JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.06.07
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カテゴリ: JINさんの農園
「乗誓寺」を後にして、次の目的地の「 八雲神社 」に向かう。
東浦賀1丁目17の路地を北に向かって進むと、「 八雲神社 」への石段が現れた、



石段の途中、左手にあった「 手水舎 」。



石段の途中から浦賀湾沿いに建つ「 ライオンズヒルズ横須賀浦賀 」を振り返る。
築年月(築年数)1994年6月 (築30年)
建物構造   SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)
建物階数   地上22階
総戸数   314戸



右手にあったのが「 東浦賀1丁目町内会館




さらに石段を上る。



石段の上に「 八雲神社 」の 拝殿 が姿を見せた。
祭神は須佐男命。 この社は江戸時代の建物で、当時は、大谷山満宝院八雲堂という
修験の寺であった と。
明治以降、神社に変わりましたが、建物はそのままで、 屋根に宝珠が乗る、
寺院型式の御堂建築 なのであった。



拝殿の向拝には、 漆喰で造られている「漆喰 鏝絵 (しっくいこてえ)」という、見事な龍が
取り付けられていた。




「向背の龍」と呼ばれるこの作品は、木彫り彫刻?と見紛う、見事な出来栄えで、全国的にも
珍しい存在であると。
龍頭を中心に据え、全身を丸彫に造形、ガラス玉の玉眼を嵌入する。くねる龍身はしなやかで、
均整がとれているが、彩色はかなり剥落し頭部の破損部分も目立つ。
「伊豆の長八」とともに、漆喰鏝絵の名人として全国的に知られる石川善吉48歳時、明治35年

作者の「左善」とは、左官の善吉の略で、浦賀の左官職人石川善吉のことである。
明治35年(1902年)48歳の時の作品であることが分かるのであった。
尚、漆喰鏝絵は八雲神社の他,西叶神社・法憧寺・川間町内会館などにも残されていたのであった。



八雲神社
祭神は須佐男命(すさのおのみこと)です。この社の建物は江戸時代のもので,もとは大谷山
満宝院八雲堂(おおがやさんまんぽういんやくもどう)という修験の寺でした。
明治の廃仏毀釈で神社に変わりましたが建物はそのままで,寺の型式であるお堂建築に
なっており、鳥居もありません。現在も寺の宝珠が屋根に乗っています。
お堂の内部には修験の護摩壇があります。向拝(ひさし)には漆喰で造られた龍が取り付けられ、
長さ一間半の大きな木刀は大山信仰の初山競いの武勇伝が伝えられています。東浦賀一丁目の
鎮守様として毎年六月に祭礼が行われ、須佐男命が乗った山車と猩々坊が(しょうじょうぼう
・厄除け人形)が出ます。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」



「​ 猩々坊 ​」👈️リンク。
行列の中で異色の存在は「猩々坊」。猩々といえば、まず思い浮かぶのが能楽の「猩々」。
赤く長い髪が特徴的で、衣装も赤地または赤模様。中国において猩々は、想像上の動物で猿に
似ているとされ、人の顔と足を持ち、人の言葉を理解し,酒を好むという。日本では赤面赤毛と
され、酒飲みの異名ともなっている。一方,八雲神社の猩々坊は、大きな頭と顔、黒々とした髪
・髭・眉に白い顔。どこか一種異様な雰囲気が漂っているが、猩々とは共通点があまり
感じられない。
江戸末期に疱瘡(天然痘)が流行した時,人々は「疱瘡神」と言う疫病神が疱瘡を流行らせると
考えた。猩々には能の印象から転じて赤色のものを指すこともあり、疱瘡神は赤色を苦手とし、
「赤が病魔を払う」という俗信から、東浦賀の人々は「猩々」に「坊」をつけて擬人化、
赤い衣装を着せて「疱瘡神除け」として祀ったようだ。全国には「赤い御幣」「赤一色の鍾馗絵」
「赤い玩具の鯛車」「猩々人形」等々、赤を基調としたお守りや風習が存在するが、八雲神社の
猩々坊は他に類を見ないユニークで貴重な存在と思われる。
八雲神社は東浦賀町大ヶ谷の畠中という谷戸にあり、猩々坊は江戸末期の文久2年(1862)に
造られた。ところが何故か、明治33年(1900)以降の祭礼においては、町内引き回しが
行われなくなってしまった。それから95年が経過。これを惜しんだ町内の人達が、神社に
保存されていた猩々坊の色を塗り直したり、髭をつけたりして修復、平成7年(1995)
見事復活を果たし、現在に至っているようで大変喜ばしいことだ とネットから。



御宝珠 」。
寺から神社に変わった当時、屋根に乗っていた御宝珠。
現在のものは、その後作り替えられた金属製であると。



近づいて。



「当町守護八雲神社
御祭神 須佐男命
此の社は江戸時代の建物です。当時は大谷山満宝院八雲堂と申して真言宗修験のお寺でした。
明治初期に神社になりまして其の当時屋根に乗りし御宝珠です。
東浦賀 一丁目町内会」



つぎに訪ねたのが「 津守稲荷神社 」。
横須賀市東浦賀1丁目14。



津守稲荷 」と。



石鳥居の先に拝殿。



手水舎。



拝殿
ご祭神は、社名からの推定になりますが、食物や穀物の神様で、五穀豊穣の神様である
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。宇迦之御魂命とも表記され、稲荷神と同一です。
創建は江戸時代中期の文政9年と。詳しい創建の経緯などは不明ですが、津守の「津」は港を
意味するもので、港を守るお稲荷様として創建されたと考えられます。
誰の手によりどのように創建されたかなどは、残念ながらわからない。



拝殿の彫刻が目を惹いた。右側には龍、左側には神様でしょうか。



木鼻(右)、下の方の両端には亀もいた。



木鼻(左)、下の方の両端には亀もいた。



拝殿の内陣。



ズームして。



拝殿に向かって右手には、 「青面金剛塔」と書かれた小さな庚申塔 があった。



ニオイバンマツリ(匂蕃茉莉) の花。
咲き始めは紫色だった花は少しずつ白っぽくなり,1本の木に紫と白の2色の花が咲いている
ように見えます。一つの花の花期は短いのですが,次々に咲き続けるので長く2色の花を楽しむ
ことができるのだ。



観音崎通りを京急浦賀駅方向に向かって歩く。
横須賀市東浦賀1丁目12−17附近。



右手奥に神社の石鳥居が見えた。



石鳥居の先の石段の上に朱の社殿が。



正面から。
船守稲荷神社 」。
横須賀市東浦賀1丁目11。



お狐様(右)。



お狐様(左)。



船守稲荷神社 」の社殿。
東浦賀1に鎮座する船守稲荷神社の縁起は不明とのことだが、境内に天明5年(1785年)銘の
手水鉢が奉納されて残っている。
船守稲荷神社の創建は、奉行所が下田から浦賀へ移された享保5年(1720年)以降で、
稲荷信仰が江戸で大流行する江戸時代後期であろう。
船守は文字どおり船を守る稲荷社で、港を守る津守稲荷神社とともに港町浦賀にふさわしい
名前の稲荷社。手水鉢が船守稲荷神社氏子中による奉納ならば、船守稲荷神社は天明5年
(1785年)以前の創建となろう。しかし、船の前に津があるのが普通である。津守稲荷神社は
文政9年(1826年)に創建されているので、船守稲荷神社の創建が津守稲荷神社の創建よりも
はるかに古いことはあるまい。一方、浦賀のもう一つの稲荷社である福寿稲荷の創建も弘化4年
(1847年)にまで下がるから、船守稲荷神社の創建も19世紀にまで下がる可能性もある。
しかし、西叶神社の摂社である船守稲荷神社の創建が元文4年(1737年)であることから、
これ以前の創建である可能性が大であろう 
鳥居は朱塗りではないが社殿は朱塗りである。内部に本殿が安置されているから、おそらくは
覆い屋であろう とネットから。。



内部に本殿が安置されていた。



そしてさらに観音崎通りを進むと、右手奥に赤煉瓦作りの
小さな トンネル風の建造物 が。



水のトンネル
明治三十三年(一九〇〇)に操業を開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、現在の
二葉二丁目にあった溜め池から掘った全長約千メートルの導水坑の出口です。
この導水坑は、浦賀ドックが独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要とし
そのために造られたものです。
浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」

横須賀市のサイトに詳しい説明があった。
『明治33年(1900年)に操業開始した浦賀ドックが工業用水を確保するために、 現在の
二葉2丁目にあった溜め池から掘られた、全長約1,000mの導水坑の出口です。 現在は使用
されていません。  旧浦賀ドックは工業用水の確保のためにこの導水坑と荒巻用水路を
整備しました。  明治33年に作成された工場の設計図には荒巻用水路しか記載がなく、
その完成は明治35年(1902年)12月ですが、導水坑の記録は、 昭和に入って作成された図面に
残されています。 この導水坑は、旧浦賀ドックが、独自のタービンを開発するため、冷却用の
水を大量に必要とし、 このために整備されたものと考えられます。 この工場で初めて開発された、
浦賀式3連成レシプロ汽機と排気タービンによる連動主機は、 昭和6年(1931年)に建造された
貨客船「新京丸」に初めて搭載されているので、 タービンの開発と導水坑の整備は更に溯る
こととなるのでしょう。 当時は、使用後の熱くなった冷却水が、職員のための風呂の湯として
利用されたそうです』と。



「浦賀式3連成レシプロ並びに排気タービン連動汽機」



そして「観音崎通り」を「浦賀駅前」交差点まで戻り、「浦賀通り」・県道208号線を
南に進む。目的地は「 浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館) 」。
黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」の絵を 4月16日(火)以来
久しぶりに見る。



ズームして。



「浦賀丘入口」交差点より、「ポップサーカス横須賀公演」が行われている浦賀ドック内の
特設大テントを見る。




                               ・・・もどる・・・



                  ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.06.07 00:00:29
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