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我が子が購読している「こどもチャレンジ」(いわゆる、しまじろう。最初は、あまり期待していなかったものの、子どもが喜びそうな内容であることはもちろんのこと、けっこうおもしろい。)を子どもといっしょに読んでいると、一人の発達心理学者を見つけた。お茶の水大学の内田伸子氏である。内田氏は、この「こどもチャレンジ」を全面的に監修しているらしい。遊びながら、子どもの「想像力」を伸ばしていこうとしているのであろう。内田氏は、この想像力について、「想像力」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・・ 創造的想像力は、遺伝された才能や環境、あるいは教育によるものではなく、すべての人の自我機能としてある。しかし、人が創造性を発揮できるかどうか、その引き金となるのは環境、他者との関わり方のありようによると思われる。 ・・・・・ また、内田氏は、想像力を発揮できる条件として、次の3つを挙げている。(1)誰にも邪魔されず、一人になり、自分の世界をつくること。また、非活動的になることーこれは、ひきこもるというような意味ではなく、外界からの刺激を少なくするために何もしないということであるがー、さらに、現実の制約を最小限にし、日常性から脱するために夢想すること、など。(2)右(第一)とは反対に、よく見、聞くこと。(3)積極的に、人との関わりの一つ一つをたいせつにすること。特に、(3)について、次のように述べている。 ・・・・・ 異質な要素を結合して、外的な所在に結実させるためには、既存の素材を組み合わせ、一つ意味のなる全体を構成する力が必要となる。このためには、日常の活動に見られるはたらき、すなわち、語り、伝え、考えるといった活動の中で、問題を解決し、直面する情報間の葛藤や矛盾を整合的にまとめあげようとする認知機能のはたらきが不可欠となる。これは、人々との関わりを通してつちかわれるものである。 ・・・・・「人との関わりの一つ一つを大切にすること」は、わたしたち教師の授業の中での役目であろう。たまたま見ていた本であるが、幼児教育の関する「本」も、とても参考になる。
2005.04.26
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もうすぐ、大型連休である。春休みに遠出したことや、わたしの研究授業が迫っていることもあり、泊まりがけの「お出かけ」はできそうにない。しかしながら、妻の買い物につきあわなければならないようだ。わたしは、つい最近まで妻の買い物につきあうことがとても苦手だった。なぜなら、たくさんの店をまわり「どっちがいい?」とさんざん質問しておきながら、何も買わないということがほとんどだったからである。腹も立つし、「時間の無駄遣い」と感じていたのである。しかし、「かかわり合いそのものが思考である」と考えはじめてから、その捉え方が少し変化してきた。春休みの出来事である。我が子の入園式をひかえ、妻の「服」を探しに出かけた。また、いつものように「どっちがいい」の連続であった。ある時、2つの服を比べ「どっちがいい」と聞かれたとき、わたしは「5月にあるいとこの結婚式にも着ていけるから、こっちがいい」と答えた。すると、「結婚式にも着られる服か」とつぶやきながら、わたしに見せた2つの服を「捨て」、他の服を探しはじめたのである。妻は、わたしから「○○のほうがいい」という答えを聞きたかったわけではないのである。「どっちがいい」と尋ねながら「結婚式にも着ることができるから」「○○だとしたら」という、考えるヒント(根拠)が聞きたかったのである。「それじゃあ、最初から『どっちがいい』と聞くな」と不満も残るところだが、この「買い物につきあうこと」も「かかわり合いそのものが思考である」ということを実感するいい機会だと考えている。(考えるように心がけている・・・。)
2005.04.26
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わたしたちが求める協同の効果(相互作用)は、見方や考え方を変容させることである。わたしたちは、これまで、「見方や考え方を高める(深める)」や「見方考え方を広げる」という言葉を使い、区別をして扱ってきた。 佐伯胖氏は、「『学び』の構造」のなかで、「一貫性の志向」として、次のように述べている。 ・・・・・ 一貫性への「横へのひろがり」として「対話」を考えるならば、そこにはあくまでも「一貫性への叫び」が強烈に意識されていなければならない。「共に一貫性をわかちあうこと」への訴えがあってはじめて、「本当の対話」ができるようになっていくであろう。 ・・・・ (中略) ・・・・ しかし、考えてみると、この横への「ひろがり」は、ひろがるためにはどうしても、もっと「よい」ものへ、いわば上へむかってのはたらきをともなってはじめて実現されるものであろう。 ・・・・ (中略) ・・・・ 何が本当に善いことなのか、なぜそれが一番よいのかについての問いかけ、より原理的なものへ、より根源的なものへ問いかけ、これを幼いときから身につけておかなければならない。この問いかけは、どこまでさかのぼっても「開いて」いる。問うて、問うて、問いまくっても、答えの上にまた新たな問いが待っている。だからといって、いつまでも何もわからないのかというと、そうではない。さかのぼればさかのぼるほど、世の中がよく見えてきて、世の中では「よくないこと」を「よいこと」としていたり、本当に「よい」ことを「よくないこと」としていることに気づく。そのときこそ、われわれは「たたかい」をはじめるべきときである。 ・・・・ (中略) ・・・・ むしろ、ほんとうの「たたかい」は「自分自身とのたたかい」であろう。自分の心の中にひそむ矛盾や「あるべきでない」ものをみつけ、それを他者(あなた)とのかかわりのなかで問いつづけ、自ら「高まる」ことによって解決を求めつづけること、これが本当に一番むずかしい「学び」ではなかろうか。 ・・・・・ここで、注目すべき点は、「対話」は横へひろがるために上に向かっていること、「よいこと」は上へひろがるために横へのひろがりをともなっていることである。佐伯氏は、このことを「逆円錐形」を使って説明している。本校の研究は、こどもたちの「かかわり合い」を中心に進めているが、「横へのひろがり」ばかり求めていたのではないか。横へひろがるためには、上へのひろがり(「よりよいもの」を求めること)がともなわなければならないであろう。
2005.04.26
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今日で、ブログ(ホームページ)をはじめてから、ちょうど1ヶ月になる。はじめは、長続きしないと思っていたが、誰かに見られると思うと、結構意欲は持続する。やはり、外発的動機づけも必要だということだろうか。1ヶ月で22の記録(日記)をアップすることができた。その中味は、(1)読書記録(2)授業記録 である。(1)については、子どもたち同士の「かかわり合い」という視点で記録をとっている。(2)については、この1ヶ月で新しい本を読んだということではない。これまでメモにていたことを中心にアップしている。しかしながら、1年前・半年前のメモを読んでみると、捉え方が今とまったく違うことに気付く。このことに気がつくことができるのも、このホームページの効果(成果)だ。このブログのおかげで、もっとたくさんの本を読みたいという意欲(外発的な)も喚起されつつある。
2005.04.25
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5年生になって、はじめて図工の授業をした。そこで、学級開きの自己紹介も兼ねて、「自分の顔」を描くことにした。今回は、デジカメで撮影した写真を使う。ペアをつくり、はみ出るくらいアングルいっぱいにお互いの「顔」を撮影する。それをB4サイズに拡大しプリント(白黒)する。その裏を鉛筆で黒く塗り、画用紙と重ねて顔の輪郭や部分をなぞる。うっすら写った線をもとに、写真を見ながらサインペンで線を描いていく。下書きの完成である。このような写真を使った下書き(トレーシング)には、批判も多いであろう。しかし、今回は、次の2点を子どもたちに学習させるために、この方法を用いた。(授業参観の掲示まで、時間がなかったのも1つの要因ではあるが・・・。)(1)目・鼻・口の顔全体における位置や大きさなどのバランスを理解すること。(2)色使い・筆使いを理解すること。特に、(2)の指導においては、水を多めにすることや、色を混ぜすぎずに筆の跡を残すことなど指導すると共に、「色をつくる」ことに重点をおく。まず、肌(皮膚)の色をつくるのに、黒以外の4色の絵の具を使うことを限定するし、どの色が必要か話し合わせる。多くの子どもたちが「赤」「オレンジ」「黄」「茶」などの色を発表する。しかし、そんな中、ある子どもが「緑」と発表した。他の子どもたちは、「えー!」とざわめく。まったく予想もしていない色だったのだろう。そこで、「どうして『緑』が必要だと思ったの」と訪ねた。「手のひらの血管の部分が、『緑』色に見えるから。」この発表を聞き、他の子どもたちは、自分の手のひらを見ることになる。すると、「『青』色にも見えるよ」「『白』色も見つけたよ」と多くの色を発見していった。実際に絵を描き始めると、ほとんどの子どもたちが「緑」や「青」の絵の具を使っていた。「『緑』が必要だよ」という子どもの発言が、クラスの子どもたちの見方や考え方を変容させることにつながった。この「緑」という発言が、相互作用を起こすきっかけになったのである。この「緑」という発言は、これからクラスの中で絵の具を使うたびに、「エピソード」として話題になるであろう。
2005.04.25
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我が子(3才)が、保育園に入園して3週間が経った。この週末、久しぶりにゆっくりと接していると、大きな変化があったことに気付く。そのなかで、一番の変化は、「言葉」である。話す内容はもちろんのこと、「熊本弁」化(妻は、とっても残念がっていたが・・・)が著しい。入園式の日に気付いたのだが、保育園内は、「熊本弁」での会話がとびかっている。日に日に友達も増えているのではあるが、その中で我が子が「学んだ」ということであろうか。 佐伯胖氏は、「『学ぶ』ということの意味」のなかで、「『かしこい活動』が協同で営めること」の中で、次のように述べている。 ・・・・・トマセロたちの主張の最も興味深いことは、このような「関係づくり」としての学習は、赤ちゃんが親や養育者のふるまいを「まねる」という、生得的ともいえる行動習性がしだいに発達したものだ、とする点である。つまり、赤ちゃんが他者の身に「なってみること」を通して自分の中に「他者」をつくりだし、さらに「なってみた」自分の中の「他者」の目で世界を見る‐他者の「内側」に入って、そこから「外」を見直す‐ということを発展し、それが心の中の内的対話を豊かにし、やがてはさまざま他者を受け入れ、協同的に活動できるもとになる内省を育てるのだ、というしだいである。 ・・・・・我が子も、保育園で飛び交う「熊本弁」を「まねる」ことをしたのであろう。子どもの言葉の中に、「○○ちゃんが・・」という言葉が、多く聞かれるようになったことからも、そのことがうかがえる。もちろん、本校では、「まねる」から「なってみる」ということを研究の中心にしていかなければならないが、「まねる」ということも軽視することはできないであろう。
2005.04.24
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今週、本校の研究会の中で「文化的価値」ということが話題になった。佐伯氏も、学習を「文化的実践への参加」と位置づけているが、「文化」「文化的」とは何であろうか。「文化」を広辞苑で調べてみる。(1)文徳で民を強化すること。(2)世の中が開けて生活が便利になること。文明開化。(3)(culture)人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住をはじめ技術・学問・芸術・道徳・宗教・政治など生活形式の様式と内容とを含む。文明とほぼ同義に用いられることが多いが、西洋では人間の精神的生活にもかかわるものを文化と呼び、技術的発展のニュアンスが強い文明と区別する。また、「文化的」については、(1)文化を主とするさま。(2)文化をとりいれているさま。まだ、書き出しただけだけであるが、しっかりと咀嚼する必要がある。
2005.04.22
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国語の教科者の巻頭には、簡単な詩がのっている。大きな単元でもなく、いつもみんなで音読し、その感想を発表しあうだけで終わっていた。もちろん、それだけでもいろいろな感想が発表されておもしろい。しかし、今回は「つなぐ」ことと「もどす」ことをポイントに、その感想を交流することを試みた。5年生の教科者の巻頭にのっていたのは、次の詩である。 銀河 あの遠い空にひとすじ、 星たちが、 ぶつかり合い、重なり合い、 河のように光っている「銀河」。 牛乳をこぼしたようにも見えるから、 「乳の道」とも言うそうだ。 どっちもいい名前だな。まず、一人一人感想をノートに書く。次に、グループ(5人組)で、感想を発表しあう。このとき、「4つの声(驚きの声、疑問の声、問い直しの声、納得の声)を発しながら」とうながした。最後に、一斉で感想を交流する。このとき、自分の感想を発表するのではなく、グループでの発表のなかで、「驚きの声」と「納得の声」をだした友達の発表を紹介させた。この発表形式は、何かのカウンセリングの研修で教わった「他己紹介(友達から聞き取りをし、その友達の紹介をする)」にヒントを得たものである。あまり、多くの手は挙がらなかったものの、「『乳』と星の光の白さがとてもよくあうという発表に驚き、納得しました」など、深まりのある発表がなされていく。そのなかで、「○○さんの『作者の思いが素直に表現されていて好きだ』という発表に、納得しました」という発表があった。そこで、「○○さんは、詩のどこからそう思った(考えた)のですか」と聞くと、「『どっちもいい名前だな』の部分です」と答える。他の子どもたちからは、「あー」という声があがった。ほんの少しであるが、佐藤学氏のいう「つなぐ、もどす」ことができたとよろこんだ瞬間であった。
2005.04.18
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「発芽に必要なもの」について、子どもたちは話し合うことになった。この話し合いは、プロジェクターで映しだした「発芽」の静止画が「不十分な情報」であったためはじまったものである。この話し合いの中で、子どもたちに次の2つのことを「話し合いの約束」として伝えた。(1)批判をしないこと (2)根拠を問うことこの2つは、相反するもののように思われるだろう。しかし、今回、子どもたちの「かかわり合い」の中で、有効に機能した。話し合いの中で、まず、子どもたちが多く発したのは「土の中」という言葉であった。「どうして、そう考えたの」と問い直す声に、「土の中だから○○だと思う」と答えていく。例えば、「日光」という考えに対して、「土の中は、真っ暗だよ」とつぶやく。しばらくすると、「日光が当たると『土の中』も、あたたかくなるから」と、他の誰かが意見を言う。このように考えを交流していく中で、「日光」と「温度」は別の条件としてピックアップしなければならないことが明らかになっていった。また、「これまでの経験」を問う声も聞かれた。「肥料」という考えに対して「オクラの種を水につけていたとき、肥料がなくても根がでていたよ」という「経験」が思い出されていった。結局、可能性があるものとして「水」「空気」「日光」「温度」「肥料」の5つが挙げられた。しかし、だた条件をピックアップしただけではなく、それぞれの条件に対し、一人一人の子どもが「問題意識」と「予想」を持っている。かかわり合いのなかで、見通し(自分の考え)を持つことができたということであろう。
2005.04.15
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いよいよ5年生の理科の授業がスタートした。5年生の最初の単元は、植物の「発芽」である。インゲンマメを使って、その「発芽に必要なもの」を探っていく。まず、インゲンマメの種子を一人に1つずつ渡し、ノートにスケッチをする。このとき、そのインゲンマメを育てることを伝えた。(これだけでも、やってみたいと意欲は高いのだが。これこそ「活動そのものが楽しい」ということであろう。)次に、インゲンマメの種子が発芽している静止画をプロジェクターを使って提示した。(今回は、教科書の中の「挿し絵」をスキャナした。)子どもたちは、これまで植物をそだてた経験はあるものの、「土の中」でおこる発芽は見たことがない。静止画のように子葉や根が出てくることを発芽ということを知らせ、静止画と同じように透明な容器と脱脂綿を使うと発芽の様子が観察できることを説明する。ここで、今回の実践一番のアクシデントがおこった。静止画を提示するために使用したプロジェクタが、本校の中でも古いものであったため、あまり鮮明に映らず透明の容器の中に水が入っているのかどうか、子どもたちには分からない。思いもかけず、提示した静止画が「不十分な情報」になったのである。一人の子どもが、「コップの中に、水は入っているのかな。」とつぶやく。「水は入っているはずだよ。」と意見を交流することになった。しばらくすると、「他に必要なものは」と課題意識の高まりを見ることになった。「活動そのものの楽しさ」だけで授業を進めようとしていた私自身の甘さや、映像の提示が無意図的であったことなど問題が残るものの、結果的に「不十分な情報」をつかって、子どもたち同士の「かかわり合い」を生むことができたということであろう。
2005.04.14
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佐伯氏は、「『わかる』ということの意味」のなかで「他人から学ぶこと」として、次のように述べている。 ・・・・・ 「感化を受ける」というのも、学びの一種です。ただし、「教示されて」学ぶのではありません。また、そのとき学ぶことの内容も、何らかの知識や技能ではないでしょう。むしろ、「生き方」や「ものの見方」といったようなものです。 「感化を受ける」ということは、「真似る」ということでもないようです。その人のものの見方や生き方をたしかに「よいもの」として受け入れ、新しい価値を発見し、それを自分の心の中での価値観、自分なりのものの見方や生き方のなかに取り込み、融合させるわけです。 「感化を受ける」というのは、本来は受け身のことではなく、大変自発的なことのようです。受ける人の実感としては相手の人が影響を与えているようですが、その実、こちらから求めているのです。 ・・・・・わたしたちが授業の中で求める「相互作用」は、この「感化を受ける」ことであろう。
2005.04.13
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先週の金曜日、本校の始業式だった。今週から、いよいよ授業が始まるわけだが、どのようなクラスづくりをしていけばよいのだろうか。わたしたち教師は、「ハイ、ハイ」と手を挙げ、どんどん発表するような子どもたちを想像してしまう。しかし、佐藤学氏は「習熟度別学習の何が問題か」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・「協同学習」が実りあるものとして展開されているかどうかは、子どもたちの声によって判断することができます。活発に意見が交流されているときには注意が必要です。声のトーンが高いときは思考のレベルが低く、思考のレベルが高いときには、小さな声で穏やかな語りになる傾向があるからです。 ・・・・・佐藤氏は、「ハンドサイン」や「子どもたちだけですすんでいく話し合い」についても、批判している。活発に話すことではなく、しっかりと聴くことを中心にクラスづくりをしていかなければならないということであろう。佐藤氏は、「しっとりとした教室」という言葉を「授業を変える 学校が変わる」のなかで使っている。「しっとり」こそ、協同的な学びをめざすわたしたちの日常指導におけるキーワードである。
2005.04.11
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「かかわり合いそのものが思考である」ことに関して、科学概念の形成において、湯澤正通氏(広島大学助教授)は「認知心理学から理科学習への提言」の中で、次のように述べている。 ・・・・・ 子どもが科学概念を世界の探求や生活の向上の道具として利用するとき、クラスの仲間は、お互いの知恵を出し合いながら、協同で問題を理解し、解決するだけでなく、時に、同じ問題に関して異なった意見を持ち、その対立の解消を迫る。そのような協同体では、図(知識の再構成)の道筋は、もはや個人の頭の中で生じているのではない。図(知識の再構成)の道筋そのものが子どもたちのやり取りとして共有される。すなわち、植物がなぜ成長するのかという疑問に対して、ある子どもが水や土の消化を主張し、別の子どもが光合成を主張すれば、両者の矛盾は、すべての子どもにとって意識せざるをえなくなる。そうした他者との相互作用の中で、子どもたちの科学概念が形成されると共に、日常知(素朴概念)との違いも意識化され、知識の再構成が促される。 ・・・・・このことが、理科学習における「協同」の効果である。しかしながら、他教科においても、この効果は同じようなものであろう。
2005.04.08
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協同的な学びの中で「自分の考えをもつこと」は、どんな位置づけにあるのだろうか。自分の考えをしっかりともっていないと共同体の中でのかかわり合うことはできないのであろうか。ヴィゴツキーは「新訳版 思考と言語」(柴田義松訳)のなかで次のように述べている。 ・・・・・ ふつうは、あれこれの子どもが集団の中でどのように行動するかが問われる。われわれは、集団がどのようにしてあれこれの子どもに高次精神機能を形成するかを問う。 ・・・・ (中略) ・・・・ 機能は、最初集団のなかで子どもたちの関係として形成され、その後で個人の精神機能となる。たとえば以前は、すべての子どもが思考し、結論を出し、証明し、何らかの命題の根拠を探すことができると考えられていた。このような思考の衝突から口論が発生する。しかし、事実はこれとちがっている。研究は、口論から思考が発生することを示している。 ・・・・・つまり、「自分の考え」も、他者とのかかわり合いの中で生まれるということであろう。「かかわり合い」そのものが「思考」であること。自分の考えをもつことさえ、かかわり合いの中で行われているのである。このことは、わたしたちのもっている「個」と「集団」というとらえ方を見直さなければならないことを示していると考える。
2005.04.08
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佐伯胖氏は、本校での講演の中で、「正統的周辺参加」について、次のように説明している。 ・・・・・・正統的(Legitimate)活動 :ホンモノに触れる、文化とかかわる・周辺から(Peripheral) :影響力の少ない仕事から・参加する(Participation) :他者とともに、共同体の実践に・まとめて、正統的周辺参加論(Legitimate Peripheral Participation: LPP) ・・・・・ここでまず注目すべき点は、「周辺から」という視点であろう。佐伯氏は、同じ講演の中で、「人間の学習は、本来、徒弟的なものである」とも述べている。学習を「徒弟的なもの」にし子どもたちが「周辺から」参加することができるようにするために、研究者や施設との「連携」を開発していくことが、真っ先に頭に浮かぶ。そのなかで、「熟達者」との共同体づくりを中心に研究を進めていくことが、一番の近道なのであろう。しかしながら、このことは、研究として成果を収めることは可能だとしても、カリキュラムとして定着していくことは難しく、現実的でないと考える。「協同的な学び」を毎日の教室の中で実現していくために、正統的周辺参加の「要素」を明らかにしていくという取り組みが必要になってくるであろう。
2005.04.05
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私たちが「協同的な学び」をめざすとき、「認知」と「情意(意欲)」の両面からアプローチし、その「よさ(効果)」を分析する必要があるであろう。「認知」面におけるキーワードは「背伸びとジャンプ」である。この「背伸びとジャンプ」について、佐藤氏は「学力を問い直す」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・ 「つまずいたら基礎にもどれ」は学びの鉄則ですが、その「基礎」とは「基本(fundamental)」の意味であって、「基礎(base)」に下げよという意味ではありません。しかし、大半の教師が、子どもがつまずくとそれ以下のレベルに内容を引き下げて教えようとします。その誤診は、教育においてもっとも大きな誤謬といって誤謬といってよいでしょう。 「学力」は基礎から上に積み上げて形成されるのではなく、逆に上から引き上げられて形成されていくのです。教育心理学を学んだ人は、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」と「内化」の理論を思い出していただければ、この意味が明瞭に理解できるでしょう。「学力」を形成するためには、自分のわかる(できる)レベルにもどって積み上げてゆくのではなく、自分のわからない(できない)レベルの事柄を教師や仲間とのコミュニケーションをとおして模倣し、それを自分の中に「内化」することが必要です。 学びにおいて必要なことは、わからない(できない)とき、階段を下りて昇りなおすのではなく、仲間や教師の援助によってわかる(できる)方法を模倣し、自分のものにすることが大事です。学びには、〈背伸び〉と〈ジャンプ〉が必要なのです。 ・・・・・ここでも、「発達の最近接領域」と「内化」のことについて述べられているが、協同的な学びを実現させるために、次の2つのポイントが見えてくる。(1)学びには、レベルの低い「わかりやすいもの」ではなく、「わからない」状態をつくり出すことが必要であること。(2)子どものつまずきが解消されないのは、つまずいた子ども個人ではなく、友達や教師との「関係」に問題があること。「わかる(できる)方法を模倣し、自分のものにする」ということが、本校の主張する「かかわり合いによる相互作用」であろう。今後、「個人」から「関係づくり」という視点で子どもたちを捉えることができるように、「内化」についても考察を進めていかなければならない。
2005.04.05
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認知心理学に関する本を読んでいると、人が何かを学ぶとき「文脈」が大きく関係していることがよく述べられている。(佐伯氏も「実践の文脈まで意味を広げる」と述べているように。)市川伸一氏は、この「文脈」に関して、「学ぶ意欲とスキルを育てる」のなかで、次のように述べている。 ・・・・・ 学ぶということの実質的な意味づけや意義づけがわかるような、そういう学習も取り入れていく必要があるのだろうということです。目的的な行動、「こういうことがやりたい」ということがあって、その過程で必要感をもって基礎を学ぶ。日常的には、私たちはそういう学習をたくさんやっているわけです。そこでは、実践性とか、実用性ということが重視されます。何のために学んでいるのか、ということが非常にはっきりしている。それをここでは、基礎に降りていく学びと呼びたいと思います。 ・・・・・市川氏は、この本の中で「探求のサイクルと習得のサイクル」についても提案してる。市川氏の本の特徴は、明解でとても分かりやすいことであろう。私たちが「認知」を学ぶとき、よい参考になる。
2005.04.01
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