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カランコエ 先日、周梨槃特さんのブログにお邪魔した際に、ちょっと面白いものを発見しました。 「東寺領若狭国太良庄の狸穴(まみあな)と埋納銭盗掘騒動」という記事の中に、こんな一文が紛れていました。 古くから知られた水銀鉱山地の近くには、「丹生」という地名が残っているのですが、太良庄にも「丹生谷」という地名や「丹生神社」が残っています。 この文に反応するのは、よっぽどの歴史・地理オタク(専門家や郷土史家)か、あるいは何故だかわからんけど鉱山フリーク(笑)みたいな人くらいではないでしょうか。 まず、「丹生」って漢字からして、ふつうは読めませんよね。 「雲丹」を「うに」と読める人、「羽生」を「はぶ」と読める人は、第一関門クリアです。笑 でも、それが読めたからどうしたって話ですよね。 よほど関心がない限り、スルーしそうなところです。 ところが、私は歴史・地理オタクでも、鉱山フリークでもないのに、この文に引っかかってしまいました。 理由は実に単純です。 かつて丹生谷貴志という評論家の本を読んだことがあり、なおかつ、このブログでもこの人の文章を引用したことがあるからです。 「ほう、丹生谷先生(この人、神戸市外大の教授さんです)、マイナー or ダウザーの子孫だったんか。(笑) 本人はそのことご存知なのだろうか?」 そう思い、軽い気持ちで、この人の名前をググってみると、とある掲示板が目についたので、そこに潜入してみると、程なくして、以下の文章にぶち当たりました。 ところで。私は丹生谷。ニブヤと発音する。この音は、しかし、きまぐれな祖父の独断で、ニウノヤ、ニウノタニというのが本当らしい。水銀性の赤土(丹)が採れる土地の名から来ていると聞いたことがある。真偽は知らない。むかしからそう思いこんできた。水銀の生まれる谷。従って、私の名の中にはマーキュリーがおり、私の名の中でマーキュリーが生まれつつある訳である。 この後、自らの名前がいかに水星と結びついているかという説明が続くのですが、長くなるので、適当なところでカットしました。 でも、これだけ読めば十分。 ふむふむ、そういうことだったか。 この文がきっかけで、もともと地名としての「丹生」は「にう」と読むということもわかりました。 それにしても、凄い世の中ですね。 丹生谷先生が自分の名前の由来を自著(『砂漠の小舟』) の中で説明している箇所を、たまたま掲示板に載せてくれている人がいて、そして、今度はそれを知りたがっている者が難なくそこにアクセスできるようになっているなんて、ワシらの若い頃には想像もできんかったことじゃわい。笑 もう一つ、周梨槃特さんのブログに端を発する話をお届けします。 今度は『満済准后日記』という室町期の史料が出処です。 なんでも、室町殿の御所にさまざまな怪異現象が続いていた頃のこと。 ある日、屋敷の前の庭で帯を売る女の声が聞こえたので、急いで人を出して確認させたところ、そこには人の姿などなかった。まことに不思議なことである。 えっ?以上、ですか? そう、この件に関しては、それだけです。 なんだかノンセンスっぽくて、イイと思いませんか? まあ、あえて名付けると、「声のみ妖怪帯売り女」ってところでしょうか。 帯売りの声はすれど、姿は見えず。 むかし、井上陽水が「♬ 窓の外ではリンゴ売り、声を枯らしてリンゴ売り、きっと誰かがふざけて、リンゴ売りの真似をしてるだけなんだろ」と歌っている曲があったけど、あれも実は「妖怪リンゴ売り」のしわざで、リンゴを買おうと思って外に出てみたら、誰もいなかったという経験をした人もいたかもしれませんね。 いるわけねーだろ! ちと、おふざけが過ぎたようで、元に戻します。笑 まあ、その、なんですね。 妖怪にせよ、物の怪にせよ、幻獣にせよ、中には人畜無害のゆるキャラっぽいやつもいたりしますよね。 例えば、豆腐小僧なんて、ただ豆腐を運ぶだけですから、妖怪にしてはちょっと拍子抜けなところもあるけど、昔はこれでも、憎めないキャラとして、大ブレイクしたみたいですよ。 先程の帯売り女にしても、声だけの妖怪(もののけ)ということで、そのうち異界で声優デビューってことになりゃしませんかね。 ならん! あ、こりゃまた、失礼。笑 ところで、ダンナ、声だけなんてまだまだ序の口で、中には気配だけみたいなのもいますぜ。 ボルヘスの『幻獣辞典』ってご存知でしょうか。 ケンタウロス、セイレーン、一角獣、竜といった空想上の生き物に加え、古今東西の文学作品に登場する不思議な存在など、120種あまりを集めて、ペダンチックに解説した本です。(中には、テクストをそのまま載せているものもあるが) で、この本の巻頭を飾るのが、今回のメインキャラである「ア・バオ・ア・クゥー」という名の生き物です。 生き物と言っても、もともとは姿かたちがあるわけではありません。 いつもはインドにある「勝利の塔」の螺旋階段の一番下の段で眠っています。 螺旋階段は最上階のテラスに通じていて、見事、この階段を登りきった巡礼者は涅槃に達することができるのだそうです。 人間の影に敏感なア・バオ・ア・クゥーは、巡礼者がやって来ると目をさまし、その人の踵にくっついて、共に階段を登って行きます。 階下では半透明で不完全なこの生き物は、しかしながら、一段登るごとに青味を帯びた光を放ち、輝きを増すようになります。 そして巡礼者が遂に最上階に達した時、ア・バオ・ア・クゥーも完全な姿を見せることになるのだそうです。 ところが、「幾世紀にもわたって、ア・バオ・ア・クゥーが塔のテラスに到達したのはただ一度である」ということですから、巡礼者が最上階に辿り着くのがいかに至難の業かということがわかります。 巡礼者が階段を下りてくると、この生き物の輝きも衰え、絹が擦れるような呻き声をもらし、最後は最初の段に転がるように倒れ伏すのだそうです。 でも、たった一度にせよ、ア・バオ・ア・クゥーは最上階に到達したわけだから、その究極の姿も一度は明るみに出たのではないか。 皆さん、そう思いますよね。 ところが、途中、こんな文章が挟みこまれているんです。 「しかしそれが究極の姿になるのは最上階においてのみであり、そこへ登りついた者は涅槃に達した人間となり、その行為はいかなる影も投じない。」 え、何だよ、これ。 ア・バオ・ア・クゥーは人間の影に依って存在する生き物なのに、最上階に登りついた者から影がなくなれば、この生き物の姿も幻と化してしまうんじゃないだろうか。 なんともパラドキシカルな話だ。 つまりは、どうやっても、こいつは完全な姿をキープできない運命なのではなかろうか。 というわけで、皆さん、こうして、まんまとボルヘスの罠にひっかかるというわけです。 いかにも伝説の生き物と見せかけて、実はこの生き物、ボルヘスが自ら入念にでっち上げた幻獣ではないかという気がします。 寓意性にみちた話の作り方といい、パラドックスの仕掛けといい、韜晦趣味といい、いかにもボルヘスという匂いがします。 でも、個人的な感想を言わせてもらえば、この本の中にもテクストごとまるまる載せてあるカフカの「オドラデク」にはやはり敵わないんだよなあ。 なにせ、これは無意味な表象の極北だからね。
2020.01.31
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前回お見せした服部八幡神社のイチョウの木の件ですが、後で写真を見直している時に、ふと、こう思いました。これ、ホンマに45mもあるかなあ?ちょっとサバ読んでるんじゃない?確かに案内板には45mと記してあるんだけど、今までに見た40m級の樹木に比べて、何か物足りなさを感じたので、念のため、環境庁が発表しているデータをチェックしてみたところ、やはりかなり低めで、樹高37mとありました。この木のことを調べた方によると、この神社にはかつて樹齢千年とも言われるケヤキの巨樹もあったのだそうです。しかし、その木が1991年に突然倒壊し、それを機に、このイチョウも大枝をすべて切り詰められたといいます。ひょっとして、その時、丈もいくらか短くされたのかもしれません。まあ、それでも、このイチョウの木が巨樹であることに変わりはありません。何故なら、幹周が5mを超えているからです。環境庁が1988年に全国の巨樹・巨木林調査を行うにあたり設けた基準によると、巨樹・巨木の定義は次のようなものになります。● 地上約130cmの位置での幹周が300cm以上の樹木。さらに付け加えると、一般に幹周3m以上を巨木、5m以上を巨樹と呼ぶ慣習があるとのことです。要するに、樹高や樹齢は巨樹・巨木を判定するファクターにはならないということになります。そうすると、このブログで紹介した樹木は、その大半が「巨樹」と呼ぶにふさわしいものばかりではないかと思われます。ただ、そうした木々を日帰りで見に行くことを「巨木トリップ」と言っているのは、単にそっちの方が語感がいいからにすぎません。また、今後のことを考えると、できるだけ間口を広げておいた方がいいかなという気もします。こんなことを言うと、私が趣味で巨樹・巨木を追っかけているかのようですが、全然そんなことはありません。自然観察の一環として、気が向いたらデッカい木も見に行くという程度です。ただ、樹木に何の興味もない人からすると、やや物好きかなというレベルです。この度も調べ物ついでに、「巨樹・巨木ランキング トップ50」というリストを眺めていて、こう思ったものです。なんだ、この中で直に見たことがあるのは、たった2本だけじゃないか。まあ、そのくらいのレベルなんです。笑で、詳しく言うと、そのうちの1本は以前紹介した菩提寺の大イチョウです。( 41位 )岡山県からのランクインはこの木だけです。そして、もう1本は広島県から唯一のランクインということで、なんと糸碕神社のクスノキでした。( 49位 )と言っても、この木は当ブログではまだUPしてないんだよなあ。ということに気づいたので、この際、ついでに未発表の木ばかり、まとめて5本見せちゃえということに相成りました。え?別にそんなの見たくないって?まあ、まあ、そう可愛げのないこと言わずに、見てあげなよ。笑尾道市 艮神社のクスノキ幹周 7.3m 樹高 40m 樹齢推定 300年「艮神社のクスノキ群」の名前で境内のクスノキ4本が一括して広島県の天然記念物に指定されています。写真の木は本殿右前に立っている境内一の木です。三原市 糸碕神社のクスノキ幹周 13m 樹高 30m 推定樹齢500年 三原市指定天然記念物肥大化した根元はお見事というしかありません。まるで盛り土の上に木が生えているように見えます。この根元の部分だけで地上2mの高さになるので、幹周13mというのも納得です。亀鶴山八幡神社の大スギ 広島県神石郡神石高原町油木幹周 5.5m 樹高 43m 推定樹齢 300年以上 南北に細長く続く社叢全体が県から天然記念物の指定を受けています。幹周1m以上の杉が750本、3m以上が16本という、まさに杉だらけの森です。 写真の大杉は亀山参道の奥、拝殿に向かって左側に立っている御神木です。宇佐神宮のクスノキ幹周 5.4m 樹高 25m 推定樹齢300年以上 国指定天然記念物とにかく広い。八幡神社の総本山だけあって、社叢の広さは4ヘクタールもあるそうです。社叢のメインはイチイガシではないかと思いますが、人気はやはり上宮本殿脇に立っているこの御神木のクスノキでしょう。枝ぶりの美しい木でした。通称「奥谷の流れ柿」岡山県加賀郡吉備中央町上加茂幹周 3.2m 樹高 12m 推定樹齢500年 吉備中央町指定天然記念物案内板によると、「流れ柿」の呼び名は実のついた枝が地面に届くように垂れ下がっていることからつけられているそうです。また、「幹の下部は空洞化し、内部が腐朽していたが、1995年に樹木医の外科手術を受け、樹勢が回復した」ということです。『祈りの木』(文: 高田宏 / 写真: 阿部幹雄)という本の中でも、「枯死寸前からよみがえったカキの木」として紹介してありました。カキの巨木としては、県下3本のうちのひとつだそうです。ところで、近頃、カキの実って、ほとんど食べなくなったなあ。
2020.01.24
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中国地方の巨樹に詳しい方にこの写真を見せたら、少しは唸ってもらえるかもしれません。 うーん、こんな穴場まで押さえたか。 地元の人以外で、わざわざこの木を見に来る物好きなんて滅多にいないのではないでしょうか。笑 これは福山市駅家町大字服部永谷という所にある服部八幡神社の敷地内に立っているイチョウの木です。 吉備津神社のイチョウと比べると、主幹が天に向かって一直線にピンと伸びていて、冬空をバックにいかにも凛とした佇まいです。 こういう樹形のイチョウは雄株が多いということですが、案内板には幹回り6m、高さ45mとあるだけで、雌雄どちらであるかは不明です。 写真で見るだけでは、その辺の街路樹のイチョウとたいして変わらないような気がするかもしれませんが、この木のウリは明らかに高さです。 45mというのは、岡山県下一の大樹で、国の天然記念物にもなっている菩提寺の大イチョウ(奈義町)と同じ高さです。 この臨場感だけは、やはり現地に行って、そこに立ってみなければ伝わりませんよね。 道を挟んでイチョウと反対の方向に立っているのが、このムクノキの大樹です。 だいたい神社仏閣系の巨樹と言えば、クスノキやスギやイチョウが多い中で、ここまで大きなムクノキを目にするのは珍しいことと思われます。 案内板には樹齢約550年、幹回り5.6m 、高さ20m とあります。 なるほど、根元の太さを見ると樹齢550年というのも頷けます。 今回見た木の中では一番の老木ではないかと思われます。 さて、樹木とは関係ない話ですが、服部八幡神社の案内板を読んでいて、一つ気になった文章があったので、ついでに紹介しておきます。 「なお、この神社は、神前で読経する特殊神事『風祈祷』でも知られています」 「風祈祷」って、何やら不思議感を湛えた言葉ですね。 風害を鎮め豊作を祈る祭りのことを風祭(かざまつり)と言うそうですが、それと何か関係があるのでしょうか。 地域によって、おこもり、お日待、獅子舞、念仏、祈祷などが行われるそうですから、そうした風祭の一環ということで合っているかもしれません。 また、「神前で読経」とありますから、この神社も神宮寺によって管理されていた神仏習合系のお宮なのかもしれません。 南宮神社 本殿 実は今回も、午前中はそれ系の神社を参拝してきたばかりでした。 府中市郊外の南宮神社というお宮で、ここは真言宗の神宮寺とセットになっています。 Mさんの案内で岡山、広島県内にある神仏習合系の寺社はけっこう回ったので、こういう密教、山伏系の匂いがする形態はもう慣れっこです。笑 寺社仏閣の類いは当方に知識がないので、ふつうこのブログではあまり触れることがないのですが、今回は駐車場を出た所で、偶然にもお出かけ前の住職(玄侑宗久似)に声をかけてもらい、この神社の由緒などを簡単に説明してもらったので、これも何かの縁かと思い、ちょっとだけここをPRしとこうかなと考えた次第です。 まず、石門がいくつも並び立つ参道を登って行くと、入母屋造の本殿に辿り着きます。 創祀は807年ですが、現在の本殿は江戸時代に再建されたものだそうです。 末社に出雲大社、市杵島神社と並んで、貴船神社もあり、その祭神名「水波能売神(みずはのめのかみ)」という文字を見て、微かにビビビッと反応。 そうか、水の神さまのお出迎えかあ。笑 境内の隅には鐘撞堂があります。 神社で鐘つき? そう、これが神仏習合系というもんです。笑 まあ、いいじゃない。 鈴を鳴らした後に鐘を撞くなんて、なかなか体験できないことですよ。 2人で1回ずつ、撞いてみました。 ぐぉ〜ん。 暖かい陽射しを浴びながら、しばらく鐘の音の柔らかな余韻に浸りました。 うーん、贅沢なひと時。 サザンカ 最後に一言付け加えておくと、この神宮寺は地元では「あじさい寺」として知られています。 備後界隈にお住まいで、紫陽花がお好きな方は、シーズン中を狙ってお出かけになってはいかがでしょうか。 あ、そうそう、もう一つ。 この神社の近くには孝霊天皇御陵と伝えられる塚もあります。 神話の世界までワープしたい方は、どうかそちらへどうぞ。
2020.01.20
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神社や寺院を参拝するということは、即ち社叢の中を散策するということに等しく、そうすれば、必ずや巨樹にも遭遇するということになります。 私にとっては、神仏を拝むことと、巨樹に触れることにはそれほど違いはありません。笑 一昨日、広島県府中市近辺の神社を、いつものMさんと一緒にぐるっと巡って来ました。 まあ、久々の巨木トリップです。 植物のPR係としては、現場に出かけてのレポートというのは、気晴らしと任務を兼ねた楽しみながらのワークといったところでしょうか。 今回撮って来た50枚あまりの写真の中から、まず最初にお見せしたいのは、吉備津一宮神社 (福山市新市町) の参道脇の駐車場内に立っている大公孫樹 (大イチョウ) です。 いやあ、デッカいなあ。 この木を見るのは今回で3度目ですが、写真に収めたのはこれが初めてです。 冬場なので、樹形がはっきりと分かりますが、これは私が見たイチョウの巨樹の中ではかなり美しい部類に入ります。 幹周り6m 、樹高22m 、推定樹齢300年ということですから、以前紹介したモンスター級のイチョウと比べると、迫力という点では、それほどでもないような気もしますが、この木にはこの木なりの良さがあります。 無数の長枝が長く伸びて、枝垂れ気味になっている点です。 ぶっとい触手のような枝がゆらゆらと目の前にまで垂れて来ていて、油断すると、何か悪さでもされるのではないかといった感じがします。 まあ、それくらい木に勢い(生命力)があるということです。 そして、それぞれの長枝からは親指ほどもある太っちょのミノムシみたいな短枝がたくさん飛び出していて、その先っぽにはキャラメル色の冬芽が付いています。 また、注連縄が巻いてあるあたりをよく見ると、小さな気根が垂れているのがわかります。 この気根のことを乳垂れとも言いますが、これがあるからと言って、その木が雌株というわけではないそうです。 この件に関しては、以前、「黄昏時には化けるかも」( 2015 1/17 ) という記事でも書きましたが、自分で書いておきながら、どうだったかあやふやになっていたので、このたび、もう一度それを読み返してみました。 上高野山乳下がりイチョウ(庄原市)も菩提寺の大イチョウ(奈義町) も共に巨大な気根を垂らしていますが、前者は雌株、後者は雄株です。 つまり、気根は雌雄を見分ける手がかりにはならないというわけです。 その区別は、あくまで実がなるかどうかでなされるのだそうです。 ちなみに、吉備津一宮神社のこのイチョウは雄株ということです。 吉備津神社(福山市新市町) 本殿 カンザクラ これは境内に生えているスギの木の根元部分にできたコブです。 造形美を感じたので、写真に収めました。 巨樹にはこうした瘤がよく見られますが、これは何らかの原因でできた傷を塞ぐために、植物自身がカルスというものを形成して修復しようとした跡だそうです。 人でいうと、かさぶたのようなものでしょうか。 ただし、木によってはウィルス感染による異常増殖、いわゆる植物のガンである場合もあるということです。 樹木もいろんな試練をクリアしながら生き抜いているってことですね。
2020.01.20
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おっ、美味そうなピーチ! 一つ突ついて食うたろか。 食いしん坊のヒヨドリが目ざとく見つけて、思わずパクッといきそうな実ではある。 先日、墓にお供えしたこのヒペリカムがどうなっているか、ちょっと気になって、今日買い物に行くついでに墓地に寄ってみた。(ひま〜) 見たところ、色も変わってないし、野鳥に食われた形跡もない。 やはり、不味いんだろうな。 野鳥の餌になるほど美味い実であったら、仏花用として出回ることもないだろう。 それにしても、この色や形はなかなかキュートやなあ。 ポエジーを感じたので、いつものように、写真に収めてきた。 これはたぶんマジックピンクという品種ではないかと思う。 真っ赤なやつも見たことあるけど、あれは違う品種じゃないかな。 ただ、花はどれも黄色いらしい。 それを見ると、ヒペリカムがオトギリソウの仲間だということがすぐわかる。 うーん、「弟切草」か。 由来を知るまでもなく、なんとも不気味な名前だなあ。 これじゃあ、さすがに仏花用として流通させるわけにはいかないだろう。 さて、不気味な名前の植物ということで、一昨日タイムリーに遭遇したのが、アメリカ西海岸の山地に生息するコブラリリーだ。 目下、再読中の『アメリカの鱒釣り』(リチャード・ブローティガン 著 )の中に出てくる植物である。 ここで、いきなり「あんた、釣りが趣味なの?」と早とちりするなかれ。 そもそも釣り好きがタイトルに惹かれてこの本を読み始めたりすると、数ページ読み進んだところで、例外なく華々しく撃沈されるだろう。 あー、騙されたあ! いったいこれは何なのか。 ジョークなのか、白昼夢なのか、妄想なのか、ポエムなのか、いかれポンチの戯言なのか、よくわからないけど、それでいて、ハマると癖になりそうな素敵に変てこりんな作品ではある。 明快なテーマもストーリーもなく、47個の断章ふうの掌編がランダムに並べられているだけなので、読者はどこから入ってどこで抜けてもいいんだけど、まあ、どれもこれもちょっと浮いた感じの現実を詩的な文章で綴ったって感じのフィクションとでも言っておこうか。 暇な方は今度、図書館で見かけた際に、ちょっとページをめくってみてはどうだろう。 さすが400万部売れただけのことはある。 こいつは決して’60年代若者文化の徒花なんかじゃないぞ。 なるほど、村上春樹や高橋源一郎がたぶらかされたのも頷ける。 こんな文章はブローティガンしか書けねえよな。 なんて思うかどうかはあなた次第。 おそらく、大方の人が困惑するような気もするが… ふうー。 こんなこと、ワシが説明するようなことでもないのになあ。笑 ワシはただのしがない植物PR係なんだから、いきなりコブラリリーの話に突入すればよかったのに。 まあ、いい。 話を元に戻して、その『アメリカの鱒釣り』の中の「〈アメリカの鱒釣り〉のためのバレエ 」という章の書き出しから紹介してみよう。 コブラ百合が昆虫を罠にかけるやりかたは〈アメリカの鱒釣り〉のためのバレエだ。カリフォルニア州立大学ロス・アンジェルス分校で演じられるべきバレエなのだ。 いきなりブローティガン流のレトリックに面食らうかもしれないけど、要するに、コブラリリーというのがウツボカズラのような食虫植物だということはすぐにわかってもらえると思う。 では、少し飛ばして、わずか2ページほどの章の後半部分を一気に読んでみよう。 コブラ・リリーに関する以下のごとき説明を読むと、バレエを創作するエネルギーが湧いてくるのだ。この説明はまた、地獄の表玄関の靴ふきマットにも、氷のように冷たい木管楽器を吹きならす死体置場の楽隊を指揮するためにも使える。陽のあたらぬ松林を行く原子力郵便配達夫であるためにも使える。 「自然はコブラ・リリーに食物を捕獲する手段を与えた。二股に分れた舌は蜜の分泌腺で覆われていて、それが昆虫をおびきよせる。ひとたびその頸部にいたると、毛が下降状に生えているので、昆虫は這い出すことができない。なお、消化液は根にある。 コブラ・リリーに毎日ハンバーグのひとかけ、一匹の昆虫などを与えなければならぬという考えは、間違いである」 踊り子たちがうまく踊ってくれるといいな。〈アメリカの鱒釣り〉のために、ロス・アンジェルスで踊るかれらは、その脚でわたしたちの想像力を支えているのだから。 「踊り子たち」というのはコブラ・リリーのことで、「バレエ」というのがその踊り(昆虫捕獲)だとすれば、「 」の中の説明文は、バレエ創作(この2ページほどの掌編)のためのエネルギー源、すなわち、インスピレーションの源みたいなものではないだろうか。 ブローティガンはこれが何にでも使えると言う。 そういう意味では、もちろんポエムとしても使えるというわけで、実際のところ、彼はこの説明文に(ユーモア寄りの)ポエジーを感じたのではないだろうか。 何故こんな変てこりんな文を使って、こんな突飛なことを言うのかといえば、私自身が植物について書かれた文章を読んで、そこにポエジーを感じることがよくあるからだ。 だから、ブローティガンの文を読んで、彼もたぶんそうだろうって、勝手に考えてみただけの話。 ついこの前も、『植物の私生活』の中のある一節を読み返していて、それを感じたばかり。 というわけで、この組曲のラストはその一節の抜粋と写真のコピーで締めることにしよう。 ジャコウウシが一頭死ぬと、植物はすばらしいごちそうを手に入れたことになります。死骸の下の小石まじりの土には、腐敗した肉の養分がたっぷりしみ込みます。大きなドームのようになった頭蓋骨の下や、中身のなくなった肋骨の下に、風に飛ばされてきた種子が落ちます。ジャコウウシのお墓はさまざまな植物の苗床となります。そこで芽生えた植物たちは、やがて小さな花園をつくり、自分たちの基礎をつくってくれた動物の死をいつまでも記念するのです。 ついでに、この写真に付けられた説明文も載せておこう。 短いながら、これもポエムだし、なんと言っても、人に覚えてもらうのを拒否するかのような黄色い花の名前が極地にフィットしていて、シビれる。 ジャコウウシが死ぬと、その骨は植物が風を防ぐためのかっこうの避難所になる。腐った肉は土壌を肥やし、植物に養分を与えてくれる。周りに咲いている黄色い花はパパベル・ラディカートゥム。 ※ 『アメリカの鱒釣り』からの引用は藤本和子 訳 『植物の私生活』からの引用は手塚勲 ・ 小堀民惠 訳
2020.01.17
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エリオット・ポーター 50 冬紅葉 襖で揺れる 影淡し 新年早々、いきなりお粗末な句で恐縮ですが、今年もこんな感じで、どうでもよさげなことを呟いてまいります。 しようがないなあ。 どれ、今回はどのくらいくだらん記事か、読むだけ読んでみるか。 できれば、そのくらいの軽いノリで読み捨ててもらえれば幸いです。 そのうち、無意味の極致みたいな記事がポンと飛び出してくればいいんですけどね、せめて一年に一本くらいは。笑 51 腹へったなあ。 今日も昼は食パンを焼いて食うとするか。 パスコの「超熟 国産小麦」ってやつ。 貧乏人にしては高級なもん食ってるなあ、と食パン通の人なら言ってくれそうな気がする。 なにせ、6枚切りで300円。 ちゅうことは、1枚50円。 たしかに、ちと高めだよな。 マーガリンとかショートニングではなく、バターのみで焼いているからか? ようわからんけど、味がいいので、最近はこればっかり。 まあ、これで小麦の需要を高めるのに少しは貢献していることになる。 つまるところ、小麦族のさらなる繁栄に一役買っているわけだ。 さて、この前、ある方のブログを読んでいると、こんな文章に出くわした。 『サピエンス全史』という本にもありましたが、僕ら人間は、小麦に仕える奴隷のようなもので、小麦はまさに人間の奴隷化に成功しているんです。 手間暇がかかるという意味では、稲作だって同じこと。 人間としては、小麦や稲を育てているつもりでも、植物の方からすれば、うまいこと人間を飼いならして、独占的に世話をさせているということになるのかも。 昔読んだ『植物の私生活』(デービッド・アッテンボロー著)という本の中でも、「人類を雇った植物」と題して同じようなことが書いてあったのを思い出した。 「初期の人類が目をつけた植物の子孫、つまり小麦は、世界で最も繁栄した植物のひとつになったのです。」 「人類の援助によって、小麦にはもはや生きるための闘争は必要なくなりました。小麦は競争相手を排除してしまったのです。」 細部をカットして結論だけを並べてみたが、要するに、生き残り戦術として、人類を雇うというのは、小麦や稲にとっては最高に安上がりな戦術だったわけだ。 何事もこういうふうに、ひっくり返して見てみると面白いなあ。 ひっくり返したついでに言うと、繁栄しているのはイネ科の植物だけというわけではない。 トータルとして見ると、植物そのものがこの惑星の環境に最もよく適応している生き物だと言わざるを得ない。 地球上の生物量を測ってみると、なんとその9割が植物で、ちなみに人間はわずか0.01%にすぎないらしい。 そんなことは、ちょっと山間部に向かって車を走らせてみると、すぐにわかりそうなこと。 山頭火に「分け入つても分け入つても青い山」という句があるが、まさにどこまで行っても緑一色の世界が終わりそうにないような気になるだろう。 仮に宇宙から知的生命体が地球にやって来るようなことがあれば、おそらくこの星は植物の星だと思うのではないか。 ああ、またいつもの植物礼讃が始まったぞ。 あんたは植物のPR係かよ! そんな声が聞こえてきそう。笑 ええ、確かにプラントラバーズの一人かもしれないけど、今はただニュートラルに植物を見ると、そうだよねみたいなことを言ってるだけ。 なにせ、植物って、いつも過小評価されがちだから。 人間って、動かないものには冷淡だからね。 それに、何から何まで自分とはかけ離れているので、彼らが生きているということすら、忘れそうになる人もいるんじゃないかな。笑 そんな人に向かって、植物にも知性があるとか、意識があるとか言うと、きっと怪訝な顔をされるんだろうな。 でも、たまにはそんなことに思いを巡らしてみるのもいいかもよ。 そして、人間が考えている知性とは全く異質な知性を植物の中に見出して驚いてみるというのも、時には一興かもよ。笑
2020.01.09
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