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現実の世界では、(すなわち科学的な世界観では) 個人の日頃の行いが善か悪かによって、その個人が病原菌や自然災害を免れたり、自然界の恵みに浴したりすることはない。どちらかといえば、憎まれっ子世にはばかる、と見えるかもしれない。これとは反対に、「完全な者」が支配するのであれば、天下に信賞必罰を実現してもおかしくはない(と空想することもできる)。神を敬する者は善なる者であるから、神はその信仰を誉めて慈雨と陽光をより多く恵み、神を侮る者は悪なる者であるから、神はその不信仰に怒り、豪雨や旱魃を与える、という類の完全な秩序を構想することもできるだろう。喜捨、寄進などの対価によって功徳、ご加護、ご利益を得るというような通俗的な宗教の説かもしれない。しかし、新約で語られる「完全な者」とは、旧約ヨブ記の神と同じなのである。信賞必罰を空想するのではなく、また、通俗的な宗教とは無縁である。儒教でも、中庸は「不偏不倚」であると朱子は説く。http://rongo.jp/first/first05_a.html善なる者(自分たちの立場)と悪なる者(敵の立場)を区別したうえで、一方のみを厚遇しようという素朴、幼稚な立場は採らない。天の父なる神は、中庸であって完全であるために、まったく同一の法則の下に人々を生活させている。新約は、隣人を愛するとは敵を愛することであると導いており、中庸としての「完全さ」を地上で実行しようとしている。これとは反対に、エデンの園に帰ろうと空想に浸っている人々が現代にもいる。そのために、味方の金庫を満杯にしようと、あらゆる住民の貯金通帳を狙って通俗的な開運の教えに便乗して活動している。それは、天の父なる神の完全さを知らないというべきである。
2009/10/28
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聖書旧約時代には「種を入れたパン」のほか、「種入れぬパン」という食べ物も書かれています。これは、酵母を入れずに焼いたピザ/ナンのことです。葡萄酒の醸造は、大洪水後の記述に遡りますが、これも酵母を利用したものです。このように身近に利用される酵母も生物ではあるのですが、「創造の7日間」では微生物は省略されています。酵母に 雌雄の別はなく、無性生殖によって生存、存続しています。 は接合型という性別はありますが、「産む性」は無く、いわゆる雌雄ではありません。ミジンコのように、無性生殖と有性生殖を使い分ける種類の生物は、あまり目立ちませんが、その生態を見る限り、有性生殖は非常手段であると思われます。最も単純な生物では、無性生殖だけが行われます。 人間をはじめ、複雑な生物が有性生殖のみを原則としています。 ところで、創世記に描かれた「エデンの園」は理想郷であり、自然環境は比較的安定していたと想定されます。また、不死身であれば子孫を遺す必要もなく、もちろん有性生殖は不要でした。異性を意識することもなく無邪気に裸で暮らしていたと描かれるのもツジツマが合います。 肉体の寿命が限られ、不安定な環境に住むことになると、有性生殖が必要です。次善の策です。 創造の7日間では、先に適切な環境が創造され、その後に順を追って生物が創造されています。しかし、雌雄、男女の別を伴って創造されていることから、予め不安定な環境すなわち過酷な状況への適応能力が与えられていることも、自然史の知識を有するならば、自ずと読み取れます。 ID説に立つ場合も、エデンの園の外で生活する可能性(蓋然性)を織り込んで、より安全に設計されていたと解してよいようです。 他方、新約で言及されている「天のみ使い」は、そもそも生物ではないのでしょうが、有性生殖しないと断定されています。地上の生物とは異なり、環境に適合する仕組みを必要としないはずだからです。天のみ使いと同じく、創造の神の性別を問うことはできません。天の「父なる」神という呼び名が使われますが、いまどきの「優しいパパ」のような神を意味しているわけではありません。子の理解が及ばない厳格な支配者という性格を言い表していると思われます。自分は男性の神から選ばれた神の子であると思い込んでいる 'どこかの神の子' には、頭を冷やしてもらいましょう。
2009/10/26
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井原西鶴「世間胸算用」の中に、家宝にしていた高名な宗教家の直筆のマンダラを売ろうとしたが、かねてから買いたがっていた信者が既に改宗していて、当てがはずれたという挿話がある。マンダラというのは宗教家が作成する図解や標語のポスターである。織田作之助による現代語訳を紹介する。「親の代から持ち伝えた日蓮上人自筆の曼多羅を、かねがね宇治に欲しいという人があっていくらでも出すといわれるのを、その場は売り惜しみましたが、この暮に手もとがつまって、はるばる売払いに行きましたところ、こんどはどういうわけか、先方の分別が変って改宗になったとて、この名号を手にとりもせず、あてがはずれて、弱りました。ほかにあてもありません故、・・・・」もしも売買の後に改宗したらどうなったか、を考えてみる。もちろん、売買は正当に成立しているので、解約はできない。買い手がすすんで買いたがっていたのであって、むしろ、実際は売り手は売り惜しみしている。売り手が曼荼羅を高く売りつけるために布教したわけではない。自筆曼荼羅すなわち「大聖人様ご真筆」となれば、他の信徒が相応の値段で買うだろう。さいわい、曼荼羅は消耗品ではなく、転売可能である。さて、印鑑の話である。印鑑は、世間には壷と同じような量産品(三文判)もあるが、問題になっているものは個人の氏名(フルネーム)を彫っているために、特注品である。耐久性はあるが、汎用性がなく、材料として再利用する以外は、特にこれといった価値は無い。材料の価値を別とすれば、加工賃と意匠が印鑑という商品の価値の実体である。これは歯科技工士の入れ歯製作に似ている。返品する局面では、製造ではなく、加工サービスであって、こじれると厄介な取引である。使ったら直ぐに壊れた、使ったら歯茎などを傷めた、などの不具合は、返品の正当な理由になるだろう。(そこが厄介な契約になる所以だ。)壷の場合は、汎用性と耐久性がある物品である以上、価値を認める人たちの間で取引価格が成り立つはずだが、何故かそのような流通性が全く無い。よって、印鑑・壷ともに、物品売買の形式を踏んでいるものの、その取引の実態は、別のものと判断せざるを得ない。買い手の判断においては、印鑑・壷の価値ではなく、特定の印鑑・壷の「購入という行為」に価値を認めているようだ。問題は、売り手である。特定の印鑑・壷を購入させることによって、「等価の何か」を手放してはいない。無形の財産の使用料だとすれば、その財産はいったい何か。その財産はどのようなサービスを買い手に提供するのか。熱心に売り込むためにプライバシーを聴き取り、ある種の物語(買えば不運・不幸に遭わずに済む等)を話して時間を使ったことだけである。これはサービスではなく、販売活動である。販売員用のマニュアル作成と、販売員を養成するための修練会、無償の募金活動などに投じた資源は、無形の財産になっているだろうが、どこまでも販売活動用の人的資源・ノウハウであって、消費者へのサービス提供に効果を発揮する財産ではない。偶々、印鑑・壷に満足する消費者がいたとしよう。その満足は、「開運という結果」を手にしたからだろうか。そうだとすれば、幸運を得たのは販売会社側である。財貨・役務の提供と、それに対する需要と、需要を掘り起こす通常の販売活動という一連の経済活動と比較すれば、印鑑商法の異常さが明らかになる。販売活動だけに資源が投じられており、提供される財貨・サービスとの比較において、販売活動そのものが販売されている、という状態にある。これは、布教活動と献金だけで成り立つ宗教活動と、実質的には同一なのであるが、販売会社との売買契約という形式を踏んでいるために、消費者はそのような(宗教団体の資金集めであるという)認識を得られない。この結果、消費者側は単に騙されているのと異ならず、適法性が失われている。
2009/10/13
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いや・・・、もちろん、究極的には解散、消滅へ追い込みたいと願っています。しかしながら、過渡的に、次善の策も同時に追求したいと思います。なぜ「壊滅一本槍」ではないのか、ということですが、分派の問題と政治利用の問題があるからです。新たに分派が派生することにより、先祖返りするらしく、分派の中の実態的な血統転換が疑われています。四分五裂して、再び、宗教的信念による組織的な家庭破壊(不貞)が行なわれることが懸念されます。また、教祖の過去を隠蔽したいがために、報道機関などに圧力を掛けたり、政官界有力者の庇護を受けようと画策し、その手の権力者への「恩返し」として必死の工作活動をするので、結果として、自由で民主主義的な社会が破壊されます。これは優先して防がなければなりません。では、「再生の道」を提言致します。最大の問題は「霊感商法」と、その背景にある過大な「献金」要請です。これは、簡単なことなのですが、後に回します。まず、過去、半島で発祥した「実態的な血代転換」の集団とどこで一線を画すのか、歴史上、いつ分離したのか、そして教理の決定的な違いは何かを正面に掲げることで、報道陣の集中砲火をかわせないでしょうか。次に、過重な献金要請ですが、予算の内容を具体的に示して、十分な納得を得られるものに限るべきです。30%献金は十分に過重であり、伝統的な10%を基本とすべきです。経済的な自立、生活の持続可能性が損なわれないためです。自力で批判に耐えられれば、団体の収入が減って、有力者の庇護を受けられなくなっても、困らないと思われます。印鑑商法は、刑事事件として捜査の対象となっていますが、教理に照らして是認できない営利行為があると(いちおう)認めた上で、組織内から犯人(とされそうな者)を摘発し、自首させることです。かつて平壌の大同保安署で、当局がいうとおり「啓示は嘘だった」と認めて恭順し、釈放してもらうように腹中教の教祖に勧めたのは、「曠野教会」の教祖すなわち・・・。トーカー団がマニュアルに沿って、不吉な人相、手相、姓名判断に基づいて「救い」の方法を説くやり方(威迫・困惑、霊感商法)はどうしても問題になります。これは地上の法に触れることを認めて、恭順の姿勢を示すべきです。組織的かつ積極的な自首は、ニュースになるでしょうし、ある程度、好意的に評価されるはずです。その上で行なうボランティア活動であれば、疑惑を掛けられるばかりではなくなるでしょう。今こそ「よりましな統一協会」へ転換してください。
2009/10/01
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