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「増上寺前」交差点の横断歩道を渡った場所にあった、次の目的地の「芝公園8号地」を訪ねた。「公園制度の誕生 太政官布達公園日本で最も古い公園の一つ芝公園公園がまだなかった江戸時代、江戸は庭園都市と呼ばれるほどに多くの庭園があった。しかしこれらは大名や旗本などの屋敷がほとんどで、江戸庶民にとって身近に楽しむことができた緑にふれあえるレクリエーションの場としては、寺社境内や徳川吉宗が設けた数少ない花見の名所などでした。明治に時代が移り、新政府が打ち出した日本初の公園制度、明治6年(1873)の太政官布達第16号により、公園が誕生しました。その後、明治20年(1887)までに、江戸時代からの花見の名所や社寺境内など全国81箇所の公園が指定されました。上野の寛永寺と共に江戸の名所だった増上寺を中心とした芝公園は、上野、浅草、深川、飛鳥山と共に、明治6年(1873)に東京で最初の公園として指定されました。徳川将軍家の菩提寺増上寺の境内を取り込んだ形で公園化を図り、広大な敷地は1~25 号地に区画されていました。現在も公園では号地のままで親しまれています。当初は増上寺の境内を含む広い公園でしたが、戦後に新憲法が施行され、政教分離によって増上寺等の境内の部分が除かれ、現在の環状の公園になりました。」「芝公園設計絵図」。1910年発行の『東京市公園改良設計調査報告書』にあった図面と共通性が高い図面で、上部にあるのが現在のもみじ谷。現在の芝公園・配置案内図。公園の角にあったのは「臥龍垣(がりゅうがき)」であっただろうか。その姿、地に臥せる龍の如し。臥龍垣の玉縁(最上部)は1本の太い竹を64分割に縦割りし、再び1本に束ねたもので、躍動感ある龍の姿を表現している。増上寺山門側のものは日本最長の19mもある と。 臥龍垣の玉縁(最上部)は1本の太い竹を64分割に縦割りし、再び1本に束ねたもの。その写真をネットから。「首提灯」案内板の横には「常夜灯江戸の夜の暗い町筋を照らしていたのは、辻々設けられた常夜灯でした。これは、この付近の町にもあったろうと思われる、常夜灯を模造したもので、江戸の町の、夜のありさまをしのぶために設けました」と。「常夜灯」に近づいて。「落語「首提灯」👈リンク江戸時代、芝山内と呼ばれた増上寺の境内は、暗がりで、落語『首提灯』の舞台となりました。侍とけんかした職人が、首を切られても、あまりの切れ味の良さに気がつかすそのまま首を提灯代にして、火事見物に行くという話は架空のことですが、当時のありさまをよく示しています。」「あらすじ金が入って品川宿のなじみの女の所へ遊びに行く男。ほろ酔い加減で、機嫌もよく気も大きい。増上寺の鐘を聞きながら、芝山内の追いはぎの出るというさみしい所へさしかかると、「おい待て」と声がかかる。てっきり追いはぎと思いきや、背の高い侍だった。「何かようか、おじさん」と問うと、「麻布にめえる(参る)には、どうめえる」と田舎なまりで聞いてきた。追いはぎでなくほっとし、田舎侍と見くびった男は、「丸太棒、ぼこすり野郎、かんちょうれい、二本差しが怖くて焼き豆腐が食えるか」と言いたい放題、悪口雑言を浴びせ、悪態をつき始める。さらに調子に乗った男は侍に痰(たん)を吐きかける。身をかわした侍は「行け」というが、男は図に乗ってまた、痰を浴びせた。これが侍の羽織にかかった。殿様から拝領した大事な羽織を侮辱され、堪忍袋の緒が切れた侍、腰をひねって抜き手も見せない居合腰で、男の首を斬って、そのまま立ち去る。首を斬られたことも知らずに品川に向かう男、「広い世間にあなたがいなきゃ、こんな苦労はしやすまい」なんて鼻歌まじりだが、声が漏れる。首も横から後ろへ回り始めた。グラグラして来た首にさわると血がべっとり、やっと斬られたことが分かった男、首をささえながら歩いていく。すると前方で半鐘の音、大勢の人が邪魔だ、邪魔だと駆け出して来て大混雑で、壊れ物の首が危ない。困った男、自分の首をひょいと差し上げると提灯がわりに、「はいごめんよ、はいごめんよ、はいごめんよ」」と。「増上寺」周辺の地図。「現在地」。こちらは瓦を積み上げた「うろこ垣」。ここ「おもてなしの庭」では、古瓦の他、庭石もリサイクル。庭園や古民家にあったものが活用されているのだと。この瓦は滋賀県大津市の古民家から譲り受けたもので、門として生まれ変わったのだ。国の登録有形文化財である廣度院の練塀(ねりべい )を借景としていると。右手にあったのが「廣度院」の「練塀」。練塀は底部に間知石を置き、芯柱を用いずに土と瓦を交互に積み上げて壁体とする構造で、現在では用いられることがない。数多くの子院が集まって形成していた特異な都市景観を知るよすがとなっている。その先に「廣度院表門」。増上寺境内の子院の一間一戸の薬医門。浄土宗寺院の廣度院は、酉譽上人が増上寺を開基、廣度を其院名とした時、別に一院を建立、其の事跡を後世に伝えようと國師存應上人が圓融に命じて開創させた と。その先、右手前方に案内板が。近づいて。【No222 増上寺子院群ー廣度院跡遺跡(港区埋蔵文化財包蔵地区)】」「廣度院・練塀(こうどいん・ねりべい)間知石(けんちいし)」復元石積み江戸時代から続く、平衡に安定した上部下部間知石を、発掘の並び・積み上がりのまま復元しました。江戸時代、芝公園一帯は増上寺境内地で、このH¹O芝公園の敷地は三緑山廣度院でした。「間知石」は、江戸時代から平衡に揺るぎなく「練塀」を支えていました。上部は江戸後期の三角錘の間知石、下部は1640年以降の方形に近い間知石です。「練塀」は、三解説門左右・大門左右・御成門左右、台徳院殿霊廟惣門前、山内各所にもありました。「廣度院練塀」は「間知石」とともに、ここに存在しました。「廣度院練塀」は、『江戸城造営関係資料集』「塗師方壁方瓦方当時物井本途内訳」(東京都中央図書館所蔵・重要文化財)に記された内部構造構成を確認できます。「江戸城練塀」・「増上寺三門左右練塀」検証にも必要な存在です。「間知石」は、堀の中から地表へ二段三段と積み上げられていました。この「間知石」の存在や、今回の「廣度院練塀」解体修復調査で判明した「練塀」内部構造により、水はけ対策が理解できます。「廣度院練塀」の脆弱ではない重厚な造り、機能、水はけ対策、配置、景観等からは、増上寺山内寺院建築での配慮を知る事ができます。「増上寺山内常照院所蔵「明治34年大日本東京芝三総山増上寺境内全図」部分」。「堀・間知石・練塀内部構造等の再現図」。「H¹O芝公園の建築に先立ち、「廣度院練塀」及び境内地は、前建築解体工事による 損壊が懸念されました。港区議会では区長が、文化財を保護する観点から、丁寧な対応を指導されました。野村不動産株式会社は、地中調査及び解体前・解体中調査を実施。「廣度院練塀」に連結された前建築振動伝達物ベランダの適切な切り離し撤去と、「廣度院練塀」への前建築越境物解消のための一部解体修復保全工事を補償。文化財「廣度院練塀」及び境内地に損壊はなく、将来に懸念を残さないよう保護されました。H¹O芝公園は港区景観計画の主旨に沿いスカイラインと経済性を両立、増上寺境内地へのリスペクトを持つヘリテージマネジメントを実行しました。三解脱門・大門のアイスポットと寺院の多く点在する景観に配慮され、熊谷組開発の耐火性木の柱を駆使し、寺院建築、日本建築への敬意を示されました。歴史的建造物 「練塀」の瓦・塀の意匠を継ぎ、芝公園の緑の中に歴史的配色を施し増上寺境內廣度院の※遺跡を復元され、「廣度院練塀」への配慮もされました。国の登録有形文化財「廣度院表門及び練塀」が「増上寺子院群廣度院跡遺跡」とともに適切な理解と保存をされることを願い、「間知石」石積みの復元はなされました。1945(昭和20)年の東京大空襲まで、この敷地の一角に増上寺開山西要上人念持の不動尊がいらっしゃいました。不動堂再建のため、その場所は保存されましたが、戦後暫くして、この地に建築がなされました。頭一つ聳え立つ楼閣で、次第に風光明編な芝公園に建つ洋館として親しまれ、一つの時代を終えました。「廣度院練塀」の文化財的保全保護を実現するH¹O芝公園は、増上寺山内での、歴史にとけこみ発展するオフィスビルとして、国際的な港区の歴史の一頁を開かれますよう、不動尊のご加護とともに願っています。令和5年9月 三樺山廣度院」更に「芝公園8号地」東側に沿った通を進む。右側にあったのが「東京都港区役所」。その手前の敷地の角にあった裸像。「平和の女神(1968年) 北村西望作(1884年~1987年)」。弓のように開いた両手に陽光をいっぱいにうけて、男性像によって「平和祈念像」を完成した作者が、同じ理念を女神像によって表した作品。お顔をズームして。左に「港区平和都市宣言かけがえのない美しい地球を守り、世界の恒久平和を願う人びとの心は一つであり、いつまでも変わることはありません。私たちも真の平和を望みながら、文化や伝統を守り、生きがいに満ちたまちづくりに努めています。このふれあいのある郷土、美しい大地をこれから生まれ育つこどもたちに伝えることは私たちの務めです。私たちは、我が国が『非核三原則』を堅持することを求めるとともに、ここに広く核兵器の廃絶を訴え、心から平和の願いをこめて港区が平和都市であることを宣言します。 昭和60年8月15日 東京都港区」右に「「平和の女神」像あの悲惨な戦争が終結してから長い年月を経て、ややもすると薄れつつある記憶 私たちはその事実を歴史の中にうずめてしまうことはできません。港区では恒久平和の願いをこめて昭和60年8月15日、「港区平和都市宣言」を行いました。平和を願う港区民の心の結晶として、「平和の女神」像をここに設けます。 昭和62年3月 東京都港区」その先に「潮騒の記憶」関根伸夫作。かってこの地は海の近くで、海鳥が群れ、潮騒がたえず響く港であった。遠ざかる思い出と港区の未来を記念して、これを「潮騒の記憶」となす と。左手にあった「芝公園6号地」を訪ねた。「月の庭」と。作者は? 既存の「月」のモニュメント周辺に、蛇籠(じゃかご) に模して編んだ竹をしつらえていた。そのダイナ ミックな造形はまさに大蛇のよう。蛇籠は内部に石などを詰め、古来、河川工事の護岸や水制として使用されたのだ「このモニュメントは月見をイメージと」下記にあったが。近づいて。細い蛇籠を模して編んだ竹に囲まれて。「松原の復元芝公園のうち、増上寺三門前に位置するあたりは古くから松原 と呼ばれています。 それは、寛永十七年(一六四〇年)増上寺二十世大僧正南誉上人のとき、幕命によって三門の左右に松を植付けたことに始まるとも、青山家藩士の植樹で百年松原と称したことによるとも伝えられています。 松はその後の災変によって焼失、あるいは枯死し主たる景観はくすのきに変りました。ここは江戸時代の番所跡と伝えられ、土るいにはさまれた通路がカギ形をしています。 都は園地改修にあたり原形を残すとともに往来の松原を偲ぶものとして黒松を植え、月見をイメージしたモニュメントを設置しました。 昭和六十二年二月 東京都」名所江戸百景「芝神明増上寺』。絵の左上に赤い山門が描かれている、これが上増寺の大門。その奥に山門と本殿の屋根が見える。また、右を見ると神殿造りの屋根が見える。これが芝明神。屋根には鰹木の突き出たのが明神さんの特徴だ。中央に描かれた団体さんは、寺での本山参りを終え、これから地元に帰るのか、それとも江戸見物にでも出かけるのか・・・その後ろにいる僧の一行は、江戸市中に托鉢に行くところだ道路脇には多くの松が植えられているのが解るのであった。「芝公園6号地」と「芝公園8号地」の境にあった竹塀と門。近づいて。「芝公園8号地」を縦断して、「増上寺前」交差点まで戻り、左折して「芝大門」方向に向かうと左手にあったのが「源興院」。住居の如き「源興院」。その先にあったのが「源流院」。浄土宗寺院の源流院は、観智國師の法流林應が、青山播磨守忠成と共に出府、林應庵と名づけた庵室を草創していたところ、青山播磨守忠成が増上寺造営奉行となり、増上寺の芝への移転を終えた際に工事の余材を譲り受け源流院と号して建立、後、青山播磨守忠成父子が当院に葬られたといいます。コンクリートの建物。道を引き返すと左手にあったのが「天陽院」。「浄土宗 天陽院」。「どんな一歩も大事な一歩いけらば念仏の功つもり、しなば浄上へまいりなん。とてもかくても、此の身には、思いわすろう事ぞなき(生きている間はお念仏を称えてその功績が積もり、命尽きたならばお浄土に参らせていただきます。いずれにしてもこの身にはあれこれと思い悩むことなどないのです)私たちはさまざまな思いを抱きながら毎日を歩んでいます。思い切って踏み出した一歩も、迷いながら踏み出した一歩も、なんとなく踏み出した一歩も、どれも等しく大切で、私たちが生きる上でとても大事なもの。そんな歩みの中、私たちはお念仏をとなえることによって、阿弥陀さまにお見守りいたたき、いつか命終わる時、「極楽往生」というお導きをいたたくことができます,、日々、悩み戸惑い、心が散り乱れる私たちですが、お念仏の生活を送ることによって阿弥陀さまと共に安心して毎日を歩むことが出来るのです。」浄土宗寺院の天陽院は、生譽珍公が開祖となり、応永31年(1424)武蔵國日比谷飯倉附近に創建、増上寺が当地へ移転(慶長3年1598年)した際に、子院となったといいます。奥にコンクリート製の本堂らしきものが。そして戻る途中に増上寺の「三解脱門」が見えた。「芝公園10号地」にあった「芝公園記念塔」。「芝公園10号地」内を南方向に進む。10号地内の左にあったのが「ペルリ提督の像」。東京都港区芝公園2丁目、増上寺の門前、日比谷通り沿いの芝公園10号地にあるのが、このペルリ提督の像。1953(昭和28)年、「開国百年祭」に際し、ペリー提督の出身地であるアメリカ合衆国・ロードアイランド州ニューポート市に東京都が石灯籠を贈り、その返礼として親善の印に贈られたものと云われています。1854(嘉永7)年、ペリー艦隊が2度目となる浦賀に来航した際、日本側(浦賀奉行所)とアメリカ側(ペリー提督)の会話は、浦和奉行所の通訳・堀達之助がオランダ語ができたことから、ペリー側がオランダ語のわかる通訳・ポートマンを間に立てたため、ペリーではなく、ペルリとオランダ的な発音で日本に伝えられたのです。ちなみに、ペルリはオランダ語読みで、英語ではペリー。嘉永7年(1854年)、ペリー艦隊が2度目となる浦賀に来航した際、日本側(浦賀奉行所)とアメリカ側(ペリー提督)の会話は、浦和奉行所の通訳・堀達之助がオランダ語ができたことから、ペリー側がオランダ語のわかる通訳・ポートマンを間に立て、日本語〜オランダ語〜英語〜オランダ語〜日本語という順序で訳されながら行なわれたため、マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)の名は、ペリーではなく、ペルリとオランダ的な発音で日本に伝えられたのです。そのため、来航当時の文書には「ペルリ(彼理 ・伯理)」と表記されています。像の制作者は彫刻家、フェリックス・ド・ウエルドン(Felix Weihs de Weldon)で、有名なアーリントン国立墓地にある『海兵隊戦争記念碑』(昭和20年2月の硫黄島の戦いで、6人の海兵隊員が摺鉢山の頂上に星条旗を立てる様子をジョー・ローゼンタールが撮影した写真を元にして制作、『硫黄島記念碑』とも)と同じです。ちなみに、東京都とニューポート市は姉妹関係になく、ニューポート市と姉妹関係を結んでいるのは、日米和親条約の細則を定めた下田条約を締結した地、静岡県下田市です。すぐ近くには、「万延元年遣米施設記念碑」があり、増上寺の門前が開国記念の園地になっている感じに。「西暦1860年2月9日(万延元年正月18日)新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。副使村垣淡路守範正の詠にいう、竹芝の 浦波遠く こぎ出でて 世に珍しき 舟出なりけり遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いたその壮途をここに記念するものである。 1960年6月 日米修好通商百年記念行事運営会」そして道路の反対側に見えたのが「常行院」。浄土宗寺院の常行院は、遵譽大和尚の招聘により下向してきた元天台僧の戒順が、当地に留錫して一院としたといいます。「住職 吉原自覚」と。「本堂」?をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.31
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「芝 増上寺」の境内の散策を続ける。次にあったのが「阿波丸事件殉職者之碑」。「阿波丸は第二次世界大戦も終わりに近い昭和20年4月1日夜半、台湾海峡で米国潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。同船は連合国側の要請に応じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に対する救恤品の輸送に當っていた。国際法で其の安全が保障されていたにもかかわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は二千有余名、世界史上最大の海難事故となった。 加害者に對する責任の追及や賠償交渉も進まないうち、同年八月わが國は無条件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の眞相を究明せず、米國に對する賠償請求權を國會の決議として放棄した。 いまや平和の時代となり、經齊は復興したが戰爭の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、歸らぬ人のことを思ひ續け悲しみを懐いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船體の引揚げ遺骨の拾集も實行に移されないままである。三十三回忌に當り、悲憂を文に訴へるとともに、法要の心とするものである。 昭和52年(1977年)4月1日 阿波丸事件犠牲者 遺族一同」「筆塚 心と創造」。近づいて。「筆塚心と創造学びの精神はいつの時でも人を育み人とともに歩んでいきますその歩みの中で心豊かに それぞれの人生を創造していきます 学びとは心の糧であり創造の源です努力と研鑽 勇気と希望 自信と志の象徴です 碑に刻まれた「心と創造」が 明日へ歩む子どもたちの人生の標となるよう ここに努力の軌跡を残し 今感謝の気持ちを込めて 学び具を奉納します子どもたちへ学べよ 努めよ 今がその時です平成十六年二月吉日練成会グループ」「町火消「め組」の供養碑」。文字部分に赤いペンキが入れられているが、「め組」となるとその派手さが気にならないから不思議。「め組」。■町火消■まちびけし火消は言うまでもなく消防の任務についていた者達ですね。密集した江戸の町の悩みの種だった火事。大惨事になったこともあります。町火消は心意気のある者達が集まって、勝手にやっていた?訳でなく、幕府の定めた制度のもとで運営されていました。武士によるものを武家火消というのに対し、町人によるものを町火消と呼びました。江戸初期は武士が主体でしたが、中期以降は町火消が主体となって活躍。いちいち上層部の認可が必要な武士階級より、民営化した方が効率が良かったのかもしれませんね。町火消の大半は鳶職で構成されていました。当時の消防は、火が燃え広がらないように「建物を壊す」方法が主流でしたから、並みの町人より、力強い鳶職が適役だったのであろう。■め組■町火消の始まりは8代将軍吉宗の時。南町奉行の大岡忠相(ただすけ)により、火消の組織化が成されました。隅田川から西を担当するいろは組47組(のちに「ん組」が加わり48組)と、東の本所・深川を担当する16組(のちに3組に統合)に分けて町火消が設けられました。吉宗、大岡越前、め組。『暴れん坊将軍』を思い出す方も多いかと思われます。まさにその時代のお話です とネットから。句碑は「仰ぎ見る 萬代の星 千代の月」と我がブログの校正・校閲、古字・旧字読解の師匠が調べてくださいました。上記の石碑には纏の標識部を陀志(だし)と呼ぶが、「二」と「め」の字を配した姿が刻まれていた。隅田川以西の町々を凡そ20町ごとに47の小組にわけ「いろは」を以て名づけ、又、隅田川以東は16の小組にわけ、纏(まとい)や幟(のぼり)を定めて各自の目印とした。この増上寺周辺の地域は「め組 二番組」と。奥のこの石碑には「南無阿弥陀佛」と。「弔魂之碑(ちょうこんのひ」。西南の役(せいなんのえき)で戦死した看護卒(かんごそつ:看護師)の供養碑で、明治11年(1878)に建てられた。題額は山岡鉄太郎(鉄舟)。石碑の下部には「弔 魂 之 碑 病者之得痊.傷 者之得治.一 由干医. 二由干看病人.蓋 薬剤錐中其病.而 有体 憧愛護者.則 平復難期也.看 病人之責重 突哉.明 治十年 征薩之役.陸 軍省発遣 看病人看病卒干戦地.死 者二十人・ 事 平.其 生還者.立 碑於芝山内.以 弔其 魂.陸 軍軍医監林紀君管理其事.属 余作 銘.銘 日. 看護他人 以損其身 比諸戦死 忠烈 惟均. 明治十一年八月廿日 中村正直撰 成瀬温書 従五位 山岡鉄太郎題額」とあった。台石が4尺位、碑石は14・5尺もある大きな立派な石碑である とも。近づいて。「弔魂之碑」の下に「有志六百名」と刻まれた石碑。台石の方には、発起世話人、関 成功など8人の名を刻んであ り、また「有志六百名 の文字もあった。そして「三解脱門」2階と横の「山廊」との連絡階段を境内から見上げて。再び「聖観世音菩薩」の足元へ。再び紅葉・黄葉を追う。「王殿」と「東京タワー」を再び参道から。「光摂殿」の裏にある「景光殿(旧広書院)表門」、「大納骨堂(舎利殿)」、「貞恭庵(ていきょうあん)」、「圓光大師堂(えんこうだいしどう)」等は、「以前に訪ねた」👈リンク ことがあるので、時間の関係上、この日はパスしたのであった。「寺務所」を斜めから見る。「大殿」と「東京タワー」。「黒門」に向かって進む。右手にあったのが「経堂」。1605(慶長10年)の創建。その後、1681年(天和元年)に改造移築、1802年(享和2年)に現在地に移築。構造は土蔵造で、内部には八角形の木造輪蔵を安置。輪蔵には、徳川家康が寄進した宋版、元版、高麗版の大蔵経(重要文化財)が格納されている(現在は収蔵庫に保管)。隣にあったのが「増上寺 慈雲閣(開山堂)」。浄土宗大本山「増上寺」の敷地内にある式場。多人数の葬儀から格式高い社葬などに利用され、慈雲閣は1階部分が式場で2階部分に畳の広間があり、パーテーションにて式場の広さを調整できるようになっている と。扁額「慈雲閣」。そして「増上寺旧方丈門(黒門)」を境内側から再び。「黒門」横の紅葉。「三解脱門」を境内側横から。そしてこれでもかと「増上寺」の境内を楽しんで、「黒門」から日比谷通りに出て、「増上寺前」交差点を渡り「三解脱門」を振り返ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.30
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「増上寺 徳川将軍家墓所」を後にして「安国殿」方向に戻ると「徳川将軍家墓所」の北側の道路に沿った場所にも向かい合うように「千躰子育地蔵菩薩」👈リンク が並んでいた。「安国殿」前の「絵馬掛所(えまかけどころ)」。「銅像聖観音立像」と「千躰子育地蔵尊」。角度を変えて。「西向観音堂」。「港区の文化財 西向観音堂西向観音は、現在三康図書館のある場所にあった観音山に西に向けて安置されていたもので、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東向きに安置された四菩薩像とともに、その間を通る街道を見下ろす形をとっていました。将軍家の菩提所である増上寺は格式が高く、庶民には近寄り難いところもありましたが、この像は安国殿に安置されている黒本尊とともに多くの庶民の信仰が続いています。平成四年三月三十日 港区文化財総合目録登録 港区教育委員会」「西向観世音菩薩像」。鎌倉時代、執権・北条時頼公が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した石像の観音さまです。昭和50(1975)年、安国殿前に尊像を遷座、同55(1980)年1月に観音堂落成。江戸三十三観音札所で聖観音像は子育て開運の利益広大と言われています と。その横には、石仏が2体。境内入口の石柱には「江戸札所 二十一番 西向観音」と刻み込まれていますが、よく見ると左下に「橘右近謹」という文字が彫り込まれていた。「橘右近」という人物がこの文字を揮毫した と。「奉般若心経壱萬巻納」と。可愛らしい石仏像。さらに東に向かって進む。左側・増上寺 西向観音堂の裏には増上寺北側の道路からも境内に入れる道が。右手に蘇鉄と三波石(さんばせき)。三波石は、群馬県藤岡市などで産出される岩石。青緑色で白い縞模様があるものが、よく庭石などに利用されているのだ と。 その手前には石灯籠の礎石か?ポツンと。そして参道の石灯籠(左)。参道の石灯籠(右)。さらに北側の参道を東に向かって進む。東京タワーを振り返る。ここにも「千躰子育地蔵菩薩」が並んでいた。「千躰子育地蔵菩薩子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。」「千躰子育地蔵菩薩」に近づいて。「千躰地蔵尊」碑。「南無阿弥陀佛・・・・」と。「TERA CAFE SHIEN ZOJOJI」が左側に。そして正面に見えて来たのが「熊野(ゆや)神社」。元和10(1624)年、当寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。「熊野」は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称があるが、当山では「ユヤ」権現として親しまれている と。「熊野」は元々は、イヤ・ユヤが語源の始まりと記されています。 谷、山深い地域のことをそう呼んだと。 それに、漢字の熊野をあてはめたと。 神武天皇が紀伊半島を超えて、大和(奈良県)に入った時に、熊にであったなどとの伝えもありますが、 単に、山深い・谷深いことの喩に、熊野と言う漢字を当てはめたのではと。 確かに、熊と野ですから、そう感じるのも不思議ではないのですが。能を代表する曲の一つである『熊野』(ゆや)は、世阿弥 の作であると。石鳥居。扁額「熊野神社」。「手水舎」。「手水鉢」。「手水鉢」には三本足の烏「八咫烏(やたがらす、やたのからす)」が。「「三本足の烏[八咫烏]『神々のお使い』日本書紀によると、神武天皇が天下統治のため紀の国(和歌山県)の熊野に上陸した際に、東征中の荒れすさぶる中で道に迷った時、日輪の中の天照大神より「天から八咫烏を使わそう。その八咫烏が道案内をするであろう。八咫烏の飛びゆく後ろに付いて行きなさい。」というおさとしがありました。そうして無事山越えを出来たという、まさに神のお導きという言い伝えが残されています。「日輪の中に三本足の烏」ルーツは中国で、太陽の中に三本足の烏が住む(おそらく黒点であろう)と考えられ、太陽は烏によって空を運ばれるとも考えられていました。烏の足を三本とするのは、二本足は陰数の為、陽の数である「三」こそが太陽にふさわしいと考えられます。日本に於いても、三本足の烏が太陽の象徴であると伝わったと推測されます。また時代によっては、「地・仁・勇」或いは「天・地・人」を表すとも言われています。日の神、天照大神の子孫である天皇が三本足の烏と八咫烏が習合し、熊野の烏も三本になったものと考えられます。『シンボルマーク』天皇の即位の礼に立てられるのぼりの紋様には八咫烏が使われたそうですし、また天皇の礼服の紋章には、日輪の中に八咫烏の刺繍が施されているそうです。近日身近なところでは、サッカー日本代表が着ているユニフォームの胸に付いておりますマークも八咫烏です。すなはち日本サッカー協会のシンボルマークとして用いられております。日本サッカーの成長と勝利への導きを願っております。私共大本山増上寺みこし講も、昭和四十九年に発足当時より八咫烏を代紋とさせて頂いております。お祭りの御神輿を通じて、結集した四百余名が大本山増上寺より護国豊穣、天下泰平を導いて頂きたいと祈願しております。このたび、みこし講発足三十年を記念して、熊野神社(境内)修復改修工事をさせて頂きました。今回の工事の際にみこし講の大柱の前に、この水舎に向かって三箇所の烏の足跡(保存有)が付いていたという縁起のよい事がありました。当熊野神社にも本物の八咫烏がいると信じてみこし講一同も八咫烏のお導きを頂いてより高い志をもって、一層の努力を心掛けてまいります。皆様のご多幸とご発展をお祈りいたします。 大本山増上寺熊野(ゆや)みこし講 世話人 益子良通」「熊野三所大権現宮由来記増上寺鎮守中最大なものとして、本殿拝殿あり、大きさ不明なれど東照宮に次ぐものなりと云う縁山志によれば、火災ありしも、明暦以来焼けたる事なし。御神体は熊野本宮大社 家津御子大神(けつみこのおおかみ)熊野那智大社 大己貴命(おおなむらのみこと)熊野速玉神社 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)以上の三御神体を祀り、故綿貫次郎翁のご指導により「大本山増上寺熊野みこし講」を起こし、護持・奉賛しております。祭禮は毎年3月3日に古式にのっとり行なわれていましたが、近年は4月第3日曜日に定まる。 大本山増上寺熊野みこし講』「大本山 増上寺 熊野みこし講 創立40周年記念碑」「大本山増上寺 熊野みこし講 創始者 綿貫次郎 創立40周年記念碑」「西暦1974年(昭和49年)、故綿貫次郎翁(通称おじいちゃん)は毎日増上寺安国殿に通い、奉仕活動を日課としていました。増上寺の繁栄を願い、若者達の力でお手伝いをしようと関係のある神輿仲間に声をかけ、「熊野みこし講」を発足し行事に参加する様になりました。増上寺の鬼門である熊野神社の社が老朽化したため、復興を願いみこし講の手づくりにて木の鳥居を建立。少しずつ改修を加え、現在の社殿及び玉垣が完成したのです。江戸の町東京を愛する若者達の結集、これが「熊野みこし講」です。綿貫のおじいちゃんの言葉、「身をもって奉仕する気持」を受け継ぎ、末永く後世につないで行ける様、ここに40周年を記念し石碑を建立いたします。平成26年4月吉日大本山増上寺 熊野みこし講」。「熊野神社」の「社殿」。近づいて。さらに。熊野神社の社殿前から、石鳥居越しに東京タワーを見る。ズームして。「安国殿」、「東京タワー」を振り返って。「喜壽記念 奉納桜 百本昭和五十五年四月吉日永谷キミ殿」「三解脱門」の横の「山廊」を裏から見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.29
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「増上寺 徳川将軍家墓所」の西側正面を見る。「明治期の増上寺御霊屋図」案内板が中央に。「明治期の増上寺御霊屋図」。増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かつては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和20年(1945年)3月の東京大空襲によりその大半が焼失。昭和33年(1958年)に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一画にまとめられたのた。 写真「台徳院(二代秀忠公)霊廟 本殿内部」。旧増上寺の「北・南御霊屋」配置図。□ 現在の増上寺境内の敷地。□ 現在のプリンスホテルの位置モノクロだが豪華絢爛さが伝わって来た。「文昭院(六代家宣公)霊廟 拝殿内部」。「文昭院(六代家宣公)霊廟 相之間内部」。「文昭院(六代家宣公)霊廟 唐門側面」。「有章院(七代家継公)霊廟 勅額門」。「崇源院(お江の方)霊牌所 内部」。「鋳抜門」を霊廟側から。扉に近づいて。こちらには、徳川葵紋はなく、波のみが。右側の上り龍。左側の下り龍。「現将軍墓所宝塔配置図」。「二代秀忠公夫妻 石塔」 「台徳院殿 二代秀忠公」 秀忠は家康の第3子として、天正7(1579)年に出生。慶長10(1605)年、 二代将軍に就任。将軍職にあること18年をかぞえ寛永9(1632)年、54歳で逝去。 大葬の式は行われず霊柩を増上寺に迎え、二月十日より当時の最高の技術者が動員され、 霊廟が順次造営された。台徳院殿廟奥院に杷られた宝塔は、装飾華麗で当時の芸術の粋を つくしたものであったが、惜しくも木造のため戦災で焼失してしまったと。 「崇源院殿 お江の方」。 崇源院(すうげんいん/そうげんいん)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。近江の 戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信秀の娘であるお市の方(織田信長の妹)。 崇源院は院号であり、一般には江(ごう)か小督 (おごう)の名で知られるが、 諱は達子(みちこ)で、追贈された贈位は従一位。 長姉の淀殿(茶々)、次姉の常高院(初)とで、いわゆる浅井三姉妹の一人で、初め佐治一成と 婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、娘完子(さだこ) をもうけたが、秀勝が急逝。 江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠と3度目の結婚をして、3代将軍家光を含む2男5女をもうけた。「台徳院殿 二代秀忠公」と。「崇源院殿 お江の方」と。「二代秀忠公夫妻」の左側に「六代家宣公夫妻(青銅製)」。近づいて。「文昭院殿 六代家宣公」と。霊廟の右・北側に並ぶ墓石群。右奥の「有章院殿 七代家継公」。家宣公の第3子として宝永6(1709)年に出生。父の逝去、兄二人の早世でわずか3歳にして七代将軍職を継ぎます。正徳5(1715)年皇女八十宮と婚約するも、元来が病弱で実現を見ぬまま翌正徳6(1716)年に8歳で亡くなられた。廟は文昭院殿廟に並んで造営された。その右側に「惇信院殿 九代家重公」。吉宗公の長子として、正徳元(1711)年に出生。生まれつき多病で、49歳で将軍職を譲り、宝暦11(1761)年、51歳で逝去。調査によると、重度の歯ぎしりにより発音障害があったようですが、復元された容貌は歴代将軍の中でも最も美男子であったようで、遠くから拝謁する大名にとっては気高く見えたと。「惇信院殿 九代家重公」。「慎徳院殿 十二代家慶公」家斉公の第2子として、寛政5(1793)年に出生。天保8(1837)年、十二代将軍に。天保の改革に着手するものの改革は失敗に終わり、幕府は没落の道を進むことに。嘉永6(1853)年、あわただしい世情の中61歳で逝去。霊廟の左・南側に並ぶ墓石群。宝塔には石製と青銅製の2種類が確認できたのであった。 左側奥には「昭徳院殿 十四代家茂公」。紀伊徳川家、斉順の第2子として弘化3(1846)年に出生。安政5(1858)年将軍家の養子となり十四代将軍に。しかし、世継問題と日米通商問題で幕府は大きく揺れ、井伊直弼によって安政の大獄が始まったが、事態収拾のために公武合体策をとり、和宮親子内親王(静寛院)を正室に迎えた。尊皇攘夷派と幕府の対立が激化するなかで、家茂公は長州征伐を指揮しますが、出征途中の大坂城で病のために逝去。慶長2(1866)年、享年21。「昭徳院殿 十四代家茂公」。「十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮」。十四代将軍家茂の正室、静寛院和宮は仁孝天皇の第8皇女として弘化3(1846)年に出生。6歳の時に有栖川宮と婚約が成立していたが、婚儀間近になって公武合体策によって降嫁。家茂の死後、落飾して静寛院と称し、波乱万丈変転厳しい時代のなか、江戸城無血開城、徳川家存続、夫君追善に力を尽くし、明治10(1877)年31歳という短い生涯を閉じた。没後遺体は京都へ戻すよう沙汰があったが、本人の遺言にしたがい、家茂公と同列に並んで増上寺に祀られたと。i入口手前には歌碑があったが。「十四代将軍御正室 静寛院宮 皇女和宮」。「合祀(ごうし)塔」。 現在の合祀塔には、家光公第三子で家宣公の実父である徳川綱重をはじめ、家光公側室で五代綱吉公の生母桂昌院、十一代家斉公正室広大院、家宣公側室月光院ら南北の御霊屋に祀られていた歴代将軍の夫人や子女の多数が埋葬されていると。なお宝塔は月光院輝子の墳墓に祀られた宝塔が使われているのだと。 「増上寺 徳川将軍家墓所」越しに東京タワーを見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.28
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粟津温泉 喜多八<石川県>「増上寺 宝物展示室」前にも、移設された青銅燈籠が2基。■宝物展示室入口(南側・写真奥) 奉献者:安芸国広島藩主 浅野吉長 鋳物師:多川民部藤原見歳■宝物展示室入口(北側・写真手前) 奉献者:前越後国高田藩主 松平定重 鋳物師:今井信濃藤原勝長「増上寺 安国殿」越しに東京タワーを見る。正面に「安国殿」👈リンク。常香炉とその先に「安国殿」入口が。内部に入る。寺務所。ネットから祭壇全体の写真。「安国殿」のご本尊、秘仏「黒本尊」はこちらにあるのだと。恵心僧都の作。家康が崇拝し、黒本尊のパワーを借りて激戦を勝ち抜いたのだ と。秘仏「黒本尊」の「お前立」をズームして。「安国殿と黒本尊この建物は德川家康公の法号「安国院殿」からその名をとっています。「安国殿」とは元来家康公の尊像を祀る御霊屋を意味していましたが、戦後の復興に伴う境内堂宇整備の一環として、昭和四十九年(一九七四)当時の仮本堂をこの地に移転し、家康公の念持仏として有名な「黒本尊阿弥陀如来」を安置し「安国殿」と命名しました。建物の老朽化に伴い、平成ニ十三年(二〇一一)法然上人八百年御忌を記念し、念仏信仰の拠点として家康公が成し遂げた天下泰平の世(安らかな国づくり)を願い、新たに「安国殿」を建立しました。「黒本尊」は当山の秘仏で、正月、五月、九月の各十五日、年三回行われる祈願会の時だけ御開帳されます。また両脇陣には、家康公肖像画、徳川家位牌、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれています。」祭壇の右側には阿弥陀如来立像。祭壇の左側。中央に狩野探幽筆『徳川家康像』と同じ絵が、その下、右横には徳川家御歴代並びに一門の尊霊の位牌等が祀られていた。そして一番左に「皇女和宮御像」。「安国殿」の右側にあったのが「徳川将軍家墓所公開」と書かれた門。「徳川将軍家墓所(徳川家霊廟)特別拝観当山に埋葬されているのは、ニ代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十ニ代家慶公、十四代家茂公、の六人の将重のほかニ代将軍正室崇源院、十四代将軍正室静寛院などです。以下 略」「千躰子育地蔵菩薩」。増上寺では子育安産の西向聖観世音菩薩にちなみ、昭和50年頃より子育地蔵が徐々に建立され、境内北側に約1,300体が安置されている。このお地蔵様は、お子様の「無事成長」「身体健全」或いは「水子さま」のご供養のためにと願いを込めて建てられたもの。毎年4月の第3日曜日には「千躰子育地蔵尊大法要」が執り行われ、子供の無事成長・身体健全の祈願、水子のご供養を執り行っている と。赤いニットの帽子をかぶり風車を持っていru。赤いよだれかけをしているお地蔵さんも。子供の健康と成長を願って安置され無数の地蔵尊が並ぶ。風が吹くと、時折、からからと風車が音をたててまわっていた。増上寺境内の地蔵様たちは皆それぞれ愛くるしい顔の表情で、端から端へと見て歩いたのであった。全ての地蔵様が「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」できちんときれいに身繕いされていたのであった。全ての子供達の健やかな成長を願いながら。「増上寺 徳川将軍家墓所」に向かって「千躰子育地蔵菩薩」に見送られながら歩く。「千体子育地蔵菩薩子や孫の無事成長を祈って当寺ひまわり講の方々が中心となって、それぞれのお施主様がお建てになりました。幼い子や孫への愛情の表れとして、頭を守り、寒さをしのぐ為の「赤い帽子」「赤い前掛け」「風車」をお地蔵さまに奉納しています。地蔵菩薩像には触らないでください。」そして正面に石碑が並んでいた。「皇女和宮の歌碑はゝ(母)所葉乃(そはの) 散(ちり)し秋さへ 思ひ出て 一方ならず 袖はぬれける」亡き母(観行院)を偲び、涙にくれたという歌である とネットから。「止於考」と刻まれた石碑。「止於考」は、儒教の「大学」にある「為人子,止於孝;為人父,止於慈」という文言によるもの と。「止於考」は、子として真心をもって両親に仕える道を「孝」とすることを意味する と。見事に紅葉したモミジ葉。近づいて。「徳川将軍家墓所・鋳抜門」が右手にあった。現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されているのであった。扉には徳川葵紋が並んでいた。3枚の葵の葉を頭合わせに並べて、通常の太さの丸で囲う。江戸幕府の将軍家、徳川家の家紋。東京増上寺の寺紋、日光市日光東照宮の神紋、京都市清凉寺の寺紋であると。門の右には上り龍。門の左には下り龍。「港区の文化財 増上寺 鋳抜門」案内柱。近づいて。その奥には「徳川家 霊廟」と。「増上寺は徳川将軍家の菩提寺として、かっては二代秀忠の霊廟を中心とした南廟(現在のゴルフ場敷地)と六代家宣・七代家継の霊廟を中心とした北廟(現在の東京プリンスホテル敷地)があり、その華麗さは日光東照宮を凌ぐとさえいわれていたが、昭和二十年三月の東京大空襲によりその大半が焼失した。昭和三十三年に実施された改葬により、徳川家の墓所は安国殿裏手のこの一角にまとめられた。」「徳川将軍家墓所戦前、旧徳川将軍家霊廟は御霊屋(おたまや)とも呼ばれ、増上寺大殿の南北(左右) に建ち並んでいた。墓所・本殿・拝殿を中心とした多くの施設からなり、当時の最高の技術が駆使された厳 粛かつ壮麗な霊廟は、いずれも国宝に指定され格調ある佇まいであった。 その後昭和 二十年(一九四五)の空襲直撃で大半が焼失し、残った建物もその指定を解除されました。 正面の門は旧国宝で「鋳抜門(いぬきもん)」と言われ、文昭院殿霊廟(徳川家第 6 代将軍家宣公)の宝塔前「中門」であったものを移築した。 左右の扉は共に青銅製で 5 個ずつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれ、 その荘厳さは日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構である。 墓所には、二代秀忠公・六代家宣公・七代家継公・九代家重公・十二代家慶公・十四代家茂公の 六人の将軍のほか、崇源院(二代秀忠公正室、家光公の実母、お 江)、静寛院宮(十四代家茂公正室和宮)ら 五人の正室、桂昌院(三代家光公側室、五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。」「四菩薩像」。「四菩薩像正面(右)から普賢菩薩(辰年守本尊)地蔵菩薩(子育地蔵)虚空蔵菩薩(丑寅守本尊)文殊菩薩(卯年守本尊)もとはこの場所の北西、地蔵山に安置されていた。西向の観音像に対し東向きであった。正嘉ニ年(一ニ五八)の作と伝たえられる古像である。奉納 杉浦米奉納 藤城里花」「港区の文化財 四菩薩」。「向って左から文殊・虚空蔵・地蔵・普賢の4体の菩薩像は、現在の正則中学校あたりにあった地蔵山に東に向けて安置されていたもので、道を隔てて東側にあった観音山に西向きに安置された観音像とともに向き合って街道を見下ろす形をとっていました。足利成氏が建てたとも、北条時頼が建てたとも、正嘉二年(一二五八)に土地の人が真言僧に建てさせたともいわれています。」「増上寺 徳川将軍家墓所」入口手前には大きな石灯籠が並ぶ。さらに左側にも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.27
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粟津温泉 喜多八<石川県>「写経塔」。「写経塔」は、三解脱門から大殿に向かって右手にあった。昭和54年から始まった増上寺の写経会で、書写された写経が奉納されるための塔とのこと。枝垂れ桜の木ノ下に「故長谷川一夫丈遺愛の桜」碑。「為照林院澄譽演雅一道大居士供養塔故長谷川一夫丈遺愛の桜施主 林 成年」と。長谷川一夫(1908~1984)は戦前から戦後の長きにかけて、日本映画界を代表する二枚目の時代劇スターとして活躍し、同時代の剣戟俳優である阪東妻三郎、大河内傳次郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門とともに「時代劇六大スター」と呼ばれた。歌舞伎界から松竹に入り、松竹時代劇の看板俳優となった。その後東宝、大映と移り、300本以上の作品に出演。舞台やテレビドラマでも大きな活躍を見せており、晩年には宝塚歌劇『ベルサイユのばら』の初演で演出を行った。没後に俳優では初の国民栄誉賞を受賞。大殿に登る石段の右手手前に「法然上人歌碑」。「月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こころにぞすむ」「お歌の由来月かげの いたらぬさとは なけれども ながむる人の こころにぞすむ観無量寿経に説く「光明は遍く十方世界を照して念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」の意を法然上人がお歌に示されたものである。浄土宗の宗歌になっている。 寄贈 千代田水産株式会社」。前方左手にも「法然上人歌碑」が。「池の水 ひとのこころに にたりけり にごりすむこと さだめなければ」人の心は、ほとけ心が起こるかと思えばあとからあとから迷い心がでてきて、なかなか悟ることはできない。何とも心もとないことであろう。という意味だ と。「お歌の由来池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ法然上人の御作、変わりやすい人の心を池の水にたとえてお歌に示されたものである。 寄贈 千代田水産株式会社」「聖鋏観音像」。この聖鋏観音像は、昭和56年(1981年)8月3日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。「聖鋏観音縁起この聖鋏観音像は、 昭和五十六年八月三日、国際美容協会会長・山野愛子が願主となって、大本山増上寺境内のこの地に建立、開眼された。願主の一生がハサミに支えられ、お陰によって生かされたことへの深い感謝と、ハサミの中にみる己れを滅して他を整え美しくする働きを、観音様と拝む心とによって聖鋏観音像造立を発願。併せて美容はもとより、ハサミにかかわりのあるすべての人々の心の依り処とにり、お守りとなるよう願われて奉造された。聖鋏観音像は、彫刻界の長老・北村西望氏の制作である。毎年八月三日を「ハサミの日」と定め、この世におけるつとめを果たし終えたハサミをあつめてこの塚に納め、ハサミ供養法要が厳修される ハサミは観音菩薩の御手そのものである 徹誉大僧正」近づいて。そして石段の上に大きな「大殿(だいでん)」が。参道から大殿前に至る階段は18段。阿弥陀仏の本願、第18願であると。徳川幕府の支援を受けて建てられた創建時の大殿は豪華な一階建ての建物でした。その大きさは京都にある浄土宗の総本山、知恩院の巨大な大殿をしのぐほどでした。残念ながら、元の大殿は1870年代に起こった廃仏運動によって明治時代(1868–1912)に焼失しました。建て替えられた大殿は、第二次世界大戦の空襲で破壊されました。現在の鉄筋コンクリートづくりの大殿は、1974年に比較的シンプルな建築様式で建てられました。増上寺の本尊である阿弥陀如来の像は大殿の二階に安置されています。浄土宗の信徒はここに来て「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀様に帰依します)」と唱えます。これは、仏の名を繰り返し唱えることでどんな人でも悟りを開けるとする「念仏」という慣習です。本尊の左側に置かれているのは、浄土宗の開祖である法然上人(1133–1212)の像です。法然は上流階級のものだった仏教を一般大衆に広めました。右側には中国の高僧、善導大師(613–681)を祀る祭壇があります。善導大師は法然より何世紀も前に念仏の重要性を説いた人物で、法然は善導大師の残した書物から感銘を受けました。増上寺の僧侶は毎日3回、それぞれ午前6時、午前11時30分、午後5時に仏に祈りを捧げる儀式(勤行)を行います。参拝者は日々の勤行に加え、4月と12月に行われる舞楽の奉納など、大殿で開催される特別行事にも参加できます。大殿の他の階は、地下1階が宝物展示室、地下2階が檀家1,600人のお墓、3階が道場となっています。三門から大殿...距離にして約48間。阿弥陀仏の48願。大殿に登る階段...25菩薩をあらわし、25の階段となっているとのこと。左右に「青銅製灯籠」。旧徳川将軍家霊廟に奉納されていた青銅製の燈籠4基が、埼玉県狭山の不動寺から増上寺に移設され、大殿前石段脇と宝物展示室入口に祀られたのだと。かつて歴代将軍が薨去すると、全国の大名から灯籠が寄進され、菩提寺に造営された各霊廟に献備された。寄進する灯籠の数や種別は、大名の石高によって決められていたと。江戸時代、増上寺本堂の南北に広がっていた二代、六代、七代将軍の霊廟には、1,000基もの石燈籠と、80基ほどの青銅製の燈籠が祀られていた。移設された4基は、六代将軍徳川家宣公の霊廟である文昭院殿霊廟の宝前に奉納されたもの。文昭院殿霊廟は、威容華麗を誇った台徳院殿霊廟に引き続き、1712年に増上寺の北側に造営された。惜しくも戦災で焼失しったが、再び増上寺に祀られた灯籠は、往時を偲ばせる荘重な雰囲気を醸成している と。この大殿前石段脇 2基は奉献者:越中国富山藩主 前田利興鋳物師:宇田川藤四郎重次 であると。左の青銅製灯籠。「大殿」入口前の階段下から。。「大殿」入口前。扁額「増上寺」。内陣。中央には本堂ご本尊(室町期製作)の「阿弥陀如来」が祀られている。ズームして。「大殿(だいでん)昭和四十九年(一九七四)、浄土宗開宗八百年の記念事業として戦災に遭った本堂を再建しました。「大殿」と称し、間ロニ十六間余(約四十八メートル)奥行ニ十五間余(約四十五メートル)高さ七丈半余(約ニ十三メートル)総面積は一〇.五三五平方メートルという大きさの大本堂です。石段を登りきったニ階に本堂、三階に道場、一階に檀信徒控室、地下に宝物展示室などを備えています。本堂には、ご本尊の阿弥陀如来(室町期作)、両脇壇に高祖善導大師と宗祖法然上人の御像が祀られ、参拝される方々の厚い信仰をあつめています。」「大殿」前から「三解脱門」方向を振り返る。左手奥にあったのが「祐天桜」。祐天桜は江戸時代を代表する浄土宗大本山増上寺第36世の祐天上人(1637~1718年)が寛永元年(1661年)の頃、手植えした桜と伝承されている。花がかたまって咲くのが特徴。「祐天桜」碑。住友林業のバイオテクノロジーで増殖された貴重種の祐天桜が植えられているのだと。道路標識の如き案内板が境内に。「幼少法然さま」(=御幼名・勢至丸さま)像。近づいて。平安時代末期、貴族よりも庶民に近い武士が政治権力を握るようになった。このため仏教も、貴族から庶民を対象とするものへと変化が始まった。そんな情勢で登場したのが法然(浄土宗開祖)だった。法然が9歳のとき、土地争論が発端で父漆間時国が殺害されたが、父の遺言により、仇討ちを放棄し仏門に入ったとのこと。増上寺「光摂殿」。右側は「増上寺會館」。昭和36(1961)年に竣工した増上寺会館の老朽化に伴い、法然上人八百年御忌に向けた境内整備事業の一環として、平成11(1999)年に建立。東棟・中棟・西棟の3棟からなる会館で、寺務所機能のほか、大食堂や和洋2種の各個室は参拝や法事、研修や修養会で来られる多くの方々に利用されていると。 左側が「寺務所」。増上寺「光摂殿」。平成12(2000)年、「心を洗い、生きる力を育てる」ための講堂、道場として完成。三縁山広度院増上寺境内に三解脱門から入って大殿の左側、増上寺会館との間に位置する。館内には108畳敷もの大広間があり現代日本画を代表する120名による天井絵は四季折々の草花をテーマで目に触れた人を極楽浄土を想像させるものになっている。また、光摂殿は増上寺の境内に三か所有る式場の一つで、それぞれ使い方が決まっていると。参列者が500名までは「慈雲閣」で1000名までが「光摂殿」1000名以上になると「大殿」と言う事になると。参列者が500名とは相当な人物?そして光摂殿と大殿の間に東京タワーの姿を再び。扁額「光摂殿」。「光摂殿」入口正面の唐紙の装飾模様。千羽鶴が連なって飛翔するが如き模様。「光摂殿」前から「増上寺旧方丈門(黒門)」方向を見る。日比谷通りから見たイチョウの葉の黄葉をこちらからも楽しむ。ズームして。更に。石碑に近づいて。三縁山広度院増上寺山仁誉上人の詠んだ歌「今日もまた 南無阿弥陀佛 すかりなは 導き受けて 日日に新たに」「今日もまた、南無阿弥陀仏と称えて、阿弥陀仏におすがりしたならば、仏の導きをうけて日々新たな思いですごすことができます」の意 と。「増上寺旧方丈門(黒門)」の姿が。再び「大殿」前まで戻り、境内を望む。「増上寺宝物展示室 長期休館のお知らせ」。「常設展 五百羅漢図」。「増上寺宝物展示室」は「大殿」の「B1入口」からと。「大殿」と「安国殿」の間に見えた東京タワーを再び。ズームして。「大殿」を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.26
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そして「増上寺」前の日比谷通り・「増上寺前」交差点に到着。増上寺の正式名称は「三縁山広度院増上寺」ご本尊は阿弥陀如来・南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)交差点から巨大な山門・「三解脱門」を見る。「増上寺」は、浄土宗の七大本山の一つ。酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与して来た。17世紀中頃の増上寺は、広大な寺有地に120以上の堂宇、100軒を越える学寮が甍ぶきの屋根を並べる、巨大な寺であった。当時は、3000人以上の学僧の念仏が、全山に鳴り響いていたと言われている。苦難の明治期と戦災を乗り越えた増上寺は、昭和49(1974)年に悲願の大殿再建を果たす。宗祖法然上人八百年御忌をお迎えするにあたって、平成21(2009)年には圓光大師堂と学寮を、平成22(2010)年には、安国殿を建立した。長い年月をかけて、境内諸堂宇が整い、復興が成ったとのこと。東京都港区芝公園4丁目7。「三解脱門」をズームして。間口10間4尺5寸(19.5m)奥行5間(9m)高7丈(21m)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有している。この巨大な門は1622年に将軍の大工頭によって建造された。この門は増上寺創建時から残っている唯一の建造物。この門の正式名称である「三解脱門」は、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろか)の三毒からの解放されてご本尊の阿弥陀如来さまの元へと向かい極楽浄土へ入るための門を意味しているとのこと。高さ21メートルの門の二階部分(現在一般には公開されていません)には、釈迦如来の像が安置されており、この像のかたわらにはそれぞれ異なる表情を浮かべている二菩薩と十六羅漢(釈迦の最も献身的な弟子)が控えている。これらの像は江戸時代(1603–1867)初期の作であると考えられている。下層に寄棟屋根、上層に切妻屋根を持つこの門の凝ったつくりは、仏教が日本に伝来した6世紀頃の中国の建築様式を参考にしたもの。二階部分の欄干のシンプルなデザインは、日本的な建築美学を反映しています。鮮やかな朱塗りのこの門は、江戸(現在の東京)を代表するランドマークのひとつであった。三解脱門には、通常お寺の入り口に置かれている2体の恐ろしい顔をした仁王像がない。これは、増上寺が浄土宗の寺院であるためで、浄土宗は救いを求めてやってくる全てのものを歓迎しているのだと。10年間かけて行われる三門の改修工事は、2025年4月に着工が予定されているとのこと。「三解脱門」の扁額は「三縁山」。横断歩道を渡り、「三解脱門」前に巨大な立札が。「大本山増上寺 浄土宗開宗八百五十年慶讃 勧進 法要奉修 令和六年四月」と。「勧進」とは「寺社・仏像の建立(こんりゅう)・修繕などのために寄付を募ること。」。「今月の言葉👈リンク西岸の上に人有って喚んで言わく汝、一心正念にして直に来たれ我よく汝を護らん衆て水火の難に堕せんことを畏れざれ 「三心料簡および御法語」法然上人」と。「西に向って旅をしている人がいます。するとその人の前に突然河が現われます。河幅は100歩程であるが、南は焼えさかる火の河、北には水の河が渦巻いていた。その水火の河の分かれ目に1本の白い道が西岸まで通じている。その白い道は幅が4、5寸であるが、常に炎と波浪が襲いかかり渡るにはあまりにも危険であった。後を振り返れば多くの賊徒や猛獣たちがこちらに向かって迫ってきている。絶体絶命のこの人は、どちらに向かっても死を免れることはできないと意を決し、どうせ死ぬならこの危い細い白道を進んでいこうと決心したのです。すると東岸から「この道を真っすぐ進んでいきなさい。死ぬことはありません。もしここにとどまれば必ず死んでしまうでしょう」と語る声がした。また西岸からは「心を定めて直ちにこちらに渡ってきなさい。私はあなたを必ず護ります。水火の河など恐れてはなりません」と語る声がした。東から「行け」西から「来い」と励ましの声がしたので旅人は、疑いや不安の心が消え決然と白道を進んで、西岸つまり極楽浄土にたどり着きました、という譬え話とのこと。「三縁山 広度院 増上寺浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじようじ)が正式の呼称です。開山は明徳4年(1393)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明2年(1470)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきた。江戸時代初期、増上寺法主第十二世 源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康から深く帰依を受け、手厚い保護を受けた。慶長3年(1958)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を所蔵している。」「三解脱門慶長十六年(一六一一)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中居大和守正清によって建立され、元和八年(一六二二)に再建されました。この門 は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門の名は、煩悩から解脱した覚りの境地を開くための三種の修行、「空門」「無相門」「無願門」からなる「三解脱門」に基づいています。また「三門」と通称されています。建築様式は三戸二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約十九メートル)奥行五間(約九メートル)高さ七丈(約二十一メートル)の二階建て構造。さらに左右には三間(約五・四メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像 が奉安されています。」「三解脱門」の前には「日比谷通り」その先には「芝公園 8号地」の緑が。この「三解脱門」前の「日比谷通り」を正月2日、3日には箱根駅伝のランナーが爆走したのであった。寺号標石「浄土宗 大本山 増上寺」。「三解脱門」の左右に延びる棟には計四つの花頭窓が。反対側から「三解脱門」を見上げる。「三解脱門」に吊るされている飾り。名前は??最上部には、徳川家の菩提寺なので三つ葉葵の寺紋が。中央部には「魚がし」の文字。一番下には「(魚)壱場」漁業関係の会社からの奉納品であろうか。同じものが隣にも。「江戸切絵図」を「ネット」👈リンク から。「芝口南西久保 愛宕下之図」に描かれている。 拡大図。「東京名所芝増上寺之図」。明治32年(1899)8月10日 と。広重『東都名所 芝増上寺』。そして「三解脱門」を潜り境内へ。正面に巨大な「大殿」。「増上寺 境内 案内図」。翌日12月2日、大殿本堂内にて開かれる「増上寺蝋燭能」のポスター。演 目:狂言 「仏師」 野村又三郎 能 「船弁慶(前後之替)」 梅若泰志 と。「タイムカプセル」標。「宗祖法然上人御降誕850年慶讃タイムカプセル記念建設の標昭和57年浄土宗宗祖法然上人御降誕850年を慶讃し、この勝縁・恵まれた子供達の夢や希望を大切に育むことを目的としタイムカプセルに収蔵し埋設し、上人降誕900年を迎える50年後を待っております。勝縁に接することの出来た子供達は勿論のこと生あるものの幸せが永久しへなることを祈ります。南無阿彌陀佛 大本山増上寺 第85卋 心誉康隆」「浄土宗 大本山 増上寺」案内板。中央に配置案内図。「沿革浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。開山は明徳四年(一三九三年)、浄土宗第八祖 酉誉聖聡(ゆうよしょうにん)によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、慶長三年(ー五九八年)に現在の地に移転しました。文明ニ年(一四七〇年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し大きく発展してきました。江戸時代初期、増上寺法主十ニ世 源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり増上寺は大隆盛へと向かって行きました。徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その大きさは、寺領ー万石余、ニ十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管しています。1️⃣大殿(本堂・宝物展示室) Daiden (Hondo: Main Hall)1階 信徒の法要受付及び控室2階 大本堂 本尊阿弥陀如来をお祀りしています3階 仏間(道場)地下1階 宝物展示室「2️⃣安国殿徳川家康公の念持仏として有名な、秘仏「黒本尊阿弥陀如来」が祀られています。黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け戦の勝利をおさめ、天下統一の大願を成就したという霊験あらたかな阿弥陀如来像で勝運や、厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。◆正月15日・5月15目・9月15日に黒本尊御開帳(正五九祈願会)◆各種御祈願・水子供養をお受けしております。◆お守り・お札・お土産等を扱う札所がございます。」「3️⃣圓光大師堂法然上人の御身柄が奉安されております。」4️⃣徳川将軍家墓所徳川家の菩提寺として現在6人の将軍と皇女和宮さまをはじめ、各公の正室・側室、そして子女の墓所があり、かっての栄華を偲ばせています。5️⃣貞恭庵(ていきょうあん)皇女和宮さまゆかりの御茶室。6️⃣光摂殿(こうしょうでん)1階 講堂3階 大広間(天井絵が飾られています。非公開)7️⃣慈雲閣(じうんかく)1階 多目的施設2階 開山堂 開山上人をお祀りしています。8️⃣増上寺会館会館2階に寺務所がございます。「聖観世音菩薩」。どこにも逃げ場がなくなった時、人の目には地面が近いと映ってしまうのだろうか。それとも絶望のせいなのか。炎と煙に追い詰められた宿泊客が9階あるいは10階から飛び降りる衝撃的な映像が目に焼き付いている。1982(昭和57)年に東京であったホテルニュージャパンの火災。亡くなった人は33人、そのうち飛び降りて命を落とした人は13人にも上る。首都のど真ん中で発生した大惨事。ずさんな防火体制が明らかになり、経営者は厳しく責任を問われて実刑に服した。その悲惨な火災で亡くなった人たちの慰霊のために建てられたのが、大本山増上寺(東京都港区芝公園4丁目)境内にあるこの「聖観世音菩薩」の像である。像がここに設置されたのは遺体の仮安置所になり、仮通夜も行われた縁とのこと。お顔をズームして。台座には「聖観世音菩薩ホテルニュージャパン罹災者のみたまとこしえに安からんことをお祈りして」と刻まれていた。そして台座の裏には「昭和六十二年(1987)二月八日株式会社 ホテルニュージャパン取締役社長 横井英樹 建之」と。先ほど解ったことであるが、横井英樹氏は死者33人を出したホテルニュージャパン火災で1993年(平成5年)11月25日に禁錮3年の判決が最高裁で確定。これにより勲七等及び記章を褫奪された。1994年(平成6年)から八王子医療刑務所で服役したが、1996年(平成8年)に仮釈放となり、1997年(平成9年)には刑期を終えているとウィキペディアより。よってこの「聖観世音菩薩」は裁判で争っている時期に建立したものであろうか。この「聖観世音菩薩」を建立した時の心境はいかに?「仏足石」。近づいて。「仏足石仏足石は仏の足うらの形(千幅輪相)を石に彫りつけたもの、インドでは仏像が刻まれる以前は仏足石や菩提樹などで釈尊を象徴的にあらわし、人々はこれらを仏として礼拝した。この仏足石は、当山第70世福川行誠上人の代、山内宝松院松涛泰成上人の発願により明治14年5月に建石されたもので、側面には仏像、経文、由来などが刻まれている。」そして「魚供養之碑」。「魚供養之碑魚がしに会社を起こし、水産物を商って37年ひたすら業界の発展と社会への貢献を志し、困難を克服して現在に至った足跡を顧みるとき、感慨ひとしお無量なるものがある。今日あるは、水産物とりわけ魚類のおかげであることに思いをいたし、深い感謝をこめて、ここに魚供養碑を建立するものである。願わくは、生業を同じくする人々よ、しばし歩みをここにとどめ、彼らのために感謝の祈りを捧げられんことを。 昭和60年3月8日 千代田水産株式会社」「お~いお茶わたしの街の未来の桜プロジェクト祝一千本目 十一代目 市川海老蔵丈市川ぼたん氏、堀越勸玄氏 合同植樹」。「ブッシュ槙」。「ブツシュ槙(コウヤマキ)米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹をお手植されました。」「詠唱発祥の地」碑浄土門主 心誉康隆淨土宗吉水講「詠唱発祥の沿革浄土宗は, 終戦直後の昭和21年, 国は焦土と化して, 身も心も路頭に迷う人々に心のやすらぎと生きる希望を与える教化活動と して, 時の浄土宗教学部長 吉水智承師を中心に, 古くて新しい詠唱, 浄土宗吉水講をこの地増上寺境内に開きました。第一回詠唱講習会が, 松濤基道師, 鈴木錦承師を講師として総本山知恩院に於て開催されたのが同年7月であります。詠唱教化の道が開かれましたが, 奇しくも翌22年12月に浄土宗に宗政の変動が興り, 詠唱教化の道は停滞したかに思われました。しかし, 幾度の困難を乗り越えて, 詠唱は政治を超越し, 念仏教化の道として受け継がれ, 昭和26年9月, 僧和探玄師, 花木順道師,知足園朗師, 池上霊心師を中心に 知恩院吉水講が産声を挙げました。増上寺吉水講は, 昭和55年 善導大師一千三百年遠忌を記念して, 第一回詠唱大会を開催することができました。その後毎年御忌 奉納を続け, 念仏の助業としての詠唱は, 燎原の火の如く, 関東, 中部, 東北, 北海道一円に広まり, 寺院を中心に吉水講の集いが結成され, 新しい念仏信仰が盛り上がり, 今日の浄土宗吉水講の発展に大きな原動力となりました。これは松濤基道師, 菊地道雄師, 北山良祐師, 故鈴木錦承師, 故曽我晃也師及び 詠唱指導普及委員先生のご尽力の賜であり, 講員一人一人の地道な活動と熱意にほかなりません。このたび増上寺吉水講20周年記念大会を開催されるにあたり, 浄土宗吉水講の記念事業として, 「詠唱発祥の地」と題し, 浄土門主 中村康隆猊下吉水講総裁の御染筆を戴き, ここに記念碑を建立することができました。先徳の主旨を受け継ぎ, 吉水龍詠唱を通じて念仏教化の道が全国に弘まることを念願するものであります。 浄土宗吉水講 平成十四年四月二日」「グラント松」。「グラント松米国第18代大統領グラント将軍は明治12年7月国賓して日本を訪れ、増上寺に参詣し記念としてこの樹を植えました。」境内地図を再び。境内から大殿そして東京タワーを望む。左奥の「方丈門(黒門)」の手前にあったのが「土木建築殉職者慰霊塔」。「土木建築殉職者慰霊塔ノ記土木建築事業ハ一國文化ノ象徴産業ノ先躯ニシテ厥ノ能ク山岳ヲ貫キ雲閣ヲ築クや固ヨリ険ヲ犯シ危キヲ怖レス斯ノ高業ニ従フモノ洵ニ平和ノ戦士トモ謂フベシ而シテ不幸ソノ職ニ殪レシモノ豈ニ其ノ英霊ヲ祀リ其ノ幽魂ヲ慰メスシテ可ナランヤ茲ニ全國同業者ノ寄進ニ依リ慰霊塔ヲ建立シテ永ク其ノ菩提ヲ弔ハントス 昭和十二年三月二十一日 日本土木建築請負業聯合會」真っ黄色に咲く石蕗(つわぶき)の花が境内に。そして左前方に「水盤舎」。正面から「水盤」を。「水盤舎この水盤舎は清揚院殿(徳川家三代将軍家光公三男甲府宰相綱重公)の霊廟にありましたが、明治時代の解体・昭和の空襲を逃れ、現在地に移築されました。徳川将軍家霊廟建築を伝える数少ない遺構のひとつです。」歴史を感じさせる石灯籠。手前の巨石は?そして「三解脱門」境内から振り返る。右手にあったのが「鐘楼」そしてその手前に「江戸彼岸枝垂桜」。「為 豊島泰三追善菩提奉納 江戸彼岸枝垂桜平成六年三月吉日」。開花時の写真をネットから。「港区の文化財 増上寺の梵鐘高さ八尺(龍頭を入れると十尺、約3.3m)、径五尺八寸、重さ四千貫(約15t)といわれ、江戸時代の梵鐘としては東日本最大といわれています。椎名伊予吉寛が品川の御殿山で鋳造したもので、延宝7年(1673)に7回目の鋳造で完成したといわれます。その音も大きく、「江戸中へ七分通りは響くなり」などと川柳でよまれました。増上寺の南西には九州の有馬や島津の藩邸があったため「西国の果てまで響く芝の鐘」「てもさても諸国へ響く芝の鐘」などの句もあり、当時の江戸の人々の自慢も、実感を伴っていたことがうかがわれます。平成4年3月30日」。「梵鐘」。ズームして。「鐘楼堂👈リンク寛永十年(一六三三)に建立されましたが焼失、戦後に再建されました。納められている大梵鐘は、延宝元年(一六七三)に品川御殿山で椎名伊予守吉寛により鋳造されました。徳川四代将軍家綱公の意向で奥方の「かんざし」まで寄与され、七回の鋳造を経て完成したもので、江戸三大名鐘の一つに数えられ、東日本では最大級として知られています。その大きさ、高さ一丈(約三メートル)重さ四千貫(約十五トン)の大鐘です。その鐘の音は、時を告げるだけではなく、煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと誘います。江戸時代の川柳には「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寬永寺)か浅草(浅草寺)か」・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」・「西国の果てまで響く芝の鐘」等と詠われ、江戸庶民に親しまれてきました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.25
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民宿 さつき<石川県>「芝丸山古墳」へ向かう途中にあったのが「丸山随身稲荷大明神」。「丸山随身稲荷大明神円山稲荷は、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占め、史跡として指定されている丸山古墳上にあります。随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名より迎えた御本尊を守護する為に江戸までお供されたいわれにより、以来永く鎮守まします大明神であります。 大本山 増上寺」。朱の鳥居の扁額「圓山随臣 稲荷大明神」。社殿に向かって進む。狛狐(右)。狛狐(左)。社殿正面。芝東照宮の末社。ここの扁額も「圓山随臣 稲荷大明神」そして大きな「本坪鈴(ほんつぼすず)」が。社殿の鳥居前には多くの賽銭そしてワンカップが奉納されていた。幟「正一位円山随臣稲荷大明神」。そして「芝丸山古墳」。ここ芝公園が所在する標高約16メートルの台地先端部に位置し、前方部を南南西に向ける前方後円墳である。築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。1892年(明治25年)、3年間のヨーロッパ留学を終えた自然人類学者の坪井正五郎は、日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じた。1898年(明治31年)に坪井が発掘調査をしたところ、埴輪や須恵器などの遺物を発見した。しかし後円部が削られたため埋葬施設は確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できなかった。「丸山古墳」碑。「東京都指定史跡 芝丸山古墳」碑。「東京都指定史跡 芝丸山古墳芝丸山古墳所在地 港区芝公園四丁目 都立芝公園内指定 昭和五四年三月三一日全長一○六メートル前後、後円部径約六四メートル、前方部前端幅約四○メートル、くびれ部幅約二二メートルほどの、都内最大級の規模をもつ前方後円墳である。標高約一六メートルの台地端に位置し、前方部を南南西に向けている。江戸時代以降、原形はかなり損じられており、とくに墳頂部や後円部西側は削られてしまっている。明治三一年に、日本考古学の先駆者坪井正五郎博士によって調査されたが、すでに後円部中央に位置したと考えられる主体部(埋葬施設)は失われており、遺体や副葬品なども不明である。なお、埴輪を伴うことは知られている。前方部が狭く低い形態や、占地状態などから5世紀代の築造とみられており、そのころ、附近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた、南武蔵の有数の族長の墓だったと考えられる。 平成二年一二月二七日 再建 東京都教育委員会」以下、ネットから。(左)明治31年に行われた芝丸山古墳発掘時に撮影されたと推測される写真。出土した 切石の上に立つのが坪井正五郎です。 個人蔵「学習院大学史料館寄託」(港区立郷土歴史館特別展『港区と考古学』3頁 転載)(右)芝丸山古墳の測量図(赤ラインは編集部による)。西側が削られてしまいましたが、 前方後円形がよくわかります。 「東京都教育委員会所蔵」(東京都教育委員会1985『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸-』 193頁 転載)そして「大野伴睦句碑」昭和38(1963)年6月調理師法施行5周年にあたって、調理師会の名誉会長として尽力した 政治家大野伴睦氏の労に謝するため贈呈されたものであると。近づいて。大野 伴睦は、日本の政治家。 東京市会議員を経て衆議院議員となり当選13回、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。 典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。「虎」は何をあらわしているのであろうか?自民党派閥の政治資金パーティーを巡る事件は2023年12月28日、東京地検特捜部が前日に続いて国会議員の関係先を捜索し、強制捜査の対象が広がった。「清和政策研究会」(安倍派)から高額のキックバック(還流)を受けた疑いが出ている大野 泰正やすただ ・参院議員(64)はこの大野伴睦の孫にあたるのだ。「鐘がなる 春のあけぼのゝ 増上寺」 昭和38年(1963)6月 調理師会」調理師法施工5周年にあたって、伴睦が長年調理師会の名誉会長として尽力した労に謝するため贈呈されたものであるとのこと。そして次に向かったのが「伊能忠敬測地遺功表」。枯れ落ち葉を踏みしめて進む。伊能忠敬の測量の起点となったのが、この芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で、東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てた。明治22年(1889)に高さ8.58mの青銅製の角柱型のものが設置されたが、戦災で失われたため、昭和40年に現在のものが再建されたと。東京都港区芝公園4-8 (芝丸山古墳内)2枚の石碑のうち1枚には日本列島と地球儀が。もう1枚には碑文と天の川・星々が彫り込まれていた。よく見ると、天の川の中にカシオペヤ座のW字のような並びと、その上に北極星とこぐま座らしい星の並びがあった。観測地点の緯度を知るには北極星の高さが重要な基準となるので、測地遺功表に北極星が刻まれているのは理にかなっている。とすると、写真手前はカペラ、奥の2星はベガとデネブ?。「伊能忠敬先生は1745年(延享2年)上総國に生れて下総國佐原の伊能家を嗣ぎ村を治めて後50歳のとき江戸に出て高橋至時のもとで天文暦教の学を究めた。先生の卓見と創意とによる測地測量は1800年の蝦夷地奥州街道の實測を始めとして全國津々浦々にまで及び1818年(文政元年)江戸八丁堀で74歳をもって歿するまで不屈の精神と不断の努力とによって続けられわが國の全輪郭と骨格とが茲に初めて明らかにされるに至った。その偉業は引きつがれて1821年大中小の大日本沿海輿地全圖が完成せられその精度の高きことは世界を驚嘆せしめた程であり参謀本部測両局の輯成二十万分一地圖は實にこの伊能圖を骨子としたものである。東京地学協會はその航跡を顕彰して1889年この地に贈正四位伊能忠敬先生測地遺功表を建設したが不幸にして第二次大戦中に失われるに至った。扔つて今回各方面の協賛を得、この碑を再建した次第である。 1965年5月 社団法人東京地学協會 會長細川護立」。そして芝丸山古墳を下る。再び東京タワーが姿を現した。「芝公園」の北東の隅・日比谷通り側にあった「旧台徳院霊廟惣門(だいとくいんれいびょうそうもん)」を裏側から見る。江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物(重要文化財)。台徳院(だいとくいん)は 秀忠の死後に贈られた名前(諡号/しごう)であると。正式には「台徳院殿興蓮社徳入西大居士(だいとくいんでんこうれんじゃとくよにゆうさいだいこじ)」。霊廟は、秀忠が死去した1632年(寛永9年)に増上寺境内南側南側に建立された徳川家霊廟の中で最も規模の大きなものだったが、1945年(昭和20年)の東京大空襲で大部分が焼失。惣門・勅額門・御成門・丁字門が残された。惣門は現地に保存されたが、勅額門・御成門・丁字門は、1960年(昭和35年)に所沢市の狭山不動寺(埼玉県)へ移築されている。三間一戸八脚門、入母屋造、前後裾唐破風付、銅瓦葺。唐破風(からはふ)とは、日本の城郭建築などにみられる頭部に丸みをつけて造形した破風の一種。唐と付くが日本特有の建築技法であるとのこと。唐破風には多くの黄金の徳川家・葵のご紋が。正面に回り込むと「仁王像」が左右に。近づいて。阿形像(右)。お顔をズームして。吽形像(左)。お顔をズームして。「港区指定有形文化財彫刻 木造仁王像 二躯重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置されている寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の上に立っています。平成十六から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(一七八九)、弘化三年(一八四七)の二度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政二年(一八五五)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和二十三年(一九四八)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。 像 高 阿形 二四三・五センチメートル 吽形 二四七・〇センチメートル 平成十八年十月二十四日 港区教育委員会」最後に振り返って。銅瓦葺の屋根の先には東京タワーが。増上寺境内前まで進んでいくと、左手にあった「増上寺 慈雲閣(開山堂)」を日比谷通り側から見る。その先にあったのが芝増上寺の土塀。土を厚く塗って固めた「築地塀(ついじべい)」。「築地塀」とはいわゆる土塀のことで、単に築地(ついじ)とも言います。主に、石垣を台座として塀の中心となる部分に木の柱を立て、柱を中心に木枠を組み、そこに練り土(粘土質の土に油や藁などを混ぜた土)を入れて棒で突き固める版築(はんちく)工法で作られたものを呼びます。塀の上部には雨除けに瓦屋根が葺かれ、表面も漆喰で仕上げられました。古くは土のみで作られましたが、強度を増すため、雨水から守るため、染み込む雨水の水はけを良くする為に、瓦を間に入れて作られるものも登場しました。その場合も、表面に瓦が見えないように全体的に漆喰で仕上げるものと、あえて瓦を見えるように瓦と瓦の間を漆喰で仕上げるものなど、様々です。築地(ついじ)は、もとは築泥(つきひじ)と呼ばれていたとされます。字のごとく泥を積み上げて作ることからそう呼ばれており、のちに築地と転じたため、築地塀(つきじべい)ではなく築地塀(ついじべい)と発音するのだ と。「築地塀」の断面の構造をネットから。その先にも、歴史を感じさせる「増上寺旧方丈門(黒門)」があった。「増上寺旧方丈門(黒門)」越しに増上寺境内を見る。銀杏の樹が美しく黄葉していたのであった。「東京都港区指定文化財有形文化財 増上寺旧方丈門(黒門)増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のものと推測される。蟇股には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。 昭和五十五年十一月十五日 東京都港区教育委員会」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.24
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金沢白鳥路 ホテル山楽東京タワーを後にして、東京タワー通りを東に進む。右手にあったのが「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」。東京都港区芝公園4丁目3−25。芝公園というと都心にある広大な公園を思い浮かべる人が多いかも知れませんが、実際は増上寺・東京プリンスホテルを囲む道路沿いに点在する飛び地の公園なのです。徳川将軍家の菩提寺である増上寺の境内は広大で江戸時代は庶民にとっての憩いの場でした、1873年(明治6)に東京で最初の公園のひとつとして指定され、境内を取り込む形で公園化を計り広大な敷地を1~25号地に区画割したのだ と。「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」の紅葉を楽しむことに。昭和59年、大小の自然石を組み合わせた人工の渓流「もみじ谷」がつくられた。せせらぎの奥には「もみじの滝」もあった。その名のとおり、この谷の一帯にはモミジが植えられていて、11月末ごろには、一面赤く染まった紅葉でいっぱいになるとのこと。「もみじ谷エリア」の紅葉。「蛇塚」の石仏・地蔵尊群。この蛇塚はTV番組で紹介され、都内屈指のパワースポットとして一躍有名になったようですが、なんでも蛇が夢枕に現れた女性が以来、仕事運と金運に恵まれ、蛇を当地に祀ったのが始まりのようです。以来、当地は蛇神信仰(龍神信仰)の場として知られるようになっているとのこと。ズームして。地蔵尊が祀られている先、一番奥の地蔵尊のところに蛇の像が置かれていた。ここに日本酒と卵を備えると金運を授かれる、と言われているのだ と。秋田県出身で郷土料理店を都内で営み始めた女将が、この祠を拝んだところ蛇と遭遇、その後もビルを建て替えるごとに蛇の抜け殻や蛇に遭遇し、仕事も順調に進んだ、というエピソードがきっかけとなっている。蛇の夢を見たことが始まり、という説もある。金運アップ、仕事運、出世運アップなどのご利益がある。奉納された生卵の写真をネットから。この周辺は紅葉のプロローグに。広場にあった「時計塔」。「江戸幕府400年・芝公園開園130年記念複眼的報道の塔時代を見すえ悠久の時を刻むソーラー電波時計平成16年10月寄贈 社団法人 日本専門新聞協会」。一筋の滝・もみじの滝👈リンク。紅葉滝は、かつて滝が流れていた地形を利用し、2段に落ちる滝、滝壺、そこから地形になじんで弁天池まで走る渓流、その途中2箇所には土橋をかけ、水の景を包み込むように自然木が配されるなど、まさに都心のなかに深山渓谷の趣ある逍遥空間を創出させている。令和2年に修復工事が完了し、景観の復元等を行った。「もみじの滝」案内板。「もみじの滝・Momiji-no-taki(Maple Waterfall)もみじの滝は、日本人初のランドスケ-プデザイナー長岡安平の設計により1905年(明治38年)に築造されました。深山幽谷の趣が残る崖線を利用した滝が設けられており、自然の地形を生かした設計を好んだ安平の設計思想が現れています。幾度かの改修を経た今も当時の面影を感じさせる景観を楽しむことができます。」「「芝公園内瀑布設計図」1905年(明治38年)~1906年(明治39年)設計」竣工当時のもみじの滝。黄葉もゆたかな「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」。「もみじ谷のモミジもみじ谷には、多種多様なモミジが植えられており、12月頃に赤や黄色に色づき、あたり一面、美しい景観を楽しむことができます。東京タワーが建つ場所には、名前の由来となった「紅葉山」があったといわれています。」。◇もみじ谷で見られるモミジの仲間 Trees of the Maple Family Seen in Momiji-daniモミジの仲間は、いずれもムクロジ科カエデ属の落葉樹です。掲載した葉の大きさは実物の1.5~2倍です。イロハモミジ Smooth Japanese maple 葉の切れこみを「いろは・・・」と数えたことが名の由来で、5~7つに切れこむ。 紅葉は赤が多いが、オレンジや黄色もある。オオモミジ Japanese maple イロハモミジより葉が大きく、切れこみは7~9つで、ふちのギザギザは小さい。 紅葉は、黄、オレンジなどさまざま。ノムラモミジ Nomura maple オオモミジの品種で、若葉(写真)の時から葉が赤紫色で目立つ。 名は「濃紫」が由来。紅葉は濃い赤色。アオシダレ Aoshidare maple オオモミジの品種で、葉はつけ根まで完全に切れこんだ複雑な形。 枝はたれ下がる。紅葉はふつう赤色。ウリカエデ Hawthorn-leaf maple ウリのような緑色の幹が名の由来。浅く3つにさける薬や、ほとんどさけない葉がある。 紅葉は黄~赤色。イタヤカエデ Painted maple 葉は5~7つに切れこみ、切れこみの深さはさまざま、ほかのカエデとちがい、 葉のふちにギザギザがないので見分けられる。紅葉は黄色。カジカエデ Horned maple カナダの葉(サトウカエデ/Sugar maple)に似た大きな葉が特徴。 名はカジノキの葉に似るため。紅葉は黄色やオレンジ色。メグスリノキ Nikko maple 山地に生えるカエデで、樹皮をせんじた汁を目の薬に使うことが名の由来。 葉は3枚セットの形で毛が多い。紅葉はサーモンピンク〜赤色。ハナノキ Japanese red maple 愛知県周辺に分布するカエデで、春に咲く花の赤いおしべが目立つことから この名がある。葉は薄く3つに切れこみ、裏は白い。紅葉は黄色。真っ黄色の「ツワブキ」の花。ツワブキ(石蕗・艶蕗・橐吾、学名: Farfugium japonicum)は、キク科ツワブキ属に属する常緑多年草である。海岸近くの岩場などに生え、初冬に黄色い花を咲かせる。昔から民間薬や食用野草として知られ、若い葉柄が食べられる。観賞用に庭園に植えられることもある とウィキペディアより。「芝公園 19号地(もみじ谷エリア)」を後にして、横の坂道に出て東京タワーを振り返る。右手の路地の右側にあったのが「とうふ屋 うかい」。「芝 とうふ屋 うかい」👈リンク。これぞ秋の和の風景。赤の大番傘が緋毛氈の縁台に。座ってみたかったが・・・。「タイムスリップしたような錯覚に陥るこの異空間でいただけるのは、こだわりのとうふ会席。厳選された高級品種の大豆と八王子・大和田の名水、伊豆大島のにがりで作られた滑らかなとうふ。これを、とろりと甘く濃厚な豆乳出汁でいただく名物「豆水とうふ」は、旨味を極めたご馳走。また、炭火でカリッと炙り特製みそを塗った自家製の油揚げにネギをたっぷり乗せていただく「あげ田楽」は、一度食べたら虜になる美味です。これに季節の素材を盛り込んだコース料理が用意されています。」とネットから。この場所から東京タワーを見上げて。そして「都道301号線・白山祝田田町線」の「東京タワー下」交差点から。そして横断歩道を渡り、「芝公園17号地」に入る。東京都港区芝公園4丁目6−8。正面にあったのが「弁天池」。「紅蓮白蓮の弁天池中島の弁天社明治6年(1873)の太政官布達第16号により芝公園になる以前より、増上寺の山内丘陵の西後方、境内裏鬼門にあたる位置に弁天池という広大な蓮池があり、夏には紅蓮白蓮が混ざり合う、清香馥郁として奥深く静かな景勝地でした。池中の中島には増上寺三十世霊玄上人の時に弁財天が勧進され、弁天堂ができました。弁財天は一尺余りの腰かけ像で、9世紀に智証大師によって作られたものが源頼朝、北条家に篤く信仰され、その後徳川家康が増上寺に移したと伝えられています。 また、島には稲荷妙見菩薩も並んで祀られ、現譽公記に「丸山の麓に池あり、二月の頃は近郷の百姓もみを浸して番をなす故に、池の中に少しの島を築き、稲荷の祠をかまへり」とあります。明治維新までは両方の社がありましたが、現在では隣の宝珠院内に祀られ、現在、弁財天は港七福神の一つとして親しまれています。弁天池の名は、古くは 「さよ」 という女が身を投じた故に呼ばれた「さよが池」、また「ゆりが淵」などとも言ったと伝えられています。また、 池中に架かる石橋を接蓮橋、又は芙蓉橋といい、これも霊玄上人の命名したものです。 芝公園サービスセンター」弁財天付近(『新撰東京名所図会』明治30年)。移動して弁天池周辺の紅葉を見る。小さな滝があった。ズームして。「祝田通り」に出て東京タワーを振り返る。再び「芝公園17号地」に入り「体力測定健康歩道」を歩く。見事な銀杏の黄葉。そして、都道319号線・環状3号線に出て現在地はココ。左手にあったのが5つ星ホテル「ザ・プリンス パークタワー東京」の南エントランス。「ザ・プリンス パークタワー東京東京タワーと並ぶようにそびえたつ地上33階建て、「ザ・プリンス パークタワー東京」。芝公園の緑に囲まれた都心とは思えないほどの静けさと広い空。ここは都会に残されたオアシスのような場所。世界各国、日本各地から訪れる多くのお客さまをもてなし、磨きあげ続けてきたプリンスホテルのフラッグシップブランドホテル」とネットから。風情のある橋を渡って「芝公園1号地」に入る。東京都港区芝公園4丁目8−12。現在地はココ。「芝公園1号地」には、4世紀後半に築造されたと考えられる芝丸山古墳や大野伴睦句碑、そして伊能忠敬記念碑等があった。「芝公園1号地」を歩く。「丸山貝塚丸山古墳は明治時代から知られていましたが、長い間、正式な調査は行われず、貝塚の範囲や形成時期、貝塚を構成する貝種などはわかっていませんでした。平成八(一九九六)年、公園内で行われた工事の際に良好な貝層が発見されたため、翌年、範囲等の確認調査が行われました。その結果、丸山古墳が築造された台地の裾の緩やかな傾斜地に、マガキを主体とする貝塚が形成されていたことが明らかになりました。土器などの遺物が少ないことが、この貝塚の特徴でもあリますが、わずかに出土した土器片から、貝塚の形成時期は縄文時代中期末から後期である可能性が高いと考えられます。 昭和四十八年三月(令和二年一月建替) 港区教育委員会」「丸山古墳」の丘を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.23
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和倉温泉はまづる「麻布台ヒルズ」エリアを後にして、国道1号・桜田通りの「飯倉」交差点を進む。横断歩道を渡り「東京タワー通り」を歩き、「東京タワー」に向かって進む。左手にあったのが「聖アンデレ教会」。聖アンデレ教会(せいアンデレきょうかい、英語:St. Andrew's Cathedral, Tokyo)は、日本聖公会東京教区の主教座聖堂で、集会は1879年に始まり、現在の建物は1995年(平成7年)に建て替えたもの。東京都港区芝公園3丁目6−18。「日本聖公会 聖アンデレ教会」掲示板。聖アンドレ教会は、1879年にイギリス海外福音伝道会の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーが、福沢諭吉の援助を受け、芝公園の地に最初の教会堂を献堂したことに始まる。初代聖堂は、1878年、工部省雇い建築家チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィルによって設計され、1879年に完成した。その後、ジョサイヤ・コンドルによって増築設計が行われた とウィキペディアより。東京タワーがだんだんと大きくなって来た。現役の頃、会社の窓口として数えきれないほど頻繁に通った「機械振興会館」。機械工業関係者相互の親睦と連絡を密にするため、機械振興倶楽部を組織し、情報交換や講演会の開催等を実施していたのであった。久しぶりの「東京タワー」を見上げて。左手にあったのが「臨済宗 金地禅院」「江戸三十三観音札所二十八番」、「東京三十三観音霊場5番札所」であると。正面に「本堂」。「東京都指定旧跡堀杏庵墓所在地 港区芝公園三の五の四 金地院墓地内標識 昭和四年五月指定 昭和三〇年三月ニ八日堀杏庵(一五八五~一六四ニ)は江戸前期の儒医・儒学者です。名は正意、字は敬夫、他に杏隠、敬庵などと号しました。近江国に生まれ、父を継いで医師になります。京に出て藤原惺窩の門に入り林羅山などとともに惺門四天王と呼ばれます。安芸国広島藩浅野家、尾張国名古屋藩徳川家に仕えました。寛永三年(一六ニ六)法眼に叙され、同一九年、幕命により弘文院に入り「寛永諸家系図伝」の編集に関与しました。他に「朝鮮征伐記」などの著作があります。平成二四年三月 建設 東京都教育委員会」山門には「卋外勝境 金地禅林」と刻まれていた。この石柱は大正14年に、三井家が寄進したものである と。「本堂」。「勝林山金地院」本堂は戦後の鉄筋コンクリート建築。金地院は、德川家康公を開基に仰いで、特賜圓照本光国師以心崇伝和尚が元和5年(1619)江戸城北の丸内に創建、寛永16年(1639)当地へ移転したといいます。以心崇伝和尚は、福厳寺や禅興寺、建長寺、南禅寺の住職を務めた高僧で、京都南禅寺金地院と当金地院を兼務、江戸幕府の幕政に深く関与し、寛永寺の天海大僧正と共に黒衣の宰相と称されたといいます。寛永10年には寺領500石の御朱印状を拝領、元禄7年には更に200石の加増を受けています。本堂は近代的なものとなっているが、八戸藩及び七戸藩の藩主南部家の大規模な墓所が残る。本尊は「聖観世音菩薩像」。昭和20年の東京大空襲で、寺院も本尊もすべて焼けてしまった。その後、伽羅の一本作りの聖観世音菩薩立像が新たに今の本尊となった と。「本堂 内陣」。本堂の屋根の上には金色に輝く路盤宝珠?が。「水子地蔵尊」。見事な透かし彫りの置物が。「地蔵尊」か?右側に「庫裏」。「臨済宗 金地院大本山南禅寺 東京出張所」と。『江戸名所図会』の「金地院」をネットから。昔は、巨大な寺院であったようだ。「鎮守堂」。扁額「昭霊」。掲示板この寺には盛岡南部家、八戸南部家、七戸南部家の墓所があった。南部ゆかりの地なのだ と。墓地の中にあった「閻魔堂」。隙間から「閻魔大王」を。閻魔堂の右奥には、盛岡藩、八戸藩の大名家、南部家の墓・五輪塔が並んでいた。反対側にも。無縫塔が並ぶ。そして東京タワーの下に到着。東京都港区芝公園にある総合電波塔である。日本電波塔(にっぽんでんぱとう)とも呼ばれる。1958年(昭和33年)12月23日竣工。東京のシンボル、観光名所である。2018年度グッドデザイン賞受賞。創設者は前田久吉で、日本の「塔博士」とも称される内藤多仲らが設計(詳細は設計を参照)。高さは333メートルと広報されており、海抜では351メートル。塔脚の中心を基準とした塔脚の間隔は88.0メートル。総工費約30億円、1年半(197万4,015時間/543日間)と延べ21万9,335人の人員を要して完成した。地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)に展望台を有するトラス構造の電波塔である とウィキペディアより。タワーの基礎部分。前庭には、小型の東京タワーが立っていた。クリスマス マーケットが準備中。ビル入口から見上げて。スタンプラリーであろうか?「優しいふりして誰でも迎えてくれるのに結局『受け入れて』はくれないこの『東京』が大きらいだった」。「FOOT TOWN 1F(チケット売り場)」チケット売り場には列もなく。「FOOT TOWN 1F(チケット売り場)」の壁には様々な写真が展示されていた。夜間のライトアップ写真。工事中の写真が並ぶ。下記右下の写真を見てもらえば分かりますが、安全帯はもちろん、落下防止の手すりやネットもない。ここで働いていた鳶職人は、”鳶の世界に黒崎あり”とうたわれた黒崎建設の精鋭部隊だったそうだが、とはいえ高度200メートル以上、幅30センチほどの鉄骨の上で、この「のんびり感」を出せるのは衝撃そのもの。鉄骨の立ち上げ工事の状況が解るのであった。東京タワーは1957年(昭和32年)6月から1958年(昭和33年)12月まで1年半の工期で、地上253mの自立鉄塔(鉄骨量3,600t)の頂部に、さらに80mのアンテナ支持塔(鉄骨量80t)を設置して、送受信用鉄塔として建設された。そして外に出て、ミニ東京タワーを再びカメラに。高さ11.1メートル(東京タワーの1/30スケール)の鉄製東京タワーとのこと。Q.東京タワーの高さはなぜ333mなの?A.この鉄塔を建設する際、電波科学の権威を結集してそれぞれ綿密、慎重な検討を行なった結果、 東京地区のVHFテレビ7局以上と将来開局が予定されるUHFテレビ局が、東京を中心とした 関東一円(北は水戸、東は銚子、南は沼津、西は甲府)をサービスエリアとして電波を送る 場合に、鉄塔の必要な高さは333mであるということがわかりました。こうしてみると高さ 333mのタワーが昭和33年に開業したのは、偶然の一致ということになります。 その一方、東京タワー創業者である前田久吉には、「どうせ作るならエッフェル塔の高さを しのぐものを。技術が進んだ現代であれば成し遂げることが出来る」との思いがあったようです と。Q.なぜ、メインデッキ(150m)とトップデッキ(250m)に分かれているのですか?A.タワー建設当初、現在のトップデッキの部分はアンテナ整備用の作業台として使用されて いましたが、昭和42年7月に展望台として一般公開されました。メインデッキよりも更に 100メートル高い視点から、東京を見下ろすことが出来、現在は事前予約制の 「トップデッキツアー」に参加することで、ここまで昇ることができます。 なお当初、メインデッキは大展望台、トップデッキは特別展望台という名称でしたが、世界中の お客様にとって分かりやすいよう、2018年3月3日、名称が変更されました。Q.展望台へは階段でいけるの?A.東京タワーにはフットタウン屋上から高さ150mのメインデッキまで続く外階段があります。 土日祝日の11時~16時のみオープンしておりますが、雨天・荒天時は中止しております。 また、同じように下りの階段も利用出来ます。階段数は約600段。数字を聞くとビックリして しまうかもしれませんが幼稚園児でも約15分程度で昇りきってしまいます。高さ333mの東京タワーの基礎杭の深さは、23m。「建主 日本電波塔株式会社設計 日建設計工務株式会社施工 株式会社竹中工務店 製作 松尾橋梁株式会社 製作 新三菱重工業株式会社 建方 宮地建設工業株式会社👈リンク」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.22
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癒しのリゾート・加賀の幸 ホテルアローレ34Fの「Sky Room」。「Sky Room」奥から東京タワーを。ここにもテーブルのみが。カフェラウンジ。階段上から「スカイロビー」を見る。ズームして。階段を引き返して、再び「スカイロビー」へ。再び「スカイロビー」から東京タワーを見る。南側の真下にあった「駐日ロシア連邦大使館」を。ズームして。その南、「東京アメリカンクラブ」の屋上階にあるプールの屋根をズームして。プールをネットから。2003年4月のオープンから今年10年を迎えた、東京の名所となった六本木ヒルズのシンボル・太くて高いオフィスビル「六本木ヒルズ森タワー」である。ワンフロアおよそ4,500㎡の貸付面積を持つ地上54階建てのこのオフィスタワーは国内最大の既成市街地再開発事業の中心となった超高層ビルである。事業における施工区域面積はおよそ11.6haであり、敷地内には超高層2棟を含む計4棟の高級賃貸住宅、テレビ朝日、グランドハイアット東京などの高層建築が建ち並んでいる。高層建築で得られた容積分で全敷地の50%に及ぶオープンスペースには広場や歩道、緑地帯を確保している。「元麻布ヒルズ フォレストタワー29階建てのフォレストタワーと5階、6階建てのフォレストテラスの3棟構成からなる元麻布ヒルズ。タワー形状は樹木をイメージした。 高さ約96m地上29階のタワーが閑静な住宅街に建つことは、影やビル風で住民の住環境に害を及ぼす可能性があった。そこで森ビルは20階以上の部分の幅を約40m、16階より下の幅が約33mという「頭でっかちで下半身スリム」な形を考案した。この形にすることで、高層ビルにつきまとう影とビル風という二つの大きな環境問題を解決した。」とネットから。このほか、地震対策として建物自体を変形させて地震エネルギーを吸収する「耐震構造」ではなく、建物と基礎の間の免震装置を介してエネルギーを減衰させる「免震構造」を採用しているとのこと。二子玉川方向の高層ビル群をズームして。中央に田町駅近く、東京都港区芝5丁目7−1にある「日本電気㈱ 本社(NEC)」その奥に「レインボーブリッジ」の姿が。帰りのエレベータへのルートとヒルズハウス・Dining33、Members Lounge案内図。エレベータ独り占めで地上へと。そしてビルの外に出て、「中央広場」へ。大きなキャノピーの下が「麻布台ヒルズアリーナ」で、キャノピーまでの高さは約16m。「森JPタワー」に隣接するこの「吊るし雲」がモチーフの大屋根は、トーマス・ヘザウィック氏」率いるヘザウィック・スタジオによるもの と。大屋根を冠する緑に囲まれたオープンスペースは「麻布台ヒルズ アリーナ」として四季折々」さまざまなイベントが催され賑わいの中心になるとのこと。「森JPタワー」を見上げて。庭園には小川が。円錐状のオブジェ。振り返って。奈良美智の彫刻作品「東京の森の子」、少女の顔が。再び見上げて。この後に訪ねた「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」を見る。東京タワーの上部が見えた。左「麻布台ヒルズ 森JPタワー」と右「麻布台ヒルズレジデンス」を見上げて。「GARDEN PLAZA C MUSEUM」。「麻布台ヒルズクリスマスマーケット 2023」が中央広場で12月9日(土)~25(月) 11:00~21:00の予定で開催されると。この日は準備中の工事が行われていた。シンボルツリーを中心に、17 の物販・飲食店がオープン。麻布台ヒルズでしか買えない限定商品・メニューも多数登場するとのこと。中央広場では水路とパブリックアートが隣り合わせ。水路の右手がホテル「ジャヌ東京」になる。「Artificial Rock. No.109」Zhan Wang作。再び「麻布台ヒルズ 森JPタワー」を見上げて。「麻布台ヒルズ マーケット」。「AZABUDAI HILLS MAP RESIDENCE A」案内板。正面から(下側が北方向)。「桜麻通り」を西に進み左折して南に進む。前方左にあったのが「アマンレジデンス東京」入口。「アマンレジデンス 東京」は、竣工時には日本で最も高いタワーとなる、地上の街の賑わいを遥か眼下に見下ろす、まるで雲に手が届きそうな天空に位置します。54階から64階に位置する~6ベッドルームを持つ各住戸には、専用エレベーターロビーが直結しています。レジデンスのインテリアは、国際的に高い評価を得ているデザイナー、ヤブ・プッシェルバ ーグによって手掛けられています と。「HILLS TOWER PLAZA」入口。そして左折して「外苑東通り」を東京タワー方向に進む。右手にあったのが「駐日ロシア連邦大使館」正門。右手に「ノアビルディング」。飯倉交差点にそびえ立つ楕円形のランドマークが「ノアビルディング」。そして「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」。「麻布台ヒルズ ガーデンプラザレジデンス」は「ModernUrbanVillage」をテーマとする「麻布台ヒルズ」の敷地東側(C街区)の複合施設。近づいて。八幡通に面して建つ、森の緑と幹に覆われたようなデザインのB棟の6~8階がガーデンプラザのレジデンス区画(計31戸の住宅。マンション)。ヘザウィック・スタジオが手掛けるユニークなランドスケープの中にある、麻布台ヒルズで唯一の低層住宅。街に広がる緑に最も近い住環境である。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.21
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能登輪島温泉 ホテルこうしゅうえん(旧 ホテル高州園)「外苑いちょう並木」を後にして、都営大江戸線「青山1丁目」駅まで戻り乗車し、「麻布十番」駅で下車して、徒歩にて11月24日に「麻布台ヒルズ全体が開業」を迎えた事をニュースで知ったので「麻布台ヒルズ 森JPタワー」に向かって進む。都道415号線・「新1の橋」交差点の上部には「首都高速都心環状線」が走る。東京都道319号環状三号線の六本木ヒルズ方向を振り返る。高架下の横断歩道を渡る。その先を左折し、北方向に向かうと正面に「麻布台ヒルズ 森JPタワー」が姿を現した。ズームして。「麻布台ヒルズ森JPタワー」は、東京都港区麻布台一丁目にある超高層ビルである。複合施設「麻布台ヒルズ」の中核を担うビルである。さらに坂道を上って行った。右手の石垣の上の敷地は「駐日ロシア連邦大使館」。この坂の名は「狸穴坂(まみあなざか)」。「まみあなざか まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)」が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。」「狸穴坂」碑。港区麻布狸穴町と麻布台2丁目・東麻布3丁目の間、ロシア大使館横を南に向かって下りる道。坂の東側はロシア大使館、西側はマンションに挟まれた、比較的単調な道。そして「麻布台ヒルズ 森JPタワー」前に到着。高さは325 mで、日本一高い超高層ビルである。日本で初めて高さ300mを超えた超高層ビルである大阪市阿倍野区のあべのハルカス(高さ300.0m)を抜いて日本で最も高いスーパートールとなった。デベロッパー・設計は森ビル、施工は清水建設。外観デザインをシーザー・ペリ率いるペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツが担当した。奇しくもペリは着工直前の2019年7月19日に死去、森JPタワーは彼の遺作となった。入口に向かって「外苑東通り」の横断歩道を渡る。右手奥には「東京タワー」の姿が。「AZABUDAI HILLS MAP」右手に「AZABUDAI HILLS 」。入口には「AZABUDAI HILLS MORI TOWER」と。地上64階、塔屋2階、地下5階、 高さ325.40mの日本一高い超高層ビル。麻布台ヒルズ森JPタワーの概要◆ 計画名-虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業施設建築物等新築工事 A街区◆ 所在地-東京都港区麻布台一丁目1000番1◆ 階数-地上64階、塔屋2階、地下5階◆ 高さ-最高部325.40m◆ 敷地面積-24,104.21㎡◆ 建築面積-15,201.25㎡◆ 延床面積-461,805.22㎡◆ 構造-鉄骨造、一部(鉄骨鉄筋コンクリート造、鉄筋コンクリート造)エントランスホールを歩く。突き当りを左に。「AZXABUDAI HILLS MORI JP TOWER」フロアー案内。吹き抜けのロビー通路の横には天井からオブジェが。オラファー・エリアソンの作品『相互に繋がりあう瞬間が協和する周期』と。ズームして。中空に彫刻を吊るされていた。光沢があったりマットな部分があったりする金属のピースが連なって光を反射し、ある場所からは円や球のように見え、ある場所からは平面的に見えた。この形はある法則に従った数学的な軌道なのか。見る人が歩き回るごとに視点が刻々と変わり、違った形に見えるが、どのポイントから見る形も等しく重要と。瞬間ごとに変化する無数のエレメントが集合した形だとも言えるのだ。壁のオブジェ。近づいて。生け花も。近づいて。そして33&34Fへの展望台用エレベーターを利用。そして地上64階、高さ325.49mの33階にある展望フロアー・スカイロビーに到着。33階と34階の一部が一般開放されており、南側と東側を望むことができるのであった。33階に行けるエレベーターは中央広場の地下1階にあった。南方向を見る。手前に右「パークコート麻布十番ザ・タワー」、左「シティタワー麻布十番」そのはるか先に海の姿が。東京タワーが正面に。ズームして。海抜250mのトップデッキは見上げる高さ。スカイロビーは海抜150mのメインデッキを見下ろす高さになっていた。東京タワーの背後には、この後に訪ねた増上寺が見えた。増上寺をズームして。更に。増上寺会館、経蔵、増上寺 慈雲閣(開山堂)、その右に旧台徳院霊廟惣門(重要文化財)、港区立芝公園の姿が確認できた。その右にレインボーブリッジ、港清掃工場の煙突が左に見えた。レインボーブリッジとフジテレビ本社ビル。そしてこちらが麻布台ヒルズ展望台の大階段。33階と34階は大階段で繋がっていた。正面から。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.20
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特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」ポスター。特別展示「令和の御代を迎えてー天皇皇后両陛下が歩まれた30年」展示会場へ。天皇皇后両陛下。「ごあいさつ令和5年(2023)、天皇陛下におかれては御即位5年、そして天皇皇后両陛下の御成婚30年の節目を迎えられました。令和の御代を迎えてまもなく、世界各地へと急激に広がった新型コロナウイルス感染症によりご活動の機会か限られながらも、両陛下はオンラインによる国内各地へのご訪問など、新しい形によるご公務に取り組まれ、コロナ禍に過ごした国民の苦楽に、常に心を寄せてこられました。このたび、装い新たとなった皇居三の丸尚蔵館において、ご結婚以来、両陛下がともに歩まれてきた30年の軌跡を、両陛下ゆかりのお品とともに紹介する展覧会を開催いたします。本展では、ご結婚の儀式のご装束やドレスをはじめ、愛子内親王殿下の健やかな成長の願いが込められたお召し物などが並びます。また、御即位の儀式で用いられたご装束や調度の品、各方面から寄せられたお祝いの品のほか、両陛下が皇室の伝統行事を受け継がれたご様子もあわせて紹介いたします。このたびの企画にあたっては、両陛下の深いご理解を賜り、貴重な品の数々を展示できることになりました。本展を通して今日までの両陛下の様々なご活動に触れていただくとともに、これらの品々が、日本の伝統文化の継承に深く関わるものであることをご覧いただけれは幸いです。令和5年11月 皇居三の丸尚蔵館」「特別展示の聞催に寄せて三の丸尚蔵館は、平成元年(1989)に上皇陛下と香淳皇后の思し召しによって美術品など6000点あまりが国に寄贈されたことを機に、これらを保存管理し、調査研究とともに展示公開を行う施設として平成5年秋に開館しました。さまざまな分野、幅広い時代におよぶ収蔵品の魅力を紹介し、皇室と文化との関わりを内外に広く発信してきた30年におよぶその活動は、令和元年(2019)から始まった施設・設備の拡張整備工事や職員の増員につながることになったといえます。そしてこの10月には、三の丸尚蔵館は宮内庁から離れて独立行政法人国立文化財機構の一員となり、新たな出発を迎えたことで、今後のさらなる発展が期待されるところです。今年、天皇皇后両陛下におかれては、御即位5年・御成婚30年の節目を迎えられました。三の丸尚蔵館では、令和2年2月に御即位に関する一連の儀式の様子と、両陛下のこれまでの歩みを紹介する特別展を開催しましたが、新型コロナウイルスの感染拡大により中断を余儀なくされました。三の丸尚蔵館が新たな展示室で、展示公開の活動を再開するにあたり、令和2年の展覧会の内容をさらに充実させた形で、本展が聞催されることは大変意義深いことです。国民とともにある皇室を、両陛下ゆかりの品々を通して感じていただけれはと思います。令和5年11月 宮内庁長官 西村泰彦」出品目録(1/2)出品目録(2/2)そして、会場内展示室は撮影禁止でしたので、ネットからの写真を順不同でアップさせていただきます。展示室内の展示状況。「結婚の儀」天皇皇后両陛下ご装束「結婚の儀」天皇陛下ご装束 束帯 黄丹袍令和度 悠紀地方風俗歌屏風 右隻 和歌:篠弘 絵:田渕俊夫大嘗宮の儀のために制作された「悠紀地方風俗歌屏風」(左)制作者は田淵俊夫・東京芸術大名誉教授令和度 主基地方風俗歌屏風 左隻 和歌:永田和宏 絵:土屋禮一大嘗宮の儀のために制作された「主基地方風俗歌屏風」(右)制作者は土屋礼一・金沢美術工芸大名誉教授大饗の儀で天皇、皇后両陛下の前に飾られた銀製の置物皇后雅子さまが天皇陛下との結婚の儀で着用された十二単(ひとえ)。天皇陛下が5歳の時に初めてはかまを着る儀式「着袴(ちゃっこ)の儀」で着用された装束左:「宮中饗宴の儀」で雅子さまがお召しになった杏色のローブモンタント 展示期間全期間 右:愛子さまの御初召と上皇ご夫妻から贈られた犬張子 展示期間前期 左:天皇陛下が愛用されている天体反射望遠鏡 展示期間全期間右:天皇陛下がご幼少時に使用されたヴァイオリンと皇后陛下が使用されていたフルート 展示期間全期間ボンボニエール ご結婚ご祝宴。そして第2会場に戻り、設置されていたモニター画面で「三の丸尚蔵館の国宝のすべて」を観る。「喪乱帖(そうらんじょう) (原跡)王羲之 1幅中国・唐時代(7~8世紀)」書聖王羲之(4世紀)の書状集。冒頭の行に「喪乱」の文字があるので呼ばれる。「東晋時代に活躍して、書聖として尊ばれた王羲之(三〇七~六五)自筆の、別々の三つの書簡の部分を、双鉤填墨(そうこうてんぼく)という、文字の輪郭を線にして写し、その内側を墨で塗りつぶす一種の敷き写しの技法を用いて表現した中国・唐時代の模本です。点画の跳ねや、文字と文字がつながる箇所では、輪郭線の内側に、細かい線が丁寧に重ねられ、かすれた感じがよく表されています。精巧な技法で作り上げられており、普通に墨で書いた文字のようにみえるため、極めて優れた模本であると評価されます。王羲之自筆の書は、後には全て失われ現存していないことからも、その書風を今に伝えてくれる名品で世界的に貴重な作品といえます。京都御所に伝来したと考えられ、後西(ごさい)天皇(一六三七~八五)の崩御後、御遺物として異母弟の堯恕(ぎょうじょ)法親王の手に渡って以降、親王が門跡を務めた妙法院に伝来し、明治十三年(一八八〇)再び皇室に献上されました。(高梨)」と、購入した案内本から(以下同様)。たてに簾目状の筋目のある(縦簾紙)料紙に書かれた唐時代の搨模(透き写し)本。袖に「延歴勅定」の方印の左辺部が残る。明治13年(1880)妙法院献上。「屏風土代 小野道風 1巻平安時代 延長6年(928)」平安時代中期の能書・三跡の筆頭である小野道風(八九四~九六六)三十五歳の書です。『日本紀略」の延長六年(九二八)十二月の条に、醍醐天皇の勅命により、内裏で新調する屏風の題詩を漢学者・大江朝綱に作らせ、道風に書かせたとする記事があり、そのための下書き(土代)を巻子にしたものと考えられています。和様の創始者といわれる道風の重厚で温かみのある書風で、随所の書き入れや訂正からは、推敲の跡がみてとれます。巻末には、三跡のひとり・藤原行成を祖とする世尊寺家五代・定信(一〇八八~一一五四~? )の奥書があり、保延六年(一一四〇)に行成の《白氏詩巻》(東京国立博物館所蔵)一巻とともに本巻を購入したことがわかります。後世の能書として知られる伏見天皇(一二六五~一三一七)の《屏風土代臨模》(御物)などからは、本作が手本として尊ばれたことがうかがえます。明治時代に井上馨の所蔵となり、大正十四年(一九二五)に井上家から大正天皇に献上されされました。(山田)。」「金沢本万葉集 藤原定家 2帖 平安時代(12世紀)『万葉集」巻第二および巻第四残巻からなる平安時代の古写本で、名称は金沢(加賀)藩主前田家に伝来したことにちなみます。料紙は主に三椏(みつまた)紙を用い、表裏共に白・黄・緑の具引き地にさまざまな型文様が雲母摺り(きらずり)され、一部に金銀箔、布目打などの装飾をもつ、和製唐紙が用いられます。筆者は、和様の書を大成させた平安時代中期の貴族、藤原行成に始まる世尊寺家第五代定信(一〇八八~一一五四~?)とされます。その字の特徴は、全体の流れの美しさを求め、早い運筆による右肩上がりの独特なもので、本作でも、速筆で字形にとらわれず、全体的な流れや流動感により美しさを追求しています。美しい装飾料紙に、技法を駆使した完成度の高い筆跡が調和した作品となっています。前田家に残る巻第三、巻第六残巻および手鑑「野辺のみどり」のなかの断簡(以上、前田育徳会所蔵)とともに一帖として伝来しましたが、明治四十三年(一九一〇)七月八日に明治天皇の前田邸行幸(ぎょうこう)に際し、分冊のうえ献上され、近年の保存修理事業において現状の二帖となったものです。(髙梨)」。金沢本万葉集 巻第二。金沢本万葉集 巻第四。「更科日記 藤原定家 1帖鎌倉時代(13世紀)紙本墨書 縦一六・四cm 横一四・五cm「菅原孝標女が著した日記体裁の回想記である『更級日記』を、鎌倉時代に歌道で活躍した貴族・藤原定家(一一六二~一二四一)が書写した冊子で、末尾の奥書には「『更級日記』の冊子本を入手したが、貸与先で紛失したため、その時写された写本から転写した。誤字が多く、不審箇所には朱を入れ、注記した」と定家による本作を書写した経緯が記されます。これを裏付けるように、書写文の傍らには定家による「勘物(かんもつ)」と呼ばれる注記や朱点などが確認できます。料紙には雁皮紙(がんびし)が使われており、「括(かつ)」という料紙五または六紙を二つ折りにした束を十枚重ねて、全体で綴じた綴葉装(てつちょうそう)という装幀(そうてい)にされています。近代の調査により伝来のなかで括の順番に入れ替わりのあるこが判明しました。この冊子は、『更級日記』の本文を伝える最古写本であり、流布しいる諸本の祖本と考えられるため貴重です。後水尾上皇の時代の仙洞(せんとう)御所に伝来していたことが知られます。(髙梨)」。「蒙古襲来絵詞 2帖鎌倉時代(13世紀)」「文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度、モンゴル帝国は海を越え北九州に襲来しました。元寇(げんこう)の名で知られるこの事件を記した史料は数多くありますが、同時代に絵画として制作され、かっ今日まで伝存するのはこの絵巻が唯一です。蒙古軍の衣服などの風俗、武器、戦闘方法を視覚的に伝える貴重な作品です。文永の役を描いた前巻における、炸裂する「てつはう」と奮戦する竹崎季長(たけざきすえなが)(一二四六~? )の場面は、教科書で誰もが一度は目にしたことがあるでしよう。後巻は弘安の役を描きますが、菊池氏一軍が居並ぶ石築地の前を悠然と出陣してゆく季長主従、それに続く海上での戦闘は臨場感に溢れ迫力があります。本作は明治二十三年(一八九〇)に大矢野十郎から宮内省が買上げましたが、伝来の過程で失われた箇所も多く、錯簡(さっかん)(前後の順序が入れ替わっていること)、絵と詞書が少なくとも二種類認められるなど、現状は極めて複雑な様相を呈しています。(野中)」「蒙古襲来絵詞 前巻」馬を射られて苦戦する季長と、弓・槍で季長を襲う蒙古兵。画面中央上では鉄砲(「てつはう」)が爆発している。負傷して退却する蒙古兵。「蒙古襲来絵詞 後巻」季長が志賀島へ向けて生の松原(いきのまつばら)を出発する場面。画面中央の騎馬武者が季長。その奥で石築地(いしついじ)に腰掛け、赤い扇子を手にしている人物が肥後国の有力御家人菊池武房(きくち・たけふさ)。「春日権現験記絵 高階隆兼 20巻鎌倉時代、延慶2年(1309)頃」「《春日権現験記絵》は藤原氏の氏社である奈良の春日大社の権現(仏や菩薩が化現した姿、ここでは春日明神を指す)の験記(利益など不思議な出来事の物語)を絵と詞書(ことばがき)(文字)によって語る絵巻です。十四世紀初め、春日大社に詣でたことで利益を得た左大臣・西園寺公衡(きんひら)が発願して制作されました。絵は宮中の画業を担う絵所を統括した絵所預の高階隆兼、詞書は前関白の鷹司基忠とその息子三人という、当時一流の人々が筆を執りました。絵巻としては珍しい絹地の上に広がる豊かな色彩と精密な描線は、制作から七〇〇年以上の時を経た今もなお驚くほど鮮やかです。とりわけ巻十九にみえる初冬の御蓋山(みかさやま)と春日山は中世絵画の白眉(はくび)といえるでしよう。衆徒らの決起と血生臭い戦闘の場面の間で、雪降る深閑とした神域が際立っています。」「藤折枝蒔絵箱」。「藤折枝蒔絵箱 鎌倉時代(14世紀)/木製漆塗・蒔絵「春日権現験記絵」(1-1)を納めていた箱。黒漆塗りの箱の蓋表と金銅製の金具には、それぞれ金高蒔絵と透かし彫りにより、藤原氏と春日大社にゆかりの深い藤花の文様が表されています」。「春日権現験記絵 巻十二」ズームして。「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳、[左隻]狩野常信6曲1双[右隻]桃山時代(16世紀)、紙本金地着色 縦二二三・六cm 横四五一・八cm[左隻]江戸時代(17世紀)、紙本金地着色 縦二二四・〇cm 横四五三・五cm」三頭の唐獅子を、六曲一双の金地の大画面に描いた作品です。左右隻で時代と筆者が異なり、右隻は桃山時代の狩野永徳(一五四三~九〇)、左隻は永徳のひ孫の狩野常信(一六三六~一七一三)が、江戸時代初期に、右隻にあわせて補作したものです。本図の特徴は、何といってもその大きさにあります。通常の屏風をはるかに超える大きさから、右隻は本来、大きな建築物の床の間の壁画であった可能性が指摘されています。筆者の永徳は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に仕え、彼らのために多く絵筆をふるいました。あるいは本図もそのような御殿の一室を飾っていた可能性も考えられます。右隻にみる、濃彩と豪快な筆致による、明るく躍動感あふれる表現は、永徳の真骨頂ともいえるものです。永徳の代表作であるだけでなく、この時代の雰囲気を濃厚に伝える作品として、令和三年(二〇二一)に、左隻とともに国宝に指定されました。長らく萩藩毛利家に伝来し、明治二十一年(一八八八)に旧藩主の毛利元徳より、皇室に献上された作品です。(戸田)」「唐獅子図屏風[右隻]狩野永徳」 ズームして。「唐獅子図屏風[左隻]狩野常信」。伊藤若冲「動植綵絵」 左:梅花群鶴図 中央:南天雄鶏図 右:諸魚図八幅(三十幅のうち)江戸時代(十八世紀)絹本着色縦一四一・八cm~一四三・四cm 横七九・一~八〇・一cm三十幅にわたって、極彩色にいろどられた多種多様な動植物が描かれます。伊藤若冲(一七一六~一八〇〇)の代表作として近年人気を博してきましたが、令和三年(二〇二一)に国宝に指定されました。《動植綵絵》はもともと《釈迦三尊像》三幅対とともに京都・相国寺に寄進され、さまざまな儀礼で用いられていました。若冲は京都・錦小路の青物問屋「枡源」の主人で、相国寺の高僧・大典褝師に帰依し、隠居後はもっぱら作画に打ち込みました。若冲は「名声のために描いたのではありません。寺の荘厳をたすけ、永久に伝わってほしい」と、附属の《寄進状》に記しています。明治二十二年(一八八九)、本作は皇室へ献上され相国寺を離れましたが、その際の下賜金によって人手に渡っていた寺地を買い戻すことができたといいます。《動植綵絵》には鶏や鳳凰を大きく描くものがある一方、花弁や昆虫で画面全体を覆いつくすものもあり、それまでの花鳥画とは異なった独特の構成感覚があらわれています。花や鳥は驚くほど細かく描き込まれ、樹木や岩も各幅で意識的に描き分けられており、作画への並々ならぬ気迫を感じさせます。(上嶋)」。中央:南天雄鶏図 をズームして。伊藤若冲「動植綵絵」 左:菊花流水図 中央:芙蓉双鶏図 右:紅葉小禽図左:菊花流水図をズームして。白い菊の花は、裏彩色に胡粉が薄く施され、表は胡粉で濃淡がつけられていると。伊藤若冲「動植綵絵」 左:老松白鳳図 中央:蓮池遊漁図 右:秋塘群雀図「秋塘群雀図」をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.01.19
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そして再び「神宮軟式球場噴水」前のT字路から「外苑いちょう並木」を見る。車のない時に慌ててシャッターを押したが。ズームして。そして「全国工芸職人展」会場を訪ねた。「全国工芸職人展」(旧・森のやきものフェア)は毎年、いちょうが「黄葉(こうよう)」する季節に行われる物産フェア。多彩な工芸品が展示販売されていた。毎年11月中旬から12月上旬まで、青山通りから聖徳記念絵画館に向かって約300メートル続く146本のいちょう並木が黄金色に染まる。落ち葉で埋め尽くされた並木道はまさに黄金色の「いちょうのトンネル」。このいちょう並木と聖徳記念絵画館の間の広場に特産品の販売店や飲食店が出店していたのであった。「第10回全国工芸職人展」ポスター。開催期間:令和5年11月17日(金)~12月3日(日) 10:00~17:00「第10回全国工芸職人展」配置案内図。現在地は「出入口」と書かれた場所。「出店者一覧」をネットから。「草木染山口(奈良県)」。藍染のTシャツが並んでいた。近づいて。「ジェイ・ディー企画(埼玉県)福井県若狭 箸 名前彫ります」と。「若狭塗箸」が並ぶ。佐賀県「有田焼」。「有田焼・美濃焼 手作り箸置き」。「五平餅(さかたや)」。「広島焼」の店。「石焼きいも」の店。「神宮外苑 いちょう並木 刺繍絵」。「まゆ工房飯村(福島県)」「まゆ玉でつくったフクロウ」が並ぶ。カラフルなブローチが並ぶ。そして再び「外苑いちょう並木」に戻る。青山通りに向かって右側の2列のいちょう並木の下を歩く。この時間になって、人も数も増えて来た。道路の反対側のいちょう並木を見る。ズームして。そして右折して、「秩父宮ラグビー場」の路地へ。路面には、役割を終えたいちょうの葉が落ちて、エピローグへと。蔦の葉の紅葉に近づいて。見事な形に尖った銀杏の樹。ここにも。入口まで戻って。「銀杏・いちょう」はイチョウ科イチョウ属の落葉樹。秋の黄葉や茶碗蒸などに使う銀杏で馴染み深く、公園、学校、街路、寺社等に植栽される。約2億年前の中生代ジュラ紀に栄え、現在まで種を絶やさずに続く歴史の長い樹種だが、その仲間の多くは恐竜と共に氷河期に絶滅した。現在イチョウ科の木はこれしかなく、メタセコイアと共に「生きた化石植物」と呼ばれているのだ。日本で見られるイチョウは、中国南東部で生き残っていた個体が朝鮮半島を経由して渡来したものとされる。その時期については、仏教が伝播した飛鳥時代とする説や室町時代とする説があり、特定されていないとのこと。イチョウという名は、中国名のイーチャオ(鴨脚=葉の形がカモの足に似ることから)が転訛したものとされる。なお、漢字表記の「公孫樹」は、孫の代にならないと収穫ができないことを意味し、「銀杏」はアンズ(杏)に似た銀色の種子に由来するのだ と。歩道に敷き詰められたが如き「いちょうの葉」。「イチョウの葉」をズームして。イチョウの葉脈はよく見ると平行に走っている。ところが所々で二又に分かれて。この二又に分かれる葉脈を持つことが原始的な特徴なのであるとのこと。原始的な陸上植物は葉を持たず二又に分かれた茎だけからできてきたと考えられているのだと。葉はその二又の茎から進化したと考えられるのでイチョウの葉脈は原始的な形態を残していると。この二又脈を持つ植物はシダ植物に多く見られるのだと。そして「イチョウの葉」の写真をネットから。「イチョウの葉」には、切れ込みがあるものと、切れ込みがないものがある と。切れ込みが葉の真ん中に入っているものを「ズボン型」、複数入っているものを「手のひら型」と呼び、切れ込みがないものを「扇型」と呼ぶとのこと。「イチョウは雄雌異株、つまり「オス」「メス」があります。イチョウの葉の形で、オス・メスが違うという説がありますが、これは俗説です。葉の形では全く見分けられません。ただし、メスの木の葉の方がオスの木に比べると、2割ほど大きな葉をしているようです。これは実をつけるために、そのぶんのエネルギーを光合成で生産しなければならないからだと思われます。なぜ葉の中央に切れ込みがあるものとないものがあるのか?これは理由がわかっていません。ただ、5月頃に展開した葉は切れ込みがなく、同じ枝の葉でも6月以降に展開した葉には切れ込みを生じる割合が増えるようです。剪定した後に伸びる枝(徒長枝)に展開する葉は、手の平の形になることがあります。剪定されるとその分の失ったエネルギーを補おうとして光合成量を増やす必要があり、イチョウは葉を大きくします。しかし大きな葉は風の抵抗を受けやすく、扇型のままでは抵抗が大きく、風で葉がむしり取られることにもなり兼ねません。そうなっては大きな葉は意味をなしません。そこで風の抵抗を軽減させるために葉に手のひらのような切れ込みを作ります。手のひら型の葉は剪定した街路樹のイチョウに多くみられますので、探してみると見つけられるかもしれません」とのネット情報。風の抵抗を減らすために、葉にスリットを入れる…人間よりテクノロジーを先取りしていたとは!!イチョウにはまだ分かってないことが多くあるようだ。葉っぱにイチョウの生きる術やロマンを感じるのであった。イチョウを見るときは葉っぱの形にも注目してみるのも面白い事を今知ったのであった。そして今年の「外苑のいちょう並木」も見納め!!「外苑いちょう並木」入口にあるこの石塁は、かつて江戸城を支えていた石垣で、旧国立競技場ができた1958年以前にあった明治神宮外苑競技場のもの。そして神宮外苑造営の際に建設されたものであるとのこと。関東大震災後のバラック建設の指揮官であり、小学校の鉄筋コンクリート化を推進した建築構造家・佐野利器が計画・建設したとのこと。そして最後に横断歩道を渡りながら。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.19
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そして伊藤若冲の国宝・「動植綵絵(どうしょくさいえ)」の展示コーナーへ。「動植綵絵伊藤若冲/江戸時代(18世紀)/絹本着色さまざまな動植物を30幅に描いた。伊藤若冲(1716~1800)の傑作にして日本花鳥画の代表作。絵に専念した40歳頃から10年をかけ製作。自ら相国寺に寄進しました。入念な形態描写と鮮やかな色彩に若沖の独自性を見せています。明治時代に相国寺より献上。一番右は「紅葉小禽図(こうようしょうきんず)」👈リンク。紅く色づいたかえでのもみじを背景に、一対の小禽を描く。植物のほうが前景に出ていることは、菊花流水図と同じだ。面白いのは、モミジの葉の一枚一枚が、濃淡の差をともないながらも、ほぼ同じ形に描かれていることだ。かえでの三本の枝も、大きさの違いはありながらも、全く同じ方向をむいている。そんなわけで、この絵には反復があふれていると言ってもよい。「紅葉小禽図」。画面右下には土手が描かれている。その土手の向こう側に広がるのは、空であるのか水であるのか、俄かには判断できない。ただ、背景を単調にすることで、かえでのモミジが引き立って見える。(142.3×79.7cm)。小禽はオオルリと思われる。美しい声でなく青い鳥だ。夏にやってきて秋の終わりに南のほうへ帰っていく渡り鳥なので、この絵のなかのオオルリは、南へと渡っていく直前に、名残惜しく鳴いているわけであろう。次に「棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)」👈リンク。「棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)」。群生するシュロと、白と黒の2羽のニワトリの組み合わせという構図。黒いシャモは『南天雄鶏図』、白いニワトリは『向日葵雄鶏図』のニワトリを反転したポーズに似ている。シュロは古くは『枕草子』にも記述があり、江戸時代は寺院や大名屋敷などに植えられていた。シュロの葉は、緑青の銅と砒素の含有量を変えて、微妙な階調差で着色されている。款記はなく、印は「汝鈞」(白文円印)、「若冲居士」(朱文円印)。近づいて。白いニワトリの顔。黒いニワトリの顔。見事な羽の描写。脚の描写も。左「棕櫚雄鶏図」と右「紅葉小禽図」。そして「梅花群鶴図(ばいかぐんかくず)」👈リンク。近づいて。さらに。一番左に「貝甲図」。下部に近づいて。その上部右側にも。1期:11月3日〜11月26日に展示されていた伊藤若冲が描いた国宝「動植綵絵」左から「秋塘群雀図」、「老松白鳳図」、「南天雄鶏図」、「菊花流水図」。「屏風土代(びょうぶどだい)👈リンク小野道風/延長6年(928)/紙本墨書三跡の一人、平安時代の小野道風(894 ~ 966) 35歳の書で、醍醐天皇の勅命で新調された、屏風の色紙形に書く漢詩の下書き(土代)。随所にみえる書き入れや訂正に推敲の跡がうかがえます。政治家・井上馨の旧蔵品で、井上家から大正天皇に献上されました。」本書巻は、延長六年(九二八)に醍醐天皇(八八五~九三〇)の勅命によって大江朝綱(八八六~九五七)が作った漢詩を小野道風(八九四~九六六)が屏風に貼る色紙形に清書するために試し書きした土代(下書き)である。温和で豊潤な中にも力強さを感じる本書巻の書風は、王羲之の書法が反映されてはいるが、中国書法に強い影響を受けた平安時代前期の書法の域を脱している。道風は、平安時代中期の三蹟の一人として極めて著名であり、唐様の書が用いられていたなかで和様の書を創始し、我が国の書風・書流に極めて大きな影響を与えた人物である。その後、和様の書は同じく三蹟の一人藤原行成(九七二~一〇二七)によって完成され、江戸時代末に至るまでの我が国の書道の基礎となった。本書巻には、「春日山居」など七言律詩八首と「問春」など七言絶句三首が行草体で書かれている。本書巻の詩は、『和漢朗詠集』には朝綱の詩として「春日山居」の頷聯や頸聯など八聯が摘句されている。行間のところどころには、本文の傍らに同じ字を小さく書き加えた箇所がある。また、行末には書ききれなかった二文字を小さく書いたり、脱字を行間に書き加えている。各漢詩の題辞の上には「乙一」「丙二」等の文字が小さく書かれており、屏風に色紙を貼る位置や順番を示したとする説もある。このように本書巻には下書きとしての特徴がよく残されている。原則として一首を一紙に記すが、うち三首については料紙が小分割されていて、全一八紙である。紙継目で文字が僅かに切れている箇所があるので、書写してから切断して再び継ぎ直したと考えられる。『日本紀略』延長六年十二月条から、醍醐天皇が大江朝綱に命じて「御屏風六帖」の題詩を作らせ、小野道風に清書させたことが知られる。世尊寺流の祖藤原行成より五代目の子孫である藤原定信(一〇八八~?)による「屏風土代」奥書にも同様の記述がある。また、奥書左端には「十八枚也、道風手」とあり、細切れにされた本紙の枚数と一致しているので、当時から紙数の増減は無いものと認められる。また、藤原行成筆「白氏詩巻」(東京国立博物館保管、国宝・昭和三十二年指定)には本書と同じく定信の奥書があり、保延六年(一一四〇)十月二十二日の朝、定信が経師の妻から本書と「白氏詩巻」を買い求めたことが知られる。本書巻は、我が国の書道史上で極めて重要な人物である小野道風の真跡として、最も評価が高いものである。また、『日本紀略』や奥書の記事によって制作の契機や伝来の経緯など歴史的背景も押さえることができる。よって、我が国の書道史上の代表作といえるものであり、文化史上にも比類無く貴重である。「林塘避暑入林斗薮満襟埃 看取香蓮照水開池上交朋唯対鶴 樹間鋪設不如苔境閑客熱辞身去 葉密松風払面来何必古時河朔飲 残盃更被晩蝉催」『林塘に暑を避く林に入り斗藪す襟に満つる埃 看取す香蓮の水を照らして開くを池上の交朋唯だ鶴に対ふのみ 樹間の鋪設苔に如かず境閑にして客熱身を辞して去り 葉密にして松風面を払ひて来る何ぞ必ずしも古時の河朔の飲のみならん 残盃更に晩嬋に催さる』【林塘に暑を避く林中に入り身に纒う俗塵を払い落とし、 (池のほとりで)香ぐわしき蓮花が水に照り映えて咲くのを伺い見る。(さて)池のほとりに交わる友と言えば唯だ差向いの鶴ばかりで、木々の問に敷き展べられているのは苔。この地は何とも閑静で、訪れる人の身から暑苦しさが消えてゆき、木々の葉がびっしりと繁っていて、松風が涼やかに顔を吹き払う。避暑の飲酒と言えば、古くは河朔の地の故事が名高いが、どうしてその地に限ったことがあろう(この地も満更捨てたもんじゃない)と思いつつ、夕暮れの嬋の声に飲み残しの盃をますます促された次第である】という意。 「山中自述碧峰遁迹臥松楹 謝遣喧喧世上栄竜尾旧行応断夢 鶴頭新召不驚情商山月落秋鬚白 穎水波揚左耳清唯有池魚呼後至 各随次第自知名」『山中自述碧峯に遁迹して松楹に臥し 謝遣す喧々たる世上の栄龍尾の旧き行には応に夢を断つべく 鶴頭の新たなる召にも情を驚かさず商山に月落ちて秋の鬚白く 潁水に波揚て左の耳清し唯だ池魚有りて呼びたる後に至り 各おの次第に随へば自らに名を知るならん』【山中自述美しいみどりの嶺に隠遁して山家に身を横たえ、騒がしい俗世の栄利なぞ無用と辞する。これ迄仕えていた官吏の道などすっぱり夢と思いきり、御上から新たなお召しがかかっても心を動かすこともない。商山には月が傾き、あの四皓の鬚は秋を迎えて一層白く輝いていようし、潁水には波が立って、許田の左耳は汚れを洗い落としてますます清らかであろうかと思われる。ただ池にいる魚に声をかけるとやって来て、列を成して泳ぐところをみると、魚たちが名を解しているかのように思われてならないことだ】という意。「送僧帰山一自方袍振錫行 別師還媿六塵情雖観秋月波中影 未遁春花夢裏名谷静纔聞山鳥語 桟危斜踏峡猿夜深莫歎迷帰路 定有霜鍾度嶺鳴」『僧の山に帰るを送る一たび方袍の錫を振て行きしより師に別れて還た六塵の情に婉づ秋の月の波の中の影に観ずと雖も未だ春の花の夢の裏の名を逃れず谷静かに纔かに聞く山鳥の語棧危く斜めに踏む峡猿の声夜深きも歎くこと莫帰路に迷へることを 定めて霜鍾の嶺を度りて鳴ること有らん』【師僧が錫杖を振ってお帰りになってからというもの、師に別れたことでやはり様ざまな世俗の汚れにまみれてしまう己の心が恥ずかしくてならぬ。秋の月が水面に映って波に美しく澄んでいるが、その月は実体のないものだ(一切のものには実体がないという水月観)などと思いなしても俗世から脱することはできず、相も変わらず夢中の春の花の如き実なき虚名を求めてしまう始末。(師僧の帰る)谷間は静かでわずかに山鳥の声が聞こえるばかりであろうし、懸け渡した危い橋を峡谷にひびく猿の声を下に聞きつつ渡られることだろう。夜更けて帰路に迷われてもお歎きになりませんように。きっと明け方の霜に鐘が峯を渡って自らに鳴り(導かれて寺に帰れ)ましょうから】」という意。「問春山吐雲晴樹競粧 高低無処不添光再三請問得知否 何故猶残鬢上霜」『春に問ふ 山の吐きし雲も晴れ樹は粧を競ひ 高きも低きも処として光を添へざるは無し 再三請ふ問へ知るを得るや否や 故か猶し鬢上に霜を残せると 』【春に問ふ山から出た雲も晴れ渡り、木々は春の粧美を競い合 い、高きも低きも大地のすべてが春のうららかな光を帯びている。何度でも春に尋ねてみなさい、知るや知らずや、(春とい うのに)一体どうして(自分の)髪は霜のような白毛を残した ままなのか、と】という意。「楼上追涼煩熱蒸人不異炊 登楼凜(快)然(被)還(遠)有(風)衣(吹)凜然還有衣裘想 安用袁宏一扇為」『楼上に涼を追ふ 煩熱人を蒸して炊ぐに異ならず 楼に登り快く遠くよりの風に吹かる 凜然として還て裘を衣んとの想ひ有り 安ぞ袁宏が一扇を用て為ん』 【うっとおしい熱さは人を蒸し上げるようで、飯をたくのに変わらぬありさま。そこで楼台に登り、遠くより来る風に心地よく吹かれる。すると身のひきしまる寒さに襲われ皮衣を着たいと思う程だ。これなら何もあの袁宏の団扇など要しま い】という意。「七夕代牛女独坐青楼漏漸深 支頤想像暁来心風従昨夜声弥怨 露及明朝涙不禁」『 七夕に牛女に代はる 独り青楼に坐し漏漸く深し 頤を支へて想像る暁来の心 風は昨夜よりして声は弥よ怨み 露は明朝に及んで涙禁へず 【 七夕に牛女に代はる独り楼台にすわり夜もまさに更けた頃、頬杖ついて夜明け前の牛女の心に思いを馳せる。昨夜来の風は(牽牛織女 の離別の)悲しみの声を乗せていよいよ怨みがましく吹き来る。 露は二人の涙さながらに明方に降り敷き、(自分も)涙をこら えきれずにいる】という意。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.18
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「国立競技場」ゲートA・千駄ヶ谷門まで進む。国立競技場は4つの入口があった。北側にあるのがこの「千駄ヶ谷門」、南側にあるのが「外苑門」、東側のバックスタンドは「青山門」、西側のメインスタンドは「中央門」。千駄ヶ谷門(ゲートA)までの所要時間は・都営地下鉄大江戸線「国立競技場駅」 A2出口 徒歩1分・JR中央・総武線「千駄ヶ谷駅」徒歩5分 「信濃町駅」徒歩9分 とのこと。国立競技場の周囲を3/4巡ったことになるのであった。国立競技場をぐるりと囲む木製の庇(ひさし)。全国から建築材料が集められたとのこと。設計は建築家・隈研吾氏。氏が手掛けた建築の特徴である「和」を前面に押し出し、神宮の森がある周辺環境と調和できるデザインとなっている。外壁を取り囲む木材は、日本建築特有の庇がイメージされている。下から3段目までの庇を「軒庇(のきびさし)」と呼び、47都道府県から調達したスギ(沖縄はリュウキュウマツ)を使用。それぞれの杉材が、その産地の位置に応じてスタジアム全周に配置されているという。地上5階、地下2階、全高約47mもの巨大なスタジアムなのである。最上階の庇は「風の大庇」と呼ぶと。実は、木材に見える部分はアルミ製で、風雨にさらされても腐食しにくく、強度が高い。周囲の環境と調和させるために、表面を木目調に加工しているmのだと。国立競技場のある地域は、地上では風速2m、上空では風速10mの風が吹くという気候的特徴があるのだと。この自然に吹いている風を利用して、スタジアム自体に排熱機能を持たせていると。仕組みは、この上なくエコロジカルだ。外を吹く風が「風の大庇」によって場内へと誘導されると、観客席に沿って吹き降りて、フィールド内へ。その風は、フィールドにこもっている熱を上空へと押し上げ、天井の穴から場外へと放出されるのだと。左手にあったのが「青年像」。サイズ 高さ:4m 作者 :朝倉文夫 1956年の作品。動物(特に猫)の作品も多いが、躍動感溢れる スポーツマンの人物像の作品も多く手掛けてお り、明治、大正、昭和を通じ、日本の彫塑界を 先導した芸術家である。「青年像 朝倉文夫作」と。 そして「健康美」。サイズ 高さ:3m 作者 : 北村西望 。作者は30歳の時、「自分は天才ではないの だから人が5年でやることを自分は10年か けても、やらなければならないのだ」と 語っている。 長崎にある「平和祈念像」は、彼の代表作のひとつである と。近づいて。「全国髙校体育連盟寄贈 1964 健康美 西望作」と。この日は12月1日(金)、翌日の12月2日(土)には「2023 J1 昇格プレーオフ決勝」が清水エスパレスVS東京ベルディの間で行われるのであった。14:05キックオフとのことであった。この緑のジャージの方は東京ベルディのSTAFFの方であっただろうか?Hゲート周辺案内図。その先左にあったのが「2020東京オリンピック聖火台」。太陽をモチーフにし、佐藤オオキ氏がデザイン。球体が花のように開くことで生命力や希望を表し、東京2020大会の開始を神聖なイメージで象徴的にビジュアライズしている。東京2020大会では2台の聖火台が制作された。1台は開会式用聖火台で国立競技場に、もう1台の競技期間用聖火台は、東京臨海部夢の大橋有明側に設置され、開会式終了後に点灯された。東京2020大会では、脱炭素社会の実現に向けて、可能な限り省エネルギーや再生可能エネルギーの利用などを進めており、持続可能性に配慮した運営に取り組んでいる。その一環として、大会史上初めて聖火台の燃料に水素を使用したとのこと。「聖火台 Cauldron」案内ボード。「<概要>オリンピックスタジアム(国立競技場)で開催された、第32回オリンピック競技大会の開会式(2021年7月23日)及び閉会式( 8月8日)、東京2020パラリンピック競技大会の開会式(2021年8月24日)及び閉会式( 9月5日)で使用された聖火台。デザインは、太陽をモチーフとし、太陽から得られる工ネルギーや生命力を表現。大会史上初めて、聖火にクリーンエネルギーである水素が使用された。」開会式の聖火台の写真をネットから。ガラス越しでは、周囲の木々が映り込んで。夢の大橋有明側設置の聖火台の写真をネットから。そして再び「水泳競技」のメダリスト名が書かれたの銘板が並ぶ。こちらは1964年開催の東京オリンピックの「炬火台(きょかだい)」「<概要>1958年アジア大会へ向けて、炬火台の設計は国立競技場の設計者である角田栄ほか4名、製作は川口内燃鋳造所・美術鋳造の名工である鈴木万之助が担当した。当初は、前身の国立競技場の南側スタンドの最上段へ設置されたが、1964年東京オリンピック大会時にはバックスタンド(東側)最上段へ移設され、大会期間中聖火が灯された。国立競技場のシンボルとして、2020年に新しい国立競技場に移設した。」1964年の東京五輪開会式で聖火台に点火👈リンク した坂井義則さんの写真をネットから。1964年東京五輪の聖火リレーで最終走者を務めた坂井義則さんは1945年8月6日、広島への原爆投下から約3時間後、数十キロ離れた今の広島県三次市で生まれた。軍隊にいた父は誕生を見届け、翌7日に広島市に入り被爆。戦後生まれの坂井義則さんは被爆2世に当たるのだ。そして前方にG1ゲートが見えて来た。これで「国立競技場」を1周したのであった。「国立競技場」を観光する日本人のツアー客の姿が。そして工事中のフェンスを右に見ながら都道414号線・四谷角筈線を南に進む。この木々の奥にあるのが「明治神宮外苑 室内球技場」。「国道246号青山通り」まで600mと。リラックマでラッピングした「はとバス」が走る。右手に見えたのが「明治神宮野球場」。「外野中央」入口ゲート。周辺案内図。現在地はココ。外から見てスコアボードの左側見えるこの電光掲示板には、わが卒業会社の名前が表示されるのだ。クラブハウス「Tokyo Yakult Swallows」。さらに「明治神宮野球場」の1塁側スタンド下を進む。ヤクルトスワローズのファンクラブ・「SWALLOWS CREW 2024」ポスター。実は私もヤクルトファン、父が国鉄職員、私は六大学の卒業。バックネット裏には「明治神宮野球場」と。現在位置はココ。さらに3塁側スタンド下を進むと正面に先程訪ねた「国立競技場」の姿が現れた。「ひとつばたご(なんじゃもんじゃ)この木は、和名「ヒトツバタゴ」俗名「ナンジャモンジャ」と呼ばれるたいへん珍しい木で、五月の初め頃白い清楚な花が咲き、満開時には雪を被ったようにみえます。江戸時代後期の植物学者が尾州(愛知県)二宮の山中で発見し、ひとつばたごと名づけられ、ここ青山の六本の道路の交わる所に植えてあったことから「六道木(ろくどうぼく)」とも呼ばれておりました。(現在のヤクルト・クラブハウス裏あたりです。)大正十三年(1924)には天然記念物の指定を受け、大正十五年(1926)十月の外苑造成後も引き続き外苑の手により手厚く保護されてきましたが、昭和八年(1933)樹齢百数十年を誇った名木もついに枯死しました。ここ外苑の地は、明治時代の青山練兵場跡地に造営されたことから初代木の生前の勇姿は絵画館「凱旋観兵式」の中に画かれており、直径60cmの遺木の一部が絵画館に保存され、展示されております。ここに植えられた木は、「二代目なんじゃもんじゃ」の実生を苑内で育て、外苑創建六十年を記念し、移し植えたられたものです。現在、絵画館前庭には、その由緒を刻した石碑と共に、二代目の実生を苑内で育てた「三代目なんじゃもんじゃ」が植えられております。平成二十八年三月吉日 明治神宮外苑」。この日の「なんじゃもんじゃ」の樹。5月の開花時の写真を2枚、ネットから。更に進む。奥には「国立競技場」の姿が再び。正面の「スコアボード」を横から。「日本オリンピックミュージアム」。「オリンピックシンボル」「国立競技場」を背景に。そして神宮球場を1周して、再び都道414号線・四谷角筈線に戻り「外苑いちょう並木」に向かって歩いたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.18
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右手にあった「皇居三の丸尚蔵館」には既に見学者の列が20mほどになっていた。開館 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)。鑑賞環境保持等のため、オンラインによる完全事前予約制であった。「大手仮休憩所(売店)」には「皇室御一家(皇室カレンダー)」が販売されていた。「ごあいさつこのたび、皇居三の丸尚蔵館の開館を記念して「皇室のみやびー受け継ぐ美ー」展を開催いたします。平成元年(1989)、昭和天皇まで代々皇室に受け継がれた品々が、上皇陛下と香淳皇后により国に寄贈されたことを機に、それらを保存・研究・公開するための施設として、平成5年(1993)11月に、宮内庁三の丸尚蔵館が開館しました。その後も香淳皇后や各宮家からの品々が加わり、現在は約2万点の作品を収蔵しています。それらは、各時代を代表する数々の名品を含め、日本を中心とする東洋の美術工芸品のほか、時代・地域・分野ともに幅広いことが特徴です。令和5年(2023)、当館は開館30年を迎えました。収蔵品の増加と人館者の増大に対応するために施設の拡充をはかり、令和元年(2019)より新館の建設が進められ、その一部が完成しました。それとともに、組織が宮内庁から独立行政法人国立文化財機構へ移管され、館の名称も新たに「皇居三の丸尚蔵館」と変わりました。拡張工事は今後も引き続き、全館開館は令和8年(2026)を予定しています。新館の一部開館を記念して開催する本展では、当館を代表する収蔵品を、4期に分けて紹介いたします(第ー期「三の丸尚蔵館の国宝」11月3日~12月24日、第2期「近代皇室を彩る技と美」1月4日~3月3日、第3期「近世の御所を飾った品々」3月12日~5月12日、第4期「三の丸尚蔵館の名品」5月21日~6月23日)。いずれも皇室の長い歴史と伝統の中で培われ、伝えられてきた品々であり、展示を通してその一端に触れていただければ幸いです。当館は、これからも皇室から受け継いだ収蔵品を大切に守りながら、皇室と文化のかかわりについて、さまざまな機会を通じて広く紹介し、多くの方々に親しんでいただける施設を目指してまいります。今後とも、皇居三の丸尚蔵館へのご支援・ご協力を賜りたく、お願い申しげます。 令和5年11月 皇居三の丸尚蔵館」皇居三の丸尚蔵館 開館記念展皇室のみやび―受け継ぐ美会期 令和5年(2023)11月3日(金・祝) ~ 令和6年(2024)6月23日(日)会場 皇居三の丸尚蔵館 第1期:展示室2、第2期~第4期:展示室1・2展示品 第1期 三の丸尚蔵館の国宝 令和5年11月 3日(金・祝)~12月24日 (日) 第2期 近代皇室を彩る技と美 令和6年 1月 4日(木)~3月3日(日) 第3期 近世の御所を飾った品々 令和6年 3月12日(木)~5月12日(日) 第4期 三の丸尚蔵館の名品 令和6年 5月21日(火)~6月23日(日) 開館記念展では、《蒙古襲来絵詞》(1期)、伊藤若冲《動植綵絵》(1期、4期)、高階隆兼《春日権現験記絵》(1期、4期)、小野道風《屏風土代》(1期)、藤原定家《更級日記》(3期)、狩野永徳《唐獅子図屏風》(4期)と国宝8件のうち6件や、海野勝珉《蘭陵王置物》(2期、重要文化財)など、多様で多彩な各時代を代表する名品の数々が約8か月にわたり、4期にわけて紹介されているのであった。「皇居三の丸尚蔵館」👈リンク 展示室2の会場内は写真撮影可能であった。正面に後ほど鑑賞した「伊東若冲」の「動植綵絵」が4幅が展示されていた。右手に、最初に「春日権現験記絵(かすがごんげんげんきえ) 巻十九高階兼隆/延慶2年(1309)頃/絹本着色藤原氏の氏神、奈良・春日大社の草創と、霊験の数々を描いた全20巻からなる絵巻。左大臣・西園寺公衡の発により制作、絵は宮廷絵師の高階隆兼が描きました。豊かな色彩と精緻で気品あふれる描写による、中世やまと絵の代表作。明治時代に鷹司家より献上。」今回の巻十九の展示はこの部分から。購入した案内本「開館記念展 皇室のみやー受け継ぐ美ー」より。「「春日権現験記絵」巻十九第二段直前の場面では社から神体の神鏡が14面盗まれ騒然としていますが、ここでは初冬の厳かな春日山が広がります。続く場面では悪党と興福寺の衆徒(僧兵)が血生臭い戦いを繰り広げ、衆徒は死闘の末に3面の神鏡を取り戻します。『春日権現験記絵』巻十九は、正安三年(一三〇一)に起こった春日社神鏡強奪事件の顛末を描くものである。作品が成立する直前の出来事であり、いまだ生々しい記憶が残っていたであろう。掉尾を飾る巻二十も、嘉元二年(一三〇四)の地頭設置による神木枯槁と神火の事件を扱っている。この二つの出来事は、絵巻詞書の撰者である興福寺関係者にとって、大和国の支配に関わるきわめて深刻な政治的な事件であった。こうした直近の出来事を、春日権現の神威が今も新たなることを語る説話として、この大規模な絵巻のなかに取り入れている。この巻十九の扱う事件は以下のとおり。近年、興福寺の学侶は蜂起して、大和国の悪党を捜り捕えて流罪にするよう訴えた。これに反撥した悪党たちは、正安三年十月二十五日、春日社に乱入して大宮・若宮の神鏡計十四面を盗み取り、高尾というところに引き籠った。同二十八日、興福寺の衆徒は軍兵を率いて搦め捕ろうとし、大いに合戦をしたところ、悪党交名(リスト)にある池尻家政という者を戦場で討ち取り、その男の持っていた神鏡三面を取り戻した。その後、数々の奇瑞があって順次神鏡が発見され、三ヶ月のうちに全てが本社に戻った。この出来事を詞書とし、巻十九は全五段にわたって描かれている。うち第一段の絵は三場面からなっている。始めに、悪党が武装して春日社に押し入り、本殿の前の幣殿で勝ち誇ったごとく一服しているところ。次いで静かで美しい春日山の雪景色を挟み、悪党と追捕の軍勢とが山間で合戦するところ。図版はその合戦の場面である。双方の軍勢が対峙している画面左側の描写には、当時の戦闘の方式のひとつのあり方が反映されているだろう。楯を持って前進する者たちと、同じく楯を背負って後退する者たちが、ともに横一列に並んで向かい合っている。この楯の列の背後から、互いに弓を射掛けあう。さらにその後ろには、太刀や長刀で戦う者や大将らしき騎馬武者が続く。矢に当たるなどして負傷すると、背負われて逃れるが、遅れて敵方に寄せられ囲い込まれて、命を落とすことになる。画面右側で、片足を斬り落とされ、髻をつかまれて、まさに首を取られようとしている者は、詞書にいう池尻家政であろう。彼から奪い返した神鏡を手に提げる軍兵がいる。描かれた楯は、板二枚を副木で打ち付けたもので、裏には立てかけておくための棒や持ち手も見えている。悪党方の楯には三ツ鱗の文様が、追討方には違い鷹羽を描いたものもある。『男衾三郎絵巻』や十五世紀の『十二類合戦絵巻』などに描かれた楯の形状や使用法とも類似し、華麗精妙を尽くした甲冑刀剣とは異なるものの、実戦には欠かせない武具のひとつであったとネットから。雪の御笠山と春日奥山。それに続く血まみれ+足切断の場面。近づいて。描かれた楯の、追討方には違い鷹羽を描いたものも。悪党と興福寺の衆徒(僧兵)との血生臭い戦いが続く。楯を持って前進する者たち。同じく楯を背負って後退する者たちが、ともに横一列に並んで向かい合っている。悪党方の楯には三ツ鱗の文様が。「春日権現験記絵」巻十九第三段大和国(奈良県)の常葉にある仏堂から虹が出ました。行き交う人々が不思議に思って堂内をみると、盗まれた神鏡3面が入った袋が見つかります。神鏡を近くの金勝寺に移したところ、ニ上山に黒雲、春日山に瑞雲がたなびくという不思議な現象がありました。」大和国(奈良県)の常葉にある仏堂から虹が出た。近づいて。行き交う人々が不思議に思って堂内をみると、盗まれた神鏡3面が入った袋が見つかります。近づいて。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻「蒙古襲来絵詞」は、筆者不明の全2巻の絵巻物。竹崎季長絵詞、蒙古襲来絵巻ともいう。鎌倉時代後期の作で、肥後国の御家人竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。旧御物で、現在は宮内庁の所蔵となっている。国宝。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻「蒙古襲来合戦絵巻 後巻」に描かれているのは、弘安の役です。再び蒙古軍が志賀島(しかのしま:現在の福岡県福岡市)に上陸し、戦闘を開始。竹崎季長が敵船に乗り込んで、蒙古軍を討ち取っていく様子が描かれています。海での戦闘場面が多く描かれており、蒙古船は豪華堅固であるのに対し、日本船はカヌーのような粗末な作りであることが分かります。しかし、蒙古軍は、夜から降り出した「神風」(かみかぜ)と呼ばれた暴風雨により壊滅してしまったのです。竹崎季長が蒙古襲来絵巻を作らせたのは、鎌倉幕府から恩賞を得るためですが、自分の功績を後世に残そうとした目的もあったと見られています。なお、御恩奉行の安達泰盛は、1285年(弘安8年)に対立していた「平頼綱」(たいらのよりつな)の讒言(ざんげん:誹謗中傷)により「霜月騒動」で滅ぼされました。蒙古襲来絵巻は、竹崎季長が恩人の安達泰盛に対する鎮魂や恩返しのために制作したという説もあるようです。「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば) 後巻鎌倉時代(13世紀)/紙本着色いわゆる元寇のうち、弘安4年(1281)の2度目の来襲を招いています。生の松原の石築地前での主人公・竹崎季長主従の出陣や、それに続くモンゴル軍との海上戦などを、臨場感をふれる筆致で描いています。歴史的大事件を描いた同時代の絵画としては唯一のもの。明治時代の御買上品。」鎌倉時代の文永11年(1274年)と弘安4年(1284年)に中国の元が日本を襲撃した際の戦闘を描いており、肥後国(現在の熊本県)の御家人・竹崎季長が自らの活躍を子孫に伝えるために描かせたものとされています。「蒙古襲来絵詞」は「竹崎季長絵詞」とも呼ばれ、筆者不明の全2巻の絵巻物です。鎌倉時代の風俗や描写の表現が表れており、2021年に国宝に指定されました。「蒙古襲来絵詞」は、天草大矢野家に伝来し、明治23年(1890年)に同家が皇室に献納したものです。現在は宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されています。「「蒙古襲来絵詞」後巻蒙古軍との開戦に向け、軍船が海上を進みます。奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)、手前は島津久親(1225-1284 )で、ともに九州の有力な守護です。どちらの船も他と比べて船体は大きく、満ぎ手が立つ船枻(船外に突き出た板)があるなど構造が異なります。」奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)、手前は島津久親(1225-1284 )で、ともに九州の有力な守護。奥に乗るのは少弐歩経資(1226-1289)。手前は島津久親(1225-1284 )。蒙古船を襲う季長の一門。これは船で蒙古船に近づき、蒙古兵に襲い掛かろうとする季長一門を描く。日本船がカヌーに毛の生えたような粗末な造りであるのに対して、蒙古船の方は、一応は竜骨を供えた堅固な造りであることが伺われる。蒙古船の船尾に近づいて。蒙古船の船首。自分の戦功をアピールするための絵ですから季長は敵の首を討ち取ろうとしている。激しい戦闘により脛当の紐がほどけ、今まさに額から落ちてゆく瞬間が捉えられています。「「蒙古襲来絵詞」後巻敵船に乗り込み、竹崎季長(1246- ? )が蒙古兵の首を打ち取ります。季長は急いで参戦したため、兜の代わりに脛当を頭に着けていました。激しい戦闘により脛当の紐がほどけ、今まさに額から落ちてゆく瞬間が捉えられています。」そのすぐ近くの別な船に、季長を弓矢で狙う敵兵たちがいます。別な方向を見てる兵やら、頭に矢が刺さった兵もいます。この艦隊には中国風の兵士が多いように見える、船のディテイル、装備品、旗印までがドローン撮影でもしたかのように事細かに描かれている。そしてその先にあったのが国宝・伊藤若冲作「動植綵絵」4幅。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.17
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白鷺の湯 能登 海舟(共立リゾート)そして、2021年に、「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会のメイン会場」として使用され、開・閉会式と陸上競技が行われた国立競技場を訪ねた。横断歩道を渡って、国立競技場の敷地内に。国立競技場 施設案内。現在地はGゲート 手前。今回は、もちろん「国立競技場」内には入れなかったので、「国立競技場」内部の写真3枚をネット👈リンク から。整備費の乱高下で計画が白紙に戻り、政府は「屋根は観客席の上部に限ること」「機能を原則として競技に限定すること」などの方針を打ち出した。 建設コストを抑えるためであった。よって、屋根は全体が覆われているのではなく、ドーナツのように真ん中のフィールド部分は屋根がありません。座席は1層、2層、3層と分かれているのですが、屋根は1層(フィールドに一番近い)の最前列まで覆われている。もともと陸上競技場として歴史を刻んできたためか、芝生のセンターピッチとの距離はやや遠め。観客席には5色のアースカラーが模様のように配置されている。森の木漏れ日をイメージしていると。5つの色:白、黄緑、グレー、深緑、濃茶。これは海外のスタジアムでも使われている手法。こうすることで空席が目立たず、満員に膨れ上がっているように見えるのだとか。曲線を描いた天井の梁からも日本らしさが感じられるのだ。ゲート配置図。Hゲート方向を振り返って。右前方に「女神像」の姿が現れた。「ギリシャの女神像」。ギリシャの女神像は、1964年、東京オリンピック大会の成功を祈念し、国立競技場のメインスタンド貴賓席上部に設置された長谷川路可作の壁画。長年、国立競技場のシンボルとして親しまれ、2019年新しい国立競技場建設に伴って移設された。月桂冠と橄欖(かんらん)の枝を持ち勝者を称える女神に由来した「美の象徴」、作品名を「栄光」とした と。白と黒のモザイクをもって端的に表現し、白の部分には淡色の色ガラスを混入してそれぞれのニュアン スを試みたとのこと。サイズ 高さ:4.3m 幅:3.7m。「Gゲート 青山門」。「野見宿禰像」は、相撲の元祖で力の象徴とされる野見宿禰に由来し、「力の象徴」と。作品名を「勝利」とした と。作者 長谷川 路可サイズ 高さ:4.3m 幅:4.1m。近づいて。Gゲート周辺 案内図。「国立競技場」の周囲を時計回りに散策することとした。前方に博物館「日本オリンピックミュージアム」の姿が。「オリンピック・ムーブメントの発信拠点である『日本オリンピックミュージアム』。1階では、企画展やイベントが開催される「WELCOME SALON」や、オリンピックの世界観を鮮やかに描く映像が楽しめるなど、さまざまな視点でオリンピック・ムーブメントを発信します。2階では、オリンピック競技大会の起源から人類最大の祭典になるまでの歴史を学べたり、競技に共通する動きを体験し、オリンピアンの身体能力に挑戦できるなど、実際に見て・感じて・体験することでオリンピックについて知ることができます。ほかにも、オリンピックシンボルや日本で開催されたオリンピック競技大会の聖火台(レプリカ)の展示が見られるなど、ここでしかできないオリンピックに関わる貴重な体験が楽しめます。」とHPから。空調設備の室外機か?観客席に空調設備はないが、最上部の大きなひさしやスタジアムを360度囲む軒ひさしが外から場内に気流を生み、自然の風で涼が取れるようにもしたのだ と。Fゲート周辺 案内図。再び博物館「日本オリンピックミュージアム」と高層マンション「ザ・コート神宮外苑」を見る。Eゲートに向かって歩く。Eゲート手前の正面に3体の像が姿を現した。「槍投像」、塑像、高さ3.4m。「槍投 作者 雨宮治郎」と。大正・昭和に活躍した作家で、この「槍投げ像」は第15回帝展(1930年・昭和5年)の特選となった作品である。槍の鉾先は、国立競技場に向かっている と。千駄ヶ谷門入り左にあった「円盤投げ像(ディスコポロス像)」、塑像、高さ2.8m。作者:ミロン 。1964年1月に「オリンピック1964年展」を西武百貨店で開催した時、ローマ国立博物館より取り寄せた実物の型抜き。「寄贈サンケイ新聞社 フジテレビジョン 文化放送 ニッポン放送」と。「御車像」、塑像 高さ2.5m。作者 ファルピ・ビニョーリ。正面から。第11回オリンピックベルリン大会(1936年)で行われた芸術競技で金メダルを受賞 した作品。当時のオリンピックにはスポーツ競技とは別に「芸術競技」もあったのだ と。古代オリンピックで行われていた馬車競技の一頭だて馬車を操る御者をモチーフとしている。「この像は1964年1月 「世紀のオリンピック展」を西武百貨店で開催したときローマ國立博物館より取り寄せたミロン作ディスコポロス像(実物型抜き)である。 1964年9月4日 西武百貨店謹製」前方奥に「NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)」が姿を現した。NTTドコモは1990年代半ば、携帯電話の急激な普及を見込み、都内と埼玉県周辺をカバーする新たな中継基地を建設する方針を決定した。立地場所は都心部でないと意味がないため、それを前提に建設地を探し求めていた所、たまたま旧国鉄の新宿貨物駅の跡地が見つかり、 1997年12月に工事に着手。2000年9月に竣工した。都内のビルの中では麻布台ヒルズ森JPタワー、虎ノ門ヒルズステーションタワー、虎ノ門ヒルズ森タワー、ミッドタウンタワー、東京都庁第一本庁舎、東京ミッドタウン八重洲に次いで7番目の高さ・240mを誇る。エンパイアステートビルなどの、1930年代に建てられたニューヨークの摩天楼を思わせるデザインが特徴であり、いつしか「新宿のエンパイアステートビル」と呼ばれるようになった。そしてこちらがEゲート・外苑門前の「国立競技場前広場」。国立競技場は4つの入口がある。北側にあるのが「千駄ヶ谷門」、南側にあるのが「外苑門」、東側のバックスタンドは「青山門」、西側のメインスタンドは「中央門」。そしてこちらが南側にある「外苑門」。競技場の1周は約1kmとのこと。ズームして。国立競技場 施設案内。現在地はここ◯。「国立競技場モニュメント」 Aゲート側。国立競技場の新たなシンボルとして、木のルーバーを多用した杜のスタジアムと調和するルーバー上のモニュメントをスタジアムの南北に配置。スタジアムを背景に訪れた人の記念撮影ポイントにもなっていたのであった。NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)。「TICKET」売場。これは「MEGA BIG」のポスター。「MEGA BIG」とは、Jリーグ等のサッカーの試合を対象に、指定された試合の90分間での両チームの合計得点をコンピューターが自動選択するくじ。「MEGA BIG」は、指定されたサッカー12試合の90分間での両チーム合計得点数を、コンピューターがランダムで選択します。コンピューターは以下4択の中から選びます。1点以下 「1」2点 「2」3点 「3」4点以上 「4」とのことだが、私にはチンプンカンプン???。正面には左「シャリエ神宮外苑」、右「千駄ケ谷インテスビル」。そして競技場の外壁には、2020東京オリンピックの金・銀・銅メダリストの銘板が貼り付けられていた。この場所には「テコンドー」、「卓球」、「サーフィン」、「スポーツ‐クライミング」「スケートボード」・・・・・。「柔道」。「体操」。体操競技・男子個人総合 金メダル「橋本大輝」。「自転車競技・トラック」、「馬術」、「フェンシング」、「サッカー」、「ゴルフ」・・・。「自転車競技・4種目」。そして左斜め前方に「東京体育館」の姿が。「東京体育館」の屋根から「NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)」が顔を出して。再び、2020東京オリンピックの金・銀・銅メダリストの銘板を追う。「バスケットボール」。「バスケットボール女子」 銀メダル「日本」 。「野球/ソフトボール」野球 金メダル「日本」 ソフトボール 金メダル「日本」 。「陸上競技」男子マラソン金 KEN Eliud Kipchoge 2:08:38銀 NED Abdi Nageeye 2:09:58銅 BEL Bashir Abdi 2:10:00NTTドコモ代々木ビル(ドコモタワー)が東京体育館の「相輪」の如くに。「三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア」。千駄ヶ谷門入り右にあったのが「波」、作者:吉田三郎 高さ4m。作者は大正から昭和にかけて、日本彫刻界の重鎮として活躍した作家。徹底した写実態度を示している。作風は、常に堅実で、男性像に傑作が多い と。「出陣学徒壮行の地」の碑「由来昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 平成5年(1993)10月21日 出陣50周年を記念して 出陣学徒有志」「次世代への伝言 ―出陣学徒壮行碑に寄せてー昭和18年(1943)10月2日、勅令により在学徴集延期臨時特例が交付され、全国の大学、高等学校、専門学校の文科系学生・生徒の徴兵猶予が停止された。この非常措置により同年12月、約10万の学徒がペンを捨てて剣を執り、戦場へ赴くことになった。世にいう「学徒出陣」である。全国各地で行われた出陣行事と並んで、この年12月21日、ここ元・明治神宮外苑競技場においては、文部省主催の下に東京周辺77校が参加して「出陣学徒壮行会」が挙行された。折からの秋雨をついて分列行進する出陣学徒、スタンドを埋めつくした後輩、女子学生。征く者と送る者が一体となって、しばしあたりは感動に包まれ、ラジオ、新聞、ニュース映画はこぞってこの実況を報道した。翌19年にはさらに徴兵適齢の引き下げにより、残った文科系男子および女子学生も、軍隊にあるいは戦時生産に動員され、学園から人影が絶えた。 時流れて半世紀。今、学徒出陣50周年を迎えるに当たり、学業半ばにして陸に海に空に、征って還らなかった友の胸中を思い、生き残った我ら一同ここに「出陣学徒壮行の地」由来を記して、次代を担う内外の若き世代にこの歴史的事実を伝え、永遠の平和を祈念するものである。 平成5年(1993)10月21日 出陣50周年を記念して 出陣学徒有志」内容は上記と全く同じであったが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.17
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この日は2024年12月19日(火)、14:00から秋葉原にある生命保険会社に用事が出来たので向かった。早朝から出発し、小田急線を利用して代々木上原駅から東京メトロ千代田線で大手町駅で下車。c6b出口から地上に出て東京都道403号大手町湯島線の交差点を渡る。この日の午前中は、将門塚そして皇居三の丸尚蔵館で開催されている美術展そして皇居の散策を行うこととしたのであった。そして「将門塚」に向かって皇居の大手濠に向かって進む。右手に「将門塚」が現れた。場所を移動して。「都旧跡 将門塚」と「故磧保存碑」と刻まれた石碑が入口に。「故磧保存碑」は明治39年(1906)に平将門公の復権運動を展開した阪谷芳郎・織田完之らにより、当時大蔵省の敷地内にあった将門塚に建立されたと。「都旧跡 将門塚」。「東京都指定史跡将門塚神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首(みしるし)をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(九三一~九四六)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けまていました。今を去ること一〇七五年ほど昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平真盛と藤原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年三十八歳、世にこれを天慶の乱といいます。その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂も鎮まり、この地の守護神になったといわれています。天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血(こうけつ)をしぼり、加えて洪水や旱魃が相次ぎ、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火(のろし)であったと共に、弱きを助け強きを挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、歌舞伎「先代萩」で知られる伊達騒動で伊達芸者と原田甲斐の殺害された場所でした。 明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和三十六年(一九六一)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。将門塚は神田明神・創建の地でもあります。 毎年九月彼岸の日には「将門塚礼祭」が執り行われ、五月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿(ほうれんみこし)が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。 史蹟 将門塚保存会 江戸総鎮守 神田明神」「参詣者の皆様へのお願い」と点字による表記もされていた。「東京都指定旧跡 将門塚所在地 千代田区大手町一の二指 定 昭和四六年三月二六日平将門は、平安時代中期、坂東八カ国(現・関東地方)で大規模な反乱(天慶の乱) を起こし九四〇年に没しました。享年は、一説に三十八歳と伝わります。徳治二年(一三〇七)、遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚はこの地に残りましたが、大正十二年(一九二三)の関東大震災後、大蔵省再建に際して崩されました。幾多の変遷の後、令和三年(二〇二一)に第六次整備工事として将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。 令和三年五月 東京都教育委員会」関東大震災後に撮影された将門塚。当時は立派な「塚」だったことがわかる。大蔵省仮庁舎建設のため切り崩されたのはこのあと とネットから。上記より以前の明治時代初期の将門塚をネットから。「明治39年に整備された将門塚」をネットから。入口にあった石灯籠。「将門塚保存会 会長 頌徳之碑」。「将門塚」は平将門公の御首(みしるし)をお祀りする墳墓であり、また同時に神田明神創建の地でもある。天慶の乱後、将門公の所縁者たちにより、この地に納められ墳墓が築かれたのだと。「将門塚板石塔婆将門塚中央にある「板石塔婆」は昭和45年に再建されたもので、時宗の僧・遊行71世他阿隆然上人の染筆による「平将門 蓮阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 徳治二年」が刻み込まれていた。近づいて。「平将門の乱の後、将門は自らを"新しい天皇”を意味する「新皇」と称し始めた。朝廷に反逆したとみなされた将門は平貞盛の軍と交戦し、下総の地で討死。その首は藤原秀郷により平安京の七条河原でさらされることになった。この話にはもう一つ、語り継がれている逸話があつ。平安京でさらされた平将門の首は、数ヶ月経った後も目を開いたり閉じたりを繰り返し、ときには「首を繋げて再戦したい」と叫ぶなどして民を恐怖に追いやった。その後、平将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、その途中の土地土地に落ちた、という伝説がある。その首が落ちた場所の一つが、ここ「将門の首塚」なのだと。更にその伝説は続き、その後13世紀になると首塚は荒廃し、平将門の亡霊は怒り江戸の民を祟ったと言い伝えられてきた。祟りを恐れた江戸の民は、また改めて手厚く平将門を供養することにしたと。なお、塚そのものは関東大震災後、大蔵省再建の際に崩されている。」とネットから。「将門塚板石塔婆」の後方には五輪塔が。「将門塚板石塔婆」の裏には「徳治二年 時宗総本山遊行寺の二世 真教上人江戸行脚のおり 将門塚が荒れ果て 疫病が蔓延してここ芝崎村の住民が難渋しているのに憐み 将門公に蓮阿弥陀仏と諡して塚を修復し その上に板石塔婆を立て 傍の日輪寺において供養したところ漸く怨霊は鎮り さらにその霊を神田明神として神に祀り 以来村民の守護神になったという。その後 徳川家康公江戸開府のとき 日輪寺は浅草へ 神田明神は駿河台に移されたが塚はそのまま旧地に保存された。以来幾星霜を経て明治時代となり この地は大蔵省の内庭となっていたが昭和十五年 雷火によって庁舎が炎上したとき 板石塔婆も焼損したため 時の大蔵大臣河田烈氏は時宗開祖一遍上人筆の南無阿弥陀佛の名號を写して新調された しかるに本年七月 再び損壊したので前記遊行寺二世真教上人の立てられた旧碑の拓本に倣い 遊行寺現法主七十一世隆然上人染筆によってこれを塚上に再建す。その志すところは平将門公の霊が鎮り人々の上に御加護のあることを願ったものである昭和四十五年九月二十二日 願主神田明神氏子総代 遠藤達蔵撰文願主神田神社宮司 大鳥居吾朗神田山日輪寺住職 原弘道史蹟 将門塚保存会会長 渡辺武次郎」廻り込んで。「将門塚」を後にして進むと「千代田区 総合防災案内板」があった。案内板右に「将門塚ゆかりの神社 江戸総鎮守 神田明神」の案内が。現在位置にズームして。「大手濠」に沿って走る「内堀通り・東京都道301号白山祝田田町線」との交差点まで進む。「大手町三井ホール」の角にあったクリスマスツリー。「将門塚」前の道を振り返る。「内堀通り」の竹橋方向を見る。「大手門」方向を見る。横断歩道を渡り、少し左手に引き返した場所にあったのが「内務省跡」案内板「内務省跡内務省は1873年(明治6年)、大久保利通(初代内務卿)の主導によリ設置された機関て、地方・警察・土木・宗教などの行政を管轄し、1933年(昭和8年)に霞が関へ移転するまでこの地にありました。初代の建物は木造二階建てで、鉄製の門は当時まだ珍しく人目を惹いたと言われています。江戸時代、この周辺には譜代大名の屋敷が置かれ、播磨姫路藩(現在の兵庫県)藩主酒井家の屋敷がありました。」そして「大手濠」沿いを進む。前方右手に見えた来たのが「江戸城 大手門」。ズームして。「江戸城 大手門」入口。「大手門橋」を進む。内濠に架かり、大手町一丁目と丸の内一丁目の間から、皇居東御苑に入る土橋。大手門は江戸城の正門でしたから、御城入口御門橋・大手下乗橋などの別名もあります。大手門は慶長11年(1606)に造られました。橋は、江戸時代は木橋でしたが、大正年間に埋め立てられ、土橋となりました。橋の北側は大手濠、南側は桔梗濠と呼ばれています。徳川家康入国以前は、この辺りも日比谷入江が入り込み、ここに船着場があったと伝えられています。そして、渡櫓の石垣が東側に出っ張っているのがわかります。この出っ張りは大手橋への横矢で橋を渡る敵兵を確実に射落とす為。また、土塀と石垣天端の中間に「石狭間」が切られている(開いている)のがわかります と。「大手門」入口の「高麗門(一ノ門)」。入口である高麗門を入ると、石垣に囲まれた枡形に入り、渡櫓と石垣の上から狙い撃ちされるという、戦国時代の防御の形式が見て取れ、残虐さとともに、城を守るというロマンが感じられ、その上、出入り口にしては、巨大すぎる建造物の規模と格式に言い知れぬ美を感じたのであった。奥に「渡櫓(わたりやぐら)門」という大きな門。大小2つの門に囲まれた枡形のすみにあったのが「旧大手門渡櫓の鯱」と案内板。 「旧大手門渡櫓の鯱」。「大手門大手門は江戸城の正門で、諸大名がこの門から登城しました。大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止・攻撃し易い構造になっています。大きい方の門は、昭和20年( 1945年) 4月の空襲で焼失し、昭和42年( 1967年)に復元されました。焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」( 1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した明暦の大火が起きており、鯱は、大火の後、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。」「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を正面から。江戸城大手門は、高麗門とこの渡櫓(わたりやぐら)型の櫓門で構成された典型的な枡形門の形式で、渡櫓の櫓門は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大規模なものです。 枡形門とは石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門です。大手門は1607(慶長12)年、築城の名手・藤堂高虎(とうどうたかとら)によって1年3ヶ月ほどかけて築かれました。 1620年(元和6年)の江戸城修復に際し、伊達政宗(石垣を担当)や酒井忠世(さかいただよ)によって再建され、現在のような桝形門になっています。この渡櫓門には長大な武器庫である建物を載せていました。 現存する高麗門は、1657(明暦3)年の明暦の大火(振袖火事)後の1659(万治2)年に再建されたものです。 江戸時代の渡櫓門は、残念ながら昭和20年の戦災で焼失。 昭和41年の東御苑開園に伴い昭和40年から復元工事が行なわれ、高麗門なども修復、往時の雰囲気が再現されました。巨大な梁材で支えられた「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を見上げて。「大手門・渡櫓門(二ノ門)」を潜り左手に進む。眼の前は工事中で、杭打ち機やクレーンの姿があった。「三の丸尚蔵館整備に伴う新築工事(Ⅱ期)」と。「皇居東御苑と上皇上皇后両陛下」案内板。現在地はここ。 ・・・つづく・・・
2024.01.16
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そして「聖徳記念絵画館」への入口に到着。「明治神宮外苑案内図」。現在地はココ。右手に巨大な常緑針葉樹林樹・ヒマラヤスギ(ヒマラヤシーダー)が聳え立っていた。ドーム型屋根の「正徳記念絵画館」を見る。「あるけあるけ日本ウォーキング協会は、東京オリンピック開催中の1964年(昭和39年)1 0月17日に、ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キやンプに向けて第1回大会を開催しました。私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一郎初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を掲げ、ウォーキング運動発祥記念碑といたします。 2004年(平成16年) 10月1 /日 (社)日本ウォーキング協会」「明治神宮外苑の舗装明治神宮外苑の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本格的加熱アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。この工事は、我が国においてワービット工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械施工が行なわれました。この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。「当時の工事概要 ワービット工法について(1)発注者:明治神宮造営局 粗粒度アスファルトコンクリートを(2)施工面積:59,096m2 下層に敷き、上層には富配合のアスファルト(3)施工費用:167,135円 モルタルを薄く敷均し、上下層を同時に転圧して(4)工期:1924年5月~1926年1月 仕上げる工法 (5)監督者:工学博士・藤井眞透」左前方に「明治神宮外苑 一角獣 国旗掲揚塔」を見る。左手奥に「外苑いちょう並木」と「東京クリスマスマーケット 2023」の会場が。「国旗掲揚塔」と「ユニコーン像」を逆光で。狛犬に代えてスコットランド王国の象徴であるユニコーンを用いたものかと。額に一角を持ち、牡ヤギの顎鬚、ライオンの尻尾、二つに割れた蹄が特徴。廻り込んで。「国旗掲揚塔」。大正15年、明治天皇と昭憲皇太后を讃えるために建てられた絵画館。神宮外苑の名物、イチョウ並木の真正面に位置し、シンメトリーの洋館。白亜のドームをもつ重厚な建物は、全体が花崗岩でおおわれ、入口や床はすべて天然の大理石を使っているとのこと。明治天皇を中心に成し遂げられた、維新の大改革、その輝かしい時代の勇姿と歴史的光景を史実に基づいた厳密な考証の上で描かれた80枚の名画が館内に。一流画家による優れた芸術作品であり、政治、文化、風俗の貴重な歴史資料でもある と。起工 : 大正8年(1919)3月5日竣功 : 大正15年(1926)年10月22日設計 : 一般公募156点の1等小林正紹氏の原図を基に明治神宮造営局において修正しました。構造 : 鉄筋コンクリート造り、外壁は岡山県万成産花崗石、画室を除く壁面、中央大広間は、 国産大理石と一部タイルを使用しています。規模 : 長さ 東西112メートル 南北34メート 高さ 中央ドーム頂点 地上32.1メートル 両翼 地上16.7メートル。「角池」越しに「聖徳記念絵画館」を見る。「聖徳記念絵画館」が「角池」の水面に映り込んで。巨大な「白松」の樹。「シロマツ 白松 中国名:白皮松分布=中国(湖北・陝西省(せんせいしょう)を中心とした北部から西部地域)日本では比較的珍しく、中国では王宮、寺院などに多く植えられています。」「聖徳記念絵画館」は明治神宮外苑の中心施設で、明治天皇の事績を描いた絵画を展示する美術館。明治神宮造営局の実施計画により大正15年に竣工。建物の中央に、ドーム屋根を戴く吹抜の大広間をおいて左右に絵画室を配置した構成で、外観は花崗岩による重厚な仕上げとし、内部は大理石やモザイクタイルで壮麗に飾る。「聖徳記念絵画館」は、わが国最初期の美術館建築で、直線を強調した造形表現により、記念性の高い重厚な外観意匠を実現しており、高い価値が認められる。またドームのシェル構造や絵画室の採光などに先駆的な技術が取り入れられており、わが国の建築技術の発展を知る上でも重要である。「聖徳記念絵画館」前から「外苑いちょう並木」を振り返る。「角池」、「国旗掲揚塔」越しに「外苑いちょう並木」方向を。ズームして。さらに。地階と主階の二階構造。主階は、地上二階の展示フロアを指し、中央に大理石張りの大広間があり東西をこの広間で区分し、東側に日本画、西側に洋画を展示しております。中央大広間天井ドームは、最高部で床上27.5m、鉄筋コンクリート内側に金網張りモルタルを施し、ブラスター塗り及び石膏レリーフを取付けドーム部分を淡青色に、その下のレリーフ部分を淡黄褐色に着色している。画室は、採光のためガラス天井を設け、欅材以外の部分は、ブラスター塗りとし、日本画室は淡黄褐色、西洋画室は、淡青色で中央ドームの色彩と同じ着色です。主階へは、正面大階段を上り表広間から中央大広間に至り、その先に裏広間がある。地階は、地上一階のことで、事務所・絵画館学園用として使用しているフロア。「樺太国境画定標石」。「樺太国境画定標石時 明治三十九年六月~四十年十月所 樺太日露境界明治三十七、八年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。その境界を標示するため、日露両国委員は、明治四十年九月四基の天測標と十七基の小標石を建てて境界を確定しました。この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の一つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたガ、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕影周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。日本側の菊の紋章の背面には露国のの紋章が刻んであります。又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。昭和五十四年六月二日 明治神宮外苑」「聖徳記念絵画館」の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)は、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画であると。再び「聖徳記念絵画館」を振り返って。正面に「国立競技場」の姿が現れた。ここの両脇にもヒマラヤスギが。「国立競技場」に向かって進む。右手には案内板が2枚。石碑そしてその後ろには松が。「御鷹の松」碑澁澤榮一書 時年八十又七」「此の松昔は霞乃松とて名高く徳川三代将軍放鷹のをり樹下に憩ひて鷹の名をそのまゝ遊女の松と呼ばれしが又御鷹の松とも稱するに至れり當時の古松は枯れてこれは二代目なりと云ふ元は北方五十間の地境妙寺境内に在りしを大正八年此処に移植したり 大正十五年七月 明治神宮奉賛會」「お鷹の松(おたかのまつ)大正7年(一九一八)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川三代将軍家光(一六○三〜一六五一)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある二代目の松(樹齢推定二○○年 高さ四メートル)は昭和三十九年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。 昭和五十四年十月 明治神宮外苑」」「国立競技場」からの入口にあった「聖徳記念絵画館」案内板。近代日本のあけぼの、壁画に見る幕末明治の歴史徳川幕府を改め、日本史上空前の、大改革が断行された、明治維新。西欧の諸国が300年を費やした近代化を、明治天皇を中心に、僅か40年ばかりで成しとげた、輝かしき明治の時代、世界に誇る、館内展示の80面の名画か語る日本近代化への飛曜の姿、歴史事件の数々。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.16
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2列の右側「外苑いちょう並木」の横・開催されていた「工芸職人展」の入口にあったのが、この後に訪ねた「御観兵榎について」。さらに、いちょう並木を北に向かって歩く道路の反対側の遊歩道。正面の「聖徳記念絵画館」前の大きな広場・総合球技場では「東京クリスマスマーケット2023 in 明治神宮外苑」が開催されていたが、この時間は11:00~開催の準備中であった。飲食店25店舗、雑貨店30店舗が出店し、グリューワインやドイツビール、欧風料理のほか、スイーツやエルツ地方・ザイフェン村の工房で作られた本格的なクリスマス雑貨などが楽しめる。目玉となる高さ14メートルを誇るクリスマスピラミッドは今年ももちろん健在。6段のピラミッドの各段にそれぞれ違うモチーフの木製の人形が配置され、回転するのだと。そして聖徳記念絵画館前の広場の前のT字路から「外苑いちょう並木」を振り返る。なかなか、車の映らない風景は・・・・・。「神宮軟式球場噴水」越しに、「東京クリスマスマーケット2023 in 明治神宮外苑」会場そして「聖徳記念絵画館」を見る。この後に訪ねた「聖徳記念絵画館」をズームして。「神宮軟式球場噴水」前の歩道を移動しながら「外苑いちょう並木」を様々な角度で。多くの観光客が並ぶ中、ほぼ正面から。T字路横にあった名所の案内板。後に訪ねた「国立競技場」まで380m と。反対側のいちょう並木も訪ねた。そして途中で引き返し、再びT字路から。T字路の角にあった案内板。「正徳記念絵画館近代日本のあけぼの 大壁画にみる幕末・明治の歴史徳川幕府を改め、日本史上空前の大改革・明治維新が断行され、西欧の諸国が300年を要した国家の近代化を、僅か40年ばかりで成しとげた輝かしき明治の時代。当代一流画家の筆に成る館内展示の80面の大壁画が、明治天皇を中心に、わが国近代化へと飛躍の姿・歴史事件の数々を静かに語りかけてくれます。生きた明治史の教室といえましよう。」「聖徳記念絵画館」前の大きな広場・総合球技場横の大きなカーブ進んで行った。右手にあったのが先ほどと同「御観兵榎についてこの外苑の敷地は、元陸軍の青山練兵所で、明治天皇 の親臨のもとにしばしば観兵式が行われ、なかでも明治二十三年(一八九〇)二月十一日の憲法発布観兵式や、明治三十九年(一九〇六)四月三十日の日露戦役凱旋観兵式などは、特に盛大でありました。聖徳記念絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)にその時の様子が描かれており、当時の盛儀が偲ばれます。明治天皇がご観兵される時は、いつもこの榎の西前方に御座所が設けられたので、この榎 を「御観兵榎」と命名し永く保存しておりましたが、平成七年(一九九五)九月十七日老令(樹令二百余年)の為台風十二号余波の強風により倒木しました。遺木の一部は聖徳記念絵画館内に名木「ひとつばたご」の遺木と共に保存されております。平成八年(一九九六)一月、初代御観兵榎の自然実生木(推定樹令六十年)を苑内より移植し、「二代目御観兵榎」として植え継ぎました。 平成八年一月吉日 明治神宮外苑」「初代 御観兵榎」榎 にれ科えのき属、樹齢二百余年と推定される。幹廻り、二・二メートル 高さ、九メートル 枝張り、十六メートル碑石 石材は伊豫(愛媛県)青石、天然石題字 東郷平八郎 書 明治三十八年日本海海戦においてロシアバルチック艦隊を壊滅させた、 当時の連合艦隊司令長官 東郷神社の祭神」とネットから。混雑しているイチョウ並木からちょっと入ったところにある嘘みたいに静かな公園区域に立っている一本榎。 御観兵榎という名の榎で明治天皇のゆかりのもの。しかし今植えられている榎はオリジナルではないようで2代目とのこと。東京都港区北青山1丁目7。「御観兵榎」碑。「明治天皇には明治二十年青山練兵場設置以来恒例の観兵式又は憲法発布及び凱旋観兵式を親臨あらせらし節に此の榎の下にて馬を駐めさせられた。大正十五年七月 明治神宮奉賛會」。伯爵東郷平八郎書と。近くにあった銀杏の黄葉を追う。そしてモミジの紅葉もこれでもかとカメラで追う。そしてさらに「正徳記念絵画館」方向に進む。右手にあったのが大学の「外苑キャンパス」。東京都港区北青山1丁目7−15 。「京都芸術大学東北芸術工科大学」と。「外苑キャンパス」は、京都芸術大学と姉妹校の東北芸術工科大学の東京の拠点として、2010年7月に開設された。緑豊かな明治神宮外苑の敷地の中にある延床面積3,124m²の2階建てのキャンパスでは、芸術を学ぶことができる多様な公開講座を開講する、社会人のための新型アートカレッジ「東京藝術学舎」や年間開講数約470を超える通信教育部課程のスクーリング授業などに利用されているとのこと。その先にあったのが「にこにこパーク」。神宮球場をはじめ各種スポーツ施設と四季折々の自然を満喫できる神宮外苑にある親子のための有料遊具施設。東京都港区北青山1丁目7−5。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.15
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加賀山代温泉 みどりの宿 萬松閣この日は2023年12月1日(金)、都内五反田駅近くで18時から開かれた久しぶりの元同僚との飲み会に参加。テレビでは神宮外苑のいちょう並木は真っ黄色に色づいている、とのことで、朝早くから自宅を出て向かったのであった。小田急線、千代田線、半蔵門線を利用して「青山1丁目」駅で下車。「青山1丁目」交差点に出る。国道246号・青山通りの「青山1丁目」交差点を渡る。正面にあったのが、「赤坂警察署青山一丁目交番」。 交番の横に「青山1丁目周辺案内図」。 現在地はここ!!最初の目的地の「外苑いちょう並木」まで240m と。近づいて。この先、右側に「外苑いちょう並木」。 「青山通り」の反対側のビル・「POLA青山ビル」の壁には大きな形状の物体が飛び出していた。 「ポーラ・オルビスグループの不動産会社である株式会社ピーオーリアルエステートは、2024年2月下旬竣工予定の「ポーラ青山ビルディング」敷地内に新進気鋭の現代美術作家SHIMURAbrosのアート作品を設置する運びとなりました。今の時代でこそ表現しうる現代アートをパブリックに展示することで、アート・人々・地域を繋ぐ新たな文化拠点を目指します。」 とネットから。 「時空を超えて豊かに広がる樹葉をイメージした高さ約8m、横幅4mに及ぶ作品を、青山通り側の外壁から大きく張り出すように設置し、その関連作品2点を公開空地に展開します。ポーラ青山ビルディングでは、他にもアーティストによる作品の設置やイベントの企画を予定しており、今後も情報を発信して参ります。」 とも。芸術センスのない私には、大好きな缶ビールのプルトップの如く見えたのであったが・・・。そして前方に「外苑いちょう並木」が始まる「青山2丁目」交差点が見えて来た。 前方右に黄色く色づいた「外苑いちょう並木」の姿が現れた。「国道246号・青山通り」。東京都が通称道路名として定めている青山通りは、千代田区永田町の内堀通りの三宅坂交差点から渋谷区渋谷の明治通りの渋谷駅東口交差点に至る延長5kmの往復6~8車線の道路で、道路法上は全線が国道246号になっています。青山通りの先は玉川通りになります。青山通りの都心側には最高裁判所のほか自民党本部などの政治関連の建物が多く、次いで衆参両院議長公邸や赤坂御用地があり、渋谷側は表参道や渋谷などの流行に敏感な地域を通ります。青山通りの下にメトロ半蔵門線と銀座線が通っています と。「青山2丁目」交差点。 そして「外苑いちょう並木」 。まずは「青山2丁目」交差点の横断歩道を渡りながら「外苑いちょう並木」その先に「聖徳記念絵画館」を見る。 ようやく青空も姿を現して来た。いちょうの黄葉は今が盛り!!再び横断歩道を引き返すと、左側に案内板と大きな石碑があった。大きな石碑には「明治神宮外苑之記」と。昭和54年4月いちょう並木東の植樹帯より青山口現在地に移設されたものと。「明治神宮外苑之記明治神宮奉賛會總裁元帥陸軍大将大勲位功二級載仁親王篆額明治四十五年七月明治天皇遽に不予にましまし、尋で大漸に渡らせらるヽや、上下憂懼措く所を知らず、二重橋外日夜を連ね市民の沙上に拝跪して御平癒を祈る者万を以て数ふ、其の三十日遂に崩御あらせらるヽに及び、億兆悲慟天地為に黯澹たり、八月の初め東京市民は葵藿向日の至誠を披瀝し、山陵の地を帝都に卜せられんことを内願す、其の桃山に決定せらるヽに及び、更に神宮の奉祀を懇請し、帝国議会も亦其の議を決せり、是に於て政府は神社奉祀調査会を置き、委員を挙げて審議せしめ、神宮鎮座の地を郊外代々木に相せり、大正三年四月昭憲皇太后崩御あらせらるヽに及び、合祀の事を治定あらせられ、明治神宮造営局を置き社殿を営ませ給ふ、然れども国民孺慕の心は之を以て足れりとせず、明治神宮奉賛会を興し、神宮外苑を設け、以て記念の事業を永遠に遺さんとす、事 天聴に達し畏くも御内帑金三十万円を賜ふ、天下翕然として貲を献じ、遠く海外に在る者亦争ひて之を賛く、是に於て衆議旧青山練兵場を以て外苑の地に擬定す、蓋し此の地は大帝屡観兵の式を行はせられ、彼の憲法発布の慶典及び日露戦役の凱旋に当りて其の儀特に厳粛を極めさせられたる遺躅を留め、且つ大葬に際しては亦実に葬場殿を置き給ひし所なるを以てなり、奉賛会は先つ政府より此の地の提供を受け、進みて隣接の地を購ひ合せて十五万五千坪を得たり、乃ち工事を造営局に託して、地域を修治し、林泉を布置し、葬場殿の故址は樹を植ゑて之を標す、其の前方に聖徳記念絵画館を建て、大帝並に皇太后御一代の重要なる御事蹟に関する画幀八十を館中に掲ぐ、多くは御事蹟に縁故ある縉紳若くは公私団体等の献納に係り、当代名家の手に成れるものなり、苑の東辺に憲法記念館を置く、館は原と赤坂仮皇居に在り、大帝親臨して帝国憲法及び皇室典範制定の議を重ね給ひし所にして、公爵伊藤博文に賜ひしものなり、苑の西辺に競技場・野球場・相撲場等を設く、起工以来十閲年、其の間総裁伏見宮貞愛親王殿下薨去あらせられ、閑院宮載仁親王殿下後を承けて此の事業を完くし給へり、而して国民上下洪恩の万一に報い奉らんとし、至情の溢るヽ所或は労役に服し、或は貲財を献じ、但後れんことを是れ懼れ、人をして遠く仁徳天皇の古を想見せしむるものあり、嗚呼大帝の盛徳大業は誰か仰ぎ奉らざらん、皇太后の淑範懿行は誰か慕ひ奉らざらん、今此の苑の設け一に仰慕の微意を寓せり、若し夫れ今後来りて神宮を拝するもの、内苑の崇高森厳なるには俯仰の間粛然として威霊の尊きを感じ、外苑の曠遠開豁なるには優游の中穆然として恩徳の深きを思ふものあらん、内外両苑相須ちて神域の規模是れ備はり、神人相和して国運愈隆昌なるを致すに至らん、玆に外苑工事全く唆り、之を神宮に奉献するに当り、事の顛末を略叙して後人に告ぐと云爾 大正十五年十月 明治神宮奉賛会会長正二位勲一等公爵 徳川家達撰」 そして隣に「明治神宮外苑の記」案内板。 「明治神宮外苑の記石碑の題字 「明治神宮外苑之記」 明治神宮奉会 総裁 閑院宮載仁親王殿下の篆書(てんしょ)撰文 明治神宮奉賢会 会長 徳川家達石材 東北仙台産の板岩 高・地表四メートル 幅・一、八メートル 厚・〇、三六メートル碑文の大意明治四十五年(一九一ニ)七月三十日に、明治天皇(第一ニニ代の天皇・今の天皇の高祖父)、大正三年(一九一四)四月十一日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕し、敬仰申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正九年(一九二〇)十一月一日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂け、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永くに伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中、しはしば陸軍観兵式を行わせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金をはしめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正十五年(一九ニ六)十月に、明治神宮外苑は完成しました。苑内には、天皇・皇后御ニ方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた八十枚の大壁画ガ揚げられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びしつつ、青少年の心身鍛練の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳の気漲る(みなぎる)内苑と相俟(ま)って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。外苑造成工事全く成り、奉質会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。 大正十五年十月 明治神宮奉質会 会長 徳川家達」「外苑いちょう並木」を車が少ない時に。手前には、カラーコーン(パイロン)が並んでいた。なお、カラーコーンという名称は、セフテック株式会社の登録商標であるとのこと。カラーコーンとは、道路や工事現場などに設置される円錐形(cone)の保安用品です。英語では、トラフィックコーン(traffic cone)と言う。パイロン、セーフティコーン、安全コーン、ラバーコーン、三角コーンなど、メーカーや業界によってさまざまな呼称があるのだ。道路の反対側をズームして。ここにも長文の案内板が。「銀杏並木いちょう(銀杏・公孫樹)銀杏は、現存する最も古い前世界の植物の一つです。地質学上中生ジュラ紀(一億五千万年前、巨大な恐竜が棲息していた時代)に地球上にひろく分布し、生育していた樹種です。従って、その化石の発見は極地より南北両半球、中国・日本にまで及んでおります。氷河期の到来により、多くの地方では、銀杏樹は絶滅しましたが、温暖な気候を保ち得た中国では死滅を免れ、生育を続けて現在に至っております。日本の銀杏は、この中国より渡来した樹種で、現在では街路樹・防火樹・庭木としてひろく植えられてあり、「東京都の木」ともなっております。現在では東南アジア以外ではほとんど植えられておりません。並木の総本数は一四六本(雄木四四本・雌木一〇ニ本)四並列の銀杏の大木が作り出した、世界に誇り得る銀杏並木の景観。これを通し、正面に白亜の絵画館を望む人工自然美の素晴らしさ。若葉・青葉・黄葉・裸木と四季折々の美しさ。長年にわたる管理、手入れの良さが見事な樹形を作り出しております。この、明治神宮外苑は大正十五年(一九ニ六)十月ニ十に日の創建でありますが、その苑地造成に当たり、青山通り正面からの直線主要道路は、左右歩道の両側に植樹帯を取り、銀杏樹をもって四条の並木を造成することになりました。これは、銀杏樹が、樹姿端正・樹高よろしく・緑量も豊富・気品高く・公害にも強く、威厳を保ちつつ年間を通しての来苑者に好景観を呈示し、外苑の広幅員街路の並木として最適なものとの考えによるものです。この外苑の銀杏樹か、この世に実生えたのは、造園界の泰斗・折下吉延博士(外苑造成時の庭園主任技師・昭和四十一年ハ十六歳で没)が、新宿御苑に奉職中の明治四十一年(一九〇ハ)新宿御苑在来木の、銀杏樹から銀杏を採集し、これを種子として代々木の宮内省南豊島御料地内(現在の明治神宮内苑)の苗圃に蒔いたことによります。その後、苗圃の木々はすくすくと成長し、その数一六〇〇本にもなりました。外苑造苑に当たり、この銀杏樹を採用することとなり、既に樹高六メートル内外に成長していた、これら多数の中より候補樹を選抜し、更に並木として適格になるよう、年々樹形を整えてきたものを、大正十ニ年(一九一三)に植栽したものです。直路四条の並木と、途中西折して女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木も同時に植えられております。最高ニ十四メートル・目通り周りニメートル八十センチ、最低十七メートル目通り周り一メートル八十センチのものを、樹高順に青山口より降り勾配に従って植えられております。絵画館を眺む見事な遠近法の活用です。この銀杏が、苗圃で実生えてより実に八十有余年、外苑に植栽されてより早や七十年、このように雄大に・見事な樹形を保ちつつ成長しております。銀杏樹は植生の環境、手入れが適当であれば、その成長量がいかに偉大であるかを、如実に物語っております。樹木の運命は、その立地の適不適によって決められるものでしようが、よき所で、よく育てられ、よき場所に植えられた樹木ほど幸運なものはないでしよう。同じ時期に、同し苗圃で育てられてきた、これら多くの兄弟木は、世にも希なる幸福な樹木と言えましよう。今後幾百年、これら兄弟木の銀杏は生長に生長を続けて老大成し、その偉大なる勇姿を発揮し、外苑々地と融和し、我々に見事な人工自然美を楽しませてくれることでしょう。 平成御大礼の日 之を建つ 平成二年十一月十一日 明治神宮外苑」まだやや時間が早かったので、思いの外観光客の姿は少なかった。「早起きは三文の徳(得)」とはこのこと!!「4列のいちょう並木を、守ります」。スマホでQRコードを読み込んでみてください。多くの鳩が!何を食べているのであったか?「明治神宮外苑案内図」。そして右2列の「外苑いちょう並木」の下をゆっくりと歩いて進む。しばらくは、外苑銀杏の絶景をしばしお楽しみ下さい。等身大の人形を被写体にして、大きなカメラで撮影しているオジサンがいました。私も1枚ズームで撮らせていただきました。このお顔もモザイク加工が必要なのでしょうか?こちらが旧女子学習院正門(現秩父宮ラグビー場)に至るニ条の並木。朝の陽光を浴びて黄金に輝く銀杏の葉をズームして。先端に葉の無い樹も。私の頭と同じ!!黄金のトンネルを更に進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.14
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加賀・山中温泉 すゞや今日楼この日は2023年12月18日(月)、平塚駅前での勤務会社の忘年会がありJRで平塚駅に向かう。途中、辻堂駅前で「テラスモール湘南のクリスマスイルミネーション2023」が行われていたので途中下車して訪ねたのであった。「12周年を迎えるテラスモール湘南。今年の周年祭のテーマは「12 colors of happy」湘南の青い海と蒼い空のイメージに加え、個性豊かな12人のサンタの世界を体験型のイルミネーションで表現しました。」と「Terace Mall 湘南」入口。「Terace Mall 湘南」の建物の壁には多くの入店会社の名前が。暫く待つと17:00になりイルミネーションショーが始まった。光・音楽・噴水が連動したイルミネーションショー。「テラスモール湘南のクリスマスイルミネーション2023」ポスター。2023年11月3日(金・祝)から12月25日(月)まで開催 と。期間中約20万球にのぼるライトをテラスモール湘南が装飾され、一帯が湘南の青い海と蒼い空をイメージしたブルーの光で染まるのであった。1時間に4回、音楽と光と水が融合した噴水ショーが開催されるほか、ゲートスクウェアではプロジェクションマッピングを用いたインタラクティブな展示も実施。隠れたサンタクロースを見つけながら楽しむナイトウォーク。人の動きに合わせて波紋や流れ星、雪の結晶が広がり、湘南ブルーに輝く空間へと誘われるのであった。緑から白の世界へ。木々も青く輝いて。ここにもサンタクロースが。この日の月の姿を。鍵盤を踏んで楽しむステップピアノ。色も様々に変化して。再び刻々と変わる青の世界をカメラで追いかける。エスカレーターを利用して2階ウェルカムテラスから、青の世界を見下ろす。「ユーコーラッキー 37辻堂店」もライトアップされて。めまぐるしく色の変化する幽幻の美の世界をカメラで追う。2階ウェルカムテラスの青のフェンス越しに。近づいて。「なぜ青色LEDはノーベル賞を受賞したか?日本人による革命的発明の裏側」👈リンク2014年、青色LEDの発明と実用化に貢献したとして、赤崎勇氏、天野浩氏、中村修二氏の3名がノーベル物理学賞を受賞。彼らの研究によって作られた青色LEDは、寿命が蛍光灯の4倍で、消費電力は従来の電球と比べて10分の1となっているのだ。。よって最近は大規模なイルミネーションフェスタが全国で開催されているのである。そして平塚での忘年会からの帰路、小田急線への乗り換え時に藤沢駅南口のイルミネーションも訪ねて見た。こちらは、辻堂駅前とは異なり、こじんまりとしていたが、黄金の世界が広がっていた。 ・・・END・・・
2024.01.12
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「浜松町」駅から山手線で五反田に向かうが、途中大崎駅で下車し目黒川で行われていた「目黒川みんなのイルミネーション 2023」を訪ねることとした。まず、大崎駅東口の噴水と緑の屋外広場・「O(オー)パティオ」を訪ねた。低層館2階の屋上にあたる部分に人工地盤を設け、これを取り囲むように高層館を配置。この広場には、植栽、彫刻、噴水、スペースフレーム等を設け、来街者や近隣の人々が快適に利用できる駅前広場となっていた。噴水と緑の屋外広場・「O(オー)パティオ」にもイルミネーションが。「水の器 噴水のために」の周囲にもイルミネーションが。真ん中の広場にある植栽にも。近づいて。そして目黒川に向かって階段を降りる。「鈴懸歩道橋(すずかけほどうきょう)」にもピンクのアーチが。「目黒川みんなのイルミネーション 2023」のイルミネーションMAP。目黒川の「居木橋」から「大崎橋」までの両側がイルミネーション会場。桜の木にピンク色のLEDランプが。前方の「鈴懸歩道橋(すずかけほどうきょう)」を見る。ズームして。目黒川右岸の歩道を上流に向かって進む。「鈴懸歩道橋」。イルミネーションが川面にも映り込んで。その先の「御成橋」から「鈴懸歩道橋」を振り返る。「御成橋」から下流側の「鈴懸歩道橋」そしてその先の「大崎ゲートシティー」のビル群を見る。上流側の「山本橋」方向をズームして。「めぐろがわ」。英語、中国語、韓国語でも。さらに進む。ピンクのLEDで覆われた桜の樹に近づいて。さらに。前方に「山本橋」。その先の対岸・左岸にはフェンスを覆った黄金の帯が川面にも映り込んでいた。ズームして。黄金の帯を振り返って。「品川区大崎 光の滝公園」もライトアップされて。「JR 上目黒川橋梁」下の地下道を通過。子供たちの絵画が。反対側にも。「目黒川イルミネーション 冬の桜満開」と。「ふれあいK字橋」を通過。そしてこの日の、元同僚4人の宴会場に到着。そして久しぶりの再会で大いに昔話等で盛り上がったのであった。帰路は「大崎広小路」駅から池上線で旗の台駅に向かう。「池上線」に乗り込む。「旗の台駅」で大井町線に乗り換え。そして溝の口駅で田園都市線に、中央林間駅で小田急線に乗り換えて無事、帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.11
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「吾妻山公園」を後にして、細い山道を下ると、「吾妻神社」の境内に。境内の隅にあった石碑群。庚申塔:三猿 笠付高さ:132センチメートル造立年月日:元禄4年(1691年)9月上旬銘文:「汝等前行是菩薩道」(正面種字3種)「漸々修學悉當成佛」「奉新造立庚申供養四面塔祈願」 「成就所」「相刕淘綾郡梅沢村/元禄四辛未天九月上旬」所在地:二宮町山西1117お顔のない石仏。「湯殿山講中供養」と刻まれていた。下部には奉納した12名の氏名も。こちらの石仏にもお顔がなく。廃仏毀釈の頃、仏像を壊す運動がおこった。明治初期に神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で石仏の顔を壊したのであろう。割れかけている石碑には「吾妻神社改築寄附 金参阡五百圓也」と。石鳥居の先に松の巨木が。廻り込んで。珍しい松のようであったが。「奉献 日本大相撲協會 武藏山武」と。「武藏山」👈リンクは、神奈川県横浜市港北区出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。第33代横綱。本名は横山 武(よこやま たけし)。「武藏山武(横浜日吉出身 出羽海部屋)1909年12月5日生、農家の長男として幼少期より手伝いとして牛の代わりに荷車を引き、坂道を登った。右腕の怪力自慢として出羽海親方からスカウトされる!昭和5年に吾妻神社で奉納相撲し、大鳥居を寄贈する。昭和10年第33代横綱となる。神奈川県出身で横綱になったのは武藏山1人です。以下 省略」吾妻神社の本殿に刻まれた、「彫刻家 小林直光さん」の龍の彫刻が見られると。狛狗(右)。狛狗(左)。正面に「吾妻神社(あづまじんじゃ)」の拝殿。創建は第12代景行天皇(在位西暦71 ~ 130年)の時代たと伝えられてます。言い伝えには日本武尊(やまとたける・景行天皇の第2子)が東征の途中、海路上総(千葉県)へ渡ろうとすると突如として暴風が起こリ、妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は海の神の怒りを鎮め、夫の武運を祈るため荒れる海へ身を投じるとたちまち海は穏やかになりました。その後、海辺に流れ着いた命の櫛と小袖を人々が山頂に運び埋めました。この場所が吾妻神社であり、前一帯を埋沢(うめさわ)、海岸を袖が浦と言うようになったと伝えられています。日本武尊が東北平定の帰路、相模の国から甲斐へでる途中の峠で遥か東の海を眺めながら「あずまはや(吾が妻の意)」と嘆き、亡き妻を偲んだところから命(にこと)を祀った山を吾妻山と呼ぶようになったと言います。」石鳥居を参道から見上げる。江戸時代に奉納された石灯籠(右)。石灯籠(左)。参道を拝殿に向かって進む。左手に「手水舎」。「吾妻神社 由緒記」。「吾妻神社 由緒記吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。弟橘媛命を祭神とし日本武尊を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子である。天皇にそむく蕃族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るき暴風突如に起り、命は夫にかわり海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往時を回想され「サネサシ相武ノ小野ニ燃ユル火ノ ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。その七日後に命の御櫛が海辺に 流れつき埋めて御陵を造り、この地を埋沢といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と呼んでいる。また日本武尊は東北戦 が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、「ああ吾が妻」と嘆かれたと云う。弟橘媛命の御神像は木彫の千手観音で、既に千数百星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に 安置されている。吾妻神社は「縁結びの神」として知られ例祭日は 例大祭 一月 第三日曜日 例祭 八月 十五日」拝殿に近づいて。この社殿を設計したのは「伊東忠太」氏とのこと。拝殿の唐破風下の懸魚。「本殿」を横から。祭神 橘姫命 ( たちばなひめのみこと ) 日本武尊 ( やまとたけるのみこと )「本殿」右の彫刻。この吾妻神社の彫刻は、彫刻師 小林直光 1943(昭和 18)年の作と。近づいて。「本殿」左の彫刻。近づいて。この日は拝殿内部に入ることが出来た。祭神 橘姫命 (たちばなひめのみこと)。「五七桐紋」。五七桐紋は、中心に7つ、左右に5つの花を立てた桐紋。桐紋の中で最も権威が高く、『五三桐』よりも格が高い。天皇家の家紋として知られるが、天皇家が自身で用いるより、足利氏や豊臣氏など政権を担当する家に下賜されて用いられることが多かった と。「感謝状」。祭神 日本武尊 (やまとたけるのみこと)。「十六葉菊紋」。十六葉菊紋は、16枚の花弁を持つ菊を描く。別名『十六菊』。多くは皇室や豊臣秀吉より下賜された家が用いる と。「弟橘媛命入水から七日目に(二宮海岸)現袖ケ浦海岸に漂着」。「本殿」への入口。近づいて。「弟橘媛入水の図」。「本殿正面」。「鏡」。日本は古来から「八百万の神」(やおよろずのかみ)という自然のものすべてに神が宿っているという考え方があります。人にも神が宿っておりますので、神社でのお祈り事は鏡に映る自分の神様への誓いでもあるということです。神社に参拝に行かれました時は鏡に映る姿を意識されましてお祈りして下さい。もしも鏡が見当たらなかった時は、鏡に映る自分の姿をイメージしながら神様にお祈りを致しましょう と。本殿の龍の彫刻。そして拝殿の脇障子(右)。拝殿の脇障子(左)。木鼻(右)。左はピンボケ。「拝殿」前から境内を見る。奉納と刻まれた各種石碑が並ぶ。そして石段の途中から石鳥居を見上げる。扁額「吾妻宮」は地上に安置されていた。落下したが割れなかったと。そして帰路は「梅澤口」への坂道を下る。「梅澤口」近くの右手の石段の上にあったのが「神明社」。近づいて。社殿。「庚申塚」。そしてこちらが「梅澤口」の石鳥居。そしてJR二宮駅に向かい、先輩と昼食を楽しみ、再会を約束して別れて、駐車場に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.10
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展望台の中央に、現在地を中心とした関東地方の地図が石の表面に描かれていた。吾妻山を中心に相模湾、房総半島、伊豆半島、大島等が。光る海・相模湾と菜の花のコラボ。先端には四阿が。四阿方向をズームして。銀色に光る海をズームして。「国府津」、「鴨宮」、「小田原」方面を望む。そしてその先に伊豆半島。菜の花の香りに包まれて。菜の花(ナノハナ)の花言葉は、「小さな幸せ」「快活」「競争」「希望」「明るさ」「豊かさ」「財産」「故郷」などである と。いつの間にか人の数も増えて。菜の花、桜の花、白き富士山の姿をイメージして。桜の花が咲いていれば!!と我儘にも!!この日の穏やかな相模湾を。「吾妻山公園の由来」碑。「相模路(さがむじ)の 余綾(よろき)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思(おも)はるるかも」萬葉集 巻十四(東歌)(意味: 相模(さがみ:今の神奈川県)の余綾(よろぎ)の浜の砂のように、あの娘(こ)のことが限りなく いとおしく思われる。 真砂(まなご)は、砂浜の細かな砂のこと。また、「まなご」で「愛児(まなご:最愛の児)」を イメージさせているとも考えられます。 )と。万葉の昔から 淘綾の里 二宮の美しい海浜と それを眼下に一望できる吾妻山は人々のふるさとでありましたしかし 第二次世界大戦後の激動する社会情勢の中で 山は顧みられることもなく 次第に荒廃が進んでいきました 町はこれを深く憂え 子孫に誇れる山として残したいと思い 地権者六十五名の協力と五年の歳月をかけて整備し 昭和六十二年七月十八日に吾妻山公園として開園しました現在では 健康づくりと自然とふれあう やすらぎの場として人々に喜ばれていますこの公園は 名誉町民 第十七代柳川賢二町長の尽力により完成しました。」「この碑は 公園開園五周年を記念し 柳川賢二顕彰会の有志の寄付により建立されました 平成四年十二月吉日 顕彰会会長 村 山 正 雄淘綾の濱とは ゆるぎ こゆるぎの浜ともいい二宮を中心に国府津から大磯あたりまでの白砂青松の海浜をいいます」芝生広場のほぼ中央に榎の老木が葉を総て落として。ヤドリギも確認できた。ヤドリギ(宿り木)とは、樹木の上の方に丸く鳥の巣のような形状で寄生する植物。正確には半寄生植物。簡単に言うと、「半分くらいは宿主となった樹木から水分と養分をもらうけど、残り半分くらいは自分でも光合成を頑張るよ」という植物。「エノキ 榎ニレ科 工ノキ属分布=本州~九州、朝鮮、中国実は食べられる。野鳥も好み、方々に運んでゆく。材は建築や器具などに利用する」。菜の花の先には、桜の木そしてその先に富士山。城跡の如き石垣の上の展望台をズームして。記念撮影スポット。真鶴半島その先に伊豆半島の姿が。四阿(あずまや)が前方に。四阿に向かって進む。振り返って展望台を見る。再びズームして。四阿で一休みして水分補給。西側斜面に咲く菜の花。再び富士山をズームして。「箱根」の山々を更に見る。右から、明神ヶ岳(924m)、明星ヶ岳(1169m)、神山(1438m)、駒ケ岳(1357m)、上二子山(1091m)、下二子山(1065m)。最後に、菜の花と戯れるミツバチの姿を追った。そして「芝生広場」を振り返りながら、この下にある「吾妻神社」へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.09
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この日は2024年1月6日(土)、平塚にて初仕事の打ち合わせに向かう。途中、新湘南バイパスから富士山の勇姿をカメラに。「宝永火口」の下まで積雪が広がっていた。宝永山は、宝永4年(1707)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。標高は2,693 m。そして、平塚での打ち合わせを終えて、二宮駅前の『吾妻山』👈リンク で既に開花している「菜の花」を愛でに向かう。二宮にお住まいの、卒業会社の先輩と二宮駅で待ち合わせ。二宮駅南口に車を駐め、改札口に。「二宮駅総合広報板」前にはプランターに植えられた菜の花が並んでいた。「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。2023.1.13(土)~2.18(日)まで開催されるとのこと。この日は、まだ開催前であったが、テレビのニュースでは既に満開になっていると。「にのみや guide map」。これから訪ねる「吾妻山」近辺をズームして。二宮駅北口にて先輩と合流して吾妻山入口に向かって進む。JR東海道線の二宮駅北口に降りると西側に見えるのが吾妻山です 。 二宮町は昔吾妻村と呼ばれていました。吾妻村は(明治22年町村制施行により一色村 、中里村 、 二宮村 、山西村 、川匂村の五村が合併し 、新しい村が誕生しました。 県から 「村の名前は、もともと郷名が二宮庄 、氏神が二宮明神であるから 、二宮村でよかろう」と指令があったそうです。しかし 、「二宮村に編入するようで嫌だ」という理由からか、三日三晩教義しても村名は決まらなかった そうです。その時に「村のどこからでも見える吾妻山があるから吾妻村としてはどうか」と意見が出て 、吾妻村になったそうです。今でも二宮町内の至るところから吾妻山は見えます。 「二宮町立二宮小学校」の前の急坂を上っていくと前方に「吾妻山公園」の入口が姿を現した。ここが吾妻山山頂の菜の花畑への東・役場口ルートの入口。「吾妻山公園」。「吾妻山公園 案内図」。「吾妻山公園」と書かれた木製のアーチの先にはいきなり急な石段が続いていた。最初の石段を登りきった右側には、カフェ・喫茶の「二宮町 ともしびショップ なのはな」があった。そして、途中の展望台で一休み。眼下には二宮・大磯の街並みそして相模湾が広がっていた。JR二宮駅をズームして。遠く、三浦半島にズームして。右手には江ノ島の姿が。江ノ島をズームして。灯台「江の島シーキャンドル」の姿も確認できた。この先にも「吾妻山公園案内図」。可愛らしいスイセンの花が、吾妻山公園の斜面にはいたるところで開花中であった。赤いツバキの花も。近づいて。「カンツバキ 寒椿ツバキ科:属ササンカの園芸品種 花は紅色で八重咲き」と。山の中腹には「つつじ園」が広がっていた。4月になれば。(以前に訪ねた時の写真)。道は二手に分かれていたが、「管理事務所、芝生広場」方向に進む。人の数は予想外に少なかった。白いスイセンに近づいて。右手にあったのが「浅間神社」の石鳥居。「浅間神社祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、二宮町上町地区の祭神で、土地の人には、浅間さんとして親しまれ本社は富士浅間神社です木花咲耶媛はその名のとおり、咲く花の匂うような美女で、良縁を得られたので縁結びの神様として信仰されています。今からおよそ八百年の昔、源頼朝が富士の巻狩りを催した時、曽我兄弟は父の仇、工藤祐経を討取りました。この時姉のニ宮の花月尼はその成功を富士浅間神社に祈りました。後、花月尼は大願成就に感謝の意をこめて自分の住まいのこの山上に、浅間神社をまつったと言います。」 平成十六年四月吉日 二宮町二宮・上町町内会」さらに登山道?を進んで行った。左手の「吾妻山神社」への路は未だに通行止めとなっていた。「吾妻山公園・管理事務所」入口前を左折して進む。「吾妻山公園 ローラー滑り台」。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用した「ローラー滑り台」。全長は102メートル、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下ってこの場所まで滑って来るのであった。さらに丸太で作った急な階段を上る。ここにもスイセンの花が。更に上って行くと、「吾妻山公園 ローラー滑り台」のスタート建屋が。そして「吾妻山山頂」に拡がる「芝生広場」に到着。「芝生広場」の菜の花越しに富士山の姿を。ズームして。富士山の手前に見える山は「矢倉岳(やぐらだけ)」。矢倉岳は神奈川県南足柄市にある標高870mの山である。神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある山で、金太郎伝説で知られる金時山(1,213m)の北側に位置する。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かるのだ と。吾妻山からの展望は、現代になって菜の花と富士で有名になっていますが、遠く昔江戸時代天保元年~三年頃(1830~1832年頃)、浮世絵師の葛飾北斎も描いています。それは、富嶽三十六景『相州梅澤左』です。「澤左」は、「梅澤庄」あるいは「梅澤在」の誤りとされ、ここニ宮の吾妻山(当時の梅澤はもっと広い範囲)から中村川あるいは中村湖( 1498年明和地震で消滅)、矢倉岳、士山を描いたものと言われています。富士と鶴それも鶴が七羽で、非常におめでたいと吉祥図として説明する向きが一般的なようです。なかには、水面に立っ五羽の群鶴は、実は、富士神霊の化身(依代)として描かれていて、富士神霊(水神)の降臨地を指し示しているとみる人もいます とネットから。そして右側には大山そしてその左に丹沢の山々が。展望台から見える写真の山々の名前が説明されていた。「大山」。ズームして。再び富士山をズームして。富士山の左には、箱根の山々が。丹沢の山々をズームして。写真中央に、二ノ塔、三ノ塔。案内シートに近づいて。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.01.08
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今日も恒例の「第100回東京箱根間往復大学駅伝競走」の復路の応援にバスで向かった。今大会は100回目の記念大会として開催されており、これにより通常回より参加校を3校増枠した23校により本大会を開催している。以下の数枚の写真は日本テレビ画面より。この日のスタート地点の芦ノ湖の水面上には雲海が。今朝は富士山の姿が確認できた。箱根芦ノ湖湖畔の復路スタート地点。そして8:00に青山学院大学 野村昭夢選手が6区のスタート。復路のコース案内地図。復路の6~10区の距離案内。4区は平塚中継所通過後直進して海沿いのコースを通るに対し、7区は大磯駅入口交差点通過後に陸寄りのコースを通るため、4区よりも若干距離が長くなっている。●4区(20.9km)平塚中継所→(国道1号)→(大磯)→(二宮)→(酒匂橋)→(小田原市民会館前)→小田原中継所 ●7区(21.3km)小田原中継所→(小田原市民会館前)→(二宮)→(大磯)→(国道134号)→平塚中継所2位 駒沢大学が2:38後にスタート、そして次々に時差スタート。そして8位の大東文化大学から23位までの16校が青山学院大学のスタートから10分後に一斉スタート。箱根初出場の野村昭夢(3年)が山下りの6区(箱根芦ノ湖~小田原中継所、20・8キロ)を任され、2分28秒差でスタートした駒大との差を4分17秒に広げて58分14秒で小田原中継所でタスキリレーした。2位駒沢大・帰山から41秒遅れ3位城西大がたすきリレー。総合順位は4位東洋大、5位創価大、6位国学院大、7位法政大、8位早稲田大、9位大東文化大、往路13位の中央大が10位に浮上。11位に東海大、12位に帝京大、13位に順天堂大、14位に国士舘大、15位立教大。区間個人記録6区 箱根 → 小田原(20.8キロ)。昨日と同じく、バス停「遊行寺前」で下車し、復路8区(21.4km)の15.6km地点の「遊行寺坂」に向かう。箱根駅伝のための交通規制案内板。ここは「東海道五十三次 藤澤宿」。ここが旧東海道・境川に架かる「遊行寺橋 (旧 大鋸橋)」。右手にあったのが「藤沢市ふじさわ宿交流館」。箱根駅伝に参加している各大学の幟が並んでいた。遊行寺・惣門(総門)から参道四十八段(いろは坂)。遊行寺のイチョウは黄色の葉を完全に落としていた。そして遊行寺坂のほぼ中間の日本テレビ中継用固定カメラの手前に陣取る。「遊行寺坂」に設置された日本テレビ中継用固定カメラ。「競技者係バス②」が通過。規制開始のパトカーが通過。上空にはヘリコプターが。「テレビ中継車」。時間は10:48。通過順位1位 青山学院大学 塩出翔太選手。区間記録 1:04:00 区間順位 1位。原監督の乗る伴走車。2位 駒沢大学 赤星雄斗選手。区間記録 1:04:49 区間順位 4位 3位 城西大学 小田伊織選手。区間記録 1:06:25 区間順位 17位。「テレビ中継車」。4位 東洋大学 小田伊織選手。区間記録 1:05:24 区間順位 17位。5位 法政大学 清水郁杜選手。区間記録 1:05:21 区間順位 9位。「ラジオ放送車」。6位 創価大学 小池莉希選手。区間記録 1:06:16 区間順位 15位。7位 国学院大学 鎌田匠馬選手。区間記録 1:04:58 区間順位 6位。テレビ中継用3輪バイク。8位 明治大学 綾一輝選手。区間記録 1:04:42 区間順位 2位。9位 帝京大学 島田晃希選手。区間記録 1:05:13 区間順位 8位。10位 早稲田大学 伊福陽太選手。区間記録 1:04:56 区間順位 5位。11位 中央大学 阿部陽樹選手。区間記録 1:08:54 区間順位 22位。12位 東海大学 南坂柚汰選手。区間記録 1:05:01 区間順位 7位。13位 大東文化大学 ワンジル選手。区間記録 1:09:40 区間順位 23位。14位 日本体育大学 分須尊紀選手。区間記録 1:04:40 区間順位 2位。15位 立教大学 稲塚大祐選手。区間記録 1:05:33 区間順位 11位。16位 神奈川大学 高橋銀河選手。区間記録 1:07:25 区間順位 21位。17位 国士舘大学 生田目惇選手。区間記録 1:05:48 区間順位 13位。18位 中央学院大学 黒谷優選手。区間記録 1:06:19 区間順位 16位。19位 日本大学 鈴木孔士選手。区間記録 1:06:00 区間順位 14位。20位 東京農業大学 円谷吏生選手。区間記録 1:07:17 区間順位 19位。21位 駿河台大学 岡崎樹選手。区間記録 1:05:37 区間順位 12位。22位 順天堂大学 森本喜道選手。区間記録 1:07:07 区間順位 18位。23位 山梨学院大学 新本駿選手。区間記録 1:07:17 区間順位 19位。そして全ての選手が通過し「医務車」が。そして交通規制解除(C)のパトカーが通過したのであった。遊行寺坂が難所とされる8区(21・4キロ)では、2年ぶり総合優勝を狙う青学大・塩出翔太(2年・世羅)が1時間4分0秒で区間賞を獲得した。区間新には11秒届かなかったが、区間歴代3位の好タイムだった。快走で2位・駒大との差を5分33秒に広げ、2年ぶり総合優勝へ”独走態勢”を築いたのであった。区間個人記録8区 平塚 → 戸塚(21.4キロ)。そして8区の戸塚中継点での順位は下記。1位 青山学院大学2位 駒沢大学3位 城西大学4位 東洋大学5位 国学院大学青学大・塩出は1時間4分0秒で走り抜き9区にリレー、区間賞を獲得した。2位駒大は5分33秒遅れでたすきをつなぎ、駒大から2分28秒遅れて3位城西大・小田も続いた。青山学院大のペースは9区に入っても衰えを見せない。倉本玄太(4年)は、7・7キロの権太坂で2位駒大との差を5分56秒に広げた。この地点を全体トップで通過した。3位は城西大、4位は東洋大。14・5キロの横浜駅前では、駒大との差は6分33秒に広がった。3位以下は、城西大、東洋大、国学院大、法政大、創価大、早大で変わらず。給水を受ける9区の青学大・倉本玄太。9区で、4人組音楽グループ「ケツメイシ」のリーダーでラッパーの「大蔵」こと吉田大蔵さんの息子、国学院大学・吉田蔵之介選手が出走したことがSNSで注目を集めているのだ。青山学院大の宇田川瞬矢(2年)がトップを守り大手町のゴールに飛び込んだ。選手たちは、原晋監督らを胴上げして喜びを分かち合った。2位は駒沢大で6分35秒の差がついた。3位は城西大。往路の順位を守り、チームの歴代最高順位を更新した。4位は東洋大。国学院大、法政大、早稲田大、創価大、帝京大と続きシード圏内ギリギリの10位は大東文化大。11位の東海大と12位の国士舘大はともに1分11秒差でシード権を逃した。中央大は13位。優勝候補の一角だった、中央大は、体調不良から本来の力を発揮できず、来季は、予選会から箱根路を目指すことになる。区間賞は東洋大の岸本遼太郎(2年)が獲得した10区を力走する青学大・宇田川瞬矢。大会新記録で総合優勝を決め、笑顔でゴールする青学大・宇田川瞬矢選手。大会新で2年ぶり青学大が制し選手から胴上げされる原晋監督。「第100回東京箱根間往復大学駅伝 総合順位青山学院大学が10:41:25で大会新の総合優勝。大東文化大学が総合10位でシード権を確保した。我が母校の早稲田大学も総合7位でシード権を確保。合計217・1キロを駆けた末に東海大と国士舘大は総合11時間1分52秒と同タイムで並んだが、順位は東海大が11位、国士舘大が12位となった。 大会要項では「繰り上げ出発などでフィニッシュの着順が成績順位を示さない場合において同タイムとなった大学の順位は、区間上位者の多少によるものとする」としているのだと。青山学院大学が復路優勝も果たした。往路11位と往路12位の順位決定も上記に同じ。「区間賞」は総合優勝した青山学院大学が5区間(2、3、4、8、9区)で受賞した。 ・・・もどる・・・ ・・・ゴール・・・
2024.01.03
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今日は恒例の「第100回東京箱根間往復大学駅伝競走」の応援にバスで向かった。今大会は100回目の記念大会として開催されており、これにより通常回より参加校を3校増枠した23校により本大会を開催している。8:00に大手町・読売新聞社前を23校が一斉スタート。(テレビ画面より)往路のコース案内地図。往路の1~5区の距離案内。バス停「遊行寺前」で下車し、往路3区(21.4km)の5.8km地点の「藤沢橋」手前に陣取る。遊行寺の坂を下り「藤沢橋」に向かう旧東海道を走って来るのであった。今年も去年と同様に、応援用の旗は配っていなかった。「藤沢橋」交差点直前に陣取る。そして10:24にテレビ中継車が姿を現した。「日本テレビ テレビ中継車」。1位 駒沢大学 佐藤 圭汰選手。区間記録 01:00:13 区間順位 2位駒沢大学 伴走車に乗るのは藤田 敦史監督。トライク(3輪バイク)・実況アナウンサー乗車のバイクが後を追う。2位 青山学院大学 太田 蒼生選手。区間記録 59:47 区間順位 1位青山学院大学 伴走車に乗るのは原 晋監督「報道車」が通過。上空にはヘリコプターの姿が。「ラジオ放送車」が通過。3位 創価大学山森龍暁選手。区間記録 1:04:19 区間順位 19位。創価大学伴走車に乗るのは榎木 和貴監督。4位 城西大学 キムタイ選手。区間記録 1:01:29 区間順位 3位。城西大学 伴走車に乗るのは櫛部 静二監督。5位 国学院大学 青木瑠郁選手。区間記録 1:01:56 区間順位 4位。国学院大学 伴走車に乗るのは前田 康弘監督6位 東洋大学 小林亮太選手。区間記録 1:02:03 区間順位 6位。7位 早稲田大学 辻文哉選手。区間記録 1:02:39 区間順位 7位。8位 日本大学 安藤風羽選手。区間記録 1:01:56 区間順位 4位。東洋大学 伴走車に乗るのは酒井 俊幸監督。早稲田大学 伴走車に乗るのは花田 勝彦監督。日本大学伴走車に乗るのは新 雅弘監督。「テレビ中継車 2号車」。9位 東京農業大学 長谷部慎選手。区間記録 1:06:40 区間順位 23位。東京農業大学 伴走車に乗るのは小指 徹監督。「緊急対応車-3」。10位 東海大学 鈴木天智選手。区間記録 1:03:59 区間順位 15位。東海大学伴走車に乗るのは両角 速監督。「緊急対応車 ①」。11位 帝京大学 柴戸遼太選手。区間記録 1:02:57 区間順位 9位。12位 大東文化大学 入浜輝大選手。区間記録 1:02:57 区間順位 9位。帝京大学 伴走車に乗るのは中野 孝行監督。大東文化大学 伴走車に乗るのは真名子 圭監督。13位 法政大学 野田晶斗選手。区間記録 1:04:07 区間順位 17位。法政大学 伴走車に乗るのは坪田 智夫監督。14位 山梨学院大学 高木翔瑛選手。区間記録 1:05:24 区間順位 22位。山梨学院大学 伴走車に乗るのは飯島 理彰監督。「緊急対応車 ②」15位 順天堂大学 海老沢憲伸選手。区間記録 1:03:57 区間順位 14位。順天堂大学 伴走車に乗るのは長門 俊介監督。16位 中央学院大学 伊藤秀虎選手。区間記録 1:04:42 区間順位 21位。中央学院大学 伴走車に乗るのは川崎 勇二監督。17位 中央大学 中野翔太選手。区間記録 1:04:33 区間順位 20位。中央大学 伴走車に乗るのは藤原 正和監督。18位 国士舘大学 生駒直幸選手。区間記録 1:03:45 区間順位 12位。国士舘大学 伴走車に乗るのは小川 博之監督。19位 神奈川大学 宇津野篤選手。区間記録 1:03:26 区間順位 10位。神奈川大学 伴走車に乗るのは大後 栄治監督。20位 駿河台大学 古橋希翁選手。区間記録 1:04:11 区間順位 18位。駿河台大学 伴走車に乗るのは徳本 一善監督。21位 立教大学 馬場賢人選手。区間記録 1:02:48 区間順位 8位。立教大学 伴走車に乗るのは原田 昭夫監督。22位 明治大学 杉彩文海選手。区間記録 1:03:30 区間順位 11位。明治大学 伴走車に乗るのは山本 豪監督。23位 日本体育大学 漆畑徳輝選手。区間記録 1:03:45 区間順位 12位。日本体育大学 伴走車に乗るのは玉城 良二監督。「医務車」。そして最終車両のパトカーが通過。そして3区の平塚中継所での順位は下記。1位 青山学院大学2位 駒沢大学3位 城西大学4位 日本大学5位 東洋大学以下の写真は日本テレビの放送画面及び読売新聞のネット写真から。22秒差の2位でたすきを受けた青山学院大・太田蒼生(3年)は力強い足取りで前を追うと、7・7km、とうとう駒大・佐藤に追いつき、背後にぴたりとついた。湘南海岸を並走し18・2キロ、青山学院大・太田がピードアップ、佐藤を徐々に引き離し始めた。そして青山学院大・太田がトップで4区に引き継ぐ。駒沢大・佐藤は4秒遅れの2位。3位は城西大で首位から2分39秒差。4位に日本大、5位に東洋大、6位に国学院大、7位に早稲田大。8位創価大、9位帝京大、10位は東海大。11位に大東文化大、12位に法政大、13位順天堂大、14位山梨学院大、15位国士館大、16位神奈川大、17位東京農業大、18位立教大。中央大は19位。4区の青学大・佐藤一世(右)選手にたすきをつなぐ3区の太田蒼生選手。3区の成績一覧。そして4区で青山学院大学・佐藤一世選手がリードを広げる。青山学院大学・佐藤一世選手が5区若林宏樹(3年)に笑顔でリレー。2位駒沢大とのタイム差を最終的に1分27秒とした。そして青山学院大・若林は最後の力を振り絞る。そのまま歓喜のゴールへ飛び込んだ。青山学院大は2年ぶりの往路優勝。タイムは新記録となる5時間18分13秒。2分38秒差で駒沢大が2位。往路結果(1~5位)。全順位。なぜか?総合タイムに1秒の違いがあるのだが!?上記が正しいようである。往路成績・1位との時間差。箱根の山登り・5区の区間順位。城西大学・山本唯翔選手 1:09:15、青山学院大学 若林宏樹選手 1:09:33 で区間新記録。こちらも正式記録はマイナス1秒のようである。1~5区の各区間賞。青山学院大学が2、3、4区で区間賞を獲得。往路優勝の青山学院大学の優勝セレモニー。5:18:14で区間新記録で往路優勝。そして4区の給水の場面で、中央学院大の黒岩勇禅(2年)が、父・弘樹さんからドリンクを受け取る様子が話題となっっているとのこと。
2024.01.02
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「初日の出」を「片瀬東浜海岸」で迎えた後は、国道134号に出て、境川に架かる「片瀬橋」を渡り、片瀬西浜海岸に向かう。「片瀬橋」から「江の島」を見る。「片瀬港」その先に伊豆半島が見えた。「片瀬橋」を渡り、立ち並ぶ椰子の木越しに「初日」を見る。移動して。「片瀬漁港」の入口から、「海の詩」像越しに江の島を見る。「片瀬漁港」の先に「江の島シーキャンドル」。「片瀬漁港鮮魚直売所」と「片瀬港」と「江の島」。そして片瀬西浜海岸からの元旦の富士山の勇姿。ジワジワとズームして。山頂までズームして。こちらは箱根の山々。左に「二子山」。左:上二子山1,099m、南側が下二子山1,065m。左「駒ケ岳」・1,356mと「神山」・1,438 m。富士山の反対側の丹沢連山。「大山」・ 1,252 mをズームして。写真左の富士山の裾野の先に見えたのが「金時山」・1,213 mその左が「明神ヶ岳」・ 1,169 m。そして富士山の手前のコンモリとした山が「矢倉岳」・870 m。相模湾の先、平塚、小田原方面を望む。「片瀬西浜海岸」その先の「辻堂海岸」を見る。再び「更待月」に似た月をズームして。「片瀬漁港」の「東プロムナード」と先端の「赤灯台」を見る。「江ノ島シーキャンドル」。展望台には人の姿はなし。富士山を中心に相模湾をパノラマ撮影してみました。そして国道134号交差点を渡り、帰路に。「小田急 片瀬江ノ島駅」改札入口にも正月飾りが。「片瀬江ノ島駅」の「クラゲ水槽」。「アカクラゲ」であろうか?そして小田急線を乗り継いで地元の駅に到着。駐輪所の愛車で地元の神社に初詣に向かう。自転車で5分ほどで到着。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5。「亀井神社」の参道を歩く。新たに平成五年六月に建った「御由緒」碑。「不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかくつち、火の神様)。當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。」社務所。石段の途中にイチョウの樹が。石段の上には日の丸が。右手に手水舎。そして社殿。内陣を見る。扁額「亀井神社」。江の島海岸での「初日の出」、「元旦の白き富士山」の光景を楽しんだ後は、地元の駅まで戻り、地元の神社の初詣に妻と向かう。自転車で5分ほどで到着。神社の名は「亀井神社」。この隣にあるのが、我が母校・六会小学校。所在地:藤沢市亀井野553−5鳥居を潜り「亀井神社」の境内へ。新たに平成五年六月に建った「御由緒」碑。「不動ヶ岡の先住民族は此の地に定住すると農地の開拓にのりだした。そして彼等の中には信仰心の厚い者もいた、即ち不動の森を霊山ときめ法華の教を信じた。當時の信仰「の流れとして経文一文字を一石に書き塚を作る之が経塚であり水に因んで不動明王を祭り不動堂を作った。それが不動様の初めである。天正十八年(一五九〇年)明治のはじめ日本は神国なりと時の政府は各村落に社を作り神を崇拝するように命じた。私達のお不動様も亀井神社と名を改め村の鎮守社となる。祭神 天軻句突知命(あめのかくつち、火の神様)。當社は源義経四天王亀井六郎の祈願せし所にして天正十八年堂宇建立 宝永年中岡部和泉守崇敬厚く社殿を改築せりと傳う。大正十二年大震災により社殿鳥居等崩壊せしを後日氏子中にて再建す。」「社務所」。「お焚き上げ場」に昨年の「破魔矢」を納めた。「亀井神社」の「拝殿」に向かう。「手水場」。扁額「亀井神社」。扁額にある「亀」の異字体。「亀」の字の成り立ちは「かめ」の象形文字から と。下の中央の文字が似ているが、ネットからは上の写真と全く同じものは見つからなかった。「拝殿」前から境内を見下ろす。「関東大震災 伝承の碑」。拝殿脇には「身代わり不動尊社」。こちらの蟇股の彫刻も見事。扁額「不動明王」。「不動明王」と「地蔵さま」。「拝殿」横から境内を見下ろす。そして今年も「社務所」で「破魔矢」を購入し「亀井神社」を後にし、もう一つの地元神社にも初詣に向かう。「地神社」案内板。正面に「石鳥居」そしてその先に「狛犬」、「社殿」が。所在地:藤沢市亀井野2丁目36−4。石鳥居を潜ると狛狗が。「地之神」碑。その隣に明和2年(1765)銘の「山之神」と刻まれた碑。「山之神」の祭神は大山津見神(おおやまつみのかみ)。平成4年に新築整備された。明治の神社統合令で、亀井野南部山之神地区にあった「山神社」が、その場所に「鶴嶋天神社」が祀られた時、この地に移されて地神と合祀されたのだと。山之神社石廟と秋葉権現社石廟も祀られていた。質素な石灯籠と手水場。比較的新しい狛犬の先に「社殿」。創建年代は不明となるが、寛政年間(1789年〜1800年)には、岡部庄九郎知行の内にて、山林安全、五穀成就を祈願したという。文政9年(1826年)には再建され、さらに安政年間(1854~60)、当地を知行していた旗本・岡部庄九郎が当社で山林安全、五穀成就を祈願しているとのこと。大正12年(1923年)9月1日関東大震災により社殿が倒潰し、大正15年(1926年)9月に再建されたとのこと。御祭神は「埴山比売神(はにやまひめ)」、田畑、土壌の神様であると。例祭は9月20日。「神明造り」の「地神社」、屋根の部分の「千木(ちぎ)」が、直角となった造りとなっていることが特徴。屋根の両端で交叉させた部材「千木」、屋根の上に棟に直角になるように何本か平行して並べた部材「鰹木(かつおぎ)」が確認できた。扁額「地神社」。そして亀井神社で購入した破魔矢。絵馬には雲の上の龍の姿が。我が家の神棚にお供えしました。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.01.01
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皆さん 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。2024年(令和6年)のスタートです。そして今年も市内湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出を愛でに行って来ました。自転車を利用し地元の駅まで。6:05発の小田急線に乗る予定でしたが、前の電車が遅れていたのであった。そして小田急線・藤沢行きに乗車。藤沢駅で片瀬江ノ島行きに乗り換え、片瀬江ノ島駅に到着。竜宮城の如き片瀬江ノ島駅。片瀬東浜には既に多くの人が砂浜に。三浦半島方向の東の空もオレンジ色に染まっていた。江の島を見る。湘南港灯台の下にも多くの人の姿が。江の島シーキャンドルをズームして。月の姿を。赤く染まった三浦半島の上空。三浦半島の先端方向には筋状の雲が。例年はサーファー・ウインドサーファー等の姿が多いのだが、今年は僅か数人のみ。今年は禁止されているのであろうか?山の端の上の雲も白く輝き、刻々とその姿を変えて行った。二つの白く輝く雲の右側の山の端が白く輝き始めた。山の端をズームして。そして2024年の「初日の出」。時間は6:55。見る見る家うちに、円形の太陽の姿が大きくなってきた。相模湾の水面も赤く染まり出して。そしてオレンジの帯が水面に現れ始めた。半分姿を表した初日。オレンジ色の帯も輝きを増して。説明は不要な景色・空間であった。そして初日が完全に姿を現した。赤く染まった水面をズームして。スマホで初日を追う多くの人の姿を。海に入る若者も。「江の島シーキャンドル」にも朝の陽光が射し込んで。手を合わせたくなる神秘的な光景そして時間が続いたのであった。砂浜にスマホをセットして赤い水面をリモート撮影する方も。国道134号沿いの高層マンションのベランダをズームして ・・・つづく・・・
2024.01.01
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今日は2023年の大晦日、今年1年を振り返ってみたいと。前半部分のキャプション・写真等はネットから転載させていただきました。読売新聞の2023年十大ニュースは下記のごとし。[ネットから]【1位】WBC14年ぶり優勝…最強侍 列島沸く野球の国・地域別対抗戦「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)で、栗山英樹監督率いる日本代表「侍ジャパン」が3月21日の決勝で前回覇者の米国を3―2で破り、2009年以来14年ぶり3度目の優勝を果たした。日本は、大谷翔平選手、ダルビッシュ有選手、ラーズ・ヌートバー選手ら大リーガーと村上宗隆選手(ヤクルト)、岡本和真選手(巨人)らプロ野球トップ選手の混成チームで臨み、「歴代最強」との声も上がった。1次ラウンドを4戦全勝し、グループ首位で突破すると、準々決勝でイタリアに快勝。準決勝のメキシコ戦は逆転サヨナラ勝ちし、決勝へ進出した。決勝では、米国に1点を先取されたものの村上選手の本塁打などで勝ち越し、岡本選手も本塁打で追加点を挙げた。1点差に追い上げられた九回は、3番指名打者で出場していた大谷選手が登板。最後はエンゼルスで同僚のマイク・トラウト選手との対決を空振り三振で締めくくった。大会の観客動員数は、日本や中南米の盛り上がりが全体に波及し、130万人を超えて過去最高を更新。大谷選手は大会の最優秀選手(MVP)に選ばれた。【2位】大谷メジャー本塁打王米大リーグ・エンゼルスの大谷翔平選手が10月1日、44本塁打で日本人初の本塁打王となった。右肘を痛めた影響などで9月3日を最後に欠場したが、2位に5本差でトップを守った。投手としても10勝を挙げ、史上初の2年連続「2桁勝利、2桁本塁打」を達成した。11月16日には、史上初となる2度目の「満票」でアメリカン・リーグ最優秀選手(MVP)に選出。2021年に続き、投票権を持つ全米野球記者協会の記者30人全員が1位票を投じた。今季終了後にフリーエージェントとなり、去就が注目されたが、12月9日にロサンゼルスを本拠地とする強豪ドジャースへの移籍を発表。総額7億ドル(約1015億円)の10年契約は、スポーツ史上最高額とされる。大谷選手は入団記者会見で「優勝を目指し、欠かせなかったと言われる存在になりたい」と決意を述べた。来季は打者に専念する。【3位】ジャニーズ性加害問題ジャニー喜多川氏による性加害問題で、ジャニーズ事務所が9月7日、記者会見を開き、性加害の事実を認めて謝罪した。男性や子ども・若者への性暴力が注目され、芸能界のハラスメントやメディアの対応にも厳しい目が向けられるなど、大きな社会問題となった。藤島ジュリー景子社長は引責辞任し、新社長に東山紀之氏が就任。10月には同事務所が被害者への補償に専念し、完了後に廃業するとして、社名も「SMILE―UP.(スマイルアップ)」に変更した。所属タレントは来年4月に全面稼働する新会社で受け入れる。この問題を巡っては、英BBCが3月、喜多川氏の性加害を告発する番組を放送。翌月、事務所に所属していた歌手のカウアン・オカモトさんが記者会見で被害を公表し、一連の事態が取り上げられるきっかけとなった。また、大手企業が所属タレントのCM起用を見送る動きも広がった。【4位】藤井竜王史上初八冠将棋の王座戦五番勝負の第4局が10月11日、京都市で行われ、挑戦者の藤井聡太竜王(名人、王位、叡王、棋王、王将、棋聖)が永瀬拓矢王座に勝ってシリーズ3勝1敗で王座を奪取し、21歳2か月で史上初の八冠独占を成し遂げた。一夜明けた記者会見では「(八冠になっても)盤を挟めば立場の違いは全くない。これまでと同じ気持ちで臨む」と穏やかに語った。11月11日には、最高棋戦の竜王戦七番勝負を制して八冠初防衛を果たした。出場したタイトル戦で19連覇しており、大山康晴十五世名人の持つタイトル連続獲得の最多記録(19期)に並んだ。来年の記録更新に期待がかかる。【5位】阪神38年ぶり日本一プロ野球の「SMBC日本シリーズ2023」で、阪神タイガースが11月5日に行われたオリックス・バファローズとの第7戦に勝利し、38年ぶり2度目の日本一に輝いた。18年ぶりにセ・リーグ優勝を果たした阪神とパ・リーグ3連覇を飾ったオリックスの対戦は、1964年以来、59年ぶりに関西に本拠地を置く球団同士の顔合わせとなったことから、「関西決戦」としても注目を集めた。岡田彰布監督はシーズン中に選手が意識しすぎないようにするため、リーグ優勝のことを「アレ」と表現し、流行語となった。【6位】闇バイト「ルフィ」逮捕各地で相次いだ指示役「ルフィ」らによる強盗事件を巡り、警視庁は2月7~9日、フィリピンから強制送還された渡辺優樹、今村 磨人きよと の両容疑者ら男4人を逮捕した。4人はフィリピンを拠点とした特殊詐欺グループの幹部で、SNSの「闇バイト」で実行役を集め、強盗を指示していたとみられる。警視庁は、昨年5月以降発生した5都府県の8事件を一連の強盗事件として捜査。12月までにすべての事件で指示役を立件した。【7位】新型コロナ「5類」移行新型コロナウイルス感染症の感染症法上の分類が5月8日、季節性インフルエンザと同じ「5類」に引き下げられた。3年余り続いたコロナ対策は、平時の体制に切り替わった。「マスク着用」「3密回避」など、これまでの暮らしを一変させたコロナ禍は、区切りを迎えた。感染者の全数把握も終了。読売新聞の集計では、5類移行までに国内で累計約3383万人が感染し、約7万人が死亡した。【8位】ビッグモーター不正請求中古車販売大手ビッグモーターで、従業員が車体を傷つけて修理範囲を広げるなどして、自動車保険の保険金を不正請求していたことが発覚。創業者の兼重宏行社長は7月25日、引責辞任を表明した。その後、損害保険ジャパンの白川儀一社長も不正の可能性を認識しながら、ビッグモーターとの取引を再開したとして辞任を表明。金融庁は11月、ビッグモーターに対し、損害保険代理店の登録を取り消す行政処分を出した。【9位】夏の平均気温過去最高気象庁は9月1日、今年の夏(6~8月)の日本の平均気温が、1898年の統計開始以降で最も高かったと発表した。最高気温が35度以上の「猛暑日」の日数は全国38地点で最多となった。熱中症によるとみられる死者も相次いだ。猛暑は農作物にも影響を与え、不作により野菜などの価格が高騰した。夏を過ぎても暑さは続き、今秋(9~11月)の平均気温も統計開始以降、最高を記録した。【10位】処理水放出開始福島第一原子力発電所の廃炉に向け、東京電力は8月24日、同原発の処理水の海洋放出を開始した。放出期間は30年程度に及ぶ見通しだ。反発する中国は科学的根拠を無視して日本産水産物の輸入を停止。中国向けに魚介類を輸出していた水産業者らが打撃を受けた。海洋放出を巡っては、中国発とみられる偽情報がインターネットで広まり、日本への迷惑電話も多発した。11位以下は次の通りと。11位 広島でG7サミット開催 9,057(35.8%)12位 各地でクマ被害、死傷者過去最多 6,588(26.0%)13位 日大アメフト部員、違法薬物で逮捕 6,318(25.0%)14位 歌舞伎俳優の市川猿之助容疑者を逮捕 5,867(23.2%)15位 ガソリン価格過去最高、物価高続く 5,035(19.9%)16位 岸田首相演説会場に爆発物投げ込み 4,740(18.7%)17位 夏の甲子園で慶応107年ぶり優勝 4,711(18.6%)18位 生成AI急速に普及。著作権侵害など弊害に懸念も 4,431(17.5%)19位 旧統一教会の解散命令請求 3,983(15.7%)20位 マイナカードでトラブル相次ぐ 3,965(15.7%)21位 五輪で談合、組織委元次長ら逮捕 3,804(15.0%)22位 音楽家の坂本龍一さん死去 3,093(12.2%)22位 株33年ぶり3万3000円超 3,093(12.2%)24位 宝塚が劇団員死亡で報告書 2,780(11.0%)25位 車いすテニス国枝さんに国民栄誉賞 2,726(10.8%)26位 岸田首相、ウクライナを電撃訪問 2,697(10.7%)27位 ネットで脅迫、ガーシー前参院議員逮捕 2,691(10.6%)28位 日韓首脳会談、関係正常化で一致 2,515(9.9%)29位 消費税のインボイス制度開始 2,054(8.1%)30位 LGBT法成立 2,042(8.1%)【その他】 2023年「今年の漢字」は「税」2023年の世相を表す「今年の漢字」に「税」が選ばれ、世界遺産・清水寺(京都市東山区)で12日、森清範(せいはん)貫主(かんす)が揮毫(きごう)した。「税」が選ばれるのは、消費税率が17年ぶりに引き上げられた2014年以来、2度目。公益財団法人「日本漢字能力検定協会」が毎年公募し、今年で29回目。応募総数14万7878票のうち、「税」が最多の5976票を集めた。増税や減税を巡る議論が活発化し、動向が注目されたのが主な理由で、森貫主は「国民の皆さんがシビアに税の行方を見ていると感じた」と語った。2位は「暑」、3位は「戦」。4位はプロ野球・阪神タイガースの日本一を受けて「虎」だった。私には予想外の「税」でしたが、皆さんはいかがだったでしょうか?個人的には順不同であるが★一度も寝込むことなく健康な1年であった。昨年8月には、【耳下腺腫瘍】の切除手術で8日間の市民病院での入院、その後12月末にも【大腸ポリープ】の切除手術で1泊2日の入院であったが、その後も順調に回復し、1年点検でも両方とも問題はないとの診断結果であった。そして今年の徒歩による散策そしてブログアップを振り返って見た。★1月湘南海岸・片瀬東浜からの初日の出👈リンク元旦の富士山。今年も春を迎えに二宮・吾妻山へ👈リンク★2月熱海・糸川桜へ👈リンク伊豆半島・河津桜を楽しむ👈リンク★3月小栗伝説の残る六会を巡る👈リンク白旗神社へ藤の花を愛でに👈リンク★4月富士芝桜まつり👈リンク甲斐・信州日帰りの旅へ👈リンク★5月江の島に続く砂の道「トンボロ」を歩く👈リンク丸の内ストリートギャラリー👈リンク★6月栃木県・足利市を訪ねる👈リンク富士山周辺を訪ねる👈リンク★7月埼玉・行田を巡る👈リンク茅ヶ崎・浜降祭へ👈リンク★8月佐倉花火フェスタ 2023👈リンク藤沢・花応院へ👈リンク★9月日の入りのダイヤモンド富士を追って👈リンク座間市ひまわりまつり👈リンク★10月隅田川・屋形船の旅👈リンク神楽坂の坂道&横丁ウォーク👈リンク★11月江の島・湘南シーキャンドル2023👈リンク龍口寺・第13回 瀧の口竹灯籠👈リンク★12月箱根~河口湖への紅葉巡り👈リンク藤沢地名の会👈リンクそして日常生活では★7回目のワクチン接種2023年春から続いていたワクチン接種は、高齢者や重症化リスクが高い人などが対象でしたが、9月20日からは生後6カ月以上の全ての人が対象となった。コロナの感染症法上の扱いは2類から5類になったが、「特例臨時接種」として費用は無料。ただし、期間は2024年3月末までで、最後の無料接種になる可能性も。ワクチンの種類は、オミクロン株の派生型「XBB1.5」に対応するものに変更された。冷凍庫で保管していたこれまでのワクチンは廃棄となり、流行するウイルスに合わせた新しいものに切り替わったのであった。★人口36,000人以上の自治会連合会の役員として、今年も参加今年は4年ぶりの制限なしの【ふるさと祭り】、【イルミネーション2023】開催。【ふるさと祭り】【イルミネーション2023】★今年も都内・市内の秋の紅葉を楽しむ。「等々力渓谷」「等々力不動尊」「浄真寺」「傳乗寺」藤沢・「天嶽院」★我がブログも今年も皆勤にて700万回アクセスを通過。 去る12月25日(月)朝に、我がブログアクセス数も700万回を超えました。 そして今年も365日、毎日アップすることが出来ました。 皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。 そして今日・大晦日2023.12.31の13:00過ぎのカウンターは『7013950』を示していました。 これからも毎日の出来事を 『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを 「毎日」書き続けて行きたいと思っています。 文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、 我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』 『学びのツール』そして「備忘録」として日々のブログを書き続けて行きたいと 思っているのです。そして二人暮らしの我が家の重大ニュースは唯一つ①今年の私達夫婦は自宅で風邪や発熱等で寝込むことも全くなく、大晦日の今日の日を 迎えられた事に感謝。 妻は今年もパートの仕事を皆勤、毎週末は趣味を楽しむために、横浜に張り切って行く 日々であった。そして半世紀以上の長年の仕事も11月で卒業したのであった。 独立している子供たち家族も元気に越年、来年も1月7日に長男、長女家族が我が家に来ると。 久しぶりの家族【全員集合】なのである。そして我が家の正月飾りの準備も昨日に完了しました。門松は12月28日までに飾るか、12月30日に飾るのが良いとされています。その理由は、 29日に飾るのは語呂合わせで「29(二重苦)」に通じ縁起があまりよくないとされているからです。また、12月31日に飾るのは「一日飾り」といい、一日前にぎりぎりで飾ると、神聖な気持ちでゆっくりと正月を迎えられないので、その日には飾らないことにするのだと、半世紀以上前に亡き父より。鏡餅は今年も2個購入し組み立てました。神棚。全てを下し濡れタオルで1年の埃を落としました。そして牛蒡注連も新たに購入し奉納しました。橙(だいだい)、裏白(うらじろ)、ゆずり葉のセットも。裏白は長寿、ゆずり葉は子孫の繁栄、橙は家系の繁栄を願ったもの。「心の潔白さ」と「白髪になるまで長生きする」は毎年ソっと裏に隠して飾っています。床の間に。玄関のしめ飾り。今年もシンプルなものに。そして門飾り。松と輪飾りを。短かかった?2023年、大晦日の「年越しそば」と「除夜の鐘」に、世界の平和が確実に実感できる新たな年2024年へ!! との願いを込めて。本日も我がブログへのアクセスありがとうございます。アクセスいただいた皆様も元気に良き新年をお迎えください。そして来年も我がブログをご笑覧いただきたくよろしくお願い申し上げます。そして2024年へのカウントダウン。2024年まで残り9時間。そして元旦は初日の出を見にと!! 2023年 完了
2023.12.31
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「河口湖もみじ回廊」の先にあったのが「一竹美術館」。染色工芸家久保田一竹の作品を集めた美術館。富士山の荘厳な景色を望む庭や茶房も併設。久保田一竹は、室町時代に途絶えてしまった着物の染色技法、「辻が花」の再現に成功した人物。彼は再現に成功した後にさらに研究を重ね、独自の染色技法である「一竹辻が花」を完成させた と。「美術館正門」に向かって進む。インドの古城で使われていた木彫りの扉を再利用した「美術館正門」であると。撮影場所を移動して。正面入り口の扉は古い時代のインドの城門を移築したもの と。扉は分厚く、表面には鉄の突起が埋めてある。侵入者を許さないという意思のデザインなのだ と。正門を囲い込む様にあったモニュメント。モニュメント越しに館内の紅葉を見る。正門前から振り返って。小高い場所には小さい滝の姿が。小滝をズームして。移動して。更にズーム。更に、更に。「茶房 一竹庵」案内板。龍門の滝を見ながら、お抹茶、上生菓子が楽しめると。床には琉球石灰岩(サンゴ等の堆積岩)を敷き詰め、壁はその石灰岩の粉を使用した沖縄漆喰を施し、温かみのある空間を創っている。久保田一竹がインド、アフリカ、東南アジアより集めたインテリアを配し、様々な文化が渾然一体となったその室内は、悠然とした空間を演出しているとのこと。正門を入る。右手に新館、左奥に本館が現れた。新館は、外壁に砕いたサンゴとわらを混ぜて発酵させた沖縄漆喰(しっくい)を使った斬新なデザインの建物。屋根の上には緑がおい茂っていて、自然と調和した独特な美しさが感じられるのであった。そしてなんとなくスペインのガウディの建築を思わせる建物であったが・・・。本館は樹齢千年を超すヒバの木を16本大黒柱として使い、伝統的な職人の技と現代的なログハウス工法を融合して造られたピラミッド型の建物。吹き抜け状の内部からは、複雑な構造の木組みがすべて見えるのだと。本館に近づいて。この円形のモニュメントは?今回は「久保田一竹美術館」内の鑑賞はパスして戻る。「一竹辻が花」の作品をネットから。そして再び「河口湖もみじ回廊」を楽しみながら引き返す。夜にライトアップされると(ネットより転載)。そして「河口湖もみじ祭り」会場本部の公園軽食ブース会場に向かう。メイン会場周辺案内。多くの観光客が英語、台湾語そして日本語で語り合いながら、軽食を楽しんでいた。我々も広島焼きを楽しんだのであった。そして富士山の姿も楽しむ。左側の「河口湖もみじ回廊」を振り返る。そして駐車場に戻り、再び美しい裾野の曲線美を有する富士山の姿を。富士山はその独特の美しさで知られ、その姿はまさに自然の造形美の極み。その裾野から頂上にかけての曲線美は、まるで大自然が織りなす完璧な美のシンフォニー。優美な曲線が富士山の麓から頂上まで広がり、その流れるような形はまるで大地の息づきを感じさせるのであった。日の光や季節の移り変わりによって、富士山の姿は時に神秘的でありながら、常にその完璧な曲線美を誇示しているのだ。その優雅な姿は、まるで自然界の至宝であり、一度目に焼き付けたら忘れられない魅力を持っている日本の象徴の山なのであった。そしてこの日の全ての予定を終え「河口湖もみじ回廊」を後にして帰路につく。助手席のIさんが、富士山を我がカメラで追いかけてくれました。そして箱根を経由して進む。Iさんを箱根湯本駅で別れ、西湘バイパス経由で帰路についたのであった。自宅近くから富士山をズームして。晩秋を赤や黄色に彩る紅葉は、愛でる私の心を魅了したのであった。諸説あるようだは「もみじ」という単語は、「揉み出づ」から生まれた動詞「もみづ」に由来するともいわれているのだ。平安時代にはベニバナなどから染料を揉み出す行為を「もみづ」と呼んでいたとも。この言葉から派生した名詞の「もみぢ」は、イロハモミジなどの植物を示すわけでなく、染料が染み出すように草木が色づくこと自体を表わしているのだと。一般的に植物のもみじはムクロジ科カエデ属の総称で、イロハモミジの他にもオオモミジやヤマモミジなど日本には多くの種類がある。そのため、紅葉が重層的な色彩美を持ち、特に美しいとされているのだ。日本の紅葉・黄葉は日本にしかない紅と黃のBEST-MIXなのである。四季の中でもこの秋は豊かな色の変化から情緒を感じさせる季節。昔の人々も紅葉した葉を見て秋の深まりを感じ、この時期にしか味わえない日本の自然に触れていたのである。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.12.27
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我がブログも、昨日8:40過ぎにアクセス回数が700万回を通過いたしました。皆様の日々のアクセスに感謝申し上げます。600万回通過(2022.10.18)から434日目になります。600万回通過時と同様ですが、これからも毎日の出来事を『つれづれなるままに、日くらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』 の精神で、あくまでも「備忘録」を主眼として、「継続は力なり」の精神でこのブログを書き続けて行きたいと思っています。文章の表現力も乏しく、誤変換や、内容を理解しにくい表現箇所も多々あると思いますが、我が儘にもあまり「読んで頂く」事を意識せず、あくまでも『自分を表現するツール』、『自分の学びのツール』として日々のブログを書き続けて行きたいと思っているのです。本日の我がブログへのアクセスありがとうございます。------------------------------------------------------------------------------------------------------そしてこの日の最後に訪ねたのが「紅葉まつり」が行われている「河口湖もみじ回廊」。河口湖湖畔の「KBH河口湖ボートハウス」近くの駐車場に車を駐め、散策開始。河口湖越しに富士山を見る。 山梨県南都留郡富士河口湖町河口。ズームして。そして手前にあった「山梨県道21号線・河口湖精進線」を渡ると右手に見えたのが「河口湖もみじ祭り」の会場本部。「第25回富士河口湖 紅葉まつり(2023年10月28日~11月23日)」開催中であった。メイン会場周辺案内。そして「もみじ回廊」に向かって進む。「もみじ回廊」河口湖を囲む山々の木々が美しい紅色に染まる秋の恒例イベント、富士河口湖紅葉まつり。メイン会場となる「もみじ回廊」は、梨川沿いに350m続く100本の巨木モミジが見事。また、夜はライトアップされた幻想的な紅葉と富士山の絶景を楽しむことができるとのこと。梨川沿いには、両側に散策路が設けられていた。梨川には水の流れはなく、役目を終えた落ち葉が一面に。写真撮影のスポットとして有名な「紅葉トンネル」。しばらくはキャプションなしで「もみじ回廊」をお楽しみ下さい。そして前方に「梁川橋」が見えて来た。河口湖にそそぐ梨川は大正時代に河川の氾濫を防ぐ目的で住民がモミジを植えたことに始まり、現在では2キロメートルを越える長さでもみじを楽しめる「もみじ回廊」として親しまれている。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.26
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「新倉山浅間公園 忠霊塔」にも多くの外国人観光客が。鉄筋コンクリート造で、1962年に完成した高さ19.5メートルの五重塔。戦争で死亡した市内出身者1055柱を合祀するために建てられた。毎年9月に戦没者慰霊祭が行われていると。「忠霊塔の由来Ⅰ 忠霊塔の概要 1 正式名称 富士吉田市戦没者慰霊塔(俗称:忠霊塔) 2 所在地 富士吉田市新倉3360番地の1 市立新倉山浅間公園内 3 構造等 ①鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建 大阪四天王寺の五重塔を模している ②大きさ 基礎部分7.3m四方 1階床面積4坪(13㎡) ③高さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m) ④総工費 9,368,884円 (工事費9,210,767円 事務費158,117円)忠霊塔建立の経緯富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)は、明治(1868年)以降の日本国として参戦した戦役(日清、日露、第一次世界大戦及び太平洋戦争)において戦没した市内出身者960余柱(現在1055柱)を合祀するため、市の援護会が中心となり、昭和33年8月12日に富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設けられた。委員会は、その建設資金を旧下吉田町在郷軍人林を恩賜林組合に売却した300万円を基礎資金として、その他不足する部分を広く市民の浄財に寄り、昭和34年4月起工し3年間の工事期間を経て昭和37年4月に完成し現在に至る。平成26年7月 富士吉田市慰霊塔奉賛会 富士吉田市遺族会」「新倉山浅間公園周辺案内図」。右手の「富士吉田市」市街を見下ろす。道志山塊の山々・杓子山(1598m)・高座山(1304m)の姿か。そして再び「新倉山浅間公園 忠霊塔」横から富士山を。ズームして。「この展望デッキは、全国の皆さまからいただいたふるさと納税寄附により整備されました。令和2年度「新倉山浅間公園の展望デッキを増設し、多くの皆さんに日本唯一の眺望を楽しんでもらいたい!」をテーマにふるさと納税クラウドファンディングを実施したところ、全国から8,652人という多くの皆さまのご賛同をいただくことができました。 令和4年2月富士吉田市」「展望デッキ」。「展望デッキ」から富士山を追う。『桜(紅葉)・雪の富士山・五重塔』という代表的な日本の象徴を一望できるということで、タイ?のSNSで広まり、あっと言う間に東南アジアに広まったようです。東南アジアでのSNS発信、拡大が十分理解できる「これぞ日本」の光景なのであった。「展望デッキ」を後にして「忠霊塔」横から。頂部の「相輪・九輪」を見る。古くは仏塔の最上部にある塔身の上の覆鉢(ふくばち)に立てられたもので、1~13の重層よりなるもの。日本では塔の最上部におかれる青銅または鉄製の尖塔で、一般に九輪(くりん)という。下記写真はネットから。下から露盤(ろばん)・ 伏鉢(ふくばち) ・ 平頭(へいとう)・請花(うけばな) ・檫管(さっかん)・九輪(くりん) ・相輪風鐸(そうりんふうたく)・水煙(すいえん)・ 竜舎(りゅうしゃ) ・宝珠(ほうじゅ)で構成されている。「殉國之塔昭和三十七年四月二十一日建立」と。展望デッキの東側の法面の下、市街地を見下ろせる場所にあったの「李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。富士吉田市で育ち、37歳の若さで亡くなった在日韓国人2世の芥川賞作家、李良枝 (イ・ヤンジ) さん(1955~92年)の功績を後世に伝えようと、李さんの小中高の同級生らが計画した文学碑が同市の新倉山浅間公園に完成し、2016年5月の命日の22日、除幕式が行われた と。碑の言葉は、同級生らでつくる実行委員会の会長で同町の「湖みずのホテル」女将おかみ・山下淳子さん(61)らが選び、李さんが芥川賞の受賞スピーチで話した「韓国語で愛はサランと言い、人はサラムと言う。そして人の生そのものをサルムと呼んでいる」との一節と、その中の「愛」「人」「生」という文字を刻んだ のだと。「富士吉田市出身 第百回芥川賞受賞作家 李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。 「新倉山浅間公園 忠霊塔」広場から再び富士山を。ズームして。そして再び、富士山、紅葉・黃葉をカメラで追いながら、398段の「さくや姫階段」を下る。「位置図緩やかな遊歩道あります」と。225段目から階段と坂道と遊歩道に分岐しているのであった。225は「フーフー!!ゴメン」であろうか??紅葉の赤はまるで炎のような輝きを放っているのであった。その色は深く濃厚で、まるで宝石のような鮮やかさが。陽光の中で輝く赤は、木々を一層豊かな色彩で飾り立て、まるで自然が織りなす華やかな絨毯のように。白い雪に覆われた富士山頂付近、まるで天に届きそうなほどの威厳を持ってそびえ立っていた。その頂上の純粋な白さが青空と調和し、神々しささえ感じさせるのであった。風がそよぐたびに葉っぱが揺れ、赤い輝きが光を反射して、まるで大地が燃えるような壮観な景色を作り出していた。その赤は季節の変わり目を告げるシンボルであり、見る人の心に深い感動を。いつまでも留まっていたい空間なのであった。そして大きなヒノキの木。「子育て神木」と。「富士吉田市指定天然記念物新倉富士浅間神社のヒノキ平成六年二月一日指定所在地 富士吉田市新倉三三五三番地所有者 富士浅間神社ヒノキは日本特産種で、用材として優れているため需要が多く、ズギとともに各地で植林されているが、一般的にスギと比べて成長は遅い。この木は地上2.5 mくらいから南北二幹に分岐しており、分岐部には幼いスギの木が着生していることから、いつ頃からかは定かではないが「子育て神木」と呼ばれるようになった。樹勢は旺盛で樹形も良好であり、市内のヒノキの代表的な巨樹である。大きさは次のとおり。 一 根元の周囲 5.05 m ニ 目通り幹囲 3.70 m 三 樹 高 25.5 m 四 枝 張 り 東4.6 m 西5.5 m 南6.7 m 北5.6 m 平成六年三月 富士吉田市教育委員会」「三國第一山 富士浅間神社雨屋殿改建記念碑 平成十四年十一月吉日建之」そして、順序が逆であったが「新倉富士浅間神社」を訪ねた。由緒人皇第四十二代文武天皇の御代慶雲三年(西暦七〇五年)九月九日、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祀られる。第五十一代平城天皇の御代大同二年(西暦八〇七年)富士山の大噴火があり八月二十二日当社に朝廷からの勅使が参向せられ、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より三国第一山の称号並びに天皇の御親筆なる大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)を奉納された。この破魔宝面は現在、富士吉田市の郷土資料館に展示されている。六十年に一度斎行される式年大祭「御更衣祭」は神社で一週間潔斎しながら神様の御召になる衣を織り御更衣する特殊な神事である。富士急行下吉田駅北方新倉山の中腹に鎮座し、緑の森に赤い鳥居が調和良く見える。階段を登ると左に手水舎、右に神楽殿、本殿は流造二間に二間半、拝殿は三間に七間の荘厳そのものである。神域は新倉山浅間公園として内外より親しまれ、多くの信仰を集めている。 赤い大鳥居と戦没者慰霊の五重塔「忠霊塔」は当地のシンボルとして眺望は随一である。 御祭神は・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) の三柱の神様。と「新倉富士浅間神社」のHPより。「三國第一山 新倉富士浅間神社」。「手水舎」。龍の吐水口。社殿正面から。神楽殿。社殿に近づいて。新倉富士浅間神社は約1,300年前、文武天皇の御代慶雲3年(705年)に富士北口郷の氏神様としてお祀りされた。大同2年(807年)には富士山の大噴火があり、当社に朝廷からの勅使(天皇からのお使い)が参向され、国土安泰富士山鎮火祭が執り行われた。そして時の天皇である平城天皇より「三国第一山」の称号と御親筆による大鳥居の勅額、金幣、破魔宝面を奉納された。扁額「三國第一山 富士浅間神社」。内陣を見る。内陣を正面から。社殿の見事な彫刻。屋根には鬼の面が見えた。迫力のある形相で魔除けの役割を担うのだと。御朱印 授与所。御朱印を頂きました。「新社務所造営 境内整備事業 御奉賛のお願い当社は、慶雲三年(七〇五年)に創建されたと伝えられ、永きにわたり地域の守り神として御鎮座されております。近年では、富士山と桜と五重塔を一望できる景観が現在、日本を象徴するものとして、国内外から多くの方にご参拝いただいております。現在、当社の社務所は歳月の経過と共に老朽化が進み破損、傾斜が日立ち危降な状態となっており、このまま使用することが困難な状況になっております事から、この度、新社務所の造営、境内整備を計画いたしました。つきましては、時節柄大変厳しい状況の中、恐縮ではございますが、何卒趣旨をご理解頂き、皆様の御奉賛を賜りますようお願い中し上げます。令和四年十ニ月古日 三國第一山 新倉富士浅間神社各位 記一、募財日標額 三千万円一、奉賛金額 一口 金 五千円一、御奉賛に対する待遇 一口以上 境内に芳名を掲示いたします。 ニロ以上 記念品を贈呈いたします ※記念品は事業完了後にお送りいたします。」上記の絵画。以下2枚はネットから。桜の時期には!!桜、富士山、五重塔、これぞ日本の春の姿。神楽殿の右奥にあった「忠魂碑」。見事な紅葉の神社であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.25
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そして次に訪ねたのが「新倉(あらくら)富士浅間神社」。「忍野八海」を後にして、カーナビに従い、富士急行線の踏切を通過し、右に左にと。ここ、新倉富士浅間神社は甲斐国八代郡荒倉郷(現在地:新倉地区)の氏神として705年に創建された神社。807年に富士山の大噴火があった際に、朝廷からの勅使による国土安泰を祈願する富士山鎮火祭が執行されたと伝わっており、その時、時の天皇である平城天皇より三国第一山の称号、並びに天皇の御親筆であり現在大鳥居にある勅額などが奉納されたとされている。この神社の魅力はなんといっても境内の美しい景色。富士山ビュースポットとしても人気で、真っ赤な鳥居から富士山と桜・紅葉が見える光景は思わず息を呑んでしまうほどの美しさ。神社から登った先にある新倉浅間公園にある忠霊塔(五重塔)と合わせて、写真映えするスポットとして国内外からの参拝客が後を絶たないのだと。他にも境内には「子育て神木」と言われる大樹や、美しい参道の石段など見どころ沢山。富士吉田の観光には外せないスポット と。山梨県富士吉田市浅間2丁目4−1。「新倉山浅間公園周辺案内図」係の方の案内で、臨時?駐車場に。そして散策開始。社号標石「三國第一山新倉富士淺間神社」新倉富士浅間神社は戦国時代、武田信玄の父・信虎が北条氏との戦にあたり境内地である新倉山に陣をとり当社で戦勝を祈願し勝利したことで刀を奉納されたといわれている。現在は災除け、家庭円満、安産、子育ての神として地域の人々をはじめ県外に渡って広く信仰を集めているとのこと。標石に近づいて。紅葉の下、「表参道」の石段を上って行った。両側にが桜の老木が。その先に紅葉・黄葉が。見事な紅に輝くモミジを追う。まるで燃えるように鮮やかで、風に舞うたびに優雅に揺れる姿は、季節の美しさを際立たせるのであった。その葉っぱの赤は、日の光を浴びるたびにさらに深まり、木々の中でまばゆい一部となる。その姿はまるで自然が描く最も美しい絵画の一部のようで、見る者を魅了し、心を和ませてくれるのであった。紅の輝きにズームして。鳥居の前の石段の途中には、多くの観光客の姿が。灯籠との和のコラボ。「両部鳥居(りょうぶとりい)」を見上げて。両部鳥居は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある鳥居。名称にある両部とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残。四脚鳥居、稚児柱鳥居、権現鳥居、枠指鳥居などの別名がある とウィキペディア(Wikipedia)より。「境内配置図」。現在地は◯。ここにも見事な紅葉と黄葉のコラボが青空に映えて。そして「両部鳥居」手前から振り返ると。富士山の姿が真正面に。鳥居の扁額「三国第一山」。「三国第一山」とは三国(日本、中国、インド)において富士山は第一の山と言われがあるのだと。鳥居を潜って、鳥居越しに富士山を見る。ズームして。今年は富士山山頂の積雪が少ないのか?公園内広場には、富士吉田市による小型トラックによる「観光案内所」が開設されていた。鳥居の「笠木」越しに富士山の絶景を。正面に、富士山では最も新しい5合目近くの「宝永山の噴火口」の姿が。宝永山は、宝永4年の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。標高は2,693 m。この宝永の大噴火以降、現在に至るまで富士山は噴火していないため、この宝永山が富士山の最新の側火山になる。広場を移動して。横切るのは、中央高速道路・河口湖線。ズームして。さらにさらに富士山勇姿を移動しながら追う。そして「塩釜神社」。扁額「塩釜神社」。「社殿」。例祭・9月5日安産・子育て・子授けの神様 と。「塩釜神社」の手前右側には「句碑」が。「朴若葉 登(と)のみちからも 富士雲向」。くずし字の師匠に読み解いていただきました。若葉繁る初夏のこの場所からの富士山にかかる雲の動きを詠ったものであろうと。作者は?そして「咲くや姫階段」をさらに登って行った。「咲くや姫階段(398段)」。東南アジアの方々の姿が!!途中、階段の途中で一休みしなが、その都度振り返って。黄葉の石段トンネルを息を切らせながら登る。そして「愛宕(あたご)神社」。例祭・1月25日と7月第3土曜日火防様で火災・盗難除けの神 と。「火防の神 愛宕神社」。愛宕神社に祀(まつ)られている神様は火之迦(ひのか)具土(ぐつち)神(かみ)と申し、火を守る神様が祀られている。火は毎日の食べ物を煮炊(にた)きするため、灯りや暖をとるためなど生活に絶対必要なもの。また、一瞬に住宅が燃える悲惨な火事も火が原因。火は人の生活に必要であり、また、時には不幸な原因となる火を司る、火防の神が愛宕神社の神様である と。「謝恩 松井武君之碑」と。黄葉も負けじと。脇道の先では、結婚式の前?にウェディングフォトを撮る・「前撮り」?が行われていた。さらに「咲くや姫階段(398段)」を頑張って。こちらは紅葉のカオス。シンドくなるたびに、振り返って富士山の勇姿に励まされて。そして「咲くや姫階段(398段)」を制覇すると前方に現れたのが五重塔「新倉山浅間公園 忠霊塔」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.24
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翌朝11月22日(水)は5時に目が覚め温泉に向かう。そして7時からの朝食を楽しむ。そして9時になり、来年もこの保養所での再会を約束して、皆と別れる。私は、Iさんと河口湖周辺の紅葉を楽しんで帰ることとし、御殿場方面に我が愛車で向かう。途中、「乙女トンネル」を通過。「乙女トンネル」 日本道路公団所管の乙女道路の一部として造られ、昭和39年(1964年)10月開通。昭和59年(1984年)12月、料金徴収期間は30年の予定だったが、料金徴収を終了し無料開放された。トンネルの標高は810m、名称はトンネル上の乙女峠(標高1105m)に由来。そして「乙女トンネル」を通過すると、右手に富士山の勇姿が現れたので、「FUJIMI CAFE」入口に車を駐めた。静岡県御殿場市深沢1816。箱根外輪山の峠付近からの眺望は、富士山を正面に見据えることができ、眼下にはその裾野に抱かれた御殿場の市街を見下ろせるのであった。ズームして。さらに。今年は、例年より山頂付近の積雪量が少ないと感じたのであったが。そしてデジカメを、助手席のIさんに渡し、富士山の勇姿の撮影を依頼した。東名御殿場ICを通過し、国道138号を山中湖方面に進む。旅友が富士山を追う。東富士五湖道路を利用して進み、次の目的地の「忍野八海」に到着。天然記念物である「忍野八海」は、富士山の伏流水に水源を発する湧水池。富士信仰の古跡霊場や富士道者の禊ぎの場の歴史や伝説、 富士山域を背景とした風致の優れた水景を保有する「忍野八海」は、世界遺産富士山の構成資産の一部として認定されたのだ。山梨県南都留郡忍野村忍草。忍野八海周辺マップ。山梨県で絶滅危惧種に指定されている梅花藻(バイカモ)が忍野八海周辺の川で6月頃になると咲き始めるのだ。写真は御釜池から流れ出ている小川の梅花藻。多年生の沈水植物。葉は濃緑色で分裂し、流れに沿って1m以上に伸びていた。葉身は細かく裂け、糸状の裂片となり、水中で束になって生えている。これは、昔訪ねた時のバイカモの花の写真。そして前方に「水車小屋」。「涌池(わくいけ)」。「富士山世界文化遺産 構成資産番号:17 五番霊場 忍野八海 湧池」。忍野八海を代表する池で、珪藻土からなる水中洞窟からの湧水量は豊富で、セキショウモを揺らしています。昭和58年(1983年)この池の水がNASAのスペースシャトルチャレンジャー号に搭載され、宇宙で人工雪を作る実験に使用されました。木花咲耶姫(このはなさくやひめ)により湧出したという伝説があります。『いまもなほわく 池に守神の すへ(ゑ)の世かけて かわ(は)らぬぞしる』天保14年(1843年)に元八湖再興時に作られた東圓寺の版木を基にした神歌の書き下しです。振り返って、「忍野八海」からの富士山の勇姿を。「池本茶屋」前を歩き「中池」を廻り込んで。忍野八海は、富士山を水源とする8つの池の総称で、国の天然記念物や、世界文化遺産である富士山の構成資産に8つの池がすべて各々認定されている。ただし、この「中池」は忍野八海には含まれないが、観光客が一番集まる中池。実はこの「中池」は人工池であるとのこと。旅館のテニスコートの後に作られた個人の所有する池だとのこと。ここから富士山を背景に写真を撮る人は多いのでは。中池越しに土産物屋「忍野八海池本」を見る。風情あふれる、茅葺き屋根が店の目印。 茅葺屋根の一軒家.。建物は富士山麓の木を使用して造られたと。「日本名水百選地」。中池越しに富士山を。この中池は敷地の奥にある「池本荘」という民宿が掘削した池だと。そして、この中池の側に水車小屋を作りそこの石臼で挽いた蕎麦を出したり、茶屋等も経営しているのだと。ズームして。さらに。場所を移動して。土産物屋には大粒の「シャインマスカット」が並んでいた。そして中池の中心近くにあるのが水深は10m以上の円形の池。なんと忍野八海8つのどの池よりも深いのだと。中池・円形の池を泳ぐこの黄金の魚は鯉ではなくてアルビノの鱒。陽光を受けてとても美しい姿が見られるのであった。周りに立っている人がしっかり映るくらいの透明度。晴れた日の青色のきれいさは言葉が出ない程!!黄金の魚はアルビノの鱒。白子症(アルビノ albinism)とは、からだの色素が生まれつき不足している状態 と。青色はコバルト鱒と。周囲の観光客の姿が水面に映り込んで。池底に映る魚の影。この池が人工池であることを、何人が知っていたのであろうか?そしてこの池への正面からの橋は閉ざされ、土産物屋内を通過しなければ辿り着けない「シカケ」になっていたのであった。なんと建物の下から水が絶え間なくしたたり落ちているのであった。これも人工のもの。吐水口から富士山からの湧水が。これぞコバルトブルー!!旅友とのツーショットを。水車小屋方向を見る。左手前の橋が閉鎖されている橋。近づいて。左手前が閉鎖されているのがわかるのであった。池底から生えている藻の姿を。右手にも水車の姿が。そして次に「濁池」。「富士山世界文化遺産 構成資産番号:18 六番霊場 忍野八海 濁池(にごりいけ)」。文化年間(1804年頃)には、その名の通り濁っていたといわれていますが、現在は透き通っており、隣接する阿原川とともに美しい景観を作り出しています。みすぼらしい行者が一杯の水を求めたが断られ、池の水が濁ってしまったという伝説があります。『ひれふらす 龍の都の あらましき くみてしれとや にごる池水」そして阿原川の水草を帰路にも再び追ったのであった。富士の伏流水、よって湧き出るまでに、数年間?自然のろ過装置を通過した清水。大きな魚も泳いでいた。いつもの事だが、飛び交うのは他国の言葉・中国系の顔の台湾語、英語、そして・・・・。国内の人の何倍の人が来ているのか、他国の言葉が賑やかを通り越して・・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.23
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「長安寺」を後にしたが、まだ保養所のチェックイン時間には早いので、芦ノ湖の駅伝ゴール先の広場まで車で向かった。折しも「箱根海賊船」・「ロワイヤルⅡ」が「箱根町港」に到着直前であった。そして「箱根町港」に到着。2013年3月20日(水・祝)に就航。18世紀にフランスで建造され、フランス艦隊の旗艦として活躍した第一級戦艦ロワイヤル・ルイをモデルとし、船内外の装飾、船体後部の特徴的な回廊など往時の雰囲気が再現。総トン数 315t船の長さ 35.00m船の幅 10.00m定員 565名(うち特別船室111名)主機性能 423kW[575馬力(ps)]2基航海速力 10.5ノット(最大速カ11.8ノット)芦ノ湖湖尻湖畔方向を見る。ズームして。天気が良ければ・・・、ネットから。そして暫くすると、乗客を乗せて「ロワイヤルⅡ」が動き出した。元箱根港に向けて出航。芦ノ湖遊覧船「はこね丸」。定員 700名総トン数 265.00トン航海速力 11.0ノット全長/全巾 27.50m/11.60m箱根旅行で多くの人が訪れる風光明媚な湖、芦ノ湖。遊覧船で優雅にクルーズする人も多い。その芦ノ湖には、「芦ノ湖遊覧船」と「箱根海賊船」の2種類の観光船が運航しているのだ。ひとつはこの「芦ノ湖遊覧船」、2023年3月から富士急グループの箱根遊船(株)が運営。十国丸、あしのこ丸、この、はこね丸の全3隻。石碑「The statue of Paul Schmidt」。1896年(明治29年)スイスの精密機械や理化学、医科器具等の代理店としてドイツのパウル・シュミット(Paul Schmitt、1872年 - 1936年)が設立し、後に医薬品のメルクや、光学機械のエルンスト・ライツ(現ライカ)の輸入代理店となった。レントゲンを初めて日本に輸入したのもシュミット商会であると言われている。シュミットは1906年(明治39年)外国人としては初めて芦ノ湖湖畔に別荘を建て、跡地は箱根駅伝の往路ゴール地点脇の箱根駅伝ミュージアムとなっている。1936年、シュミットが出張先の上海にて客死、井上鍾が社長を引き継いだ。そして「箱根駅伝ミュージアム」。「館内」入口。「箱根駅伝ミュージアム」入館案内。「HAKONE EKIDEN MUSEUM」と。そして16時前に保養所に到着しチェックイン。部屋で一休みし、早速久しぶりの温泉でくつろぐ。そして18時からの夕食をこの日の参加者9名でアルコール片手にワイワイと楽しむ。この日の客は我々9名のみで貸切状態。前々日の19日に宿泊された先輩の旅友から、高級焼酎の差入があり、皆でご馳走になりました。この日の献立・お品書き。前菜。造り。サザエの壺焼き。(追加オーダー品)洋皿。チキン塩麹焼き。モチ豚キムチ鍋。部屋に戻る前に記念写真を。そして部屋に戻り、1部屋に9人集まり、持ち込みのアルコールでの2次会で大いに盛り上がったのであった。久しぶりの再会で、近況、体調、妻、孫の話と23時過ぎまで語り合ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.22
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箱根・「長安寺」の散策を続ける。右手にあったのが「子守り地蔵堂」。柱の台座部分にいるのは 邪鬼でしょうか?邪鬼は 奈良東大寺などで 四天王に踏みつけられている姿や 興福寺で灯籠を頭に乗せている天燈鬼や天龍鬼の姿が知られている。柱を支えているこの子たちも邪鬼の仲間ではないかと思いますが 口を開けた子と閉じた子 もしかしたら阿吽の仁王像?こちらは阿形像(右)。こちらは吽形像(左)。棚には多くの小さな地蔵様が奉納されていた。「子守り地蔵」に近づいて。「地蔵菩薩真言オンオカカ ビサンマーエイ ソワカ」お地蔵様の御真言を唱えると、お地蔵様の大慈悲によって救済され、闇黒(地獄)に堕ちることは無い と。さらに山道を上って行った。五百羅漢も、それぞれが異なる表情やポーズを持つことが知られている。例えば、怒っているような厳しい表情や、微笑んでいる穏やかな表情、驚いているような目を大きく開けた表情、または瞑想しているかのような静かな表情など・・・・。彼らはさまざまな感情や状態を表現するために、手や顔、体のポーズを使っているのであった。優しい笑顔で!!紅葉・黄葉の中に五百羅漢がいたるところに。大きな口を横に延ばして。ウサギとともに。ひとつひとつ見ていくと、羅漢さん達は、各々自由な姿勢で佇んでいた。笑っているもの、顔をうずめているもの、怒っているものなど、喜怒哀楽を通り越して、ひとつひとつが表情が豊か、豊かすぎるのであった。祈る姿。ここにも。小さな門も。あどけない表情。「聞か猿」ではなく聞かざる!!山の木々は枝落とし等、手入れも行われているのであろう。「長安寺」の墓地を望む。墓地への手水舎であろうか。扁額「浄水」と。さらに紅葉を楽しみながら五百羅漢を巡ったのであった。悟りの顔のごとし。この羅漢さんも私の知人・〇〇さんに似ているのであった。顔面の苔も表情を穏やかにしていた。耳たぶの大きな羅漢さん。熊ではなく、馬に乗った金太郎の如くに。泣き叫ぶ赤子の如く。瞑想に耽って。こちらも知人に似て。豊川稲荷社。幟「豐川吒枳尼眞天(とよかわだきにしんてん)」。吒枳尼天(だきにてん)の名前は、サンスクリット名「ダーキニー」の音に漢字をあてたもの。古代インドでは、人の肉や心臓を食べる夜叉(鬼神)であったが、大日如来が大黒天に姿を変えて説法し、仏教の善神になったと伝えられている。手摺のない、狭い「豊川稲荷社」の参道を見下ろす。その下には手摺のない急な石段が。慎重に一段一段下る。「豊川稲荷」の朱の鳥居を見上げて。ユーモアがあって、笑いがあって、苦しかったり、悲しかったり。羅漢さんたちの姿は、私たちそのもの!!。「いろんなことがあるから、人生っていいんでしょ。お互い頑張ろう!」といっているかの如くに。仲良く。僕、まいったなぁ!!大きな椀で酒を呑んでいるのか?まあまあまあ、落ち着いて!! と。お賽銭を頂いて。触れてみれば、人の体温を感じさせるのでは!! と。そして最後に「長安寺」の本堂のむかいにあった石仏を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.21
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「強羅公園」を後にし県道733号線・仙石原強羅停車場線を利用してポーラ美術館の前を通り県道75号線沿いにあった「そば処 穂し乃庵」に車を駐めた。駐車場前にあったのは「かながわの景勝50選 秋の仙石原高原」碑。足柄下郡箱根町仙石原817−88。「そば処 穂し乃庵」にて昼食を楽しむ。私は、かき揚げ蕎麦を楽しみましたが、写真を撮り忘れました。昼食後は「仙石原高原」の「仙石原すすき草原」の風景を楽しんだのであった。足柄下郡箱根町仙石原。仙石原といえば必ず訪れたいのが「仙石原すすき草原」。広大な土地に群生するすすきは、その迫力や神秘的な景色から「かながわの景観50選」や「かながわの花100選」にも選ばれているのだ。季節によって姿を変えるすすき。仙石原すすき草原は、例年9月から11月にかけて見頃を迎える。この時期になると穂が黄金色に色づき、キラキラと輝きを見せるのであった。初秋は緑とのコントラスト、晩秋はふわふわと咲き誇り、あたり一面絨毯を敷き詰めたような美しい景色が楽しめるのであった。遊歩道は約700メートルの一本道で、ススキに挟まれたゆるやかな坂道になっていた。上り坂なので、始点からは遊歩道と草原の先まで見渡せて、これぞ圧巻なのであった。「仙石原すすき草原」案内図。「台ヶ岳の麓に広がるすすき草原は「かながわの景勝50選」にも選ばれており、毎年行われる火入れにより草原環境を維持しています。箱根地域では、近年、急激にニホンジカが増え、採食による植生の衰退が深刻化しています。環境省では、関係機関と協力して、国立公園の豊かな自然環境を守るために様々な対策を実施しており、隣接する仙石原湿原にはニホンジカによる植生被害を防止するための柵を設置しています。」そして現在地はココ!!毎年3月中旬から下旬頃、仙石原すすき草原では山焼きが行われている。すすき草原はそのままにしておくと雑木が生えてしまうのだとか。一面焼き払うことで、広大なすすきの景観が守られているのだと。山焼きの写真をネットから。箱根屈指の景勝地「仙石原すすき草原」。台ケ岳の山麓の山麓にススキが生い茂っていて、その広さは約18ヘクタールに及ぶのだと。遊歩道から「仙石原すすき草原」を見る。再び約700メートルの一本道・遊歩道、そして右側の斜面のすすきの草原を望む。ズームして。「金時山」を見る。「金時山」は、箱根山の北西部に位置する標高1,212mの山。別名は猪鼻岳で頂上に猪鼻神社が祀られている。日本三百名山のひとつ。 山名の通り坂田金時(さかたのきんとき、幼名は金太郎)にまつわる伝説が残り、また富士山の展望に優れることで有名。山頂に建つ2軒の茶屋も、人気の一役を担っているのだ。そして県道75号線に戻り、「仙石原すすき草原」を見る。そして次に訪ねたのが、200 体を超える羅漢像が立つ歴史ある仏教寺院で、墓地と木々に囲まれた庭園があった「長安寺」。駐車場に車を駐め、山門への参道を歩く。足柄下郡箱根町仙石原82。参道は紅葉に囲まれて。左手には現代的な仏の姿?の像が。「不許葷酒入山門」と。「くんしゅ【葷酒】 山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず」と。臭気の強い野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内にはいることを許さないということ。その先、左手に「手水舎」。「手水鉢」には「洗心」と。水は古来、清きものの象徴であった。また、時と同じように一瞬たりとも同じところに留まらないもの。洗うと言う漢字を分解しますと、水の先と書く。つまり水の先・奥にあるのものを観るための動作が洗うと言うこととも考えられる。洗うことにより、見えないものが観えるようになり、あるいは神の依り代となると言うことかも知れない。手を洗うことで神を観る力を得、口を洗うことで体内を浄化し、神を宿りやすくする。そしてその無垢な状態で、水底を覗き込むことで何かが観えてくるのでしょう と。手水舎に掲げられている見事な彫刻。参道の先、正面に「山門」。左手の池の小さな島の上には石祠・「弁天堂」が。「弁財天」と刻まれた石碑。池の名は「弁天池」。「弁天池」。その奥の池の中に2体の石仏が。池の水の中にも羅漢像が。ここにも。阿羅漢とは仏教において尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のことで、阿羅漢が500人集まって五百羅漢と言う と。紅葉を粧った枝が弁天池の水面を覗き込むが如くに。掲示板には「一日生きることは 一歩進むことでありたい 湯川秀樹」。「山門」。「東国 花の寺 百ヶ寺」と。東国花の寺とは、関東1都6県の「花の寺」と称される寺院の集まりの事で、現在は100か所以上が加盟していると。ここ「長安寺」はイワシャジンと呼ばれる9月下旬から10月中旬にかけて咲く花が有名らしい。扉に仁王様?のレリーフが。扉に仁王様のレリーフが。山門の右側にあった石碑「幸福な人 泣きたい人 詫たい人 悩んでいる人 困っている人 苦しんでいる人 願いのある人おまいりして仏さまに手を合わせてください長安寺」そして山門を潜り歩いて来た紅葉の参道を振り返る。ズームして。そして「本堂」。創建は1356年と言われ、福井の永平寺と横浜の總持寺を両山とする、曹洞宗の名刹。中興は機山労逸大和尚により行われ、昭和60年開始の五百羅漢像の建立は、今尚進行中 と。本堂は、建築は戦後に屋根や壁は改装されたが、それ以外は創建当時のものといわれている。山号 龍虎山宗旨 曹洞宗創建 延文3年 (1356年)本尊 釈迦如来中興年 万治元年 (1658年)中興 機山労逸正式名 龍虎山 長安寺扁額「龍虎山」。見事な盆栽、この木は老鴉柿(ろうやがき)。老鴉柿はカキノキ科カキノキ属の落葉~半落葉低木。雌雄異株。和名は「衝羽根柿」という名前で、盆栽界では姫柿とも呼ばれている。中国原産の小型の柿だが、交配をくり返す中で多くの品種が国内で生み出され、果実の色や形も多様。盆樹では小葉で節が細かく濃紅色の実が成る「楊貴妃」が有名ですが、「木守」「玉環」「紅乙女」など100を裕に超える品種が作出されている とネットから。山門を振り返って。考え込む、いや苦笑する五百羅漢の姿。この参道を進み、奥の裏山の林の斜面には五百羅漢が点在し、小京都のたたずまいが感じられたのであった。「歌碑」と「菅原道真公」・天神様の石像。『東風吹かば匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』樹の間に「薬師如来様」を表す梵字「ベイ」が。「上の文字は薬師如来様を表す梵字です。このコロナ禍の終息を願い病気を治してくださる薬師如来様にお頼みする為制作いたしました。御真言をお唱えしてください。御真言オンコロコロ センダリマトーギ ソワカ」👈リンク。「天神様由来石碑の文字は解読不能・・・」裏山の林の斜面に向かって進む。左手には紅葉に囲まれた鐘楼堂があった。梵鐘をズームして。さらに。「ようこそお参り下さいました」と石仏が。「五百羅漢」碑。五百羅漢とは、お釈迦様の弟子で、仏道修行して阿羅漢という人間として最高位を得た人のことをいい、その阿羅漢を五百人集めたのが五百羅漢である と。碑の上にも阿羅漢様が。そして裏山の斜面に点在する多くの五百羅漢をカメラで追ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.20
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フランス式庭園の箱根強羅公園には中央に「噴水広場・噴水池」があった。周りにはベンチが並んでいるので、休憩で腰を下ろす人が多くいた。噴水や噴水の周りの草花を眺めながら、ベンチに座ってのんびりと過ごす時間は癒しのひととき。噴水池の青と紅葉のコラボは絶景。噴水池の水面の波が陽光に輝いて煌めいていた。噴水池は巨岩に囲まれた場所も。噴水をズームして。移動してデジカメの設定を変えて見ましたが・・・・。坂の下に「一色堂茶廊(いっしきどうさろう)」。箱根強羅公園内、噴水横にあるサンドイッチ料理「一色堂茶廊」。天井の高い居心地の良い空間で「和牛ローストビーフサンド」「フルーツにんじんサンド」といった自然で良質な食材を使ったサンドイッチ料理を用意。コーヒーや紅茶、ソフトドリンクも、サンドイッチ料理にふさわしい、グレードの高いもの と。反対側にあったレンガ造りの建物が「トンボ玉工作室」。色ガラスをバーナーで溶かして、様々な色彩や模様のアクセサリーに仕上げるとんぼ玉制作。2つとして同じものができないオリジナル作品を手軽に楽しむことが出来る場所と。工作室内。ネットから。「強羅遊園開拓之碑」。「強羅遊園開拓の碑強羅公園は、大正三年(一九一四)び開園された、日本ではただひとつのフランス式整型庭園です。強躍公園着工当時、この地には人家も無く、荒凉として石ばかりの風景でした。そのような場所が、別荘地・温泉他として開発されるに到った状況を、この碑文は書きとどめています。建碑者は宮ノ下温泉の旅館主、沢田鋓義で、彼はこの碑の他、箱根各地の各所や旧跡に碑を残してその顕彰につとめました。 箱根強羅公園 園長」バラ園と紅葉のコラボを楽しむ。バラのピークは既に終わっていたが。箱根強羅公園の「シンボルツリー」が右側に。真紅の薔薇の花。純白の薔薇の花。再び紅・黃葉をカメラで追いかける。「箱根クラフトハウス」1階が陶芸教室とガラスの工房、2階がドライフラワーの工房になっているが、その隣で展示されているのがクラフトハウスの講師として活躍するアーティストたちの作品。器、アクセサリー、お香立、オブジェなどのクラフト関連商品が多数展示即売されており、土産としてだけでなく作品づくりのちょっとしたアイデアとしても注目を集めているとのこと。そして正門への帰路へ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.19
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「岡田美術館」を後にして、車で5分強の場所にあった「箱根強羅公園」に到着。正門から入園する。神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300。550円で入園券を購入して。「強羅公園」配置案内図。「強羅公園」は、正門は標高約574m、西門は標高約611mという傾斜になっている。季節を通して様々な花が咲く園内には、様々な施設があるのだ。冬でも暖かい熱帯植物館や、歴史ある茶室、カフェ、工芸体験クラフトハウスなど、 1日中楽しむことができる園内 と。まずは「熱帯植物館」に向かって坂を上る。「ヒメツルソバ」の花であっただろうか?見事な紅葉が青空に映えて。青空を背景に紅葉が輝く。「山粧う(やまよそう)」いや「園粧う」。そして「熱帯植物館」を訪ねた。フィリピン原産の常緑小低木。樹の高さは2m前後で分枝が多いで魂濃緑色の大きな蕓をもち、枝先から房状に大きな花を下垂して咲かせていた。色鮮やかな花と独特の姿が南国情緒たっぷり。咲き始めたものをズームして。名前は「熱帯ノボタンメディニラ東南アジア、熱帯アフリカ、太平洋諸島に150種類以上分布する低温にも耐えるが、生育するには、10℃以上の温度が必要です。」と。バナナに似た木であるが。スラッと高く伸びて。「芭蕉」であっただろうか?こちらは「ピンポンノキ」と。「ピンポンノキピンポンのような実がなるので「ピンポンノキ」じゃないよ中国の言葉で「ピンボーノキ」、それがなまって「ピンポンノキ」になったんだ。にてるでしよう?タネを焼けば甘い「栗」のような味がするので「栗子(くりこ)」ともいうよ。白ガラス細工のようなきれいなオハナが咲くよ。」とネットから。花の写真もネットから。こちらが「バナナの木」。太く短いバナナが。「熱帯植物館」内にも小さな滝が設置されていた。「熱帯植物館」内の湿度を上げているのであろうか。赤いツヤのあるハート型の花がユニークな「アンスリウム」。食中植物・ウツボカズラ(ネペンテス?)「アナナス多年草で、果実以外はアナナスと呼ぶこともあります。和名は「鳳梨(ほうり)」」といいます。苗を植えて2年目以降の充実した株に実をつけ、花は紫色の花がまとまって咲きます。このパイナップルは、観賞用で食べられません。花言葉:あなたは完璧 完全無欠」。アナナスの実。この大木は?「強羅公園 標高590M」と。こちらは白の「エンジェルズトランペット」か。「キダチチョウセンアサガオ」とも言うと。朝顔のようなラッパ状の白花を咲かせるチョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)の一品種 と。「ブーゲンビリア」。近づいて。ピンクの花も。「ハイビスカス」。「企画展関東大震災と箱根箱根町立郷土資料館令和5.10.14(土)~12.10(日)」「ちびゴジラデジタルパズルラリー!in箱根」。ストレリッチア(極楽鳥花)ストレリッチア(極楽鳥花)は、極楽鳥が羽ばたいているような姿をイメージさせる植物。その花姿はとても鮮やかでエキゾチックな魅力。そして噴水。そして屋外に。「白雲洞茶苑入口」。「「白雲洞茶苑」は、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山のおもむきを保存して、見るからに山家の風情の濃い茶室群です。 ここは大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝(三井コンツェルンの設立者で男爵)によってはじめられ、特に白雲洞は、翁の創案になる田舎家の席として貴重な茶室とされています。大正11年(1922)、この茶苑は三渓・原富太郎(横浜の富豪で美術品収集家として著名)に譲られ、この時三渓はあらたに対字斎を増築しました。 昭和15年(1940)、茶苑は再び原家より耳庵松永安左衛門(電力界の重鎮、松永コレクション創設者)に贈られ、こうして茶室は、明治・大正・昭和と3つの時代を代表する3人の茶人の間に伝えられてきたものです。」と。「鈍翁・三渓・耳庵の遺席登録有形文化財「白雲洞茶苑」ご案内ここに保存される三棟の茶席は大正時代のはじめ鈍翁・益田孝によって創始され、ついで三溪・原富太郎、耳庵・松永安左ヱ門と近代の三代茶人と称される人々に継承されてきたものです。益田鈍翁による開席当時、ここには不染庵、白雲洞の二席が営まれ、これに寄付と白鹿湯が附属していました。これらは一代の数寄屋師とうたわれた仰木魯堂の設計と言われています。大正11年原三溪に伝えられ、新たに対字斎一棟が増築されました。ついで昭和15年松永耳庵に受け継がれました。耳庵自筆の「白雲洞の主人となるの記」によって知られます。耳庵没後次第に荒廃していましたところ、当社に移譲されより全面的に補修の手を加え昭和57年5月に旧観に復しました。全苑の構成には山中の岩かげに建つ山家の趣が深く、岩上に根を占める巨桜の下に軒を低く佇むのは不染庵です。また囲炉裏に自在釣を掛け粗朶で瀗縁のある田舎家の席は白雲洞です。茶道界に鈍翁創案の田舎家の茶席はあまりにも著名ですが、現在その多くは失われここ白雲洞は唯一の遺構としてかけがえもなく珍重されています。益田鈍翁、原三溪、松永耳庵という偉大な茶人であり、明治・大正・昭和の日本経済に大きな役割を果たした稀代の経済人たちが遺した「白雲洞茶苑」は近代数寄の茶道の風雅を偲ぶ茶室群です。 箱根登山鉄道」。紅葉に囲まれた「白雲洞茶苑」を望む。茶苑は比較的高いところに建てられ、白雲洞、不染庵、対字斋、白鹿湯から四つの席から構成されていると。そして巨岩の間に点在していた。これぞ日本の秋!!ここも!!こちらは「白雲洞茶苑」の裏口門であっただろうか。「パンパスグラス」か? パンパスグラスは、『しろがねよし(白銀葭)』や『しろすすき(白薄)』とも呼ばれている。周囲に「和の植物」があると和風映えし、和風料理店や日本家屋、旅館の庭にもよく映えるのだ。穂が強風?で倒れてしまっていたが。この一面に黄葉した樹の名は?? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.18
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この日は11月21日(水)、会社の同期入社の同僚9人による同期会を仙石原にある会社の温泉保養所にてす開催ることになり、我が愛車で向かう。箱根湯本駅で同僚1名と合流し、箱根の紅葉を楽しんだ後に、温泉保養所に向かうこととし、10時に合流するために自宅を9時前に出発し新湘南バイパスを利用して西湘バイパス方向に向かう。茅ヶ崎料金所を通過。カメラをセットしてリモーと撮影。リモートで、電源・シャッター・ズーム・動画撮影が可能。但し、カメラの位置・向きは手動でしか操作できない。そして海岸に出て、西湘バイパスを進む。前方に箱根の山々が姿を現していた。西湘二宮IC手前を通過。左から下二子山、上二子山、駒ケ岳、神山。二子山が正面に。南側(左)が下二子山1,065m、北側(右)が上二子山1,099mとなる。西湘バイパス「橘料金所」を通過。一時停止し「光る海」・「相模湾」、そしてその右にある「大島」の姿を。そして西湘バイパスから国道1号に入り、予定時間の10時前に「箱根湯本駅」に到着し同僚と合流。最初に「岡田美術館」の庭園の紅葉を訪ねることとした。正月の箱根駅伝と同じ国道1号の箱根の山道をひたすら進む。そして箱駅駅伝の固定カメラが毎年設置される「箱根小涌園ユネッサン」前を通過。そして大きく左にカーブして坂を上って直ぐ右側にあった「岡田美術館」の駐車場に入り散策開始。「施設マップ」足柄下郡箱根町小涌谷493−1。美術館の正面の壁にあったのが岡田美術館の象徴ともいえる縦12m、横30mの大壁画。江戸時代から、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一など琳派の画家たちに描き継がれてきた「風神・雷神図」・「風・刻(かぜ・とき)」を日本画家・福井江太郎が現代に蘇らせ、開館以来、美術館の守り神として来館者を迎えていると。雷鳴と稲妻をおこす「雷神」。風袋から風を吹き出し風雨をもたらす「風神」。ネットから原画を。風神・雷神の大壁画「風・刻(かぜ・とき)」の正面には、100%源泉かけ流し(加水・加温なし)の足湯が。ゆうくり浸かりたかったが・・・。風神・雷神の大壁画「風・刻(かぜ・とき)」の前に足湯があるのだ。足湯に浸かりながら壁画が鑑賞できるのであった。モニュメント「浪誘(なみさそう)」諸井謙司。ブロンズ、高さ約2メートル、幅1.7メートル、重さ1・3トン。振り返って。廻り込んで。「岡田美術館 入口」。「開館10周年記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)」喜多川歌麿「深川の雪」の一部。「画狂老人卍 齢八十八歳 「雪中烏図」 1847年」。「葛飾北斎」は晩年「画狂老人卍」と名乗ったのだ。入口から内部を覗いて見た。チケットコーナーか?「現在開催中の展覧会開館10th 記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)」「ようこそ、岡田美術館へイベントスケジュール■開館10周年特別企画 特別対談 河野氏元昭氏と小林忠館長が語る歌麿・北斎 2023年9月30日(土)午後1時~午後2時30分講師:小林忠田美館長)■講演会 講師:小林忠(岡田美術館 館長) ①2023年7月29日(土) 歌麿の「雪月花」3大幅 中止 ②2023年10月28日(土) 北斎の「富嶽三十六景」と「富嶽百景」 時間: ( 上記2講演ともに) 午後1時~午後2時30分 会場 : 5階ホール 参加費:無料(要入館料)」江戸時代の浮世絵師・喜多川歌麿が晩年描いたとされる浮世絵「深川の雪(ふかがわのゆき)」の一部。2023年秋に開館10周年を迎える岡田美術館では、これまでの展覧会で人気を博した画家4人を選び、2人ずつ2部に分けて展覧会を開催中。第2部では、喜多川歌麿と葛飾北斎を中心に、2人と同時代およびその前後の画家たちの作品など約40件を展示していたのであった。「開館10th 記念展 第2部歌麿と北斎時代を作った浮世絵師2023/6/11(日)≫12/10(日)喜多川歌麿(?~1806)出生地は不明。少年の頃、江戸で狩野派の鳥山石燕に絵を学ぶ。版元の蔦屋重三郎と組み、版画や絵本の挿絵を精力的に発表。生涯に手がけた版画は2000図以上といわれ、美人画の名手として人気を集めた。歌麿を対象とする幕府の禁令にも屈せず、挑み続けた反骨の絵師でもある。葛飾北斎(1760~1849)江戸本所(現在の墨田区)に生まれる。数え年19歳の時、人気浮世絵師の勝川春章に入門して絵を学ぶ。版画、版本、肉筆画制作のすべてに情熱を注いで森羅万象を描き、90歳の長寿を全うした。北斎のほか戴斗、画狂人、卍など度重なる改名、生涯に93回という転居癖をはじめ奇行も多い。岡田美術館は、本年 10月に開館 10周年を迎えます。記念展第 2部に登場するのは、浮世絵師の喜多川歌麿と葛飾北斎。次々と新しいスタイルの作品を生み出し、大衆の心をつかんだ浮世絵界のスターです。2人はほぼ同時期に画壇にデビューしましたが、先に歌麿が美人画で一躍人気を集め、一方の北斎は美人画にとどまらず、風俗画、風景画、花鳥画、武者絵など多彩な分野に挑戦し、90年の長い生涯に数えきれないほどの作品をのこしました。本展では、当館が収蔵する歌麿 3件と北斎 10 件の肉筆画(一点ものの絵)を中心に、北斎の版画の代表作「冨嶽三十六景」や春画の名品「浪千鳥」を一堂に展示します。現存する歌麿の肉筆画は世界に約 40 件ともいわれる中、2012年に再発見された幻の大作「深川の雪」を含む 3件をご覧いただける貴重な機会です。歌麿と北斎に加え、同時代およびその前後の画家の作品を併せた約 40 件の展示をお楽しみください。喜多川歌麿「深川の雪」 江戸時代 享和2~文化3年(1802~06)頃 【展示期間:9/8~12/10】※左記以外は高精細の複製画を展示 歌麿最晩年の傑作は、縦2m、横3.5mの大迫力。左:喜多川歌麿「三美人図」 右:喜多川歌麿「芸妓図」 喜多川歌麿「三美人図」をズームして。江戸時代中期 歌麿だから描けた、遊女たちの素の時間。右:喜多川歌麿「芸妓図」 江戸時代中期 これぞ粋! きりっと決めた芸者の立ち姿。葛飾北斎「堀河夜討図」 江戸時代後期 北斎得意のかっこいいヒーロー像。そして「美術館」を後にして「庭園巡り」へ。見事な紅葉、いや黄葉の世界に迷い込んだのであった。この場所の黄葉は、秋の美しさを静かで温かみのある色合いで表現していた。紅葉が目立つ空間に比べて地味に感じられるかもしれないが、その静かな魅力には心が落ち着き、温かな感覚が広がるのであった。やや赤が混じって。黄葉の美しさは、深い秋の光によって輝き、木々や景色に穏やかな柔らかな色彩を与えるのであった。それは、深い熟成された色調が秋の季節に対する感謝と静かな喜びを表現するようなもの。そして再び黄葉の世界へ。黄葉は、秋の風が木々の葉をやさしく包むような、穏やかで優しい美しさを持っていた。その色は深く濃い黄色から、柔らかな金色や蜜色へと移り変わり、光と影が織りなす幻想的な世界。風がそよぐたび、黄葉の葉たちはしずくのような微かな音を奏で、自然の息吹を感じさせたのだ。そして前方から水のささやきが聞こえて来た。「湯雨竹(ゆめたけ)」と。「竹製温泉冷却装置」であると。「湯雨竹(ゆめたけ)90℃の源泉を数秒で冷却させる竹製の装置です。加水をせずに温度を下げるため、泉質や鮮度を損なうことなく、源泉そのままをお楽しみいただけます。」そしてここが足湯の場所になっているのであろうか?椅子等はなかったが。それとも集湯用の箱か?そして正面に建物が。お食事処「開化亭」と。昔の別荘だった建物を利用したお食事処であると。そしてここ岡田美術館は、明治時代に建設された欧米人向けのホテル「開化亭」の跡地に2013(平成25)年、開館した私設美術館であるとのこと。入口横には石仏が2体。2体の石仏の上の紅葉。「開花亭」は準備中であった。「うどん」のメニューが。庭園入場料は300円とネットにあったが。「お知らせ源泉の工事を行っている関係で一部、通行が出来ないところが午後ざいます。ご迷惑をお掛けいたしますが、何卒ご了承くださいますようお願い申し上げます。なお、工事期間中は入園料を無料とさせて頂きます。」と。さらに紅葉のメッカを赤と黄色の美を求めて歩く。赤やオレンジ、黄色に染まった葉が木々を飾り、まるで自然が鮮やかな絵画を描いたかの如し。紅葉の美しさは季節の移ろいと共に、山々や公園、神社仏閣の周りで人々を魅了し続けているのであった。秋の訪れと共に木々が鮮やかな赤、オレンジ、黄色に染まり、風に揺れる葉が光の中で輝いていた。ここが源泉の場所であっただろうか。四阿の上の紅葉も鮮やかに輝いて。そしてさらにオレンジ色の紅葉を追う。この場所のように、日本の庭園や寺院の周りで見られる紅葉は、静寂と美しさが調和した空間を創り出しているのであった。紅葉の美しさは季節の移ろいを感じさせ、日本の文化や自然と人々のつながりを象徴しているのである。そして「庭園」を後にして、再び「岡田美術館」に戻る。再び「風神」に近づいて。「雷神」。正面の木々がガラスに映り込んで。「輪廻熾(りんねし)」柴雅臣作。そして「岡田美術館」を後にしたのであった。 ・・・つづく・・・
2023.12.17
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船舶の係留所前の岸壁上を歩きフエンスの隙間から「帆船・明治丸」👈リンク を撮影する。左側が船尾方向。1875年(明治8)2月横浜に回航され、灯台視察船として任務についた。当時1000トン以上の船は日本にほとんどなかったことから、76年の明治天皇の東北巡幸に際しては、函館(はこだて)から天皇を乗せて同年7月20日に横浜に帰着した。このため、この日が「海の記念日」として定められた(1996年、「海の日」として国民の祝日となる)。1896年に商船学校(のち東京商船大学。現東京海洋大学)に貸与、翌年移管され、三檣シップ型に改装された。その後長く係留練習船として使用されたが、1978年(昭和53)5月、国の重要文化財に指定され、東京海洋大学に復原保存されているとのこと。「リバーシティー21」の高層マンション群を見る。「明治丸記念館」。「明治丸記念館」は、平成23年に始まった本学の明治丸海事ミュージアム事業である「次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動」、「先端の海事技術講座などのセミナー開催」を目的に平成27年に建設され、平成 28年7月18日より公開している。延床面積462m2の館内には、展示室とセミナー室、準備室を備えている。展示室では明治丸の140年にわたる活躍をパネルで解説するとともに、明治丸で使用されていた食器類などが展示されている。こちらは「東京海洋大学 百周年記念資料館」。明治丸(めいじまる)は、灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注し、天皇の乗る御召し船や練習船としても使用された。国の重要文化財に指定されている。当初は外輪船とする計画だったが、スクリュープロペラ船として建造された。帆装は2本マストのトップスルスクーナーであったが、1898年に品川にある緒明造船所で3本マストのシップに改造された。さらに1937年にはミズンマストの腐敗からバークになったが、1983年からの修復工事で再びシップ型に戻された。また、船首と船尾にはアカンサスの文様が描かれている。係留船杭越しに「相生橋」そして「リバーシティ21」高層ビル群を振り返る。タイル敷きの遊歩道から「豊洲水門」そして豊洲地区の高層ビル群を見る。船首部を見る。船首部をズームして。船首には、拳(こぶし)鼻状(ばなじょう)の渦巻文様を持つ頭部とそれに続く膨らみで鳥の形を表し、その後方に長く伸びる縁取りの中に、アカンサス状の文様を嵌め込んで羽根を象徴している。ここにはローマ字で「MEIJI MARU」と船名の文字板が打ちつけられている。即ちこの鳥形が本船のフィギュア・ヘッド(Figure head)・船首像と言うことが出来る。船首近くから「リバーシティー21」高層ビル群を再び。ズームして。船尾方向を見る。煙突にズームして。三段膨張蒸気往復動機関は昭和20年頃まで航洋船の主機関として採用された。現在は全くその姿を消してしまい、旧東京商船大学百周年記念資料館に完全な姿で展示されている本機関は大変貴重なものとなっている。 船尾方向の2本のマスト。中央マストをズームして。上甲板の船首部にはバウスプリット(Bow Sprit 斜檣)が突き出ており、振り向いて上を見れば3本のマストが空に聳えている。前からフォア・マスト(Fore mast 前檣)、メイン・マスト(Main mast主檣)、ミズン・マスト(Mizzen mast 後檣)であり、各マストには夫れ夫れ5本のヤード(Yard横帆桁)が簪(かんざし)のようにならび、それに掛けられた帆に風をはらませた昔日の勇姿を彷彿させるのであった。「明治丸」の船尾部分を見る。船尾にはアカンサス(Acanthus)の横帯文様があり、ローマ字で「MEIJI MARU」と船名が配されていた。マストをこれでもかと。そして「明治丸」を後にして、「通り」に出ると「明治天皇聖蹟の碑」が右手にあった。「明治天皇聖蹟(めいじてんのうせいせき)」と。ズームして。「明治天皇聖蹟」は、明治天皇が行幸で訪れた場所や建物である。そのうち377件が史蹟名勝天然紀念物保存法にもとづいて史蹟に指定された。戦後占領下「史跡の指定が新憲法(日本国憲法)の精神にそわない」とみなされて、1948年6月29日、指定を一斉に解除された。その後、建物が失われても、聖蹟を顕彰する石碑などが残されている場合が多いとのこと。「紀元二千六百年記念建設 昭和十八年十一月三日竣成」紀元二千六百年記念とは、1940年(昭和15年)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の記念行事を指す。「深川區町會聯合會」と。ここが「重要文化財 明治丸」の入口?であろうか。しかしこの日は見学可能日でないのは承知していた。フェンスの隙間から船尾を正面から。船尾をズームして。中央に漢字で「明治丸」と。マストをズーム。ここが東京海洋大学のエントランス。前身は「商船大学」。明治時代から続く、船の幹部乗組員を養成する学校であった。「東京海洋大学 越中島キャンパス海洋工学部大学院海洋科学技術研究科」。「G.E.O.ラムゼー功徳碑」この碑は、G.E.O.ラムゼー船長の優れた人格に対する尊厳と称賛を永く記憶するために1886年(明治19年)3月の彼の没後1周年に門弟達が建てたものです。ラムゼー船長は、1876年(明治9年) 6月1日に三菱商船学校(本学部の前身)の運用学教員として教壇に立ち、学生に航海術を教えた最初の先生でした。この碑は1992年(平成4年)に江東区登録文化財(歴史資料)に指定されました。「第一観測台1903年(明治36年) 6月建設。赤道儀室と呼ばれ、内部には当時東洋一と言われた天体望遠鏡を備え、教育研究に使用された。1997年(平成9年)12月国の登録有形文化財に指定された。」第一観測台は現存する日本最古の天文台と推定される。商船教育においては天測による船舶の位置を知ることが重要であり、天文学は必須であった。航海用天体暦および 航海天文学教授用として使用された内部には当時東洋一と言われた最新鋭赤道儀望遠鏡を備えていた。望遠鏡は分銅式によって天体の運行に等しい速さで回転するようになっていた。また、屋根の半円形ドームは手動で360度の回転が可能であり、窓は二重になっていた。平成9年12月12日に国の有形文化財に登録された。 「第二観測台1903年(明治36年)第一観測台と同時に建設。子午儀室と呼ばれ、内部には子午線測定用の望遠鏡を備え、教育研究に使用された。1997年(平成9年) 12月国の登録有形文化財に指定された。」第二観測台第一観測台と同時に竣工され、第一観測台と並び現存する最古の天文台と推定されている。内部には子午儀を備え,天体の子午線通過時刻を精密に測定して正確な経度の測定およびそのときの天体の高度から緯度の測定等が可能であった。第一観測台と同様平成 9年12月12日に国の有形文化財に登録された。この先の十字路を右折。「越中島通り」を進む。ここにも入口があったが、鎖で閉ざされていた。この先に横断歩道がないので、歩道橋を利用して道路の反対側に向かう。「越中島通り」の「浜園橋」方向を見る。そしてJR越中島駅に到着。現在地はここ。JR東日本 京葉線の「越中島駅」。そして「東京」駅で下車。「八重洲南口」へと向かう。京葉線に続く連絡通路を彩るステンドグラス「天地創造」は、洋画家・福沢一郎の原画を元に1972年に制作された大型作品。近づいて。壁一面に広がるステンドグラスは、この場所が駅であることを忘れさせるほどの異彩を放っていたのであった。この作品は、パブリックアートを推進する日本交通文化協会が、昭和47年に設置。原画は画家の福沢一郎が描き、当時の国鉄総裁、磯崎叡(さとし)は「洋々たる国鉄の未来を象徴する感動的な絵だ」とほれ込んだという。ステンドグラスは、駅の象徴として長年親しまれてきたが、駅の復元工事のため、一時撤去された。だが、駅利用者から「あの作品はどこにいった」との問い合わせが協会に相次ぎ、工事を終えた平成24年に今の場所に移された。40年以上、駅を見守ってきたステンドグラス。国鉄はJRへと変わったが、作品は設置された当時と変わらず、輝き続けている とネットから。「天地創造 原画 福沢一郎」と。正面左から。中央部分。右側。そして久しぶりの「動く歩道」を3回も乗り継いで。そしてようやく東京駅南口に到着し、山手線でこの日の待ち合わせ場所の品川駅へと向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2023.12.16
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正面に「三井不動産レジデンシャルサービス㈱ ピアウエストハウス」が見えた。高級賃貸マンションのようであった。外装工事が行われていた。歩道横には造船所の遺跡の如き赤レンガの建造物が。江戸末期になると、石川島は洋式造船所となる。幕府が水戸藩に命じて作らせたもので日本最初の軍艦「旭日丸」は、ここで建造されたのだ。明治に入り、造船所は民間に払い下げとなり「石川島重工」が誕生、1979(昭和54)年には全工場が豊洲に移転したのであった。「中央区立佃児童館」、「中央区立シニアセンター」。入口。内部。中央区立佃島小学校前の歩道に設置されていた円錐形状のモニュメント・「希望の像」。そして石段を上り、「リバーシティ21 イーストタワーズ 10号棟」南側の広場へ。「リバーシティ21」案内地図。Googleマップによると、ここに「オーロラの門」と呼ばれるオブジェがあるとのことであったが。遊んでいる子供に訪ねると、いつのまにかなくなってしまったと。在りし日の「オーロラの門」をネットから。そして近くにあった巨大な卵の如き建物。「風の卵-Egg of Winds-」伊藤 豊雄作。佃の超高層マンションが林立する大川端リバーシティ21のメインゲートである。メインゲートと言いながら駐車場入り口で、上部に長径16m、短径8mのアルミパネルでつくられた卵型オブジェが浮かんでいた。オブジェは細い斜めの柱によって支えられていて、浮遊感を出すために正面からは柱がほとんど見えないようになっていた。ただ、全てを裏側にするのは無理だったためか1本だけ前から支えていた。ちなみにこのオブジェは内部にプロジェクターが設置されていて、夜になると表面に映像を映し出すようになっていると。中央区佃2丁目2。そしてリバーシティ21・5号棟の中央付近に設置されていたのが「街の鼓動」。中央に釣ってある風車の如きオブジェ。夜になると光るのか?「佃ニ北」交差点が右手に。そして「相生橋」の佃2丁目側の橋の袂に到着。お疲れ気味の「相生橋」案内板。相生橋は、隅田川派川(はせん)に架かる橋で、上流の永代橋に相対する橋として名付けられた。形式は、大正8年(1919)に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならいトラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組み立てて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるように整備ました。橋の長さは149.1m、幅員36.8 mです。平成10年(1998) 12月19日に全線開通しました。新しい「相生橋碑」。「佃島が埋め立てられて月島となって、人々が住む町が開けるとともに、交通の便や、水道が必要になった。そこでまず、深川との間にこの相生橋が架けられた。明治36年(1903)のことであった。その後改修され、中ノ島で、大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川が、ここで左右に、大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正15年(1926)11月に、震災復興事業の最初の架橋として完成した。 昭和59年(1984)3月 東京都」トラス構造の「相生橋」。「派川(はせん)」とは1本の川には、一般に多数の川が次々に集まってくるが、水量、河道の長さ、流域の広さなどにおいて有力なものを幹川あるいは本流と呼び、幹川に合流するものを支川(支流)、幹川から分派して直接海に入るか再び幹川に合流するものを派川または派流(分流)という と。現在地はここ。トラス構造に近づいて。名称:相生橋構造種別:3径間鋼トラス桁河口からの距離:0.9km橋の長さ:149.1m有効幅員:31m竣工:2000年(H12)「相生橋」。「永代橋」方向を見る。「清澄通り」と交差する「八重洲通り」の横断歩道を渡る。渡りながら「相生橋」を見る。「隅田川」の「派川」越しに「豊洲1丁目」のビル群を見る。ズームして。ビル群の手前が「豊洲貯木場跡」。「相生橋」の下流側の歩道を進む。右手前方・係留杭の先に3本マストの瀟洒な「帆船」の姿が見えて来た。「豊洲水門」をズームして。門扉型式 複葉ローラーゲート有効幅員 17.4m×2連上空制限高(A.P.) +5.7m竣工年度 昭和37年「豊洲水門」の下流で隅田川派川に豊洲運河が合流。また、隅田川派川の右岸から朝潮運河が分流する。「春海橋」方向を見る。「相生橋」の中央付近を通過。前方、橋の下に石灯籠が現れた。ズームして。「中の島公園 感潮池」にある「石灯籠」。隅田川河口部で本流から分かれ、晴海運河・豊洲運河に通じる派川に架かるのが相生橋で、中央区佃と江東区越中島を結んでいる。両岸の間にあった中州が中の島で、明治36年に初めて橋が架けられた時、島を中継地として2本の木橋が架けられ、佃島側が相生大橋、越中島側が相生小橋と呼ばれた。しかし、これらの橋は関東大震災で焼失し、大正15年に再建、その後、昭和2年に中の島は隅田川唯一の水上公園として整備された。相生橋は木橋の時代から月の名所でもあり、中の島公園も大いに賑わったということだが、隅田川の水質汚染が進むにつれ、訪れる人も少なくなり、昭和48年に公園は閉鎖されてしまった。その後、隅田川の水質も改善し、昭和53年の花火大会の17年ぶり復活に続き、中の島公園も昭和55年に再び開園した。この時、中の島は越中島と地続きになり、園内に新たに池もつくられた。江東区越中島1丁目3−26先。再び豊洲の高層ビル群を見る。左側に「キャナルワーフタワーズW&E塔」、右側に「アーバンドックパークシティ豊洲タワー」。「中の島公園」碑が。「中の島公園」に下りて石灯籠を。「石灯籠」越しに「相生橋」を見る。「感潮池断面見取図」。池は感潮池(潮入の池)で、隅田川との間に通水管が設けられ、潮の干満により水位が変化する仕組みになっているとのこと。この時は潮の干潮時で、池には水が入って来ていなかった。通水菅がこれであっただろうか。石灯籠越しに、この後に訪ねた「帆船・明治丸」を見る。「帆船・明治丸」。左に豊洲の高層ビル群、右に「春海橋」を挟んで月島の高層ビル群。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.15
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「住吉神社」を後にして、「中央区立佃公園」の「隅田川」の川岸を上流に向かって歩く。中央大橋の南側に位置する細長い公園である。中央大橋から北側は石川島公園であり、隅田川テラスで繋がっている。公園内には、大川端リバーシティ21の超高層マンションが立つ。また、公園内を佃川支川が流れる。公園内には石川島灯台がある。これは復元されたものであり、1階は公衆便所である。佃公園は、夜景の名所として知られる。この夜景は、大川端リバーシティ21などのマンションの灯や、石川島灯台・中央大橋・東京スカイツリーなどのライトアップによるものである。また、公園内には桜も多く植えられており、桜の名所としても知られる。佃公園は隅田川テラスを擁しており、ロケーション撮影等に使われる機会も多い。佃堀周辺も佃公園の一部として設定されているが、この部分のみは、ジャリ公園と通称される。案内地図。現在地はここ。「石川島人足寄場1790年「鬼の平蔵」として知られる長谷川平蔵の建策によリ、石川島の地に人足寄場をつくり、無宿人等を収容して職業指導をおこないました。明治中期以降は石川島造船所(現、石川島掲磨重工業)の敷地となりましたが、工場は1979年に閉鎖され、その跡地は「大川端リバーシティ」の高層ビル群に生まれ変わりました。」「中央大橋1993年に、佃大橋と永代橋との間に新しく架けられた橋です。高層ビルが立ち並ぶ近代的な街並として生まれ変った佃地区と都心を結ぶ橋として計画されました。形式は近代的な街並にマッチし、地域のシンボルとしての役割を果たすように、タワーを有した斜張橋となっています。隅田川とセーヌ川の友好河川提携を記念して、パリ市の協力によりフランスの彫刻家オシップ・ザッキンが製作したモニュメント「メッセンジャー」像が設置されています。」前方に「中央大橋」が姿を表した。「佃大橋」を振り返る。「聖路加タワー」頂部付近から陽光が。中央大橋は、隅田川にかかる橋で、東京都道463号上野月島線中央大橋支線(八重洲通り)を通す橋である。西岸は中央区新川二丁目、東岸は中央区佃一丁目。1994年1月に開通した架橋であり、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の架橋である。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされている。隅田川はフランスのセーヌ川と1989年(平成元年)に友好河川を提携しており、中央大橋を架橋する際に、フランスのデザイン会社に設計を依頼した。そのためか、主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されている。また上流側の中央橋脚部には当時のパリ市長であったジャック・シラクから東京都に友好の印として贈られた彫刻家オシップ・ザッキン作の「メッセンジャー」と名づけられた彫像が鎮座する。彫像は川側を向いており、橋をくぐる水上バスからの方が見やすい。なお、このお礼にパリ市に「屋形船」を寄贈している。紅葉も始まって。「中央大橋」をカメラで追う。・構造形式 二径間連続鋼斜張橋・橋長 210.7m・幅員 25.0m・竣工 1993年(平成5年)8月26日(レインボーブリッジと同日)・橋桁製作 石川島播磨重工業横浜工場「中央大橋」越しに「東京スカイツリー」の姿が。更に「中央大橋」越しに「永代橋」の姿も確認できた。主塔および欄干部分に日本の「兜」を意識した特徴的な意匠が施されているのだ と。「中央大橋」下を通過し上流側の「メッセンジャー」像を見る。正面に「永代橋」と「東京スカイツリー」。ズームして。「東京スカイツリー」をズーム。これでもかと。隅田川に架かる三大名橋の一つ「永代橋」は、夜にはライトアップされて夜景が美しい美橋で勝鬨橋、清洲橋と共に、国の重要文化財に指定されているのだ。ライトアップされて夜景が美しい「永代橋」をネットから。「石川島公園」内、「リバーシティー21」前、右側にあったのが「あした」重岡 建治。ズームして。この後も重岡 建治の作品がこの付近にはいくつか展示されていたのであった。東京湾クルーズ船が姿を現した。「ジュビリー」であっただろうか?そして「中央区立石川島公園」の先端部に到着。「晴海運河」が前方に。「永代橋」が前方に。「中央大橋」を振り返る。階段を下りて最先端部に向かう。「都市公園コンクール 建設大臣賞」プレート。ズームして。「施工(造園修景)部門中央区立石川島公園平成12年10月27日施工 株式会社 泰正」と。現在地はここ。「晴海運河」の「相生橋」方向を望む。階段の上が「パリ広場」、その後ろに「リバーシティー21 センチュリーパークタワー」。この時は干潮時あったのだろうか?ウッドデッキ上には船の係留用の「係船柱曲柱」が設置されていた。周囲を芝生?に囲まれた階段を上る。ここが「パリ広場」。「パリ広場 PLACE DE PARIS」。佃島の北端、石川島公園の一角にある「パリ広場」。1999年の「日本におけるフランス年」を記念して作られたこの広場には、日本のシンボル桜とパリのシンボルマロニエの木が植えられている。セーヌ川のほとりのような雰囲気を作り出していりのだと。この地形がパリのセーヌ川に浮かぶシテ島に似ているから??このモニュメントは子供たちが手を繋いでいる様子がモチーフだと。「友情から未来へ」と名付けられてるとのこと。「友情から未来へ L'Amtié pour Avenir」。「パリ広場記念碑 「友情から未来へ」1996年、日本とフランスは21世紀に向けて両国の友好と交流の更なる発展を祈念し・・・・???」。以下は転記不可・・・・。台座。台座の絵は何をモチーフにしているのか?ズームして。土台に敷きつめられた中央区の小学生とフランス人学校の児童が描いた250枚の絵。日仏友好の未来が生き生きと表現されていると。子供たちが手を繋いでいる様子 と。「パリ広場」を後にして「晴海運河」に沿って進む。現在位置図。「日本初の民営洋式造船所 発祥の地」案内プレート。中央区佃2丁目1。「初の蒸気軍艦 千代田形米国ペリー艦隊 が来航した1853年(嘉永6年)幕府の命を受けた水戸藩 がこの地に石川島造船所 を創設した。同造船所は洋式帆装軍艦「旭日丸」をはじめ、日本人によって設計・建造された最初の上記軍艦「千代田形」など数多の艦船を次々と建造、造船技術を通じてわが国産業の近代化に大きく貢献した。明治維新後の1876年(明治9年)平野富二 によりわが国初の民営洋式造船所として再スタートしその後1889年(明治22年)には渋沢栄一 などの協力により会社組織となり、有限責任石川島造船所、株式会社東京石川島造船所の社名の下、明治から大正・昭和にかけて、多くの軍艦・商船を世に送り出してきた。この地での造船事業は1939年(昭和14年)造船部門の東京深川区豊洲への移設によって幕を閉じた。その後、石川島重工業株式会社、石川島播磨重工業株式会社と社名が変更される中で、当地は日本屈指の重機械類の専門工場として活躍してきたが、1979年(昭和54年)の工場大移転によりその長い歴史を終えた。」「初の蒸気軍艦 千代田形」。「石川島資料館のご案内」。この日は水曜日であったが訪ね忘れたのであった!!「センチュリーパークタワー」前を進む。正面に「スカイライトタワー」。東京都道463号上野月島線中央大橋支線(八重洲通り)側の「センチュリーパークタワー」入口。「中央大橋南詰」交差点。正面に見えたのが「中央大橋」の支柱。兜をイメージした「中央大橋」の支柱をズームして。「ピアウエストスクエア」。1993年竣工のノースウィングと1991年竣工のサウスウィングに分かれている地上3階建ての賃貸オフィス。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.14
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そして正面の「拝殿」。「拝殿」前の石鳥居(右)。「拝殿」前の石鳥居(左)。正面から。さらに「拝殿」に近づいて。賽銭箱は無数に鋲を打った金属製で重厚感に溢れていた。防火の為だろうか、それとも防犯なのか。さらに、天井は格子天井。扁額「住吉神社」。「住吉神社略縁起御祭神 底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(ながつつのおのみこと) ・表筒之男命(うわつつのおのみこと)(住吉三神) 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神宮皇后) 東照御親命(あずまてるみおやのみこと)(徳川家康)例祭 八月六日「西の海阿波伎の原の潮路より顕われ出でし住之江の神」とト部兼直の和歌にあるように住吉大神は、遠き神代の昔、筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原に於いて顕われた伊邪那岐大神の御子、底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命の三柱の神です。神功皇后三韓征伐の祭、皇后自ら御親祭をなさり住吉三神の御守護により無事達成なさりました。その帰途、摂津国西成郡田蓑島(大阪佃)にお寄りになり住吉三神を遥拝になりました。これが大阪佃の住吉の社(田蓑神社)の起源です。遥か後、天正年問に徳川家康公が摂津の多田の廟に参詣の時、田蓑島(大阪佃)の漁夫達が漁船をもって神崎川の渡船を勤めた由縁で家康公がこの島の住吉の社(田蓑神社)にも参詣し、家康公の漁業の傍ら田も作れとの事で、村名を田蓑から佃に改めさせました。そして田蓑の名を残すため社名を住吉神社から田蓑神社へと改めました。天正十八年(1590)家康公が関東下降の際、家康公の命により摂津国佃の漁夫三十三人と住吉の社(田蓑神社)の神職平岡正大夫の弟、権大夫好次が分神霊を奉戴して江戸に下り、寛永年問に幕府より鉄砲洲向いの干潟を賜り、築島エ事を起こし、正保ニ年に竣工し、元の名から佃島と名付け、住吉明神の社地を定めて、正保三年(1646)六月ニ十九日、住吉三神、神功皇后、徳川家康公の御霊を奉遷祭祀しました。これが佃住吉神社の起こりです。佃島は江戸湊の入り口に位置し、海運業、各問屋組合をはじめ多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神として信仰を集めました。その後、月島、勝どき、豊海、晴海と埋め立てが行われ、その地域の産土神(氏神)として信仰されています。」そして境内を戻ると、「水盤舎」の奥にあったのが「鰹塚」碑。「鰹塚鰹節問屋は江戸時代から、住吉大神を生業繁栄の守護神として奉賛してきました。神社建築では、棟木の上に鰹節に似た円柱状の飾り木「堅魚木」が横に並んでいます。わが国最古の法典である「大宝律令」(七〇一年)、「養老律令」(七一〇年)に海産物調賦に、堅魚、岩堅魚、堅魚煎汁(岩詰めたエキス)の記録があるように、大和民族は古来より鰹を食し、保存料、調味料としても利用してきました。東京鰹節類卸商業協同組合は、の御霊に感謝慰霊の意を込め、また豊漁を願い、昭和ニ十八年五月「鰹塚」をここに建立しました。費用は組合邑九十六名の積み立てによる浄財でまかなわれました。塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)であります。表面の揮毫は、日展審査委員で組合邑・節問屋「中弥」店主でもある「山崎節堂」氏、裏面の碑文は慶應義塾大学名誉教授「池田弥三郎」氏によるものです。 東京鰹節類卸商業協同組合」歴史を感じさせる石塔。1798年(寛政10年)、江戸住吉構が佃住吉神社に石灯籠を奉納したのだと。基壇には「住吉組」の文字が刻まれていた。藤棚の下の木柱には文字が。近づいたが・・・??藤棚の様子をネットから。その奥に「信」と刻まれた石碑。住吉神社の末社「疱瘡神社」・「疫神社」。祭神 素戔嗚命(すさのおのみこと) 疫神(えきじん)御神徳 麻疹(流行病・疫病)退散。佃島では文久2年(1862)に麻疹が流行し、多くの人が命を落としました。その際には7尺の船を造り、そこへ災いを移した藁の人形(ひとがた)を乗せて、漁師の子供らの手によって沖へ流させたという記録が残っているとのこと。扁額「疱瘡神社」。扁額「疫神社」。こちらは、住吉神社の末社である「船魂神社」が「疱瘡神社」・「疫神社」の左隣りに。1869年(明治2年)、大伝場町(おおでんまちょう)1丁目(現在の東京都中央区日本橋本町2・3丁目)の太物店(ふとものだな)が入船稲荷社を佃住吉神社の境内へと遷座したのだと。太物店とは綿織物・麻織物などの太い糸の織物(太物)を商う店舗を指す。「御大禮記念植樹碑」?が石鳥居の横に。「船魂神社」に近づいて。御祭神 船魂神(ふなだましん) 住吉三神(すみよしさんじん)御神徳 船体安全・大漁満足・航海安全社殿の左右に見事な龍の彫刻。扁額「船魂神社」。末社「入船稲荷神社」。住吉神社の拝殿の右奥にある宮神輿庫の隣りにあった。手前左には、板で塞がった水盤が。明治2年2月27日に鎮座。佃島(佃1丁目)にはこの他に「森稲荷神社」・「浪除稲荷神社・於咲稲荷神社」の三か所四社の稲荷神社が鎮座し、毎年初午祭が行われる と。石鳥居に近づいて。狛狐(右)。狛狐(左)。御祭神 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)御神徳 五穀豊穣・産業発展扁額「入船稲荷神社」見事な龍の彫刻。そして「新神輿庫」。横壁のガラス窓越しに新旧の神輿を。2011年(平成23年)秋山三五郎が佃住吉神社の八角神輿を新たに制作した。これを機に旧い八角神輿が神輿としての役割を終え、現在は東京都中央区の中央区民文化財として、このコンクリート造りの神輿蔵に鎮座していると。旧神輿は1838年(天保9年)芝大門の大仏師・万屋利兵衛が佃住吉神社の八角神輿を制作した。かつての神輿渡御(みこしとぎょ)は氏子が八角神輿を担ぎ、隅田川や江戸湊の水中に入って執り行った。気密を高めるために、八角神輿の内部は漆で仕上げられている と。こちらは2011年(平成23年)秋山三五郎が新たに制作した佃住吉神社の八角神輿であっただろうか。こちらはネットから。「住吉神社宮神輿 八角神輿【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定【左】平成二十三年製作芝大門の万屋利兵衛により天保九年(一八三八)に製作されました。八角の型は天皇陛下の御座 高御座(たかみくら)を擬したといわれています。古くは海中渡御が行われていたため、内部も漆が塗られ気密性が高められています。一七〇年以上例祭におて使用されてきましたが、保存のため平成ニ十三年に八丁堀秋山三五郎により新しく製作されました。」ネット👈リンク から。【右】天保九年製作 中央区区民有形民族文化財指定【左】平成二十三年製作「入船神社」の奥は水路になっていた。「石井ぎんざ歌碑」「明治は 遠くになっても 江戸が 残る 佃の夏祭り ぎんざ」歌碑の手前にも石灯籠が。「歌川広重 名所江戸百景 佃しま住吉の祭」佃島にある住吉神社のお祭りの風景を描いた作品。画面中央にある氏子旗には「住吉大明神」と書かれ、横には「安政4年6月」と書かれているように、この祭りは6月に行われた。氏子旗の奥には、神輿を担ぐ裸の若衆連中によって海中まで担ぎ込まれている様子が、勇壮に描かれている。初夏の爽やかな空気が感じられる と。お祭りで御輿をかつぐ人々の姿が描かれ、多くの人々で賑わう祭りの様子が伝わって来る と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.13
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そして「住吉小橋」の左手にあったのが「住吉水門」。「住吉水門」は佃煮発祥の地として知られる中央区佃にある佃川支川と隅田川の接続部に昭和40(1965)年に設置された幅員4メートルのこじんまりとしたローラーゲート式水門。そもそも佃は徳川家康が江戸入府の際に漁業の先進地だった摂津(いまの大阪)の佃村の漁民を引き連れ、隅田川河口の干潟を与えて埋め立てさせ、居住地としたのが始まりで、これが佃島の地名の由来となっている。この時、漁民たちが故郷の神々の分霊を祀った住吉神社(その後、徳川家康の神霊も祀る)が川べりに鎮座し、水門の名前にもなっているのだ。中央区佃1-1。「住吉水門」。形式:鋼製単葉ローラーゲート径間:4m×1連門扉高さ:5.75m竣工:昭和40年度平成28年度に耐震化工事が完了し門扉等が新しくなった。その先にあったのが「石川島灯台」。東京都中央区佃1丁目、中央区立佃公園のっ南側の一角に建つのが、「石川島灯台」。隅田川河口、品川沖を航行する船の安全ための常夜灯として築かれた石川島灯台を復元したモニュメントで、佃川支川が隅田川に合流する住吉水門近くに建ち、石川島の歴史を今に伝えるシンボル的な存在になっている。ここ、現在の中央区佃1丁目〜佃2丁目は、かつての石川島。寛永3年(1626年)、船手頭の石川家4代・石川八左衛門正次が幕府から1万7000坪の土地を拝領して石川島、八左衛門島と呼ばれるようになったのだ。石川家は寛政4年(1792年)、11代・石川正勲の時代に島を去るまで、石川島に屋敷を構えていた。寛政2年(1790年)には池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』でお馴染みの火付盗賊改・長谷川平蔵の提案で、老中・松平定信は石川島に人足寄場を設置し、石川家が去った後に石川島全体が人足寄場となっていた。設置の背景には、天明2年(1782年)〜天明7年(1787年)の天明の大飢饉による政情不安、犯罪の増加があった。人足寄場(にんそくよせば)とは、戸籍から外された無宿人、軽罪人らの収容、社会更正・復帰を目的とした施設で、石川島の佃島側を埋め立て、長谷川平蔵が自ら初代責任者に就任している(ここれが日本における刑務所のルーツです)。人足寄場での仕事は、大工、建具、塗物、紙漉き、米搗き、油絞りなどで、就労すると賃金が支給され、一定の金額に達した場合には、身元引受人を探して(戸籍を付与)釈放され、社会復帰を果たしたのだ。慶応2年(1866年)、人足寄場奉行・清水純崎(しみずじゅんき)が人足寄場で生産した油絞りの益金を利用し、人足寄場の西岸に築いた六角2層の常夜灯がこの石川島灯台。灯台の完成で江戸湾から日本橋方面に入る船の航路、近在漁師の安全が図られたのだ。現在の石川島灯台は、モニュメントで灯台としての機能はなく、公衆トイレになっていると ネットから。「石川島人足寄場」案内板。「江戸時代末期の佃島・石川島」。「佃島は摂津国西成群田村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁師達が幕府の許可を得て築造した漁村である。家康が1582年(天正10年)、京都から堺の地に遊んだ時、本能寺の変が伝えられ、急遽踵を返して間道を通り抜け大阪に向かったが、出水のため途方にくれている時に佃村の庄屋孫衛門が多数の舟を出して一行を助け、ここに徳川家と佃漁民の間に固い絆が結ばれることになった。その後、家康が江戸に幕府を開くにあたり、佃村の漁師に対する恩賞として彼らに幕府の御菜御用を命ずべく、老中安藤対馬守を通じて、その出府を促し、1613年(慶長18年)には「網引御免証文」を与え、江戸近海において特権的に漁が出来るようになった。1644年(正保元年)には現在の地に百間四方の土地を埋め立てて築造し故郷攝津国の住吉神社の分霊を奉祝し、島の名を佃島と命名した。石川島の灯台は1866年(慶応2年)、石川島人足寄場奉行清水純崎が隅田河口や品川沖航行の船舶のため、油絞りの益金を割き、人足の手で寄場南端に常夜灯を築かせたもので六角二層の堂々たる灯台であった。このたび佃公園を整備するにあたり、モニュメントとして灯台を建設するとともに、護岸前面に安藤広重の浮世絵をレリーフしたものを3題設置して往時をしのぼうとするものである。平成元年 3月中央区土木部公園緑地課」「石川島灯台」前から「隅田川」そして「パークシティ中央湊ザ・タワー」を見る。「隅田川」の岸にあった少女像。「みどりの風」、作者は・・・。左手前方・隅田川、佃大橋越しに「聖路加タワー」を見る。隅田川の下流方向。左手奥に「亀島川水門」、右手に「霊岸島水位観測所」が見えた。「みどりの風」と「石川島灯台」を振り返る。「みどりの風」と「石川島灯台」のコラボをズームして。「住吉水門」を振り返る。海鼠壁の「石川島灯台」。「住吉小橋(すみよしこばし)」越しに「住吉水門」。住吉小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。「住吉小橋」越しに「石川島灯台」を振り返る。外観は、木目調である。路面は、煉瓦調である。橋長 : 33.0m架橋 : 1997年(平成9年)4月上部工形式 : 2径間連続鋼床版I桁橋橋種 : 鋼橋管理者 : 中央区「住吉小橋」の中央付近に石川島灯台と潮干狩り風景を描いたタイルが嵌め込まれていた。そして鳥居越しに住吉神社の参道を見る。住吉神社朱の一の鳥居を振り返って。2016年(平成28年)2月、佃住吉神社の総代会が一の鳥居を建立した と。そして「住吉神社」の入口に到着。1646年8月10日(正保3年6月29日)佃住吉神社が創建された。祭神は大坂の田蓑神社の分霊・住吉四神と、東照御親命(あずまてるみおやのみこと・徳川家康)の合わせて五柱で、海運業や問屋組合を始めとする多くの町人から海上安全・渡航安全の守護神として崇敬を集めました。当初は旧暦6月29日を例大祭の祭日とし、現在は8月6日を例大祭の祭日とします。摂津田蓑神社の宮司が19代にあたり、ここ江戸佃住吉神社の宮司が13代にあたるとのこと。田蓑神社の社家が本家にあたり、ここ佃住吉神社の社家が分家にあたり、両家共に現在も同じ姓を名乗っていると。中央区佃1丁目1−14。社号標石「住吉神社」。左手に「住吉神社社務所」。右手に「水盤舎」。「奉獻」と刻まれた天保12年(1841)造立「手水鉢」(区民族文化財)は、海上安全を祈願して木綿問屋組合・白子組が奉納したもの と。住吉神社の水盤舎は、明治2年(1869)に再建した現在の社殿と同時期に建てられ、その後、明治44年(1911)に改築されている。構造は、棟を境にして本を開いて伏せたような形式の切妻造で、中心には四方転びの柱に囲まれるように石造の水盤が置かれていた。水盤舎の細部に目を凝らすと、欅材を用いた欄間や木鼻に見事な浮き彫り彫刻が施されていることに気付きく。四方に見られる欄間彫刻の表面には、石川島の灯台を背景にした佃の渡し風景・帆をはった二艘の廻船・網を打つ小舟・磯辺の風景を題材とした彫刻、内側にも、潮干狩りの風景などの彫刻が施されています。さらに、木鼻には躍動感のある唐獅子の彫刻が見られるなど、風情と風格を備えた水盤舎といえるであった。また、参拝者が利用する石造の水盤は、天保12(1841)に江戸の木綿問屋仲間の白子組(越後屋・白木屋・大丸などが所属)が奉納したもので、背面に「天保12年 丑正月 白子組」の刻銘が見られる。住吉神社境内の水盤舎と水盤は、区内の歴史や文化と関わりの深い文化財であるのだと。切妻造りの手水舎の欄間には、佃島の時代背景が分かる彫刻が施されていた。正面「石川島灯台と佃の渡し」。左側面「網をうつ2艘の小舟」と蟇股。懸魚「雲間を飛ぶ3匹の鳥」。背面だけは両面彫刻で外側「波間で網をかける人など、磯の景色」、内側「潮干狩り風景」。木鼻「獅子」、持ち送り「波と亀」の彫刻。「住吉神社の水盤舎・陶製扁額所在地 中央区佃1-1-14住吉神社は江戸初期に、摂津国西成郡(大阪市)佃村の漁民が江戸に移住した後、正保三年(一六四六)に現在地に創建された佃島の鎮守です。当社は、創建以来、佃島の鎮護のみならす、水運関係の人々から厚い信仰を受けてにぎわいました。水盤舎は欅材の切妻造、瓦葺きの建物です。明治ニ年(一八六九)に再建され、同四十四年に改築されました。水盤舎の欄問は、明治ニ年再建時のものを使ったと推定されています。欄問の正面には石川島の灯台と佃の渡し、側面には帆をはった回船や網をうつ小舟、背面には磯の景色、また内側にも潮干狩など、佃島の風景が彫られています。石造の水盤には「天保十ニ年白子組」と見え、木綿問屋組合が寄進したものです。正面鳥居の上にある篇額は、珍しい陶製で、白地に呉須で額字や雲文を染付けています。明治十五年(一八八ニ)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王です。いました。水盟舎と陶製扁額は、共に中央区民有形文化財に登録されています。 平成九年三月 中央区教育委員会」正面「ニの鳥居」の上にある篇額は、珍しい陶製。「ニの鳥居」は平成元年(1989年)1月15日建立の石鳥居。白地に呉須(ごす)で額字や雲文を染付けている。呉須とは、古くから染付などの磁器に使われている青色の顔料のこと。 江戸時代初期に中国より有田にもたされたと考えられており、今日では、特定の産地にとどまらず広く陶磁器に使われている。 他の絵の具と違い、呉須は素焼きの状態で着色するため、その青が色あせることはないとのこと。明治十五年(一八八ニ)六月に制作され、額字の筆者は有栖川宮幟仁親王 と。狛狗(右・阿形)。狛狗(右・吽形)。右に「神楽殿」。藤棚の手前にあった巨大な青銅製灯籠。1925年(大正14年)10月頃、佃島の住民が佃住吉神社の境内に金子政吉(かのこまさきち)を讃える唐金(からかね・銅や錫などの合金・青銅)の灯籠を建てた と。金子政吉(1857年・安政4年-1934年・昭和9年3月8日)は佃島の親分で、二つ名に「魚河岸の政」がある。製作者は岡崎雪聲という人物。彼は日本橋の麒麟像も手掛けたとのこと。五世川柳 水谷緑亭句碑。五世川柳 水谷緑亭句碑。「水谷緑亭(1787~1858)は、南茅場町(現在の日本橋茅場町1丁目)に生まれ、本名を金蔵といいました。幼い時に父を亡くし、佃島の漁師太平次に養われ、佃島の名手をつとめたと伝えられています。また、養父母に孝養を尽くし、佃島の風俗を矯正した功績などにより、町奉行所から三度にわたり褒章を受けました。文化年間(1804~1818)初めに二世川柳柄井弥惣右衛門の門に入り、川柳を学び、腥斎佃(なまぐさいたつくり)と号しています。二世没後は四世川柳人見周助に学び、天保8年(1837年)50歳の時に五世川柳を継承しました。五世嗣号の翌年には、初世川柳以来続いた『誹風柳多留』が、167編で刊行を終えますが、天保12年(1841年)から『新編柳多留』を刊行し、嘉永2年(1849年)の終刊まで55編を数えました。緑亭は、この間に川柳の式法を作り、晩年に『柳風狂句』と名付けています。編著には『狂句百味篳筒』をはじめ『住吉社奉額狂句会』等があります。文筆業に長じ、川柳とは別に著作も多く、『遊仙沓春雨草子』『祥瑞白菊物語』などの草双紙や、『俳人百家撰』などの伝記物等も著しています。この句碑は、昭和41年(1966年)11月に佃の人々によって建立されたもので、 『和らかで かたく持ちたし 人ごころ』と緑亭の句が刻まれています。 平成9年3月 中央区教育委員会」境内から「ニの鳥居」を振り返る。社殿に向かって左側にあった末社の「龍神社」。扁額「龍神社」。「内陣」。「龍神社龍姫大神(たつひめのおおかみ)(豊玉姫神)於迦美大神(おがみのおおかみ)・竜王弁財天文政五年(1822)住吉神社の境内に水を司る神、龍姫大神(豊王姫神)が龍神社として創建されました。その後佃島に白蛇が現れ、人々はこれを龍神(於迦美大神)と崇め佃の町の中に祠を建てて祀りました。しかしこの祠は漁師が網を渋釜で者る作業場の近くにあったため火熱の害を受け易くある時網元の夢枕に祭神が現れ、住吉神社の境内へ移りたいとの神託(神のお告げ)がありました。これを受けて天保九年(1838)に住吉神社境内社の龍神社に合祀されました。翌年になると日本橋老舗白木屋の守護神として祀られていた大弁財天の御神徳が大き過ぎるため、持ちきれず龍神社へと合わせて祀られました。龍神社と大弁財天を合わせて「龍王弁財天」とお呼びするようになり、今日では開運出世・金運上昇・問売第盛・学業成就・芸能達者・病気平癒の御神徳を持っ神として、崇敬を集めています。また弁財天の縁日が「巳の日」であることから、多くの方々が「の日に参詣しました。現在龍神社の例祭は「さくら祭り」期問中の三月下旬頃行われます。巳成金龍神社の出世開運・金運上昇のお守りとして年間を通して頒布されています。持つ人の身(巳)」に福・金運が訪れるよう祈願されたお守りです。巳の守毎年初めの龍神社の縁日である「初巳の日」に頒布されるお守りです。年の初めにその一年間の個人で家庭の徳・出世・開運を導くお守りです。」拝殿の左・佃川支川側にあったのが「旧神輿庫」。煉瓦ニ階建(イギリス積み)の「神輿庫」。1910年(明治43年)12月に860円を投じて神輿蔵を建てたのだと。イギリス積みは、レンガの長手(長い面)だけの段、小口(短い面)だけの段を交互に積み上げる方式。「旧神輿庫形状:煉瓦ニ階建(イギリス積み)坪数:四坪五合八勺竣成:明治四十三年十ニ月費用:八百六十円住吉神社では明治四十三年(一九一〇)に大規模な修繕・改築等を行い、その事業の一環としてこの神輿庫が新築されました。当時東京府へ提出した工事開始願書には、神輿庫について(下)の様に記されています。神輿庫ノ儀ハ従来神輿ヲ拝殿ノー隅ニ置キ候為ニ平時甚タ不便ヲ感シ候ニ付今回新築致シ神輿ヲ納置シ度(後略)明治四十三年十一月ニ十五日(意訳)神神輿については、今まで神輿は拝殿の隅へ置いてあり、その為普段大変不便を感じていたので、この際新築して、ここへ神輿を納めようと思います。神社境内にレンガ造りの神輿庫は同時から珍しいものだったかもしれません。平成ニ十三年の震災で破損致しましたが、貴重な歴史的建築物として、補強工事を行い現在も使用されています。尚、宮神輿(八角神輿)は現在、社殿に向かって右側のコンクリート造りの庫に安置されており、こちらの煉瓦の庫はその他の祭具が納められています。」「古河神社(ふるかわじんじゃ)」祭神:不詳御神徳:水辺の守護佃島周辺の水辺を守る神様で、石の祠。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.12
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「佃天台地蔵尊」を後にして、「佃小橋(つくだこばし)」を渡る。佃小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。橋長 : 12.5m架橋 : 1984年(昭和59年)3月上部工形式 : PC単純I桁橋橋種 : RC橋管理者 : 中央区外観は、朱塗りである。欄干の柱の上に、装飾として擬宝珠が設けられているなど、歴史的な意匠が施されていた。「佃小橋」の下の、佃川支川の川底には、3年に1度行われる住吉神社の例大祭に用いる「抱木(だきぎ)」(大幟の柱)が、保存のため埋設されているとのこと。佃小橋から見ることができる位置には、佃住吉講によって、このことを知らせる案内板が設置されていた。中央区佃1丁目10−11。大幟の柱や抱木は、空気に触れて木が腐ってしまわないように、三年の間、川底に埋められている。例大祭の際には、水の引く干潮時を狙って掘り起こされるのだと。「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(一七九八年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が、埋設されておりますので立入ったり掘り起こしたりしないで下さい。佃住吉講」。「佃小橋」の先、右側にあったのが「日の出湯」中央区佃1丁目6−7。大栄マンションの1階にあった、男湯と女湯の入口が分かれた銭湯。「本日臨時休業」と。そして次に訪ねたのが「旧飯田家住宅」。佃島は、徳川家康公の命で摂津国(現在の大阪府北部周辺)佃村などから移住した漁師達によって、江戸湊の要・隅田川河口の干潟が造成されて1644年に完成しました。近代になってから、月島の埋め立てなどがありましたが、約400年前の地割りをほぼとどめています。関東大震災や太平洋戦争時の空襲からの被害も免れたので、歴史的な建造物や家屋も多く残っています。開発が進んだ現代の東京では、きわめて稀有な存在と言えます。中央区佃1丁目3−6。「飯田用水」と。「■■■田島邸 荷物撤去についてお知らせ■■■」とあったが・・・???。ネットには「佃島に建つ築100年の魚問屋 旧飯田家住宅は、亡き田島恒夫さんを想い起こす住まいです。」との文章があったが・・・。「旧飯田家住宅」👈リンクは、「佃喜八」という屋号をもつ日本橋魚市場の魚問屋の併用住宅として大正9年(1920)頃に建築されました。佃島の「中通り」に面して建つ2階建の出桁造(だしげたづくり)町家で、魚問屋らしく北側に生け簀(いけす)と手押しポンプの井戸を配した広い土間をもち、南側には住宅への玄関を独立して設けていることが特徴です。土間の入口の鴨居には、商家のステータスとなる背の高い人見梁(ひとみばり)を用い、大八車が入りやすいように敷居が外れるようになっています。また2階には榁(むろ)の変木を用いた数寄屋風の続き間座敷があり、昭和のはじめには、東京宝塚劇場の開設にあわせて阪急電鉄社長の小林一三(こばやしいちぞう)が滞在したとも伝えられています。この銅板には文字があったのであろうか。懐かしい手動井戸ポンプ。振り返って。そして正面に見えて来たのが「佃まちかど展示館」。中央区佃1丁目2。近づいて。「中央区は江戸時代より、わが国の文化・商工業・情報の中心として発展してきた長い歴史と伝統を誇る由緒あるまちです。面積は小さいながらも、江戸五街道の起点である名橋「日本橋」、世界のショッピングストリート「銀座」、日本のウォール街「兜町」、食文化の中心「築地」、佃や月島をはじめとした豊かな水辺等さまざまな魅力に満ちあふれ、多くの人たちが集う活気とにぎわいのまちとして、めざましい発展を遂げてきました。以来400年余り、中央区は歴史と伝統を育み、江戸以来の老舗や地域のお祭りなど、多様な文化資源が脈々と息づいています。この中央区の魅力を皆様に広く知っていただくため、地域の文化資源を「まちかど展示館」として整備し、開設しています。展示館は、小さな老舗内の伝統工芸品を飾ったショーケースから企業のものづくりや歴史を展示したもの、あるいは下町の祭事に使用する神輿など、規模や展示方法はそれぞれですが、中央区が誇る文化の一端をかいまみることができます。中央区の“ちょっとすごい”を是非、お訪ねください。」と。中央区佃1丁目2。内部をネットから。「佃まちかど展示館 👈リンクまちかど展示館は、地域に根づいたまちの歴史や記憶を区民等が自ら掘り起こし、展示や公開をすることで、地域文化の継承や住むまちに誇りや愛着心を育んでいただくため、区が公認し設置しているものです。佃島は、攝津国西成郡(現在の大阪市西淀川区)佃村・大和田村の漁師たちが、大川(隅田川)河口付近の干潟百間四方を拝領し、正保元年(1644年)に埋め立て造成した島です。故郷の名をとり佃島と名づけられました。漁師たちは、移住以来徳川将軍へ日々の鮮魚を献じていました。特に白魚は将軍の食膳に不可欠なものだったといい、今も佃島漁業組合に白魚献上箱が伝えられています。また、住吉神社は正保3年(1646年)に大阪の住吉神社の分霊を移したもので佃から月島一帯の氏神となっています。3年に1度の大祭には、神興が繰り出し月島地域が沸きかえります。佃まちかど展示館には、こうした佃島の歴史や伝統を象徴する千貫神輿や区民文化財である龍虎の獅子頭、佃例大祭の写真などを展示しています。また、この他にもたくさんの貴重な文化資源が残されています。」龍虎の獅子頭は写真が展示されていた。下には龍(左)虎(右)の獅子頭。「この龍虎の頭は制作年代不詳にして最も古きものなり既に天保初年発行の「東都歳時記」夏の條に 六月廿八、九日佃島住吉明神祭礼 龍虎の頭を渡す云々とあるは之れにして江戸時代佃ハ幾多の火災に罹り全島焼土と化したる事もあれと何時もこの龍虎の頭ハ不思議にも其の災いをまぬがれてり大正十年頃迄ハ大祭の時に此の頭を渡せしが大獅子頭新造以来之れを渡さず尚大祭の時ハ此の場所に庭を造り飾る事古例なり佃住吉講」黒駒の獅子頭(左 雄獅子・右 雌獅子)。「黒駒の頭について(中央区指定文化財 指定第七号)制作年代文政ニ年六月で佃島で二番目に古い頭です。獅子の頭ですが漆黒に塗られている為、黒駒と呼称されています。製作完成時に、あまりの出来栄えに、塗りの良否を試そうと、渋釜の煮えたぎった熱湯に漬けられたが少しも剥げる事なく漆黒を保ち、塗りがいかに良いかを示したと言い伝えられています。昭和四十年位までは子供達によって渡御していましたがその後、渡御はぜずに大祭時には安置のみとなりました。尚、平日は紫外線による劣化防止の為、写真での展示となります。」そして「千貫神輿」。もとは終戦後に千葉の寒川神社の宮神輿として新調されたものですが、あまりの重さに200人の怪我人を出したというエピソードが残っています。この神輿があまりの大きさと重量のためにその後、人形町末廣神社を経て、昭和34年に佃住吉講が譲り受けたのですが、担ぎ棒があまりに長く、狭い佃のまちに合わせて短く切ったといいます。3年に一度の住吉神社の例大祭にこの千貫神輿とともに若衆(わかいし)によって担がれるのが、中央区有形民俗文化財に指定されている文政年間作の龍虎と黒駒、2対の獅子頭です。竜虎の獅子はその昔、収蔵された藏が焼けた時、水を吹き鎮火したという伝説が残されていて、佃が震災や戦災を逃れたのも龍虎のお陰と言い伝えられているそうです。展示館の右手には「佃島渡船」の石碑が立っていた。江戸時代から佃大橋ができるまで渡し船が隅田川を行き来していました。そしてこの地がルーツとして知られる佃煮の老舗。町の氏神である住吉神社。さらには戦災を逃れた情緒ある家並みなど、佃には見所がたくさん。歴史ある住吉神社の威勢のいい例大祭はとても有名で魅力的ですが、昭和の面影を色濃く残した日常の静かな佃には格別の趣きがあります。人家の声が聞こえそうな細い路地や、そこに隠れるように祭られた佃天台地蔵尊。とても小さいけれど歴史ある森稲荷神社。古い駄菓子屋のような店構えの漆芸店など、展示館とともに訪れたいまちです。中央区佃1丁目2−10。「佃島渡船場跡所在地 中央区佃1-11-4 湊3-18先佃島は隅田川河口にできた自然の寄洲でした。江戸時代初期、初代将軍徳川家康の招きによって摂津国佃村(現大阪市西淀川区佃)から下ってきた漁師たちは、鉄砲洲東の干潟百間四方を埋立てて佃島を築きました。そしてこの島と対岸の船松町(現在の佃大橋西詰付近)との間に通された渡船が佃の渡しです。佃の渡しは、佃島住民だけでなく、住吉神社への参詣や花見見物などの人々に利用されました。明治時代には渡し賃が一人五厘であったことから「五厘の渡し」と呼ばれました。大正15年(1926)に渡船の運営が東京市に移ってからは定期的に運航されるようになり、昭和2年(1927)以降は有料の手漕ぎ渡船から無料の曳船渡船となりました。同年、渡船場の諸施設が整ったことを記念して、佃一丁目と湊三丁目にそれぞれ石碑が建てられました。昭和31年(1956)には一日平均60往復、1万6000人もの利用者がありましたが、昭和39年(1964)8月に佃大橋が完成したため、佃島の渡船は廃止されました。佃島渡船場跡は、渡船の歴史を記念する区民史跡として、中央区民文化財に登録されています。」「佃島の渡船(昭和30年代)」。「佃渡し跡広場」。中央区佃1丁目2−9前。右側の小さな広場・「佃渡し跡広場」にあった北條秀司句碑。佃まちかど展示館の横手、佃島渡船の碑に向かい合うようにあった。「雪降れば佃は古き江戸の島 秀司」「劇作家北條秀司は佃島が好きであった。新派俳優、花柳章太郎も佃島が好きであった。二人はたえず連れ立って、佃島を歩き、大川の渡船を楽しんだ。その結晶として、「佃の渡し」の芝居作りを企画した。それが昭和32年(1957年)12月の新橋演舞場に脚光を浴び、劇団新派の財産を一つ殖やし、北條の代表作をまた一つ世に残すことになった。」「佃公園のご案内」。テラスへの石段の手前には現在地周辺の地図が。現在地は、「隅田川」に架かる「佃大橋」南側、隅田川の左岸。「佃島の歴史佃島は江戸時代初期、摂津国佃村と大和田村の漁師たちが鉄砲洲沖の干潟を拝領して埋め立て、漁師町を形成しました。漁師たちは将軍に白魚献上の御用を勤めました。佃煮が生まれた地としても知られ、現在も3軒の佃煮屋が営業しています。関東大震災、戦災の難をまぬがれたため、長い年月の変容も受けながらも昔のたたずまいを今に残しています。」「住吉神社住吉神社は、江戸時代初期に摂津国佃村の漁師たちが江戸に移住したのち、大阪の住吉神社を分社し、1646年に現在地に創建した佃島の鎮守社です。以来、佃島の人びと、水運関係の人びとから厚い信仰をうけています。正面島居に掲げられた陶製扁額(区民有形文化財)は、有楢川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の揮毫によるものです。」テラスから「隅田川」に架かる「佃大橋」、その先にブリッジで繋がる「聖路加タワー」👈リンク。「隅田川」の上流方向。「隅田川」はこの先で「晴海運河」と二手に分かれているのだ。「佃島の街並み」、「佃まちかど資料館」前を引き返した左側にあったのが「佃煮 ㈱天安本店」。店内には様々な種類も佃煮が並んでいた。再び「佃島の街並み」を「住吉神社」の朱の鳥居に向かって歩く。前方に「住吉神社」の朱色の一の鳥居が見えて来た。古い民家。再び「聖路加タワー」。朱の鳥居越しに「住吉神社」の参道を見る。中央区佃1丁目1−18手前。正面に見えたのがこの後訪ねた「石川島灯台」。「佃川支川」を見る。反対側には「住吉水門」があった。現在地はココ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.11
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「月島もんじゃストリート」を後にして「西河岸通り」に出て「新富晴海通り」に向かって進む。前方に再び高架の「新月陸橋」が見えて来た。その先の歩道脇に案内板が。「佃島砲台跡」案内板。中央区月島1丁目1−8。「佃島砲台跡所在地 中央区月島一丁目一・ニ・十三・十四番地域江戸時代末期、佃島 の南に位置するこの場所には、外国船の渡来に対処するための海防施設「砲台 」が築かれました。江戸防衛・海防策の一環で砲台が築造されたのは、嘉永6(1853)年6月にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー が4隻の軍艦を率いて浦賀に来航し、日本の開国・貿易港の開港などを求めた出来事が契機でした。ペリー来航から2か月後の同年8月、幕府は非常事態に備えて品川沖に江戸防衛用の台場 (砲台)築造を始め、翌年11月までの短期間に「第一~第三・第五・第六・御殿山下」の六基(品川台場)を完成させました。佃島の南に砲台が築かれたのは、品川台場の築造から約10年後の元治元年(1864)のことでした。砲台新設の契機となったのは、文久3年(1863)に勃発した薩英戦争 や元治元年の四国(英・米・仏・蘭)連合艦隊による下関砲撃事件 などの出来事でした。幕府は、より強固な江戸湾防備体勢を敷くため、品川から越中島までの間に新たに海岸砲台の設置を計画し、佃島砲台もその一つとして築造されました。佃島砲台の規模は「東京市史稿」の「東京通志」によると「京橋区佃島南端海中ニアリ。東西凡三拾九間(約70メートル)、南北凡四拾間(約72メートル)、面積凡千三百七拾坪。元治元年甲子幕府之ヲ築キ、明治に至リ修理ヲ加ヘ、陸軍省ニ属ス」とあります。明治期には、陸軍省 所管の砲台となりましたが、明治20年(1887)に始まった月島築造工事の際に、佃島砲台を基点として月島第一号埋立地 (現在の月島1~4丁目)の埋立が進められ、工事の過程でその姿を消しました。平成22年3月 中央区教育委員会」明治17年「五千分の一東京図測量原図(部分)」。明治33年頃の佃島砲台。そして「佃公園 佃堀広場(ジャリ公園)」に到着。中央区佃1丁目8−9。その先、左手に神社があった。正面から。江戸時代に33人の漁師たちが昼夜休むことなく造った島。それが佃島あると。かつては東京湾に囲まれ、漁師町として栄えた地域。そんな佃に1つの鳥居を共有する2つの珍しい神社があった。左手が正一位とされている「波除稲荷神社」、右手が「於咲稲荷神社」。中央区佃1丁目8−4。石鳥居の扁額「奉納 於咲 浪除 稲荷大明神」。神社の玉垣(たまがき)。玉垣とは、神社・神域の周囲にめぐらされる垣のこと。周囲の玉垣にはこの神社に深い関わりのある水産業関連の社名や地域の方々の名前が彫られており、地域の人たちにとても大切にされてきたことが分かるのであった。「手水舎」。波除稲荷神社(なみよけいなりじんじゃ)。波除稲荷神社を正面から。江戸開府に伴う江戸市街地の整備工事の最後、激しい波風に困難を極めた海面の埋立工事をピタリと納めた御神徳に「波除」の尊称を奉られ、雲を従える龍・風を従える虎を一声で威伏させる獅子の巨大な頭が奉納され、此を担ぐ事に祭礼も始まったと。御祭神は「倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」。扁額「正一位 波除稲荷大明神」。社殿内陣。「さし石」。若者たちの力試し、力競べ用の石。イチョウの木の根元には大きなまん丸の石が。「さし石」と書いてあった。力石は、一般的な力石にみられるような楕円の形で、表面に凹凸が少ない安山岩系の自然石で造られていた。寸法は、概して長径60から64cm・短径36から43cm・厚さ18から23cmほどの石。重さは80~100kgもあろうか?さらに、力石には、「さし石」「奉納」の刻字とともに、「佃大市」「佃辰」「佃清」「吉松」など、実際にさし上げた(持ち上げた)者の名を読み取ることができるのであった。この「さし石」は、佃島の若い力自慢の漁師たちが力比べでさし上げた石であり、漁業を主たる産業としていた佃島の人びとの風俗習慣・信仰・郷土愛の発露によって当稲荷神社に奉納・保存されてきた貴重な民俗文化財といえるであろう。石垣再建碑。碑の裏面には発起人の名が。「於咲稲荷神社(おさきいなりじんじゃ)」。オサキという狐が疫病を退散したと言われており、当時の流行り病を鎮めるために作られたと。この神社はできて300年くらいの歴史があると。当時も現代のように、感染症に苦しめられていたのであろうか。神に祈りたくなる気持ちは今も同じ!!「疫病退散願」と書かれた御札が。祭神:稲荷大神。扁額「於咲稲荷大明神」。「令和八年例祭 住吉講参部 若衆募集」と。「三年に一度、心地良い疲れと充足感ある夏を共に佃住吉講参部では令和八年八月の住吉神社例祭に参加する若衆を募集しています。・中学生から四十代程度まての健康な方・八月の例祭を含む前後約三ヶ月の作業(主に日曜日)に参加できる方入部希望の方、ご質問のある方は下記へご連絡下さい。※募集締切 令和七年十一月末予定 ※面接がございます。※入部の際に入講金一万円貰い受けます。」正面に見えたのが「佃小橋(つくだこばし)」。佃小橋は、佃川支川に架かる橋である。橋の両岸とも東京都中央区佃1丁目である。外観は、朱塗りである。欄干の柱の上に、装飾として擬宝珠が設けられているなど、歴史的な意匠が施されていた。橋長 : 12.5m架橋 : 1984年(昭和59年)3月上部工形式 : PC単純I桁橋橋種 : RC橋管理者 : 中央区中央区佃1丁目8−1。「於咲稲荷神社・波除稲荷神社」の前にあったのが「佃天台地蔵尊 入口」案内板。中央区佃1丁目9−6。近づいて。人がすれ違うこともできないくらい細い路地の奥にお地蔵様がいたのであった。さらに奥に。家と家のスキマのような道を行くと、右側大銀杏の樹の手前に手水場が。近づいて。大銀杏の樹の奥に提灯がずらりと並ぶ立派な御堂が右奥に。佃天台地蔵尊と大銀杏を紹介する東京新聞の記事も掲示されていた。「巨樹古木に合いに行く稲荷(いなり)大明神前の細い路地を入ると、中ほどに灯火が。優しく温かな佃天台子育て地蔵尊の煌(ひ)。家々に挟まれたわずかな空間のお堂。しかし、そこは佃一丁目の人々の深く自然な信仰と心のぬくもりがこもっていた。チリ一つなく、美しく清掃された空間の心地よさ。自然石に刻まれた、とても珍しい地蔵尊も幸せそう。堂内の二抱えあるイチョウの大木も、やはり幸せそう。心豊かな小世界。「かって文化財の指定を遠慮されたので樹木の資料がない」と、中央区役所の話。そうか、なるほど、合点のゆくことです。信仰も大木もあるがまま、佃の人々と一つになって生きている。本来、文化財とは指定されるものではなく、人の心の努力がつくり守るもの。まさに、ここに住む人々の真骨頂を見た。房州通ひか、伊豆ゆきか、笛が聞える、あの笛が。渡わたれば佃島。メトロポオルの燈(ともし)が見える 木下杢太郎」昭和三十九年八月 江戸の名所「佃の渡」は三百十九年間の歴史に終止符打った。だが・・・・」正面から。「皆様へお願い地蔵尊の御影がいたんできましたので永く保存するために手をふれたり水をかけたりしない様にお願い致します。佃天台地蔵尊」小さな石祠も奉納されていた。石板に線刻で描かれたお地蔵様が祀られていた。江戸時代の中期正徳五年(1715)~元文三年(1738)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩を厚く信仰され、自ら地蔵尊造立を促された。その崇徳院宮法親王が淨名院建立の際に描かれた地蔵尊を後に地蔵比丘といわれた第三十八世の妙連大和尚が八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、地蔵尊を拝写して全国の信者に賜ったとのこと。この天台地子育地蔵尊には「天台地蔵比丘妙連」の刻名があり、この地蔵尊もその八萬四千体のひとつではないかと。狭い空間ながらたくさんの奉納提灯も飾られ、近隣の人たちによって守られていることがよくわかるのであった。奉納提灯に近づいて。大きな提灯「佃天台地蔵尊」も。「佃天台子育地蔵尊縁起」。「佃天台子育地蔵尊縁起江戸時代の中期正徳五年(一七一五)~元文三年(一七三八)に在住された上野寛永寺崇徳院宮法親王が地蔵菩薩と厚く信仰され、自ら地蔵尊像を描き江戸府内の寺院にたわまり、地蔵尊造立を促されたと伝えられています。享保八年(一七ニ三年)寛永寺の宮様、大明院宮崇徳院宮、随宜楽院宮の三代にわたり、律院建立と熱願されたことから、寛永寺第六世輪王寺宮の推挙を得て、比叡山に安楽律院、日光山に興運律院、上野東叡山に浄名律院が建立され、その浄名律院(現在、浄名院)建立の際、山内に地蔵尊像と描かれた崇徳院宮法親王が、松をお手植えされたので、地蔵寺といわれるやにも伝えられていますが、浄名院第三十八世に地蔵比丘(びく)といわれた妙運大和尚が、八萬四千体石地蔵尊建立を発願され、崇徳院宮の描かれた地蔵尊を拝写され全国の信者に賜わったことからとも伝えられています。(八萬四千体とは、仏典に『無量壽仏 有八萬四千相十一相客 有八萬四千随形好・・・』に拠る。)妙運大和尚が地蔵比丘といわれる所以は、嘉永3年(1850年)日光山星宮の常観寺に寓した際、地蔵尊信仰の縁ににふれられ一千体の石地蔵建立を発願され爾後、浄名院住職になられ、本格的に八萬四千体建立の大発願をなされたからといわれています。佃天台子育地蔵尊には、天台地蔵比丘妙運の刻銘があり、まさしく拝写されたお姿と同じく左手には如意宝珠、右手に錫杖を持たれております。またこの像を平らな自然石に刻まれていることもたいへん珍しいといわれています。この地蔵尊に天台の二文字があることは妙運比丘が天台宗の僧であったことから。いや天台宗の教義の一つに『一切衆生悉有仏性=人は本来的に仏である』とあることから、いつの頃からか定かではないのですが、こう呼ばれ親しまれてきたのではなかろうかと考えられます。この佃天台子育地蔵尊は頑是ない子供衆の様々なことを御守護下さる本願がおありになりますと同時に長壽延命・家内安全・諸願成就の地蔵尊といわれていることから古くから佃島の人々はもちろんのこと多くの人々に信仰され今日に至っております。平成十年一月佃天台地蔵尊信徒一同」そして再び、人がすれ違うこともできないくらい細い路地を戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.12.10
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