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今日は4月1日、しかし新型コロナ国内感染者は初の1日で230人超 、日本で感染が確認された人は、空港の検疫で見つかった人やチャーター機で帰国した人なども含めて合計2250人を越えたと深夜のニュースで、そしてこの数字は表面に現れた数字のみ。国連のグテレス事務総長は先日、新型コロナウイルスの感染拡大について、世界は「共通の敵に直面している」との認識を示し、「連帯が必要な人類の危機」だと訴えた。グテレス氏は「豊かな国は自国民にだけ対処する必要があると信じ込んではいけない。危機はいつでも、どこからでも訪れる可能性があるし、国際的な対策への貢献は豊かな国にとっても国益になる」「今こそ連帯の時だ」と。歴史を学び歴史に学ぶ「人間の知恵」が「新型コロナウイルス」で試されるているのだ。この様な状況の下でも、我が家の庭、畑の花々は順次、いつもの年の様に開花を始めています。まずは『庭梅(にわうめ)』葉が出る前に2~3輪ずつ固まって枝を覆うほどたくさんの花を咲かせています。そして我が庭の様々な水仙が開花中。旧来の品種も頑張っています。木瓜の花。スノーフレーク。紫のヒヤシンス。白のクリマスローズ。こちらは赤のクリスマスローズプリムラ。白のニラバナ。庭では春の陽気を迎えて種々な花々が咲き競っていますが我が家ではここぞとばかりに目を引いているのがこのニラバナ。太陽が出ると一斉にそちらの方に花を開き周りを圧倒する勢い。チューリップも各種。芍薬ももうじき開花。もみじも深緑の葉を、そして花も。ユキヤナギ。ハナカイドウ(花海棠)のピンクの花も。そして菜園の菜の花。こちらはブロッコリーの花。紅菜苔の花。サヤエンドウの花。こちらはスナップエンドウ。イチゴの花。そして我が趣味のミツバチ嬢達も新居に引っ越し活動を始めています。先日、妻が家の横の畑のヨモギを摘んで、草餅をつくってくれました。旬のよもぎをたっぷり使った春の和菓子?この日はきな粉で春の味・香りを楽しみました。畑で収穫したサヤインゲンのお吸い物も。そして一昨日の雪、我が家の前の農園の姿。積雪は3cm程度でしょうか。我が菜園のイチゴ畑。ツツジも白い帽子を。ブドウのような花を咲かせるムスカリ。ムスカリは耐寒性の強い花で、球根は植えっぱなしでも自然分球で増え、毎年花が咲くのです。ムスカリは鮮やかな青紫色の花が春の花壇を彩り、チューリップなどほかの花を引き立てる名わき役といってもよい花。 ・・・END・・・
2020.04.01
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『離れのやど「星ヶ山」』を後にして、更に坂を上り第3会場の『きのこ苑お山のたいしょう』に向かう。奥の第2駐車場に車を駐め散策開始。『苑内ご案内図』。『レストランお山のたいしょう』を起点に周囲に『おかめ桜』を楽しめる散策コースが造られていた。『農家レストラン お山のたいしょう』入口。『おかめ桜まつり 』「今から約20年前、縁あって植えたおかめ桜。春になり、花を咲かせたその姿にすっかり魅せられ「このかわいい桜を皆様にお楽しみ頂きたい!」と、年々植栽し、現在の姿となりました。鳥たちの声と、心ゆくまでご鑑賞下さい」『おかめ桜のおいたち』。「寒緋桜と豆桜(富士桜)をかけあわせた栽培品種で、イギリスで誕生しました。日本に里帰りの際、日本人になじみのある ”オカメ” と名付けられました。」『お山のたいしょう』の椎茸栽培法と食べ方が説明されていた。。「お山のたいしょうは、昔ながらの原木栽培を行っておりますが、この方法は日本での生産量の15%しか行われておりません。のこり85%はおがくず等で発生させる苗床栽培です。原木(コナラ)の栄養分100%で育つしたけは、安心してお召し上がり頂けます。お召し上がりの際は、しいたけの香り、食感をたのしめるよう、水洗いせずそのままお使い下さい。しいたけのカサの部分に白い斑点が沢山ついておりますが、これは新鮮な証拠です。また、カサの広い大きなしいたけも大変おいしくお召し上がり頂けます。まだちいさな赤ちゃんしいたけは、採らないであげてください。」散策コースを歩き、『おかめ桜』を楽しむ。下の黒い屋根は、ボイラーで温度管理されたしいたけ栽培ハウスの様であった。斜面に広がる『おかめ桜』。竹林越しに。今年の筍も」例年より早く顔を出すのであろう。途中『みはらし台』が。『みはらし台』からの『おかめ桜』。斜面には菜の花も開花中。黄色とピンクのBEST MIX。ミツバチの羽音も聞こえて来た。菜の花の香りの中でミツバチの姿を追う。発見!!。そして散策路を下ると、ホダ木置き場でホダ木から出た椎茸を発見。そして巨大な椎茸も。こちらは20cm近くはあろうか。『おかめ桜』と『菜の花』そしてその下にホダ木置き場。しばし、『おかめ桜』と『菜の花』のコラボ。ミツバチの羽音とともに『菜の花』を楽しむ。原木栽培で種菌を植え付けた『ホダ木』置き場。屋外に積み重ねて置かれていたが、既に収穫済みなのであろうか。緑と青空の下にピンク色の世界が。もちろん『健脚道』を進む。真紅の椿越しに『おかめ桜』を見る。椿を接写。そして1周して入口に戻る。4月上旬の絶景の写真も。照手桃(テルテモモ)が満開に成ると。『レストラン・お山のたいしょう』入口。レストラン内部にはお客が1組のみであったが。駐車場への道にはピンクのアセビの花が。そして『おかめ桜』に見送られながら駐車場に戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.13
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車で引き返し、第2会場の『離れの宿星ヶ山』に向かう。分岐点には中止になった『おかめ桜開催中』の看板が寂しそう。桜見物の人の姿は、時節柄もあり少なかった。花びらが下を向いて。『オーランジェ・ガルデン』からの下り坂の『おかめ桜』。第2会場の『離れのやど星ヶ山』に向かって分岐を入って行く。道路脇には既に花びらが散っていた。花びらを再びズームで。こちらは別の種類の桜か色が薄い。『おかめ桜』を写すオジサンの姿がサイドミラーに。そして第2会場の『離れの宿星ヶ山』に到着し車を降りる。手前の東屋風の建物。客室は、全棟1棟建て離れのログハウス。露天風呂付きログハウスの洋室、和室等があるようだ。左側にセンターハウス オリオン&レストラン「ななつの星」入口。左側には鶴の置物が。『おかめ桜』の並木を進む。せせらぎ散策道の小川の流れ。澄んだ空気、小鳥のさえずり、川の音…自然の中を歩く散策路はマイナスイオンでリフレッシュ効果抜群。身も心も癒される散歩道。夏にはホタルの姿も。ほとんど二人占めの散策を楽しむ。中年夫婦は愛犬を連れて。散策路の横に短い線路が。『豆相人車鉄道』と『ミニカーハウス』案内板。右側にあったのが『星ヶ山ミニカーハウス』。その手前に鐘が。ぎっしりと並んだ1500台ものミニカーは壮観。飛行機も展示。その横にあったのが、明治29年に全開通した人力による『豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)』。『豆相人車鉄道』。「明治29年全開通から10年間風光明媚な海岸線を人間が押しで熟海-小田原間を4時間かけて走る人車鉄道が運行していました。この復元車両は当寺の資料を基に製作しました。」「かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。『豆相人車鉄道』は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。」とネット情報から。客車の内部を覗く。当寺の写真。1車両を2~3人でひたすら押す姿が。当寺の『豆相人車鉄道』の路線図ガイド。 【http://www.city.odawara.kanagawa.jp/kanko/spot/p16553.html】より下記の写真が、以前、小田原宿を歩いた時に写した『人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡碑』。「東海道線は国府津駅から静岡が1889年に延伸しました。ただし沼津までは御殿場線が使われていました。熱海の住民運動から1888年国府津から小田原まで小田原馬車鉄道(現在の箱根登山鉄道)に鉄道を繋ごうとしましたが資金が集まらず、甲州財閥の雨宮敬次郎の案で人車軌道に変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年~1900年に漸次開通させました。1907年に社名を熱海鉄道と改めて蒸気機関車が引くタイプの軽便鉄道に切り替えました。この切り替え工事からヒントを得たのが芥川龍之介の「トロツコ」です。」と。毎月第三金曜日 PM3時より要予約で運行するのだと。『豆相人車鉄道』のマークには「人」の文字が。『おかめ桜』をこれでもかと。『沈丁花』も香り豊かに。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.12
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根府川駅を後にし、県道740号線・小田原湯河原線を西に進む。小さな下り坂の路地に入ると左手下に東海道線が再び姿を表す。そして白糸川の脇まで下り、『白糸川橋梁』を見に行く。『白糸川』の流れ。白き流れが陽光に輝く。前方の東海道新幹線の高架橋の下を潜って進む。その先に『白糸川橋梁』が姿を現す。白糸川に架かる橋を渡ると左手のカーブの場所に案内板があった。『根府川関所跡』案内板。「根府川関所跡東海道の脇街道であり、熱海や伊豆へ通じる根府川道の関門として、この地に根府川関所は設置されました。新編相模国風土記稿などによると、江戸時代初期の元和元年(1615)頃に設けられたとされており以後、明治維新のため明治2年(1869)に廃止されるまでの約250年間に渡り、明六つ(午前6時頃)の開門から暮六つ(午後6時頃)の閉門まで、破れば磔(はりつけ)により罰せられることもある厳しい掟により通行が取り締まられていました。箱根関所のほか、小田原藩内には、仙石原、矢倉沢、川村、谷ヶにも関所が設けられましたが、根府川関所は常駐する役人の数が箱根に次ぐ多さで、要衝として重要視されていたことがうかがえます。根府川関所は白糸川の南側にありました。関東大震災前までは礎石もあり、当時の様子がうかがえたそうですが、震災により埋没し、その後の新幹線の工事等により川の形も変化してしまい、関所跡は、現在、川底となっています。」『潮騒の駅根府川駅・江之浦漁港コース』案内。『白糸川橋梁』に向かって引き返す。そして『白糸川橋梁』が正面に。橋長:24mの鉄道橋・鋼ワーレントラス橋で、鉄道マニアに人気が高い。海岸線に近く、赤く塗装されたこの橋は、いわゆる鉄橋のイメージを大いに感じさせてくれるのであった。初代の橋梁は1922年(大正11年)に、根府川駅と真鶴駅の間に竣工。径間150フィートの複線上路トラスが3連と、その前後に径間40フィートの単線プレートガーダーが各2径間架かる構造であった。竣工翌年の1923年9月1日。関東大震災により背後の山が崩壊し、土石流が押し寄せて壊滅的な被害を受ける。3連トラスのうち一つは泥流に押し出され行方不明、一つは大破して泥流に埋没し、残る一つも一部が泥流に埋没したと。根府川駅の真鶴駅寄り(南側)、西側に相模湾に開けた谷筋に南北に架かり、在来線の東海道本線の複線を渡す。下流側に国道135号(真鶴道路旧道)、上流側に東海道新幹線の橋梁が並行する。鉄道撮影のスポットとしても知られ、1991年にはかながわの橋100選に選定された。地形的要因から特に南風の時には強風が観測され、しばしば列車の運行規制を受けた。この区間の東海道本線は首都圏と東海地方・西日本を結ぶ物流の動脈であるとともに、伊豆半島への観光路線としても重要であるため、風への対策が求められた。1991年に、車窓からの景色を極力損なわないよう60%充実金網方式の防風柵が設置された。この対策により、使用開始後1年間の実績で従前に比べ運転中止日数約80%減、運転中止本数約90%減の効果が見られているのだと。『白糸川橋梁』を真下から見上げる。更に進むと右手路地の角には『釈迦堂入口』と書かれた石碑があった。『白糸川橋梁』沿いに白糸川に向かって進む。小さな橋を渡る。橋を渡里ながら右手に見えたのが、白糸川と『釈迦堂』。白糸川の下流には国道135号線に架かる『新白糸橋(しんしらいとばし)』が見えた。再び『白糸川橋梁』を見上げると、『防風柵』がはっきりと確認できたのであった。国鉄時代はトラスが白色に塗装されていたが現在は赤色に。右手前方の『釈迦堂』に向かって進む。『釈迦堂』。大正関東地震の前は高台に位置していたこの『釈迦堂』は、震災により土砂の中に埋まったが、その後、釈迦像は見た目は無傷で掘り出された。被害のなかった釈迦像への信仰は高まり、釈迦堂は再建され、現在は地下の洞の中で昔のままの姿を見ることができるのだと。「根府川の旧家広井家の古文書によると広井家二十二世広井長十郎重友の代に頻発地震多く特に寛永九年一月二十一日と正保四年九月十四日と慶安元年四月二十二日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も来襲する等で世相は不安に満ちて居り、長十郎重友は村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩盤に釈迦尊像を像立して世相の安泰を祈ったとあります。お姿の右側に『寛文九申丙歳七月十二日、元喜道祐庵主』と刻まれて居ます。これは像立した長十郎重友の命日と戒名ですから、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。その左に『普明暦二配歳仲秋月』と其の左に『広井宗左衛門敬』と刻まれて居ります。宗左衛門は長十郎重友後改め宗左衛門と、広井家の系図にありますので、二十二世広井長十郎重友改め宗左衛門が、台座に刻まれて居る『大工権助策』『石匠寅佐代』によって明暦二年(一、六五六年)に像立したものと思われます。後に万治二年(一、六五九年)の大洪水で岩泉寺は現在の高台に引移ったがお釈迦様は岩盤に刻まれて居りますので引移す事ができないので現在の場所に残りました。大正十二年九月一日(一、九二三年)関東大地震が起こりまして関東一円は有史以来の大惨事となりました。お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に山津波の土砂で埋没してしまいました。お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居たのですが、土砂に埋まったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。お釈迦さまは長い歴史の移り変わりの中で言い伝えによれば、弘法大師の作とも言われ此の地方の信仰のより所としてまいりました。特にお釈迦さまを掘った人々が落ちた鉄橋と土砂の中から指一本損じないお姿を見て、如来の、あらたかさを驚嘆したとのことで、如来信者も多く、村内始め県西地方の人々の信仰厚く四月八日のお釈迦さまの誕生日には善男善女の参詣者多くにぎあいます。」真っ赤な『華厳釈迦如来』の幟と『釈迦如来』と書かれた扁額。階段を降りると左手にコンクリートで保護された『釈迦堂』が。地下の洞内岩盤に浮き彫りの明暦2年造立釈迦如来像が刻まれていた。『釈迦堂』前から『白糸川橋梁』を見上げる。車への帰路に再び国道135号線の『新白糸橋』を正面に。『白糸川橋梁』には2本のコンクリート基礎が川床から立ち上がっていた。『潮騒の駅根府川駅・江之浦漁港コース』案内道標。そして車に戻り、『おかめ桜まつり』の第4会場の『オーランジェ・ガルデン』に到着。ここの『おかめ桜』も思いっきり満開。その先にあったのが『オレンジ橋』。この橋は『ヒルトン小田原リゾート&スパ』に繋がっているのだと。山の上に『ヒルトン小田原リゾート&スパ』が垣間見えた。『オーランジェ・ガルデン』の直売場。オーランジェ(フランス語:Orangette)とは、砂糖漬けの柑橘類の皮(ピール)をチョコレートで包んだフランス生まれの菓子のことのようだ。『おかめ桜』3年物の苗木を500円で購入、そして「楊貴妃」という苗木も一緒に。『おかめ桜』の下にはベンチも。『おかめ桜』をズームで。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.11
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国道1号線とJR東海道線に挟まれた県道740号線・小田原湯河原線を根府川駅に向かって進む。道路沿いの『おかめ桜』には『おかめ桜まつり』のピンクの幟がはためいていた。そして根府川駅に到着。時間は8:34。1896年(明治29年)から1922年(大正11年)までは、人車鉄道・軽便鉄道の豆相人車鉄道(のちの熱海鉄道)も存在していた。同線の「根府川駅」は、当駅よりも高台の位置に設けられていた。 1922年(大正11年)12月21日:国有鉄道熱海線 国府津駅 - 真鶴駅間の開通と同時に開業。旅客・貨物取扱を開始。 ここは小田原市の根府川駅。相模湾を見下ろす崖の上にある駅舎。駅前やホームから見る相模湾の眺望は絶景、特に人気なのは、「初日の出」とこの日の「桜」。東京駅から一本で行ける距離にあるため多くの『カメラ爺』がやって来ると。元日に限り、根府川駅で日の出を迎える臨時列車も運行され、一年で最も賑わう瞬間を迎えると。無人駅の改札口を入り右手にあった池とその横に石碑が。『関東大震災殉難碑』。1923年(大正12年)9月1日:関東大震災により地すべり(土石流ともいわれる)が発生し、当駅に進入中の真鶴行き下り列車(8両編成、乗客約150名)が客車2両を残して駅舎、ホームもろとも海中に没した。列車に乗車していた約110名とホームに居た二十数名の計約130名が死亡したのだと。根府川(片浦海岸)案内板。「根府川(片浦海岸)は、箱根火山の外輪山です。駅舎横の慰霊碑や近くにある釈迦堂で、1923年の大正関東地震の際の駅裏の斜面の地滑りやその南を流れる白糸川で起きた岩屑なだれなどの被害について、当時の状況を知ることができます。根府川の尾根伝いに断続的に「氏直の構」と呼ばれた戦国時代の土塁が残されており、江戸時代には根府川関所の要塞山として管理されるなど、当時は箱根火山が生み出した地形を生かした要害の地でした。また海岸に沿って、江戸城の石垣用に石を切り出した石丁場が開かれたため、安山岩を切り出す際にうがたれた矢穴(クサビを入れる穴)の跡がある石が現在も点在します。」現地で頂いた『根府川おかめ桜まつり』のパンフレット。開催期間は令和2年2月29日 ~ 3月22日(日)であったが、コロナウィルスの影響で今年は『根府川おかめ桜まつり』は中止とのこと。パンフレットの裏には『おかめ桜まつり 実施施設案内図』が。会場は4カ所。 第1会場:JR根府川駅前 第2会場:離れのやど星ヶ山 第3会場:きのこ苑お山のたいしょう 第4会場:オーランジェ・ガルデン根府川駅駅前の「おかめ桜」は青空に映えて満開中。花の小ささとピンクの濃さが魅力的。『早川・片浦ウォーキングトレイル』案内板。「早川・片浦ウォーキングトレイルは、JR早川駅から根府川駅間の丘陵地を巡る健康の道です。トレイルには、勾配がきついところがありますので、自分のペースで楽しんで下さい。ルールを守って楽しく歩きましょう。」改札口を入った場所から「光る海」を見る。ホーム上の連絡橋から熱海方面を見る。こちらは小田原方面。待合室の展示品。JR東海道線・白糸川橋梁(しらいとがわきょうりょう)の古き写真や絵葉書が。昔の写真の東海道本線の『白糸川橋梁』には蒸気機関車が白煙を棚引かせて。茨木のりこの詩集から『根府川の海』「根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅 たっぷり栄養のある 大きな花の向こうに いつもまっさおな海がひろがっていた 丈高いカンナの花よ おだやかな相模の海よ 沖に光る波のひとひら ああそんなかがやきに似た 十代の歳月」『小田原ふるさとの原風景百選』。「1.潮騒の駅・根府川 海と山に挟まれたJR東海道線の根府川駅は風光明媚で、駅から見る相模湾は絶景。 詩人茨木のり子の詩集「根府川の海」の中で、 『根府川 東海道の小駅 赤いカンナの咲いている駅…』と謳われている。」駅前広場から根府川駅ホームを見る。こちら側の『おかめ桜』も満開。『光る海』を背景に。ホームに人の姿はなし。枝には野鳥が。ノビタキか?下り電車がホームに滑り込む。そして熱海に向かって。暫くすると上り電車が。青い通路がホーム連絡橋。線路沿いの『おかめ桜』を愛でて次の散策場所に車で移動。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.10
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『河津桜』を大いに楽しんだ後は、国道135号線の『浜』交差点を右折して海岸に出る。左手に『河津川』の河口が。『河津川』に架かる『浜橋』が前方に。『浜橋』には河津川の河津桜を見る観光客の姿が。『浜橋』を渡り左折して国道135号線を下田方面にひたすら南下する。左手には東伊豆の青き海そして岩場が楽しませてくれた。遠く『大島』の姿が。東伊豆の海岸の北側方向の絶景。そして伊豆諸島の左から利島、鵜渡根島、新島、式根島の姿が確認できた。前方には白浜海岸、爪木崎方面への海岸線が拡がっていた。海岸には青き海そして白波が。『尾ヶ崎ウィング』より伊豆諸島を望む。運がよければ三宅島まで見えるようだ。青き海が眼下に。『大島』をズームで。『新島』をズームで。そして暫くすると、車の渋滞が。前方に救急車、消防車の姿が。すると黒の車が、スピードの上昇で曲がりきれなっかたのか路肩そして交通標識のポストに突っ込んでいたのであった。そして救急車。『フェニックス広場』の「交通安全 誓乃像」。『道の駅 開国下田みなと』案内表示が前方に。『まどが浜海遊公園』前を通過。稲生沢川に架かる橋を見る。そして『人魚橋』を渡る。そして『下田』の街並みを通過し国道136号線に入り『南伊豆町』に入って行った。そして目的地の『南伊豆町日野』の交差点に到着しここを右折し車を駐める。『ファミリーマート南伊豆日野店』」に車を駐めさせていただき『 日野の菜の花畑(ひんののなのはなばたけ)』の散策開始。『元気な百姓達の菜の花畑』と書かれた看板もあった。休耕地を利用して作られている、日野地区の菜の花畑。地元ボランティアの方々や子供たち、観光関係者などが世話をしており、毎年1月下旬~4月上旬頃までは菜の花、8月にはひまわり畑が広がるのだと。約3万㎡という広大な敷地が黄色一色におおわれ、辺り一帯が菜の花の香りに包まれる様は壮観そのものであった。遊歩道も設置されており、花畑の中でSNS用の写真もばっちり撮れるシチュエーション。この菜の花畑では、毎年1組限りの結婚式が執り行われるとも。例年、多数の応募があるが、挙式できるのは審査で選ばれた1組だけと。一面の菜の花畑の中、純白のドレスが映えることマチガイなし。花は地元の皆さんが協力し、「元気な百姓祭」という活動で種まきをし育てているのだと。この日も黄色一色の世界が拡がっていた。山の上からの景色も美しいであろう。『南伊豆町 元気な百姓達の菜の花畑』。日野(ひんの)地区の青野川河川敷には黄色い菜の花が約3万m2、辺り一面に咲き乱れているのであった。中に紛れ込むように『ひまわり』の花も。偶然かそれとも意識しての種まきか?和服姿の女性が記念撮影されていましたので、撮させて頂きました。残念ながら、ミツバチの姿は確認で出来なかった。写真に写る民家の2階は特等席。ここも例年多くの観光客がいるのであったが。この山の向こう側は青き海が広がっているのである。菜の花の香りが一面に漂い、しかしこの香りには好き嫌いがあるようだが。黄色の世界を暫し楽しむ。いつまでもいたい空間。『青野川』に合流する『二級河川 鯉名川』。木道も綺麗に整備されていた。母子が記念撮影中。ここ『静岡県賀茂郡南伊豆町日野』の案内図。菜の花をズームで。『みなみの桜と菜の花まつり』の幟。実は、この日は中国、雲南省への旅行の出発日なのであったが、コロナウィルスの影響でツアーは中止になったのであった。この日、中国旅行で既に訪ねていたはずであったのが『羅平』。中国雲南省昆明市から東へおよそ200km離れたところに位置する羅平(中国語読みはLuoping)。かつて地殻変動により生まれた小高い山が立ち並ぶカルスト地形の大地が広がり、布依(ブイ)族などの少数民族によって切り拓かれたこの地は菜の花、タバコなどの栽培が盛んで国内生産量トップを誇る農村地帯なのだと。 【http://www.kmcits.cn/jp/line/line_detail?id=26】羅平名物の菜の花畑のシーズンは2月から4月中旬、満開の見頃は例年2月中旬から3月上旬となっているのであった。そしてこの時期に、中国全土の養蜂家が菜の花のハチミツを求めて集まって来るとのことでこの光景を見たくて申し込んだのであったが。 【https://www.eurasia.co.jp/travel/tour/CPSP】来年こそは是非ここ『羅平』を訪ねたいと想いながら、車を駐めた『ファミリーマート南伊豆日野店』」に立ち寄り、アイスクリーム、アメリカンドッグを購入し車の中で楽しんだ。例年はこの後、下賀茂温泉に近い青野川沿いの2kmにわたって楽しめる河津桜を訪ねた後に西伊豆海岸に向けて通称マーガレットラインを走るのであったが、今年は次の目的地の下田市内に向けて、往路と同じ道を戻って行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.23
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次に訪ねたのは、「川津来宮神社(杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社)」。私は初めて訪れた神社のなのであった。静岡県賀茂郡河津町田中154にある神社。二の鳥居横にあった像は「松尾芭蕉」像の如き姿であったが実は「鈴木久五郎」像であった。「鈴木久五郎翁」👈リンクはこの人物なのであろうか。正面には「静岡来宮講」の文字も。「川津来宮神社(杉桙別命神社)」の二の鳥居と境内。二の鳥居から「拝殿」を見る。「手水舎」。「拝殿杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ)は、静岡県賀茂郡河津町田中宮ノ脇にある式内社で、旧社格は郷社。また、式内社の「佐々原比咩命神社」に比定される姫宮神社を所管する。古くは「桙別明神」、「木野(大)明神」、「来宮(大)明神」、「木野神社」、「木之神社」、「鬼崎(きのさき)明神」などと呼ばれており、現在でも「川津来宮神社」や「来宮(きのみや)さん」と俗称される。主祭神は杉桙別命で、五十猛命と少彦名命を相殿に祀る。『延喜式神名帳』では1座なので、本来は杉桙別命1柱を祀るものであったと思われる。康永2年(1343年)の国内神名帳である『伊豆国神階帳』には「従四位上 ほこわけの明神」と記されている」。「天然記念物大楠」案内板。「杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社の大クス」杉桙別命神社(来宮神社)は、平安時代につくられた『延喜式(えんぎしき)』という書物の中に記されていると。この神社に祀られたクスの木は、県下でも有数の巨木として知られ、昭和11年、国の天然記念物に指定された。目通り周14メートル、高さ24メートルあり、樹齢は千年以上といわれていると。「来宮様の大クス」とよばれ、古来よりご神木として崇められて来たのだと。樹齢は千年以上と。「杉桙別命(すぎほこわけのみこと)神社の大クス」。「杉桙別命神社(来宮神社)は、平安時代につくられた『延喜式』という書物の中に記されている古く格式のある神社である。このクスの木は、県下でも有数の巨木として知られ、昭和十一年、国の天然記念物に指定された。目通り周十四メートル、高さ二十四メートルあり、樹齢は千年以上といわれている。『来宮様の大クス」とよばれ、古来より御神木として崇められてきた。河津には、江戸時代から明治時代中頃まで「河津七抱七楠」とよばれるクスの巨木が七つあったが、その中で、現存する唯一の木である。当社は「馬精進・酒精進」の行事があることでも有名である。氏子は毎年十二月十八日より二十三日まで禁酒し、鳥肉、卵を食べない。これを破ると火の災いがあるという。その由来は、祭神杉桙別命が酒に酔い野原に寝ていたところ野火が起き、火に囲まれてしまった。そこへ羽に水をふくませた小鳥たちが飛来し、水を降らせて火を消し、野火から命を守ったという。「鳥精進・酒精進」の行事は、現在でも町内の氏子はもとより、町外の氏子や多数の崇敬者に守り伝えられている。」歌碑「本宮や 神代の昔偲ばるる 仰ぐも尊し樟の大森 夢安禅師」「大クス」を廻り込んで。それにしても樹齢千年以上の巨木。境内末摂社はいくつかあったが、こちらは大きな「山神社」と「秋葉山神社」。「忠魂碑」。反対側の本堂右横にあった「大クス」も歴史を感じさせる巨木であったが。御朱印を頂きに社務所へ。社務所内にはつるし雛が。御朱印を頂きました。2ページにわたる御朱印には『大クス』の姿が。河津ではなく川津。この山の中に「河津城跡」があると。「川津来宮神社(杉桙別命神社)」の一の鳥居。一の鳥居横にも「大クス」が。幹の中央は大きく刳られて。この後、駐車場に向かうが、左手には「カーネーション見本園」があった。「この園は新品種を見本園で試験栽培することにより、新品種の正曜な特性なとの情報を生産者に提供する目的と合わせて少農薬化、土壌研究等も行い、先駆的カーネーション栽培技術の研究の為に設置したものです。河津町のカーネーションは1951年(昭和26年)、村の青年達が花の栽培家大矢好治氏指導のもとにカーネーション栽培を初めて以来、町の期間作目として栽培され、主に東京圏の市場に出荷されています。」「カーネーション見本園」を入口から。受付の前の美しいカーネーションの花々。この「カーネーション見本園」は2月1日(土)➡5月10日まで入園可能のようであった。そして駐車場に戻り、愛車で国道135号線に向かう。途中「かじやの桜」を車窓左手に見る。河津桜原木が発見され、まだ開花して間もない頃、接ぎ木による苗の生産が始まった。その時の苗は河津町内の関係者にも配られ、それらの桜は今では立派に成長しており、地元の方には一期生と呼ばれているのだと。「かじやの桜」もその1本で、樹高はそんなにないが、枝振りとたくさん咲いた花の素晴らしさは見事そのもの。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.22
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「涅槃堂」を後にして、県道を渡り「涅槃堂」駐車場を縦断して再び河津川堤防の桜並木を下流方面に向かって進む。そして河津桜越しの河津川の流れも楽しむ。「河津川あゆ解禁の注意事項」。本年のあゆ解禁は6月の第1日曜日であると。下流に向かって進む。河津町の「天嶺山」を背景に。しかし「ミツバチ」、「メジロ」の姿は見当たらなかった。花びらの裏には星形が。幼葉もやや赤く染まって。川面も光って。人の姿のない瞬間に。川面の白き流れを背景に。遠くに「峰小橋」が。河津川の流れと「峰小橋」。花を接写で。ややピンぼけ。「下佐ヶ野八津線」の「かわづいでゆ橋」からの上流側の絶景。河津町の「天嶺山」は 標高349.8m。この辺りの河川敷の手入れは為されていなかった。「かわづいでゆ橋」から下流側を見る。「かわづいでゆ橋」の袂の道路標識。「かわづいでゆ橋」。更に河津川の堤防上を歩く。ピンクの花にも濃淡があり。時間と共に色合いが変化しているのであった。「峰小橋」と「豊泉橋」の間を下流に向かって。「周辺案内図」。わずかに「幼葉」の姿も。遊歩道も広く整備されていたが。数年前から河津桜の存続危機問題がニュース等で。一番の原因は50年を超えた桜の高齢化なので、植え替えを行えば解決するのだが、法律の壁が立ちはだかっていると。河津桜の見どころと言えば、早咲きなので一足早く桜を楽しめるのはもちろん、河津川沿いの堤防上に植えられている桜並木。この桜並木の足元は菜の花が咲いていて、正面は河津桜のトンネル、横を向けば河津川、足元を見れば菜の花になっているので観光客も多く桜の名所になっているのだが。これらは全て堤防上に植えられていることが、堤防の強度を弱めてしまうので実は法律違反で、高齢化の桜を伐採して新たに桜を植え替えができないという事が存続危機と言われていりのだ。その為に、徐々に寿命が尽きた河津桜の木は伐採されるので桜並木の歯抜け状態が増え始めているのだと。この問題は、この河津桜に限らず、日本全国の桜の名所の問題でもあるのだが。桜の老木が命を終え、その根が腐り堤防の強度を弱めてしまう事は想像できるが、何か良い解決法はないのであろうか?この花のピンクは濃く。「はるか」は、「日向夏(ひゅうがなつ・ニューサマーオレンジ)」の実生(種から育つ事)から選抜育成された品種で、平成8年に品種登録されたまだ新しい柑橘であると。再び青空を背景に。再び獅子柚子(ししゆず)または鬼柚子(おにゆず)それとも『シトロン』という品種か。「田中親水園地周辺案内図」。河津川に架かる橋の名が丁寧に。河川敷の下りて河津桜の絶景を撮影。河津川の上流側。河津川の下流側には「豊泉橋」が見えた。再び上流側、銀杏の大木は葉を完全に落とし団扇の骨のごとくに。赤い欄干の「豊泉橋」。「かわづ花の会」の花壇には紅白の葉牡丹が植えられていた。再び山の斜面、そして河津川の河津桜を見る。本当に可憐なピンクの花。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.21
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「涅槃堂」への参道を進む。「沢田 ねはん堂」の幟が参道に。「涅槃堂由来碑。本 尊:釋迦牟尼如来 堂内涅槃像の製作年代は詳かでないが寛政8年(1796)頃のものと誕 生:西暦前566年4月8日印度釋迦族の王子として無憂樹の下で誕生すると出 城:29才の時生老病死の四苦を見つける城を抜け出て修行者となり苦行の生活を送った成 道:六年間の苦行の後12月8日ブッダガヤーの菩提樹の下でついにこの上ない悟りを 開いて佛陀となられた三十五才の時である。涅 槃:四十五年間にわたる教化活動をされ八十の二月十五日クシナガラ沙羅双樹の下で 頭北面西右脇に臥して入滅す。遺 訓: 自らに依りて 他に依ることなかれ 法に依りて 他に依ることなかれ」マスク姿の私の姿も。沢田にある涅槃堂は、寛永年間に建てられた堂で、ここに涅槃像がまつられていた。本堂の左手には多くの石仏や墓石が。「涅槃堂・涅槃像群」案内板。この堂は寛永年中(一六二四~一六四三)に筏場三養院の控寺(住職の休憩所)として建てられたものらしい。涅槃像群は、釈迦が紀元前四世紀の二月十五日に、故郷に近いクシナーラの紗羅双樹の下で、ハ十歳の生涯を閉じた様子を表現している。涅槃像は一木造、像高ニメートル五十ハセンチで、重量感あふれる漆箔像で、江戸時代中期頃の作である。像の後に立つ阿弥陀三尊像は、釈迦を極楽浄土に導くため迎えに来た様子を表し、両側に配された二十二躯の像が、悲しむ人々の姿を表現している。涅槃像は全国的に少なく、県内では類例のない稀少な文化財である。これらの像は、近世における民衆の、極楽浄土を願う気持があらわれたものであろう。毎年二月十五日には沢田区による涅槃会が行われており、「寝釈迦さん」と呼ばれて今でも身近な信仰の対象となっている。堂内の梁には、華鬘(けまん 内陣にかけて仏前を飾る装飾)が施されている。飛天が雲上を飛ぶ姿を表し、顔料で彩色された地方色豊かな文化財である。また、地区に災害や流行病があるときは、老若男女が集い、百万遍念仏の祈祷が行われた。今でも使われた数珠や版木などか残されている。「本堂」内陣の参観は有料。「本堂内陣」を外から。桧材一木造で、漆箔(ウルシの上に金箔を施したもの)、全長239.39cm、金箔や髪の紺色、唇の紅色などがよく残されていて、寛政8年(1796年)頃の作品としては、かなり丁寧な技法が見られると。釈迦が生涯を閉じて涅槃に入るときの姿を現したもので、像の背後には、寄木造漆箔の阿弥陀三尊を中心に24体の諸仏が並んでいると。阿弥陀三尊は釈迦を極楽浄土に迎えに来た像で、他の諸仏はそれを悲しんで集まってきた人々の様子を現しているのだと。お顔をズームで。釈迦が生涯をとじて涅槃に入る姿を表した像がまつられているのであった。桧材一木造で、漆箔(ウルシの上に金箔を施したもの)、全長239.39cm、金箔や髪の紺色、唇の紅色などがよく残されていて、寛政8年(1796年)頃の作品としては、かなり丁寧な技法が見られると。釈迦が生涯を閉じて涅槃に入るときの姿を現したもので、像の背後には、寄木造漆箔の阿弥陀三尊を中心に24体の諸仏が並ぶと。阿弥陀三尊は釈迦を極楽浄土に迎えに来た像で、他の諸仏はそれを悲しんで集まってきた人々の様子を現しているのだと。御朱印を頂きました。本堂裏には河津桜そして堂の上には竹藪が。「日本三大寝釈迦霊場 涅槃堂」案内板。そして坂を上り、涅槃堂の裏山にある「涅槃堂桜見晴台」を訪ねた。沢田地区の人たちがミカン畑を1年がかりで整備してこの『見晴台』をオープンしたのだと。海抜約45m。河津川の桜並木が一望できるのであった。河津川の桜並木の2本のピンクの帯が鯉のぼりの先に。今年初めて見る鯉のぼりなのであった。そして「涅槃堂桜見晴台」を後にし、再び河津川の堤防に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.20
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途中、「日本三大寝釈迦霊場」の「涅槃堂」そして「涅槃堂桜見晴台」の案内板があったので、「河津桜原木」を訪ねた後に久しぶりに訪ねることにする。左側に「河津町役場」。獅子柚子(ししゆず・おにゆず)であろうか、それとも『シトロン』か。そして県道沿いの民家の庭にある「河津桜原木」に到着。ほぼ満開に近い「河津桜原木」。しかし、ここも例年に比べて観光客の姿は少なかったのであった。カメラを縦にして。今年も枝の先端まで花をつけて。「町指定天然記念物 「河津桜原木」指定日 2005年2月2日」と。桜の近くに立てられている「河津桜原木物語」。『昭和30年頃の二月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約1メートル位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和41年1月下旬、やっと桜が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け、永眠しました。その後きれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年には河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津町の木に指定されした。』と。河津桜原木保護育成基金ご協力依頼の看板が。今年も頑張って咲いてくれていました。オレンジ色のアロエの花も。原木の幹周は約115cmで樹齢は50〜60年くらい。たくさんの花が玉のように塊になって咲いているのであった。アロエの花もスックリと。原木を様々な角度から。道路の反対側から。高級一眼レフカメラを構える旅友。正面から。偶然発見されたこの1本から河津桜は町全体に広がり、全国各地に植樹されているのだ。1981年から開催され現在では約400万人もの観光客が集まる大きなイベントとなった「河津桜まつり」もこの原木から始まった事を考えると、とても貴重な桜であるのだ。原木とはいえ、まだまだ若く樹勢も良好で、今後の成長が楽しみ。私も頑張らなくてはと。ここにも河津桜のポスターが。「河津町観光マップ」も。「ツルニチニチソウ」の花が可憐に。光沢のある卵型の葉と青紫色の花が美しいグランドカバー。「河津桜原木」を後にし「涅槃堂」に向かい県道を歩く。遠くの山の斜面にも河津桜の密集場所が。右手に「小峯堂」が。「伊豆横道十四番札所」と彫られた大きな石碑が立っていた。無人の堂の周りには六地蔵や庚申塔、そして可愛らしいお地蔵さんが何体か迎えてくれたのであった。可愛らしいお地蔵さん。小さなお地蔵さんも。再び山の斜面に咲く河津桜をズームで。途中、道路脇の温室にはピンクのカーネーションが栽培されていた。そして前方右側には「涅槃堂」の上にある「涅槃堂桜見晴台」、そして鯉のぼりの姿が。ズームで。そして道路の右側に「ねはん堂」の標識が見えて来たのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.19
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駐車場に車を駐め、河津川沿いの並木のお花見に向かう。駐車場のオジサンの話によると、今年はコロナウィルスの影響で、観光バスによる花見見物の中国人そして日本の観光客がほとんど来ないとのこと。なるほど、大型バスの駐車場にはこの時、バスは1台も駐車していなかったのであった。まずは、菜の花と7~8部咲きの河津桜が迎えてくれた。2020.2.10(月)~3.10(火)までの1ヶ月間、「第30回河津桜まつり」が行われていたのであった。河津桜の見どころは、河津川の堤上がメイン会場。河津桜はカンヒザクラ系と早咲きのオオシマザクラ系の自然交配種といわれ、開花の時期が早く花が大きい桜。河津川周辺を中心に町内に約8000本(川沿いは約850本)が植えられていると。角の出店には、つるし雛が販売されていた。「テレビでやった90歳のおばあちゃんが作ったつるし雛」と。様々な手作りの人形も。静岡県東伊豆町稲取の雛のつるし飾りは日本三大つるし飾り(福岡県柳川市:さげもん、山形県酒田市:傘福)のひとつでもあるとのこと。堤防上の河津桜の並木を上流に向かって進む。満開直前の河津桜。河津桜の魅力は、早咲きの桜であることと花色。ソメイヨシノの淡いピンクに比べ、はっきりとした明るいピンク色。春らしいピンク色は、見ている人にこれから来る春を期待させるような色なのです。河津桜はソメイヨシノと同じように花の後から葉が出て来る。山桜の種類などは花と葉が同時に出て来るので、葉の出るタイミングが違うのだ。河津桜は、花が咲いている間は木全体が花で覆われたようにピンクに染まって見えるのであった。出店も営業を始めていたが、買う人の姿はあまりなかった。やはり観光客の数が例年に比べてかなり少なかったのであった。前方に「来宮橋」が見えて来た。土産物屋では河津桜の苗や、このミモザの苗も販売されていた。「ハリコ」5本400円。さんまの丸干し干物(ひもの)。「ハリコ」とはサンマの幼魚の丸干しを言うとオバチャンから。河津川の両脇の堤防に連なる満開間近の河津桜。河原に下りている観光客の姿も例年になく少なく。干し椎茸も山のように。濃いピンクのトンネルの下を進む。中国語はほとんど聞こえて来なかった。開花が進むと中心のピンクの濃さが増して行く河津桜。やはり、青空が映える河津桜。前日の11日「建国記念の日」には多くの観光客の姿があったのだろうが。咲くならば太幹にと。河津川を背景に。この近くはほぼ満開か。「きれいな川。私達の町」。「金目鯛定食」の看板も。満開とはこの状態を言うのだと勝手に。店の様子はどこもこんな感じ。マスクの方は半分くらいか?河津川対岸の河津桜。河津川は穏やかな流れ。堤防には水仙も咲いて。堤防には黄色い小さな花が。今や早春を告げる代表格になっている野の草・『オオキバナカタバミ』。これから昼間に向かって花を開くのであろう。川面を背景に。更に進む。これぞ「鈴なり咲き」。この樹はまだ5部咲か。「新物 わかめ専門店」。小えびが詰放題で1000円。「鹿ツノ」も1500円で売られていた。強壮剤か?みかん1袋500円、そしてつるし雛も。そして「豊泉橋(ほうせんばし)」に到着。「豊泉橋」から上流側のピンクの帯を。ズームで。下流側。この光景を見に毎年。少しずつズームで。更に。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.02.18
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今年も2月12日(水)に西伊豆・河津町の河津桜そして西伊豆巡りの日帰りドライブに行って来ました。テレビのニュースで暖冬の日が続き、例年より1週間以上早く満開に近づいている事を知ったのです。実はこの日、2月12日(水)に成田空港を出発する中国の雲南省へのツアー旅行を申し込んでいましたが、新型のコロナウィルス感染拡大の影響でツアーが中止となったのです。何時ものように自宅から車で6:30に茅ヶ崎の旅友Sさん宅へ。そしてSさんの愛車に乗り換えて西湘バイパスを利用して小田原方面に。西湘バイパスから、三浦半島上空の日の出を車窓から。箱根の山々を前方に見る。黄色の陽光の帯が相模湾の水面に。早川口を左折し135号線を熱海方面に。135号線から西湘バイパスを見る。昨年11月22日、JR早川駅近くの小田原漁港西側エリアに「漁港の駅 TOTOCO小田原」がオープンしたのだ。地場産の鮮魚や活魚、水産加工品や土産品の販売、食事処やイベント広場を備えた小田原の地場産品の魅力を発信する日本初の「漁港の駅」。1階が鮮魚・水産加工品・農産物の販売エリア、2~3階が鮮魚をテーマとした飲食エリアで、眺望テラスでは絶景を眺めながら海の幸を楽しめるのだと。朝焼けの光景を車窓から楽しみながら進む。135号線の渋滞を避け、JR東海道線の北側を走る県道740号線を進む。JR真鶴駅前を通過。前方にピンクの桜の木が現れる。河津桜であろうか?『MOA美術館』の案内表示。MOA美術館は相模灘を見渡す高台に建つ「海の見える美術館」。国宝3点、重要文化財65点を含む約3500点を所蔵。美術館のメインロビーからは海に浮かぶ初島や伊豆大島が一望でき、大パノラマが見る人の心を癒してくれる美術館。私も既に4回ほど訪ねている美術館。そして左手前方に熱海城の姿が。手前に白き熱海後楽園ホテルの建物が。熱海城をズームで。熱海城は、静岡県熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。市街地や南熱海を一望できる熱海市内有数の絶景スポットとなっているが城郭は歴史的に実在したものではないのだ。あくまでも『観光施設』なのである。熱海サンビーチの「ジャカランタ」の並木。熱海市観光協会の「ワカガエルステーション」が左手に。熱海湾に面した親水公園内にある観光案内所。熱海の観光について案内するほか、各種パンフレットや割引券なども手に入る。熱海海上花火大会の有料観覧席販売や車いす、ベビーカーの貸出しもしているとのこと。熱海の沖に浮かぶ「初島」。伊豆半島を南下して行くと、河津桜の開花状況も進んでいたのであった。宇佐美の街並み。伊東市にある「ホテルサンハトヤ」。大室山の手前に巨大な肌色のゴリラの像が今年も迎えてくれた。「怪しい少年少女博物館」の看板のある建物が右手に。既に営業をしていないようであったがどの様な博物館であったのだろうか?利島の姿が。利島は東京から南に約140kmに位置し、周囲約8km、面積4.12km2の小さな島です。砂浜はなく、断崖絶壁に囲まれた利島。島全体が椿林に覆われ、その本数は約20万本と言われており、冬になると島中で咲き誇る椿の花を見ることができるのだ。赤沢隧道が前方に。「大島」の姿が大きく見えた。東伊豆町の稲取岬にある稲取漁港と稲取温泉が左手眼下に。稲取岬は山からみるとドブロブニクを彷彿とされるものがあるのであった。東伊豆町「雛のつるし飾りまつり」が1月20日~3月31日まで行われると。そして河津町に入る。ほぼ満開の河津桜が迎えてくれた。これぞ「満開」。「浜」交差点を右折し「踊子花街道」を進むと「河津駅」が右手にそして駐車場に滑り込んだのであった。時間は9:05。茅ヶ崎から2.5時間のドライブであった。 ・・・つづく・・・
2020.02.17
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昨日早朝に、車で20分ほどの場所にある『小出川彼岸花』を訪ねに行ってきました。「第12回小出川彼岸花まつり」は、1週間前の9月22日(日)に行われたとのことです。今年は例年に比べ開花が1週間以上遅れているようで、昨日朝にはかなり満開状態を楽しむことが出来ました。『大黒橋』入口には箱に入った「第12回小出川彼岸花まつり」のパンフレットが。パンフレットの裏側には「まつり会場」案内図が。スタンプラリーも行われたようです。彼岸花を楽しめる場所は、遠藤の小出川沿いの大黒橋~追出橋の間約3km。おまつりの本会場:遠藤会場 他、打戻会場、おおぞう会場、せりざわ会場(茅ヶ崎里山公園内)が設置されたようであった。小出川(こいでがわ)・大黒橋の近くに車を停め、しばしの散策。こちらはこれから満開を迎える株群。小出川 ”彼岸花”の案内板。小出川は、神奈川県中央南部を流れる相模川水系の川で、これでも『一級河川』。藤沢市遠藤の笹窪谷戸に源を発し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの脇を流れ、駒寄川(こまよせがわ)が流入し、茅ヶ崎市と寒川町の境界河川となる。新湘南バイパスとほぼ平行して茅ヶ崎市の西部を縦断し、千ノ川が流入した後、平塚市で相模川の河口付近に注ぐ河川。川沿いの道を散策。右手には道祖神碑が。時間は6:15、早朝散歩の人の姿も殆どなく彼岸花を独り占め。真っ赤な彼岸花が朝の陽光を浴びて輝く。白の彼岸花も所々に。日本では秋の花として親しまれる彼岸花(ひがんばな)。別名、リコリスや曼珠沙華(まんじゅしゃげ)とも呼ばれ、日本特有の「彼岸」の時期に咲く花として知られている。ネット情報に拠ると様々な名前が。彼岸花(ヒガンバナ)曼珠沙華(まんじゅしゃげ/かんじゅしゃか)死人花(しびとばな)地獄花(じごくばな)幽霊花(ゆうれいばな)剃刀花(かみそりばな)狐花(きつねばな)捨子花(すてごばな)毒花(どくばな)痺れ花(しびればな)天蓋花(てんがいばな)狐の松明(きつねのたいまつ)狐花(きつねばな)葉見ず花見ず(はみずはなみず)雷花(かみなりばな)レッドスパイダーリリーハリケーンリリーマジックリリーなどなど。彼岸花とはヒガンバナ科・ヒガンバナ属(リコリス属)に分類される球根植物。日本や中国に広く自生し、秋の彼岸の期間(秋分の日を入れた前後3日間)だけに花を咲かせることに由来して名付けられたと。9月頃になると赤や白、ピンクなど花を咲かせるのが特徴なのです。山口百恵の歌『曼殊沙華(マンジュシャカ)』👈リンク♫マンジューシャカ 恋する女は~ マンジューシャカ 罪つくり~♫この曲で初めて作詞の阿木曜子が「マンジュシャゲ」を「マンジュシャカ」と発音させたのであろうか。インドの古い言葉(梵語)では「マンジュシャカ」。音写して曼珠沙華。「天上の赤い花」という意味があり、おめでたいことが起こる兆しに、天から赤い花が降ってくるという伝説があるのだと。 白の萩の花も。彼岸花の色別の花言葉を調べてみました。「☆白色:思うはあなた一人/また会う日を楽しみに★赤色:情熱/独立/再開/あきらめ/悲しい思い出/思うはあなた一人/また会う日を楽しみに★黄色:追想/深い思いやりの心/悲しい思い出彼岸花は、その印象的な赤い花色から「情熱」「思うのはあなた一人」といった花言葉が生まれたといわれています。しかし、彼岸花の花は死や不吉なイメージの方が強いですよね。それは、「彼岸花を家に持ち帰ると火事になる」「彼岸花を摘むと死人がでる」「彼岸花を摘むと手が腐る」といったいくつかの恐ろしい迷信があるためです。これらは、花色や花姿が炎を連想させることと、彼岸花のもつ毒によるものとされています。決して怖い花言葉をもっているわけではないのですが、死や不吉な印象があることから贈り物として用いられることはほとんどありません。」と。小出川の赤い帯が輝く。彼岸花は「まず花が咲き、後から葉っぱが伸びる」という通常の草花とは逆の生態をもっている。その葉と花を一緒に見ることがない性質から「葉見ず花見ず」と呼ばれ、昔の人は恐れをなして、死人花(しびとばな)や地獄花(じごくばな)などと呼ぶこともあったのだと。そして車に戻り『新道橋』まで移動。この道はまつりの『せりざわ会場』があった県立茅ヶ崎里山公園に行く道。車を道路脇に停め急ぎ足で散策開始。こちらは小出川沿いに2本の帯が。陽光を更に浴びて。彼岸花には何百という品種が存在し、今も品種改良によって日々新しいものが生み出されていると。赤色のイメージが強い彼岸花ですが、他に白、赤、黄、オレンジ、ピンクなどが存在。ただ、日本では彼岸花の流通が少なく、園芸植物として人気が高くはないようだ。彼岸花の球根は毒(リコリン)があるのだと。地中に潜むモグラやネズミは、他の植物の根はかじっても、彼岸花のものはかじらないと。よって彼岸花は、よくこの小出川の如く田んぼの畔道に咲いているのは・彼岸花の根が土手や畔の土をギュッと固めてくれるため。・彼岸花は毒があるため、田んぼを荒らすネズミやモグラ・虫などの被害を防ぐためなのだと。・墓場にヒガンバナが多いのも、異臭や有毒性を利用して遺体を動物から守るためだとも。更に彼岸花は食用は厳禁だが、飢餓の時に球根の毒を水で流して利用したり、水戸黄門の命令で発行した家庭の医学書「救民妙薬」では、球根をすり下ろして患部に当てて湿布剤とした事もあったのだとも。飽食の今の時代には必要のないことですが、昔はひどい飢饉のときに毒抜きが良くできていないものを食べて命を落とした人がいたのであろう。赤い花だけに毒があるとの話もあったが、間違っているようだ。蕾に近づいて。花群をズームで。2本の赤い帯が緩やかにカーブして。僅かな小さな水滴をと。なかなか我がデジカメでは・・・。いろいろなモードでTRY。何とか・・・・。そして引き返す。紅白の共演。カップルの如き彼岸花。それぞれ6個の花それぞれに雄蕊と雌蕊がヒゲの如くに。これぞ『畦道』。川面を背景に。情熱の赤。更に近づけて。陽光に照らされて気温も上がって、僅かな霞が。実るほど頭を垂れる稲穂かな。いつまでもこうありたい。これぞ日本の秋の風景。彼岸花には、すーっと伸びた茎に鮮やかな花だけがついていて、葉っぱがまったく見あたらない。これぞ赤!!再び水滴に拘って。歩いて来た道(右側)。鯉が見送ってくれました。そしてキアゲハもポーズを取ってくれました。空には既に秋の雲が。茅ヶ崎方面。うろこ雲か。うろこの1つ1つがハッキリ見える時は天気下り坂のサインとなると教わった記憶が。うろこ雲は、いわし雲とも呼ばれ方もしますが、気象学的には巻積雲(けんせきうん)の一種に分類されるのだと。秋を代表する雲で、上空の高いところに発生。秋は他にも、すじ雲・ナミナミ雲などが現れやすい時期…空をたくさん見上げてみたいこの時期。あまり見られなくなったこの稲わら干しの風景。先日我が家に来てもらった畳屋さんのご主人からは、昔ながらの、稲藁(いねわら)を使用して作った藁床は、稲藁不足で難しくなっていると。芯材にスタイロフォーム(ポリスチレン樹脂を主原料とする発泡体の断熱材)を使用している畳が多くなっていると。更に稲藁材を全く使用せず、畳自体の大部分をスタイロフォームで構成しているものも多くあるのだと。そしてこの朝の見納めは、日本の原風景。早朝の彼岸花をほぼ独り占めして、帰宅したのであった。そして我が家の前の畑の角にも『シロバナマンジュシャゲ』が満開。『シロバナマンジュシャゲ』はヒガンバナとショウキズイセンが交配してできた雑種だろうと。花の姿は彼岸花に似ていますが、比べると『シロバナマンジュシャゲ』のほうが、花びらの反り返りや縁のフリルがゆるいのではと。昔の人の知恵で植えられた彼岸花ですが、これまでその風景が守られているということは、金色の稲穂を背景に咲く真っ赤な彼岸花の風景を愛おしむ心が、日本人の心として連綿と受け継がれて来ている事を再認識した朝なのであった。『小出川 水のかがやき 曼珠沙華』『群れ咲くも 一輪もよき 曼珠沙華』『曼珠沙華 真紅な花には 毒があり』 ・・・・・詠み人知らず
2019.09.29
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我が菜園のスナップエンドウの栽培後地に朝顔を植えて、これが毎朝開花し楽しませてくれています。ホームセンターで種を購入し、これを蒔き育てて来ました。スナップエンドウに使ったネットをそのままにし、これに朝顔の蔓が絡みついています。大輪の様々な朝顔の花が毎朝開花しています。自然に成長した小輪の青い朝顔の花とオシロイバナ。ズームで。オシロイバナ。こちらは庭先のジンジャーの花。草丈が80cm~2m近くになる大型の草花。先端の尖ったやや細長い葉を2列に並べて上に伸びて。主な開花期は夏から秋で、黄・白・赤・オレンジ色の花を穂状に咲かせるのです。香味野菜として使うショウガ〔Zingiber officinale〕とは草姿こそ似ていますが違う植物だと(同科ですが属が違う)。既に花のピークは終わっています。和名では「ハナシュクシャ(花縮紗)」と呼ばれています。この花には我がミツバチの姿はありませんでした。
2019.08.29
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この日(8月18日)は我が家から自転車で5分ほどの場所にあるひまわり畑を訪ねました。約2~3反に拡がる国道467号線沿いのひまわり畑です。道路から50cmほど上がった場所にある畑。全ての花が東に向かって。この写真に写っているお宅は2階から毎日花見が。しかし見えるのひまわりの後ろ姿。ひまわり畑の裏が国道467号線。別の場所に移動して。ひまわりが肩を組んでいるが如きに。ミツバチ(おそらく我が家のミツバチ)を追いかけて。1段高い場所からズームで。近くにある日本ミツバチの巣箱を見に行きました。しかし、2群とも日本ミツバチの出入りの姿は全く見られなかった。巣箱の場所が問題か、もう少し日光が当たりにくい木陰が良いのではと。2群とも家出をしてしまったようであった。
2019.08.28
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今年も、我が家の庭の『酔芙蓉』が毎日花を開き楽しませてくれています。遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されて来たという芙蓉の花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が出にくく、品種はあまり多くないようです。その数少ない園芸品種の一つがこの『酔芙蓉』。『酔芙蓉』は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に変わるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができますが、群生している名所となると寺の境内が多いでは。『酔芙蓉』となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるところは珍しいようです。『酔芙蓉』の花は短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に似て仏教の縁を重ねることが出来るのです。朝の、純白の花です。時間は6:15。葉の上部の脇に花びらが5枚で椀状の10~15cmぐらいの大輪の花を咲かせます。そして既に極淡いピンクに染まり始めている花も。葉は手のひら状に浅く3つから7つに裂け、互い違いに生える(互生)。そして花片全体が淡いピンクに染まり始めました。時間は10:55。昼前になると、ピンクの色が強くなってきました。時間は11:45。チョット出遅れている花も。そしてピンク色が更に濃くなって来ました。時間は13:00。そして15:20、それぞれの花が赤く染まって来ました。花の先端がより赤く染まって。中心の円周上に濃いピンクの点が。そしてすっかり酔った『酔芙蓉』。時間は16:05。そして酔いが回った花たちが夕陽を浴びて。夕日を浴びながら花片も閉じかけて。すっかり酔った『酔芙蓉』の横に酔い潰れている『酔芙蓉』も。そして酔いつぶれてしまった花がところどころに。こちらは前日の花か。そして翌朝には地面に落ちて。秋になると、根本近く(20~30cm)からバッサリと強剪定しますが、翌年には見事に新芽を延ばし毎年2m以上にまで成長し、花を楽しませてくれる『酔芙蓉』なのです。そして酔芙蓉は挿し木で増やすことができます。冬に剪定した枝を保管しておいて、気温がある程度上昇した5月ごろ挿し木をするのです。酔初めは我より早き酔芙蓉 ・・・・詠み人知らず酔芙蓉朝な夕なとカメラ手に ・・・・詠み人知らず酔芙蓉夕映色に花染めて ・・・・詠み人知らず
2019.08.27
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更に『座間・ひまわりまつり』の会場を散策する。そしてひまわりの種も100円/袋。遊歩道沿いには、マリーゴールドや手前は千日紅であろうか。こちらは後ろ姿。雲行きが怪しくなって来た。ひまわりの花も自分で切って購入可能と。こちらは鳳仙花(ほうせんか)であろう。子供の頃に、指でぎゅっと触ると皮がめくれて種がはじけ、これを楽しんだ記憶が。「ざまりん広場」にはひまわりまつりの本部テントが。遊休地に市の花「ひまわり」を植え、座間市のまちおこし企画の一環にしたと。ひまわりの枝葉の深緑は、たくましく発展を続ける市を、また大輪の花は、市民の皆さんが手を結び合い、明るく健康なまちづくりを目指す姿を象徴していると。開場は9:30~とのことで未だ係の方の姿は殆どなかった。時間は漸く7:20。『ひまわり畑 案内図』。ゴミの『分別ステーション』も色彩豊かに。「ざまりん広場」は今日の準備が漸く開始。『ひまわりまつり臨時路線バス時刻表』。小田急線相武台前駅から臨時バスが12~15分間隔で運転されるようであった。座間駅の方が近そうだが、いろいろと事情があるのであろう。ひまわりの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられているとのこと。既に紀元前からインディアンの食用作物として重要な位置を占めていたと。1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名であると。ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至りフランス、次にロシアに伝わったのだと。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められたのだと。現役中に仕事で中国の田舎を何回か訪ねたが、その折、老若男女がヒマワリの種を囲んで、カリカリとハムスターのようにかじる姿は、可愛らしくもあったが、ちょっと不思議に感じた事を想いだしたのであった。そして殻を口から床に向けてペッ、ペッと吐き出し、床を散らかしていたのであったそして、中国人が一番よく食べるおやつといえば、断然ヒマワリの種だろうとの言葉を当時は聞いたのであったが、今回の満州旅行でも同様な姿を幾度か見たのであった。記念撮影用のベンチと額が置かれていた。タクシー乗り場、自転車駐輪場も用意されていた。奥にはもう一つのひまわり畑が見えたが、更に雲行きが怪しくなって来たので引き返す。帰路は全ての花が私を正面から迎えてくれたのであった。多くの西洋ミツバチが訪花中。しばし西洋ミツバチを追いかける。こちらはカップル用の木製ブランコ。再び『ざまりん広場』まで戻る。『ざまりん広場』は座間市マスコットキャラクター「ざまりん」から。『ざまりん』。顔はひまわりの花、顔から下はひまわりの種をイメージしているのか? 【https://013704309081316.at.webry.info/201407/article_5.html】より本日のステージイベントの予定のようだ。「ルドベキア」は黒い目が特徴。宿根草でこぼれ種でも増える花。ひまわり畑の中にはカラフルなパラソル、そして赤いベンチが。展望台にあった帽子。再び展望台を。一方通行の階段。再び展望台から。「まみれ」は漢字で「 塗れ」と書くのだ。私の毎日は汗塗れ、泥塗れ、そして部屋はホコリ塗れ・・・・。ひまわり畑の中の散策路を歩く。青空を背景に。1本だけ太陽に背を向けるひまわりの姿を発見。これも人間社会と同じか?再び西洋ミツバチにレンズを向けて。花弁は大きな1つの花のように見えますが、実際は頭状花序と呼ばれ、多数の花が集まって1つの花の形を形成しているのです。これは、キク科の植物に見られる特徴。外輪に黄色い花びらをつけた花を「舌状花」、内側の花びらがない花を「筒状花」と区別して呼ぶことも。 シャッタースピードを速くして。三匹仲良く。近くに巣箱があるのであろうか?巣箱も見てみたかったが。1時間以上経ったが、花の向きは、なるほど変わっていなかった。いつ頃にこの花々は片付けられてしまうのであろうか?県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の袂近くからひまわりまつり会場を。背中を見せるひまわり達。相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)。相模川の対岸には圏央厚木ICが見えた。座架依橋(ざかえばし)のモニュメント。駐車場の車の数はまだまだ少なかった。県道42号線の駐車場側にもひまわり畑が。ひまわりの後ろ姿を見ながら車に戻り、帰路についたのであった。 ・・・その1にもどる・・・
2019.08.23
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今年も、座間で行われている『ひまわりまつり 2019年8月10日(土)~14日(水)』の最終日に車で行って来ました。この日は最終日の8月14日(水)。6:30前に自宅を出発し、車で30分弱で県道42号線が相模川を渡る座架依橋(ざかえばし)の下の相模川河川敷にある『水と緑の風広場』にある駐車場に到着。『ひまわりまつり』の会場に向かって相模川堤防沿いに歩く。途中、角にあったのが『土地改良の碑』。約30年前の功労者像、「本多菊近翁」土地改良の碑。県道42号線之下の通路には『ようこそ ひまわりのまち 座間へ』の横断幕が。『ひまわり畑 ここは座間エリア』。座架依橋(ざかえばし)への坂道の高架下は『休憩所』。日陰の下には休憩用のテーブル、椅子が準備されていた。年配者には優しい常に日陰の場所。今年の『ひまわりまつり』のポスター。毎年約55万本のヒマワリが咲き誇る「座間市ひまわりまつり」。会場は『座間エリア』と『四ッ谷エリア』の二箇所。そして座間エリア・新田宿エリアのひまわり畑へ。朝の陽光を真正面から浴びるひまわり。ひまわりは和名で「向日葵」と書きますが、「日回り」と表記されることもあるのです。英語では「Sunflower(サンフラワー)」、フランス語では太陽を意味する「Soleil(ソレイユ)」と呼ばれます。この様に、太陽の動きを追って花が回るということからそう呼ばれます。またひまわりはそのものが大きな花として認識されている場合がほとんどですが、実際は1000~2000の小さな花が集合してこの形を形成しています。外側の黄色く長い花びらを付けた花”舌状花”と内側の茶褐色の”筒状花”に分かれているのだと。ひまわり(向日葵)は花が咲く前のつぼみの時期は、茎の先端が太陽の方向を向いて動くのだと。これは太陽光が当たらない側の茎が、当たる側の茎よりも成長するため、太陽の方向に曲がってしまう為。つまり太陽に面して前と後ろの伸びの違いにより生じるもの。しかし、花が咲いた後には茎の成長もストップするので、花自体が太陽を追いかけるということはないのだと。よく言われる、「ヒマワリの花が太陽を追いかけて、クルクルまわる」という事はないのです。全ての花が私の方を向いて迎えてくれていました。『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲート。こちらのひまわりは造花。ひまわり畑の中にも遊歩道が。本部、飲食ブースの案内板が。背丈は様々。後ろのひまわりは背伸びして覗き見ているが如し。こちらは通路の反対側のひまわり畑。皆、花は東に向かって咲いているので、こちらは花の後姿が。こちらにも『2019 Welcome to ZAMA』のアーチゲートが。新田宿エリアには展望台が2箇所。展望台からの絶景。多くのひまわりが朝日に向かって満開の姿で。これぞ『黄金の世界』。手前のひまわり畑方向。後ろには、座架依橋(ざかえばし)に上っていく県道42号線が。見事な黄色の絨毯の世界が。記念撮影用の様々なプラカードが置かれていた。これぞ『SNS映え』。プラカードを支柱に差し込んで。しかし、毎日が『夏休み』の」私なのであった。ひまわりのカオスの真っ只中、これぞ『ひまわりまみれ』。もうこの光景を表現する言葉を持ち合わせていません。もう一箇所の展望台下には、SNS映え・記念撮影用の帽子や額も準備されていました。まさに『あちーけど・・・きれいー』。『座間なう。』、『ひまわりは枯れても思い出は枯れない』。でも体は暑すぎて枯れそう。しかしいろいろと考えていますネ。青空を背景に多くのミツバチとチョウチョの姿をカメラモードを変えて ・・・つづく・・・
2019.08.22
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さらに、堀切菖蒲園の散策を続ける。豪華な花ですので肥後系の菖蒲だったでしょうか?こちらは花びら中央部に向かって細い筋模様がある。 花びらの中央部は、 めくれ上がる。 葉っぱは幅広で、 筋は無く、ほぼ平坦。「この7番目は今年3年目で株分けの圃場です。」「紅姫(肥後)」「この12番目は今年2年目で株分けの圃場です。」堀切菖蒲園の後ろには綾瀬川沿いに走る「首都高速中央環状線」が高架で。『菖翁花👈リンク』。江戸時代後期、花菖蒲の発展に大きな功績を残したのは旗本、松平左金吾定朝(まつだいらさきんごさだとも)。自らを「菖翁」と名乗り、60年にわたって花菖蒲の改良と新品種の作出に情熱を傾けた。菖翁により作出された花を「菖翁花」というと。120種の品種が作出されたようですが、現在は17種前後が現存するのみとなっています。戦前の品種は江戸古花と呼ばれ、今でも明治神宮御苑を始め各地の花菖蒲園や個人で大切に保存されています。堀切菖蒲園では、品種の保存と江戸情緒の創出に役立てるため、現在も菖翁花の名を引き継ぐ、10種余りの栽培管理をおこなっています。ヘメロカリス。ヘメロカリスは初夏から夏にかけて次々と花を咲かせる多年草で、日本にはニッコウキスゲやノカンゾウ、ヤブカンゾウが自生し、古くから親しまれています。暑さ寒さに強いうえ、土壌もあまり選ばず、植えっぱなしでよく育ちます。ズームで。『渡辺千秋の歌碑』「ほりき里能 さとのあやめは 老いまつに ちよをちきりて さ支さかゆら夢」「ほりきりの さとのあやめは 老いまつに ちよをちぎりて さきさかゆらむ」天保14年(1843)生れ~大正10年(1921)没。 北海道庁長官、京都府知事、宮内大臣などを務めた。ノーベル化学賞を受賞した野依良治の曽祖父。再び『堀切菖蒲園』案内板。「10番、11番 圃場」「10番」再び「堀切菖蒲園」配置図。ここにも「花菖蒲の系統」。「ハナショウブ、アヤメ、カキツバタの違い」。3つとも“アヤメ科”アヤメ属に属しています。だからとてもよく似ていて見分けにくいことは確か。・花菖蒲(ハナショウブ)は花の種類は多く紫系統の他に黄色や白、絞り等、多彩であるが どれも「花弁の根元のところに黄色い目の形の模様」がある。・カキツバタ(杜若)はあまり種類は多くないが、「花弁の弁の元に白い目型の模様」が あるのが特徴。・アヤメも花の種類は多くないが「花弁の元のところに網目状の模様」がある『花菖蒲番付』東横綱:春の海西横綱:水の光今年の『菖蒲まつり40周年』花菖蒲 人気投票結果東横綱:春の海西横綱:水の光五葉松。「歌碑 花菖蒲 かがやく雨の 走るなり」「中村汀女(なかむらていじょ)」の作であると。中村汀女は、1900年4月11日熊本県熊本市画図生まれの、昭和を代表する女流俳人である。再び西横綱:水の光。ズームで。もう一度、別の花を。「写楽」。濃い黄色い目の形の模様。マンションの住民が羨ましい。「鳳凰冠」「神代の昔」「遊女の姿」。『明治神宮御苑 花菖蒲』のポスター。こちらは「小岩 菖蒲園まつり」。そして『堀切菖蒲園』を後にし、再びアジサイを楽しむ。『堀切十二支神』擬人化された十二支がズラリと並んでいた。十二支とはご存知の通りに「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の総称で、年・月・日・時刻・方位などに利用されているもの。右から子・丑。我が干支の『虎』。右から寅・卯・辰。右から巳・午・未。右から申・酉・戌・亥。十二支の動物の上半身と、人の下半身を組み合わせて作られた半獣半人像なのであった。そして次に『しょうぶ(菖蒲)七福神 』。菖蒲七福神は、堀切の鎮守天祖神社の摂社 として大正12年に鎮座された毛無池弁天社はご神徳により永年弁天講を中心に氏子の 皆様から尊崇されていたが、平成6年6月に新に六柱の神をお迎えし、菖蒲七福神と して建立されたもの。 菖蒲園の「菖蒲」と勝ち負けの「勝負」と武を尊ぶ「尚武」などの意味が込められ、あえてひらがなで「しょうぶ七福神」。『しょうぶ(菖蒲)七福神 』左から『毘沙門天』、『寿老人』、『大黒天』。中央の『弁財天』。左から『恵比寿』、『福禄寿』、『布袋尊』。
2019.06.29
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この日・6月12日は、都内に行った折、足を延ばして堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)を訪ねました。堀切菖蒲園は、東京都葛飾区堀切二丁目にある葛飾区所管の公園(植物園)。花菖蒲の名所として知られ、京成電鉄 「堀切菖蒲園」駅から徒歩約10分。駅前の線路沿いにある商店街を歩く。『2019葛飾菖蒲まつり』ポスターが期間:2019年5月27日(月曜日)から6月16日(日曜日)まで行われていた。案内に従い、堀切菖蒲園に向かって進む。『2019葛飾菖蒲まつり』の催し物案内ボード。更に商店街を進む。途中、アジサイも美しく咲いていた。青の美しいガクアジサイ。民家の庭にはウチワサボテンの黄色い花が。堀切二丁目緑道に咲いているアジサイを楽しみながら進む。この日が色のピークか?白のカシワバアジサイ。花の細かいアジサイ。青のガクアジサイ。そして『堀切菖蒲園入口』に到着。戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった。昭和34年(1959年)堀切園を東京都が購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。昭和50年(1975年)葛飾区に移管され、現在に至る。貴重な江戸系花菖蒲を中心に200種6000株の花菖蒲が植えられており、見ごろは、この日の6月の中旬。堀切菖蒲まつりの期間は、地元住民・商店街・行政等による運営協議会によって、パレードなどのイベントが行われるのだと。また、公園内には食事(予約制宴会)ができる集会施設「静観亭」がある。堀切菖蒲園 案内図。「堀切菖蒲園」の歴史。・始まりには二説ある。 ・室町時代、堀切村の地頭久保寺胤夫が家臣の宮田将監に命じ、陸奥国郡山の安積沼から 花菖蒲を取り寄せて栽培を始めた。 ・江戸時代百姓の小高伊左衛門が趣味で各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まり。・江戸時代には「江戸百景」に数えられ、名所案内や紀行文、鈴木春信、歌川広重の浮世絵に 登場する。・戦前まで、堀切には武蔵園・吉野園・観花園・小高園・堀切園などの菖蒲園があった・1959年東京都が堀切園を購入、東京都立堀切菖蒲園として公開。 1975年葛飾区に移管され、現在に至る。歌川広重「名所江戸百景」の第56景となる「堀切の花菖蒲(ほりきりのはなしょうぶ)」。前景を大胆に配した広重独特の構図で、ファンに人気の高い作品。「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。園内に入り菖蒲園の散策開始。「この1番は今年3年目で、株分けの圃場です。」株にはそれぞれ花の名前が表示されていた。白に紫の縁のある「長生殿(ちょうせいでん)」。白の花菖蒲「沖の波」。ズームで。一面に色彩豊かに咲き誇っていた。「この2番は今年2年目の圃場です。」「この3番は今年3年目の圃場です。」『花菖蒲の系統』。ハナショウブはノハナショウブの園芸種である。6月ごろに花を咲かせる。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれている。系統を大別すると、品種数が豊富な江戸系、室内鑑賞向きに発展してきた伊勢系と肥後系、原種の特徴を強く残す長井古種の4系統に分類でき、古典園芸植物でもある。他にも海外、特にアメリカでも育種が進んでいる外国系がある。「この6番は今年2年目の圃場です。」 ・・・つづく・・・
2019.06.28
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熱海からの帰路も往路と同じく国道135号線を利用する。そして小田原城の横にある『報徳二宮神社』前の駐車場に車を駐め小田原城の散策開始。『小田原城 園内マップ』南入口から城内を目指す。小田原城址公園の藤棚前に位置する二の丸南堀には蓮がギッシリと。まだ蓮の花はなかったが、南堀いっぱいに群生する蓮は、これから徐々に花をつけ8月中旬まで楽しめるという。ここの蓮の花は『オオガハス』であると。城址公園の『御感の藤(ぎょかんのふじ)』。もとは小田原城二の丸御殿に鉢植えされていたフジ(藤)だと。明治維新後、市内の森元氏の手に渡り、次いで市内の西村氏の手に渡っていましたが、大正11年に現在地へ移植されました。花房が1メートルにもなる見事なフジであると。「御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科) 昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物指定 昭和五十九年十二月 かながわの名木百選選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩のもので、明治維新後、市内板橋の森元氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町)の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから「御感の藤」と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。 小田原市教育委員会」今年の藤の花の写真。 【https://www.jalan.net/kankou/spt_14206ac2100128571/】より「御茶壺曲輪御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。」アジサイと南堀の蓮の群生。青く色を変え始めていた。『小田原城址公園銅門広場』からの『銅門(あかねもん)』。杉﨑宗雲Jrの作品「コマンド」??。何を表現しているのであろうか?巨大な『銅門(あかねもん)』。『小田原城址公園銅門広場』には幟の如きものに描かれた抽象画が地面に展示されていた。金沢で見た加賀友禅流しの如き光景であった。『伝 銅門礎石』。「伝 銅門礎石この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。 使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。 箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。 手前の石は約一・六t、奥の石は約一・八tある立派なものです。」『銅門 土塀模型』。何層にも塗り重ねられていることが理解できたのであった。「銅門 土塀模型この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち制作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめる重要な役割を果たしました。皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合」より寄贈を受けたものです。」そして小田原城を訪ねた目的の『小田原城 あじさい花菖蒲まつり』会場へ。2019年6月1日(土)~16日(日)の期間で開催中。開催期間中、常盤木橋周辺の花菖蒲とあじさいをライトアップも行われている。常盤木門の南側の菖蒲園。ここも満開にはまだ早かったが。アヤメ類の総称としてハナショウブをアヤメと呼ぶことも多く、間違いにはあたらないと。ハナショウブはノハナショウブの園芸種である。6月ごろに花を咲かせる。花の色は、白、桃、紫、青、黄など多数あり、絞りや覆輪などとの組み合わせを含めると5,000種類あるといわれていると。紫のハナショウブ。白も混じって。背の高さも様々。常盤木門を潜り菖蒲園の北側に。こちらの方が、やや開花は進んでいるようであった。青のハナショウブ。白のハナショウブ。仲良く。菖蒲園の横の斜面は一面のアジサイ園。様々な色を楽しめるのであった。桃、黄のハナショウブはこれからか?周辺のあじさい約2,500株もこれから。青色のハナショウブにも濃淡が。赤い欄干の常盤木橋。最盛期になると約10,000株の花菖蒲が花を開くと。鮮やかな紫と純白のハナショウブ。アジサイも遅れをとるまいと。青のガクアジサイが仲良く。ピンクの八重咲きも。純白のアジサイ。再びハナショウブをカメラで追いかける。紫の領域か。可憐な白のガクアジサイ。ハナショウブの花言葉は「優しい心 あなたを信じる 忍耐 優しさ 諦め 心意気 優雅 情熱 伝言 信頼 」。すっとした草姿と、落ち着いた青紫色をした花が古風な雰囲気を演出してくれていたのであった。 ・・・つづく・・・
2019.06.11
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この日・6月6日(木)はいつもの旅友Sさんと熱海の初夏を告げるジャカランダの花を見に行って来ました。茅ヶ崎にお住まいの旅友のお宅を6:30に出発、西湘バイパスを進む。手前に橘料金所が。国道135号線・小田原市石橋を進む。前方に真鶴半島そしてその先に三ツ石の姿が。そして前方に熱海城その下に熱海後楽園ホテルが現れた。そして熱海桜で有名な糸川の近くの有料駐車場に車を駐め熱海ジャカランダの花見に向かう。山の上の熱海城をズームで。時間は7:45過ぎ。熱海市の錦ヶ浦山頂にある民間観光施設。市街地や南熱海を一望できる熱海市内有数の絶景スポットとなっている。城郭は歴史的に実在したものではない。国道135号線沿いの『ジャカランダ』の花。この日は5分咲きぐらいであろうか。ネットによると満開にはまだ早そうと言うことは解っていたが、翌日から入梅に入る可能性もあり、雨が降る日々がしばらく続きそうであったので、この日に決行したのであった。新たな観光名所として、その「ジャカランダ」を本州一に集積させた公園が平成26年6月6日にオープン。今では熱海の初夏を告げる花木となった「ジャカランダ」熱海でのジャカランダのはじまりは1990年(平成2年)。国際姉妹都市であるポルトガルのカスカイス市から贈られた2本の木からと。世界三大花木の一つで、いまでは熱海の初夏を告げる花となったと。街路樹がジャカランダなのは温暖な熱海だからこそ。長崎県の小浜市の海岸にも同じように植えられているのだと。枝の先端に咲くジャカランダの花。まだ先端は開花せず蕾が。『ジャカランダ』はノウゼンカズラ科の樹木で、中南米原産の落葉高木。ラッパ型で青紫や青藤色の花が多数集まって咲き美しい。シウンボクなどの約50種がある。青空を背景に。熱海サンビーチ沿いの国道135号線沿いに植えられているジャカランダの花を楽しむ。今年の『ATAMIジャカランダフェスティバル2019』は6月8日(土)~23日(日)まで開催されると。その間ライトアップも行われるのだと。『ATAMIジャカランダフェスティバル』の幟。ジャカランダ(jacaranda)は和名をシウンボク(紫雲木)、キリモドキ(桐擬き)と呼ぶと。世界3大花木「ジャカランダ(紫雲木)、フランボヤン(鳳凰木)、スパトデア(火炎木)」の1つで、南米原産で鮮やかな薄紫色の花を咲かせることから『熱帯の桜』と呼ばれている。高さ15mにもなるノウゼンカズラ科の高木。マメ科の様な葉を付け、多数の薄紫色の花を咲かせていた。また、移民として南米に渡った日本人が,キリの花に似ていることから「桐擬き」と呼んで愛した花なのだと。やはり五分咲きか。シダに似た細かい無数の葉が対生に広がり、繊細で柔らかな印象。ノウゼンカズラ科キリモドキ(ジャカランダ)属の本種は熱帯アメリカに50種ほどありブラジルなど熱帯、亜熱帯地方では庭園樹や街路樹になっていることもあるジャカランダ。しかしジャカランダの最大の魅力は釣り鐘状の可憐な花。花ことばは「名誉」「栄光」その花は薄紫色とも藤色とも言えない神秘的な色で自生地では満開になると花が木を覆うほど咲きほこるのだと。今年の2月にポルトガルを旅行した際に、ロカ岬からリスボンに戻り途中に熱海の国際姉妹都市であるカシカイス市の街中を通過したのであったが毎年5月下旬から6月上旬にかけてリスボンを紫色に染めると現地ガイドからあったのでこの時期にカシカイスそしてリスボンを訪ねるとジャカランダの花を楽しめそう。 【https://hiveminer.com/Tags/jacaranda%2Clisbon/Recent】よりこちらはリスボン市内のジャカランダの写真。 【https://gramha.net/explore-hashtag/Jacarandas】よりそして、本場のジャカランタの花の写真では、日本のソメイヨシノの桜の花と同様に葉が出る前に花が一斉に咲くようだが、熱海のジャカランタは葉と花が同時に。夜間には竹灯篭が楽しめると。ネットから竹灯篭の写真を。 【https://www.ataminews.gr.jp/event/148/】より遊歩道には美しい花壇も。汚水マンホール蓋。熱海市の「市政施行80周年」記念の汚水用カラーマンホール蓋。右下に「熱海 8♨︎th anniversary」の文字が入っている。デザインは貫一がお宮を足蹴にする別れのシーン。その舞台となったお宮の松は現在3代目だそうだ。熱海名物の花火も描かれているが、もちろん別れのシーンと花火は無関係。赤いブーゲンビリアの花を背景に。ラッパ型で青藤色の花が多数集まって咲き美しいのであった。そしてジャカランダの花以外にも多くの花が楽しめたのであった。カシワバアジサイ。ブラシノキ。オーストラリア原産で、観賞用に栽培される。5-6月頃に開花し、花弁は緑で小さくて目立たないが、赤(ときに白)の長い花糸が目立つ。穂状花序をなし、花序全体がブラシのように見える。花序の先から枝が伸びるという珍しい特徴を持つ。キンシバイ(金糸梅)。再び高級マンションを背景にジャカランダの花を。青空の中に突き刺さるヤシの木を背景に。再びズームで設定を変えて。珍しい赤い花?『キング・プロテア』とのこと。重厚で大輪の花を咲かせる南国の美花で花の王者と称されるキング・プロテア(King proteas)。 外側の花弁のように見えるものは総苞片で、その内側に頭状花があります。頭状花は外側から咲き始めるのだと。この赤い花は『サンゴシトウ(珊瑚刺桐 )』。「サンゴシトウ(珊瑚刺桐 )」の名前の由来は赤くいっぱい咲く花の形が海のサンゴに似て → 「珊瑚」枝葉に少々トゲあり → 「刺」葉っぱが桐みたい → 「桐」とのことであるが、葉っぱが桐に似ているのでしょうか?花は上向きに反り、花弁はあまり開かず筒状のままであった。『金色夜叉』の山場を再現した『貫一お宮の像』。別の角度から。花が大きく、初めて見る配色の百合の花。オリエンタル系とトランペット系を交配させたOTハイブリット。花が大きく、見た事もない配色。フロリアート2002と呼ばれる百合か?熱海「ジャカランダ遊歩道」のジャカランダもこの日の見納め。再びズームで。中央に黄色の筋が。そして駐車場に向かって引き返す。『貫一お宮の像』の手前から。公衆トイレの建物の壁にはステンドグラスの如きカラーガラスが埋め込まれていた。『サンデッキ』。『熱海サンビーチ』にも人の姿はなし。『初島』。熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口200人ほどの島。「エクシブ初島」が営業を続けているが・・・・・。『ムーンテラス』。熱海の海岸線に位置する親水公園には、南欧コートダジュールをイメージしたスカイデッキ、ヨットハーバー、石のアーチが美しいムーンテラスがある。ムーンテラスには、縁結びのスポットとして人気の「恋人の聖地」碑があり、石碑に向かって女性は右手を、男性は左手を合わせて愛を誓い、恋人募集中の人は片手で合わせて願うと幸せになれるとか。きらきらと輝きを放つ夜のライトアップも、ロマンチックな雰囲気を演出していると。『釜鳴屋平七の像』で、遠くを見通すような若者の像。安政年間(1854~60)伊豆国(静岡県)熱海村に発生した漁場騒動の指導者。平七は網主でありながら網子と共に行動し,6年11月韮山代官所へ門訴。八丈島へ遠島途中の大島にて死去した若者。この像の頭上に咲く熱海桜も美しいのである。ヨットハーバー。繋留費用はどのくらいかかるのであろうか?『アガパンサス』はこれからが盛り。『スカイデッキ』から熱海海岸の絶景を楽しんだのであった。糸川に架かる橋が並んでいた。国道135号線に架かる『熱海渚橋(あたみなぎさばし)』ガラスがデザインに入ってるのも、珍しいのでは。ガラスに描かれた魚の姿が路面タイルに映って。最後にもう一度、南アフリカ・ヨハネスブルクのジャカランタ並木の写真をネットから紹介します。一度、日本の桜の如き開花をこの目で見たいのではあるが・・・???【https://matome.naver.jp/odai/2142037030448933801/2142051900967627303】よりそして車に戻り、次の訪問場所の小田原城に向かったのであった。
2019.06.10
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先日・6月5日の早朝に、我が家から車で10分ほどの場所・藤沢市大鋸を流れる境川の両岸に植栽されているアジサイ(紫陽花)を愛でに行って来ました。ここ大清水橋から鷹匠橋までの約400mは、「大清水境川アジサイロード」と呼ばれているのです。今年も、6月16日に「第11回アジサイまつり」が開催されるとのこと。併せてこの境川の堤防上は、江の島へ向かって流れる境川と引地川を繋いだ「藤沢・大和自転車道」になっているのです。花のピークはもう少し先のようでしたが、様々な色のアジサイ(紫陽花)が境川沿いに咲き乱れていました。昨日の雨で開花も進みピークを迎え始めているのでしょうか。最近よく見かけるようになったカシワバアジサイ。カシワバアジサイは、北アメリカ東部原産のアジサイの仲間とのこと。葉の形がカシワに似ていることが、和名の由来。花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独自の形状をしており、5月〜7月に真っ白い花を付ける。八重咲きと一重咲きがあるとのこと。未だ、白い花しか見たことがありませんが、他の色のカシワバアジサイがあるのでしょうか?アジサイのイメージカラーであり、人気の色でもある紫系アジサイ。紫系は色を細かく上げると多数あるし、濃い紫もあれば、薄い紫、赤紫など紫だけでもいっぱいありそうです。アジサイの漢字名『紫陽花』もこの紫系から。これはガクアジサイ。中心に集まっている小さな蕾のようなものが花びらで、その外側にはガク(葉っぱが変化した花を守る部分)が大きな花びらのようについている。この様子が額縁に似ていることから「ガクアジサイ」と名付けられたのです。こちらは開花がスタートしたばかりの花や満開の花が一株に同時に。シーボルトが来日していた当時,現在良く見るようなアジサイ(セイヨウアジサイ)が存在していなかった。シーボルトは,このガクアジサイの苗を持ち帰り,その苗から改良されたものがセイヨウアジサイなのだと。こちらは可憐なガクアジサイ。前方に見えるのが藤沢市民病院。別の場所から同じ角度で。中央の花を見る前に額を見てくださいと主張しているのであった。額の青と白の見事な共演。純白そのもの、いやピンクが僅かに。境川の堤防の両岸に。様々な色を追いかけシャッターを押し続けました。「七変化」とは「アジサイの別名」という記載があるほど、アジサイの花色の変化は、昔から周知の事実だったようです。ちなみに、花言葉は「移り気」で、昔はこんなアジサイの性質は「節操がない」と受け取られ、武士にはちょっぴり嫌われたと。両岸を再び。アジサイの花色の変化の原因は、大きく分けて二つあるのだと。まず、最近人気の秋色アジサイと呼ばれる『フェアリーアイ』や『西安』などは、秋まで長く開花していくうちに、鮮やかな花色がくすんだ緑色や赤色へと変わる。これは、花の中の色素が少しずつ分解されておこる現象で、老化現象の一種と。アメリカアジサイとされる『アナベル』も白色から緑色へ、日本アジサイ(ヤマアジサイ)とされる『紅』も白色から深紅へと変化するのも同じ現象。そしてもう一つは、土の酸度(pH)による変化。“同じ場所で育てているのに年々色が変わっている”、“同じ品種なのに場所によって色が違う”…こんな場合は、土の酸度が影響して花色が変わっている証拠だと。花店に並ぶアジサイの中で、『城ヶ崎』や『ダンスパーティー』など、同じ品種なのに店頭では青色とピンク色の2色が並んでいることがあるがこれは生産農家さんが土を調節して、違う花色に仕立てているからなんだとこれはネット情報から。見えている橋は「鷹匠橋」。ここまでが「大清水境川アジサイロード」。このくらいの色づきが好きだと言う方も多いのでは。青も色づき始めて。そして昼顔も。こちらは空き地に咲くピンクの「アオイ(葵)」の花。そして30分ほどの鑑賞を終わり自宅に戻る。そしてこちらは自宅のアジサイの花。ガクアジサイも。そして家に横の菜園の隅には「ゼニアオイ(銭葵)」が。ズームで。『キンシバイ(金糸梅)』も開花を始めています。我が趣味のセイヨウミツバチ?も花粉を集めに訪花中です。今朝も雨の合間に大きな花粉球を抱えていました。そして赤い百合の花も。
2019.06.09
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今日の我が家の庭、そして横の菜園に咲く花々です。まずは我が家の『庭の花々』から。ピンクの大輪の芍薬(シャクヤク)大きくふくよかな花を咲かせるボタンとシャクヤク。「立てば芍薬、座れば牡丹」と美しい女性の容姿や立ち居振る舞いを形容するように、独特の美を象徴する植物。皆さん、ボタンとシャクヤクの違い、ご存じでしょうか? ボタンは落葉低木で『木』。 冬に葉は落ちるが地上部に枝が残る。年々、幹が太く大きくなる。シャクヤクは宿根草で『草』 冬季に地上部が枯れてしまう。年々、根が広がって、大株に育つ。何種類かの色の異なるシャクヤクを植えていますが、他のシャクヤクはまだ蕾の状態なのです。こちらは、蕾の下の枝まで赤い種類。こちらは、何色の花だってでしょうか?蕾にはアリ君が蜜を舐めに。そしてピンクのツツジ。近寄って。ラッパ水仙は既に花が終わってしまいましたが、八重の水仙は今が盛りです。子のひねり具合に規則性があるのでしょうか?我が部屋の前に咲くコデマリ(小手毬)。コデマリは、細い枝や葉が見えなくなるほど白い多数の花を咲かせ、枝垂れる姿が見事で、庭木や切り花として利用される、春を代表する花木。同じ仲間のユキヤナギは既に終わってしまいましたが、コデマリは今が盛り。こちらも八重の水仙。中心の色合いが、先程のものとは微妙に違うのです。これは、『ナルキッスス・バルボコディウム』というラッパ水仙の小型原種の代表的な種類であることは、以前にネットで知りました。花冠の広がった黄色いペチコートのような花を、1茎に1花開いているのです。。そしてこちらの水仙はエピローグへ。『オダマキ』こちらも紫一色の『オダマキ』。『プリムラ』。『イモカタバミ(芋傍食)』でしょうか?こちらも元気で、次々と領土を広げて来ています。シラン(紫蘭)も開花が始まりました。蘭にしては手間がかからず、どんどんと広がっていきます。ボケ(木瓜)。クリスマスローズ(白)は俯き(うつむき)ながら静かに咲いています。クリスマスローズの花言葉は、・私の不安をやわらげて ・私の不安を取り除いて ・私を忘れないで。こちらはピンクのクリスマスローズも静かに。クリスマスローズはなぜ下を向いて咲くのでしょうか?調べてみました。「植物学的には、下向きで咲く花を好むハナバチ類の訪花を誘引していると考えられます。ハナバチ類は行動範囲が広く、一つの花での採蜜時間が短く、効率よく多くの花を訪れて受粉の可能性を増す、植物にとってはありがたい存在です。このため、花首を長くし下を向くように進化したと思われます。」とのこと。花も付き合う大切な相手に対して、自ら自分の姿を変える、ことを学んだのです。アヤメ(菖蒲)も開花が始まりました。アマドコロ。そして我が家の横の『菜園の花々』です。こちらはブロッコリーの花。我が趣味のミツバチが大好きな花なのです。そろそろ、片付けて、トマトやキュウリを植え込みたいのですが、ミツバチ嬢が毎日訪花しているので、なかなか片付けられません。こちらは菜園に自然に生えてきた『ビオラ』を移植して育てて来ました。こちらも色合いの美しい『ビオラ』。そしてこちらの花は何でしょうか?『春菊』の花です。こちらにはミツバチは訪ねて来ないのですが。そして、甘く美味しい『スナップエンドウ』の白い花です。そしてこちらは、『イチゴ(苺)』の花。既に赤くなっている苺も。プランター栽培のイチゴも元気に花をつけています。そして、ミツバチ嬢も訪花しています。前回に『我が家の庭の花々』⬅リンクをアップしたのは3月30日。それから約3週間経ちましたが、次々に新たな花が開いてくれているのです。庭、そして菜園の花々を楽しみながら、日々を過ごしている自称『アクティブシニア』なのです。今年も既に咲き、散ってしまった桜の花を見て、仏教に教えられている「あらゆるものは移り変わる」、「無常」という真理の言葉が改めて益々リアリティをもって感じている今日このごろなのです。
2019.04.22
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今年も4月4日(木)に、ホームセンターに買い物に行った帰りに、地元の引地川沿いの桜見物を楽しんで来ました。この場所は引地川の両岸に巨木の桜並木が続く地元では人気のスポットの一つ。両側から引地川の水面を覗き込むように枝が川に伸びています。白の大島桜も。ソメイヨシノのピンクが青空に映えて。川の向こうには高層アパート群が。川沿いを歩く。『サクラの伐採について』安全上の観点からご理解をと。中心が赤くなり始めている花も。枯木の幹から。お爺ちゃんに抱かれたひ孫、いや玄孫(やしゃご)の如くに。川沿いの手摺にも桜の花が。そして更に家に近い地元の私立大・高・中・小学の校庭も訪ねてみました。駐車場に車を止め、小田急線の踏切を渡る。小田急線の線路沿いにも桜並木が続いている。校庭内を貫通する一般道。ここの桜は何年か前に強風で倒れた事があり、その後に安全対策としてかなりの枝を伐採したのでした。大学のグランド越しの桜と高層校舎。陸上競技場内では体育の授業?が行われていた。陸上競技場の赤いタータントラックとソメイヨシノのBEST MIX。高・中・小の校門前から。青、ピンク、赤、緑と豊かな色彩のコラボを楽しむ。校門前に繋がる桜のトンネルを歩く。高層大学本館を背景に。競技場の観客席の後ろ側、小田急線の線路沿いの桜並木。そして桜のトンネルを引き返す。椿の花と桜の花びら。桜の大木の根に、今年のつとめを終えて。大学の本館ビル。再び競技場と桜並木を。誰もいない観客席と覆いかぶさるような桜の大木。そして再び踏切を渡り車に戻ったのであった。そして2日後、再び引地川の桜並木横を通ったのでコンビニに車を駐めて撮影。前回と異なる撮影モードでTRY。今年の桜は長持ちしてくれました。この日がこの桜並木の『満開の日』だったでしょうか。花の中心はほぼ皆ピンクの色を濃くしていました。青とピンクのカオスの世界。そして今年の引地川の花見も見納め。
2019.04.13
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『旧東海道を歩く』のブログアップの毎日が続いていますが、その間に我が家の庭の花々も次々に開花していますので、今日はその状況もブログアップさせていただきます。まずは『庭梅(にわうめ)』葉が出る前に2~3輪ずつ固まって枝を覆うほどたくさんの花を咲かせています。花は5枚の花びらを持っており色は淡い紅色。既にピークを過ぎ、葉も出始めて来ました。そして白のクリマスローズ。こちらは赤のクリスマスローズ。白のニラバナ。庭では春の陽気を迎えて種々な花々が咲き競っていますが我が家ではここぞとばかりに目を引いているのがこのニラバナ。太陽が出ると一斉にそちらの方に花を開き周りを圧倒する勢い。こちらはやや紫がかったニラバナ。そして様々な水仙も次々に開花中。八重咲きも。ラッパの色も各種。花弁の色も様々に。旧来の品種も頑張っています。白のヒヤシンスでしょうか。こちらは紫。プリムラ。木瓜(ボケ)。ムスカリ。モミジの新芽も赤く染まって。芍薬の蕾も日に日に大きくなって来ています。ユキヤナギ。枝垂れた枝先の長い穂に、たくさんの花を咲かせてひときわ目を引き存在感を。ハナカイドウ(花海棠)のピンクの花も。そして我が家の横の菜園の花です。これは青梗菜(チンゲンサイ)の花。こちらはブロッコリーの花。ブロッコリーには我がミツバチがブンブンと羽音をさせながら訪花しています。セイヨウミツバチはブロッコリーの花が大好物なのです。そして菜の花にも。イチゴにも可憐な花が開き、早速我がミツバチが受粉の手助けをしてくれています。そして我が家の近くの公園のソメイヨシノもかなり開花を始めています。来週早々には満開となるのではと。
2019.03.30
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品野の菜の花を楽しんだ後は136号線のマーガレットラインを青野川に沿って上流側に向かって進む。そして来の宮橋近くの有料駐車場にすべりこむ。今年も橋の袂の女性裸像が迎えてくれた。「みなみの桜」案内図。こちらは南伊豆町・青野川の堤防上に咲く、河津町と同じ河津桜。「来の宮橋」からの青野川の下流に向かっての絶景。河津町に較べて河津桜自体が堂々とした大木なのです。そして散策道に柵等の人工物が無く眺望が素晴らしいのです。また素晴らしい眺望の中で河原をずっと歩いて行けるのも。こちらも満開そのもの。「湯けむり橋」の名前も風情十分。「湯けむり橋」からは下賀茂温泉「銀の湯会館」の湯けむりが。南伊豆町・青野川沿いに800本の河津桜が咲き乱れていたのです。毎年2月10日~3月10日の「みなみの桜と菜の花まつり」の期間中は18:00~21:00 まで銀の湯橋付近~九条橋付近でライトアップも行われているのです。濃いピンクの花をズームして。お花見を人力車で楽しむオバチャン達。「湯けむり橋」から「来の宮橋」方面を見る。散策道には菜の花も咲いて。この時間の河津町の河津桜散策道は中国と化しているのであろうがこの「みなみの桜」には人の数も比較的少なくこれぞ『穴場』。ピンク+黄色のコラボを楽しみながら下流に向かって歩く。ここが人力車基地。青田川の水面に映って。青野川散策マップ。道の駅 下賀茂温泉 湯の花に立ち寄る。伊豆半島南部の観光拠点となる道の駅。観光協会、農林水産物販売所、足湯などがあった。2009年に開所した、静岡県内20番目となる道の駅とのこと。地元農家などが出品する販売所では、旬の味覚を格安で販売していた。『紅菜苔』が販売されていた。旅友からさっと茹でてお浸しやあえ物にすると美味しいとのことであったので、帰宅後にネットで種を購入し撒いてみました。順調に発芽し生育中です。柑橘類の試食を楽しんだのでした。販売所横の「仲良し地蔵」。「さんま寿司」500円/6カットを購入。人気があるようで、品切れのため本店から急送15分待ちで我々も一箱購入しシェアーしたが、旅友のOさんは青物はダメだと。青田川の水面が輝く。「さんま寿司」をテレビ局のカメラマンも撮影を。人の姿が少ないことにビックリ!!幹も太く大きな姿の河津桜が並んでいるのであった。青野川の上流、来の宮橋方面を見る。下流側。残念ながらここではメジロには会えなかった。再び菜の花との共演する姿をカメラに。ネットには「みなみの桜」の動画⬅リンク がここにもありましたので、紹介させていただきます。併せて今年の動画2⬅リンク も紹介させていただきます。 ・・・つづく・・・
2019.03.24
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河津桜原木の鑑賞後は再び河津川の堤を下流側に向かって進む。往きに寄った「さんまハリコ」の土産物屋に約束通りに立ち寄り試食。アジの干物を3枚、土産に購入。満開で花の後ろは全く見えない。そして動画⬅リンクもネットから紹介させていただきます。椿の花も負けじと。濃いピンクと黄色の共演を楽しむ。伊豆・稲取温泉の「第22回 雛のつるし飾りまつり」も開催中と。残念ながらミツバチの訪花の姿は見ることが出来なかった。10時を過ぎ観光客の姿も増えて来た、そしていたるところで中国語が。菜の花も背伸びして河津桜の花見を楽しんでいた。河津桜、菜の花、紅白の垂れ幕、これぞ和の早春の風景そのもの。土産物屋では「さくら饅頭」がどこの店にも。青空も刻々と拡がって来た。そして漸くメジロを発見。河津桜と菜の花が同時に満開状態は幸運そのもの。河津川の流れは静かに。足湯を楽しむ人々の姿も。足湯の場所には河津町観光案内図が。河津桜以外にも様々な観光場所があるのだと。駐車場に戻る途中のみかん売り場。そして駐車場に戻り南伊豆町に向かって走る。「かじやの桜」を車窓から。河津桜原木が発見され、まだ開花して間もない頃、接ぎ木による苗の生産が始まった。その時の苗は河津町内の関係者にも配られ、それらの桜は今では立派に成長しており、地元の方には一期生と呼ばれているのだと。「かじやの桜」もその1本で、樹高はそんなにないが、枝振りとたくさん咲いた花の素晴らしさは見事そのもの。そして135号線を更に南下する。車窓からの東伊豆の海岸風景を楽しむ。遠くに大島そして三原山の姿が確認できた。入田浜海水浴場の先の岩場。小湊第一隧道。本根岬手前から、これまで走って来た伊豆東海岸を振り返る。マリンブルーに染まる白浜海岸。そして稲生沢川に架かる新下田橋を通過。この橋の欄干に大きな人魚の像が座っていた。そして南伊豆町の日野(ひんの)交差点にある「菜の花畑」前のコンビニ駐車場に車を駐める。「第21回みなみの桜と菜の花まつり」が2/10~3/10の開催期間で行われていた。そして18時~21時までライトアップされると。菜の花畑の中に造られた木道を散策。青田川沿いの桜はまだ開花していなかった。「元気な百姓達の南伊豆町菜の花畑」と。日野地区の休耕地に毎年1~4月は菜の花、8月はひまわり畑が広がると。花は地元の皆さんが協力し、「元気な百姓祭」という活動で種まきをし育てているのだと。黄色一色の世界が拡がっていた。桜の開花はこれから。山の上からの景色も美しいであろう。日野(ひんの)地区の青野川河川敷には黄色い菜の花が約27,000㎡の辺り一面に咲き乱れているのであった。菜の花の香りが一面に漂い、しかしこの香りには好き嫌いがあるようだ。菜の花をズームで。蕾は食べても美味いのである。おひたし、辛子和え、お吸い物、サラダ・・・・・。木道も綺麗に整備されていた。再び黄色の世界をカメラに。 ・・・つづく・・・
2019.03.23
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テレビのニュースでは九州から桜前線が上昇中と各局で。18日に四国・宇和島で開花。20日に長崎、高知県宿毛で開花し、東京も4輪ほどの花が咲いたと。そし昨日21日には東京都心で桜(ソメイヨシノ)が開花したと発表。靖国神社(千代田区)の標本木で気象台の職員が確認したと。平年より5日早く、昨年より4日遅かったとこれもテレビのニュースで。ポルトガルから帰国後、その旅行記(備忘録)を1ヶ月以上に渡り延々とアップして来た為以下のブログのアップが1ヶ月以上遅れてしまいました。今年も、ポルトガル帰国後の2月21日(木)に3人で河津桜そして西伊豆巡りの日帰りドライブに行って来ました。何時ものように自宅から車で6時に茅ヶ崎の旅友Sさん宅へ。そしてSさんの愛車に乗り換えて二宮に住むOさん宅へ。そして西湘バイパスを利用して小田原方面に。西湘バイパス・早川出口から左折し国道135号線へ。相模湾も赤く染まって来ていた。雲の量も多く、相模湾の水面もスポットライトを浴びた如くに。熱海海岸を車窓から。山の上に立つ熱海城。伊東にあるホテルサンハトヤが前方に。初島。エクシバ初島クラブの建物も見えた。利島、鵜渡根島、新島の姿も。そして眼下に伊豆稲取の街並みが。国道135号線の両脇に開花した河津桜がだんだんと増えて来た。伊豆今井浜付近を通過。そして8:56過ぎに有料(700円)駐車場に到着し車を降り散策開始。今年、2019年の第29回「河津桜まつり」は2/10~3/10までの1ヶ月間。河津桜の見どころは、河津川の堤上がメイン会場。河津桜はカンヒザクラ系と早咲きのオオシマザクラ系の自然交配種といわれ、開花の時期が早く花が大きい桜。河津川周辺を中心に町内に約8000本(川沿いは約850本)が植えられ、今年は2月10日から3月10日に「河津桜まつり」が催されていたのであった。河津川沿いの散策道入口では満開の河津桜と菜の花が迎えてくれた。幸いにも快晴の河津桜のお花見ウォーキング。これぞ満開。散策コースの脇には様々な土産物やが並んでいた。「ハリコ」10本500円。さんまの丸干し干物(ひもの)。「ハリコ」とはサンマの幼魚の丸干しを言うとオバチャンから。この日は平日の木曜日の早朝につき、まだ観光客の姿は比較的少なかった。ポルトガルで楽しんだミモザの苗木も売られていた。河津川の両脇の堤防に連なる満開の河津桜。干し椎茸も山のように。濃いピンクのトンネルの下を進む。開花が進むと中心のピンクの濃さが増して行く河津桜。河津川の水面に映る姿も。満開とはこの状態を言うのだと勝手に。咲くならば太幹にと。黄金柑(ゴールデンオレンジ)。川の白き流れを背景に。売店の隅にはつるし雛が。再びピンクの帯を。そして青空を見つけてズームで。豊泉橋(ほうせんばし)が見えて来た。様々な土産物屋、そして試食を楽しみながら進む。そして「帰りにまた寄るね」と言いながら??・・・・。豊泉橋(ほうせんばし)から下流側を。上流側。このピンクの濃さに誘われて毎年。そして県道沿いの民家の庭にある「河津桜原木」を訪ねる。桜の近くに立てられている「河津桜原木物語」。『昭和30年頃の二月のある日、この家の主人であった飯田勝美氏が、河津川沿いの冬枯れの雑草の中で芽吹いていた約1メートル位に育った桜の若木を偶然見つけて庭先に植えた事が始まりでした。約十年後の昭和41年1月下旬、やっと桜が咲き始めました。同年四月、主の勝美氏は花が咲くのを見届け、永眠しました。その後きれいに咲く桜を見て譲ってほしいという話もありましたが、思い出の桜のため手放さなかったそうです。当時、この家の屋号からこの桜は「小峰桜」と呼ばれ親しまれていました。その後の調査で新種の桜とわかり昭和49年には河津で生まれた桜であることから「河津桜」と命名され昭和50年4月に河津町の木に指定されした。』と。河津桜原木保護育成基金ご協力依頼の看板が。原木の幹周は約115cmで樹齢は50〜60年くらい。たくさんの花が玉のように塊になって咲いているのであった。今年も頑張って咲いてくれていました。オレンジ色のアロエの花も。原木を別の角度から。愛犬に必死にお色直しした衣装を着させ、ポーズを取らせ愛犬家が記念写真を。 ・・・つづく・・・
2019.03.22
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二宮・吾妻山の菜の花そして山頂からの富士山の雄姿を楽しんだの後は熱海駅へ。月曜日にもかかわらず、駅前商店街には多くの観光客そして中国語が。この日は平和通り商店街を進む。暫く歩くと道の左下にあったのが『熱海四等郵便取扱所開設旧跡』。1871年の郵便制度発足時の「三等郵便局」制度に由来する。三等郵便局とは明治時代に公費で郵便局を全国に設置することが財政的に難しかった中、全国にいち早く郵便制度を浸透させるため地域の名士や大地主に土地と建物を無償で提供させ郵便の取り扱い事業を委託する形で設置された郵便局。1875年(明治8年)1月に郵便役所及び郵便取扱所は郵便局と呼称し、一等から五等までに区別されたと。そして『清左衛門湯』。熱海駅から徒歩15分、老舗旅館「古屋」の前に湧くのが「清左衛門の湯」。昔、清左衛門という農民が、馬を走らせている際、この湯壷に落ちて焼け死んだことから、その名が付いたという。人が清左衛門の名を大きな声で呼べば大いに湧き、小さな声で呼べば小さく湧き出たと今に伝わる。明治時代まで、昼夜湧き続け絶えることがなかったこの湯は、現在も所有する旅館「古屋」で湯船に使用。温泉井添削時、地下で出土した貴重な円柱形の石や江戸城の築城石として用いられた熱海市下多賀のくさびの形が残る石なども展示している。そして次に訪ねたのが『風呂の湯』&『水の湯』。熱海七湯の一つ、「風呂の湯・水の湯」。風呂の湯は外傷に良いといわれ、また、湯気の上騰が盛んでまんじゅうを蒸したり酒を温めたりして販売していたと。またこの湯の傍らに塩分の無い温泉が湧き出し、明治時代には淡白無味常水を温めるもののごとしとして「水の湯」と名付けられたと。「熱海 本家ときわぎ」。大正7年(1918年)、初代が熱海銀座に「熱海 本家ときわぎ」を開店して以来、和菓子作りひとすじの老舗であると。「常盤木羊羹店 總本店」。こちらの店は、「総本店」を名乗っている。「本家」と「総本店」は別の店のようで、こちらには伊豆山神社御用菓子の看板も。本家に比べると、新しい商品を積極的に出しているのだと。そして『NEW FUJIYA HOTEL』前を通過。前方にあったのが『大湯間歇泉』。熱海七湯の一つ「大湯間歇泉」は、古くからの間歇泉で世界的にも有名な自噴泉であった。「大湯」の噴出は昼夜6回あり、湯と蒸気を交互に激しい勢いで吹き出し、地面が揺れるようであったと。明治中頃から次第に減少し1923年(大正12年)に止まってしまったが(大地震の際に再び噴出したこともあった)、1962年(昭和37年)に市の文化財として保存し、現在に至っている。かつては地面が揺れるほど湯と蒸気が激しく吹き出したと。『オールコックの碑』(左)と『愛犬トピーの墓』(右)。初代駐日英国公使ラザフォード・オールコックが1859(安政6)年、総領事兼外交代表として来日。日英修好通商条約の批准など多忙な中でも、名峰・富士山に外国人で初めて、登頂を果たしたことでも知られている。富士登山の帰りに立ち寄った熱海温泉。「熱海七湯」の一つ大湯間欠泉の熱湯により、大火傷(やけど)をおった愛犬トビー(スコッチテリア)が亡くなってしまう。その悲しみに触れ、宿の主人が僧侶を呼び寄せ、人と変わらない葬儀でトビーを大切に弔った。熱海の人たちの“おもてなしの心”に感動したオールコックは、当時、生麦事件や在日英国大使館襲撃事件などで印象の悪かった日本人に対して、英国に戻ったあとも、日本人に対する偏見に弁明。著書「大君の都・幕末日本滞在記」にも「日本人を敵視すべきではない。誠に親切な国民である」と記し、英国世論は親日へと傾いたという。そして『湯前神社』を訪ねる。湯前神社と名がついているとおり、湯、つまり“熱海温泉”と深い関係のある神社。創建時期は749年とされていますが、熱海の地に温泉が湧出したとき(約1500年前)には、すでにお祀りされていたものと考えられている歴史のある古社。『拝殿』湯前神社にお祀りされているご祭神は、少彦名神(すくなひこなのかみ)。大国主神(おおくにぬしのかみ)とともに全国を回って国土を開拓した神様。“医薬の神”として馴染みが深いが、穀物の神、酒造の神、温泉の神などの顔ももっています。いずれにしても、人間の体・健康について霊力を発揮する神さまとなります。そのご利益は、国土の平和、産業の開発、漁業・航海の守護といった全体に関わるものから、個人レベルでは、病気平癒、縁結び、安産・育児の守護などです。拝殿の向かって右側にあるのが、「源実朝(鎌倉幕府第3代征夷大将軍)の歌碑」。「都より 巽にあたり 出湯あり 名はあづま路の 熱海といふ」と詠んでいますが、源実朝公が箱根権現から三島社を経て伊豆山権現に向かう途中に、熱海の大湯を見て、崇めたたえて詠んだものと言われています。そして湯汲坂を下り『糸川』へ。熱海市内中心部を流れる糸川。毎年この1月には、糸川遊歩道の58本の早咲きの「あたみ桜」を楽しむことができるのだ。「あたみ桜」はもともとは日本の桜ではなくて、沖縄原産のカンヒザクラと関西以西の暖地帯に自然分布するヤマザクラとの自然雑種と推定されていると。チョット早く五分咲き程度か?“海のアートがある歩道”、タコ。デレーンと垂れ下がって花見の真っ最中か? 対岸には目が頭の左側にあるからヒラメ?御成(おなり)橋から糸川沿いの300m程の遊歩道を下って行き、最終的に海沿いの国道135号線(下り)へ向かうことにする。その間、御成橋 → 新柳橋 → ドラゴン橋 → 桜橋 → 糸川橋 → 柳橋 → 渚橋 と糸川に架かる橋を経ていくことに。橋のデザインはそれぞれ違い、個性的で見ていて楽しい橋が続いているのであった。この「あたみ桜」は明治4年(1871年)頃、イタリア人によって熱海にもたらされたと伝えられており、少し濃いめのピンク色が特徴。今回も動き回るメジロを何枚かピントが合って撮影出来ていました。花の蜜を吸っているようです。残念ながらミツバチの姿は見かけませんでした。仲良くつがい?で。糸川には濃いピンクのブーゲンビリアも。濃いピンクの「あたみ桜」と青空は似合うのであった。亀、マンボウの姿も。桜橋の手前には「坪内逍遥 歌碑」が。明治の文豪、坪内逍遥(つぼうち しょうよう 1895-1935)は、水口町の双柿舎に移るまでの約9年間、この糸川べりの荒宿(現在の中央町)に別荘を新築して住んでいたのだと。碑文には、「ちかき山に ゆきはふれヽと 常春日 あたみのさとに ゆけたちわたる せいえう」 と。桜橋からの熱海桜、これぞ熱海桜!! 花弁が濃いピンク色で花が大きいのが特長。桜橋の欄干にも。ブーゲンビリアが陽光に輝く。海の方に向かって開花が進んでいた。『あたみ桜』説明板。その先には渚橋。糸川遊歩道終点の、国道135号線に架かっていた。こちらも波をイメージした橋で最も海に近い橋。 渚橋の手前には渚橋歩道橋が。そして熱海サンビーチの散策に。青い海と白い砂浜、立ち並ぶホテル郡、ヤシの並木通り・・・外国の高級リゾートに似た雰囲気のビーチ。夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。サンビーチのヨットハーバーに浮かぶヨットとその奥の山の上には熱海城が。熱海城は熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。城郭は歴史的に実在したものではない。東洋のモナコをイメージした熱海のヨットハーバー。ムーンテラス。テラス尖端の噴水は恋人達が愛を誓い合う事の出来るモニュメント。階段横の壁では魚たちが泳いでいた。「あたみ桜」と『釜鳴屋平七夫婦像』。上半身ハダカでマゲがゆってある男性と彼に寄り添う女性の銅像。頭上のあたみ桜。この像は、文化勲章を受章した熱海市名誉市民である澤田政廣先生の作「釜鳴屋平七夫妻像」。安政時代の義人、平七と妻の像。不況で網元が漁民に賃金を払わなくなり、平七たちは一揆を起こし、代官所へ命がけの直訴。平七は首謀者として八丈島流しとなるが、虐待により途中の大島で死去。35歳だったと。平七夫婦は現代の海を見ながら何を思っているであろうか。桜越しに八丈島、大島を見つめているのであろうか?『熱海サンビーチ』夏は海水浴場として、また、砂浜を歩いたり波と戯れたりできる場所として、ファミリーやカップルにも人気の場所。早朝には水平線からのぼる朝日がビーチや街を染める美しい景色を見ることができる場所。その後ろに立ち並ぶホテル・マンション群。毎年見る度に白き高層ビルが増えていくのである。 白き高層ビルの先にダイヤモンドヘッドの如き山が見えれば、これぞハワイ・ホノルル・ワイキキビーチ。真鶴半島の先端・真鶴岬は、浜辺から約200mに渡って続く岩礁になっており、その先っちょに3つの巨大な岩が顔を出している。椰子並木。遠く大島の姿も。こちらは初島。人口243人で、熱海市本土から南東に約10キロメートルの位置にある島。古くから人が住む有人島であるが、1960年頃からリゾート開発が進み、現在ではプールやスパ、食事はもちろん、様々なレジャーを楽しむ事ができると。『貫一・お宮の像』。明治時代から多くの文豪たちが居を構え、名作を執筆した熱海。その中でもひときわ有名なのが、 明治30年より6年間「読売新聞」「新小説」に断続的に掲載された 尾崎紅葉の小説「金色夜叉」(こんじきやしゃ)。この小説にちなむ「お宮の松」と、「熱海の海岸散歩する・・・」で始まる歌謡が一体となり、爆発的に流布し、主人公「貫一・お宮」はあたかも実在の人物のように 国民の心をとらえて離さない存在となったと。2代目・「お宮の松」。初代・「お宮の松」の切り株。自動車の普及により、排ガスや舗装の影響で衰えたため、1966年末に地元のホテルの寄贈により2代目の松が植えられたのだと。そしてバスにて熱海駅に戻ったのであった。
2019.02.06
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旧東海道歩きのブログアップで、アップが遅れてしまいましたが、今年も1月21日(月)に単独で二宮・吾妻山(あづまやま)の水仙、菜の花、富士山を見に行って来ました。JRで二宮駅に到着。時間は7:46.駅構内の「吾妻山 菜の花ウォッチング」のポスター。二宮駅・北口(西側)にも横断幕が。吾妻山に向かう道路脇には多くの仮設テントが。前日の日曜日には、土産物売り場等で賑わっていたのであろうが、この時には人の姿は皆無。そいて坂を上り吾妻山公園入口へ。そして急な階段を登り始める。振り返ると朝の陽光に相模湾が輝く。参道脇には町の花の椿(つばき)か、それとも山茶花?そして一面の日本水仙。ズームで。副花冠が黄色、そして白の花片が反り返って咲く日本水仙。別の日本水仙?も。園内一の人気の施設が、地形を巧みに活用した「ローラー滑り台」。全長は102メートル、傾斜は約10度。 相模湾を見下ろしながら、一気に下って来るのだと。そして吾妻山山頂に到着。時間は8:05.吾妻山山頂は標高136.2m。展望台までは約20分。そして富士山は前面に雲があるものの雄姿が確認できた。・関東の富士見百景 ・かながわ花の名所100選 コスモス(神奈川県観光協会) ・かながわの美林50選 吾妻山公園の森(神奈川県)そして大山。吾妻山公園は360度の大パノラマ。箱根、丹沢、富士山が手に取るような近さに感じらるのだ。南に広がる相模湾は、晴れたこの日には大島や初島も見ることが出来た。小田原の街並みそして山の上には白き雲が湧き上がって来ていた。そして満開の菜の花畑。豊かな自然あふれる吾妻山公園の「早咲きの菜の花」が一足早く春の薫りを。展望台からは周囲360度の景色が望め、青くそびえる富士と、斜面いっぱいに広がる6万株の黄色い菜の花との見事なコントラストが毎年見事に。光る海を再び。『吾妻山公園の由来』【『相模路(さがむじ)の 淘綾(よろぎ)の浜の 真砂(まなご)なす 児らは愛(かな)しく 思はるるかも』の歌碑。(万葉集 第十四巻 東歌)「相模の淘綾(よろぎ)の浜の美しい砂のように、あの娘が可愛く思われることです。」 吾妻山公園の由来の碑に、この淘綾の浜の歌が刻まれていた。吾妻山の名は、中腹に吾妻神社があることからこう呼ばれています。吾妻神社の主神は弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)で日本武尊(やまとたけるのみこと)が配祀(はいし)されています。伝承では、日本武尊が東征の途中、三浦半島の走水から海路上総に渡る際、突然海が荒れたため、妻である弟橘媛命が 海神の怒りを静めるため、夫の武運を祈願しながら海中に身を投じると、たちまち海は穏やかになりました。7日後に命の櫛が海辺に流れつき、これを埋めて墓とし、又磯辺に漂う命の小袖を取り上げて山頂に祭りました。日本武尊は東征の帰路、この地の峠ではるか東方の海をながめ、海路を開くために犠牲になってくれた妻を偲んで「吾妻はや」(ああ、わが妻よ)と嘆かれたと云ういうことから吾妻神社の名がつき、小袖が漂着した海岸を袖ヶ浦と云うようになりました。このような由来から、縁結びの御利益もあるようです。】富士山の手前に矢倉岳(やぐらだけ)が。神奈川県西部の箱根山地と丹沢山地の間に広がる足柄山地にある標高870mの山で、金太郎伝説で知られる金時山(1,213m)の北側に位置する。おにぎりを立てたような特徴的な山容をしており、足柄平野から足柄山地の山々を眺めた際にひときわ目立つため、一目でそれと分かる山。再び小田原市街、相模湾を菜の花越しに。展望台方面を。ズームで。早朝の為か、西洋ミツバチの姿は確認できなかったが・・・。立派なカメラを三脚にセットし、ひたすら富士山の前の雲がなくなるのを待っているカメラマン。しかし雲は緩やかに移動し。ピンクのマユミの木の実と後ろに富士山を。私も富士山の前の雲の晴れるのを待ちながらしばしシャッターを。榎の大木も存在感を示していた。そして山頂の雲が一瞬晴れる。撮影モードを変えてTRY。朝早くから、公園管理のオジサンの姿も。いつまで待っても雲は存在感を主張していたので、この辺で下山の路に。公園管理事務所には菜の花畑を上空から撮影した写真も。綺麗なトイレも出来上がっていた。吾妻神社に立ち寄る。拝殿。浅間神社。下山途中の展望台からJR二宮駅を。そして遠く江の島の姿も。JR二宮駅から吾妻山の展望台下の植栽で形どった町章を。「宮」を図案化したに図案化した「二」を配し、円型と翼型とにまとめ、融和団結と飛躍伸長を象徴するのだと。そして再びJRに乗り熱海駅を目指したのであった。
2019.02.06
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今年も我が家の駐車場の横の『ミズヒキ』が小さな花を開き出しました。雨の翌朝、茎の節部に宿る水滴の姿も。長さ20〜40cmになる花穂を出し、それに小花がまばらに咲く。小花の色は上半分は赤色、下半分は白色なのです。和名『ミズヒキ(水引)』は、正月飾りや祝儀袋などに使う「水引」の名のとおり、紅白に見える花が水引に似ていることに由来するのです。タデ目タデ科タデ属の多年生草本(宿根草)です。花は夏の終わりから晩秋にかけて長く咲きますが、ひとつひとつの花が小さいせいか郡植しないと存在感が出ません。妻が何故か大切にしていますので、群勢が大きくなり赤が目立つこの頃なのです。あまり庭にこの花を植えている方はいないのではないでしょうか。花穂に宿る水滴を狙いまし浮いたが、我がデジカメではなかなかピントが合わないのです。翌日の好天時に再びミズヒキの撮影を。やはり日光が当たると赤が輝くのです。ズームで花を狙ってみました。何枚かのうちの一枚です。旨く撮れました、いや撮れていました。そして何年か前に金沢に妻と旅行した時に、伝統工芸の『加賀水引』の店を訪ねた折りの写真です。この水引とは、和紙のこよりに水糊をたくさんつけて引っ張り、乾かし固めた細い飾り紐のことで、これが名前の由来と教えていただきました。日本における水引は、遣隋使あるいは遣唐使らが持ち帰ってきた献上品に、紅白の麻紐が結ばれていたことが始まりだとか。長い歴史の中で贈る人と贈られた人を結ぶ日本独特の水引折型(ラッピング文化)へと発展して来たのでした。ヨーロッパではすぐに開封できるような結び方でリボンが結ばれているのに対し、日本の水引は180度意味合いが異なるのだと。未開封であり、封印していることを示し、両端を引くほどによりきつく結ばれるのです。それは、贈り手が「あなたとの縁を結びたい」という大切な思いを、水引を用いて表現しているのだと。1本の紐にそんな意味が込められているのは日本人としてそして日本文化の誇りなのです。水引の花に雨粒やどりおり・・・・詠み人知らず
2018.10.16
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我が家の玄関の前の『コムラサキ』が紫色のきれいな実をつけています。根元に近い方から順次開花し先端に咲き向かって行くのです。 それを追うように実をつけて行きます。実は、緑色から紫色に変わって行くのです。枝が弓状に枝垂れ(しだれ)る姿が本当に美しいコムラサキ(小紫)。コムラサキ(小紫)は、ムラサキシキブ(紫式部)に比べると実も葉も小ぶりで、樹木の実の中で、紫という特異な色を付ける植物はこのコムラサキ、ムラサキシキブ以外にあるのでしょうか。この様に明るい紫の実の植物を、残念ながら私は見たことがありません。ブルーベリーは紫と言えば紫ですが・・・・・。コムラサキ(小紫)は紫式部を小さくしたものなのでこの名前になったとのこと。 小さいが、実のつきかたがいいので花屋さんでは紫式部より人気が高いと。紫色の実の直径は3mmくらいでしょうか。この日の朝は前夜の雨で実に水滴が。花片に宿る水滴を撮るのが大好きな旅友のSさんに触発されて、私も水滴を狙ってみました。Sさんの一眼レフの高級なカメラとは異なり、デジカメですのでなかなか後ろがぼやける写真が撮れません。少し離れてズームで狙って撮ってみた多くの写真の中のから。偶然とは言え見事にピントが合いました。一つの枝の中で枝先に向かって熟した紫色、少し熟した薄紫、未熟な黄緑色と。実が鮮やかにグラデーションのように色づきが進んでいるのが観察出来たのです。葉は途中から先にかけてギザギザが。そして漸く開花した枝も。花は筒状で先が4つに裂けて平らに開いています。これは翌日の写真ですが。雄しべは4本、雌しべは1本で、花冠から飛び出ているのです。これも翌日の写真。枝いっぱいにたわわに実る果実は、宝石のアメジスト?のような深い紫色と相まってブドウのようにも見えるのです。名前の由来は平安時代の女性作家「紫式部」だが、この植物にこの名が付けられたのはもともと「ムラサキシキミ」と呼ばれていたためと。「シキミ」とは重る実=実がたくさんなるという意味であると。実の付きが良く、なかなか落果しないので、冬枯れの庭の景色に紅紫色の果実がいつまでも映え、長く楽しめるのがこのコムラサキ(小紫)。日ごとに色づく実とともに秋を感じながら楽しんでいるのです。翌日の久しぶりに日光に照らされて。ぶどうの如く旨そう!そして秋の夕陽に照らされて輝くコムラサキの実です。『あでやかに 秋の夕陽の 小紫』・・・・・詠み人知らずそして・10月1日の早朝の台風24号の強風で多くの実が落ちてしまいました。
2018.09.30
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かなり時間が経ってしまいましたが、9月21日(金)の早朝に自宅から車で20分ほどの小出川の彼岸花を見に行って来ました。早朝6時前に小雨の中、長靴を履き、傘を持って車で向かいました。小出川は藤沢市遠藤の笹窪谷戸に源を発し、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの脇を流れ、駒寄川が流入し、茅ヶ崎市と寒川町の境界河川。新湘南バイパスとほぼ平行して茅ヶ崎市の西部を縦断し、千ノ川が流入した後、平塚市で相模川の河口付近に注ぐ1級河川。宝泉寺前を右折し、小出川に架かる大国橋(だいこくばし)を渡り小出川沿いに左折し車を駐める。「小出川彼岸花」の横断幕が。大国橋麓の赤の彼岸花。小出川の彼岸花コースは、小出川のここ大黒橋(だいこくばし・藤沢市)から追出橋(おいだしばし・寒川町)あたりまでの約3km。今年2018年の『第11回 小出川彼岸花まつり』のポスター。9月22日(土)に開催されると。大国橋からの小出川沿いを車で進む。対岸の彼岸花の開花は遅れている模様。霧雨の下、所々で車を降りデジカメで撮影。彼岸花は雨に濡れて。案内用チラシは、早朝の為か未だ。22日からこの道は車輌通行止めと。大国橋近くの道祖神と彼岸花。雨の彼岸花も美しいのであった。彼岸花のお祭り遠藤会場?この場所で写真展も開かれたのであろうか。会場奥には仮設トイレも既に設置済み。フラッシュで撮影。シロバナの彼岸花も所々に。再びフラッシュで。こちらはフラッシュなしで。いやフラッシュ撮影かもしれません。時間はまだ6時過ぎ。小出川を渡る狭い橋が前方に。この橋は茅ヶ崎方面からの車が通過できる橋。赤一色の混沌の世界。そして急ぎ車を移動し、新道橋(しんみちばし)を渡り車を一時停車し急ぎ散策開始。こちらは小出川沿いの堤に赤の帯が。雨水が小出川に流れ込み。ズームで花片を。水滴がフラッシュで輝く。小出川の白き流れの場所を背景に。赤の絨毯の後ろに、黄金色の稲田が拡がる。再び白との競演。霧雨も止み傘なしでの散策。小出川沿いの宇都母神社、盛岩寺・薬師堂の案内も。小出川の両側の堤の赤い帯。野鳥も川面から花見中。新道橋(しんみちばし)近くにも『小出川彼岸花』の横断幕が。稲刈り前の田んぼを守る彼岸花でもあるのです。彼岸花には毒があると聞いています。彼岸花の球根の中にはリコリンという有毒成分が入っているのだと。分析してみると、球根一つに15mgのリコリンが入っており、ネズミだと1500匹の致死量に相当するというのです。実は彼岸花は、動物や虫から球根を守るため有毒成分を持つようになったと。彼岸花を探してみると、ここ小出川の如くなぜか田んぼのあぜ道に植えられている事が多いのです。その理由はなんとネズミやモグラよけになるからだと。墓場にヒガンバナが多いのも、昔の土葬の時代には、異臭や有毒性を利用して遺体を動物から守るためだと。彼岸花の名は秋の彼岸ごろから開花することに由来する。別の説には、これを食べた後は「彼岸(死)」しかない、というものもある。別名の曼珠沙華は、法華経などの仏典に由来する。また、「天上の花」という意味もあると。その一方で、彼岸花の球根にはデンプンが含まれ、水にさらして食用となり、昔は飢饉(ききん)に備えて田んぼのあぜ道に植えたとも。昔(明治から昭和初期)は、このデンプンを製造する会社もあったとのこと。食用とするには、すりつぶし、充分に水でさらして毒抜きをすることが肝心であると。ネット情報では「7回ほど水洗いして除けば食用となる」と。どなたか食べた経験のある方はいらっしゃいますか?小出川を一人占め!!。里山の稲田を背景とした彼岸花は日本の里村の原風景なのです。我が農作業車を入れて。サンビタリアでしょうか?小さなヒマワリのような花をたくさんつけていた。黄色い花の中心が暗紫色で盛り上がっていて、大きい目のようにも見えます。花びらは黄色が多く、中にはオレンジ色も。約30分程の散策で、自宅に7:15過ぎに帰宅したのであった。日本の秋を彩る風物詩として、黄金色の稲穂と彼岸花の組み合わせが何故か私の心を強く惹きつけるこの頃なのです。
2018.09.29
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我が家の庭の『酔芙蓉』が毎日花を開き楽しませてくれています。遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されてきた芙蓉の花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が出にくく、品種はあまり多くありません。その数少ない園芸品種の一つが『酔芙蓉』。『酔芙蓉』は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に変わるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができますが、群生している名所となると寺の境内が多いでは。『酔芙蓉』となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるところは珍しいようです。『酔芙蓉』の花は短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に仏教の縁を重ねるのは私だけでしょうか。朝、真っ白な花が咲いていました。そして既に花片の一枚が淡いピンクに染まり始めている花も。花片全体が淡いピンクに染まり始めました。昼前になると、ピンクの色が強くなってきました。中心の円周上に濃いピンクの点が。そしてすっかり酔った『酔芙蓉』。そして酔いが回った花たちが夕陽を浴びて。花片も閉じかけて。すっかり酔った『酔芙蓉』の横に酔い潰れている『酔芙蓉』も。酔い潰れている『酔芙蓉』の前には未成年で飲酒禁止の若者が群れを成して。酔い潰れた花の背中に雨が。そして翌朝には地面に落ちて。大きな花に比べて、蕾はまだ小さめ。今から次第に膨らんで行くのです。そして開花そして飲酒許可を待つ若い蕾なのです。翌日の開花に向けて準備中。このケムシは『酔芙蓉』の葉が大好きなのです。今日の我が家も朝から雨に、そして我が家の『酔芙蓉』も雨に濡れて弱弱しい花片に雨滴が留まり、安らかに和ませてくれる『酔芙蓉』の花。自然の法則に季節も忘れず、秋の兆しに『酔芙蓉』の花は夏とも別れを告げる花。小さな蕾が少しずつ大きくなり、とある朝、命満ちて開花し、色を変化させながら、一日の寿命を終える『酔芙蓉』に何故か親近感を覚え始めた70前のオジサンなのです。そして『酔芙蓉』と言う歌のある事を今知ったのです。
2018.09.28
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我が家の庭そして畑のホウキ草が大きく育ってき来ました。昨年の種が飛んで畑に自然に出て来たもの。カラーリーフとしてガーデニングで親しまれているホウキ草。昔、枝をホウキに利用していたことから、「ホウキ草」「帚木(ほうきぎ)」という和名で呼ばれるようになったのです。鮮やかな緑色をした葉っぱが秋になると紅葉する様子が美しく、庭園や広場を彩ってくれる植物として人気があるのです。こちらは庭の「ホウキ草」。何もしなくても自然にまとまった丸い姿になるのです。成熟果実は秋田県の郷土料理「とんぶり」の材料となるのです。しかし「とんぶり」になるのは品種が異なる様です。モジャモジャの優しい緑が秋には赤く紅葉するのです。柔らかな感触も楽しめるのです。そして昨秋の紅葉したホウキ草です。中国を経由して日本へ伝わってきたコキアは、秋を象徴する庭木として知られています。茨城県のひたち海浜公園などが有名なのです。
2018.08.22
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我が家の近くの畑道沿いに、トランペットフラワーの如き大きいラッパ型の白花が上向きに咲いてるのを見つけました。花の名前は「チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)」。チョウセンアサガオ(朝鮮朝顔)は、ナス科の植物。園芸用にはダチュラの名で広く流通しているほか、マンダラゲ、キチガイナスビの異名もある。原産地は南アジアであって、「チョウセン」は、後述の通り特定の地域を表すものではなく、朝鮮半島原産という意味は持たないのであると。正式には「アメリカ朝鮮アサガオ」。チョウセンアサガオは熱帯アメリカ原産のナス科の一年草で、日本には1879年に渡来したと言われ、広く栽培されまた野生化している。茎は1m以上に直立して多くの枝を分けます。葉の長さは8~15cmくらいで、両面とも無毛。尖っているのが花の蕾。江戸時代 (1684年) に薬用植物として渡来した植物。「アサガオ」と名前がついていますが、アサガオはヒルガオ科、チョウセンアサガオはナス科に分類されており、全く類縁関係のない別種の植物であると。花言葉は… 偽りの魅力・変装・夢の中・あなたを酔わせる。チョウセンアサガオの花期は7月~9月。花期になると、分枝した上部の茎の葉の付け根に、長さ10~15㎝程度の漏斗状の花を咲かせます。アサガオの名前は、このアサガオに似た花の形に由来しています。一輪の花は短命ですが、長い花期の間、次々と開花します。この花は白ですが花色は紫、黄色もあるようです。一重咲きの他、八重咲き品種も流通していると。このチョウセンアサガオには強い毒性があり、食べると中毒を起こすので、扱いには十分注意しなければならないと。花を花瓶に挿したりしたら、その水も毒が入っているので食べ物を扱う場所に水を捨てないようにしてくださいと。全草にアルカロイドが含まれているのだと。別名を「キチガイナスビ」と呼ばれているように、食するとアルカロイ中毒になり、幻聴、意識喪失、錯乱んの症状などを引き起こし、皮膚に付着すると炎症を引き起こすと。このチョウセンアサガオの葉は華岡青洲が日本初の乳癌手術に使用した麻酔薬「通仙散」の材料となったことでよく知られているのだと。種もゴマに似ているし、根っこはごぼうに似ているそうです。可憐な白き花、しかし美しい花には毒があるのです。しかし花には強い芳香が。そして開花直前の蕾。開花を待っている花が、綺麗に折りたたまれているのを発見。花が枯れると、イガイガの付いた大きな実がなります。毬(いが)のついた実の中に黒い種があります。朝鮮朝顔の種は薬用に使われますが、これも有毒なのです。
2018.08.18
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座間会場の「新田宿エリア」から1.1km離れた「四ツ谷エリア」へ相模川左岸堤防上を歩いて向かう。右手前方に圏央道・圏央厚木ICが。相模川。前方に大和厚木バイパスの新相模大橋が見えた。相模川の川岸には白い野鳥が。黄色い嘴からサギであろうか?紅白のサルスベリ(百日紅)が仲良く。内側のオシベの葯は黄色で、中央に集中して存在し、虫に注目される為の擬似花のような役目をしているのだろうか?ピンクの花も同様に。「四ツ谷エリア」案内板に従って進む。そして汗びっしょりになりながら、「四ツ谷エリア」会場に到着。遠くに丹沢に続く山々の姿も。しかし富士山は相変わらず姿を見せなかった。こんな姿を期待していたのですが。以前、自分で撮った富士山の写真と今回撮ったひまわりの写真(上の写真)の2枚を手持ちの『画像編集ソフト』を使い遊んでみました。1本1本、手植えされたのでしょうか?夏の風物詩でもあるひまわり(向日葵)。あの山の上からでも、黄色の塊が見えるのであろう。一面に広がる黄色いひまわりと青空のコントラストはまさに絶景で、SNS映え間違いなし!ひまわりの背中側から。この会場には多くのミツバチの姿が。ミツバチの姿を追いかけました。もう少し接写の効くカメラが欲しいのです。やはりひまわりは青空が似合うのです。後ろのビルが白き山であればと。「FUSO」の文字が。4っつの色のリングが。管状花が咲くと、中から雄しべが現れるのです。雄しべは筒状で数本からなり、中に雌しべを包みこんでいる。雄しべの先端にある葯には花粉が入っており、花粉でいっぱいになると葯が裂け花粉が出る。開花した管状花の内側では、蕾が成長しているのです。色の違いにより、管状花の開花が中央部分へ進行する様子が解るのです。外側にある管状花は、すでに枯れてきているが、受粉・受精し種子を形成している状態。開花と同様に、種の成長も外側から始るので、内側にある種ほど成熟は遅れる。種子が成長するにつれて頭花全体が丸みを帯びて来るのです。開花の始まったばかりの花にも虫が。こちらはミツバチではなさそう。笑顔で迎えてくれたひまわり達。ひまわりの花粉が葉の上に。これが接写の限界。明日に開花しますのでもう少しお待ちくださいと。「ハイ チーズ」の声に一斉に・・・。外周には管状花の開花が確認出来たのです。そして駐車場に向かって帰路につく。こちらが正式な「四ツ谷会場」の入口のようであった。新田宿会場の本部前のテントの下の椅子で一休み。時間は未だ8:10過ぎ。かき氷屋さんは準備中。しかしBGMが五月蠅くて早々に退散。ミスト発生装置前で冷風を上半身に浴びる。ここにもアーチが施された迷路入口が。今年の座間会場のひまわりも見納め。「土地改良の碑」「本多菊近翁(おきな)之像」 神奈川県知事・長州一二の文字も。座架依橋上から新田宿会場を見たが花は後ろ向きに。そして帰路に座間市立南中学近くの赤いひまわりを訪ねたが既に花は終わっていた。信号待ちの時間に遅咲き?の一輪を車の中から何とか撮影。そして茅ヶ崎に戻りSさん宅でお茶をご馳走になり、帰宅したのであった。「向日葵を 見に行くくらい かなり閑」・・詠み人知らず「向日葵よ 見つめてくれるは お前だけ」・詠み人知らず「向日葵に 元気をもらい ブログアップ」・詠み人知らず
2018.08.16
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8月13日(月)に座間で行われている「2018年座間市ひまわりまつり」に、旅友のSさんと行って来ました。Sさんは3日(金)に様子見に行かれたとのことですが、その時はまだまだ開花には時間がかかる状態であったとのこと。5:30過ぎに自宅を出て、茅ヶ崎のSさん邸へ。そしていつもお世話になっている愛車に乗り換え座間にある会場に到着。時間は6:42過ぎ。駐車場所は相模川河川敷にある「水と緑と風広場」駐車場。ひまわりまつり座間会場ガイドマップ。座間ひまわりまつりは座間会場と栗原会場の2箇所で行われていました。この2つの広場ではひまわりの開花を長く楽しむため、種まきの時期を変えていると。ですから祭りの開催時期も場所ごとに違っているのです。・栗原会場 2018年7月21日(土)~7月25日(水)・座間会場 2018年8月11日(土)~8月15日(水) ※いずれの会場も開催時間は9:30~16:00 ※座間会場のみ11日,12日の土日は17:00まで駐車場からは「首都圏中央連絡自動車道と山頂が雲に隠れた大山の姿が。そして車を降り、相模川堤防をひまわりまつり会場にむかって歩く。左手に座間会場のひまわり畑が見えて来た。皆仲良く、朝日に向かって。そして相模川に架かる座架依橋(ざかえばし)の下を通過。名前の由来は、座間市座間(ざま)と厚木市依知(えち)を架(か)けることから。そして新田宿エリアのひまわり畑へ。台風による強風のために多くのひまわりが倒れかかっていた。朝の陽光を真正面から浴びるひまわり。ひまわりは和名で「向日葵」と書きますが、「日回り」と表記されることもあるのです。英語では「Sunflower(サンフラワー)」、フランス語では太陽を意味する「Soleil(ソレイユ)」と呼ばれます。この様に、太陽の動きを追って花が回るということからそう呼ばれます。またひまわりはそのものが大きな花として認識されている場合がほとんどですが、実際は1000~2000の小さな花が集合してこの形を形成しています。外側の黄色く長い花びらを付けた花”舌状花”と内側の茶褐色の”筒状花”に分かれているのだと。ひまわり(向日葵)は花が咲く前のつぼみの時期は、茎の先端が太陽の方向を向いて動きます。これは太陽光が当たらない側の茎が、当たる側の茎よりも成長するため、太陽の方向に曲がってしまう為。つまり太陽に面して前と後ろの伸びの違いにより生じるもの。しかし、花が咲いた後には茎の成長もストップするので、花自体が太陽を追いかけるということはないのだと。よく言われる、「ヒマワリの花が太陽を追いかけて、クルクルまわる」という事はないのです展望台横には、ひまわりを飾ったいくつかの帽子が。忘れ物、落とし物コーナーではなさそうですが・・・・?そして記念撮影用の額縁も。展望台に登って。満開でしたが、多くのひまわりが倒れながらも朝日に向かって。黄色の世界が拡がっていた。円を作り集団演技の真っ最中か?こちらは背比べ中。ひまわりの花も自分で切って購入可能と。そしてひまわりの種も。3本で200円、そして種も同額と。「ざまりん広場」にはひまわりまつりの本部テントが。遊休地に市の花「ひまわり」を植え、座間市のまちおこし企画の一環であると。ひまわりの枝葉の深緑は、たくましく発展を続ける市を、また大輪の花は、市民の皆さんが手を結び合い、明るく健康なまちづくりを目指す姿を象徴していると。開場は9:30~とのことで未だ係の方の姿はなかった。時間は漸く7:00。写真撮影ポイントの「顔ハメ看板」が。しかし日にちは未だ前日の8月12日のまま。来年の「顔ハメ看板」は平成⇒??でしょうか?55の数字が。第55回ではありません。座間ひまわり祭りでは座間会場と栗原会場で合計およそ55万本のひまわりが咲き誇るからなのです。「ひまわり迷路」の入口。途中倒れたひまわりのハードル越えも。こちらはピラミッドの組み体操中。ひまわり畑の先には田園風景が拡がっていました。新田宿エリアのもう一箇所の展望台を発見。混雑を避けるため展望台は一方通行で。こちらからは見事な黄色の絨毯の世界が。ひまわりの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられているとのこと。既に紀元前からインディアンの食用作物として重要な位置を占めていたと。1510年、スペイン人がヒマワリの種を持ち帰り、マドリード植物園で栽培を開始した。マドリード植物園はダリアやコスモスが最初に栽培されたことでも有名であると。ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるまで100年近くを要し、ようやく17世紀に至りフランス、次にロシアに伝わったのだと。ロシアに到達してはじめて、その種子に大きな価値が認められたのだと。現役中に仕事で中国の田舎を何回か訪ねたが、その折、老若男女がヒマワリの種を囲んで、カリカリとハムスターのようにかじる姿は、可愛らしくもあったが、ちょっと不思議に感じた事を想いだしたのであった。そして殻を口から床に向けて吹き出し、床を散らかしていたのであったそして、中国人が一番よく食べるおやつといえば、断然ヒマワリの種だろうとの言葉を当時は聞いたのであったが現在は?。ヒマワリはカリウムなどと共に性質が類似するセシウムを吸収する能力を持つことから、原発事故などで放射能汚染された土地に植えたら除去できる「ファイトレメディエーション(phytoremediation)」という説が、原発事故後には流布していたが、そのような効果は認められていないようです。太陽に背を向けるひまわりの姿を発見。これも人間社会と同じか?こちらは背伸びして見つめ合う姿が。途中、白ウコンの群生に出会う。葉っぱはショウガやミョウガの葉を大きくしたが如し。白ウコンの花。二日酔いにも効くと言われている”ウコン”。大きくて瑞々しい葉に包まれて、花の姿は目立たぬ様に咲いていたのです。そして再びめだち過ぎるひまわりの姿を追いかける。残念ながら、この日は富士山の姿は雲に隠れていた。先頭の引率者の如き2輪の長身のひまわり。「前を向き 顔上げ生きろと 諭されて」・・・・詠み人知らずミツバチを発見したが、私のカメラは接写が苦手。そして祭り会場本部もこの日の凖場が始まった模様。「向日葵も 危険な夏と 呟いて」・・・・・詠み人知らず「向日葵も 猛暑、酷暑で 目も回り」・・・詠み人知らず「向日葵に すがるミツバチ 我が姿」・・・詠み人知らず ・・・つづく・・・
2018.08.15
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我が家の裏の農家の畑の隅にガマの穂を発見しました。葉は高さ1-2 mで、茎を伸ばし、円柱形の穂をつけています。穂の下部は赤褐色で太く、ソーセージに似た形状。ガマの穂と呼ばれている茶色の部分が花なのです。上部の針の如き部分が雄花で下のソーセージに似た部分が雌花に分かれているのです。この時期は茶色の花穂が目立つ。 「ソーセージ」意外にも「ちくわ」や「ケチャップをつけてないフランクフルト」のようでも。昔はこの葉と茎で『むしろ』などを作ったので「くみ」(組)と呼ばれ、 次第に「かま」になり「がま」になったのだと。「蒲団(ふとん)」の 「蒲」の字は、昔、ガマの綿毛を寝具に入れたことから。 「蒲鉾(かまぼこ)」は、最初のころは竹輪のような形をしており、ガマの花穂に似ていたことから。「蒲焼(かばやき)」は、うなぎを筒状に切って焼いていた形がガマの花穂に似ていたことからと。『古事記』の因幡の白兎の説話では、毛をむしり取られた兎に、大穴牟遅神(大国主)がガマの穂に包まらせ、その花粉で止血して傷を治したのだと。冬になるとこの花穂の中から綿毛がブワーッと出てきて飛散するのです。 1本の花穂から出る綿毛には約10万個のタネがあるらしい。そしてフランクフルトのような蒲の穂を手で押しつぶすと、なんと中から大量の綿毛が出現。もともとの見た目からは想像できないほど大量に『爆発』した如く発生することをご存じですか?私も子供の頃に遊んだのです。本当に気持ちいいくらい勢いよく吹き出すので、ちょっとしたストレス発散にもなったのです。水辺の植物なので、子供には微妙に手が届かないところに生えていたのですが。この『爆発』をクリックしてみてください。 子供の頃に廊下を走っていて消火器に躓いて倒した時の消火器のような感じ!!そしてこのガマの穂を何個か同時に火に投げ込んだ時の姿!!わかるかなぁ??それにしても、ガマの穂って見ているだけで旨そうに見えるのですが。粒マスタードを付けてケチャップもたっぷり付けてと・・・・・・。
2018.08.14
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我が家の裏の、農家のビニールハウス前のハス(蓮)が開花しています。廃品の風呂桶の中に植えつけられたハス(蓮)。八重咲きの白のハスの花の中心部に独特の構造の緑の「花托」が。そしてその周囲には黄色い雄しべが多数。朝の寝起きの乱れた姿か?こちらの花は翌日に開花か?こちらはこの日が初開花か?この前、大船フラワーセンターで見たミセスローカムに似ています。東洋種(中国産の赤色の八重咲き品種)と北米原産の黄花蓮)を交配させて作った品種。開花初日は僅かに赤味を帯びていますが、2日目3日目と赤味が抜けて淡黄色になるのですが。こちらは満開の花の前に仕事を終えた「果托」のみが。新旧交代の儀式中か?2~3日後の開花か?蕾が丸くなく、縦に鋭い。「果托」3人娘。濃いピンクの花も。「果托」の中にはハスの実が。現在でもカンボジアやベトナムではよく食用とされていて、中国や台湾では甘く煮たものが土産として売られているのです。様々な「果托」の姿が。花が終わったあとの雌しべをは「花托」ではなく「果托」。「花托」も「果托」も読み方は「かたく」で、どちらも蓮の中心の部分のこと。ちなみに「托」とは、物を受ける台、のせる台のことで、一番身近なものが、茶碗をのせる「茶托」。つまり、花の花びら、雄しべ、雌しべ、つまり花を乗せているのが「花托」。花びらが落ちた後の果実を乗せているのが「果托」なのです。蓮の実が生長して表面に乳房の如く押し出て来ています。そして実の入った部分が更に大きくなり、実との間に隙間が出来るのでしょうか。それとも人間と同様で、実も生長するとある段階から小さくなっていくのでしょうか。こちらは後期高齢者の果托。蓮を古名では蜂巣(ハチス)と呼んでいただけあって蜂の巣に良く似ているのです。そして大きなハス(蓮)の葉。そしてこの中心に水が貯まると、時々『蓮のささやき』が聞こえて来るのです。 この現象の理由をネットで調べてみると下記の如き情報が。『ハスの葉もスイレンの葉とおなじく、葉内に細胞間隙(細胞と細胞の隙間)があり、 葉柄内の通気組織につながっています。 ただし、ハスの葉はスイレンの葉と異なり、細胞間隙と通気組織がつながった構造体が、 葉内と葉柄内で完全に2つに分かれています(スイレンは1つのようです)。 ハスの葉を観察しますと、葉の表面に真ん中に丸い小さなフタのような部分があります。 このフタのような部分には、大きな気孔(空気を出し入れする隙間)があります。 この気孔は、細胞間隙と通気組織がつながった構造体の1つとつながっています (もう片方はつながっ ていません)。 つまり、葉の約半分くらいの部分には、この気孔とつながった構造体(構造体Aとします)があり、 残りの半分くらいの部分には気孔とはつながっていない構造体(構造体B)があります。 この大きな気孔はまわりの環境に応じて、開閉します。 ハスの葉は、まわりの空気の温度よりも暖められると、その葉内の細胞間隙部分が加圧されます。 構造体Aが加圧されると、葉では出口がないので、酸素を含んだ空気は葉柄を通じて、 地下茎に送り出されます。 地下茎で呼吸されて二酸化炭素を含んだ空気は、葉柄を通じて構造体Bに送り出され、 気孔が開いていれば、気孔から空気は出ます(この気孔が出口となります)。 したがって、葉の中心に水をいれたとき泡がぶくぶくと出ているときには、 上のようなことが起きている場合です。』と。 【https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=2717】より転載。
2018.08.12
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更に大船フラワーセンターのハスの花を楽しむ。『絢爛華(けんらんか)』花弁の形が狭く先端が尖っていた。花片のピンク色のアンジュレーションが見事。『花雲薄紅(かうんうすべに)』外側の花片の先端が僅かに薄紅色。『紅之輝(べにのかがやき)』『皇居和蓮(こうきょわれん)』皇居の蓮池に自生していると言われている蓮とのこと。『碧睡蓮(へきすいれん)』『白虹(はくこう)』この花はカールした八重咲きの花びらが特徴。月光の下で出来る淡い色の虹のことを白虹というのだと。花の名前はこれに由来すると。『淡麗(たんれい)』『朱雀の舞姫(すざくのまいひめ)』花はやや大型、花弁は白の地色にアントシアニンが全面に中程度に分布し、開花の早晩が花の観賞時期。『常楽(じょうらく)』『常楽』の蕾。『喜上眉梢(きじょうびしょう)』濃いピンクの花色で一重咲き。『玉葉黄(ぎょくようき)』黄ハスの「武漢黄蓮」から育成された品種で、2011年に品種登録。花はやや小さく,八重咲き。花弁の先端は尖りが無く、花色は黄淡。『輝呼(てつこ)』『朝香(あさか)』そして園内の別の花の散策に。『のりうつぎ(みなずき)』枝の髄(ずい)を抜くと空洞ができるので「空木」の名がついたと。「のり」は、樹皮の内皮をはいで水につけて粘液を出させて、それを和紙を漉(す)くときの 糊として使ったことから。白のフロックスか?『オミナエシ(女郎花)』「おみな」は「女性」の意味、「えし」は古語の「へし(圧)」で他の美女を圧倒する美しさから名づけられたとのこと。よって美女の中の美女ということ。風に揺れる黄色のたおやかな姿が他を圧倒するほどの美女を連想したのでしょうか。ズームで。「さを鹿の 己が棲む野の 女郎花 花にあかずと 音をや鳴くらむ」 金槐和歌集 源実朝「森の小道」入口。そしてバラ園入り口に。花のピークは既に終わっていたが、まだ多くの花が残っていた。『ガルテンツァーバァ’84』『ニコール』『マイナーフェアー』『ミラベラ』『チャールストン』『ゴールドマリー’84』『サマーウインド』『ジョージベスト』『ローラ』『のこぎりそうもどき』花の周辺には紅色で雌性の舌状花が5枚つき、中央には白色の両性の筒状花が半球状に。芝生広場の花壇。朝顔、夕顔のトンネル。『夕顔』の花夕顔(ユウガオ)の実を細長い帯状に剥いて加工したものはかんぴょう(干瓢)と呼ばれ、巻き寿司や汁物などに使われ食用にされるのです。『チュウキンレン』『黒松の盆栽』『ヤマユリ』小型の『ひまわり』『ケイトウ』『メランポディウム』赤の『サルビア』『ペンタス』『コリウス』そして最後に蓮の葉のシャワーの光景を楽しんだのです。茎の根元から入った水が、葉の先端の節々から放射状に噴き出し涼感を醸し出していた。蓮は、地下茎が肥大化したレンコンの部分の穴が茎を通じて葉までつながっているのだと。茎を途中で切り取り、そこに水道のホースをつないで下から水を送っているのです。葉は、そのままでは水が噴き出しませんので、周辺を少し切り取って血管のような葉脈を露出させ、そこから放射状に水が噴射するようにしているのでは。こちらはハスの葉に貯まった水玉。以前、別の場所で木の葉の中央から空気がボコボコと噴き出す姿を見たのです。 ・・・END・・・
2018.07.27
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先日早朝(7/16)に車で「神奈川県立大船フラワーセンター」を訪ねました。平成30年4月1日 大船フラワーセンターは「日比谷花壇大船フラワーセンター」の愛称でリニューアルオープンしたのです。この日の目的の花は蓮の花。前日のニュースでやっていたのです。センター前には既に行列が。ハスの花は早朝に開くことから、この連休中は通常より2時間早い午前7時に開園なのです。シルバー割引で150円を払って入場。大船フラワーセンターの案内図。園内に入ると様々な種類の鉢植えのハスの花が開花中。展示中のハスの種類リストを頂いたので、それを頼りに観賞。『友誼牡丹(ゆうぎぼたん)』花の色は淡黄で花の形は八重でボタンの花の様な形から。反対側から。アメリカのキバナハスと中国のハスとの交配種。友誼とは友情のこと、中国語っぽい命名。『淡麗(たんれい)』『喜上眉梢(きじょうびしょう)』スイレン池の奥のハスの群生池の花はほぼ終了していたが所々に。『大賀ハス』。花びらの先には西洋ミツバチが。大賀ハスとは、昭和26年、千葉市の東京大学農学部検見川厚生農場で、ハス博士といわれた故「大賀一郎」博士(当時関東学院大学教授)が、縄文時代に咲いていた古代ハスの種3粒を発見し、そのうちの一粒の開花に成功したものです。蕾も。開花から4日間の短くも美しい神秘的な姿。これは開花から2日目?3日目?スイレン池の水面は朝の陽光に輝いて。白の睡蓮が開花中。睡蓮(スイレン)の語源は、「睡(ねむる)蓮(はす)」に由来し、朝から14時頃まで花を咲かせ、陽射しが弱くなると、花を閉じて眠ってしまうからと。水面から花までの距離が微妙に異なるのは開花からの日にちの為か?ちなみに花言葉は、「清純な心」・「甘美」・「優しさ」・「信頼」・「純情」・「信仰」・「純粋」 ・「潔白」なのだと...。睡蓮は、蓮と違って西洋風な感じが。睡蓮の葉は一箇所切込みがあるのが特色だが、蓮の葉は切り込みがなく丸い葉。植物図鑑的にはスイレンというのは載ってないそうです。和名はヒツジグサ(未草)。「未の刻(午後2時)」に咲くからなのだと。丸い葉の間から蕾が顔を出し咲く。白さがまぶしいほど。パーゴラ(日陰棚)の藤の木には大きな実が。薄紫色した藤の花はおなじみですが、実はあまり注目されていないようです。マメ科植物のため、かたちがインゲンのさやに似ています。『高領布(こうりょうきん)』『ヘリーズジャイアント』は膨らんできた花托のみの姿で。良く見ると花托の上のほうにハスの種子ができているのが見えます。『アルバ グランディフロー』花托の周りの白い部分が雄蕊(おしべ)。雌蕊(めしべ)は花托の上に飛び出している部分。雌蕊の数だけ実がなります。この数は花ごとに異なります。美しい芸術作品。雌蕊の数は16個。『漢蓮(かんれん)』は盛りは過ぎて。わが国在来の白蓮系八重咲き品種。その中では最も小型であると。『明美紅(めいびこう)』は務めを終えて花托も枯れて。花は明るく美しい紅色のハス、まさにこの品種にぴったりの名前であると・・・・。『玉鶯(ぎょくらん)』『ミセス スローカム』『舞妃蓮(まいひれん)』の蕾アメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した品種。今年も鵠沼の蓮池で見た品種。ハスの実も顔を覗かせて。ピンクの睡蓮。朝露?それとも噴水の水を付けて。 ・・・つづく・・・
2018.07.26
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今年も我が家の横の菜園で育てている「花オクラ」が花を付け出しました。 花オクラの種は、なかなか手に入りませんので、来年用に毎年種子を取り保存して春に種蒔きし育てているのです。1〜2mほどに生長し、きれいな黄色い花を咲かせる花オクラ。花は、エディブルフラワーとして収穫して酢の物や天ぷら、おひたしなど色々な料理に活用して楽しむことができるのです。 トロロアオイ(黄蜀葵)という別名の通り、とろみのある花を食べて楽しむことができます。また、原産地の中国では漢方薬にも利用され、咳を鎮める効果もあるのだと。花オクラの花は、朝に咲くと夜にはしぼんでしまうのです。美しい花が1日で枯れてしまうことから、「知られぬ恋」という花言葉が。また「恋によって身が細る」と言う花言葉は、花の後に付く実がシュッと細長いことから付けられたとされているとのこと。花の大きさは20cm前後の大きさ。下の写真はオクラの花ですが、2倍以上の大きさ。この花の特徴は、長い雌しべの花柱を雄しべが囲んでいること、そして雌しべの先が五つに分かれている所。この日は5個ほどの花オクラの花が収穫できました。水洗いを十分にしました。この花には小さな蟻が付きやすいのです。そしてがくの部分には、細かいトゲがあるので、注意して花びらの部分だけを切り取りました。鍋にお湯を沸かし30秒ほど茹でました。 茹でた花は湯切りをして冷水に浸し、ポン酢をかけて完成。オクラを薄切りにしてトッピングしネバネバセットにしてみました。この猛暑の夏にピッタリのさっぱり味の花オクラ、そしてネバネバな歯ざわりを大いに楽しんだのです。もちろん、ビールも。花は直ぐに萎れてしまうので、あまり市場には出回らないようですが、わいわい市や産直物産展などでは置いてあるところもあるのでゲットして楽しんでみてください。
2018.07.15
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今年も市内鵠沼にある蓮池を訪ねました。(7/6PM)7月の誕生花、幸福の花とも呼ばれる蓮の花、そして私の誕生日は今月。自宅から車で約20分で第一蓮池に到着。鵠沼の地名の由来は、鵠(くぐい)とは白鳥の古名で、かつてこの辺りには沼が多くあり、鵠が多く飛来していたと言われているのです。 鵠の文字の左は「告」では無く「牛+口」であることを昨年知ったのです。第1蓮池の蓮は、舞妃蓮(マイヒレン)という種類。舞妃蓮は、昭和41年に御坊市の阪本祐二氏が、アメリカの黄花ハス「王子蓮」と日本の「大賀蓮」を交配して作り出した、御坊市生まれの蓮とのこと。この日は既にピークを過ぎていました。しかしピンクの蕾も。蕾の先端がほんのり紅く、開花して1日目はピンク、2日目3日目は黄色に変化するのだと。やや開花を始め、蕾も緩やかに。花片は薄い黄色に。蓮の花、花心部分が濃い黄色で。花の中央部には、蓮の実の、出来始めが、見られたのです。蓮は「蜂巣(はちす)」の略、実の入った花床(花中央の黄色部分)は、たくさんの穴があいていて、蜂の巣に似ていることから、 漢字の 「蓮」は漢名からで、種子が連なって付く事からと謂われているのです。花の開閉があたかも女性の舞い姿のようであることから、『舞妃蓮』と名付けられたと。 花床には、たくさんの穴が開いて、蓮の実が成長中。カメラをズームしていると西洋ミツバチの訪花を発見。近くで西洋ミツバチを飼っているがいるのだろうか。そして、車で第2蓮池の誠蓮(まことはす)を訪ねる。今年は、通路沿いの蓮を整理した模様。バードウォチングの人の姿もなく、蓮池を一人占め。こちらも既にピークは過ぎていた。福岡県の佐藤誠氏が食用蓮「備中」から作った品種で、「福岡八重蓮」とも呼ばれていると。花片が落ち始めている株も。こちらはこの日が満開か。花は早朝から咲き始め、昼過ぎには閉じると。3日間開閉を繰り返し、4日目の 午後には全ての花弁が散ってしまうのだと。公園課の蓮池保護の案内板。まだまだ蕾の株も奥の方に。ズームで。こちらは、この日の開花を終え花を閉じたのであろうか?黄色が鮮やかに。葉っぱの水玉も見事な配置で楽しませてくれたのです。花が池の面に映って。大きな鯉も悠々と。花の一生がこの写真の中に。蓮の池の手前の茂みに漸く一羽のカワセミを発見。その手前で蓮の実が盛り上がり大きく成長。こちらは、先日北京に旅行した際に購入して来た蓮の実。蓮の実が甘く味付けされ、サクサク柔らかく、 どこか、栗に似通った味がしたのであった。『蓮の花は、夏の朝早く花を開きます。真っ白な花、薄紅色の花、それはそれは見事。蓮の花はなぜこれほど美しいのでしょうか。そしてなぜ尊ばれ、仏さまと深く結びついているのでしょうか。それは汚い泥のなかで成長し、それでいてその泥に染まることなく、清浄な花を咲かせるからにほかなりません。私たち人間も悪に染まらず、悪い誘惑に負けず、どれほど不遇で恵まれぬ環境にあっても、強く清らかに堂々と生き抜かねばならないと教えておいでなのです。 』早朝から動き出す私が、この日は何故午后に蓮の花を見に?実はこの日の朝にテレビを付けながらパソコンを操作していると「松本智津夫死刑囚ら7名の死刑が執行された」のニュースがテレビ各局で一斉に。それを見ていると、死刑の執行がまるでスポーツの実況中継の如くに。社会を震撼させる大事件であったことは事実であるが、政権の思惑をなんとなく感じる死刑執行ではないかと感じる私がいたのです。そして何故か蓮の花を見に行きたくなったのです。
2018.07.14
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我が趣味の養蜂場の片隅に生えているアーティチョークが青紫の花を付けています。既に花のピークは終わったようですが、次々に青い花が開花しています。和名は「朝鮮薊(チョウセンアザミ)」とのことですが、日本に自生するアザミとは属が違い、別の種類の植物であるようです。これは、日本に渡来した当時は「朝鮮」が外国を意味しており、花の形がアザミに似ていたことから名付けられたとのこと。「Artichoke」とはアラビア語で「巨大なアザミ」という意味を持っているのだと。アーティチョーク草丈2mほどにまで生長する多年草で、ヨーロッパではツボミを食用にし、葉や根は薬草として利用されているようです。便秘解消や高血圧、糖尿病、骨粗しょう症に効果があるとされ、食物繊維やミネラルを豊富に含んでいるのだと。原種はヨーロッパに自生していた野生のアザミで、古代ギリシア・ローマ時代以降に今の形に品種改良され、15世紀のイタリアで本格的に栽培が開始されたのをきっかけにヨーロッパに広まったのだと。日本へは江戸時代にオランダからもたらされたが、栽培環境が合わないことから野菜としては普及せず、今では主に観賞用の植物として知られているのだと。私も旅行で訪ねたヨーロッパの市場には、アーティチョークのツボミが山のように積み重ねられ販売しているのを何回か見ているのも事実なのです。まだ若い花、青紫の花の下の緑がまだ残っているのです。花も古くなると下の写真の如くに。まだツボミのものも。しかしこのツボミに若さが感じられないのです。花は管状の花のみで作られていて、多くのキクのように周囲に花びら状の舌状花が並んでいません。花からは雄蘂や雌蘂が棒状に突き出し、これも写真の如く針山のような景色。花色は青紫から赤紫に変化して来るのです。ネット情報によると『アーティチョークのツボミは、塩茹でにして食べるのが一般的です。ツボミの下が最もおいしい場所で、そら豆のような風味を楽しむことができます。収穫したツボミは茎の部分を切り落とした後、まず水をはって塩を入れたボールに、逆さにした状態で30分ほど浸けておきます。こうすることで、ツボミの間に入ったゴミや虫が取り除くことができますよ。このとき、酸化して黒ずむのを防ぐために、お酢かレモン汁を水に加えておくといいです。その後水から取り出したツボミは、トゲのある部分に注意しながら上部を1~2cmほど切り落とします。そして鍋にたっぷりと水をはり、アーティチョークに塩やレモン、ローリエなどをお好みで加えて約30分茹でます。芯の部分に竹串がスッと入るようになったらザルにあげ、食べやすい大きさにカットするか、そのまま1枚1枚はがすようにして、ソースやドレッシングをつけて食べてください。』と。ネットからの調理写真です。 【https://nutrineat.com/vegetables-high-in-protein】よりあまり美味しそうに見えないのですが・・・・・。
2018.07.13
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旅行記のブログを長々とアップしている間に我が家の庭のグラジオラスが次々と花を開かせています。以前、様々な色の球根を購入し植え付けたものです。花後のお礼肥は与えていますが、植え替えは行っていません。和名はトウショウブ(唐菖蒲)、その他の名前としてオランダアヤメ等が。複色の2色咲きも。ピンクに白の縁飾り付きの紫色が入ったかわいい咲き方などバラエティ豊かに楽しむことが出来るのです。深紅の色が青空に映えて。すらりと伸びた花穂と剣のような形の硬い葉が特徴で、学名のグラジオラス(Gladiorus)はラテン語で「小さな剣」という意味があるとのこと、葉や蕾の形からつけられているのだと。球根は毎年新しく更新され、さらに新球のまわりには木子(きご)と呼ばれる豆粒大の小さな球根がたくさんできこれが成長してくれるのです。陽光を浴びてグラジオラスも眩しそうです。色だけでも赤、ピンク、黄、オレンジ、白、青、紫、緑、複色と様々な魅力の色が次々と。雨や風で倒れやすいのが難点ですが。そして横の畑との境界に、自然に生えて来たカボチャが花を付けています。大きな全面黄色の花。折しも、我が?ミツバチが訪花しました。カボチャの花は朝方によく蜜を分泌すると言われているのです。
2018.07.09
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先日、雨が上がったので、車で10分ほどの横浜市と我が藤沢市の境を流れる境川にアジサイ(紫陽花)を見に行って来ました。この境川の堤防上は、、江の島へ向かって流れる境川と引地川を繋いだ「藤沢・大和自転車道」になっているのです。既に花のピークはやや過ぎていましたが、様々な色のアジサイ(紫陽花)が境川沿いに咲き乱れていました。最近よく見かけるようになったカシワバアジサイ。カシワバアジサイは、北アメリカ東部原産のアジサイの仲間とのこと。葉の形がカシワに似ていることが、和名の由来。花は円錐状あるいはピラミッド型に付く独自の形状をしており、5月〜7月に真っ白い花を付ける。八重咲きと一重咲きがあるとのこと。未だ、白い花しか見たことがありませんが、他の色のカシワバアジサイがあるのでしょうか?アジサイのイメージカラーであり、人気の色でもある紫系アジサイ。紫系は色を細かく上げると多数あるし、濃い紫もあれば、薄い紫、赤紫など紫だけでもいっぱいありそうです。アジサイの漢字名『紫陽花』もこの紫系から。ややピークを過ぎたガクアジサイ。中心に集まっている小さな蕾のようなものが花びらで、その外側にはガク(葉っぱが変化した花を守る部分)が大きな花びらのようについている。この様子が額縁に似ていることから「ガクアジサイ」と名付けられたのです。こちらは開花がスタートしたばかり。シーボルトが来日していた当時,現在良く見るようなアジサイ(セイヨウアジサイ)が存在していなかった。シーボルトは,このガクアジサイの苗を持ち帰り,その苗から改良されたものがセイヨウアジサイなのだと。こちらは紫が濃くなりつつあるアジサイ(紫陽花)更に濃く。額が雨に濡れて。紫の集団。こちらは赤紫の集団。中央部にある紫色の珊瑚状に見えるものが花で、周辺部にある桃色の3~4弁の花のようにみえるものはガク(萼、装飾花)。束の間に薄日が射して色が鮮やかに。純白そのもの。ガードレールの隙間に顔を出すが如く。ガードレールに顔を乗せて。中央の花を見る前に額を見てくださいと主張しているのであった。額の青と白の見事な共演。境川の両岸に。対岸から。川面を覗き込むように咲くアジサイ(紫陽花)。ガクアジサイとアジサイが仲良く。紫の花の白い縁取りが束の間の陽光に輝いて。青のカオス。色の変化の行程が解るのであった。こちらも色の変化の行程が。赤いガクアジサイがひっそりと。親、子、孫の3代の如く。早朝には白が似合うのであった。
2018.06.25
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富士山スカイラインを利用して「ぐりんぱ」への南富士エバーグリーンラインのゲートに到着。ゲートには「ぐりんぱ」係員がおり、チューリップは全体的には見頃を過ぎてしまたが、今満開の品種もある事そして駐車場は満車であるので、手前のスキー場の駐車場からシャトルバスを利用して欲しいと。ここは1973年4月に「日本ランド」(後に「日本ランドHOWゆうえんち」と改称)としてオープンした場所を2004年に「ぐりんぱ」と改称・リニューアルしたもの。スキー場駐車場からの富士山。そしてシャトルバスに乗り「ぐりんぱ」入口に到着。入場チケット・シニア800円を購入し入場。園内通路には黄色のチューリップは満開で迎えてくれた。2018年4月21日(土)~5月27日(日)までの期間で、世界遺産・富士山をバックに色鮮やかな20万本のチューリップが咲き誇る花の祭典「天空のチューリップ祭り」が開催中。しかし今年の春は温度が例年より高く、開花が早まっているとのこと。園内 案内図。富士山の姿がハッキリと。ズームで頂上付近で雲が刻々と発生する姿を。「そよかぜサイクリング」と「みんなでシュシュポッポ」とその後ろに富士山。「みんなでシュシュポッポ」も発車時間待ち。「天空のチューリップ祭り」のチューリップはやはり終わりかけていたが、富士山の雄姿がそれを補ってくれた。チューリップと風車そして富士山。富士山頂上の雲もなくなり。頂上の稜線そして登山道のジグザグもハッキリと。このベンチが撮影スポット。こちらのチュ-リップは今が満開。緑の屋根は「緑の丘のすてきなお家」。シルバニアビレッジからの富士山。キャラクター「シルバニアファミリー」の世界を等身大で表現した国内初のテーマパークであると。風車にも「シルバニアファミリー」が。「そよかぜサイクリング」を楽しむ女の子。ここからも宝永火口をズームで。ウルトラマンパークへの階段の中央にも芝桜が咲いていたが、こちらも疎ら。「ウルトラセブンコースタ・マッハ7」は強風で運転休止中か?ウルトラセブンと富士山。青トラマンと富士山。「みんなのかんらんしゃ」と富士山。ウルトラマンパークから下方を見る。再びチューリップ園と富士山。最後に満開のチューリップをカメラに。「秋の花畑 天空のダリア祭り」が8月下旬~10月中旬に開かれると。2万株のダリアが咲き誇る秋の祭典。ダリアの他にも、サンパチェンスやキバナコスモスが植栽され、色とりどりのトロピカルな花畑となるとのこと。 ・・・つづく・・・
2018.05.09
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四国八十八箇所お遍路の旅を順次ブログアップ中ですが、近々のホットな旅の備忘録の割り込みです。------------------------------------------------------------------------------------------------------この日は5月5日(土)、旅友のSさんと富士山の富士本栖湖リゾートで開かれている「富士芝桜まつり」を楽しんで来ました。ネットのライブ映像によると、未だ満開には少し早いようでしたが、今週は晴天の日が少ないとの天気予報でしたので、富士山の雄姿も間近で楽しみたいのでこの日に決定したのです。渋滞回避のために、早朝の4:30に我が家を車で出て、5時に茅ヶ崎のSさん宅に到着。そしていつもの様にSさんの愛車で富士山に向かいました。圏央道寒川南ICを5:08に通過。丹沢山地の大山(1,252 m)の姿そして朝日を浴びた厚木の市街地。圏央道から東名・名古屋方面へ。車窓からこの日の朝日が。大井松田からの富士山。富士山頂付近は雲に隠れていた。何時もの様に助手席に座り富士山の姿を追いかけカメラを向ける。御殿場ICで東名から133号線(箱根裏街道⇒東富士五湖道路)を進む。相変わらず富士山の頂上は雲に隠れていた。「笠雲は下り坂」とも言い、今週の天候の悪化を暗示していたのです。青木ヶ原樹海を通過。新緑が朝日に輝き美しかった。そして富士芝桜まつり会場の駐車場に到着。茅ヶ崎のSさん宅から1時間45分、時間は6:45前。既に駐車場に入る車の列が上下線に。毎年芝桜の開花時期の4月中旬から5月下旬にかけて開催される「富士芝桜まつり」。富士本栖湖リゾートの広大な敷地に約80万株の花が咲き誇ります。ピンクと白のグラデーションカラーに染まる芝桜と、そのバックにそびえる富士山の雄大な景色のコラボレーションが見事な「富士芝桜まつり」なのです。5分もかからずに駐車場に入れた。しかし既に第1駐車場は満車で第2駐車場に案内される。車を駐め入園口から林の中の道をチケット売り場に徒歩で向かう。7~8分林の中を歩いて第1入場口のチケット売り場に到着。事前にネットで前売り券を50円引きの550円で購入しておいたのでスマホのQRコード提示窓口でチケットに交換し入場。併せて駐車料金も早めに自動精算機で。富士芝桜まつり 会場マップ。約2.4ヘクタールの広さに咲き誇る、約80万株の芝桜と、世界遺産にも登録された富士山のコントラスト。芝桜は、別名「ハナツメクサ(花詰草、花爪草)」とも呼ばれ、地面に芝のように桜色の花を咲かせるところから「芝桜」と言われます。富士芝桜まつりの会場には、ピンクはもちろん、赤や白、ストライプなど、8種類の芝桜が咲いていて、色とりどりの「花のじゅうたん」を楽しむことが出来るのです。入口には濃いピンクの芝桜が迎えてくれた。ミニ芝桜富士が前方に。しかし山頂の白、そして裾野のピンクも未だ5分咲きであろうか。今年のものはかなり開花にバラツキが。ズームで。下の写真は2015年に訪ねた際の写真です。この時は満開間近でしたが。相変わらず富士山頂の雲は退いてくれません。会場の一番奥には展望台が。展望台からの眺望。展望台から下りて。雲の状況は刻々と変わっていた。アネモネの花壇は満開手前。色々な色合いの芝桜が。展望カフェや売店も会場の奥に。芝桜会場を囲む山も新緑に溢れていた。ミニ芝桜富士をこちらから。雲がなんとか晴れてきた。芝桜のカオス。反対側から。「ダイヤモンド富士」説明ボード。そして芝桜で描いた「ダイヤモンド富士」の姿。白のギザギザは山頂の雪、そしてその上に赤い夕陽の姿がなんとか確認出来たのであった。山頂の姿が暫しの間見えた。ミニ芝桜富士を様々な角度から。雲が漸く消えてくれたのであった。春霞の為か富士山の姿はややおぼろげに。今年(2018年)のポスターの写真は上の私の写真と同じ場所から。今年の残雪は、例年に較べてやや少ないようだ。ポスターに負けじとカメラを縦にして。白とピンクの曲線美。アンジュレーション(undulation)の美。ムスカリの青は強烈。昨年~今年の冬は一段と寒さが厳しかった為か、芝桜の斑な開花は芝桜がやられている場所も多かったのであった。そしてその場所に開花株を植え付けている係員の姿が。芝桜広場の周囲にはレンゲツツジやヤマツツジ、ミツバツツジ、ドウダンツツジが咲いていた。お土産売店の「さくら餅」。帰路に入園口の横を通ると長い列が出来ていた。時間は8:15過ぎ。駐車場手前からの富士山は雲がスッキリ晴れて。そして駐車場を出て富士宮方面に向かう。対向車線には長蛇の列が行けども行けども・・・・。この時間8:30には既に約9kmの渋滞が、そして恐らく本栖湖方面からも同様な大渋滞が。想像しただけでも気が遠くなるのであったが、諦めてUターンする場所も殆ど無く!!これぞ「早起きは3時間の徳」いや「早起きは1日の徳」なのであった。そして対向車線の渋滞の中、我々は道の駅・朝霧高原でしばし余裕の休憩。「道の駅」朝霧高原は、雄大な富士山を背景に緑輝く草原が広がり、周りは多くの観光資源に恵まれ、古くは静岡と山梨を結ぶ「塩の道」であった一般国道139号線沿いに位置。富士山頂から噴煙があがっているが如し。ソフトクリームを楽しむ。旅友はヤマモモ、私はヤマモモとバニラとのミックスを。ヤマモモの甘酸っぱい味で疲れも癒されたのです。次の目的地の「ぐりんぱ」向けて車窓の景色を楽しみながらS山運転の車は進む。「朝霧高原・もちや」の手前には鯉のぼりそしてのぼり旗の姿が。そして水ヶ塚公園からの富士山の雄姿。表富士側の2合目にあたる水ヶ塚公園。大きな口を開けて宝永火口が眼前に迫って来たのです。それにしても宝永火口がこれまでに大きかった事にビックリしたのです。ネットで調べてみると「宝永山は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した、富士山最大の側火山である。 標高は2,693m。この宝永の大噴火以降は噴火していないため、この宝永山が富士山の 最新の側火山になる。宝永第一火口は直径が約1,200m、深さが約400m」と。 ・・・つづく・・・
2018.05.08
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