橋から世田谷区二子玉川二子橋までの多摩川左岸沿いを歩きます。コースはサイクリングコースとして整備されています。また、河川敷には大規模な運動場や緑地も整備されています。また周辺には等々力渓谷や古墳、そして多摩川台公園、玉川野毛公園、上野毛自然公園などのレクリエーション施設が点在し、水と緑が楽しめます と。現在地はここ。そして、この後に訪ねた「多摩川浅間神社」配置案内図。神社参道の石段が正面に。東京都大田区田園調布1丁目55−12。ズームして。「村社 浅間神社」碑。 石段右手に「整地記念碑陸軍中将矢野目孫一書」 石段正面にあったのが「大祓詞石車(おおはらいのことばいしぐるま)」 石で出来た 黒い車輪があり、( おおはらいのことば 穢れをお祓いする祝詞 )が刻まれていた。この車輪をくるりと一周回し、身を清めるのです。チベット仏教の「マニ車(摩尼車)」に似ていたのであった。一周回すことで大祓詞を奏上したことになると。かすれていたが『罪、けがれを大祓詞(おおはらいのことば)のくるまをゆっくり回してお清めし、社殿へお進みください。』と書かれているようであった。私もゆっくりと回したが、結構重いのであった。この写真はネットから。石車に近づいて。現在の台座の文字は消えていた。参道の石段を見上げて。「御百度」と刻まれていたのであろうか?参道石段を上って行った。一の鳥居の扁額は「浅間神社」 「正面石段擁護壁奉納者芳名」碑。 先ほど見上げた「女坂」が右手に。 ニの鳥居。左手奥には大きな社務所・神前結婚会館があった。そしてこの建物の屋上が「見晴台」になっていた。絵馬の形の大きな掲示板。「多摩川浅間神社」の社紋「桜」が中央に。1907年(明治40年)に『一村に一神社』という合祀のための政令が出されたため、当時の東京府荏原郡調布村大字下沼部にあった赤城神社、熊野神社、浅間神社の三社のうち前二社を村人たちの話し合いが行われて、浅間神社に合祀したとのこと。中央が浅間神社の神紋「桜」 ・ 御祭神 木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)左が赤城神社の神紋「左三つ巴」・ 御祭神 伊佐那岐ノ命(いざなぎのみこと) 菊理姫命(くくりひめ)右が熊野神社の神紋「八咫の烏(やたのからす)」 ・ 御祭神 伊佐那美ノ命(いざなみのみこと) 速玉乃男命(はやたまのおのみこと) 事解乃男命(ことさかのおのみこと)ニの鳥居の扁額「浅間神社」。さらに石段、石鳥居が続いていた。社殿までの参道は多数の溶岩が置かれ、富士塚のように富士登山を模していると。前方は、左へ右への階段が。「六根清浄」と唱えながら富士山に登り、ご神徳をいただくのが浅間信仰の根幹。[六根]とは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根だと。富士山を信仰の対象とする浅間講や富士講は、江戸時代に起きた庶民信仰であったと。正面に「白糸の滝」と。 ズームして。僅かな清水が流れていた。龍と共に水晶玉と紫水晶玉もあって凄い光景。龍、水晶をズームして。三の鳥居を潜る。明治15年(1882)氏子中奉納の「小御岳石尊 大天狗 小天狗」碑。これは、富士山五合目にある小御岳神社に由来するもの と。明治15年(1882)南北富士講が奉納の「食行身録之碑(じきぎょうみろくのひ)」。明治時代に地元富士講が富士登拝三十三回を記念し、勝海舟に書を依頼し出来た石碑であると。近世になると、富士行者によって江戸市中を中心に富士講が組織されてくるが、その発展に際して中心となった食行身禄という人物がいると。現在の富士山八合目で断食修行をし、浅間信仰の団体・富士講の祖となった人物。食行身禄は、1671(寛文11)年に伊勢国一志郡川上村(現一志郡美杉村川上)の農家に生まれた。幼名を善太郎、長じては俗名伊藤伊兵衛と名乗った。13歳のときに江戸に出て、遠縁に当たる富山清兵衛が経営する呉服雑貨商に奉公した。やがて独立すると、付木・茶袋・灯心などの行商を経て、油商の店を開く。商売はうまくいったようで、かなりの資産を成した。つまり、彼は当時の江戸で成功した裕福な伊勢商人の一人であったと ネットから。石碑の文字は、勝海舟によるもの。同社のあるここ大田区は、勝海舟夫妻の墓もあるほど、同氏と縁の深い地なのだと。その左下に小さな石祠。小御嶽神社で磐長姫命(いわながひめ)が祀られていると。「四の鳥居」の先に漸く「社殿」が現れた。四の鳥居の扁額「浅間神社」。 社殿をズームして。全国にある浅間神社の一社。本殿の建築様式は浅間造であり、これは東京都内では唯一と。社殿は浅間神社古墳の上に建てられており、間に東急東横線を挟んで多摩川台公園の舌状台地に連なるとのこと。昭和48年(1973年)の改修と。左手に「手水舎」。 龍の吐水口に近づいて。右手に「末社」が鎮座。 社殿の右にあった手水場と石碑。朱の鳥居の先に4社が。末社には、山岳信仰の三峯神社・小御嶽神社・阿夫利神社と食物・農耕の信仰の稲荷神社をお祀りしているのだ と。右から小御嶽神社。稲荷神社。三峯神社。「阿夫利神社」。 ・・・つづく・・・
2024.02.24
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「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。正面奥にある「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地に向かってすすむ。突き当りの左側にあった石碑・石仏。「本堂石墻(せきしょう・塀)建立供養塔」と。右の石仏には「延宝丁巳(5)年(1677)ニ月四日 浄譽一廟?元水居士」他多くの戒名が刻まれていた。「寄附 本堂永代畳替資料當村 毛利最市郎 渡邉宇之吉」と。そして正面に「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地。「元和四年(1618)~元禄七年(1694)十月七日遷化法名「大蓮社 超譽 珂碩 松露 大和尚(だいれんじゃ ちょうよ かせき しょうろ だいかしょう)」珂碩上人は、元和四年(1618)江戸に生まれ、18歳で浄土宗関東十八檀林の一つである大巌寺(千葉市)の珂山上人に師事し弟子となります。そこで梵網経の一節を読み、衆生救済の為に九品阿弥陀佛像の造立を発願いたします。日に三文ずつを貯えて佛像造立の準備をし、寛文四年(1664)丈六の佛像一躰を造立。その後、弟子である珂憶上人ご協力のもと同七年(1667)九躰の阿弥陀佛像と一躰の釈迦牟尼佛像を造立いたしました。延宝六年(1678)奥沢の地を賜り、九品仏淨眞寺を創建いたしました。珂碩上人の和歌に、「野をも過ぎ 山路を越えて奥沢の 九品浄土へ 詣る喜しさ」とございます。淨眞寺へ参詣されることによって、九品の阿弥陀さまのお慈悲にふれ、極楽往生を願い、今を生きる幸せを感じていただきたいと思う上人のお心が歌われております。」と「淨真寺」のHPより。「開山珂碩大和尚第参百年遠忌追恩寶塔」。隣は「延命地蔵尊」であろう。「延命經日 一者女人泰産」と刻まれた石仏。女人泰産とは、女性がやすらかなお産が出来ること。「先祖代々一切精靈 清智院大譽浄倫超運居士 大智院觀譽照妙壽善女」と。「南無阿弥陀佛」碑。横には「文化十酉年七月二十日」と。墓前の「南無阿弥陀佛」碑。石段下にあった「井戸」。「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地。元和四年(1618)~元禄七年(1694)十月七日遷化法名「大蓮社 超譽 珂碩 松露 大和尚」(だいれんじゃ ちょうよ かせき しょうろ だいかしょう)珂碩上人は、元和四年(1618)江戸に生まれ、18歳で浄土宗関東十八檀林の一つである大巌寺(千葉市)の珂山上人に師事し弟子となります。そこで梵網経の一節を読み、衆生救済の為に九品阿弥陀佛像の造立を発願いたします。日に三文ずつを貯えて佛像造立の準備をし、寛文四年(1664)丈六の佛像一躰を造立。その後、弟子である珂憶上人ご協力のもと同七年(1667)九躰の阿弥陀佛像と一躰の釈迦牟尼佛像を造立いたしました。延宝六年(1678)奥沢の地を賜り、九品仏淨眞寺を創建いたしました。珂碩上人の和歌に、「野をも過ぎ 山路を越えて奥沢の 九品浄土へ 詣る喜しさ」とございます。淨眞寺へ参詣されることによって、九品の阿弥陀さまのお慈悲にふれ、極楽往生を願い、今を生きる幸せを感じていただきたいと思う上人のお心が歌われております とネットから。「當寺開山 珂碩上人塔」と。 左の石碑には漢文が・・・。「珂碩上人碑銘日本東陲生瓦斯麟兒卓躒高・・・・・・・・・・・・・」ここにも「南無阿弥陀佛」碑。中央に「無縫塔」の墓碑。「無縫塔」墓石前から歩いて来た参道を振り返る。「淨真寺の歴代上人の墓石」が並ぶ。基礎の上に請花をのせ、その上に丸みをおびた長い卵形の塔身をのせた「無縫塔」。正面から。この墓碑はどなたのものであろうか?紅葉が墓碑の上に。ここにも多くの無縫塔墓碑が並ぶ。近づいて。北側に拡がる淨眞寺墓地を望む。再び無縫塔墓石を振り返る。立派な墓「林家累代之墓」。「名木百選 イヌシデ(群)」。「イヌシデ」。和名の由来は、花穂の垂れ下がる様子が注連縄(しめなわ)などに使われる紙垂(しで)に似ていることから。近縁種のアカシデと区別するため、耐寒性に劣ることから「イヌ」(劣るの意)をつけている。「開山廟」・「開山珂碩大和尚」墓地を斜めから。「三仏堂」前の紅葉を再び。墓地の奥を望む。ズームして。「淨眞寺境内墓地 檀家使用区画見取図」。引き返して。淨真寺境内のカヤの黄葉。「本堂」に向って東に進む。「本堂」北側の紅葉。紅葉のカオスが拡がっていた。角にあったのが「河口慧海師碑」👈リンク。「河口慧海師碑」。「我国最初のヒマラヤ踏破者 日本西蔵学の始祖 在家仏教の首唱者雪山道人河口慧海師は慶応二年堺市に生る 十五歳釈迦伝に感激精進に入り哲 学館に学ぶ 廿五歳得度 仏典の正解は原典乃至西蔵訳によるに如かずと悟り 渡印入蔵を志し明治卅三年単身ヒマラヤの嶮を越え秘境西蔵に入る セラ大学 に学び傍ら医療を施す為に声名高く法王の知遇を受く 帰国に際し西蔵蔵経を 将来す 後再び入蔵梵蔵両蔵経並に仏像仏具博物標本等多数を携えて大正四年 帰朝 爾後諸大学に西蔵学を講ず 神足其許に集る師持戒堅固肉食妻帯を退け 在家仏教の宣揚に努む 信者其門に参ず 梵蔵仏典の和訳西蔵文典西蔵旅行記 等の著あり 昭和十五年将来蔵経を東洋文庫に寄贈し蔵和辞典編纂会を起す業 半ば戦禍国中に及ぶ 廿年二月廿四日円寂寿八十昭和三十二年二月二十四日 文学博士 椎尾弁匡撰 日本芸術院会員 桂月松林篤書」塔身部237×136×22cm、真鶴の石とのこと。「和」と刻まれた球状の石碑。「平和の塔(へいわのとう)」であると。台座には「經日 超世無倫」と刻まれていた。「經日」とは一日、また一日と時がたつこと、「超世無倫」とは世に比べるものがないこと。昭和四十年(1965)建立と。近づいて。「本堂」の北側の林の中にも石仏や庭石が並んでいた。石仏をズームして。「河口慧海師碑」、「平和の塔」を振り返って。奥にも御堂・「五社殿」の姿も見えた。大正2年に建造された奥沢神社の前代の本殿も五社殿として浄真寺に移築されているが、覆屋内に納められており見ることはできないのだと。淨眞寺の鬼門を守護する御社で、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮、住吉大社、熊野大社の五社の御分身をお祀りしている と。。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.23
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この日の最後に訪ねたのが「箱根町港」。「箱根海賊船」が芦ノ湖の箱根町港~元箱根港~桃源台港区間を毎日運航しているのだ。箱根町港から富士山の勇姿を見る。そして今日は2月23日、富(2)士(2)山(3)の日なのである。「箱根港」とその奥に「駒ケ岳」の姿が。「箱根海賊船」が「箱根港」に向かって。再び芦ノ湖の湖面と富士山の頂部の姿を。海賊船が入港。「歓迎 箱根駅伝」の横断幕が。多くの観光客が乗船の列を。平成25(2013)年3月20日より運航している「ロワイヤルⅡ」👈リンクは、18世紀にフランス艦隊の旗艦として活躍した第一級戦艦「ロワイヤル・ルイ」をモデルにしたデザイン。そしてこちらの「箱根駅伝ミュージアム」を久しぶりに訪ねた。「箱根駅伝ミュージアム」案内板。「 箱根駅伝ミュージアム」は、神奈川県箱根町の芦ノ湖畔にある「東京箱根間往復大学駅伝競走」をテーマにした博物館。2005年3月に開設。入館料は650円。「館内配置案内図」をネットから。入口にあった「MUSEUM TOPICS」には10月14日に行われた「箱根駅伝2024予選会」の結果を報道した「読売新聞」の記事が掲載されていた。大東文化大学が1位で通過し、10年ぶりの出場権を確保したと。隣には2024年1月2~3日に実施された「第100回東京箱根間往復大学駅伝競走」👈リンクの案内ポスターが。「MUSEUM SHOP」では「オリジナルTシャツ」や「オリジナルマフラータオル」等々様々なものが販売されていた。出場大学のタスキが展示されていたが、大学、順番は何回大会のものであろうか?入口、「MUSEUM SHOP」を振り返る。「応援メッセージボード」。来館者から各出場校への激励のメッセージがびっしり飾られていた。顔出しパネルで。箱根駅伝100回大会まで、「あと28日」と。「箱根駅伝 記念ビール」。そして展示コーナーへ。展示コーナーは「ヒストリーゾーン」、「エピソードゾーン」、「企画展ゾーン」、「データゾーン」、「オリンピックゾーン」等に別れていた。展示コーナーは撮影禁止になっていたため、以下の写真はHP等ネットから転載させていただきました。「ヒストリーゾーン」。2015年出場校のユニホームと襷(タスキ)。我が母校のユニホームも展示されていた。「山上りのスペシャリストたち」エピソードゾーンでは、東洋大・柏原竜二選手などの山上りや山下りのスペシャリストたちのエピソードが紹介されていた。歴代の「山の神」。中央:東洋大・柏原竜二選手、右:青山学院大・神野大地選手、左:順天堂大・今井正人選手「CLOZE UPゾーン」。「CLOZE UPゾーン」では、箱根駅伝から世界に飛び立った瀬古利彦さんや谷口浩美さんなどが、実際に使用した愛用品やメッセージが展示されています。瀬古利彦さんのパネルには1984年のロスオリンピック、1988年のソウルオリンピックで履いたシューズを見ることができます。企画ゾーンは長い歴史の中で生まれた感動のエピソードや、写真展なども。往路優勝チームへ箱根町から贈呈される記念トロフィーは、箱根の伝統工芸品・寄木細工 と。正面から。今年の2024年は記念の100回大会ということで、ミュージアムではこれまでの往路記念トロフィーを集めた展示を企画している と。今回で100回を数える東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)で、往路優勝校に贈呈された「往路優勝記念」トロフィー。一昨年7月に亡くなった箱根寄木細工伝統工芸士の金指勝悦さん(享年82)が弟子と手がけた最後の作品であると。トロフィー(台座含む)は高さ42.5センチ、重さ3.7キロ。新型コロナウイルスの感染拡大やロシアによるウクライナ侵攻などの暗いニュースが多い世相を踏まえ、前大会のトロフィーと同じくテーマは「平和」。上空に漂う雲の隙間から市松模様の太陽がのぞき込んでいるような構図となっている。市松模様の中には平和や絆を意味する七宝柄を施し、明るい未来があふれ出る様子をイメージしたと。「箱根駅伝ミュージアム」を楽しんで館外へ。多くの大学の幟が並んでいた。館内には「EKIDEN CAFE☕」もあった。そして再び「箱根町港」に停泊中の「ロワイヤルⅡ」を見る。そして「東京箱根間往復大学駅伝競走」の往路ゴール・復路スタート地点に。「東京箱根間往復大学駅伝競走」の往路ゴール。廻り込んで「東京箱根間往復大学駅伝競走」の復路スタート。そして、今回の2日間の予定を全て完了して、箱根駅伝復路第6区と同じルートで帰路に。途中、二宮で先輩と別れ、自宅ゴールに到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.02.23
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右手への参道の先に有るのが「本堂・龍護殿」。次に訪ねたのが、「三仏堂」の中央にあった「上品堂(じょうぼんどう)」。上品堂の中央の扁額は「上品上生」。「上品堂」正面。手摺には「紫雲」が施されていた。「上品(じょうぼん) 阿弥陀如来像 三躯」。「来迎会(おめんかぶり)当山には、ひろく「おめんかぶり」の名で親しまれる行事がある。これは三年ごとに奉修される阿弥陀如来ニ十五菩薩「来迎会」のことで、無形文化財に指定されている。念仏業者が臨終の夕ベに、阿弥陀さまがニ十五の菩薩さまをしたがえて西方浄土よりご来迎になるという、浄土の教えを行事にしたもので、その日は三仏堂から本堂への懸橋を信者の方々が菩薩のお面をかぶって行道する尊くもまた厳粛な儀式である。このおめんかぶりは、三年に一度の行事であり、5月5日の午前11時・午後4時の1日2回おつとめする。関東においては、当山のみの行事であり、ぜひ一度御結縁あらんことをおすすめする。なお、毎年8月16日当山の法宝物を一般公開しているので御来観ください。」「上品上生」仏。両手を膝の上で組み合わせ親指と人差指で輪を。「上品上生 手印阿弥陀様が組んでいることでも有名な「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」は、九品往生(くほんおうじょう)と呼ばれている9つの印相の1つ。九品、また3つある上品往生(じょうひんおうじょう)の中でも最上級に値している。印の組み方は、親指と人差し指で輪を作るようにして合わせ、他の指は伸ばして重ね合わせる。そのまま胡座(あぐら)をかいた上に置けば完成。「上品上生」は、「人々の中でももっとも早く極楽浄土へ行きたい」と願うこと。慈悲の心・真の心を持ち、経典を読破し理解して仏を信じる人が上品上生を組み祈りを捧げることで、極楽浄土への道が開かれるのだと。」お顔をズームして。そして「上品中生」仏。「上品下生」仏。「上品堂」と「中品堂」の間の奥にあった三重石塔の如き石塔。「阿育王塔(あしょかおうとう)阿育王は、紀元前三世紀のインドの王で、仏教を国教とし、慈悲の教により国民に臨み、その恩徳国内に満ちたといわれる。インド各地に今も残る釈尊の遺跡に多くの石柱を建立して顕彰の誠を示された。現今のインドの国旗は、この石柱の頭部の法輪である。当山の王塔は、日本様式であり、天保年間のものである。」。その手前にあったのが加藤楸邨の句碑。「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸(ばった)とぶ」「人の気配を感じてか、草むらにじっと動かない螇蚸がいる。こちらも動かずに息をひそめ目を凝らしている。動かないのは力が抜けているのではなく、全身に力を漲らせているのだ。と、次の瞬間、螇蚸は勢いよく跳躍、飛翔したのだった。昆虫の思いがけない力強い飛翔に、作者は心を打たれたのではなかったろうか。内への充実と外への飛躍、静と動の鮮やかな対比が螇蚸の命の輝きを捉えている」とネットから。石碑の裏面には「しづかなる 力満ちゆき 螇蚸とぶ「螇蚸(はたはた)」は昆虫のバッタの異称 と。しかし、虫偏の漢字、“虫”のある漢字って意外と多いので調べて見た。以下、ネットから「手元の歳時記で、秋の季語/動物編に出てくる虫偏の漢字または“虫”のある漢字を含む季語を拾い上げてみましょう。・秋の蛇(へび)・秋の蛍(ほたる)・秋の蠅(はえ)・秋の蚊(か)・秋の蜂(はち)・秋の蝶(てふ、ちょう)・秋の蝉(せみ)・蜩(ひぐらし)・法師蝉(ほふしぜみ:ツクツクボウシのこと)・蜻蛉(とんぼ)・蜉蝣(かげろふ、かげろう)・虫(むし:秋鳴く虫の総称)・蟋蟀(こほろぎ、こおろぎ)・蛬(こほろぎ、こおろぎ)・蛼(こほろぎ、こおろぎ)・螽蟖(きりぎりす)・螇蚸(ばった)・飛蝗(ばった)・蟿螽(はたはた:バッタのこと)・蝗(いなご)・螽(いなご)・蟷螂(かまきり)・螻蛄(けら)・蚯蚓鳴く(みみずなく:ケラの鳴き声のこと)・秋蚕(あきご:秋に飼い育てるカイコのこと)」と。以上25件、30種類の漢字があるのだと。次に「中品堂(ちゅうぼんどう)」「中品堂」。「中品上生」の扁額。「中品 阿弥陀如来像 三躯」。中品堂の三軆は白い薄紙に全て覆われていた。よって以前に訪ねた時の写真、キャプションを。「中品三仏」を見る。中央に「中品上生」仏。両手を前向き上方に。親指と人差指で輪を。お顔をズームして。「中品下生」仏。親指と薬指で輪を。お顔をズームして。「中品中生」仏。親指と中指で輪を。お顔をズームして。そして「三仏堂修覆元禄11年~ 12年にかけ建立されたこの三仏堂も、安政・大正の地震の災厄により甚大な損害をうけ、そのつど補修したが、昭和58年10月7日珂碩上人の第290年忌の勝縁に際し、大修覆工事をおこない、創建当時の偉容を再現した。九品の阿弥陀如来像を奉祀してあるのは、九躯寺(浄瑠璃寺)と当山のみである。(都有形文化財)」「三仏堂」を後にしてその奥の墓地に向かって進む。墓地の中にある「開山歴代上人御廟」に向かって「中品堂」の先を左に折れて進む。「桶置き場」を覗く。「三仏堂」の前の路を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.22
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湯河原の「不動滝」を後にして、静岡県道75号線・椿ラインの山道をひたすら進み、源頼朝が隠れた「しとどの窟」への入口横を通過して、次の目的地の「大観山展望台」に向かう。神奈川県足柄下郡湯河原町鍛冶屋の尾根の上に球形レーダーアンテナが2基。『東京航空局 箱根航空路監視レーダー(ARSR)局』。ルート上の航空機の位置を探知し、航空機の誘導及び航空機相互間の間隔設定等レーダーを用いた航空路管制業務に使用している とネットから。そして「大観山展望台」駐車場に到着し散策開始。正面に「芦ノ湖」と「富士山」の勇姿が。標高1,011m。箱根ターンパイクの「大観山展望台」からは、芦ノ湖と富士山、駒ヶ岳などの中央火口丘、金時山などの外輪山、そして遠くには南アルプス、三浦半島、房総半島、大島までも眺望でき、まさに360度の絶景を楽しむことが出来るのであった。ジワジワとズームして。富士山は高さ3,776m、日本の最高峰として知られている。2014年時点の富士山の最高地点は、剣ヶ峰にある二等三角点「富士山」の位置から北へ約12 m のところにある岩の頂上であり、二等三角点との比高は0.61 m である。したがって、この岩の標高は、3776.12 mとなり、これが富士山、及び日本の最高標高であると。はじめから今の形をしていたのではなく、大昔から何度も繰り返された噴火によって今の形になったもので、小御岳火山の麓に約10万年前に誕生し、古富士火山、新富士火山の2世代にわたる噴火活動によって現在のような円錐型を形づくって来たと。富士山の最後の噴火の記録は、今から約300年前の宝永4年(1707)におきた、宝永大噴火。富士山麓には火山の噴火の跡がたくさんみられるのだ。地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の火山特有の美しい山体を持つ。 現在の富士山の山体は、大きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだと考えられている。・先小御岳(せんこみたけ)火山・古富士(こふじ)火山・新富士(しんふじ)火山この中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新世にできた火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行ったボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体があることが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「先小御岳」と名付けられたとネットから。南アルプスの白き山々の姿が見えた。一番左に「聖岳・3,013m」その右に「明石岳・3,121m」、「荒川岳・3,141 m」、「悪沢岳・3,141m」であろうか。南アルプス案内板。「宝永山」の姿も確認できた。「宝永山」には東京タワーの如き積雪の白い姿が。その上部には、登山道のジグザグ模様が。御殿場ルートの登山道であろう。「駒ケ岳」その右に「上二子山」TV中継基地と「下二子山」。「駒ケ岳」をズームして。「富士山」の裾野の白い場所は人工スキー場「スノーパーク イエティ」。再び「富士山」と「芦ノ湖」。「アネスト岩田 スカイラウンジ」を振り返る。「日本景勝百巡地 箱根大観山」と。「箱根ジオパーク 大観山」案内ボード。「箱根火山の成り立ちを風景から読み取ろう!大観山のダイナミックな風景からは、箱根火山の成り立ちを学ぶことができます。芦ノ湖の背後に連なる三国山などの山々は、箱根火山の活動のはじめの頃に活動した火山です。①・・・約40 ~ 23万年前の間に、金時山や明神ヶ岳など外輪山と呼ばれる成層火山群が 形成されました。②・・・約23 ~ 13万年前には、火山の噴出物が地面を這うように流れる火砕流を伴う大きな 噴火が起こり、箱根の山の中央部が陥没してカルデラがつくられました。 目の前に広がる風景で外輪山に囲まれた場所が、カルデラの内側です。③・・・約13 ~ 8万年前にかけてカルデラの中に大量の溶岩が噴出し、形成されたのが屏風山や 浅間山などの中央火口丘のはじめの活動でできた火山(前期中央火口丘)です。④・・・約8 ~ 4万年前には、再び火砕流を噴出する激しい噴火が起こりました。⑤・・・約4万年前以降から現在にかけて、カルデラの中での溶岩の噴出で形成されたのが 駒ヶ岳やニ子山などの中央火口丘のうち後の活動でできた火山(後期中央火口丘)です。大観山では、この箱根火山の形成宅デルに出てくる外輪山と中央火口丘の全ての山々を観察することができ、箱根火山がどのようにできたのか観察することができます。」雲海の上の「蛭ヶ岳・1673m」であっただろうか。再び富士山👈リンク富士山は、「コニーデ式火山」と呼ばれ、円すい型の姿が特徴。溶岩は流れにくく、厚くたまっている。岩石はアンザン岩が主とのこと。代表的な日本の山は「富士山」や「鳥海山」など。「富士山」、「南アルプス」の山々。「丹沢山地」。近づいて。絶景かな!!絶景かな!!「大観山」の山頂。携帯電話会社の通信中継局になっているようだ。そしてこの歩道橋を渡り、「アネスト岩田 スカイラウンジ」を訪ねた。内部に祀られていた「天照山神社」。「スカイラウンジ」からも。再び丹沢の山々を。右に「蛭ヶ岳・1,673m」~雲海~「丹沢山・1,567m」であろうか?ラーメンを楽しみました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.22
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「楼門」を背にして、さらに参道を進む。前方左手に、イチョウの見事な黄葉が。右側には「本堂」横の枯山水の庭。左手に「五重石塔」。 紅葉も、陽光が射さない場所は・・・・。この方向は陽光を浴び出して輝き始める。ズームして。「本堂」を横から。 左手のイチョウの黄葉は今がピーク。そして右手のイチョウの黄葉はエピローグへと。 左手の黄金と赤のコラボは見事。近づいて。青空を背景に黄金に、そして野鳥の姿も。エピローグのイチョウの樹の下は黄金の絨毯が敷き詰められて。枯山水の池にもイチョウの葉が。ズームして。これぞ「銀杏落葉(いちょうおちば、いてふおちば)」。与謝野晶子の歌「金色の ちいさき鳥の かたちして 銀杏ちるなり 夕日の丘に」を想い出したのであった。歩いて来た「楼門・仁王門」方向を振り返る。 左手のイチョウの黄金をズームして。さらに。さらに。淡い緑色も僅かに残っていた。「淨真寺 平成九品佛大修繕事業」大勧進2014~2034浄財を喜捨された方の芳名は、九品佛像の臺座内に奉納し、永代保存します。各位のご支援ご援助をお願い申し上げます。未来に残す『貴方の化佛』2,881軆の化佛寄進をお願いしております。三百年前の寄進者芳名が背面に記録されております。」 再び強い陽光が射し、輝く紅葉&黄葉。「本堂」参拝は帰路にとする。正面に「下品堂」が姿を現したが扉は閉まっていた。そして右側には小さな舞台が。「二十五菩薩来迎図・おめんかぶり」に使用するものか?「華厳菩薩」の文字があったが・・・。「二十五菩薩」の一体であろうか?「下品堂(げぼんどう)」に近づいて。九品仏の名で親しまれている浄真寺は浄土宗の寺院で、その名の由来である9体(たい)の阿弥陀仏を安置する建物が三仏堂。本堂の西側に3棟の仏堂が並び、中央が上品堂(じょうぼんどう)、北側に中品堂(ちゅうぼんどう)、南側に下品堂(げぼんどう)が配置されている。3棟とも同じつくりで、内部に阿弥陀如来像を3体ずつ安置する全国的にも珍しい形式である。棟札には、元禄11年(1698年)10月、第2世住職珂碩上人(かせきしょうにん)によって上棟されたことが記されている と。「三仏堂」は真東に向いて建っている。という事は、浄土、彼岸に当たる区域という事なのであろう。彼岸の地においては全て生前の行いにより三つの品階に区別され、それが又それぞれ三ランク、計九ランクに分類されるのだと。そしてそれぞれ専任の阿弥陀如来が付き、上のランクに引き上げてくれるのだと。最終的には全員が上品上生に達するそうですが、子孫の供養の仕方、行いによりスピードが異なると。境内の「三仏堂」の配置図。「九品仏と三仏堂珂碩上人(1617~94)は、念仏行者として一代の高僧であるとともに、また非常に彫刻に秀でられ、その彫刻された仏像も多数におよんだ。なかでも、18歳で発願、51歳のとき完成した九体の阿弥陀如来像(九品仏)は上人畢生の結晶といわれる代表作で、未代衆生化益の尊い御仏像である。九体とも文化財の指定をうけ、上品堂(中央)・中品堂(右)・下品堂(左)の三つのお堂(三仏堂)にそれぞれ三体ずつ安置してある。上品堂のうち、中央を上品上生仏、右を上品中生仏、左を上品下生仏とする。中品堂、下品堂と同様で、したがって阿弥陀さまには、上品上生から下品下生まで九つの名があり、、それぞれ手の位置および印契が異なっている。なにゆえに阿弥陀さまに九品の差別があるのか、一つには私たちの浄土教入信の過程・段階を、二つには念仏によって浄化される私たちの心の様態を示し、三つには往生人たるわれわれの機根を分類したのであって、私たちが念仏信仰に入るときの動機から、段々念仏によって身と口と意の三つが浄化されてゆき「生けらば念仏の功つもり死なば浄土にまいりなんとてもかくてもこの身には、思い患うことぞなき」という念死念仏の心境に至る道程を示したものということができる。京都府下の浄瑠璃寺(九体寺)とともにわが国における東西の九品仏像の双璧である。」阿弥陀如来の九品来迎印。阿弥陀如来が西方極楽浄土から臨終の人を迎えに来るのに、人の段階によって印が異なるとされ、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの九つの印がある。下記はネットから。「下品堂(げぼんどう)」。「淨真寺「平成 令和九品佛大修繕勧進事業」大勧進貴方の化佛を未来に残す。貴方の名前と願い事を化佛背面に墨書いたします。たとえば・・・・一、願 往生、懺悔滅罪の化佛として一、ご先祖供養の化佛として一、亡き方の供養化佛として一、水子供養の化佛として一、結婚の証をの化佛として一、祈願成就の化佛として「東京都有形文化財 下品(げぼん)阿弥陀如来像 三躯」。ガラス越しに仏様をカメラに。向かって左側には薬指を曲げた「下品下生」仏。九品仏は坐像で、像高は、すべて2.8m(所謂丈六)。お顔をズームして。向かって右側には中指を曲げた「下品中生」仏。お顔をズームして。中央には仏様の姿はなかった。「下品上生佛像 御遷座中令和四年からニヶ年間」と。ズームして。「下品堂」の前から「楼門・仁王門」方向を振り返る。次の、中央にある「上品堂」に向って進む。「上品堂」の手前の紅葉」。左手にあった松の樹。「天皇陛下御手植之松」、現在の上皇陛下であろう。「上品堂」前の紅葉を。「上品堂」前から後に訪ねた「本堂」を見る。「本堂」をズームして。「中品堂」方向。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.21
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湯河原「万葉公園」を後にして静岡県道75号線をさらに北に向かって上って行った。そして「不動滝入口」に到着。「不動滝」案内板。「滝としては小ぶりながらも水量は豊かで、名前の由来は滝壺のほとりに不動明王を祀るに由来します。また、滝の左側には身代わり不動尊、右側には出世大黒尊が祀られています。湯河原町の温泉場は湯河原火山が侵食をうけた深い谷間にあり、このような滝が随所(※1 )にあります。かっては、この水力を活用した自家用水力発電所をもった旅館もありました。滝周辺の地層は箱根火山の基盤をなす新第三系の湯ヶ島層群とされていましたが、最近では湯河原火山の噴出物という見解が出されています。岩石中には、沸石と呼ばれる無色透明もしくは白色の鉱物が含まれ、湯河原沸石という湯河原の地名が付いた沸石は、ここで発見されました。」「湯河原の文学と不動滝夏目漱石はリウマチ治療のため不動滝に近い天野屋に逗留しました。朝日新聞に連載された「明暗」には主人公が不動滝へ向かう場面がありますが、小説は漱石の死により未完に終わりました。他にも芥川龍之介、与謝野晶子など湯河原温泉(ジオサイトY6 )には多くの文人が逗留しました。」「含水率や空隙率の大きい、沸石(ゼオライト)という鉱物の一種で、無色透明の頭がとがった板状の結晶です(写真)。東京大学理学博士の桜井欽ー博士が少年時代(1930年頃)に不動滝で発見し、1952年に新鉱物とし、記載されました。沸石には多くの種類があり、温泉活動により火山岩のすきまに形成されることも多く、熱していくと水が分離して沸騰することから、この名前が付いたと言われています。藤木川をさかのぼり、奥湯河原でも発見されていますが、不動滝では他に濁沸石、モンデン沸石、剥沸石、菱沸石などの沸石が産出しています。湯河原における沸石の産地は泉源の分布域とほぼ一致している点から、温泉の活動と密接して形成されたと考えられます。2016年に一般社団法人日本地質学会から神奈川県の石(鉱物部門)として認定されました。神奈川県立生命の星・地球博物館で現物を見ることが出来ます。」「不動滝入口 ➡ 徒歩1分」と。石段を上って行った。石段の先は鬱蒼と繁った木々に覆われて薄暗い。石段を上ると直ぐに茶屋・土産物店があった。茶屋の裏側には、源泉が湧出する湯取場があり、湯気を上げていた。そして茶屋から少し登ると滝の下流に橋が掛かり、橋の上が滝見台となっていて、薄暗い谷間の中に、真正面に不動滝、左上方に巳我和利不動尊、右脇に出世不動尊の全体の景観を楽しむことができるのであった。正面に「不動滝」が姿を現した。「不動滝湯河原五大滝(白雲の滝、清水の滝、五段の滝、だるま滝、不動滝)の一つ。滝の名は滝壺のほとりに不動明王を祀るに由来する。滝の高さ 約15m」「湯河原沸石(町指定天然記念物)滝つぼのまわりの岩盤の中から採れた石のことで、石の中に白い結晶がまだらに入った物です。現在ては、殆ど見られません。こ覧になりたい方は、下の茶店に見本がありますので、お立ち寄り下さい。(硫酸や塩酸にも溶けにくいと言われています。)☆神奈川県の鉱物に認定されています。」石段を上って進む。「巳我和利(みがわり)不動尊」。近づいて。「巳我和利不動尊」手前から、再び「不動滝」を。そして「出世大黒尊」への苔むした石鳥居、石段が前方に。「出世大黒尊」キャンプ場の炊事場の如き屋根付きの場所に祀られていた。いつの頃から祀られているのかなど、詳細は不明。狛犬(右)。狛犬(左)。「湯河原霊山 出世大黒尊」。社殿に近づいて。扁額?「神心太陽」と。更に近づいて。下方を望む。こちらは「出世不動尊」。近づいて。「不動滝」を「展望台」越しに振り返って。湯煙が高く上がっていた。そして最後に売店を覗く。「足湯」が売店前に。そして「源泉ゆでたまご」も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.21
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そして正面に「淨真寺」の「楼門・仁王門」。 再び燈籠の窓に描かれた可憐な純白のサギソウを。巨大な「楼門・仁王門」が目の前に。楼門形式ということで、 ニ階建ての門で、一階部分に屋根(下屋)を持たない門。ニ階部分には高欄が配置されていて二層に分かれ、下層は通路の両側に金剛力士像が。桁行3間(8.1mメートル) 梁間2間(4.2メートル)、入母屋造、銅板葺。石段中央の手摺は「金剛杖」を表していると。正面から「仁王門」の「高欄」を見上げて。桁行3間(8.1m) 梁間2間(4.2m)、入母屋造、銅板葺。扁額は「紫雲樓」。「紫雲桜(仁王門)桜上のニ十五菩薩当山に参詣される人々は、この桜上に安置してある阿弥陀如来とニ十五菩薩に迎えられて、三仏堂へと足を運ぶことになる。すなわち紫雲の門より内は荘嚴の浄上(彼岸)であることを示している。この桜門は寛政年間の建立である。当山の伝統相続行事である「ニ十五菩薩来迎会」(お面かぶり)は無形文化財に指定せられ、この桜上のニ十五菩薩は、来迎の真髄を示現していることになる。」下層は中央通路の両側に金剛力士像が。「仁王門重厚荘重なる仁王門(山門)は別名「紫雲楼」とも呼ばれ寛政5年( 1793 )の建立である。一対の仁王像、桜上に阿弥陀如来とニ十五菩薩像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって、寺域全体の安全が意図されている。」「仁王像(阿行)」(右)。 「仁王像(吽形)」(左)。「二十五菩薩来迎図・おめんかぶり」案内板。 次回は2024(令和6年)5月5日(日)午前11時・午後4時に厳修します。この行事に二十五菩薩「行者」、お稚児さん「天童」を募集しています。」 三年に一度行われる九品仏の二十五菩薩来迎会、通称「おめんかぶり」👈リンクは5月5日に開催。来世に見立てた本堂と、浄土に見立てた上品堂との間に橋を架け、浄土から二十五菩薩が迎えに来る様と、西方極楽浄土へと往生人を救う(連れていく)様を表しているのだと。「午後四時三十分に閉門いたします。ご参拝を終了願います。淨真寺」と。 見事な仁王門正面の竜虎の彫り物は金網に守られて。「仁王門」の裏側・境内側に鎮座する「風神」。「仁王門」の裏側・境内側に鎮座する「雷神」。 「仁王門」脇から「焔魔堂」方向を振り返る。 そして前方左にあったのが「鐘楼」。「鐘楼仁王門とは対照的に、流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも名桜の誉れ高く、宝永5年(1708年)の建立である。梵鏝は文化財に指定されており、今に残る深沢の名家谷岡氏の御先祖がニ親菩提のために鋳造され(宝永5年)当山に寄進されたものである。また楼の四周に刻まれた十ニ支は作者不詳であるが、名作として特に有名である。毎年大晦日より元旦にかけて、除夜の鐘に遠近の参拝者でにぎわっている。」流麗な建築手法を示す鐘楼は関東でも誉れ高く、宝永五年(1708)の建立 と。 鐘楼にも様々な絵が彫り込まれていた。楼の四周に刻まれた十ニ支は見事な彫刻。ズームして。「梵鐘」。 「仁王門」越しに「東門」方向を振り返る。「仁王門」を見上げて。 「境内境内周辺の土手はこの地がかつて奥沢城であったときからの名残りで、鎌倉期における築城学上「土塁」の形態を示すものとして貴重な史料である。境内には古木が多く、カヤ(天然記念物)の大木は推定樹齢七百年以上、またトチ・高尾マキ・菩提樹およびイチョウ(天然記念物)、など古大木があり、つねに参拝する人々が絶えない、武蔵野の面影を残存する霊域である。参道・惣門・閻魔堂・仁王門・鐘楼・開山堂・本堂・三仏堂・書院・食堂(じきどう)などいわゆる七堂伽藍の完備した僧房として数少ない寺院である。また寺域全体が極楽往生の様相に形どられ、弥陀三六(さぶろく)の願いに即して、境内3万6千坪、三仏堂各堂丸柱三十六柱、本堂ケヤキ柱三十六柱、さらに三仏堂と本堂のあいだ三十六間というように細部にわたって往生にちなんだ数字があてはめられ、いちど九品仏境内に歩をはこび参拝結縁したならば、往生浄土の信心を得ることができるという願いがこもっているのである。このような緑の境域は周囲の変化にともない次第に失われてゆく都内の現状の中できわめてたいせつなものである 将来ともこの風致を永く保存したいと念願いたしておる次第である。淨真寺「縁起」本堂札所にあります(有料)」 そして「仁王門」を潜ると左手にあったのが「奥沢城跡」碑。奥沢城は、吉良氏によって築かれたと言われる平城。世田谷城の出城として用いられた。昭和62年(1987年)12月18日に世田谷区の区指定史跡に指定されている。天文 - 永禄年間頃、吉良頼康により築かれ、家臣の大平氏が守った。天正18年(1590年)、小田原征伐の後廃城となった。延宝6年(1678年)、珂碩により九品仏浄真寺が開かれた。周囲の平野部に南の台地から北方に突き出た舌状台地上に占地し、台地上の九品仏浄真寺境内に方形の郭跡が認められる。九品仏駅前から台地東麓に掛けて城郭由来の地名が残ることから、城域は九品仏駅付近から台地端まで拡がっていたものと考えられる。仁王門の北側(右手)に4基の庚申塔が並んでいた。どれも保存状態の素晴らしいもの。江戸時代の奥沢村にはたくさんの地蔵や庚申塔があったという。大部分は昭和初期の大規模な耕地整理で無くなってしまったようだが、道端や辻にあったものは近隣の寺社に移設されたと。浄真寺に移設されたものが最も多いと言われると。一番右の石碑には「玻璃摩権現」と刻まれた石碑が。 そしてその手前に4基の駒型青面金剛庚申塔。反対側から。一番右は違う場所から移されたものらしい。世田谷区の庚申塔の資料にも載っていないと。造立年は享保6年(1721)とこの中では最も新しい。新しいと言っても都内の庚申塔の中ではかなり古い部類に入るのだと。青面金剛、邪鬼、三猿が彫られており、「奉青面金剛講中…奥沢村」とある。「武州荏原郡世田谷領」という文字もあるので、奥沢村のものであるとのこと。右から2番目は、同じく板状駒型で青面金剛と三猿、造立年は元禄17年(1704)である。ここの庚申塔は1690年から1721年という造立で、実は山門よりも相当古い。後からここに設置されたにもかかわらず、寺域の中では一級の場所を与えられているのはその時代の古さからであろうか。右から三番目の庚申塔は青面金剛、邪鬼、三猿がきれいに描かれている板状駒型。造立は享保4年(1719)、等々力村の銘があり、8人の願主の名前がある。高さは112㎝あるが、この庚申塔だけでなく4基ともが高さ1mを超えている大きなものだ。一番左の庚申塔は、青面金剛像に三猿、元禄3年(1690)の造立である。板状駒型のこの庚申塔は以前は等々力6丁目24-18にあったもので、民家の建替えにより浄真寺に移された。この庚申塔だけでなく、左から3基目までが同じ場所にあったものである と。「鐘楼」を再び。 参道を更に進む。参道の両側には巨大な石が、枯山水の如くに並んでいた。前方右手の大イチョウは既に多くの黄色の葉を落としていた。「淨真寺 本堂」を横から見る。そして右手の細い路に入ると、石を丸くし彫り込んだ「手水場」があった。そしてその奥に句碑が。鷺草を詠んだ鎌倉の物故俳人・吉岡富士洞の「句碑」と。『天碧き 日は鷺草の 天に翔つ』。「手水場」。どなたかが写真撮影用に・・・?しかし、これぞ「落葉舟」。ほとんどの紅葉のモミジ葉が沈んでしまっていたが。その奥、本堂の裏手に「鷺草園」が。池には菖蒲や水草も植栽されているのだと。「サギソウ(鷺草)花を見た人はきっと名前にうなずいてしまうサギソウ。花が鳥のサギが羽根を広げた様子にそっくりなのでこの名前がつきましたが、これは3枚ある花弁のうちの1枚で、ラン科植物に独特の唇弁(しんべん)とよばれるものです。がく片は緑色で3枚あり、花のうしろに長い距がつき出します。地下に小さな球根があり、花の頃から数本の匐技(ふくし)をのばし、その先新しい球茎をつくり、繁殖します。斑入りの銀河という園芸品種もあります。サギソウの自生地は、現在少なくなっていますが、おもに本州~九州の低地の湿地に生え、食虫植物のモウセンゴケ類、ミミカキグサ類などとともに生育しています。かっては世田谷区にも自生があったと言われています。花期は7月中旬~ 9月上筍で、地域によって違いがあり、南に行くほど遅くなると言われています。みどりとみず政策担当部公園緑地課 玉川公園管理事務所」 ズームして。背がく片側花弁がフード状となります。唇弁は3裂して側裂片は大きく縁が細裂します。唇弁の基部に3 ~ 4cmの距があります。「鷺草園」に繋がっている枯山水の池。湧き上がっていたのは湧水であろうか?「鷺草(さぎそう)について鷺草(昭和43年8月1日、区の花に指定)=[ラン科]は陽の当たる湿地原野に生える多年生草本で7~8月頃、高さ20~30センチの茎に純白の花を咲かせ、その形が飛んでいる鷺の姿に似ているところからこの名前がついたものと思われます。区内では大正の末頃まで九品仏周辺の奥沢田甫に自生し奥沢には「鷺の谷」・また地続きの目黒区自由ヶ丘には「鷺草谷」という小字の地名がありました。この鷺草にまつわる悲話もいくつか伝えられておりますのでその一つを御紹介します。「室町時代世田谷城主吉良頼康には、家臣の奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫という美しい側室がいて頼康の愛を一身に受けていたが、古くからいる側室達が、これをねたんで常盤が不義をしたとあらぬ告げ口をしたので遠ざけられた。悲しんだ常盤は幼い頃から愛育した白鷺の脚に遺書を結びつけ、両親の住む奥沢城に放った。たまたま奥沢城附近で狩をしていた頼康が白鷺を射落したところ脚に手紙が結んであったので開いてみると常盤の遺書であった。頼康は驚いて急いで帰館したがときすでに遅かった。白鷺の射落された場所から一本の草がはえ、やがて鷺に似た可憐な花をつけたのです。」。花が咲くと(以前に訪ねた時の写真)。そして右手に「本堂」の姿を見ながら「鷺草園」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.20
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「日帰り温泉 こごめの湯」の前にあったのが「月夜広場」。公共トイレの先に「御堂」があった。「万葉公園」マップ。「イチョウの大木」。再び「月夜広場」に戻る。廻り込むとあった三方がガラス戸の「神輿蔵」。内陣の神輿類。湯河原の祭り「湯かけ祭り」に担がれるのでしょうか、横の社殿(神輿蔵)には小さな神輿、温泉街らしく墫神輿も安置されていた。「神輿蔵」前に立っていた「養生園」碑。「養生園の碑明治38年、日本海海戦でロシアのバルティック艦隊に完勝しその名を世界に知られた東郷平八郎は、帰国後、湯河原の大倉孫兵衛の別荘に滞在し、温泉療養をしながら別莊の庭園「養生園」で英気を養いました。東郷は、養生園について漢文で次のような感謝の意を表し、孫兵衛に残しました。 大倉翁孫兵衛自ら資を投じて、此の仙境を開き、衆と之を楽しむ。 余既に園の風勝を愛し、今又翁之人となりの淡雅なるを喜び、 遂に筆を抽きて之の為に記す。石碑上部の横書きの「養生園」の文字は東郷の真筆を刻し、本文は高千穂学園教官・丹所啓行の書による楷書体を刻しています。」そして「太子堂」。日本文化興隆の祖・聖徳太子の遺蹟を敬慕して昭和35年(1960)建立された六角形の「太子堂」。「太子堂建造の由来聖徳太子は用明天皇の第二皇子として五七四年にご誕生になりました。以下解読不可」理想郷に居住していた作家・山本有三氏撰文の「太子堂建造の由来」碑。「太子堂」。「公園寄附」碑。その左の祠には常夜燈、延宝8年(1680)造立、一面4臂・邪鬼・三猿が陽刻された庚申供養塔が祀られていた。一面4臂・邪鬼・三猿が陽刻された庚申供養塔。「万葉公園」の「千歳川」の清き流れ。「狸福神社(りふくじんじゃ)」には5つ連なった赤い朱の鳥居が並ぶ。「狸福神社の由来山間の地、この湯河原に一匹の雄狸が居りました。ある日の事、土地の人が狩猟の弓で狸を傷つけてしまいました。雄狸は山間を流れる河原に湯の湧き出る所を見つけ、傷を癒していると、同じように足に火傷を負った雌狸が浸かりにやって来ました。ニ匹の狸は来る日も来る日も傷を癒しに通ううちに、恋仲になり、やがて傷も治り、晴れて夫婦となりました。ニ匹はこの湯のご恩を忘れる事なく、人に化けては湯河原の温泉のすばらしさを説き、旅人の願を叶え、福をもたらす神の使いとなり、今でも湯を守り続けて居ます。」社殿前には多くのお賽銭が。狸の石仏が迎えてくれた。社殿の右側。右手前にも。左にも。「千歳川」の清き流れを再び追う。「文学の小径」碑。「声かけて ほしい椿の 蒼蕾 梅門」作者・金尾梅門は湯河原温泉をこよなく愛し、湯河原温泉の椿まつりには毎年来ていたといわれ、この句もその時に作ったものとのこと。「散歩随意」碑。碑の上部に ゆび指しの姿と、下に「散歩随意」(ご自由に散歩してください)と。「散歩随意の碑明治時代、このあたりは実業家大倉孫兵衛・和親親子が別荘を構え、その庭園がありました。日清・日露戦争のとき、陸軍省が湯河原温泉を負傷軍人の温泉療養地に指定、当時の温泉旅館が分担して将兵を引き受けました。孫兵衛は別荘の庭園を散歩用に開放し、養生園と呼ばれました。このとき和親が案内用に藤木川沿いにこの石碑を建立したとされています。以川登天毛(いつとても) 春可勢た江ぬ(はるかぜたえぬ) こ能さと耳(このさとに)遊飛転(あそびて) 幾ミ可(きみが) 与波比(よはひ) 延ふへ之(のふへし) 当時は、現在の万葉橋より川上に大倉別荘用の橋があり、その橋を渡る手前の道路側に石碑が建立されましたが、昭和30年に町立万葉公園となるとき現在の地に移設されました。」【寒い季節でも、春のような暖かいこの湯河原に、静養に来ているあなたは きっと長生きするでしょう】と。そして最奥にあった「独歩の湯」に向かって進む。「独歩の碑」。万葉公園の奥に進むと、国木田独歩の著書「湯河原ゆき」の最末尾の一節「湯河原の渓谷に向かった時は、 さながら雲深く分け入る思があった 独歩 」の碑。「独歩の碑この碑は、明治の詩人・小説家の国木田独歩の著書『湯ケ原ゆき』の最末尾の一節です。 湯ケ原の渓谷に向かった時は、 さながら霧深く分け入る思があった 独歩独歩は薄幸な人と言われますが、その人生に一点の光明を点じるのが 3回に及ぶ湯河原温泉保養の旅(明治後期)です。ここでの体験に基づく短編小説には、「湯河原より」、「恋を恋する人」、「湯河原ゆき」、「都の友へ、B生より」などがあり、共に明るく温かいロマンがあります。理由として、自然愛の深い独歩が敬愛した英国の詩人ワーズワースの詩の世界に湯河原渓谷が酷似していたこと、独歩の定宿の女性たちの情をこめた応対などが考えられます」更に進む。「独歩の湯」案内。「独歩の湯」の園内は(ちょっと写真ではわかりにくいですが)日本列島をイメージしてつくられているとのこと。「独歩の湯」案内図。「独歩の湯」は足湯を楽しむことができる施設で、様々な効能がある9個の足湯を楽しむことができるのであった。「現実の門」。「皮口(ひこう)の泉」は、肌の若返り、口に関する事に効果がある と。「平静の泉」は、心穏やかになる泉 と。「風呂桶の滝」敷地にある大きな樽からお湯がこんこんと。そして来た道を引き返す。左手奥にあったのが「熊野神社(くまのじんじゃ)」紀伊からの勧請といわれているが、時代は不明である。 湯の守護神、健康の守護神として別称「湯権現」と呼ばれている。5月の第4土・日曜日には「熊野神社例大祭」が「湯かけまつり」とあわせて開催される to。御祭神 天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )、 伊弉諾神 ( いざなぎのかみ )、 伊弉冊神 ( いざなみのかみ )扁額「熊野神社」。清き流れと紅葉を楽しみながら「万葉公園」の遊歩道を進む。前方左手に休憩小屋が見えた。ライトアップされた美しい壺が置かれていた。そして前方・美しい紅葉の下に滝が見えた。「玄関テラス」下を滝に向かって進む。案内板。「惣湯テラス」。正面に2段の滝が現れた。滝を様々な方向からカメラに。観光会館脇の階段が万葉公園・独歩の湯の正式な?入口なのであった。そして観光会館脇の入口の近くに、もう一つ入口があり、こちらからも万葉公園に入れるのであった。「歌碑」。「万葉歌碑この歌は、万葉集4500首の中でただ一首、温泉が湧き出る様が詠われたもので、湯河原温泉を詠った歌と言われています(詠み人知らず)。足柄(あしがり)の 土肥(とひ)の河内(かふち)に 出(い)づる湯の 世にもたよらに 児ろが言はなくに足柄の土肥(湯河原の古称)の川辺に噴出する温泉の湯けむりが中高に漂い揺らぐように、あの娘は私との関係を不安げには言わななかったのに心配で……と、揺れる男の恋心を深い消えゆく湯けむりに托して詠んだ景情一体の見事な恋歌です。 (注釈: 「足柄(あしがり)」はアシガラの訛り。「土肥(とひ)」は、今の真鶴・湯河原の辺り。 「湯」は、湯河原温泉。「河内(かふち)」は河淵。「世にも」は、断ジテ。 「たよら」は、タユラと同じで、ユラユラと定まらない意。「児ろ」の「ろ」は親愛の 情を表す接尾語。「言はなくに」は、言フの未然+打消しのヌの未然+体言化する 接尾語+接続助詞のニで、言ワナイノダガ。) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.20
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参道を進むと突き当りになり、右手奥・東側にも山門が。東門に向かって進む。左側の紅葉。東門を出て振り返る。「九品佛淨眞寺東門」 と。「二〇一四~二〇三四年淨真寺「平成 令和 九品佛大修繕事業」大勧進」と。 東門の扁額。何と書かれているのであろうか?『釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心』??その意味は「この地は釈迦如来が現れて説教された場所で、極楽浄土の東門に当たる」ということだと。昔、訪ねた大阪・四天王寺の鳥居の扁額にも同じような文字が。その時の写真です。引き返して。駐車場の先の紅葉。ズームして。総門からの参道との突き当り越しに。「2014年~ 2034年 浄真寺「平成 令和 九品佛大修繕事業」大勧進」。九品佛像(上品上生仏より下品下生仏)及び釈迦如来像、計十躯の大修繕が始まりました。ー躯ずつ修理所に搬出し、一躯当たり一年半からニ年の修繕となります。この稀代の「平成九品佛大修繕事業」広く浄財の勧募(大勧進)をお願いしております。浄財を喜捨された方の芳名は、結縁高名帳に記録し、九品佛像の臺座内に永久に奉安されます。何卒この勝縁に、格別のご協賛を賜り度く存じます。詳しくは、寺務所、龍護殿にございます勧進趣意書をご覧項ければ幸甚てす。 浄真寺」「未来に残す『貴方の化佛』2881軀の化佛寄進をお願いしております。三百年前の寄進者芳名が背面に記録されております。」大きな石灯籠。紅葉のトンネルの中を進む。右手に「開山堂」への「中門・薬医門」が。その手前には石碑が。「珂然和尚編珂碩上人行業記に曰く元禄七年六月二十ニ日に珂硯上人疾有り日と共に進む 九月二十三日高弟珂憶上人河内国より来る 師珂憶上人に告げて曰く九品佛像造佛の本誓已に成就せり 堂宇荘嚴志有って遂げず老朽体疲れて今往生の素懐を遂げんとす 汝宜しく修立せよ 身後の事は皆汝に付嘱す汝それ忽にすること勿れ 又門人に告げて曰く我が後に珂憶あり憶はわれに異なる所なし 汝等謹みてその教命に従ふべしと 十月七日夜半合掌し弥陀の宝号を唱し寂す珂憶上人師の遺命を奉じ力を林碩上人に協せ材木一式を河内王手山にて切り舩にて下し、元禄十一年十月十五日現本堂三佛堂の揚棟を成し給えり閲世二百七十年十方有縁の合力により諸堂の大修築成る これを昭和大修理と称しいさゝか祖恩に酬いんとす 即ち昔日の血汗の御労苦を偲び 之を碑面に刻し以って記念とす 乞ふ来山の諸氏弥陀の名号を唱し 恭敬礼拝し給はん事を 昭和四十一年五月七日佛歓喜日 九品山唯在念佛院浄眞寺第十六世 心譽順碩」境内地図が手書きにて。「開山堂」への「中門」を正面から。「開山堂当寺開山珂碩上人のお像を安置する。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳のときのものである。この像も文化財に指定されており、万治元年( 1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。なお、開山堂では、上人のご命日に当る毎月七日の開山忌に開扉して、午後一時より法要とご法話及び写経が催されており、一般の方の参加を望んでいる。上人は元禄7年(1694年) 10月7日、御年七十七歳にて示寂され当山の西北にその御廟がある。」「珂碩上人 安産厄除開運」(右)「九品山寺務所」(左)。「開山堂」碑。 「開山堂」。「開山堂」には浄真寺開山珂碩上人のお像を安置。このご尊像は上人自彫のもので、お姿は合掌する上人御年42歳の時のものであると。この像も文化財に指定されており、万治元年(1657年)上人が、如来のお告げ三度により、水鏡に御姿をうつし彫刻されたものであって、古来より安産・厄除・開運としてひろく信仰をあつめている。石段の下から。「開山堂」の屋根の「宝珠」。「宝珠」とは方形屋根の頂点部分や塔の頂部等に置く玉のこと。放射状の物は何を表すのであろうか?火炎宝珠に似てはいるが。「校閲」の師匠から、この形状の宝珠は平城宮跡第一大極殿の大棟中央飾りがあり、これは法隆寺夢殿の宝珠を参考にしたとのこと。法隆寺夢殿の宝珠の写真をネットから。「頂上の露盤宝珠は宝瓶に八角形に宝蓋や華麗な光明をともなったもので、世上著名な優作である。 」また「宝珠から光明を発しているような線状の装飾がみられる。」とも。よって放射状の飾りは「光明」を表していると。仏教による「光明(くゎうみゃう)」とは、仏が発する光で、大乗仏典では智慧や慈悲の象徴として、瞑想中の全身から光明を放つ場面が描かれる。 転じて「光明を得た」といえば比喩的に覚ったことを表すこともある。 『倶舎論』によると自ら光を発するもの(太陽など)を光といい、その光を反射するもの(月など)を明という と。そして、平城宮跡第一大極殿の大棟中央飾りの写真もネットから。「開山堂」に近づいて。ガラス越しにズームして内陣を。「開山堂」の「手水舎」。「手水鉢」には寺紋の「龍胆車(りんどうぐるま)」が刻まれていた。「サギソウ(鷺草)」。浄真寺は鷺草の寺と呼ばれ、シーズンには鷺草の鉢が本堂脇に並ぶのだと。純白のさぎが翼を広げているかのような可憐で繊細な花、さぎ草。この花が世田谷区の花となったのは1968(昭和43)年で、区民から公募して決まったと。「実は世田谷区には、さぎ草にまつわるこんな伝説があります。ときは16世紀後半。世田谷城主・吉良頼康(きら よりやす)は家臣にして奥沢城主である大平出羽守(おおひらでわのかみ)の娘・常盤姫(ときわひめ)を側室にしていました。その美しさゆえ、頼康に寵愛された常盤姫でしたが、妬む者がいました。頼康の側室たちです。彼女たちは常盤姫を陥れるため、姫が不義を犯したかのような話をでっちあげ、頼康に告げます。最初は気に留めていなかった頼康でしたが、何度も聞かされるうちに姫を疑い、遠ざけるようになります。後方には【洗手偈】という手水場で唱える偈文が書かれていた。「洗手偈(せんしゅげ)以水盥掌(いすいかんしょう) 当願衆生(とうがんしゅじょう) 得清浄手(とくしょうじょうしゅ) 受持仏法(じゅじぶっぽう) 」と。口語訳【水で手掌を洗い 祈る衆生は清浄な手を得て 仏の教えを受け取り自分のものとすることができる】「死を決意した常盤姫は、幼い頃から可愛がっていた白さぎの足に身の潔白を記した遺書を結び、実家の奥沢城へと放します。飛び立った白さぎはやがて、奥沢城近くで狩りをしていた頼康の矢で射落とされてしまいました(一説には足に結ばれた遺書の重みで力尽きてしまったとも)。白さぎの足に結ばれていた遺書を読んだ頼康は、常盤姫の無実を知り、急いで世田谷城に戻りますが、時すでに遅し。姫は息を引き取っていました。後に白さぎを奥沢城の近くに埋めて供養したところ、なんと翼を広げた白さぎに似た花が咲きました。」とネットから。 「サギソウ(鷺草)」に近寄って。常盤姫が放った白さぎが射落とされた場所といわれるのが、この「九品仏 浄真寺」。姫の実家である奥沢城址に建てられ、今も境内の鐘楼の後方にある土塁跡が奥沢城の微かな面影を伝えているのであった。裏側には蕾も。その先にあったのが「水子(子育)地蔵尊」。稚児と花に囲まれて。お顔をズームして。昨年の写真を見ると、稚児と同様に、赤い帽子を被っていたが。「水子(子育)地蔵尊像建立趣旨」碑。「九品佛幼稚園を創立してより満三十年の星霜を閲した。この間仏教保育の網領である。一、慈心不殺(生命尊重の保育)一、仏道成就(正しきを見て絶えず進む保育)一、正業精進(よき社会人をつくる保育)の三網領に則り、園の関係者一同力を戮せて保育の聖業に精勤して今日に至っている。近時世相の変移は、身籠れる胎児の扱いにつき真に遺憾の念を禁じ得ない。嬉々として遊ぶ園児に接する毎に生れるべくして、その小さな尊い命の絆を絶たれた闇冥に叫ぶ水子に思いを致し、憐憫の情、転、切なるものがある。茲に、多くの水子の菩提を薦め、併せて、可憐なる幼児の健全な成育を祈念しつつ、本地蔵尊像建立、発願の趣意を述ぶと云爾。維時昭和五十五年十二月七日 九品佛浄真寺第16世 心譽順碵 合掌」「浄大供養 地蔵」。近づいて。「開山堂」を斜めから。正面に「観音堂」。「西國三拾三番札所供養塔」。西国三十三所は、観音巡礼の一つ。観音菩薩を祀る近畿地方2府4県と岐阜県の三十三箇所の札所寺院と三箇所の番外寺院からなる観音霊場。日本で最も歴史がある巡礼であり、現在も多くの参拝者が訪れている。「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。文化庁の令和元年度「日本遺産」の16件(累計83件)の一つに、『1300年つづく日本の終活の旅〜西国三十三所観音巡礼〜』が認定された とのこと。「観音堂」前の低い石垣上に整然と鎮座する三十三躰の舟後光型観音菩薩石仏群。こちらは左側の「三十三観音」。ズームして。「観音堂」に近づいて。 扁額「観音堂」。 見事な彫刻であったが、ピンボケ。「如意輪観音像」。「千手観音像」。「開山堂」の「中門・薬医門」方向へ引き返す。右手には「手水舎」。 再び、鷺草(さぎそう)にズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.19
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翌朝12月5日(火)は宿泊した「ホテル リーデント伊東」を8:30にチェックアウト。4階・33室からなるビジネスホテルであった。ホテル前の角には「イノシシ」像が。その下には「道しるべ 猪戸(ししど)温泉通り」と刻まれた石柱があった。『猪戸(温泉)通り商店街』のシンボルとして平成2年に建立されたものと。「猪戸温泉通りの由来ここ猪戸温泉通りは中伊豆方面に至る陸路の伊東温泉の玄関口として古くから拓けました。又、海路の発達とあいまって明治の初めより幾多の温泉宿をはじめ、いろいろな商い店が軒をつらね繁華街の中心となった歴史的な賑やかな街道であります。猪戸所在の天与の源泉は昔、猪が湯あみし霊泉の湧出を発見「猪戸の元湯」として長い歳月、多くの人々に親しまれ湯守り「出湯権現」の石の祠が祀つられております。この辺一帯を昔、「猪渡」と言い後に「猪戸」に変ったといわれております。今般、猪戸温泉通り商店街のシンボルとして猪の像を建立し、猪戸界隈の歴史、文化を偲ぶと共に商店街の飛躍発展を祈念する次第であります。 平成二年三月吉日 建立 協同組合 泉栄会」そして「国道135号」の「道の駅 伊東マリンタウン」前を北上。「道の駅 伊東」前。「ホテル サンハトヤ」前を通過。「国道135号」を宇佐美方向に進む。そして熱海市に入り「糸川」手前の渚町を走る。9時を過ぎていたが、街は閑散としていた。そしてさらに20分ほど走り「湯河原駅入口」交差点を左折して静岡県道75号線・湯河原箱根仙石原線を進み、この日の最初の目的地である「湯河原温泉」の「湯河原温泉駐車場」に到着し車を駐め「湯河原温泉」の散策開始。「藤木川」に架かる「小梅橋」を徒歩で渡る。「湯河原温泉 湯元通り」を進む。入口右側には「たぬき(狸)」の親子?が出迎えてくれた。「伝説 湯河原は傷ついた狸」が見つけた温泉と言われています。山間の地、この湯河原に一匹の雄狸が居りました。ある日の事、土地の人達が狩猟の弓で狸を傷つけてしまいました。雄狸は山間を流れる河原に湯の湧き出る所を見つけ傷を癒やしていると、同じように足に火傷を負った雄狸が浸かりにやって来ました。ニ匹の狸は来る日も来る日も傷を癒しに通ううちに恋仲になり、やがて傷も治り晴れて夫婦となりました。ニ匹の狸はこの湯のご恩を忘れる事なく人に化けては湯河原の温泉のすばらしさを説き旅人の願を叶え、福をもたらす神の使いとなり、今でも湯を守りり続げて居ます。」とネットから。見事な黄葉。右手にあったのが「伊豆屋旅館」。昭和5年に建てられた数寄屋造りの宿。見事な唐破風彫刻、松材で造られた広い玄関が正面に。現在地はココ!!。右手には「源泉・温泉櫓」が立っていた。「藤木橋」を渡る。赤い橋の先にあったのが「富士屋旅館」。富士屋旅館に併設されている『瓢六亭(ひょうろくてい)』の鰻の絵が看板の下方に大きく。店の名物は「鰻土鍋ごはん」をネットから。土鍋で炊き上げたご飯の上に、炭火で焼いた鰻が敷き詰められており、店員さんが丁寧に茶碗へ盛り付けてくれる。蒸さずに焼かれた鰻ですが、土鍋の中で蒸される」ことによりふっくらとした食感があり、とても美味しとのこと。「古くは万葉集にも詠まれ湯河原温泉一帯は、良質の温泉が湧く湯所として知られています。名湯と海山に囲まれた美しい景観、豊かな食材は行楽・静養の地として人々に親しまれてきました。特に明治中期から国木田独歩、夏目漱石、与謝野晶子、谷崎潤一郎など多くの文人が訪れ、創作の場、交友の場として発展してきました。富士屋旅館の歴史は古く、江戸後期にすでに前身となる温泉宿があったと伝えられており、実際、昭和43年まで幕末の建物が残っていたそうです。 大正7年に出版された「湯河原案内」によると、富士屋旅館は明治9年に温泉旅館を始め、当時は雅称を「聚芳園」と言い、藤木川に架かる長橋を渡ると広い敷地に楼閣や別館が立ち並び、園内の花々が絶えることがなったと紹介されています。明治期、富士屋旅館、伊藤屋旅館、中西旅館、天野屋は豊かな自然と庭園の中に本館、別館など多くの建物が建ち、優れた風致を形成していたということです。」とネットから。赤い橋を渡りながら「富士屋旅館」前の「千歳川」を見る。美しい黄葉が旅館の建物の横に。正面には「FUJIYA RYOKAN 富士屋旅館」と。赤い橋を戻りながら。その先にあったのが「藤田屋源泉」櫓。再び「藤木川」を見る。川の石垣上には源泉のホースが。右折し「藤木川」に架かる「権現橋」を渡る。再び藤木川を見る。白き流れをズームして。左の配水機械室の前には「湯河原温泉」案内板が立っていた。「湯河原温泉泉質 ナトリウム・カルシウム一塩化物・硫酸塩泉・アルカリ性・低張性高温泉 泉温 六十一℃(配湯管内温度)一般適応症 神経痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・慢性消化器病・痔症・冷え症等・くじき・ うちみ・病後回復期・健康増進泉質別適応症 切り傷・火傷・慢性皮膚病・慢性性婦人病・動脈硬化症等湯河原温泉は、万葉集十四巻の相模国歌に「足柄の土地の河内に出づる湯のよにもたよらにころが言はなくに」と歌われているように、千二百有余年の長きにわたって天の恵みの温泉がこの地に湧きつづけております江戸時代の療養目的を主とする温泉番付で絶えず上位を占めていた湯河原温泉は神泰川県温泉地学研究所の分析の結果、切り傷・火傷・慢投皮膚病・慢性婦人病・動脈硬化症等の病気や症状に効果があることがわかりました。又アルカリ性で肌がきれいになることから女性が美人になるとも言われております。本施設は温泉の安定供給を行うため(財)中央温泉研究所の協力と神奈川県・新エネルキー財団からの補助を得て送配湯施設の改良工事が完成したものです。」岩の孔には温泉が流れていた。その先の右手の石垣上にも案内板が。「湯河原の二・二六事件👈リンク昭和十一年(1936年)二月二十六日、首都東京で、首相をはじめ政府高官の官邸、私邸が、国家改造を求める陸軍青年将校らの率いる兵1400余名の部隊に襲われ、斉藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、松尾陸軍大佐らは即死、鈴木侍従長は重傷、護衛の巡査数名死傷という大事件が起こった。これと同時に、遠く離れたこの湯河原でも、青年将校の一人河野大尉の率いる別働隊七名が、元内大臣牧野伸顕伯爵を、静養中のこの場所伊藤屋旅館の元別館光風荘に襲い、銃撃、放火。急を知り駆けつけた地元消防団員の救出活動により、牧野伯爵とその家族は辛くも難を逃れたが、付添の森看護婦は銃創、護衛の皆川巡査は銃弾に倒れ、後に焼死体で発見されるという事態に到った。また牧野伯爵を助け出した前第五分団長(現温泉場分団)岩本亀三は銃創、消火に当たった消防団員も負傷するなどのほか、銃剣をも恐れぬ地元消防団員らの勇敢な救出消火活動があった。これらの事実は、湯河原の歴史の一こまとして湯河原町民の心意気と共に後世に永く語り伝うべきものである。 平成十四年二月二十六日 郷土史研究家・高橋徳 光風荘保存会」「史跡 二・二六事件「光風荘」見学ご案内昭和史上稀にみる大事件は、首都圏のほか、ここ湯河原にも別働隊による襲撃があり、その唯一の地方現場「光風荘」を次の通り、見学できます。休させていただきます【公開日時】 毎週土・日曜、祝祭日の午前十時から午後三時迄。【休館日】 平日及び、十二月下旬から一月上旬まで休館させていただきます。【展示室】 第一展示室 光風荘事件関係者の写真、及び遺書、書翰等。 第ニ展示室 ニ・ニ六事件の全犠牲者及び銃殺処刑された将校、民間人の写真、有名な 「兵に告ぐ」の放送原文と録音👈リンク、空中散布されたビラ、事件当時の 新聞及び号外等多数碑文・・・・ この碑文は、光風荘に宿泊静養中に襲撃された牧野伯爵の曾孫に当たる麻生大郎 (元首相)の直筆を刻したものです。 史跡 光風荘保存会」「史迹 二・二六事件 光風荘」碑。碑文は、光風荘に宿泊静養中に襲撃された牧野伯爵の曾孫に当たる麻生太郎の直筆。平成17年11月建立 と。紅葉、黄葉を楽しみながらさらに坂を上って行った。見上げて。正面に「日帰り温泉 こごめの湯」。「こごめの湯」は、湯河原温泉の万葉公園に隣接した小高い丘の上に立つ町営の日帰り温泉施設。入口の右側には風呂桶を持った2匹のタヌキがいて、私を迎えてくれた。館内には「小梅の湯」と「万葉の湯」があり、それぞれ大浴場(内湯)と露天風呂があります。奇数日、偶数日ごとに男女を入れ替えていると。「小梅の湯」は、明るく広々とした浴槽(内湯)が人気で、露天風呂からは山や竹林が見えるロケーション。開放的でとても気持ちが良い日帰り温泉である と。湯河原温泉は鎌食時代には「こごめの湯」、室町時代からは「こごみの湯」また江戸時代には「小梅の湯」と呼ばれて来ました。これらの呼び名は「奥地にひそまっている温泉」の意であるとも、また「子込め」「子産め」の意で、身ごもり、懐妊の温泉として知られていたものであるとも言われています。幟「日帰り温泉 こごめの湯」。「美人(美肌)の湯、湯河原温泉あしかりの とひのかふちに いづるゆの よにもたよらに ころがいわなくに万葉集の第四巻には湯河原温泉が唯一詠みこまれております。あしかり=足柄 とひ=土肥(湯河原の古稱)かふち=河のふち一、ニ〇〇年余昔の奈良時代から今日まで絶ゆることなく湧き出ている湯(温泉)は、その泉質が、極めて良質で加えて温暖な気候と緑豊かな環境は四季の移ろいも美しく、古くから、文人、文豪、墨客はもとより政財界人、芸能人に至るまで著名な方々が、この湯に憩を求めて逗留し、別荘或は終の栖として数多くの作品、足跡が残されております。當地の湯は、古来から万病に効くと伝えられておりますが、その泉質は無色、透明、無臭極めて穏やかで肌にやさしい、いわゆる美人の湯の成分条件を満しております「美人の湯」には美肌効果のある泉質を有していなければなりませんが、通常単純泉、石膏泉、重曹泉等がこれに当ります。しかし何れの温泉にも次の共通条件を備えていなければなりません。美人(美肌)の湯の成分条件 (こごめの湯数値)一、弱アルカリ性であること phは七、五以上八、五未満二、ナトリウムイオンを適量含有(四ニ一ミリグラム)三、カルシウムイオンを適量含有(一ニ五ミリグラム) 以上右の成分を含有しておりますので、どうぞ御ゆっくり御入浴をお楽しみ下さい。平成十六年春 こごめの湯」玄関左にあったボードには「鬼滅の刃 湯めぐりの旅」と。「鬼滅の刃 湯めぐりの旅」では、スタンプを集めると温泉に入ることの出来る「入湯手形」や、新感覚の音響体験を楽しむことが出来るサービス「Locatone™(ロケトーン)」を使用した、物語を楽しめる音声スポットやフォトスポット。さらに、街中の装飾や町内飲食店でのコラボメニュー、特別なクラフト体験、オリジナルグッズ販売など、アニメ「鬼滅の刃」のキャラクターが湯河原温泉であなたを待っています と。「鬼滅の刃」の主人公・竈門炭治郎と鬼殺隊同期の剣士である「嘴平伊之助(はしびらいのすけ)」が玄関前に。再び見事な紅葉を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・
2024.02.19
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そして「淨真寺 総門」から境内に足を踏み入れると一面紅葉・黄葉の世界が拡がっていた。左手前には石が並べられていた。 「三途の川」と。「三途の川」。その先に「焔魔堂」への朱の橋が。 「閻魔堂」前の陽光が降り注ぐ「赤の世界」。「閻魔堂」に向かって進む。「焔魔堂」を正面から。 「焔魔堂」は未だ閉まっていた。朱の橋の上から「三途の川」を振り返る。 朱の橋の先の「三途の川」。扁額「焔魔堂」。「焔魔堂」は閉まっていたので、以後の何枚かの写真は帰路に入口が開いた「閻魔堂」に立ち寄った時の写真です。入り口の両側に「うそはつくな」「わるいことはするな」の真っ赤なノボリが立っていた。閻魔様はやる気十分なのであった。スピーカーから「閻魔様の声」☚リンク が聞こえて来た。「知らず知らずのうちに罪を犯してしまうのが人間じゃそれは、貪り、怒り、愚かさによる心 事は態度から生じておる包み隠さず罪を悔い改めよ」と。どうやら、お祈りしている人に向かって音声が流れているのだ。お賽銭を入れると、閻魔大王からのお告げがある仕組みとなっていた。幟「わるいことはするな!一月十六日 八月十六日 地獄の釜蓋開放 閻魔大王の斎日」と。1月16日と、7月16日は閻魔大王や地獄の鬼もお休みで、「地獄の釜開き」と呼ばれたり「亡者の骨休み」と呼ばれる地獄の定休日なのであろう。正面から。閻魔堂の中央に「閻魔(えんま)大王」。「閻魔大王」は、仏教の地獄、冥界の主であり、冥界の王として死者の生前の罪を裁く神。閻王ともいう。インドにおける死者の主であるヤマが仏教に入ったものである。閻魔様が。お顔をズームして。閻魔王は、地獄などのいわゆる冥界をつかさどる鬼神の王で、「地蔵菩薩発心因縁十王経」には、冥界で亡者の罪を裁くとされ、十人の王の裁判を受け、残忍な獄卒(地獄で亡者を苦しめるという鬼)を使って、すべての亡者を審判します。閻魔王の法廷には、「浄玻璃の鏡(じょうはりのかがみ)」という特殊な鏡が装備されている。この魔鏡はすべての亡者の生前の行為をのこらず記録(閻魔帳)し、裁きの場でスクリーンに上映する機能を持つ。そのため、裁かれる亡者が閻魔王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるという。それでもなお亡者が嘘をつき続けると、閻魔王によって舌を抜かれてしまうのだ。司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐しているのだと。地獄の閻魔大王と言えば、死後に、生前犯した罪を裁く番人としてよく知られているが、実は、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)の化身であるのだと。そもそも、地蔵菩薩は六道の世界「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」の六世界に現れて、人々を救済する仏様として信仰されている。地蔵菩薩は、時には閻魔大王に姿を変えて私たちに、救いの手を差し伸べているのだと。厳しいお顔の閻魔様。今からでも真面目に改心すれば、認めてくれるのだろうか?さらにズームして。地獄の十王一覧。十王は、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う10尊の裁判官的な尊格。亡者は初七日を終えた後、死出の山を越え、賽の河原、三途の川に辿り着きます。三途の川には水が急流をなしている所を渡る、入江が深い淵をなしている所を渡る、橋を渡る、の三つの方法があり、生前の罪に応じて渡る方法が異なるとされます。右手に鎮座していたのが「懸衣翁(けんねおう)」。「奪衣婆(だつえば)」が剥ぎ取った衣類は、懸衣翁(けんねおう)という老爺によって衣領樹(えりょうじゅ)にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって枝の垂れ方が異なるので、亡者の生前の罪の重さを計る事により死後の処遇を決めるのだと。罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されるのであると。ズームして。さらに前回のブログにも書いたが、私の衣類は枝が大きく撓る(しなる)のであろうか?カメラを持つ手が震えて・・・・??。左手にいたのが「奪衣婆(だつえば)」三途の川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の姿。奪衣婆(だつえば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言うのだと。お顔をズームして。「極楽浄土」絵。「等活地獄」絵。八熱地獄の第一。南瞻部洲の下、千または五千由旬の所にあるという。獄卒により身を裂かれ骨を砕かれて殺されるが、涼風が吹くと生きかえってまた同じ責め苦を受け、これを繰り返すので、その名がある。殺生などの罪を犯した者がここに堕ちるという。「極楽浄土」絵。「大叫喚地獄」絵。叫喚地獄の下で、叫喚地獄までの四地獄の苦を一〇倍にした苦しみを受けるところ。五戒(ごかい)を破ったものがおちるとされる。五戒とは不殺生戒(ふせっしょうかい)・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)・不邪淫戒(ふじゃいんかい)・不妄語戒(ふもうごかい) ・不飲酒戒(ふおんじゅかい)の仏教徒が守るべき基本となる5つの戒めのこと。各戒めはそれぞれ不殺生戒:殺生(生き物を殺すこと)してはならない。不偸盗戒:盗みを働いてはいけない。不邪淫戒:不貞行為(不倫)を行ってはいけない。不妄語戒:妄言(嘘)をついけはいけない。不飲酒戒:飲酒(お酒)をしてはいけない。という意味を持っている と。「閻魔堂」前の陽光が降り注ぐ「赤の世界」。手前には三途の川に架かる朱の太鼓橋。そして「焔魔堂」正面から奥にある「六地蔵」への小径へ。「六地蔵」への小径の角の地蔵像・「三つ子地蔵」。「六地蔵」への小径の右側。その奥にも石仏が並ぶ。「総門」を振り返って。 「六地蔵」への小径への反対側。近づいて。そして正面に「六地蔵」。 斜めから。さらに。以前は、編笠を被っていなかったが。「総門」は「薬医門」形式であっただろうか? さらに石仏を追う。再び正面の「焔魔堂」を。 「賽の河原」を左手に見ながら「総門」からの道を進む。振り返って。「総門」を振り返る。 「焔魔堂」前の紅葉。反対側を。前方右、紅葉の奥に石仏が鎮座した石塔の姿が。「延命地蔵」をズームして。「愛心講 講元 鳥海はま先生 頌徳碑十六世 正阿順碩」。ここにも「禁銃獵 警視廳」 と書いてある石柱が。両脇に並ぶ燈籠には、白い「サギソウの花」が。別の燈籠。そして参道のT字路から「東門」を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.18
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エアーバルーンもライトアップされて。遊園地の入口。馬車も電動?で動いて。メリーゴーランド。近づいて。怪獣の姿も。回旋塔喪ライトアップされて。子供用のボルダリング。様々な色にライトアップされて。蘇鉄の樹もライトアップされて。そして一番奥にあった「恋人神社」。ピンク色に変わった瞬間を。「恋人神社満開の桜は豊作のシンボルとされ結納や結婚式の際には、美しく花開く「桜湯」が振舞われるなど、桜は恋する2人にとって末長い幸せを象徴する花です2人の夢見るような幸せがいつまでも続きますように、と祈願するLOVEパワースポット「恋人神社」ピンクの鳥居は幸せな気持ち、優しい気持ち、満ち足りた気持ちにさせてくれますそして恋人たちをそっと見守ります」鳥居の奥の樹も様々な色に。鶴の姿を。鶴と樹のコラボを追う。ハートとも。奥に見えたのが「ジップライン~流星RYUUSEI~」の乗り場。「ZIP LINE ジップライン」入口。左にナイトレインボー(すべり台)。正面から。近づいて。「ジップライン~流星RYUUSEI~」の乗り場下から。勿論!!ヘルメット、ハーネスも着用厳守と。入口に向かって戻る。ト音記号が踊るがごとくに。「ジップライン~流星RYUUSEI~」のワイヤーロープをズームして。再び青の世界に戻って。そして入口ゲートに戻り、旅友と合流し、この日の宿に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.18
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この日は昨年・2023年12月8日(金)、この日は、秋の紅葉を楽しみに、毎年訪ねている、都内の紅葉の寺・淨真寺そして等々力不動尊へ。例年になく美しい紅葉を楽しんだので、季節外れ・out of seasonのブログアップですが、美しい晩秋の光景でしたので、敢えて我がブログにアップさせていただきます。東急大井町線の「九品仏駅(くほんぶつえき)」にて下車し「淨真寺(じょうしんじ)」へ向かう。 徒歩で数分で淨真寺参道入口に到着。正面参道には黄葉・紅葉が拡がっていた。「浄真寺参道」碑。「九品佛参道界隈」案内碑。右手の交差点の角にあったのが人気のパン屋さん「Comme'N TOKYO(コム・ン トウキョウ」。 「"パンの世界大会「モンディアル・デュ・パン」で日本人初の総合優勝を果たし世界一となった「大澤 秀一」率いるベーカリー「Comme'N | コム・ン」焼き立てのパンやサンドウィッチが楽しめる東京・自由が丘のフラッグシップショップ"」と。 「ニ〇一四~ニ〇三四年 浄眞寺「平成 令和」九品佛大修繕事業」大勧進」案内。「浄眞寺」のHPには「昭和三十八年(1963)に九躰の阿弥陀佛像と釈迦牟尼佛像の計十躰が東京都重要文化財に指定されました。保存状態として、各十躰の漆箔の浮き上がり、矧ぎ目の損傷や化佛の脱落割損が多く認められ、東京都と世田谷区の文化財関係者が綿密なる協議の上、平成二十六年(2014)より一躰ずつ、計十躰の修繕を公益財団法人「美術院」国宝修理所に遷座し二十年以上に亘る大修繕を実施する運びとなりました。つきましては、この仏縁により未来に引き継ぐ希代の大修繕事業(大勧進)の趣意をお汲みとり下さり、絶大なる御協力と御支援を賜りますよう懇願申し上げる次第でございます。」と。「九品佛参道界隈」案内碑。「九品佛参道界隈」案内図。文字がハッキリ見えるように、2枚の写真を繋げています。案内図にあった切絵図。「総門」の切絵図。「せたがや界隈賞世田谷区では、昭和59年から平成4年までの隔年で、区民の皆さんに愛され、親しまれている世田谷区の街なみ形成のモデルとなる、魅力的な界隈を「せたがや界隈賞」として表彰してきました。「九品仏参道界隈」は浄真寺境内と参道周辺で良好な界隈が形成されていることから、昭和63年に「第3回せたがや界隈奨励賞」として表彰しました。」絵の右下に書かれている「お面かぶり」とは、江戸の時代より3年ごとに、この寺で奉修される「阿弥陀如来二十五菩薩来迎会」のことで、無形文化財に指定されているのだ。「上野毛五島美術館一帯」切絵図。「おもいはせの路おもいはせの路とは、玉川地域の緑と水の資源や歴史・文化資源をめぐるルートを、散歩道として提案したものです。この路には季節や時の流れとともに表情を変える古代から現代までのさまざまな顔が見えます。この路を歩くとき、人はいろいろと思いをはせるということで、この名を付けました。友達と、恋人と、親子で、夫婦で、あるいは一人で歩いてみてはいかがですか。」五島美術館は、東京都世田谷区上野毛の閑静な住宅街の中にある私立(財団法人)の美術館。国宝「源氏物語絵巻」をはじめとする数々の名品を所蔵する美術館として、展覧会を中心に幅広い活動を展開している人気の美術館 と。「淨真寺案内図」を「淨真寺」のHPより。九品仏淨眞寺 境内図<昔> 参照:江戸名所図會。黄葉の参道を進む。松の木もあった。右手に「玉川警察署 九品仏交番」。 参道にも朝の陽光が射し込み。黄金に輝く!!右手には「禁銃猟 警視廳」と三面に刻まれた石碑があった。背面には建てられた年が書かれていて、明治32年(1899年)と。「この辺りでは銃を使っての猟は禁ずる」という警視庁が出した明治時代の告知であると。当時のこの地域一帯はほとんど人が住んでおらず、雑木林ばかりの土地であった。狩猟もやりやすかった時代。この石柱はそういった古い時代の名残なのであろう。この後、境内にも同様な石碑が建っていたのであった。ここにも「2014年~2034年 浄眞寺「平成 令和 九品佛大修繕事業」大勧進」案内が。九品仏の駅名にもなって親しまれる浄眞寺は、上品上生仏より下品下生の九品阿弥陀仏が奉安されております。この度、元禄以来の大修繕を行うこととなりました。未来に受け継ぐ、この大修繕事業に値遇を得ることは、稀代の勝縁と思し召し、大勧進に広く皆様のご協賛を賜りたく存じます。浄財を喜捨(きしゃ)された芳名は、結縁交名帳に記録し九品佛像の臺座内に永久保存します。詳しくは事務所、龍護殿にございます趣意書をご覧頂ければ幸甚です。 九品佛浄眞寺 住職 清水英碩」参道を見上げながら進む。既に、散歩、拝観の方の姿が。「総門」が前方に見えて来た。約200mの長さの参道には黒松を中心に植栽されていた。入り口の参道は「二河白道(にがびゃくどう)」を表しているのだと。火の河と荒れ狂う河に挟まれた白い細い道、白道は浄土往生を願う信心の道で一心不乱に念仏を唱えて極楽浄土へ渡ろうということを意味していると。樹齢30年以上の黒松の間に次世代を担う黒松の苗木を植樹し成長しているのであった。欅の葉も黄葉して。石畳の参道。「総門」が前方に大きく見えて来た。参道の右手にあったのが「世田谷区九品仏まちづくりセンター」。「世田谷区九品仏まちづくりセンター 案内板」。様々な施設がこの建物の中に!!掲示板も所狭しと。世田ヶ谷郷土資料館「館蔵品でみる宗教美術の造形ーー仏教美術を中心にーー」のポスター。「新蕎麦打ち教室」開催案内。 向井潤吉アトリエ館「向井潤吉の描く 民家と自然美」ポスター。紅葉🍁も負けじと。参道の中程の右側には九品仏広場という公園があり、参道と調和した雰囲気のいい子供達の遊び場となっていた。その先左手には、三界萬霊塔・供養塔・庚申塔など8基の石塔・石仏が並んでいた。紅葉の樹の下に大小の石塔が並ぶ。左は「三界萬霊」と刻まれた石塔。文政五年(1822)造立の笠付三界萬霊塔。中央に「奉寄進庚申供養」と刻まれた石碑が。その先にも。「お地蔵様」(左)と板状駒型庚申塔「青面金剛像」(右)で、青面金剛像に三猿が彫られている。造立年は寛文十二年(1672)と比較的初期の庚申塔。その30年ほど前に鎖国となり、20年後には元禄文化の華が咲いた時代のものである と。「お地蔵様」に近づいて。「青面金剛像」に近づいて。寛文十二年(1672)の「青面金剛像」。その先にも様々な石碑が並んでいた。正面に「供養佛 信濃善光寺四十八願〇」の刻。中央は文化十一年(1814)造立の笠付供養塔で正面に「善光寺百番供養」の刻。その右は文化八年(1811)造立の「文字庚申塔」であると。振り返って。再び陽光に輝く紅葉🍁を。そして「淨眞寺 総門」前に到着。九品山唯在念佛院淨真寺(くほんさんゆいざいねんぶついんじょうしんじ)は浄土宗寺院。浄土宗大本山増上寺の別院。越後国村上泰叟寺の珂碩(かせき)上人を請うて延宝6年(1678)に創建されたものであると。総門前の石段の中央の手摺には「舟の櫓」を表した手摺が。「掲示板」。 左手にあったのは、「新東京名勝 選外十六景 奥澤 九品仏」と刻まれた石碑。現在は九品仏浄真寺となっているこの場所は、武蔵国荏原郡世田谷(現・東京都世田谷区奥沢)にあった日本の城・「奥沢城(おくさわじょう)」があった場所。 「九品佛道」と刻まれた石碑が「総門」右手奥に。「総門」を斜めから。「筋塀(すじべい)」という種類の塀があり、そこには定規筋(じょうぎすじ)と呼ばれる白い線が5本引かれていた。もともとは門跡寺院(もんぜきじいん)の証として5本の線を引いたのが始まりと。定規筋の数が寺の格式を表すようになり、3本、4本、5本のうち5本が最高ランクとされていると。門跡寺院とは、皇室一門や公家の方が出家して住職を務める寺院のことをいい、古くより皇室と関わりのある格式高い寺院とされているのだ。「告知 遊戯、ペットの散歩、自転車の乗り入れ」は禁止と。 「淨真寺 総門」に近づいて。 「総門」に掲げられている扁額「般舟場(はんじゅじょう)」。常に行道念仏して現前に諸仏を見奉る「般舟三昧」する道場であり、参拝者に願往生の心を自然に発さんが為に書かれたものであるとのこと。「般舟三昧」とは浄土教で説く精神統一法。諸仏現前三昧、仏立 (ぶつりゅう) 三昧ともいう。7日ないし 90日間この三昧を行えば現前に仏を見ることができるのだと。「九品佛浄眞寺総門」と。書体はDFP新篆体W5と師匠から。「総門」前の西側、白壁に沿った路を見る。 ・・・つづく・・・
2024.02.17
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三日月の世界を追う。セーラームーンの世界か?そして竜宮城。ぐらんぱる公園のイルミネーションは、平らな土地でなく、坂道に展開しているので、歩きながら刻々変わる様子だけでなく、上から下から、いろんなアングルで撮りやすく、画面をイルミネーションでぎっしり埋めやすいのが、嬉しいのであった。小田急片瀬江ノ島駅にも似て。インコ?を追う。赤いフラミンゴ海底の世界か?フォトスポットか?「ジップライン 〜流星 RYUSEI〜」のスタート用タワーを見る。葉っぱをモチーフにした森の散歩道。ファンタジー感が豊かな森の散歩道。葉脈のデザインも美しかった。ズームして。そして途中から七色の虹のトンネルが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.17
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そして「河津町」から国道135号をひたすら北上し、この日の最終目的地の 静岡県伊東市富戸にあった「伊豆ぐらんばる公園」に到着し、メインゲートへ。1800円/人のチケットを購入し園内に。時間は16:47。「伊豆ぐらんぱる公園」では、2023年11月11日(土)より2024年8月31日(土)まで、園内特設エリアにおいて、「日本初!体験型イルミネーション伊豆高原グランイルミ ~9th SEASON~」👈リンクをスタートした。今シーズンは、「光のオーケストラ」、「ラグーンエリア」、「森の散歩道」が新たに誕生。指輪のトンネル、薔薇の園、ダイヤモンド、金貨、銀貨、勇者の剣などなど、さまざまなランタンやイルミネーションで彩られるのだと。「伊豆高原グランイルミ」は、2022 年11 月11 日「第十回イルミネーションアワード」プロフェッショナルパフォーマンス部門において、3 年連続で全国第1 位を獲得し、日本初!体験型イルミネーションとして幅広い世代の方から高評価を得ております。さらに、Walker+全国イルミネーションランキングにおいて、7 年連続第1 位を獲得していると。「伊豆高原グランイルミ ~9th SEASON~」イルミネーション配置案内図。上部の説明部分が照明で光ってしまっていたのでネットから。そして正面に花と星が飾られた「メインゲート」。ゲート中央上には「granilumi」と。右側には折鶴が。角度を変えてゲートを。その先正面は、早くも青のクリスマスツリーが。青の世界が拡がる。3D折鶴をズームして。様々な色の3D折鶴。木々は様々な色のイルミネーションで飾られていた。ゲートを振り返って。青の世界の遊歩道を歩く。碧の海に白い鳥が戯れて。「トキ」に似ていたが嘴が短いので・・・・。巨大なラフレシアが白鳥たちを見守っているが如くに。ラフレシアは主にマレーシアとインドネシアのボルネオ島とスマトラ島、その周辺の島でのみ生息している巨大な花。花は直径90 cm程にも達し、「世界最大の花」としてよく知られているのだ。フラミンゴに似た鳥の姿も。蘇鉄(そてつ)もカラフルに彩られて。青から緑の世界に。不思議な光る実が成る光の木の如くに。この後に歩いた光のカオスのトンネルを見る。黄金の鶴の姿。ハートフルなゲートが。近づいて。後方上空には往復400mもの空中散歩「ジップライン 〜流星 RYUSEI〜」👈リンク。廻り込んで。再び青の世界に。「薔薇の園area」。この後に上部まで上って竜宮城方向を見る。左側をズームして。巨大リングが。10分間隔で開催されるショーもおすすめ。曲に合わせてイルミネーションが踊りだす「光と音のショー」、オーロラが躍動しているかのような幻想的な世界「フルカラーレーザーショー」、横60mの大型LEDビジョンと音のコラボレーション「グランビジョンショー」の3種類のショーを楽しめるのであった。楽譜・楽器が賑やかに。タコの口から音符が吐き出されて。ズームして。巨大な宝箱。ズームして。宝石箱の手前には金貨が並ぶ。正面から。音符の右端にはタツノオトシゴやチンアナゴやニシキアナゴたちが。右手に後方でには「薔薇の園」が展開。10分間隔で開催されるショーが始まった。横60mの大型LEDビジョンと音のコラボレーション「グランビジョンショー」。そして、遠く右手には「竜宮城」の姿が。ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.16
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「青埴神社(あおはにじんじゃ)の枝垂イロハカエデ」を後にして、国道414号を南下し「道の駅 天城越え」に立ち寄りトイレ休憩。国道414号は、静岡県下田市から伊豆半島中央部を北上して、沼津市に至る一般国道である。静岡県伊豆市湯ケ島892−6。ご案内「「道の駅」天城越え」。敷地内には、昭和の森会館、売店『竹の子かあさんの店』『天城わさびの里』レストラン・お土産店『緑の森』などがある。売店『わさびの里』では、わさびの販売のほか、わさびの収穫体験やわさび漬け加工体験もできる。特に好評なのは、その場ですりおろしたワサビをたっぷりのせた『わさびソフトクリーム』。ワサビの爽やかな辛みと香りがバニラソフトの甘さを引き立てる、絶妙な美味しさだ と。緑地には女性ブロンズ像が。伊豆の国市の彫刻家山田収氏の「みどりのかぜ」と。裏にあった「わさび田」を訪ねた。わさび(山葵)の花は3月~4月白い可愛い花を咲かせるとのこと。さらに国道414号を南下し、道路の左斜面にあったのが「カメヤ自園わさび沢」。そして国道414号を右に折れ、山道を進み「滑川渓谷」に向かって進む。道が二つに分かれ、その分岐点からすぐ右に行ったところにあったのが、井上靖の文学碑「井上靖 猟銃碑」。碑はコンクリート製のブナ巨木2本にはさまれたみかげ石に、井上靖の実筆で「猟銃」の一部が刻まれていたようだ。静岡県伊豆市湯ケ島 滑沢渓谷。「井上靖 猟銃碑「「猟銃」は当代文学の巨壁井上靖が、郷里伊豆湯ヶ島を舞台に、孤独な一人の猟人の生を描いた珠玉の短編であり、事実上の処女作でもあった。時すでに彼の齢は不惑、人生の川床を歩くこの中年男の姿は、作者自身の内面を明かすかに見える。彼の天賦の才は、彼を物語作者として、漱石以来の名手とした。しかも彼の内なる志は、自らその才を擲ち、鷗外のごとく、述べて作らぬ歴史へと 向かわせる。しかも、少年期以来心に育てたシルク ロ-ドへの浪漫的憧憬は年とともに膨らみ、 東洋の理想を 説いた天心の衣鉢を嗣ぐ者たらしめ、底に燃ゆる詩魂の持続は、遙か若き日の藤村にも通い合う。言わば近代日本文学の最高の部分がここに集中し、一つの壮大絢爛の世界として花開いた。処女作に描かれた白い河床は、何時か蕩蕩たる大河となった。ふるさとびとら、一片耿耿の彼の志を慕い、併せてその源の一滴を永く記念し、天城の山々を背に、ここに一基の碑を建つると而爾。 昭和57年4月 山本健吉撰文」この周辺の黄葉は既に終わりかけていた。「太郎杉歩道」案内板。「太郎杉歩道本コースは踊子歩道から滑沢渓谷を経て太郎杉を結ぶ、約1.3km・所要時間約30分の歩道です。滑沢渓谷は安山岩の一枚岩でできており、渓流がまるで白布のごとく流れる様子は、まさに自然が創りだした芸術と言えるでしよう。ことに紅葉の頃となれば一層の渓谷美をみせます。」滝沢渓谷の流れを見る。岩のゴロゴロする渓谷。「滑沢渓谷・太郎杉この辺りより上流一帯が滑沢渓谷です。県指定天然記念物「太郎杉」へは、川の両岸どちらからでも行くことができます。」本谷川の白き流れを追う。「滑川渓谷:水流が磨き上げた自然の芸術谷を埋め立てた溶岩の上を流れるこの渓谷は、岩肌を美しく磨き上げ、夏には清らかな水の流れを、秋には岩肌に映える紅葉を楽しむことができます。 冷ややかな岩肌は、見るものによっては、井上靖が著書「猟銃」の冒頭で孤独 な男の心情と重ねあわせたその景色のように映るかもしれません。 滑沢渓谷と本谷川が合流する地点には「竜姿の滝」があり、そこから滑沢渓谷に沿って上流へと歩くと、静岡県の天然記念物にも指定されている古木「天 城の太郎杉」や、滑沢火山の噴火にともなう土石流の地層などが見られます。」岩肌も流石で磨かれて。本谷川の白き流れを様々なカメラ設定で追いかけたのであった。旅友の先輩も、最新のスマホで撮影。「竜姿の滝(りゅうしのたき)」落差3m2条+渓流瀑 別名を竜姿滝といい、滝の左側の岩が、川面につかった竜が鼻先を滝に向けて体をうねらせているように見えるのであった。白き流れをひたすら追う。現在地はここ。カメラ設定をいろいろ変えて。渓流がまるで白布のごとく流れているのであった。そして引き返す。「太郎杉➡」案内板。「太郎杉」の写真をネットから。樹齢は、推定400年以上、高さは約50メートル。静岡県の天然記念物。幹は苔むして。そして、さらに国道414号を南下し、河津七滝ループ橋を通過し、静岡県道14号線・下佐ヶ野谷津線にて河津町の海岸に出て左折し、国道135号を伊東市に向けて北上したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.15
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「修善寺」にあった「修禅寺」を後にして、国道136→414号を南下して次に訪ねたのが「青埴神社(あおはにじんじゃ)」。「JAふじ伊豆 狩野支店」の駐車場に車を駐めさせていただき散策開始。静岡県伊豆市青羽根138石鳥居を潜り坂道を上って行った。二の鳥居。手水場。その先、三の鳥居の右側にあったのが伊豆地方で最大の「県指定天然記念物:シダレモミジ」。100年以上前、伊豆市青羽根地区の小川家(屋号は松屋)の祖先より、自宅敷地内にあったものを寄進されたと伝わっているのだ と。「静岡県指定天然記念物青埴神社の枝垂イロハカエデ(昭和五十八(一九八三)年九月二十七日 指定)青埴神社の祭神は建御名方命で、明治三十九(一九〇六)年、合祀に伴い現在の社号となりました。「青羽根」の地区名は、もともと凝灰岩などが風化し、青色の粘土が多かった「青埴」という地名から変化したものです。イロハカエデは、ムクロジ料カエデ属の落葉高木で、イロハモミジの別名です。このイロハカエデは枝が垂れる品種で、樹齢は推定一八〇年~ニニ〇年、目通り1.9m、樹高4.5m、枝垂れの高さは7. 7mもあり当地最大のものです。紅葉の時期は多種よりやや遅く、その枝葉は四季それぞれの趣があります。 令和4年(2022)年3月 静岡県・伊豆市教育委員会」下部には「御神木指定証」が。石垣の上の「青埴神社の枝垂イロハカエデ」を見上げる。近づいて。三の鳥居の正面から。石段の左側にもやや小振りの「枝垂イロハカエデ」が。狛狗(右)。狛狗(左)。「本堂」に向かって石段を上って行った。この日の「枝垂れイロハモミジ」の色合いは、既にエピローグに向かっていたが、紅葉の最盛期には下記の写真の如くに とネットから。未だ緑の残る枝も。推定樹齢140~180年、県の天然記念物に指定されている青埴(あおはに)神社の「シダレイロハカエデ(枝垂れモミジ)」👈リンク。これもネットから。石垣を覆い隠す見事な枝垂れイロハカエデの紅葉。石段を上ると正面に拝殿。拝殿の挙鼻・龍折角の彫刻が電灯で隠されているのが残念!!拝殿の木鼻・獅子と象(右)。拝殿の木鼻・獅子と象(左)。拝殿前から「狩野ドーム(旧天城ドーム)」を見る。伊豆市にあるドーム型スポーツ施設。伊豆市の中でも1番大きく、バスケ2面、バレー3面、バドミントン10面、卓球12面も確保できる大型総合体育館。トレーニングルームもあり個人の利用にも適した体育館 と。推定樹齢140~180年のシダレイロハカエデ(枝垂れモミジ)を拝殿前から見下ろす。紅葉の葉をズームして。今年の色合いはやや黒ずんで残念。拝殿の前から、北東方向の伊豆の山々を望む。ズームして。「拝殿」の後ろには、天保8年1837(1837) 建造の一間社流造こけら葺本殿の覆い屋が。そして急な石段を下る。「県指定天然記念物:シダレモミジ」も見納め。そしてニの石鳥居に向かって境内を進む。振り返って。これでもかと。ニの石鳥居の先に社務所。一の石鳥居の先に「狩野ドーム(旧天城ドーム)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.14
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山門に向かって境内を進むと左手にあったのが「手水舎」。鬼瓦や欄間に彫られた龍が見事であった。「桂谷霊泉 大師の湯」と呼ばれ、龍の口から流れ出るのは、なんと温泉なのであった。「桂谷霊泉」とあるが、弘法大師が開創当初はこの寺は「桂谷山寺」と呼ばれていたと。「桂谷霊泉 大師の湯」。源泉かけ流しで、約60度とちょっと熱め。手と口を清めるための御手水ですが、修禅寺の場合、その場で飲むことも可能と。龍の口から出る温泉!!温度は熱すぎずぬるすぎずの適温。冬でも楽しく手、口を清めることができておすすめ。観光客からも人気がありペットボトルに入れて持ち帰る方もいたのであった。「洗浄偈以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢」と。【水を以て穢(けがれ)を滌(あら)わば、当に願うべし、衆生の、浄忍を具足し、畢竟無垢ならんことを】『水で汚れを流すにあたって、すべての生あるもののために願わん。忍耐の身心をもち、どこまても清浄ならんことを』 と。「手水舎」の奥にあったのが「温泉分析書」。ズームして。泉温 60.1℃知覚的試験 殆ど無色、透明、無味、無臭水素イオン第度(pH値) 8.6電気伝導度(EC値) 86.1mS/m蒸発残留物 0.512g/kg(110℃)そしてさらに山門に向かって境内側から進む。「百度石」。「お百度参り」による願掛けは、ここをくぐっては本堂に参拝することを百回繰り返して行ったのだと。「百度石」前から「山門」を見る。「山門修復寄付芳名碑」。山門の内側にある切り株上に祀られている石像、「双体道祖神」であろうか。その手前に奉納?されているものは?平成26年9月に修復された修禅寺「山門」を潜って、振り返る。「山門」の扁額は「降魔場(ごうまじょう)」 西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師書。西有穆山禅師は、江戸時代文政4年八戸湊町に生まれ、江戸後期から明治時代に活躍された名僧。永平寺西堂、可睡斎住職、大本山能登の総持寺独住三世、曹洞宗管長など、数々の要職を歴任され、明治天皇より勅持賜直心浄国禅師の号を賜っている高僧。小田原海蔵寺の月譚老和尚のもとに12年間修学し『正法眼蔵』を参究、明治33年横浜に西有寺を開き、同34年に能登総持寺に晋住、同43年、90歳で示寂された と。「降魔場」とは護摩を焚いて祈願する場所とのこと。多くの「千社札(せんじゃふだ)」が扁額の周囲に貼られていた。修禅寺「山門」の「仁王堂」におさめられた「金剛力士像」(阿形像)この金剛力士像は全国でもまれな藤原時代の作。一木彫りで像高は183cm、作者は不明。夜にはライトアップされるため、より迫力ある金剛力士像が見られるのだ と。昔の修禅寺は広大で総門まで約2km。金剛力士像はそこで寺を守護していたが、明治初め頃に総門が無くなり指月殿に安置されることになりました。その後、2014年に山門を改修した際、仁王堂が新設され、また山門で守護できるようになったという歴史があるのだ と。下半身を。横から。「木造 金剛力士像 阿形 平安時代後期作」。「金剛力士像」(吽形像)下半身を。横から。「木造 金剛力士像 吽形 平安時代後期作」。「山門」前から「桂川」方向を望む。左手に開基の「弘法大師」碑。右手に「献燈」碑。そして通常とは逆方向に「修禅寺」境内を散策し、石段を下りて山門を振り返る。再び「虎渓橋(あこがれ橋)」を渡りながら、「独鈷の湯」を見る。土産物屋「湯川修善寺屋」を訪ねた。店内には木材や竹、木彫りで出来た民芸品が所狭しと並んでいた。木製の面や木造物が。修禅寺宝物館の「頼家の仮面(死相の面)」に似て。木彫「文殊菩薩」。つるし雛が店頭・海鼠壁の前に。そして修善寺の最後に訪ねたのが「仰空楼(ぎょうくうろう)(筥湯横無料展望台)」。名前は文豪・夏目漱石の漢詩にちなむとのこと。文字の書かれた多くの竹筒があったが・・・???「仰空楼・筥湯横無料展望台」から、先程渡った桂川に架かる「渡月橋(みそめ橋)」を見る。桂川に沿って走る「修善寺戸田線」を見る。その先・写真左に「新井旅館」。明治5年創業、数多くの文人墨客に愛され多くの名作を生んだ純和風旅館。温泉は全て源泉掛け流し。荘厳な趣の大浴場「天平大浴堂」、渡りの橋、文人墨客にゆかりのある客室など15棟が国の登録有形文化財。「仰空楼(ぎょうくうろう)(筥湯横無料展望台)」の隣りにあったのが「筥湯(はこゆ)」。「筥湯の由来伊豆最古の温泉場として栄えてきた修善寺には、かつて川原沿いに九つの外湯がありそれぞれ浴客で賑わっておりました。しかし昭和二十年代には「獨鈷の湯」だけが残って往時を偲ばせるのみとなってしまい、再び外湯巡りを楽しんでいただくため、平成十二年二月に再建したのが筥湯です。鎌倉幕府の公的な史書である「吾妻鏡」などによりますと、元久元年七月十八日のこと、修禅寺へ幽閉中の源氏二代将軍頼家は北条氏の刺客に襲われますが、記述内容から入浴中であったとの定説になっておりますかつてこの付近にあった旧「筥湯」跡を旅館新築の基礎工事のため掘ったところ、古い湯殿跡が発見され頼家入浴の温泉ではないかといわれております。筥湯の語源はわかっておりませんが、筥とは竹などで編んだ丸い米盛り器のことで「箱湯」との記載例もあります。また修禅寺宝物館所蔵の江戸時代の古絵図によりますと、虎渓橋のたもとに「中の湯」があり「此處頼家公御入浴之地也」と書かれてあるところから、筥湯の旧名であり先に発掘された湯殿である可能性もあります。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.13
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そして「修禅寺」の境内へ西側から入る。正面に「六地蔵」が鎮座する祠が現れた。「六地蔵」。「修禅寺縁起この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教型式の堂宇が建ち並び、東国の真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期ともいうべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当たる承元4年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。その後、寛元4年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅額が下るほど修禅寺の名が中国に広がり、約二百四十年ほど臨済宗として栄えました。次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のため、自分の叔父に当たる隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に五百年を過ぎて今日に至っています。 (注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。大祭は毎年4月と8月、共に 20日21日の両日(弘法忌) 正式寺名 福地山修禅萬安禅寺 」。「鐘楼」。近づいて。「梵鐘」。昭和五年に発行された「修禅寺夜話」には下記のごとく書かれていると。(修禅寺夜話は、著者深谷博道氏・修禅寺出版発行の修禅寺の歴史を綴った冊子)。「明治七年の四月二十六日に、哀れや鐘が、身売りの憂き目にあいましたので、桂谷の明け暮れに鐘の音をきく事が出来なくなりました。」とあります。何らかの理由で、修禅寺から「ゴ~ン」という鐘の音が聞こえなくなって半世紀、「第三十七世大潤宗潭大和尚の発願によって、ついに現在の大梵鐘が新調され、感じの良い鐘楼が建立され、大正四年の三月七日から桂谷に鐘の音がよみがえって参りました。」と書かれているとのこと。「修禅寺 檀信徒会館」。檀信徒会館の入口の左右には様々なポーズで座る「十六羅漢像」が並んでいた(正面左側)。廻り込んでズームして。正面右側。ズームして。「檀信徒会館」の正面。扁額は「慈照閣」。その先の扁額「観月堂」。「檀信徒会館(慈照閣)」の内陣。ズームして。「賓頭盧様」であっただろうか。「弘法大師像」。「南無大師遍照金剛」の奉納のぼり幡が周囲に。真言宗のお経で、「南無」は「私は帰依する」を意味しており、「南無大師遍照金剛」の7文字で「弘法大師空海に帰依する」の意味になるのだ。お顔をズームして。こちらにも石仏が。そして「本堂」を見る。見事な「本堂」の瓦の造形。正面の唐破風の左右に「唐獅子瓦」、「鯱瓦」が。「本堂」の右にある松の根元に、大きな「達磨石(だるまいし)」があった。江戸時代後期に奉納された物であると。お顔をズームして。ここにも石仏が。巨大な銅製の灯籠(右)は黄色く塗られていた。巨大な銅製の灯籠(左)。扁額「修禅寺」。本尊の「大日如来坐像」の御姿が御簾の奥に。内陣の彫刻。「本堂」を振り返って。様々な御朱印を頂けるようであった。「観音様の御朱印」。「奥之院」の「御朱印」。「授与所」。「修禅寺 宝物殿」の壁には「宝物紹介」が貼られていた。「修禅寺 宝物殿」入口。修禅寺の貴重な寺宝を拝観することができる(入館料300円)。岡本綺堂氏の『修禅寺物語』が創作されるきっかけとなった古面も収蔵されている。この日は入場しなかったが「修禅寺に伝わる宝物の紹介」👈リンク をネットから。「前代の本堂」の鯱瓦。「前代の本堂」の唐獅子瓦。「宝物館」前に展示された「前代の本堂」の瓦。全長1m80cmあると。庫裏の前には見事な松の老木。「鐘楼」先の紅葉。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.12
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次の目的地は、前回2022年に訪ねた際に、訪ね忘れた「源範頼の墓」。「源範頼の墓」まで380mと。歌人「正岡子規」は、修善寺を訪れた際にこんな歌を詠んでいます。『此の里に 悲しきものの二つあり 範頼の墓と頼家の墓と』鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟の範頼(のりより)と、頼朝の嫡男・頼家(よりいえ)は、ともに修善寺の地で非業の死を遂げている。謀反の疑いを掛けられ諜殺された範頼の墓、鎌倉二代将軍となるも修禅寺に幽閉され暗殺された頼家の墓(指月殿👈リンク)、そのほか源氏にまつわる伝説や源氏ゆかりの史跡が修善寺にはいくつも残されているのであった。紅葉を楽しみながら進む。静岡県道18号線・修善寺戸田線を南に折れ、「竹林の小径」へ向かう路地の角にも石碑「竹林の小径」が立っていた。「源範頼の墓」は直進と。「源範頼に墓」まで70mと。源範頼は、鎌倉時代初期の武将で、河内源氏・源義朝の6男として、1150年頃に生まれた。異母兄弟に、源頼朝、源義経、阿野全成などがいる。兄・源頼朝が挙兵してから数年後、木曽義仲討伐の際には、鎌倉勢の大将となって活躍した。その後、平氏滅亡にも功績があり、武蔵・吉見などに領地も与えられた。源頼朝の側近である安達盛長の娘・亀御前を、正室に迎えている と。「源範頼の墓範頼は鎌倉初期の武将、源義朝の第六子で蒲冠者と呼ばれた。治承4年(1180年)に兄頼朝と義仲が対立したとき、弟義経とともに義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経を殺すよう命じたが、断ったため、頼朝から疑われるようになった。建久4年(1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修禅寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。」石段の上に「源範頼の墓」👈リンク が姿を現した。「源範頼の配流先が、なぜ修善寺だったかは分からない。だが、後に頼朝嫡男・頼家もこの地に流されたことから見て、鎌倉幕府が「幽閉の地」としていた可能性はある。推測に過ぎないが、範頼や頼家を遠隔地に幽閉すると、監視が行き届かないデメリットが生じたからではないだろうか。北条は、頼朝が京都から遠く離れた伊豆に流されたことで、監視の目を巧みにかいくぐった事実を目の当たりにしている。そうしたことを避けるため、あえて目の届く範囲に幽閉したとも考えられるだろう。」とネットから。手水場にはもみじ葉が。修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、源範頼の墓と伝わる祠があったが、明治12年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなった。「南雲正朗氏著『修善寺より 歴史と風土』(角川書店)はこの祠について、「古い文書に『石祠は八幡宮と称し八月十五日にお祭りする。鎌倉をはばかって八幡に擬祭した』」と記していると。鎌倉から見れば謀叛人のため、公に祀ることができず、修善寺の民は「八幡様」に擬装し、秘かにその死を悼んだという。」とこれもネットから。現在の墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたもの。五輪塔の形状の墓石。近づいて。隣に「從五位下參河守源範賴公墓」碑と。「蒲殿候(侯)碑」。源範頼は遠江国蒲御厨(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため蒲冠者(かばのかじゃ)、蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。その後、藤原範季に養育され、その一字を取り「範頼」と名乗る。治承・寿永の乱において、頼朝の代官として大軍を率いて源義仲・平氏追討に赴き、義経とともにこれらを討ち滅ぼす大任を果たした。その後は源氏一門として、鎌倉幕府において重きをなすが、のちに頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国に流された とネットから。その隣にも桂谷八十八ヶ所の八十一番の石碑御本尊は、千手観世音菩薩様。巡礼は、僧侶様方が四国霊場から、持ち帰った各地の土を、適地として選ばれた桂谷の八十八カ所に分けて埋めた温泉街や周辺の山道約28㎞を廻れば、四国霊場と同じご利益があると言われている。「桂谷八十八ヶ所第八十一番本尊 千手観世音菩薩玉のゆか、苔の窟も、変らじな、うつろいやすき、世とぞ悟れば」「桂谷八十八ヶ所第八十一番千手観世音菩薩西國綾松山白峯寺」弘法大師・空海の姿が刻まれていた。「北条義時ゆかりの地」。NHK「鎌倉殿の13人」で「源範頼」👈リンクを演じた「迫田孝也」さんをネットから。「現在地」はココ。「源範頼の墓」の東側にあったのが「茶庵 芙蓉」。 明治時代の日本家屋を利用したお休み処 と。「⬅順路48 桂谷 八十八ヶ所 標の道(八十二)」。温泉民宿「福井」の手前にあった神社。この神社の名は??2社が祀られていた。ピンクの薔薇の花。蔦の葉も紅葉して。蔦の名前は、樹木の幹や岩壁を「伝う」ようにスルスル攀じ登ることから名付けられた。漢名「蔦」は、「草冠」が大地を、その下にある「鳥」が空を表している。ツタは、地面から生え、どんどんツルを延ばして上へ空へと昇っていく様子を表しているのだ と。 南天の赤い実。小さな赤い実が、竹や松のお正月飾りにひときわ映える、「南天(なんてん)」。赤い実には咳を鎮める効果があることから、南天の成分を含むのど飴もあり、もしかしたら、南天といえばのど飴を連想する人も多いのではないでしょうか?南天は、古くから、「難を転ずる」の語呂から縁起のいいものとされています。現代でも、縁起物や厄除けとして、お正月飾りとして使われたり、松や竹とともにお正月の花として玄関や床の間に飾られることも。中国では古来、「南天燭」「南天竹」「南天竺」などの名前で呼ばれており、日本名の「南天」は、中国での名称を簡略化したもの。これが訛(なま)って「ナルテン」「ナッテン」「ナピテン」とも呼ばれるようになりました。ちなみに、南天燭の「燭」は、南天の実が「燭(ともし火)」のように赤く、南天竹の「竹」は株立ちが竹に似ているからこう呼ばれるようになった とネットから。その先に「馬頭観音」。左手が「修禅寺平和観音古道」。この坂を上っていくと「平和観音像」👈リンク があるのだ。カーブの場所にある石碑をズームして。この石碑には「南無阿弥陀佛 安政四丁巳年 八月日」と刻まれていたのであろうか。「千聖(せんしょう)の森」像。修禅寺の裏山が【千聖の森】と名づけられ、梅林までの森林コースが整備された と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.11
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「楓橋(かえでばし)」渡ると見えてくる「ギャラリーしゅぜんじ回廊」では、地元の写真家の写真や花々などを期間毎に展示し、写真展が開催されており、修善寺の四季の様子などを楽しむことができるのであった。この日は「豆州 修善寺」が開催されていた。入場料は無料で、屋根付きの回廊の如き壁に作品写真が展示されていた。様々なポスターも。「修善寺 虹の郷 もみじ ライトアップ2023.11.11~12.8 16:00~21:00」と。「竹林の小径 あ、竹が光ってる」。「修善寺 もみじ散策」。この日の我々の散策は正にこれ!!作品の説明、作者の名はなかった??「不動明王像」。「観音菩薩像」「修善寺」の仏たち。指月殿「釈迦如来坐像」。修復前の修禅寺の本尊「大日如来坐像」。「大日如来像」。「独鈷杵(どっこしょ)」を持つ「稚児大師」。「お湯かけ稚児大師」に似ていたが。横から。「五百羅漢」。「五百羅漢」。「修善寺 鐘楼」と紅葉。「修善寺庭園」。「修善寺 本堂」。「修善寺 山門」。「修善寺 本堂」横の紅葉。修善寺「秋季弘法忌」。「お焚き上げ」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.10
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そして様々な立て札が立つ小さな広場に出た。「しとどの窟(いわや)👈リンク治承四年(一一八〇)八月十七日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗上げをしたが、同年八月ニ十三日、石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を得たと伝えられている。 湯河原町」「源頼朝としとどの岩屋の由来源頼朝は14才の時父義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅じのなさけによって一命を助けられ伊豆の蛙が小島に流され平兼隆の監視によって二十年間をすごした。治承四年八月望仁王が平家討閥の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが八月一六日三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り伊豆の源氏に組する者たちを集め十九日伊豆を出発土肥実平を道案内で日金山を越え土肥郷(現湯河原町)に着いた。土肥実平の館勢総大将大庭景親三千余騎と戦ったが十対一の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ土肥実平の守護とみちびきによって土肥の椙山に逃げかくれ実平のお蔭で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。この岩屋に五日間かくれていた。その間食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。源平盛衰記に残っている 暫(ようや)くして敵も引揚げたので山から降りて来たら吾が家が盛んに燃えていた。この状況を見た実平は頼朝を勇気づけるため延年の舞を舞って慰めた。あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。この岩屋は関東大震災のため入口が崩れたが水は一年中湧いている。実平のお蔭で平氏を滅し鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、土肥会では昭和五十五年湯河原駅前に実平の銅像を建立した。このたび小沢進夫氏寄進によって案内板を建立した。 平成八年十二月吉日 桜郷史跡保存会」「箱根ジオパーク しとどの窟」案内板。「箱根ジオパーク しとどの窟しとどの窟は「土肥椙山岩窟」として、神奈川県で史跡文化財に指定されています。1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝(みなもとのよりとも)がこの地にあった窟に身を隠し、箱根権現別当(はこねごんげんべっとう)のもとに逃れた後、真鶴(まなづる)のしとどの窟から安房国(あわのくに)へ脱出したとつたえられています。また、「しとどの窟」の由来は、追っ手が「シトト」と言われる鳥が急に飛びだしてきたので、人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。しとどの窟周辺は箱根外輪山(はこねがいりんざん)の溶岩と火山砕屑物(かざんさいせつぶつ)(噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削れてできた洞です。」 「源頼朝と土肥実平石橋山の合戦にて大敗した源頼朝は、主従わずか8名で山中に逃れ、湯河原近辺を領地とする土肥実平、遠平親子の案内で洞窟や大木の洞に隠れて敵の追手をかわしました。土肥実平とは相模国の豪族、中村氏の出で、平安末・鎌倉初期に活躍した武将です。土肥郷(現在の湯河原町)を本拠としており、JR湯河原駅から城願寺の辺りに実平の館があったと言われています。この後、頼朝は実平が手配した小舟で安房国に渡って、再起を図り、敗戦の一か月半後である10月7日、大軍を率い堂々と鎌倉へ入りました。現在、湯河原駅前のロータリーには土肥実平とその妻の像が設置されています。■頼朝主従七騎源頼朝、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、安達藤九郎盛長、田代冠者信綱、土屋三郎宗遠、新開次郎忠氏の7人。土肥実平の菩提寺・「城願寺」👈リンク には、この7人の武者像が安置されています。なお、土肥実平の嫡男遠平は安房国へは渡らず、源頼朝の妻である北条政子のもとへ頼朝の安否を知らせに行ったため、七騎には含まれていません。」 以前に訪ねた、JR湯河原駅前の『土肥實平公並夫人像』。「神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地) 昭和三〇年十一月一日指定このあたりは、今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。[吾妻鏡」には源頼朝が治承四年(一一八〇年)八月一七日伊豆の蛭ヶ島に兵を起し、相模に入って土肥の館に集結、二十三日三百の兵で石橋山に陣し、大庭景親三千、伊東祐親三百の兵と戦って敗れ、二十四日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の山中に隠れ、二十八日真鶴から安房に向かったとある。この巌窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。」 平成十四年三月 神奈川県教育委員会」 「湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 昭和五十四年四月一日指定一、所在地 湯河原町鍛冶屋九五三一、所有者 吉浜財産区この観音像群は立像及び坐像六十一体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に中世以後近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永六年、元治元年、新(ら)しいもので大正一五年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものである。」そして階段を上り廻り込むと正面に「ししどの窟」が現れた。入口幅は20m弱、深さは10m弱程度であろうか。関東大震災でも崩壊したとのことであるので、頼朝はもっと小さな窟に身を隠したのであろう。天然の洞窟に並ぶ「土肥椙山観音像群」と呼ばれる20以上の石仏は厳かな雰囲気を醸し出しており、湧き水の流れる音や、苔むした岩石、夏でも涼しく暗い洞窟など、非日常を味わうことができるのだ。設定を変えてズーム。「土肥椙山観音像群」をカメラでさらに追いかけたのであった。最上部をズームして。窟の上部からは、湧水が滴り落ちていた。窟の内部。岩屋の入口は関東大震災(大正12・1923)で崩れてしまった、と。「南無阿弥陀佛」と。石仏にズームして。不動明王像か?円形の光背を持つ石仏2体を。手前の石仏は宝戟(ほうげき)を持って。名称は、宝戟のほかに戟鞘(げきしょう)、三叉戟(さんさげき)とも言われているのだ。宝戟は、両側に枝があり三股(三又)になっている。意味付けは「悪魔を打ち滅ぼす武器」ということのようだが三毒煩悩を降伏するための武器とされているとのこと。廻り込んで。様々な角度からこれでもかと。前田青邨(まえだせいそん)画「洞窟の頼朝 1929年 大倉集古館 重要文化財」。1180(治承4)伊豆で挙兵した源頼朝が最初の合戦である石橋山の戦いで平家方の大場景親・熊谷直実らの軍に大敗。そのとき、追手をのがれて主従7人がここ「しとどの窟」に身を寄せた場面。「前田青邨は甲冑をよく研究し、鎧武者の絵でよく知られています。平家を倒そうと治承4年(1180)に伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れた源頼朝主従が洞窟に篭っている場面を描いた。丸く固まって座る主従は、昂然とした表情の頼朝の辺りは明るく、周辺は暗く描かれ、緊密な画面になっています。頼朝の着ている赤糸威大鎧など、甲冑の表現も素晴らしく、武者たちの鎧の千切れた威糸や、矢のほとんど残っていない箙は戦いの激しさを示しています。この時従ったのは、土居実平、弟の土屋宗遠、足達盛長、岡崎義実、新開忠氏、田代信綱とされ、岡崎義実は70歳近くでした。」とネットから。 中央に源頼朝。そして「前田青邨 「洞窟の頼朝」 1958年」。「この作品も力のみなぎる武者群像になっています。画面奥の武者は孫悟空のような顔をしています。」とネットから。 俳優の小栗旬(39)が主演を務めたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では2022年2月13日、第6話が放送された。冒頭、「石橋山の戦い」(1180年)に大敗し、神奈川県湯河原町と真鶴町にある洞窟「しとどの窟(いわや)」に隠れたとされる源頼朝(大泉洋)を、謎の敵将・梶原景時(中村獅童)👈リンク が見逃す有名な場面が。大庭勢は頼朝を捜索。山内首藤(やまのうちすどう)経俊(山口馬木也)から「梶原殿、そこの茂みを見てきていただけますかな」と頼まれた景時(獅童)は、洞窟に隠れる頼朝たちを発見!!。景時は頼朝と目が合ったが、黙って立ち去った。味方には「こちらには隠れる所もござらぬ」と伝え、頼朝を見逃した。頼朝が「今のは?」と尋ねると、土肥実平(阿南健治)は「大庭配下の梶原景時にございます」。頼朝は「覚えておこう」と九死に一生を得た。義時は景時が石橋山の洞窟にいた頼朝を見逃した理由を尋ねる。景時「何故、助けたか。あの時、大庭勢は目と鼻の先にいた。にもかかわらず、わしの他は誰も頼朝殿には気付かない。そなたは、かのお人が天に守られていると申した。わしも同じことを感じた。殺しては、神罰を受けると思った。答えになっておるかな?」義時「佐殿の元に来ませんか?ご無礼いたしました」景時「刀は斬り手によって名刀にもなれば、なまくらにもなる。決めるは決め手の腕次第。御免」そして帰路の山道を、息を切らしながらもマイペースで急坂を上り、入口まで戻ったのであった。「幕山・南郷方面(幕山登山口)7,500m」 と。道路の反対側にあったのが「鳥獣之碑」。 そして「椿台駐車場」に向けて「城山隧道」を潜って。 ところでこの「しとどの窟」👈リンク しとどの窟は真鶴にも存在するのだ。土肥実平らとここ「しとどの窟」を出て真鶴に降りて、真鶴・岩海岸(岩海水浴場)にある「しとどの窟」にて一夜を明かし、舟で東京湾を横断して、安房国(房総半島)へ脱出したと伝わっているのだ。そして駐車場に戻り、再び初島、大島を望んで、この地を後にして帰路についたのであった。この後も、「椿ライン」をひたすら北に向かって進み、大観山展望台まで進む。しかし芦ノ湖、富士山の勇姿は完全に雲に隠れていたので、そのまま「箱根新道」を利用して 小田原市早川にある「漁港の駅 TOTOCO小田原」で海鮮丼を楽しんで帰ることに。 「漁港の駅 TOTOCO小田原」の入口には、巨大な「小田原提灯」 の姿が。「漁港の駅 TOTOCO小田原」。相模湾に面する小田原の豊かな漁場を表現し名付けられ、地元の定置網等で漁獲された新鮮な地魚や干物・蒲鉾などの水産加工品のほか、地元農産物などの提供等を通じて、人と人との交流の促進を図るとともに、小田原の誇る地域資源を広く発信していく場所 と。小田原が抱く自然豊かな漁業を表現し魚(とと)の宝庫から「ととこ」と名付けたとのこと。相模湾に面し種類豊富な魚介類が集まる豊かな漁場に面する小田原漁港、小田原魚市場。その漁港、魚市場から直送されるこだわった海の幸。また、ここでしか味わえない海鮮グルメを楽しめる と。「漁港の駅 TOTOCO小田原」入口。2階にあった「とと丸食堂」へ。悩んだが「まぐろのトロとろ丼」を楽しんだのであった。いろんな食感と味が一度に楽しめるまぐろの盛合せ。中とろ、ビントロ、ねぎとろ、赤身、漬けまぐろの5種を味わえたのであった。新鮮、肉厚、美味!!そして食後は2階にある売店内部を散策。サザエの生簀。甘エビ、ひいらぎ(柊魚)、味付数の子、たたみいわし。気になる「百花蜜」、「アカシア蜜」、値段が気になって・・・。 3階にあった「おさしみ天国・小田原海鮮ゴーゴー!!」 食べ放題コースもあると。そして1階も散策。「小田原漁港浜揚げ煮付け 大判金目鯛」。 カマスの干物であっただろうか。そして「新早川橋」から西湘バイパスを利用して、帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.02.09
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「益山寺」を後にして、次に向かったのは「修善寺」。「益山寺」から30分ほどで「修善寺」の「渡月橋」近くの有料駐車場に到着し、散策開始。「渡月橋」手前から「桂川」の清き流れを見る。「渡月橋」を渡る。「桂川には5本の橋が架かっており、5つ全ての橋を願いをかけながら渡ると恋が実ると言われている。橋にはそれぞれの別名があり、出会って、結ばれ、寄り添って安らきを感しるというもので、信じるか信じないかはあなた次第ですが、恋愛成就祈願には持ってこいの橋となります。①渡月橋(とげつばし) /別名:みそめ橋/良縁祈願②虎渓橋(こけいばし) /別名:あこがれ橋/恋愛成就③桂橋(かつらばし) /別名:結ばれ橋/子宝祈願④楓橋(かえでばし) /別名:寄り添い橋/結婚祈願⑤滝下橋(たきしたばし) /別名:安らぎ橋/夫婦円満」とネットから。「桂川」の下流側を見る。朱の欄干の「渡月橋」。上流側に見えたのが「虎渓橋(あこがれ橋)」。「虎渓橋(あこがれ橋)」をズームして。左折して静岡県道18号線を進むと右手に見えたのが、後ほど訪ねた「修善寺」の「山門」。伊豆・修善寺は、静岡県伊豆市修善寺に建立されている曹洞宗の禅寺。大同二年(807)に、真言宗の開祖である弘法大師空海によって開創された。建長年間(1249-1255)に臨済宗となり、応永9年(1409)の戦乱により、伽藍を焼失したが、その後、伊豆国を治めた北条早雲により再建され、現在の曹洞宗となったのだ。「修善寺」の山門前の「桂川」に架かる「虎渓橋(こけいばし・あこがれ橋)」。「桂川」の上流にあったのが「独鈷の湯(とっこのゆ)」修善寺温泉の中心を流れる、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯となる「独鈷の湯(とっこのゆ)」。大同2年( 807年)、修善寺を訪れた空海(弘法大師)が、桂川で病父を身体を洗う少年の親孝行の心に打たれ、持っていた仏具(独鈷杵)で川の岩を打ち雲泉湧き出させ、その湯に浸かった父親の病気がたちまち癒えたことで、温泉療法が広まったと言われています。「独鈷の湯(とっこのゆ)大同2年(807年)に弘法大使がこの地を訪れた時、桂川で病み疲れた父の体を洗う少年を見つけ、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵(どっこしょ)(仏具)で川中の岩を打ち、霊泉を噴出させたと言う。そして大師が父子に温泉療法を教えたところ、不思議なことに、父の10数年の固疾はたちまち平癒したと伝えられ、この後この地方に温泉療法が広まったという。いわいる修善寺温泉発祥の温泉で、伊豆最古のものいわれている(2007年で開湯1200年)。なお、現在は観光施設として管理されており、多くの方に見ていただくため、入浴はお断りしている。」修善寺温泉のシンボルとして、多くの観光客で賑わう「独鈷の湯」は、川中に突き出たその形状のために、豪雨の際に流れが阻害され、氾濫を引き起こす原因となりかねないとして、川幅の広い19メートル下流に移され、2009年7月に復活した。現在は観光施設として管理され、入浴はできませんが、以前は足湯を楽しむことができたが。弘法大師ゆかりの霊泉に浸かり、もの思いにふける温泉であると。「独鈷の湯」の名前の由来になった空海の「独鈷杵」は、1961年に、実際にこの「独鈷の湯」のすぐそばにある「修禅寺」の裏山から出土しており、現在、境内にある「宝物殿」にて公開されているとのことそして。下まで下りて「独鈷の湯」の近くへ。無色透明の「独鈷の湯」。「現在」の「独鈷の湯」前から以前の場所方向を見る。以前の「独鈷の湯」の写真をネットから。再び下流側の「虎渓橋(あこがれ橋)」を見る。「桂川」に沿った遊歩道を上流に向かって進むと石燈籠が。「独鈷の湯」を振り返って見る。遊歩道も紅葉の真っ盛り。人力車で老夫婦を案内。人通りは少なかったが。前方に「竹林の小径」への「桂橋(結ばれ橋)」が姿を現した。「桂橋(結ばれ橋)」。愛する人の子どもを授かりたい、元気な子どもを産みたいと願う人に と。願いをかけながら渡るとその思いが成就する と。耳に心地良い川音に包まれながら「桂橋(結ばれ橋)」を渡ると、上流に見えたのが「楓橋(寄り添い橋)」。「桂橋(結ばれ橋)」上から美しい紅葉を楽しむ。そして「桂橋(結ばれ橋)」を渡った先の右側が「竹林の小径」の入口。「竹林の小径」と。修善寺の町を流れる桂川のほとりにある遊歩道「竹林の小径」は、情緒あふれるフォトジェニックなスポット。この「竹林の小径」に生える竹は、「孟宗竹」(もうそうちく・もうそうだけ)と呼ばれる中国原産の竹で、何百種類もあると言われる日本の竹の中では、最も大きく成長する竹と言われている。孟宗竹の名前の由来は、三国時代の中国の呉に実在した、親孝行者として知られる二十四孝の一人である「孟宗」からきている。病を患っていたタケノコ好きの母が、初冬にタケノコが食べたいと欲するため、母のために雪の竹薮に分け入った孟宗でしたが、この時期にタケノコがあるべくもなく、困りはて涙を流しながら願いを込めて探し回ると、突然タケノコが生えてきて、母にタケノコを食べさせてあげることが出来たという逸話からきています。前方に人だかりが。「竹林の小径」は、1994(平成6)年から約3年かけて整備された遊歩道で、石畳が敷かれていた。竹林の中央には竹でつくられた円形のベンチが。若者たちが寝転んで空にカメラを向けて。私も見上げて。風にそよぐ笹の葉の擦れる音が心地よく、目を閉じて耳をすませたくなるのであった。竹林を見上げて。さらに「竹林の小径」を進む。前方右手に見えて来たのが「楓橋(寄り添い橋)」。「楓橋(寄り添い橋)結婚祈願桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡るとその思いが成就するとか・・・」「楓橋(寄り添い橋)」を渡る。「楓橋(寄り添い橋)」の上から下流側を見る。「楓橋(寄り添い橋)」の上から上流側を見る。「修善寺温泉観光ガイド」。「現在地」はココ。青空を背景に輝く紅葉を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.09
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熱海市内にあった「走り湯」を後にして、「熱海ビーチライン」~国道135号、そして湯河原市内を左折して静岡県道75号線を暫し進む。そして椿ラインに入り、箱根・大観山方面に急な細い坂道をウネウネと進む。「椿台駐車場」入口から、眼下に初島、大島の姿が確認できた。神奈川県足柄下郡湯河原町宮上。そして「しとどの窟」への入口にある「椿台駐車場」に到着。「しとどの窟(いわや) 徒歩20分➡」案内板。治承4年(1180)8月23日、石橋山の合戦に敗れた源頼朝は、郷土の英雄・土肥実平に導かれて、椙山(湯河原町の山中)に隠れ、この『しとどの窟』へ隠れた。この付近は、地域信仰の霊地で、窟に至る急な道沿いにも、数多くの石仏地蔵が安置されている。」昭和17年建立の『土肥郷椙山鵐ノ窟之碑』があった。石橋山合戦に敗れた源頼朝が土肥実平に匿われた「しとどの窟」はここから1Km程先にあったのだ。「土肥郷椙山鵐ノ窟之碑「源頼朝の志を天下に為せるは箱根外輪山南部の複雑なる嶺谷と土肥氏並源氏の爲に隠したる地と人とに依ること大なり。突兀(とつこつ)たる幕山鍛冶屋川の深渓遊?子この窟前に立ちて治承四年八月頼朝隠潜九死一生の故事を想起せすや予偶〃昭和十年二月此の地人士二十餘名と共に寒雨を冐し雑木荊蕀(けいきょく)を分ち之を踏査して感慨深きものあり仍て文を作ると云爾?昭和十七年八月廿三日 神奈川縣史跡調査委員 從六位石野瑛撰 箱根振興會」超訳すると【頼朝に天下を取らせたのは、箱根外輪山の複雑な地形と、土肥氏の功績である。そんな事を想起しながら昭和10年2月地元民20余人と茂みの中に入り調査し、その感慨深い思いをこの碑文とした。】と。そして「しとどの窟」入口への白銀林道を歩いて進む。「しとどの窟まで徒歩20分」 と。「城山隧道」が姿を現した。 城山隧道を潜ると、右手は地蔵信仰の霊地で、広場に石塔・燈籠・弘法大師石仏群があり、ここが「しとどの窟への入口になっていた。そしてここより先の白銀林道はゲートが閉鎖され通行禁止となっていた。「しとどの窟とは「源頼朝がこの岩屋に隠れようとしたとき、鵐(しとど)と呼ばれる鳥が舞い出た」あるいは、「大庭・伊東らの追手が岩屋を覗いたときに鵐が飛び出してきて人がいないと勘違いさせた」という言い伝えから「鵐ノ窟(しとどのいわや)」と呼ばれているのだと。前回、訪ねた時はここまで車で来たことを想い出したのであったが・・。廻り込んで。この先中央が「しとどの窟」への山路。左に「弘法大師像群之由来碑」、中央に「桜郷史跡碑」左手に「弘法大師石像」、右手に「子安地蔵尊」の社。 「弘法大師石像」に近づいて。「桜郷史蹟由来」案内板。 「桜郷史蹟由来箱根伊豆地方は、関東山伏発祥の地として日本山獄宗教史上有数の場である。随って、この地点一帯は、山伏たちの行場であった。殊に、この城山は土肥郷(湯河原)の豪族土肥氏城壁であり、治承4年8月24日、源頼朝の堀口合戦の古戦場で、この谷底の「しとど岩窟」は、その時の頼朝が隠れた遺跡であるために神奈川県文化財保護指定地であるが、また同時に山伏に関係する聖地でもある湯河原地方には、地蔵信仰・観音信仰の遺跡と共に、弘法大師を崇敬する大師信仰の遺跡が多い。ここに安置された弘法大師石像群は、かつて山麓に湮滅(いんめつ)されていたもので、これを世に出し、併せて付近の史跡顕揚の上にも永く益せん為に、この聖地に遷座したものである。」広場から九十九折れの急な山道を20分ほど下ると『しとどの窟』に達したのであった。現在、道は観光的に整備されていていたが、かなり厳しい坂道であった。「しとどの窟まで四〇〇百米」とあったが「〇〇」又は「百」は不要ではと。奉納された石灯籠が並ぶ急な下り坂を進む。この弘法大師石像は石祠から手前に出され、帽子が被されていたが、その目的は?弘法大師像は、山裾に散乱していたものをここに移設した と。行きはよいよい、帰りは・・・の急坂を下る。「しとどの窟まで一五〇米」と。 「しとどの窟」への木製案内板。 写真右手、大木の先からは、湯河原梅園からの旧山道、現登山道が合流するのであった。源頼朝一行はこの旧山道を上って来たのであろう。近づいて。長い下り坂が終わると、上り階段がはじまった。頼朝の推定逃走ルートをネットから。ー石橋山~箱根神社/ー箱根神社~真鶴~安房(千葉県)別のネットでは。逃走ルートは諸説あるのだと。逃走ルートが上図とは微妙に異なるのであった。この「しとどの窟」と「箱根神社」には立ち寄った事は事実のようだ。 こちらのルートでは、真鶴港の程近くにある「鵐窟(しとどのいわや)」でも身を隠したと明確に。 1180年(治承4年)8月17日、伊豆国で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、相模国へ軍を進めたが、8月24日、石橋山で大庭景親・伊東祐親らの平家軍に敗れてしまう。源頼朝の「石橋山の戦い」のからの逃亡については「吾妻鏡」に記載されているとのこと。これを、纏めたものをネットから。登山道に覆い被さる巨大な岩。その下の隙間にも多くの石仏の姿が。これだけでも修験者の行場の雰囲気に満ち溢れているのであった。廻り込んで。ここが窟かと思いきや、「しとどの窟」はもう少し先であった。 ・・・つづく・・・
2024.02.08
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さらに「熱海梅園」の梅の花を楽しみながら進む。 蝋梅の黄色い花。既に花のピークは過ぎていたが。そして「韓国庭園」手前の「足湯」に到着。梅まつりの期間中限定で毎日足湯を利用できるのであった。しばしベンチで休憩しながら、シャッターを押していたが、私も足湯に入ったのであった。湯温は44℃前後はあったのではなかろうか。あっという間に、私の足の膝下がピンク色に染まったのであった。「血の巡りが良い」と考えて良いのだろうか?「足浴とは、温めながら足を洗浄するケアのことで、身体の一部分だけをお湯につけて洗う部分浴のひとつです。病気やケガなどによって全身浴が難しい方に取り入れられることが多く、足先を清潔にする以外にも足のしびれや痛みを和らげる、血行促進、睡眠促進のために行われることがあります。足浴は、全身浴に比べて温熱作用や水圧による影響が小さく、身体への負担が少ないというメリットがあります。また、服を着たまま行えるため介護する側もされる側も羞恥心なく行え、全身浴に比べ介護の負担も軽減されます。寝たままの状態でも行える足浴は、介護度が重度の方のケアにも役立ちます。」 とネットから。そして次に訪ねたのが昨年12月上旬にも訪ねた「韓国庭園」👈リンク 。何と書かれていたのであろうか?左から「イン」、「ミョン」 、「ウィ」 、「チプ」 であろうが?「大門」を園内から。そして次に「中山晋平記念館」に向かう。途中にあった「歌碑」?「春の野に すみれ摘(つ)みにと 来(こ)しわれそ 野をなつかしみ 一夜(ひとよ)寝にける巻八ー一四二四 山部赤人」。【春の野にすみれを摘もうと来た私は、野に心をひかれたので一夜寝てしまった。】「立ちて思ひ 居(ゐ)てもそ思ふ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾(すそ)引き 去(い)にし姿を巻一一ー二五五〇 大蔵忌寸麻呂(おほくらのいみきまろ)」【立っては思い座っても思う。紅の赤い裳の裾を引いて去っていった姿を。】 「一本(ひともと)の なでしこ植ゑし その心 誰(た)れに見せむと 思ひそめけむ巻一八ー四〇七〇 大伴家持」 【一本のなでしこを植えた私のその心は、誰に見せようと思いたったのでしょう(貴方にお見せしたかったのです)。】そして「中山晋平記念館」👈リンク 展望台より。園内の売店には「梅抹茶」や様々なお茶が土産物として。「第80回 熱海梅園 梅まつり 行事案内」。 「熱海梅園 初川」は、現在はトイレのみであっただろうか?そして八分咲き?の「熱海梅園」を大いに楽しんだのであった。そして「熱海梅園」を後にして次に訪ねたのが、「うみのホテル 中田屋」。熱海ビーチラインから入り暫く進むと、左手への路地があり、小さな駐車場に車を駐めた。国道135号から山を下り辿り着く細い道もあるのだが。静岡県熱海市伊豆山604−10。「伊能忠敬測量隊御一行宿泊の宿」の碑。「うみのホテル 中田屋」は江戸時代後期の享和元年・1801年に創業。実測による日本地図を初めて作ったことで知られる測量家、伊能忠敬の測量隊が宿泊したとされている。しかしながら現在は閉鎖されているようであった。ネットには「相模湾を一望できる露天風呂や新鮮な海の幸を使った料理が人気で、2014年6月期は約2億2800万円の売上高を計上したが、過去に行った施設改装のための借り入れの返済などで経営が逼迫。2019年8月に営業継続を断念していた。」 と。以前は、走湯の目の前にあるこの「うみのホテル中田屋」浦に、「走り湯資料館」がありその歴史にふれることができるほか、走湯で作った温泉卵「走り湯御玉」が販売さていたが、これも現在は閉鎖されていたのであった。「伊能忠敬」像。江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人物。忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担った。第9次の測量1815年(文化12年)12月(旧暦)、忠敬は弟子11人とともに八丈島と伊豆七島を測量し、下田から伊豆東海岸を測量するの旅の中で熱海を訪れた。12月(旧暦)13日に網代、14日下多賀、15日、16日には熱海を測量し、それぞれ宿泊。17日に伊豆山に入り、18日から海岸沿いに小田原まで測量したのち、熱海に引き返し、熱海で年越しをするなど、約1カ月間滞在した。1801年にも熱海を訪れ、熱海本陣や網代、初島に宿泊している。江戸時代に初めて日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬測量隊の一行が、熱海に合計で45泊していることが分かった。測量隊が最も多く宿泊したのは本土では岡山の64日が最高で、北九州、熱海、下田の順だったといい、「熱海には本土では3番目に多い45日宿泊し、地図の製作や温泉で旅の疲れを癒したと思われる」と。第9次測量のルート図(赤線)をネットから。文化12年4月27日総員数11名で江戸出発。藤沢、小田原、下田街道(三島、韮山、天城、下田)へ。伊豆七島(三宅、八丈、漂流して三浦、御蔵島、三宅、神津島、新島、利島、下田、大島)、下田に戻る。ただし、伊豆七島の測量には、伊能忠敬は高齢もあり、唯一参加しなかったのだと記憶しているが・・・。右手にあったのが「伊豆山温泉 走り湯」の案内柱。その先には16段の石段が。「日本三大古泉 走り湯」。「走り湯」案内板。「走り湯(はしりゆ)この温泉は今から約一ニ〇〇年前に発見されたと言われている全国でもめずらしい横穴式源泉です。山腹から湧き出た湯が海岸へと飛ぶように走り流れ落ちるさまから「走り湯」と名づけられました。また、「伊豆」の国名が走り湯の「湯出」(湯出ずる国)に由来するとも伝えられています。湧き出す湯が病を治し長寿に効験があるとされ、古くから神格化し信仰の対象としておりました。この山の手に位置する「伊豆山神社」は江戸時代まで「走り湯山・走湯権現」とよばれ源頼朝が信奉し、源氏再興の基を作ったとして歴代鎌倉将軍の信仰をあつめました。鎌倉時代以後は、ニ所詣(走湯権現・箱根権現の参詣後に三島大社も加えられる)が普及して、武家や東国に下向する公家等が参詣に訪れました。室町時代には文人・高僧や各階層の旅行者が湯治を兼ねて訪れ、江戸時代に入ると熱海に湯治に来た諸大名が参詣の折に必ず走り湯の見物をして帰ったと言われ、「大湯」とともに熱海の名を広く世に知らしめました。鎌倉三代将軍源実朝はニ所詣での折に走り湯にて次の三首の歌を詠んだといます。「わたつ海の なかにむかひで いづるゆの いつのお山と むべもいいけり」「はしるゆの 神とはむべそ いひけらし はやきしるしの あれはなりけり」「伊豆の国 山の南に いずる湯の はやきは神の しるし なりけり (金槐和歌集)」走り湯内部案内図。幅約5尺(1.5m)、高さ約5尺3寸(1.6m)の隧道の奥に「走り湯」の湯口がある。養老年間(717年~724年)当時、1日約七千石( 1分間に約900リットル)が湯滝となリ奔流となって海岸に流れていたと言われている と。「伊豆山神社参道「いまむかし」」案内板。「伊豆山神社参道「いまむかし」現在の伊豆山神社の参道は837段のコンクリート製階段が確認されていますが、昭和30年代初期までは写真にあるとおり浜石の石段でとても情緒的で壮観であり又、その石段は海から神社本殿まで繋がっていました。現在ではコンクリート製階段の下に写真の浜石の石段がほとんどの部分眠ってしまっています。時代の流れの中で浜石の参道は姿を変えてしまいましたがそこから見られる雄大な相模湾や沖に浮かぶ初島などの景色は平安の頃より変わらぬ表情を見せてくれています。悠久な時の流れの中で、偉大なる先人たちが国家の安泰、国民の幸せを願いながら歩いた参道を、あなたのその足で歩いてみてください。かって源頼朝と北条政子に運命の導きを与えた伊豆山の大神があなたにも微笑みかけてくれるかもしれません。」「江戸時代の伊豆山神社参道」(右)と「現代の伊豆山神社参道」(左)「江戸時代の伊豆山神社参道」(右)をズームして。伊豆山神社参道について当、伊豆山神社はその参道のほとんどが階段であることから「歴史の証人になりませんか」の呼びかけで多数の参加者によリ平成22年2月14日に神社参道階段の段数調査が行われました。1、神社参道を、伊豆山浜から神社本殿前までとする。1、踊リ場の長短かかわりなく1段、段の高低にかかわらず段のあるところは1段とする。1、宮下で横断する市道の段差は、階段としない。浜から本殿前まで837段あったと。「逢初坂(あいぞめざか)」碑。国道135号の伊豆山郵便局の西から南西に下り、さらに狭い石段を複雑に曲がりながら海岸近くまで。坂下近くに“走り湯”の源泉がある。Aizomezaka走り湯~逢初橋 Hashiriyu Hot Spring—Aizome Bridge200m 200meters 逢初地蔵 Aizome Jizo Buddha走り湯の源泉 Wellspring of the Hashiriyu Hot Spring走湯神社 Hashiriyu Shrine海浜プール Kaihin Swimming Pool花火大会 Fireworks Festival 仲秋名月歌会 Autumn Moon Poem Festivalさざえ祭り Top- shell Festival伊豆山神社例大祭 lzusan Shrine Mein Festivalこちら中央は「役小角(えんのおづぬ)という仙人の石像」。走り湯は、この役小角が見つけた源泉だというエピソードが残っているのだ と。「役小角」は、鬼神を従わせる力をもつ仙人であったが、その優れた力をもつあまり、都で好き放題していたのだと。「走り湯と役行者(えんのぎょうじゃ)」と「役行者」 案内板。 「走り湯と役行者(えんのぎょうじゃ)伊豆山の海岸の洞穴から熱いお湯が海に向かって流れ出ているのを知っていますか。昔は、もっともっと勢いよく、走るように流れ出ていました。それで「走り湯」と名付けられています。この「走り湯」には次のような話が伝わっています。昔、文武天皇のころ(西暦699年)役行者という仙人がいました。この仙人は、鬼神を使って、水を汲んだり、薪を割らせたり、掃除をさせたりする事ができました。そんな力のある役行者は、しだいにわがままになり都で自分勝手の振る舞いをして、都を騒がせましたので捕らえられて伊豆の大島に流されました。その役行者がある日、大島から伊豆の方を眺めていますと、伊豆の山の上に五つの色をした煙が出ているのを見つけました。不思議に思った役行者は、波の上を渡ってきてこの「走り湯」を見つけたという事です。役行者は、この「走り湯」の近くに草で小さな家を作り、滝のように流れるお湯にうたれながらさらに修行して立派な仙人になったという事です。役行者が罪を許されて都に帰った後も日本中の行験者(山にこもって修行する人)がここに集まって修行したので「走り湯」の名前は広く知れわたりました。(あたみの民話と伝説、むかしこんなはなしがあったとさ)より役行者七世紀後半の山岳修行者。本名は役小角(えんのおづぬ)役優婆塞(えんのうばそく)とも言う。日本の山岳宗教である修験道の開祖として崇拝され、江戸末期には神変人菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)を勅賜された。多くの奇跡が伝えられるので、実在を疑う人もあるが、「続日本紀」文武天皇三年( 699 )5月24日条に、伊豆島に流罪された記事があり、実在したことは確かである。多くの伝記を総合すれば、大和国葛上郡茅原郷に生まれ葛城山に入りやがて陰陽道神仙術と密教を日本特有の山岳宗教に取り人れて、独自の修験道を確立した。そして吉野金峰山や大峰山、その他多くの山を開いたが、保守的な神道側から誣告(ぶこく)されて、伊豆大島に流された。この経緯が葛城山の使役や呪縛(じゅばく)と伝えられたものである。彼が積極的に大陸の新思想や新呪術を摂取したことは、新羅(しらぎ)や唐に往来したとする伝承にうかがうことができ、その終焉も唐もしくは虚空(こくう)に飛び去ったとされている。」「役小角」をウィキペディアから。そして「熱海市指定文化財 史跡 走湯温泉跡 指定 昭和五十二年四月ニ十五日」「日本三大古泉「走り湯」ご見学のお客様にお願い。走り湯洞窟は、走り湯源泉所有者(走り湯温泉組合)によリ洞窟に温泉送湯しております。温泉湧出口には温度70℃毎分100リットル以上の温泉が常時流れています。洞窟内は大井も低く狭い構造となっています。高温多湿で視界も悪く滑りやすいので事故の無いように十分ご注意いただき自己責任にて安全にご見学されますようお願いいたします。ご注意●天井や突起物への衝突・足元の滑り・踏み外し・つまづきによる転倒にご注意下さい。●温泉湧出口・湯道・照明器具・木柵には触らないでください。火傷の原因となります。」熱海伊豆山走り湯温泉、四国松山道後温泉、神戸六甲山有馬温泉が日本三大古泉 と。「史跡 走り湯 昭和五十二年四月ニ十五日 市指定この温泉は、奈良時代の養老年間に発見された全国唯一の横穴式源泉である。往時は一日約七千石(1分間に約900リットル)の温水が湯滝となり奔流となって海岸に流れてたといわれている。古くから霊湯とされ、火山や温泉湧出に対する自然信仰から生まれた伊豆山神社と深いかかわりをもち「走り湯権現」とよばれていた。いずれも日金山を背景に、山伏の修験の地として発展した。源頼朝は、治承四年(一一八〇)八月の旗揚げ前から、伊豆山権現を信奉していた。平家滅亡後まもなく「二所詣:にしょもうで:」と言って、伊豆山権現、箱根権現を参詣した。のち三島明神も加えられて、政子や実朝もこれを行った。明治の初め、皇室の御料温泉となり、伊豆山温泉発祥の源泉として、観光開発に貢献した。しかし、昭和三十九年源泉の多掘の影響をうけて枯渇したが、昭和四十五年増掘によって復活した。三代将軍・源実朝は、二所詣の折、ここで次の三首の歌を詠んだと金槐和歌集に載っている。わたるうみの なかにむかひて いづる湯の いづのお山と むべもいひけりはしるゆの 神とはむべそ いひけらし はやきしるしの あればなりけり伊豆の国 山の南に いづる湯の はやきは神の しるしなりけり(表記は国歌大観による) 昭和六十一年三月 伊豆山走り湯温泉組合 熱海市教育委員会」「日本三大古泉「走り湯」ご見学のお客様にお願い。走り湯洞窟は、走り湯源泉所有者(走り湯温泉組合)の手により洞窟に温泉送湯しております。洞窟には温度70℃、毎分100L以上の温泉が流れています。洞窟内は狭く、温泉蒸気により蒸し熱く、視界も悪くなっております。どうそ安全にこ注意頂き、ご見学下さいますようお願い申し上げます。(狭いです 頭上・通路通行安全にこ注意ください、温泉湧出ロ、温泉路(湯道)の温泉、洞窟内照明、柵等には触らないでくたさい、やけど等の事故が発生する事があります.洞窟内の事故につきましては責任を負いかねます。) 走り湯温泉組合長」 「走湯温泉湧出口」 と。「走湯」碑。 「走り湯入口」入口まで行くと、もうもうと湯気が立ち込めていて、明かりが灯っていても内部の様子が良くわからない。こちらの洞窟は高さがおよそ150~160センチくらいであろうか、あまり高くないので、少し背を屈まないと入れなかった。ムッとする熱気が既に溢れていた。温度は70度位の湯が沸いているそうなので中はけっこう湯気で満たされていて正直なところカメラには心配な環境。もちろん我が眼鏡もアッという間に曇ってホワイトアウト状態に。よってメガネをオデコにして一気に入って出てこようと!!そして蒸気朦朦の中を進む。レンズを拭いた瞬間にシャッターを押す。前方がよく見えなかったが。大きな目幅の格子が湯源にはあるのであった。近づいて!!。しかしあっという間にレンズが曇って!!以下2枚の写真はネットから。現在は下記の写真のようになっているらしい。そして急いで外に出てメガネを拭き「走り湯起源」案内板を。「走り湯起源」。この温泉は今から1200年前に発見されたと言われている全国でもめずらしい横穴式源泉です。山腹から湧き出た湯が海岸へと飛ぶように走り流れ落ちるさまから「走り湯」と名づけられました。699年(文武3年) 7月1日(旧暦5月25日)に、役行者小角(えんのぎようじゃおづね)は、朝廷の役人に護送され配流の地、伊豆大島に配流になったがじっとしていることができす島を抜け出しては浜辺を歩きまわり、富士山をはじめ近辺の山々を踏破しました。あるとき、伊豆山海岸から五色(赤白黄青黒)の湯煙があがっているのを目にした小角は、海岸に上陸し走り湯の近くに草ぶきの小屋を作り、湯滝を浴び、日金山や岩戸山に登り、神仏に祈る修行をし、その際「無垢霊湯(むくれいとう)、大悲心水(だいひしんすい)、沐浴罪滅(もくよくざいめつ)六根清浄(ろっこんしようじよう)」と書かれた金色の文字が霊湯と共に流れ出たと言われいます。この意味は、「これは、無垢の霊場である、菩薩の大きな慈悲の水である、この場に沐浴すれば罪が滅び、六根生ずる六つの感官、眼・耳・鼻・舌・身・意の総称〉が清らかになる」ということです。役行者がきたことがきっかけとなり、伊豆山に山岳修行者(修験者)たちが集まるようになりました。当初は日金山を中心に修行者たちが集まっていましたが、次第に人が増えるにつれ水の便が悪いことから、山を下り里に近いところに修行場所を移し、一時期は七尾の本宮跡になっていたところが中心となっていったようです。やがて今の伊豆山神社がある場所が中心となり、伊豆山を天に昇るめでたい龍に例え、富士山から入った龍が日金山から岩戸山までを〈胴体〉伊豆山権現の場所は〈目〉現在の浜町内にある花水〈鼻〉走り湯が〈口〉で呼吸をしており、富士山まで繋がっているという信仰が生まれた。」「走り湯と宇佐美ー多賀火山群「珍しい横穴式源泉走り湯は伊豆山の山腹に湧いた温泉で、珍しい横穴式の源泉をもちます。今から約1000年前に発見され、山腹から湧き出た湯が海岸へと飛ぶように走り流れ落ちる様子から「走り湯」と名付けられました.現在は洞窟の中に送湯管で温泉を送って、かっての様子を再現しています。走り湯から837段の階段を上ると、伊豆山神社の本殿に至ります。「走り湯が湧くしくみ走り湯の周辺の大地は宇佐美-多賀火山群の火山活動による噴出物の地層でできていて、この地層中から温泉が湧き出しています。火山が活動したのは今から70万~ 50万年前頃と考えられますが、その余熱によって温められた地下水は温泉となって地上に届けられています。「走り湯と伊豆山信仰海岸近くの洞窟から熱泉が走るように湧出する特異な現象に畏敬の念を抱いたことが走り湯信仰のはじまりとされ、平安時代の終わり頃にはすでに著名な霊験所の一つに数えられていました。伊豆山を含む伊豆半島の山岳地域は修験道の修行場となり、走り湯は山伏が山へ入る前に沐浴をおこなう重要な場所でした。」 ここは「走り湯の足湯」であったが、現在閉鎖中。高さ6mの所にあるので、足湯に浸かりながら、伊豆山港、初島、そして運が良ければ房総半島などを眺めることができるのであったが!!写真はネットから。次に「走湯神社」を訪ねた。これは「河津桜」であっただろうか。以前に訪ねた時は、改築工事中で社殿の姿はなかったが。新たな「走湯神社」の御本殿。この「走湯神社」は伊豆山神社の境外社である。御祭神は天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.07
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「中山晋平記念館」の裏庭の塀には西条八十作詞、中山晋平作曲の「熱海ぶし」👈リンク の楽譜が彫ってあった。『♪♪伊豆のあたーみーーか伊豆のあたみか あたみのー伊豆かーオサーヨイトサノセー♪♪』。右側には「熱海梅園」の梅の姿が。このラッパ状の黄色い花をたくさん咲かせていた花の名はキバナアマ(黄花亜麻)。下の写真は入口近くに咲いていたもの。「黄花亜麻(キバナアマ)ヒマラヤの原産十一月なかばより咲き始め三月中旬まで咲きます。茎が筒状で表面が麻のようです。」「中山晋平記念館」を後にし、入口方面に向かって進むと右側にあったのが「根なし梅」。この近くの梅は未だ蕾。「根なし梅野梅性の実梅(長束・ナヅカ)の一種で、昭和四十七年の台風により倒れかけていたものを起こしたもので、その際根元が半分幹から裂け、上半の根元は根が切れてなくなったことから「根なし梅」と呼ばれてる。」左側にあったのが「供養梅」。「供養梅有難や 熱海栄えの 人柱熱海の今日の繁栄は東海道線丹那トンネル開通に起因するといわれておりますが、この梅の木の直下で大正十四年の丹那トンネル工事中落盤事故により十七名の殉職者がでました。これを含め昭和九年の竣工まで六十七柱の尊い犠牲者に対し(敬虔なる)感謝の意を表し、昭和三十五年ここに梅の木を植え、供養梅と名付け市民の意を体し顕彰したものです。」「石割り榊」「月光は 流れに砕け 河鹿なく 羽多野光雨(はたのこうう)」。真っ直ぐ進むと正面ゲートへ。再び紅葉を追う。この正面ゲートへの初川沿いの路は、紅葉のプロローグはこれから?紅葉鑑賞には緑も必要!!「常盤木羊羹店」。お茶を御馳走になりました。「鶴吉羊羹」と。梅ようかん。フルーティーで上品な味わいが特徴とのこと。「雙眉橋」を再び見る。これぞ「熱海梅園」の紅葉が続く。中国人用の「熱海梅园指南」と。左手奥にあったのが「雨宮敬次郎翁碑」。「軽便鉄道の創設者 雨宮敬次郎翁碑甲州の人 雨宮敬次郎翁は資性豪邁にして不言実行の人 翁はことの外熱海を愛し明治四十四年一月二十日病を得て此の地桜ヶ丘の別荘にて逝く。享年六十六才。翁は熱海をこよなく愛し熱海の街の発展を思うことから「熱海ー小田原」間の人車鉄道 軽便鉄道の開拓にのりだし困難を排除して遂に実現させたのであります。今日の熱海伊東線・東海道線開通の糸口も翁の先見性と絶大な努力がなかったならば熱海の今日の発展はなかったでありましょう。もって翁の恩恵が熱海のためにいかに大きなものであったかをうかがい知ることができるのであります。因みに翁の生家は山梨県東山梨郡奥野日村です。」この路線は、少なくとも「人車鉄道」なる、人間が客車を押すという際だった特徴を持つ鉄道の中では、全国一有名なものと。人道鉄道・豆相人車鉄道👈リンクは明治29年(1896 )に小田原~熱海間に開通した鉄道(下記緑で示された線路)で、4~6人を乗せた客車を2~3人の人夫が押して走るものであった。そして明治40年(1907 )、人車鉄道は蒸気機関車の軽便鉄道に変わったと。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より「熱海鉄道の軽便列車」。 【http://yamaiga.com/rail/zusou/main.html】より2020年に根府川の「おかめ桜」を愛でに行った際に第2会場の『離れの宿星ヶ山』にあった「人道鉄道・豆相人車鉄道」👈リンク の写真。「中山晋平先生追憶の碑」。「中山晋平先生追憶の碑について明治20年( 1887年)長野県に生まれ、明治45年( 1912年)東京音楽学校一現東京芸大)卒業。今向名曲として伝わる「カチューシャの唄」でデビュー以来歌謡曲ては独特の「晋平節」を確立。多くの劇中主題、童謡、新民謡を作曲した。昭12年( 1937年)以来熱海市西山に住居、熱海に関する数々の作曲をされた。「熱海節・熱海とろりこ・梅祭りの唄・丹耶トンネルの唄・熱海第一小学較校歌(熱海国民学校)」がそれらてある。代義的な歌曲としては、島村抱月と相馬御風の「カチューシャの唄」北原白秋の「さすらいの唄・別れの唄」吉井勇の「ゴンドラの頭」等でその後「東京音頭・船頭小唄・波浮の港・東京行進曲・銀座の柳・雨降りお月・諸城寺の狸囃子・てるてる坊主・あの町この町」等々数多くの名作を残し、その数3000曲を超える。昭和27年(1952年)12月30日、熱海市西山で逝去。没後西條八十先生を会長とする中山晋平顧彰会を中心に昭和36年(1961年)1月建碑・碑面には「熱海節」の譜を理め込み、「熱海の風光を愛しここに不朽の名曲を生めり中山晋平追憶碑・西條八十誌」と彫りこんである。」元熱海市長の「小松勇次像」。「澤田政廣」の作品であると。「石乗りもみじ」。「全国梅サミット記念植樹水戸市・安中市・越生町大梅市・小田原市・岐阜市田辺市・南部川村・岩国市武雄市・人吉市・熱海市 平成八年二月八日」「’96全国梅サミット宣言1996年2月1日、”梅”を共通の資源と考える市町村が日本全国からここ熱海市に集い、寒に耐え、新春を彩る”梅”をキーワードとして次のとおり宣言を行いました。1 梅が香る我がまちを愛します。2 梅に始まる日本の四季を尊びます。3 梅に集う多の人を歓迎します。4 梅を住民のやすらぎに生かします。5 梅を愛でる心の文化を広めます。6 梅を仲立ちとする友情を大切にします。」再び初川沿いの流れを追う。「もみじまつり 熱海海上花火大会」ポスター。そして「熱海梅園」入口前の「梅園 観光熱海」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.07
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次に訪ねたのが「中山晋平記念館」。「てるてる坊主」「肩たたき」「シャボン玉」などの作曲家。当記念館は大正初期から、大衆音楽普及に大きな足跡を残した著名な作曲家中山晋平を偲び、中山晋平が居住していた別荘を移築し保存しているのであった。建物は、1944年に東京より戦災を逃れ疎開し移り住んだ、熱海市内の西山町に1935年に建築されていた別莊を移築したもので、終の住処として、1952年に没するまでこの家で生活を続けていたと。主屋の西側に玄関棟が設けられていた。「いにしへに 恋ふる鳥かも弓絃葉(ゆづるは)の 御井(みゐ)の上より 鳴き渡り行く」「弓削皇子(ゆげのみこ)」が「額田王(ぬかたのおほきみ)」に送った歌。過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます と。 「弓削皇子」は天武天皇の第六皇子で長皇子の弟。この歌は持統天皇が吉野の宮に行幸された時に同行した弓削皇子が、大和(藤原京でしょうか)にいる額田王に贈り与へた一首です。この鳥は不如帰(ホトトギス)のことで、中国の古事に蜀の望帝が退位後に復位しようとしたが死んで叶わずホトトギスとなり、「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いているのだという伝説をもとにしてのものだそうですが、その故事と天武天皇の在世当時の昔を偲ぶ想いを掛けて詠んだ歌かと思われます。天武天皇が生きていらっしゃったあの頃にはもう帰れないのだろうとの寂しい想いとともに、天武天皇にゆかりの多い吉野の宮で、亡くなった天皇の魂を慰めようとする鎮魂の意思も感じられますね。あるいは望王の古事のように、弓削皇子は鳴きながら吉野の空を渡り行く不如帰に父である天武天皇が「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている姿を感じ取ったのかも知れません…」とネットから「中山晋平記念館」案内板。「中山晋平記念館入口門」を敷地内から。建物は木造二階建て、屋根は入母屋造銅板葺で、各階とも南・東面は一面ガラス張りになっていた。玄関内部。柱やそれに繋がる横柱に皮付丸太を使用し、数寄屋風としているのだった。バラの花が迎えてくれた。こちらは白いピアノ。西条八十・中山晋平がこのピアノで熱海節を作詞作曲した(昭和初期熱海で最初のピアノ)。「日本の歌謡史に偉大な足跡を刻んだ作曲家 中山晋平 明治20年(1877)3.22~昭和27年(1952)12.30」作曲家。長野県生れ。教員生活1年ののち明治38年( 1905)上京。島村抱月家の書生を務めながら、明治45年(大正元年・1912)東京音楽学校本科器楽部(ピアノ科)卒業。小学校教員となる。大正3年(1914)抱月主宰の芸術座公演<復活>(松井須磨子主演)の劇中歌<カチューシャの唄>(抱月・相馬御風作詞)を作曲して好評を博した。つづいて同座公演の劇中歌<ゴンドラの項>(吉井勇作詞、1915)、<さすらいの>(北原白秋作詞、1917)などを作曲、一躍名声を得た。以後、野口雨情の詞によるく船頭小唄〉(1921)、(須坂小項〉(1922 )、<波浮の港>(1924)、時雨音羽の詞による<出船の港> (1925)、く鉾をおさめて>(1926)、西条八十の詞による<東京行進曲>(1929)、東京音頭(1933)などヒット曲を生み出した。また<證城寺の狸囃子><砂山><てるてる坊主>などの童謡でも親しまれた。昭和3年(1928)以後ビクター専属。昭和23年(1948)から日本音楽等作権協会会長を務めた。没後「中山普平記念音楽賞」が設けられた。作品総数は3,000余曲に及び、曲集として出版されたものに<中山晋平集>(1952 )、<中山晋平作曲全集>(童謡篇上下2巻、1956。新民謡篇1巻、1963)がある。彼は鋭い感覚で日本民謡の特徴を把握し、音階、リズム、日本語の扱い方などにそれを活用して、独特の明快な日本的・庶民的な歌のスタイルを作り上げ、「普平節」といわれた。童謡運動や新民謡運動に重要な役割を果たし、日本近代の大衆歌曲の道を開き、そのスタイルを確立した。」「中山晋平年譜」👈リンク。「中山晋平記念館」間取図。玄関から上がり左に折れた玄関棟西側の和室は、広さ4畳半とこじんまりとしていた。中山晋平が使用していたピアノや蓄音機が展示されていた。このピアノは、中山晋平先生が昭和27年12月、熱海で逝去されるまで愛用されていたもの。このビアノは、中山普平先生が昭和27年1 2月、熱海で逝去されるまで愛用されていたものです。「明治12年(1879)ニューヨーク・コーラー・アンド・チェイス社製で、大正8年~10年ごろ購人されたものです。」このピアノから生まれた曲は今でも歌い継がれている「船頭小唄丿(大正10年)、」「しゃぼん玉」(大正10年)、「波浮の港」(大正13年)「あの町この町」(大正13年)「東京行進曲」(昭和4年)、「東京音頭(昭和8年)等々で数多くの名曲が残されております。 ※大変貴重なビアノです。」そして蓄音機。「カチューシャの唄」👈リンク の楽譜の掛け軸。長野市松代町清野947の林正寺境内にある松井須磨子演劇碑の拓本であると。「かみにねがーひを(ララ)かけーませうか」「中山晋平」の写真。「中山晋平」の写真がいろいろと。8畳間前の縁側。縁側の歪みのある大正ガラス?が。1階の茶の間。 妻・嘉子(新橋喜代三)も火鉢の前に座ったのだろう。「妻・中山嘉子は、鹿児島でも評判の芸者で、それは美しい女性でした。中山晋平とは昭和6年(1931)に出会い、晋平の勧めで上京して「小原良節」「よさこい節」を日本ビクターでレコーディング。同年に新橋芸者となり、昭和7年に新橋喜代三(しんばし きよぞう)という芸名で、ポリドールの専属歌手となります。昭和11年(1936)晋平の妻・敏子が病のため45歳で亡くなり、翌年に中山晋平と結婚、引退します。この熱海の邸宅で晋平と共に暮らし、晋平の死後、日本ビクターの歌手として復帰しましたが、熱海での暮らしを続けました。昭和38年(1963)3月23日に病により59歳で他界。」とのネット情報。和室6畳間には手火鉢があり鉄瓶が乗っていた。箱階段の壁付きを6畳間から見る。「箱階段」とは、木製の箱を段々に積み上げた形の階段。側面などに引き出しを付け、箪笥(たんす)としても利用できるものが多い。近世初期には町屋に見られたが、特に2階建てが建てられるようになった明治期に、町屋や農家で多く用いられた と。 解りやすい写真をネットから。階段の下のスペースを有効利用して、引き出し等の収納場所として利用。板欄間。居間の東側に座敷があった。8畳の広さで、雪見障子を隔てた東側と南側には縁側が設けられていた。この床の間にも「銀座柳の碑」の掛け軸が。座敷の付書院。「銀座柳の碑西條八十 作中山晋平 曲「植えてうれしい銀座の柳 江戸の名残りのうすみどり 吹けば春風紅傘日仐けふもくるくる人道り」。この掛け軸は、長野県中野市の「中山晋平記念館」にある記念碑の拓本を表装したもの と。テーブルの上にも様々な資料が展示されていた。板欄間。6畳間、8畳間前の縁側。歪みのわかる大正・昭和前記を想い出すガラス窓。 洗面所・トイレ入口の扉も洒落ていた。狭い「箱階段」から二階へと上がる。この階段の下が収納スペース。上部に「東京行進曲」👈リンク の直筆の楽譜の複製品。「この譜面の書は昭和11年夏、飯山市の野田荘商店(昭和2年よりビクターの特約店)を訪れた時、酒宴の席で先生が書かれたものです。筆跡には畳目の跡がきっきりと残っている直筆の複製です。「東京行進曲」の2小節目で♪あだなとしまをだれがしろ♪と書かれています。 寄贈 飯山市 野田荘商店 東 在平 様」和室10畳の床の間を見る。床の間の掛け軸。「三笠山には つつじが咲いて 赤き心もしげくなる 雨情」。床の間の左の美しい組子の模様。板欄間や障子の組子には、一階とは異なる、これも見事な意匠が施されていた。しばし、寝転がっていたい眺め、空間であった。近づいて。2階にも縁側が。「中山晋平記念館入口門」を2階から見下ろす。1階に降りて。「熱海 梅まつりの歌」の楽譜、歌詞の展示コーナー。この欄間の彫刻も見事であった。「熱海梅園之図」。「中山晋平先生 自筆「熱海 梅まつり歌」👈リンク 作詞作曲 原譜」。1階の縁側を再び。反対側を振り返ってズームして。見事な縁側の天井の意匠。「大正・昭和を彩った中山メロディーの数々に出逢う中山晋平は、明治20年3月22日、現在の長野県中野市に生まれました。苦労の未高等小学校を卒業した彼は、上京し早大教授であり、新劇指導者であった島村抱月のもとで書生生活を始めました。その後、彼は抱月が旗上げした「芸術座」の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲、大ヒットし、作曲家として華々しいデビューを飾ります。自由な発想から生まれる彼の曲は人々の心をとらえ「船頭小頃」、「東京行進曲」など次々にヒット曲を生み出しました。また「てるてる坊主」、「証城寺の理囃子」、「肩たたき」など、彼が作曲した数えきれない程の童謡は、今もなお人々の心に生き続け愛されています。」外に出て、再び「中山晋平記念館」を振り返る。門を出た左側にあったのが「中山晋平記念館碑」当記念館は、大正初期から大衆音楽の普及に大きな足跡を残した著名な作曲家中山晋平の別荘として昭和十年に市内西山町に建築され、昭和十九年空襲が激しくなったのを契機に本市に移住し、この町を愛して昭和二十七年亡くなるまでの間、作曲活動をしていた建物を日本ビクター株式会社より寄贈を受けて、平成三年四月、中山晋平が居住していた当時そのままの姿でこの梅園に移築したものです。 熱海市」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.06
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次に訪ねたのが「韓国庭園」。「韓国庭園」配置案内図。2000年9月に熱海市内で開催された日韓首脳会談が、両国交友の絆を更に深めたとして、梅園内に新たに韓国庭園が開園。韓国庭園は日本の庭園のように限られた空間の中で完結することはなく、自然景観との結びつきを大事につくられているのだと。2002年夏にオープンした熱海の名所で、16世紀の朝鮮時代の文化を体感できる場所 と。西側の入口門。その左側の「瓦張り土塀瓦張り土塀は瓦で細工された塀で、下部は玉石張りにしています。塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」。「韓国庭園」内に入ると、右側にあったのが「噴泉」。ズームして。「噴泉韓国庭園では水が大切に扱われ、特に水の噴出部には意匠がこらされています。形態は「陰陽思想」を表現したものが多くあります。」。そして正面に見えてきたのが「堂」。「大門」を園内から。両斑(ヤンバン)の家の正門は身分によって制限があり、屋根の部分の真ん中が少し高くなっている、ソスル門と、高さが同じな平大門があります。この門は、朝時代中期の四柱門の平大門。以下説明板より『朝時代中期の四柱門の様式で、「友好・平和」記念碑の正面にあることから格式を高く、大きな建物としました。梁の上部にある雲の形をした「雲板」は主人の精神性が雲上の如く高いレベルに達していることを表現したものです。また、入口部の柱の下部(根本)に彫られた図案は三太極という「天・地・人」の宇宙の構成原理を表現したものです。』「堂朝鮮時代における両班の家は、男主人の住まい外堂(サランチェ)と女主人の内堂(アンチェ)、行廊(ヘランチェ)、祠堂等が主で、外別堂、内別堂、選備問、チャントッテ、亭子等が配置されています。近づいて。奥には韓国衣装で書き物をしている人物の姿が。「本机」の前に座って。『堂貴族階級(両班)の方が、世俗より隠遁し、山中において詩歌を吟し、哲学を愛する学者の生活空問として造った建物です。小さなスケールですが、台所(女性の部屋)や使用人の部屋も付き、四季を通して全ての生活が出来る様になっています。建物の様式は、朝鮮時代初期(16世紀)、特に朝鮮半島南部の特徴ある一文字形の様式を保ったスタイルです。マルと呼ばれる四方に壁のない開放的な部屋には自然との一体感が感じられます。この建物は「縁の家」と命名されました。又、内部には韓国文化院より寄贈された家具も展示してあります。』「台所台所は韓屋では一番独特な処で、料理をするだけではなく、暖房の役目もはたすところです。かまどの熱は、床下を通り煙家から出てゆきます。床下には平らな石が敷き詰められていて、この石を暖めて床と部屋をあたたかくするオンドル(床暖房施設)の役目をします。」。「堂」の裏にあった「煙家オンドル(床暖房施設)の排煙機能を持ち、形は住宅の構造を模しているので「煙の家」と呼ばれています。一般には住宅の後庭の「花階」に設置され、特に両斑(ヤンバン)の家では装飾的にデザインされています。煙家の形は四角、六角、八角、円形等で、壁面には長寿を象徴する動植物の模様や吉祥文字を瓦やレンガを使って入れています。」「花階」とは母屋の北側の斜面地に築く階段状の花壇。高貴な女性方の愛好の庭園として、季節感あふれる身近な植物や薬用植物、果実等の有用植物を植えています。その先にあったのが「チャントッテ」。「チャントッテ味噌、醤油、漬け物等の壺を置く場所で、台所に近い後庭に造られます。規模の大きさが家勢を表すものとされ、現在の一般家庭でも見られます。」。ここは「台所」の外側であっただろうか??「方池円島「方池」は正方形または矩形の中央に円形の島をもつ蓮池で、円島には景石以外に松・柏・柳が植えられます。一般的に四辺の護岸は花崗岩の切石積みで、一辺の中央には、方池にせり出した亭が設けられ、両班(ヤンバン)の大門部外周辺、または別堂(主人専用の離れ)近くに設置されます。池の方形は地の陰を、円島は天の陽を象徴したもので、陰と陽の均衡を保ち家勢の栄を願った庭苑施設です。」「堂」の外を一周して振り返る。「玉石張り土塀朝鮮時代の伝統的な塀には、自然石を積んだものから土壁の塀、玉石や瓦を使った塀が見られます。玉石張り土塀は、玉石で細工された塀で、塀の屋根瓦は韓国から取り寄せています。」再び「大門」を見る。「友好平和記念碑」。「友好平和記念碑2000年9月23日に熱海で日韓首脳会談が行われ、翌24日に両国首脳が熱海梅園を訪れました。碑は日韓の絆を深めたこの会談を記念して設置されました。碑の刻字は、森総理大臣(友好)と金大統領(平和)の直筆です。」。「友好平和記念碑説明板2000年9月23日、日本国の森喜朗内閣総理大臣と大韓民国の金大中大統領の日韓首脳会談が熱海で行われました。翌24日、両首脳は熱海の名勝地である熱海梅園を訪れ、園内を散策し歓談されました。熱海市は、日韓友好の絆を深めたこの会談を記念して、日本国と大韓民国の友好と世界の平和が永久に続くよう祈念し、熱海梅園内に大韓民国の伝統的様式と手法を取り人れた庭園を造るとともに、森喜朗内閣総理大臣と金大中大統領の直筆による友好平和記念碑をここに設置するものです。 2002年8月28日 熱海市長 川口市雄」。「韓国庭園」を後にして「玉石張り土塀」の前の紅葉を楽しむ。土塀には「熱海梅園韓国庭園」と。近づいて。こちらは「瓦張り土塀」。「朴敬元飛行士記念碑1933年8月7日、韓国で初の女性飛行士、朴敬元(バクキョンウオン)さんが、故郷である韓国への訪問飛行の途中、玄岳(くろだけ)山腹に激突し33歳の若さで墜落死しました。この悲惨な事故と地元(多賀)の人々との活動を通して生まれた友好を記念して設置しました。」。韓国で初の女性飛行士、朴敬元(バクキョンウオン)さん。「思いは遥か故郷の大空朴敬元女史 1901年 慶尚北道大邱府に生まれました。1925年に日本飛行学校へ入学して飛行機の操縦を学び大韓民国初の女性飛行士として二等操縦士免許を取ると、かねてからの希望であった故郷への訪問飛行を計画し、1933年8月7日その日を迎えることになりました。飛行機は単発小型機で、「青燕号」と命名されました。女性としては初めての長距離飛行となり、羽田空港では官民多数の盛大な見送りを受け、午前10時35分離陸しましたが、気象変化の激しい箱根上空で密雲に阻まれ方向を失い、熱海市側の玄岳頂上よりわずか50メートル下の山腹に激突し、不幸にも33歳の若さで墜落死してしまいました。翌8日、女史の遺体は地元の多賀村の人々の手によって荼毘にふされ、翌年8月7日には、元多賀村長西島弘氏が私費で墜落現場に鳥人霊誌碑を建立し、そして1961年春には地元町内会の手で朴敬元嬢遭難慰霊碑が建立されました。地元の人々は、夢半ばにして破れた朴敬元女史の心安らかなる事を願い、毎年定期的に墜落現場までの草刈や慰霊碑の保全を行う等、大切に護持しています。国を超えた人道的なこの地道な活動は、今日の友好と平和を祈念する多くの人々の思いでもあり、親切と文化を標榜する熱海市にとりましても、おもてなしの心を育む原点でもあります。熱海市は、朴敬元女史の墜落死と地元の人の活動を永く記億に留め、これまでかかわってきた多くの人々の友好平和のあかしとして、日韓首脳会談を記念して建設された韓国庭園の一角に記念碑を建立するものです。2002年8月28日 熱海市市長 川口市雄朴敬元女史略歴1901年 大韓民国慶尚北道大邱府で生まれる1916年 大邱府の信明女子校に入学1925年 日本飛行学校操縦科に入学1927年 三等操縦土免許を取得1928年 ニ等操縦士免許を取得1933年8月7日 午前10時35分羽田空港を離陸 同上 午前11時25分玄岳山中に墜落。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.05
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山の上には「熱海城」が。その下に見えたのが「熱海後楽園ホテル」。「スカイデッキ」に上がり「スパ・マリーナ熱海」の「第二桟橋」を見る。真鶴半島・真鶴岬をズームして。真鶴岬の先に浮かぶ「三ツ石」をズームしたが映像が何故か蜃気楼の如くに。モニュメント「恋人の聖地」をズームして。「初島」をズームして。花壇には終わり気味の「キルタンサス」の花が。「スカイデッキ」を「熱海サンビーチ」方向に進む。正面の「ムーンテラス」をズームして。中央に「恋人の聖地」 のモニュメント。「恋人の聖地」 のモニュメントをズームして。熱海市の鳥「カモメ」をイメージしたデザイン。そして熱海桜の下に「釜鳴屋平七夫妻像」が。海を見下ろす夫妻の銅像。左側には新たに作られた熱海市名誉市民 橋田壽賀子 顕彰碑大正14年京城(ソウル)生まれ。戦後映画界で、女性脚本家の草分けとして執筆を開始。後に黎明期のテレビに活躍の場を移し、ドラマの発展を支えた。日本人の心と家族の絆を温かく描き、多くの視聴者に感動を与え、愛された。ドラマは海外でも放送され、文化を超えて高評価を得る。壮絶な戦争体験から物語には平和への祈りも込められた。熱海を慈しみ、この地で多くの作品を生み出した。熱海市名誉市民、テレビ界で初の文化勲章を受賞。従三位。主な作品おしんおんな太閤記春日局愛と死をみつめて女たちの忠臣蔵源氏物語渡る世間は鬼ばかり 橋田壽賀子。」そして熱海桜の下に「釜鳴屋平七夫妻像」が。海を見下ろす夫妻の銅像。大島の方向を見つめる「釜鳴屋平七夫妻」。ズームして。銅像の下に、熱海ゆかりの文豪、武者小路実篤の言葉が記されている。純粋無垢な人間が好きな武者小路実篤先生らしい言葉。「安政のころ、釜鳴屋平七はこの浜に起こった漁民一揆の先頭に立った罪に問われ八丈島へ遠島の途中大島で死んだ。人間平七の無私愛人の足跡が熱海の歴史を語っている。八十五歳 武者小路実篤」と。「釜鳴屋平七安政の頃、熱海の浜に漁民一揆が起こりました。まぐろ網の権利をめぐり漁民と網元との争いが日を追って激しくなり、こうした事態の中で網元の一人平右衛門の長男釜鳴屋平七は、他の網元たちのひどいやり方に反対し漁民側に同情、網元から脱退、漁民に見方して解決をはかったが、争いは収まりませんでした。このため、平七は漁民二百五十余人と共にムシロ旗を立てて韮山代官所に押しかけ、平七は役人の制止を振り切って代官江川大左衛門に訴状を差し出しました。代表者平七ら七人は捕らえられ、首謀者とみらされた平七は島流しの刑を受け、文久三年十月(1863年)江戸から八丈島送りとなりました。しかし、船中での虐待で衰弱した平七は大島におろされ、十一月四日三十五歳で亡くなりました。漁民たちは平七の遺志をつぎ、長い間苦難の戦いを続け、ようやく勝訴を勝ち取ることができました。星露百余年、今なお大衆の心に生きる義人平七の魂はここに眠っています。」巨大な亀やマンボウの姿が。しかし、ここ数年の世間の「マンボウ」とは「まん延防止等重点措置」のこと。「釜鳴屋平七夫妻」像と「熱海市名誉市民 橋田壽賀子 顕彰碑」。再び正面の「ムーンテラス」をズームして。中央に「恋人の聖地」 のモニュメント。ズームして。山の上には「熱海城」が。その下に見えたのが「熱海後楽園ホテル」。ズームして。「スカイデッキ」を見る。再び、陸から沖に突き出すようなかたちをしているムーンテラスの先端にある「恋人の聖地」を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.04
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更に熱海梅園の紅葉を追う。 陽光に輝く紅葉を振り返って。 「熱海梅園のご案内」。現在地はEの手前。梅園五橋「雙眉橋(そうびばし)」方向を見る。「雙眉橋」は梅園のほぼ中央に位置するアーチ型の橋。小川の両岸のみどころをまたぐ二つのアーチ型の橋という意味だと思いますが、この橋の両側には梅のみどころが多くあるのだ。移動して「雙眉橋」をズーム。この付近は、この日が見事な紅葉のピークではと。黃、オレンジ、赤、緑のカオスの世界をカメラで追う。石段の上を清流が流れるが如くに。「駐杖橋(ちゅうじょうばし)」は唯一朱色に塗られた印象深い橋。熱海梅園は日本一遅い紅葉でも有名だが、紅葉の季節にこの橋は最も映えるのであった。「澤田政廣記念美術館のお知らせ」。『あたみっこ澤田政廣』展覧会が令和5年8月25日(金)~令和5年12月17日(日)に開催中。本名、澤田寅吉。文化勲章受章芸術家、熱海市名誉市民。熱海の海辺に育ち19歳で彫刻家を志し、高村光雲(たかむらこううん)の高弟山本瑞雲(やまもとずいうん)に師事した。93歳で没するまで、多くの木彫作品をはじめ、絵画、陶芸、版画、書など、さまざまな芸術領域にわたり創作。力強く生命感と詩情にあふれた作品は、人々の胸に多くのロマンを語りかけるのだ と。近づいて。緑の残るモミジ葉に射し込む陽光を。そして真赤に変身したモミジ葉に射し込む陽光を。その先にあったのが「梅見の滝」。「梅見の滝」。熱海梅園の中にある滝。梅園入口から奥の方にある。適度な水量で滝が落下している。滝の流れ落ちる岩肌が洞窟のようにくり抜かれており、滝の裏側から鑑賞できるのであった。滝の水量も多すぎず少なすぎず適量で、紅葉とセットで眺めると味わい深かったのであった。滝の裏側を移動し、くり抜かれたそれぞれの大きな孔からシャッターを押す。滝の裏側の通路は「梅見の滝内通路」と。順路と案内板。近づいて。再び朱の「駐杖橋」を見下ろす。「梅見の滝」碑がここに。「小松勇次先生之像」「小松勇次先生之像」は、熱海梅園を国から払い下げを受けた当時(1960)の市長。この像は澤田政廣作によるもの と。「茂木氏梅園記念碑」の上部には「茂木氏梅園記」と。下の如く刻まれているとネットから。「茂木氏梅園記碑文の日本読 内閣総理大臣兼宮内大臣従二位勲一等伯爵 伊藤博文 篆額」「茂木氏梅園記の要約初代総理大臣 兼 宮内大臣従二位 伯爵 伊藤博文 篆額温泉がよく病気に効くのは、ただその中に含まれている塩気や鉄精にばかり頼らず、 適当な運動をするからである。 もし、一日中室にいて、温泉に浸かっていたら倦きもし、疲れもして、養生にならない。山に囲まれ、東南に海を臨む熱海は、温泉で知られている。人々は斜面を削って家を建て、そこに住んでいる。また、東京から遠くなく、その上、気候が温暖なため冬から春にかけて多くの都会人が来浴する。私は、初めてこの地に足を運び、山を巡ってまちの西側を散策すると、起伏に富んだ景色のよい場所を見つけた。そこは清流が乱石にぶつかり、その発する音は風雨のようで、分れたり、合流しながら勢いよく葦藪(よしやぶ)の間を流れ下っている。清流の西側に松や檜がうっそうとした丘があり、そこに登って休んだ。振り返って見ると、あたりはのどかに落ち着き、しばらく帰ることを忘れていた。明治十八年(一八八五)四月、岩倉具視大臣の命令を受け、噏滊館を落成させた。私は、「この地の温泉の効用は顕著であり、今、この館が完成して療養施設は備わったが、保養の場所がないのが残念である」と人々に説いた。そして、前に見つけた場所について話し、そこを造成することを提唱した。すると、中山保次郎神奈川県議会議員が進んでこれに賛成し、横浜の茂木惣兵衛にもちかけた。すると惣兵衛は喜んでこれに応じ、中山氏及び地元の日吉、小松、露木の諸氏と相談してその事業に乗り出した。草木を伐採し、穢れを流し、地形にならって梅三千株や松・杉・楓・柳を植栽した。すると、清流は益々清く、趣のある岩もたくさん出てきて、山水花木、四季の眺めも美しくなった。高みに四阿をつくり、流れには小橋を架け、遊園の設備も整った。人々はここに集まり、酒を酌み、詩を吟じ、全てを忘れ、心なごみ、楽しむことができる。これでこそ、初めて温泉養生の効用を完全に引き出したといえよう。梅を最も多く植えたので、「茂木氏梅園」といわれる。茂木氏は豪商であり、どんなことでもできるだろうが、彼はそうせず、私財を投じてこの事業をおこない、それを私することなく大衆のために開放した。実に偉いではないか。さらに、この花木泉石の名勝は、単に風雅な遊びに適しているばかりでなく、国のために尽くしている人々の疲れを癒し、志気を壮大にし、発想をあらたにさせることができる。その効果は非常に大きい。以上を記し、来園者に伝える。 明治ニ十年四月内務省衛生局長 兼 元老院議官従四位勲三等 長與専斎 撰 市河三兼 書 宮亀年 刻【碑の裏側に】茂木氏がこの園の造成に取り掛かると、横浜の平沼専蔵、朝田又七の両氏も資金を提供するなど協力したことも伝えるべきだ。東京の庭師小川九兵衛が工事を監督した。もともとの天与の地の利もあるが、工事が完成して眺めると、益々素晴らしく、工事にかかわった人々の努力や苦労も忘れてはならない。このことも碑の裏側に氏名などを記し後世に伝える。 専斎又記す」そして「熱海市立澤田政廣記念美術館」👈リンク そして手前に橋が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.04
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今日から暫くはダブル(W)熱海のブログアップです。毎早朝のブログは下記の「伊豆の紅葉、イルミネーションを愛でに」、そして正午のブログアップは「今年も熱海・糸川桜へ」です。既に、今日からのブログアップは昨年の12月4日~の紅葉、イルミネーション巡りですが、極力季節外れ(out of season)にならずに旬(in season)の話題としたいので(特に花見等!!)、昨日から、あえて2回/日のアップとさせていただきました。--------------------------------------------------------------------------------------------------この日は昨年12月4日(月)、1泊で会社の先輩と伊豆の紅葉、イルミネーションを愛でに向かう。先輩の住む二宮に向かって「新湘南バイパス」を進む。正面に富士山の姿が。ちなみに、「新湘南バイパス」は藤沢ICと茅ヶ崎海岸を結ぶ有料道路で、国道1号のバイパスとしての機能を持っているのだ。茅ヶ崎料金所に向かって進む。茅ヶ崎料金所。さらに正面の富士山の勇姿を楽しみながら、新湘南バイパスを進む。そして前方に「湘南ベルブリッジ」。本橋は、新湘南バイバスの茅ヶ崎海岸I C付近に位置し、相模川の支流である小出川を鋭角に渡河する橋梁。アーチの上部に取り付けられた4本のケーブルで「湘南ベルブリッジ」橋桁(はしげた)が吊り下げられ、アーチの下部も橋桁と繋(つな)がっている不思議な構造。ニール・ローゼ橋の一種と言うらしい。そして相模川に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。「金目川」を渡る。「西湘バイパス」に入ると、正面に箱根の山々が姿を現した。そして「大磯西IC」で降り、国道1号を進み、二宮町富士見が丘3丁目に住む先輩と合流。そして再び「大磯西IC」まで戻り「西湘バイパス」を更に進む。左手には光る「相模湾」と「二宮港突堤」。岸から50mほど突き出た堤防。船の停泊目的の堤防ではないため漁船を気にせず釣りを楽しむことができる堤防のようだ。我がデジカメを助手席に座る先輩に渡し、写真撮影を依頼。「国府津IC」手前から富士山の姿を。「酒匂川」を渡りながら相模湾を見る。「西湘バイパス」を「石橋IC」で降り、国道135号・真鶴道路を進む。前方に見えたのが「真鶴半島」。前方に現れたのが「湯河原町」。前方に「熱海ビーチライン」案内板が。「熱海ビーチライン」には乗らずに、国道135号から遠く「初島(はつしま)」の姿を。初島は、静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。そして「春日町」交差点を右折して、JR来宮駅前を通過し、この日の最初の目的地の「熱海梅園」に到着。「第37回熱海梅園もみじまつり」は前日の12月3日で終了していたため、観光客の姿は少なかった。前日で終了した「熱海梅園 もみじまつり」のポスターをネットから。園内入口の「寒椿」のピンクの花。近づいて。「熱海梅園のご案内」。期間限定の「足湯」の案内もあったが、これも終了していた。石蕗の黄色の花が鮮やかに。「熱海梅園」と刻まれた石碑。「梅園の由来」。「梅園の由来明治十八年(一八八五 )わが国初の温泉療養施設「噏汽館(きゅうきかん)」開設に伴い、内務省衛生局長 長与専斎の遊歩公園造成提唱に応じた横浜の茂本自ら選定したこの地一万坪に早咲きの梅 初雁、冬至梅など紅白百種をこえる梅三千株と松、桧、楓を配し、三亭、五橋をもって翌十九年完成し「茂木氏梅園」と令名、「熱海梅園」と通称され当初より公開された。その後、皇室財産、国有財産を経て、昭和三十五年熱海市に譲渡された。長与専斎 略歴天保九年(一八三八)長崎県大村の藩医の家に生れ、十六歳で大阪の蘭学塾、緒方洪庵の「適塾」に入門、のち長崎で直接蘭医に学び長崎医大の前身、精得館、長崎医学校の学頭をつとめ近代医学の導入を図った。明治四年岩倉具視の米欧使節団に随行、国民の健康保護、医事行政、諸施設に深く啓発され、明治六年文部省初代医務局長のあと自ら案出した「衛生」のことばを用いた内務省初代衛生局長となり、在任十八年わが国医制、公衆衛生の基礎をつくった。明治三十五年(一九〇ニ)死去。昭和六十年一月吉日 孫眞道文」竹灯籠も役割を終えて。「かぐや姫 落葉の道に 灯りけり」と。ネットから。右手に「夫婦松(めおとまつ)」。樹齢400年以上と推測されるという「夫婦松」。二股に分かれていた。「いつまでも 達者でいよう 夫婦松」と。「大塚実氏顕彰記念碑熱海梅園は内務省の初代衛生局長であった長与専斎の提唱を受け、横浜の豪商・茂木惣兵衛氏が私財を投じ、明治19年に開園したものです。爾来120余年の歳月が流れ、往時の優美な姿が失われつつあった中、熱海由縁の実業家大塚実氏の私財提供を受けて、開園以来の大規模な工事が行われ、清流初川の渓流を挟んで、晩秋の紅葉と早春の梅花、そして初夏の新緑と夏の夜に乱れ飛ぶ蛍の光が、その景観美を競うという、新しい梅園に衣更えいたしました。ここに熱海梅園を見事に再生させた大塚実氏へ心からの感謝の意を表するとともに、この梅園を永く守り育んでゆくことを誓います。 平成二十一年十一月吉日 熱海市長 齋藤 栄」そして「もみじまつり」は終了したものの、まだまだ紅葉が見頃の絶景を楽しんでカメラで追ったのであった。そして「初川」の渓流がその下に。「初川」の渓流を覗き込むが如くに。熱海市の汚水マンホール蓋。熱海市は、2017年に市制80周年を迎えたことを記念し、マンホール蓋2種類をデザインした。市の花「梅」、そして熱海温泉の文化の象徴である「芸妓」を図案化したもので、「熱海市市制80周年」のロゴマークを配した。熱海梅園は、1886年(明治19年)に開園し、日本で最も早咲きの梅の名所として全国にその名を知られ、多くの観光客が訪れている。また、芸妓衆が稽古をする芸妓見番で開演される「熱海をどり」、「湯めまちをどり華の舞」では、豪華な衣装に身を包んだ熱海芸妓による艶やかな舞を披露しているとのこと。このデザインマンホールは、JR来宮駅前と熱海梅園周辺の歩道及び熱海梅園の園内に設置して いる と。再び初川の清き流れとその両岸を彩る紅葉を追う。青空に映えて輝く紅葉。梅園五橋の「迎月」が右手に。五橋とは漸佳(ざんか)橋迎月(げいげつ)橋雙眉(そうび)橋駐杖(ちゅうじょう)橋香浮(こうふ)橋 と。白き流れ。紅葉の隙間から陽光が川面に射し込む。この辺りは紅葉のエピローグへと。そしてこれはまだまだ!!と。 ・・・つづく・・・
2024.02.03
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「大門通り」の歩道の右手道路側にあったのが「大門」案内ボード。近づいて。「東海道名所之内 芝増上寺 二代広重 文久三年(1863)増上寺の朱に塗られている総門は、俗に大門と呼ばれている。江戸時代には門の手前に橋が架かり、下馬札が立っていた。」このベンチの如き石に描かれた蝶の如き模様は??方位標示。「芝神明」案内ボード。近づいて。「芝神明江戸芝神明之図 歌川国丸 文化文政年間(1820ごろ)俗に芝神明と称された現在の芝大神宮は、江戸の有名な神社の一つである。往年の参拝の人びとや商人たちの生き生きした姿がえがかれている。」左手にあったのが「更科布屋」。東京都港区芝大門1丁目15−8 布萬スカイビル。「犬矢来(いぬやらい)」の前にあったのが蕎麦屋「創業寛政三年 芝大門 更科布屋」碑。「犬矢来」の由来は、犬の放尿除けのためにあると言われるようです。「更科布屋」の前にあったのが都営地下鉄「大門駅」入口。現在地はここ。「め組のけんか」案内ボード。「錦絵 神明相撲闘争之図 明治19年(1886)め組のけんか文化2年(1805) 2月(ー説)、芝神明の境内で、勧進相捉を興業していた力士と町火消め組との間でけんかが起こった。これが、のちに江戸っ子気質の典型として評判になった芝居「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)のモデルとなった。」「瓦斯灯」案内ボード。近づいて「金杉橋新堀の芝居(部分) 豊原国秋(三代広重) 明治8年(1875)」。明治7年(1874)金杉橋-京橋までの間に85基のガス燈 が設置された。今の海岸一丁目にあった瓦斯製造所(現、東京ガス本社ビル)から供給されたガスによって、東京に初めて文明開化のあかりがともされた。絵は金杉橋のガス燈である。左上の配置図は設計にあたったフランスの技師ベルグランによるものである。世界時差標示。「大門」交差点。国道15号・第1京浜との十字路の手前まで来る。「国道15号・第1京浜」。「大門」交差点を渡る。「日本生命浜松町クレアタワー」。東京都港区浜松町2丁目3。「手づくり郷土賞 やすらぎとうるおいのある歩道 三十選」碑。「手づくり郷土賞 建設大臣 越智伊平◯やすらぎとうるおいのある歩道 三十選昭和六十三年七月寄贈 (株)関東建設共済会」「日本生命浜松町クレアタワー」敷地内の緑地にあった作品「「空の水」青木野枝」。廻り込んで。数多くの柔らかい円が上昇していくような鉄の彫刻立体作品。「日本生命浜松町クレアタワー」を見上げて。地下3階、地上29階の建物。「日本生命浜松町クレアタワー」。東京都港区浜松町2丁目3-1。エントランスのエスカレーター。そして歩道の街路樹にはイルミネーションが点灯。「広げよう納税の輪」碑。正面には「ふれあいの道」と彫り込まれていた。右側には「世界の願い交通安全」とも彫り込まれていた。欲張って?3つものことが込められた珍しい?記念碑。そしてJR浜松町駅(北口)が見えて来た。「浜松町駅 開業1909年」と。そして山手線で「大崎駅」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.02
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次に訪ねたのが、浄土宗・「觀智院」。戦国時代末期より続く歴史があり、江戸時代に入り大本山増上寺が芝に移転してからは、増上寺の子院の一つとなった。増上寺が芝に移った際、その時の誠諦庵(現:観智院)の庵主である吟察上人が、増上寺の源誉存応上人に深く帰依(深く尊敬・信奉)して、誠諦庵は増上寺の山内(境内)に移り、子院となった。名前の由来は、増上寺の住職であった観智国師が当院に隠棲したことからと言われていると。「南無阿弥陀佛」碑。「觀智院」と。掲示板の横には「眞生」と。「この世の私たちは、仏様に生かされている存在だと考えます。世の中をよくしたいという仏様の願いを信じること、仏様の願いにかなった生き方を少しでもこの世に実現し、ひとりひとりが生きがいのある人生を送ることを「真生」と名付けました。真生主義真生主義は、宗祖法然上人の教えを正しく現代に受け継ぐことを理念としました。此の世は闇の世、苦しみの世界と考えるのは自分の目が曇っていたためで、一歩進んで眼さえ開ければ、光明はどこにもここにも充ち満ちています。至心に念仏申す人は如来の光明をこうむり、いつしか霊性が開発され、現実の世界でそのまま助かる道が感得されます。来世の救済を願うだけではなく、ただ今から未来世を貫く、永遠の生命と無限の向上を求め、人格の完成を目指します と。再び「増上寺 大門」への道に出て「増上寺 三解脱門」越しに「東京タワー」を振り返る。先程訪ねた「廣度院」の「練塀」そして「南門」。「南門」をズームして。歩道にあった「区の花 アジサイ」案内碑。アジサイには、ガクアジサイとタマアジサイなどがあります。関東地方に古くから自生し、花の色が雨などにより変化します。シーボルト博士が楠木お滝に贈ったことにちなみ、学名に「オタクサ」とつけられている国際性も豊かな花です。ユキノシタ科:日本(関東南部)原産・落葉広葉樹」。「区の花 バラ」案内碑。バラは香のよい色あざやかな花で種類も豊富です。日本にも古くから自生するノイバラがあります。現在植栽されているものの多くは外国から渡来し、明治20年には芝公園に「バラ園」が作られた記録があり、国際性豊かな花です。バラ科:日本・中国・欧州原産・常縁落葉低木つる「区の木 ハナミズキハナミズキは東京市からワシントン市に贈った桜のお返しとして、大正4年に渡来し、国際交流の橋わたしをした木です。成木は5 ~ 7m位になります。春には白やピンクの花が咲き、秋には赤い実、紅葉も美しく、小鳥も集まります。ミズキ科:米国南部原産・落葉広葉樹」右手にあったのが「安養院」。浄土宗寺院の「安養院」は、承応2年(1653)増上寺に止住した山城国大原向坊恵隆師の坊舎を創始とするといいます。明治11年に発足した芝区の区役所が当院内に置かれた と。「安養院」。本堂の扁額「安養精舎」。「本堂」を斜め横から。そして前方に「増上寺 大門」が姿を現した。増上寺の総門・表門で、地名の由来になっている門。現在のものは昭和12年に国道の通行整備のため、原型より大きく、コンクリート製に作り直されたが、旧大門は慶長3年に江戸城の拡張・造営により、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものであった。その旧大門は大正12年の関東大震災により倒壊の恐れが生じたので、回向院に移築されたが昭和二十年の空襲により焼失したとのこと。その手前、左手奥にあったのが「常照院」。正面に「本堂」。境内に石碑が並ぶ。「史跡 恋娘昔八丈 城木屋お熊墓所」。「白子屋お熊」というのが実際の名前で、歌舞伎「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」は実名になっている。(明治に作られた芝居だから?)とにかく、実話では悪女ですが、大変な美人だったので芝居になり、人形浄瑠璃では話も美化されたと。なおこの寺は代々市川団十郎家の菩提寺であったと。(九代目が神道に改宗、のちに歴代団十郎の墓も青山墓地に)七代目が寄贈した手水鉢があり、七代目と書かれた石と三舛の紋があった。次に訪ねたのが「花岳院」。「花岳院」は、浄土宗大本山増上寺の山内寺院。江戸時代の永正年間に増上寺六世・知雲上人の隠棲の寺として創建された。増上寺の坊中四十八寺院のうち「七大庭園」とも呼ばれる美しさを誇っていたと伝えられている。徳川家康に仕えた牧野忠成の妹・昌泉院の宝篋印塔も院内にある。春には山門脇の桜が参拝者をやさしく迎え、江戸名所の一とされた芝大門を望む地で、古の歴史と風格を今に伝えている と。「浄土宗 花岳院」。「揚羽蝶の寺紋」が印象的であった。増上寺の子院なので、寺紋は徳川葵と思うも、揚羽蝶の寺紋であった。「本堂」をズームして。扁額「花岳院」。「本堂」入口にも「揚羽蝶の寺紋」。移動して。そして「増上寺 大門」に到着。門の下部にあった案内板を追う。「大本山増上寺 大門平成ニ十八年三月 東京都より無償讓与 同ニ十九年三月 耐震改修工事 十月 大門再建八十周年天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起國豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修禮讓【天下和順し日月清明にして、風雨時をもってし災厲起こらず。国豊かに民安し。 兵戈用いることなし。徳を崇め仁を興し、務礼譲を修す。】(天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、 国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、 努めて礼儀と謙譲の道を修めます)という意であるとネットから。八十世大僧正 戎譽季生」「大門沿革碑板大門ハ三縁山増上寺ノ総門ニシテ古来江戸名所ノ一 トシテ人口ニ膾炙セリ慶長十年徳川氏増上寺創建ノ際ノ造営ニ係ル明治十一年十月東京府ニ寄附セラレタリシガ其ノ後東京市ノ管理ニ帰スルヤ芝公園内ノ施設トシテ保存ニ務メタルモ近年破損著シク永ク保存ニ堪エザルニ至リシ薦地元芝公園改良期成金並ニ株式会社不動貯金銀行協賛ノ下ニ其ノ原形ニ則リ新タニ復興ノ業ヲ起シ茲ニ其ノ竣功ヲ見タリ依テ之ガ落慶ノ典ヲ行フニ方リ由来ヲ略記シ以テ後世ニ伝フ 東京市 昭和十二年十月 昭和三十三年十二月 全国不動会 再板」「港区指定有形文化財 建設物 大門大門は、増上寺本堂、三解脱門とともに門前から境内の軸線を形成する門で、初代の門は江戸時代に木造で建設されました。現存するこの門は、東京市土木局建築課の設計、安藤組の施工によって昭和12(1937)年に木造から鉄骨鉄筋コンクリート造で再建されたものです。鉄骨鉄筋コンクリート造を採用しつつも、先代の意匠を踏襲することが試みられています。大規模な高麗門(こうらいもん)です、反りを伴った切妻屋根(きりづまやね)、繰形(くりかた)をもつ持送り、垂木(たるき)、六葉(ろくよう)なども木造さながらの表現となっています。昭和12年の建設総工費は2万円が投じられましたが、そのうちの一万一千円は、大門の向かいにあった不動貯金銀行の頭取、牧野元次郎の寄村によるものてす。また昭和五十年代に実施された大門の塗り替えや瓦の修理は、地元有志の尽力によるもので、大門が地域の人々によって支えられてきたことが分かります。戦災を免れ、地域の象徴であること、増上寺総門としての歴史的意味から、貴重な建造物です。平成ニ十九年九月ニ十七日 港区教育委員会 文化財を大切にしましよう」「川瀬巴水 「芝大門之雪」~新東京百景~」案内板。昭和11年2月写 木版画32✕22cm 版元:渡邊庄三郎(渡邊木版美術画舗) 画像提供:常泉幸雄川瀬巴水は、明治16 (1883)年5月18日、芝区露月町36番地(現、港区新五丁目6番)に生まれた。本名文治郎。明治43年、日本画家鏑木清方に入門。大正7 (1918)年以降は、新しい時代の芸術的浮世絵板画「新版画」を提唱し制作しだ版元渡邊庄三郎の下で、風景版画の絵師として活躍。昭和32 (1957)年11月27日に亡くなるまで、約700図の新版画を制作した。巴水にとって、増上寺は生地に近くなじみ深い場所。「新柬京百景』の第1作で描いたのは、その増上寺の旧総門「大門」であった。紅色の大門に雪を降らせ、巴水自身にも見える傘差す人物を添景とし、情緒的日本風景を表現した。また、紅白の色調は、版画ならではの美的効果を生んでいる。ここに、珍しく自動車を描き、近代都市「新東京」を象徴させた。巳水が描いた木造の大門は、昭和12年、回向院(墨田区両国所在)に移築され、20年、空襲で焼失した。本作品は、往時の大門を知る貴重な資料でもある。 清水久男(新版画研究家)」「川瀬巴水 「芝大門之雪」~新東京百景~」「東都名所・江戸自慢三十六興レリーフ」。大門の左手前の歩道にレリーフが掲出されていた。「江戸百景余興 芝神明増上寺」。奥に増上寺の大門、右手に芝神明宮が描かれています。「風景浮世絵の名手、初代安藤廣重が その最晩年の安政五年(一八五八)に描いた芝神明と増上寺で江戸の百景を選び 更に追加したものであろう。増上寺は徳川将軍家の菩提寺であって江戸時代の初めからの名所でありその僧たちや 今と変らぬ参詣見物の大勢の人たちの姿が描かれている。」「江戸自慢三十六興 芝神明生姜市」「芝神明は 平安時代に造られたという江戸有数の古社で 芝居のめ組のけんかなどでも有名である。これは 江戸時代のしょうが市の光景で今日でも九月十一日から二十一日まで長く続くため だらだら祭りの名がある。背景は 二代広重、人物 は 三代豊国の筆、元治元年(一八六四)江戸自慢三十六興の一枚。」「芝 大門」右 「浄土宗大本山 増上寺」左 「黒本尊 勝運 交通安全 御祈願」と。「芝大門 公衆トイレ」。「芝大門」交差点を渡る。再び「芝 大門」を振り返る。次に訪ねたのが「浄運院」。「浄運院」。浄土宗寺院の浄運院は、増上寺の子院で、起立年代等は不詳ながら、文化3年(1806)、文政2年(1819)と罹災してしまったといい、かつては上杉弾正大弼、上杉駿河守、真田弾正大弼、内藤主殿頭の宿坊だったと。本堂に近づいて。枯山水の庭。再び「芝 大門」を見上げる。先ほどとは、道路の反対側から振り返る。更に横断歩道を渡りながら。さらに「浜松町駅」に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.01
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「増上寺前」交差点の横断歩道を渡った場所にあった、次の目的地の「芝公園8号地」を訪ねた。「公園制度の誕生 太政官布達公園日本で最も古い公園の一つ芝公園公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどに多くの庭園があった。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑にふれあえるレクリエーションの場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所などでした。明治に時代が移り、新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治6年(1873)の太政官布達第16号により、公園が誕生しました。その後、明治20年(1887)までに、江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81箇所の公園が指定されました。上野の寛永寺と共に江戸の名所だった増上寺を中心とした芝公園は、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に、明治6年(1873)に東京で最初の公園として指定されました。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は1~25 号地に区画されていました。現在も公園では号地のままで親しまれています。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後に新憲法が施行され、政教分離によって増上寺等の境内の部分が除かれ、現在の環状の公園になりました。」「芝公園設計絵図」。1910年発行の『東京市公園改良設計調査報告書』にあった図面と共通性が高い図面で、上部にあるのが現在のもみじ谷。現在の芝公園・配置案内図。公園の角にあったのは「臥龍垣(がりゅうがき)」であっただろうか。その姿、地に臥せる龍の如し。臥龍垣の玉縁(最上部)は1本の太い竹を64分割に縦割りし、再び1本に束ねたもので、躍動感ある龍の姿を表現している。増上寺山門側のものは日本最長の19mもある と。 臥龍垣の玉縁(最上部)は1本の太い竹を64分割に縦割りし、再び1本に束ねたもの。その写真をネットから。「首提灯」案内板の横には「常夜灯江戸の夜の暗い町筋を照らしていたのは、辻々設けられた常夜灯でした。これは、この付近の町にもあったろうと思われる、常夜灯を模造したもので、江戸の町の、夜のありさまをしのぶために設けました」と。「常夜灯」に近づいて。「落語「首提灯」👈リンク江戸時代、芝山内と呼ばれた増上寺の境内は、暗がりで、落語『首提灯』の舞台となりました。侍とけんかした職人が、首を切られても、あまりの切れ味の良さに気がつかすそのまま首を提灯代にして、火事見物に行くという話は架空のことですが、当時のありさまをよく示しています。」「あらすじ金が入って品川宿のなじみの女の所へ遊びに行く男。ほろ酔い加減で、機嫌もよく気も大きい。増上寺の鐘を聞きながら、芝山内の追いはぎの出るというさみしい所へさしかかると、「おい待て」と声がかかる。てっきり追いはぎと思いきや、背の高い侍だった。「何かようか、おじさん」と問うと、「麻布にめえる(参る)には、どうめえる」と田舎なまりで聞いてきた。追いはぎでなくほっとし、田舎侍と見くびった男は、「丸太棒、ぼこすり野郎、かんちょうれい、二本差しが怖くて焼き豆腐が食えるか」と言いたい放題、悪口雑言を浴びせ、悪態をつき始める。さらに調子に乗った男は侍に痰(たん)を吐きかける。身をかわした侍は「行け」というが、男は図に乗ってまた、痰を浴びせた。これが侍の羽織にかかった。殿様から拝領した大事な羽織を侮辱され、堪忍袋の緒が切れた侍、腰をひねって抜き手も見せない居合腰で、男の首を斬って、そのまま立ち去る。首を斬られたことも知らずに品川に向かう男、「広い世間にあなたがいなきゃ、こんな苦労はしやすまい」なんて鼻歌まじりだが、声が漏れる。首も横から後ろへ回り始めた。グラグラして来た首にさわると血がべっとり、やっと斬られたことが分かった男、首をささえながら歩いていく。すると前方で半鐘の音、大勢の人が邪魔だ、邪魔だと駆け出して来て大混雑で、壊れ物の首が危ない。困った男、自分の首をひょいと差し上げると提灯がわりに、「はいごめんよ、はいごめんよ、はいごめんよ」」と。「増上寺」周辺の地図。「現在地」。こちらは瓦を積み上げた「うろこ垣」。ここ「おもてなしの庭」では、古瓦の他、庭石もリサイクル。庭園や古民家にあったものが活用されているのだと。この瓦は滋賀県大津市の古民家から譲り受けたもので、門として生まれ変わったのだ。国の登録有形文化財である廣度院の練塀(ねりべい )を借景としていると。右手にあったのが「廣度院」の「練塀」。練塀は底部に間知石を置き、芯柱を用いずに土と瓦を交互に積み上げて壁体とする構造で、現在では用いられることがない。数多くの子院が集まって形成していた特異な都市景観を知るよすがとなっている。その先に「廣度院表門」。増上寺境内の子院の一間一戸の薬医門。浄土宗寺院の廣度院は、酉譽上人が増上寺を開基、廣度を其院名とした時、別に一院を建立、其の事跡を後世に伝えようと國師存應上人が圓融に命じて開創させた と。その先、右手前方に案内板が。近づいて。【No222 増上寺子院群ー廣度院跡遺跡(港区埋蔵文化財包蔵地区)】」「廣度院・練塀(こうどいん・ねりべい)間知石(けんちいし)」復元石積み江戸時代から続く、平衡に安定した上部下部間知石を、発掘の並び・積み上がりのまま復元しました。江戸時代、芝公園一帯は増上寺境内地で、このH¹O芝公園の敷地は三緑山廣度院でした。「間知石」は、江戸時代から平衡に揺るぎなく「練塀」を支えていました。上部は江戸後期の三角錘の間知石、下部は1640年以降の方形に近い間知石です。「練塀」は、三解説門左右・大門左右・御成門左右、台徳院殿霊廟惣門前、山内各所にもありました。「廣度院練塀」は「間知石」とともに、ここに存在しました。「廣度院練塀」は、『江戸城造営関係資料集』「塗師方壁方瓦方当時物井本途内訳」(東京都中央図書館所蔵・重要文化財)に記された内部構造構成を確認できます。「江戸城練塀」・「増上寺三門左右練塀」検証にも必要な存在です。「間知石」は、堀の中から地表へ二段三段と積み上げられていました。この「間知石」の存在や、今回の「廣度院練塀」解体修復調査で判明した「練塀」内部構造により、水はけ対策が理解できます。「廣度院練塀」の脆弱ではない重厚な造り、機能、水はけ対策、配置、景観等からは、増上寺山内寺院建築での配慮を知る事ができます。「増上寺山内常照院所蔵「明治34年大日本東京芝三総山増上寺境内全図」部分」。「堀・間知石・練塀内部構造等の再現図」。「H¹O芝公園の建築に先立ち、「廣度院練塀」及び境内地は、前建築解体工事による 損壊が懸念されました。港区議会では区長が、文化財を保護する観点から、丁寧な対応を指導されました。野村不動産株式会社は、地中調査及び解体前・解体中調査を実施。「廣度院練塀」に連結された前建築振動伝達物ベランダの適切な切り離し撤去と、「廣度院練塀」への前建築越境物解消のための一部解体修復保全工事を補償。文化財「廣度院練塀」及び境内地に損壊はなく、将来に懸念を残さないよう保護されました。H¹O芝公園は港区景観計画の主旨に沿いスカイラインと経済性を両立、増上寺境内地へのリスペクトを持つヘリテージマネジメントを実行しました。三解脱門・大門のアイスポットと寺院の多く点在する景観に配慮され、熊谷組開発の耐火性木の柱を駆使し、寺院建築、日本建築への敬意を示されました。歴史的建造物 「練塀」の瓦・塀の意匠を継ぎ、芝公園の緑の中に歴史的配色を施し増上寺境內廣度院の※遺跡を復元され、「廣度院練塀」への配慮もされました。国の登録有形文化財「廣度院表門及び練塀」が「増上寺子院群廣度院跡遺跡」とともに適切な理解と保存をされることを願い、「間知石」石積みの復元はなされました。1945(昭和20)年の東京大空襲まで、この敷地の一角に増上寺開山西要上人念持の不動尊がいらっしゃいました。不動堂再建のため、その場所は保存されましたが、戦後暫くして、この地に建築がなされました。頭一つ聳え立つ楼閣で、次第に風光明編な芝公園に建つ洋館として親しまれ、一つの時代を終えました。「廣度院練塀」の文化財的保全保護を実現するH¹O芝公園は、増上寺山内での、歴史にとけこみ発展するオフィスビルとして、国際的な港区の歴史の一頁を開かれますよう、不動尊のご加護とともに願っています。令和5年9月 三樺山廣度院」更に「芝公園8号地」東側に沿った通を進む。右側にあったのが「東京都港区役所」。その手前の敷地の角にあった裸像。「平和の女神(1968年) 北村西望作(1884年~1987年)」。弓のように開いた両手に陽光をいっぱいにうけて、男性像によって「平和祈念像」を完成した作者が、同じ理念を女神像によって表した作品。お顔をズームして。左に「港区平和都市宣言かけがえのない美しい地球を守り、世界の恒久平和を願う人びとの心は一つであり、いつまでも変わることはありません。私たちも真の平和を望みながら、文化や伝統を守り、生きがいに満ちたまちづくりに努めています。このふれあいのある郷土、美しい大地をこれから生まれ育つこどもたちに伝えることは私たちの務めです。私たちは、我が国が『非核三原則』を堅持することを求めるとともに、ここに広く核兵器の廃絶を訴え、心から平和の願いをこめて港区が平和都市であることを宣言します。 昭和60年8月15日 東京都港区」右に「「平和の女神」像あの悲惨な戦争が終結してから長い年月を経て、ややもすると薄れつつある記憶 私たちはその事実を歴史の中にうずめてしまうことはできません。港区では恒久平和の願いをこめて昭和60年8月15日、「港区平和都市宣言」を行いました。平和を願う港区民の心の結晶として、「平和の女神」像をここに設けます。 昭和62年3月 東京都港区」その先に「潮騒の記憶」関根伸夫作。かってこの地は海の近くで、海鳥が群れ、潮騒がたえず響く港であった。遠ざかる思い出と港区の未来を記念して、これを「潮騒の記憶」となす と。左手にあった「芝公園6号地」を訪ねた。「月の庭」と。作者は? 既存の「月」のモニュメント周辺に、蛇籠(じゃかご) に模して編んだ竹をしつらえていた。そのダイナ ミックな造形はまさに大蛇のよう。蛇籠は内部に石などを詰め、古来、河川工事の護岸や水制として使用されたのだ「このモニュメントは月見をイメージと」下記にあったが。近づいて。細い蛇籠を模して編んだ竹に囲まれて。「松原の復元芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原 と呼ばれています。 それは、寛永十七年(一六四〇年)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられています。 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。 都は園地改修にあたり原形を残すとともに往来の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。 昭和六十二年二月 東京都」名所江戸百景「芝神明増上寺』。絵の左上に赤い山門が描かれている、これが上増寺の大門。その奥に山門と本殿の屋根が見える。また、右を見ると神殿造りの屋根が見える。これが芝明神。屋根には鰹木の突き出たのが明神さんの特徴だ。中央に描かれた団体さんは、寺での本山参りを終え、これから地元に帰るのか、それとも江戸見物にでも出かけるのか・・・その後ろにいる僧の一行は、江戸市中に托鉢に行くところだ道路脇には多くの松が植えられているのが解るのであった。「芝公園6号地」と「芝公園8号地」の境にあった竹塀と門。近づいて。「芝公園8号地」を縦断して、「増上寺前」交差点まで戻り、左折して「芝大門」方向に向かうと左手にあったのが「源興院」。住居の如き「源興院」。その先にあったのが「源流院」。浄土宗寺院の源流院は、観智國師の法流林應が、青山播磨守忠成と共に出府、林應庵と名づけた庵室を草創していたところ、青山播磨守忠成が増上寺造営奉行となり、増上寺の芝への移転を終えた際に工事の余材を譲り受け源流院と号して建立、後、青山播磨守忠成父子が当院に葬られたといいます。コンクリートの建物。道を引き返すと左手にあったのが「天陽院」。「浄土宗 天陽院」。「どんな一歩も大事な一歩いけらば念仏の功つもり、しなば浄上へまいりなん。とてもかくても、此の身には、思いわすろう事ぞなき(生きている間はお念仏を称えてその功績が積もり、命尽きたならばお浄土に参らせていただきます。いずれにしてもこの身にはあれこれと思い悩むことなどないのです)私たちはさまざまな思いを抱きながら毎日を歩んでいます。思い切って踏み出した一歩も、迷いながら踏み出した一歩も、なんとなく踏み出した一歩も、どれも等しく大切で、私たちが生きる上でとても大事なもの。そんな歩みの中、私たちはお念仏をとなえることによって、阿弥陀さまにお見守りいたたき、いつか命終わる時、「極楽往生」というお導きをいたたくことができます,、日々、悩み戸惑い、心が散り乱れる私たちですが、お念仏の生活を送ることによって阿弥陀さまと共に安心して毎日を歩むことが出来るのです。」浄土宗寺院の天陽院は、生譽珍公が開祖となり、応永31年(1424)武蔵國日比谷飯倉附近に創建、増上寺が当地へ移転(慶長3年1598年)した際に、子院となったといいます。奥にコンクリート製の本堂らしきものが。そして戻る途中に増上寺の「三解脱門」が見えた。「芝公園10号地」にあった「芝公園記念塔」。「芝公園10号地」内を南方向に進む。10号地内の左にあったのが「ペルリ提督の像」。東京都港区芝公園2丁目、増上寺の門前、日比谷通り沿いの芝公園10号地にあるのが、このペルリ提督の像。1953(昭和28)年、「開国百年祭」に際し、ペリー提督の出身地であるアメリカ合衆国・ロードアイランド州ニューポート市に東京都が石灯籠を贈り、その返礼として親善の印に贈られたものと云われています。1854(嘉永7)年、ペリー艦隊が2度目となる浦賀に来航した際、日本側(浦賀奉行所)とアメリカ側(ペリー提督)の会話は、浦和奉行所の通訳・堀達之助がオランダ語ができたことから、ペリー側がオランダ語のわかる通訳・ポートマンを間に立てたため、ペリーではなく、ペルリとオランダ的な発音で日本に伝えられたのです。ちなみに、ペルリはオランダ語読みで、英語ではペリー。嘉永7年(1854年)、ペリー艦隊が2度目となる浦賀に来航した際、日本側(浦賀奉行所)とアメリカ側(ペリー提督)の会話は、浦和奉行所の通訳・堀達之助がオランダ語ができたことから、ペリー側がオランダ語のわかる通訳・ポートマンを間に立て、日本語〜オランダ語〜英語〜オランダ語〜日本語という順序で訳されながら行なわれたため、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)の名は、ペリーではなく、ペルリとオランダ的な発音で日本に伝えられたのです。そのため、来航当時の文書には「ペルリ(彼理 ・伯理)」と表記されています。像の制作者は彫刻家、フェリックス・ド・ウエルドン(Felix Weihs de Weldon)で、有名なアーリントン国立墓地にある『海兵隊戦争記念碑』(昭和20年2月の硫黄島の戦いで、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子をジョー・ローゼンタールが撮影した写真を元にして制作、『硫黄島記念碑』とも)と同じです。ちなみに、東京都とニューポート市は姉妹関係になく、ニューポート市と姉妹関係を結んでいるのは、日米和親条約の細則を定めた下田条約を締結した地、静岡県下田市です。すぐ近くには、「万延元年遣米施設記念碑」があり、増上寺の門前が開国記念の園地になっている感じに。「西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう、竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会」そして道路の反対側に見えたのが「常行院」。浄土宗寺院の常行院は、遵譽大和尚の招聘により下向してきた元天台僧の戒順が、当地に留錫して一院としたといいます。「住職 吉原自覚」と。「本堂」?をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.31
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「芝 増上寺」の境内の散策を続ける。次にあったのが「阿波丸事件殉職者之碑」。「阿波丸は第二次世界大戦も終わりに近い昭和20年4月1日夜半、台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に対する救恤品の輸送に當っていた。国際法で其の安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は二千有余名、世界史上最大の海難事故となった。 加害者に對する責任の追及や賠償交渉も進まないうち、同年八月わが國は無条件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の眞相を究明せず、米國に對する賠償請求權を國會の決議として放棄した。 いまや平和の時代となり、經齊は復興したが戰爭の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、歸らぬ人のことを思ひ續け悲しみを懐いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船體の引揚げ遺骨の拾集も實行に移されないままである。三十三回忌に當り、悲憂を文に訴へるとともに、法要の心とするものである。 昭和52年(1977年)4月1日 阿波丸事件犠牲者 遺族一同」「筆塚 心と創造」。近づいて。「筆塚心と創造学びの精神はいつの時でも人を育み人とともに歩んでいきますその歩みの中で心豊かに それぞれの人生を創造していきます 学びとは心の糧であり創造の源です努力と研鑽 勇気と希望 自信と志の象徴です 碑に刻まれた「心と創造」が 明日へ歩む子どもたちの人生の標となるよう ここに努力の軌跡を残し 今感謝の気持ちを込めて 学び具を奉納します子どもたちへ学べよ 努めよ 今がその時です平成十六年二月吉日練成会グループ」「町火消「め組」の供養碑」。文字部分に赤いペンキが入れられているが、「め組」となるとその派手さが気にならないから不思議。「め組」。■町火消■まちびけし火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのであろう。■め組■町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です とネットから。句碑は「仰ぎ見る 萬代の星 千代の月」と我がブログの校正・校閲、古字・旧字読解の師匠が調べてくださいました。上記の石碑には纏の標識部を陀志(だし)と呼ぶが、「二」と「め」の字を配した姿が刻まれていた。隅田川以西の町々を凡そ20町ごとに47の小組にわけ「いろは」を以て名づけ、又、隅田川以東は16の小組にわけ、纏(まとい)や幟(のぼり)を定めて各自の目印とした。この増上寺周辺の地域は「め組 二番組」と。奥のこの石碑には「南無阿弥陀佛」と。「弔魂之碑(ちょうこんのひ」。西南の役(せいなんのえき)で戦死した看護卒(かんごそつ:看護師)の供養碑で、明治11年(1878)に建てられた。題額は山岡鉄太郎(鉄舟)。石碑の下部には「弔 魂 之 碑 病者之得痊.傷 者之得治.一 由干医. 二由干看病人.蓋 薬剤錐中其病.而 有体 憧愛護者.則 平復難期也.看 病人之責重 突哉.明 治十年 征薩之役.陸 軍省発遣 看病人看病卒干戦地.死 者二十人・ 事 平.其 生還者.立 碑於芝山内.以 弔其 魂.陸 軍軍医監林紀君管理其事.属 余作 銘.銘 日. 看護他人 以損其身 比諸戦死 忠烈 惟均. 明治十一年八月廿日 中村正直撰 成瀬温書 従五位 山岡鉄太郎題額」とあった。台石が4尺位、碑石は14・5尺もある大きな立派な石碑である とも。近づいて。「弔魂之碑」の下に「有志六百名」と刻まれた石碑。台石の方には、発起世話人、関 成功など8人の名を刻んであ り、また「有志六百名 の文字もあった。そして「三解脱門」2階と横の「山廊」との連絡階段を境内から見上げて。再び「聖観世音菩薩」の足元へ。再び紅葉・黄葉を追う。「王殿」と「東京タワー」を再び参道から。「光摂殿」の裏にある「景光殿(旧広書院)表門」、「大納骨堂(舎利殿)」、「貞恭庵(ていきょうあん)」、「圓光大師堂(えんこうだいしどう)」等は、「以前に訪ねた」👈リンク ことがあるので、時間の関係上、この日はパスしたのであった。「寺務所」を斜めから見る。「大殿」と「東京タワー」。「黒門」に向かって進む。右手にあったのが「経堂」。1605(慶長10年)の創建。その後、1681年(天和元年)に改造移築、1802年(享和2年)に現在地に移築。構造は土蔵造で、内部には八角形の木造輪蔵を安置。輪蔵には、徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されている(現在は収蔵庫に保管)。隣にあったのが「増上寺 慈雲閣(開山堂)」。浄土宗大本山「増上寺」の敷地内にある式場。多人数の葬儀から格式高い社葬などに利用され、慈雲閣は1階部分が式場で2階部分に畳の広間があり、パーテーションにて式場の広さを調整できるようになっている と。扁額「慈雲閣」。そして「増上寺旧方丈門(黒門)」を境内側から再び。「黒門」横の紅葉。「三解脱門」を境内側横から。そしてこれでもかと「増上寺」の境内を楽しんで、「黒門」から日比谷通りに出て、「増上寺前」交差点を渡り「三解脱門」を振り返ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.30
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「増上寺 徳川将軍家墓所」を後にして「安国殿」方向に戻ると「徳川将軍家墓所」の北側の道路に沿った場所にも向かい合うように「千躰子育地蔵菩薩」👈リンク が並んでいた。「安国殿」前の「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「銅像聖観音立像」と「千躰子育地蔵尊」。角度を変えて。「西向観音堂」。「港区の文化財 西向観音堂西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰が続いています。平成四年三月三十日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」「西向観世音菩薩像」。鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまです。昭和50(1975)年、安国殿前に尊像を遷座、同55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われています と。その横には、石仏が2体。境内入口の石柱には「江戸札所 二十一番 西向観音」と刻み込まれていますが、よく見ると左下に「橘右近謹」という文字が彫り込まれていた。「橘右近」という人物がこの文字を揮毫した と。「奉般若心経壱萬巻納」と。可愛らしい石仏像。さらに東に向かって進む。左側・増上寺 西向観音堂の裏には増上寺北側の道路からも境内に入れる道が。右手に蘇鉄と三波石(さんばせき)。三波石は、群馬県藤岡市などで産出される岩石。青緑色で白い縞模様があるものが、よく庭石などに利用されているのだ と。 その手前には石灯籠の礎石か?ポツンと。そして参道の石灯籠(左)。参道の石灯籠(右)。さらに北側の参道を東に向かって進む。東京タワーを振り返る。ここにも「千躰子育地蔵菩薩」が並んでいた。「千躰子育地蔵菩薩子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。」「千躰子育地蔵菩薩」に近づいて。「千躰地蔵尊」碑。「南無阿弥陀佛・・・・」と。「TERA CAFE SHIEN ZOJOJI」が左側に。そして正面に見えて来たのが「熊野(ゆや)神社」。元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。「熊野」は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称があるが、当山では「ユヤ」権現として親しまれている と。「熊野」は元々は、イヤ・ユヤが語源の始まりと記されています。 谷、山深い地域のことをそう呼んだと。 それに、漢字の熊野をあてはめたと。 神武天皇が紀伊半島を超えて、大和(奈良県)に入った時に、熊にであったなどとの伝えもありますが、 単に、山深い・谷深いことの喩に、熊野と言う漢字を当てはめたのではと。 確かに、熊と野ですから、そう感じるのも不思議ではないのですが。能を代表する曲の一つである『熊野』(ゆや)は、世阿弥 の作であると。石鳥居。扁額「熊野神社」。「手水舎」。「手水鉢」。「手水鉢」には三本足の烏「八咫烏(やたがらす、やたのからす)」が。「「三本足の烏[八咫烏]『神々のお使い』日本書紀によると、神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。「日輪の中に三本足の烏」ルーツは中国で、太陽の中に三本足の烏が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は烏によって空を運ばれるとも考えられていました。烏の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽にふさわしいと考えられます。日本に於いても、三本足の烏が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。また時代によっては、「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の烏と八咫烏が習合し、熊野の烏も三本になったものと考えられます。『シンボルマーク』天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の烏の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。 大本山増上寺熊野(ゆや)みこし講 世話人 益子良通」「熊野三所大権現宮由来記増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。御神体は熊野本宮大社 家津御子大神(けつみこのおおかみ)熊野那智大社 大己貴命(おおなむらのみこと)熊野速玉神社 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)以上の三御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年3月3日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は4月第3日曜日に定まる。 大本山増上寺熊野みこし講』「大本山 増上寺 熊野みこし講 創立40周年記念碑」「大本山増上寺 熊野みこし講 創始者 綿貫次郎 創立40周年記念碑」「西暦1974年(昭和49年)、故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。増上寺の繁栄を願い、若者達の力でお手伝いをしようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに40周年を記念し石碑を建立いたします。平成26年4月吉日大本山増上寺 熊野みこし講」。「熊野神社」の「社殿」。近づいて。さらに。熊野神社の社殿前から、石鳥居越しに東京タワーを見る。ズームして。「安国殿」、「東京タワー」を振り返って。「喜壽記念 奉納桜 百本昭和五十五年四月吉日永谷キミ殿」「三解脱門」の横の「山廊」を裏から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.29
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「増上寺 徳川将軍家墓所」の西側正面を見る。「明治期の増上寺御霊屋図」案内板が中央に。「明治期の増上寺御霊屋図」。増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲によりその大半が焼失。昭和33年(1958年)に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられたのた。 写真「台徳院(二代秀忠公)霊廟 本殿内部」。旧増上寺の「北・南御霊屋」配置図。□ 現在の増上寺境内の敷地。□ 現在のプリンスホテルの位置モノクロだが豪華絢爛さが伝わって来た。「文昭院(六代家宣公)霊廟 拝殿内部」。「文昭院(六代家宣公)霊廟 相之間内部」。「文昭院(六代家宣公)霊廟 唐門側面」。「有章院(七代家継公)霊廟 勅額門」。「崇源院(お江の方)霊牌所 内部」。「鋳抜門」を霊廟側から。扉に近づいて。こちらには、徳川葵紋はなく、波のみが。右側の上り龍。左側の下り龍。「現将軍墓所宝塔配置図」。「二代秀忠公夫妻 石塔」 「台徳院殿 二代秀忠公」 秀忠は家康の第3子として、天正7(1579)年に出生。慶長10(1605)年、 二代将軍に就任。将軍職にあること18年をかぞえ寛永9(1632)年、54歳で逝去。 大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、二月十日より当時の最高の技術者が動員され、 霊廟が順次造営された。台徳院殿廟奥院に杷られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋を つくしたものであったが、惜しくも木造のため戦災で焼失してしまったと。 「崇源院殿 お江の方」。 崇源院(すうげんいん/そうげんいん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の 戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。 崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督 (おごう)の名で知られるが、 諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。 長姉の淀殿(茶々)、次姉の常高院(初)とで、いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と 婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子(さだこ) をもうけたが、秀勝が急逝。 江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。「台徳院殿 二代秀忠公」と。「崇源院殿 お江の方」と。「二代秀忠公夫妻」の左側に「六代家宣公夫妻(青銅製)」。近づいて。「文昭院殿 六代家宣公」と。霊廟の右・北側に並ぶ墓石群。右奥の「有章院殿 七代家継公」。家宣公の第3子として宝永6(1709)年に出生。父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。正徳5(1715)年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6(1716)年に8歳で亡くなられた。廟は文昭院殿廟に並んで造営された。その右側に「惇信院殿 九代家重公」。吉宗公の長子として、正徳元(1711)年に出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、宝暦11(1761)年、51歳で逝去。調査によると、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようですが、復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁する大名にとっては気高く見えたと。「惇信院殿 九代家重公」。「慎徳院殿 十二代家慶公」家斉公の第2子として、寛政5(1793)年に出生。天保8(1837)年、十二代将軍に。天保の改革に着手するものの改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むことに。嘉永6(1853)年、あわただしい世情の中61歳で逝去。霊廟の左・南側に並ぶ墓石群。宝塔には石製と青銅製の2種類が確認できたのであった。 左側奥には「昭徳院殿 十四代家茂公」。紀伊徳川家、斉順の第2子として弘化3(1846)年に出生。安政5(1858)年将軍家の養子となり十四代将軍に。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征途中の大坂城で病のために逝去。慶長2(1866)年、享年21。「昭徳院殿 十四代家茂公」。「十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮」。十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3(1846)年に出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁。家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という短い生涯を閉じた。没後遺体は京都へ戻すよう沙汰があったが、本人の遺言にしたがい、家茂公と同列に並んで増上寺に祀られたと。i入口手前には歌碑があったが。「十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮」。「合祀(ごうし)塔」。 現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されていると。なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われているのだと。 「増上寺 徳川将軍家墓所」越しに東京タワーを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.28
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粟津温泉 喜多八<石川県>「増上寺 宝物展示室」前にも、移設された青銅燈籠が2基。■宝物展示室入口(南側・写真奥) 奉献者:安芸国広島藩主 浅野吉長 鋳物師:多川民部藤原見歳■宝物展示室入口(北側・写真手前) 奉献者:前越後国高田藩主 松平定重 鋳物師:今井信濃藤原勝長「増上寺 安国殿」越しに東京タワーを見る。正面に「安国殿」👈リンク。常香炉とその先に「安国殿」入口が。内部に入る。寺務所。ネットから祭壇全体の写真。「安国殿」のご本尊、秘仏「黒本尊」はこちらにあるのだと。恵心僧都の作。家康が崇拝し、黒本尊のパワーを借りて激戦を勝ち抜いたのだ と。秘仏「黒本尊」の「お前立」をズームして。「安国殿と黒本尊この建物は德川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(一九七四)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。建物の老朽化に伴い、平成ニ十三年(二〇一一)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。」祭壇の右側には阿弥陀如来立像。祭壇の左側。中央に狩野探幽筆『徳川家康像』と同じ絵が、その下、右横には徳川家御歴代並びに一門の尊霊の位牌等が祀られていた。そして一番左に「皇女和宮御像」。「安国殿」の右側にあったのが「徳川将軍家墓所公開」と書かれた門。「徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)特別拝観当山に埋葬されているのは、ニ代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十ニ代家慶公、十四代家茂公、の六人の将重のほかニ代将軍正室崇源院、十四代将軍正室静寛院などです。以下 略」「千躰子育地蔵菩薩」。増上寺では子育安産の西向聖観世音菩薩にちなみ、昭和50年頃より子育地蔵が徐々に建立され、境内北側に約1,300体が安置されている。このお地蔵様は、お子様の「無事成長」「身体健全」或いは「水子さま」のご供養のためにと願いを込めて建てられたもの。毎年4月の第3日曜日には「千躰子育地蔵尊大法要」が執り行われ、子供の無事成長・身体健全の祈願、水子のご供養を執り行っている と。赤いニットの帽子をかぶり風車を持っていru。赤いよだれかけをしているお地蔵さんも。子供の健康と成長を願って安置され無数の地蔵尊が並ぶ。風が吹くと、時折、からからと風車が音をたててまわっていた。増上寺境内の地蔵様たちは皆それぞれ愛くるしい顔の表情で、端から端へと見て歩いたのであった。全ての地蔵様が「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」できちんときれいに身繕いされていたのであった。全ての子供達の健やかな成長を願いながら。「増上寺 徳川将軍家墓所」に向かって「千躰子育地蔵菩薩」に見送られながら歩く。「千体子育地蔵菩薩子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。」そして正面に石碑が並んでいた。「皇女和宮の歌碑はゝ(母)所葉乃(そはの) 散(ちり)し秋さへ 思ひ出て 一方ならず 袖はぬれける」亡き母(観行院)を偲び、涙にくれたという歌である とネットから。「止於考」と刻まれた石碑。「止於考」は、儒教の「大学」にある「為人子,止於孝;為人父,止於慈」という文言によるもの と。「止於考」は、子として真心をもって両親に仕える道を「孝」とすることを意味する と。見事に紅葉したモミジ葉。近づいて。「徳川将軍家墓所・鋳抜門」が右手にあった。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されているのであった。扉には徳川葵紋が並んでいた。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。東京増上寺の寺紋、日光市日光東照宮の神紋、京都市清凉寺の寺紋であると。門の右には上り龍。門の左には下り龍。「港区の文化財 増上寺 鋳抜門」案内柱。近づいて。その奥には「徳川家 霊廟」と。「増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かっては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和二十年三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一角にまとめられた。」「徳川将軍家墓所戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右) に建ち並んでいた。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳 粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいであった。 その後昭和 二十年(一九四五)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。 正面の門は旧国宝で「鋳抜門(いぬきもん)」と言われ、文昭院殿霊廟(徳川家第 6 代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築した。 左右の扉は共に青銅製で 5 個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、 その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。 墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の 六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お 江)、静寛院宮(十四代家茂公正室和宮)ら 五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。」「四菩薩像」。「四菩薩像正面(右)から普賢菩薩(辰年守本尊)地蔵菩薩(子育地蔵)虚空蔵菩薩(丑寅守本尊)文殊菩薩(卯年守本尊)もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。西向の観音像に対し東向きであった。正嘉ニ年(一ニ五八)の作と伝たえられる古像である。奉納 杉浦米奉納 藤城里花」「港区の文化財 四菩薩」。「向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の4体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉二年(一二五八)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。」「増上寺 徳川将軍家墓所」入口手前には大きな石灯籠が並ぶ。さらに左側にも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.27
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粟津温泉 喜多八<石川県>「写経塔」。「写経塔」は、三解脱門から大殿に向かって右手にあった。昭和54年から始まった増上寺の写経会で、書写された写経が奉納されるための塔とのこと。枝垂れ桜の木ノ下に「故長谷川一夫丈遺愛の桜」碑。「為照林院澄譽演雅一道大居士供養塔故長谷川一夫丈遺愛の桜施主 林 成年」と。長谷川一夫(1908~1984)は戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スター」と呼ばれた。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。大殿に登る石段の右手手前に「法然上人歌碑」。「月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こころにぞすむ」「お歌の由来月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こころにぞすむ観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。 寄贈 千代田水産株式会社」。前方左手にも「法然上人歌碑」が。「池の水 ひとのこころに にたりけり にごりすむこと さだめなければ」人の心は、ほとけ心が起こるかと思えばあとからあとから迷い心がでてきて、なかなか悟ることはできない。何とも心もとないことであろう。という意味だ と。「お歌の由来池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ法然上人の御作、変わりやすい人の心を池の水にたとえてお歌に示されたものである。 寄贈 千代田水産株式会社」「聖鋏観音像」。この聖鋏観音像は、昭和56年(1981年)8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。「聖鋏観音縁起この聖鋏観音像は、 昭和五十六年八月三日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処とにり、お守りとなるよう願われて奉造された。聖鋏観音像は、彫刻界の長老・北村西望氏の制作である。毎年八月三日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される ハサミは観音菩薩の御手そのものである 徹誉大僧正」近づいて。そして石段の上に大きな「大殿(だいでん)」が。参道から大殿前に至る階段は18段。阿弥陀仏の本願、第18願であると。徳川幕府の支援を受けて建てられた創建時の大殿は豪華な一階建ての建物でした。その大きさは京都にある浄土宗の総本山、知恩院の巨大な大殿をしのぐほどでした。残念ながら、元の大殿は1870年代に起こった廃仏運動によって明治時代(1868–1912)に焼失しました。建て替えられた大殿は、第二次世界大戦の空襲で破壊されました。現在の鉄筋コンクリートづくりの大殿は、1974年に比較的シンプルな建築様式で建てられました。増上寺の本尊である阿弥陀如来の像は大殿の二階に安置されています。浄土宗の信徒はここに来て「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀様に帰依します)」と唱えます。これは、仏の名を繰り返し唱えることでどんな人でも悟りを開けるとする「念仏」という慣習です。本尊の左側に置かれているのは、浄土宗の開祖である法然上人(1133–1212)の像です。法然は上流階級のものだった仏教を一般大衆に広めました。右側には中国の高僧、善導大師(613–681)を祀る祭壇があります。善導大師は法然より何世紀も前に念仏の重要性を説いた人物で、法然は善導大師の残した書物から感銘を受けました。増上寺の僧侶は毎日3回、それぞれ午前6時、午前11時30分、午後5時に仏に祈りを捧げる儀式(勤行)を行います。参拝者は日々の勤行に加え、4月と12月に行われる舞楽の奉納など、大殿で開催される特別行事にも参加できます。大殿の他の階は、地下1階が宝物展示室、地下2階が檀家1,600人のお墓、3階が道場となっています。三門から大殿...距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。大殿に登る階段...25菩薩をあらわし、25の階段となっているとのこと。左右に「青銅製灯籠」。旧徳川将軍家霊廟に奉納されていた青銅製の燈籠4基が、埼玉県狭山の不動寺から増上寺に移設され、大殿前石段脇と宝物展示室入口に祀られたのだと。かつて歴代将軍が薨去すると、全国の大名から灯籠が寄進され、菩提寺に造営された各霊廟に献備された。寄進する灯籠の数や種別は、大名の石高によって決められていたと。江戸時代、増上寺本堂の南北に広がっていた二代、六代、七代将軍の霊廟には、1,000基もの石燈籠と、80基ほどの青銅製の燈籠が祀られていた。移設された4基は、六代将軍徳川家宣公の霊廟である文昭院殿霊廟の宝前に奉納されたもの。文昭院殿霊廟は、威容華麗を誇った台徳院殿霊廟に引き続き、1712年に増上寺の北側に造営された。惜しくも戦災で焼失しったが、再び増上寺に祀られた灯籠は、往時を偲ばせる荘重な雰囲気を醸成している と。この大殿前石段脇 2基は奉献者:越中国富山藩主 前田利興鋳物師:宇田川藤四郎重次 であると。左の青銅製灯籠。「大殿」入口前の階段下から。。「大殿」入口前。扁額「増上寺」。内陣。中央には本堂ご本尊(室町期製作)の「阿弥陀如来」が祀られている。ズームして。「大殿(だいでん)昭和四十九年(一九七四)、浄土宗開宗八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。「大殿」と称し、間ロニ十六間余(約四十八メートル)奥行ニ十五間余(約四十五メートル)高さ七丈半余(約ニ十三メートル)総面積は一〇.五三五平方メートルという大きさの大本堂です。石段を登りきったニ階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に宝物展示室などを備えています。本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。」「大殿」前から「三解脱門」方向を振り返る。左手奥にあったのが「祐天桜」。祐天桜は江戸時代を代表する浄土宗大本山増上寺第36世の祐天上人(1637~1718年)が寛永元年(1661年)の頃、手植えした桜と伝承されている。花がかたまって咲くのが特徴。「祐天桜」碑。住友林業のバイオテクノロジーで増殖された貴重種の祐天桜が植えられているのだと。道路標識の如き案内板が境内に。「幼少法然さま」(=御幼名・勢至丸さま)像。近づいて。平安時代末期、貴族よりも庶民に近い武士が政治権力を握るようになった。このため仏教も、貴族から庶民を対象とするものへと変化が始まった。そんな情勢で登場したのが法然(浄土宗開祖)だった。法然が9歳のとき、土地争論が発端で父漆間時国が殺害されたが、父の遺言により、仇討ちを放棄し仏門に入ったとのこと。増上寺「光摂殿」。右側は「増上寺會館」。昭和36(1961)年に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11(1999)年に建立。東棟・中棟・西棟の3棟からなる会館で、寺務所機能のほか、大食堂や和洋2種の各個室は参拝や法事、研修や修養会で来られる多くの方々に利用されていると。 左側が「寺務所」。増上寺「光摂殿」。平成12(2000)年、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成。三縁山広度院増上寺境内に三解脱門から入って大殿の左側、増上寺会館との間に位置する。館内には108畳敷もの大広間があり現代日本画を代表する120名による天井絵は四季折々の草花をテーマで目に触れた人を極楽浄土を想像させるものになっている。また、光摂殿は増上寺の境内に三か所有る式場の一つで、それぞれ使い方が決まっていると。参列者が500名までは「慈雲閣」で1000名までが「光摂殿」1000名以上になると「大殿」と言う事になると。参列者が500名とは相当な人物?そして光摂殿と大殿の間に東京タワーの姿を再び。扁額「光摂殿」。「光摂殿」入口正面の唐紙の装飾模様。千羽鶴が連なって飛翔するが如き模様。「光摂殿」前から「増上寺旧方丈門(黒門)」方向を見る。日比谷通りから見たイチョウの葉の黄葉をこちらからも楽しむ。ズームして。更に。石碑に近づいて。三縁山広度院増上寺山仁誉上人の詠んだ歌「今日もまた 南無阿弥陀佛 すかりなは 導き受けて 日日に新たに」「今日もまた、南無阿弥陀仏と称えて、阿弥陀仏におすがりしたならば、仏の導きをうけて日々新たな思いですごすことができます」の意 と。「増上寺旧方丈門(黒門)」の姿が。再び「大殿」前まで戻り、境内を望む。「増上寺宝物展示室 長期休館のお知らせ」。「常設展 五百羅漢図」。「増上寺宝物展示室」は「大殿」の「B1入口」からと。「大殿」と「安国殿」の間に見えた東京タワーを再び。ズームして。「大殿」を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.26
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そして「増上寺」前の日比谷通り・「増上寺前」交差点に到着。増上寺の正式名称は「三縁山広度院増上寺」ご本尊は阿弥陀如来・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)交差点から巨大な山門・「三解脱門」を見る。「増上寺」は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与して来た。17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、巨大な寺であった。当時は、3000人以上の学僧の念仏が、全山に鳴り響いていたと言われている。苦難の明治期と戦災を乗り越えた増上寺は、昭和49(1974)年に悲願の大殿再建を果たす。宗祖法然上人八百年御忌をお迎えするにあたって、平成21(2009)年には圓光大師堂と学寮を、平成22(2010)年には、安国殿を建立した。長い年月をかけて、境内諸堂宇が整い、復興が成ったとのこと。東京都港区芝公園4丁目7。「三解脱門」をズームして。間口10間4尺5寸(19.5m)奥行5間(9m)高7丈(21m)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有している。この巨大な門は1622年に将軍の大工頭によって建造された。この門は増上寺創建時から残っている唯一の建造物。この門の正式名称である「三解脱門」は、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろか)の三毒からの解放されてご本尊の阿弥陀如来さまの元へと向かい極楽浄土へ入るための門を意味しているとのこと。高さ21メートルの門の二階部分(現在一般には公開されていません)には、釈迦如来の像が安置されており、この像のかたわらにはそれぞれ異なる表情を浮かべている二菩薩と十六羅漢(釈迦の最も献身的な弟子)が控えている。これらの像は江戸時代(1603–1867)初期の作であると考えられている。下層に寄棟屋根、上層に切妻屋根を持つこの門の凝ったつくりは、仏教が日本に伝来した6世紀頃の中国の建築様式を参考にしたもの。二階部分の欄干のシンプルなデザインは、日本的な建築美学を反映しています。鮮やかな朱塗りのこの門は、江戸(現在の東京)を代表するランドマークのひとつであった。三解脱門には、通常お寺の入り口に置かれている2体の恐ろしい顔をした仁王像がない。これは、増上寺が浄土宗の寺院であるためで、浄土宗は救いを求めてやってくる全てのものを歓迎しているのだと。10年間かけて行われる三門の改修工事は、2025年4月に着工が予定されているとのこと。「三解脱門」の扁額は「三縁山」。横断歩道を渡り、「三解脱門」前に巨大な立札が。「大本山増上寺 浄土宗開宗八百五十年慶讃 勧進 法要奉修 令和六年四月」と。「勧進」とは「寺社・仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのために寄付を募ること。」。「今月の言葉👈リンク西岸の上に人有って喚んで言わく汝、一心正念にして直に来たれ我よく汝を護らん衆て水火の難に堕せんことを畏れざれ 「三心料簡および御法語」法然上人」と。「西に向って旅をしている人がいます。するとその人の前に突然河が現われます。河幅は100歩程であるが、南は焼えさかる火の河、北には水の河が渦巻いていた。その水火の河の分かれ目に1本の白い道が西岸まで通じている。その白い道は幅が4、5寸であるが、常に炎と波浪が襲いかかり渡るにはあまりにも危険であった。後を振り返れば多くの賊徒や猛獣たちがこちらに向かって迫ってきている。絶体絶命のこの人は、どちらに向かっても死を免れることはできないと意を決し、どうせ死ぬならこの危い細い白道を進んでいこうと決心したのです。すると東岸から「この道を真っすぐ進んでいきなさい。死ぬことはありません。もしここにとどまれば必ず死んでしまうでしょう」と語る声がした。また西岸からは「心を定めて直ちにこちらに渡ってきなさい。私はあなたを必ず護ります。水火の河など恐れてはなりません」と語る声がした。東から「行け」西から「来い」と励ましの声がしたので旅人は、疑いや不安の心が消え決然と白道を進んで、西岸つまり極楽浄土にたどり着きました、という譬え話とのこと。「三縁山 広度院 増上寺浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじようじ)が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきた。江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康から深く帰依を受け、手厚い保護を受けた。慶長3年(1958)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵している。」「三解脱門慶長十六年(一六一一)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中居大和守正清によって建立され、元和八年(一六二二)に再建されました。この門 は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門の名は、煩悩から解脱した覚りの境地を開くための三種の修行、「空門」「無相門」「無願門」からなる「三解脱門」に基づいています。また「三門」と通称されています。建築様式は三戸二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約十九メートル)奥行五間(約九メートル)高さ七丈(約二十一メートル)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像 が奉安されています。」「三解脱門」の前には「日比谷通り」その先には「芝公園 8号地」の緑が。この「三解脱門」前の「日比谷通り」を正月2日、3日には箱根駅伝のランナーが爆走したのであった。寺号標石「浄土宗 大本山 増上寺」。「三解脱門」の左右に延びる棟には計四つの花頭窓が。反対側から「三解脱門」を見上げる。「三解脱門」に吊るされている飾り。名前は??最上部には、徳川家の菩提寺なので三つ葉葵の寺紋が。中央部には「魚がし」の文字。一番下には「(魚)壱場」漁業関係の会社からの奉納品であろうか。同じものが隣にも。「江戸切絵図」を「ネット」👈リンク から。「芝口南西久保 愛宕下之図」に描かれている。 拡大図。「東京名所芝増上寺之図」。明治32年(1899)8月10日 と。広重『東都名所 芝増上寺』。そして「三解脱門」を潜り境内へ。正面に巨大な「大殿」。「増上寺 境内 案内図」。翌日12月2日、大殿本堂内にて開かれる「増上寺蝋燭能」のポスター。演 目:狂言 「仏師」 野村又三郎 能 「船弁慶(前後之替)」 梅若泰志 と。「タイムカプセル」標。「宗祖法然上人御降誕850年慶讃タイムカプセル記念建設の標昭和57年浄土宗宗祖法然上人御降誕850年を慶讃し、この勝縁・恵まれた子供達の夢や希望を大切に育むことを目的としタイムカプセルに収蔵し埋設し、上人降誕900年を迎える50年後を待っております。勝縁に接することの出来た子供達は勿論のこと生あるものの幸せが永久しへなることを祈ります。南無阿彌陀佛 大本山増上寺 第85卋 心誉康隆」「浄土宗 大本山 増上寺」案内板。中央に配置案内図。「沿革浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳四年(一三九三年)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうにん)によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(ー五九八年)に現在の地に移転しました。文明ニ年(一四七〇年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。江戸時代初期、増上寺法主十ニ世 源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その大きさは、寺領ー万石余、ニ十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管しています。1️⃣大殿(本堂・宝物展示室) Daiden (Hondo: Main Hall)1階 信徒の法要受付及び控室2階 大本堂 本尊阿弥陀如来をお祀りしています3階 仏間(道場)地下1階 宝物展示室「2️⃣安国殿徳川家康公の念持仏として有名な、秘仏「黒本尊阿弥陀如来」が祀られています。黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け戦の勝利をおさめ、天下統一の大願を成就したという霊験あらたかな阿弥陀如来像で勝運や、厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。◆正月15日・5月15目・9月15日に黒本尊御開帳(正五九祈願会)◆各種御祈願・水子供養をお受けしております。◆お守り・お札・お土産等を扱う札所がございます。」「3️⃣圓光大師堂法然上人の御身柄が奉安されております。」4️⃣徳川将軍家墓所徳川家の菩提寺として現在6人の将軍と皇女和宮さまをはじめ、各公の正室・側室、そして子女の墓所があり、かっての栄華を偲ばせています。5️⃣貞恭庵(ていきょうあん)皇女和宮さまゆかりの御茶室。6️⃣光摂殿(こうしょうでん)1階 講堂3階 大広間(天井絵が飾られています。非公開)7️⃣慈雲閣(じうんかく)1階 多目的施設2階 開山堂 開山上人をお祀りしています。8️⃣増上寺会館会館2階に寺務所がございます。「聖観世音菩薩」。どこにも逃げ場がなくなった時、人の目には地面が近いと映ってしまうのだろうか。それとも絶望のせいなのか。炎と煙に追い詰められた宿泊客が9階あるいは10階から飛び降りる衝撃的な映像が目に焼き付いている。1982(昭和57)年に東京であったホテルニュージャパンの火災。亡くなった人は33人、そのうち飛び降りて命を落とした人は13人にも上る。首都のど真ん中で発生した大惨事。ずさんな防火体制が明らかになり、経営者は厳しく責任を問われて実刑に服した。その悲惨な火災で亡くなった人たちの慰霊のために建てられたのが、大本山増上寺(東京都港区芝公園4丁目)境内にあるこの「聖観世音菩薩」の像である。像がここに設置されたのは遺体の仮安置所になり、仮通夜も行われた縁とのこと。お顔をズームして。台座には「聖観世音菩薩ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれていた。そして台座の裏には「昭和六十二年(1987)二月八日株式会社 ホテルニュージャパン取締役社長 横井英樹 建之」と。先ほど解ったことであるが、横井英樹氏は死者33人を出したホテルニュージャパン火災で1993年(平成5年)11月25日に禁錮3年の判決が最高裁で確定。これにより勲七等及び記章を褫奪された。1994年(平成6年)から八王子医療刑務所で服役したが、1996年(平成8年)に仮釈放となり、1997年(平成9年)には刑期を終えているとウィキペディアより。よってこの「聖観世音菩薩」は裁判で争っている時期に建立したものであろうか。この「聖観世音菩薩」を建立した時の心境はいかに?「仏足石」。近づいて。「仏足石仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。この仏足石は、当山第70世福川行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。」そして「魚供養之碑」。「魚供養之碑魚がしに会社を起こし、水産物を商って37年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。 昭和60年3月8日 千代田水産株式会社」「お~いお茶わたしの街の未来の桜プロジェクト祝一千本目 十一代目 市川海老蔵丈市川ぼたん氏、堀越勸玄氏 合同植樹」。「ブッシュ槙」。「ブツシュ槙(コウヤマキ)米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。」「詠唱発祥の地」碑浄土門主 心誉康隆淨土宗吉水講「詠唱発祥の沿革浄土宗は, 終戦直後の昭和21年, 国は焦土と化して, 身も心も路頭に迷う人々に心のやすらぎと生きる希望を与える教化活動と して, 時の浄土宗教学部長 吉水智承師を中心に, 古くて新しい詠唱, 浄土宗吉水講をこの地増上寺境内に開きました。第一回詠唱講習会が, 松濤基道師, 鈴木錦承師を講師として総本山知恩院に於て開催されたのが同年7月であります。詠唱教化の道が開かれましたが, 奇しくも翌22年12月に浄土宗に宗政の変動が興り, 詠唱教化の道は停滞したかに思われました。しかし, 幾度の困難を乗り越えて, 詠唱は政治を超越し, 念仏教化の道として受け継がれ, 昭和26年9月, 僧和探玄師, 花木順道師,知足園朗師, 池上霊心師を中心に 知恩院吉水講が産声を挙げました。増上寺吉水講は, 昭和55年 善導大師一千三百年遠忌を記念して, 第一回詠唱大会を開催することができました。その後毎年御忌 奉納を続け, 念仏の助業としての詠唱は, 燎原の火の如く, 関東, 中部, 東北, 北海道一円に広まり, 寺院を中心に吉水講の集いが結成され, 新しい念仏信仰が盛り上がり, 今日の浄土宗吉水講の発展に大きな原動力となりました。これは松濤基道師, 菊地道雄師, 北山良祐師, 故鈴木錦承師, 故曽我晃也師及び 詠唱指導普及委員先生のご尽力の賜であり, 講員一人一人の地道な活動と熱意にほかなりません。このたび増上寺吉水講20周年記念大会を開催されるにあたり, 浄土宗吉水講の記念事業として, 「詠唱発祥の地」と題し, 浄土門主 中村康隆猊下吉水講総裁の御染筆を戴き, ここに記念碑を建立することができました。先徳の主旨を受け継ぎ, 吉水龍詠唱を通じて念仏教化の道が全国に弘まることを念願するものであります。 浄土宗吉水講 平成十四年四月二日」「グラント松」。「グラント松米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓して日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。」境内地図を再び。境内から大殿そして東京タワーを望む。左奥の「方丈門(黒門)」の手前にあったのが「土木建築殉職者慰霊塔」。「土木建築殉職者慰霊塔ノ記土木建築事業ハ一國文化ノ象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築クや固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖レス斯ノ高業ニ従フモノ洵ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ而シテ不幸ソノ職ニ殪レシモノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナランヤ茲ニ全國同業者ノ寄進ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永ク其ノ菩提ヲ弔ハントス 昭和十二年三月二十一日 日本土木建築請負業聯合會」真っ黄色に咲く石蕗(つわぶき)の花が境内に。そして左前方に「水盤舎」。正面から「水盤」を。「水盤舎この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。」歴史を感じさせる石灯籠。手前の巨石は?そして「三解脱門」境内から振り返る。右手にあったのが「鐘楼」そしてその手前に「江戸彼岸枝垂桜」。「為 豊島泰三追善菩提奉納 江戸彼岸枝垂桜平成六年三月吉日」。開花時の写真をネットから。「港区の文化財 増上寺の梵鐘高さ八尺(龍頭を入れると十尺、約3.3m)、径五尺八寸、重さ四千貫(約15t)といわれ、江戸時代の梵鐘としては東日本最大といわれています。椎名伊予吉寛が品川の御殿山で鋳造したもので、延宝7年(1673)に7回目の鋳造で完成したといわれます。その音も大きく、「江戸中へ七分通りは響くなり」などと川柳でよまれました。増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもさても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人々の自慢も、実感を伴っていたことがうかがわれます。平成4年3月30日」。「梵鐘」。ズームして。「鐘楼堂👈リンク寛永十年(一六三三)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(一六七三)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貫(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寬永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.25
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