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文龍明は、一家の主人として働きに出て、家族を扶養したという経験は無い。戦時下に最初の妻・崔先吉と結婚したことになっているが、新たに世帯を構えたのではなく、独身時代と同じように下宿に住み続けた。この下宿を出て新居を構えたときには、既に退職していた。さらには、再就職せず、修道院へ行ってしまった。真面目に働いたのは興南の刑務所に入れられていたときである。釜山では多少働いたが、妻子とは別れたままであった。ソウルに戻って妻子と再会するが、定職には就かず、教会すなわち弟子の献金に頼って暮らす立場である。一方、厳徳紋氏は堅実な生活を送ってきた。彼は学生時代に文と知り合ったようだ。http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/05.htm「統一教会史 上巻」前編 史前史 5、日本留学-経験の拡大・・・・東京では韓国人学生二、三名と共に早稲田大学に近い新宿区西早稲田一丁目にある三橋孝蔵氏の家にずっと下宿をされたのである。その頃もっとも親しく過ごされた学友としては、建築家、厳徳紋氏がいる。・・・・http://hymnsong.s7.xrea.com/calender2/touitu.php?year=2008&month=1&char=SJIS&today=16・・・・1951年 (1月28日) 日本留学時代の友人、厳徳紋氏に会う・・・・http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/12.htm「統一教会史 上巻」前編 史前史 12、避難の首都釜山での再出発・・・・ それは一月の晦日のことであった。 ・・・その憂鬱な日に、非常に感激的で意外なことが起こった。その時より六、七年前の第二次世界大戦中に、共に東京に留学していて、生死を懸けて抗日地下運動をした友人の厳徳紋氏に出会ったのである。 ・・・その時先生は三十二歳、厳氏は三十三歳であった。 厳氏からすれば、文鮮明先生は氏の結婚に因縁が深い方であり、また日本による統治時代の末期、韓国の解放直前に先生が京畿道警察に拘束され瀕死の境の拷問を受けた時、死ぬことを覚悟して同志たちの名前を言わなかったために、幸いにもそれ以上は誰も逮捕されなかったが、もし拷問に耐え切れず活動していた同志たちの名前を言ったとすれば、厳徳紋氏も決して無事ではなかったであろう。 ・・・・・・ 二人は性急に、二言三言それぞれの近況を尋ねあった。 厳氏は、一部屋きりの彼の間借り先へ先生を引っ張って行った。・・・ ・・・人道上、当然なことでもあった。 厳氏の借間は、慶南道丁前の富民洞にあった。その日から狭い寝室生活が始まった。若い夫婦に、六歳の娘と三歳の息子、合わせて四人の家族が細々と生活していた。 夫人の高喜■氏は当時、若冠二十四歳のお嫁さんであったが、幸いにもこのやっかいな新客の受入れを少しも面倒がらずに、夫のまごころに全面的に応じて従っていった。 ・・・ ・・・そして一週間も経たない内に、厳氏は屈伏したが、それに対する神の協助も大きかったのである。 ある日の夜、厳氏は夢を見た。 ・・・ 厳氏は元来仏教系の人であったので、イエス様も聖書の内容も全く知らなかった。しかし、先生に夢の話をするときには、跪いて丁重な態度であった。 前日の夜まで、「君」「僕」と呼び交わした間柄でありながら、朝には一変して跪いて「先生」と呼ぶのである。 ・・・ たまたまその家に訪ねてきて、この意外な場面を目にした厳氏の友達は「気が狂ったか」と詰問した。しかし厳氏の態度の突然の変化にもかかわらず、先生はそれを少しも気まずい様子を見せず、今こそ会うべき人に会い、当然そうあるべきようになったと言わんばかりの様子で、遠慮せず平然と受け入れられるのであった。 厳氏の夫人高女史も、夫のこのような変化を少しも不思議がることなく、ひたすらに弟子の立場をとって、貴重な方として先生に侍った。 そればかりか、・・・。 厳徳紋氏は後日、そのように一夜にして氏自身が友達という関係から弟子の立場にへりくだるようになり、一家が先生を指導者として侍るようになった変化を「ただ一枚の頁をめくるよう」であったと言っている。 ・・・ 厳氏は、二月中旬頃から通っていた職場も辞めるようになり、生活状態が非常に苦しくなっていった。そこで、先生と一諸に紙を合わせて書類綴りの表紙を作って売るなどして苦労してみたが、最後までたいして生活の足しにはならなかった。・・・・幸い厳徳紋氏が就職したので、いくらかの収入を得ることができ、そこでの生活を続けることができた。・・・・http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/13_14.htm「統一教会史 上巻」前編 史前史 13、ボンネッコル土塀家時代・・・・一九五一年の冬に、よく訪ねてきては何日か泊まっていったのは、玉世賢おばあさんと厳徳紋氏であった。・・・・・・・・この頃ソウルでは、厳徳紋氏が導き手となって李昌煥氏 (注.後に脱会) と金相哲がみ旨に連なるようになり、新たな活気を帯びていた。・・・・――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――http://www.asyura2.com/0406/bd36/msg/708.html・・・・ 「インターナショナル・ハイウェイ建設準備委員会」が一九八一年十二月十日、日本の東京にある帝国ホテルの四〇五号室で、日本の国際勝共連合の梶栗玄太郎理事長、厳徳紋社長、小山田秀生日本教会副会長、松山貢三幸世建設社長など、合わせて十人が集まる中、祈りを捧げ、ハイウェイ建設の趣旨を吟味し、発足式をもった。・・・・――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/06_07.htm 「統一教会史 上巻」前編 史前史 6.帰郷-日警の拷問・・・・・このようにして、東京留学を終えて帰郷された先生は、再びソウルの黒石洞に帰ってこられた。 先生は東京に発たれる以前、中学時代に下宿しておられた李奇鳳おばあさんの家の部屋を借りて住まわれた。 ・・・・・・・・・一九四四年十月、職場に通っておられるときに先生は、日警の手により逮捕されたのであった。それは日本留学時代の抗日運動の事実が発覚したためである。・・・・・ この受難は、翌年の一九四五年二月まで続いた。 この時、先生に部屋を貸していた李奇鳳おばあさんは、寒い冬に一人であらゆる方策を練り、道を尋ねて行き、拘置所を往来しながら、先生に食事の差し入れを続けたのであった。 その後、日警の拘束から釈放されて、ただちに前の職場に復職された先生は、一九四五年八月十五日の韓国の解放の時まで、そのまま李奇鳳おばあさんの家で過ごされた。・・・・ 7、韓国解放-伝道開始・・・・ 解放になると、先生はソウル永登浦区上道洞に新しく家を備え移された。※下線部は相互に矛盾するため、誤認逮捕だったか、獄中で転向して協力者になったか、または、抗日運動とは別の逮捕だったものと推定される。――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――文龍明・崔先吉夫妻の婚姻届は1945年4月28日付けだったが、その新居はどこだったのだろうか?1941年 3月 ソウル・黒石洞の下宿から東京・早稲田の下宿へ転居。1943年 9月 繰上げ卒業 (2年半の工業高校留学) (3ヶ月留守)1943年12月 ソウル・黒石洞の下宿(李奇鳳おばあさん宅)へ帰宅。1944年10月 職場から警察署へ連行。 (5ヶ月留守)1945年 2月 警察署より釈放、黒石洞の下宿へ帰宅。1945年 8月 上道洞へ転居。1945年10月 坡州の新宗派へ入信。彼は毎年のように娑婆から姿を消しており、投獄中、投獄後における彼の新妻の動静は言及されていない。厳徳紋(オム・ドゥクムン)氏の結婚について、「厳氏からすれば、文鮮明先生は氏の結婚に因縁が深い方であり、」と書かれている。・・・(http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Lynx/9732/uc1/12.htm「統一教会史 上巻」前編 史前史 12、避難の首都釜山での再出発)厳氏夫人の名は高喜■(コ・ヒヨン)といい、1951年当時、24歳である。(ヨン=金+庸)http://www.unification.org/ucbooks/earlyyears/Chap04.htmSun Myung Moon,The Early Years, 1920-53By Michael BreenChapter 4Emoto RyumeiBy 1943, students were being drafted for the war effort. His course was shortened by six months and he graduated on September 18, 1943. His friend Aum Duk-moon, who graduated at the same time, stayed in his room on their last night in Japan"I guess I will have to get married when I get home, but I am a bit worried who my parents will match me with," Aum said. "Can you suggest someone?" As the Christian student leader, Sun-myung had photos of many Korean Christian friends."What about her?" he said, holding out a photograph. Aum put the photograph in his pocket. The next day they left for home.1943年までに、学生は戦争のために徴兵されました。 彼の課程は6カ月短くされ、1943年9月18日に卒業しました。彼の友人厳徳紋も同時に卒業し、日本における彼らの最後の夜、彼の部屋にいました。「帰ったら、私は結婚しなければならないとおもいますが、両親が私を誰と娶わせるか少し心配です。」と、厳は言いました。「あなたは誰かを勧めることができますか?」 クリスチャン学生のリーダーとして、文鮮明には、多くの韓国人クリスチャンの友人の写真がありました。彼は1枚の写真を示して、「彼女はどう?」と言いました。 厳はポケットにその写真を入れました。 翌日、彼らは帰途につきました。----------------------その写真のクリスチャン女性が厳徳紋の妻となったコ・ヒヨンなのだろう。彼女は8年後の1951年に24歳になっていたというのだから、卒業時1943年には16歳であるが、ソウルの李龍道系教会(神霊運動)の信徒であったかと思われる。厳氏の一家は仏教徒だったというから、それまでは文氏とは信仰を異にする知人に過ぎなかった。在学中、文は厳をキリスト教へ伝道しなかったのである。しかし、厳氏の家庭に霊体交換派?の女性信者を送り込み、ただの友人の立場から「仲人の立場」に変わったわけである。ソウルでは2人は同じ職場に属して勤務していたかのように伝えられるのだが、警察に拘置されていたという期間に救援活動に動いたとされるのは、従兄弟であったり下宿の女主人であったりして、厳夫妻の動静を知ることはできない。そして、半島解放を迎える。文は仕事も家庭も捨て、金百文の新宗派へ入る一方、厳はソウルで地道に建築関連の仕事を続ける。次は、釜山での再会。コ・ヒヨンは、少女時代から文と同じ類の教会に出入りしていたのであろうから、特に親しいのは当然かとおもう。また、厳も「縁結びの神」には義理を感じているだろう。文はこの義理に依存して当面の生活を立てるわけである。厳が就職できれば生活でき、失業すると立ち行かなくなるという居候の身分だ。文は電気工事要員としての価値を認めてもらえなかった。そこで、教祖としての「商品価値」を高めて自活を図ることは、厳にとっても、自分の経済的負担を軽くするために急務であったはずだ。そう考えれば、キリスト教とも関係ない旧友が、わざわざ文教祖の俄か信者になる理由があることがわかる。
2008/01/31
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ルターの宗教改革から400年後に再臨、と教える協会にとって、教祖の誕生年は重要な意味があります。一方、兵役法は国民に兵役を義務付けている国家にとって重要な法制です。平等に兵役を分担するため、年齢を正しく登録することはとくに大切です。文龍明氏の年齢詐称は、弟子たちの行為に実刑などが課せられました。しかし、兵役を逃れた本人は有罪になりませんでした。リクルート事件のとき「秘書が勝手にやったこと」と言い逃れるぶざまな大臣が登場しました。(文氏と同時期に早稲田に通ったのも奇縁)この構図で文氏の判決を見ることができます。首謀者は逃げ切って、従犯(または共同正犯)がすべてを負わされました。「組織犯罪に甘い司法」の観があり、大韓民国では正義が行われていないことを露呈して、同国の信用を傷つけた刑事訴訟事件として印象に残ります。
2008/01/27
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社長はどうして食べ過ぎになるか。‐・会食中心の業務(食べさせないと聴いてくれない)・調理師団を常置(社長の館は職員が多い)・食べ残しできない性分(創業者は貧乏症)・多忙でも欠食しない(ファストフード好き)-女性店長はなぜ婦人科に行けないのか。-・他の店員たちと1人分の保険証を共有して経費節減している・歯痛、伝染病対策が優先する(車中泊でケジラミ蔓延)-女性店長がまだ懐妊しない訳-・会社の方針で社員の婚期が決まる・社内に独身男性が不足(男は未熟者でも繰上、女はとうが立つまで繰下)・現有の戦力を維持したい
2008/01/24
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糖尿病は2種あるが、よく知られるのは2型のほうだ。 1型はたいがい生まれて早くに発見される。が、まれに成人でも擬似例がある。 また、膵臓の腫瘍でも起きる。 一般的な2型では、 肥満体型、運動不足、カロリー過多、という病因がよく知られる。 生活習慣病 である。 さて、子宮筋腫だが、女性ホルモン2種のうち一つが筋肉組織に浸透して形成する。 月経過多は影響するときくが、後天的な病因は聞いたことがない。 妊娠・出産にとっては障碍になりやすく、高齢の出産が難しくなるのも、この影響によるところがある。 短期に発生・形成するものではなく、成熟からの時間に伴う変化だからである。 早熟化と晩婚化に対し、責任ある各界リーダーの見識が問われる。 女性が若いうちに結婚・出産できるように、雇用主に求められることがあることはいうまでもないだろう。
2008/01/23
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栄養計算によって、興南刑務所の食事を検証します。人間の体は、多少の個人差があるものの、必要な栄養を摂らない限り、衰弱します。科学的に考える限り、精神力で空腹に耐えることはできても、不足する食事で重労働をこなすことは肉体的に不可能です。まず、「握りこぶし大」を考えます。これは心臓の大きさを指す言い方でもあり、成人男子ならば290グラムです。ちなみに、ごはんは、通常、丼一杯で250グラムと見積もられています。玄米が3分の2、ゆで大豆が3分の1の混ぜご飯を作り、「握りこぶし大」の塊で6個(1740グラム)食べれば、肉体労働に従事する身長180センチ、30歳代男子が必要とする1日分の栄養価は摂取できます。ところで、「働きが悪いと半分に減らされる」ということから、通常は1食あたり2個で、最低でも1個だったと推定できると思います。なぜなら、給食担当者がわざわざ「半分」の塊を作るとは考え難いからです。仮に1個(290グラム)が普通だったとすると、労働量を減らすか、給食以外の栄養を摂る必要があり、1個とする説は非科学的と思われます。
2008/01/15
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ご存知のように、作家・小林多喜二らは虐殺されました。また、創価教育学会という宗教団体の会長(牧口常三郎)は獄中で病死しました。しかし、共産党の委員長ら(鍋山貞親、佐野学)は獄中で転向しました。大部分の党員も転向したのでした。http://www17.plala.or.jp/chian/chian_what.htm「拷問で虐殺されたり獄死したりした人が194人、 獄中で病死した人が1503人、 逮捕投獄された人は数十万人におよびます。」大量に逮捕されましたが、逮捕されて死体で帰った者は、数十万分の1697ですから、比率としては1パーセントにも達しません。当時のご時勢では、逮捕者を英雄視する空気はなく、村八分(隣人による迫害)もあったようです。長いものには巻かれろ、雉も鳴かずば撃たれまい、出る杭は打たれる。議会・言論界から非戦論や民主主義思想は排除され、国の進路を誤り、大量の戦争犠牲者を出す結果になりました。獄中に生きながらえていた人々は、敗戦とともに、漸次解放されました。韓国の独立運動家、キリスト教指導者もいましたが、もちろん、江本龍明(25/会社員/京城在住)がそこに含まれていなかったことはご存知の通り。神様が転向させたのでしょうか・・・?
2008/01/11
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故・後藤富五郎氏の団体は、革新政党と連帯するホンマ氏とは違って政治色がなく、福音派クリスチャンのミヤムラ氏とも違って宗教色がありませんでした。浅薄なナショナリズムが特徴だったかと思います。両親の猛反対を振り切って、知らない韓国人信者へ嫁入りしようとする娘が、この団体に拉致されました。婦女暴行を受けたという驚くべき訴えに対し、監禁の責任者マルヤマは罪を認め、永久追放されました。細部は誇張されているにせよ、反対運動の汚点に違いありません。信者は教団から「祝福」を受けるために処女を守れと命じられており、マルヤマの犯罪は、祝福に参加させまいとしてレイプするという手段に及んだものとも聞きましたが、それにしても、凄まじい「人間の盗り合い」だと思います。その後、故・後藤氏の団体は孤立し消滅しました。しかしながら、いまだに政治色や宗教色が無く、警察OBが関与する類の団体が蠢いているようです。高度な理想・規範とは無縁で、目的は純粋(単純)に「営利」「人助け」の次元に留まるものです。信者のみなさんは、ご家族ともよく話し合われ、幼稚、悪質な業者に拉致されないよう、ご注意下さい。
2008/01/09
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自殺を前提とした攻撃を「スーサイド・アタック」といいます。当の日本軍では「特別攻撃」といっていました。沖縄の住民は、2つの手榴弾を渡され、1つを敵軍に投げて残りで自決せよと指示されました。非戦闘員であるべき一般住民に手榴弾を配ったのは、国家的テロ行為でしょう。戦後、日本人テロリストがこれをロッド空港(テルアビブ)で再現しました。以後、この方法は「自爆テロ」と呼ばれますが、弱者の戦法としてアラブ人過激派に受容されました。組織が構成員の自殺を利用するという意味では共通の、自殺教唆です。民主主義・人権・自由を基調とする近代西欧的価値観とは相容れません。組織の全体主義化が顕現したものです。これらの行為は、エバ校での身投げも含めて、厳しく糾弾し、自由かテロかという問いに対して、われわれの旗を見せる必要があると思います。
2008/01/08
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宗教は一般に、平信徒の「勝手な」自殺を禁じますが、中には即身仏ということがあり、1963年以降、南ベトナムのアンクァン寺派の僧侶は、仏教を迫害する政権に抗議して焼身自殺しました。厳しく言えば、自殺を利用する宗教活動でした。1960年代後半に登場した日本人過激派学生は、急速に挫折し、中には挫折感から自殺する者もいましたが、何かの宣伝にはなりませんでした。これに対して、韓国「運動圏」の学生は、ただの失恋による自殺に、あえて政治的主張を加えるように「血書」をしたためて美化し、悲愴感を演出しました。1945年、沖縄戦住民集団自決では、軍が住民をスパイとして処刑するなどの強い威圧を前提として、『生きて虜囚の辱めを受けず』という価値観、軍官民一体化の下で教育された結果、「潔い自決」によって「皇運を扶翼」しようとしたのでした。米軍には徹底抗戦の意志を見せ付けたことでしょう。北朝鮮。1980年代、北のラジオ放送は、抗日遊撃隊の斥候(偵察係)が帰途、敵に見つかり、逃げ切れないと判断して自決するという「美談」を宣伝していました。この徳目を「革命的義理」と称しました。1986年、北の将軍様はこの道徳律を次のように説明しています。・・・・・・・・・・・・・・・・革命的義理・同志愛 首領、党、大衆は一つの生命に結合して運命をともにする社会政治的生命体であるため、そのあいだには互いに助け合い、愛し合う革命的義理と同志愛の関係が形作られます。・・・・・・首領は社会政治的集団の生命の中心ですから、革命的義理と同志愛も首領を中心としたものとなるべきです。・・・・・・首領は社会政治的生命体の最高脳髄として、集団の生命を代表しているため、首領に対する忠実性と同志愛は絶対的かつ無条件的なものとなります。 生命の母体としての首領・党・大衆 子どもが自分の父母を愛し、尊敬するのは、自分の父母が必ずしも他人の父母よりもまさっているとか、父母から恩徳を受けられるからではなく、まさに自分を生み、育ててくれた生命の恩人だからです。革命的義理を守る人であれば、良いときでも、悪いときでも変わることなく、ひとえに自分の生命の母体である首領、党、大衆と生死運命をともにするものです。・・・・・・・・・・・・・・・・金正日談話(1986年7月15日)「主体思想教養で提起されるいくつかの問題点について」、小此木政夫/徐大粛監修『資料 北朝鮮研究 チュチェ思想』所収、慶應義塾大学出版会、1998年、364-370頁。(抜粋)・・・を岡崎晴輝氏サイトより再引用1987年、金勝一(キム・スンイル)と金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、日本人観光客・蜂谷父娘に扮して大韓航空機を爆破し、空港で捕獲されたとき、服毒自決を図りました。ところで、構成員がすすんで死ぬことを求める指導者・組織は他にもいます。ネット上で見掛けた某外国人教祖の言葉が記憶から消えません。1960年代後半から70年代、日本では革新政党や学生の過激派が盛んでした。この時期、日本を左翼勢力から救うために、一人の日本人青年が左翼に殺されるように仕組み、これを大々的に宣伝して日本人の愛国心に訴えて、ソ連系(日本社会党社会主義協会派・社青同)などの左翼陣営に反撃しようと計画していた、という回顧談です。荒唐無稽な法螺噺ともいえますが、思い当たる事件があります。エバ校の自殺未遂事件です。過激派(反ソ連系トロツキー派)の学生が某ミッション系大学のサークル棟から某サークルを追放しようと策動し、部室のドアを叩いて騒ぐと、なんと!!ドアが開くや否や中にいた女子学生が3階の窓から飛び降りたというのです。(さいわい死ななかったので未遂です。)人権蹂躙です。 (・・・と言っても「馬の耳に念仏」だろうが。)「なんでもする人たち」という評価は全国に轟きました。そんな「超過激」学生集団はいまだかつてありませんでした。このような北朝鮮並みの全体主義にわが国の青年学生が巻き込まれてはならない、という憂慮が穏健なリベラルの一致点になったことはいうまでもありません。これらの自殺を見て、いくつかの違いを挙げます。その組織的自殺によって得られるものは、何でしょうか。南ベトナムの僧侶の宣伝は親米政権を揺さぶりましたが、仏教が尊重されるようになったわけではありません。韓国の反米学生運動は着実に前進するのではなく、一時の勢いに流されました。北の抗日遊撃隊が自決する利益は、密営(秘密キャンプ)の軍事機密を保つことです。日本人父娘に扮した国家テロリストの自決も国家機密を保とうとしたものです。「共和国と首領様の為」でした。沖縄集団自決は、第一に軍機保護、第二に食糧・塹壕確保、第三に敵兵による凌虐への恐怖からの逃走、といった利益のほか、沖縄は帝国のため、悠久の大義のために玉砕するまで戦ったのだという名誉もあったことでしょう。「大日本帝国と天皇陛下の御為(おんため)」です。さて、サークル棟投身自殺未遂はどうなのでしょうか。これは、本人の口から知識・情報が漏れないようにするという防衛的なものではありません。もしも、事前に組織の指令、教唆があったとすれば、敵に濡れ衣を着せようという意図の下、積極的に「転落死体」を利用しようとしていたのではないでしょうか。斥候が保秘と忠誠すなわち「性相」を敵の手から防衛する北の儒教倫理とも異質で、女子学生には命を捧げさせて遺体すなわち「形状」を攻撃材料に仕立てようとするのですから、天、人ともに許さざる姦計であったかと思います。
2008/01/07
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