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よろこびを求める者、よろこびをもたらすよろこびのある者、よろこびを求めずここに在るのみ*********************************幸せだなあ…最近私の中はこの感じで満たされている。加速的に私は全てであるという思いが深まる中、このような感覚が増幅していく。私の中で、リコネクティブ・ヒーリングも進化したようだ。いや、もうリコネクティブ・ヒーリングと呼びながら、そうでないかもしれない。リコネクションをも包括するものだ。私の中で最高のもの…このヒーリングをどう呼ぶのか…この喜びや幸福感を交流する方と分かち合いたい。そんな思いも日々高まっている…リコネクションの本ではないが、このブログを通してほんの少しでもその周波数を分かち合えるものがあると思う。
2006.10.30
タイミング良く、山川紘矢さん講演の模様をスピリチュアルTVで見た。私の今の生活を裏付け、また確信させてくれるような内容だった。考えてみれば、数年前から私は私でない何かに動かされるように生きてきた。そして、だんだんそれは私そのものになって、やりたいことをし、表現したいことを表現した結果、今がある。私の本質の部分がきちんと知っていて、そうなってきたようだ。やりたいことも表現したいことも私達の本質の部分が知っている。今の生活がその私自身によって導かれたことには確信がある。だから、不安や恐れはない。自身が信じられるというのは、こんなにも自由で幸福なことか…ドランヴァロ・メルキゼデクの話を思い出す。彼は霊的な生活に入ってから、必要なものは全てタイミングよくもたらされたようだ。それも驚くべき方法で…。生活資金が底をつきそうになった時でさえ、天使の言葉を信じてそのままにしていたら、友人が借金を返しにきてくれたなんて話も本に載っていた。(もちろん、人にお金を貸したことなんか忘れ去っていた)ガソリンがなくなったら、ガソリン缶が置いてあったり…昨年くらいまでは、こんなことが本当にあるのだろうか?と疑念を持ったものだ。だが、今はそれが信じられる。きちんといるべきところにいて、来るべきものがもたらされ、そして、自分の好きなことをして自然の流れによって生きれば、宇宙は決して私達を失望させない。自分が何をしたいかではなく、必要なことは、何をしたら一番楽しいかがわかるようにすることだ。これは、思考を超えて経験によって確かめることができる。つまり、内側の状態が外側に現れるので、私達が幸せを感じて楽しく生きることが次も楽しいことをひきつける要因そのものになっていくのだ。このサイクルに入ることは真の幸せと充足感をもたらしてくれるだろう。そのように私達は創られている。パシフィックエッセンスをつくっている、サビーナ・プティットは一時期、生計のためにビタミンやハーブを売っていたこともあったそうだ。しかし、今では彼女も言っている。「自分に正直に、真に引かれることをやっていれば、あとは宇宙が責任をとってくれるようになっているのよ」
2006.10.26
愛について書きたくなった。始めての試みであるが、この「愛」については一人一人抱くイメージも概念もかなり違うために、私なりに表現が難しいテーマでもあった。私の中で、数日前から内なる声がかなり強くなっていて、「私の中に全てがある。私の中に全てがある。」と言ってくる。そう、私達の中には本当は全てがあるのだ。もともと「~ができない。とか~を持っていない」という声はなかったのだ。それを親や周囲から「~ができない。とか~を持っていない」と言われたり、失敗や周りを見て判断するうちに「全てある」という状態はどこにもなくなり、不足や「ない」という声がたくさん生まれ、その声そのままに私達は外側に「ない状況」を創り上げている。この宇宙には様々なものが存在している。その全ては愛である。愛=全て=愛=全て=愛 何度繰り返してもきりがないので、ここらへんにしておこう…いいも悪いも、そして善人も悪人という概念をもたず全てを受け容れている(この概念をも受け容れているとも言える)この宇宙そのものが愛であり、そして、それは全てなので私達の内側にも存在する。そう…私達は愛そのものなのだ。愛=全てだから、私達は全て…全てを最初から持ち合わせている。「愛しているよ」この言葉はどんな風に人の心に届いているのか…一般には大好きという意味でも使われる。私の愛しているの概念はこうだ。愛は全てであり、すべてを受け容れている状態そのものだ。つまり、愛していると言った場合、その人の全てを受け容れているよ、という意味になる。このアイという言葉の波動にはそれがあると思う。そして、人は愛しているよ、と言われるととてつもなく幸せな気分になる。そう、単に大好きではなく、あなたのどんな部分も受け容れています、という大きな意味がここにはあるように思う。そして、人にそういう時、それは自分にも向けられている。10月17日は巷でも様々な思念が増幅される日として情報が流れ、かなり盛り上がったようだ。そして、そう皆が思うことで、更にそれはパワーアップしたはずだ。私もこの日は何かを感じていた。そして、この日以来、また変化が加速している。先日この日の出来事を友人に話した。ブログにアップするにはちょっと勇気が出なかったのだ。でも、変化が加速したせいか、何だか書きたくなった。17日には、特に聴覚が敏感になっていた。座って瞑想体制に入ると…空気が耳の奥を圧迫して、何かを聞かせようとしているかのような感覚に襲われる。そして耳を澄ます。音声ではないが、耳は確実にある周波数をとらえていた。「カ~ミ~カ~ミ~カ~ミ~…」と聞こえるというか脳がそう判断しているのか…そして、次の瞬間それは「ア~イ~ア~イ~ア~イ~…」と変化した。私の耳は、脳はどうなっていたのか… とにかく、私はこれを聞かせたかったらしい…この世はアイで満ちているといいたかったのだろう…
2006.10.25
私達は人の中に「嫌だな」と感じる部分を見ることができる。よく闇に光を当てれば、それは光であるといわれるが、その嫌な部分はその人にとっては、とても素晴らしい部分かもしれないのだ。それは完全に判断が入った見解ではあるが、それはそれでいい。つまりはそういうことなのだ。素晴らしい=嫌の法則だ。闇に光を当てれば、そこは光で満たされる。そこには、もう闇と光の区別はない。また、それは自分にも言える。こんな発言を聞くことがある。「私はあの人のこういうところが嫌で、それを見せられているのはわかるんだ。でも、私にも同じところがあるのはわかるけど、それはやっぱり嫌なの」何故嫌なのか…それは、自分の中の概念で判断しているからだ。「~だから、嫌だ」その概念そのものは、最初からなかったものだと思えばいい。宇宙にそんな概念はもともと存在しない。それに気づき、その嫌だと判断する概念を創り上げたのは、しつけや周りの環境があったからだということをただ知ることだ。無理に直そうとしなくても、ただ知ればそれでいい…。そして、知った上でその概念から離れられない自分もまたそれでいい。私には随分前まで自分の気持を素直に表現できない、というところが強くあった。それは、大きな恐れでもあった。つまり、自分の気持を言っても理解されないかもしれない、または批判されるかもしれないという恐れに基づいていた。私はそれを大きな気持で受け止められるまで、随分時間をかけてきた。そして、その恐れそのものに愛を注ぐ。それは、その恐れが実は、愛そのものであることに気づくことだ。その愛とは、私自身が実はそれを本当はやりたいことであることに気づくことだったのだ。本当はその恐れていることそのものをやりたかったのだろう。気づけば解放されていく。それは恐れが愛の方向へ向かう時だ。そして、私はそれを今この瞬間も感じている。今これを表現することは、私にとって私への愛そのものである。「私は私である。」
2006.10.20
二元性のことについては、先日も書いたが、あることから数年前に自分の中から出た言葉がクローズアップされてきた。当時、息子はサッカーを習っていたが、運動が苦手なことと、その動作の緩慢さを見るにつれ、私はしばしば苦痛を味わっていた。今思えば当然だが、私は機敏で、何でも苦なくこなすような子供だったので、息子の様子は容易に受け容れられるものではなかった。「何故、私の子はよりによって何もできないの?どうしたら、こんな緩慢でいられるの?周りに迷惑かけて!周りが全く見えてない!」これらの言葉が心の中で繰り返されるのは日常茶飯事だった。その日もサッカーの練習を見ていて、私の中ではその様子にイライラ…自分に問いかけた。「何故息子はこんななの?何故?何故なの?苦しい~!!」-だから、周りの子が光るんだよ。-当時はわかったような気もしたが、結構?????つまり腑に落ちていなかった。あまりにも遠まわしな表現!私達の視点はこうやって大体比較、判断などのところをうろうろしている。何のことはない、苦しみを生み出してたのは自分の概念だ~(←でも、これも予定通りらしい)私達はこんな世界にも生きているし、またこれを客観的に見る自身ともつながることができる。そして、この二元性に捉われている時はイライラ、ドキドキ、めそめそ…当然、これらの反対の二元性での判断に基づいた嬉しいなどの感情を経験することもしばしばある。私達はどうやらこれらの視点の中間に生きることが望ましいようだ。二元性の判断に基づいた喜びではなく、生きることそのものの喜びを私達は感じたいのだろう。生きることそのものの喜びを感じるために理由はいらない…
2006.10.19
ある考え方や信念があって、私達はそれを使いこなしていると思い込んでいる場合が多い。しかし、いざ自分のこととなると、その概念を自分の全ての側面に当てはめることができなくなっていることがしばしばある。これは、恐らく私達が必要な経験を積むために、その時には気づかないようになっているのだろう…私の場合はこうだ。「外側の世界は自らの意識の鏡である。」私の中では当たり前中の当たり前…。周りの人たちは自分の鏡。そんなこと、今さら…くらいの当たり前のはずだった…しかし!!人は特にこれを過去に当てはめたり、また子供時代のトラウマや思いに当てはめるということになると、そこでその概念を忘れてしまうのだ。いきなり苦手モードに入る。多分、この瞬間に「ではやってみよう」と思ってトライしても、全ての過去の懸念事項に気づきを得るのは不可能だ。そう、何をどう当てはめていいのかわからないのだ。いや、自らがわからなくさせているのだ。(なかなかやるじゃないか…)話を戻そう。私の場合はこうだった。私は姉がいて、少なからず姉妹・兄弟にありがちな嫉妬や劣等感などを持って育った。「おねえちゃんの方がいつも優先だ。私はいつもおさがりばかり。おねえちゃんの方がお金をかけてもらっている。お母さんはいつもおねえちゃんの意見ばかりを聞く…」つまり、私は親から差別されていると感じながら育ったのだ。あれえ?でも、あの概念を使うなら、私も同じように大事にされてたんじゃないのかな…これに気づくのには相当な時間がかかったものだ。まず、これにフォーカスさせてもらえなかったんだよね、実際は。ああ、また私にまんまとやられた…と思った。この思い込みから、一体いくつの体験を積めたのだろう?私達は皆こんなふうに生きているんだな…
2006.10.16
私は現世までずっと頭で考え込む人生を続けてきたらしい。受けたことはないが、前世療法でも受ければ、必ずこういう人生が出てきたことだろう… リコネクティブ・ヒーリングでも、前世を見て現世に結びつけることで癒しが起こることがあるが、通常はこの「前世の癖のようなもの」に気づき、現世においてバランスをとるのには、それなりの経験と時間を要すると思う。しかし、私達は本当はこの癖を知っている。頭で考え、判断して行動する、また考え込んで自分を窮地に追い込む癖…本当にたくさんやってきたことを思い出す。数年前、自分の中から最初に声が聞こえてきて数日が過ぎた時、私は自然にこの頭の中の声をテレパシーのような形で聞くことになる。それは、私自身がこれだけ頭の声を聞いて生活しているということをわからせたかったのだろう。その声は会社でいちいち私の行動に対して批判していた。物事一つ一つについて、その声は注文をつけた。そして、その注文に今度は従うと、また従ったら従ったで注文をつける。それは、決して黙ることはなかった。一日中、朝起きてから夜寝るまでそれは続いた。「黙って」と言っても、また頭の声を聞くように仕向けられていたらしい。当然仕事は集中できるはずもない。平静を装うのがやっとだった。当然会社を辞めることになる。そして、私はこの件については、自身に会社を辞めさせられたという表現を使っている。本当のことだ。でも、真実は私が辞めたくて辞めたのだ。辞めたいから辞めさせたのだ。次の職は辞めさせただけあって、きちんと自身が持ってきてくれた。まあ、きちんと責任は取ってくれたのだ。このことは、私の人生において、自己を信頼するという大切さを教えてくれた。現代の人々にとって癒しとなる重要なポイントは、もっと心の声を聞くことだと思う。頭で考える前に、自分がどう感じ、どう思っているか、だ。しかし、頭で考える癖がついている場合には、この心の小さな声を逃してしまうことが多い。頭を少し休ませてみたい。そして、一つ一つの物事に対して、自身がどう感じているかに敏感になってみる。その時点から、人間は変化してくる。そして、心と頭を統合させていくことは、私達の創造において新たなステージをもたらしてくれるだろう。私達は知らないと思っているが、本当は知っているのだ。だから、前世までの癖についても教えてくれた。知っている、知らない、結局は同じことだ。後は無理のない程度に心の声になるべく従う。そうすれば、宇宙は責任をとってくれるだろう。*******************************リコネクティブ・ヒーリングの体験談をアップしています。この他、目や体が動いたり、様々なビジョンを見るなど様々な体験があります。ご本人が気づかないくらい自然に変化をすることも…
2006.10.12
私達の中には男性と女性がいる。これは男性でも女性でも、皆、その中に両方の性を持っており、一般には男性性と女性性と言われる。この男性と女性、お互いに愛し合っていないと、私達は人生において困難を感じることが多い。この男性と女性が愛し、受け入れている時、私達は外側に異性を必要としなくなってくる。それだけ、自己の中に至福が訪れて、既に欠けている感覚がなくなるからだろう。一般に外側に異性を求めることは、その充足感を外側に求めている状態であると思う。もちろん、これがいけないとか、悪いと言っているのではなく、恐らくそのようなことであろうと考えている。実際にこの男性性と女性性が完全に統合した人たちは、もう外側にわざわざ異性を求める必要がないと言っている。私達はまたこのような状態を目指しているとも言えると思う。 私達の内なる女性、男性の傾向は結婚によって、その子孫に受け継がれ、それはしばしばカルマと呼ばれたりもするだろう。カルマは宇宙から見たバランスの偏りとも言われるが、この男性性、女性性のバランスともとらえることができそうだ。 あくまでも例になるが、この内なる男性がもし、その女性を大切にしていなかったならば、私達は本来の願望を達成することが難しくなる。そして、内なる女性が男性を受け入れていなかったならば、無気力で、自信のない状態が出来上がる。つまり、両方が理想の状態にない限り、様々な部分でそれを見ることになるだろう。これは、個々の人間がどれだけ素晴らしいことを成しているか、ではない。内なる自分のこの良性がお互いに認め、愛し合っているのかは、個々の幸福感、充足感、を左右すると思う。そしてこれらは、次の行動におけるやる気や活力そのものを生み出す原動力にもなる。つまり個々の宇宙の中で、どれだけ満ち足りて生活していけるかは、この内なる男性、女性の状態を知ることでも明らかになるだろう。 男性性、女性性の特徴は一般によく知られる通りだが、その性そのものの姿を周りの人間に見ることができる。つまり、鏡である。両親や身の周りを鏡として、その状態を知ることは大いに人生に役立てることができる。更に、様々な視点を持ってその人たちを通して自分を知ることは、なかなか細かな作業でもあるが、その細かな点一つ一つに気づくことはとても重要であると感じる。
2006.10.09
レイキの手法として、相手の体を実際に感じてみる方法がある。これを使うと実際に相手の体になるがごとく感じることができ、その方のどこの部分が今どのような状態かを把握することができる。つ、つまり秘密は全てばれてしまう!!というのは冗談だが、心身の状態などおおよそのことはわかる。私はエネルギーを転写したエッセンスが大好きだ。飲みたい時は口に点滴をするように?飲んだ。飲みたくて飲みたくて仕方ないから飲むのだが…昔から歯医者さんの台に並んだ薬のビンに憧れて、それで「将来は歯医者になる」と言っていた私は、なぜかこのビンがたくさんあるのが好きらしい。まあ、フラワーエッセンスやジェムエッセンス、木のエッセンス、天使のエツセンス、環境エッセンスにポーションなど気がついたら、母の分、息子の分と買い込んだこと買い込んだこと…物欲はないが、このエッセンス好きは止めようがなく、宝物のようにケースに収まっている。ある日、ふと思った。ビンは集めた。でも、エツセンスは全て魅力的だ。ああ、これも、あれも飲んでみたい…つまり、いろいろなエネルギーを感じて楽しみたいのだ。でも、全部は買っていられない… ふと思いついた!その花になってしまえ~ それから、私の体からコードを伸ばし、そのコンセントのプラグをロータスに差し込んでみたり、オーキッドに差し込んでみたり… イルカやクジラにもプツ、プツとコンセント…ちょっと痛そうだから、コードの先は吸盤にしよう!吸盤でペタッ♪これ、なかなか面白い。確かに個々のエネルギーを感じることができる。これを応用すると、これまた面白い。火星、土星、冥王星も寂しい立場になっちゃったけど、今どんなかな?行ったことない、なんとか星にだってなれる。今までいろいろやってみたものだ。一日遅れの十五夜を息子の発案により楽しむことにした。お月見パーティーという名目のため、風情を出すために700円も出して、月見団子を買った。一番上の黄色いお月様色のお団子は当然息子の。母親が家の裏からススキを取ってきて、お団子の横に飾る。息子が「月ってすてき~」なんて、ちょっと優雅な発言。そう言えば、ゆっくりお月見なんて、何年ぶりだろう… ちょっと息子は途中から飽きてきたみたいだ。そこで、今日は途中で久々にお月様に息子と二人でプツリと差し込むことにした。お月見プラスα。もちろんお月見の名目でプツリと差し込んだのは始めて♪電気のコンセントと同じで、使わない時は、コンセントは抜いておきましょう!
2006.10.07
昨日のブログに対してご質問をいただきました。ご質問をいただくのは、大変ありがたいことです。私の中でよりクリアにすべきテーマがあると思うので、文章も長くなることから、ここでその話題をもう一度取り上げてみたいと思いました。お金のやりとりにおいては、日々考えることがありますよね。お金を払った場合、きちんと受け取りたいという気持は働くものです。例えば2万円のお金を躊躇することなく出した場合と、そうでない場合、いずれの場合にもその価値をきちんと受け取っているのか、ということそして、ただで何かヒーリングなどを受けるよりは、多少でもお金を払った方がその分の癒しを受け取ることができるのか、という問題について書いてみたいと思います。これもあくまでも私の考えに過ぎませんが、2万円の価値のやり取りというのは、どんな場合でもきちんと起こるとは思います。ただ、受け取る側の状態というのが関係してくると思います。まず、何の葛藤もなく気持ちよく出すということは、気持ちよく受け取り、完全に受け容れる=自分のものとすることと同じだと思います。これは、昨日書いたことと同じですが、出すことは受け取ることと同じです。一度は受け取ったものを、完全に受け容れ自分のものとすること…この受け容れる部分はそれぞれの内側の豊かさと比例してきます。豊かさの問題自体、そこから来ていると思います。クォンタムタッチの場合でも、またリコネクティブ・ヒーリングの場合でも、この話題は常に問題になりますが、一度は癒しを受け取ったのに、癒しを完全に受け取ると自分に都合が悪い場合は、その癒しを手放し元の状態に戻ることがあります。例えば、病気で誰かに面倒を見てもらっている方がいて、誰かにきちんとこちらを向いてもらうこと=看病してもらうことに自分の存在価値を見出していたとしたら、その方は一度は良くなってもまた元の状態に戻るでしょう。このように、一度は受け取ってもそれを自らのものとして、きちんと受け入れていくかは、個々の問題になると思います。しかし、ここでもし元の状態に戻った場合、何故元に戻ってしまったのか、それに気づくことができたら、自らの問題の解決に結びつけることができます。それに気づくことは大きな根本的癒しです。このような根本的癒しは、病気のみならず人生そのものを変えることになると感じます。その意味では、違うかたちでやはり受け取っているとも言えます。また、その時ばかりでなく、自分のためにどんな場合でも躊躇なくお金を出せるということは、やはり自分への価値そのものとなり、気持ちよく受け取ることと同じです。ヒーリングやセミナーの場合のみならず、これは普段の生活の中でのお金のやりとりや、また心の豊かさについての問題をクローズアップしてくれるテーマでもあると思います。躊躇して出している場合は、出した後に葛藤があるかもしれません。受け取る時も葛藤があるでしょう。受け取っているのに、受け取っていないと感じたり、受け取っていても気づいていない場合もそれに該当すると思います。いずれにしても、その時に気持良く出していない場合は、普段から気持ちよく受け取っていない傾向にあるということにもなりますので、2万円の価値を受け取りたい場合には、出した時にその分きちんと受け取れるのだということを信じることが大切だと思います。何も出し惜しみしなければ、きちんと受け取れるはずですから…なかなか難しいことですが、だからこそ私達の内面について探求することは大切だと感じます。また2万円の価値がその人にとってどれだけのものであるかによっても違うはずです。2万円がかなり高額の方もいれば、さほどでない方もいるでしょう…お金はエネルギーですので、出した分受け取ろうとする潜在的力が働くということです。その意味では、無料よりは、お金を払った方が受け取り、受け容れやすい状態を作ることができると考えます。もちろん無料は全く効果がないと言っているのではありません。より受け入れ体制ができていた方が、そのエネルギーの価値を受け取りやすいということです。また、その後においても、お金を払っている場合は特にもっと何かを受け取ろうとする傾向になると思います。例えば、何度も同じ先生のセミナーを受けている場合は、特に先生の考えそのものを受け容れやすくなってきますし、結果その先生自体つまり先生の状態にも共鳴しやすくなるでしょう。成功者になりたかったら、成功者のそばにいてマネをしろというのは、この原理でしょうね。また、何か目の前ですごいことが起きることだけが、受け取ることではありません。普段の生活ででも、与え、受け取るやりとりを私達は頻繁に行っています。リコネクティブ・ヒーリングについて言えば、今までできなかったことができたり、概念そのものが変わることさえあります。それがあまりにも自然にできたら、癒しを受け取って変化したとは感じないかもしれません。そして、気づかない場合、人は受け取っていないと感じます。そして、また最初に見えるかたちで何かを受け取ろうとして走り回ります。受け取ること自体を勘違いしていては、いつまでたっても受け取っているという意識になることはできません。受け取るということがどのようなことかも考える必要がありそうです。それに気づくには、日々の生活の中で既に与えられているものに、またこの瞬間に与えられているものに気づくことです。それが私達の豊かにあるための基本だと思います。私もこのようにして書きながら、いつも宇宙から何かを受け取っているようです。
2006.10.03
今日の話題はかなり核心に迫っているが、わかりにくいといえばわかりにくい。同じ絵を見ても見る人によって感想が違うように、あまり核心と感じない場合もあるかもしれないが、私にとってはかなり面白いこと…そして、これを書くことによって私がどうなるか、ちょっと実験してみたい。表現の問題もあるし、体験の違いもあるので、同じようなことを考えている人でも若干受け取る感じが違うかもしれない。だからこそ面白い。私達はここにいることができる。それは、無があるから在る(有る)ことができる。無がなければ、あることはできない。光があるから闇がある。つまり光は闇を照らすものであり、闇があるからこそ光が存在できる。できないから、できる。戦争があるからこそ、平和がある。つまり、その概念?そのものがあるからこそ、両方が存在できる。これらは二極性を持ちながらも同じものである。ついでに言うと、できないと思っていることが人は必ずしも一つくらいは持っているが(そうでない人もいるけれど)、そのできないはできると同じことである。できないということは、これからできる可能性を秘めている。実際にやろうと思えば少しはできるだろう。しかし、できないという概念?がなかったら、できるということは存在しないのだ。宇宙から見れば、これらは同じことである。私達は知っているのに、全てを知らない。これも同じ。~がない状態は~がある状態。こうやってバランスして宇宙は成り立っている。さあ、これらの概念は私達の現実を創っている。現実化のカギもここにある。話は変わるが、リコネクティブ・ヒーリングで先生がヒーリングとその価値について言及していた。お金はエネルギーだから、つまり例えば2万円のセミナーなら、人はその2万円分のエネルギーを出し、その分を潜在的に受け取ろうとする。私達がどう思おうが、出した分きちんと受け取っているわけだ。ヒーリングも同じで、出した価値(=エネルギー)の分だけの癒しを受け取る。これをリコネクティブ・ヒーリングはわかりやすく物語っていると言えよう。そう、つまり与えることと受け取ることは同じである。与えられるから受け取るということが存在できるのだ。これは認識しにくいが、私達が普段やっていることから、見てみるとわかりやすい。頼んでもいないのに、「あなたはこうだから、こうした方がいい」といきなりたくさんの忠告を受けたらどうだろう?大抵の場合、拒否反応が起こるか、怒りが湧き上がってきたりして、そのまま素直に受けいれることはあまりないだろう。ところが、お金を払った途端、人は変わる。何とかして状況を打開したい場合、人はお金を払ってヒーリングを受け、セミナーを受けるが、この時人は初めて受け取ろうとする姿勢に入るのだ。私も記憶にある。2万円のセッションを受けた時、直後「大したことなかった」と思った。でも、その後何年経ってもある一言が心に残っていた。それは私にとってとても重要な一言だったのだ。「私」の部分はそれをきちんとわかっている。自分が何と思おうときちんとわかって、その価値を受け取っているのだ。これが宇宙の法則なのだろう。
2006.10.02
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