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「東福寺」を後にして、県道210号線・「浦賀通り」の北側の住宅街の道を西に進む。この後訪ねた「常福寺」への参道案内板。「この橋は浦賀奉行の交代の際渡ったと云われる石橋です。」と。この「石橋」であろうか?西浦賀2丁目10 と。右手に「田中町町内会 老人生きがいの家」と。「田中(地名の由来)西浦賀2丁目のこの辺り(田中町内会館)を田中と言います。この地域の「田中」は、「干鰯田(ほしかだ)の中」を意味します。その昔、人家は常福寺の参道から高坂側にしかなく、常福寺の参道から海側は干潟になっていました。その後、東浦賀の干鰯問屋の力で埋め立てられ、鰯の干し場になったと言います。ここにも干鰯問屋の隆盛を見ることができます。この付近には東福寺、常福寺があります。」田中町内会館の現在の住所は横須賀市西浦賀2丁目3番16号と。その先左に石祠が現れた。道路側から見る。横須賀市西浦賀2丁目9−7。反対側から。前方正面に「田中町内会 防災倉庫」。その先に「日月院」と書かれた案内板が見えた。「浦賀不動 日月院 宝海龍王堂」と。その先にあったのが「正一位稲荷大明神」と書かれた朱の幟旗とその先に鳥居。「花水稲荷」の朱の鳥居とその先に石の社。扁額「花水稲荷」👈️リンク。正面に「石の社」。このお稲荷さんの所在地は西浦賀2丁目4番地付近の裏手の里山の土手にあり、こんもりとした竹藪の中にひっそりと居をかまえていました。すぐそばには横須賀市立高坂小学校があり、この学校の駐車場 入口の門の前を10mほど坂を上った山道の右脇に細い獣道のような道に入るところが この稲荷神社への入口です。今から40数年ほど前に移転してきて、元の場所からは 10mほど下がったところにあります、移転の理由は宅地造成によるもので余儀なく移転を迫られまして、 移転と同時にお社も新しく再建されました と。近づいて。021年11月・花水稲荷神社は一部改装工事が行われ、社殿前に屋根と本坪鈴が飾られ、幟旗も 宝海龍王堂前に移転したのだ と。御神体は桐の箱に納められているとのこと。「宝海龍王堂」の前にあった「浦賀不動 日月院」。大正十三年五月坂口法道師が諸願成就殊には眼疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。護摩修行水行托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四才の若さで亡くなってしまいました。その後何代が人が変り昭和四十三年大黒天の不思議な導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称「日月院」と改めました。月日院の正式名は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。「浦賀不動 日月院」。「日月院(旧不動院)のこと大正十三年五月、坂口法道師が諸願成就、殊には目疾平癒祈願の為の不動明王を祀り不動院を建て開祖となりました。護摩修行、水行修行、托鉢と日夜修行に専念して居りましたが昭和十一年四月に惜しくも三十四歳の若さで亡くなってしまいました。その後何代か人が変わり昭和四十三年大黒天の不思議なお導きにより法浄院が引き継ぎました。昭和六十年に古くなったお堂を新築した折に不動院を通称名を「日月院」と改めました。日月院の正式名称は単立宗教法人「三縁山法浄院」と称します。大祭 正月 五月 九月 二十八日 大護摩修行 午後二時毎月二十八日 護摩修行 午後二時御安置佛本尊 日月不動明王 大黒天 阿彌陀如来 地蔵菩薩 弘法大師 宝海龍王 伏見稲荷 観世音菩薩 法浄院二世住職 田中誠道本山 法浄院 東京都大田区大森南別院 日徳庵 静岡県伊東市一碧湖畔別院 御嶽観音堂 長野県木曽御嶽山 三合目」この石仏は?この石仏は?「不動明王」?本堂。扁額「日月不動明王」。境内にあった金属製の社に入った石仏。「船玉大明神」と。「船玉大明神」碑。船玉(船霊)は船の守護神で、 多くの 場合、和船の帆柱の受材である筒(つつ) の下部に小穴をあけ、納物として雛・賽(サ イコロ)・五穀・銭などが封入されます。 この封入の儀礼は、 萩藩の御座船(藩 主が乗り込む船)建造の記録等では 「筒 居(つつすえ)」 と記されており、 造船儀 礼中で最も重要な行事とされていました と。そして来た道を引き返し、石祠の角を右折して浦賀通りに向かう。浦賀通りに出て左折して横断歩道を渡った場所にあったのが「常福寺」。横須賀市西浦賀2丁目16−1。「浄土宗 常福寺」。参道を石段に向かって進む。寺号標石「浄土宗 放光山 延壽院 常福寺」。「常福寺文明年間(一四六九~八六)に創建され、浦賀に奉行所が移されてからは、本陣(御用寺院)の役割をし、奉行交代の儀式をおこないました。庫裏の築山泉水庭は、唯一現存する浦賀三庭園のひとつです。当寺には虫歯によく効くという「珊誉女(さんよめ)」の位牌、狩野常信が描いた「地獄極楽之図」があります。墓地には、奉行与力・合原家、佐々倉家の墓碑や遊女屋をやめて遊女を解放し、後に僧深本(しんぽん)となる江戸屋半五郎の墓があります。 浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「珊誉女(さんよめ)」の位牌まだ歯科医などいなかった頃、虫歯で苦しんで亡くなった女性(さんよめ)の碑で、「珊誉女(さんよめ)」の遺言で自分が死んだあとお参りしてくれたら、虫歯の苦しみから救ってあげると言い残し亡くなったので、その後虫歯に苦しむ人の信仰を集めたと。「良樹院殿珊誉昌栄大褌定尼尊霊位 寛永十一年八月八日」と記されている珊女は、備後福山城主の息女。生前、常に歯痛に悩まされていて、死に直面した折に「この病に罹るもの我に祈らば効験を得ん」と遺言を残したのだと。「築山泉水庭」。石段手前左側にあった庚申塔群。「西国・坂東・秩父 三浦 百番観音 四国八十八」の文字は確認できたが。三猿庚申塔。見ざる、聞かざる、言わざるの三猿。庚申(こうしん=かのえさる)の申(さる)にちなんで庚申塔に彫刻されることが多く、この庚申塔でも向って右から見ざる、聞かざる、言わざるの順に三猿が彫刻されていた。右は文字庚申塔であろうか?中央は、名工飯嶋吉六の作品であると。隅丸角柱に剣人、槍、法檢、弓矢を持つ青面金剛、筋肉隆々で卑屈さが少しもない鬼、三猿はちょっと珍しい体育座り。向かって右側面に「天保九戊戌(1839)八月吉日」、左側面に「石工鶴見橋飯嶋吉六」の銘があるとのこと。トキワマンサクの花が咲く石段を上って行った。シャガの花も。多くの石仏に囲まれた石塔。「奉納萬靈塔」と。二段式の六地蔵。そして正面に「本堂」。明応2年(1493年)に草創された寺で、浄土宗に属し、放光山延寿院常福寺と号されています。文化7年1月浦賀奉行、御預所、支配所、御役知村村、寺社格式書上、附寺社奉行問合書のなかに「寺席之儀は永聖席ニ而、於群中類門無之、諸山別寺格ニ御座候」伝々と記されており、寺格も寺席も高く、開創以来法灯連綿として五百有余年の歴史を重ねて現在に至っている由緒ある寺。御本尊 阿弥陀如来三浦薬師霊場8番札所三浦不動霊場7番札所三浦三十八地蔵尊霊場34番札所本堂の扁額「放光山」。「常福寺」の「本堂内陣」を見る。ご本尊の阿弥陀如来が見えたのであった。「常福寺 本堂内 脇厨子」。「横須賀市指定重要有形文化財(建造物)常福寺本堂内脇厨子 二基所有者 常福寺平成十九年三月十二日指定本堂背面庇の両脇間に一基ずつ、計二基安置されており、正面に向かって右側を右脇厨子、左側を左脇厨子と呼称する。本尊の安置が目的でないため脇厨子である。この両脇厨子は各々須弥壇上にのる正面一間・側面一間幅のまぼ同形式で、禅宗様式を踏襲したものだが、造立年は左右の脇厨子で若干の年代差が考えられる。右脇厨子が室町時代末期の様式で古く、市内最古の厨子であり、左脇厨子は少し下って近世初期の造立と考えられる。脇厨子を納める常福寺の現本堂は元々藤沢の龍ロ寺本堂として中世末に建築され、その後鎌倉の本覚寺に移築、そして大正十一年(一九二二年)、旧本堂が火災で消失していた常福寺へと移築が繰り返されたものである。脇厨子二基は、本堂の内陣として建築当初から安置されていた可能性も高く、市内最古の本堂内建造物として貴重なものである。横須賀市教育委員会 平成十九年十月設置」「三浦三十八地蔵尊霊場 三十四番 放光山 常福寺文明年間(1469~1486)に、鎌倉光明寺の圓蓮社教譽上人により開創。爾来、浦賀のお念仏道場として、親しまれている。地蔵尊札所としては、これまで第32番子育地蔵尊、第34番延命地蔵尊二カ所の札所であったが、第34番として、子育地蔵尊、延命地蔵尊の二尊を祀る札所となったのだ と。寺務所、庫裡を見る。次に、本堂の左にあった墓地を歩く。「入一法句」と書かれた卒塔婆が並ぶ。表に「南無阿弥陀仏」、うらに「入一法句」と記されていることが多いと。すべての功徳はこの中におさめられているということで、仏への便りである卒塔婆を真心をこめて捧げるという、ちょうど手紙の「敬具」にあたるようなものである とネットから。一段高い竹林の前にも墓石が並ぶ。屋根付きの墓石が並び歴史を感じさせるのであった。 さらに墓地内を巡る。前方右側にあったのが「大乗妙典六十六部供養」碑。「妙典六十六部」とは、法華経を66部写経し、日本全国(66ヶ国)を巡る修行のことであると。正面から。願主、江戸屋半五良と刻まれていた。江戸屋半五良は、洗濯屋(遊廓)の主人であったが、あるとき、江戸で、一人の僧に説教され、自分の商売の罪深さを知り、すべての財産を投げ売り、これを抱えていた遊女たちに分け与え、仏門に入り、修行僧として全国を行脚したのだと ネットから。江戸屋半五良の墓。「大誉果向深本法子」の法名が刻まれていた。半五良は、修行僧として全国を行脚の折、紀州の山中で徳本上人に出会い、子弟の関係を結び、「深本」の名を授かった と。大きな宝篋印塔墓。そして、石段横の「トキワマンサク(常磐万作)」の花を楽しみながら、「常福寺」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・>
2024.05.04
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次に向かったのが西叶神社の裏手の高台にある「東福寺」。三浦観音第13番、三浦地蔵尊第33番札所になっている寺。右手にあったのは、先程訪ねた「西叶神社」の「社務所」、これを裏側から見る。「曹洞宗 延命山 東福寺」の表札が掛かる石門柱(右)。「三浦観世音第拾三番 三浦地蔵尊第三十三番 霊場」の表札が掛かる石門柱(左)。山門に向かって石段を上る。「三浦 観世音第拾三番 地蔵尊第三十三番 霊場」と「曹洞宗 延命山 東福寺」の表札が掛かる山門。「山門禁葷酒」石柱。右側には花海棠(ハナカイドウ)の花が咲く。近づいて。ハナカイドウは、バラ科リンゴ属の耐寒性落葉高木。別名はカイドウ、スイシカイドウ、ナンキンカイドウなど。春に淡紅色の花を咲かせる花木として、各地で植栽される。「東福寺江戸幕府から御朱印地ニ石をたまわり、歴代の浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたという格式ある曹祠宗のお寺てす。本堂には、江戸中期を代表する画家酒井抱一の描く大きな亀の絵馬があります。境内の中段にある観音堂には「海難除けの観音様」が安置されています。この観音様には江戸時代初めに西浦賀の淡路屋治兵衛の廻船が大しけになった時、船頭らが観音様に無事を祈ると海は穏やかになり助かったという伝説があります。本寺は三浦三十三観音の十三番札所になっています。 浦賀行政セター市民協働事業・浦賀探訪くらぶ」「酒井抱一の絵馬」。さらに石段を上る。右手にあったのが蔵造りの御堂・「荼枳尼天堂(だきにてんどう)」。見事な彫刻を追う。木鼻(右)。木鼻(左)。鯉の彫刻。これも鯉の彫刻。「吒枳尼天」という名は梵語のダーキニー(Ḍākinī)の音訳で「荼枳尼」とも漢字表記し、吒天(だてん)とも呼ばれる。起源であるインドのダーキニーは裸身で虚空を駆け人肉を食べる魔女だが、日本では稲荷信仰と混同されて習合し、一般に白狐に乗る天女の姿で表されると。扁額「荼枳尼天」。左手のピンク色に塗られた建物は「大悲閣(観音堂)」昭和46年(1971年)にコンクリート製で建立。正面から。向拝の龍の彫刻。扁額「大悲閣」。内陣。江戸初期 廻船業淡路屋治兵衛の船が 浦賀へ向かう途中で時化に遭い沈みそうになったとき、船頭達が日頃信仰する観音様に祈ったところ舳先にお姿が現われ救われたことに感謝して、観音像を祀ったとか。「海難除けの観音さま」として、信仰を集めていると。三浦観世音第13番御札所右手にあったのが「地蔵堂」。地蔵堂内には2組の六地蔵が並んでいた。さらに「本堂」に向かう石段が現れた。「庚申塚」碑。さらに石段を上る。そして正面に「本堂」。「本堂」に近づいて。格式、威厳、風格がある立派な本堂。ほ~っと思わず息を呑むのであった。この寺は、徳川家康が江戸に入城した折に、三浦半島の代官となった長谷川七左衛門長綱によって 改宗され、禅宗のお寺になったとの事。歴代浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたとか。扁額「東福禅寺」。本堂の外壁に描かれた8枚の「鏝絵(こてえ)」を追う。制作者は岩田辰之助氏。 昭和7年37才の力作。「唐獅子」。「飛天」。「鶴」。「亀」。「象に乗った普賢菩薩」。「龍」。「臼井君碑」。近づいて。「寺務所」。境内には多くの巨大な石塔。石碑が並ぶ。「宝篋印塔」。「墓誌」。「直井謹三郎碑」と。「直井謹弌郎碑」多くの墓石が浦賀湾を見つめていた。「大悲閣」の屋根には相輪(そうりん)が。浦賀湾そして房総半島の山々を見る。「山門」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.03
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境内のソテツの木と狛犬を見る。龍の絵と「叶」の文字の絵馬。「老山福壽稲荷社」享保11年(1726)2月勧請。旧西浦賀村宮下店住民。御祭神:宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)。横須賀市 西浦賀1-1-13。「正一位 老山福壽稲荷社」。内陣。神輿が奉納されていた。その隣にも、小さな社・「武雄神社」があった。弘化元年(1844)5月勧請。旧西浦賀村田中住民尾島善四郎心願成就の為。その前にあったのが「大廟参拝記念」と刻まれた石柱。石段脇の石柱には、中央に「金毘羅大権現」、右に「秋葉大権現」、左に「老山 福寿稲荷大権現」と刻まれていた。石段の途中、左には石碑と石仏が。石碑にズームしたが判読不可。本殿を見る。石鳥居の先にも境内社があった。横須賀市西浦賀1丁目1−13。1つの小社の中に4柱の境内社がお祀りされていた。右から「淡島神社」。享保9年(1724)安産・医薬の神として勧請。御祭神は、大名持命、少名彦命。左隣に「大鷲神社」。元鎮守と称し、「叶神社」創立前に勧請されたと言われている。御祭神は、日本武尊、弟橘比売命、天之日鷲翔命。左隣に「三峰神社」。明和7年(1639)旧浦賀町商人諸廻船海上安全の為に勧請。御祭神は、伊邪那伎命、伊邪那美命、日本武尊。一番左に「船守稲荷神社」。元文4年(1739)浦賀港に出入りする船の航海安全を祈念して勘定された。御祭神は、宇迦御魂命。 池と石鳥居の姿が眼下に。更に奥に、本殿の横には真新しい石の鳥居があって、扁額には「福寿辯財天」と。扁額「福寿辯財天」。「福寿辯財天 文政六年(一八二三) 創建」鳥居の奥には、池があり、その奥の擁壁の下に穴祠があり、そこに弁天様がお祀りされているようであった。穴祠をズームして。句碑であっただろうか?池には鯉が。再び拝殿前に戻り、見事に枝を伐採されたイチョウの老木を見る。イチョウの老木を見上げて。一段下がった場所にあった「社務所」前から「西叶神社」の拝殿・本殿を見上げる。「社務所」。「社務所」の白壁にも見事な彫刻が。社務所玄関欄間壁の「鏝絵(こてえ)」。左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフを鏝絵と呼び、江戸時代の中頃から数多く作られ、浦賀にも数点が残されています。干鰯問屋(ほしか)と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから漆喰壁を塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として「伊豆の長八(入江長八)」とともに、全国的に知られる漆喰細工の名人でした。浦賀には善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っています。また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟の作品も残っています とネットから。司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。左側には水瓶を割る子。右側には割れた水瓶より流れる水の中から童子が顔を覗かせ、助けられた一瞬の出来事を漆喰で表現しています。ふっくらした丸い顔、いきいきとした漆喰細工は、名人「三浦の善吉」の装飾壁の傑作です と。珍しい色彩のアジサイ・紫陽花の花が既に開花。近づいて。碇もあった。「奉納 碇海洋画伯 飯塚羚見は東京湾特に、浦賀港出人船舶の水難除け・航海安全を願って奉納」「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑」。「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑明治天皇 明治十四年五月一八日観音畸に行幸の際 当叶神社境内に御滞在御休憩せられし御跡の記念碑です文字は当時陸軍大将にして後に明治神宮宮司の一戸兵衛氏の揮亳です」その奥の一段上がった場所にあった石碑群。庚申塔群。神職の先祖代々の墓・「感見家之墓」と。叶神社の神主が1868年の神仏分離前に僧侶だった感応院から「感」を使用したと伝える と。再び本殿前脇から「社務所」を見ながら、「西叶神社」を後にして次の目的地の「東福寺」に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.02
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そして次に訪ねたのが「叶神社(西叶神社)」。再び海岸沿いを走る県道208号線・「浦賀通り」に出て「一の鳥居」越しに「叶神社(西叶神社)」の拝殿を望む。「郷社 叶神社」と。「叶神社」は神奈川県横須賀市浦賀地区にある神社。浦賀港を挟んで2社ある。 勧請した石清水八幡宮と同様、共に、誉田別尊など八幡神を祭神とする。叶神社:通称「西叶神社」:横須賀市西浦賀1丁目1−13 叶神社:通称「東叶神社」:横須賀市東浦賀2丁目21−25 「一の鳥居」を潜り「ニの鳥居」に向かって進む。そして再び「浦賀道」まで戻り、「西叶神社」前に。養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建した。その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177〜1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてた。養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになった とのこと。「ニの鳥居」の扁額「叶神社(かのうじんじゃ)」。「叶」は口と十で構成されている。 漢字は本当によく考えて作られていて、口で十回言えば、願いは叶う、という意味である と。「四月二十ハ日 午後三時 執行境内社 金刀比羅神社 例祭当、金刀比羅神社は、享保十一年(西暦一七ニ六年・約ニ百七十年程前)旧西浦賀村住民が浦賀港と出入る諸船舶の航海安全、海上安全を祈って、おまつりいたしました。以来、金刀比羅大神は浦賀の港を見守ってまいりました。」「手水舎」。「漱盤」と刻まれた手水鉢(ちょうずばち)が堂々と。「漱」とは「うがい水(すすぎ)」を意味し、口をすすぐこと。身を清めること。「盤」は「たらい」のこと。浦賀の遊廊の主人で、後に家屋敷や財産すべてを投げ出し、抱えていた遊女を解放し、自らは出家した江戸屋半五郎(えどやはんごろう)が寛政元年(1789)に寄進したもの と。手水舎には、亀、鳥、龍の刻まれていた。龍の裏に『彫刻師 熊谷源太郎九代 新井松雲作 新井武作 熊谷市筑波一丁目六十番地』とあるのだと。「源頼朝が大願成就したパワースポット 叶神社(西)御祭神 八幡大神御利益 祈願成就養和元年(1181)に神護寺(京都・高尾)の文覚上人が石清水八轎宮の八轎大神を勧請し創建された。文覚上人は源頼朝に平家追討と源氏再興を強く奨め、源氏ゆかりの神社である石清水八幡宮の神に源氏再興の願いが叶えられた暁には良き場所を求めて未永くお和りすることを誓った。その願いが叶えられたため、文覚は約東通り石清水八幡宮の神を勧請し、のちに「叶神社」と名付けられるに至った。このような由緒から大願成就を求めて参詣する人が後を絶たない。現在の社殿は天保13年に再建されたもので、後藤利兵衛義光による彫刻がふんだんに施された権現造り。本殿と弊殿は総檜造りで、再建の経費は約三千両ともいわれる。」「昭和五十ニ年市制施行七十周年記念横須賀風物百選西叶神社叶神社は養和元年(一一八一)文覚上人(もんがくしょうにん)が京都の石清水八幡宮を勧請して造られました。平家の横暴ぶりを憤った文覚上人は源頼朝と源氏再興を願い上人自ら治承年間、上総の国の霊山である鹿野山に参籠し修行を重ね、その本願が叶ったならば神社を建立し末永く祭祀することを誓いました。そして養和元年に大願成就の前兆を観じて、勝地を求め各地を遍歴した末に、鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に、社宇を建立し、文治ニ年(一一八六)源氏再興の大願が叶ったところから、叶大明神と称するようになりました。現在の社殿は天保十三年に再建されたもので、本殿、幣殿は総檜造りで、その内部は悉く彩色され、本殿柱は金箔朱塗り、内部の花鳥草木の彫刻はすべて極彩色となって居り、扉は黒仕立蝋色塗、内面は金箔押しと云う華麗な装飾がなされている。拝殿は花烏草木の透し彫リのある格天井となっており七十四面ほどある。社殿四方の周囲の外部多くにも彫刻が施されている。これらの優れた彫刻は、当時名工と謳われた彫刻師、後藤利兵衛橘義光の作品である。このように、当時の最高に近い建築の技術の枠と彫刻の美を備えた社殿造営の工事費は、三千両と云う莫大な金額であったと云われ現在、叶神社の彫刻は横須賀市市民文化資産に指定されています。東西叶神社について元禄五年(一六九ニ)、江戸幕府の行政政策により、浦賀は東西の浦賀村に別けられた。行政区分の分離は、それなりに各々の村意識を生じさせるのであって、総鎮守は西岸に所在していたから、長い間、その氏子として、叶神社の神徳を仰ぎ戴いてきたことにより、東岸にも今まで通り、同じ御神徳をと願う信仰心が、分霊祭祀となった。」「源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットMAP」MAPをズームして。「・・・」碑。表面左の半分ほどが剥離?して文字が判読できなかったのであった。「村社 叶神社」碑。時代により郷社であった時と村社であった時があったのだろう。歴史を感じさせる「銅燈籠」(右)。石段上り口の天保4年(1833)鋳造・一対の銅製燈籠には、台石に新地町、基礎部分には江戸屋久三郎・亀屋新吉・玉泉屋佐吉等、浦賀の遊郭連中等の寄進者名が刻まれている。歴史を感じさせる「銅燈籠」(左)。「拝殿」に向かって石段を上って行った。正面に彫刻が見事な「拝殿」。「狛犬」(右)。「狛犬」(左)。拝殿前に堂々と並ぶ狛犬は、左右とも口を開けているように見えた。東叶神社の狛犬の口は、いずれも閉じているように見えることから、東西の叶神社で一対となっているとの説もあると。石段の上に隠れるように。立ち上がって、柱の陰からこちらを窺うようなそぶりの、かわいい狛犬の姿も。近づいて。こちらにも。拝殿前から二の鳥居方向を振り返る。「地立碑」。「紀念碑」「相州浦賀町鎮守叶神社は安徳天皇養和元年僧文覺の岩清水八幡宮を勧請して建て奉りたる御社なり尋いで文覺虚空山感應院を開き真言宗古義派の僧を住職として代代御社の別當たらしめたり尓来綿綿相傳はりて明治維新に及べり明治の初神佛混淆の禁令出でぬ別當玉應其命を奉じ復飾して氏を感見と称し名を信明と改めぬ創祀以来代を替ふること七十代年を経ること六百八十八年なり是に於て感應院の號?は自ら廢れたり信明は通称を真次郎と云ひ足柄下郡下中村字小舟の人志澤兵右衛門の次子なり年七才にして真言密宗の教に入り法號を玉應と称し苦學勤行年を累ねて學徳並び称せらるるに至れり資性温厚志操清廉にして信念いと厚く徳望日に加はり初め推されて平塚驛八幡宮の別當鶴峰山等覺院の住職となれり後老を幽静の境に養ふこと数年をりから感應院住職の缺くるに際し里人景慕の心を致して止まずよりて遂に状に應じて文久元年其第七十代の別當となりぬかくて幾干もなく彼の復飾改名等の事ありて神職に補せられければ悠悠世を送りて命を楽しみ明治二年十月十一日溘焉として永眠せり享年六十有三感應院の塋域に葬りぬ終身娶らず浦賀町字川間長島市郎右衛門の長子宗之助を養ひて嗣とせり宗之助其後を承けて神社に仕え明治八年十月初めて祠掌に補せられて今に至れり客歳勅令を以て幣饌供進の制定まるや御社も亦其榮典に與り神徳愈髙く我が感見家の基礎も亦漸く定まりぬ思ふに彼の神佛混淆の禁令は創祀以来未曾有の變革にして其間に處せし真明の勞は大方の事にはあらざりけんかし己れ宗之助不肖の身ながらも其後を受けて職を過たず幸ひ今日に到れるものは元より大神の御恩頼にはあれど一には信明の餘光にぞあるべきここに其事どもを永く忘れじ後の世にも朽ちせじと兴?碑を立ててかくはしるしぬ明治四拾壹年拾月弐拾壹日鎮守叶神社第七十一代社掌」「拝殿」の唐破風を見上げて。見事な拝殿の彫刻。社は、天保13年(1842)に建造されたもので、社殿を取り巻く総数230を超える彫刻は安房の彫刻師「後藤利兵衛」の作品とのこと。利兵衛は文化12年(1815)安房国千倉の生まれで、江戸の後藤三次郎の門に学び、神社社殿の彫刻や山車、みこしを多く手掛けた。拝殿の格天井(ごうてんじょう)の花鳥の彫刻には、当時の日本には渡来していないとされる花や鳥も彫られているのだと。中央をズームして。右側をズームして。左側をズームして。拝殿の格天井を見上げて。移動して。横に廻り込んで。「横須賀市指定市民文化資産西叶神社社殿彫刻現在の社殿が天保十三年(一ハ四ニ)に再建された時に施された彫刻で、虹梁、欄間、拝殿天井など総数ニ百三十を超す。作者は安房国の影工、後藤利兵衛である。」扁額「叶大明神」。内陣をネットから。絵馬掛け所。「叶」と。「昭洞香山君碑」「昭洞香山君碑昭洞香山栄左衛門永孝👈️リンク は嘉永六年六月三日アメリカ水師提督ぺリーが浦賀に来航の折、浦賀奉行所の与力で、奉行の代理として同与カ中島三郎助と共に米艦に赴き、応待・談判に当った人である。香山栄左衛門の子息・香山永隆が父をたたえて、明治十三年ニ月建立。香山栄左衛門が家運隆昌を祈念して額縁第入大型絵馬を当社拝殿内に奉納されたものが現存している。絵馬の裏面に姓名・家運隆昌が書かれている。」「江戸 藤堂良道謹撰并書」碑。近づいて。「江戸 藤堂良道謹撰并書東西浦賀・・・・・・・・・文政八年歳在乙酉九月朢日」拝殿を斜めから。本殿を見る。本殿にも見事な彫刻が。立派な「社務所」を見下ろす。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.05.01
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さらに県道208号線「浦賀通り」を南に進むと、左手・旧住友重機械工業・浦賀工場の西門の横に「屯営(とんえい)跡の碑」案内板が置かれていた。幕末、築地新町(現在の住友重機械工業敷地内)にあった干鰯市場の一部が、幕府軍艦のための石炭囲置場となりました。明治8年この場所に水兵の基礎教育機関として「浦賀水兵屯集所」が設置され、その後「東海水兵分営」、15年には「水兵練習所」となり、18年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。ここで、水兵の基礎訓練を担当した士官たちは、病気やその他の事情で海上勤務ができなくなった者があたったため「屯営は生きた士官の捨てどころ」といわれ、嫌われていました。現在、住友重機械工業の船台の下に「屯営跡」の碑が建っています と。横須賀市浦賀3丁目2−26。「屯営跡の碑築地新町と言われたこの地に、水兵の基礎教育機関として、明治五年(一八七二)、「海軍浦賀屯集所」が設置されました。その後、「東海水兵分営」、同十五年には「水平練習所」、同十八年に「浦賀屯営」と改称し、数多くの水兵を送り出しました。その事績を残すため、昭和九年に「屯営跡の碑」が建てられました。この碑の石は、日露戦争のとき、旅順口の封鎖のために沈没させた弥彦丸に使用したものが使われています。」「浦賀屯営跡」碑の写真をネットから。 この碑は、昭和十年三月に建立されたもので、表は「浦賀屯営跡」と、当時の永野修身(おさみ)海軍大将が書いた。 裏には浦賀船渠(ドック)社長、のちの逓信大臣、寺島健海軍中将によって書かれた碑文がある。 碑の礎石は花岡(こう)岩で、日露戦争の時、旅順港内の敵艦を封じ込めるため、海中に沈めた石の残り。 同社川間工場で解体した弥彦丸から取り出したもの、という。碑文には、屯営は「明治八年に設けられた」とあるが、同六年(1873)の誤りだ、といわれている。 屯営は、八年に「浦賀水兵屯集所」と改称。 十年に逸見村、今の横須賀駅裏側に東海水兵本営が新設されると浦賀は、分営となった。 その後はー時、「浦賀水兵練習所」と改称、十八年に、再び浦賀屯営となった。 「海軍七十年談」によると「病気などで海上勤務に適さない期間は、定員外となり”屯営入り”した。 『屯営や生きた士官の捨て所』とうたわれた」とある。二十二年四月に逸見村の本営が横須賀海兵団となると、浦賀屯営は廃止。 この海兵団については、「三浦繁昌記」(明治四十一年刊)に、「汽車、田浦駅を出で将(まさ)に横須賀駅に着せんとする時に、 旅客は車窓より広闊(かつ)なー郭に事業服を着たる兵士の奔走し、又は練兵するのを見るであろう。これ即ち海兵団である」と書かれている とネットから。記念碑は造船所敷地内だという。道路の反対側にあったのが「大衆帰本塚の碑」。横須賀市浦賀3丁目3−13。「大衆帰本塚」と。石碑の下部。「大衆帰本塚の碑」。大衆帰本塚の碑は、元治元年(一八六四)九月に建てられました。篆額は江戸時代後期の国学者の大畑春国が書き、碑文は浦賀奉行所与力の中島三郎助の文章と筆跡がそのまま刻まれています。碑材には、安山岩の中でも板状節理が発達した箱根産の根府川石が使われています。なお、石碑は浦賀警察署裏手にあった山の中腹あたりに建てられていましたが、平成9年の造成工事により現在の場所に移りました。「この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、蟹田(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、朝の露、夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ草むらになむありける。さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、往くも復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、人皆いぶせく思いわびてありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、えも言い知らぬ思したちにて、其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ埋みて、大衆帰本(またはダイシュキホン)の塚と呼ぶべし。その記をも残すべしとこと定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、その故由を、碑を選り据え、千年の後も忘れざらしめ、また、そこばくの桜を植え添え、昔人の魂をも慰めむとなり。あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。かく言うは、この浦賀の湊に司たちて仕えまつる。中島三郎助永胤大畑春国篆元治元年甲子秋九月」と刻まれているのだと。『碑文の概要』この周辺の昔の様子を想えば、葦蟹が遊ぶところから蟹田といい、のどかな湿地帯であった。しかし、ここにも湊の賑わいから家並みが押し寄せてきた。この開発によって傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行の大久保土佐守が大衆帰塚を設けることを決めた。この話を聞いた奉行所付大工棟梁の川島平吉は、奉行の決定を神妙に承り、千年後までもこの事実を伝えるためにも石碑も良い物を選び、碑の周辺には何本かの桜の木を植えて、無縁になった人々の魂を慰めようと考え、実行した。立派でたいそう嬉しい心配りであり、なんと心強くまじめな心であろうか。このように言うのは、浦賀奉行所与力の中島三郎助永胤である。その隣にあったのが「横須賀南警察署 浦賀地区交番」。令和5年4月1日から浦賀警察署は横須賀南警察署に名称が変更となったのだと。横須賀市浦賀5丁目1−1。「旧浦賀警察所」の建物は閉鎖され、正面の窓には木製板が貼られていた。「浦賀通り」案内板。「浦賀丘入口」交差点の奥に「浦賀造船所跡・浦賀ドック」が見えた。「浦賀丘入口」交差点手前のT字路の交差点を右に入ると。前方の丘の斜面に神社の姿が。ズームして。この先の石段を上り神社の鳥居へと。石鳥居が2基。ニの鳥居の扁額「荒巻稲荷」。横須賀市浦賀6丁目1。「荒牧稲荷神社」の社殿。 本坪鈴(ほんつぼすず)とその奥に彫刻。内陣には狐様そして立派な「社(やしろ)」が。「江戸時代後期に作られたとみられる小型の社(やしろ)がこのほど、五十年ぶりに持ち主である横須賀市浦賀町の荒巻町内会(長谷川文次会長)の手に戻った。これまで詳しい調査が行われていなかった社には豪華な彫刻が残っていたほか、製作直後に書かれたとみられる「嘉永五年」(一八五ニ年)と記された文書も見つかった。専門家らも「当時の浦賀を知る貴重な資料」と太鼓判を押しており、同町内会は「歴史ある浦賀の街の宝物が見つかった」と喜んでいる。ケヤキで作られた社は高さ約一・ニメートル。約百五十年前の江戸時代後期に作られたとみられ、当時の社殿の建築様式を忠実に再現している。側面には鶴に乗った仙人などを表現したと思われる豪華な彫刻も。屋根などの一部に補修された跡があるが、ほとんどが当時のままで現存している。「嘉永五年」と記された文書は京都伏見区の稲荷神社から贈られたもので、社が江戸時代末期に作られたことを裏付けている。戦後の混乱期に町内会から保管の依頼を受けた近くの太子寺の境内で五十年間にわたって奉られていたが、町内会側が存在を忘れ、”日の目”を見ることはなかった。長谷川会長らがニ月に太子寺から社の返還を受け、現在は同町内会が大切に保管している。市生涯学習課は、市民文化資産に指定されている東耀(よう)稲荷(同市東浦賀町)などの彫刻に匹敵すると評価。彫刻に詳しい市文化財専門審議会委員の上杉孝善さんも「豪華な作りは、商人の町として繁栄した当時の浦賀をしのぶ貴重な資料だ」と話す。町内会では「夢の広がる宝物。できれは一般公開をして、街の活性化につなげたい」と話している と2004年(平成16年)3月25日(木)の神奈川新聞の記事も展示されていた。「社」の写真。そして次に訪ねたのが「浦賀丘入口」交差点を右に入った場所にあった「太子寺」。「太子寺」には先程の荒巻稲荷神社の社が50年以上置かれていたのであった。「日蓮宗 太子寺」。横須賀市浦賀6丁目3−6。正面の建物は一般住宅の様な外装であった。正面には掲示板と案内板が。「今月の聖語人身は持(たも)ちがたし草の上の露日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』」=心が肝心=ハダカデバネズミは老化現象が見られない、不思議な生き物です。これこそ多くの人が望む「不老長寿」!?…かと思いますが、老化しないだけで、やがて寿命やケガで死んでしまいます。彼らの身も、私たちと同じで「草の上の朝露のように持ちがたし」なのです。私たちは健康管理に努め、検査や人間ドックなどに通「いのち」を長らえようとします。でも肝心なのは、「人身(身体)」とその使い方を左右する「心のあり方」がセットであるということです。憎しみ奪い合うか、それとも敬い譲り合うかで、世の中はまったく違ってきてしまいます。でもわかっていても自分だけの利益を考えてしまう。やられたら仕返しをする。心のあり方次第で、ささいなことが大きな争いになったりもします。まず自分自身が敬う心を持った人身を目指しましょう。◎日蓮聖人ご遺文『崇峻天皇御書』法華経・日蓮聖人の教えを熱心に信仰する四条金吾に宛てたお手紙。人間社会の中で、組織の中で、どのような心構えで行動したらよいかを崇峻天皇の故事をあげ、細やかに指南します。建治2年(1277)聖寿56歳」「太子寺太子堂の名で親しまれている日蓮宗のお寺です。昔、佐原の聖徳院で火災があり、お堂が浦賀に疎開しました。地元の人に太子信仰として敬われ荒巻の太子堂として定着しました。本堂には背中に元徳三年(一三三一)と刻まれた聖徳太子の僧形の幼年像が祀られています。この木造は浦賀水道の海から出現したといわれています。太子は仏・法・僧の三宝を説き広く仏教の布教につとめました。ものづくりの神様としても知られ職人達の信仰をあつめています。浦賀行政センター協働事業・浦賀探訪くらぶ」本堂。扁額「聖徳皇太子」。墓地を見る。本堂の裏にあった稲荷神社。「妙法三田壽九稲荷大明神」と。「安楽喜墓」と。石仏。そして「浦賀通り」まで引き返す。正面に「mamaの広場 浦賀店」。先日訪ねた「浦賀ドック」👈️リンク 内の「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。「横須賀市下水道 浦賀ポンプ場」。汚水を汚水処理場まで送る施設。基本的に汚水は自然流下って言って、高低差で流れるようになっています。ですがそうなると、汚水処理場は一番低い場所に造らなくてはならず!!。従ってポンプの圧力によって汚水を送水しているのだ。右手に「浦賀コミュニティーセンター分館(郷土資料館)」案内板。白色のツツジ。近づいて。ピンクのツツジの垣根。「浦賀ドック」越しに「西浦賀」方向を見る。そして「浦賀コミュニティーセンター分館」案内板。「浦賀コミュニティーセンター分館」。この日は訪ねなかった展示室をネットから。再び「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを見る。バス停留所「ドック前」。「浦賀通り」から1本山側の道・「浦賀道」に入る。右側にあったのが「横須賀浦賀郵便局」。横須賀市浦賀7丁目13−16。そして再び海岸線を走る県道208号線・「浦賀通り」に戻る。先日歩いた「浦賀ドック」👈️リンク の「ドックゲート」の上部の連絡歩廊を見る。移動後にズームして。浦賀湾の対岸の「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。「浦賀湾」の先に房総半島の山々の姿が。再び元の山側の道・「浦賀道」に戻る。右手前方に案内板が見えた。「浦賀道浦賀道は、江戸時代に幕府と浦賀奉行所を結ぶ重要な連絡道でした。江戸幕府寛政十二年(一八〇〇)に五街道の測量図を作成し、その中に「浦賀道見取絵図」が含まれています。絵図では東海道戸塚宿から鎌倉・葉山・池上を通り、大津矢の津坂越えて浦賀に至ります。東岸のルートは、保土ケ谷宿から金沢町屋を経て武蔵と相模の国境(追浜)を過ぎると峠越えや尾根道が続き一三峠など相当な難路でした。金沢からは陸路より早くて楽な船便がよく利用されたといいます。幕末期、ペリーの黒船来航の際は大勢の武士や見物人がこの浦賀道を通ったといわれています。浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探報くらぶ」。「浦賀道見取絵図」。江戸時代後期(天保年間の頃)の浦賀は東浦賀でおよそ2,000人の人口があった。西浦賀ははっきりした人口データがないが同じ頃の家数で比較すると東浦賀のおよそ450軒に対し西浦賀はおよそ550軒なので、東西浦賀ではおよそ4~5,000人の人口があったのだろう。「浦賀奉行所 開設300周年浦賀奉行所は2020年に開設300周年を迎えた」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.30
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この日は4月16日(火)、2024年2月末に『浦賀ドック【世界に4か所しか現存しない造船所跡】見学と軍港めぐり YOKOSUKAクルージングツアー』👈️リンクに元同僚2人と参加し、その後にブログにアップしたが、ブログを書きながらネットで調べて見ると、訪ねてみたい場所がまだまだ多くあったので、この日に再び横須賀市浦賀に向かったのであった。小田急線、横浜市営地下鉄、京浜急行線を利用して浦賀駅に到着し散策開始。浦賀駅(うらがえき)は、神奈川県横須賀市浦賀一丁目にある、京浜急行電鉄本線の駅。1930年(昭和5年)4月1日 - 開業。1957年(昭和32年) - 駅舎を築堤上(現在地)に移転。「現在地」はここ。近づいて。神奈川県道208号線・「浦賀通り」の「浦賀駅前」交差点に出る。「浦賀駅前」交差点。横断歩道を渡ると、正面に観光案内用の絵画が並んでいた。「黒船来航 開国のまち・浦賀ペリーが率いる4隻の第船が来航し、泰平の眠りから目ざめた日本は、近代国家建設へ向かうとともに国際社会へのデビューを飾った。浦賀地域はその第一幕の舞台である。」「1853年 浦賀に黒船来航」。2014年に横須賀市立浦賀中学校(同市浦賀3丁目)の美術部が4カ月かけて描いた「黒船来航図」であると。「浦賀・鴨居地域運営協議会」から依頼を受けたもので、縦1.5m、横4m。1853年にペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航した際の模様を描き、アクリル樹脂絵の具で彩色した。1、2年生を中心に、2014年11月から2015年3月にかけて制作。迫力のある船体に加え、波、雲や煙の描写でも趣向を凝らした。作品から少し離れた左側には、黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った吉田松陰と佐久間象山を描いた絵が既に掲げられており、激動の歴史の流れに思いをはせることができる一角となっている とネットから。黒船サスケバナ 👈️リンク : SUSQUEHANNA 3本マスト木造外車フリゲート 76.20m長ミシシッピー👈️リンク :MISSISSIPPI 3本マスト木造外車フリゲート 67.06m長プリマス👈️リンク : PLYMOUTH 3本マスト木造帆送スルーブ 44.96m長サラトガ 👈️リンク : SARATOGA 3本マスト木造帆送スルーブ 44.63m長黒船来航を受けて国の行く末を浦賀で語り合った吉田松陰と佐久間象山を描いた絵。「徳田屋」。 「徳田屋 鴨居中学校。東浦賀て始めて幕府の許可をえて正式に旅館を営業した家で、浦賀を訪れた武士や文化人が泊まったと記録されている。特にペリー来航の時には、佐久間象山と吉田松陰らがこれからの日本のことを熱く語った場所である。浦賀国際文化村推進協議会」「小林一茶と専福寺」 「小林一茶と専福寺👈️リンク 上の台中学校。江戸時代の俳人・小林一茶が残した日記の文化3年(1806)6月1日の記事に、東浦賀専福寺に基参に訪れたことが記されている。墓参は一茶が20数年前浦賀の地で出会った初恋の人へのものであった。その人はどんな人だったのでしようか。境内にその句碑がある。浦賀国際文化村推進協議会」「雷電為右衛門」。「雷電為右衛門👈️リンク 浦賀中学校。江戸時代から明治時代にかけて、三浦半島は相樸が盛んなところであった。とくに浦賀には、江戸大相撲の力士が度々訪れた記録がある。なかでも文化6年(1809) 6月には、江戸大相撲でも無敵を誇った雷電為右衛門が来て、東浦賀の東林寺境内て興行をしている。」そして「浦賀駅」を振り返る。「浦賀通り」を「浦賀ドック」方向に向かって進む。その先、浦賀駅から久里浜に向かう道の左側と観音崎に向かう道の右側に歴史の町浦賀を表わした十二枚の絵・「浦賀歴史絵図」がかけられていた。浦賀国際文化村推進協議会が平成十二年の咸臨丸フェスティバルのイベントの一環として作成、展示したものと。「浦賀国際文化村推進協議会の案内絵黒船来航の地 ようこそ浦賀へ 明日の浦賀をつくる会」。「ペリーとサスケハナ号」。「ペリーとサスケハナ号 浦賀小歴史絵委員会嘉永六年(一八五三)六月、アメリカ大統領の国書を持ったペリーが率いるサスケハナ号以下四隻の黒船が浦賀沖に姿を現わした。このペリー来航により鎖国政策はピリオドをうち。日本の近代はここに始まった。浦賀国際文化村推進協議会」「中島三郎丸と鳳凰丸」「中島三郎助と鳳凰丸 中島三郎助と遊ぶ会ペリー来航により、幕府は軍艦の必要性を強く感じ、浦賀奉行所の与カ・中島三郎助らに軍艦建造を命じた。安政元年(一八五四)五月、日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸は浦賀の地て誕生した。浦賀国際文化村推進協議会」「勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸」。「勝海舟・福沢諭吉と咸臨丸 上の台中日米修好通商条約批准交換の使節のお供として、安政七年(一八六〇)一月、勝海舟を艦長にした咸臨丸は浦賀を出港した。福沢諭吉は軍艦奉行木村正毅の従者として乗り組んだ。日本人の手に よる最初の太平洋横断の航海であった。浦賀国際文化村推進協議会」「榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック」「榎本武揚・渋沢栄一と浦賀ドック 鴨居中学校。日本で最初の洋式軍艦・鳳凰丸の建造に貢献した中島三郎助の招魂碑の除幕式の列席メンバーによって「浦賀ドック」は創設され、この中心人物が榎本武揚であった。時を同じくして、西浦賀の川間の地に同様に造船所を創ったのは明治期の大実業家渋沢栄一であった。 浦賀国際文化村推進協議会」「ヴェルニーと観音埼灯台」。 「ヴェルニーと観音埼灯台 浦賀中学校明治ニ年(一八六九)一月一日、日本で最初の洋式灯台である観音埼灯台が点灯した。開国後の条約で定められた船舶の航行安全を図るためのものであった。灯台建設には、横須賀製鉄所(後の造船所)の所長であり、技術者のヴェルニーの力によることが大きい。浦賀国際文化村推進協議会」「虎踊り」。「虎踊り 浦賀中学校美術部享保 五年(一七ニ〇)伊豆下田から奉行所が浦賀へ 移転してきた。この時下田奉行所で足軽役として廻船の船改めをしていた下田の問屋も浦賀へ移転してきた。この下田の問屋が伝えたのが「虎踊り」であった。これに当時江戸で流行していた近松門左衛門の「国姓爺合戦」 のストーリーを取り入れ、和藤内を登場させ、唐子の踊りを入れて浦賀風の 「虎踊り」が完成した。現在は六月中旬の西浦賀四丁目(浜町)にある為朝神社の祭礼の折に演じられる県の無形文化財である。 浦賀国際文化村推進協議会」「干鰯問屋」。「干鰯問屋 浦賀小学校2001年度卒業生干鰯(ほしか)とは、鰯を天日でカラカラになるまで干した物で、畑、特に綿作りの肥料としては最適なものであった。浦賀の干鰯問屋は東浦賀のみにあり、江戸時代の初期には十五軒であったが、寛永十九年(一六四ニ)に三十軒の問屋株が成立し、大変な繁盛ぶりであった。元禄五年(一六九ニ)からは灯明堂の維持管理と年間ニ〇〇両の運上金を収めるようになった。町の浮き沈みはすべてこの干鰯と関係があるほど東浦賀は干鰯一色であった。浦賀国際文化村推進協議会」「浦賀港とスペイン商館」。「浦賀港とスペイン商館 鴨居中学校徳川家康は江戸に入ると、対外貿易積極策を展開し、江戸に近い浦賀を貿易港とした。貿易の相手にはイスパニアを希望しており、フィリピンに使いを出している。この要望を受け入れて慶長十一年(一六〇六)と十三年(一六〇八)にイスパニア船が入港した。これらを契機にして浦賀には修道院や商館が建てられ、金銀島探検の任務をもったビスカイノらも浦賀に滞在した。しかし、浦賀の貿易港構想はこれ以上に発展することなく、家康の死去とともに消滅した。 浦賀国際文化村推進協議会」 ・・・つづく・・・
2024.04.29
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「塚山公園」の事務所・公衆トイレに立ち寄る。「塚山公園 整備・管理計画(案) ダイジェスト版」と。く塚山公園がめざす姿>◯隣接する「安針塚」と連携し、歴史や文化資源を保全し、活用する場を供するとともに、 その伝承や情報の発信を図る。◯東京湾や富士山など、高台からの景観の保全を図る。◯サクラや安針塚を中心としたイベント開催などを通じて、地域コミュニティの場を提供する。「塚山公園平面図」。北消防署「火災予防標識」設置図 と。「事務所」前からソメイヨシノとミツバツツジのコラボを楽しむ。ズームして。「お手洗い案内」の上には、可愛いリスの像が。再び「さくら谷」を見る。花畑にも様々な花々が。「見晴台」案内柱。「見晴台」からの東京湾方向の眺望を楽しむ。再び「猿島」を見る。さくら越しに右手:横須賀海軍施設 (アメリカ海軍横須賀基地)そして東京湾を。横須賀海軍施設のロナルド・レーガン停泊池そして6号ドックを見る。原子力空母・ロナルド・レーガン (USS Ronald Reagan, CVN-76) 。アメリカ海軍の航空母艦。ニミッツ級航空母艦の第9番艦である。艦名は第40代アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンに因み、存命中の人名がつけられた3番目の空母でもあった。アメリカの空母で唯一海外を母港としている。「塚山公園」の「さくら谷」を見ながら「塚山公園」を後にしたのであった。いたるところに案内柱が設置され、判りやすいのであった。「本町山中有料道路」の「旧料金所」を左眼下に見る。「本町山中有料道路」は2022(令和4)年3月21日から無料開放となり、神奈川県の管理となったとのこと。「横浜ランドマークタワー」方向をズームして。料亭の如き建物前の駐車場には多くの車が。次に「西逸見吉倉隧道」を訪ねた。このトンネルは『防災トンネル』として、普段は車での進入はできないとのこと。「西逸見吉倉隧道」と。横須賀の地形の特徴でもあります“谷戸”。(丘陵と丘陵にはさまれて幾条もの谷が走る。この谷あいのこと。)災害時にはこの地形が災いし、孤立する危険が。これを防ぐため横須賀市は防災トンネルを造ったとのこと。1985年昭和60年完成 全長 260m 幅 4.5mとのこと。壁面はパネルで覆われていた。そして引き返して、再び横須賀港沖に停泊する空母型護衛艦・いずも??を見る。ズームして。「社会福祉法人金良会 特別養護老人ホーム 塚山ホーム」。入所定員 155人<87.6人> ※<>内の数値は都道府県平均 入所者の平均年齢 85.4歳入所者の男女別人数 男性:34人 女性:119人 とネットから。この付近の桜はエピローグへと。先ほど覗いた「謎の巨大遺構」を再び。「たうら 観光マップ」。「横須賀市全体案内図」。「周辺案内図」。京急「安針塚駅」にあった自販機。コカ・コーラ ボトラーズジャパン株式会社は、2023年7月21日、訪日観光客向けに多言語での情報提供に対応した「おもてなし自販機」をリニューアルし、展開を開始したのだと。自動販売機デザインイメージ「歌舞伎」。今回のリニューアルでは、15種類以上のQRコード決済が利用可能となるサービス「QR de決済」機能(※)を追加し、決済手段を拡充します。また、訪日観光客の目に留まりやすいよう、ラッピングデザインを一新しました。デザインはコークレッドを基調とし、設置場所に応じた自動販売機を選べるよう日本文化を象徴する4種類のラッピングを提供します。さらに将来的には、オプションとしてWi-Fi機能の搭載も予定しています とネットから。自動販売機デザインイメージ「舞子」そして京浜急行で「上大岡駅」へ、横浜市営地下鉄を利用して湘南台駅に。そして小田急線を利用して17時過ぎに帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.04.28
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そしてようやく「三浦安針墓(安針塚)」への石段下に到着。「按針塚」案内柱。「国指定史跡三浦按針墓所在地 横須賀市西逸見町三丁目五十七番地指定面積 一三五ニm2指定年月日 大正十ニ年(一九ニ三年)三月七日三浦安針は、本名ウィリアム・アダムス👈️リンク という英国人でオランダ東印度会社が東洋に派遣した艦隊の水先案内でした。艦隊は航海中に大嵐にあい、、慶長五年(一六〇〇年)安針が乗ったデ・リーフデ号だけが九州に漂着しました。安針は砲術や航海・天文学に優れていたため、徳川家康の信任を得て幕府の外交顧問となり、江戸日本橋に屋敷、慶長十年(一六〇五年)には三浦郡逸見村に二五〇石を与えられました。また、安針は造船の知識もあり、伊豆伊東で西洋帆船を建造しました。安針は元和六年(一六二〇年)、平戸で亡くなりましたが、安針とその妻を弔うため、遺言により知行地の逸見村に供養塔が建てられました。ニ基の宝筺印塔は、凝灰岩製の右塔が安針、安山岩製の左塔が妻・ゆきのものです。 平成二十年(ニ〇〇八年)三月を五日 横須賀教育委員会」宝篋印塔の各部の名称。三浦安針墓(安針塚)への石段前から再びピンクの「ミツバツツジ」をズームして。石段下から見上げて。「ウ井リアムアダムス夫婦墳墓在於塚山絶頂」と刻まれた石碑。「史跡の永久保存1.私達は、ウィリアムアダムス、日本名「三浦按針」とその妻の墓を永久保存するため、 西歴1966年(昭和41年)に塚山公園保存会を設立して以来、清掃奉仕を継続しています。2.毎年4月には、横須賀市主催の四大国際式典である三浦按針祭が盛大に開催されます。 日英両国民の友好の証しとして、この史跡を大切にしてください。 横須賀市西逸見町 県立塚山公園保存会」さらに石段を上って行った。振り返って。ズームして。「安鍼塚碑「三浦按針墓」の手前にある石碑は大正7年(1918年)に建てられたもので、ウィリアム・アダムスの事績と墓が整備されるに至った経緯が刻まれています。アダムスは元和6年(1620年)に亡くなり、この地に墓が建てられますが、墓はその後、荒廃していたようです。明治5年(1872年)に横浜の英国人商人のウォルターズが、横浜在住の英国人向け新聞「ザ・ファー・イースト」に紹介したことで、その存在が知られるようになりました。その後、逸見の有力者であった鈴木福松(後の第2代横須賀市長)らが整備を行い、さらに日露戦争中の明治38年(1905年)には広く寄付を募り、その寄付金をもとに整備が行われ、この石碑が建立されました。」「石碑全文はこちら」とQRコードが。「安鍼塚碑正二位大勲位侯爵井上馨篆額塚者葬維廉亞達母斯氏處氏世稱安針英國堅特州紀林翰人慶長三年駕蘭舩航東洋遭颶風漂蕩五年達豐後海岸時徳川家康在大阪召見移之江戸賜邸今日本橋區安針街是也家康擢氏為譯官或顧問試命造洋形船成稱意又為砲術地理數學等師範或從事外商貿易頗有功績因賜相模三浦郡逸見村二百五十石之地為食邑元和六年四月十四日病歿氏臨終遺嘱曰吾漂來此國暖飽至今皆徳川将軍之恩也宜葬吾於逸見山巓令東面其墓可以望江戸泉下有靈永保護此都佛諡曰壽量滿院現瑞居士妻馬籠氏生二子皆夭寛永十一年七月十六日妻亦歿合葬于此佛諡曰海華王院妙滿比丘宅阯猶在村中香火院曰浄土寺傳遺物二種云明治三十八年神奈川縣知事周布君公平歎其墳墓之頽廢於寒煙荒草中與英國公使麻克竇納爾海軍大将井上男及英商惹斯倭爾太謀募金修繕之有栖川威仁親王英國亜札爾康納特親王竝賜保護令旨我搢紳富豪及英國人爭喜捨獲貮萬圓許乃用其半修墳墓擴兆域植花木置守戸名曰塚山貯其半充永久保存之費因又建碑不朽其人属余作銘銘曰 嗟安針氏 海外漂寓 有効國家 報以恩遇 義不忠恩 生死仰慕 永護江都 東面其墓 従三位勲二等文學博士三島毅撰 従六位勲五等髙島張輔書 井龜泉刻字」現代語訳塚に葬られているのは、イギリスのケント州ジリンガム出身で安針の名で知られるウィリアム・アダムスである。慶長三年(一五九八年)にオランダ船に乗り、東洋への航海中台風に遭い、五年間の漂流の後、豊後(現在の大分県)の海岸に達した。この時、大阪にいた徳川家康に召し出され、江戸に屋敷を与えられた。日本橋区(現在の東京都中央区)按針町がこれである。家康は通訳あるいは顧問として按針を取りたてた。西洋式の船の造船を命じ、安針はその意をかなえた。また、砲術、地理、数学等の師範、或いは外国との貿易に大変な功績があったので、相模(現在の神奈川県)の逸見に二百五十石の領地を与えられた。元和六年(一六二〇年)四月十四日に病没した。その際、「私はこの国に流れ着き今や大変に恵まれた生活をしている。これはみな徳川将軍の恩である。私を逸見山の嶺の東向きにした墓に葬ってほしい。そうして死後も江戸を望みこの都を永久に保護するものである」との遺言があった。戒名は寿量満院現瑞居士。妻の馬籠氏との間の二人の子供は夭逝し、寛永十一年(一六三四年)七月十六日妻もまた病没し、ここに合葬した。戒名は海華王院妙満比丘。屋敷は現在も逸見にある安針の菩提寺である浄土寺で、所縁の品が伝わる。明治三十八年、墓が訪れる人もなく荒廃していることを歎いた神奈川県知事の周布公平(すふ こうへい)が整備をした。イギリス公使マクドナルド、海軍大将井上(良馨)男爵、イギリス人商人ジェームス・ウォルタらの募金により修繕をした。有栖川威仁親王、イギリスのアーサー・コンノート親王の保護令旨により紳士、富豪やイギリス人らから二万円の寄付が集まり、これをもとに墓の拡張や修繕、花や木の植栽、墓守を置くなどの整備が行われ、塚山と名付けられた。また、これらの事業を後世に伝えるためこの石碑を建立した。※注:碑文を現代語に訳したものであり、必ずしも歴史的事実を表したものではありません。三浦安針墓(安針塚)。供養塔の脇には大きなタブの木(クスノキ科常緑高木)があり、周囲はフェンスで囲われていた。近づいて。三浦按針が亡くなったのは長崎県の平戸であるが、いろいろな出来事があり墓の所在は定かではないとのこと。そのため、ここは本来の墓ではなく供養塔であるが、大正12年(1923年)に三浦按針墓として国指定史跡となったとのこと。右の宝篋印塔がウィリアムアダムス・三浦安針👈️リンク の供養塔。按針とはパイロット=水先案内の意。磁針を見、天体を測定して船の航海をつかさどった者 と。左の宝篋印塔が妻・ゆきの供養塔。慶長7年(1602)に馬込勘解由の娘とされる、お雪(マリア)という女性と結婚し2人の子供が誕生したと。しかし、日本に漂着する前、既に結婚していたとのこと。ウィリアム・アダムスはメアリー・ハインと結婚して娘・デリヴァレンスと息子・ジョンが誕生していたと。多忙であったウィリアム・アダムスは家にいないことが多かったと。しかし彼は家康に気に入られて武士となった後も一度も帰国しなかったとのこと。一対の供養塔を左側から。再び「安鍼塚碑」を振り返って。石段を降りた所にあった石柱。「史蹟名勝天然紀念物保存法ニ依リ大正十二年三月内務大臣指定」と刻まれていた。「大正十三年六月建設」。「富士見台」に向かったが、写真を見ると通行止めではなく、駐車禁止案内であったことに気がついたのであった。「大楠山(石畳道)」案内。大楠山山頂より富士山と金時山(左端、富士山直下は矢倉岳)の写真をネットから。正面にも案内板が。「市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 三浦按針夫妻墓墓石は、江戸期の宝篋印塔で、国指定の史跡となっています。右が按針の墓で、左がその妻の墓です。三浦按針は本名をウイリアム・アダムズと言い、1564年にイギリスのケント州ジリンガムで生まれました。少年時代の十二年間を造船工として働き、成長して海軍に入り、航海長や船長をつとめました。のちに、オランダのファン・ハーヘン会社の東洋探検船隊に加わり、リーフデ号の航海長として1598年に東洋に向かいました。慶長五年(1600)、台風に遭い、生き残った乗員二十四名と共に豊後国(大分県)臼杵に漂着しました。徳川家康は三浦按針を高く評価し、政治・外交顧問として重く用い、江戸日本橋に屋敷を、この地逸見村に二百五十石の領地を与えて厚遇しました。三浦の姓は、この三浦の地を領地としたことにより、按針の名は水先案内人を当時按針と称していたことによります。この頃の按針は、家庭的にも恵まれ、江戸日本橋大伝馬町の名主馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘を妻とし、ジョゼフとスザンナの一男一女をもうけました。家康の亡きあとは不遇となり、元和6年(1620)5月16日に江戸の豪商木田弥次右衛門宅で病死しました。享年57歳でした。この地に供養塔が建てられたのは、「我死せば、東都を一望すべき高敞(こうしょう)の地に葬るべし、さらば永く江戸を守護し、将軍家のご厚恩を泉下に奉じ奉らん」との按針のことばに従ったものと言われています。毎年4月8日、按針の遺徳をしのび、国際色豊かな記念式典が行われます。」ここからも富士山の姿が見えるのであろうか?別のルートで「富士見台」に向かって見た。ここが「富士見台」であったが・・・。「富士見台」から引き返して、ここも別のルートで「三浦安針墓(安針塚)」へ再び。今度は「三浦安針墓(安針塚)」を先ほどとは反対側から。そして石段の上から桜をこれでもかと見下ろす。「中央広場 見晴台」へ。見晴台側の斜面にあった「かながわの景勝50選 塚山公園」碑。東屋風の建物が。「ミツバツツジ」の林を見下ろす。前方には「さくら祭」の舞台があった。何度もみたいピンクに輝く「ミツバツツジ」の花を。ズームして。名残り惜しさに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.27
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「三浦安針墓(安針塚)」を目指して「塚山公園」内に入る。「塚山公園」の最高部は標高133m。見晴台からは横須賀港や横浜、房総半島の山々などが見渡せたのであった。公園の奥には「按針塚」と呼ばれる碑があった。国指定史跡のこの碑は、三浦按針ことイギリス人ウイリアム・アダムスと、その妻の墓。三浦按針は砲術や造船術、航海術などを日本に伝え、徳川家康の外交顧問としても活躍した人物。 案内柱には「さくら谷」と。「塚山公園」案内図。ピンクの場所が「さくら谷」。「港の見える丘」に向かって。正面に「管理事務所」。左下の「さくら谷」の満開の桜を楽しみながら進む。「県立塚山公園のさくら」案内板。ソメイヨシノをはじめとしてヤマザクラ・オオシマザクラなど数種類の桜、約1,000本が春に開花する と。この日は4月5日(土)、「第77回塚山公園さくら祭」が開催されていた。「按針塚」に向かってさらに進む。「県立 塚山公園」碑。公園案内がここにも。現在地はここ。「港の見える丘」の「展望デッキ」に向かって進む。「港の見える丘」の「展望デッキ」からの光景案内。遠く房総半島の山々、その手前に「猿島(さるしま)」その右手に「メルキュールホテル」「ザタワー横須賀中央(38階)」が写真右に。さらにカメラを右に追うと防衛大学校のある小原台方向が。再び眼下の「さくら谷」を。西側の「十三峠」方向を見る。「十三峠」は横須賀市の北西部、長浦町の谷戸の最奥部に位置するが、峠を越える道は尾根筋を通り、西の田浦(田浦町二丁目)の谷戸と東の逸見(西逸見町三丁目)の谷戸とを結ぶ。元の浦賀道であり、明治から大正にかけては国道に指定され、程ヶ谷(保土ヶ谷)と浦賀、また明治以降は横浜と横須賀とを結ぶ幹線道路であった。しかし、田浦・逸見の両谷戸から尾根筋への登り坂が極めて急峻であったことから、荷車等の通行は困難であった。そのため、1928年(昭和3年)に田浦-逸見間の海岸沿いにトンネルで通り抜ける道路(現在の国道16号)が開通すると幹線道路の地位を完全に失った とウィキペディアより。「十三峠給水塔」をズームして。UFOのような水色の構造物は配水タンクのようだ。残念ながら富士山の姿は雲に隠れてしまっていた。その手前に長浦町段々畑が。段々畑をズームして。桜並木の下を「展望デッキ」を目指す。「展望デッキ」に到着。「田浦港」方向を見下ろす。「田浦港」の沖合に停泊する「護衛艦」を再び。「田浦港」方向案内図。何故か気になる巨大クレーンを目一杯ズームして。再び桜を追う。そして美しいピンクの花・「ミツバツツジ」葉は3枚輪生することから、「ミツバツツジ(三葉躑躅)」の名に由来になっているのだ。今朝の我が家のツツジの花、葉です。「ミツバツツジ(三葉躑躅)」との葉の違いが解かるのです。葉は枝先に集まって互生し、大形の狭長楕円形で両端はとがる。革質で光沢のない明るい緑色。ふちは全縁で、両面に毛があるのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.25
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京浜急行「横須賀中央」駅から乗車し、次の目的地の「ウィリアムアダムス・三浦安針墓(安針塚)」を訪ねるために、「安針塚」駅で下車。(国による史跡指定は「安針」の字で受けている)とのこと。「安針塚」駅にあった「三浦按針 菩提寺 浄土真宗 浄土寺」👈️リンク 案内ポスター。三浦按針は、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。日本名は三浦 按針(みうら あんじん)。関ヶ原の戦いの約半年前の1600年4月29日(慶長5年3月16日)、ウィリアムアダムスの乗るリーフデ号は豊後国臼杵の黒島に漂着した。家康は米や俸給を与えて帰国を慰留し、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、」助言を求めたりした。またこの時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の側近に授けたとも言われている。家康は、アダムスの功績に対し、ここ横須賀・逸見(へみ)に250石の領地を与え、三浦按針という青い目のサムライが誕生したのであった。サムライの称号を得た最初の外国人だったのだ。 [按針塚]ウィリアム・アダムス👈️リンク は1620 (元和6 )年に長崎県平戸で亡くなると、外国人墓地に埋葬されたが、息子ジョセフは父の遺言にしたがって、横須賀にその墓標を建てた。アダムスの持念仏が安置されている横須賀浄土寺では、1840 (天保11)年の江戸時代末期までアダムスの法要が営まれていたようで、江戸屋敷があった日本橋按針町の人々が寄進した打敷(ご本尊の前机にかける敷物)が残っている。(神奈川県立塚山公園国指定史蹟)「安針塚駅」を出て三浦安針墓(安針塚)を目指して歩き始めた。横須賀市長浦町3丁目の住宅街を南に向かって進む。山を切り崩して作った道なのであろう。三浦半島では、このような起伏に富んだ土地に住宅地が広がっているのであった。横須賀市の汚水マンホール蓋。市章の周りに横須賀市の木・オオシマザクラの花と「おすい」の文字。更にその周囲を「YOKOSUKA」の文字と小さな オオシマザクラの花で囲む。坂の途中、左手にあったのが「真宗大谷派 長願寺」。横須賀市長浦町3丁目19掲示板には「暗闇の中でこそ 星が見える」と。石段を上ると正面に本堂が現れた。「長願寺」は田谷山・浄土真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来像。創建については不明だが、新編相模国風土記稿に「不入斗村、西来寺末」とあり、西来寺の隠居寺となっていたようだ。享保元年(1716)に亡くなった春誓が中興開山といわれる と。「田谷山長願寺 再興之詩抑々当山ハ、室町時代ニ不人斗西来寺住持・頓乗師、小田原北条氏ニヨリテ法難ヲ受ケ、長浦ノ里某門徒ノ家(後ノ長願寺)ニ隠レ住ム。コレ即チ当山ノ濫觴ナリ。其ノ後頓乗師、西来寺ノ寺蹟ヲ回復ス。爾来当山ハ西来寺ノ地中トナル。故ニ、頓秉師ヲ当山開基ト為ス。昭和ニ至リ、住憎高崎文城師、西来寺ヨリ当山ヲ独立、長願寺独立第一世トナリ、ココニ当山ハ真宗大谷派宗門ノ一寺トナレリ。然レドモ、寺ノ基盤微弱ニシテ、寺内荒廃ス。独立第ニ世・高橋一蔵師、寺門ノ運営ニ苦シミ、本堂再建ノ志アレドモ、昭和六十一年一月、中路ニ遠ク逝ク。当山減亡ノ危機、ココニ極マル。ココニ至リテ、時ノ浄栄寺住持・蒲範雄師、速カニ寺務ヲ相続シ、浄栄寺ト兼務ス。浄栄寺法嗣・蒲信一、当山ノ寺務ヲ掌握、直チニ総代・世話人ヲ結集シテ、当山再興事業ニ着手ス。佛紀ニ五三七(平成六)年十一月ニ十日、本堂・常照庵(門徒会館)・庫裡ヲ落成シ、当山再典事業円成ス。其レョリ遡ルコトニ年余、熊ホ県天草光蓮寺ノ衆徒・海法龍師ヲ法嗣ニ迎へ、ココニ範蒲雄師ヲ当山中興第一世トシ、海法龍師ヲ第ニ世ト為スモノナリ。佛紀ニ五三九(平成八)年ニ月、海師法燈ヲ継承シ畢ンヌ。当山再興事業ニ就テハ、別ニ記録ヲ具フ(長願寺再典物語之也)。当山再興ニ尽力セシ人々・・・略・・・当山ハ幾多ノ門徒・有志ノ念ヨリ再興サレシ真宗弘通ノ道場、如来ノ仏法領ナリ。何人モ私スルコト能ハズ。後世ノ同朋、ユメユメ如来ノ洪思ト、先人ノ労苦ラ忘ルルコト莫レ。 佛紀ニ五三九(平成八)年ニ月四日 浄栄寺佳持 釋信惠(蒲 信一)」。扁額「長願寺」。本堂の「殿鐘」。これが鳴り出すと、「そろそろ法要がはじまるよー」という合図になるのだ。「常照庵」は門徒会館 と。本堂裏の墓地。歴史を感じさせる石仏の姿も。枯山水風の庭。さらに南に進むと「東京電力パワーグリッド(株) 横須賀変電所」の駐車場の先の山裾にあったバリケードで閉ざされた「大きな穴」。Google MAPには「謎の巨大遺構」と。横須賀市長浦町3丁目。穴の中を覗き込む。側面は岩肌が、天井はコンクリートで粗仕上げが?その先は行き止まり?戦時中の海軍の地下工場、地下倉庫の施設跡か?何の目的で作られた施設なのか?ご存じの方が居たら是非教えて頂きたく。「安針台地区 地区計画区域」案内図。低層住宅、中高層住宅、住宅商業複合、公共公益施設と地区計画が出来ているようであった。そして「謎の巨大遺構」の西側にはユニークな公園・「長浦3丁目第二公園」があった。背中の大きな「帆」が特徴の、アメリカで発見された哺乳類の祖先「盤竜類・ディメトロドン」の姿に圧倒されたのであった。「ディメトロドン」は系統的には哺乳類を含む単弓類の原始的な動物で、恐竜ではありませんとネットには。実物大なのであろうか?FRP製?のようであったが。「東京電力パワーグリッド(株) 横須賀変電所」。その先、雑草の生い茂る山裾の細い石段の先にあった「長浦稲荷社」。横須賀市長浦町3丁目24−24中央に小さな石祠。そして「三浦安針墓(安針塚)」に向かって引き返す。「横須賀市の雨水マンホール蓋」。デザインは市の花「ハマユウ」。高層マンション群を見ながら坂道を上って行った。横須賀市安針台16付近。ピンクの「シャクナゲ(石楠花、石南花)」の花。近づいて。ピンク、赤、白、黄など変化に富んだ花色と、大きく豪華な花房は、ほかの植物を圧倒する美しさなのであった。左手奥の高台にあったのが「社会福祉法人金良会 特別養護老人ホーム 塚山ホーム」。高層マンションがさらに建設中であった。「コモンヒルズ安針台 Ⅰ番館・Ⅱ番館・Ⅲ番館」。京急「按針塚駅」から6~700mの高台にあるマンション群。そして「安針台第2公園」への石段を上る。公園入口では、小鳥の像のついた車止め・「ピコリーノ」が迎えてくれた。可愛い小鳥に近づいて。ベンチでしばしの水分補給。オオシマザクラ?近づいて。ショートカットをしようと、さらに石段を上って行き振り返って。先日訪ねた横須賀本港を見る。護衛艦の姿が。 ・・・つづく・・・
2024.04.24
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横断歩道を渡りながら、次に訪ねた「清雲寺入口」案内柱を見る。横須賀市大矢部5丁目7~8の境の住宅街の狭い道を進む。バス通りから坂道を登って行くように向かった。グルッとした形状が昔からある旧道っぽい雰囲気。『横須賀こども風土記』(以下風土記)にこの辺りを「クリヤマ」と云うと。「クリヤマのクリとは住職やその家族の居間を意味する庫裏のことでしょう」とあったので、現在の清雲寺は往時の庫裏部分に建てられているようであった。「横須賀風物百選 清雲寺滝見観音像」と。横須賀市が市制施行70周年(1977年)を記念して「横須賀風物百選」を制定したと。「国指定重要文化財 木像観音菩薩像」案内板。下部には「清雲禅寺」と。近づいて。「国指定重要文化財 木像観音菩薩像 一躯(く)神奈川県横須賀市大矢部五ー九ーニ〇 清雲寺本体像高 六一・八センチメートル平歳一〇年(一九九八年)六月三〇日指定この観音菩薩坐像は、その形状形態から南宋時代に中国の江南地方で製作されたものと考えられます。材質は中国産の桜材とみられ、体部は像内に空間ができるように正面材と背面材を貼り合わせ、底板(亡失)をはめる箱組式の構造です。頭部は一材であり、瞳はガラス様の玉が裏からはめられています。地髮、肩上の垂髮および胸飾は練物が貼り付けられています。表面はかつて、漆塗りで全身が淡紅色の地色で被われ、衣部は顔料や金により文様が施されていたと思われますが、現在ではほとんど剥落しています。この像は右ひざを立て左ひざを垂下させたくつろいだ姿勢、面長で鼻梁が細い顔だちなど、妖婉さを漂わせる印象があります。このような像は中国では、五代頃より盛んに作られました。それらは景物や付属品等により水月観音、楊柳観音等と呼ばれます。この像も、滝見観音と呼ばれ親しまれています。また、その作風の特色や技法などが京都泉涌寺の観音菩薩坐像(楊貴妃観音)と同一であり、両者の関係が彫刻上の興味に留まらず歴吏的な関孫が想像されます。この像がこの地にもたらされたのは、その製作年代から三浦氏が領主であった時代で、三浦氏が減亡した宝治元年(一ニ四七年)以前と考えられます。一三世紀後半から鎌倉を中心とする周辺で製作された像に、宋彫刻の影響が見られるのは、この像がもたらされた時代背景によるものと思われます。この観音菩薩坐像は、東国に宋文化を伝え芽生えさせたことを語る代表的作例の一つです (南宋時代 一一ニ七~一ニ七九年) 平歳一一年(一九九九年)一〇月 横須賀市教育委員会」「三界萬霊(さんがいばんれい)」の慰霊碑(左)と「唐佛瀧見観世音菩薩」碑(右)。山門に向かって進む。「清雲寺」案内図。ズームして。掲示板には「よわねをはくな くよくよするな なきごとをいうな うしろをむくな坂村真民「七宇のうた」より」「木像 毘沙門天立像所在地 横須賀市大矢部五丁目九番ニ十号所有者 宗教法人清雲寺指定年月 昭和三五年(一九六〇年)五月十七日この毘沙門天像は、もと当寺の本尊仏であり、寺伝によれば、建保の乱(建保元年、通称和田合戦)の折、和田義盛の為に敵の矢を受けとめたと言われ、矢請の毘沙門天と呼ばれている。像高七〇・七cmの寄木造りで、彩色玉眼入り。邪鬼の上に立ち、腰をやや左に張ってひねり、右手に宝桙、左手に五輪塔を捧げる通形の立像である。兜を別に作り頭上にかぶせ、鎧の止め金の銅板細工で戴金模様が伺われる鎌倉中期以前の優作の一体である。鬼底部及び台座の墨書銘から補修されたことがわかる。〔鬼底部銘〕 相 大矢部村大富山清雲前住 可心 再興 貞享二ニ年(貞享四年=一六八七年のこと)卯九月吉日〔台座銘〕 相 鎌倉扇之谷村ニ而 仏師 後藤左近重房 (花押) 貞享四卯ノ年八月出来為後年之書置者也平成ニ十一年(二〇〇九年)三月十五日 横須賀市教育委員会」「木像 毘沙門天立像」。「木像観音菩薩坐像現在、滝見観音と呼称されている像で、中国南宋で造られ、入宋僧や日宋貿易を担った商人らによって日本に伝わり、三浦の地には13世紀頃にもたらされたと考えられる。江戸時代には末寺円通寺(廃絶)の本尊として祀られていたが、清雲寺に移されて現在に至る。首をかしげ、面長でロ角をやや上げ微笑する表情は、生身の人間のような印象を受ける。瞳にはガラス玉を嵌める点が珍しい。岩座に坐り左足をのばし右足を立て、左手を岩座に置き、右膝に手を添える特徴的な姿は遊戯坐(ゆげざ)とも呼ばれ、日本の仏像とは異なる異国風の雰囲気がある。」「木像観音菩薩坐像」。「山門」を潜る。切妻造銅板葺で小さな袖塀を設けた山門は四脚門。山門を通して眺めた緑に包まれた境内が。正面に本堂。山門脇の覆屋に鎮座する「六地蔵尊像」。赤い帽子と刺繍が施された涎掛けがいい。「六地蔵尊像」の周囲には多くの卒塔婆が奉納されていた。「三浦為継の逸話二代目為継は後三年合戦で、源義家の陣営に加わって戦った。その際、16歳の鎌倉権五郎景正(鎌倉の権五郎社の祭神となった人物)が敵矢を右目に受けたが、矢を抜くこともなくその敵を射殺。帰陣して仰向けに倒れ込んだ影正を見た為継は、急き駆けつけ、矢を引き抜くため沓を履いたまま彼の顔を踏みつけて矢を引っ張った。これに景正は激怒。「弓を射られて死ぬのは望むところだが、なぜ生きながらにして顔を踏まれなければならないのだ!」と怒鳴りつけたのだ。為継も、非礼を詫びて膝をかがめ彼の顔を抑えて矢を引き抜いた。」本堂前、右側の石仏群。近づいて。微笑む石仏、舟形光背の地蔵尊像、右手に錫杖、左手に赤子を抱く。子安地蔵尊像?大きな頭部の錫杖を持つ地蔵尊像も。正面に本堂を見る。平安時代後期の長治元年(1104)、三代衣笠城主の三浦義継(三浦氏三代目)が父為継(二代目)の供養のために天台宗として創建した。桓武天皇の末裔である三浦氏の祖は武将・三浦為通で、康平六年(1063)、平安後期の武将で東国における源氏勢力の基盤をつくった源義家より三浦の地を賜り、三浦を名乗って衣笠城を築いた。清雲寺には、頼朝挙兵に尽力した三浦義明以前の三浦氏三代にわたる当主が埋葬されている。創建時の本尊は毘沙門天立像だったが、三浦為継が建立した円通寺(廃寺)の本尊だった瀧見観音菩薩像が、昭和初期頃に復興された清雲寺に移されて本尊に。 瀧見観音菩薩像は中国からの渡来仏、膝を立てた珍しい坐相で、南宋時代(1127~1279)の造立とされる。国の重要文化財に指定されている と。本尊の両脇には、鎌倉時代前期に運慶・快慶率いる慶派により建像された「毘沙門天立像」(県指定重要文化財)と、室町時代の「地蔵菩薩像」(市指定重要文化財)も安置されており、それぞれの時代の仏様が清雲寺に眠る数多くの御霊をお守りしているとのこと。扁額「圓通閣」。屋根には三浦氏の家紋「丸に三つ引紋」が。「三浦一族 ゆかりの地を巡る」案内板。「家の継承 ~先祖を祀るのはなぜか家を「継ぎ・伝え・興す」、これが中世の日本の人々の考え方の一つである。当時、末法思想と呼ばれる終未思想が流行したが、人々は自分の代で終わるとは考えていなかった。その彼らが最後に求めたものは極楽浄土への往生である。その管理をするのが、菩提寺だった。菩提寺は家の財産として、代々家長から家長へと継がれていく「渡り領」に含まれた。また、家族を持たながった女性、家族を失った女性を保護するのも菩提寺の役目であった。極楽への往生を願う人々は菩提寺を大切に守った。時には兄弟の中から出家し、僧侶となり家族を供養することも求められた。」境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠。頭上に11面をいただく千手観音菩薩像。「横須賀市指定史跡伝三浦為継とその一党の廟所昭和四十八年(一九七三年)一月十日指定清雲寺の本堂裏には、もともと三浦氏ニ代為継の墓と伝える五輪塔があったが、昭和十四年(一九三九年)に円通寺(廃寺=大矢部ニ丁目)裏山のやぐら群から初代為通、三代義継の墓と伝える五輪塔を移転し、以来、三浦氏三代の墓として祀っている。中央が為継、左右いずれかが為通、義継の五輪塔である。為通は関東平氏の流れをくみ、康平六年(一〇六三年)に源義家より三浦の地を賜り、衣笠城を築いた武将である。なお、「石造板碑文永八年在銘」および三浦九十三駒墓と伝えられる石塔群も同時に移された。横須賀市指定重要文化財石造板碑 文永八年在銘平成ニ十四年(二〇一二年)二月二十七日指定板碑とは石製塔婆のことで、この板碑は、もとは円通寺裏山、三浦氏の墳墓と伝えられるやぐら群の最上部のやぐらの傍らにあった。現在は右記の廟所の手前、切石を積んだ石室に納められている。埼玉県秩父産緑泥片岩製の武蔵型板碑で、現存地上高一三六・五cmを測る。主尊の梵字は阿弥陀種子キリークで、中央に「文永八年五月十四日左衛門小尉平盛信」、その下に次の願文を五行で刻んでいる。「右志者先考\聖霊當十三\年遠忌為成\佛得道造立/供養如件敬白」平(佐原)盛信が、亡き父(佐原光盛)の霊の十三回忌にあたり、成広し仏道の悟りを開くように板碑を造立し供養したことを記す。平成ニ十四年十ニ月 横須賀市教育委員会」本堂の脇を通って伝三浦為継とその一党の廟所に向かう。本堂右手に立ち、笠と中台に三浦氏の家紋が彫られた7基の石燈籠。「鎌倉殿の13人 三浦一族ゆかりの地 横須賀市」と書かれた幟。本堂裏の三浦氏三代の墓の五輪塔。近づいて。中央が初代為通、両側が二代為継と三代義継とのこと。三基の五輪塔の左右には、不揃いの五輪塔が並ぶが、三浦氏に従った三浦九十三騎の墓と伝えられ、文永八年銘の板碑も残されている。これらも円通寺から移されたものである。文永八年銘の板碑。ズームしたが・・。「祖~三代目の墓清雲寺の三浦一族の廟所には、三浦氏初代為通、二代為継、三代義継の墓とされる中世に遡る五輪塔が安置される。かつては、開祖である二代為継のものとされる中央の一回り大きな五輪塔のみだったが、1939年に近在の三浦一族の墓所であった圓通寺のやぐら群から、初代為通と三代義継の五輪塔とされるものが移され、三代三基が並び建つこととなった。ただし左右のどちらが、初代為通、三代義継かは判然としない。また、圓通寺跡のやぐら群からは、この他にも三浦九十三騎と伝えられる多数の五輪塔が移され、三代の五輪塔を取り囲むように左右に安置される。五輪塔は本来仏舎利塔であったが、中世には墓塔として広まった。」そして引き返して再び三浦氏の家紋の入った石灯籠7基を見る。境内に佇む舟形光背の千手観音菩薩像と石祠も再び。本堂に向かって左側に建つ庫裡を見る。「東国花の寺 百ヶ寺秋の七草 第一番 女郎花(おみなえし)の寺 清雲寺」と。東国花の寺は、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院が集まり、平成13年3月に発会したと。再び赤い帽子とよだれかけの六地蔵尊を。山門前から本堂を振り返る。蓮華座に立ち宝珠と錫杖を持つ地蔵尊像と自然石の庚申塔「青面金剛王」(造立年不明)。そしてこの日の訪問場所を全て訪ねた後は、バス通りまで戻り解散場所の「衣笠城址バス停」に向かって進む。地中、右手に先程訪ねた「満昌寺」を見る。そして「衣笠城址バス停」で解散し、私は横須賀駅行きのバスに乗り、途中、京浜急行線に乗り換えられる「横須賀中央駅」でバスを降りたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.23
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「満昌寺」を後にして次に訪ねたのが「近殿(ちかた)神社」。「近殿神社」は、三浦氏の祖とされる三浦為通(村岡為通)から数えて第6代当主にあたる、三浦義村を御祭神として祀る神社。三浦一族の本拠地であった衣笠城やその支城の大矢部城があった場所のすぐ近くに鎮座しているのであった。神社の御祭神と言えば神話に出てくる神様と思われるかもしれませんが、こちらの神社のように先祖を祀る神社もあるのです。このような神社を「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」と呼ぶのだ と。近殿神社の読み方は「ちかどの」「ちかた」「ちかど」と色々あるそうです。横須賀市大矢部1丁目9−3。社号標石「近殿神社」。石鳥居越しに「近殿神社」の拝殿を見る。現在の鳥居は昭和43年に奉納されたものと。「手水舎」。手水鉢には「洗心」と刻まれていた。境内にあった「町内会館」。「三浦氏の実力三浦為通の父親は桓武天皇の流れを汲む平忠通。前九年の役で武功を挙げ、源頼義から相模国三浦の領地を与えられたことから、「三浦」の苗字を名乗るようになり、義村、義澄もその流れを汲む。三浦は日本書紀に「御浦」、万葉集に「御宇良崎」と記されており、古くから「みうら」と呼ばれていたことがわかる。相模湾と房総半島を結ぶ海上交通の要衝でもあるこの地を本拠とした一族は海上交通を握る水軍を発展させた。源頼朝も北条氏も三浦氏に一目置いていた。」「由緒神社名 近殿神社鎮座地 神奈川県横須賀市え矢部一丁目九番三号祭神 三浦義村公御祭神三浦駿河守義村は、三浦氏代々の頭領三浦為通ー為継ー義継ー義明ー義澄ー義村ー奉村と続く第六代の頭領であり、当社は源頼朝を助け衣笠城で討死したと伝えられる三浦大介義明の孫に当たる義村公を祀る大矢部の総鎮守であります。明治6年6月には村社に列格し、創建は不詳でありますが、以前にはこの大矢部には近殿神社の他に、同大矢部山下834番地に祭神速玉乃男命(はやたまのおのみこと)を祀る熊野社、同大矢部山下722番地に天照天神を祀る皇大神社及び素戔鳴命(すさのおのみこと、別名、午頭天王)を祀る八雲神社とその境内社である本花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間神社及び金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る金之比羅神社、更に同大矢部綾子畑250番地に日本武尊を祀る貴船神社、そして同大矢部綾子畑239番地に八街比古命(やちまたひこのみこと)を祀る山頂神社と数々の神社がありましたが、大正2年(1913)9月1日一村一社という国の指令で衣笠山の衣笠神社に合祀されてしまいました。しかし乍ら世界第二次大戦後に、衣笠山では遠隔不便なため、近殿神社と他の社を元の当境内地に遷宮し、昭和22年(1947年)10月28日に再建し、昭和24年(1949年)2月10日宗教法人近殿神社の設立登記届を出し、民主的運営のもと大矢部の氏子の方々により運営されています。社殿は明治11年(1878年)に木造茅葺の社殿を再建しましたが、老朽化して去る昭和51年(976年)8月22日に改築造営して今日に至っております。 平成14年(2002年)9月 三浦大介義明公八百年幣実行委員会」 説明員の山本さんが、三浦家の家系図を出し、上記を説明して下しました。三浦氏の「家系図」を再び。狛犬(右)。この社殿前の狛犬は岡崎型。昭和52年奉納とのこと。「狛犬」(左)。正面から「社殿」を見る。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で山本耕史さんが演じられた三浦義村を祀った神社。「社殿」に順番にお参り。内陣。義村の木像(坐高35cm)は下の写真の黒い祠の中に鎮座されていたのだろうか?社殿に向かって右側の奥には山頂神社、金刀比羅神社、貴船神社、八雲神社、熊野社、浅間神社、皇大神社の石宮が境内に祀られていた。石祠群の前には歴史を感じさせる狛犬の姿が。「石宮の由緒こ々に鎮座する八つの石宮は大矢部にあった神社で、その由来については石段下右側の由緒書をごらん下さい。石宮の図山頂神社 貴船神社熊野社 皇大神社金刀比羅神社 八雲神社浅間神社 近殿神社の境内社」それぞれ、山頂神社は八街比古命(やちまたひこのみこと)、貴船神社は日本武尊命(やまとたけるのみこと)、熊野社は速玉之男命(はやたまのおのみこと)、皇大神社は天照大神(あまてらすおおみかみ)金刀比羅神社は金山彦命(かなやまひこのみこと)、八雲神社は素戔嗚命(すさのおのみこと)、浅間神社は木花之開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、が祀られているのだ と。どの石宮がどの神社のものか??案内板はなく、数も合わない!?歌川国芳 作「宇治川先陣」。「宇治川先陣」(うじがわせんじん)を描いたのは、「歌川国芳」(うたがわくによし)。歌川国貞、歌川広重と共に、歌川派の三巨匠と言われた人物で、武者絵が得意でした。 本合戦浮世絵は、平安時代の軍記物語「平家物語」に登場する「宇治川の戦い」がモチーフ。1184年(寿永3年)、「源頼朝」(みなもとのよりとも)は叔父である「木曽(源)義仲」(きそ[みなもと]よしなか)を討つことを決意します。そのとき、活躍したのが、3人の武将。画面左の「畠山庄司重忠」(はたけやましょうじしげただ)は、実は宇治川に先陣(せんじん:いちばん乗り)をしたのですが、渡河の途中で馬を射られて徒歩となり、同じく馬を射られた「大串重親」(おおぐししげちか)を助けるはめに。次に表れたのが、画面右側の「梶原源太景季」(かじわらげんたかげすえ)。しかし、画面中央の「佐々木四郎高綱」(ささきしろうたかつな)は、頼朝からいちばんの名馬「生唼」(いけづき)を拝領していたため、何としても1番乗りになりたいと、景季に馬の帯が緩んでいると知謀を働いて出し抜き、ついに先陣を切るのです。猛者揃いで英知にあふれた頼朝軍の様子を伝える、見事な1枚です とネットから。名馬「池月」の姿の写真。「源頼朝に献上された名馬である。頼朝の所有する代表的な名馬に生食と磨墨(するすみ、cf. 磨墨塚)の二頭がおり、梶原景季は頼朝に日頃から欲しいと思っていた生食を所望したところ、頼朝は磨墨ならばと同馬を与えた。ところが、後日、頼朝は生食を簡単に佐々木高綱に与えてしまった。のちに宇治川の戦いでは生食を駆る高綱が、磨墨を与えられた梶原景季と先陣争い(宇治川の先陣争い)を演じ、栄誉を勝ち取っている。生食(および、生唼)は生き物をも食らうほどの猛々しさ、池月は池に映る月に由来することから、立場の違いに起因する異字と考えられる。」とウィキペディアより。この地・大矢部の歴史に関する様々な本や写真集が紹介されていた。境内にあった「薬王寺旧跡」まで140mとの案内板。中央に四角い穴の開いた礎石があった。「「浅間神社」幟旗(のぼりはた)の礎石についてここに展示の礎石は、「浅間神社」の登山口に設置されていた幟旗(大矢部では幟と呼んでいた)の礎石で、お祭りのときなどには中心の四角い穴に丸太を立て、丸太に幟を通して高く掲げたものです。浅間神社登山口の左右にありましたが、展示の礎石は浅間神社に向かって右側に設置されていたもので、左側は失われました。大矢部の各神社にはこのような幟の礎石が数多くあったと思われますが、開発などにより失われ、ここに移した浅間神社のものが最後の一基と考えられます、大矢部の貴重な歴史遺産として後世に伝えたい遣産のひとつです。 註・・・浅間神社は、大矢部村民が「センゲン山」と呼んでいた山の項上にありましたが、 現在は横~横道路内になっています、昔は大矢部村の総鎮守社でしたが、享和年間 (1801~1803)に総鎮守社を浅間神社から近殿神社に替えた事が大矢部の古い文書に 書かれています。浅間神社の幟は比較的小さいものだったようですが、大幟と呼はれた幟は並外れて大きく、立てるのに苦労したと聞いています、礎石も当然並外れて大きいものだったと考えられます。 以上 平成ニ十一年三月吉日」そして崖下の横須賀市大矢部1丁目の道を「薬王寺跡」に向けて歩いて行った。その先、左側にあったのが「薬王寺旧跡 三浦義澄公👈️リンク 墳墓」。「横須賀市指定史跡 薬王寺旧跡 所在地 横須賀市大矢部一丁目二一六 所有者 満昌寺薬王寺は仏頂山と号し、建暦2年(1212年)、鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛が父杉本義宗や叔父三浦義澄の菩提を弔うため創建したものと伝えられるが、明治9年(1876年)頃廃寺となった。もとの本堂跡はここより東南の位置にあったという。石塔群のうち凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓と伝えられている。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれている。これら石塔群は、当地出上の元応2年(1320年)銘の双式板碑(市指定重要文化財・満昌寺蔵)とともに薬王寺の歴史を裏付ける貴重な存在である。 令和4年(2022年)七月 横須賀市教育委員会」そして、石塔群のうち中央の、凝灰岩製の方形石を三重にした石塔は、義澄の墓と伝えられている。本尊の薬師像は満昌寺に移され義澄の五輪塔だけが残されているのであった。さらに近づいて。最下石の四方には胎蔵界の種子が配され、ニ層及び三層石の上方には納骨穴様のものが穿たれているのであった。「改修記念碑維時 昭和五十六年十月二十五日三浦荒治郎義澄公墳墓施主三浦大介義明公八百年祭実行委員会」三浦義澄の墓の脇には、複数の石仏や石塔などが残されていた。多くの古そうな五輪塔も脇に。「三浦荒次郎義澄之墓」?と刻まれた石碑。その横にあった木製の小祠。内陣。「薬王寺旧跡」の先の路地を広い道へ向うと右から別の道がY字に交わる角に、上部を伐採された大木の根本に大きな石があり、この辺に薬王寺の山門があったとのこと。寺の大きさが伺い知れるのであった。薬王寺山門の「駒繋ぎ石(こまつなぎいし)」。各武将がこのお寺にお参りする時、馬の手綱を繋いだとされる石とのこと。土地の人は「こまどめの石」ともいっているとのこと。手綱をつないだところに磨り減った跡が見えた。近づいて。小さな碑には「薬王寺山門駒繋石」の文字が刻まれていた。手前にも石碑が。横須賀市大矢部二丁目地内の現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」敷地内に円通寺が 所在していた。天保十年(1839 年)にお堂が村民に売り払われ、廃寺となったため、詳細な場所は特定できていないと。 中世以前の宗派は不明ですが、江戸時代後期には臨済宗円覚寺末の清雲寺の末寺となっていたようだ。本尊は現在「清雲寺」にある国指定重要文化財の「木造観音菩薩坐像(通称「滝見観音」)」であったとされている と。 「円通寺と深谷やぐら三浦一族のやぐら群を残す貴重な谷円通寺と深谷やぐら初代三浦為通開基と伝わる円通寺の跡地。為通、為継、義継の供養塔が祀られていたという。谷の山肌には「やぐら(鎌倉時代中期に作られたお基)」が掘られ、三浦一族の墓所とされていたと思われる。しかし、江戸時代に廃寺になり、五輪塔などの石塔や、本尊であった観音菩薩像(滝見観音)は清雲寺に移された。その後は、軍の弾薬庫として接収された。そのため開発を免れ、当時の地形を残す三浦一族の貴重な遺跡です。」と頂いた資料から。 出典 新編鎌倉誌ここが「円通寺跡」。緑の場所が現「海上自衛隊大矢部弾火薬庫」横須賀市大矢部2丁目。そしてさらに進むと広い大きな道路に出た。衣笠IC方向に歩を進めると、道路の反対側・横断歩道の先には、次に訪ねた寺・「清雲寺」の入口案内柱があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.22
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「満昌寺」の「御霊神社宝物殿」の見学を終えて、「御霊神社宝物殿」の裏・北側にあった「三浦義明廟所(三浦義明の墓)」を訪ねた。「義明公墓」と書かれた案内板。ここにも「三浦義明坐像」案内板があった。「満昌寺の鎮守御霊明神社のご神体として祀られる三浦義明像。巾子冠をかぶり、袍と指貫を着けた東帯姿の等身の像である。首柄に1194年の墨書銘があるが、近世に書き加えられたものらしい。江戸時代の地誌『新編相模国風土記稿』や松平定信が全国の宝物を調査させた『集古十種』にも図が掲載され、当時すでに著名な像だったことがわかる。中世の武士の肖像彫刻は、烏帽子をかぶり強装束を着けたものが多いが、本像は衣冠束帯の姿であらわされる点が珍しい。鎌倉幕府の草創の立役者として神像に近い意識で造られたのかもしれない。」「三浦義明坐像」。「三浦水軍」案内板。「三浦半島を本拠地とする三浦氏は、三浦半島の丘陵地帯を馬で自在に駆け回る馬術と、東京湾・相模湾で船戦のできる水軍の両方に習熟しており、騎馬武者と水軍を兼ねた家として発展した。治承・寿永の内乱の最後の合戦となる壇ノ浦合戦(1185年)で、三浦水軍は源義経率いる追討使の第一陣を務めた。『平家物語』には、平氏の水軍と三浦水軍の違いが書かれている。遠くの的に正確に当てるのは、平氏の方が優れていたようだ。瀬戸内海の戦いを見ても、遠矢は必要な技術だったのであろう。一方、三浦水軍は、接近戦になると正確な弓を射ており、駒馬武者の弓術に近いものがある。和田義盛も、軍船の弓戦では勝ち目がないと判断し、小舟で接近し、相手を正確に射落とす戦い方をした。」この石碑には「嗚呼○烈三浦大介公之○域」「義明の最期衣笠城は、三浦一族の本拠地としてくられた大きな山城である。衣笠城に籠ると決めた時点で、義明は戦に勝てないと判断した。一族の者が「籠城するのは怒田(ぬた)城がよい」と進言したのに対し、自分の命を頼朝に対して高く評価させることを考え、三浦氏の本拠地の衣笠城を死舞台に選んだ。それ故、後を託す者には、ほどほどの段階で脱出を命じている。畠山重忠も、衣笠城を攻め落としたことで名誉を回復したと満足し、引き上げていった。」「伝三浦義明公墓」。市指定史跡指定年月日:昭和48年(1973年)1月10日三浦義明は、治承4年(1180年)源頼朝の旗上げに呼応し平氏側と合戦したが、8月27日に衣笠城で討ち死したといわれる。墓域周囲の土塀は、寛延2年(1749年)に三浦志摩守等三浦同族の修理により、中に義明の墓といわれる宝篋印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑の三基が並び置かれている。五輪塔は、総高70cmの凝灰岩製で鎌倉末期の型式をとる。水輪上部には納骨穴が穿たれ、空風輪は後補である。宝篋印塔は、総高82.8cmの安山岩(伊豆石)製で、鎌倉末期~室町期の型式をとる。九輪と基台は後補である。四面に金剛界四佛種子を彫る。新編相模国風土記稿に「五輪塔一基社の背後にあり、大介の首塚と言う。是を奥院と称す。」とあって、義明墓を五輪塔としているが、五輪塔が宝篋印塔にかわったのは誤記が不明である。現在では宝篋印塔を義明、五輪塔を義明の妻、それぞれの供養塔と考えるのが一般的である。板碑は、塔身高140cmの緑泥片岩(秩父石)製で、梵字(サ観世音菩薩の種子)及び銘文を刻字した薬研彫(断面がV字型の彫り)の力強さから鎌倉末期の作と考えられる。移動して。「市指定史蹟 伝 三浦義明廟所(墓) 満昌寺」。「全国から集まる子孫の思いとは減亡したかに見える三浦一族だが、支流の佐原氏によって血脈は受け継がれ、全国にその子孫が暮らしている。義明の生き様は子孫の誇りとするところであり、今も命日には各地から子孫が集まり、義明の御霊を慰めると共に感謝を捧げている。彼らの大半は義明に恥じぬような生き方をしたいと望み、その思いを次の世代へと継承している。」中央の総高82.8cmの安山岩(伊豆石)製の宝篋印塔。宝篋印塔が三浦義明の供養塔と考えられていると。総高70cmの凝灰岩製の五輪塔は、三浦義明の妻の供養塔と考えられていると。一方で鎌倉の材木座に頼朝が義明を弔うために建立したと伝わる来迎寺👈️リンクがある。義明の墓と伝わる五輪塔が安置されているのであった。板碑は、塔身高140cmの緑泥片岩(秩父石)製で、梵字(サ観世音菩薩の種子)及び銘文を刻字した薬研彫(断面がV字型の彫り)の力強さから鎌倉末期の作と考えられる。再びズームして。瓦や板などで葺いた築地塀に似ていたが。築地塀の先にあった石祠。再び「御霊神社宝物殿」を斜めから。入口には一対の石灯籠。反対側から。そして急な石段を下り引き返す。再び33体の羅漢像が並ぶ「羅漢さんの道」から。「宝物殿」入口から「羅漢さんの道」を振り返る。「満昌寺 掲示板令和六年四月ながむとて 花にもいたく 馴れぬれば 散る別れこそ 悲しけれ 花にも人にも別れあり西行法師四月八日十時~十三時 灌佛会」と。意味・・心をこめ眺めていると、すっかり桜の花に親しんできたので、いざ花が散る頃と なって別れねばならないことはまことに悲しいことだ。墓地の中へ。墓地を見上げて。「満昌寺 墓地管理規程」。駆逐艦 峯雲(みねぐも)慰霊碑。昭和13年4月30日の竣工以降、数々の戦闘に参加したが、昭和18年3月5日コロンバンガラ島クラ湾夜戦にて奮戦むなしく沈没した駆逐艦「峯雲」を慰霊する碑。平成7年3月5日、衣笠満昌寺に建立された。鮮やかな赤御影石の主碑の両翼に黒御影の碑が組み合わされたモダンな碑である。主碑高201.5cm、幅49cm、厚さ15.5cm。翼碑高107cm、幅84.5cm。(刻字)中央碑文:「駆逐艦 峯雲 大東亜戦争に於て 祖国のためと信じ 純粋な心で戦い 多くの若い命を捧げて 平和の願いをこめた思を 慰霊碑に永く残す。 平成七年三月五日 駆逐艦峯雲戦友会代表世話人 名生 正孝 建」右碑文:「駆逐艦峯雲戦歴昭和十三年四月三十日 大阪藤永田造船所に於て竣工第四十一駆逐隊編成第三予備艦昭和十四年十一月十五日 第九駆逐隊編成横須賀警備兼練習駆逐艦昭和十五年十一月十五日 第二艦隊第四水雷戦隊編成昭和十六年十二月八日 大東亜戦争参加昭和十六年十二月十日 ルソン島ビガン急襲上陸作戦昭和十六年十二月二十二日 ルソン島リンガエン上陸作戦昭和十七年一月十二日 ボルネオ島タラカン攻略作戦昭和十七年一月二十五日 ボルネオ島パリクパパン攻略作戦昭和十七年二月十日 ボルネオ島マカッサル攻略作戦昭和十七年二月十九日 ジャワ島攻略作戦昭和十七年二月二十七日 スラバヤ沖海戦昭和十七年三月三十一日 クリスマス島攻略作戦昭和十七年六月五日 ミットウエー海戦昭和十七年六月十四日 北方部隊編成アリューシャン対戦掃蕩作戦昭和十七年七月十三日 紀州沖対戦掃蕩作戦昭和十七年八月十三日 ソロモン群島ガダルカナル島挺身輸送作戦に依り外南洋部隊 編成昭和十七年十月二日 ガダルカナル島カミンボ輸送作戦昭和十七年十月四日 ガダルカナル島タサワロング輸送作戦昭和十八年三月五日 ソロモン群島コロンバンガラ島クラ湾夜戦に於て敵巡洋戦隊巡洋艦 三隻駆逐艦三隻と交戦轟沈戦死者二百八名」左碑文:「駆逐艦峯雲戦死者名簿碑 峯雲戦死者 各県別」の後に、戦死者全員の氏名が刻まれていた。墓地から満昌寺西門方向に引き返す。本堂前から「書院」方向に向かって歩く。左に「書院」、正面に「玄関」右側に「庫裡」があった。「玄関」には拝観・御朱印受付 と。書院前の枯山水の庭。書院前の枯山水の庭。「源頼朝ゆかりの願掛けパワースポットMAP」。「書院」の屏風に書かれた文字は「無闕」と師匠から。「無闕」とは欠けたところのないこと。また、そのさま。この日は訪ねなかった「素心庭」の紅葉の写真をネットから。同じく蓬莱庭も。居眠り小僧。肩にネズミが載っていた。この子のいねむりは怠惰からくるものか? それとも一生懸命に木魚を叩いて経を読む練習の疲れから来たものか? その他見る人の人生観により見方が違ってくるのだ とそして「満昌寺」👈️リンク を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.21
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「春の皿には苦味を盛れ」という言葉があります。これは春には苦いものを食べるのがカラダに良いとする、古くからの言い伝え。栄養学などなかった昔から、日本には食べるもので健康を養う「食養生」という考え方があったと。そのなかで特に大切にされていたのが、『旬の食材を食べる』ということ。自然のリズムに合わせて育まれる旬の食材には生命力がみなぎっており、食べることでそのエネルギーをカラダの中に取り込むことができると考えられてきたのだ。また、日本には豊かな四季があり、冬にはカラダを温める食材が旬を迎え、反対に夏にはカラダを冷やす食材が旬を迎える。自然界は、その季節に応じて人間のカラダに必要なものを旬の恵みとして与えてくれている。だからこそ自然に感謝しながら、その恵みをおいしくいただこうというのです。まずは、我が菜園の隅に芽を出した「明日葉(あしたば)」。名前の由来は、きょう収穫してもあすになると早くも新しい葉を出すという生命力の強さから。古くから食用にされてきており、青汁の原料としても有名。「明日葉(あしたば)」は、日本原産で、房総半島や伊豆諸島、三浦半島、伊豆半島、および紀伊半島などに自生。温暖な気候を好むため、生産量が一番多いのは、伊豆諸島で、東京都ということになる。生産量のおよそ90%を伊豆諸島が占めているのだ と。この日は天ぷらで楽しんだ。カラっと揚げたての、「明日葉(あしたば)」の天ぷらは、香りがよくて最高!!そしてこちらは、実家の竹藪の生えていた「蕗の薹(ふきのとう)」。「蕗の薹(ふきのとう)」の「とう」は「薹」と言う難しい漢字。歳をとって初々しさがなくなった感じを表すのに「トウがたつ」と言う言い回しがあるがその「とう」と。花軸や花茎のこと。「蕗の薹(ふきのとう)」は育ってしまうと固くなって食用にならなくなるんだそうで、育ちすぎて実や芽の食べ頃を過ぎたさま、これを「薹が立つ」と表現したのだと。これも天ぷらで。自然のものは香りが高く、ほろ苦さの中に甘味を感じられるのであった。そしてこれも実家の竹藪からの「筍(たけのこ)」。「筍といえばこれ!」といえるほどの、日本国内で最もポピュラーな孟宗竹(モウソウチク)の筍。鉄ノミを駆使して4本を掘って来ました。既に1mほどまで成長したものも。この日は「スナップエンドウとたけのこの煮物」で楽しみました。そしてサラダも我が農園の収穫物で。ただし、トマトは近所の農家から頂いたものです。そして我が菜園の、遅咲きの桜を愛でて。品種名は「楊貴妃」と。東京府江北村(現・東京都足立区)の荒川堤で栽培されていた品種。昔、奈良にあった名木といわれ、花色も優れた豊満な八重桜ということから、中国の楊貴妃を連想して世人が名付けたといわれます。古くから知られていた品種らしく「花壇綱目」(1681)、「怡顔斎桜品」(1758)などにもその名がみられるとのこと。2タイプの同名異品種があり、当会では江戸と類似しているタイプを楊貴妃(江戸系)としています と「日本花の会」のページから。ズームして。さらに。サトザクラの仲間で、花色は淡紅色、八重咲きで花弁の先端に細かい切れ込みが入るのが特徴。花が密につくので、木がピンクの花に覆われ、たいへん美しいのだ。 ・・・おわり・・・
2024.04.20
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さらに「満昌寺」の境内の散策を続けた。境内にあった「流泉しだれもみじ 平成二十七年・・」と。泉泉(りゅうせん)は画期的な枝垂れもみし。埼玉県にてイロハモミシの実生から生まれた品種です。春は黄緑色、夏は濃い緑色、秋は橙色になります。根際から枝垂れて枝が下に伸びますのて、鉢植えにして棚や石の上など、高い場所においてください。優雅な枝振りと美しい葉色がお楽しみいたたけます。また、支柱を立てて枝を上向きに誘引し、枝垂れさせたい高さに達したところから支柱無しで枝を伸ばすと、支柱部分はまっすぐ伸びたまま枝が固まり、好みの高さての枝垂れ樹形となります と。そして正面にあったのが「源頼朝公お手植えつつじ」。「源頼朝公お手植えつつじ一一九四年、当山が創建され、源頼朝公は三浦義明の菩提を弔う為に「つつじ」をお手植えされたものである。永い年月により、いつの頃かこの木の枝先に頭を人れると「頭痛持ちが治る」と言い伝えられている。 満昌寺」樹齢800年と言われるツツジに近づいて。「頼朝のお手植えのツツジ本堂前のツツジの大株は、1197年、満昌寺創建の際に、源頼朝が三浦義明の菩提を弔うためにお手植えされたものである。永い月日が経ち、いつの頃からか、この木の枝先に頭を入れると「頭痛持ちが治る」「頭が良くなる」と言い伝えられている。義明が逝って14年たった後のことであったが、頼朝は伊豆の挙兵のおりに老体をなげうち、幕府開闢の礎になった無二の忠臣義明の霊に一字を献じたかったのであろう。」「杜鵑花(とけんか)」碑。「杜鵑花」とは中国語で「ツツジの花」の意とのこと。「頼朝のお手植えのツツジ」の開花時の写真をネットから。椿・卜伴(ボクハン)に似ていたが。数寄屋や加茂本阿弥などと並んで古典椿の代表的な品種。江戸時代から命名されており別名は月光(がっこう)。蕊が白い花弁状に変化し唐子咲になり中央に切れ込みの入った花弁が二重から三重に開く非常に個性的な姿のツバキ。初めて見る椿であろうか?「九重石塔」。「地蔵堂」。ズームして。扁額「地蔵堂」。内陣の三浦地蔵尊。「本堂西「竹庭」」「亀甲竹、金明孟宗竹と山もみじ、苔を中心とした庭」と。そして「御霊神社宝物殿」、「三浦義明廟所」に向かって進む。「御霊神社宝物殿」、「三浦義明廟所」にある様々な文化財の案内板が設置されていた。「重要文化財 木造三浦義明坐像」「頼朝の挙兵と関東武士団平安未期に起きた「保元の乱」や「平治の乱」をきっかけに、源頼朝の家河内源氏が没落し、最大の武家になった平氏は政権を握った。清盛は1167年には太政大臣にまで登りつめる。平家一門は栄準を極め、全盛期を迎える。朝延内部にはこの状況に危機感や不満を抱く者も少なくなく、やがて以仁王が平氏討代の令旨を発するⅢ80年)。坂東では、以仁下の残党を捕らえるために相模国に戻るよう命じられた大庭景親と源頼朝の戦いが始まった。伊に流されていた頼朝も北条政了・の父親・北条時政をはしめとする東国武上を従え挙。石橋山の合戦が起きる。」「国指定重要文化財木造 三浦義明坐像 一躯 平成五年一月二十日指定木造三浦義明像は、満昌寺の境内にある御霊明神社に伝蔵されている。三浦義明は後三年の役で八幡太郎義家にしたがって勇名をはせた為継の孫で、治承四年(一八〇年)頼朝の平家追討の旗上げのさい源氏側に立ち、同年八月、平家勢の攻撃をうけ衣笠の地で八十九歳で戦死。その後の三浦一族の繁栄の礎となった。像は玉眼入り寄木造り、像高は八十一・四cm。両手先および両足先などは差し込み、彩色はほとんど剥落している。頭頂に冠をのせ、右に笏を持って安坐し、腰には太刀を佩く。長い顎ひげをはやした面部は、気迫のこもった老将の表情をたくみに表出する。特につりあがった目、頬から口元にかけての写実的な彫技はこの像をいきいきとさせている。制作の時期は鎌倉時代後期と推定されており、武人俗体彫刻として類例まれな等身大のこの像は、極めて貴重な存在であり、歿後、祖霊として祀られ神格化された、やや異質な武人彫像の古例としても重要である。 平成二十ニ年(ニ〇一〇年)三月一日 横須賀市教育委員会」「横須賀市指定史跡 伝三浦義明廟所 昭和四八年一月一〇日指定三浦義明は、治承四(一一八〇)年源頼朝の旗揚げに呼応し平氏と合戦し、八月ニ七日に衣笠城で討死したといわれています。満昌寺境内、御霊明神社裏手の瓦塀で囲まれているところが、三浦義明の廟所と伝えられています。廟所には宝筺印塔を中心に、右側に五輪塔、左側に板碑(観音種子)の三基が並び置かれています。廟所内手前の石灯籠は江戸時代に、義明の子孫が奉献したものです。三浦氏の墓域は五輪塔を中心としたものが多いのですが、伝三浦義明廟所では宝筺印塔が義明、五輪塔が義明の妻の供養塔と考えられています。横須賀市指定重要文化財石造双式板碑 元應ニ年庚申ニ月日在銘平成十三年一月ニ五日指定満昌寺には、伝三浦義明廟所内に立っ観音種子板碑のほかに、ニ基の碑が残されています。ニ基の板碑はそれぞれ何弥陀三尊種子、釈迦三尊種子が刻まれています。ニ基とも刻まれた年号は「元應ニ(一三ニ〇)年庚申ニ月日」であり、形も似ていることから、ニ基で一対の双式板碑であると考えられます。この双式板碑は薬王寺旧跡のやぐらにあったものですが、薬王寺が廃寺となったため、今は御霊明神社内に納められています。完全な形の板碑としては、市内最古のものです。 横須賀市教育委会」「昭和十七年八月 御靈神社 御屋根石陷修繕」。「忠○義烈」碑。「御霊神社宝物殿」に向けて急な石段を上って行った。石段の左側の「羅漢さんの庭」を楽しみながら石段を一歩一歩。羅漢さんの庭義明公廟所に至る上中下三斜面に羅漢像を安置した。三十三体の羅漢さんは釈迦の教えを受け覚者として、満昌寺の墓苑を守ってくれる。まわりに季節の茶花、草花を植栽した。皆さまに慈しんでもらえたら幸いです京都曽根造園作庭 平成ニ十六年ニ月完成羅漢さんとはお釈迦さまの弟子たちが修行するとき師を尊敬崇拝する姿を形にした像である。十六羅漢が元であるがいろいろと変化して多いものは五百羅漢がある。像の容相は様々で参拝者の皆さまと似た顔があるかもしれません。像の容相は様々。「石橋山から衣笠城合戦へ頼朝は本拠地の相模国に向かう際、伊豆の石橋山で大庭景親と合戦になった。三浦一族が大雨で増水した酒匂川を渡ることが出来ない事を知った大庭景親は、合流する前に頼朝と決着を付けようと考え、雨の中進軍し疲労する頼朝勢を夜襲で猛攻し勝利した。頼朝の敗北を知った三浦一族はやむを得ず三浦の地へ引き返す途中、鎌倉・由比ヶ浜で頼朝追討に味方した畠山重忠の軍勢と鉢合わせた。三浦氏と畠山氏は親戚である。形ばかりの合戦をして離れようと打ち合わせている最中に、和田義盛の弟の義茂が攻撃を始めてしまい、後に引けない合戦となってしまう。この状況を見た三浦義明は、畠山氏と戦いになることを覚悟した。」様々な羅漢さんの姿を見ながら、知人に似ている羅漢さんを探しながら・・・。立像、坐像が迎えてくれたのであった。そして正面に「御霊神社宝物殿」が姿を現した。「三浦義明公宝物殿」と。「御霊大明神」。「三浦義明坐像」が中央に「三浦義明坐像」。「重要文化財 木造三浦義明坐像」「頼朝と共に戦う義明の決心」三浦氏と頼朝の関係は源平合戦の約100年前にまで遡る。東北地方で「後三年の役」といわれる内乱が起きた際、源頼朝の先祖にあたる源義家が鎮圧に向かった。その時、二浦為継も参戦。大いに戦果を上げたが、朝廷は私の合戦と認定して恩賞を出さなかった。その後、源氏は衰退して分裂したので、三浦義明は婿に迎えた源義朝に協力することにした。義明が頼朝挙兵の話を聞いて喜び、一族を挙げて応援したのも、義朝・頼朝二代にわたる主君と考えたからである。「源頼朝公木像」。「源頼朝公木像 満昌寺蔵この木像は鎌倉鶴ケ岡八幡宮寺の供僧浄国院賢立から出たらしい木像の台下に「之亀之庚午十二月吉日」と記されているので、その制作年代もほぼその時代と考えられる。したがって浄国院賢立から出たとすれば模彫であろうか。頼朝公と伝えられている数少ない木像である。「衣笠城址から出土した遺物大正八年十二月衣笠城址、物見岩の下部から経筒、白磁の合子と人物型の水滴瓶、そして刀子等が写実的に描かれている。現在は、東京上野公園内の国立東京博物館に寄贈されている。」「伝三浦義明所持の刀 満昌寺蔵三浦義明が所持していた刀であると言い伝えられている。藤原時代から室町時代終わり頃までの刀身を古刀といって刀のそりが目立って強く刀身の形に鎬をもった鎬造りで、刀の銘を切るのに右側によせるのが普通だとされている。」「伝三浦義明着用鎖帷子 満昌寺蔵この鎖帷子は満昌寺境内の御霊社の傍らをほった時に出土したものであるので、これは三浦義明が着用したと言い伝えている。鉄製の鎖をいろいろな形でつなぎこれを短衣(木綿、筒袖の襦袢)に縫いつけて甲冑・鎧の下に着るものである。」「三浦義明肖像画 満昌寺蔵」。三浦義明の肖像を描いたものの中では珍しい版画に彩色したものである。そしてその肖像画の上に書かれた讃(功をほめたたえた文)は八十九才で戦死しその後十七回忌に供養されたのでその合計を百六才としている。源家再興に捧げた忠誠のあかしともいえよう。「衣笠城址古図 満昌寺蔵」。「大正八年十二月衣笠城址ヨリ発掘シタル古器物」。「く後三浦② 追加資料>三浦長門守と志摩守新井城落城時に、三浦道寸義同の2男、時綱は、長男義意の妻の実家を頼り、安房に逃れ、里貝時綱を名のる。ここから、三浦氏の後裔としての里見氏が始まり、後の紀州三浦家につながるとされるが、実証的な資料に乏しく、諸説多く、定説になりきれていないようである。一方、宝治合戦で滅亡したはずの三浦一族(佐原氏の一部を除く)も、三浦家の存続を期して落ち延びたとの説があり、三浦家村の後裔が、美作勝山城主として蘇っている。そして、それぞれの末裔が、共に江戸時代に満昌寺の復興に、また、新井城の一部に道寸親子の慰霊碑を整備している。そこで、歴史的事実・考証とは別に、三浦一族の歴史にロマンを与えるという意味で、これらの流れを紹介しては如何と者え、以下の参者資料を追加します.く三浦長門守と家康の寵愛を得たお万>1.新井城の戦い敗れた三浦氏であるが、道寸の三男、或いは、義意の長男正綱は、房総に渡り、 正木時綱を名乗り、正木氏としての地位を築いていく。2.正木氏の嫡系は、時綱-時忠-時通-頼忠-為春へと続く。3.正木氏と、里見氏との関係は複雑で、内部抗争が絶えず、正木時忠は、里見氏との抗争で、 北条氏の支援を得るため、二男頼忠を北条に人質として小田原に送る。このため、頼忠は、 十三歳からニ十六歳まで、(北条の)人質として小田原にいた。このため、岡本氏の女との間に 三男ー女をもうけた。長男、直連は早世したので、次の為春が後に家を嗣ぐこととなった。4.為春の妹は名を万といい、父、正木頼忠が安房に帰った時、母(岡本氏)と共に小田原に残った。 母は、北条氏政の家臣、陰山長門守氏広に再嫁したので、万は連れ子のような形で景山氏広に 養育された.5.徳川家康に、お万が寵せられた時、蔭山氏と称せられているのはこのためである。紀伊頼宣、 水戸頼房は陰山氏(万)の子であり、この縁で、兄、正木為春は和歌山、紀甲頼宣に仕え、 紀伊家の家老を務めることになった。後に性を三浦に復し、長門守に任ぜられた.6.為春から後は、為時-為隆-為泰-為修-為積と続き、いすれも三浦長門守と称して、紀伊 家中に重きをなした.為積は寛政十年(1798)先祖の廟に参詣のため満昌寺にきており、背後の 御霊神社に石灯籠を献上している。明治になって男爵を授けられた三浦英太部は、為積の 曽孫である。 (出典 三浦大介義明とその一族「三浦長門守と正木志摩守」の項を要約)☆為春の弟 康長は、正木左近と名乗り幕臣旗本に、子孫は千石の上級旗本となる(大塩).く三浦(正木)志摩守は、三浦義村-家村-義行の末裔>1.宝治合戦の時、三涌泰村の党が揃って自害した。ところが、泰村の弟、駿河四朗式部大夫 家村は宝治合戦のとき行方知れず」とか、「宝治の乱、逃れ去りて漂白の後、三河国に居ずに とか言われる。」2.寛政重修諸家譜では、「宝治元年六月五日、一族みな自殺の時に臨みて、泰村名族の一時 に亡むことを憂い、密かに家村に命して後裔をたもつべしとなり、家村遺訓によりて其所を遁 れさ」ったと記されている。しかし、家村の子、三浦式部三郎が、泰村とともに自害している そこで、系図では、三浦式部三郎の弟、三浦式部四郎義行の子孫が、後の三浦氏につながる こととなる。3.系図上、義行から数えて九代目の孫に三浦五左衛門正重があり、それが土井小左衛門利昌の 女を娶り、甚太郎正次を生んだという。徳川秀忠の老中として有名な土井頭利勝は、この 正次の母の兄・叔父に当たる。 徳川家光に仕えた正次は、三浦を土井に改めたが、10年後、元和9年(1623)には再び三浦姓に 復し、従五位下志摩守に叙せられている。はじめは、下総国矢作鄕で七百八十石余の采地を 有するのみであったが、度々の加恩で、最後は上野、下野等においてニ万五千石を鎖するに いたる。もって、将軍家の信任の厚かったことがわかる。4.その間、寛永10年(1633)、松平伊豆守信綱、阿部か後守忠秋、堀田加賀守正盛、阿部対 馬守重次、太田備中守資宗とともに、六人衆と称せられ、老中と共に、後の若年寄と同様の 職務に当たった。三浦志摩守正次は、寛永18年まで、8年間この職にあった. 正次の子安次は、弟 共次に五千石を分知して遺領ニ万石を領し、安次の子、明敬は、日向国 延岡城に移り、三千石を加えてニ万三千石を領した。後、再び延岡から三河国刈屋城に 移されている。5.明敬の子は明喬、その後、明喬の弟義理が嗣ぐ。 義理は刈屋から同国西尾城に移されている。 満昌寺背後の御霊神社を修補したのは、この志摩守義理が中心となっている。6.明喬の三男、明次(あきつぐ)は義理の跡を嗣ぎ、美作国勝山城に移され、そこに新城を 築いている。 (もっとも、以上の転封はあっても、三浦氏はほとんど江戸結めで、任地には、時たましか 赴いていない)。7.義理のニ男矩次(のりつく)が明次のあとを嗣ぎ、明次のニ男前次(さきつく・ちかつぐ)が 矩次のあとを嗣く、というように、三浦氏の家系と血脈とは相互に絡まっている。なお、三浦 前次は、前述の三浦為積(三浦長門守)と共に、御霊神社に石灯龍を献納している。明治の子爵、 三浦基次は、家系上、前次九代の孫である。 (出典 三浦大介義明とその一族「三浦長門守と正木志守」の頃を要約) ☆志摩守は、1代~ 3代、5代、8代が名乗り、4代毘次(てるつぐ)は、主計頭(かずへのかみ) 7代、9代、10代は、備後守を名乗っている。 ☆勝山藩は、明治2年(1869年)真島藩(ましまはん)と改称。明治4年(1871年)廃藩置県により 真島県となり、後に岡山県に編入された。 ☆三浦道寸、義意の碑の建立は、碑文から、天明12年(1782)と分かっているが、三浦長門守、 正木志摩守としか刻字されていない。 ☆正木志摩守の正木姓が、どのようにして用いられるようになったかは、現在の手持ち資料で は不明です。そして反対側の展示物。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.20
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「衣笠城跡」を後にして「太田原街道入口」交差点まで戻り、次の訪問地の「満昌寺」に向かって神奈川県道26号線・横須賀三崎線を北西に向かって進む。「衣笠城跡」の追手口跡方向を振り返る。「衣笠城址前」交差点は、「横浜横須賀道路」の「衣笠IC」の入口。さらに進むと、前方に見えて来たのが「住吉隧道」。久しぶりのオレンジ色のナトリウムランプのトンネル。トンネル内のオレンジ色の照明には、主に低圧ナトリウムランプが使用されていた。1960年代から普及したこのランプは、ガラス管にナトリウムの蒸気を封入したもので、放電によってオレンジ色の光を発する。オレンジ色を選択したのは、トンネル内に漂っている排ガスや塵、細かいゴミなどの影響を受けにくく、光が通りやすいためだ。続いて1995(平成7)年から使われるようになった高圧型ナトリウムランプは、低圧型から明るさを向上させ、耐用期間を約3年まで延ばした。トンネル内照明のオレンジ色から白色への変化は、排ガス規制によって煙の量が減ることでトンネル内の見通しが良くなったことに加え、効率の良いLED光源が開発されたことで、自然に見える白いランプが採用されるようになったのだ と。片側2車線のトンネルの歩道を進む。「住吉隧道」銘板。昭和59年(1984)2月長さは95.0mと。観音崎、久里浜方面は直進と。「衣笠インター入口」交差点の手前の案内標識。「衣笠インター入口」交差点とあるが、ここからは「横浜横須賀道路」には何故か入れないのでは?再び地下通路を利用して、「三崎街道」を渡る。地下通路。そして再び地上の歩道へ出て「満昌寺」に向かって進む。「満昌寺西参道」と刻まれた石碑が左側に姿を現した。「満昌寺」の墓地を見る。「永代供養塔」の釈迦如来立像?の姿が見えた。この濃いピンクに花は「アカバナ(ベニバナ)トキワマンサク」。花は細いリボンのような4枚の花弁があり、春の開花期には枝先に集まるように咲くため株全体が花に覆われ、遠くからでもその美しさが楽しめるのだ。そして「満昌寺」に到着し山門を見る。創建は鎌倉時代、建久5年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立された。そののち、仏乗禅師が中興開山となり、臨済宗建長寺派の寺となり、禅寺として今に至る。「本尊華厳釈迦像(市重文)」をはじめ、「三浦義明坐像(国重文)」や「天岸慧広坐像(市重文)」どが祀られており、枯山水庭園「蓬莱庭」には、茶室「如是庵」「竹静庵」がある。横須賀市大矢部1丁目5−10。寺号標石「臨済宗 建長寺派 満昌寺」。「国指定重要文化財 三浦義明坐像」碑。「満昌寺」絵図。創建は鎌倉時代、建久5年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立された。「鐘楼」。「梵鐘」。「義明山満昌禅寺」と刻まれていた。太平洋戦争時の金属供出により享保17年鋳造の梵鐘が失われたため、戦後再鋳造された梵鐘。梵鐘にその旨が記録されている。 供出の事実を後世に残している意味で貴重な梵鐘である。(享保17年鋳造、供出後、昭和46年7月再鋳)梵鐘刻字「義明山満昌禅寺再鋳鐘銘並序勅修百丈清規曰大鐘暁撃則破長夜警睡眠暮撃則覚昏衢疏冥昧 雖然今次大東亜戦争勃発國家擾々之間當山三百年來所懸梵鐘被徴集而境域闕法器現住宗禅和尚常懐再懸誓願到テ今四半世紀也于茲機縁漸熟担信徒喜捨浄財效再鋳之誠仍來請銘乃為之曰朝夕聞鐘謝衆恩 至心瞑目弔七魂 專祈願祖先冥福 兼念枝々葉々繁昭和四十六年辛亥年七月十三日建長素堂謹撰併書」所在:満昌寺(横須賀市)」とネットから。満昌寺では、3月11日に毎年『鎮魂の鐘』を行っている。読経の前後、お集まりいただいた方々に東日本大震災で亡くなられた故人を想い、鎮魂の想いを込めて鐘を撞いていただいたのだと。13年が経ちましたが故人への想いを胸にこれからも満昌寺では、毎年行っていくとのこと。茅葺風銅板葺の重厚な「山門」の彫刻を見る。「横須賀市指定重要文化財木造天岸慧広(てんがんえこう)坐像 一躯天岸慧広は満昌寺の中興開山で、鎌倉円覚寺第一座、また鎌倉報国寺の開山であった名僧で、建武ニ年(一三三五年)に没した。玉眼入り寄木造り、像高は七十六cm。その姿は曲碌に安座し、両袖と裳裾を垂下する全身像である。頭面部の個性的な風貌を実写的にとらえており、没後間もないころに制作されたものであろう。昭和四十四年(一九六九年)八月十一日指定木造宝冠釈迦如来坐像 一躯本像は満昌寺本尊で、玉眼入り寄木造り、像高三十六・六cmの坐像である。髪を高くゆいあげた頭部に銅製の宝冠をいただき、禅定印を結ぶ。目鼻立ちの輪郭があざやかな面部は張りを失わず、体躯は量感がある。着衣はひだがやや太く柔軟さに欠けるが、宋元風の装飾をよく伝えている。南北町時代(十四世紀後半)の作品。 昭和五十七年(一九八二年)四月二十六日指定」「木造天岸慧広坐像」。「木造宝冠釈迦如来坐像」。「満昌寺襖絵 十六面満昌寺本堂の襖絵で計十六面ある。各面縦百七十八・五cm、横百二十七・cmを測る。本堂内陣左右に四面ずつ雲龍図が対向し、各裏面となる脇の間側に松虎図と山水図が配される。雲龍図と山水図は水墨による作。松虎図は水墨を基調としつつ、虎にのみ彩色が施されている。絵師は幕末から明治にかけて活躍した狩野派の斎藤海信。特に雲龍図の気宇雄大な表現は秀逸で、市内にある襖絵の代表例である。 平成二十年(二〇〇八年)三月十日指定」満昌寺襖絵(上から雲龍図八面、松虎図四面、山水図四面)。「義明山 満昌寺の由来當寺は、建久五年(一一九四年)九月、源頼朝の意志に基づき三浦大介義明、追善の為創建されたと伝えられる。創建時の宗派は未詳ではあるが、鎌倉時代末期に佛乗禅師天岸慧広(中興開山)が入寺し、臨済宗に改め建長寺末寺とした。本堂内に本尊 華厳釈迦如来像(市重文)、開山佛乗禅師天岸慧広坐像(市重文)、御霊神社内に三浦大介義明坐像(国重文)をまつる。また、御霊神社の背後に三浦犬介義明の首塚という廟所があり、奥の院と称し、鎌倉時代末期の五輪塔、宝篋印塔、板碑一基がある(市史跡)。當寺裏の矢部山に鎌倉時代末期につくられた阿弥陀来迎図などの磨崖仏(市重文)もある。 平成九年十一月」 茅葺風銅板葺の重厚な山門の直ぐ左手には「庚申塔群」が。14基の庚申塔と1基の石仏が基壇上に整然と並んでいた。 庚申塔は笠付型6基、駒型6基、光背型1基、柱状型1基で、最も古いものは江戸時代寛文13年(1673)に造立された笠付型青面金剛庚申塔、新しいものは明治16年(1883)造立の駒型文字庚申塔「庚申 申子 塔」である。最も興味を引くのは、文化5年(1808)造立の青面金剛庚申塔で、胡坐を組んだ邪鬼が右腕を立て、肘と頭で青面金剛を支えながら踏ん張っている姿の庚申塔だ。一番大きい上記写真中央の「石碑(貞享4年(1687年)銘)」庚申塔(元禄6年(1693年)銘)。「満昌寺」案内図。満昌寺は、平安時代末期の三浦一族の当主で、源頼朝の挙兵に協力した三物義明の廟所である。『吾妻鏡』1194年9月29日条には、矢部郷内に源頼朝の指示により、三浦義明を供養するための一堂を建立することがあり、これが満昌寺とされる。境内の宝物殿はかつての御霊社で、ここには中世に遡る(さかのぼる)三浦義明坐像が安置される。また一説に御霊社は、三浦義明の孫である和田義盛が建立したという。御霊社の背面には、三浦義明とその妻の墓とされる宝篋印塔と五輪塔も祀られる。満昌寺は後に鎌倉時代後期から南北朝時代に活躍した天岸慧広が中興し、現在は臨済宗建長寺派となる。本堂には天岸慧広坐像や室町時代の宝冠釈迦坐像が安置されている。付近の近殿神社には義村が祀られ、その先の薬王寺旧跡には義澄の墓所がある。」「満昌寺 境内図」。分かりやすい境内配置図。「三浦一族ゆかりの地を巡る 満昌寺」。「木造三浦義明坐像「三浦義明とは」義明は三浦庄司義継の嫡男。三浦大介を通称として、相模国府で影響力を誇示した。三浦介の称号は、名誉の称号として、三浦氏本家に世襲された。義明は一族団結のもとに、周辺豪族との姻戚関係を築き、房総の各地にもその勢力を拡大し、三浦一族発展の基盤をかためた。1180年源頼朝の挙兵で、衣笠城は河越重頼・畠山重忠ほか平氏勢に囲まれた。ときに三浦大介義明89歳「老命を武衛(頼朝のこと)に投げうって子孫の勲功に募らん」と、義澄ら一族を頼朝のもとに赴かせ、ひとり源家再興に殉じた。」「木造三浦義明坐像」。山門を入って左手に立つ「三界萬霊等」と千手観音菩薩石像。そしてその右隣に、寄棟造りの覆屋に鎮座する六地蔵尊像。赤い涎掛けをした「六地蔵尊像」。「三界萬霊等」と「千手観音菩薩石像」。「山門」を潜り再び「鐘楼」を振り返る。そして正面に寄棟造りで均衡のとれた「本堂」。繰り返しになるが、鎌倉時代の建久五年(1194)、源頼朝が源氏再興の捨石となった忠臣・三浦大助義明を追善するために創建したと伝わる。 三浦義明は、治承四年(1180)に平氏勢の攻撃を受け、衣笠城にて89歳で戦死。 創建時の宗派は不詳だが、鎌倉時代末期に佛乗禅師・天岸慧広が中興開山となり、臨済宗に改め建長寺末寺とした。江戸時代宝永二年(1705)に火災に遭って堂宇が焼失したが、寛延二年(1749)に仏心禅師が再建し、山号を雲龍山から義明山に改めたと伝える。 臨済宗建長寺派で、本尊は禅定印を結ぶ木造宝冠釈迦如来坐像で南北朝時代の作。本堂の裏山に、三浦義明の孫和田義盛が建暦2年(1212)に境内鎮護のために建てた御霊神社があり、三浦大介義明坐像を祀る。 御霊神社の後方に義明の首塚といわれる三浦義明廟所(奥之院と称す)があり、瓦塀で囲まれた廟所に、義明と妻の供養塔とされる宝篋印塔と五輪塔が鎮座。左手に露盤宝珠を乗せた宝形造りの地蔵堂、本堂右手に玄関と庫裡が建つ。 庫裡前には小さな庭があり、雪見燈籠とみられる石燈籠と、軸部に浅く四方仏を刻んだ石造り九重層塔が佇む。本堂裏山の中腹には、満昌寺を守護する御霊神社が建ち、三浦義明像を安置している。 そして、御霊神社の後方に「義明の首塚」といわれる三浦義明廟所がある。以前鐘楼が建っていた場所には、年配者の参詣に配慮してなのか東屋が設けられていた。「本堂」に近づいて。白壁の中心には、花頭窓が。「本堂」の扁額「雲龍殿」。現住職・永井宗寛氏が本堂の内陣に案内して下さり、説明をして下さいました。満昌寺襖絵(まんしょうじふすまえ)指定年月日:平成20年(2008年)3月10日満昌寺本堂の襖絵で、松虎図4面・雲龍図8面・山水図4面の計16面があり、本堂内陣左右に4面ずつ雲龍図が対向し、各裏面となる脇の間に松虎図と山水図が配される。紙本墨画(松虎図のみ一部著色)で、各面縦178.5cm、横127.3cmを測る。幕末から明治時代にかけての狩野派の絵師である斎藤海信の作で、市内の代表的な襖絵である。「雲龍図8面」この日は「雲龍図4面」が展示されていた。ズームして。「松虎図4面」。左側をズームして。右側をズームして。再び「木造三浦義明坐像」。外に出て「本堂」の屋根を見上げる。見事な鬼瓦には三浦氏の家紋・「丸に三つ引き」。再び本堂の花頭窓を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.19
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「大善寺」を後にして、「衣笠城」の「本丸」に向かって「大善寺」本堂の北側にある細い石段の坂道を上って行った。「衣笠城趾」碑。「横須賀市指定史蹟衣笠城昭和41年6月15日 指定山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通が戦功によって三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中心地である要害堅固のこの地に、両川を自然の堀として、康平年間(1058~1064)に築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。治承4年(1180)8月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。丘陵状の一番裾が衣笠城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の便の良いこの附近の平場にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山がこの城の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っている。このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。 平成3年3月 横須賀市教育委員会」衣笠城のジオラマをネットから。石造りの丸太階段を上って行った。石碑の前で説明員の話を聞く。「蔵王権現社及御震神社遺跡」碑と「笠城址公園大工事記念」碑「蔵王権現社 及 御霊神社遺跡」碑。近づいて。「衣笠城址公園大工事記念」碑「櫻樹 五百本梅樹 五拾本躑躅 五拾本」と。「オオシマザクラ」。「オオシマザクラ伊豆諸島の原産ですが、房総半島や伊豆半島などにも野生化しています。純白の花とあざやかな緑色の葉が特徴で、若葉は塩漬けにして・・・・」前方オオシマザクラの下にも石碑が。「衣笠城跡案内図衣笠城跡(市指定史蹟) 、城跡といっても平安・鎌倉時代の山城(やまじろ)ですから石垣や天守閣はありません衣笠合戦(1180)は三浦亠族と平家方との激しい戦いで、このお城を有名にしました。しかし、現在ある衣笠城跡はその後、宿敵北条氏に対抗するため、鎌倉時代後期に大改造されたものです。でもその後、三浦氏は鎌倉で滅ぼされてしまいます。(宝治元年・1247 )尚、大正8年に物見岩の下から経筒、他が発見されました。」「三浦大介義明公八百年記念碑」。願朝の挙兵時に討死した三浦義明の顕彰碑。「衣笠合戦👈️リンク治承四年(1180) 8月26日小坪合戦にて敗北した畠山軍の雪辱戦として戦われた戦いである。畠山重忠は、河越重頼、江戸重長に加勢を呼びかけ、三浦氏の本拠・衣笠城を攻めた。攻める畠山・秩父一族軍は3000騎、対する三浦軍は450騎の布陣となった。三浦方は、東木戸口を三浦義澄・佐原義連、西木戸口を和田義盛・金田頼次、中の陣を長江義景・大多和義久が守った。衣笠城で敗色を悟った義明は、「今は老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の手柄としたい」と述べ、子義澄や和田義盛らに対し衣笠城を逃れて頼朝に従うことを論した。義明の命で城は義明一人に任せ、一族は久里浜から船出して房総で頼朝と合流した。小坪合戦👈️リンク治承四年8月17日、源頼朝が挙兵すると、代々源氏に従ってきた三浦一族は、石橋山へと向った。しかし、三浦軍は折からの雨で酒匂川を渡河することができず、石橋山の戦いに間に合わなかった。頼朝の敗北の情報も入っていたため、酒匂川から引き返すこととなる。一方、武蔵国から平家方の大庭景親の要請によって出陣した畠山重忠がいた。8月24日、この両軍が由比ヶ浜で遭遇してしまう。畠山重忠の母は、三浦義明の娘であったことなどから、当初は合戦に及ぶ気配はなかったが、和田義盛かこのまま見過ごす訳にはいかないと戦闘を開始、その後両軍の話し台いがついて和議が成立した。しかしちよっとした行き違いがあった。あとから駆けつけた杉本城(鎌倉杉本寺)を守っていた和田義茂(よしもち・義盛の弟)が、三浦軍が攻められていると勘違いし、畠山軍を攻めたため再び合戦となってしまったのである。畠山軍500騎、三浦軍300騎が小坪峠に布陣し、両者ともに痛手を負い退却した。」と「資料」から。三浦義明の墓は鎌倉・来迎寺👈️リンクにある。さらに本丸を目指して進む。「衣笠城址」碑。近づいて。そして主郭の西にあったのが「物見岩」。物見のための岩と伝わるが、今は木々で物見できないのであったが。「物見岩」に近づいて。衣笠合戦の時、城主義明はこの岩の上から戦闘状態を確認し指揮をとったといわれている と。主郭(本丸)跡の最頂部。この日の説明員の「藤沢地名の会」の山本さん。「今古誠画浮世絵類孝之内治承四年之頃 小林清親衣笠合戦の一場面。三浦義明が敵方である金子家忠の一人当千の活躍ぶりを称え、合戦の最中にもかかわらず域内か酒を差し入れた、という逸話が描かれているのだ と。」同じものをネットから。「物見岩」の裏側にあったのが「遺物發掘處」碑。大正時代に行われた史跡整備の際、磁器の水差しや刀剣・経筒などが物見岩の下から発見されたのだ と。石碑に近づいて。衣笠城址の主郭(本丸)跡を後にして坂を下る。「衣笠城址」案内柱。「横須賀風物百選 衣笠城址」碑。右手に見えたのは「衣笠城」の「空堀」跡であっただろうか?途中、道路脇にあったのが「榧の木(カヤノキ)」。見上げて。榧はイチイ科カヤ属の常緑針葉樹で、高さ25m、直径2m程度にまで育ち、寿命は1000年にも及びます。中国に4種、アメリカに2種、日本に1種と、世界には7種の榧があり、日本では、岩手県、山形県以南の本州、四国、九州の山野に分布しています。碁盤・将棋盤の最高級品として最もよく知られており、高価なものでは数百万~一千万円以上するものもあります。榧の木の成長は極めて遅く、30cm伸びるのに3~4年、碁盤づくりに適した直径1.1mほどの大きさになるには300年以上の歳月を必要とします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.18
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さらに「衣笠城址」👈️リンク に向かって傾斜の急な坂道を上っていった。周囲には、歴史を感じさせる、瓦葺きの大きな旧家の家の姿が。横須賀市衣笠町28付近。上って来た坂道を振り返る。息が上がるくらいの傾斜。路面には、自動車や歩行者、自転車などが坂の上で滑らないようにするための滑り止めが施工されていた。鎌倉時代の武将たちになったつもりで進んだのであった。左手前方に黄色い看板が。「ローゼンベッカー 榧(かや)の木邸」衣笠城に続く坂道の先にある古民家カフェ。>ケーキやパンを販売していると。古民家を改造してオープンしたと。テラスの先の建物は蔵であったのだろうか?その先、民家の裏の巨岩が顕になった頂上には石の祠が。少し下にある窪地にも2基の石塔が鎮座。現地案内板に「旗立岩」という表記があったので、これであろうか。衣笠合戦の際、三浦義明は、旗立岩等、城内に沢山の旗を立て、また篝火が消えないよう、最後の力を振り絞り、城内を切り盛りして、一族が無事脱出する時間稼ぎをしたのだ と。ズームして。扉には南京錠が。三浦氏の家紋「丸に三つ引」と。「大善寺」の手前の参道の左側には大きな井戸が。金網・ネットで養生された「不動井戸」。ネットの隙間から井戸の中を覗くと水面が見えた。水に困った大善寺を創建した行基が杖で岩を穿ったときに湧き出てきたという井戸。衣笠城が築城されてからは、重要な生活用水として使用されていた と。内部には「不動明王」像が祀られていた。「大善寺と不動井戸この寺は、曹洞宗に属し「金峯山不動院大善寺」と称します。天平元年(728)、諸国行脚中の僧行基が、この山に金峯蔵王権現と、自ら彫刻した不動明王を祭り、その別当として建てられたのが大善寺であると言われています。そのときおはらいをする水に困った行基が、杖で岩を打つと清水が湧きだしました。その場所が、このコンクリートで囲まれた井戸のあたりであると伝えられています。康平6年(1063)、前9年の役の戦功により、三浦の地を与えられた平大夫為通は、三浦の姓を名のり、この山のほぼ全域を城としました。それが衣笠城です。衣笠城は第7代泰村が、北条時頼との争いに破れ、一族500余人と鎌倉の法華堂で宝冶元年(1247)に討ち死にするまで184年間、三浦一族の本城でした。大善寺は、蔵王権現、不動堂は、衣笠城のなかにあって、三浦一族の学問や仏教信仰の中心的な役割を果たしました。とくに不動尊は、第2代為継が後3年の役に出陣したとき、戦場に現れ敵から射かける矢を打ち払って、為継を守ったと伝えられています。「矢取不動」の名称は、その伝説によります。また、行基によって開かれた泉は、衣笠城の重要な生活用水でした。いつのころからか、「不動尊御手洗池」通称「不動池」と呼ばれるようになりました。現在、蔵王権現社も不動尊も残っていませんが、不動明王像は大善寺に本尊として祭られています。今ある大善寺は、明治29年に全焼した本字を昭和10年に再建したものです。」石段の途中左側にあった「大善寺門前の庚申塔群」を見上げて。神奈川県は庚申塔の密集地で、我が藤沢市内にも多数分布している。三浦半島でもそのことは同じだが、三浦半島の特徴は一ヶ所にたくさんの庚申塔があることと。しかし古くからそうであったのか、あるとき集められてそうなったのかは分からない。大善寺へ登る石段の脇に、きちんと立つものだけでも10基あった。足場が悪く近づくことが出来なかったが、向かって右のものから3基は順に嘉永元年(1848)、文化・・(1804-18)、宝暦八年(1758)と年号銘を読むことができた。向かって右側5基は六臂青面金剛(ろっぴしょうめんこんごう)塔、左側5基は文字塔と区分けされているので、立てられた順に並んでいるのではないことが分かる。あるとき集められたものかも知れないと感じたのであった。石段下左には「箭執(やとり)不動尊」と刻まれた石碑が。御本尊の不動明王像は、衣笠城を築城した三浦為通が城内に安置したもので、敵が放つ矢を受け止めたことから「箭執(やとり)不動」と呼ばれているのだ と。「大善寺」の境内に向かって、急な石段を上る。途中、石段右側にあった、苔生した石碑類。ズームして。中段の境内に建つブロック製の祠の内部にも地蔵尊石仏が並ぶ。中央に蓮華座に鎮座する前掛けをした地蔵坐像/右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵尊坐。地蔵石仏が鎮座する中段の境内から眺めた本堂....石垣の雛壇に石仏や石燈籠などがあった。下の雛壇に立つ2基の石燈籠....宝暦七年(1757)の造立で、笠の上に異形の請花と宝珠が乗っていた。石燈籠(右)。石燈籠(左)。さらに頑張って石段を上る。切妻造板葺の手水舎....手水鉢に漱盤と彫られ、柱に「嗽盤堂」と書かれた木板が掲げられていた。これは井戸?入母屋造本瓦葺風銅板葺の本堂。本堂は昭和10年(1935)の再建。【山号寺号】金峯山不動院大善寺【宗派】曹洞宗【創建】天平元年(729)【開山】行基言薩【本尊】不動明王(不動)天平元年(729)諸国行脚中の行基がこの地を訪れ、後に衣笠城となる山に、自ら彫刻した不動明王を祀った不動堂と、金峯蔵王権現を祀った社を建てた。この不動堂と金峯蔵王権現社を管理する別当寺として建されたのが、大善寺のはじまりとされる。奈良時代の古刹であり、三浦氏の学問、仏教信仰の中心的な存在であったと言われる。三浦氏のニ代為継は、後三年の合戦に出陣し、戦いの最中この不動明王が敵の矢を払し、落とし、為継を守ったという言い伝えがあり、この不動尊は別名「箭執(やとり)不動」という。また、大善寺で発見された毘沙門天立像は、奥州・平泉の中尊寺金色堂・増長天像との類似性が認められ、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯一の仏像でもある。」と「資料」から。「横須賀市指定重要文化財 木造阿弥陀三尊像 昭和60年(1985年)4月25日指定大善寺の阿弥陀三尊像は、檜材の一木割矧造〔一木の材で彫るが、途中で縦半分に割り、中空としてつなぎ合わせる〕彫眼で、その制作時期は12世紀後半=平安時代末期と推定される。中尊の阿弥陀如来像は像高89.2 cm、裙〔くん・下半身に巻く一枚の布〕を着け、袈裟を偏袒右肩〔へんだんうけん・左肩を覆い右肩に僅かにかける〕にまとい、来迎院を結び、右足を外にして結跏趺坐〔両足の甲を反対の足のももに乗せる座り方〕する。脇侍の観音菩薩像は像高89.5 cm、死者の魂を乗せて運ぶといわれる蓮台を両手で捧げ持っ姿で、右足の膝を軽く屈折させて前に出す来迎の動きをみせている。勢至菩薩像は像高91.1 cm、胸前で合掌する。本阿弥陀三尊像は江戸時代の後補や破損部分が多いものの、阿弥陀如来像の胸部の造形や背面の翻波式衣文[ほんばしきえもん・衣の皺を丸波・角波あるいは大波・小波で交互に彫る〕など平安時代末期の特色を良く表現している。三浦氏歴代の本拠であった衣笠城跡に建つ大善寺は行基の開創を伝える古刹で、明治以降は不動三尊像を本尊とするが、それ以前は本阿弥陀二尊像が本尊であった。極楽浄上への往生を願う阿弥陀信仰は12世紀頃から一般的になるが、本像は三浦半島でも最占の遺存例である。」横須賀市指定重要文化財 木造伝毘沙門天立像 平成25年(2013年)3月11日指定大善寺の伝毘沙門天立像は、檜材の寄木造で玉眼を嵌める。その制作時期は平安時代末から鎌倉時代初頭と推定される。像高92.0 cmで、髪を垂髻〔すいけい・頭頂部で束ね、根本とその上部の2カ所で結い、その上を垂らす〕に結い、右手を高く振り上げ、腰をひねり、眉をひそめて左斜め下方を向く。このような姿形は、岩手県の中尊寺金色堂正面壇に安置される増長天立像と様式的に著しく一致しており、本像最大の特徴となっている。『吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に感嘆したといわれ、鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を模倣して永福寺を建立した。この合戦には三浦一族も参陣したが、永福寺奉行人の筆頭となる三浦義澄を初めとして、頼朝同様に平泉の仏教文化に多大な影響を受けたことが、本像制作のきっかけになったのであろう。中尊寺金色堂様式の仏像は平安時代末期に平泉を中心として、東北・北関東に分布したが、本像はその南限であり、鎌倉文化圏における平泉仏教文化の影響を受けた唯ーの仏像でもある。 平成27年3月31日 横須賀市教育委員会」「木造阿弥陀三尊像」。「木造伝毘沙門天立像」。本尊矢取不動明王。地蔵尊は衣笠町にあった福壽院という寺が、明治期に廃寺された折り、本尊福壽地蔵菩薩を当寺に合祀したと伝わるが、詳しい記録が無く、縁起等は不明。『吾妻鏡」によれば、源頼朝は文治5年(1189年)の奥州合戦の折に、中尊寺諸院の壮大な伽藍に感嘆したといわれ、鎌倉に戻り源義経や藤原泰衡らの怨霊鎮魂のため、中尊寺ニ階大堂大長寿院を模倣して永福寺を建立した。鎌倉にある永福寺のイメージをネットから。移動して再び本堂を見る。本堂の正面。扁額「大善寺」。昭和10年(1935)に再建した堂宇の前に一対の江戸期の狛犬がいた。天明8年12月の奉納で、石工源ェ門とある。顔の彫りもよいが、前脚の形と首まわりの巻き毛、尻尾の渦毛が盛り上がり重厚な逸品である。神仏習合の名残を残す一対であろう。本堂正面右側の狛犬。後ろ姿。本堂正面右側の狛犬。後ろ姿。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.17
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当日、「藤沢地名の会」から頂いた資料(以下「資料」)から転記させていただきました。「三浦一族家系図三浦為通:源頼義に従軍し、前九年合戦で武功を挙げた。それにより、相模国三浦郡を領地に もらったと伝わる。三浦氏の祖とされる。三浦為継 : 源義家に従軍し、後三年合戦で活躍した。鎌倉権五郎景政が右目を射られたため、 為継がー矢を抜こうとしたところ、景政が「矢にあたって死ぬのは本望だが、顔に 足をかけられるのは武士の恥」と言ったと伝わる。そのため、為継が地面に膝を突いて 矢を抜いたという逸話は有名。三浦義明:源氏と結びつき勢力を拡大した。相模国における源義朝の覇権拡大の後ろ盾となり、 娘が義朝の側室となる。源頼朝の旗揚げの際には「源氏再興のために目力するのが 自分の使命であり、末代までの栄誉だ」と感激の涙を流したとも伝わる。 衣笠合戦で戦死。三浦義澄:兄の杉本義宗が早くに死んだため、三浦宗家を継いだ。「平治物語」では源義平に 従って戦った精鋭十ニ騎の中に義澄が描かれている。妻は伊藤祐親の娘。鎌倉幕府 設立に尽力した。佐原義連 : 三浦一族佐原氏の祖とされる。源義経が率いる平家追討の戦いに従軍し武功を挙げた。 義連が馬に乗って急斜面を駆け下りたとも伝わる一ノ谷の戦し、「鵯越の逆とし」の 名場面は後世に語り継がれ、歌舞伎、浮世絵の題材となる。 宝治合戦で三浦宗家が滅びた後、佐原系が三浦の血を継いだ。三浦養村 : 源頼朝の死後、従兄弟にあたる北条義時とともに、鎌倉箒府の政権確立に尽力した。 一族の和田義盛が起こした和田合戦では、幕府方につき、承久の乱では朝廷方についた 弟の義胤と戦い自害に追い込むなど、一族存続のため冷徹な決断をした。」そして「三崎街道」を走り「衣笠城址」でバスを降り「三浦氏の本拠地 衣笠を歩く」の散策のスタート。横須賀市衣笠町2「藤沢地名の会」の方から上記の「三浦一族家系図」と源氏との関係にについての説明を受ける。三浦氏は、平為通が伊予守源頼義に仕え、「前九年の役」に奥州で活躍。康平六年(1063)に前九年合戦の功績として、平為通が相模国三浦郡を賜って「三浦」を称し、衣笠山に城を築いて館としたと伝えられている。また、弟・景通の子孫は相模国鎌倉郡に蟠居して「鎌倉党」という武士団を形成し、大庭氏、梶原氏、長尾氏等の祖となったとされる。そして為通から為継・義継・義明と家督が継がれていったと。2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で左・三浦義澄、右:三浦泰村を演じた佐藤B作氏と山本耕史氏の写真をネットから。 三浦義澄=佐藤B作氏 三浦泰村=山本耕史氏「中世の地形図(イメージ図)との比較以下、「資料」から。中世衣笠の地理と衣笠域中世には久里浜湾は衣笠の辺りまで内海が続いていたと者えられている。水軍を擁していた三浦氏の本拠地として、衣笠が選ばれたのではないだろうか。山麓の右を流れる大谷戸川と左手の深山川に挟まれ東に突き出た半島状の丘陵一帯が衣笠城跡である。源頼義に従って前九年の役に出した村岡平太夫為通が戦功によって三浦の地を与えられ、所領となった三浦の中地である要害堅固のこの地に、両川を自然の堀として、康平年間(1058 ~ 1064)に築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。治承4年(1180) 8月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。丘陵状の一番裾が衣城の大手口で、ゆるやかな坂を登って滝不動に達する。居館は水の便の良いこの附近の平場にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。「横須賀市東部の主な中世遺跡と中世寺社の分布図」をネットから。「古久里浜湾」が「現佐原城跡」近くまで入り込んでいたことが解かるのであった。「矢竹(ヤダケ)」の群生地が近くにあった。「矢竹(ヤダケ)」とは、本州、四国及び九州の山野に自生するヤダケ属のササで、シノダケと呼ばれるものの一つ。棹の節が低く、節間が長いのが特徴。「矢竹」の名前のどおり、かつては矢柄(矢の棒の部分)に、現代では釣竿や庭木として使われる。日本以外では韓国に分布。漢字表記には「箭」あるいは「箭竹」もある。「矢竹(ヤダケ)」が矢に適するのは、材質の硬さはもちろんのこと、葉(枝)が上部にしかできないこと、芽溝と呼ばれる棹の窪みが浅くて太さが一定であることによる。矢のほかに筆や煙管(キセル)の軸、団扇、籠、飾り窓の材料などにも使われ、実用を目的として植栽によって日本各地に分布が広がったのだと。「三崎街道」の「衣笠隧道」手前の横断歩道を渡りながら三崎方向を見る。その先、細い坂道の右手にあったのが「矢取前不動尊」。横須賀市衣笠町4−3。移動して。「奉納 前不動屋根工事一式 平成廿三年九月吉日 衣笠町 市川勝彦?殿」と。火炎後背を持つ不動明王・「矢取前不動尊」。「矢取前不動尊」と。その先には「山吹(ヤマブキ)」の花。山吹(ヤマブキ)」は、北海道から九州の低山や丘陵地に普通に生える落葉の低木。美しい山吹色の花が咲くので『万葉集』にも詠まれるなど、古くから観賞されてきた。太田道灌が農家で蓑を借りようとすると、娘が蓑の代わりにヤマブキの枝を差し出しました。しかし道灌は『後拾遺和歌集』(1086年)の「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」(八重のヤマブキは雄しべが花弁に変化し、雌しべも退化したもので、実がならない。「実の=蓑は一つもありません」)の歌を知らなかったため娘に立腹した。後にその無知を恥じた話は有名。この時代、すでに八重のヤマブキがあったことが、この逸話からわかるだと。坂を上っていくと「衣笠町内会館」。横須賀市衣笠町8−2。横須賀市・消火栓マンホール蓋。黄色地に水色の横須賀上下水道イメージキャラクター「アクアン」と 赤いはしご車を描き、下部は青地に「消火栓」の文字。蓋全面に滑り止めの模様が入っていて、デザインも滑らないように?ブツブツで描かれています。「単口」、「150」の文字が。横須賀市衣笠町12の住宅街のかなりの斜度の坂道を進む。そして再び「横須賀三崎線」に出ると、道路沿いには紅白の花桃の姿が。後ろの山には、ソメイヨシノ、オオシマザクラが満開に。「太田和街道入口」交差点。「太田和街道入口」。この先に横須賀市太田和おおたわ一~五丁目がある。擁壁石垣の凹んだ場所に石碑が。横浜横須賀道路の衣笠インター入口付近の小さな石柱。石柱は擁壁と一体化しているように見え、見過ごしてしまいそうであった。「衣笠城追手口遺址」と。ここが衣笠城の大手口。大手口は、本来は追手門(おうてもん)と言っていたと。追手とは、敵を追いつめる方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を一箇所へ集中させる目的がある。この役割から、大手門の先は枡形が構築されているところが多く見られる。これも大手門とセットで、敵の攻めを鈍らせる目的があります。このように大手門は、城の正面に位置する門でありながらも、同時に防御上における重要な攻撃戦略でもあったのだと。横須賀市衣笠町25−33。「衣笠城址要図さらに、その裏山がこの域の最後の拠点となる詰の城であったと伝えられる平場で、金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、一般に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西が急峻な谷になっている。要害の地形を利用して一部に土塁や空堀の跡が残っている。このように、この地一帯は平安後期から鎌倉前期の山城で、鎌倉時代の幕開けを物語る貴重な史跡である。」説明員の説明資料「衣笠城趾古図」。解りやすい「衣笠城趾古図」をネットから。衣笠合戦は、源頼朝が打倒平家の兵を挙げた治承4年(1180年8月)、頼朝に呼応した伝説の英雄三浦義明が、衣笠城で畠山重忠を代表とする平氏軍と戦い、壮絶な最後を遂げた戦い。この絵図は、衣笠合戦の配陣を「吾妻鏡」の記述により描いたものと思われ、江戸時代後期のものとされている と。畠山重忠らの来襲を聞いた三浦一族は衣笠城に籠り、それぞれ陣を敷いた。東ノ木戸(大手):三浦義澄と佐原義連西ノ木戸(搦め手):和田義盛と金田頼次中の陣:長江義景・大多和義久そして、棟梁の三浦義明は、津久井義行・多々良義春らを従え、本丸で総指揮に当たった。8月26日の辰の刻(午前8時)、畠山重忠・川越重頼・江戸重長・金子十郎家忠ら村山党の連合軍以下数千騎が攻め寄せた。大手口:川越重頼・江戸重長・金子重忠ら村山党搦め手:畠山重忠 と。衣笠城址と大善寺の方向を記した「衣笠城跡」案内板が三叉路に立っていた。三叉路に鎮座する木製の祠の中には、3体の地蔵石仏の姿が。「地蔵尊」に近づいて。そしてその先にあった横須賀市汚水マンホール蓋。市の木オオシマザクラ(葉も)と 中央に市章が描かれている。「車道」「おすい」の文字。平成13年度から採用 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.04.16
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この日は4月5日(金)、「藤沢地名の会」の「さがみ探訪第100回」の「三浦氏の本拠地 衣笠を歩く」に参加。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放映により、広く知られるようになった武家・三浦氏一族。平安末期、武士の台頭により、東国に多くの氏族が誕生した。源家累代の家人となる「三浦一族」の始まりは、前九年の合戦で源頼義に従い、その恩賞として1063年三浦の地を与えられ衣笠城を築いたとされる三浦為通と伝えられている。為通の孫義継以降は、源義家の「義」の通字を貰い、義明、義澄、義村と「義」をつけ源氏との絆を深めていったのだ。その「三浦氏の本拠地 衣笠を歩く」のであった。集合場所は、横須賀線のJR横須賀駅改札出口に9:30に集合とのこと。小田急線、JR東海道線を利用して大船駅へ。横須賀線・久里浜行きの4両目に乗り、JR横須賀駅に向かったのであった。幸い座ることが出来、うとうとしていると、途中の車内放送で、横須賀線下り方面久里浜・横須賀ゆきの列車は15両編成の場合、逗子駅で前4両の切り離しを行うと。ネットによると、切り離しをする理由は京浜急行のシェアが大きく需要がないことと、山が海に迫っている地形のためにホームの延伸が難しいためとのこと。逗子駅で後ろの11両の2両目の車両に乗り換えるが、切り離しの様子を見る。そして11両編成になった久里浜行きの車両。そしてJR田浦駅で停車。JR田浦駅は、明治37年(1904)に開設されている。駅はトンネルに挟まれ、現在の11両編成の電車では、ホームに止まりきれないため、ドアが開かない車両があるという全国でも珍しい駅と。JR田浦駅の横須賀駅側に、明治・大正・昭和に造られた三つのトンネルが並んでいる。中央のトンネル(下り線)は、明治22年(1889)の横須賀線開通時に完成した最も古いトンネル。上り線の美しいれんが造りのトンネルは、複線化に伴い大正13年(1924)に増設された。一番大きいトンネルは、昭和18年(1943)軍需輸送の引き込み線用として造られたもの。駅の高架から三つのトンネルを見ることができるとのこと。駅周辺は、昔は鎌を失うほど草が繁茂していたため、「失鎌(しっかま)」と呼ばれていたが、蒸気機関車の「釜を失う」に繋がることから、同じ発音の「七釜」に文字を変えてトンネルの名前にしたと ネットから。この田浦駅はトンネルとトンネルに扠まれた駅で、さらにホームが短いため、この日も11両編成の電車は先頭車両と2両目車両の一番前のドアがトンネルの中で停車してしまい、乗り降りをすることができないのであった。そして「横須賀」駅に定刻に到着。横須賀線は、ここ「横須賀駅」から終点の「久里浜駅」までは単線運転。そして「横須賀駅」のすぐ先・久里浜方向に「JR逸見トンネル」が見えた。直ぐその先にあるのが横須賀線最長2089m・「JR横須賀トンネル」。これは関東では2番目、全国でも16番目という長さと。そして改札駅に向かって進む。改札を出ると、既に参加者の受付が行われていた。この日の参加者は約25名程度であった。受付を行う。ここから先はバスにて移動とのことで、バスの時間までしばし時間があったので駅の近くを散策。JR逸見トンネルの直上に建設した地上17階建ての賃貸マンション・「Liberty Cove House」を見る。駅の北側にあった「ヴェルニー公園」を訪ねることとした。「ヴェルニー公園マップ」👈️リンク。かつては「臨海公園」の名で親しまれてきたが、公園の対岸にフランス人技師ヴェルニーが建設に貢献した横須賀製鉄所跡地が望めることや、ヴェルニー・小栗祭が本地で毎年開催されることなどから、フランス式庭園様式を取り入れた公園として整備を行い、平成13年度末に完成した。園内には、ヴェルニーと当時の勘定奉行小栗上野介忠順の胸像や、広場を中心にフランス式花壇や噴水、洋風あずまやなどが設けられ、フランスの品種を中心とした約130種類・約1,300株のバラが彩りを添えている。海沿いには横須賀本港を一望できるボードウォークがあり、潮風の中で散歩を楽しめるのだ。また、ヴェルニーの功績をたたえて建てられたヴェルニー記念館があり、体験学習の場として利用されている。このほか、本市の姉妹都市となっているフランスのブレスト市があるブルターニュ地方の明るく、活気ある港町のイメージのカフェレストラン・コルセール(2005年11月15日オープン)がある。「ヴェルニー案内図」をズームして。海上自衛隊・横須賀基地の逸見岸壁の沖には「護衛艦 いずも」の姿が。「ヴェルニー公園 VERNY PARK」碑。公園内にあった「戦艦「陸奥」の主砲」旧横須賀海軍工廠で建造された戦艦「陸奥」。1943(昭和18)年、原因不明の爆発によって瀬戸内海柱島沖で沈没してしましましたが、その後引き上げられた主砲が、70余年の時を経て横須賀へ里帰りしました。「戦艦陸奥の主砲戦艦陸奥は1921年に横須賀海軍工廠で建造されました。完成当時は世界7大戦艦に数えられ、戦艦長門とともに連合艦隊の旗艦として活躍しました。その主砲は41センチ連装砲4基で、射程距離は、現在設置されているヴェルニー公園から羽田空港あたりまで届くとも言われています。戦艦陸奥の主砲は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。」「戦艦「陸奥」の主砲」に近づいて。「戦艦「陸奥」主砲弾本砲弾は「長門」型戦艦の主砲で用いられた砲弾で、九一式(昭和5年制式化)もしくは改修されたー式徹甲弾です。全長: 1738.5mm(弾底から風帽先端まで)重量: 1020kg(風帽を含む)最大弾体径: 409. 0mm炸薬量: 14.9kg(対弾丸重量比:約1.5 % )●一般的徹甲弾とは 砲弾の重量及び発射速度による運動エネルギーにより相手の装甲を貫通した後、遅延信管が 作動して内部を破壊するようになっています。●陸奥主砲と本徹甲弾 本徹甲弾は、風帽・被帽頭・弾体等で構成され、発射に用いられる装薬は 通常4個の薬嚢で構成され合計量は約220kgです。●本徹甲弾の特徴 浅い角度で海面に突入するように発射された本徹甲弾は、頭部が外れ、その後弾体(平頭弾)が 水中を直進。水線下の船体に被害を与えます。 ・海面突入時に風帽と被帽頭が外れます。 ・頭部が平らになった平弾頭は水中を直進します。「全長約19メートル、重さ約100トン」の主砲の装填口と「本徹甲弾(てっこうだん)」。主砲の装填口をズームして。「本徹甲弾(てっこうだん)」。「戦艦陸奥主砲」案内パネル。「戦艦「陸奥」は、世界初の16インチ砲を搭載した戦艦「長門」型の2番艦として大正10年(1921年)に横須賀製鉄所(造船所)を前身とした横須賀海軍工廠で竣工しました。連合艦隊旗艦の任にありましたが、昭和18年(1943年)瀬戸内海の柱島沖で火薬庫が爆発し、沈没しました。本主砲は昭和45年(1970年)戦艦「陸奧」引揚げ時に収容されたもので、その後、昭和49年(1974年)から東京の「船の科学館」に展示されていました。この主砲の移設が必要になり、横須賀での戦艦「陸奥」大改装80周年に合わせた「陸奥の会」の働きかけにより、ゆかりのある横須賀市に「船の科学館」から無償譲渡され、横須賀市民を始めとする多くの方々の支援により、平成28年(2016年)この地に移設されました。」「主砲はハイテクの塊4層構造 砲身は、約1トンの砲弾を約36km飛ばすための装薬の爆発力に耐えるように4重構造になっています。戦艦「陸奥」主砲の砲身は4層からなっており、1層目の内筒を、2層目の内筒に埋め込み、焼◯をします。その外側の3層目はワイヤーで巻いたワイヤー層となります。そして4層目に砲尾外筒と砲口外筒を装着しています。いわば「江戸の刀鍛冶等の匠のノウハウと西洋の技術の融合」であり、このような横須賀製鉄所(造船所)によって育まれた技術は戦後の日本の近代産業を支えてきました。」「戦艦「陸奥」の歴史」と「戦艦 陸奥 主砲」。45口径三年式40センチ砲Ⅱ型全長:18.8メートル重量:102トン実口径:41センチ(砲身長 45口径)初速:780メートル/秒射程:38,300メートル(最大)戦艦「陸奥」主要目(大改装後)基準排水量:39,400トン全長 :224.9メートル最大幅 :34.6メートル喫水 :9.5メートル主兵装 :40センチ砲x8門「戦艦陸奥 精密模1/100)」隣接のヴェルニー記念館で公開中」。時計台。「ヴェルニー記念館」👈️リンク。そして横須賀駅に戻る。明治22年(1889)6月に、大船~横須賀間の横須賀線開通に伴い開業し、終戦までは全国的にも極めて重要な駅であった。昭和15年(1940)に改築された現在の駅舎は、改築前の姿を比較的残し、古典的風格を備えている。わが国では数少ない階段のない駅としても知られている。ホームの屋根を支える柱の一部には、「1886」年の銘がある古いレールが再利用されている。また、横須賀市の「うみかぜの路(海と緑の10,000メートルプロムナード)」の起終点として位置付けている。駅名板「JR横須賀駅」の上に駅舎マーク(碇とカモメ)海を想像させるきれいなブルーに、市の鳥“かもめ”と“いかり”。横須賀らしくアメリカっぽい雰囲気も出ている。だいぶ以前はここに時計があったのではないだろうかか?「昭和52年市制施行70周年期記念 横須賀風物百選 JR横須賀駅「汽笛一声新橋を」の歌詞で知られる鉄道唱歌に「汽車より逗子をながめつつ/はや横須賀に着きにけり/見よやドックに集りし/わが軍艦の壮大を」という一節があります。明治22年(1889)6月16日、大船-横須賀間に開通した横須賀線の終着駅、横須賀駅開業当時の駅頭風景を上手に表現しています。そのころの横須賀は、現在右手に見える米海軍基地内に、明治17年(1884)に設けられた横須賀鎮守府などの諸施設がある重要な海軍基地となっていました。一方陸軍も、明治13年(1880)から観音崎をはじめとして市内の沿岸各所に着々と砲台を築いていました。しかし、人員や物資の輸送は、横浜-横須賀間の船便に頼っている実情でした。明治19年(1886)6月、陸海軍は、鉄道布設の必要性を記した請議書を海軍大臣 西郷従道、陸軍大臣 大山巌の名を連ねて総理大臣 伊藤博文に提出しました。この求めに応じて鉄道局は、明治20年(1887)に測量を開始し、明治21年(1888)1月に工事を起こしました。工事費は、明治19年(1886)から始まっていた東海道線建築費から40万円支出しました。当初終着駅は、観音崎付近へとの要望がありましたが、更に5万円から10万円の予算を必要とするうえ、市街地を通さなければならない等の複雑な問題があり、現在地となりました。現在の駅舎は、昭和15年(1940)に新築されたものですが、大正3年(1916)に改築した駅舎の面影をよくとどめている貴重な建物です。開業当時、汽車はおよそ1時間ごとに発着し、東京-横須賀間に約2時間を要しました。客車は1・2・3等とあり、煙突の長い機関車がそれを引きました。3等運賃は39銭で、当時の米価が1升11銭前後でしたのでかなり高かったようです。乗客数は、明治40年(1907)ごろで1日平均1,843人と記録されています。横須賀-久里浜間は、軍の求めにより、昭和19年(1944)4月に開通したものです。」「スカレーWELCOME!! カレーの街 横須賀」。「カレーの街 よこすか日本のカレーライスは、開国を機にインドではなく英国式カレーとして伝えられたとされています。栄養バランスの良いカレーは明治期の海軍の食事に取り入れられ人気メニューとなり現代に引き継がれてきました。家庭料理としてのカレーライスは、兵隊さん達によって、全国に広められたと言われています。海軍と共に歩んだ街横須賀は、全国にカレーを発信した街であると考えています。そして、明治時代に食べられていたカレーラースを現代に蘇らせ、ここ横須賀から全国に発信をしています。」駅舎に戻る。4月5日 金曜日 と。「横須賀観光情報」をビデオで案内。そして2Grに分かれて、1Grの私は9:40発の「三崎口駅 ゆき」に乗車。車窓からヴェルニー公園の「逸見波止場衛門跡」を見る。先日、クルージングした横須賀港👈️リンクを見る。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」。「本町3丁目」交差点から「横須賀海軍施設 (アメリカ海軍横須賀基地)」入口ゲートを見る。「三浦一族ゆかりの地 散策マップ」👈️リンク をネットから。 ・・・つづく・・・
2024.04.15
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一昨日、農園作業の後に。花桃の樹の下に生えている「ヨモギ」を摘んで来ました。ヨモギと聞くと、草餅やおひたし、天ぷらが頭に浮かびませんか?沖縄でヨモギは「フーチバー」と呼ばれ、野菜や薬草として考えられていて、風邪をひいた時に雑炊にして食べるそうです。ヨモギは食用や薬としてだけではなく、薬酒や薬草風呂、化粧品にも使用されているのです。陰干ししたヨモギと砂糖をホワイトリカーに1ヶ月漬けるとヨモギ酒になります。ヨモギ酒は独特の香りが広がり、咳止め、痰切り、止血の効果があるとされています。また、夏場汗をかいた後のかぶれやかゆみにはヨモギ風呂やヨモギの煮汁を塗布するとかゆみが和らぎます。更に、昔は?5月頃に採取した葉を乾燥し、臼に入れて粉末状に砕き、ふるいにかけて毛だけを集めた物がもぐさ(艾)となり、お灸に使われます。韓国の民間療法で産後のケアとして、よもぎを煎じた蒸気を下半身に浴びる「よもぎ蒸し」が愛用されています。日本でも首から下をハーブテントで包み、よもぎ蒸しを温活として提供しているサロンがあり女性を中心に人気があるとのこと。ヨモギは古代においても、現代においても女性に好まれる植物なのだと ネットから。自宅に持ち帰ると、妻が早速、ヨモギの葉を1本1本きれいにしてくれました。そして、鍋にたっぷりの湯を沸かし、重曹を入れる。よもぎを入れてサッとゆでたら、水にとる。約10分間さらしたら水けを絞り、包丁で細かく刻む。そしてすり鉢でたたくようにつぶす。白玉粉、上新粉を準備し、よもぎを混ぜ込みながらさらについていきます。そして、濡らした手で適量を生地から取り、団子の形に成形します。都度、手水を付けながら作業するときれいに仕上げることができるとのこと。そして出来上がりました。ズームして。こちらは、中につぶあん(粒餡)が入っていました。一生懸命に団子に丸めてくれました。サランラップ®越しに。ヨモギ葉だけで見事な色に仕上がっていました。独特の風味があり、これぞ春の風物詩!!ヨモギは、ゆでて和えものや炊きあがったごはんに刻んで混ぜてもおいしいのだ。カロテンと食物繊維が豊富で、ビタミンやカリウム、鉄分も多く含まれているとのこと。下痢や吐き気を押さえたり、止血や鎮痛にも効果があり、昔から薬草として使われて来たのです。こちらは、きな粉で楽しみました。菜園のエシャレットも。こちらも菜園のサニーレタス、アスパラガス、そしてトマトのサラダ。トマトは近所農家の方からの頂きものです。日本の伝統的な和菓子、"よもぎ団子"を楽しんだのであった。美しい緑色が目を惹き、一つ一つ丁寧に手作りされたその形は、見るだけでも心をなごませてくれるのであった。
2024.04.02
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海上自衛隊の海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」。対潜戦のパッシブ戦化に伴って、海上作戦の効率的な遂行には海洋環境資料の収集が求められるようになり、海底地形・底質や潮流・海流、地磁気、水質(水温・塩分など)や海上気象などを相互に関連付けて、精密に測定する必要が生じた。このことから、海上自衛隊では昭和42年度計画で「あかし」を建造、1969年にはその運用部隊として海洋業務隊を新編して、海洋環境情報活動に着手した。その後、昭和50年代にふたみ型(51/58AGS)2隻と「すま」(54AGS)を整備して、4隻体制での海洋観測を実施してきた。本艦は、このうち、1990年代後半の除籍が予定されていた42AGSの代替艦として計画され、中期防衛力整備計画に基づき、平成8年度計画で建造が認可された と。女性自衛官の乗組みが考慮されており、女性用居住区として、02甲板の士官室付近に士官寝室(2名分)が、第1甲板中部に科員居住区(8名分)が配置されている。また本艦では、自衛艦として初の試みとして、艦長室のデザインを民間のデザイナーに発注しており、非常に優れたものとなっている と。進水 1998年6月11日就役 1999年3月24日要目基準排水量 3,300 t満載排水量 4,500 t全長 111.0 m最大幅 17.0 m深さ 9.0 m吃水 4.5 m機関 統合電気推進主機 ・ 三菱S16Uディーゼル発電機×2基 ・三菱S8Uディーゼル発電機×1基 ・推進電動機×2基出力 最大8,660馬力 / 定格5,800馬力 推進器 ・ 可変ピッチ・プロペラ×2軸 ・サイドスラスター×3基速力 最大20ノット / 定格18ノット航続距離 15,000海里 (14kt巡航時)乗員 80名搭載艇 ・11メートル観測作業艇 ・11メートル作業艇 ・無人潜水装置(ROV)レーダー OPS-20 航海用ソナー シービーム2112 マルチビーム測深儀探索装置 ・海洋観測装置一式その他装置 ・音響観測装置一式」こちらは、海上自衛隊の掃海艦「あわじ JS Awaji, MSO-304)」。進水 2015年10月27日就役 2017年3月16日要目排水量 基準 690トン全長 66.8m最大幅 11.0m深さ 5.2m吃水 2.7m機関 ディーゼルエンジン × 2基出力 2,200PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸速力 最大速 14ノット(26㎞/h)乗員 54名兵装 JM61-RFS × 1門レーダー OPS-39H 対水上捜索用 光学式監視装置(レーザー・レーダー)ソナー OQQ-10-1 掃海艦ソーナーシステム ZQS-4 可変深度式機雷探知機 OZZ-2 水中調査用UUVその他 掃海装備 小型係維掃海具1型改 感応掃海具1型改 掃討装備 自走式機雷処分用弾薬(EMD)」海上自衛隊の海洋観測艦「しょうなん(JS Syonan, AGS-5106)」。一般海洋観測のため、自記表層水温塩分計、海底設置型超音波多層流向流速計、水温記録装置、CTD観測装置、係留式自記流向流速計などを装備している。また海中音響観測のため、音響環境測定システム、曳航式音源装置、観測用測位装置などを装備している。海洋測量装置としては、艦橋下方の艦底に設置されたマルチビーム式測深儀をはじめとして、採泥器等を装備している。進水 2009年6月29日就役 2010年3月17日要目基準排水量 2,950 t満載排水量 4,150 t全長 103.0 m最大幅 16.4 m深さ 9.0 m吃水 4.5 m機関 統合電気推進方式主機 ディーゼル発電機×3基出力 4,895馬力推進器 ・アジマススラスター×2基 ・バウスラスター×2基速力 16ノット乗員 80名レーダー 航海用ソナー マルチビーム式測深儀」ズームして。手前に海上自衛隊の掃海艇「えのしま(JS Enoshima, MSC-604)」。進水 2010年10月25日就役 2012年3月21日要目排水量 基準 570トン満載 660トン長さ 60.0m幅 10.1m深さ 4.5m吃水 2.5m機関 CODOE方式主機 三菱6NMUディーゼルエンジン × 2基 補助電動機 × 2基出力 2,200PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸速力 最大速 14ノット乗員 48人兵装 J M61-M 20mm多銃身機銃 × 1門搭載艇 4.9m型複合作業艇 × 1隻 ジェミニ・ディンギー処分艇 × 1隻C4ISTAR OYQ-201 掃海艇情報処理装置レーダー OPS-39 対水上捜索用ソナー ZQS-4 機雷探知機 サイドスキャンソーナー4型その他 水中航走式機雷掃討具S-10 一式 小型係維掃海具1型一式 感応掃海具1型 一式奥には海上自衛隊の掃海艇「ちちじま(JS Chichijima, MSC-605)」。進水 2011年11月24日就役 2013年3月21日要目排水量 基準 570トン満載 660トン長さ 60.0m幅 10.1m深さ 4.5m吃水 2.5m機関 CODOE方式主機 三菱6NMUディーゼルエンジン × 2基 補助電動機 × 2基出力 2,200PS推進器 クリュープロペラ × 2軸速力 最大速 14ノット乗員 48人兵装 JM61-M 20mm多銃身機銃 × 1門搭載艇 4.9m型複合作業艇 × 1隻ジェミニ・ディンギー処分艇 × 1隻C4ISTAR OYQ-201 掃海艇情報処理装置レーダー OPS-39 対水上捜索用ソナー ZQS-4 機雷探知機 サイドスキャンソーナー4型その他 水中航走式機雷掃討具S-10 一式 小型係維掃海具1型一式 感応掃海具1型 一式」。ズームして。左:掃海艦「あわじ JS Awaji, MSO-304)」と右:「海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」を再び。掃海艦「あわじ JS Awaji, MSO-304)」をズームして。「海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」をズームして。「海洋観測艦「にちなん・JS Nichinan、AGS-5105」。海上自衛隊の「護衛艦たかなみ(JS Takanami, DD-110)」を再び。「たかなみ」は、中期防衛力整備計画に基づく平成10年度計画4,600トン型護衛艦2239号艦として、IHIMUに発注され、住友重機械工業追浜工場で2000年4月25日に起工され、2001年7月26日に進水、その後、住友重機械工業浦賀工場において艤装の後、2002年8月20日に公試開始、2003年3月12日に就役し、第1護衛隊群第5護衛隊に編入され横須賀に配備された。左から、横浜税関・監視艇「みらい」 総トン数:64トン、船質:軽合金、全長:27.0m、最大幅:5.6m、深さ:2.8m 機関:ディーゼル機関×2、推進軸:2軸、速力:25ノット以上中央、海上保安庁・巡視船「はたぐも(PC-32)」 総トン数:85トン、全長:30.01m、最大幅:6.0m、深さ:3.2m 機関:ディーゼル機関×2、出力:1,957馬力(1,440kW)、最大速力:32.37ノット 最大登場人員:船員5名、他4名、他(24時間以内)26名右、海上保安庁 大型巡視艇 「巡視艇うらゆき(PC-72)」 総トン数:123.7t(旧) 全長:26.0m 最大幅:6.3m 深さ:3.0m 船質:軽合金 主機:ディーゼル3基、3軸 出力:3000馬力 速力:22kt 航続距離:220浬 最大搭載人員:10名「吾妻島」を見る。ズームして。「田浦港S-1岸壁」には潜水艦の姿が。ズームして。さらに。潜水艦名は不明。波が打ち寄せて。そして再び「新井堀割水路」を「汐入桟橋」に向かって進む。吾妻島の西側は、元々は陸と繋がっていた半島だったのを、明治時代に水路化し「新井堀割水路」と呼ばれていると。吾妻島は現在米海軍の敷地となっていて、一般人は立ち入りできないとのこと。ところで島にトンネル倉庫らしき扉が数カ所あった。今は使っていないようだが、元々は弾薬庫だったのであろうか?トンネル倉庫らしき扉にズームして。吾妻島は、旧日本海軍の燃料・弾薬貯蔵所を米軍が接収した施設で、航空機燃料や艦船燃料の貯油施設として使用されている。吾妻島全域と旧田浦送油施設地区からなり、37基のタンクがあるのだと。タンクへの給油所が左手前方に。そして「新井堀割水路」を通過して、横須賀港へ。「楠ケ浦桟橋」方向を望む。米海軍第7艦隊の原子力空母「ロナルド・レーガン」を再び。「横須賀海軍基地」の北側・東京湾方向を見る。逸見岸壁に停泊中の海上自衛隊の護衛艦「おおなみ(S Oonami、 DD-111)」を再び。ズームして。「横須賀システム通信隊」の通信鉄塔と地上31階建ての高層マンション「ウェルシティ横須賀 天空の街」が見えた。海上自衛隊の護衛艦「あまぎり(JS Amagiri、DD-154)」。原子力空母「ロナルド・レーガン」を再び。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」。Y−1・2岸壁に停泊中の護衛艦「むらさめ 101」と 護衛艦「あまぎり 154」。護衛艦「あまぎり 154」。護衛艦「むらさめ 101」。左:護衛艦「むらさめ 101」と 右:護衛艦「あまぎり 154」を正面から。「横須賀本港」越しに東京湾を見る。護衛艦「むらさめ 101」を振り返って。護衛艦「むらさめ 101」越しに護衛艦「あまぎり 154」を。反対側の岸壁の潜水艦。ズームして。ミサイル駆逐艦 「シャウプ(USS Shoup, DDG-86)」。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」が見えて来た。ズームして。空母「いずも」。「DRY DOCS 2&3」と書かれた建屋を見る。江戸から明治時代にかけて建造された横須賀製鉄所の3基のドックは、軍港横須賀の景観を特徴付ける艦艇修理用の石造ドライドックであり、日本遺産の構成施設の一つです。これらのドックは、米海軍横須賀基地の中に残っており、今もなお現役で使われています。中でも1号ドックは、日本で最古の現存するドライドックで、小栗上野介やヴェルニーの尽力により1871(明治4)年に完成しました。 1号ドックから3号ドックまでの海に面した壁面は、対岸のヴェルニー公園から見ることができます。ドックの底までは、年に数回ある「見学会」👈️リンク で見ることができます。ヴェルニー公園の中央にはしゃれたドーム式の洋風東屋風の建物が。そしてクルージングを楽しんだ吾妻島方向を振り返って。そして「軍港めぐり汐入桟橋」に到着。既に15時出航のクルージング船を待つ観光客の列が。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」の建物内に入る。「国史蹟・東京湾要塞 無人島・猿島」案内板。「クルーズターミナル」チケットカウンター。「お楽しみ抽選会 当選ナンバー」私のチケットナンバーは980でハズレ!!様々な種類の「よこすか海軍カレー」👈️リンク が土産物として並んでいた。船のハンドル・「舵輪(だりん)」。艦船や部隊のロゴマーク、階級章、国旗などがかわいいピンバッチになり土産物として販売されていた。クルージングコースの案内板。詳細MAPをネットから。エルビス・プレスリーが空母上甲板でコンサートを。雑誌「ぴあ」の表紙を描き続けたイラストレーター・及川正通さんの個展が横須賀美術館で開催された際に展示された、ライフワークとして取り組んでいる街シリーズの第1作「YOKOSUKA」であるとのこと。「Dream Map 「YOKOSUKA」-----及川正通目の前に広がる港は潸水艦や空母、街は米兵であふれ、ーつの街にアメリカと日本が存しているヨコスカ。昭和30年当時、昼はさいか屋デパートのデザイン課で仕事し、夜は米兵向けのバーやキャバレーの看板やインテリアのデザインをしたり、ステージでプレスリーの「ハートブレイクホテル」をを歌って水兵たちの喝采をあびた。僕の青春はアメリカそのものだった。及川正通1939年大連生まれ。1955年横須賀さいかデザイン課人社。1969年横尾忠則氏と共同スタジオ発足、以後フリーランス。1970年寺山修司の「天井桟敷」公演ポスター、舞台美術を手がけ、「平凡パンチ」「プレイボーイ」などでイラストレーションを掲載。1975年よリ情報誌「ぴあ」の表紙を描き、2011年まで36年間描き続けギネス記録に認定される。2019年よりデジタル「ぴあアプリ」の表紙が始まっている。」地上20階建ての「メルキュールホテル横須賀」を見る。そしてこの日の全ての行程を完了し帰路に。横浜横須賀道路の「横須賀」ICを通過。そして「六ッ川」料金所で降り、横浜駅東口に向かったのであった。そして、横浜駅西口でこの日の旅友3人でこの日の反省会を行い、夜空の月の姿を楽しみながら帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完了・・・
2024.03.31
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そして米海軍の軍艦がここにも。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」👈️リンク。イージス武器システム搭載。艦名は朝鮮戦争で戦死し、名誉勲章を受章したエドワード・クライド・ベンフォールド三等衛生兵(Edward Clyde Benfold)の名に因むと。ミサイル駆逐艦は、ミサイル艦として建造された駆逐艦。アメリカ海軍では対空戦を重視して艦対空ミサイルを搭載した駆逐艦をこのように称してDDGの記号を付しており、艦対艦ミサイルや艦対地ミサイルを搭載しているだけでは該当しない。「メインマスト」には補修工事用の足場・手摺が全面に。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」の「65」が。その奥には、アメリカ海軍ミサイル駆逐艦「ハワード(USS Howard、DDG-83)」。ハワードの船首には多くの隊員の姿が。そして一番奥に原子力空母「ロナルド・レーガン」が停泊中。アメリカの空母で唯一海外を母港としている。ロナルド・レーガンの改修に伴う停泊で、2024年春をめどに出港し、ジョージ・ワシントンが同年後半に入港する予定だという。ズームして。さらにズームして。「ロナルド・レーガン(Ronald Reagan:CVN-76)」の「76」の文字が。CVNは原子力空母を指す記号(” Carrier Vessel、Nuclear”の略)とのこと。原子力空母「ロナルド・レーガン」進水 2001年3月4日就役 2003年7月12日要目満載排水量 101,429 t全長 333 m最大幅 76.8 m吃水 11.3 m主機 蒸気タービン 4基原子炉 ウェスティングハウス・エレクトリックA4W加圧水型原子炉 2基推進 スクリュープロペラ 4軸出力 260,000hps(210 MW)速力 30ノット (56 km/h) 以上乗員 士官・兵員:3,200名航空要員: 2,480名兵装・RIM-162 シースパロー短SAM 2基・RIM-116 RAM 2基・ファランクスCIWS 2基・Mk 38 Mod 2 25mm機関砲 3基搭載機 90機前後(平時66機前後) とネットから。原子力空母「ロナルド・レーガン」を以下3枚ネットから。再びアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド」。アメリカ海軍のミサイル駆逐艦・ハワード (USS Howard, DDG-83) が東京湾へと。米海軍 港内曳船 YT-805 「 セミノール(SEMINOLE )」が航行中。我が卒業会社の横須賀造船所のガントリークレーン(gantry crane)の姿が。ズームして。新造船建造からは撤退したが。再びアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」を正面から。横須賀本港を遠望。アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 「ベンフォールド・USS Benfold、DDG-65)」を斜めから。左手にY−3・4岸壁を見る。護衛艦「むらさめ 101」前述護衛艦「あまぎり 154」進水 1987年9月9日就役 1989年3月17日要目基準排水量 3,500 トン満載排水量 4,900 トン全長 137m最大幅 14.6m深さ 8.8m吃水 4.4m機関 COGAG方式主機 川崎ロールス・ロイス スペイSM1Aガスタービン × 4基出力 54,000PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸最大速力 30ノット乗員 220名兵装 62口径76mm単装速射砲 × 1門 Mk.15 Mod2 高性能20mm機関砲(CIWS) × 2基 ハープーンSSM4連装発射筒 × 2基 GMLS-3型A シースパロー短SAM8連装発射機 × 1基 74式アスロック8連装発射機 × 1基 68式3連装短魚雷発射管 × 2基搭載機 HSS-2B/SH-60J哨戒ヘリコプター × 1機(最大2機)C4ISTAR OYQ-7B-1 戦術情報処理装置 OYQ-101 対潜情報処理装置 SFCS-6C 水中攻撃指揮装置レーダー OPS-14C 対空 OPS-28C 水上 OPS-20 航海用 81式射撃指揮装置2型-22A/2型-12Eソナー OQS-4A OQR-1曳航式電子戦・ NOLR-8 ESM対抗手段 OLT-3C ECM Mk.137 デコイ発射機 × 2基その他 AN/SLQ-25 曳航式デコイ 」とウィキペディアより。ズームして。護衛艦「おおなみ 111」。進水 2001年9月20日就役 2003年3月13日要目基準排水量 4,650トン満載排水量 6,300トン全長 151m最大幅 17.4m深さ 10.9m吃水 5.3m機関 COGAG方式主機 IHILM2500ガスタービン × 2基 川崎スペイSM1C × 2基出力 60,000PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸最大速力 30ノット乗員 175名兵装 54口径127mm単装速射砲 × 1門 Mk.15 Mod12 高性能20mm機関砲(CIWS) × 2基 90式艦対艦誘導弾 (SSM-1B)4連装発射筒 × 2基 Mk.41 VLS × 32セル HOS-302 3連装短魚雷発射管 × 2基搭載機 SH-60J/K 哨戒ヘリコプター × 1/2機C4ISTAR OYQ-9C 戦術情報処理装置 OYQ-103 対潜情報処理装置レーダー OPS-24B-1 対空 OPS-28D 水上 OPS-20 航海用 81式射撃指揮装置2型-31B × 2基ソナー OQS-5 OQR-2 曳航用電子戦・ NOLQ-3-2 電波探知妨害装置対抗手段 Mk.137 デコイ発射機 × 4基その他 曳航具4型 対魚雷デコイ とウィキペディアより。おおなみ(JS Oonami、DD-111)。手前に輸送艇 LCU-2002 「 輸送艇2号 」。ズームして。外洋は風が強いとのことで、クルージングルートを変更して「新井掘割水路」に向かって進む。この日のクルージングルート。このあたりが横須賀湾と長浦湾をむすぶ新井掘割水路の長浦側の出入口にあたる。ここは箱崎半島の吾妻山ふもとの北側にあたり、半島のうちでもっともくびれたところである。安政元年(1854)に公郷村名主永嶋庄兵衛は、幕末の海上交通が増えたのにともない、半島先端にある暗礁が危険なため、多額の費用をかけ半島前方部に掘割を377m掘削し、水運の便をはかった。これにより武蔵国野島浦(現在の横浜市金沢区)から横須賀村への航路が作られた。このときの土石は江戸品川に運ばれ、台場築造に使われたという。(旧掘割)その後、明治18年に長浦に海軍の水雷営、水雷武庫、水雷練習艦がおかれてから横須賀港との交通が頻繁になり、交通に不便となったため、現在の場所を掘削するよう鎮守府は横須賀造船所に依頼して、明治19年、海底27メートルの掘割工事に着手し、明治22年に完成開通した。これにより旧掘割は埋め立てられ、周辺は旧海軍時代より現在まで燃料庫地帯になっている。現在地はここ。「新井掘割水路」を進む。左手の山の下・横須賀市田浦港町には「横須賀弾薬整備補給所」があると。前方海上自衛隊「F−10岸壁」に停泊中の「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」が現れた。海上自衛隊の試験艦。海上自衛隊としては15年ぶりの試験専用艦で、省力化やステルス化を目的とした艦載兵器実験艦。曹士女性自衛官(7名)が初めて乗り組んだ自衛艦でもある と。海上自衛隊「F−10岸壁」越しに鉄塔を見る。「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」。海上自衛隊護衛艦DD116「てるづき」であっただろうか?ズームして。そして「田浦港」を引き返して振り返る。再び見慣れたガントリークレーン。「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」を振り返る。ズームして。「海上自衛隊 自衛艦隊司令部」棟か。ゴムボートが疾走。再び「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」。護衛艦「たかなみ(Takanami 、DD-110)」。ズームして。「たかなみ(Takanami 、DD-110)」試験艦「あすか(JS Asuka, ASE-6102)」を再び。再び見慣れたガントリークレーンをズームして。試験艦「あすか(JS Asuka, ASE-6102)と左の艦は? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.30
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「三笠公園」を後にして、県道28号線を利用して「軍港めぐり汐入桟橋」近くの駐車場に向かって進む。車窓左手に見えたのが「逸見波止場衛門跡」。かつての旧軍港への入口として、多くの軍人が行き交った旧横須賀軍港逸見門付近は、春秋にバラが咲き乱れるヴェルニー公園として整備され、衛兵詰所が当時の面影を残している。八角形の衛兵ボックスが左右2棟あり、左側は「逸見上陸場」、右側は「軍港逸見門」との文字が見えた。高さは約4m、屋根は銅板ぶきドーム型。本体は鉄筋コンクリート造りで、外壁はタイル張り。建築年代は昭和4年頃と推定され、当時の珍しい建築物の面影が。「アメリカ海軍横須賀基地」とその手前に「YOKOSUKA軍港めぐり」のクルーズ船の姿が。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」の建物が現れた。バスを降りて「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」に向かって進む。「YOKOSUKA軍港めぐり」案内板。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」前から「逸見岸壁」に停泊していた「海上自衛隊「空母」型護衛艦いずも」を見る。海上自衛隊最大の新型ヘリコプター搭載護衛艦「いずも」(DDH183)が2015年3月25日、就役した。いずもは基準排水量1万9500トン、全長248メートル、幅38メートルで、艦首から艦尾までつながった「全通甲板」を備え、哨戒ヘリなど9機の運用(5機の同時発着)ができるとのこと。右手の岸壁には「護衛艦・むらさめ 101」の姿が。艦名は「ひとしきり降ってはやみ、やんではまた降る雨」(村雨)に由来し、この名を受け継ぐ日本の艦艇としては、旧海軍春雨型駆逐艦「村雨」、白露型駆逐艦「村雨」、海上自衛隊のむらさめ型護衛艦 (初代)「むらさめ」に続き4代目に当たる とのこと。「YOKOSUKA」モニュメント・「YOKOSUKAじゃん」。汐入桟橋(しおいりさんばし)は、海上自衛隊と米海軍横須賀基地の艦船を間近で同時に見られる日本で唯一のクルーズ、YOKOSU軍港めぐりが発着している船の乗り場。京急線汐入駅近くにある大型ショッピングモール「コースカべイサイドストアーズ」の裏手(海側)にあったYOKOSU軍港めぐりの乗船チケットが販売される汐入ターミナルは、「コースカべイサイドストアーズ」の2階に。公募名:「YOKOSUKAじゃん」は「分かりやすく、シンプルにYOKOSUKA の地名と、スカジャンのジャンと、神奈川の方言である~じゃんの方言も兼ねて名前にしました」と。「横須賀港への海洋ごみ横須賀港は、東京湾の湾ロ部に位置しています。そのため、潮の流れや風向きの影響により、東京湾のごみなどがちょうどこの場所に流れ着いてしまいます。特に冬場は、北風の影響や、入り組んだ地形により、この付近にごみが堆積してしまいます.横須賀市では、市民や事業者と協力し、定期的に清掃を行うなど、積極的に海洋ごみの対策を行っています。こうしたごみの削減に向けては、私たちひとりひとりの意識や行動が大切です。みなさまのご協力をお願いします。」と。「YOKOSUKA軍港めぐり料金大人 2,000円小学生 1,000円※曜日や時期によって料金に変動あり」土、日の料金であり、平日のこの日は1,800円であった。乗船したYOKOSUKA軍港めぐりクルーズ船「Sea Friend 7」👈️リンク。2016年4月に就航。YOKOSUKA軍港めぐりの新たな主力船として登場した。大きく取られた1階客室の窓は曇りにくい特殊2重ガラスで、2階デッキには雨や直射日光を避ける屋根を採用し、快適性も格段にアップ。2階後部の赤いファンネル(煙突)が目印であると。全長 26.20m全幅 7.00m喫水 0.75m総トン数 99トン定員 平水 250名」と。横からの姿をネットから。「YOKOSUKA軍港めぐりクルーズターミナル」を振り返って。再び「海上自衛隊「空母」型護衛艦いずも」を。緑の屋根は「海上自衛隊横須賀資料館」。この日のチケット。14:00出航便にて「YOKOSUKA軍港めぐり」のスタート。そしてYOKOSUKA軍港めぐりクルーズ船の乗り場。乗船後に利用した「Sea Friend 7」の2階デッキには、雨や直射日光を避ける屋根が。「YOKOSUKA軍港めぐり JAPAN HERITAGE CRUISE」.ショッパーズプラザ横須賀跡地に出来た「Coaska Bayside Stores」(コースカベイサイドストアーズ)。「COASKA」は「海の街 横須賀」を連想させるCOASTとYOKOSUKAの連結ワードとしている と。右手には以前に見学したことのある「アメリカ海軍横須賀基地」👈️リンク の施設が並ぶ。前方右から潜水艦が浮上。潜水艦を押すタグボートが2隻。曳船・YT03 75号50t型。海上自衛隊の第1種支援船で、小型の曳船。全長 17 m全幅 4.8 m と。艦橋(ブリッジ)上には人の姿が。艦橋の最上部は見張り台になっており、艦橋内にはレーダーアンテナ・潜望鏡・シュノーケルといった機器の水密収納筒や、艦橋にのぼるラッタルがあり、これらの整流カバーともなっている と。そして、飛行機の水平尾翼とも思えるフィン(潜舵)が横に出ています。水中を走行する時、横に倒れない様にバランスを取る重要な部分と言えます。曳船が海上自衛隊のものなので日本の潜水艦か?こちらは、原子力潜水艦の構造写真(オハイオ級潜水艦)をネットから。艦橋(ブリッジ)の最上部には、「潜望鏡」、「IFF、UFFアンテナ・敵味方識別装置」、「通信アンテナ」「シュノーケル」が設置されているとのこと。「シュノーケル」は、水中で潜水艦のディーゼルエンジンを運転するために用いられる吸気管とのこと。じわじわと岸壁に近づいて。そして岸壁に。潜水艦の前部を曳舟が押す。岸壁に近づいて。タグボートが2隻が息を合わせて。後方のタグボート・曳舟 YT06海上自衛隊支援船で小型の50t型タグボート「75号型」の曳船06号(YT-06)基準排水量: 50t全長: 17.0 m幅: 4.8 mセイル(上構)の中央付近には、水中で潜水艦のディーゼルエンジンを運転するために用いられる吸気管・シュノーケルが見えた。日章旗も見えた。更にズームして。タグボート・メノミニー(MENOMINEE, YT-807)の姿が潜水艦の船尾に。ズームして。再び「空母・いずも」👈️リンク。SHOUP・シャウプ (ミサイル駆逐艦)。2022年12月19日、日本に到着し神奈川県にある横須賀基地と第7艦隊に前方配備されたと。海上自衛隊の護衛艦・むらさめ。空母・いずもを再び。広い飛行甲板を備える海上自衛隊最大のヘリコプター搭載護衛艦「いずも」(全長248メートル、1万9950トン)。後部艦橋の張出し部は「航空管制室」。艦橋前部の台座には「RIM-116 SeaRAM」近接防空用艦対空ミサイルシステムが搭載されている と。艦艇に接近する航空脅威、特に対艦ミサイルの撃墜を目的とするCIWS(Close-in weapon system)として運用されると。 目標が射程内に入ると20mmバルカン弾を発射。 弾道をレーダーで追尾し、目標とのズレを計測するのだと ネットから。183の文字が。空母・いずもの写真をネットから。建造期間 2012年 - 2017年就役期間 2015年 - 就役中建造数 2隻前級 ひゅうが型次級 最新要目基準排水量 19,500トン満載排水量 26,000トン[1]全長 248.0m最大幅 38.0m水線幅 29.6m深さ 23.5m吃水 7.3m機関方式 COGAG方式主機 LM2500IECガスタービンエンジン (28,000 ps)×4基推進器 スクリュープロペラ×2軸出力 112,000 ps電力 14,000 kW電源 LM500-G07ガスタービン主発電機 (3,500 kW)×4基最大速力 30ノット搭載能力 最大14機乗員 約470名[注 1]兵装 ・高性能20mm機関砲 (CIWS)×2基 ・SeaRAM 近SAMシステム×2基搭載機 ・SH-60K哨戒ヘリコプター×7機 ・MCH-101輸送・救難ヘリコプター×2機C4ISTAR ・洋上ターミナル (MTA) ・OYQ-12 戦術情報処理装置レーダー ・OPS-50 3次元式(AESAアンテナ×4面)×1基 ・OPS-28F 対水上捜索用×1基 ・OPS-20E 航海用×1基ソナー OQQ-23 艦首装備式×1基電子戦・ ・NOLQ-3D-1 電波探知妨害装置対抗手段 ・Mk.137 6連装デコイ発射機×6基 ・OLQ-1 魚雷防御装置 (MOD+FAJ)一式」と ウィキペディアより。再び海上自衛隊の護衛艦「むらさめ(JS Murasame DD-101)」。艦橋構造物はステルス性を考慮し傾斜させ、マストは強度確保のためトラス式。前甲板に62口径76mm速射砲、その直後にVLS、高性能20mm機関砲CIWS、前後煙突の合間にSSM装置、前方煙突直下に短魚雷発射管を各々配置。DD-101は個別の艦艇の識別用番号で、「艦番号」と呼ばれるものです。 数字は下二桁が個別の番号、最初の1~2桁が任務や種類の目安になります。 1XXなら大型護衛艦、2XXなら小型護衛艦、 6XXは掃海艇 、4XXXは輸送艦 、5XXなら練習艦 という風に種別や任務で番号が付けられているとのこと。ズームして。護衛艦・むらさめ。進水 1994年8月23日就役 1996年3月12日要目基準排水量 4,550トン満載排水量 6,100トン全長 151m最大幅 17.4m深さ 10.9m吃水 5.2m機関 COGAG方式主機 IHILM2500ガスタービン × 2基 川崎スペイSM1C × 2基出力 60,000PS推進器 スクリュープロペラ × 2軸最大速力 30ノット乗員 165名兵装 62口径76mm単装速射砲 × 1門 Mk.15 Mod12 高性能20mm機関砲(CIWS) × 2基 90式艦対艦誘導弾 (SSM-1B)/ ハープーン4連装発射筒 × 2基 Mk.41 Mod6 VLS (VLA SUM) × 16セル Mk.48 Mod4 VLS (ESSM 短SAM) × 16セル HOS-302 3連装短魚雷発射管 × 2基搭載機 SH-60J/K 哨戒ヘリコプター × 1/2機C4ISTAR OYQ-9 戦術情報処理装置 OYQ-103 対潜情報処理装置レーダー OPS-24B 対空 OPS-28D 水上 OPS-20 航海用 81式射撃指揮装置2型-31 × 2基ソナー OQS-5 OQR-2C 曳航式電子戦・ NOLQ-3 電波探知妨害装置対抗手段 Mk.137 デコイ発射機 × 4基」 とウィキペディアよりDD-101から「101」と。ズームを戻して全景を。輸送艇2号👈️リンク(JS LC No.2, LC-2002)は、海上自衛隊の輸送艇(LCU)。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.29
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さらに「三笠公園」内から「歴史博物館・記念艦三笠」前の散策を続ける。「記念艦三笠」と。「記念艦三笠」の入口階段。観覧はシニア(65才以上)は500円と。見学順路案内。「記念艦 みかさ」。「常設展「三笠」秘蔵連合艦隊模型コレクション」案内。艦前部の主砲塔と前艦橋。40口径15センチ砲 副砲。副砲(ふくほう 英:Secondary gun)は艦砲の一種である。主砲では対応できない水雷艇などの小型艦艇、また航空機を攻撃するために用いられる。概要小型艦艇・航空機など高速、小型のものを攻撃する場合、主砲では弾薬は限られており、旋回速度も遅いため、副砲が使われる。副砲には、15センチ前後のものがよく使われた。 副砲には砲塔式とケースメイト式がある。当初、巡洋戦艦として建造された赤城 (空母)には、ケースメイト式の副砲がついていた。大和型戦艦の15.5センチ副砲は元来最上型重巡洋艦が軽巡洋艦として建造された当時の主砲であったが、とても強力な砲であった。2本のマストの間に、2本の煙突。錨と吊上げ用ダビッド。30センチ前部主砲が見えた。その後方のマストには見張り台が。戦艦三笠の艦首には、日章旗と菊の「御紋章」が付けられていた。この御紋章は、十六弁表八重菊をイメージしたものと。写真のものはレプリカであるが、艦内には就役当時のものが保存・展示されていると。移動してズーム。猿島をズームして。東京湾に浮かぶ、唯一の自然島。 釣り・海水浴・バーベキューなど、四季を通してアウトドア・アクティビティを楽しめます。 面積は横浜スタジアムのグランドの約4倍。 三笠桟橋からの約10分の船旅で、気軽に訪れることができます。旧日本軍の要塞として、一般人の立ち入りは、終戦まで禁止されていました。 島内には緑深い木々のなか、レンガ積みのトンネルや砲台跡などの旧軍施設が残っていて、ちょっとした探検気分が味わえます。 かつて、仮面ライダーのショッカー基地として撮影が行われたことでも知られています。 釣り・バーベキュー・海水浴など小さな島いっぱいに魅力がつまっています。 横須賀海軍の球技場方向を見る。組曲「横須賀」碑。「合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」作曲 團伊玖磨」👈️リンク。「みどりのちかいわたしたちの郷土横須賀は、すぐれた自然環境に恵まれ、祖先はこれからの環境の中で生活し、自然を愛し、親しんできました。私たちは、祖先から受けついだ資産を子孫に引き継ぐため「人間都市横須賀」の建設を目指し「人間と人間をとりまく、すべての生命を大切にする都市」を基本精神として、健康でみどり豊かな環境を創造するため横須賀市制施行80周年を祝賀して実施する「かながわ都市緑化横須賀フェア」を契機に、さらにみどりいっぱいの都市づくりを目指して邁進することを誓います。1987年(昭和62年)10月3日 かながわ都市緑化横須賀フェア実行委員会」「合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」 作詞 栗原 一登1. 序章 ふるさとよ 東海の 三浦を分けて ふるさとよ 大洋(わだつみ)広く 山青く 先史に開く 悠久の 歴史を生きて われ等あり ああ 横須賀 われ等あり 磯波に 富士を映して わが街よ 英知を集め 地と人の 栄えを創る 喜びは 自立の誇り 希望(のぞみ)あり ああ 横須賀 希望(のぞみ)あり 近代の 夜明けを告げし 横須賀よ 試練を越えて 立ちしいま 平和を願う 新たなる 門出の街よ 未来あり ああ 横須賀 未来あり2. 黒船 来たる 霧こめし 浦賀の海の 波を巻き 国を開けと 黒船 来たる 大いなる 歴史の朝ぞ 黒船 来たる 波とどろ 浦賀の海の 高鳴りは 目覚めし国の 暁の歌声 大いなる 歴史の街ぞ 黒船 来たる 久里浜よ 浦賀の海を 見はるかす 碑(いしぶみ)高し 時を経し いま 大いなる 歴史の海ぞ 黒船 来たる3. 衣笠城跡 山城は 樹々深くして 木漏れ日に 草は青みぬ 雄叫びの 充ちたる谷も 静まりて 興亡空し いず方か ほととぎす鳴く 山城の 道は細みて 藪椿 紅きが悲し 血ぬられし 物見の岩も 苔むして 亡びし城よ 衣笠に 春は巡れど 4. 谷戸の物語 1 じいちゃんの そのまた じいちゃんと ばあちゃんの そのまた ばあちゃんが 好いて 好かれた 昔の話 いせき娘の ばあちゃんが ひとり 谷戸の山越え たずねて行けば じいちゃんの そのまた じいちゃんが 海から小舟で 送ったそうな 褒め申そう 褒め申そう 谷戸の この家 褒め申そう 2 製鉄勤めの じいちゃんが 谷戸の向うの ばあちゃんに 会いたさ 見たさに カンテラさげて トンネル抜け抜け 走って行った 三年三月で 所帯を持って 淡島さまに 願かけて わが家の とうちゃん 生まれたそうな 褒め申そう 褒め申そう 谷戸の この家 褒め申そう」「合唱と管弦楽のための組曲「横須賀」演奏時間 案内。戦艦三笠を振り返る。「東京九州フェリー 横須賀フェリーターミナル」を振り返る。米国横須賀海軍基地の住宅をズームして。「芝生広場」にあった「野外ステージ」。ステージの前には芝生の広場と海が広がり、海に向かって歌うことができるオペラハウス状のステージとなっていた。再び戦艦 三笠を振り返って。ズームして「さざなみの階段」とアーチ型の「サブモニュメント」。正面から。昼間はさざなみの音が流れているのであった。公園の北東の「モニュメント広場」には高さ18mもある「メインモニュメント」が。近づいて猿島を背景に。引き返すと「三笠公園案内図」が。「中央公園」の正門側の入り口付近。蒸気機関車が・・・???「横須賀市緊急用飲料貯水槽(100m3)」と。蒸気機関車(SL)に似せて造った同市の「緊急用飲料貯水槽」が設置から40年以上を経て今なお人気を集めているのだと。「この蒸気機関車は、いつか来る大地震のために、生活には欠くことのできない「水」を貯えておくための非常用貯水槽(通称100トンタンク)です。大地震が起こったとき、この三笠公園に避難してくる10,000人の人たちに、一人当たり1日3リットルの水を約3日間配ることができるように、100m3 ( 100,000リットル)の水道水が新鮮な状態で循環しています。」「記念月桂樹」。「記念月桂樹の由来昭和36年(1961年)5月27日、記念艦「三笠」の復元記念式に際し、記念艦「三笠」復元に多大な尽力をされた米国の「チェスター・ニミッツ海軍元帥」、「アーレイ・バーク海軍作戦部長」、「ジョン・コナリー海軍長官」のお三方の名前で、この地に3本の月桂樹が植樹されました。しかしながら、それらは55年の年月を経て立ち枯れ、1本を残すのみとなりました。「チェスター・ニミッツ海軍元帥」らの功績を後世に伝えるため、後継樹として向かって左側に新たに1本を植栽しています。 平成28年3月 (公財)三笠保存会」巨石が施された池は清掃中。池を振り返って。正門前花壇。再び戦艦三笠を。ズームして。「東郷平八郎像」と「戦艦三笠」。手前にあったのは「サイクルスタンド」か?管理棟内には記念艦三笠の関連品などを売っている売店・土産物屋もあった。「公園案内」板。「横須賀港(新港)の紹介横須賀市内の北は追浜から南は野比に至る港湾施設のある区域をまとめて横須賀港といいます。向こうに見える島は東京湾唯一の自然島「猿島」です。伝説によると日蓮上人が上総の国から鎌倉へ行く途中、嵐に遭い漂着した所といわれています。この島は四季を通して市民が海と親しめる所でもあり、島内には弥生時代の洞穴住居あとや、かっての要塞、特に明治時代の赤しンガなどが残されています。さらに沖合には、第1海堡、第2海堡、水没している第3海堡の人工島要塞あとや千葉の新日本製鉄(株)君津製鉄所がながめられます。左に見える記念艦「三笠」は日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破り大勝を収めた時の旗艦であります。大正15 (1926)年三笠公園に保存されることになりました。ペリー提督の率いる船が浦賀沖に来航して以来、わが国の立ち遅れを痛感した徳川幕府は勘定奉行小栗上野介忠順に製鉄所(後の造船所から海軍工廠と改称された)の建設を命じ、それを受けたフランス人技師レオン・ヴェルニーは横須賀湾に着目し、建設しました。これがきっかけとなって一寒村であった横須賀が大きく発展することとなり、やがて海軍がその施設を拡張するにつれて貨物船等の横須賀湾内の航行が制約されました。そこで貨物船等は現在の稲岡町あたり、白浜海岸を使うようになりました。白浜は漁民の集落でしたが明治11 (1878 )年三浦郡長小川茂周によりこの辺一帯が埋立てられ、郡長の名をとって小川町と名づけられました。そのころ鴨居「若松屋」の高橋勝七により石松町、明治22 (1889)年、その北側に後の工機学校敷地、大正(1915)年、肥後富一郎、葦名金之助等により大滝町地先に埋立地がそれそれ造成されました。埋立地ができあがると縁ヶ丘にあった市役所や諏訪小学校、平坂付近にあった警察署をはじめ銀行や商店なども進出、活気のある下町が形づくられてきました。昭和5年、今の京浜急行が浦賀まで開通されると埋立地は横須賀の都心としてにぎわいのある町となっていき、人々は「中央へ行こう」「下町へ行こう」と言って新しい町に来ることを楽しみにしていました。造船所開設以央、次第に都市として発達した本市にとって、交通機関の整備は第一の要件であり、特に谷間の多い地形などによる道路網の不備もあって海上輸送は、物資輸送幹線の上で中心的な役割を果していました。海軍の施設拡大のため横須賀湾、長浦湾の一般利用が閉ざされてからは、小川港は近くの安浦港とともに整備され、京浜急行からの生活必需物資や石炭、建築用材等の港湾貨物の取扱いに重要な役割を果してきました。なお戦後わが国の食料危機救済のため、長浦に外国貿易港が、また久里浜に遠洋漁業基地及び国内貿易港が、それそれ整備されてきました。一方戦後の目覚ましい経済成長を背景に、三浦半島及び湘南地域を主とした海上輸送貨物の門戸として新港建設に昭和41 (1966)年着手し昭和49 (1974)年完成に至りました。現在新港では、ソーラス条約に対応し、完成自動車の輸出や、水産物(冷凍マグロ)の輸入が行われています。平成25年には地場産物総合販売所の「よこすかポートマーケット」がオープンし、平成27年には官公庁の移転が完了しました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.28
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「浦賀ドック」を後にして、バスにて昼食会場の「いちご よこすかポートマーケット」に向かう。県道208号線を北に向かって進む。京浜急行「浦賀駅前」交差点が前方に。「浦賀駅前」。「国道16号」に出て「横須賀魚市場前」を通過。「カナリー椰子(ヤシ)並木」が続き、南国の風景。カナリーヤシ(カナリー椰子)は、ヤシ科の常緑樹で、大西洋のカナリア諸島(スペイン領)が原産。別名は「フェニックス」で、伝説上の不死鳥「フェニックス」を連想させる樹形をしているのであった。そして「いちご よこすかポートマーケット」に到着。横須賀や三浦半島の豊かな作物を、様々なジャンルの飲食店が調理。オーシャンビューが印象的なウッドデッキで、いつでも誰でもお食事を楽しめるマーケット&フードコー と。「いちご」とは、人との出会いを大切にする「一期一会」からのようだ。施設の運営主体は、2015年に東証一部(2022年4月にプライム市場に移行)に上場した「いちご株式会社」とのこと。「YOKOSUKA PORT MARKET」。”網元 房竹丸”の海鮮丼 、 ビーカープリンで人気の”マーロウ” 、 創業50年以上・横須賀の老舗ハンバーガー店”HONEY BEE” 、 10種類のクラフトビールが楽しめる”横須賀ビール” 、宮内庁御用達の精肉店”横須賀松坂屋”のソーセージ 、 関口牧場のソフトクリームが食べられる”YOKOSUKA GELATO FACTORY” などなど、地元有名店が一堂に会した食のテーマパーク。2022年10月28(金)、オープンしたのだと。長井水産(NAGAI SUISAN)相模湾や東京湾で水揚げされた鮮魚をはじめとした魚介類だけでなく、三浦野菜など、生鮮食品を販売していた。海鮮丼の店「あがっとこ」。横須賀の長井で水揚げされた地魚や三崎のマグロが食べられる店。「あがっとこ」の意味は??「MARLOWE」「ビーカー入り手づくり焼きプリンで人気のマーロウが、三浦半島東海岸に初出店。添加物を一切使用せず、北海道産の新鮮な牛乳と植物性飼料で育てられた食菜卵など、こだわりの食材を使用しています。ビーカーは食べ終わったあとにも、ご自宅などで大活躍。お土産にも是非どうぞ。」とネットから。そしてこの日の昼食は「ヨコスカネイビーバーガー」。「レギュラーネイビーバーガー」セットを大きく口をあけて楽しみました。店のベランダから見えた「横須賀新港ふ頭」には、輸出乗用車が所狭しと並んでいた。車の名前に疎い私には車種の名前は??右手奥にあったのが「東京九州フェリー 横須賀フェリーターミナル」。神奈川県のここ横須賀新港と北九州の新門司港を結ぶ「東京九州フェリー」が、2021年7月1日に就航。976kmの距離を約21時間で航行し、観光はもちろん、物流・トラックの安定輸送に寄与することが期待されているのだと。巨大ハンバーガーを完食後には、出発時間まで近くにあった「三笠公園」を徒歩で訪ねた。前方右手に現れたのが「新三笠桟橋(猿島渡船乗船場)」。猿島(さるしま)は、神奈川県横須賀市猿島に所在する無人島。東京湾最大の自然島である。1995年に国から横須賀市へ移管され、横須賀市が猿島公園として観光などに活用している幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末の1847年に江戸幕府により国内初の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本国では数少ないフランドル積みが見られる。使用された煉瓦は愛知県の東洋組士族就産所で製造された。国の史跡に指定されている。当時の煉瓦は素材や焼成温度が均一でなかったため、結果として色とりどりの煉瓦が積まれて現代に残り、観光客に人気がある。なお、砲台は2000年に「猿島要塞」として土木学会選奨土木遺産に指定された と。新三笠桟橋(三笠公園内)よりトライアングル(運行事業者)の船で10分。船は、3月から11月までは毎日運航、12月から2月までは土日祝日のみ運航。往復運賃は入島料込みで大人2000円、中学生1750円、小学生1000円で横須賀市民には割引があるとのこと。Sea Friend ZERO〈シーフレンドゼロ〉👈️リンク が出航を待っていた。2014年に就航。猿島航路を中心に、各種イベントクルーズやチャーターでのご利用などマルチに活躍する船。全長 19.83m全幅 7.10m喫水 0.80m総トン数 19トン定員 平水 236名 主な航路 三笠~猿島 沿海 94名前方に歴史博物館「記念艦三笠」の姿が現れたが、修繕工事中のようであった。塗装の退色が著しかった船体側面の塗装剥離・再塗装作業を4月中旬までの予定で実施しているとのこと。「三笠公園」案内図。「三笠公園」は「コ」の字型をしていて、公園の周囲半分が海に面しています。広さは東京ドーム0.8個分とそれほど広くはありませんが、様々な施設が充実した公園である。世界三大記念艦の「三笠」に加え、遊具がある中央広場、音楽噴水池、モニュメント広場などがあり、噴水は音楽に合わせて噴き出たりと、親子で楽しめる公園であった。「日本の都市公園100選」「日本の歴史公園100選」に選ばれた横須賀を代表する公園。「行進曲 軍艦」👈️リンク 歌碑。行進曲「軍艦」は明治30年海軍軍楽長 瀬戸口藤吉氏によって作曲された 日本の勃興期における行進曲として親しまれ 未来への明るい希望と自信を与え勇気づけるものである 世界3大行進曲の一つとして 音楽史を彩る稀有の名曲で 作曲されてから一世紀を迎える年にあたり 瀬戸口軍楽長がこよなく愛し 青春の日日を送り己が終焉の地ともなったこの横須賀の三笠公園に行進曲「軍艦」の顕彰碑を建立いたしたものである。碑裏面には、鳥山啓作詞の「行進曲 軍艦」の「守るも攻めるもくろがねの・・・」の歌詞が刻まれていた。(この写真は以前に訪ねた時の写真)。歴史博物館「記念艦三笠」と「三笠公園」。「三笠公園」の入り口広場の円形噴水池の中心にあった「東郷平八郎像」。近づいて。「日本海海戦後言志日の本乃海にととろく かちときは 御陵威かしこむ 聲とこそしれ 東郷平八郎 (花押)」裏面には「昭和42年5月27日 清水多嘉示作」と記されていた。さらにブロンズ像「東郷平八郎像」👈️リンク に近づいて。「皇國興廃在此一戦 元海軍大将 長谷川清書 大正七志会・七洋会 昭和43年6月1日建之」と。「皇国」とは天皇の国、つまり日本のこと。興廃とは「栄えるか滅ぶか」という意味。要するに「この一戦で日本が栄えるか滅亡するかが決まる」よって各員一層奮励努力せよ いう意味である。碑高150㎝、幅250㎝、厚さ30㎝、台石30㎝。裏面には「三笠公園 本公園は昭和三十六年五月二十七日完成を見たもので公園の名称はこの一角に保存されてある記念艦三笠に由来するものである 三笠艦は日本海々戦-一九〇五年-の際わが連合艦隊旗艦として参戦し時の司令長官東郷平八郎の大号令「皇国の興廃此の一戦に在り 云々と共に世界海戦史上不滅の名をとどめた」台石に大正七志会、七洋会の会員67名の名簿が記載されていた。「昭和42年5月27日 清水多嘉示作」と。再び歴史博物館「記念艦三笠」を見る。日清戦争に勝利した我が国は、下関条約により賠償として清国から遼東半島を割譲されましたが、強力な軍事力を極東に展開している露独仏三国の強い干渉を受け、遼東半島を清国に返還せざるを得ませんでした。欧米列強の軍事脅威から主権と領土を守るためには軍事力の強化が急務と痛感した時の政府は、戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹とする「六六艦隊整備計画」を推進しました。「三笠」は、英国ヴィッカース造船所に発注した6隻目の戦艦であり、明治35年(1902)3月に竣工、直ちに横須賀に回航され、日露関係が悪化し戦時体制に移行した明治36年12月、連合艦隊に編入され、その旗艦になりました とネットから。全長は132メートルもあり、乗員数はなんと860名と。船首には「旭日旗」がはためいていたが。我が国の基本的立場(2021年5月18日加藤官房長官記者会見午前(抜粋))「旭日旗の意匠は日章旗同様、太陽をかたどっており、大漁旗や出産・節句の祝い旗等、日本国内で現在までも広く使用されているものであり、特定の政治的・差別的主張である等の指摘は当たらない。政府として、韓国を含め国際社会に向けて、旭日旗の掲示が政治的宣伝にならないという考えを累次の機会に説明しており、今後ともそうした説明を継続していきたいと考えている。」と。「戦艦大和型 主砲砲弾」。「記念艦 三笠の由来」案内板。「記念艦 三笠の由来三笠は1904年(明治37年)2月に始まった日露戦争において、東郷大将が率いる連合艦隊の旗艦として、終始敵の集中砲火の中で奮戦し、同年8月10日の黄海海戦では露国東洋艦隊に大打撃を与え、遂に1905年(明治38年)5月27日の日本海海戦では、遠来のバルチック艦隊を全滅させる遺功をたてた日本海軍の代表的な軍艦であります。日本海海戦の大勝利は、世界史の流れを大きく変えたと言われますが、この偉業を成し遂げた日本民族の誇りと自身を新たにするとともに、その栄光を永く後世に伝えるために、その「シンボル」として、三笠は1926年(大正15年)以来収蔵する多数の記念品とともに、ここ白浜海岸に保存され、多くの人に親しまれてきました。要目排水量 15,140トン 全長 132メートル 幅 23メートル 軸馬力 15,000 HP速力 18ノット 砲 30cm x 4 15cm x 14 8cm x 20 発射管 45cm x 4」「世界三大記念館「三笠」記念艦三笠は1902年にイギリスで竣工しました。日露戦争では、東郷平八郎司令長官が乗艦し、連合艦隊の旗艦として日本海海戦でバルチック艦隊に勝利した後、1926年に記念艦として横須賀に保存されました。旅行サイト「トリップアドバイザー」2020年度日本全国博物館トップ2 0にも選出されています。世界三大記念艦「三笠」は、ルートミュージアムのサテライト施設でもあります。」「昭和五十ニ年市制施行七十周年記念 横須賀風物百選 記念艦三笠」碑「日本遺産 鎮守府・横須賀・呉・佐世保・舞浜 ~日本近代化の躍動を体感できるまち~ 記念艦三笠」碑「主砲砲身伏見宮恭王殿下(当時少佐)砲台長としてご奮戦の後部主砲の右砲身の一部です。明治37年(1904)8月10日の黄海海戦で被弾し破損脱落したものです。」日露戦争時の「ロシヤの主砲砲弾」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.27
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船首方向からドックゲート方向に向かい、ドックの底に降りる白く塗装された鉄骨階段を利用して進む。鉄骨階段途中から、船首方向を見る。鉄骨階段からドッグのフランス積みの赤レンガ壁を見る。壁も階段状になっており、足場として利用したのであろう。浦賀ドックを象徴する施設の一つてあった大型のタワークレーンも、近年までアーム部分が取り外れた状態で残されていたが、現在は撤去されて、クレーンが移動していたレールのみとなっているのであった。正面に「盤木」が並ぶ。盤木は、鉄筋コンクリートと、樫と松の木から成り立っているとのこと。盤木はドックに入る船の形により配置を変える。図面を見ながらそれぞれの船に合わせて変えていくという大変な作業が窺えるのであった。移動にはフォークリフトやクレーンを使うため、爪やワイヤを掛ける穴が開いいるのだと。精密に並べられた盤木の穴を覗くと、はるか先の盤木まで見通すことができるのであった。盤木に近づいて。延長されたという船首方向を見る。船首方向をズームして。船首部分の上部歩廊は鉄骨製。振り返って、ドックゲート方向を見る。昇降用の鉄骨階段の近くの壁は、レンガ積みではなくコンクリート構造となっていた。鉄骨製階段を上りながら、コンクリート壁には、ドック内の海水移送用の配管が確認できた。ズームして。ドック底部の四角い開口は海水移送用のポンプに繋がっているようであった。ドックゲートとその上部の連絡歩廊を見る。右手奥の房総半島をズームして。千葉県館山市の館山港の裏側の山々であろうか?「川間ドック」方向を見る。現在の「川間ドック」をGoogle Earth より。ドライドックだが、ゲートが取り払われているので、海水が入っているのだ。よってドックの底は水の中で見えない。長さ136.7m、幅16.4m、深さ9.7m とネットより。「川間ドック」内にクルーザーが停泊している写真をネットから。そして「浦賀ドック」👈️リンク のドックゲート上部の連絡歩廊より、「浦賀の渡船」👈️リンクが確認できた。「ポンポン船」の愛称で親しまれ、浦賀のシンボルになっている渡船は、港に隔てられた東西の浦賀の町を行き来する人にとって、大切な交通手段であると。この渡し舟は、浦賀に奉行所が設置されて間もない享保10年(1725年)ごろから記録に登場しているとのこと。現在も時刻表は無く、渡船が対岸にいるときは、呼び出しボタンを押すと、すぐに来てくれるのだと。約3分ほどの船旅ですが、浦賀造船所跡地に建つクレーンやドックを海から眺めることができるのだと。約3分で対岸に着くという船旅。この渡し舟の航路は「浦賀海道」と名付けられ、全国でも珍しい水上の横須賀市道(2073号線)になっていると。全長9.5m、朱色を基調にした船体で毎日この「浦賀海道」を往復している。この「愛宕丸(あたごまる)」、名前の由来は西浦賀町にある愛宕山から来ている。船が機械船になったのは昭和37年以降のことで、以前は「伝馬船(てんません)」と呼ばれる櫓(ろ)こぎの船であった。現在の愛宕丸は2代目で平成10年の浦賀渡船120周年を機に就航している。この船のデザインは、かつて「御座船(ござぶね)」と呼ばれた東叶神社の祭礼の際に御輿を運んだ船をモチーフにしているのだと。料金 大人:400円、小・中学生:200円。営業時間 朝7時から夕方5時まで。約3分ほどの船旅●であるが、歩く●と30分以上かかるのだと。ワイヤー牽引機のハンセン減速機。ドックゲート上部の連絡歩廊を渡る。ドックゲート上部の連絡歩廊から船首方向を。この1号ドックは修理専用で、船を建造していたわけではない と。ありません。海水移送用の配管、水中ポンプ。ここのドックゲートは「フラップゲート」とも呼ばれていると。内外の水位差で水密性を保つことが出来ると。海水面との差がよく理解できるのであった。ワイヤーロープ牽引装置・ウィンチ。「船台」の案内。船台(せんだい)。造船所で船体を建造・修理する場所と設備。ふつう水辺に直角に造られ、進水に適当な角度で水辺に向けて傾斜をつけ、後端部は相当深く水中に延長して、開閉可能の扉を設け、進水時には船尾の浮揚を早めるため水を入れる。数万tの船殻(せんこく)重量に耐え得るように堅固に造り、中心線上にキールをおく竜骨盤木(ばんぎ)、両側に腹盤木、支柱を備える。「マンモス船台完成昭和33年総額10億円、1年3か月工事作業者のべ105,000人」と。「1984年2月15日、皇太子殿下(現上皇陛下)ご臨席のもと美智子妃殿下(現上皇后)が支綱切断(しこうせつだん)により、浦賀工場にて、練習船「日本丸」の進水式が行われた。」「練習帆船「日本丸」(2代目) 別名:太平洋の白鳥総トン数: 2 , 5 7 0トン全長 : 1 1 0. 0 9 mマスト高:約4 5 m航海速カ: 1 3 . 2ノット実習生定員: 120名姉妺船 :海王丸別名 :海の貴婦人「浦賀・追浜百年の航跡」より転載」2代目「日本丸」の写真をネットから。対岸の住友重機械工業の工場跡地(横須賀市西浦賀)にあった「ライオンズヒルズ横須賀浦賀」。18~22階建てのマンション8棟(計約2500戸)と。優しく親切に説明下さいました。手前には船を係留する黄色の杭は「係船柱(けいせんちゅう)」・「ボラード(bollard」と呼ばれると。係船柱は、桟橋や埠頭などに設置され、船舶をワイヤーやロープで係留するために使用されるのだ。台風で屋根が飛んでしまったというポンプ室。ポンプ室にあった海水排水用の縦軸斜流ポンプ。「護衛艦たかなみ起工:2004年4月25日就役:2003年3月12日排水量:6300トン(満載)全長:151m全幅:17.4m」明治30年に設立され106年余の伝統を誇るその浦賀ドックが、浦賀にぺリーが来航して150周年に当たる2003年、その歴史に幕を閉じることになり、快晴の3月12日最後の建造船となった海上自衛隊の「護衛艦たかなみ」の引き渡し式が盛大に行われたのだと。「護衛艦たかなみ」👈️リンク の勇姿。「機関工場」案内パネル。「機関工場」は、エンジンの組み立てなどを担っていた代表的な建物。2003年に閉鎖された浦賀ドックでは、15年に一部工場が解体され、2019年11月から機関工場が老朽化のため解体されたのだ と。「浦賀船渠(株)」。そして「浦賀ドック」の見学を終え、バスに戻り昼食会場に向かって進んだのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.26
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この日は2024年2月26日 (月)、 横浜発 浦賀ドック【世界に4か所しか現存しない造船所跡】見学と軍港めぐりYOKOSUKAクルージングツアーに元同僚2人と参加しました。横浜駅中央南改札口に9:30に集合し、ツアーの出発場所に向かう。 途中、道に迷ったがが定刻の9:50に集合場所に到着し、大型バスで出発。参加人数は合計10人と極めて少人数。横浜横須賀道路に向かって進む。左手に「横浜ランドマークタワー」。首都高速神奈川1号横羽線を進む。前方に「富士山」の姿が現れた。「首都高速神奈川3号狩場線」を進む。横横道路方面に。「六ツ川料金所六ッ川料金所(むつかわりょうきんじょ)」を通過。「六ツ川料金所」から横浜横須賀道路に入り横須賀方面へ。「佐原」ICで「横浜横須賀道路」を降り、国道134号をJR久里浜駅方向に進む。「尻こすり坂通り」と書かれた道路標識。1853年、開国を求めにアメリカからやってきたペリーが初めて日本の地を踏んだのが、現在の横須賀市久里浜。ペリー上陸の地から車で5分ほど、国道134号線沿いに「尻こすり坂通り」という標識が掲げられていた。急坂のため荷車を押して坂を通ると、荷車の後部が擦れてしまうことから名付けられたという。「尻こすり坂通り」の全長は約3.3km。そしてこの日の最初の見学場所「浦賀ドック」に到着。バスを降りると、前方に造船所跡の巨大な構造物とクレーン(一部解体)が目の前に。ここは、一世紀以上にわたって約1,000隻にのぼる艦船等を造り続けてきた住友重機械工業株式会社旧浦賀工場の跡地。平成15年(2003)に閉鎖されるまで、日本丸や海王丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦などの船がこの造船所で建造され、街で働く人たちでにぎわったのだ。『レンガ造り』のドライドック(明治32年(1899)建造)を見られるのは国内で唯一ここだけとのこと。令和3年(2021)にドックを含む周辺部について住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄贈されたのであった。ドックサイドに現在も残る唯一のクレーンを見る。クレーンには「浦賀船渠(うらがせんきょ) 昭和20年6月 7T」と書かれた銘板が掲げられていた。終戦2ヶ月前の昭和20年6月に設置されたクレーンなのであった。浦賀船渠(うらがせんきょ)👈️リンク は、神奈川県横須賀市浦賀地区にあった造船所。通称浦賀ドック。日本海軍の駆逐艦建造で有名である。太平洋戦争後も艦艇の建造が続けられたが、2003年(平成15年)に閉鎖された。2021年(令和3年)3月に、施設及び周辺部が住友重機械工業から横須賀市に無償で寄付されたと。現在の社名「住友重機械工業株式会社」は、昭和四十四年(1969)に浦賀船渠(株)にはじまる浦賀重工業(株)と合併してからのもの。正面にクレーン用のレールが残されていた。造船マンたちにも、このレールを敷く作業はなかなか難しかったとみえ、レールの敷設工事にはJRマン(旧国鉄の技術者)の技術を借りることがあったと聞いた。クレーンが数十トンの鋼材をつり下げて高所へ運び上げる際に、下のレールの数ミリの誤差によって大きな事故が起きることのないようにと、細心の注意を払って敷設作業を行っていたのだと。レールの先には「浦賀ドック」の建造物が拡がっていた。控室入口には「URAGA DOCK HOUSE」と。そして、説明員の方の案内で「浦賀ドック」の見学開始。浦賀ドック(浦賀レンガドック、住友重機械工業浦賀工場)は、1899年(明治32年)から1世紀以上に亘って約1 , 000隻以上の船舶の製造や修理を行ってきた、世界に4か所しか現存しない(諸説あり)とされるレンガ積み「ドライドック」の一つ。「ドライドック(乾ドック)」とは、船体の検査や修理などのために水を抜くことができるドック。船渠(せんきょ)、乾船渠(かんせんきょ)とも呼ばれるのだ。レンガ積みドライドックは、国内では同じ浦賀工リアにある川間ドックと浦賀ドックだけしかなく、明治期の産業革命の技術や歴史を知るうえで、貴重な近代化遺産。なお、川間ドックはマリーナとして利用されているため、海とドックを隔てる門が撤去され、常時海水が満たされた状態である。そのため、保存状態は浦賀ドックのほうが良好とのこと。浦賀ドックの寸法は長さは約180m、幅は約28.2m、深さは約10m。創建時の規模は長さ約148m、幅約18(下部)~21(上部)m、深さ約10mであったと。船舶の修理・メンテナンス用のドライドック。フランス人技師による設計で、レンガの長手の小口を交互に積み重ねる「フランス積み」という技法で造られている。海とドックを隔てる門・ドッグゲート(扉船式)の方向を見る。ズームして。中央に「船台(せんだい)」が並ぶ。船体を水から上げることは「上架(じょうか)」と呼ばれ、その際に船体を載せる台は「船台(せんだい)」と呼ばれるのである。以下 ネットから「浦賀船渠株式会社 第1号船渠設計図」。明治31年3月設計 担任技師 杉浦栄次郎「ドックの構造1.レンガ 船渠側壁・底部用:約130万個 (上等焼過レンガ等を愛知県安城市の岡田煉瓦製造所創業者 岡田氏から購人) 船渠裏込用:約85万個 (久比里・久我氏から購人)2.セメント 外国産(イギリス・ドイツ) 総量1430.6 t ( 8,300樽) ※1樽380ポンド入3.石 相州産堅石と割栗石 総量 約1377m34.ドックゲート(扉船式) 当初国内製を採用予定だったが、物価高騰によりイギリスから購入ドックの大きさ1.長さ: 148m (488.140尺)2.渠ロの幅:上部21m (70.290尺) 下部18m (59.070尺)3.深さ(渠口) : 10m (33.660尺)」「明治三十一年四月起工 明治三十ニ年十一月竣工 担任技師 杉浦学次郎」私が生まれた1950年代の浦賀ドック全景。◯部分が今回見学した「第1号ドック」。浦賀ドックの歴史案内。①ドック底を収めた写真②参画した咸臨丸フェスティバルでは、機関工場横にステージを設置し、地元中学校の 吹奏楽コンサートなどが多数開かれた。③ドックゲート部を掘削中の写真。⑤練習帆船 日本丸の進水式で、支綱切断を美智子妃殿下(当時)が行われた。④レンガドック建造中の写真。 現在ドックがある場所にはもともと山があり、建造にあたり山を人の手で切り崩し現在の形が 出来上がった。⑥レンガドックの改造工事図面。明治32年の竣工時点で 全長148m、最大幅28.2m、深さ82mであったが、昭和58年に28mの延長が工事行われた。⑦明治33年に軍艦 「吾妻」がドックへ入った(入渠)ときの写真。左奥に見える煙突を持った建物はポンプ所で、 ポンプが格納されている地下部分は現在も当時のまま残っている。「浦賀ドック120年あゆみ」。船首方向を見る。船の大型化が進み、船首部分は昭和58年に28m延長されたと。ズームして。桜の蕾はまだ固かった。「浦賀ドック(住重旧浦賀工場1号ドック)浦賀駅の目の前に広がる工場跡地は、かって住友重機械工業株式会社浦賀工場でした。1 8 9 6 (明治29 )年に浦賀船渠株式会社が創設され、浦賀ドックが建造されました。2003 (平成1 5 )年に閉鎖されるまで、一世紀以上にわたって帆船日本丸をはじめ、青函連絡船・護衛艦など多くの艦船を建造・修理してきました。ドックの底まで見学できる総煉瓦造りのドライドックは国内で唯一ここだけです。」船首方向からドックゲート方向を見る。全長180mあると。船渠側の壁にはフランス積みのレンガ壁が。右手には、この後にドック底部まで降りた白く塗られた鉄骨製階段が見えた。「横須賀 浦賀レンガドック PHOTO SPOT~浦賀レンガドックと写真を撮ろう~」「浦賀船渠(うらがせんきょ)昭和20年6月 7T」と書かれたクレーンを振り返って。近代化遺産の宿命とも言えるのが、施設の老朽化。使用されなくなった建造物や機械は、ほとんどメンテナンスされなくなることから、老朽化が加速していく。ここ浦賀ドックも例外ではなく、放置することで危険をともなう施設は、解体や撤去されていっているのだ。浦賀ドックを象徴する施設の一つてあった大型のタワークレーンも、近年までアーム部分が取り外された状態で残されていたが、現在は撤去されて、クレーンが移動していたレールとわずかな部品を残すのみとなっているのであった。説明員の方から「ドライドックの仕組み」についての説明が。船舶・艦船をドックに入渠(にゅうきょ)させる前に、まず盤木と呼ばれる支えを構築しなければならない と。その後に扉を閉じて海水をドックに入れる。そして外部海面と同じになったら扉を開け船が入渠(船がドックに入ること)する。そしてポンプにて海水を抜く。盤木を設置することで、ドックが排水された後でも艦船を直立させておくことが可能となる。船体の形状に合ったものを設置する。いわば、船の模型を置くための台のようなものをつくるのである。盤木の材質はコンクリート、鉄、木などである。盤木の一例を紹介したページがネットに有ったので紹介します。下記の写真に示す盤木は、鉄筋コンクリートと、樫と松の木から成り立っています。盤木とタッチする船体形状に合わせて、硬い樫と柔らかい松を組み合わせて使います。船体が盤木全体とタッチする場合は、松を船体にあてその下に樫を敷きます。船体が盤木の一部分にだけタッチする場合、船体には樫をあて、その下に松を敷くことによりクッション性を保ちます。当社で使用している盤木の重量はおよそ 2~3.5ton ほどで、フォークリフトの爪やワイヤーを鉄筋コンクリート部分にあいている 2 つの穴に通して移動させます (写真 1 参照)。一船の盤木をセットするのにかかる時間は、船底がフラットな船であれば 1~2 日ですが、曲がり部が多くかつ精度が要求される船の場合は 4~5 日かかることもあります。当社には修繕で様々な船が入渠しますので,各々の船型にあわせた盤木配置とする必要があります。大型のタンカーやバルカーの場合,船底のフラットな部分にだけ盤木を配置しますが、曲がり部が多い船はほとんどの盤木が曲がり部に配置されます。下記写真2に盤木配置の一例を紹介します。きれいな船型になっていて、まるで船体に優しいベッドのようです。このような曲がり部が多い盤木配置の場合、盤木の高さ調整等の苦労があるようです。スタビライザー、シーチェスト、ボトムプラグ、ソナードームなど、盤木が当たってはいけないものには注意が必要です。かなり以前の話ですが、改造で船底に追加設置されたソナーが船渠係に手渡された図面に反映されていなかったために、船体と盤木との間でソナーがサンドイッチになったことがあるそうです。ベッドは体に合ったものでないといけないように、体の状況 (船体の状況) はしく伝えないと怪我につながります と。写真2スタビライザー、ソナードームの位置の紹介パネル。スタビライザー: 船底近くの両舷に魚のひれ(Fin)のような金属板が突き出しており、船の 揺れに対応して航行時の水流に対する角度が自動的に調整され、この時生じる 揚力によって揺れを最小限に抑えるよう働く。船体に沿って流れる水流を 利用しているため、船速が早ければ効果は強く、遅ければ弱く現れ、船が停止 すれば全く効果を失うソナードーム: 軍艦ではバルバス・バウの内部にソナードームを備えた艦艇が多数存在する。 主に敵潜水艦の位置や動きを把握するために使用される軍用ソナーを配置する 場所として、船首部水中にあって大きな球状のバルバス・バウはうってつけで あるためである。すぐ近くを通る県道に鉄粉や塗料が飛ばないようネットを張るための柱であったと。現在は半分ほどの長さに切断されていると。切断面には草たちが元気に生えていた。手前の2台の装置は、船舶が真っ直ぐにドックに入渠するように制御する装置であると。こちらも入渠時に船舶をワイヤーで牽引する際の巻き上げ装置・ウィンチであろうか。ドックに海水が満たされている時の写真。牽引装置・ウィンチ。再びクレーンを見る。今回の説明員の方。浦賀奉行所の与力、中嶌三郎助。1853(嘉永6)年の黒船来航時、浦賀奉行所与力の中島三郎助はペリー側の「最高位の役人以外とは面会しない」との強固な姿勢に対し、同行した役人を「副奉行である」と嘘をつき黒船に最初に乗船した日本人です。中島は、大砲などの装備を探るため、ちょこまかと動きまわるのでペリー側の記録には「大胆で出しゃばりしつこく詮索好き」と残されています。しかし、その行動は、西洋型軍艦鳳凰丸の建造に大いに役立ちました。その後、勝海舟・榎本武揚らとともに長崎の海軍伝習所へ派遣され、江戸に戻ってからは海軍操練所教授方として後輩の指導にあたり、海国日本の造船・操船の第一人者となりました。戊辰戦争で函館五稜郭にて新政府軍を迎え撃ちますが武運尽き、ふたりの子供ともども壮絶な死を遂げました。再びドックゲート部方向を、その先には浦賀湾が。再び右側の船渠側の壁にもフランス積みのレンガ壁が。反対側をズームして。レンガ積みの説明。浦賀ドックは「フランス積み」で施工されていると。フランス積みは、長手と小口を交互に並べていく方式。正面から見ると、長さが違うレンガが順番に並んでいます。積み上げていくと、長手の中央部分に小口がくる規則性もフランス積みの見た目の特徴。フランス積みには、小口のみ長時間加熱する「鼻黒(はなぐろ)」という技法があると。加熱することで独特な色合いが出て、長手との濃淡の差から「外観を最も美しく見せる積み方」として、明治初期頃、洋風の建造物に多く使用されて来たとのこと。また、フランス積みで知られる方式ですが、発祥の地がフランドル地方とされているため、正式名称は「フランドル積み」、または「フレミッシュ積み」と言うのだと。フランス積みの耐久度建造物に多く用いられてきたフランス積みですが、その後日本に登場したイギリス積みの方が耐久度に優れているとされ、徐々に衰退していったとされています。しかし、明治後期以降もフランス積みを用いた建物は残っています。イギリス積みは、レンガの長手(長い面)だけの段、小口(短い面)だけの段を交互に積み上げる方式。イギリス積みは、土木構造物や鉄道の橋梁などでよく見られる。日本では時代的にフランス積みよりも後に採用された積み方であるとのこと。ネットからの写真。 ・・・つづく・・・
2024.03.25
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「伊豆の国市」のホテルに1泊し朝を迎えたこの日は、伊豆・河津桜へ向かう。国道414号をひたすら南下し、「旧天城トンネル」に立ち寄ることにする。「水生地下駐車場」先を左折し、「天城路・踊子歩道」👈️リンク に車で入る。「踊子歩道 総合案内踊子歩道は、小説「伊豆の踊子」の舞台となった天城路を歩く、「浄蓮の滝」から「湯ケ野」までの約18.5kmのコースです。東海道三島宿から下田へと続く古くからの伊豆の主要道であった下田街道をたどることができます。今でも小説に描かれた当時を偲ぶ道標や天城隧道(旧天城トンネル)や宗太郎杉並木などの見どころがそのまま残っており、四季折々の自然、温泉、歴史文化を楽しめます。踊子歩道は整備された歩道ですが、距離が長いので自分の体力に合った無理のない計画をたてたうえでお楽しみください。」踊子歩道 地図。そして狭い「踊子歩道」しばらく進むと、カーブの先にあったのが苔生した「川端康成の碑」。1981(昭和56)年に天城山隧道に向かう旧下田街道沿いの林のなかに建てられた。二つに切り左右を少しずらしてつけた巨大な自然石に「伊豆の踊子」の冒頭部分と川端のレリーフがはめ込まれていたのであった。名作『伊豆の踊子』誕生秘話川端康成は、一高生であった大正7年(1918年・106年前)、20歳の時に初めて伊豆へ旅をした。修善寺から湯ケ野へ向かう道すがら、旅芸人の一行と出会い、14歳の踊子が川端に好意を寄せていく。その時の体験を綴った『湯ケ野での思ひ出』が、のちに不朽の名作『伊豆の踊子』となる。踊子歩道には今も、彼が目にしたのと同じつづら折りの道や杉林、旧天城トンネルなどの風景が点在するのであった。この踊子歩道は平成27年に新日本歩く道紀行『文化の道100選』にも選ばれている。踊子の面影を追って、名作の詩情あふれる旧天城街道を進んだのであった。「伊豆の踊子道がつづら折りになっていよいよ天城峠に近づいたと思うころ、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた 川端康成」と。川端康成の名作『伊豆の踊子』の書き出しである。この石碑は自筆によるものと。「川端康成」のレリーフ。斜めから。「踊子歩道」から見上げて。その先の急カーブの場所にあったのが「日本の道 100選」碑。「日本の道100選」👈️リンク は、1986年に8月10日が「道の日」と制定されたことを記念し選定された104本の道路。建設省と「道の日」実行委員会によって1986年度(昭和61年度)に歴史性および親愛性を基準に53本、次に1987年度(昭和62年度)に美観性および機動性を基準に51本の道路が選定されたと ネットから。「道 日本の道100選 天城路 昭和61年8月10日」と。手前にあった各種案内板。「遊歩道と国有林歩道の案内図湯ヶ島国有林この一帯の国有林は、昭和天皇在位50周年を記念して昭和52年3月に「昭和の森・天城山自然休養林」に指定されました。八丁池やブナの原生林、「伊豆の踊り子」で名高い天城隧道や狩野川源流など、優れた景勝に恵まれており、国立公園第2・3種特別地域及び水源かん養・保健保安林の重複指定も受けています。森林のもつ癒し効果を求めて訪れるハイカーや登山者は多く、遊歩道のほか、国有林も利用されています。当署では、森林の快適性増進効果をより多くの方に味わっていただくため、生活環境保全林整備事業として周辺の整備を行いました。 林野庁 伊豆森林管理署」「富士箱根伊豆国立公園 踊子歩道」案内板。ここにも「踊子歩道 総合案内踊子歩道は、小説「伊豆の踊子」の舞台となった天城路を歩く、「浄蓮の滝」から「湯ケ野」までの約18.5kmのコースです。東海道三島宿から下田へと続く古くからの伊豆の主要道であった下田街道をたどることができます。今でも小説に描かれた当時を偲ぶ道標や天城隧道(旧天城トンネル)や宗太郎杉並木などの見どころがそのまま残っており、四季折々の自然、温泉、歴史文化を楽しめます。踊子歩道は整備された歩道ですが、距離が長いので自分の体力に合った無理のない計画をたてたうえでお楽しみください。」。「踊子歩道全体図・周辺図」。「湯ヶ島国有林」案内板」。「八丁池」案内板。「八丁池」の写真をネットから。八丁池は標高1,173mにある池で、以前は天城火口の火口湖とされていましたが、最近の調査で湖と断層のズレに水がたまって出来た池であることがわかりました。周囲がスズタケに覆われていたことから別名 「アオスズの池」とも呼ばれ、「モリアオガエル」の産卵地としても知られています。池の名の由来は周囲が八丁(870㍍)あるところから名付けられた と。※実際には560m程度、この場所から歩いて、4.8km、3時間以上かかるようであった。近くにある「水生池」からの水の流れはなかった。苔生した四阿風の休憩場所。「熊出没注意「令和5年10月20日河津町の梨本国有林内にてツキノワグマが捕獲され、放獣されました。入山の際にはご注意ください。 昭和の森・天城山自然休養林管理運営協会」と。「旧天城トンネル」まで1.0kmと。そして「旧天城トンネル」北入口の手前右側にあった石像は「江藤延男追慕碑」。天城山での遭難者救助のために、昭和38年に設立された「天城を守る会」の初代会長との事。天城山中では、昭和32 (1957) 年12月、満州国皇帝溥儀の姪の愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)と、同級生大久保武道が、ピストル自殺を遂げた事件が起こった。このことが、「天城山心中」、「天国に結ぶ恋」とマスコミに騒がれたことで、天城山にやってきて自殺する男女が多く、その捜索活動もしていたと。環境省の地域環境保全功労で大臣賞も受賞。『昭和の森』で定期的に自然観察会を続けるとともに、学校や地域住民への環境教育にも力を注いだ人物であると。近づいて。「江藤延男追慕之碑」。そして正面に「旧天城トンネル(天城山隧道)」の北口が現れた。「旧天城トンネル北口園地こは「旧天城トンネル北ロ園地」です。トンネル辺には、天城の豊かな自然を満喫する様々なコースがあります。これよりトンネル横を登って行くと、数々の自然歩道の分岐点でもある「天城峠」へと出ます。峠を左へ行けば「八丁池」へ、右へ行けば「ニ本杉」を経て「仁科峠」へと続いています。事前計画を十分にたててから利用してください。」トイレ休憩を。冬季には利用できないようであった。入口に近づいて。「天城山隧道」と。入口左側の石碑、そして案内板。「重要文化財 天城山隧道天城湯ヶ島町湯ケ島河津町梨本この隧道(トンネル)は下田街道の改良工事の一環として、明治三十四年(一九○一)に貫通、同三十七年に完成した。全長四四五.五メートル、幅員四.一メートル、トンネル両端の坑門及び内部全体が切石積で造られ、川端康成の小説「伊豆の踊子」をはじめ多くの文学作品に登場するトンネルとして広く親しまれている。平成十三年六月十五日、わが国に現存する石造道路隧道の中で、最大長を有する土木構造物で、技術的完成度が高く、明治期を代表する隧道であるとして、道路隧道としては全国で初めて重要文化財に指定された。平成十三年十二月建立 静岡県」「天城山隧道天城山隧道(田方郡天城湯ヶ島町~賀茂郡河津町)ー天城湯ヶ島町と河津町をつなぐトンネルである。陸の弧島を嘆く南伊豆の人達の熱い思いによって、総工費10万3,016円の巨費を投じて明治38(1905)年に開通した。地元上河津村では1万2,361円余(実際には郡費補助の名目で賀茂郡が支出)を負担した。さらにトンネルまでの道路工事費も1万円余を負担した。このトンネルの完成によって北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮し、難所の天城越えは解消した。延長 446.00m幅員 3.50m有効高 3.50m標高 708.74m」日本の道100選( 昭和61年8月)登録有形文化財(平成10年9月)重要文化財(平成13年6月)「切り石巻工法工事は石巻といって、石を積み上げていくエ法で施工され、石は、大仁町吉田地区の吉田石が使われた。」標準横断断面図すると、入口で準備中の工事関係者の方から、この「天城山隧道」は工事中であり、隧道を出た所から通行止めになっているとのこと。今日は隧道内の電気工事のため、隧道内の照明は消える可能性もあると。よって慌てて車に戻り「天城山隧道」👈️リンク の中に入ったのであった。静岡県伊豆市と、河津町を結ぶ国道414号(旧道)のトンネルで、1900年(明治33年)に起工、1904年(明治37年)に竣工、1905年(明治38年)に開通しました。全長は445.5メートルで、トンネル壁面や入口アーチなどはすべて切り石で作られています。現存する石造トンネルでは国内最長であるとのこと。1998年(平成10年)に国の登録有形文化財に登録された(登録名「旧天城隧道」)。その後、2001年(平成13年)に「天城山隧道」の名称で道路トンネルとして初めて、国の重要文化財(建造物)に指定された。※この指定にともない登録有形文化財としての登録は抹消された と。ズームして。工事は石を積み上げていく「切り石巻」工法で施工されていることが確認できたのであった。設定を変えて。工事は石巻といって、石を積み上げていくエ法で施工され、石は、大仁町吉田地区の吉田石が使われたのだと。路面に近い石は、上方の石と比較して表面の粗さが目立っていると感じたのであった。南側出口が大きくなって来た。そして出口へ。天城トンネル南入口の先で駐車。「登録有形文化財旧天城隧道この隧道(トンネル)は、明治三十八年に築造され、川端康成作「伊豆の踊り子」のトンネルとして広く親しまれている。トンネル入口や馬蹄形をしたトンネル本体とともに総石造構造のものは珍しく重厚な構えとなっている。明治末期を代表するこのトンネルは、国土の歴史的景観に寄与しているとして、平成十年九月二十五日 有形文化財に登録された。 平成十ニ年三月二十四日建立 静岡県」「登録有形文化財 第22-0013この建造物は貴重な国民的財産です。文化庁」旧天城隧道の南側入口を望む。「踊子歩道 案内図」。「全面通行止め」のお知らせ国道414号(旧道)寒天橋から天城山隧道(河津川入口)まで。伊豆市側(水生地下)からは天城山隧道は通れます。天城山隧道を通り抜けた駐車場でUターンできます。そして河津川方向へは全面通行止め。そして我々も引き返して、「旧天城隧道」を通過し、来た道をひたすら引き返したのであった。そして伊豆市側(水生地下)からは天城山隧道は通れます。天城山隧道を通り抜けた駐車場でUターンできます。 との表示があったのだ。ハングルの案内板も置かれていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.18
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第1展望台からの眺め。清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。流量も年間を通してほぼ一定を保っていると。水が地下から湧き出しているところがハッキリ見える「わき間」👈️リンク が湧き出る様子は感動的!。こちらにも。過去の仕事から砂濾過器の逆洗時の濾材表面の状況を想い出す。 ズームして。再び第1展望台から柿田川の流れを。いつまでも見ていたい光景なのであった。「第1展望台」。公園案内図。現在位置はここ!!再び「火山がもたらす柿田川の湧水約10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士火山が誕生しました。富士火山は、約1万年前を境に新富士火丘と古富士火山に分けられています。新富士火山がはしまったばかリの約1万年前の噴火では、愛鷹山と箱根にはさまれた谷を大量の溶岩が流れ下り、現在地付近まて到達しました。三島駅周辺に露出する「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は、柿田川付近ではその後の土砂などによって地下数10mに埋もれています。富士山の雪解け水や雨は、亀裂やすき問の多い新富士火山の溶岩や火山灰の中にしみ込み、水を通しにくい古富土火山などの地層の上を地下水として流れ下ります。三島溶岩の中を流れてきた地下水は、溶岩の末端に近い三島付近から柿田川にかけて豊富な水をもたらしています。」自然石に彫られた「柿田川公園」。 ここにも「柿田川公園 案内図」。「柿田川公園 見どころ紹介柿田川(国指定天然記念物)市街地のまん中で、こっ然と湧き出した水は、集まって川幅30 ~ 50メートル、延長約1,200メートルの河川となって、伊豆天城山を源とする狩野川と合流します。柿田川の水は、豊富な水量に加えて、水温は15℃と夏も冬もほぼ一定を保っています。水質もきわめてよく、静岡県東部地域の飲料水・工業用水として大切な水源となっています。水が地下から突然湧き出して、そのまま河川となっている柿田川は、その流域に豊かな自然環境をつくり、貴重な生態系を維持しています。」「おすすめ見どころコース」が紹介されていた。「清水町内のジオポイント」「柿田川公園建設の記柿田川は、富士山の雪溶け水が無数の湧水群を形成し、千古の昔から・・・」池に水や噴水はなく。池の先に石碑が見えた。石碑に近づいて。「柿田川讃歌」「天地のゆたけき 心ここにあり この富士の山 この柿田川」と刻まれていた。「太古よりこの豊けさにここに湧く泉頭に今日も息呑む若鮎とあまごの群れか影なしていま湧水の釜に近づく水霞は見る見る消えて沈透きたる川藻さ緑になびきつつあり日日に湧く百二十万トンこの水を護りて永久に傳へざらめや 利雄」「作者紹介大悟法 利雄(1898~1990)歌人 若山牧水記念館初代館長柿田川をこよなく愛し、その感動を「柿田川讃歌」40首に詠んだ。」「大悟法利雄大悟法利雄 略歴歌人、大分県生まれ。明治31年12月生まれ、平成2年11月没。享年91歳。大悟法利雄氏は、大正1 1年に沼津で初めて若山牧水に出会い、以後牧水の高弟、助手として牧水宅に同居し『創作』や『詩歌時代』の編集助手として青年期を沼津で過ごしました。牧水没後は、『牧水全集』の編集をはじめ『若山牧水伝』『牧水新研究』等、数多くの著書を出版して師の顕彰に努め、沼津市若山牧水記念館の初代館長に就任するなど、牧水研究家として不減の業績を残す傍ら、自身も『翼』「伊豆』『薔薇の散歩』等の歌集12冊を発行しています。氏は晩年、しばしば柿田川を手漕ぎの船で遡行、湧水噴出のさまをつぶさに観察し、その美しさに感銘を受け、「人里の秘境」と称し、「柿田川讃歌」40首 (歌集『飛魚とぶ』に所収)を詠み、人々にその素晴らしさを広めました。大悟法利雄 略年譜以下 略」「柿田川讃歌抄①太古よりこの豊けさにここに湧く泉頭(いづみがしら)にけふも息呑む②日日に湧く百二十万トンこの水を護りて永久(とは)に伝へざらめや③若鮎とあまごの群か影なしていま湧水の釜に近づく④静もるやまた湧き立ちて黒々と砂の躍れるここの湧釜⑤さ緑に白玉の小花ちりばめてしづきつつそよぐ三島梅花藻⑥水靄は見る見る消えてしづきたる川藻さ緑に靡きつつあり⑦川とんぼ一つ草葉に想ひたる姿にも見るこの川の味⑧若葉のなかみなぎり走る柿田川を思ひつつ寝しゆゑの夢らし⑨ここよりは靡き見えねどしづきつつ続く川藻のとりどりの色⑩妻つれて必ず来むぞこの川に影映しつつ富十晴るる日に⑪山翡翠(やませみ)を時に見るとふこの川にせめてとわれは翡翠(かはせみ)を待つ⑫ひとすぢの雪糸引きて夏の朝の富士ま上なり柿田川の富士⑬今朝時れし柿田川の富士見せましと起きぬけのわれを友のみちびく⑭遂に師は知り給はざりき湧水(わきみづ)のみなぎり走るこの柿田川⑮天地(あめつち)のゆたけき心ここにありこの富士の山この柿田川」地図の番号はそれぞれ短歌を詠んだ場所を示しています。柿田川公園案内図その先にあったのが「泉頭城(いずみがしらじょう)」案内板。「泉頭城泉頭城は柿田川の水源地泉頭に築かれた戦国時代(15 ~ 16世紀)の城郭です。城或は東西400m、南北500mあり、ニノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これをとり囲んで北ノ曲輪、東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪、小郭(おぐるわ)、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に堂ノロ出丸が築かれています。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空掘で防禦されており、土橋と木橋で結ばれていました。この城は戦国時代の終り頃には小田原後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目をはたしていました。永禄12(1569 )年後北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津三枚橋城や清水町の戸倉城、三島の伊豆徳倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵攻に備えました。天正8 (1580)年武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに高橋、市南の足軽大将が各々百騎づゝ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していました。天正9(1581)年戸倉城が武田軍に降参すると泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手によって焼き払われてしまいました。天正18 (1590)年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は韮山城と山中城へ引上げました。元和元(1615)年徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め家臣土井利勝、本多正純に、隠居御殿の城を造営することを命じましたが、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更されました。その後城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく残っていたということです。現在、城址の一部は柿田川公園として多くの人々に親しまれています。」「泉頭城復元見取図」。現在地はここ。「泉頭城址」と。国道1号・三島バイパス沿いにあった「柿田川湧水群」案内板。そして次に、豆腐料理店「食事処かわせみ本館」を訪ねた。案内図。「食事処 かわせみ本館」。「高野ニ三」像。近づいて。「高野ニ三(胸像人物)明治十六年、福井県今立町の和紙漉きの家に生まれました。製紙に適した水を求めて富士山麓を探索し、柿田川の水が最適であると決め昭和六年当地に高野製紙所を設立しました。現在の町営駐車場の場所に高野製紙所があり境川から水を引き柿田川に井戸を掘り、汲み上げた水で特殊な紙(海図・壁・襖などに使う和紙)を作り、作られた和紙は施設内にある蔵に保存されていました。 昭和十五年十一月ニ十日建設」「高野ニ三の母屋」。「高野ニ三の母屋この建物は昭和十ニ年高野ニ三がこの地に製紙会社を設立に当たり住居として建てられました。高野ニ三の生誕地が福井県のため使われている木材はすべて福井県産を使用し職人も呼び寄せ越前の風土に適した構造で建築されました。一、ニ〇〇坪の庭園には茶窒も設けられています。」「柿田川豆腐館」・「名物 とうふアイスクリーム」。「とうふアイスクリーム」。「キッチンかわせみ」。富士山の恵みである柿田川百年水豆腐の料理が楽しめると。「cafe lirio」案内板。人形の猫が。「家康が求めた幻の隠居所泉頭城址泉頭城は、北条氏が柿田川上流部東側の自然の川を堀として利用し、築城したといわれているが、豊臣秀吉の小田原攻めのときに廃城となった。徳川家康は、親しみのあったこの泉頭の地を、側近の以心崇伝が記した『本光国師日記』にも記載されているように、元和元年(1615年)の年末に隠居場所として決定した。しかし、家康が縄張リのためにこの地を訪問する予定まで決まっていたにもかかわらず、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更された。現在、域址の一部は柿田川公園として多くの人々に親しまれている。柿田川は、1985年(昭和60年)に「名水百選」に選ばれ、2011年(平成23年)には「国指定天然記念物」に指定された。」「稲荷大神」。扁額「稲荷大神」。社殿。柿田川の水汲み場。幹が黒い竹の姿が。「黒竹(くろちく)」であっただろうか。「クロチクは、イネ科マダケ属の常緑タケ類。 桿の直径は2~3センチほどで、高さは3~5メートルほどになる。 桿ははじめ緑色で、夏を過ぎるとだんだん黒くなり、2年ほどで真っ黒になる。 60~120年周期で開花をする。 そのため滅多に見ることが出来ない。 日当りのよい乾燥地では鮮やかな黒色となる。」とウィキペディアより。そして駐車場に戻り、再び河津桜を。そして、この日の宿のある伊豆の国市に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・
2024.03.17
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「三保の松原」を後にして、この日の最後の目的地の静岡県三島市内にある「柿田川湧水群」に向かって進む。富士由比バイパスを利用して「薩埵峠展望台」手前下から富士山を望む。現在、「薩埵峠」への旧東海道は崖崩れ?の影響で、通行止めになっているとのことで、この日は訪ねるのを諦めたのであった。そして更に1時間ほど走り「柿田川公園 町営駐車場」に到着し、「柿田川湧水群」の散策開始。駐車場脇の河津桜を見る。時間は16:30。ズームして。「伊豆箱根ユネスコ世界ジオパークへようこそ南から来た火山の贈りもの本州で唯一、フィリピン海プレート上に位置する伊豆半島は、かっては南洋にあった火山島や海底火山の集まりでした。この海底火山群は、プレートとともに北上し、本州に衝突して半島になりました。約60万年前のできごとです。伊豆半島では、現在も火山活動や地殻変動が続いており、これによって豊かな温泉や湧水などの恵み、変化に富んた地形をもつ魅力的な半島が形作られています。海と陸の記億を刻み込んだこの伊豆半島で、大地からの恵みである美しい景色や食、温泉、文化といった、たくさんの「贈りもの」を楽しんでみませんか?」「柿田川公園の見どころ」案内板。現在地はここ。「JR三島駅」の南、国道1号・三島バイパス沿いにあった。柿田川公園内の拡大地図。現在地はここ。ここにも「柿田川公園案内図こちらからのコース(青矢印)は、上り板のコースとなります。「湧水の道」内を通り、公園内を散策するルート(赤矢印)をお勧めします。」木道「八つ橋」を「貴船神社」の方向かって進む。八つ橋公園の散策路として利用されています。また八つ橋から柿田川中流の優雅な流れを見ることができ、ここでも豊富な湧水を感じることができるのであった。「湧水ゾーン」に向かって進む。「湧水」は「spring water」と思っていたが「crossing」?「天然記念物 柿田川説明源は約40km北方の富士山に降った雨や雪である。これらが地下水となり三島溶岩流の間を長い年月(十数年といわれる)を経て流れ、ほほ無菌で適度にミネラルを含む、日本有数のすばらしい湧水となり、ここに湧き出している。概要全長約1.2km、狩野川と合流し、駿河湾に注ぐ。全川全て湧水。湧水量約10 0万トン/日。湧水口は数十ヶ所、主として上中流部に集中する。静岡県東部(沼津市、三島市、熱海市、函南町、清水町)の飲料水。水質pH7.2、色度0、濁度0、溶存酸素9.5前後、電気伝導度約14ms/m、水温年間15度C前後。動植物の特徴1.陸上~水辺~水中に至る連続した植物相が見られる。2.街中を流れる清流で、流域はケヤキ、エノキ、ヤプニッケイ、ヤブツバキ、シイ等の 温帯性広葉樹林に囲まれ、清流にしか生息しないホタル等の昆虫、アユ等の魚類、かつて 田園地帯に見られたハンノキ、トウカイタンポポ、セリ等、市街地から消えつつある動植物が 多数見られる。3.貴重な動植物 ミシマバイカモ、オオアカウキクサ、ヒンジモ、ニホンカワヂシャ、 ナガエミクリ、カワセミ、ヤマセミ、ゲンジボタル、ヘイケボタル、アオハダトンボ、 ホトケドジョウ、ウツセミカジカ、アマゴ。 カキダヒメトビケラ等の新種の水生昆虫も発見されている。 柿田川湧水群は世界に誇る貴重な湧水河川です。 湧水や動植物を保護し、後世にこの貴重な自然を残していきましよう。 公益財団法人 柿田川みどりのトラスト」「柿田川」の川岸に出る。「柿田川」の中央付近から湧水が川面から吹き出していた。「湧き間」公園内においても大小さまざまな湧き間を見ることができますが、通称船付場と呼ばれる湧き間にはかって製紙会社が使用していた2つの井戸の跡からきれいな水が湧いているのであった。ズームして。20数年?を経て地下から湧き出して来ているのだと。さらに。レンガ積みの水路用トンネルが前方に。かつての製紙工場の跡地ということだが、現在は国道1号沿いに突然現れた森林公園といった雰囲気の場所。トンネル手前にはフエンスと扉が設置されていた。安全対策であろうか?案内板が多くの場所に。「八つ橋」・「湧水広場」案内板。「湧水広場」を見る。夏になると水遊びを楽しむ親子連れでにぎわうと。「水五訓一、自ら活動して他を動かしむるは水なり。二.常に己の進路を求めて止まざるは水なり三.障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり四.自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり五.洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり 雪と変じ霰(あられ)と化し凝(ぎょう)しては玲瓏(れいろう) たる鏡となりたえるも其(その)性を失はざるは水なり 貴布禰総本社 貴船神社宮司 和大書水というものを通して、人間としての生き方を教えてくれる言葉です。一が伝えたいことは、「率先垂範せよ」ということ。水は自らが動くことで周りのものを動かし、運んでいきます。人間も、自らは何もしないままで、ああしろ、こうしろと言っても、誰も動くはずがありません。自ら模範を示すことによって周囲を牽引する人になってください。二が伝えたいことは、「自ら考えて道を拓くことを心がけよ」ということ。水はどんな環境の中でもその流れを止めることなく動いていきます。何か失敗をした時に、周りのせいにしていませんか?自ら考え、努力することで道を切り拓いていく人になってください。三が伝えたいことは、「あきらめることからはなにも生まれない」ということ。順調な水の流れもダムという壁によってさえぎられることもあります。そんな時は、その力を満々と内に蓄えます。蓄積された力があるからこそ、解放された時に巨大なエネルギーを発揮できるからです。困難に直面して、自分の可能性をあきらめてしまってはいけません。苦しい時もじっと耐えて努力を続けていけば、大きな力となってかえってきます。四が伝えたいことは、「人を追いやることをせずに共に頑張ろう」ということ。学校や社会にはさまざまな価値観を持つ人が集まっています。感覚、リズム、方法、価値観の合わない人を排除するのではなく、「長所をみつけてそれを生かす」ことをまず考えましょう。川は、脇から濁った水が注がれてきても、「入ってくるな」とか「出ていけ」とは言いません。さまざまな水を一つにまとめ、大きな目的に向かって集約してゆくような、そんな度量を持つ人になってください。五が伝えたいことは、「常に自然の理(ことわり)にそって物事を考えよ」ということ。水は温度の変化、器の形によって次々と自らの形を変えます。しかし、その本質は一切変化することがありません。我々人間もまた、変化に対応するのに常に柔軟でなければいけません。与えられた環境の中でいかにして最大の努力を行えるかが大切です とネットから。そして「貴船神社」の石鳥居。「貴船神社所在 清水町伏見泉頭古来、泉川の清冽な湧水にちなみ京都市貴船川上流深山幽谷の地にある貴船神社から御霊分けされたものである。祭神は高龗神(たかおかみの神)で水の神である。この神は祈雨、止雨の神で雨の少ない時は雨を降らし、雨の多い時はこれを止めるあらたかな神である。又、本宮は縁結びの神としても世に広く知られている。尚、この地は戦国時代に北条氏が造った泉頭城西の丸にあたる。」「貴船神社」の参道を進む。狛犬が迎えてくれた。参道は「えんむすび通り」と呼ばれているようです。訪れた方々に良縁を授けるという言い伝えから、「ふじのくにエンゼルパワースポット」に登録されているとのこと。「案内板」と「石碑」。「清水町 貴船神社この神社は、京都貴船神社本宮の分社です。水の神様ですが、「恋を祈る神」縁結びの神としても知られています。石碑の上の白の丸い石「おむすび」に触れると良縁に恵まれると、言われております。 清水町貴船神社奉賛会」「手水舎」。「二の鳥居」。社号標石「貴船神社」。前方に「社殿」。「参拝者 各位お供え物は、御心のみとし、ご持参いただきました。品物は、環境保全の為、お持ち帰り下さいますようお願い申し上げます。 清水町貴船神社奉賛会」社殿の内陣。引き返して「一の鳥居」を境内側から。「柿田川天然記念物指定記念」、「平成二十三年十二月吉日 寄進 ・・・」と。「第2展望台」入口には通行止と。「柿田川公園「第2展望台」通行止めのお知らせ日頃より清水町公園行政にご理解とご協力をいただきありがとうございます。柿田川公園第2展望台へ続く階段の破損に伴い緊急工事を下記のとおり行います。なお、工事期間中は、階段を閉鎖するため第2展望台の見学ができなくなります。来園者の皆様には、ご迷惑をおかけいたしますが、安全に通行するため必要な工事でありますので、ご理解とご協力をお願いいたします.工事箇所 柿田川公園 第2展望台階段工事期間 令和6年2月13日(火)から令和6年2月16日(金)まで( 4日間)その他 工事期間中は、第2展望台の見学ができなくなります. 第2展望台への迂回ルート等はございません. 天候によりエ事期間が変更となる場合がありますのでご承知ください。」「第2展望台■第2展望台からの眺望 ここの湧き水は、昔、紡績工場が井戸として利用していたものです。日の光と砂が思わぬ 水の色を作り出しています。一定の水温を保ち、水位もほとんど変わらないため、手付かずの 河川の姿を今日まで残しています。■柿田川湧水のしくみ 都市河川でありながら、比類のない水質を誇る柿田川は、富士山系の伏流水てす。約8500年 前の富土山の大爆発で大量の溶岩がこの柿田川の上流まできました。 「三島溶岩流」と名付けられたこの溶岩は、多孔質層で水を通しやすいという特徴をもって います。その下の古富士火山の表層が水を通しにくいという特徴があるため、富士山周辺に 降った雨や雪が三島溶岩流の問を地下水となって流下します。約40キロ離れた清水町の 国道1号の直下から、こんこんと湧き出る水量は、1日約100万トンと推定されます。」下記は以前に訪ねた時の写真、キャプションです。こちらのわき間は感激のエメラルドブルー。超神秘的な色合いに感激。わき間の水面には周囲の樹林が映り鏡の如し。まさに水鏡。昔の紡績工場が使用していた井戸の跡とのこと。公園内の最強パワースポットだそうです。「公園案内図対岸に見える施設は静岡県企業局(駿豆水道)と沼津市水道の施設であり、清水町全域及び近隣市町である沼津市、三島市、熱海市、函南町にも20万人以上の飲料水として送られています。柿田川は、「21世紀に残したい日本の自然百選」(昭和58年)、「日本の名水百選」(昭和60年)、「国指定天然記念第」(平成23年)などに選定されました。しかし、この川の周辺にも宅地化の波が押しよせ、このまま放置すれば、川を保護・保全する事が極めて困難となると懸念されました。このため町では、「自然の保護・保全」と「コミュニティ広場の確保」を目的に"柿田川公園"づくりを進め、昭和61年4月、町民憩いの場として、柿田川公園が開園しました。公園の整備は今後も続け、すべての整備が完了するまでには大きな経費と長い歳月が必要になりますが、町では着実に進めてまいります。自然のすばらしさを学ぶ場、自然を守る心を養う場として、柿田川の自然を後世に残していきたいものです。■柿田川で見られる生物淡黄色の花が、梅の花に似ているので、この名前・ミシマバイカモがつきました。水の汚染に敏感で、柿田川でも中・上流部にしか生息していません。柿田川を代表する植物の一つで、清涼な湧水中の砂地に根を下ろしています。花の咲く時期は、一般に5月から9月頃ですが、柿田川では一年中咲きます。三島市の楽寿園小浜池で発見されました。かつては、三島市内の河川などにも見られましたが姿を消し、柿田川は平面群落として残る准ーの場所となっています。(カワセミの)頭は緑色で青い小斑点があり、体は青緑色とオレンジ色をしています:渓流の翡翠(ヒスイ)と呼ばれる美しい鳥です。水辺の木の枝から、あるいはホバリングから、水中に落下して魚を捕らえて食べます。カワセミは、清水町の町の鳥として制定されています。」対岸に見える施設は静岡県企業局(駿豆水道)と沼津市水道の施設。「霊峰富士の名水柿田川 守りつゞけて 子や孫に」「第1展望台」に向かって進む。母子像。「第1展望台」。ここは柿田川の最上流部です。富士山など上流に降った雪や雨が地下水となって国道下から忽然と湧き出る、大小数十箇所のわき間を見ることができます。また、12月には遡上してきたアユなども見ることができます。■柿田川湧水のしくみ富士山周辺に降った雪や雨が地下に浸透し、柿田川に湧き水として湧き出しています。この湧き出す期間は、諸説ありますが、国土交通省のトリチウム濃度の分析によると26 ~ 28年という推定値が出ています。■柿田川で見られる生物(アユは)清流に住むアユ科の淡水魚で、全長は約30cmに達します。体は流線型で脂びれをもっています。川にさかのぼって来た成魚は1m2ほどのなわばりを作り、川底の石に付着した藻類を食べて生きています。」「火山がもたらす柿田川の湧水約10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士火山が誕生しました。富士火山は、約1万年前を境に新富士火山と古富士火山に分けられています。新富士火山がはじまったばかりの約1万年前の噴火では、愛鷹山と箱根にはさまれた谷を大量の溶岩が流れ下り、現在地付近まで到達しました。三島駅周辺に露出する「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は、柿田川付近ではその後の土砂などによって地下数10mに埋もれています。富士山の雪解け水や雨は、亀裂やすき間の多い新富土火山の溶岩や火山灰の中にしみ込み、溶岩の水を通しにくい古富土火山などの地層の上を地下水として流れ下ります。三島溶岩の中を流れてきた地下水は、溶岩の末端に近い三島付近から柿田川にかけて豊富な湧水をもたらしています。」「天然記念物 柿田川湧水群源は約40km北方の富士山に降った雨や雪である。これらが地下水となり三島溶岩流の間を長い年月(十数年といわれる)を経て流れ、ほぼ無菌で適度にミネラルを含む、日本有数のすばらしい湧水となり、ここに湧き出している。全長 約1200m、狩野川と合流し、駿河湾に注ぐ。水質 pH7.2、色度0、濁度0、溶存酸素9.5前後、電気伝導度約14ms/m、水温年間15℃前後特長1.全川全て湧水。湧水量約120万トン/日。湧水口は数十ヶ所、主として上中流部の集中。2.陸上~水辺~水中に至る連続した植物相が見られる。3.都会の清流 流域はケヤキ、エノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、シイ等の豊かな温帯性 広葉樹林に囲まれ、清流にしか生息しないホタル等の昆虫、アユ等の魚類、かつて田園地帯に 見られたハンノキ、トウカイタンポポ、セリ等、市街地から消えつつある動植物が多数見られる。4.貴重な動植物 ミシマバイカモ、オオアカウキウサ、ヒンジモ、ニホンカワヂシャ、ナガエミクリ、 カワセミ、ヤマセミ、ゲンジボタル、ヘイケボタル、アオハダトンボ、ホトケドジョウ、 ウツセミカジカ、アマゴ。カキダヒメトビゲラ等の新種の水生昆虫も発見されている。5.静岡県東部(沼津市、三島市、熱海市、函南町、清水町)約35万人の飲料水。 柿田川湧水群は世界に誇る貴重な湧水河川です。湧水や動植物を保護し、後世にこの貴重な自然を 残していきましょう。 公益財団法人 柿田川みどりのトラスト」「未来へ残そう柿田川の自然 清水町」。「日本の自然・100選柿田川湧水群 清水町殿」。「名水百選」認定書名水の名称 柿田川湧水群所在地 静岡県駿東郡清水町「静岡の自然100選 認定書柿田川湧水群 清水町殿」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.16
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安倍川餅を楽しんだ後は2019年3月オープンの「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」を訪ねた。「「みほしるべ」とは三保松原の玄関口の施設として、名勝及び世界文化遺産「富士山ー信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産としての価値や魅力、松原保全の大切さをわかりやすくガイダンスし、後世に継承する役割を担っています。これまで三保松原が芸術の創造にインスピレーションを与えてきたように、世界中から訪れる方と地元住民との交流を通し、三保松原で新しい文化の創造につながるような活動を行っていく未来志向の施設を目指しています。施設名の山来この名前には、「三保を知る」、「道しるべ」という、2つの意味があります。来訪者の皆様にここで三保の歴史文化やマツのことを知っていただき、富士山と松原の美しい景観へご案内する場所として機能し、また、未来に向けて松原を保全し文化を創造する道筋を示す場所となるように、との意味を込めました。三保松原の価値や魅力の発信、保全活動の国内外への発信を通して、三保松原を次世代に引き継ぐとともに、新たに世界中から三保松原を訪れる人たちや地元住民との交流を通し、三保松原における文化的な価値と自然的な価値を融合させ、磨き上げた新たな魅力ある「三保松原文化」を作っていきたいと願いが込められています。」とネットから。「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」のフロアガイド「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」入口。松原と館をつなぐ渡り廊下。見事な木材による天井部分。展示コーナー・「全国の身近な松原展」に近づいて。「全国の”名勝”松原名勝とは、文化財の種類の一つで、庭園や海浜、山岳などのうち、芸術上または鑑賞上価値の高いものです。大正11年3月8日に日本で初めての名勝として「三保松原」と「天橋立」が指定されその後全国で5か所の海沿いの松原が名勝に指定されています。12月10日の「松原フォーラム・才の木トークカフェ」では、この7ケ所の松原の関係者が集まり、海沿いの松原の美しい景観を未来に引き継ぐための方策について議論します。」高田松原(岩手県陸前高田市)昭和15年(1940)11月13日指定東北地方稀ニ見ル壯大優美ナル松原ニシテ前ニ廣田灣ヲ控ヘ後ニ氷上山、雷神山等ノ翠巒ヲ繞ラシ山紫水明ノー勝區ヲ成セリ 樹種ハ黒松ヲ主トシ林相整美 樹下荊棘ノ繁茂スルモノナク境地清淨ニシテ林内ノ逍遙ニ適ス「気比の松原(福井県敦賀市)昭和3年(1928)6月28日指定敦賀湾ニ面シ前方ハ黒松多ク 後方ハ赤松ヨリ成リ樹勢の美ナルモノ少ナカラズ北陸地方著名の松原ナリ。気比の松原が、松くい虫の被害等によりマツ林が袞退しつつあり、防災林機能の低下等が危惧されたことから、平成25年3月に、後世に引き継ぐべき貴重な財産として松原の適正な保全管理に資することを目的に、学識経験者、地元関係団体、行政機関等の多様な主体の協力の下、「気比の松原100年構想」を策定しました.その後、福井森林管理署による松くい虫被害の防除に加え、各主体が連携しながら松原の保全活動を継続して行っています。特に、市民参加型の保全活動ては、毎年、近隣の小中学校・高校の児童・生徒の皆さんと松葉かきや外来植物の駆除を実施しています。」「天橋立(京都府宮津市)大正11年(1922)3月8日指定昭和27年(1952)11月22日特別指定」宮津湾内ニ在リ其ノ砂嘴江尾ヨリ南々西ニ互リテ突出スルコト約二十三四町殆ト文珠ノ地ニ接シテ宮津湾ト内湾トヲ分チ幅廣キ處約二丁世狹キ處ハ一丁ニ滿タス内湾ニ於ケル砂嘴トシテ唯一ノモノナリ加フルニ白砂青松ノ美景ヲ以テス磯清水神社及智恩寺ノ境内ハ全体ノ風景ヨリ分ツヘカラサルモノニ属ス成相山上部ノ郡有山林ニハ地ヲ拓キテ小亭ヲ設ケタルアリ天橋ヲ望ムニ好適ノ地點ナリトス宮津湾内にあり、江尻より南々西殆んと文珠の切戸まで長さ約3600m幅約15mの砂嘴を示して内湾を抱く。砂嘴は白砂青松をなし、成相山の中腹傘松からの展望は特にすぐれた美観を呈する。古くからわが国の詩歌文章にあらわれ、日本三景の一としてひろく知られている。「慶野松原(兵庫県南あわじ市)昭和3年(1928)10月13日指定」淡路島の西岸、播麿灘に面する、南北1km,最大幅60mの海浜とその松原。起源は中世と見られるが、文献上の初見は寛文年間(1661〜72)である。江戸時代の松原は藩の所有として育成がはかられたが,明治維新に伴って一旦官有林となり,やがて民有林として払い下げられた。第二次世界大戦下では陸軍省の管轄となり、燃料用の新炭材として用いられたほか、食糧増産のために開墾され、江戸時代の規模が大きく損なわれた。淡路ノ西部松帆浦ニアリ瀬戸内海ニ臨メル一帶ノ松原ニシテ老松枝ヲ交ヘ其ノ景觀虹ノ松原ニ彷彿タリ北方五色浜ニ接シ南方雁來崎ヲ望ミ風光明媚近畿地方ニ於ケル松原トシテ優秀ナルモノナリ「入野松原(高知県黒潮町)昭和3年(1928)2月17日指定」土佐ノ西南部太平洋岸ノ砂丘ニアリ延長三十町西方蹉 岬ノ諸山ヲ望ミ東方井ノ岬ニ対シ海山ノ風光ヲ一眸ノ中ニ収ム四國ニ於ケル屈指ノ松原ナリ「虹の松原(佐賀県唐津市)大正15年(1926)10月27日指定昭和30年(1955)3月24日特別指定玄海灘ノ波濤ニ浸サレ古来歌詠ニ入リテ著名ナル松浦潟ノ弯曲自ラ弧状ヲ成セル海洋線ニ連リ青松白砂ノ一帶唐津浜崎両町竝鏡村ニ亘レルモノナリ、海岸線ノ形虹ニ似タルヲ以テ其ノ名ヲ負フ松林トシテハ数百年経タル老松ヲ始メ穉松ニ至ルマデ生意旺盛ニシテ枝柯根幹盤屈趣ヲ成セルモノ多ク砂丘トシテ亦屈折ナリ鮮明ナル弧線ヲ成スヲ以テ其ノ主要ナル特色トナシ斯ノ種砂丘松林ノ九州ニ於ケル代表的ノモノナリ」静岡新聞「富士山 世界文化遺産 三保松原含め登録」。2013年6月22日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は、山梨県と静岡県にまたがる富士山を世界文化遺産に登録することを決定した。登録には、イコモスが除外を求めていた静岡県の「三保松原」も含む形となった。世界文化遺産への登録理由は、富士山が山岳信仰の対象であり、歴史的な側面からも浮世絵など多くの芸術作品に描かれるなど、芸術文化を育んだ山として高い評価を受けたこと。日本国内での世界遺産登録は富士山が17件目で、2011年に岩手県の平泉が世界文化遺産に、東京都の小笠原諸島が世界自然遺産に登録されて以来2年ぶりだ と。「みほしるべ2階展示室」へ。松の標本や顕微鏡、松を使った楽器など松原に関する展示があった。左窓側にあった「ギャラリー」。「三保の航空写真」近づいて。2階の展示コーナーへ。こちらのコーナーでは、縄文時代から現在までの三保の歴史年表が展示されていた。三保ではかって海苔や真珠の養殖が盛んだったことや、明治20年から昭和16年頃まで多くの人々がアメリカに渡航したため、「アメリカ村」といわれた時代があったことなど、興味深歴史のトビックが紹介されていた。「三保の歴史年表縄文時代から現在までに至る三保の歴史をまとめた年表も展示されていた。近づいて。2階展示室の内容は好奇心をくすぐるものが多く、普段なら見ることのない地中に埋まった松の根の展示が。『龍の松』と呼ばれる巨大な松の断面も展示されており、数人が座れるほどの大きさに圧倒されたのであった。江戸時代中期からの歴史を刻む『龍の松』。樹木の年輪の幅や木材の成分から、当時の環境について情報を得る学問を樹木年輪年代学という。「龍の松」は根元部分は腐らずにほぼ芯まで年輪が残っていたため、その歴史は江戸時代までさかのぼることができた。「松原の地下をのぞいてみよう三保半島は、駿河湾岸を漂う砂と小石が長い年月をへて堆積してできた"砂嘴(さし) "であり、どこを掘っても砂(土壌分類名に"砂質未熟土"とよぶ)である。この土壌は常に乾いた状態で、養分も非常に乏しい。この厳しい環境下でクロマツは、まるで砂を鷲づかみにするように、地面と車直方向あるいは水平方向に太い根を伸ばし、菌根菌と共生して限られた水分や養分を得ている。垂直のみならず水平根をしっかり張ることにより樹高も高くなり、防風効果の高い松原を形成できる。」標本「根つき土壌剥ぎ取り標本」「マツ材線虫病対策」「松原を維持するために」「マツ材線虫病対策」「松原を維持するために」「松と日本文化」「三保松原の松」1階の「通り土間」に再び戻る。第10回「富士山写真コンテスト」入賞作品が展示されていた。最優秀賞「駿河路」最優秀賞「駿河路」小松 啓示静岡県と一目でわかる新茶の畑の造形と、富士山を青空と組み合わせて駿河の富士山を表現しました。「心の色」ASANKA GUNARATHNA 人間の感情は多様で、一人一人の心は異なります。ある人は感情豊かで柔らかい心を持ち、他の人は感情を表にせず固い感情を持ち個人差があります。遠くに見える富士山と周囲の石の柱はこの差を表すだろう。「二人だけの富士山」島川 一 「極寒の山伏山頂、大雲海の日の出」下田 隆「虹と燃える富士」入賞「虹と燃える富士」鈴木泰信早朝に富士山が赤く輝く時間があります。そのタイミングに合わせて虹が出ました。急いで広角レンズに変更して撮影した一枚です。「富士と富士」入賞「富士と富士」辻森章浩寝台特急富士にあたえられた、富士山のテールマーク。冬の富士山と共演する数少ない構図でどうしても写しておきたく、最高の条件で撮れるまで通いました。「天の川と登山者の灯り」入賞「天の川と登山者の灯り」能澤 昌弘富士宮ロ五合目から第1火口縁までナイトハイキングをしている途中、登山者の灯りと天の川の美しさに感動し、シャッターを押しました。「夫婦岩と王冠富士」入賞「夫婦岩と王冠富士」 峰岸 昭子 1O年前から、こちらからのダイヤモンド富士をずっと狙っていました。ちょうど娘夫婦が10年前の今日、6月30日三重で夫婦になった日で、結婚10周年を迎えた日でした。その後のIO年後に、こちらの夫婦岩で初めて夢が叶い、ダイヤモンド富士を撮ることができました。6月30日、娘夫婦に結婚10周年と私が夫婦岩で、初めてダイヤモンド富士が撮れ、夢が叶った日になりおめでたがニつになりました。富士山まで、200km先のこちらからのダイヤモンド富士は、10年に一度くらいしか撮れないと言われています。改めてこのダイヤモンド富士が撮れて一年経ち、条件の良い日に出会えたことに感謝しております。この一枚は、一生の宝物になりました。「精進湖秋景」渡辺 英基「みほしるべ 静岡市三保松原文化創造センター」浮世絵が並ぶ。「六十余州名所図会 駿河 三保のまつ原」嘉永6年(1853)広重晩年の作品であり、日本六十余州の国々の名所をくまなく描いた全七十図の一図。縦長の画面に中景から遠景を重ねた俯瞰構図に加え、前景の三保半島を短縮法的に斜めに配置することで奥行と広がりを出している。「富士三十六景 駿河三保之松原」安政五年(1858)広重が最晩年に手掛けた富士山を題材にした全三十六図の一図。左奥に富士、右から松原の先端が伸びてくる構図で、広重は松原に近づき、ひときわ富士山を大きく捉えている。縦長の画面に中景から遠景を重ねた俯瞰構図で奥行と広がりを出している。「月百姿 きよみかたそらにも関のあるならば 月をとゝめて三保の松原」月に取材した歴史・巷説・風俗・鳥獣などさまざまな題材で描かれる全百図の一図。内容は能や歌舞伎に基づいた作品も多く、武将や美人画など多肢に渡る。駿河侵攻の際の武田信玄が、三保松原から清見潟を眺めている。信玄の姿は明確に、風景は月の光を浴びて幻想的な雰囲気となっている。「東海道五十三對 江尻 三保の浦羽衣松の由来」幕末期の歌川派を代表する絵師・広重、三代豊国、国芳が筆をとった全五十五図の一図。主題は東海道の風景ではなく、宿場とその地方に伝わる物語や伝説の人物か描かれ、画面の上部の梓内には宿場に関係する歴史古事、狂歌などが記されている。本図は漁師に奪われた羽衣を取り返し、空高く舞い上がる天女の姿が、枠を突き抜けて描かれている。「三保の浦 羽衣松の由来 江尻の東 清水の湊より海濱を廻りて壹里余 三保の洲崎へ至る駿海(しゆんかい)一の名所にして風色世に知る所なり 羽衣松は同所にあり 里言にいふ むかし天人降(くだ)りて松に羽衣をぬき置しを 漁師(れふし)ひろひ取て返さず 天女かりに漁師が妻となり 辛労(くらう)して羽衣を取りかへし 天に帰りしと言傅ふ 羽衣の松 今猶存せり 「東海道名所之内 三保松原」文久三年の十四代将軍徳川家茂の上洛を題材にした全百六十ニ図の一図。三保の松原を描いた作品の中でも、他と異なり富士山が描かれていないことは珍しい。御穂神社と、浜際にしっかりと根を張る羽衣の松、奥に久能山と家茂の行列が描かれている。「雙筆五十三次 江尻 三保の松 羽衣の松」広重初代 豊国三代安政元年(1854) 下部に広重が風景を、上部に役者・美人画で名を馳せた三代豊国が人物を手がけ一枚の作品をかき分けて東海道を描いた全五十五図の一図。この揃物内では唯ー天女が上部に、風旻が下部に配冒されている。天に舞い上がった色鮮やかな天女は鳳凰の尾をつかった羽衣と共に、美しい姿で描かれている。富士山を眼下に望み天へ上る姿は、三保松原の羽衣伝説を見事に描いている。「東海道名所之内 清見寺」文久三年の十四代将軍徳川家茂の上洛を題材にした全百六十二図の一図。興津の清見寺は奈良時代の創建で、かって関所も置かれ、様々な歴史の舞台として名高い場所であった。現在は清見寺から三保松原は見えないが、当時は遮るものが無く三保松原は見下ろせたであろう。清見寺、三保松原、富士山には密接な関係があり、浮世絵はじめ多くの絵画に描かれた。「五十三次名所圖會 十九 江尻 田子の浦 三保の松原」広重の晩年の作品であり、縦の構図で描かれているため「竪絵東海道」とも呼ばれる全五十五図の一図。右手から延びる三保松原と、海上には清水港に出入りする舟か描かれている。対岸には愛鷹連山と雄大な富士が望まれ、手前の浜に描かれた網干と、遠景の富士との三角形が相似形を成している。「東海道名所之内 久能山」文久三年の十四代将軍徳川家茂の上洛を題材にした全百六十ニ図の一図。徳川家康が祀られている久能山東照宮と三保松原が描かれている。久能街道から見た風景であろう。富士山と三保松原の眺望と共に、久能山東照宮へと続く長い石段も描かれている。「東海道五十三次之内 江尻 弥次郎兵衛」東海道の各宿場とともに、宿場から連想される芝居の配役と、その配役に相応しい役者を見立てた全百四十枚以上といわれる揃物の一図。十返舎一九著「東海道中膝栗毛』の登場人物、弥次郎兵衛(中山文五郎)と、背景には広重の「東海道五拾三次之内(保永堂版東海道)」より「江尻 三保遠望」が借用されており、表題は羽衣伝説に登場する「天女の羽衣」に縁取られている。「新たな時代へつなぐ悠久の美三保松原 名勝指定100周年」ポスター。三保松原が誇る「白砂青松と富士山」の美しい景観写真を使用したPRポスター。写真は、静岡市在住の富士山写真家・橋向真氏に、ポスター用に撮影 と。【富士山と笠雲について】富士山は、古代中国の影響により仙人が住むと考えられていました。平安時代前期の漢詩人である都良香(みやこのよしか)が著した『富士山記』では、白衣(びやくえ)の天女が富士山頂で舞う姿が記されています。これは、笠雲や吊るし雲がかかる様子を見立てたものと考えられています。そして外に出て「みほしるべ(静岡市三保松原文化創造センター )」を振り返る。「富士山世界遺産10周年記念新デザイン『天女シズラ』」シズラ(SHIZULLA)清水の「シ」に方言の「ズラ」を合わせた造語。特徴静岡市清水区に生息する恐竜のような架空の生物趣味・・・「コスプレ」特技・・・「変色」と「巨大化」好きなこと・・・「サッカー」と「食べ歩き・飲み歩き」と。横向き立ち姿がひらがなの「し」の字になっているのだと。駐車場に戻る途中、右手奥には石碑と案内板があった。「山梨勝之進詩碑」1877年(明治10年)7月26日 - 1967年(昭和42年)12月17日)は、日本の海軍軍人。海兵25期次席。最終階級は海軍大将。従二位勲一等。 主だった軍歴を軍政部門に歩み、山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐ人と目されていた、いわゆる条約派の1人。また帝国海軍の77名の大将のうち、艦隊司令長官職を経験していない9名のうちの1人である。見やすい写真をネットから。「天女の池(羽車稲荷御神池)の由諸此処は今では海岸砂丘の後退のために埋もれて平地になっておりますが、大昔にはきれいな清水を湛えた池であって、その周囲は麗峰富士を背景にして野鳥をはじめ兎、雉、野鳥が群れ遊び松露をはじめいろいろのきのこの生える松林が茂っていたところでありました。神代に葦原ノ中ッ国を天孫に平和の中にお譲り遊ばされた大国主命即ち三穂津彦命はその妃三穂津姫命を伴い天の日鷲に御同乗になられ遠く出雲の国(島根県)から有度浜即ち三保の洲の羽衣海岸に御降臨になり旅塵をこの池で洗ひ流されたと言はれております。更に又当海岸に安閑天皇の御代に天降った天女が海で水遊びして玉躰の塩気を洗ひ浄めた池でもあると伝えられております。その当座空ばかりみる 三保の海士(あま) (江戸川柳より) 羽衣メルヘンの会長 宮城島重男 昭和61年10月3日」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.15
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「日本平」を後にして、国道150号、県道199号線・三保駒越線を利用して「三保の松原」の駐車場に到着し散策開始。「三保の松原」に向かって進む。「羽衣の松」に向かって松林の中を進む。 「天女に会える、そんな気がする薪能毎年秋に行われる「羽衣まつり」では、能「羽衣」を上演します。「羽衣の松」の前に作られた能台で、かがり火の中、幽玄の世界か繰り広げられます。エレーヌの碑日本の能楽「羽衣」に傾倒したフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスは、1651年7月憧れの三保の松原を見ぬまま、パリで没しました。この碑は、「私の髪をぜひ羽衣の松近くに埋めて欲しい」という遺言により建てられたもので、この碑の下には彼女の遺髪が埋葬されています。羽衣伝説その昔、三保の松原のとある松の枝に美しい衣が掛かっていました。漁夫の伯梁がそれをとって帰ろうとすると、どこからともなく天女が現れ、それは私のものだから返してほしいと言います。それならばなおさら返すわけにはいかないという伯梁に、天女は天に帰れないと嘆き悲しみました。伯梁は天人の舞を見せることを条件に羽衣を返すと、天女は喜んで舞を舞って見せましたが、やがての彼方に消えてしまいました。謡曲「羽衣」より天女「うれしやさては天上に帰らん事を得たり。・・・月宮を廻らす舞曲あり。ただいまここにて 奏しつつ、世の憂き人に伝ふべし さりながら、衣なくてはかなふまじ。さりとてはます 返し給へ。伯梁「いやこの衣を返しなば、舞曲をなさでそのままに、天にや上り給ふべき。天女「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを。伯梁「あら恥ずかしやさらばとて、羽衣を返し与ふれば。・・・「謡曲「羽衣」と三保の松原地上に舞い降りた天女が浜辺の松に掛け忘れた羽衣を漁夫白龍に拾われ、それを返してもらうために天人の舞いを舞うという「羽衣」伝説は日本各地にありますが、駿河国三保ノ松原を舞台としたのが本曲です。そのときの舞が後世に伝わって東遊の駿河舞となったと言われております。謡曲では、天女は漁夫から羽衣を返してもらい、愛鷹山や霊峰富士山を見おろし乍ら昇天してゆきます。そのさまは一幅の絵のようで、能の中でも、最も優れた曲として、多くの人々に愛好されてきました。 謡曲史蹟保存会」「名勝 三保の松原霊峰富士の眺望、絶景をもって天下に識られているここ三保の松原は、遠く万葉歌人に詠歌され、また、日本の伝統芸術である能「羽衣」によって多くの人々に親しまれている名勝地である。大正5(1916)年5月には、日本新三景のひとつに選ばれ記念碑が建っている。四時緑たたえ、東遊の駿河舞を偲ばす。また、欧州各地で「羽衣」を演じ、まだ見ぬ三保の松原にあこがれながら若くして逝ったフランスの舞姫ジュグラリスの碑などが観光客に美しい夢を抱かせる。 国指定名勝 大正十一年三月八日指定 静岡市教育委員会」さらに海岸に向かって進む。「エレーヌの碑」。「羽衣の碑」能「羽衣」に魅せられ、三保松原に憧れつつこの地を訪れることなく亡くなったフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスを記念し、1952年に建立された。このエレーヌの碑(羽衣の碑)には、能面を見つめるエレーヌ夫人のレリーフがはめ込まれ、夫マルセル・ジュグラリス氏が亡き妻に贈った6行のフランス語の詩が刻まれている。「羽衣の松」。「国指定史跡 三保松原 羽衣の松羽衣伝説昔々、三保の村に伯梁という漁師がおりました。ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は「天人の羽衣なら、お返しはできません。」と言いました。すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出しました。伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞ながら、富士の山に沿って天に昇っていきました。」「廬原の 浄見の先の 見穂の浦の 寛けき見つつ 物念ひもなし田口益人(たぐちのますひと)万葉集」「世界遺産 富士山」碑。右側に「羽衣の松周辺案内(老齢大木エリア)」案内板。「世界遺産 富士山」案内板。「世界遺産 富士山信仰の対象と芸術の源泉”富士山-信仰の対象と芸術の源泉”は、「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」のの世界遺産一覧表に登録されています。 2013年6月26日登録人々は噴火を繰り返す富士山を神が宿る山として恐れ敬うとともに、美しく雄大な富士山を詩歌や絵画に描いてきました。このような「信仰の対象」と「芸術の源泉」としての文化的価値を持つ富士山は、全人類共通の保護すべき宝として、2013年6月26日、世界遺産に登録されました。世界遺産として登録された範囲は、山そのものだけではなく、信仰や芸術と関係する山麓の神社や湖・湧水地・滝・松原などの25か所です。」「25/25 三保松原「万葉集」をはじめ、数多くの和歌の歌枕となり、16世紀以降は三保松原と富士山を描いた多くの絵画作品のモチーフとして取り上げられました。また、富士山への登拝の道筋に位置付けられた重要な霊地でもありました。松原、砂浜、海の彼方に富士山が聳える風致景観は極めて日本的な原風景であり、名勝に指定されています。」「ここは羽衣の松」。「新羽衣の松」「三保の松原のシンボルとして長い間愛されて来た先代「羽衣の松」に代わりその後を引き継いだ「新・羽衣の松」平成ニ十ニ年十月に数世紀ぶりの世代交代が行われました。 静岡市」「羽車神社」は、二代目「羽衣の松」の隣に鎮座する御穂神社の離宮。創建年は不詳だが、羽車に乗って三保の浦に降臨した神を国土和平のために御穂神社に鎮座し、離宮として羽車神社が設けられたと伝えられ、江戸時代には羽車磯田社と呼ばれていたという。現在の羽車神社は1956年(昭和31年)の再建。「羽車神社」の社殿。左手には、昭和31年の羽車神社「再建乃碑当羽車神社御祭神は三穂津彦命(大国主命)三穂津姫命の二神を斎き奉るその昔彦神国土を天孫瓊々杵尊に譲り給ひて後みめ麗はしき姫神を大后と定め二神相携へて天の羽車に召され「三保の浦」に鎮坐せられ当社を離宮として設けられたる由古伝に伝ふ爾来特に縁結び歌舞音曲農耕海上安全大漁守護神として海内に尊崇せられ御神木として「羽衣の松」を現存す更に霊峯冨士の眺望は将に天下随一の景観にして近時その風光を賞する者踵接すと雖も当社殿は永く荒廃に任せられたり此の状を痛嘆せし氏子崇敬者有志は御神慮に副ひ奉るべくその再建を謀り大方江湖各位の絶大なる賛同を得て御造営の業終に遂ふ即ち御造営の次第を慎みて茲に誌す。 昭和三十一年八月 羽車神社再建委員会撰文」そして「三保の松原」の海岸から富士山の姿を追う。これぞ世界遺産『富士山と三保の松原』!!。この日は、雲一つない天気ということが幸いして素晴らしい風景を堪能できたのであった。世界遺産に指定されるとコテコテの観光地化されると思いきや…まだまだ、『三保の松原』は大丈夫なのであった。三保松原の海岸からの富士山の姿をジワジワとズームして。有名なビュースポットだが、広がる青空の下、松林越しに山頂から山裾に白き衣を纏った富士の姿は格別なのであった。反対側を振り返って。流木が横たわっていた。東側には伊豆半島の姿が。風が強く白波が押し寄せていた。「羽衣海岸」方向を再び。再び富士山の勇姿をズームして。海岸から松林に戻ると「新三景之碑」があった。大正5年、実業之日本社が、日本新三景を全国に募り、北海道大沼公園、九州耶馬溪と共に三保の松原が選ばれ、これを記念して建てられたのだと。裏側は解読不能。「ここは羽衣の松」。現在地は●。「清見潟 ふじの烟や 消えぬらむ 月影みがく みほのうら波 後鳥羽院(玉葉集)」「土壌をほぐしています」と。平成26年度に「羽衣の松」の樹勢の衰えが確認され、その原因として来訪者の踏圧により形成された土中の固結層(硬く締まった土層)が根や菌根の生育を阻害していることが明らかになったことから、平成28年度より、羽衣の松周辺の老齢大木エリアを対象に、木炭と菌根菌による土壌改良を進めました。令和2年度から、踏圧防止のため木柵による通行ルートを設定し、一部を一方通行として通行部は定期的に土壌のほぐしや穿孔を行い、固結層が再形成しないよう維持管理をしています と。「忘れめや 山路打出て 清見がた はるかに三保の 浦の松原隆祐朝臣(夫木抄)」。そして「お土産処 いちまる水産」にて休憩。「緑茶抹茶付きあべかわ餅とおはぎ」を注文し楽しんだのであった。様々な土産品や食べ物の案内が所狭しと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.14
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「久能山東照宮 神廟」そして「社殿」を後にして、参道を下る。左手に「鼓楼」を見る。そして正面に「楼門」の姿が。「神厩」。「寒桜」。「寒桜」は、カンヒザクラとヤマザクラの雑種と推定されている桜。名前は似ているが、種類は異なる。花は淡紅で一重咲、大きさは中輪。東京での開花時期は例年3月上旬頃だが、名前のとおり、場所によっては1~2月に咲く早咲きの桜だ。そして「楼門」を再び社殿側から見る。中央の「蟇股」。「獏(ばく)」という霊獣。獏の特徴は、熊の身体に、象の鼻、犀の目、牛の尾、虎の脚を持つといわれています。一般には「悪夢を食う」動物として知られ、古くは正月に獏を描いた絵を枕の下に入れて寝ると良い初夢を見るといわれています。『白氏文集(はくしもんじゅう)』という中国唐代の詩文集によると、獏の食料は鉄や銅で、世の中が乱れているときは食料となる鉄や銅が武器になってしまうので、武器を必要としない平和な時代にしか生きることができない動物である、と記されています。平和の象徴ともいうべき獏の彫刻が楼門中央部分に用いられているということは、家康公が神に祀られることによって平和が維持されていることをあらわしていると考えられています。楼門には全部で4体の獏の彫刻があるのだと。右。左。そして「久能山東照宮博物館」まで戻る。「久能山東照宮博物館」は、徳川家康公を御祭神とする久能山東照宮に付属する歴史博物館。収蔵している資料は久能山東照宮に奉納された伝世の宝物中心で、中でも徳川家康公の日常品(手沢品)がまとまっている事、徳川歴代将軍の武器・武具が充実している事が特徴であり、その総数は2,000点を超えるとのこと。「久能山東照宮博物館」入口。この日は、「展示室」👈リンク に入らなかったが、様々な展示品があるとのこと。さらに参道を下る。右側にあったのが「久能山東照宮『司馬温公の甕割り』」案内板。「この絵は中国北栄の政治家、司馬温公の少年時代のお話です。ある日、一に遊んでいた友達が水甕の中に落ちて溺れてしまいました。もう一人の友達はハシゴをかけて助け出そうとします。いっぽう聡朋な司馬少年は「それでは間に合わない!」と、近くの石で甕を割って助け出しました。この故事の彫刻が久能山東照宮拝殿の正面に施されております。御祭神徳川家康が現代の私達へ向けて、「命の尊さ」を説かれているといえるでしょう。」「久能山東照宮博物館」下から「久能海岸」そして「御前崎」が見えた。「史蹟 久能山一、指定年月日 昭和三十四年六月十七日一、指定理由 久能山はおよそ七世紀の頃に開かれ久能忠仁の建立した久能寺、武田信玄の 築城した 久能山城、徳川二代将軍秀忠公の創建した東照宮と、その時代時代の 歴史の変遷の跡を見ることができる。一、久能寺 久能山縁起によれば七世紀ごろに秦氏の久能忠仁が一寺を建て、補陀落山久能寺 とし、久能山と称したと伝えられる。その後平安時代から鎌倉時代にかけて 隆昌を極めたが山麓の失火により山内の殆どの坊寺が焼失した。今川時代には 相当復興した。一、久能山城 永禄十一年(一五六八)一二月武田信玄は、当山が要害であることを知って 寺院を清水北矢部に移し、城砦を築いて久能山城と称した。 天正十年(一五八二)武田氏が滅亡したことで、徳川氏の所有となった。 山上の勘介井戸、愛宕の曲輪寺等は当時を物語るものである。一、東照宮 徳川家康公は、生前久能山城を駿府要害の地なりとして重要視し、且つ風光を 愛せられた。元和二年(一六一六)四月十七日家康公が、駿府(静岡)に歿する ときの遺言により、この地に埋葬され二代将軍秀忠公は、壮麗な権現造りの 社殿を造営した。これが現在の東照宮で十四棟が国宝・重要文化財に指定 されている。」「久能山の植物について一、地質 久能山は、日本平と共に有度丘陵に属し、基部は第三期鮮新世の後期に、海底に堆積した 砂泥層より成り、その上に洪積世に海底で堆積した厚い砕層に被われている。その後に 土地が隆起したり、傾動が行われて独立した丘陵塊が出来た。一、植生 海岸に直面して黒潮の影響で気温が暖かく、従って植生も伊豆紀伊半島等と同じで、 四国九州の南岸まで似たものが多い。植物地理学上で暖帯クスシイ帯に属し、海岸物が 多く侵人して甲信東京以北では見られない色々の草木が見られる。一、種類 約五百種に達する主要木の樹令四百年以上の古木や目通り周囲三米以上の巨木が相当 混生している。 楠、椎、松、杉、樫、ホルトノキ、竹、カクレミノ、モチノキ、ムラサキシキブ、 ヤブニッケイ、イヌマキ、ムクノキ、アオキ、トべラ、ヤツデ、イヌビワ、タブ、 カエデ、クロガネモチ、ツバキ、イズセンリュウ、ツルコウジ、フウトウカズラ、 ツワブキ、ヤブラン、ヒトツバオオイ、タチシダ、オニヤブソテツ、クルマシダ等 落葉樹は割合に少なく常緑樹、蔓植物、下草、シダ類等が多い。 一、珍しい植物 コウヤマキ、ボダイジュ、ビロウ、ハナノキ、ナチメヤシ、ソテツ、ハマユウ、 アメリカデイゴ、マツバラン、ムヨウラン等がある。一、保護 久能山全体は史跡・風致の指定地であり、植物採取は禁止されているので大切に しましよう。 久能山東照宮社務所」「久能山東照宮博物館」下の石垣を左に見るながら下る。その先、左手の広場には建物が。「勘助井戸「勘助井戸」は久能山東照宮の参道沿いに位置しています。案内板によると「甲斐の大名、武田信玄の軍師、山本勘介が掘ったと伝えられる井戸で、およそ33メートルの深さがあります。」とあります。久能山東照宮の境内は平安時代に創建された久能寺があった所で、中世以降は武装化し、城砦となっていました。南北朝時代には南朝方の入江駿河守や中野掃部助が利用し、永禄12年(1569)に武田信玄によって本格的な城郭として大改修し久能山城と呼ばれるようになりました。久能山城は天正10年(1582)に徳川家康に包囲され開城し徳川家の持城となりましたが、武田三名城の1つとして数えられています。この井戸が山本勘介が掘ったものかは不明ですが久能山城の二の丸東隅に位置し重要な井戸だったと思われます。」と。「旧久能山東照宮博物館」。さらに1159段もあるという参道石段を下ると正面に工事用フェンスが現れた。ズームして。「久能山東照宮 一ノ門」が修繕工事中のようであった。「久能山東照宮 一ノ門」の写真をネットから。ネットから。そして我が写真の駿河湾そして奥に伊豆半島。伊豆半島をズームして。引き返して、1159段もあるという参道石段を上り、「久能山東照宮博物館」下の石垣を正面に見る。さらに石段を上って行く。再び「久能海岸」そして「御前崎」をズームして。そして「社務所」まで戻る。「駿府 静岡市 歩いて歴史探訪(江尻宿・興津宿エリア) 17」👈リンク 案内板。様々なお守り、御札が販売されていた。「久能山東照宮の御朱印」を頂きました。そして「日本平ロープウェイ 久能山駅」まで戻る。日本平ロープウェイ にて日本平駅に向かう。 途中、屏風谷、地獄谷と呼ばれる断崖も眼下に広がっていたのであった。巨大な鉄塔支柱の先に、日本平駅の姿が見えて来た。殿様をイメージした横壁が漆黒の「あおい号」と交差。ほぼ満員のようであった。そして日本平駅に到着し下車。巨大な徳川家康の「三葉葵」の家紋とその前に身長159cmであった家康公の姿が。奥には「家康公手形」も。「徳川家康公と海外交流」が東照宮博物館で開催中なのであった。家康公が生きた16~17世紀は、ヨーロッパの列強がキリスト教の教線拡大と植民地を求めた「大航海時代」と呼ばれ、アジアへも進出してきました。アジアにおいても豊臣政権時代の日本は、朝鮮半島への派兵を行いました。慶長12年(1607)朝鮮の使節が日本を訪れ、家康公とも駿府で対面し、国交が回復しました。アジア、ヨーロッパ諸国から多くの外国人が訪れ、貿易も盛んにし、それらの品々は駿府が繁栄するもととなりました。今回の展覧会では、アジア、ヨーロッパ諸国の外国人から家康公への贈り物をの中から、遺愛品を中心に展観します とネットから。そして日本平ロープウェイ駐車場から、再び「日本平デジタルタワー」をズームして。静岡市の消火栓マンホール蓋。久能山東照宮と駿河湾、一富士 二鷹 三ナスビ(折戸ナス)を織り込んだデザインで、「家康公が愛したまち 静岡市」の文字入りの丸型消火栓蓋。そして「日本平公園 東展望台」を訪ねた。全国的にも知られている日本平から、清水の夜景を望むことができます。富士山・清水港・工場の夜景と変化に富んでおり、見ていて飽きない夜景です。かつては、日本平のメイン展望台で、富士山をバックに清水港やエスパルスドリームプラザの観覧車などの夜景を楽しむ人がいました。2018年11月に日本平夢テラスのオープンにより、こちらには人が流れず、人気のない展望台になってしまった とネットから。日本平「はじまりの鐘」が設置されていた。私も「はじまりの鐘」をならして「老化のはじまり」を実感!?「日本平はじまりの鐘「「日本平はじまりの鐘」は、静岡県日本平ロータリークラブが創立50周年を記念し設置しました。ここ日本平は、その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が駿河の地で火攻めに遭いながらも、三種の神器のひとつとされる草薙剣で危機を脱し、この山頂で再起を誓った場所だとされています。数々の苦難を乗り越えて観る日本平からの眺望は、さを見事だったことでしよう。雄大で素晴らしい景色を前に次なるステージへの"はじまり"を誓ったヤマトタケルノミコト。その想いは時を超え、今でもこの日本平の地に残されているに違いない。私たちはそう考え、「はじまり」を誓う際の合図として鐘を鳴らし、決意を新たにする場となることを願い「日本平はじまりの鐘」と命名いたしました。"まじまり"は新たな挑戦に限らず、再挑戦ややり直し、復活なども含みます。くじけそうになったときに再訪し、初心を思い起こす場所として。そして夢や希望が叶った際はヤマトタケルノミコトのように日本平の眺望を改めて感じるために。これからもずっと人々に愛される日本平であることを祈念して。 Rotary 令和3年9月静岡日本平ロータリークラブ寄贈」「日本平からのながめ富士山がもっとも良く見られのは。11月頃から2月頃です。ここは〈東展望台》です。《吟望台》はここから徒歩5分です。《吟望台》からは、よりワイドな眺望が楽しめます。園内の案内図は、この下の1階にこざいます。ここ日本平は標高308メートル。四季折々の姿を豊かに変える富士山を正面にのそみ、眼下に広がる清水港・三保半島・駿河湾などから、遠く伊豆半島の山なみや、南アルプスを見渡す眺めは昼夜と問わず素晴らしく、我が国を代表する景観のひとつです。 日本平県立自然公園運営協議会」そして「日本平公園 東展望台」からの絶景。清水の夜景も美しく人気のスポットであると。伊豆半島に井田、大瀬海水浴場の方向をズームして。「日本平公園 東展望台」を後にして、駐車場方向に向かう。「蝋梅」の花。「日本平登山道開鑿記念碑昭和九年十二月建之 清水市長 大石惠直書」。清水港越しの富士山の勇姿。車に戻り向かったのが「日本平ホテル東照宮(分霊)」。「世界遣産たる富士山、駿河湾から伊豆半島を一望する絶景地日本平に、東照宮が御鎮座されました。全国東照宮の創祀久能山東照宮より、御祭神徳川家康公のご分霊が、芝生公園の東端に創建された御社殿に分祀され「日本平ホテル東照宮」として、ホテル全域に御神慮と御加護を載くことになりました。この名勝日本平に足を運んで頂いた皆様にも益々の御加護が、有りますようとの願いが込められています。ここの御本社であります、国宝久能山東照宮も、日本平に隣接する久能山に御鎖座されていますので、ご参拝されますことをお勧め致します。※日本平ホテル東照宮の敷地縁石は、静岡市葵区にある駿府城の外堀に使用されていた石積みの 一部を、補修工事の際に譲り受け、移設したものです。 平成二十五年十二月十七日」そして日本平の最後に訪ねたのが「日本武尊像」。日本平の広い駐車場に立っていて日本平の山頂を睨みつけていた。賊を前にして戦いに挑む姿であろうか。「古事記」「日本書紀」の伝説で活躍する、景行天皇の皇子で、わが国の古代伝説の代表的英雄。仲哀天皇の父。景行天皇から、食事に出てこなくなった、双子の兄の大翼碓命を諭せと命じられ、殺して筵に包み投げ捨ててしまう。乱暴を恐れた天皇に、熊襲建兄弟の討伐を命じられ、女装して宴席に入り、兄弟を刺し殺し、熊襲から日本武尊の尊称をえる。帰途に出雲に寄り、出雲建を、騙し討ちにして殺す。帰国するとすぐに、東国征伐を命じられ、伊勢にいた叔母ヤマトヒメから草薙剣を授かって東国の蝦夷を平定。帰途、伊吹山の神を退治しにいき、その神の毒気にあてられて重病となり、三重の能煩野で力尽き息絶えたのであった。そして往路と同じ「清水日本平パークウェイ」を利用して「日本平」を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.03.13
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「拝殿」前を後にすると、突き当り左にあったのが「大蘇鉄」。近づいて。「樹齢六百五十年 大蘇鉄 幹の太さ二メートル よく実を結びます」と。左にあったのが「絵馬掛所」。「開運 唐獅子は強さ(百獣の王) 牡丹は優しさ(百華の王) 久能山東照宮」。拝殿を西側から見る。久能山東照宮では、「三つ葉葵」のご神紋を至る所で見ることができるのであった。特に、屋根の軒丸瓦と垂木には、黒地に金色の葵紋が無数に並び、荘厳な眺めなのであった。下の写真は「拝殿」の西側の一番左の垂木!! 「三つ葉葵あおい」のご神紋が逆のむきになっているのであった。「~逆さ葵~よく見ると葵の御紋が「逆さ」に。これは建物が未完成であることを表し、さらなる発展への願いが込められていると言われています。」と。下の写真は「本殿」の垂木。写真中央にも「逆さ葵」が。葵紋を逆さにした理由は…「及ばざるは過ぎたるより勝(まさ)れり」家康公の遺訓です。完璧に創り上げてしまうと、これ以上の発展の余地がなくなってしまう。わざと不完全にすることにより、徳川家、そして、東照宮が ますます栄え、永遠に続くようにという願いが込められているのであると。久能山東照宮には、この様な逆さ葵紋が5箇所あると。そして、江戸幕府は256年も続いたのであった。上空を見上げると、航空機の飛行機雲が。本殿左側面にあった「獅子絵」。家康公か?反対側の「獅子絵」の場所近くは立入禁止だったのでネットから。その先にあったのが「本殿」への渡廊門。以前は御宝塔御門といったそうです。さらにその先にあったのが「久能山東照宮 廟門」。廟所に通ずる門。唐破風をズームして。鳳凰の姿が。 「廟門」を潜って振り返る。「牡丹の絵」。更に進むと「廟所」への廟所参道(国重要文化財)の両側には「石灯籠」が並んでいた。「本殿」を振り返って。「久能山東照宮における廟所の「添石垣」について 重要文化財久能山東照宮廟所の石垣は、元和3年(1617年)の久能山東照宮造営時に築かれましたが年を経て崩落の恐れが生じました。 このため、天保4年(1833年)、廟所宝壇西側の石垣の一部に「添石垣」を設けて、石垣を二重にし、当 初の石垣の崩落を抑えてきました。この度の重要文化財久能山東照宮社殿等の修復事業にあたっては、廟所の石垣について創建当時の景観に復することとしました。後年築かれた「添石垣」は撤去するものの、史跡久能山の歴史を知るうえで貴重な石垣遺構でり、その歴史的価値を後世に伝えるため現在地に移設しました。 平成19年3月 久能山東照宮」前方に「神廟」への石段をさらに上る。廟所参道の石鳥居。城壁の如き石積の先は右に直角に曲がる参道が。そして更に石段を上ると、正面に「神廟(国重要文化財)」が現れた。寛永17年(1640)に三代将軍徳川家光により、木造桧皮葺の造りから現在の石造宝塔に造替された。中央に立つ塔が墓標に相当し、重要文化財となっている。家康の遺命によって西向きに建てられているとのこと。 「神廟」の手前の広場の中央にあった「石灯籠」に近づいて。近づいて。右手に思いのほか質素な「手水舎」。その奥にあったのが「金の成る木」。見上げて。巨木の「金の成る木」。「「金の成る木」についてご祭神、徳川家康公にまつわる多くの遺話の中に「金の成る木」があります。これには前面石の楠の大樹がふさわしいと思われます。家康公が家臣たちに「金の成る木」について問われたところ誰も知らず、家康公は自ら筆を把られて三本の木を描き、「よろず程のよ木」「志ひふかき(慈悲ふかき)」「志やうぢ木(正直)」と書かれ、「これを常々信用すれば必ず富貴が得られよう」と仰せられました。その後、細川忠興公がこれに左右の枝を描き「あさお木(朝起き)」「いさぎよ木」「しんぼうつよ木」「ゆだんな木」「ようじょうよ木(養生)」「かないむつまし木」と書き加えられ「左右の枝が繁昌するならば一段と富貴が得られるであろう。皆々この金の成る木を写し取って家内のものに教えるように」と命ぜられたといいます。ご参拝の皆様にはこの「金の成る木」にあやかられ、毎日が心豊かで健やかな生活をおくられます様ご祈念申し上げます。」「神廟・宝塔」を見る。国指定重要文化財の神廟は 御祭神徳川家康公の御遺骸を最初に埋葬しところで 墓形が宝塔であったので 以前は御宝塔と呼ばれていた。元和2年(1616)の創建当初は 木造桧皮葺造、寛永17年(1640)に 3代将軍徳川家光公が石造宝塔に造替したと再び。方位は西 高さは550センチメートル、碑銘はナシ。方位を西にしたのは 次の理由によるといわれている。1.家康公の両親が子授け祈願した鳳来寺が西にある2.岡崎の松平家の菩提寺大樹寺と家康公誕生地である岡崎城が西にある と。近づいて。日光東照宮の奥社宝塔と比較して屋根の大きさが小さいと感じたのであった。「神廟(しんびょう)徳川家康の御遺体が納められた廟です。当初はこの地に小さな祠が建てられていましたが、三代将軍徳川家光公によって石造りの塔に改められました。その事から江戸時代は御宝塔と呼ばれ、明治時代以降は神廟と呼ばれています。家康の遺命に従い、西向きに建てられています。」お賽銭箱の上に掲げられていたのは「東照宮遺訓人の一生は 重荷を負て 遠き道をゆくが如し いそぐべからず不自由を常とおもへば 不足なし こころに 望おこらば 困窮したる時を 思ひ出すべし堪忍は 無事長久の基 いかりは 敵とおもへ 勝事ばかり知て まくる事をしらざれば 害其身にいたるおのれを責めて 人をせむるな 及ばざるは 過ぎたるより まされり 久能山東照宮宮司 落合偉洲」御宝塔に近づいて。御宝塔前の柵扉はもちろん閉じられていた。~徳川家康の遺言~『徳川実紀』によると・・・1616年(元和2年)4月2日、徳川家康は側近の崇伝・天海・本多正純を呼んで、次のように遺言したのだという。〇 遺体は久能山に埋葬すること。〇 葬儀は江戸の増上寺で行なうこと。〇 位牌は三河国の大樹寺に納めること。〇 下野国の日光山に小堂を造営すること。〇 京都の南禅寺の金地院に小堂を造営すること。右手にあったのが「家康公愛馬乃霊所」と書かれた木柱。「家康公愛馬を埋めた所」と。「御宝塔」の周囲を廻って。裏側。斜めから。再び「御宝塔」をズームして。「金のなる木」を再び見上げて。「金のなる木」前から「神廟」を。そして「神廟」を後にして「本殿」方向に参道を戻る。石段途中からズームして。石段途中から、「金のなる木」を振り返って。更に「本殿」、「石の間」、「拝殿」をズームして。石垣を見る。「透塀(玉垣)」とその下には見事な彫刻が並んでいた。渡廊の見事な彫刻を追う。渡廊は元和3年(1617年)に建てられた22間の建造物となり、社殿前面の石の間と神饌所(しんせんじょ)を結んでおり、社殿同様朱塗りとなっていた。また唐門同様、門の両側には鮮やかな彩色の彫刻を見ることができるのであった。国の重要文化財に指定されている。ズームして。「白兎(しろうさぎ)の彫刻」「白兎(しろうさぎ)の彫刻」と。国宝の御社殿のそば、お守り授与所の隣に設置されていた。久能山東照宮の造営を命じた2代将軍徳川秀忠公は卯年であると。「大河ドラマ「どうする家康」完結」。実際に撮影で使用されたレプリカが博物館に展示中 と。NHK大河ドラマ「どうする家康」の絵馬であろうか?「令和4年12月26日に斎行された、「徳川家康公御生誕480年誕辰祭」に参列されました。左・井伊直政役:板垣李光人さん 中央・徳川家康役:松本潤さん 右・榊原康政役:杉野遥亮さん」再び拝殿を西側斜めから。日光東照宮と比較して、白色の使用が少ないと感じたのであったが。下段の蟇股。雀の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.12
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久能山東照宮「唐門」(重要文化財) 。拝殿正面にあり、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造という(重要文化財)普段は通り抜けが禁止されているため階段を登ることはできなかった。久能山東照宮唐門は元和3年(1617)に建てられたもので、久能山東照宮の中核部である本社社殿(拝殿・石の間・本殿)の正面に配され、聖域の正門的な役割を持っています。形式は四方唐破風造り、四脚門、一間一戸、本瓦葺き、四方唐破風造りとは屋根の4方向に唐破風を設けたもので、格式の高く、聖域の正門として相応しい意匠となっています。構造部は朱色で塗られ、木鼻や門扉、蟇股、唐破風などには唐獅子(左右に阿吽)や鳥類、植物など多彩な彫刻が随所に施され、彫刻は極彩色で彩られ、金物や本瓦の軒先、獅子口には金を使用しています。久能山東照宮唐門は江戸時代初期に建てられた唐門建築の遺構として大変貴重な事から明治45年(1912)に国指定重要文化財に指定されています。さらにズームして。。「高野槙」。コウヤマキ(高野槙、高野槇、学名:Sciadopitys verticillata)は、マツ目コウヤマキ科の日本および韓国済州島の固有種。常緑針葉樹で高木となる。別名ホンマキ。「高野槙」。コウヤマキとは・・・・高野山で多く見られ、高野山では「霊木」として保護されている。・成長が緩やかで手入れが比較的簡単である。・ヒマラヤスギ、ナンヨウスギとともに「世界三大庭園樹(世界三大公園木」)に数えられる。また、サワラ、ヒノキ、クロベ(ネズコ)、アスナロ(ヒバ)とともに「木曽五木」とされる。・秋篠宮悠仁親王の「お印」とされている とネットから。石段の上には「神庫」が。「神庫」への石段下の「末社 竈(かまど)神社御祭神(火の神)台所の神様です。御希望の方に神札をお頒ちしております」と久能山東照宮神庫は元和3年(1617)に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行5間、梁間3間、建物の構造体が朱色に壁が黒色に彩色され、瓦と木組の端部が金箔欄間部は極彩色で彩られています。久能山東照宮の境内の中で唯一の校倉造(建材を横に組合せ、積重ねることで壁とする工法、調湿性能に優れ正倉院などにも使用されました。)の建物で奉納された神宝や鉄砲などが置かれていました。久能山東照宮神庫は境内を構成する要素として大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。「河津桜」も満開。「河津桜」。ズームして。ここにも2基の石灯籠があったのだろうか?「日枝神社」。「重要文化財 日枝神社(ひえじんじゃ)祭神 大山咋命(おおやまくいのかみ)旧御本地堂で薬師如来を安置してあったが、明治三年神仏分離の際に仏像を廃し後に今の名称に改めた。元和三年(西暦一六一七年)の建造である。」久能山東照宮日枝神社は元和3年(1617)に建てられたもので、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り、建物全体が朱色で塗られ、蟇股や向拝の蝦梁の彫刻などが極彩色で彩られ、金物や瓦の軒先などが金が使用されています。当初は久能山東照宮の本地堂として薬師寺如来像が安置され薬師堂と称されてきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により明治3年(1870)に薬師寺如来像が大正寺へ移され、天台宗の守護神である山王社の御神体を遷して日枝神社に改め久能山東照宮の末社となりました。久能山東照宮日枝神社は江戸時代初期の御堂建築の遺構として大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。歴史を感じさせる青銅製の吊り灯篭。ここにも歴代将軍の様々な葵の御紋が。「天水桶」。「拝殿、石の間、本殿」への入口門・「東門」。久能東照宮・東門は元和4年(1618年)に造られ、日枝神社より社殿に向かう際にくぐる門。小さな門となっていますが、彫刻などが間近に見ることができ社殿同様の極彩色の朱塗りが施されていた。国の重要文化財に指定されている。入口から、「石の間」、「拝殿」を見る。この写真はネットから。「透塀」。久能山東照宮透塀(玉垣)は元和4年(1618)に建てられたもので、本社社殿周囲を囲っている。塀は銅瓦葺、飾金具は金、壁は朱色で塗られ、腰部に施された精緻な彫刻には極彩色が施されている。東門も同年に建てられたもので本社社殿の東側に位置し、門の周りは透塀(玉垣)によって囲われていた。東門は切妻、銅瓦葺、一間一戸、棟門、透塀と同様に朱色を主体として彫刻部が極彩色に彩られている。透塀と東門は久能山東照宮の境内を構成する要素として大変貴重な事から明治45年(1912)2月8日に国指定重要文化財に指定されています。玉垣の「玉」は神聖なものや美しいものを意味し、「神聖な神様を囲む垣」という意味と言われている。「透塀」沿いにあった「家康公御手植えのみかんー駿府城より分木」。「拝殿」を横から。「国宝」の文字が。移動して。「国宝 本殿 石の間 拝殿」と。「拝殿」、「石の間」、「本殿」の間取り図。拝殿 : 桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、銅瓦葺石の間 : 桁行一間、梁間一間、一重、両下造、銅瓦葺 C&Dの出入口あり。本殿 : 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、銅瓦葺写真中央が「石の間」。出入口の扉が確認出来た。久能山東照宮拝殿は元和3年(1617)に建てられたもので、入母屋、銅瓦葺、屋根正面には千鳥破風、桁行5間、梁間2間、3間向拝付、棟梁は中井正清(初代京都大工頭)。外壁は黒の漆塗り、金物の多くは金で仕上げられ、組物や木鼻や蟇股、海老虹梁などの彫刻、桁に描かれた絵画は極彩色が施されています。本社社殿は本殿、拝殿、石ノ間が接続し一体となっている所謂「権現造」でこの後、造営される日光東照宮(栃木県日光市)はじめ全国の東照宮の規範となっています。久能山東照宮拝殿は極めて貴重な事から平成22年(2010)12月24日国宝に指定されています。「中井大和守正清は、永禄8年(1565)に法隆寺門前の西里で誕生しました。正清は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦後に、徳川家康公より上方の大工支配を仰せつかったと伝えられています。その直後には徳川家の御大工として二条城、伏見城の作事に携わり、慶長11年7月に従五位下大和守に叙任され、公儀大工の第一人者となりました。徳川家康公は、二条城、伏見城、江戸城、駿府城の城郭や、知恩院、増上寺の作事でみせた正清の手腕を高く評価しました。そして、「何事も御普請方之儀、大和次第」と言い、正清に全幅の信頼を寄せ、名古屋城、内裏の作事を命じました。正清はまさに東奔西走の日々を過ごし、慶長17年(1612)に従四位下に昇叙しました。その位階は大名に与えられるもので、大工棟梁としてはきわめて異例の出世でありました。この時期の正清の作品で現存するものは少ないですが、仁和寺の金堂(国宝)は、慶長18年に上棟した慶長度内裏の紫宸殿を、寛永年間に移築したもので、京都に残っている正清の代表作として貴重な建物です。元和2年(1616)4月、徳川家康公は駿府城に薨去されました。御遺骸は遺言により久能山に埋葬され、正清に社殿の造営が命ぜられました。これが久能山東照宮で、正清が渾身を込めて造った社殿は四百年の時を経て今もその姿を伝えています。久能山東照宮の造営を終えた正清は、元和5年正月21日、徳川家康公のあとを追うかのように、近江水口で55歳の生涯を閉じました。このように、久能山東照宮は、徳川家康公の側近として仕えた中井正清の最晩年に全身全霊を込めて造った最高傑作といえるでしょう。」と ネットから。唐門は四方唐破風造りであることが解かるのであった。黄金の木鼻、精緻な彫刻を見る。木鼻にズームして。団扇型の松の彫刻をズームして。「唐門」から上って来た石段の下の石鳥居を見る。ズームして。唐門の扉?の見事な彫刻。白梅?と青い鳥の姿が。近づいて。反対側の扉?同様に。唐門の横梁の見事な彫刻。そして振り返って「拝殿」の入口部を。江戸時代奥に入れる者は将軍だけ、御三家の徳川家も立ち入る事は出来なかったと。近づいて。中央の蟇股の彫刻・「甕割りの彫刻」。中国の故事、政治家・司馬温公の「甕割り」の彫刻。子供の頃、一緒に遊んでいた友が水甕に落ちてしまったのを救うため、その甕に石を投げつけると、甕に穴が開き、仲間が水と一緒に流れ出てくる場面。高価な甕を割った少年の物語で『命の大切さ』を表しています と。別の場所にあった案内板「久能山東照宮『司馬公の甕割り』この絵は中国北宋の政治家、司馬温公の少年時代のお話です。ある日、一緒に遊んでいた友達が水甕の中に落ちて溺れてしまいました。もう一人の友達はハシゴをかけて助け出そうとします。いっぽう聡明な司馬少年は「それでは間にあわない!」と近くの石で甕を割って助け出しました。この故事の彫刻が久能山東照宮拝殿の正面に施されております。御祭神徳川家康公が現代の私達へ向けて、「命の尊さ」を説かれているといえるでしよう。」右側。左側。内陣を望む。蟇股内部を花鳥の透彫とするなど細部も整った意匠が。下段中央。その左。下段最左。下段右。その右。最右。拝殿(右側)最奥の下段の蟇股。吊り灯篭。木鼻(右)。ズームして。吊り灯篭越しに「拝殿、石の間、本殿」への入口門・「東門」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.11
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今朝・3月10日(日)の我が菜園からの富士山の姿です。先日の雪で西側の裾野の雪の白さが拡がっていました。今年・2024年のニ十四節気のひとつ「啓蟄(けいちつ)」は5日前の3月5日(火)から3月19日(火)までと。「啓蟄」とは、土中で冬ごもりをしていた生き物たちが目覚める頃のこと。そして3月20日(水)が「春分の日」。このところ毎朝、日の出の時間がどんどん早くなるのを感じていますが、昨日3月9日よりいよいよ日の出が6時前になり、朝の明るさに春の訪れを感じるようになりました。富士山をズームして。さらに富士山山頂を。そして、この日の農作業は、ジャガイモの植え付け。今年も男爵系の「キタアカリ」の種芋を購入し、この場所に植え付けました。肥料は、種芋の間に化成肥料と牛糞を。種芋には既に新芽が数カ所に。そして「インカのめざめ」も植え付けました。少し珍しい名前の「インカのめざめ」。南米アンデスで、お祭りでしか食べられなかった高級じゃがいもを日本向けに改良し誕生した品種。「インカのめざめ」の魅力は何といってもその甘味!一般的なじゃがいもの糖度が4~5℃に対して「インカのめざめ」の糖度は 6~8℃もあるのだ。 食感は栗やサツマイモを思わせるホクホク感とバターのようなねっとりした濃厚な口当たり。 肉質はやや粘質できめが細かく、なめらかな舌ざわり。風味はナッツに似ているとも言われている。 旬の時期は9月〜11月。長期保存がむずかしく流通期間も限られるのだ!。栽培が難しい事から、作る農家さんが少なく流通量も少ない希少種のようである。他のじゃがいもにはない、スイーツのようにしっとりと甘く、希少種である事から「幻のじゃがいも」と呼ばれているのだ。そしてスナップエンドウには支柱とネット掛けを行いました。黄色いペーパーは「ハモグリバエ」対策用に虫取りシート(黄色粘着テープ)を。農薬は極力使いたくないので。ハモグリバエは、主に野菜や草花に寄生する害虫です。小さなハエである成虫は、葉の組織中に卵を産み、ふ化したウジ状の幼虫はそこで成長し、やがて俵形の蛹(さなぎ)になり、その後、成虫になります。幼虫が葉の内部を蛇行しながらトンネル状に食害するため、緑色の葉にあたかも白い線を描いたようになります。それゆえ、エカキムシとも呼ばれます。多数の葉が白く見えるほど食害がひどくなると、株の生育は悪くなり、野菜では収量と品質が低下し、草花では著しく観賞価値を損なうのです。移動して。既に白い花が咲き初めて来ました。そして既にブロッコリーの花が満開に近づいています。ズームして。我が畑のブロッコリーは食料用とミツバチ用の二つの目的があるのです。そして我が?ミツバチが訪花中。ブロッコリーの花はミツバチは大好きなのです。花が密集して咲くことから、仕事しやすいのでしょうね!!そして我が菜園には花桃(ハナモモ)も開花中。「ハナモモは、花を観賞するために改良されたモモ。サクラの花の咲く時期に前後して開花の最盛期を迎え、あでやかなピンクや赤、白の花が春の庭を彩ります。モモは古来より中国では災いを除き、福を招くとされてきました。日本への渡来は古く、弥生時代といわれています。『古事記』にもイザナギが黄泉の国から逃げ帰るときに悪鬼にモモを投げつけて退散させたとあることから、古い時代から栽培されていたことがうかがえます。その後、平安時代には3月3日の桃の節句が祝われ、モモの花が観賞されるようになりました。このようにモモは太古から日本人に親しまれてきましたが、観賞用のハナモモとして改良が行われるようになったのは江戸時代に入ってからです。現在もハナモモの品種改良はあまり進んでおらず、栽培されている園芸品種には江戸時代に作出されたものが多くあります。」とネットから。ここからも「ブーン ブーン」と音が聞こえて来ました。そして花桃の花に頭を突っ込む我が?ミツバチです。こちらは花蜜を集めに来ているのでしょう。「桃源郷」とはこのことかと毎年思うのです。上手く撮れました。そして、明日は2011年3月11日に発生した東日本大震災から13年目!!2024年1月1日に発生した能登半島地震から70日目!!「誰一人取り残さない社会の実現」を!! ・・・END・・・
2024.03.10
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「日本平ロープウェイ」の「日本平駅」手前にあった売店。前方右手にあったのが「みかんジュースが出る蛇口」が。私も一杯。そして「乗車券売り場」。ロープウェイ往復運賃+久能山東照宮拝観券の2点セット券を\1750で購入。久能山東照宮の「御朱印」案内。「久能山東照宮 朱漆塗紅絲素懸威山形兜(富士山に御幣前立)」。「見どころMAP」(左)。「国宝・久能山東照宮久能山東照宮は、徳川家康の御遺骸が埋葬された地に創建された最古の東照宮です。当時最高の建築技術や芸術を結集した荘厳な神社で、権現造・総漆塗・極彩色の御社殿は日光東照営より19年前に造られました。彫刻・模様・組物等に桃山時代の技法も取り入れられた、江戸初期の代表的な建造物として国宝に指定されています。」①国宝御社殿 家康公をお祀りする本殿と参拝するための拝殿を「石の間」でつないだ「権現造」と呼ばれる 様式で、全国東照宮の原型となりました。当時最高の建築技術と芸術が結集した、棟梁 中井正清の晩年の傑作と評価され、国宝に指定されました。②愛馬の彫刻 家康公のお墓~毎日お参りした愛馬を名工・左甚五郎がそっくりに彫刻。眼球には当時大変 貴重だったギヤマン(ガラス)が使用されています。良縁・安産・子授けにご利益があると いわれています。③瓶割りの彫刻 拝殿・蟇股(かえるまた)部 中国の故事、政治家・司馬温公の「瓶割り」の彫刻。子供の頃、一所に遊んでいた友が水瓶に 落ちてしまったのを救うため、高価な瓶を割った少年の物語で「命の大切さ」を表しています。④逆さ葵 社殿・屋根 よく見ると葵の御紋が1ヵ所だけ「逆さ」に。 これは建物が未完成であることを表し、さらなる発展への願いが込められていると いわれています。⑤金のなる木 御神木 久能山東照宮の隠れた人気スポットが、家康公神廟そば、大きな楠の「金の成る木」。 家康公は「すべてにほどほどがよ木」「志ひふか木」「辛抱つよ木」「むだのな木」 「家内むつまじ木」など様々な木を挙げて、何が必要か説いています。⑥久能山東照宮博物館 家康公を御祭神とする久能山東照宮に付属した歴史博物館。 家康公の遺愛品や徳川歴代将軍の武器・武具など約2000点の資料を収蔵しています。 見どころ配置図。①楼門(ろうもん)②神厩(しんきゅう)③鼓楼(ころう)④神饌所(しんせんじょ)⑤神楽殿(かぐらでん)⑥神庫(しんこ)⑦日枝神社(ひえじんじゃ)⑧唐門(からもん)⑨透塀(すきべい)⑩廟門(びょうもん)⑪廟所参道(びょうしょさんどう)⑫神廟(しんびょう)「見どころMAP」(右)。「名勝地・日本平標高307mの丘陵地で、過去には観光地百選(平原の部)で第1位となり、富士山や験河湾など静岡を象徴するような景色を堪能できる絶景スポットです。1959年には国の名勝にも指定され、2016年には「日本夜景遺産」にも認定されました。」①ちゃっきり節 1927年(昭和2年)、静岡市近郊に開園した狐ヶ崎遊園地(後の狐ヶ崎ヤングランド19333年 閉園)のコマーシャルソングとして静岡電気鉄道(現・静岡鉄道)の依頼によって製作されました。 静岡電気鉄道は、当時すでに名のある詩人であった白秋に懇請して作詞を依頼したものの、 取材のため静岡を訪れた白秋は、静岡の花柳地・ニ丁町・蓬莱桜で芸者遊びを続け、一向に 詩作に取りかかろうとしなかったそうてす。豪遊続きの長逗留に作詞依頼の取り下げも検計し 始めた頃、老妓の方言によるふとした一言にインスピレーションを得て、白秋は30番まである 長大な歌詞を書き上げたといわれています。②日本平夢テラス 静岡市の代表的な観光スポットで、屋外の展望回廊は富士山や駿河湾、清水港、三保松原などを 望む360度のパノラマビューが楽しめます。施設内には日本平の歴史や文化を学べる展示 工リアや、ラウンジスペースも。③赤い靴母子像 多くの人に愛唱されてきた「野口雨情」作詞、本居長世作曲の「赤い靴」。この歌のモデルと なった女の子とその母は、現在の静岡市清水区の出身でした。女の子と母親をふるさとに 里帰りさせたいと、全国から寄せられた浄財をもとに「赤い靴母子像」がこの地に建立 されました。④日本平梅園 2月から3月にかけて約350本の蝋梅、白梅、紅梅が咲き誇る日本平梅園は、梅と富士山の コラボレーションが楽しめます。開花が退むと散策路には赤、白、ビンクの梅の花の トンネルができ、多くの見物客で賑います。⑤万葉歌碑 「水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来けにて今ぞ悔しき」 日本平周辺で育った有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)の詠んだ歌です。防人とし筑紫に派遣 されることになった際に、両親に別れを告げる間もなく慌ただしく出発したことを悔やんで 詠んだものとされます。⑥日本武尊の碑 「日本平」の呼び名は、日本武尊の伝説に由来します。日本武尊は東征の際、草薙の原で 有名な火攻めの謀略に遭いますが、草薙の剣で賊を平定した後、この山の頂上で勝どきを 上げたことから、「日本平」と呼ばれるようになったといわれています。⑦静岡市立日本平動物園 1969年に開園。約160種700点の動物を飼育し、面積約13ヘクタールと国内でも有数の 動物園です。動物の本来の野性味を感じられる施設が充実しており、特に行動展示が特徴の 動物園です。「家康公と駿府(静岡市)」家康公は100年以上続いた戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開いて260余年にわたる「泰平の世」の礎を築いた人物です。家康公は、幼年期、壮年期、晩年の3度、駿府(現静岡市)で過ごしました。温暖な気候で食べ物も美味しい駿府を健康志向の高い家康公は気に入っており、晩年、秀忠公に将軍職を譲った後、駿府城を居城とし、そこで「大御所政治」を行いました。その当時、駿府は10万人以上が暮らす世界屈指の大都市となり、政治・外交の中心として栄えました。波乱に満ちた75年の生涯をこの地で閉じた家康公。生前、自分の死について「遺体は駿河国の久能山に葬るように」と遺命を残していました。これを受けて遺骸を久能山に埋葬し、2代将軍秀忠公により久能山東照宮が創建されました。「一富士 ニ鷹 三茄子」「初夢に出ると縁起がいい」と言われることえわざですが、語源は諸説あります。その1っとして、家康公と縁のある駿河の名物を並べたという説です。日本の象徴とも言われる「富士山」とそこに住む「鷹」、家康公も好んでいたとされる「初物の茄子」を並べたといわれています。「東照宮を巡る聖なる三本のライン1本目・・・御前崎から久能山東照宮を線で結んだ延長上には富士山、更に延長上に------ 群馬県の世良田東照宮、更に延長しますと日光東照宮にいたります。2本目・・・久能山東照宮から真西には駿府城、更に延長しますと鳳来山東照宮、------ 更に延長上には、家康公が生まれた岡崎城、更に延長しますと京都に至ります。3本目・・・日光東照宮の真南には江戸城、南面に立つ陽明門の真上には不動の北極星が輝き、------ 星々はこれを巡ります。江戸城・日光東照宮・北極星を結ぶ南北線を中心に、 この世の総てが運行するのです。家康公の御遺言本光国師(金地院崇伝)日記によるとえ元和ニ年(一六一六)四月ニ日、徳川家康公は病の重態なるを知り、本多上野介正純、南光坊天海、金地院崇伝等を召して、死後の処置に関し、遺体は駿河の久能山に葬るべきこと、葬礼は江戸の増上寺に於いて行うべきこと、位牌は三河の大樹寺に立つべきこと、一周忌の過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請すべく、これによって関八州の鎮守となるべきことを遺命した。」「東海道五拾三次之内 江尻 三保遠望」画中に広がる海は駿河湾、前景の港は清水港である。白い船の帆や港に停泊する船のかたちが様式化され美しい。広重は高い位置から見渡すようにこの風景を描いている。「日本平ロープウェイ」に使用されているロープ見本。「日本平ロープウェイ」の「改札口」。竹灯籠。下って行くロープウェイ車両を見る。日本平山頂と徳川家康公ゆかりの史跡「久能山東照宮」を約5分で結ぶロープウェイ。軽快なガイド付き。四季折々姿を変える眼下の屏風谷、駿河湾から遠く伊豆半島、御前崎を望みながら全長1065mの空中散歩を楽しめるのであった。11時~14時までは10分毎に出発。11:30発に乗車。前方眼下に駿河湾の姿が。上り車両とすれ違う。殿様をイメージした「あおい号」と、お姫様をイメージした「たちばな号」があると。屏風谷の山あいを通り抜け46mの鉄塔を越えると右側に駿河湾が広がって来た。海岸近くには「石垣いちご狩り」のビニールハウスが並んでいた。そして前方に「日本平ロープウェイ 久能山駅」が見えて来た。駅舎にゆっくりと滑り込む。左手下に見えたのが「旧久能山城石垣」であると。永禄十一年(一五六八)十ニ月武田信玄は、当山が要害の地である事を知って、寺院を清水北矢部に移し、城砦を築いて久能山城と称した。天正十年(一五八ニ)武田氏が滅亡したことで徳川氏の所有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである と。「クスノキ 推定樹齢 500年」と。巨大鉄塔2基で支えられている「日本平ロープウェイ」。「久能山東照宮」👈️リンク の神紋「三つ葉葵―みつばあおい」三つ葉葵の文様のモチーフはフタバアオイです。本来「葵」の読み仮名は「あふひ」、「ひ」は神様のこと。「神様に会う」植物と考えられていました。徳川家が葵紋を家紋にした由来は、各説あります。1.徳川家の祖先の松平家が、京都賀茂神社の氏子であり、賀茂神社の御神紋が フタバアオイ紋だった。2.家康公の祖父、松平清康が城攻めで勝利をおさめた。祝いの席で、家来がアオイの葉を お皿にして肴を出したところ、清康は その粋な計らいを喜び、その家来の家紋であった 葵紋を譲り受けた。(この家来は、本多正忠とも酒井氏忠とも言われている)実際の植物には、三つ葉の葵はありません。二葉より三葉の方がデザイン性が高いこと、葉の並ぶ形が巴の形に似ていることから、三つ葉の図案になったとされています。こちらが[フタバアオイ」。「久能山東照宮全景」。「久能山東照宮 社務所」に向かって石段を下る。「久能山東照宮久能山には、推古天皇(592年~628年)のころ、久能忠仁がが建立したと伝えられた久能寺があった。静岡茶の始祖といわれる聖一国師がここで修行し、また、多くの名僧が往来し隆盛を極めた。下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を現在の鉄舟寺に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。徳川家康公は、大御所として駿府城に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と、久能山の重要性を説いたといわれる。元和2年(1616年)駿府城にて薨去後、その遺言によりここに葬られた。元和3年(1617年)二代将軍秀忠公によって社殿が造営され、我が国最初の東照宮となった。権現造、総漆塗、極彩色の社殿は、江戸時代を代表する大工棟梁、中井大和守正清の手によって造営され、平成22年には、本殿・石の間・拝殿が国宝に指定された。そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。彫刻、模様組物等は桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を伝えている。」前方左手に社務所。「史蹟 久能山」碑。「国指定史跡 久能山 指定年月日 昭和三十四年六月十七日久能山の歴史久能寺久能山には、古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、山の上には多くの僧坊が建てられていた。久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然の要害の地をつくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の観応の擾乱(1350~1352)や室町時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、次第に寺院城郭としての一面をもつに至った。久能山城駿府に攻め入った武田信玄は、永禄11年(1568)に要害の地久能山にあった寺院を移し、本格的な山城を築いた。この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの拠点として重要な役割をになった。久能山東照宮元和2年(1616)4月、大御所徳川家康公が駿府城にて薨去。家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。2代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創建した。このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。」御朱印受付。御朱印帳を渡し、帰路に受け取ることにする。正面に様々な案内板が。「久能山東照宮のご案内●御祭神 徳川家康公 相殿 豊臣秀吉公 織田信長公●御社殿 ニ代将軍秀忠公の命により、中井大和守正清を大工棟梁として元和ニ年(一六一六)五月着工、 同三年十ニ月に至る僅か一年七ヵ月と云う短期間に造営された。権現造り、総漆塗、 極彩色の社殿は、江戸時代初期の代表的建物として、平成ニ十ニ年十ニ月ニ十四日国宝に 指定された。他、十三の建造物が国の重要文化財に指定されている。●御廟所(家康公の墓所) 家康公の御遺骸を埋葬した場所。 塔は高さ五・五m、外廻り八mの石造りで御遺命により西向きに建てられている。●博物館 久能山東照宮伝世の宝物を中心に、資料総数ニ〇〇〇点を収蔵する。収蔵品の特色としては、 家康公がスペイン国王より贈られた洋時計を始めとする舶載の品々がまとまっていること、 徳川歴代将軍の武器・武具が多いことである。」ここにも「久能山東照宮全景」。石段の上に「楼門」。「社務所」。楼門への石段を上る。「重要文化財樓門前面に後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称する。元和三年の建造である。 西暦一六一七年」徳川家ゆかりのものらしく、豪華な造り。中央の蟇股(かえるまた)には、“獏(ばく)”の彫刻があることでも知られている。左の蟇股。右の蟇股。扁額は後水尾天皇の御宸筆「東照大権現」。「天水桶」。表側には、随身(ずいじん)が・・・。随身は、天皇皇后のお付きの者。 主に外出するときに、天皇をお守りする役で、今で言うSPのようなもの。 随身は別名、左大臣・右大臣と呼ばれていますが、実は正しい呼び方ではないと言われている。 と言うのも、左大臣・右大臣は、かなり高位の存在。 とくに左大臣は一ノ上(いちのかみ)とも言い、公卿(くぎょう)の筆頭であった。 今で言う内閣総理大臣のような役割。 実は、そのような位の者が、随身を兼任することはまずないのだと。 よって、左大臣・右大臣と呼ばれているのは俗称と考えた方が正しそうである と。左大臣・右大臣は、年配者と若者のペアであるが、左大臣が年配者、右大臣が若者 であると。随身(右)・左大臣。ズームして。横から。随身(左)・右大臣。ズームして。横から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.09
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静岡県と静岡市が約17億円をかけて整備したとされる「日本平夢テラス」。新国立競技場を設計した世界的な建築家・隈研吾(くまけんご)さんが手がけた、3階建てのシンボル施設と日本平からの景色が360度見渡せる展望回廊、そして約1200平方メートルの庭園で構成されているとのこと。「日本平夢テラス」や「久能山東照宮」、「日本平ロープウェイ」、「吟望台」のQRコードによる観光案内板。そしてその先にあったのが「日本平夢テラス 展望回廊」からの風景案内板。①焼津市 ⑨国道150号線②駿河湾 ⑩南安倍川橋③虚空蔵山 ⑪高草山④大崩海岸 ⑫東名高速道路⑤静岡市風力発電施設「風電君」 ⑬安倍川橋⑥用宗海岸 ⑭東名高速道路静岡インターチェンジ⑦用宗漁港 ⑮満観蜂⑧花沢山 ⑩安倍川」実際のこの日の風景を写真に。さらに右側も。この後に訪ねた「日本平ロープウエイ駅」が西側下方に。再び「日本平デジタルタワー」を「日本平夢テラス 展望回廊」上から見上げる。さらに「日本平夢テラス 展望回廊」を時計回りに北側に向かって進む。①ツインメッセ静岡 ⑪静岡鉄道新静岡駅②八幡山 ③安倍川 ⑫国道1号線バイバス ⑬静岡県庁④静岡科学館る・く・る(工スパティオ8 ~ 10F) ⑭駿府城公園⑤JR静岡駅 ⑮東海道新幹線 ⑯新東名高速道路⑥静岡ホビースクエア(サウスポット静岡3F) ⑰静岡浅間神社⑦藁科川 ⑧安倍川大橋 ⑱賤機山⑨静岡市美術館(葵タワー3F) ⑲谷津山⑩静岡市役所・葵区役所実際の写真。ズームして。さらに天望回廊を進む。①賤機山 ⑦静岡県第台芸術公園②JR東静岡駅 ⑧国道1号線バイバス③グランシップ(静岡県コンべンションアーツセンター) ⑨あさはた緑地④谷津山 ⑩静岡市中央卸売市場⑤静岡県立総合病院 ⑪東名高速道路⑥新東名高速道路実際の写真。南アルプスの白き山の姿も。「竜爪山」、「南アルプス」方向案内板。①南アルプス②電爪山③東名高速道路④山原無線中継所⑤日本平ホテル(日本平公園)⑥新東名高速道路清水連絡路実際の写真。南アルプスの姿。更にズームして。右手の白い尾根は「明石岳・3121m」辺りか?「愛鷹山」を見る。前方には「日本平夢テラス」の建物が。「富士山」と「日本平夢テラス」を「日本平夢テラス 展望回廊」から見る。ズームして。移動して富士山、駿河湾を。そして再び富士山をズームして。屋外の展望回廊から、富士山や駿河湾、三保松原など、360度のパノラマ展望と絶景を楽しんだ後は2018年11月に日本平山頂にオープンした「日本平夢テラス」の内部を訪ねた。入館料無料で、新国立競技場を手掛けた隈研吾建築都市設計事務所による、木材をふんだんに使用した展望施設であった。3階から天井を。天井を見上げて。2階には横山大観モチーフのステンドグラスも。景色を楽しみながら、くつろげるラウンジスペース(24席)になっていた。ステンドグラス(LED照明内蔵)「群青富士」。そして1階の展示室。1階では、日本平の地形の成り立ちを、プロジェクションマッピングで知ることができた。他にも、日本を代表する名勝となった「日本平」の歴史を、神話・伝説の時代から絵巻のように、グラフィックパネルで紹介されていたり、日本平周辺の観光スポットが、タッチパネルで紹介されていたのであった。1階の展示コーナー。「神話と伝説」、「久能寺」案内板。「日本平夢テラス」を後にして「日本平ロープウェイ」駅に向かって進む。「久能山東照宮」案内板。日本平ロープウェイにて5分 と。駐車場の先に、「日本平ロープウェイ」駅の姿が現れた。駐車場内を「日本平ロープウェイ」駅に向かって進む。「日本平ロープウェイ」駅横からロープウェイのホームを見る。「日本平夢テラス天望回廊」そして「日本平デジタルタワー」を振り返た後は「日本平ロープウェイ」駅ビル内に入ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.08
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日本平の無料駐車場に車を駐め散策開始。富士山を背景に「日本平」と刻まれた石碑。静岡県静岡市清水区村松4046−1。この「日本観光地百選」1位受賞記念碑は駐車場内に設置されていた。「日本観光地百選首位当選」と刻まれたこの記念碑は、昭和25 年毎日新聞社主催の「日本観光地百選」平原の部で1位に選出されたときの記念碑。「日本平」と刻まれた石碑と並んで撮影すると富士山を背景に入れ込めるため、定番の撮影スポットとなっているようであった。富士山をズームして。「日本平デジタルタワー」方向を見る。左手には「河津桜」がピンクに染まり開花が始まっていた。ズームして。「日本平の碑」。裏面には。「日本平は、昭和26年3月6日に県立自然公園に、昭和34年6月17日に国の名勝に指定されました。すぐれた自然の風景地として、また、眺望地として保護されています。」駐車場から富士山を望む。「日本平 山頂 MAP」。「日本平」の地図部分を。「日本平 川崎家」へ休業中?右側の屋上は「パノラマ展望台」になっていたようであった。坂道を上って行った。「日本平夢テラス」に向かって進む。石仏の姿が。「享保ニ(1717年)丁酉三月廿五日 守屋源右衛門」と刻まれていた「日本平公園 案内図」。「日本平夢テラス」に向かって坂を上って行った。「日本デジタル放送所」の巨大アンテナタワーが聳える。静岡県のテレビ放送を送信する集約電波塔。静岡県のテレビ放送の親局送信所であるとのこと。2005年度グッドデザイン賞・静岡県建設業協会賞優秀賞を受賞していると。ズームして。アナログテレビ放送の送信所であった日本平テレビ・FM放送所に隣接する敷地に建設されたため、これまで日本平からの電波を受信してアナログテレビ放送を視聴していた世帯の多くでは、デジタルテレビ放送の視聴のためにアンテナを増やしたり、方向調整などをする必要がない。地上波アナログテレビ放送で、静岡瀬名、静岡麻機、静岡賤機、静岡籠上、静岡羽鳥、静岡丸子、静岡興津などの中継局の放送波を受信していた世帯も、そのほとんどが日本平デジタルタワーの受信エリアに集約された。これらの地域の世帯で新たに地上デジタル放送を受信するためには、アンテナの増設か、アンテナの向きの調整が必要になる場合がある とウィキペディアより。山頂に向かう途中に駿河湾と富士山を一望できる見晴台が整備され、2つの石碑が設置されていた。いずれもまだ新しく、平成25年の富士山世界文化遺産登録を記念して建てられたもの。この2つの石碑が設置された場所は見晴らしも良く、大人数での記念撮影の人気のスポット と。そして、日本平夢テラス庭園の手前には富士山の山頂をイメージしたイルミネーションケーブルが。日本平夢テラス庭園をズームして。向かって右側の赤茶色の石碑は平成27年2月23日(富士山の日)に寄贈された石碑で、表面には元内閣総理大臣中曽根康弘氏による題字「眺望の地 富士山」が刻まれていた。向かって左側の石碑は平成27年6月に寄贈されたもので、表面には梅原猛氏による題字「草木国土悉皆(しっかい)成仏 国土は富士なり」が刻まれていた。富士山をズームして。さらに。そして日本平夢テラス庭園を後にしてさらに坂を上っていくと左手には母子像が。見つめ合う母と娘。「赤い靴」は履いていなかったが、以前は赤く塗られていたが消えてしまったのであろうか?「赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった」👈リンク。廻り込んで。娘の顔を。「童謡 赤い靴をはいていた女の子を尋ねて野口雨情の詩になる童謡"赤い靴"をはいていた女の子にはモデルがありました。 明治37年7月15日清水市宮加三(旧不二見村)に生まれた「岩崎きみ」がその子です。「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、 まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、この時すでに、「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼な子を孤児院に残して旅立ちました。「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見ることもかなわぬ母を慕いながら、わずか9歳の短い生涯を終えたのでした。いま、この女の子は、東京六本木にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っております。私たちは、この幸せ薄い母と子のかなしみに思いを寄せ、母と子をふるさとの地、不二見村を見おろすこの日本平山頂に、再び相いあわせようと考えました。ここに全国数万人に及ぶ人々からの浄財を得て、この像の建立ができましたことに、 人間の善意と尊厳に大きな感動と希望をおぼえるものであります。 母と子よ、永遠に安らかなれ 昭和61年3月31日 「赤い靴」の女の子母子像建設委員会 母子像制作 高橋 剛」八角形の「日本平夢テラス」を見る。そして石段を上り、「山頂 吟望台」から「日本デジタルタワー」を見る。手前に八角形の「日本平夢テラス 展望回廊」が「日本デジタルタワー」の周囲に。「山頂 吟望台」からの絶景。ズームして。さらに。「吟望䑓昭和5年、日本平観光の発展を図る道路整備に着手した清水市では、徳富蘇峰に委嘱して眺望の良い場所を4か所選び、それぞれ「望岳台」「超然台」「鐘秀台」「吟望台」と命名されました。4箇所には記念の石柱が建てられ、そのうちの一つが日本平山頂にある「吟望台」の石柱です。駿河湾、伊豆半島、富士山を一望できる絶景ポイントでもある吟望台は、近年では清水の港あかりを含めた夜景スポットとしても好評を得ています と。「吟望䑓」の後方から「日本平デジタルタワー」を見る。「日本平夢テラス 展望回廊」手前から「日本平デジタルタワー」を見る。吟望䑓の周囲のフェンスにあった展示パネル。「名勝 日本平」「日本平の価値◎自然的要素景観 :・山頂部から一望できる四周眺望・雄大な富士山 ・清水港、三保半島(三保松原)、清見潟、久能山、 伊豆半島から御前崎にかけての駿河湾一帯、南アルプス地形・地質:・北東から北西側・・・活しゅう曲をあらわす、なだらかな丘陵 ・南東から南西側・・・浸食によって形成された急峻な崖地植物 ・ソメイヨシノ・オオシマザクラ・スジダイ・タブノキ・ヤブツバキなど」◎歴史文化的要素[日本武尊伝説] ・その昔、日本武尊が賊を平定した後、この山の頂上に登り、四方を眺めたところから 日本平と呼ばれるようになった。[久能寺への参詣道] ・平安から中世にかけて久能寺への参詣道が通る[徳富蘇峰が富士山展望地点を名付ける] ・4箇所の展望地点に石碑を建立「日本平公園基本計画基本理念 「富士山に代表される四周眺望」の魅力や「富士山」を介した文化性を視座とし 視点場となる緑地環境の再生と「名勝日本平」の文化的資産としての価値を 継承・発展させる基本テーマ 「風景美術館=日本平」 日本平は国の名勝地、県立自然公園に指定され、日本観光地100選「平原の部1位」 に選ばれた標高高307メートルの丘陵地です。山頂部からは2013年6月に 世界文化遺産に登録された「富士山」を北北東に望み、銀下にはその構成資産と なった「三保松原」や日本三大美港の「清水港」の美しい景色が広がります。」「日本平の文化と周辺の史跡「日本平から描かれた富士山世界遺産「富士山」は、その崇高さから数多くの絵画作品に描かれています。その中でも伝雪舟「富士三保清見寺図」(永青文庫蔵)は、富士山絵画のひとつの手本となっており、日本平か富士山を眺めることで、絵画の風景を味わうことができます。」「清見寺蔵 富士三保清見寺図」横長の画面に富士と三保松原、清見寺を中心とする景観を描いた本図は、近年の研究により雪舟の原画ではなく、室町時代に描かれた忠実な模本と考えられているが、現存作例の極めて乏しい雪舟の真景図を考える上で非常に重要な作品と位置付けられている。また本図は、二代藩主・細川忠興に雪舟門人の祖父をもつ松田円斎が献上したものである と。「日本平周辺の史跡他」。「日本平の地形・地質日本平のある有度山には、東西約6キロメートル、南北6キロメートルの範囲に広がる。標高307メートルの独立した丘陵です。北側は緩やかな斜面となっている一方、駿河湾に面する南側は急な崖が連続する地形になっています。山の北側斜面には茶畑やみかん畑が広がる一方、南側の崖のふもとでは石垣いちごの栽培が盛んです。日本平を散策すると、所々に地層を見ることができます。地層の中の石は角が取れた丸い形をしており、安倍川の河原にある石と良く似ています。この石は円礫といい、有度山の成り立ちを示すものです。有度山は、古い方から順に、根古屋層、久能山層、草薙層、子鹿層、国吉田層の5つの地層によって造られています。根古屋層は約44万~27万年前の海底の地層で、深層の所々に円礫の層が挟まれています。この地層からは、貝やサメの歯など、海に住む生き物の化石が見つかります。久能山層は、大昔の阿部川が造った扇状地の礫層で、ナウマンゾウの歯が見つかっています。さらに、草薙層は浅い海(内湾)の泥層、その上に重なる子鹿層と国吉田層は扇状地の礫層です。これらの地層は、およそ10万年前から急速な隆起を始め、丘陵へと姿を変えてきました。隆起にともなって地層が北向きに傾くとともに、駿河湾に面した部分は波によって削られ、崖地形ができました。波で削り取られた地層の砂礫は北東方向に流され、三保半島の一部になったと考えられます。」「富士山の高さと駿河湾の深さ日本一高い富士山の標高は3776メートル、日本一深い駿河湾の水深は2400メートル以上もあります。海底から山頂までの高低差は6000メートル以上で、ヒマラヤ山脈の高さに匹敵します。日本一深い駿河湾では、陸のプレートの下に、伊豆半島を乗せた海のプレートが沈み込んでいます。日本平の降起は、プレートの沈み込みにともなう地般変動に関係していると考えられます。」「4つの石碑と徳富蘇峰日本平が富士山眺望の名所として知名度を高めた要因のひとつが、徳富蘇峰の存在です。大正15年に日本平に登り、山頂からの風景を絶賛、昭和10年に徳富蘇烽が選んだ4箇所の富士山展望地点に、顕彰碑が建てられました。」01望嶽台 日本平から下った東斜面の舌状に突き出した台地が展望台の1つに選ばれました。 登山道と接しており、遠くに富士山、眼下に清水区市街地と清水港を望むことが できます。02吟望台 日本平山頂広場にあり、蘇峰はこの情景に藤田東湖の「秀でては不ニの嶽と為り 巍々として千秋に聳ゆ」を口ずさみ、わが大和民族の国民性は、この霊山に由って 代表すると感嘆を禁じ得なかったと伝えられています。03鐘秀台 久能寄リの有度山山頂で、前面に富士と三保を、背面に久能の峡谷と駿河区市街地を 望み、さらに御前崎灯台も遠望できる場所です。 ※現在は木々に囲まれています。立入禁止範囲です)04超然台 有度山山頂( 307.2m )で、吟望台と鍾秀台の三角形の一頂点です。 「四顧さえぎるものなき雄大な眺望は、正に超然台の名にふさわしい」と当時の新聞に 掲載されました。 ※整備範囲外です」「静岡市のお茶お茶のはじまり我が国のお茶は、平安時代に最澄や空海などの僧侶が唐(中国)へ留学した際にお茶を持ち帰ったのが始まりとされています。その後、鎌倉時代には栄西禅師(1141 ~ 1215 )が「喫茶養生記」を表し、「茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とお茶の効能を紹介したため、お茶への関心が高まりました。静岡市のお茶は、鎌倉時代中期に栃沢(葵区)生まれの聖ー国師(1202 ~ 1280)が、仏教の修業を終え、宋(中国)から帰国した際に持ち帰ったお茶の種を、足久保(葵区)に蒔いたのがはじまりだと伝えられています。また、同じころ、栄西禅師からお茶の種を譲り受けた明恵上人(1173 ~ 1232)が全国に広め、その内のー箇所が「駿河の清見」(清水区興津付近)との記録があり、これらが清水のお茶のはじまりとされています。ブランド茶について徳川家康公も愛した歴史と本物の味わい静岡本山茶静岡本山茶は安倍川・藁科川流域で栽培され、静岡市を代表する茶産地です。静岡本山茶は豊かな自然環境に恵まれ、上品な味と香気が強いのが特徴で、高品質のお茶が生産されています。徳川家御用達のお茶として愛飲されました。針のような形状の茶葉 金色の水色清水のお茶清水のお茶は、鎌倉時代の「駿河の清見」(清水区興津付近)に始まり、明治時代には「清水港」が日本一の茶輸出港となリ発展を遂げました。「小島」「両河内」「庵原」「日本平」と4つの茶産地があり、山霧が育む繊細な茶葉に適した浅蒸し茶作りにこだわり、針のような形状の茶葉と金色透明な水色が特徴です。ここから広まった「やぶきた茶」日本各地に広がる茶園の約8割を占める優良品種「やぶきた」は1908 (明治41)年、静岡県安倍群有度村(現在の静岡市)の杉山彦三郎翁が選抜した品種です。やぶを切り開いた茶園の北側に植えた茶樹から優良品種を選抜したことで、「やぶきた」の名前が付けられたと言われています。1955 (昭和30)年、静岡県の奨励品種に指定されたことで、急速に普及しました。現在、やぶきたの原樹は静岡県立美術館の近くに移植され、大切に維持されています。」「静岡市のお茶産地」👈リンク。「日本平 夢テラス日本平夢テラスは、静岡県と静岡市が、日本平山頂において一体的に整備をしました。日本平夢テラスからは、富士山や三保松原、駿河湾、市街地を広く見渡すことができます。展望回廊は標高300.5mにあり、1周約200m、八角形の形状をしており、静岡市内で育てられたオクシズ産の木材を使用しています。デザインは新国立競技場を設計した隈研吾建築都市設計事務所が担当。」「日本平夢テラスからの眺望 三保松原」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.07
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この日は、二宮に住む先輩と、静岡県静岡市清水区草薙にある「日本平」そして「久能山東照宮」を訪ねることとした。7:30に自宅を出て二宮に向かう。藤沢バイパスから新湘南バイパスを利用して茅ヶ崎料金所に向かって進む。前方の富士山の勇姿を楽しみながら進む。茅ヶ崎料金所手前。茅ヶ崎料金所を通過し、緩やかな右カーブから。そして茅ヶ崎海岸料金所を通過し、国道134号を進み相模川に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡り「西湘バイパス」へと進む。大磯港を過ぎると、正面に箱根の山々が姿を現した。中央に「神山・1438m」、左に「駒ケ岳・1356m」。「駒ケ岳」の左には「上二子山・1091m」。そして、大磯西ICで西湘バイパスを降り、国道1号を利用して先輩のお宅に向かう。予定時間の8:30に到着し、先輩を助手席に乗せ、東名高速道路の「秦野中井IC」へ向かう。そして東名高速道路を利用して清水ICに向かって進む。そして助手席の先輩に我がカメラを渡し、富士山の勇姿の撮影を依頼。「大井松田IC」手前1kmから。右手に見えて来た富士山。「駒門PA」にてトイレ休憩。「駒門PA」からの富士山。ズームして。さらに。「富士川SA(上り)」にあった大観覧車「Fuji Sky View(フジスカイビュー)」を見る。高さは地上から60m、1周約12分。ゴンドラは36台 と。そして、前方に駿河湾の由比海岸、その先に「薩埵峠」の姿が現れた。「由比PA」まで3km、目的地近くの「日本平PA」まで20kmと。左手に「由比港漁業協同組合」の建物。正面に「薩埵峠」とその上の「立花山?・499.9m」の姿が。「清水JCT」まで4.7km新東名高速道路その先中部横断自動車道へのJCTである。そして「清水IC」で東名高速道路を降り、国道1号、静岡県道157号線➡158号線を南に進む。右折して「清水日本平パークウエイ」👈リンクに入る。「清水日本平パークウエイ」のルート図、そして途中、景色の良い場所で一時停止して撮影。富士山そして右側の裾野の右に「愛鷹山(あしたかやま)」、そして手前に駿河湾。最高峰は標高1504.2mの越前岳。狭義には南方にある1,187.5mの愛鷹山峰を指す。「愛鷹山塊」の詳細をネットから。愛鷹山は第四紀の成層火山である。およそ40万年前に箱根火山や小御岳火山とともに噴火を始めた。10万年前に黒岳溶岩ドームと火砕流を噴出したのを最後に火山活動を終えた。山体はフォッサマグナ地域に含まれ、富士山と同じく、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界付近に位置する。位牌岳の西側に火口があったと考えられているが、活動の終息から長期間が経過し、開析が進んでいるため明瞭な火口地形は残っていない。山体の北側が、後からの火山活動で成長した富士山のすそ野に取り込まれている とネットから。以前に訪ねた薩埵峠からの富士山、愛鷹山の姿。富士山をズームして。さらに。さらに。やや進んで再び一時停止。右手前がこの後訪ねた「三保の松原」の先端部。清水港の防波堤も確認できた。 ・・・つづく・・・
2024.03.06
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次に訪ねたのが「宇佐神社」。東京都世田谷区尾山台2丁目11−3。社号標石「宇佐神社」。石鳥居を潜り、神社境内を進む。石段を上る。正面に「宇佐神社」の社殿。 御祭神:[誉田別命・ほんだわけのみこと)[応神天皇・おうじんてんのう]御由緒源頼義公が、永承六年安部一族定のために尾山の地に陣を張り勝利を誓い、そして康平五年(1063年)安部一族を平定し、ここに八幡社を建て神に勝利を報告し感謝したのが当社の起りであります。また境内に五世紀頃の八幡塚古墳があります と。創建 康平5年(1063年)別名 尾山台宇佐神社。神楽殿であっただろうか。「宇佐神社由緒祭神 誉田別命(応神天皇)当社は今から約九百年前八幡太郎義家の父源頼義公の創建になるものであります。第七十代後冷泉天皇の御代の永承六年に安倍頼時その子貞任宗任が朝廷に謀反をおこしました。頼義公は朝廷に討伐を命ぜられ京より武蔵の国に入り、ここ尾山の地に陣営を張りました。すると大空には白雲が八つに分かれてたなびきその形が源氏の白旗のように見えたので大いに喜び頼義公は地に跪き源氏の氏神である八幡様に勝利の勝利の暁にはこの地に必ず八幡社を建てる事を誓い蝦夷地に向かいました。戦いは九年に及びようやく康平五年安倍一族を平定し意気揚々と京に凱旋する道すがら尾山の地に立ち寄りました。そして頼義公は先年の誓いによってこの地に社を建てて八幡様をまつり戦勝を報告し神に感謝しました。これが宇佐神社の起こりであります。以来宇佐神社霊験あらたかな神として人々の尊崇厚く平和を導く尊い神様武運の神様として広く崇められてきました。」 手水舎。社務所。拝殿。狛犬(右)。狛犬(左)。「拝殿」にさらに近づいて。 「飾り瓦」。 「命の言葉 令和五年十二月 神社は心のふるさと 未来に受け継ごう「美しい国ぶり」 人の行ふべきかぎりをば行ふが人の道 本居宣長解説 自分の出来ることを一所懸命にやる。報われる報われないは、人の力の及ばないこと。このことを心得て、大いなる事にあたるべし『玉くしげ』」。 「拝殿」の影が石垣に映って。「庚申塔」が木製祠の中に。 近づいて。青面金剛立像。寛延元年(1748)奉納。石垣に張り付いた蔦の紅葉。「本殿」。 「宇佐神社」の東側にあった「八幡塚古墳」に向かって駐車場を進む。 これが「八幡塚古墳」であっただろうか。 「関係者以外 立入禁止」と。 墳頂に上る場所も見つからなかった。入り口に「八幡塚古墳」の石柱が。奥に見える階段がある場所が古墳であった。宇佐神社社殿の裏。社務所脇の細い坂道をあがっていったところにあった。八幡塚古墳墳頂には柵に囲まれて小石祠が四つある。「八幡山古墳」を後にして、「環八通り」に向かって北に進むと、右手にあったのが「寮の坂」碑。 右:多摩川 左:籠谷戸 「寮の坂の由来松高山傳乗寺は、区内における古刹であり、その縁起は遠く後伏見天皇の正和五年(一三一六)と刻まれた板碑の発掘によっても知られるものである。往昔傳乗寺は坂の東側台地に所在し、かつ本道とならんで僧侶の学寮が建てられていたために、この坂道を土地の人は寮の坂と呼んでいる。坂上にある民家の屋号が堂の上と通称されていたことと考え合わせると、この坂の名称の由来が思い起こされる。なお、寮の坂の東側にある雙葉学園を抱く盆地は、室町時代に籠谷戸と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔滔と打ち寄せ、時の奥沢城主大平出羽守は、上流から運ばれた武器、兵糧の類を籠谷戸の寮の坂あたりに陸揚げして城へ運び入れたともいい伝えられている。さらに時代は下り、江戸時代に入ると、川崎泉沢寺と奥沢浄真寺の中間軍事拠点として小山傳乗寺がこれに当り、寮の坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったそうである。設置者: 不 明設置日: 昭和六十年三月」と。 そして更に北に進み「環八通り」の「尾山台一丁目」交差点に出る。 左折して「環八通り」を西・等々力渓谷方向に進む。 「尾山台」交差点を通過。 左折して「等々力不動尊」に向かって歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.05
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丸子川沿いに更に進み、右折して「八幡橋」を渡り北に進むと前方左手に寺院が現れた。「浄土宗 傳乗寺」の東側にあった通用門・山門。東京都世田谷区尾山台2丁目10−3。「浄土宗 傳乗寺 法然上人浄土開宗八百年記念」。二階建ての建物は参集殿。そして高さは15m程の立派「五重塔」。木造の五重塔は2005年の建立と。 「五重塔」と境内。 こちら、正門の「仁王門」を境内から。紅葉と五重塔。五重塔を見上げて。「相輪(そうりん)」をズームして。「相輪」の部分名称。相輪とは、五重塔などの仏塔の屋根から天に向かって突き出た金属製の部分の総称。仏教の開祖、釈迦が荼毘に付された際に残された仏舎利を納めた塚であるストゥーパの上に重ねられた傘が起源とされる。 インドは気候が高温のため、釈迦を暑さから守るためと言われている。上から順に宝珠:仏舎利(釈迦の骨)が納められる。竜車:奈良時代から平安時代の高貴な者の乗り物水煙:火炎の透し彫り。火は、木造の建築物が火災に繋がるため嫌われ、水煙と呼ばれる。 お釈迦様が火葬されたことをあらわす。九輪(宝輪):五智如来と四菩薩を表す。9つの輪からなる[注釈 1]。受花(請花):飾り台。蓮華の花。伏鉢(覆鉢):鉢を伏せた形をした盛り土形の墓、ストゥーパ形。お墓を表している。露盤:伏鉢の土台。宝珠は仏舎利が納められるため、最も重要とされる。 なお、中心を貫く棒は「擦」(または「刹管」)と呼ばれる。 また、仏舎利は塔の中に安置されていることもある。近寄って見上げて。寺務所と参集殿。寺務所。参集殿。摩尼車。「本堂」。 浄土宗寺院の伝乗寺は、松高山法生院と号します。伝乗寺は、住誉良公和尚が開山となり創建したと本尊:阿弥陀如来像。本堂は文化4年(1807)3月に、庫裡は享和2年(1802)2月に建てられていると。世田谷区尾山台2-10-3唐破風屋根に近づいて。「「唐破風」とは、中央部を凸型に、両端部を凹型の曲線状にした破風のこと。破風とは、東アジアに広く分布する屋根の妻側の造形のことであり、切妻造や入母屋造の屋根の妻側にも取り付けられている。破風は、妻側の垂木や母屋、桁の部材の先端部分を隠すために取り付けられる板、またはその部位のことをさす。形状によって名称が変化する。唐破風は日本特有の破風形式で、平安時代にはすでに同様のものがあったと考えられており、現存する最古のものと考えられているのは、鎌倉時代に建てられた出雲建雄神社の拝殿だ。古いものは勾配が緩やかで、新しいものほど急である。神社建築や城郭建築、近世の寺院などに多く見られる様式であり、装飾性が高い。」とネットから。中央下部に「唐破風懸魚」もしくは通称として「兎の毛通し(うのけどおし)」。「蟇股横木(梁・桁)に設置し、荷重を分散して支えるために、下側が広くなっている部材。そのシルエットが蛙の股の様に見えることから「蟇股」と呼ばれるようになった」と。扁額「松高山」。 木鼻(右)。頭貫(かしらぬき)の先端が柱より出ている部分のことをさしている。簡単にいうと、木の端という意味である。神社や寺院では、本殿や堂の入り口の柱に木鼻をとりつける。鎌倉時代初期のものは直線的で単純な装飾である。室町時代を迎え禅宗が入ってきたことも関係して、複雑な装飾を施すようになった。木鼻には、獅子鼻貘鼻、龍鼻、雲形花や葉をかたどった植物鼻などがある。獅子鼻獅子をかたどった彫刻・ライオンのこと。インドでは王や仏の守護神とされている。各種の装飾に用いられた。木鼻(左)。貘(ばく)鼻中国の想像上の動物の彫刻。鼻は象、目は犀、毛は牛、足は虎で銅や鉄を食べ、人の悪夢を食べてくれるという。「本堂」の左手、墓地の入口にあった地蔵様。墓地。コエビソウ(小海老草) キツネノマゴ科苞(ほう)とよばれる赤褐色の葉がエビのように見えるので「コエビソウ」の和名があります。エビの胴体ような部分は「花序」とよばれ、実際の花はその間から覗いています。仁王門への参道を進む。紅葉に陽光が射し込む。五重塔を振り返って。ここにも石仏が2体。そして「仁王門」と「五重塔」。 近づいて。仁王像(阿行)。仁王像(吽行)。そして次の目的地の「宇佐神社」に向かう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.04
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「照善寺」を後にして「丸子川」に架かる橋を渡ると正面の民家の塀に庚申塔が塗り固められていた。照善寺の門前にあたる場所である。ここは筏道でもあったので、江戸時代には青梅の筏師が続々と帰途を行った道で、途中には休み処もたくさんあったと。右隣りも昭和期までは酒屋をやっていて、賑わった街道筋だった痕跡があるのだと。庚申塔は駒型で、青面金剛像に三猿の図柄。造立年は元文元年(1736)11月と。正面右にシンプルに「奉納 庚申」とあるが、側面が埋められて見えないのでそれ以外の情報は分からない。大田区田園調布5丁目50-3 その先にあったのが「お鷹の圦(いり)堰」。用水の余水を多摩川に流す分水堰。現在もこの場所には多摩川への分水路の水門。さらにその下流の田園調布一丁目の多摩川浅間神社付近の丸子橋の上流で多摩川左岸に合流する。丸子川はここで終わるが、六郷用水は現在の大田区の東部まで続いているとのこと。 「お鷹の圦(いり)堰」を振り返って。鯉がのんびりと。丸子川沿いは桜並木となっていた。「樹木の根元に腐朽があり倒木の恐れがあったため伐採を行いました。」と。右手にあったのが「田園調布八幡神社」。 扁額「八幡神社」。 「八幡神社 案内」。 「御祭神 誉田別之命(ほむたわけのみこと) 創建 建長年間(西曆一二四九~一二五六年 鎌倉時代) 所在地 東京都大田区田園調布五丁目三〇番地 新建築物 社務所 木造モルタル 寄棟造 鉄板葺 その他の現存構築物 社殿 本殿 木造 一間社流造 板葺 年代 推定明治三十三年 社殿 本殿覆屋 木造モルタル 流造 瓦葺 幣殿 木造 切妻造 鉄板葺 以上二棟の年代 昭和四十六年 拝殿 木造 入母屋造 瓦葺 年代 推定 明治三十三年 稲荷神社 木造 一間社流造 鉄板葺 鉄造鳥居 鳥居 石造明神型 年代 享和二年(一八〇二) 石造明神型 年代 昭和十五年 狛犬 石造 年代 大正十年 手水舍 木造 年代 昭和四十七年 手水石 石造 年代 昭和十四年」 「由緒創建 田園調布八幡神社の創建は鎌倉時代の建長年間(西暦一二四九~一二五六)と 伝えられる。 この時代、鎌倉幕府は執権北条氏が実権を握り、国内基盤固めを 行なっていた。各地では 武士達はもとより村人達も幕府に忠誠を示す意味もあり、 源氏の氏神を祀る八幡信仰が盛ん で、多くの八幡神社が建てられた。 当時、この村の西側、現在の雙葉学園南側の盆地は篭谷戸(ろうやと…今もそう呼ぶ 年配者もいる)と呼ばれる入江で、多摩川の水が滔々と打ち寄せる自然の良港であり、 物資を積 んだ舟が盛んに出入りしていた。また、この村の高台部分には東より西へ 貫いて鎌倉街道が 通り、篭谷戸の港に接続していた。港を中心としてこの一帯には 多くの鎌倉武士が駐屯し、 鎌倉街道の要衝の地となっていた。そして、この 八幡神社の地は港の入口に突き出した台地で、舟の出入りを監視できる重要な場所で あった。鎌倉武士はその重要な場所に祠を建て、 八幡神社を勧請した。以来、この 八幡神社の地は聖地となり、人々に崇められてきた。 中興 天正十八年(西暦一五九〇年) 小田原北条氏滅亡後、八王子城主、北条氏照の旧臣、 落合某が この村に庵を結び、主家の冥福を祈った。 そして、寛永年間(西暦一六二四 ~一六四四年)、 落合某の孫、落合弥左衛門らによりこの聖地に新たな社殿が創建 され、ご神体が祀られた。 江戸時代、この神社は武蔵国荏原郡世田ヶ谷領上沼部村に属し、明治中期の四村合併 まで 村社であった。 寛政四年(西暦一七九二年)には、この村の知行主となった神谷縫之助も氏神とする など、今日まで常にこの地域の人々の心の拠り所として崇敬されて来たのである。」 「丸子川」に架かる橋の先には、石段がありその先に一の鳥居が。 「八幡橋」 丸子川を見る。石段を上って行った。ユニークな手水場。手水鉢には「浄心水」と。 龍の吐出口に竹が。正面に社殿。御祭神 誉田別之命(ほむたわけのみこと) 創建 建長年間(西曆一二四九~一二五六年 鎌倉時代)狛犬(右・阿形) 石造 年代 大正十年。狛犬(左・吽形) 石造 年代 大正十年。本坪鈴(ほんつぼすず)。移動して。境内社・稲荷社。幟には「正一位 稲荷大明神」と。 朱の鳥居の先に小さな稲荷社社殿が。近づいて。さらに。社務所。境内のイチョウの黄葉。そして「田園調布八幡神社」を後にして、丸子川に沿ってさらに北方向に進む。 「庵谷橋(いおりやばし)」を過ぎて「吹上橋」へ。 「吹上橋」の欄干には花菖蒲の木彫りの姿が。吹上橋の前にあったのが「ゆうちょ銀行ATM 田園調布五郵便局」。 その先にあったのが「上の橋」。 丸子川に架かる橋の名前。更に丸子川に沿って進んで行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.03
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「蓬莱山古墳」を後にして、田園調布4丁目の高級住宅街を北方向に向かって進む。 左折して、多摩川方面の下り坂を進む。正面に武蔵小杉の高層ビル群が見えた。右に折れると左側には大山、丹沢山の姿が。さらに西に向かって進む。「大田区田園調布四丁目 34-2」と。右手にあったのが「秋葉のクロマツ」。東京都大田区田園調布五丁目に生育するクロマツの巨木。「都天然記念物 秋葉のクロマツ所在 大田区田園調布五ノ三ノ一九号指定 昭和三十八年三月十九日主幹は直立し、根もとから約7mのところで枝を四方にのばし、傘状に拡がる。目通り幹囲3.9m、高さ約15m。根もとに照善寺の守護神として秋葉神社の小祠が祀られているので、「秋葉のマツ」といわれている。多摩川の台地の上にあって、遠くからも望見することができ、樹勢は旺盛である。都内におけるクロマツの巨大なものとして指定。クロマツは海岸地方に多く自生する常緑樹で樹皮は暗褐色、四月に開花する。オマツとも呼ばれる。昭和43年10月1日 建設東京都教育委員会」 推定の樹齢は約300年といわれ、多摩川近くの台地上に生育していることから遠くからもよく目立つ木である。この木は、1963年(昭和38年)に東京都の天然記念物に指定された。「秋葉のクロマツ」を廻り込みながら住宅街を歩く。 そして見事に紅葉する木々も。塀の紅葉も見事。そして坂を上り終えた場所にあった案内柱「馬坂(うまさか)」。 「この坂道は、大正の頃まで、馬がひく荷車で台地へ上る唯一の坂道であるため、馬坂と呼ばれた。昔は荷車が通るだけの狭い道幅であったが、耕地整理により道幅も現在に近いものになったといわれる。また、寺坂と呼ばれたこともあった。」 「馬坂」を振り返って。「大田区田園調布五丁目5」と。 そして「馬坂」を引き返して、下り、右手にあった「照善寺」を訪ねた。「照善寺」。先ほど訪ねた「秋葉のクロマツ」が生育している場所は、昔は照善寺の所有地内であったと。照善寺は山号を「常光山」、院号を「無量光院」といい、1586年(天正14年)にこの地にできた草庵をもとに、1639年(寛永16年)に相蓮社廣誉全公が開山となって創建した寺院で浄土宗に属する。「東門」を入ると左手にあったのが「地蔵堂」。 境内の南側にも山門があった。正面に「本堂」。「常光山無量光院照善寺」、本尊:阿弥陀三尊。「本堂」の向きからして、上記山門が正式な正門か? 「宗歌月影の いたらぬさとは なけれども ながむる人の 心にぞすむ 宗祖 法然上人御詠」。月の光は、野山や里をくまなく平等に照らしていても、その月をながめる人でなければその美しさは心に伝わらない、という意味であると。「月影」は仏さまの光。「ながむる」とはみ教えを聞く「ご聴聞(ちょうもん)」のことと。法然坊源空像。 「求道青年法然坊源空 廿四歳」と。 保元元年(1156) 法然上人は24歳の時、広く人々を救うための仏教を求めて釈迦像の前に七日間おこもりになったのだと。角塔婆「奉修 本尊阿弥陀如来遷座供養之寶塔」と。 廻り込んで。四角柱状の卒塔婆のこと。四角塔婆ともいう。年忌法要等の際に墓の傍に建てる薄い板状の板塔婆に対する柱状の塔婆。本堂落慶式、秘仏開帳、祖師大遠忌、十夜等の法会において境内に建てられる。幅五、六寸(一五センチから一八センチ)、長さ一丈(約三メートル)くらいから、大きいものになると幅一尺(約三〇センチ)以上、長さ二丈(約六メートル)をこえるものもある。特に長野善光寺で、七年に一度行われる本尊開帳のときに建てられる回向柱えこうばしらといわれる角塔婆はよく知られている。形状は五輪塔を模したもので、上から空輪・風輪・火輪・水輪を刻し、一番下の地輪の部分を長くしてある。浄書するときには、下部の土中に埋める部分に文字がかからないように、また四面の文字が均一におさまるように、字配りに工夫が必要である。秘仏開帳や大寺院の十夜法要などには、本堂の本尊と角塔婆の間を、本尊から内陣と外陣の境までは五色の紐で、そこから角塔婆までは白布を紐のようにしてつなぐ。角塔婆の正面を、本堂の本尊と同じ向きにする場合と、向かい合わせにする場合とがある。本堂の向きによっては、角塔婆の正面が東方の面(発心門)とならない場合もあるとのこと。「本堂」に近づいて。 屋根の飾り「巴蓋(ともえぶた)」には獅子の姿が。 扁額「照善寺」。 内陣を観る。さらにズームして。本堂脇の墓所入口にあったのは無縁塚か?石仏が多数集められており、その中の一基が馬頭観音。舟型に三面六臂の馬頭観世音菩薩を陽刻、頭上に馬頭を持つので馬頭観音ということがわかる。施主名落合次郎兵衛とのみあり、年紀は不明だが明治ではなく江戸時代のものかと思われる。石仏群の左端のひときわ大きな2基の石仏はどちらも庚申講中によるものである。右の石仏の尊像は阿弥陀如来像。造立年は寛文12年(1672)12月で、尊像脇には「石佛造立旨趣者」「為庚申供養成就」そして講衆十人とある。左の石仏は地蔵菩薩立像で、こちらの造立年は寛文5年(1665)7月。尊像脇には「於當寺地蔵建立趣者」「為庚申講供養成就也」とある。下部には落合氏、長氏の願主名が残っている。聖観世音菩薩像であっただろうか。穏やかなお顔に近づいて。本堂の左側には墓地が。再び地蔵堂を。地蔵堂の屋根には「火焔宝珠」が。境内から「山門」を再び。 掲示板には・・・・。山門の扁額は「常光山」。 振り返って。山門手前の左側の石碑には「浄土宗 照善寺」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.02
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次に訪ねたのが「目黒通り」沿い「満願寺坂」を更に進んだ場所にあった「玉川神社」。東京都世田谷区等々力3丁目27−7。社号標石「玉川神社」。石段の上に「玉川神社」の「一の鳥居」。「玉川神社祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉再尊(いざなみのみこと)、 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)例祭 九月二十八日文亀年間(一五〇一~四)に世田谷城主吉良頼康が勧請したものと伝え、別当は、満願寺で等々カ村の鎮守であった。明治五年に村社に定められ、同四十一年に熊野神社の社号を玉川神社と改め、付近の天祖神社、諏訪神社、御獄神社を合祀した。境内には、郷土開発の偉人、豊田正治翁の碑などがある。 昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会。」せたがや百景97 等々力の玉川神社とその周辺巨大な石灯籠(右)。巨大な石灯籠(左)。狛犬(右)。狛犬(左)。石鳥居の先に忠魂塔。忠魂塔。「手水舎」。龍の吐水口(とすいこう)が2体。参道の先に「拝殿」。左手に「神楽殿」。境内の銀杏の木の黄葉。拝殿に向かって進む。右手に社務所。「おみくじ結び所」。ここにも古そうな狛獅子(右)。古そうな狛獅子(左)。「祓戸社」。近づいて。「祓戸の神様は諸々の禍事・罪・穢を祓ってくれる神様です先に「祓へ給へ清め給へ」と唱へて、身を清めてから本社・末社をお参りしてください」拝殿。御祭神は天照大御神・伊邪那岐神・伊邪那美神・事解男神・大国主神・少彦名神・ 日本武尊・建御名方神 八柱と。拝殿は昭和十五年(1940)に再建されたもの。旧社殿は大正七年(1918)に不審火によって焼失。この石碑は?裏側であったか?「髙屋直弘翁 留魂碑」。「郷土開發之偉人 豐田正治翁之碑」。「整地記念碑」。「境内社」。天満宮と八幡神社の合殿。「大國社」。手前に二対の狛犬が。内陣には鏡が。朱色の鳥居が設けられ稲荷社。正一位稲荷大明神の幟。多くの狐様が迎えてくれた。「神明社」。「三峯神社」。「三峯神社」。神明社の小祠。「社殿再建之碑」。そして「石獅子のオブジェ」。近づいて。獅子が千尋の谷に子を突き落とすという故事に因んだもの。「石獅子(いわしし)獅子は子を生むと その子を深い谷底に投げ落toし生き残ったものだけ育てるという俗説から自分の子に苦しい試練を与えその才能をためし 立派な人間に育てることのたとえとして 遠き昔よりこの様な子育ての信仰があった」父獅子。子獅子。母獅子。神符授与所。境内から石鳥居を見る。移動して境内を。右手に社務所。「クスノキ」。形状から「とっくりクス」と呼ばれていると。太い幹から新芽が伸びて。「名木百選 クスノキ 世田谷区昭和62年3月選定令和2年1月再選定」そして「玉川神社」を後にして「等々力駅」に向かって「目黒通り」を戻る。先ほど訪ねた満願寺の山門方向に進む。「満願寺」の黄葉を見上げて。等々力の旧家を再び。映画ポスター「アントニオ猪木を探して」。プロレスリングポスター「ベルク Presents WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」。そして駅近くで遅い昼食を。中華丼を。そして「等々力駅」から帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.01
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そして「古墳展示室」を後にして外に出る。見事に黄葉した多摩川台公園第一広場の隅のイチョウを再び。右手奥に見えたのが「カトリック田園調布教会」。 1931(昭和6)年にカナダ・フランシスコ会の宣教師によって創立された「カトリック田園調布教会」。アシジの聖フランシスコを保護の聖人としていることから、「聖フランシスコ教会」とも呼ばれている。現在の聖堂は1955(昭和30)年に建てられたもの。時間は11:00。「平和都市宣言」像。「平和の像・愛し子」と。1984年(昭和59年)8月15日「……大田区は平和憲法を擁護し核兵器のない平和都市であることを宣言する」とあった。 母子のお顔をズームして。多摩川台公園第一広場を振り返って。左にメタセコイヤ、右にイチョウの大木が黄葉して。多摩川台公園第一広場の紅葉を楽しむ。左手に「第2号墳」。 その先に「第3号墳」。「古墳展示室」を振り返る。「東京都指定史跡多摩川台古墳群所在地 大田区田園調布一丁目六十三番 同四丁目三番 指 定 平成十二年三月六日多摩川台古墳は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の南側には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都都指定史跡宝莱山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(四世紀)に築造されている。古墳群は、最初に二号墳が六世紀前半に築造され、二号墳を前方部として利用し、一号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長三十九メートル)が六世紀後半に築造された。その後、三号墳から八号墳までの円墳(直径十三~十九メートル)が七世紀中頃まで継続して築造された。発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄鏃等の武具類、耳飾りや管玉等の装身具類、馬具の轡、須恵器や土師器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発見された。本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に五十四基の古墳が確認されていた荏原台古墳群の一支群にあたる。今日、荏原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでなく、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。平成十三年三月三十一日 設置 東京都教育委員会」 広場から一段上の遊歩道へ。「第?号墳」。展望所前にあった案内板と休憩所。「多摩川の自然」。ふなやこいが釣れるようです。鳥では、ひよどりやきじばとなどが見られると。「多摩川台公園からのながめ」。 丹沢の山々の奥に富士山の姿が見えると。富士山の姿を探す。前方に「Uvanceとどろきスタジアム by Fujitsu」の姿も確認できた。 ズームして富士山の姿を確認。①~⑦までの古墳群の配置図をズームして。武蔵小杉周辺の高層ビル群。「第4号墳」。 さらに遊歩道を進む。「第5号墳」。 「多摩川台古墳群の案内」。 ズームして。「第6号墳」。「第7号墳」 。そして「虹橋」が前方に。8号墳と宝萊山古墳はこの橋の先にあるのだ。「虹橋」。 「虹橋」の下には車両が通過できる道路が(北方向)。南方向。「虹橋」を渡る。 「大田区立 多摩川台公園 案内板」。ズームして。現在地はここ。「大田区自然観察路「雑木林のみち」ポイント2 多摩川台公園の植生雑木林は人の手によって作られた林で、クロマツなどの高木やムラサキシキプなどの中低木で形成されています。また、園内にはアジサイなども植載されています。それそれの植物の特徴や季節ごとの変化について観察してみましよう。」 「第二広場」が前方に見えて来た。 周囲の紅葉・黄葉はピークに。ここにも「多摩川台古墳群」案内板が。 近づいて。見事な紅葉の下を歩く。「第8号墳」。 公園内のいたる場所に「大田区立 多摩川台公園 案内板」が設置されていた。 現在地はここ。「第二広場」北側の紅葉を楽しむ。黄金ヒバの黄葉であっただろうか?モミジ葉は炎の如くに。そして「多摩川台公園」の北側入口にいったん出る。「多摩川台公園」。 そして再び「宝莱山古墳」前の広場に向かって坂道を南に向かって上る。広場にあった案内板。「東京都指定史跡蓬莱山(ほうらいさん)古墳」案内板。 「東京都指定史跡蓬莱山古墳蓬莱山古墳は、多摩川下流域左岸の台地上、大田区多摩川台公園西端の標高三十七・五m付近に築造された前方後円墳である。国史跡亀甲山古墳に次ぐ全長約九十七メートルの規模をもち、古墳時代前記前半(四世紀前半)に築かれたこの地域最古の前方後円墳である。前方部は東南に向き、この地域最大規模を誇る全長約百七メートルの亀甲山古墳の前方部と向き合う位置に造られている。昭和九年に後円部が土取り工事で削平された際に、粘土槨の埋葬施設が発見され、倣製四獣鏡、紡錘車形碧玉製品、玉類、剣、槍等が出土している。現在、この出土品は、慶応義塾大学と大田区立郷土博物館に展示・保管されている。また、この出土品のレプリカは、多摩川台公園内の古墳展示室に展示されている。平成七年の公園整備にともなう確認調査において、前方部にも埋葬施設のあることが推定され、前方部の先端が「撥状」に広がる形をとり、前方部南側の墳丘裾から台地の際まで張り出していることが明らかにされた。墳丘は、後円部三段、前方部二段に築かれ、墳丘の周囲は削り出しによる一段のテラスが設けられている。この古墳は、多摩川流域の古墳時代を解明する上で重要な遺跡として、平成八年三月十八日付けで、東京都指定史跡に指定された。大田区」 現状と現在地。断面図と古墳の規模。「蓬莱山古墳」の紅葉をカメラで追う。「多摩川台公園(蓬莱山古墳拡張部)の樹林多摩川台公園は、都市の中にありながらもまとまった緑と豊かな自然が残る公園です。また、丘陵地にあるため遠くからでも挑めることができる貴重な樹林です。でも、もともとの自然林ではありません。人の影響を受け、管理されながら自然を保っている二次的な公園型雑木林です。この宝来山古墳拡張部も人の影響を受けた樹林ですが、人の手が入らなくなってからだんだん樹林が荒れ始めてきました。これガらは適度に管理して、樹木を守っていきます。」 「蓬莱山古墳」の北口入口にはゲートが。「大田区立 多摩川台公園 案内板」。 「この門は下記の時間で開閉します」 と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.01
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「等々力不動尊」を後にして、都道312号線を「等々力駅」方面に進む。「等々力不動前」交差点を渡る。下を走るのが「環八通り・都道311号線」。そして脇の道「用賀中町通り」に入ると右側、ポストの横にあったのが「逆川」と書かれた石柱。等々力渓谷で谷沢川に合流する逆川は、昭和初期の耕地整理時に上流が切り離され、河川争奪前の谷沢川下流だった九品仏川へ繋がれたのだが、図面から推測するに下流は大井町線南側を西進する水路の流末となったようだ。線路を挟んで逆向きに流れる水路があったことになるが、真相や如何に。写真はネットから。この下に暗渠があり、逆川が流れているのであろう。ここが「等々力渓谷」の「ゴルフ橋」側の入口。しかしこの先、「ゴルフ橋」から先は通行止めになっているのであった。その先、成城石井等々力店の先にあったのが茅葺屋根の建物。世田谷区の有形文化財に指定されている「鈴木家住宅穀倉」。穀倉は、明治8年(1875)に建てられた小規模な建物である。外壁には板を打ち付け、建物の三方に下屋を設けて屋根を深く葺き下ろし、風雨から建物を守っている。内部は床・天井・壁ともに板張りで、ネズミや害虫の侵入を防ぐ工夫がされている。入口には錠前が付き、厳重な戸締りがされている。天井裏には梁がなく物置として利用していたようだ。東京都世田谷区等々力2丁目39番。「世田谷区指定有形文化財(建造物)鈴木家住宅穀倉 一棟指定年月日 平成二十一年十一月十六日構造及び形式 木造平屋建 寄棟造 茅葺 扠首組構造規模 桁行 四・五四五m(一五尺) 梁間 四・八四八m(一六尺)建築年代 明治八年(一八七五年) (内壁に「明治八年 亥年」墨書銘)鈴木家は旧等々力村学宿(現在地)に古くから住む旧家で、屋号を「新家(にいや)」といいました。明治時代には農業のかたわら店を営み、炭や薪、木材などを商っていました。商品は青梅や五日市辺りから多摩川を下る筏流しに運ばせ、野毛と玉堤境にある通称「炭河岸(すみがし)」で荷揚げされました。大正時代からは材木店を本業とし、鈴銀材木店として深川の木場と本格的な取引をするようになりました。この木造穀倉は穀物の収納を目的に伝統的な建築構法で建てられました。人口の錠前、内部の壁や天井のていねいな張板に穀倉の特徴が見られます。また、軒下を広くとり風雨をしのぐ工夫がされています。さらに、小屋染を省略し天井裏にも収納ができます。区内にあった木造穀倉は多くが取り壊され、現存する事例が極めて少なくなっています。鈴木家住宅穀倉は江戸時代末期から明治初期の農家の屋敷構えや生活形態、地域の歴史を伝える貴重な建造物です。 世田谷区教育委員会」」奥にあった白壁の倉。廻り込んで。こちらが主屋であっただろうか?そして「等々力駅」横の東急大井町線の踏切を渡り、2つ目の路地を右折して進む。左手にあった小さな木祠。詳細は不明。超立派な民家の入口。敷地内には朱の鳥居の姿も。扁額「竹駒稲荷大明神」と。その先にあったのが「満願寺」。山門は大きなわけではないが、モダンな造り。境内の広さが遠くからも分かるのであった。 東京都世田谷区等々力3丁目15−1。「満願寺 縁起致航山感應院満願寺は真言宗智山派の名刹で、本尊は金剛界大日如来、開創は平安末と伝えられる。室町時代に吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城に祈願寺として現在地に移され中興された。山号を醫王山から致航山に改め、このときに本尊は、薬師如来から大日如来となった。徳川幕府より寺領十三石を得、総本山に代わって仏教、密教を教え伝える灌頂道場でもあり常法談林三衣の格式を持つ寺である。現在の山容は昭和四十五年に落成した昭和を代表する名建築。設計は現代数寄屋建築の第一人者吉田五十八氏。昭和六十二年に境内西側に講堂が完成。また客殿の北側には総檜造りの大塔が聳え静謐な宗教空間を醸し出している。大塔の本尊は胎蔵界大日如来が虚空に浮かぶ中台八葉院に安置されている。講堂の本尊は八頭の獅子座に座る一字金輪如来。講堂の一隅には一言祈れば願いが叶うという日本三体地蔵の一言地蔵が祀られ多くの参詣者が訪れる。境内北側には薬師如来を祀る瑠璃光院薬師堂があり東隣には玉川神社(旧熊野権現)があり明治までは満願寺が別當を勤める。ご本堂北側には東京都史跡、江戸時代の万能の天才、細井廣澤の墓がある。山門の額「致航山」は廣澤の書。本堂の「満願寺」は廣澤の長男、九皐の書。当山には廣澤の遺品が数多く伝わる。なお兎々呂城を「ととろき」と読むところから等々力という地名の由来という一説あり。平成二十五年(2013)から平成の大改修を行い、本堂、客殿の大屋根をチタンに葺き替えと大塔檜皮の葺き替え創建当初の美しい姿を甦らせた。日本全国に名前の轟く等々力不動尊は満願寺が管理し、同じくご本堂の瓦の葺き替え、舞台の改修、山門の解体修理なども終わり、大般若経六百巻の造顕し、来る令和五年(2023年)に迎える弘法大使ご生誕一二五〇年記念大聖業として境内整備を行っている。 満願寺 山主 龍樹」この様な長文の説明文は現場で読んでも頭に入らない自分ですので、写真に撮ってブログを書きながら、そしてネットで調べながら理解・復習しているのであるが。「菫(すみれ) 境内の草は春に綺麗な花をつける菫なので抜かずに残しています。 満願寺」と。扁額「致航山」。後ほど触れる細井廣澤先生の書だと。正面に本堂。境内の広さに驚いたのであった。本堂の後ろに木があるが、境内にはほぼない。代わりに一面に砂利が敷いてあった。キリッとした感じの清浄な空気。現在の本堂は、数寄屋造りの第一人者である吉田五十八氏設計の昭和を代表する名建築だと。1470年に吉良氏(世田谷一帯に勢力を誇っていた豪族)によって開基されたという。本堂に近づいて。真言宗智山派で、開創は平安時代末。中興は室町時代で、吉良氏の居城であった兎々呂(ととろ)城の一角(現在地)に祈願寺として移築されたとのこと。同寺は、[玉川八十八ヶ所霊場 第五十四番札所]であると。扁額「満願寺」。山門の扁額を書いた細井廣澤先生の子、細井九皋(きゅうこう)の書。本堂の内陣。さらにズームして。本堂の右側の建物。こちらに「寺務所」があるようだ。右側には「弘法大師一千百年御遠忌供養塔」が立っていた。「弘法大師一千百年御遠忌供養塔」に近づいて。墓地への入口にあった「戦没者慰霊碑」。多くの卒塔婆が奉納されていた。立派な「宝篋印塔」。本堂の左横、墓地の前には石仏が並ぶ。別の場所にも墓地を背にして六地蔵が。「普賢延命大安樂不空眞實一百八臂金剛蔵王大菩薩」と刻まれた石碑。近づいて。線刻が見事に美しく刻まれていた。一百八臂というだけあって、たくさんの剣が描かれていたのであった。中央には弥勒菩薩像?が。正面に五輪塔が並ぶ墓地が。歴代住職の墓であっただろうか。ここにも六地蔵が。多くの石仏が様々な場所に並ぶ。最奥にあったのが「細井廣澤先生墓所」。細井廣澤=1658~1736年・江戸中期の儒学者・書家。遠江(とおとうみ)の人。名は知慎(ともちか)。朱子学・陽明学を修め、また、唐様書道を広めた。柳沢吉保に仕え、歴代天皇陵の修築に尽力(デジタル大辞林)とネットから。明治44年4月に建てられたようだが、折れて修復した痕が痛ましいのではあったが。細井家一族の墓碑とおぼしきものが並んでいた。細井廣澤先生の墓石は左の角にあったのだ。講堂に安置された「一言地蔵尊」。近づいて。心をこめて一言祈願すると願いがかなうとのこと。「一言地蔵尊 おん かかか びさんまえい そわか日本三体地蔵とも言われた満願寺にはもと それそれニ.四米の地蔵尊が三体あったからである。」お顔をズームして。鐘楼。廻り込んで。見事な彫刻をカメラで追った。そして鐘楼を。境内の対角線上に見えたのが「多宝塔」。そして「満願寺」を後にして都道312号線沿いにあった「玉川神社」に向かう。左手「満願寺」の境内の角にあった「致航山満願寺(新義真言宗智山派)文明二年(一四七〇)吉良氏によって開基され、開山は定栄和尚、本尊は大日如来である。江戸時代には、御朱印寺領十三石が与えられていた。山門の額は細井広沢(こうたく)、本堂の額は広沢の子九皐(きゅうこう)の筆である。細井広沢は、元禄年中その学識をもって柳沢吉保に重用され、晩年は玉川を愛して蕉林庵玉川(ぎょくせん)と号した。当代の代表的名筆家として知られている。寺内の墓は国の史跡に指定されている。 昭和五十四年三月 世田谷区教育委員会」同じ場所にあったのが「庚申尊」が鎮座する庚申堂。東京都世田谷区等々力3丁目15−1。「碑銘台座ノ記録碑銘宇様摩滅シテ判読ニ難シ些カ按ズルニ此ノ庚申堂先ニ何レノ地ニアリシカ、荒廃セルヲ見テ明治十年四月当地、髙橋市右エ門世話人代表トナリ市兵衛、浅右エ門、権三郎又右エ門、四五右エ門等ノ髙橋家一門相語り現在地の東隣ニ移シテ新築祭祀ヲ懇ニスト謂フ而シテ堂宇ノ結構ヲ新ニス然ルニ爾来歳月ヲ重ネテ修覆ヲ要スルニ当リ先亡發願ノ末裔、藤蔵博一、要之助、匠作、四朗、勝利、等髙橋家一門及ビ大平信弥、清水金蔵、ヲ加エテ發起人トナリ基礎ヲ整エ堂宇ヲ解体修理ス、面目更に改マル 時ニ昭和四十年 春彼岸茲ニ録シテ后孫ニ傳フ」正面から高さ115㎝ある大きな駒型の庚申塔。青面金剛像に二鶏、邪鬼、三猿が描かれている。造立年は文化10年(1813)8月、地名は彫られていないが、願主6人はすべて高橋家である と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.29
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「荏原(台)古墳群の成立ち多摩川下流沿岸、現在の大田区田園調布・世田谷区尾山台・等々力・野毛、かつての武蔵国荏原郷と呼ばれた地域には、古墳が数多く分布しており、これらは「荏原(台)古墳群」と呼ばれている。これは、田園調布を中心とする「田園調布古墳群」と、尾山台から野毛にかけての「野毛古墳群」とに二分して考えることもある。この一帯は、多摩川の豊富な水資源と広い平地を利用した農耕を地盤とする強力な首長により治められていたと考えられる。荏原(台)古墳群は、その代々の首長と一族の墓地だったのであろう。4世紀~5世紀古墳の発生期にあたる。田園調布古墳群での大形前方後円墳が築造される。5世紀野毛古墳群で大形円墳が築造される。6世紀田園調布古墳群の中で、中・小形前方後円墳が築造される。6世紀~7世紀前半古墳の終末期にあたる。小形円墳が多数築造される。」「荏原(台)古墳群の分布」 多摩川下流沿岸、大田区田園調布から世田谷区尾山台・等々力・野毛に分布する。昭和初期に54基の古墳が確認されていたという。近づいて。分布パネルの下端に古墳の名称が列挙されており、名称の左にある赤いボタンを押すと上面の航空写真上に古墳の位置を示すランプが点灯する仕掛けとなっているのであった。さらに。左から1列目 一本松古墳、扇塚古墳、亀甲山古墳、観音塚古墳、狐塚古墳、スクモ塚古墳、浅間様古墳、 浅間神社古墳、大日塚古墳、多摩川台古墳群第1+2号墳、多摩川台古墳第1号墳 (※注1)2列目 多摩川台古墳群第3号墳、多摩川台古墳群第4号墳、多摩川台古墳群第5号墳、多摩川台古墳群 第6号墳、多摩川台古墳群第7号墳、多摩川台古墳群第8号墳、マスキング(※注2)、 田園調布埴輪製作址、天慶塚古墳、天神山古墳、西岡第5号古墳、西岡第7号古墳、西岡第9号 古墳、西岡第13号古墳3列目 西岡第16号古墳~西岡24号古墳、西岡26号古墳~西岡第30号古墳4列目 西岡第31号古墳~西岡第33号古墳、西岡35号古墳、西岡47号古墳、西岡49号古墳、 西岡50号古墳~西岡52号古墳、八幡塚古墳、蓬莱山古墳、御岳山古墳、 古墳展示室(現在位置) (五十音順) ※注1:「多摩川台古墳第1号墳」の前に「多摩川台古墳群第1+2号墳」とあり、重複? ※注2:「マスキング」されたところには「多摩川台古墳群第9号墳」と書かれていた?。 多摩川台古墳群は円墳9基と考えられていたが、調査の結果、実際は円墳8基で あったため、第9号古墳は抹消?多摩川台公園内・周辺の古墳。多摩川台公園内の古墳と勾玉が見つかった古墳。次は「武蔵国造の乱」のコーナーへ。「武蔵国造の乱」案内。 「武蔵国造の乱(むさしのくにのみやつこのらん)「日本書紀」巻十八 安閑天皇元年の条武蔵国では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)とその同族小杵(おぎ)が国造(くにのみやつこ・国を治める豪族)の地位を争っており、年を経ても決めがたい状態であった。小杵の性格は、けわしく逆らうことがあり、心は高慢で素直さがなかった。そしてひそかに上毛野君(かみつけのきみ)小熊(おぐま)に援助を求め使主を殺そうとした。このことを知った使主は、逃げて京へいたり、そのありさまを訴え出た。朝廷は裁断を下し、使主を国造とし、小杵を誅した。国造使主はかしこまり、喜んで横停 (よこぬ・多摩横山と埼玉県横美郡の2説がある)橘花 (たちばな・川崎市と横浜市港北区の一部) 多氷 (たひ・多末の書き誤りといわれ、東京都多摩地域とされる)倉樔 (くらす・横浜市南部)の四ヶ所の屯倉(こゆ・朝廷の直轄地)を朝廷に献上した。」 上段、挿絵付きの文章を右から左へ(その1)小杵と使主の対立時は、安閑天皇元年(534)、6世紀初めの頃のことである。武蔵国では首長になる権利を幾つかの勢力の間で持ち回りしながら、代々の首長が引き継いでいた。しかし、引き継ぎをめぐり、南武蔵の小杵と北武蔵の使主の対立が起きた。(その2)同盟を結ぶ小杵と小熊ずるかしこく、心が傲慢な小杵は、すでに上毛野国との関係を強めていた。そして、ひそかに上毛野君小熊に援助を求め、使主を倒そうと目論んだ。(その3)使主、大和政権に助けを求めるしかし、これに気付いた使主は自ら大和政権の朝廷に出向き、助けを願い出た。こうして単なる武蔵国の内紛から、大和政権と東国の強国上毛野国との対立という大きな争いへと発展することとなる。笠原直使主の本拠地は、埼玉県鴻巣市笠原と考えられ、この地は埼玉古墳群の南に位置している。使主の墓はこの古墳群の中の二子山古墳群ではないかという説もある。(その4)使主の勝利と屯倉の献上国家統一を成し遂げようとしていた大和政権は、小杵を討ち倒し、使主を国造とした。喜んだ使主は、4ヶ所を屯倉として大和政権に献上、小杵の勢力に大きな打撃を与えた。「小杵(おぎ)、使主(おみ)、小熊(おぐま)の勢力圏と屯倉(こゆ)の位置使主が大和政権に献上した屯倉のうち、「橘花(たちばな)」「多氷(たひ)」「倉樔(くらす)」の三ヶ所は小杵の本拠地と考えられる。「横渟(よこぬ)」は、多摩横山説なら小杵の本拠地にあたり、埼玉県横見郡説であれば南武蔵と北武蔵のほぼ中間に設置されたことになり、両地域を見張る軍事的・政治的役割を果たす屯倉と考えられる。なお、『安閑紀』の最後に屯倉設置の記事があり、その中に上毛野国緑野屯倉の名が出てくる。「緑野(ろくの)」は、この乱に加わった上毛野国に対する懲罰として、その領地に設置され、大和政権の国家統一への戦略拠点として利用されたと考えられる。(図示)橙色●:小杵の勢力範囲の中の主要古墳群・・・荏原(台)古墳群、川崎、横浜、多摩黄色●:小熊の勢力範囲の中の主要古墳群・・・埼玉古墳群、笠原水色●:使主の勢力範囲の中の主要古墳群・・・太田、伊勢崎、前橋、高崎、白石四角印■:屯倉「上毛野国と荏原(台)古墳群を結び付ける副葬品」滑石製模造品滑石製模造品は、武器や生活用具をまねて滑石を材料に作られた、マツリなどで使われる道具と考えられている。荏原(台)古墳群の野毛大塚古墳出土のセットは、上毛野(群馬県)の白石稲荷山古墳のセットとよく似ており、上毛野の以外の関東ではみられない飲食用具の模造品を含まれている。そのため、上毛野で作られ、南武蔵に持ち込まれたのではないかと考えられる。比較写真左:上毛野国からの出土品 右:荏原(台)古墳群からの出土品上毛野国(左):石製杵、石製坩、石製盤、石製履、石製案(あん)、石製刀子、石製勾玉(群馬県藤岡市 白石稲荷山古墳出土、写真提供 東京国立博物館)荏原(台)古墳群(右):石製坩(かん)、石製槽(ふね)、石製履(くつ)、石製槽形品、石製刀子、石製勾玉(世田谷区 野毛大塚古墳出土、写真提供 東京国立博物館)※坩(かん):壷※槽(ふね):水、酒などを入れる箱型の器※石製案(あん):物などを載せる台、机甲冑野毛大塚古墳から武蔵では最古とされる甲冑が出土している。これも上毛野の首長の元にあった甲冑が分け与えられたと考えられる。上毛野国:短甲(群馬県太田市 鶴山古墳出土、写真提供 群馬県立歴史博物館)荏原(台)古墳群:短甲復元図(世田谷区 御岳山古墳出土)鈴鏡6世紀前半を盛りに、上毛野を中心に流行したと考えられる鈴鏡が荏原(台)古墳群の御岳山古墳と西岡第28号古墳でも出土している。これら両地域は鈴鏡を使ってマツリを行う共通の文化圏としてとたえられるのではないだろうか。上毛野国:五鈴鏡(群馬県高崎市 観音塚古墳出土、写真提供 高崎市教育委員会)荏原(台)古墳群:六鈴鏡(大田区 西岡第28号古墳出土、慶応義塾大学所蔵)こららの資料は、野毛大塚古墳が築造された5世紀前半頃、南武蔵の首長が、当時先進的であった上毛野国の政治勢力下に入ったことを暗示している。その結果、①鈴鏡を用いた祭礼(マツリ)が荏原(台)古墳群でも行われたり、②武蔵国造の継承権の争いに上毛野君が介入した事件が起こったと考えられる。「古墳散策コース現在保存され見学可能な古墳を散策するコースの一例。全工程約5km、徒歩4時間の半日コース。」 「古墳の造り方」 「古墳の造り方前方後円墳の築造過程を紹介します。大田区で最も近い例は観音塚古墳です。築造地 関東地方時期 6世紀全長 50~60m内部施設 横穴式石室」「古墳を設計し、地割線を引く」上段/古墳築造のときに利用する仮家。右上/二人の人物図。古墳を造るための計画全体のことを考え、働く人々に指示を出す人々。首長一族。中央/働く人物図。・先の尖った棒で地割線をひく・設計図で確認しながら指示を出す・中心杭、メジャーとなる縄・後円部の地割線と中心杭にできる朝夕の影を利用して東西の方位を直線で示す左下/二人の人物図。埋葬施設・副葬品・棺・埴輪・祭祀用具など、古墳に付属する施設や必要な道具を準備したり、作ったりする人々。「墳丘を盛り上げ、横穴式石室を組み立てる中央/作業をする人々。・石室石組裏込用年度を採掘する・石材を運ぶ・石材の整形加工・根石の上に壁石を組み上げる・石組の裏込をする・擂鉢状の傾斜を利用して土を流し込むように重ねていく・モッコに土を入れ、天秤棒で担ぎ、盛土を運ぶ・墳丘面を叩き固める・周溝を掘る・墳裾(古墳の裾)の位置を定めながら盛土をする・(周溝を)平らにならす・周溝に土橋を残す左上/三人の人物図。力仕事をする人々。古墳の土を盛り上げたり、埋葬施設の石材や棺・埴輪などを運び、設置する。」」 「石室の天井石をのせる中央/作業をする人々。・丸太のコロを敷き、天井石を所定の位置まで移動させる・天井石の運搬路 石室天井レベルまで運び上げられるように緩やかな坂を作る・修羅や梃子などを利用して天井石を運ぶ左上/二人の人物図。高い専門知識をもち、古墳を造るために必要な技術を指導する人々。首長一族に仕え、仕事を手伝い、助ける。「埴輪を設置し、石室を閉塞する中央/作業をする人々。(後円部)・横穴敷き入口を閉じるための扉石、閉塞石、封土・石室に棺を運び入れ、石室入口を閉める(前方部)・杭と縄で埴輪を並べる位置を示す・埴輪製作所から埴輪を運ぶ・埴輪を墳丘に運ぶ・埴輪を並べる「いろいろな古墳とその大きさ紀元前外国の遺跡、日本の遺跡と2-3世紀弥生時代の日本では、盛んに米作りが行われるようになった。静岡県・登呂遺跡の田んぼの大きさはどのくらいだろうか、比べてみよう。エジプト ギザ。ピラミッド・スフィンクス。4世紀、5世紀4世紀古墳が各地で造られるようになる。古墳時代が始まった。日本だけしか見られない形といわれる前方後円墳も現れる。最も古い前方後円墳は、前方部の形が三味線の撥形をしていたり、全体が柄鏡形だったりする。また、後円部に比べて前方部が低く造られているという特徴がある。5世紀巨大な前方後円墳が造られる。応神天皇陵(全長420m)や仁徳天皇陵(全長486m)は、世界で最も大きな築造物のひとつに数えられる。この頃の前方後円墳は、前方部の先端が広がり、高さもだんだん高くなってくる。前方後円墳以外の変わった古墳も増えてくる。上段、右から/ 大阪府 仲津姫命陵(仲津山)古墳・・・前方後円墳 大阪府 応神天皇陵(誉田御廟山)古墳・・・同上 大阪府 仁徳天皇陵(大山)古墳・・・同上 大阪府 にさんざい古墳・・・同上下段、右から/ 東京都 亀甲山古墳・・・同上 栃木県 上侍塚古墳・・・前方後方墳 奈良県 乙女山古墳・・・帆立貝型古墳6世紀、7世紀。「6世紀前方後円墳の前方部の幅や高さが、後円部の直径や高さより大きくなってしまう。同し前方後円墳でも、時期によって形に変化があることがわかる。各地に、多摩川台古墳群のような、小さな円墳の集まった群集墳が見られるようになる。」 上段、右/千葉県 稲荷山古墳・・・前方後円墳上段、左/埼玉県 山王塚古墳・・・上円下方墳下段、右/東京都 船田遺跡 集落址下段、央/大阪府 金山古墳・・・双円墳下段、左/群馬県 芦田貝戸遺跡 水田・畑址「7世紀古墳が造られなくなってくる。その代わり、各地に寺院か建立されるようになる。日本への仏教伝来は538年、または552年とされる。」上段/奈良県 法隆寺 中段/奈良県 舒明天皇陵(段ノ塚)古墳・・・八角墳(上八角下方墳)下段/千葉県 龍角寺岩屋古墳・・・方墳「8世紀奈良時代に入り、律令制国家として日本が統一される。国の政治を司る中心して平城宮のような都か造られ、各地には国分寺が建立された。上段 奈良県・・・平城宮下段 東京都・・・武蔵国分寺」 現代古墳展示室周辺のようす。すぐ側を多摩川か流れ、多摩川台公園の中には古墳も残っている。東急線の多摩川駅・田園調布駅、学校、野球場なとか見える。みんなが知っている現代の建物とも比較してみよう。」 「古墳の埋葬施設古墳に遺骸を埋葬する施設のことで、内部主体とも呼ばれる。その構造は、遺骸を納める「棺」と、棺を納める「槨」または「石室」からなっている。」 右から箱型石棺、箱型木棺、長持形石棺。割竹形木棺・舟形木棺 丸太を縦半分に割り、その中を刳り抜いて棺身と蓋にする。竹を割った形に似ているのが 割竹形木棺、割竹形木棺より断面か儷平て棺身の両端か舟の舳先のように加工してあるのが 舟形木棺。木材は高野槇か多く、檜なども利用される。古墳時代初期より、全時期を通して 用いられた。割竹形石棺・舟形石棺 割竹形木棺・舟形木棺の形を模し、石材を利用して作られた。4 ~ 5世紀にかけて盛んに 用いられた。家形石棺 棺蓋が寄棟造り家屋の屋根に似ていることからこの名がある。5世紀代、棺身はまだ舟形石棺の 伝統を残すが、蓋は家形をしている。6世紀以降は棺身か箱形に整えられる。埴輪棺・埴輪円筒棺 円箇形埴輪や朝顔形埴輸を棺に転用することは、埴輪の元となった弥生時代後期の 特殊器台形土器からみられ、埴輪が作られていた期間を通して行われ、埴輪棺と呼ばれる。 また、5世紀になると、最初から棺として円筒形埴報と同じ方法で作られる埴輪円筒棺が現れ、 盛んに利用されるようになる。これらは、古墳の中心となる埋葬施設として利用されることは 少なく、墳丘麓や外堤.あるいは周辺部に直接埋葬される。陶館 焼物の棺で、土師質と須恵質がある。また、蓋が丸く盛上かり全体に亀の甲羅のような 格子状文様のある亀甲形陶棺や、切妻や寄棟の屋根形の蓋をもつ屋根形陶棺がある。 古墳時代後期から終末期にかけて、主に近畿・中国地方で用いられた。槨 古墳の盛土に、直接木棺を埋葬する際に用いられ、棺を覆う材料によって粘土槨、木炭槨 礫槨に分類される。発生期及び前期の古墳によく用いられ、特に、東日本の初期古墳に多く 採用されている。竪穴式石室 礫を張った床に粘土で棺を設置し、これを覆うために周りの型を積石て造り、最後に天井石を のせて密封した施設。 発生期及び前期の古墳に盛んに用いられた。横穴式石室 積石による部屋の一ヶ所に、外部に通じる出入口が設けられ、ここを開閉することにより 追葬や合葬など、数回にわたる埋葬が可能な施設。 中国の墓制の影響を受け、日本へは5世紀後半に伝わり、8世紀初頭まで造られていたとされる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.29
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「等々力渓谷内日本庭園・書院」の入口・「かぶき門」。石碑には「等々力渓谷」と。日本庭園 周辺案内図。「等々力渓谷等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端に位置する延長約一・〇kmの渓谷です。谷沢川が多摩川と合流する手前で、多摩川が形成した河岸段丘、いわゆる国分寺崖線の浸食によってできた、東京都区内ではめずらしい渓谷です。世田谷区では昭和四十九年に谷沢川沿いの区域を区立公園として開園しました。」「日本庭園」案内図。「かぶき門」を潜ると前方周囲には竹林が拡がっていた。その先には柑橘類の木々が。「かぶき門」を振り返って。みかん林の間を進む。ミカンの実をズームして。案内板。池と水の流れが配された庭園が書院建物をぐるりと囲んでいた。再び竹林を。正面にはいくつかの石灯籠が。写真下部は池のようであった。日本庭園の紅葉を見上げて。紅葉の木々越しに書院建物が見えて来た。昭和36年に建築された書院建物でひとやすみ。書院の壁には様々な案内書類が。「危険 通行止め」と。現在までに対応が必要な危険木が相当数ある事が分かってきており、今後も当面は遊歩道の通行止めが続く見込みです。急傾斜地のため主に人力の作業となるので、かなりの時間が必要となります。皆様には引き続きご迷惑とご不便おかけして申し訳ございません。日本庭園と等々力不動尊はご利用可能です。「迂回路のご案内」。「等々力渓谷と周辺の遺跡等々カ渓谷の近隣遺跡には、約2万5千年前の旧石器(先土器)時代に始まる各時代の遺跡が確認されているが、それらの中でとりわけ当地を特色付けるのは、渓谷を間に挟んで国分寺崖線沿いの東西に並ぶ5世紀代を中心とした野毛古墳群と、7世紀末から8世紀頃に造られた横穴墓である。野毛古墳群は、畿内王権との関わりが深い野毛大塚をはじめとして、当地域の首長墓の系譜を継ぐ御岳山・八幡塚・狐塚古墳などが継続的に造営された古墳群である。また、横穴墓は墓制としては古墳と人れ替わるように出現し、崖線やそれを開析して形成された谷戸の斜面などを利用して造られており、やはり当地城に濃密に分布している。等々カ渓谷三号横穴(東京都指定史跡)渓谷の左岸崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて構築された横穴墓が6基以上発見されている。中でも昭和48年に発見された三号横穴は典型的な横穴墓の形態を留めており、埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存措置が講じられた。横穴墓は奥行き約13mで内部は徳利を半分に割ったような形をしている。玄室(遺体の安置場所)と羨道からなる墓室とこれに至る墓道に分かれており、この間を凝灰岩で組まれた羨門で区画している。横穴墓からは、須恵器の平瓶、横瓶、刀子、金鋼製耳環などが出上した。本横穴群の被葬者たちは、いずれも副埋葬品が豊富なことから、後の武蔵国荏原郡の等々カ周辺を治めていた有力者であると推測される。野毛大塚古墳(東京都指定史跡)渓谷近くの玉川野毛町公園内にある野毛大塚古墳は、野毛古墳群の中心となる5世紀初頭に築かれた大形の帆立貝形古墳である。古墳の規模は、周濠を含め全長104m、墳長82m、後円部直径68m、高さ10m、前方部の脇に造出部がひとつある。墳丘上からは4基の埋葬施設が確認され、多くの武具等が発見された。前方部と造出部は削られていたが、現在は復元整備されている。古墳の主は副埋葬品などから、当時の政治の頂点であった畿内王権と直接的な交渉があったことがうかがえ、南武蔵(現在の東京都と神奈川県の川崎市、横浜市の一部)の小豪族たちの上に立つ大首長であったと考えられている」。「等々力渓谷3号横穴墓(東京都指定史跡)」案内図。「野毛大塚古墳(東京都指定史跡)」案内。「貝とり娘とお不動様のお使い玉川にそった村里では、春から夏にかけて、えたいの知れない病がはやっていました。村はずれの地蔵様や、悪病ばらいの庚申様の前には、このときばかりは供物が山となり、村人そう出の神だのみでした。ひとり娘のキヌの家でも、働きざかりの母が、病でからだが黄色に染まり、熱にうかされ、床についてしまいました。父は三年前、これと同じ病で急死しているのです。母ひとり娘ひとりの家ですから、母にもしものことがあってはと、キヌは良薬を求めて八方さがしました。きようも、目黒村でこの病にきくという薬を買っての帰り道、村に入ってところで、ひとりの子どもに呼び止められました。病にきく秘薬のありかを教えると、親切に案内をしてくれたのです。キヌの家とは反対の丘を下って、流れの美しい矢沢川の川下に出ました。清水の川底に、つぶらなシジミがたくさんありました。子どもは、このシジミのまるみのあるものばかりをより分けて、キヌのそでに入れてくれました。「母上に、朝、昼、晩とこのシジミの煮汁を飲ませれば必ずよくなる。」家まで送ると、いつのまにかすがたを消したのです。キヌは言われるままに、母に煮汁を飲ませると、母は翌日から別人のように元気になっていきました。キヌの家に、ふたたび笑顔がもどってきたのです。「黄色い病は不治の病と聞くが、その良薬はどこから手にいれたのだい。おいらにも少し分けてくれろ。」よその村の人たちも、秘薬の話を聞きに、キヌのところにきましたキヌは、だれにでもわけへだてなく、矢沢川のシジミが病にきくことをおしえてやりました。それからは、この地方には、不治の病がはやらなくなりました。」そして「書院」を後にして、谷沢川まで戻ると「通行止め」のバリケードが設置されていた。ここ「利剣の橋」の先から、「ゴルフ橋」までの区域が通行止めになっていた。「稚児大師境内」案内板。参道を進む。「稚児大師御影堂弘法大師御誕生一千二百年記念慶讃大法要昭和五十年四月六日 奉修稚児大師尊像 制作 芸術院会員 清水多嘉示堂宇 設計 畠山博茂慶讃大法要大導師 満願寺第二十六世 龍文」参道の紅葉。「稚児大師御影堂」。御影堂の中に稚児大師像が見えた。「稚児大師像」。「稚児大師さま小さい手を合せているお姿は 弘法大師の幼いときの お姿です弘法大師の時代は 大学としては 高位の貴族の師弟が 官僚になるための大学が唯一つでした 弘法大師はこれに対して 庶民のだれでもが学べる庶民のための大学である 綜芸種智院を創設しました 綜芸とは総ゆる学芸を統合すること 種智とは 智恵を植えることです その智恵は やがて 大きく成長し 色々な局面や難しい事態に出会った時正しい判断をする決断力となって発揮されます 智恵とは 密教では決断力のことです知識だけでは 物事の判断は出来ません その智恵を養うのが あらゆる学問技術文学芸術 書 思想を広く学び 総合することです弘法大師の創った大学は 月謝もなく 教校から学生まで宿舎も完備して給食付でした弘法大師は 幼いとき 土で仏さまを造って草や木の枝で造った御堂に祀って手を合せましたこの稚児大師像は 芸術院会員清水多嘉示先生につくって頂き お子様にも 拝みやすいように低く安置いたしました尚 弘法大師の幼少期は奈良時代ですが 古くからの多くの稚児大師像のように平安時代の服装で製作していただきました 平成十一年一月 満願寺 貫首 龍文 合掌」ここにも「通行止めのおしらせ」が。「この先、等々力渓谷公園は、倒木の危険性があるため、全域通行止めになっています。等々力駅、環八方面、目黒通り方面、野毛町公園方面への通り抜けはできません。」と。手水鉢の水面にはサザンカ?の花びらが近づいて。谷沢川の対岸の社を見る。「利剣(りけん)の橋」まで戻る。そして再び「等々力不動尊」に戻るために、石段に向かう。左手に先程訪ねた「不動の滝」。再び「等々力不動尊」の紅葉をこれでもかと楽しむ。参道の下の大きな舞台を再び潜る。「御護摩受付」が左手に。境内を再び。紅葉と吹き流し・仏旗の赤のコラボ。常香炉には多くの線香が。本堂を「おみくじ結び所」越しに振り返って。山門に向かって。紅白の吹き流し・仏旗が風に泳いでいた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.02.28
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