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このところすっかり冬籠りスタイルの生活に浸りきって、日々安穏と過ごしております。 週に2回ほど食料の買い出しに行く他はめったに外出することもなく、炬燵に足を突っ込んで読書三昧と「ひたすらボーッ」を繰り返していると、先日、ふと「浮世離れびと」という言葉が脳裏に浮かんできました。 特に自分がそうだという強い自覚があるわけではないのですが、これほど俗世間から遠ざかって、しかも至福感に浸っていられる状態っていうのは、一種の浮世離れと言えるのかもしれないし、そういう雰囲気を醸し出すものはすべて「浮世離れ系」というふうに括れるのかもしれないし、また、そういう世界で生きている人間はおしなべて「うきよばなれびと」と呼べるのかもしれない、などと自分でもよくわからないことをぼんやりと考えていたのはたしかです。 ただ、他の人が「浮世離れ」という言葉をどういうふうに使っているのかは知りません。 辞書の定義によると、「俗世間のことに無関心なこと。また、考え方や生き方が世間一般の常識とかけ離れていること」とあります。 つまり、世間では、マイペースすぎたり、常識外れでちょっと変わった感じがする人を揶揄したり非難したりする時にこの言葉を使うのかもしれませんね。 でも、ちょっと考えたらわかるように、語源的に「浮世」というのは「憂き世」のことであり、それは「辛く苦しいこの世界」みたいな意味です。 ですから、「浮世離れ」というのは、本来、「辛く苦しい世界を離れて悠然と至福の時を過ごす」みたいな感じで使うのがいいのではないか、と私などは勝手に思ったりするのであります。 そして、そういう状態で生きている人のことを「浮世離れびと」と呼ぶことにすれば、前回の記事でチラッと紹介した『金沢』に出てくる内山という男などは、まさしくそれに該当する人物ではないかという気がします。 『金沢』というタイトルから、この作品を金沢の観光案内を兼ねたエッセイの類かと勘違いする人もいるかもしれませんが、実際はれっきとした小説です。 でも、先程言ったように主人公の内山がすでに「浮世離れびと」であるがゆえに、小説にありがちな人間関係のもつれとか軋轢、あるいはそうしたことに端を発する出来事の類はここでは一切扱われていません。 もちろん主人公の不安や悩みなどが問題になることもありません。 なにせ、内山はそうしたネガティブな感情からはもともと解放されているわけですから。笑 じゃあ、『金沢』って小説、いったい何が描かれているのってことになりますよね。 まあ、大ざっぱに言うと、浮世離れびとである内山が金沢のあちこちにいる同類の酔興人たちと酒を酌み交わし、語り合いながら非3次元ワールドに遊ぶみたいな内容です。 それって、要するに桃源郷とか神仙譚みたいな世界ってこと? ええ、まあ、一種のユートピア小説みたいなもので、おそらく作者はこの作品で「至福の時間」というものを描きたかったのかもしれません。 こんなふうに言うと、「うわっ、なんだかホンワカドリーミーっぽくて楽しそう。ちょっとその世界を覗いてみたいな」と思う人もいるかもしれませんが、これはあくまでも内山という浮世離れびとにとっての至福ワールドであって、誰しもがそこで酩酊していられるというわけではありません。 えっ、その内山さんって、そんなに癖のある浮世離れびとなの? うーん、癖があるというか、つかみどころがないというか… 、まあ、浮世を離れるとみんなそれっぽくなっていくのかもしれませんが、せっかくなので、この人の酔興ぶりを少し紹介しておきましょうか。 まず、東京在住の内山が商用で金沢を訪れた時に寝泊まりすべく手に入れた家については、こんなふうに説明してあります。 「更にそこをそのように荒れた感じにして置く為にもかなりの手が掛けられていたので本当にそのままほうって置けば何れ家も門も倒れて木も草も茂り放題になるのを適宜に食い止めて入り口から覗いた印象だけは廃屋がその先に廃園を抱えていると見せるのがそうしたことを心得た出入りの大工や植木屋の苦労しての狙いだった。」 まあ、簡単に言うと野趣好み、難しく言うと、適度に荒れた状態にしておくことで、その家が昔からそこにあって周囲の環境に馴染んでいる感じを演出したいということかなという気がしますが、いずれにしても酔狂びとのなせる業です。 おそらく内山にとっては、家も町も人も、また川も木も山も、当たり前のようにすべてが馴染んでそこにあるということが大事なのだと思います。 そうした状態でゆったりとした時間が流れると、向こうの家がこっちの家に話し掛けたり、古くから生えている木が人に話し掛けたりしてもいいではないかということになります。 要するに、至福の時においては、物心一如というか、意識だけがあり、自分というものが影を薄くして消えたり、あるいは他の人や物と融合したりするのは至極当たり前のことだと内山には感じられるようです。 だから、冬の深夜、ある屋敷でそこの主人と酒を酌み交わしているつもりが、いつの間にか秋の午後の川縁にワープして、川の水を旨そうに飲んでいたりもするんです。 あるいはまた、ある山水画を見に忍者寺を訪れ、住職に寺院の中を案内してもらっているかと思えば、いつの間にか二人は舟に乗って川の上を進みながら支那風の景色を眺めており、その川も彼が湖と思えば湖になり、夕暮れと思えば夕暮れ時の景色になったりもするんです。 まるでSFファンタジー映画に出てくる異次元の世界を見ているような感じです。 至福の時を生きる浮世離れびとにとっては、時空の縛りすら思い込みにすぎないものなんですね。 ただひたすら酩酊あるのみ。 都合四人の数寄者と酒を飲み、禅問答のような会話を繰り返したあげく、醒めてみると、「山や川と飲んでいるようなものだった」と感じる内山ですが、これは言うまでもなく、山や川のような感じがする人と飲んでいるような気がしたということでもあるのですが、もう一つ考えられるのは、結局この人、酔っ払って自然と交感していただけで、本当はこの小説に生身の人間なんて登場していないのではないかということです。 最後にそれっぽいことがチラッと暗示してありますが、主人公の内山ですら、人間といっても、あくまで浮世離れびとですから、そういう意味では、この小説は究極の無人小説であり、もうそろそろ人間を卒業しますという人にはもってこいかもしれません。 もちろん、何よりも読点なしにくねくねと続くあの異様に長い文章が読みづらくて仕方ないという人もいるでしょうし、それに慣れても、結局何を言っているのかよくわからない文字通りの酩酊文、いや、酔狂文に途中で嫌気がさし、こんなことなら俗世にまみれてあくせくしていた方がよっぽど楽しいわと逃げ出す読者もいるでしょう。 仮にあなたがそう感じたとしても、それはそれで作者の思う壺。 そういう意味では、非3次元にわけもなく憧れる人を押し返し、3次元の良さを逆説的に諭す学びの書となる可能性をも秘めている作品なのかもしれません。笑
2021.01.26
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ガーベラ&スプレーマム 80 今まで無題の記事は「薄紫のつぶやき」と題して投稿してきましたが、今回からそのタイトルを「薄紫の独白」に変えることにしました。 何も毒を吐こうというわけではありません。笑 「モノローグ」でもよかったのですが、「薄紫」とのコーディネートという点で、「独白」の方を選びました。 まあ、老人の単なる独り言と思って下さい。 81 前回紹介した倉橋由美子の『ポポイ』の中に、次のような文章が出てくる。 突然、「坊主の季節」という言葉が浮かんだ。誰かの詩に出てきた言葉のようだけれど思い出せない。 なるほど、「ポポイ」という言葉もそうだが、こんなふうにして作者はさりげなく西脇順三郎へのオマージュを捧げているのか、と意味もなくニンマリした。 これは『近代の寓話』という詩集の中に収めてある「一月」という詩の中に出てくる言葉だ。 こんなタイミングでなければ、この詩を紹介することもないと思えるので、今回ここに載せておくことにした。 坊主の季節が来た 水仙の香りを発見したのは どこの坊主か。 美しいものは裸の女神よりも 裸の樹の曲がり方だ。 黒い土に結ぶ水晶と根の季節だ。 黄色い竹藪から手を出して つる草の実の宝石を取る男がいる。 こわれた竪琴のような樫の木が 一本みどりの髪をたらしている。 淋しい春を奏でる蜂も女もいない まだ人間は野ばらの中に しやがんで考えているのだ。 詩は感じたり味わったりするものなので、これを読んで「ええなぁ」と思える人にとっては野暮なことかもしれないが、「坊主の季節って何のこと?」と気になる人のために私見を一つ添えておく。 おそらくこれは「水仙の咲く季節がやって来た」という散文的な物言いを詩的に変換したフレーズではないか。 水仙の蕾は坊主頭のような「ねぎ坊主」に似ているところもあるので、そうした連想から水仙を坊主と言い換え、なおかつ、せっかく坊主が出てきたので、その語を使って、どこかのなまぐさ坊主が初めて水仙の香りを嗅いで感激する様をイメージして、「発見した」と言っているのではないか。 そうやって勝手に妄想して、「ええなぁ」と言っていればいいんじゃない? 笑 82 山本健吉の『俳句鑑賞歳時記』に収められている冬の句の中から、気に入ったものを四つ選んでみた。 誰かしる今朝雑水の蕪の味 広瀬惟然 うすめても花の匂いの葛湯かな 渡辺水巴 葱買て枯れ木の中を帰りけり 与謝蕪村 風花のかかりて青き目刺買ふ 石原舟月 さて、この四つに共通するのは何? 答えは、どの句にも飲食物が入っているということ。 どれも粗食グルメの人にアピールしそうなものばかりだけど、それらをダシにしてデリケートな感覚をサラッと掬い取っているところがニクい。 知らない人のために念のため記しておくと、「風花」というのは、晴天にちらつく雪のこと。 83 雑水(雑炊)の蕪に葛湯に葱に目刺か…。 「どうせならもっと珍味っぽいものを挙げてよ」という人のために、オマケでもう一丁。 倉橋由美子、西脇順三郎、山本健吉つながりで、最後は吉田健一なんかどうだろう。 たしかこの人、山本健吉とも関係があったようだし、何と言っても、倉橋由美子が師と仰いでいた人でもある。(ちなみに山本健吉は西脇順三郎の弟子筋にあたる) 呑兵衛にはたまらない『金沢』の中から、今回は不思議な食べ物を二つ紹介する。 「金沢には胡桃餅と称して胡桃を丹念に摺り潰したのを蒸した料理があり、それが魚でも鳥でも特殊な作り方をした本当の餅でもなくて胡桃であることはその芳香と歯触りにも拘らず教えられなければ解らないが、その晩どれもが名器であることが疑えないものに盛られていたのはその一つ一つが胡桃餅に劣らず、そして又それと同じ出来栄えで得体が知れないもので内山は酒と肴とどっちに酔っているのか判断に迷った。」 これを読むと、どうも和菓子の胡桃餅とは違うような気もするが、まあ、食べたことがないのでよくわからない。 「その日はどうしたのか料理の後でお茶と菓子が出てそれが主人が言い付けたものであることは料理を下げにきた女中と主人が何か話をしていたことで解った。それは白い板を不規則な形に切ったようなもので口に入れると溶けることから内山は江戸の雪の話を思い出した。 「それを薄氷と言っているんです、」と主人が言った。」 こちらも食べたことがないので、何ともコメントできないが、「薄氷(うすごおり)」という名前からして、いかにも上品な菓子であることは伝わってくる。 ひとつオンラインショップに注文して食ってみるか。笑 薄氷 T五(ティーゴ) 薄氷本舗 五郎丸屋のホームページより
2021.01.17
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オリヅルラン 老人なので、寒波の到来はやはりなにかとこたえる。 まあ、でも、家に籠もってひたすらぼーっとしていればいいだけの話。 それに飽きたら、ボチボチ読書。 年末は倉橋由美子の『ポポイ』を読んでみた。 文庫本で130ページほどなので、ペロっと平らげてしまった。 しかも、これがなかなか美味しいときている。 どんな内容か気になる人もいるかもしれないので、とりあえず、裏表紙に印刷された要約文で大まかな筋を知ってもらおう。 「時は21世紀、なお権勢を誇る元首相の邸宅に、一人の青年が三十過ぎの男と共に乱入、声明文を読み上げると切腹した。事件の真相は謎に包まれたが、介錯され、胴体から切り離された青年テロリストの首は、最新の医療技術によって保存され、意識を取り戻す。首の世話を任された元首相の孫娘・舞と、首との奇妙な交流が始まった…。流麗な筆で描き出す、優雅で不気味な倉橋ワールド。」 これを読んで、年配の方ならすぐに思い浮かべるのが三島由紀夫だろう。 あれからもう50年も経ったんだなあと思いつつ、30年以上も前に書かれたこの小説のことを考える。 この作品はあの事件が風化しそうでまだ風化しきれていない、そんな近未来を想定して書かれているようなので、ちょうど今頃読むのにピッタリな感じに仕上がっている。 要するに、30年以上前の作品でありながら、いっこうに古びた感じがしない。 なおかつ、生首の飼育という話でありながら、全くエグい感じもしない。 むしろ、ある種の晴明な心地よさのようなものを感じてしまう。 何故だろう? 答えはナレーションである。 すべてが舞という女子大生の視点で語られるところがミソってこと。 もしこの語り手がヒューマンドラマウェルカムみたいなキャラだったら、この作品はもっと葛藤や対立だらけの騒々しいお話になっていたかもしれない。 いや、逆かな。 そういう話にしないためにこのキャラになったのかな。 まあ、いずれにしても、作者は事件の真相などを深掘りする意図などさらさらなかったのだろう。 この作品はあくまでも事件後の後日譚という体裁で語られる。 しかも、美青年の生首をペットのように世話するという非3次元的エピソードを軽く、淡々と語ることに主眼を置いたお話である。 そういうお話に舞というキャラクターはピッタリなような気がする。 彼女は「ニュートラル」で「非真面目」なタイプの人と気が合うと言っているが、それはまさに彼女自身がそういうタイプだからであり、次の一節を読むと、そのことがよくわかる。 考えてみると、私はすべてにニュートラルな人間であるようだ。何事に対しても、「こうあるべきだ」という姿勢をもたない。すべてはそのあるがままの姿であるしかしようがないではないかと思っている。(中略) ニュートラルな人間は「べき」を放射しないから、ぎらぎらしない。無色透明に近くてつかみどころがない。匂いも薄い。前世紀風の言い方では、こんな人間はしらけている、ということになるかもしれないけれど、しらけているのとは少々違うのだ。私にもかなりはっきりした好き嫌いはある。ただ、嫌いなものは自分とは無縁のものと見て、関係を切断しておくだけのことだ。軽蔑はしても憎むということはない。好きなものは好きで、それがそばにあると嬉しい。しかし無理に所有しようとは思わない。なくなれば淋しい。でも淋しさを味わうのも悪くないものだ。」 これはおそらく、作者である倉橋由美子自身の物事に対する姿勢をも幾分反映しているのではないかという気がする。 突きつめて言うと、エピキュリアンっていうことになるのかなあ。 何かに拘ったり、何かに抗ったりするのではなく、いかなる状況においても、リラックスして楽に生きることをよしとするタイプである。 この『ポポイ』という作品が心地いいのは、作者自身がエピキュリアン的波動を存分に放出しているからではないか。 三島由紀夫へのオマージュとしての生首奇譚でありながら、作者自身がその世界を自分の好きなもので飾りまくって、ディレッタント風に軽く楽しんでおられるような気がする。 ※ ポポイという語の意味に関しては、以前「ポポイの由来」という記事(2017 6/21 )の中で説明しました。 気になる方はそちらをお読みください。
2021.01.08
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